烏牛(うぎゅう)
烏牛(うぎゅう)
烏牛(うぎゅう)は中国湖南省西郷鎮の出身である。食肉牛を屠殺場で屠殺することを生業にしている。仕事は午前中だけ、朝早く四頭の黒牛を屠殺すれば、後は日が暮れるまでマサカリを研ぎ磨きまた研いで一日が終わる。マサカリは100本近くが木の壁にかけてある。大きさも太さもまちまちだ。木の握り柄もさまざま握りやすく木彫りが施してある。
夜になると近くの丹鈍の所へ食事に行く。ほとんどしゃべることもなく夕食をかき込むとすぐに帰って寝てしまう。頑丈な木枠のベッドにわらの寝床。土間の囲炉裏にまきがくべてあり大きなやかんがかかっている。壁際にはマサカリの下にたくさんの木彫りの像が並んでいる。動物や人面。妖怪らしきわけの分からぬものもある。たまには森へ出かけるが、ほとんどこの異様な小屋に引きこもってマサカリを研ぎ木彫りを続けている。
朝はまだ暗いうち一番冷え込む時間に目が覚める。鶏が一斉に時の声を告げるからだ。牛も小鳥もそれにつれてあちこちで鳴きだす。烏牛は大きく背伸びをして床から起き上がると湯を一杯飲む。それから昨日の残り物をかじりながら壁のマサカリをゆっくりと四本品定めをする。
じっくりと吟味して四本を手にする。やおら研ぎ場に座って一時マサカリを研ぐ。夜が明けて薄ら寒い朝もやの中烏牛は四本のマサカリを抱えて屠殺場へと向かう。それは少し離れた丹鈍の小屋の前を通り牛舎の裏を回って少し坂下の窪地にある。
屠殺場は薄暗く東西南北の4方向から黒牛が引きつながれ、壁にはさまれて入り口戸から引き入れられ、鼻輪縄を出口脇の柱に括り付けられ、まだ目が覚めやらぬ夢見心地の黒牛、入り口戸がバタンと閉じられると同時に出口戸がパッと開いて、仁王立ちの烏牛、マサカリを頭上に上げたと見るや一瞬にして、黒牛の眉間を打ち砕く。
返り血を浴びる間もなく、はね戻したマサカリで身を反転する。その瞬間床板が前にガクンと落下して黒牛の巨体が前脚から崩れかけながら前方下方へと落ちていく。すさまじい一瞬だ。黒牛は一声も発声出来ない。完璧な瞬間屠殺の技である。今まで何十人もの屠殺人がここで命を落とした。さもなければ半年もたたずに逃げ出した。気が狂った者もいる。足を踏み外すと奈落へまっさかさまだ。
マサカリを仕損じると黒牛は狂ったように暴れる。屠殺人の仕事は命がけ、しかも一発で完璧にしとめられる名手はそういない。烏牛はこの五年間一度も失敗をしたことのない名手中の名手であった。
コツはただひとつ、マサカリを打つ瞬間かっと見開いた目で真正面から黒牛の瞳の奥をキッと睨みつけることだ。この牛は自分そのものだと念じて、全力を込めて自らを撃つ。撃った瞬間反動でマサカリを戻して半身に転身する。ガタンと大きな音がして奈落へ落ちる巨体の自分のなきがらのごとき牛。
無意識に自己自我を抹殺する行為、それがこの屠殺の瞬間であった。神々しいまでに彼は冷静であった。一度マサカリがよく研がれていないのを使用した時きわめて微妙な不快感を感じてからは、マサカリは毎日研ぎに研いだ。それ以降4頭仕上げた後の心地よい疲労感は何物にも代えがたいすこぶる充実したものであった。
そうしたある日烏牛はめったに見ない夢を見た。ふと目覚めると手も足もとても重たい。体全体がすごく重くて動かすのがとても億劫だ。何ということだ、声を出そうにも声が出ない。口の端からよだれがぬるりとたれる。手で拭こうにもその手がなんと黒牛の手だ。ゆるりと体をひねって立ち上がった。といっても四つんばいだが。まぎれもない烏牛は黒牛になっていた。そんな馬鹿なと思ったところで目が覚めた。
冷や汗で一杯だったがさほど気にはならなかった。夜明け間近だ、一番鳥の声が聞こえた。いつものように大きく背伸びをしてマサカリを吟味する。さあ仕事だ。完璧に研ぎあがった4本のマサカリを持って屠殺場へとむかう。今日も空気の澄みとおった少しひんやりとする朝霧の中だ。鶏の声が遠くでいつものように小鳥のさえずりと牛の鳴き声との中にはっきりと聞こえる。
マサカリの1本を手にすると烏牛は残りを中央部の床にていねいに立てかけて足場を固めて東の出口戸正面に立つ。烏牛はマサカリを頭上に構えて扉が開くのをじっと待つ。係りの人影(丹鈍)が動いて出口戸がさっと開く。かっと見開いた黒牛の両眼。眉間をめがけて一気に一振り。一瞬の抜き技、反動で半身反転して眼下に巨体の崩れ落ち行くのを見下ろす。
体全体に充実感がみなぎる。烏牛はここで大きく深呼吸をし足場をゆっくりと降りて2本目のマサカリを手にすると次の南出口正面に構える。戸が開いて一瞬の必殺技、すばらしい快感だ。つづいて西出口戸正面にて無心に一発を決める。さらに北正面、疲労感を少し感じつつ最後の止めを全力で振り下ろす。
と、一瞬、黒く澄み通った黒牛の瞳の奥に、ぴかっと光る何かを見た。うん?と思ってなんとなく気になりだした。いつもの如く心地よい疲労感はあるのだがちょっとばかり気になる。
翌日の明け方にも昨日と同じ夢を見た。もう十分牛になっていて胃の中の未消化物を口に戻してもぐもぐしている。ずっともぐもぐしている。間違いない手も足も牛になっていると実感できる。動かさなくてもはっきりと実感できるのだ。
鶏が鳴き始めて目が覚めた。目が覚めてもずっと口をもぐもぐしている。別に汗はかいていない。さあ仕事だ。あまり気にせず4本のマサカリを選んで研ぎの仕上げをする。無心にひたすら研ぐ。肌寒い朝もやの中を屠殺場へと向かう。いつもの澄んだ空気と牛舎の匂いだ。大きく深呼吸して東出口戸正面に立つ。
研ぎあげたマサカリを頭上高く両手で掲げて仁王立ちになって立つ。戸が開いた瞬間、視線が合うと同時にそのマサカリは眉間を打ち砕き反動で抜き返していた。その瞳の奥に烏牛ははっきりと見た。小さな点が一瞬ぴかっと光ったのを。昨日の最後に見えたのと同じだ。
心して烏牛は次の南出口戸正面の足場に立った。と、その瞬間、間違いない瞳の奥に何かが見える。撃った瞬間ぴかっと光ってすぐ消える何かがはっきりと見えるのだ。最後の一撃もそうだった。『何だろうあの光物は?』いつになくその夜は気になって寝入りが悪かった。
そしてまた夢を見た。もぐもぐしている牛になった自分を天井から見ている自分がいる。黒牛が毛布にくるまってベッドに横たわっている。とてもこっけいだ。天井の烏牛は牛の顔面に目を凝らした。もぐもぐとよだれをたらしながら下品に片目をまどろみながら見つめなおしている自分と、天井からぐっと間近に近づいて無骨な牛面を見つめている自分。
不可解極まったその瞬間、自らの瞳の奥底、眉間の裏奥辺りにあるではないか光物、ビー玉くらいの光物。『何だろうこれは?』とさらに天井の瞳が牛の瞳に近づいたら、光物は灰色から黄緑色にパッと変色した。
その瞬間目が覚めた。思わず天井を見上げ自分の眉間に手を当ててみた。まさかと思いつつ何もないのに安堵して、鶏の声を聞きながらいつもどうりに仕事に専念した。間違いなく光物はどの牛にもあった。それからの日は慣れてきて光物も次第に気にならなくなっていった。
いつもの牛の夢を見ても、口をもぐもぐさせているだけで、天井の自分もいなくなった。いつも通りに目が覚めて淡々と何もなかったかのように仕事に取り掛かる。いつものこの5年間の生活に牛の夢と光物が増えただけのことだ。
それから10日ほどたった頃大異変が起きた。誰も知らない大異変。いつものように口をもぐもぐさせてうとうとしていたら、鶏の一番声を聞いた。と同時に目が覚めるはずなのにその朝は目覚めなかった。心が焦りにあせる。『早くマサカリを研がなければ』。
重たい手足と巨体とをごろりとベッドからずり動かして、やっとのことで四つん這いになった。『間違いなく俺は黒牛だ』。焦りと緊張で口ばかりもぐもぐと長いよだれをたらしながらじっと突っ立ったままどうしたものかと、ひたすらもぐもぐと口を動かしていた。
すると玄関の扉が開いて、ここにいたのかと言いながら丹鈍が入ってきた。烏牛の鼻輪の縄を思い切り前に引く。死ぬほど痛い。烏牛は何か言いかけようとしたがモーと低い不明瞭な音にしかならない。『俺だよ俺、烏牛だよ。気付いてくれよ、丹鈍!』。モーモーという低音しか出ない。
「おーよしよしそうわめくな。もうすぐ楽になるから。天下一の烏牛様の手にかかれば、一瞬にして極楽へ行けるから。ほれほれ足元に気をつけて」
黒牛の烏牛は丹鈍に引っ張られて屠殺場へ向かった。『待て待て、今日の烏牛様はマサカリを研いでいないしまだ何の準備もできていない。馬鹿なことを言っちゃいけない、烏牛は俺だ、ここにいる』
ひときわモーという声が響く。牛の烏牛は無理矢理小部屋に入れられた。丹鈍が木戸を閉めながら言った。「少し狭くて暗いがもうしばらくの辛抱だ。烏牛様のマサカリで幸せ者だよ、お前は」
真っ暗闇。突然前の扉がパッと開いて仁王立ち、なんとそこにはいつもの烏牛が、紛れもない烏牛自身が、にっと口元を引き締めて両眼をかっと見開いて、頭上高々と研ぎすまされたマサカリを、と思う間もなく影が動いて振り下ろされた。
眉間を走る衝撃の中に間違いなく烏牛は見た。半透明の玉が薄いピンク色に閃光を放ちながら大きく一瞬輝いたかと思うとすっと消滅して跡形もなく消え去ったことを。
丹鈍は南出口扉の開き紐を握り締めて、もう烏牛が来る頃だと紐を握りなおしていた。なかなか烏牛は現れない。もう来るはずなのにいつもより遅いなと思い始めていた。こんな事はこの5年間の間に一度もなかった。
おかしい。丹鈍は開き紐を手放すと足場を駆け下りて東出口に向かった。扉を開けると奈落には屠殺されたばかりの黒牛の巨体が横たわっていた。
「あっ!」丹鈍はすぐに気が付いた。両目をかっと見開いて黒目を眉間に吸い寄せたその中央に、研ぎ澄まされたマサカリが根元から半分深々と眉間にめいり込んでいる。血は一滴も出ていない瞬間にして即死である。
丹鈍はつぶやいた。「見事なものだ。それにしてもマサカリを打ち込んだままだとはどういうことだ?」
丹鈍は烏牛の姿を探した。奈落から、牛舎から、離れから、そして烏牛の部屋へもう一度戻った。よくよく調べてみると、この日マサカリはこの一本のみが部屋からなくなっていた。いつもは4本なのに。
床にはべっとりと牛のよだれが牛舎のほうからつづいていた。
・・・・
その朝以降、烏牛は二度と西郷鎮には現れなかった。その姿を見たものも一人としていなかった。消えたのだ、一瞬にして。だが人は皆烏牛は死んだのだとか逃げたのだひところ騒ぎ立てただけで、また次の屠殺人が来ると誰も烏牛の事は口にしなくなった。そして真実は忘れ去られて行った。
(おわり)
烏牛(うぎゅう)