月の巫女 Ⅲ 月の涙 終章 風の民
月の巫女 月の涙
【5】 風の民
(1)
――お前のその爪はいずれ愛する者を殺す――
天帝の言葉が身を責めた。ダイールを殺した。親雛鳥を殺したと言葉が胸を抉る。辛い、何を目標に生きれば良いのだ。
――その道を取るか――
更に、含みあるジオラの言葉が蘇った。地帝の国で盲の老人は柔らかい声音で言った。もう一度考えなおせと言った。しかし、きっぱりと拒否した。
その道とは――。愛する者を殺す道、いや、卵を生む者を攫う。浚い続ける、道を選ぶ。一族が居て、自分があるのだと思っていた。
滅びに向かう一族を救う。それが使命だ。使命は卵を得る事だ。
――卵を手に入る――
白い、それは卵だ。女の両手に余る大きな白い塊が暗い地下風穴の中で光を放っていた。
卵を腹の上で抱くのは横たわった女だ。長い亜麻色の髪が湿った岩の上で乱れ弧を描いていた。開いた目玉が空を見詰めていた。
卵を抱えて横たわるは、物言わぬルチアだ。
湿気を帯びた卵の殻は頑丈な硬さは無くなり柔らかく緩んできていた。卵は成長する。大きくなりまた固くなる。これが卵の最後の成長期だと分かるギルバーヂアは、ルチアに添い寝するように横に居た。彼の掌は小ぶりな硬い卵を乗せていた。ルチアが産んだ二個目の卵だ。その卵を撫でながらギルバーヂアは言う。
「ルチア、もうすぐ、俺達の卵が孵る。待ち望んでいただろう。俺達の子供だ」
ギルバーヂアは身を起こし更に言葉を放った。
「俺達の子供は、鳥族をもっと強く立派な種族にする」
そうだろうと、ギルバーヂアは鋭い爪でルチアの頬をなでた。その頬に血はにじまない。爪を確かめるギルバーヂアは風を感じた。風は言葉を放った。
「そうだな。鳥よ。鳥の王よ。立派な卵を持たれた。のぞみの物を手にされたのだな」
その声に顔を上げたギルバーヂアの前に、ジョカルビが立っていた。身長よりも長い黒い杖を持ち、白衣を身に纏ったジョカルビを見てもギルバーヂアは驚きもせずに口を開いた。
「祝に駆けつけてくれたのか。ソウマ殿」
「いや、ケリを付けに来た。わしの安易な助言が災いとなったと気づいた。お前さんをけしかけたと気づいた。天と地の均衡を破ってしまったのはわしのせいだ。天上界は天界を守る帝を失った。それならせめて、天の剣だけでも天上界へ返したいのだ。ギルバーヂア殿。地帝ウィリオズ殿が天上へ剣を届けてくれる」
「地帝‥。オヨのことか?」
頷くジョカルビの顔に笑みはない。真顔が剣を返せと、ギルバーヂアを見ていた。
「オヨが返せと言うなら返そう。だが、鞘はない。海王が盗んでいった」
「海王様は盗みなぞしない。地帝にお返しになっただけだ。儂が手助けし確かにヘガルガの次代は受け取られた。次代は鞘だけでなく剣も一緒にと、願っておられる。貰い受けて良いかな」
と、ジョカルビは躊躇うこと無く両手を差し出した。
「海王‥。‥彼を荒野に打ち捨てて来た。海王は怒っているだろうな。だが、ルチアを置いておくわけにはいかなかった。俺がいなければ泣く。‥泣いて、病気だ。子どもの事を心配して床に付いてしまった。卵が孵るまで一緒にいなければ‥一人は寂しい。誰かが、居なければ‥。海王!海王を忘れていた。わざわざ来てくれたのに、置き去りにしてしまった」
ジョカルビは吸気とともに瞳を閉じた。彼も泣きたかった。海王の業は破れた。業師である彼の巧妙の業は敗れ、無残な最後を遂げた。しかし、彼の死は無駄ではなかったとジョカルビは感じた。海王は悪辣な心を多少なりとも取り除いのだと感じ取った。しかし、全てを取り除けたわけではない。その心の中には悪辣化するであろう心が残った。悪心がどのように花開いて行くのだろうかと、ジョカルビは胸を押さえた。目の前に蹲るギルバーヂアから幼児の様に怯え迷う心を感じたが、悪しき妖気は感じ取れない。
「心配ない。ウィリオズ様が海底に亡骸を届けてくれた。今一族達と最後の別れをしているであろう。彼のために剣が欲しいのだ」
「剣?鞘のない剣‥」
鳥の瞳が一周くるりと動いた。その顔は驚きを表したように動かなくなった。何を考えているとジョカルビは思った。鞘を持たないギルバーヂアに人の心を読み取る業は使えないはずだ。何を考えると問う。すると、ギルバーヂアは答えを返した。
「剣は渡さない。剣を返せば、俺はルチアを見つけられない。これがないとルチアは振り向かない」
「その剣は、天帝の剣だ。その剣を天帝のいる場所に届けるために来たのだ。渡してはくれぬか?」
「剣は渡せない。ルチアを取り戻すのにいるのだ」
「ルチア殿は女神に剣を返してと、言っておられる」
「女神‥。ああ、そうだ。ルチアは女神が好きだ。ルチアを悲しませることは出来ない、直ぐに女神に剣を返さねば」
そう言ったギルバージアの顔が突如、表情を無くした。暗く強張った顔がジョカルビを睨む。
「天帝は俺が殺した。ルチアは俺がしたことを知らない‥。知られたくない」
瞬時変化した顔は、悲しみを湛えた顔だ。それはジョカルビを一心に見詰めていた。
「大丈夫だ。天帝はヘガルガの花園におられる。荒野に咲く花がとてもお気に入りで、月が上がると花園に座っておられる。知っているだろう。地帝の花園の素晴らしさ。天帝はそこに新しい果実を育てられるのに夢中になっておられる」
ジョカルビの言葉を受け止めるギルバーヂアが顔色を変えていく。口を結び黙り込んだ表情の瞳の奥に影が揺らいだ。影は邪気だ。邪気は一つの言葉だけを強く受け止めた。それはギルバージアの心を蝕む。
「果物‥。命の実。実はルチアを救わなかった‥。天帝の実がルチアを殺した」
ルチアの死――が再び、ギルバーヂアを襲った。苦しみだ。彼の心を握りつぶす苦しみがまた襲いかかっていた。
ジョカルビは喫驚した。眼を見開いて見詰めた。苦しみから逃れるための無意識を見た。鳥の心の無意識。それは、剣を持った。羽根に隠し持った剣だ。
ギルバーヂアは肩羽の間から取り出した刃をしげしげと目前で確かめた。
この時ジョカルビは、ギルバージアの心が掴み取れなかった。恐怖を感じ、大きく一歩身を引いていた。
鋭く磨き上げた爪は剣の柄を掴んでいた。
腕は、刃を握り直した。切っ先が光った。その刃の行き着く所は、敵とみなした者の懐だとジョカルビは思った。それは自分の胸を貫くと思った。
ところが違った。ギルバージアは、手にした刃を自身の胸に突き立てたのだ。ジョカルビは喉を震わせた。甲高い叫びを上げたはずだが、声は出なかった。
魔剣は魔窟を鞘とするのだと、ジョカルビの記憶の宮は刻んだ。
魔剣はギルバージアの身を鞘と選った。魔窟はその剣を天界の持ち帰ることは出来ない。どれどころ、魔剣をギルバージアの身体から取り出してもならないと衝撃が身を震わせた。
刃はゆっくりとギルバージアのうぶ毛の中にめり込んでいく。すすり泣くような表情が呆然と立ち尽くすジョカルビを見詰めたままだ。
その身体に刃を収める鞘は無いのだ。海王の業が鞘を吹き飛ばした。その鞘を受け取ったのはジョカルビだ。鞘はそのまま地帝が受け取った。オヨが贈った地界の守鞘はギルバージアの体内にはすでに無いのだ。それをその身体は知っているはずだと、叫ぶ声は出ない。
乾き切った喉は声を失っていた。凍りついた瞳は、ギルバージアの身体が剣を飲み込んで行くのを見た。お互いは発する声を失って見つめ合っていた。
ギルバーヂアは立ち上がったまま、平然と刃を突き立てていた。そして完全に刃が、その身の中に消えた時、声を上げた。
「俺は天界へ行く。お前達には邪魔させはしない。ルチアの卵で地底の巣穴を埋め尽くして見せる。俺の卵であの場所を飾ってみせる。それが俺の勤めだ。鳥族の未来を守るのが俺の役目だ」
ジョカルビは顔を覆った。この言葉はギルバーヂアの本心だ。変えようも無い本音だ。ジョカルビは足元が崩れ落ちる激しい衝撃を受けた。彼は杖に縋り付きやっと立っていたが、ギルバーヂアが差し出した白い塊を一瞥すると杖を振った。いたたまれずに、その場を逃げたのだ。
絶滅の危機からただ一人生き残った男鳥は、彼等の未来を変えた。この時ジョカルビはそれだけを記憶の宮に刻みつけた。悪しき変化だと感じながら、それが鳥族の性質と納得してしまった。しかしそれは、後悔へ繋がる。彼は風の民の未来を握っていたのだ。天界の民は、鳥族に怯え毎年娘達を捧げた。更に残忍な志向を満足させるために捧げる女は毎月だった。
ギルバーヂアが天界で見せる悪行を予感出来なかったジョカルビはこの後、激しく後悔する。どれほどの後悔がこの後彼を襲うか、予感を見ること無く彼は立ち去った。風の民族がこれから流す涙を予見できずジョカルビは失意のまま立ち去ってしまった。
天帝の刃は、ギルバージアの心と一体した。誰もギルバージアの身体から太刀を抜き取ることは出来ないと、去ってしまった。
(2)
巌山の風穴。
瀑布のしぶきが、岩屋を濡らしていた。真っ直ぐに吹き抜ける洞窟の奥にも、仰ぎ見る高い天井の穴から日の光が差し込んでいた。幾重にも重なる光の輪が床を照らし出していた。
そこに白い躯があった。その腹の上には白い大きな卵があった。女の手にあまるほどに成長した卵だ。
長い爪は卵を突付く。すると、その刺激を楽しむように卵の中から音が返ってきた。それは卵が身震いするように揺れた。
毛綿と枯れ葉の褥に横たわった裸体の屍は亜麻色の髪を持つ。白々とした長い亜麻色の髪が湿った岩肌を覆う。その長い髪に手を伸ばしたギルバーヂアは口を開いた。
「もう直ぐ、君の卵が孵る。君の雛だ。君が待ち望んで子だ。嬉しいだろう、ルチア」
ルチア――とギルバーヂアは呼んだ。しかしルチアは返事をしない。
「ルチア、何故黙っているの?不安なのか‥大丈夫だよ。俺達の雛は元気に育った。殻の中からどうやって外へ出ようかと必死に考えている。殻を突けと教えたから、間もなく出てくるだろう。ルチア。君に似て賢い子だ。もう覚えたと、殻を突いているよ。元気な子だ。見てごらん」
ギルバーヂアは卵の前に座り直し、更に冷たい躯に言葉を放つ。
「そうか。卵を抱いているから動けないのだね。大切な卵だ。大切な卵‥を、皆が待っている。二人の雛が元気な姿を見せるのを‥。心配することはないよ、ルチア。雛は雛(お)親(や)が育ててくれる。俺を育てた様に大切に、大切にダイールが育ててくれる。ダイール‥、彼は何処へ行ったのだろう。‥卵を探しに天界に行ったのだろうか?彼も女を欲しがっていた。女は卵を生む。大切な卵を‥。ダイールは女(めす)を探しに天界へ行った‥」
そう言ったギルバーヂアはしばらくの間口を閉ざした。長い沈黙の後、口を開いたギルバーヂアは横たわった躯に思いつくだけの言葉を放った。
しかし、問いに言葉は返らなかった。返らない言葉に苛立つ彼は更に声高に問い質す。
声は無いのだ。どんなに待ってもルチアの声は二度と聞けないのだと、その姿を見詰め考え続けた。彼の前で横たわる躯は愛しいはずの女だが、彼の心を粉々に砕いた天界人だ。
冷たく硬くなった女の身体は、生前の面影は無い。それはギルバーヂアを追い詰めた。ギルバーヂアにとってルチアは未来を描く希望だった。心を許せる半身だった。彼女は孤独に生きてきた彼が知った暖かな温みだ。
暖かな温みを抱いて守って生きていけると思っていた。身も心も混ざり合い一つになるために存在する相手だと信じてきた彼を、その暖かな温みは冷酷の大地に一人置き去りにした。
お互いの命が続く限り同じ思いで生きていくはずの相手は、彼に背を向けた。孤独と言う檻に、彼を閉じ込めた。
愛着と憎しみが心を鷲掴み二つに引き裂いた。それも至福の時を選って、赤裸々に割いた。何故一つにつなげ引き割く、何故だ。
ギルバーヂアは長い間、見詰め続けた。二つの卵を見つめ続けた。
二人の心の繋がりが確かな証を作った。一つでは無い。二つある。更に三つ目を手にするはずだった。三つだけでは無い。これから何個も、何十個も、何百個も手に出来る。二人が繋がれば幾らでも手に出来る。可愛い雛を抱ける。
四本の指は何を握り締めれば良いのだと激情が空を震わせた。だがどんなに声を上げても、現実は変わらなかった。全身を震わせその身を揺さぶっても温みは帰ってはこないと気付く。無情の時だけが流れていくと気付く。
腕が抱けるのは冷たい女の身だ。冷たい心、彼に背を向けて自分の世界に閉じこもった物言わぬ身体。それはルチアでは無い。天界から持ち込んだ餌だ。肉の塊。愛しい者の形をした獲物だと、ギルバーヂアの心は叫ぶ。
右手の四本爪を見る瞳は、肉を抉る感触を求めていた。
ギルバーヂアの脳裏はその爪が行なった凶行を覚えてはいなかった。消え去った記憶は指が求める感触は分からないが、爪は習性の如く上を向いた乳首を掴んだ。
爪は抉る感触に喜びを見出し、舌は肉を滑る感触を楽しんだ。
天を仰ぐその顔にはふっくらとした頬肉は無い。頬骨と分かる白い部分を晒していた。
すでに干からび掛けた身体はしおれた乳房を晒していた。
死臭漂う身体からはまだ、ルチアの艶のある香りがうっすらと香る。それを確かめずにはいられないギルバーヂアは乳首を噛んだ。舌は肉の感触をなぞった。舌は丹念に硬直から緩んだ肌の感触をルチアと確かめた。が、嗅覚は食思を感じる匂いに乱れた。それは乳首を噛んだ。愛しい女の肉を食んだ。
肉の食感を味わった。旨い。これ以上の旨味は無い。脳裏は彼にそう言った。
肉汁が持つ旨味にギルバーヂアは、彼が持つ愛しい女の記憶消し去った。彼が持つ女の艶やかな温みを忘れた。
今、口が味わうのは、ルチアでは無い獣の躯だ。それは空腹を満たす。爪は乳房を削いだ。肉汁が抉り盗られた部位からジュワリと浮いてきた。それを唇は貪る。長い舌を絡ませ一滴も残さぬ様に吸い上げ、そして乳房から唇を離した彼は空に向かって言葉を放った。
「ダイール‥。天界で迷ってはいないだろうか。いや、大丈夫だ。彼は物知りだ。彼は卵を手に入れたら、ルチアを手に入れたら、帰って来る。匂い立つ女を手にして帰ってくる。だが、彼は年だ。迎えに行かなければ、思い荷物に羽根が持たない‥」
一人呟きを漏らすギルバーヂアを夜の帳が包んでいく。闇に浮く月はその姿を細く変えやがて闇に消えていく。その月と同じように、ルチアもその姿を変えた。
水晶の様に輝いていた、両の目玉はすでに無い。眼窩は窪み目玉の無い涙骨が見えていた。豊満な乳房も無かった。肉を削がれ、肋骨を晒していた。それをしたのはギルバーヂアの四本の鋭い右手の爪だ。
鋭い爪は、肉を削ぎ目玉をくり抜いた。太く長い舌は、舌鼓を打った。
開いた口から切り取った舌に口付けをしたルバーヂアは穏やかな笑みを浮かべた
ギルバーヂアはルチアの乳房を食った。両の乳房を食った。そして目玉を繰り抜き眼窩をしゃぶった。ルチアが生んだ卵が返ったその日まで、愛しい女の躯なのか、食を満たす獲物の身体なのか分からない匂いに包まれ、ルチアの身体を抱き占め細い首を舐め女陰の奥を舌で確かめた。そして雛が小さな嘴で懸命に殻を破りその顔を覗かせるまで、変わり果てた女の身体を抱いていた。
朔の夜陰は、岩穴を包む。星影が静かに降り注いでいた。
ギルバーヂアが待ち望んだ時が来た。星影が囁くこの夜、卵は小さな音を立てた。
静まり返った岩穴に鳥達は息を殺して見詰めていた。卵が微かに響かせる音を、耳をそば立てて聞いた。
そしてその瞬間を無動で見ていた。
白い卵は殻を砕く。内からコツコツと堅い殻を破る。
黄色い嘴が見えたと思うと殻は二つに割れた。小さな細い身体が二つに割れた殻と共に崩れ落ちたのだ。そのひ弱に見える小さなか細い身体が、懸命に立ち上がろうと藻掻く姿に鳥達は歓声を上げた。鳥達が待ちに待った雛の誕生だ。
歓喜が風穴を駆け抜けた。止まらない歓喜がギルバーヂアに降り注いだ。
彼は手を伸ばした。雛をその手に抱くために手を伸ばした。顔の大部分を占める丸い大きな瞼は、その瞳は閉じたまま開かない。雛は長い時を盲のまま過ごす。外敵から身を守るためか、知恵なのか、雛は巣穴に閉じこもり一年を過ごす。その世話をするのも親雛鳥だ。彼等は手踊りして喜びを表していた。次は娘達が産んで卵が孵る。もう絶滅に怯えることは無いのだと、うかれて踊る。
生まれた雛を大切に育てる役目の雛親鳥等は喜びを素直に表したが、雄種鳥は有頂天に喜んではいなかった。種族を担う雛は、想像以上にひ弱だ。無事に育つかと不安が襲った。
雛は育たない――若い雛の死を見つめてきた彼等はその言葉が頭から離れなかった。
雛はか細く弱々しく彼等の眼に映った。
頭はでかいが胴体は細く痩せ、そこに短い足がニョキリと突き出ている。その姿に似合わない細く長い両腕が、力なくだらりと垂れ下がっていた。細い首が縦に平たい頭をやっと支えていた。殻と同じ白い身体にはうぶ毛は無い。丸裸の小さな生き物が鳥の雛だ。守り育てても永らえないかもしれないと、雛親達にも不安が過った。だが、雛は生きる姿勢をはっきりと見せた。
重い頭を持ち上がられない雛はそれでも大きく口を開くと餌をくれとビョビョと鳴いた。鳥族の歴史を変えたこの子が最初に口にしたのは母親の肉だ。それを与えたのは父親だった。
ギルバーヂアは、ルチアの乳房から肉を抉ると口に入れた。彼はゆっくりと愛した女の肉片を噛み砕いた。そして小さく噛み砕いた肉を雛の口に入れたのだ。雛は食べた。
雛は餌の肉片を母の物とは知らずに食べた。身体を揺すって食べた。これ以上の旨い餌は無いと嘴を大きく開けて次をねだった。餌をくれ――と。
(3)
黄昏時がラグルの大地を包む。
岩穴に篭もるギルバーヂアにも、空が色を変えたと分かった。風が重く冷たい空気を運んで来たと。
月が日々を教えた。繰り返される日々は終わらないのだと何かが教える。終わらない日々は鳥族の習性を教えた。月が教える習性は種を撒く事だ。月が太る事に胸は女の匂いを求めた。
ルチアは死んだ。柔らかな肉体はもう無いのだ。ギルバーヂアの胸を焦がす切ない匂いはもう嗅ぐことは出来ないのだ。
分かっていた。彼女は死んだのだと。変わり果てた躯は横たわっている。今もギルバーヂアの前にあり、彼の心を惹き止める。
私だけの、私だけの貴方――。ルチアの声が招く。暗闇に月光が指すととこからともなく鈴を転がすような柔らかい声が流れた。天空に明かりが灯ると風月の闇にまぼろしが立つ。それは言う。
『貴方は私だけの夫――。私だけの』
闇が与えるのは幻だと分かっていた。それでも求める心は腕を伸ばし言葉を拾い集める。
「そうだ、俺は貴女を心から愛している。この命が続く限り」
『貴男は生きる、生き続ける。何年も、何百年も、生き続ける。そして何千・何万人もの妻を得る』
「何万?俺がほしいのは貴女だけだ。貴女の腕に抱かれたい」
『私には貴男を抱く腕が無い。貴男が食べた。雛が食べた。私はもういないのよ』
「俺が食った。俺が貴女を殺して食った。俺は貴女をこんなに求めているのに貴女を殺した」
『卵よ。白い卵、貴男の愛するものは卵だけ。貴男は卵を愛してる』
幻は一抱えの大きな卵を、両手で大切に抱え頬擦りをする。
卵――と、ギルバーヂアの身は大きく波打った。卵は何処だ。娘達の産んだ卵は、地下の風穴にある。まだ四個だ。ルチアの卵と合わせて六つだけだ。足りない。地下を埋める卵の数が足りない。卵を持つ娘は地下風穴に三人だけだと、ギルバーヂアの心に焦りが湧いた。
女を拐って来なければ卵が足りない。地下を埋める卵がほしい。種族を思う若い情熱はそう思った。しかし、習性は違った。月が丸みを帯び、満月が明日に迫るとギルバーヂアの心は欲情に一変した。
香りを求めた。異常なまでに胸が高まり、激しい頭痛が匂いを求めよと脳裏に鋭い言葉を突き刺した。激しい頭痛と眩暈に襲われた。助けてくれの言葉より、ほしいと喉の奥から雄叫びを上げたかった。
身を切り刻む激痛を耐えた。流涎を耐えた。一昼夜の激しい欲望を耐えた。
しかし、朝の光が眼を指すと、ギルバーヂアは息が出来ない苦痛に縮めていた身を広げて叫んだ。
「匂いだ!あの匂いが、ほしい!女のあの香りだ。ほしい!ほしい――」
立ち上がったギルバーヂアの瞳に、風穴の薄闇に溶け込んだ女の躯は映らない。卵だけがある。
卵はある。いないのはルチア。ルチアの香りが胸を締め付けた。あの香りが欲しい。ルチアの女陰の香り。それが身の裡で安らぎを求める心を沸き上がらせた。心が求めるのは女体だ。怪しいほどに香り高い女だ。
女体を求める心、それは雄種鳥も同じだ。彼等は叫ぶ。
卵を持つ雌がほしい――。
「満月だ。卵を作らねば、ルチア!何処だ!何処に行った。君は、俺を忘れて何処を彷徨いているのだ!天界か?あの林にいるのか?そうか、天界で俺を待っているのか。火だ。火が燃える。あの林の中で火が燃える。あそこで待っているのか、一人で‥。行かねば‥、天界‥、天界へ行くぞ!」
そう叫んだギルバーヂアは天上にある残月に向かって飛んだ。そこに雄種鳥は飛び交っていた。狂おしい身の裡をどうすることも出来ずに飛び回っていた。彼等の心は直ぐにギルバーヂアの異常に同化した。
女は天界にいる。天界の緑の林の中だ。
ギルバーヂアの中でガシャリと音がなった。ギルバーヂアの心の闇と魔剣の邪気が絡み異質な風を作った。風は二つの世界を吹き抜ける。
風が二つの世界の通路となった。
雄種鳥は風に乗って舞い降りた。緑なす大地へ、森と草原の大地へ。
天界と地界の通路を開く、それは不可能な事だった。天界には天界の扉を守る天帝がいた。地界には地帝がいた。二人は別々に自らの世界を守っていた。
地界を守る地帝は早くからそのことに気づいていた。
天と地の平均が崩れる――。
地界に住む種族が存続の危機に落ちると、夢見師である彼は予感した。
天と地は一つの日と月を支えに二つの世界の均衡を保つと、天帝も地帝も知っていた。
お互いが不動であることで、天と地は守られていた。しかし、地界は怯えを持った。種族の繁栄に陰りを持った。その時から暗雲が地界を包んだのだと悟った。
地界の暗雲はいずれ天界をも包んでいくだろうと。地あっての天だ。天あっての地だ。災いを最小に食い止める。それが地帝ウィリオズを決意させた。
『天命に任せる――』
それがギルバーヂアの時代を創った。彼を奔放させた。
「天界に女を、卵を生む女を浚いに行くぞ」
ギルバーヂアは、風の民族を襲った。
天から襲われた民達は為す術が無かった。どんなに戦い慣れした種族であっても鳥族の攻撃には迎え撃つ策が無かった。鳥族の襲撃を防ぐ事が出来ない風の民族は、半日も持たずに降参した。
風の民の王はギルバーヂアの足元にひれ伏した。そして哀願した。民を救ってくれと。
人の姿をした鳥族を間近で見た風の民族は、その醜い姿に声を無くしただけでは無かった。更に恐怖に凍りついた。風の民族達は見た。鳥男達の冷酷な仕草を。
鋭い爪が家畜を殺すのを見た。嘴が生肉に齧り付く音を聞いた。長い舌が管を伸ばし生き血を啜る姿に恐怖の叫びを上げた。
指を血で濡らし口に生肉を加えた、異様な形をした者達を迎え入れた城内は静まり返った。恐怖が彼等を包み込んだ。家畜と同じ運命が、彼等の上にあると、そうと思った。
風の民族達は潔い死を願った。家畜ではない人としての死を願った。そして幼い者達が無慈悲な輩の贄に捧げられないように願った。
王と王妃は嘆願した。家畜ではない、心を持った人間だと訴えた。だが心のない無慈悲と分かる鳥に我等の生き方は分からないだろうと、風の民族の王はそう思った。贄の血祭りを願うなら最初は私にしてくれと、王は願うつもりだ。出来るなら家族全員一緒にと願う王は妃の手をしっかりと掴んでいた。
「女だ。卵」
ギルバーヂアはボソリと言った。苦悩をはっきりと表した彼は風の民の王に向かって言った。
「子が産める女がほしい」
風の民の王は彼の玉座に鳥の王を迎え、床に静かに項垂れた。戦いに敗れた王は二つの選択を持つ。
貢物で命を永らえるか、潔く自決するか。死を迎える者は安らぐが残された者達は悲惨だ。
「仰せに従います。望まれる物を用意いたします。ですから、民を、我が民をお救いください。我が生命で民が救われるのであれば、この命も捧げます」
「男はいらぬ!ほしいのは女だ!直ぐ用意しろ」
風の民の王は慌てた。彼の物言いが鳥男の頭を怒らせたと、青ざめた風の民の王は声を上げた。
「人質の者なら直ぐに集められます。鳥の王よ」
風の民の王は広間の入り口に立つ兵士に合図を送った。苛立つギルバーヂアの様相は凄みがあった。その凄み以上の異様な風体が羽根を伸ばして城内を駆け巡っていた。城に住む人々は、従うだけだ。風の民族は追い詰められ広間の隅に集まっていた。兵士等はその中から十人ほどの若い娘を選った。娘達はギルバーヂアの前にひれ伏した。
すると群衆の中から女達の声が漏れた。祈りの言葉が漏れた。それでも誰も命乞いをしなかった。泣くだけだった。風の民の王妃も王に縋り付いて泣いた。結い上げた亜麻色の髪が白い首筋に乱れ肩に掛かっていた。
「風の民の王よ。お前の席はここか?」
ギルバーヂアの長い腕が壮年の男の腕を掴んだ。男の頭上には冠があった。それが特別な地位にあると天界の風習を知らないギルバーヂアでも分かった。縋りつく女が王の妻だと頭を飾る黄金が光る。女の腕を振り払い、王の肩を掴むと玉座へと押す。
「ここの主はお前だ。今も、これから先も‥」
ギルバーヂアはニヤリと笑った。口元を緩めて大きく笑った。それに比べ色を無くした風の民族の王は言われるままに王座に座る。そしてギルバーヂアの仕草を怯えた瞳で見詰めた。ギルバーヂアの右手は二つ並んだ玉座に深く座った王の目の前にあった。もう片方の長い腕は対の座を抱き締めるように羽根を絡ませていた。玉座に身を持たせたギルバーヂアは言う。
「それでは、王妃を迎えろ」
「王妃?‥私はすでに妃を娶っております。妃はそこにおります」
王の顔が指し示す場所に抱きあう母と娘がいた。中年の女と若い娘だ。同じ亜麻色の髪が同じ血を持つ親子とギルバーヂアに教えた。その床に座り込む王妃と王女。二人は他の女と同じように抱き合ってむせび泣いていた。
「娘は幾つだ?」
「十六になります。この子で国を守れるのであればお連れください‥」
と、王は言った。彼にはその言葉しか無かった。
「そうか。それでは十六の娘を四人貰おうか。お前の娘を省いて、四人だ。直ぐに用意しろ。仲間が連れて帰る。これから毎年、娘達をもらいに来る。丈夫で美しい娘を、な」
「四人‥娘、四人だけで、よろしいのですか?」
風の民の王は聞いた。鳥の姿をした者達はゆうに三十人はいた。要求はその倍と計算していた王は瞠目した。更に信じられない言葉を敵の王は放ったのだ。
「まだ、くれるのか?」
「いいえ、感謝致します。鳥の王よ。それで‥私と妻の命を捧げれば民達を開放していただけますか?」
「お前の命はいらん。毎年四人の娘と毎月一人の女を俺に捧げれば、お前達を生かそう。捧げ者の娘を大事に育てるのなら、お前達を生かし続ける」
四人の娘と一人の女?それだけかと、風の民の王は疑心で眼を見開いた。
「それだけで、それだけでよろしいのですか?」
「くどい。それだけだ!それを怠れば、お前の種族を根絶やしにする。一人ずつ、生き血を啜り、その肉を食らう!」
ギルバーヂアは口を開くと長い舌を出した。そこから伸びる細長い管が空をうごめいた。その舌は王女の首筋に絡んだ。
それに悲鳴を上げたのは王妃だ。
「娘の生き血を啜られたくなければ、その身を晒せ。美しく装ってな。貴女と満月の三夜月を過ごそう。二人きりで‥誰にも邪魔されない部屋で」
「わたし!私は若くはありません。もう子も産めない年寄りです」
「それでは娘を贄に差し出すのか?」
とギルバーヂアの爪は王女の頬を突いた。そこから血が流れた。血は母の心を狂気させた。王妃は縋り付いた。鳥の細い下腿に縋り付いた。そして声を上げた。娘を助けてと。
四十を前にした妃は、ギルバーヂアの前に座り込むと娘の命乞いをした。
ギルバーヂアは妃の両手を掴むと立たせた。そして両手を放すことなく彼女の耳元で言った。
「良いだろう。お前のその身を俺に捧げるのであれば、お前のむすめの命は助けてやろう」
今は――と、ギルバーヂアはほくそ笑んだ。そして王女の方へ視線を向けた。幼さが残る王女は天幕の影に身を隠した。そうだ、今は幼い。だが、いずれ大人の女になる。その時は、母と同じ道をたどる。
同じ道をゆく女達。風の民族は女を大切に扱う。天界のどの種族よりも大切に子どもを育てた。
「私は子供を産み育て、もう子は埋めない身体年取った女です。それでも贄にと所望されるのであれば喜んでこの命を捧げます」
そう言った王妃は真っ直ぐにギルバーヂアを見た。怯える事ない身体を抱いたギルバーヂアは熟した女の色香を感じた。なんとも言えない女の匂いがルチアを感じた。
「子を埋めない女‥、子が産めない女は卵を産んだ‥ルチア」
ギルバーヂアは口元を大きく緩めて笑った。
「お前でいい。お前とまた満月を過ごす。お前の香りがこの身を震わす。俺はもう卵はいらない。ルチア」
四人の娘を抱えた雄種鳥は暮れゆく空へ飛び立った。また来年、貢物を取りに来ると言い残して飛び去って行った。そこに一人残ったギルバーヂアは風の民族の王に向かっていった
「分かったなら、王妃は禊を済ませ、部屋に篭もってもらおうか」
そう言ったギルバーヂアはけたたましい笑い声を広間に響かせた。
月(つき)祭(まつり)
贖(あがな)い人――は、幽閉の塔にいた。さきほどまで着ていた金刺繍と宝石を鏤めたきらびやかな衣装はない。粗悪な織りの体幹を隠す衣一枚羽織るだけだ。頭上で輝いていた王冠も取り上げられた。
灯火もない広い部屋に身を横たえるだけの寝台が一つ、裸のまま置かれているだけだ。衣装棚も鏡も髪を縛る紐一本も無かった。
贖い人を生かすだけの部屋だ。それでも良いと王妃は思った。
残忍な魔人から娘や民達を守れるのであれば、この身を捧げても良いと思った。しかし、天窓から見える夜空が星影を更に輝かせると、妃は自分がどんなに哀れな者かと嘆き始めた。
冷たい石の床を踏む素足は冷たかった。粗末な綿の薄い衣は身を覆うだけで寒かった。惨めな身は心まで震えた。さらけ出した手足を抱き締め、掛布のない寝台に身を丸めるしか無かった。涙が溢れ頬を伝うと鳥の餌になる絶望が生まれでた。地の底に突き落とされた絶望だ。それは、一人で藻掻く苦しみだ。重荷を背負い地の底を這いずる絶望から逃れる術を考え込んだ。
重い扉は開かない。しかし、誰かが扉の鍵を開け助け出してくれると儚い希望を持った。耳を澄ませ分厚い扉の向こうから音が響いてこないかと待った。
鎮まり返った廊下は風の音さえ無い。堪りかねた心は助け手を求めて声を上げたが、叶わない希望だと悟った。それでも両手は扉を叩いていた。両手を高く上げ気が狂ったように、もてる限りの力を込めて叩き続けた。
しかし虚しい努力だと気づくと、鋭い爪の魔人を描いた。魔人に肉を割かれる前に死を考えた。
石の壁を登り天窓から身を投げると考えたが、壁を登れなかった。身を吊るす長い布は無かった。
絶望はやがて恐怖変わっていく。恐怖は闇と共にやって来た。
天窓から月の光が差し込んでいた。その光の中に長い影が揺れた。すると床の上に奇妙な影を見た妃は慄然とした。
鳥のはばたきを頭上で聞いた、妃の背に悪寒が走った。
月明かりが、鳥男の形を写した。
その時がきたと高鳴った鼓動が、時を刻むように響く。冷たい羽根が、頬に触れた。
眼を閉じた妃は息を止めた。恐怖から逃れるために顔を覆った。
動けない身体とは裏腹に、心は激しく揺れた。
贄だ。私が、贄――、嫌だ。私は王妃よ。三人の子を生んだ、国の母よ。その私が何の罪で生贄にされるの。生贄は私ではない――若く美しい乙女のはずよ――と心は叫び、恐怖から逃れるために身を翻した。
その身体を羽根が包んだ。人では無い長い腕が月明かりに鋭い爪を光らせて襲う。
「私はもう若くないわ。若く美しい女は幾らでもいるわ!柔らかで美味しい娘は外にいるわ!」
外に幾らでも娘はいる――と、妃は声を限りに訴えた。
「いい香りだ。甘く匂いたつこの香りは貴女しかいない。逃がさない。俺はお前を愛している」
広い部屋の端から端まで指が届く、大きな羽根を持つ異様な者が、言葉を放ちながらじわりと迫り寄る。月夜に照らし出されたその姿は異界の者だ。闇の世界から生まれた異質な者。地の底から現れ出た異常な形の鳥は確実に贄を妃と決めている。
逃れられない。夫である王さえも彼女を鳥の餌に決めているのだ。幽閉の場から逃げ出さないように目論んでいるのだ。
戸口に掛かる錠、静まり返った北城。助けを求め泣き叫んでも、戸を叩いても、返る声はないとすでに分かっていたが助けを呼んだ。
妃は恐怖の金切り声を上げた。だが妃が上げた声は、この一度きりだった。城内の者達も鳥の王が妃の幽閉された塔へ飛んできたと気づいた。それゆえ、塔のある北側へは誰も近寄らなかった。
ギルバーヂアが塔から飛び立ち、三日してやっと塔へ続く通路を開けた。そして更に二日後、侍女達が恐る恐る扉を開け裂帛を上げるまで女の悲鳴は上がらなかった。
そうだ。妃は叫び声を上げられなかった。
ギルバーヂアは天窓から飛び降りると、裂帛を上げた妃の口を押さえた。ポッテリと太い唇を重ね、長い舌を滑り込ませた。舌先から管を伸ばし柔らかい女の持つ味わいを確かめ、蠢きながら舌に絡みつかせた。絡みついてもなお蠢き強く絡みつく管の感触に酔った妃は、抵抗すること無くギルバーヂアの口の中へ舌を差し入れた。
今ここに男と女が一つになるための儀式が始まった。それは男と女の交わりの儀式なのだ。しかし、人の女と異界の地に住む異様な形をした男の交わりだ。
人の男のものではない雄種の細く長い触手は、ねっとりとした粘液を絡めて女の股に割って入った。それは蠢く。しっかりと閉じた両足の間に割り込み女陰の襞をかき分け、妃が味わったことのない感情を与えた。
妃は弓なりに仰け反り果てへと誘い小さく何度も痙攣したが、ギルバーヂアは離さなかった。絡めた舌の感触を存分に弄んだ。高まった感情が、異種族に対する恐怖を取り除いたと感じたギルバーヂアは、口が含んだそれに鋭く尖った歯を立てた。
妃は身悶(みもだ)える快楽の中にとっぷりと浸かった。
繰り返す悦に何度も波打ち、声にならない叫びを上げ続けた。
それは三日三晩続いた。満月の輝きに魅入られ、果てしない余韻に全身を震わせ続けていた。気を失う程に打ち寄せる絶頂から逃れられなかった。それは繰り返される喜びだ、その後に切り刻まれる痛みも怖さも感じなかった。ギルバーヂアは贄の身体と一つに繋がる毎にその身を切り裂いた。飢えを満たした。乳房を片方ずつ、片目ずつ、啄んだ。太腿の柔らかな肉を噛んだ、臀部を抉った、背中を削いだ――。
そして三晩立ったその日、妃の息は途絶えた。
ギルバーヂアは丁寧に妃の顔を拭いた。眼窩から流れ出る液を、口から溢れた血を拭いた。削げた頬を整えた。白い耳たぶについた血を拭き象牙の耳飾りを付けた。乱れた亜麻色の髪を丁寧に梳くと頭の上で一つに結んだ。しっかりと解けないように確かめた。そこに花櫛を刺した。
「綺麗だ。ルチア。よく似合っているよ。次来る時は首飾りを持って来ようか。赤い色が良いな。あなたの白い肌に似合う赤だ。約束するよ。ルチア」
そう言ったギルバーヂアは飛び去った。妃は天窓からギルバーヂアを見送った。見えぬ眼で明るい空を駆ける姿を見送った。舌のない口を大きく開け発する声も無く見送った。肉の削げた手足を投げ出し、割いた腹から臓物を長く床に垂らしたまま、身動きもせずにいた。塔の天窓から城下に身体を向いたまま、ただ一人でそこにいた。
この年から、風の民は新しい仕来りに従った。
山上の尾根に神殿を作った。”月の神殿“
毎年、月祭りの夜に娘達が月の神殿へと向かった。
国の安息を願う籠もりのために、城内の奥でひっそりと育てられた娘達が山上に立つ白い神殿へと向う。
毎月、贖い人が北の塔に向かった。満月の夜に最後の晩餐を家族と過ごした女が国の贖いのために罪人の形で塔へ向かった。
この仕来りはこの後、何百年も千年の時をおいても続き、風の民族に苦渋の涙を流させた。
******
ギルバーヂアは爪を研ぐ。瀑布の飛沫を浴びながら手爪を、四本の爪を磨き満足気に眺め指を返す。また四本の手爪を研ぎ、足爪を研いだ。八本の足爪が研ぎ終わると夜の闇が風穴を包んでいた。今宵は空に月は無い。星影が降り注ぐ見事な夜空が広がっていた。
ギルバーヂアは顔の前に持ってきた手を止めた。その手が唇を確かめた。そこに嘴は無い。鳥族が持つ突き出た嘴が無かった。
ギルバーヂアは突き出た目玉を一周ぐるりと回して考えた。八本の手爪を見詰めて考えた。八本の足爪を見詰めて考えた。
横に転がる白い卵を見つめながら考えた。
今宵ルチアの産んだ二個目の卵が孵る日だ。だが卵は変化を伝えない。静かにそこに転がっているだけだ。
何故、卵は変化を見せないのだと、ギルバーヂアは卵に爪を立てた。ルチアの雛は死んだりしないと、早く殻を割れと卵を促すようにトントンと爪を立てた。すると中から音が返ってきた。トントンと低い音が返ってきた。ギルバーヂアは動かない卵をジッと見た。
突然、腹の奥で何かが動いた、そんな気配を感じた。音だ。音が鳴った。腹に収まった異物が、鳴り響く音をたてた。
澄み切った音が木霊する胸を押さえたギルバーヂアはハッとした。そして自身の唇を押さえた。ポッテリと分厚い醜いと思う唇がある。ゆっくりと唇を撫でた掌は卵を持った。鋭い爪は殻を突いた。穴が開いた卵は掌で確かに呼吸する震えを感じさせた。更に爪は殻を突いた。
卵はひび割れた。中には卵と同じ色の雛がいた。身動き取れない狭い空間に押し込められていた雛はやっと外へ出られたと足で殻を蹴った。殻の半分はギルバーヂアの掌から落ちた。残った殻に身を持たせる雛は、頭を大きく振って顔を上に向けた。丸く突き出た眼球を覆う分厚い瞼の間に、小さく突き出た鼻があった。横に真っ直ぐ避けたような口があった。その口は細く折れそうな長い腕を伸ばして鳴いた。細長い舌をヒュルヒュルと伸ばし口が割けんばかりに大きく開いて鳴いた。
そこにいるのは、白い真綿に包まれた雛だ。その顔を見たギルバーヂアは自身の唇を押さえた。
それはしばらくの間をおいて笑い声になった。
我が子を両手で高く差し上げたギルバーヂアは声高に笑った。肩翼を広げ種族の男鳥達の前で堂々と立った嘴のない雄種鳥は岩屋に響く笑い声を上げた。
ギルバーヂアは爪を研ぐ。
無心で爪を研ぐ。
その眼は手爪を眺めた。四本指の爪を見詰めた。その顔は眼を細め、唇を歪めて微笑んだ。鋭い爪先を確かめ手を返しながら、更に爪を研ぎ続けた。八本の手の爪を研ぎ終えると、次は足の爪だ。指で掴んだ砥石をゆっくり動かしながら足爪を研いでいく。
一本一本丁寧に研いでいく。
そして彼は、今日も爪を研ぐ。瀑布の飛沫を受け風穴の岩棚に座り込み、魅入られたように長く鋭く尖った黄色い四本爪を研ぐ。
月の巫女 月の涙 完
月の巫女 Ⅲ 月の涙 終章 風の民