吹雪となれば 第三章

吹雪となれば 第三章

時代ファンタジー小説です。
諸研究論説を参考にしたフィクションです。
よろしければお楽しみください。

風と影

第三章  風と影

命を
秤にのせる
手は
ふるえて
風さえ重い       

       一

 天正元(1573)年、織田信長は、反信長勢力を恃(たの)み、自らに刃向った室町幕府十五代将軍・足利義昭を京より追放し、事実上、室町幕府を終焉するに至らしめた。
 そして時は過ぎ、天正三(1575)年、皐月の二十一日、世に名高い長篠合戦の総決戦が行われた。
 武田信玄の死を確信したのちの信長の動きは素早く、鉄砲隊をそろえ、空堀を回らすなどの合戦の下準備は着々と行われた。
 二十一日の早朝には織田・徳川の連合軍は設楽(したらが)原馬防柵の中に陣を構え、ついに東方に座す武田軍と対峙するに至った。
 合戦に先駆けた、武田方鳶(とび)ヶ巣山砦の急襲には、嵐も連合軍方として参加した。
 鳶ヶ巣山砦は、武田軍による長篠城包囲網の中で重要な一画を担っていた為である。
嵐は予め砦衆の中に紛れ込み、連合軍の急襲にあたっては彼らを迎え入れ、混乱に陥る敵兵を忍びとして鍛えた体技で圧倒しこれを斬った。忍びの本分、とも言える働きであった。
 嵐は跳躍の一飛びで相対する敵の真後ろをとり、腰刀で斬り伏せる。身体を素早く旋回させ、群がる敵を効率よく刃の露と化した。重い甲冑に身を固めた武者はとりわけ嵐には格好の標的であり、上段から蹴り下ろした嵐の足が兜を直撃すると、あっけなく重い装束を纏った身体が吹き飛んだ。そこで手早く首を掻き切り止めを刺す。何よりも手際の良さが重要となるのが、こうした混戦時の決まりであった。その内には飛び散る血と、肉塊が視界の多くを覆うようになった。
 その後、連合軍の陣に一旦戻り、戦場と化した長篠の地の、まさに入り乱れんとする兵乱を見渡せる樹上に身を置いた。
 砦の急襲における働きのみでも傍目には十分と見えたが、嵐は決戦においても自ら参加するつもりでいた。
(血の匂い、相も変わらずやな)
 加えて風が運ぶ硝煙の匂い。
 樹上に悠然と構える嵐は目を閉じた。深々と息を吸う。
 自分が生きている、と感じる身の内の熱いざわめき。生と死の狭間でのみ味わえる己の中の静かな極限状態は、嵐にとって好ましいものであった。
 とは言え、油断すれば忽(たちま)ちにして死が自分に近付いてくることは重々承知していた。
 決戦に先立ち、嵐は烏帽子狩衣の姿で御籤(みくじ)をひき、この合戦の吉凶を判じる、という陰陽師としての役割も果たしていた。事前に信長から指図された通り、御籤の結果に関わらず「この戦、勝利する」と断言した。事実、御籤にも同様の結果が出ていたのであるが、たとえ結果が凶と出たとしても、吉と答える。それは士気を上げ、兵たちの意志統一を図る為には必要な手順だった。
(まだ死ぬ訳にもいかんしな)
 その思いは若雪が姿を消してから常に嵐の胸にあった。
 連合軍に参加する武将の中には嵐に胡乱(うろん)な目を向け、「足利学校を出てもいない、出自の不明な若造を陰陽師として陣中に置くのはいかがなものか」と言う者もあった。
 当時、下野の足利学校は占筮(せんせい)術の為の易学を教え、その術を習得した者は、遠くは中国の小早川隆景、九州の鍋島直茂などに代表されるような、名のある武将に望まれその下に仕えていた。それだけ名の知られた、陰陽師を育成する為のような教育機関であったのだ。
 しかし信長はその声を一笑し、「陰陽師と忍びの二役をこなす嵐の代わりが、そなたに務まると言うならばいつでも嵐を任から解こうぞ」と言ってのけ、件の武将を沈黙させた。
(さて、ぼちぼちかな)
 片膝を立て、残る片方の足を樹上より垂らしてぶらぶら揺らしながら、合戦場に介入する頃合いを見計らっていた嵐は、持っていた干し柿を一口噛み千切り、飲み下した。
「黄王丸、赤王丸、青王丸」
 その声に現われた三頭の犬の式神に嵐は命を下した。式神はこれで打ち止めだ。
「武田の騎馬の足元を掻き回したれ。名門の武者ども、大慌てやぞ。目にもの見せたれ」
 三頭が速やかに武田騎馬隊のもとへ駆け去ったのち、嵐は残りの干し柿を食べ終えた。
 まだ銘の無い腰刀を手に立ち上がるとそのまま樹下へと飛び降り、敵味方入り乱れる戦の渦中へと、軽やかに身を投じた。

「小野次郎清晴が生きておる?」
天正四(1576)年も秋に差しかかろうとするころ、出雲大社での勤めを終えた山田正邦を待っていたのは凶報とも言える知らせであった。白衣浅葱色の袴から平服に着替えた正邦は、その受け入れがたい報告をもたらした水野を睨み据えた。
「五年前に生き延びたは娘だけではなかったのか」
「…その筈でございました」
「何かの間違いではないのか。今となっては小野家の人間の顔を知る者も限られておろう」
「某も当初それを耳に致しました折は、見間違いであろうと思いました。あれから五年近くも経た今となってそのような話を聞くとは面妖なこと。…ですがこの目で確認しましてございます。確かにあれは小野家の次男、清晴の顔でありました」
 平伏して答える水野の声は低い。
 あってはならぬこと、と認識しつつ主にそれを告げざるを得ない事実が、水野の心持を重く、苦いものにしていた。
「―――弑(しい)した筈じゃ」
「は……」
 神官の口から出るには禍々しい言葉に、水野は他に答える術が無い。
「なぜ生きておる」
「――――解りませぬ」
「いや――、いや、万一生きていたとして、なぜ今になって姿を見せた」
 更に頭を低くして答える。
「――――――解りませぬ」
「何もかもわからぬで済むか!!」
 正邦はカッとなって手にしていた扇を激昂のまま投げつけた。それは水野の頭を直撃し、力なく床に落ちた。
「―――仔細を調べよ。お主の申すことが真実その通りであれば、……清晴には今一度、黄泉路を辿ってもらわねばならんのじゃ」
「承知仕りました」
 正邦の眼には最早水野は映っていない。
(もしや、私を討つためにこれまで雌伏していたのではあるまいな)
 恐怖からくる疑念が正邦の中で鎌首をもたげた。清晴が生きていれば二十歳。小野家の子息達は皆文武に秀でた者として将来を嘱望されていた。その一人が胸に恨みを抱え、力を蓄えて今に至るのなら―――。思わず目の前が暗くなった。
(殺される)
 身を震わせて正邦は思った。この上は、何がどうあっても小野清晴の死骸を自らの眼で確認しなければならない。その瞬間を迎えるまで、自分が安らいで朝を迎える日は来ないだろう。
(幸(さき)魂(みたま) 奇(くし)魂(みたま) 守り給へ 幸(さきは)へ給へ―――我を守り給へ)
 出雲大社が祀る大国主神とその他の神々に、追いつめられた思いで正邦は祈念した。

 同じころ――――――――――。
石見邑智(おおち)郡、江ノ川支流に挟まれた山城、小笠原氏の居城であった温湯(ぬくゆ)城が毛利氏によって開城されたのち、城下町の武家屋敷に並びひっそりと小笠原元枝(もとえだ)が住まう館があった。
父は小笠原長雄(ながたか)、その跡目は病弱な兄、長旌(ながはた)が継いでいる。
(親父どのはよく毛利に抗された)
 居城であった温湯城を開城し、のち亡くなるまでひっそりと甘南備(かんなび)の寺に隠居した父に対し、元枝はそう思っている。
 銀山の領有権に関する争いは絶えること無く、小笠原氏は最も鉱山経営に近い位置にいた為に戦塵に紛れることを余儀無くされた。今や毛利に頭を押さえられる状態に至るも、時流ゆえの詮無きことと元枝は考えている。
(それに)
 元亀三(1572)年、三方ヶ原の戦で武田信玄が徳川家康を破ったその年の初めに、元枝のもとを珍客が訪れていた。
 訳あって三年をとうに過ぎた今になっても尚、滞在している。
 彼らのことを家の者や周囲には、戦で国を追われた若い小領主とその家臣、ということにしてある。素性が知れると些か問題がある為だ。当初の滞在予定は三年であったが、何か動けぬ事情が出来たらしく、未だ元枝の館に逗留している。
(最近頻繁に出雲のほうへ出向いておるのが不可解と言えば不可解)
 そう思っていたところに、件の客人が出先から帰ったようで、蹄の音と共に馬のいななく声が聴こえた。
 元枝はそれまで座っていた広縁から腰を上げ、草履を履くと玄関を経由せず、身軽に庭を迂回して直接門まで出向いた。客人の武芸の腕は心得ている。間違いはあるまいと思うものの、数日留守にされるとそれなりに身が案じられた。
 門の傍に植わった松の木の横、縹(はなだ)色の上衣に濃紺の袴を穿いた、すらりとした立ち姿も涼やかな若武者が馬の轡(くつわ)を引いていた。こちらに気づいた若者の、凛とした瞳が元枝を捉える。
「戻られたか―――若雪どの」
「ただ今帰りました。元枝どの、清晴とお呼びください」
 若雪の静かな指摘に元枝は笑った。相変わらず表情が変わらない。愛想が無いとさえ言えるこの相手が、意外な程情濃やかな気質であることは数年の付き合いで学んでいる。
「そうであったな。しかしせっかくの美しい名を、伏せておられるのは勿体無きこと。――――その仔細を伺うは、未だに無理か?」
 若雪の身を案じてばかりの問いではない。彼女の行動如何によっては、戦乱をくぐり抜け今は辛うじて小康状態にある小笠原家に、累が及ぶ可能性もあるのだ。その可能性を暗に示唆しての言葉だった。三男坊の元枝とて小笠原の名に連なる人間として、最低限譲れない一線はあった。
それを蔑ろに出来る若雪でもない。しばしの沈黙ののちに答えた。
「……そうですね。私も、そろそろ事の次第をご説明する頃合いかと考えていました。座敷にてお待ちいただけますか。馬が疲れているので、先に労ってやりたく存じます」
「承知した」
 元枝は笑って快諾したが、本来ならば滞在先の主より馬の世話を優先するなど礼を失する話だ。
 若雪は馬の世話をすることで、自分の気持ちを落ち着かせ、元枝に話す内容の段取りを頭の中で組み立てて置きたかったのだ。若雪が語ろうとするのは、簡単に説明のつく内容の話ではなかった。
 軽い自己嫌悪に陥りながら、若雪は館の広い庭のほぼ中央に位置する井戸まで歩き、釣瓶を落とし水を汲み上げた。
 宗久がつけてくれた護衛十名は、今、若雪の立つ場所からも見える庭の離れに起居している。彼らが宗久に対する忠誠心は厚く、若雪の言にも速やかに従い動いてくれる。その立ち居振る舞いから、元は武士であったかと思われた。宗久から余程厳命を受けたのか、彼らは常に若雪を危険から遠ざけることを第一義として動いた。同時に若雪が下した判断には、若干の危険性があってもそれを妨げることはなかった。忠実に柔軟に、彼らは若雪を警護した。果たして宗久はどのようにして彼らのような者の忠誠心を得たのだろう、と若雪は共に行動したこの数年の間にしばしば考えた。
 水の入った桶を手に、若雪は空を仰いだ。
 庭に植えられた楓が美しく紅葉しつつある。今は城として機能していないとされる温湯城のあたりも、間もなく黄と紅の綾織り模様の衣で彩られるだろう。
(人は移ろうものだが、花や木はそうそう在り様を変えるものではないな)
 ―――――宗久に告げた期限の三年はとうに過ぎている。
過ぎざるを得ない事情があった。
(嵐どのはどうしているだろう)
 宗久からの便りによると、去る長篠の合戦では、武田の騎馬隊を相手に大層な活躍をした、とあった。その働きぶりには、信長も満足すること頻りであったと言う。
(雪の朝を、今でも覚えておいでだろうか)
 あの雪降る朝、最後に自分が口にした言葉の意味に彼は気付いただろうか。気付かなくても構わない、と思いながらも、尚、言わずにいられなかった。嵐ならば察してくれるのではないか、という期待があったことも確かだ。――――賭けだったのだ。しかし三年を経ても嵐が来る気配さえ無いということは、自分は賭けに敗れたのだろう。落胆しないと言えば嘘になるが、もとより勝てる見込みの少ない賭けであったのだ。そう思えば諦めがつかないこともない。果たしてこの先自分が堺に戻ることはあるのだろうか、という心許ない思いもあった。
(未練だな…)
 口の端に苦い笑みが浮かぶ。
 大切な家族と思えばこそ、嵐を追い詰めることを恐れて堺を離れる決意をしたのに、やっと得た居場所を完全に諦めることが出来かねて、謎をかけるような真似をした。自分がした賭けが、勝手な独り相撲であることを若雪は自覚していた。
それにしても、ここ三月程は宗久の元へと送った文への返信も無い、というのが気になる。こちらの様相を堺に知らせるにあたり、宗久のつけてくれた護衛を使うこともあれば、元枝に託すこともあった。元枝を信の置ける人物と恃んでのことだ。最近は護衛の者をあまり手放すことのできない状況が出来した為、元枝に文を預けることが専らだった。
しかし、堺よりの音沙汰が途絶えた。
(変事が起きた訳でも無ければ良いのだが…)
 若雪が汲み上げた水を厩に運ぼうとした時、館を囲む土塀の向こう、蹄の音が次第に近付いて来たかと思うと、少しの間を置いて玄関先で呼ばわる若い男の声が聞こえた。
「もし、お頼み申す。ここは小笠原元枝どのの御在所と聞く。誰ぞお取次ぎ願いたい」
 この館に客人とは珍しい。そう思うと同時に若雪の胸にいくばくかの警戒の念が沸き起こる。自分の存在はなるべく知られないほうが良い。―――特に今は。
 水桶を置き、そろりと館の奥へ遠ざかろうとしていた若雪の耳に、次なる声が響いた。
「私は、和泉は堺の町から来た者だ。人を捜している!」
「――――――――――」
(まさか)
 若雪は思いついた可能性を確認するため門まで駆けた。足に当たった水桶から、地面に水がぶちまけられたのを気に留める余裕も無い。

 門に辿り着いた若雪の眼前を、木々の葉を舞い散らす程に強い突風が吹いた。
 手をかざし、目を細める。
 風に乗り、楓の赤く染まった葉と、まだ染まりきらぬ黄緑の葉が踊るように流れて行った。
 その、向こう。
 数年前よりもずっと上背が伸びていた。加えて、引き締まったやや細身の体躯。
 そして何より、気性の厳しさに似合わぬ優しげな面立ちの中、意志の強さを物語る一対の眼がこちらを向いている。
遠い雪の朝に置いて来た面影が、目の前にあった。
その顔が、今、驚きの表情を浮かべ若雪を凝視していた。
「………若雪、どの?」
(嵐どの。―――――声が、低くなった)
 三年前より。だから最初の一声ですぐにそれとは気付けなかった。
 それだけの時間が、会わなかった間に流れたのだ。十七歳となった嵐は、上背も備え、伸びやかさと頼もしさを感じさせる若々しい青年となっていた。
(もう三郎と見間違うことも無い…)
 大人びて利発で、負けん気の強かったあの童は、今はもうどこにもいないのだ。ほんの少しの淋しさが若雪の胸をよぎった。
 嵐は男装の若雪に戸惑うように目を見開いたままだ。次の言葉を言いあぐねるように口を開いているが、続く言葉は一向に出て来る気配が無い。彼の後ろにはここまで乗って来たと思しき馬が控えている。
 そういえば以前より嵐は騎馬の巧者だった。そんなことを若雪は思い出していた。
 自分でも驚くほど強い感慨に、込み上げてくる涙をこらえて若雪は言葉を絞り出した。
「嵐どの。大きく…………、なられましたね」
 その言葉に嵐は再び目を見張った。そのまま何も言わずに暫く押し黙ると、がくり、と頭(こうべ)を垂れ肩を落とした。
 若雪が、どうしたのだろう、という顔でこちらを見ている。
思ったことは一つ。
(他に言い様は無いんか)
 それに尽きた。
 確かに、三年以上の月日で嵐の背は六尺には二寸程及ばない、というまでに伸びた。
 しかし。
(四年近くも会わんで、その挙句の再会の言葉がそれか――…?婆さんが久しぶりに孫に会うたんとちゃうねんぞ)
 嵐の身体を旅の疲れとはまた違った虚脱感が襲った。
(…忘れてたわ。こういう、ちょっとずれたとこのある女やったな)
 それに際して伴う疲労感も、懐かしいと言えば懐かしい。
 ここに至る道中での想像の中、若雪に、なぜ来たのか、という反応を示されることを嵐は最も恐れていた。若雪が自分を、最早無縁の人間、という目で見たらどうしようとも思っていた。それらの恐れが消えただけでも、今は良しとしなければならないのだろう。
 そのとき屋内から、笑いを堪えきれない、といった様子の元枝が出てきた。さては若雪の発言の直後に聴こえた、噴き出すような音の主はこの男だったかと嵐は不機嫌な顔で元枝を見る。彼は笑いを噛み殺そうと努めているようだった。両手を上げて言う。
「すまぬ、せっかくの再会の邪魔をしたな。そうか、若雪どのの待ち人は貴殿であったか。いや、良かった良かった。よくぞ来てくれた。これで小細工を弄した甲斐があったというもの」
「―――――小細工?」
 若雪と嵐が異口同音に問うた。若雪は常と変らぬ面持で、嵐は眉間に皺を寄せている。
 それに対して元枝が多少焦った様子で、いやいやと手を振った。
「大したことはしておらん。それより馬は家人に預けて中へ入られよ。若雪どのが未だここに留まっておられる理由とやらを、貴殿も聞くであろう?」
 若雪は元枝を見た。嵐には聞かせるつもりの無かった話だ。そもそもは自分一人の胸に収めたいとも思っていたのだが、元枝は無論のこと、このように聞いた嵐が聞かずに済ませる筈も無い。案の定、嵐は「聞き逃すつもりは無いぞ」、という顔で若雪を見ている。
 若雪は苦笑した。
自分を怒ったような顔で見据える、そんな表情も含め、嵐の何もかもが懐かしかった。

       二

運ばれてきた湯で有り難く足を拭い、嵐は人心地ついた。それから招かれるままに奥の座敷に身を落ち着け、改めて嵐は元枝に自らの素性を明かして名乗った。そののちは話を聞くべく、自然と、元枝と嵐の視線は若雪に向けられた。
元枝は家人に茶を運ばせ、その際に人払いをするようきつく命じた。
それから若雪が語ったのは、以下のような内容だった。

元亀三(1572)年、堺を出た若雪は淀川を経由して山城に至り、丹波を抜け山陰の諸国を経て出雲、更には石見に辿り着いた。淀川の利用に際しては宗久が過書船の通行権を信長より安堵されていた為に滞り無く船の旅が進んだ。この出雲石見へ出向く旅の際に想定される危険を、少しでも軽減する為と動きやすさを考慮して、若雪は旅の始めから男装で通すことを決めていた。乞食に扮した嵐を見ての発想だった。まさかそれが、思いもよらない展開を招くことになろうとは、予測出来る筈も無かった。
先に通過した出雲は石見の隣国ということもあり、石見銀山とは少なからぬ繋がりがあった。
毛利、尼子といった有力な戦国大名のみならず、佐波(さわ)、福屋、口羽(くちば)ら地方領主に加えて出雲大社国造家とその下に居並ぶ神官たちにとってさえ、石見銀山の利権は得難い好餌(こうじ)であったのだ。
石見銀を得る為に、その取引相手とするには誰が最も相応しいか――――。御師として近隣の国を両親と共に巡り歩いた経験を持つ若雪は、その中で培われた人脈を駆使し、慎重に人選を進めた。その作業は、実は堺にいたころから文や人づてに密かに行われていたものだった。結果、石見国地方領主の中でもとりわけ銀山の近くに位置し、兼ねてよりの面識もあった小笠原家当主の弟・元枝に交渉を持ちかけた。
敗戦の将とはいえ、銀山で直接の労働に携わる者にとって、小笠原の名がもたらす影響がいまだ少なくないことを見越してのことだった。
小笠原の名を使い、毛利の目を盗んで銀を買い取りたいと申し出た。見返りは今井宗久の有する潤沢な諸物資であり、その中には甲冑に加え鉄砲火薬も入っていた。
危険な綱渡りをしている自覚は若雪にもあった。
元枝が話に乗らなければ、交渉の時点で命を奪われる可能性もあったのだ。
しかし元枝はこれを受け容れ、若雪を知己として、また今井宗久の代理として厚遇した。
若雪は国を追われた若き小領主が小笠原を頼り身を寄せている、という体を装い、元枝の館に滞在の間、必要な情報収集を行いながら銀を堺まで運搬する地固めに努めた。
信長が中国地方を構う余裕の無い状況下では、それが宗久にとって石見銀を得る唯一の方法であるというのが若雪の考えだった。
かくして定まった方針ののち、山陰を飛び回る若雪が異変を察知したのは、元枝の館に身を寄せて半年程が経ったころであった。
出雲大社の膝元、商工業者の賑わう杵築で職人の波に紛れ、石見銀に関わる大社神官の動向を探っていた若雪はいつしか自分を見張るような目があることに気付いた。
最初は自分の動きを毛利や出雲大社の人間に不審と勘付かれたか、と考えたがどうもそのような気配ではない。
加えて聞き逃せない話を耳にした。
元亀二(1571)年に殺害された神官の有していた御師職の権利が、三年を経たのちには他家に移るというものだった。
元亀二年、時の国造両家は神官でも上位の本近習を務めていた一家が殺害される、という極めて遺憾な事態を憂い、また奪われた命の安らかに眠らんことを願い、三年をその喪に服す期間として設けた。その間は亡くなった小野家の有していた御師の職権を停止することも定めた。三年の喪が明けたのちは改めて御師職並びに室(むろ)を与える他家を選ぶ、と。
話を耳にした若雪に衝撃が奔った。
小野家の有していた御師職と室は、その縁戚に移ったものとばかり思っていたのだ。
大社に参詣する人間の宿泊施設は御供宿(ごくうやど)と呼ばれ、その経営権は室(むろ)と呼ばれた。
室の定数は尼子氏がまだ杵築において権勢盛んだったころにその数が決められた。十六という数は今に置いても変わりない。
その為、嫡流が途絶えた室所有者の御師の家では、それが他家に流れることを防ぐべく、血縁に権利を譲渡することが通常であった。
それが、小野家に限っては室も御師職も、他家に移るという。
何者かの思惑が、不可解な状況の裏にある。
その話を聞いた若雪は思った。小野家の惨劇は、大社の政権争いのために起こったものではない―――――。
今になって知ったそれらの事柄と、小野家を襲った惨事に関連があるのなら、その惨事より三年ののち、新たに御師職を得る者がそのように仕向けたと考えるのが順当である。
杵築に彷徨(さまよ)う自分を、その人間が見たら果たしてどう思うか―――――。
(必ず動きがある筈)
 小野家の子供の中でも、若雪と次郎清晴はとりわけ顔立ちが似ているとよく言われた。
 もしも男装した自分を遠目に見たならば、顔を知る者は次郎と見紛うかもしれない。
 その殺害に関わった人間であれば恐怖するに違いない。
 新たに御師職を得たのが近習見習だった山田正邦と聞いたのち、若雪はあえてその在所近くに時折姿を現した。このまま小笠原家にいては元枝とその周囲の人間を巻き込む恐れがあった為、今日にでも居所を移りたい旨を元枝に言い出そうと考えていた。
 まさか嵐がこの段階で堺より来るとは思ってもいなかった。

 若雪から話を聞き終えた男二人はしばらく沈黙した。
 元枝がすっかり冷めた茶を、思い出したように一口啜(すす)った。
 嵐もまた考え込む顔つきで腕を組み黙っていたが、慎重な顔で口を開いた。
「――――そんで、ほんまにその山田何某(なにがし)が仇と知れたら、どうすんねや。討つんか?」
「……わかりません。山田殿があの凶行の首謀者だとすれば、何の為にことに及んだのか。また、なぜ御師職を持つ家の中でも小野家を選んだのか、それを知りたいのです」
 そしてその真相を知ったのち、更にどうするか――――。
 今の若雪にはまだ決めることは出来なかった。
 また、どんな弁解を山田が述べようと、私欲ゆえの凶行という可能性は極めて大きかった。
 家族の躯が閉じた瞼の裏に浮かぶ。三郎が息絶えた時の身体の重みを、今もこの手ははっきりと覚えている。
 嵐も、元より若雪に簡単に答えが出せるものとは思っていない。
 胸の内に苦渋を抱える若雪を横目に、元枝に尋ねた。
「弄した小細工とやらについて訊いてもええか」
 元枝は覚えていたか、と思い首をすくめて口を開いた。致し方無い、といった面持ちだ。
「ああ……。若雪どのがな、三年の間我が家に身を寄せられる内、どうやら堺からの迎えを待っておるらしいと知ったわけだが、どうにもその話が煮え切らん。来るやも知れず来ないやも知れず、という不明瞭な口振りであったのでな。その上三年がとうに過ぎた今となっても滞在を引き延ばしたいと言うてくる。まあ、それで、怒らんで欲しいのだが――――若雪どのよりここ三月ほど預かっていた堺への文を、私の手元で留めていたのだ。堺より、若雪どのへ安否を問う文も同様に。さすれば若雪どのの身を案じて、若雪どのの言うていた、来るか来ぬか判然とせぬ迎えの人間が堺より来るのではと思うてな」
 この告白に若雪も嵐も呆気にとられた表情になった。
 二人とも元枝の小細工のため、この三月の間に互いの身を案じて、随分と気を悩ませたのだ。
また、時期も悪かった。この年の文月には、木津川の戦において、信長軍が村上水軍により敗れた。時期を前後して堺より途絶えた文を、若雪がそれと関連付けて考えたとしても無理は無かった。もしや、嵐がその戦に参加しており命を落としたのでは、という可能性まで考えたのだ。
正確な情報が、何より得難く貴重だった時代である。元枝の行為は、〝小細工〟という可愛らしい言葉で形容される範疇を逸脱していた。
「……………」
若雪も嵐も、口を閉ざしている。直接には何も言わない。
しかしその沈黙は、当然のことながら元枝に対して優しいものではなかった。何より二人の瞳は雄弁に、元枝を責める色を宿していた。
 元枝は居心地悪そうに咳払いをする。
「迎えに来るのがどういう御仁かも気になってな。まあ、あれだ、積もる話もあるであろう。私はしばらく席を外すゆえ、存分に再会を味わわれよ」
 そそくさと元枝は円座から立ち上がり座敷を出て行った。
 座敷を出たところで、元枝は堺の風を運んできた若者について思った。
(出来るな――――しかも、相当の腕だ)
 幾多の修羅場をかいくぐってきた者特有の、引き締まった良い面構えをしている。
 堺の豪商・今井宗久の甥、ということだったが、身に纏う空気、身ごなしは武人のそれに近い。本人がどれほど隠そうとしても、どうしても滲み出るものはある。
 そしてそれを元枝は自らも武人であるゆえの性(さが)か、喜ばしく思っていた。
(一度立ち合うてみたいものよ)
 そう思った。
(逃げよった…)
 険のある表情で元枝を見送った嵐は一つ息を吐き、改めて正面に座す若雪を見た。
 道中、ずっと再会した時の若雪の容貌を思い描いていたが、男装は予想外だった。しかも意外によく似合っている。別れた十五の時から、嵐程ではないにせよ伸びた背は、元々細身の若雪の肢体をすらりと涼やかなものに見せていた。変わらない、色白の整った目鼻立ちに、頭の上部で結われた黒髪は艶やかだ。ただその長さは、男装している今となっては最後に見た時よりも随分短くなってしまっている。それはいかにも惜しかった。今は十九の歳を数えた若雪の容貌は、以前より尚、冴え冴えとした美しさを湛えたものとなっていた。
男でも女でも寄って来そうだ、という危惧を俄かに覚え、いらぬことを訊いた。
「元枝どのには御妻女がおるんか?」
「いらっしゃいます。御子も」
 話の筋を掴みかねた若雪が不思議そうに答えた。
(ちゃう。こんな話やのうて)
 嵐はずっと考えていた。次に若雪に会った時、何を話せば良いのか。元来、嵐は気が長いほうではない。若雪が消えて暫くは、次に会えば「このど阿呆!」と怒鳴りつけてしまうかもしれない、とも思っていた。それを自制するだけの自信も無かった。
しかし、過ぎ行く時が次第に嵐の心を鎮め、穏やかな再会の言葉を探させるようになった。けれど、再会に至っての滑らかな言葉が思い浮かばないまま、今に至ってしまった。ただ、今度こそ間違えないように言わなくてはいけない、と思ったことが一つだけはあった。その言葉一つを胸に、嵐はこの場に臨んでいた。
「…若雪どの」
「はい」
 若雪は変わらぬ双眸で嵐を見ている。静かな湖面を思わせるその眼を、ひどく懐かしいと感じた。その目を真っ直ぐ覗き込むようにして告げる。
「あんたを迎えに来た。もう、俺は大丈夫やから。……一緒に堺に帰ろ」
 長い時間をかけて考え、唯一思いついたのは、結局この至極単純な言葉だけだった。何を置いてもまず、自分は大丈夫だと伝えて若雪を安心させる必要がある、と嵐は強く意気込んでいた。若雪が今後どう動こうと、焦り追いつめられるばかりの童ではもうないのだと、それだけは若雪に伝えなければならない。そう、思っていたのだ。若雪が堺を離れたそもそもの端緒は、嵐を案じる思いにあったのだろうから。
「――――私は、…嵐どのの為に堺を離れたのではありません。私の為に傷つく嵐どのに憎まれるのが怖くて、私は自分が傷つきたくなくて、それで自分の為に逃げたのです。家族を再び傷つけ、疎ましいと思われることが、何より耐え難かったのです」
 嵐の言葉に目を見開いた若雪が、拳を握り、俯いて板張りの床に目を落とし、答えた。
「…いや、若雪どのは俺の為に逃げたんや。まだ童やった俺の心を、守ろうとしてくれたんやないか。それで俺の心が追い付くまで、三年、待っててくれたんや。あんた、勘定が上手いな。丁度ええ具合に、追い付いた思うで」
 嵐が軽口を叩きながら笑った。
「言うたやろう、俺はもう大丈夫や。傷つかん。若雪どのが怖がることも、もう何も無いんや」
 嵐は小動物を怯えさせないような心持で、慎重に慎重を重ねて言葉を紡いだ。かつて女性に対し、これ程必死になって言葉を尽くしたことは無かった。嵐にとっては、常には有り得べからざる、思い切った言葉の大盤振る舞いだった。
口調もまた、壊れ物をそっと抱え上げるようなものになっていた。
 若雪が目を上げて嵐を見た。縋(すが)るような色が、確かにその目にはあった。嵐はここぞとばかりに畳みかけるように言った。
「戻って来てくれんか?叔父上も、志野も、…兼久どのも待っとる。あんたの家族があんたを待ってんねや。智真も心配してた。あいつも今では明慶寺の侍者(じしゃ)を務めとる」
 侍者は、禅宗においては雑用もこなす僧侶の弟子である。僧階としては喝食(かつしき)、沙弥(しゃみ)の上に位置した。
 この嵐の説得を、若雪は無表情で聴いているように見えた。だがその内心は、確かに揺り動かされているものと、嵐には容易に推測出来た。
「今はまだ―――――、ここを動く訳には参りません」
 固い声音で言う若雪の、何がそう言わしめるのかは明らかだ。
 嵐は間髪入れずに言った。
「仇の件なら、俺も手伝う」
「なりません。そのようなつもりでお話しした訳ではありません。…これは私の問題…、私事ですので」
 対する若雪の応えも早かった。懐かしいような頑なさを孕んだ言い様だった。
 強い言葉で断じる若雪を、嵐はじっと見つめながら言った。
「……壁を作って俺の安全を確保した思て、若雪どのは満足かもしれんけど、そないして締め出されたもんの気持ちがわかるか?一人で我慢するより素直に泣きつかれたほうが、周りのもんとしては救われるで」
 その言葉に若雪は面を上げた。
 嵐はあえて、かつて堺の明慶寺で若雪に言った言葉と同じことを告げている。
 その意図を察してふ、と若雪は笑んだ。
「――――――私は変わっていないのですね」
「せやな。まあ、これから変わればええんちゃう?」
 努めて軽く言った嵐に、目を閉じて若雪は深く息を吐いた。柔らかな吐息だった。嵐が重ねた言葉を受けて、心なし、肩に生じていた力みが軽くなったように若雪は感じていた。
(全てが終われば、堺に、帰れる――――…?)
 もう二度と戻らないかもしれないと思っていた、あの優しい居場所へ。
 信じがたい思いと共に、若雪の心底からほっとするような喜びが湧いた。
(私にもまだ、帰るところがあった)
 初めて堺を訪れた時、若雪はその町の活気と、自由を謳歌する在り様に目を見張った。
 荘厳な禅宗寺院と南蛮の教会が共存し、様々な人々が流れ込み蠢(うごめ)くように賑やかな都市。
 南蛮人が闊歩し、活発な商売が繰り広げられる。
 まるで楽土のようだ、と思った。
 尤もその楽土は、何の代償も払わずに築き上げられたものではなかったが―――――。
「ああ、それからこれをな、志野から預かってきたで」
 そう言って嵐は懐から布の包みを取り出した。若雪が包みを開くと、そこに桜模様の彫り込まれた柘植の櫛が現われた。
「これは、志野に渡したものですが…」
「ああ、旅先で櫛が無かったら不便やろ。若雪どのに会うたら返すよう頼まれてたんや」
 若雪の指が柘植櫛の縁をそっとなぞった。仄かな笑みが唇に浮かぶ。
「それで持って来てくださったのですか。…ありがとうございます。……この櫛は、母様が生前使われていたのです。私が嫁ぐ時にくださる約束でした」
「………」
 それは今となってはもう、果たされることのなかった昔話だ。
「嵐どの」
「なんや」
「力を貸していただけますか」
「承知」
 小気味よくそう答えて、嵐はにっと笑った。そうして笑うと、まだ若干のあどけなさが感じられる。
(ああ…、嵐どのだ)
 若雪は改めてそう思った。胸が痛むような気持で。
 来てくれた―――――――――――。

(あの言い方で、正しかったんか?)
 小笠原家の家人に案内された部屋の中を、うろうろと行き来しながら嵐は自問自答した。
なにせ過去、数々の失敗を若雪に対してしでかしている。先ほどの自分の言動を反芻しながら嵐はその正否を判断しようと試みていた。若雪の反応を鑑みれば、少なくともあからさまな失敗はやらかしていない。あの能面のような無表情を、わずかながら笑みの形にも動かした。考えた末、嵐はひとまず自分に合格の判を下すことにした。
「――――黒王丸、白王丸」
 嵐の声に姿を現した巨躯の犬たちは、長年離れていた主との再会に尾を激しく振って身体をこすりつけてきた。長い期間、よく遠国で耐えてくれた彼らを嵐は労った。
「ようやったな、お前ら。ええ子や、ええ子や」
 思う様その身体を撫でてやる。彼らの健勝はすなわち若雪の健勝であったことを意味する。巨躯の犬の毛に顔を埋(うず)め、嵐は目を閉じた。ともかくも若雪の身は無事であったのだ。
(生きて、また会えたな)

       三

「ちちうえ―」
「おう、なんじゃ美知。父はこれから大事な話があるのじゃぞ?」
 そう言いながらも正邦は舌足らずな声に相好を崩して、廊下を頼りない足取りで走って来たまだ幼い愛娘を抱き上げた。
「すみませぬ、止めたのですが父上にお会いすると言って聞かず…」
 錦秋の意匠が施された朱色の打掛も艶やかに、妻の沙耶が困り顔で正邦に詫びた。
 次第に深まる秋の気配を、その打掛は物語っている。
「なに、大社に高名な連歌師の方が滞在してこのかた忙しゅうしておったからな。折角、御師の勤めから戻ったというに、なかなかゆっくりと美知の顔を見る暇も無かった。父を許せよ?のう?」
 正邦は抱き上げた娘の柔らかな頬を指で優しく突いた。きゃっきゃっ、と美知が甲高く笑う。その鈴を振るような笑い声は、正邦にとって何より愛しい声音だった。
「殿―――」
 水野が低く呼ばわった。
「うむ。ではな、美知。良い子にしておれよ。あまり母上を困らせるでないぞ」
 正邦の手から美知を抱き取った沙耶はどこか不安げでありながらも、心得た顔つきで部屋から退出した。廊下から衣擦れの音が聴こえなくなるのを待ち、正邦は水野の報告を聞いた。
「―――そうか、居所が知れたか」
「は、杵築の大工職や他の職人らが住まう一画の外れの家に、三年ほど前から住まう若者がいるそうです。小野清晴に相違無いかと」
 燭台に揺れる炎の脇。ひっそりと控えた水野の言葉に山田正邦は口元を緩めた。
 呑んでいる酒の味が、急に旨味を増した気がした。
「うむ、よし、よし、ひとまずは先んじることが出来たな。―――こたびの仕損じは、許されぬぞ」
「心得ております。見れば専ら単独にて行動している様子。浪人の十名、揃えましてございます」
「よし。今では清晴とてただの浪人よ。この時勢に浪人の惨殺体が一つ二つ転がったとて、国造様のお耳にも入るまい。じゃがくれぐれも、山田が仕業と気取られぬよう用心致せ」
「承知しております」
ぱちん、と扇を鳴らした正邦は、今宵は久々に良い夢が見られそうだ、と心も軽く思った。
(この件が片付いた暁には、より豪壮な邸を建てよう。ゆくゆくは美知を、国造家に嫁がせることも夢ではないやもしれぬ)
 小野家を討滅した折に奪った蓄財は、まだ十二分に残っていた。

 息を切らしながら男は夜の町を駆けていた。その背中も首も顔も、滝のような汗が流れている。
 ハア、ハア、という自分の荒い息の音が耳横に聴こえる。
(鬼が来る―――――)
 逃げなければ、捕らわれる。
 その剣で、一刀のもとに斬られる。
 既に仲間はその刃に喰われたのだ。
(信じられぬ)
 あの華奢な身体で。
 あの儚げな白い面で。
 振るう刃が、招く戦慄は。
(鬼が来る)
 しかしこんな時に限って、自分の足の動きがいつになく緩慢に思えるのはなぜだろう。
 必死に動かし地を蹴る足が、まるで水の中を掻くかのように頼りない。
 夜も更けたとは言え、杵築の町はいつになく静まりかえっている。
 なぜだろう。灯りが、一つも見えないのは。
それに―――――。
 それに、なんだかさっきからずっと同じ場所を巡っているような。
 夜道を駆け続けながら、次第に朦朧としてきた男の頭の中を、尼子家中として過ごした日々が去来した。
(晴久様…)
 男は尼子新宮党が壊滅するまで、山陰の戦国大名・尼子晴久に仕えていた。
 新宮党を壊滅・改変しようとした晴久の行動が正しかったのかどうか、今もって男には解らない。
(殿。晴久様。生きておいでであれば、儂とて及ばずながら馳せ参じ、必ずや尼子家再興の為に力を尽くしましたものを――――)
 鎖帷子も甲冑の重ささえ、主君・尼子晴久の為に戦う時においては、軽やかに感じたものだ。
 あの、晴れがましくも誇らしい栄光の日々。
 昔日の――――――輝き。
 今となっては。
 男の目から滂沱(ぼうだ)の涙があふれた。
 金で使われる、このような身に成り果ててまで醜態を晒し、生き延びている。
 一体自分は、どこで道を踏み誤ってしまったのだろう。
(晴久様……!)
 頭は回想に耽りながら、それでも今は当面の脅威から逃れるべく、死にもの狂いで走っていた男は、ドスン、と人にぶつかった。思わず尻餅をつく。
(人がいた―――――)
 ぶつかった衝撃より、男はそのことにまず安堵した。ぶつかった相手は闇に紛れるような深い紫紺の上衣と袴姿の、まだ若い青年だった。衝撃で尻餅をついた男に対して、青年は平然とした様子で立っている。
「えらいお急ぎですね。どないしはりました」
 優男の風情を湛えた顔が、関西訛りの言葉で尋ねた。
 やや細身の、優しげな顔立ちの相手は、かつて男が彼を戦場で見かけたならば、真っ先に太刀の餌食として狙い定めていそうな青年だった。
「鬼が、」
「鬼?」
 問い返す声は優しい。その声と、両袖にすがりつくようにして男は呻(うめ)いた。
「鬼が、来る―――――儂を喰らいに」
 その時、青年の帯びた腰刀がちらりと目に入ったが、彼の纏う空気が殺気の欠片も感じさせないものだったため、男に警戒の念が湧くことは無かった。
「………鬼ですか」
 青年は少し困ったような顔をして、笑みを形作ったままの唇で答えた。男の奇異な言を嘲笑うこともない。そのことに男はまた安堵した。
 自分は、逃げおおせたのかもしれない。
 男の気が緩みかけた時、青年が口を開いた。

それは簡単な仕事の筈だった。
杵築の町外れの家に住まう元神官家の郎党で、かつて無法を冒し、死を賜った筈の者に、再度死をもたらすこと。その際に、どのようにして生き延びたかを聞き出しておくこと。
 標的は腕が立つ、という話であったが攻める当方は総勢十名。しかもかつては近隣を治める諸将のもとで合戦をくぐり抜けた者たちだ。考える程に、標的である若者に哀れを覚えるような容易い任務であった。
 ともあれ、今や報酬さえ受けられるならば仕事の内容など選ぶものでもない。
 元々は職人が住まっていたという家は、武士の家とは異なり、玄関口が直接通りに面している。人目の減る夜を待ち、その玄関口と裏庭から通じる勝手口、その両方からきっかり五人ずつ家に押し入り、若者を挟撃する算段だった。
 狙いを定めた若者を見れば男にしては小柄で、薄明りのもと女と見紛うような端整で儚げな顔立ちをしていた。若者への同情で、刃を振るう己の腕が鈍るのでは、と男が一瞬危惧した程に。
 それが―――――――――――。

「巡り灯篭(めぐりどうろう)の術、言うんです」
「は?」
 青年が何を言ったのか理解できず、男は素っ頓狂な声を発した。
「同じところを、ぐるぐる回ってるように感じましたやろ。景色が一向に変わらんと思いませんでした?結界を、張っといたさかい」
 そう言うと青年はにっこり笑った。釣られて自分まで笑いそうになるような、屈託の無い笑みだった。
 あくまで優しく、噛んで含めるような、宥めるような口調で言って聞かせる青年の、言葉の意味が、男にはまるで理解出来ない―――理解したくない。
 まさか。
まさかこの青年は――――――。
「ああ、ほら」
 にこやかな表情のまま、青年が向けた視線の先を、反射的に追う。
「来ましたで。――――鬼」
 男はゆっくりと振り返った。
 そこには確かに、白い面に剣を下げた、鬼がいた。闇の中、密やかに佇んで。
 滝のようにかいた汗が、一瞬にして冷えるのを男は感じた。
 死ぬ程恐れた美しい顔がゆっくりと近づいてくる。
 紫紺の青年も整った容貌ではあるが、この藍色の上衣と袴に身を包んだ若武者に比べれば、まだはるかに人間味がある。
「あんた、鬼、言われてるで」
 救い手だと思った青年が、からかうような口調で若武者に声をかけた。
「構いません。似たようなものでしょう、その者にとっては。―――――こちらへ」
 ドン、と手荒く背中を押された男は、よろめきながら鬼と対峙する恰好となった。
 その鬼―――、若武者が手にした剣が滑らかに動いた。
 男は信じられない思いで鼻先に突きつけられた刃を凝視していた。
 その刃を振るい、やすやすと他の刺客を斬って捨てた若武者は、薄暗がりの中、驚く程端整な顔に悲しげな眼をしていた。間近に見て初めてそれと解る、その眼が映すものが、今から失わんとする自分の命への哀悼だと悟った時、男は恐怖で我を忘れた。
 殺すのは構わないが、殺されるのは嫌だ。
(化け物め)
 強い恐怖と嫌悪の念に男の顔がゆがむ。
 やはり初めに若武者に斬りかかった者が、俊敏という言葉では到底足りぬ身のこなしで袈裟懸けにあっさり屠られた時、逃げておけば良かったと後悔する。
 そして鬼は、ただ静かに語る。
「私の父は私に、人を苦しまずに死なせる術(すべ)と、生かしながら苦しませる術の二つを教えた。お前の返答如何によっては、私は後者の術を今ここで試しても良いと考えている」
(何を申すか)
 思って男はぞっとした。
 端整な顔をした若武者の、淡々とした声音からは何の虚勢も脅しも感じ取れないのだ。
 蕾が膨らめばもうすぐ花が咲く、とでも言わんばかりのあっさりした口調で、自分の対応次第で招かれる当然の現実を、ただありのままに告げている。男にはそうとしか思われなかった。
「――――何にでも答える。何が知りたい」
 最早体面も意地も、あったものではない。
「誰の命で私を襲った。何の為に?」
「水野とかいう、神官に仕える爺(じじい)の命だ。お前が昔無法を働いたが処罰し損ねたので、再度死を与えよ、という話であった」
 剣先をひたりと突きつけたまま若武者は目を細めた。
「…なぜ水野という名だと知れた。名乗ったわけでもあるまい」
「儂も馬鹿ではない。自分の雇い主の名前くらい探り出しておくものだ。…いざという時のために」
 ふっ、と若武者が吐息混じりに笑った。状況を忘れ男は一瞬その顔に見惚れる。
「なるほど。お前は賢明だ。……しかしその賢明なお前が、先ほどの話を心底真に受け、信じていたか?違うな。…話の真偽などどうでも良かったのだろう?報酬さえあれば。その剣を振るうのに、義も何もあったものではなかった、ということだな。―――これに懲りたら、次からはもう少し仕事を選ぶと良い」
 反論は不可能だった。相手は鬼だ。しかも刃の切っ先が喉仏に触れている今となっては、命を代償にせねば何を言うことも出来ない。その刃が、つと遠のく。
「もう良い、行け。戻って水野に告げるが良い。小野清晴が近く挨拶に出向くと言っていたと。もちろん私は、お前がそれを行うと信じている」
 最後の言葉は男への脅迫の止めだった。言葉に従わねば殺すも止む無し、という。少なくとも、男の耳にはそう響いた。
 まろぶように男は若雪から離れた。
 途端、不意に通常の杵築の町の夜景が男の視界に戻った。それは唐突な変化だった。何里も駆け抜けたような気がするのに、実際には襲撃をかけた家から僅かも離れていなかった。
 愕然とする男の耳に、確かに感じ取れる人のざわめき。やはり自分は今まで異界にいて、鬼と話していたのだ。そして今やっと人の世へ戻ったのだ、そう思った。
 そのまま男は再び、町中へと向かい逃げるように駆け出した。宗久配下の護衛の一人がその後を速やかに尾行(つけ)ていく。
 
術を解いた嵐は、襲撃現場となった屋内へと足を踏み入れた。
家の内をぐるりと見渡す。倒れ伏した刺客たち。だが死骸はただ一つ。他は皆息がある。しかしこれでは血の痕跡が多く残るだろうと嵐は思った。家の買い手は当分つくまい。そう思えば、予め家を買い取っておいたのは賢明な判断だった。
(これぞ銭の、正しい使い道やな。それにしても―――――)
 嵐は眉を顰め外に出た。
 若雪が、幾枚もの懐紙を使い、刀に付いた血脂を丹念に拭き取っているところだった。血をひどく忌むかのような、神経質とも思える手つきだ。拭い終わった刀は静かに鞘を滑り、小さくチン、と鳴った。
口元を引き締め厳しい空気を纏ったまま、男が去った方角を見つめる若雪の姿を、嵐は複雑な思いで眺めていた。
巡り灯篭の術は、術をかけられた対象者を常とは異なる空間に閉じ込め、その胸に仕舞い込まれた過去への思いを浮かび上がらせる。最も懐かしく、慕わしい日々を思い出した人間の口を、自然と軽くさせる作用も持つ。しかし自分の術が、果たしてどれ程必要であったか、嵐には今一つ測りかねた。術にかけた男は既に、十分若雪への恐怖で我を失っていた。その為に、嵐は自分の助力の必要性を疑問視せずにいられなかった。ただ一つ、最後に若雪が口にした「人を苦しませながら生かす」方法を、彼女は選べないだろうと思った。その際には自分がその役割を買って出るつもりでいた。運良くと言うべきか、若雪に気圧された刺客は問われるまま、拍子抜けする程素直に答えたので、嵐に出番は無かった。
 力を貸してくれという頼みは、嵐の為に口にしたのかもしれない。
 頼られたと安心させる為に。
(面白ない考えやけど)
 杵築に向かう嵐たちを送り出す元枝の目は、物言いたげだった。元枝はひょっとすると若雪の剣の腕前を承知していたのではないだろうか。あの目は、「若雪を頼む」というよりは「若雪の足手まといにはならないように頼む」というものだったのかもしれない。
―――――それは凄まじい剣技だった。まるで流麗な舞いのような。まるで静かに舞い降りる雪のような。
 幾多の戦場を駆け抜けた嵐にとって、剣と剣のぶつかり合いは常に賑々(にぎにぎ)しいものだった。鉄と鉄が打ち合い、飛び散る火花と衝撃音の競演。
 引き換え、若雪の剣はまるで異質だった。
 あれ程静かに剣を振るう者を、嵐は若雪の他には知らない。
若雪は剣戟の音をほとんど響かせること無く、どこまでも清かに静かに、居並ぶ刺客を
斬り伏せた。静かな雪が舞い降りた跡には敵が一人、二人と床に打ち伏し転がった。
 何より最初の一人を除いては誰一人死に至らしめず、動けぬ程度の傷を負わせている手際の良さが信じられない。若雪のことを鬼と怯えて逃げ出す刺客がいたのも、無理からぬことと思えた。
(殺したことより、殺さんかったことのが恐ろしいわ)
 それだけの技量を若雪が持っていたことのほうが。
 この計画を実行するにあたって、奪う命の数は最小限に留めたい、と若雪が口にした時嵐は理想論だと思った。並大抵の腕で望めることではない。殺さずに手傷のみを負わせ戦線離脱させる、という行為の困難さをひょっとして若雪は理解していないのではないかとも思った。
 それは間違いだった。事実を認識していなかったのは、嵐のほうだった。
 若雪の剣捌きは嵐に、かつて繋いだ掌の感触を思い起こさせた。そして戦慄を。
 嵐には越えられぬ一線を引いた先に、若雪は立っているようにも思えた。近くにいて尚、若雪が遠い、と思う感覚を嵐は久しぶりに味わった。
(やっぱり虎はどこまでも虎か)
 ただ彼女の額にうっすら浮かんでいた汗が、辛うじて人間味を思わせ、嵐の心に僅かな安堵をもたらした。
 視線を感じて顔を上げると、若雪がこちらを見ていた。傷ついた眼差しだった。
 その為、嵐は自分の思いが表情に出ていたと知った。
 同時に若雪の目は嵐に問いかけているようでもあった。
 これが私です、あなたはどのように思いますか、と―――――。
 嵐は何も言わず、目を細めて若雪を見返した。
 二人の間を冷たい一陣の風が吹いた。

 翌日の夕刻、若雪と嵐は護衛の人間を引き連れて元枝の館に帰還した。
「戻られました!」
 侍女の声を聞きつけた元枝は緩い笑みを浮かべ若雪らを出迎えた。
「よく戻られた。まずは無事で何より」
(何かあったな)
 声をかける元枝は若雪の顔色を見てそう感じた。
「刺客は水野と申す者の命だ、と話しました。水野は山田どのに仕える古参の家臣です。小野家の排斥を目論んだのは、山田どのと見て間違い無いでしょう」
 若雪は首尾を尋ねた元枝に、それだけを告げて部屋に引き揚げた。
 元枝は嵐を見た。
 追及するような視線を避け、嵐はふいと目を逸らした。
その夜遅く、元枝は家人に酒肴の支度を調えさせて嵐を座敷に招いた。若雪は夕刻以降姿を見せない。
「一献、参られよ」
 手ずから瓶子を掲げた元枝に、嵐は黙ったまま盃を差し出した。それを不作法と咎めることなく元枝は酒を注いだ。酒はこの時代に多い濁酒ではなく、高価な清酒だ。豪気なことだ、と嵐は思う。丁重に遇されていると感じた。
嵐の立場は宗久の甥とだけ説明してあったが、元枝は嵐を客分として扱った。元枝の気性は気安く磊落(らいらく)でありながら細かい気遣いを忘れず、嵐の目にも好人物として映っていた。加えて男振りも悪くない。妻帯で良かった、と嵐は密かに思っている。
元枝は嵐が盃を干すのを見届けてからおもむろに語り始めた。
「私は三男ではあるが、甲斐源氏の裔(すえ)、小笠原の人間として幼少のころより武芸に励んだ。そうせざるを得ない家風だったのだ。その積み上げた成果と言うか、今では近隣で私と立ち合うて敵う者はそうはおらぬ。――――その私が、模擬戦とは言え若雪どのには未だ勝ち得た例(ためし)が無い」
 元枝の顔に苦い笑みが浮かんだ。
「いや、初めての立ち合いの時は若雪どのに遠慮があった為、危うく不名誉な一勝を譲られるところであった。しかしその試合ののち、私は、本気の立ち合いと私が感じなんだ時は今井どのとの取引を無かったものにする、と言うた。―――若雪どのの剣はその後一変した。正直な御仁よな。あれほど剣を自在に繰る人間を、私は他に知らぬ。……それゆえ嵐どのがもし昨夜、若雪どのの剣技を見て心怯んだものがあったと聞いても、何も驚かぬ」
 嵐は顔を上げて元枝を見た。
「同じ邸に住まわれていたと聞くが、見るのは初めてであったのか?…若雪どのの御名にある若という字は、荒ぶる神霊を意味するものとも聞く。荒ぶる雪とは、若雪どのの父御(ちちご)はよくも名付けられたものよ」
 荒ぶる雪などではない。
 嵐が目にしたものは、むしろ静かな雪の舞いだった。それゆえにこそ恐ろしくもある、剣の冴えであった。
 そして嵐は、間近に若雪の剣捌きを見ることで、その剣戟の、雪のように静かなる所以に気付いていた。人の二人も斬ればなまくらになる繊細な日本刀で、十人近くを斬り得た理由にも。
「――――同じ邸とは言うても共に暮らしたんは一年に満たん。昨夜に至るまで、俺は若雪どのの剣技を目にする機会が無かったんや」
 堺に若雪が来たばかりの折、若雪の自室は広いものを、と彼女自身が望んだと聞いて意外に思ったことを覚えている。どう見ても部屋の広さに頓着するような女ではない。のちにそれは、家人に見られることなく室内で武芸の鍛錬に励むためだったのだと知った。
「若雪どのの剣技は腕に覚えのある者ほど打ちのめすのだ。事実嵐どの、お主もなまなかな遣い手ではなかろう。私はお主と話していて、お主に立ち合い勝てる自信が無いぞ」
 あっさりと元枝が言って、自らの盃をぐい、と干した。
「―――陽変天目(ようへんてんもく)を知ってはる、元枝どの?」
 肴として出された味噌をちびりとつまみながら急に話を変えた嵐に、元枝は瞬きながら答えた。空になったその盃に、嵐が酒を注ぐ。
「陽変天目……。ああ、名は存じておる。この目で見たことは無いが――…、確かそう、〝内に星有り〟と称せられる茶碗であろう。聞こえた名物だ。今は会合衆の誰が所有しているのであったか…。それがいかがした」
「どんな器やろうと、実用に使われてこそ価値がある。中を液体で満たしてこそ本来の用途と言えるもんやろう。その点で言うたら、若雪どのは空(から)の陽変天目茶碗なんや」
「……つまり、極上の器だがそれを満たす中身が無い、と言いたいのか?」
「せや、本人の真実欲する望みが無い。せやから常に人の意向を優先させようとする。今回のような仇討ちかて、自分の為言うよりは、亡くなった家族の遺志の為に動いとるように俺には見える。俺はそれがはがゆうてならん」
 言い終わると嵐は三杯目となる酒を勢い良く干した。
「ふ、は、あはははは!」
 突然笑い出した元枝に嵐はぎょっとした。元枝は酒をまだ一、二杯しか呑んでいない筈だが。
「なんだ、若雪どのの剣技を見て、己の腕との比較で落ち込んでおるかと思うたら、お主、あの若雪どのを案じておるだけか!ははははは!これはまた!立派な男ではないか。案じて損したわ。はははは!」
 成る程、そのための酒肴であったかと嵐は納得した。
 確かに若雪の剣技には戦慄を覚えたが、そののち嵐の胸に宿ったのは、痛ましさにも似た若雪を案ずる思いであった。早くその器を満たすことを覚えなければ、若雪という器はいつか壊れてしまうのではないか、そう思った。柄にもないと承知しているのだが、若雪を見ていると嵐は常に心配の念が絶えないのだ。出会った当初から、若雪は嵐の心に安らぐ暇を与えない存在だった。
「…俺は若雪どのを哀れな虎とも、空の陽変天目とも思う」
「成る程、虎か―――――」
 呟いた元枝は思い出したようにまた笑った。
「今度はなんや」
 元枝は笑い上戸かもしれない、と思いながら嵐は尋ねた。
「…以前、若雪どのが自分を迎えに来るかもしれぬ人間は、鷹に似ているのだ、と洩らしておられたのを思い出してな。鷹と虎では、まあ、些か鷹は分が悪いな」
 酒ゆえの高揚からか、随分と遠慮の無い言い様だ、と嵐は憮然とした。鷹に例えられて気分の悪い者はいない。しかし加えて虎に比較されるのは面白くなかった。複雑な思いを胸に嵐は何杯目となるか忘れた盃を干した。
 笑みを湛えてそんな嵐を見遣り、静かに元枝は言った。
「お主は不思議な男だな。お主の話を聴いておると、まるで若雪どのは守ってやらねばならぬか弱い少女のようにも思えてくる。そんな風に、…お主の目には若雪どのが映っておるということかな」
 言って元枝も味噌を舐め、盃を干した。嵐は何とも答えずに無言でその盃に酒を注ぐ。
「嵐どの。……小野家の一件だが。若雪どのは一人難を逃れたという話であったが、実際のところ私はその見解に疑問を抱いておる」
「―――――?」
 元枝と話していると、互いに酒が入っているためか話が行きつ戻りつして軽く混乱する。
「つまり、私が言いたいのは、難を逃れたのは若雪どのではなく刺客らのほうだったのではないか、ということだ。刺客の多くは落命したようだが、何人かの生き残りはおろう。もし、小野家が襲撃を受けた際、若雪どのが家にいたならば、刺客は生きて逃れえたと思うか?彼女がみすみす家族を殺させたと思うか」
 元枝が、問いかけるような表情で嵐を見た。その顔に向け、嵐もまた問いを返した。
「―――若雪どのは、家におるべきやった言うんか」
「五年前と今の若雪どのの腕にどれほどの差があるかにもよるがな。私はそう思うておる。年若であっても、天稟に恵まれておれば大人並みに闘い得る者もおる。さすれば受難は、刺客らのほうだったであろうよ」
 その言葉には、若雪と何度となく立ち合った経験を持つ、元枝の口から出たものだからこその重みがあった。
 タン、と嵐は盃を置いた。
 酒による酩酊の為か、頭がどこかくらりとする。いつになく、自分が感傷的になっているようにも感じる。言い様の無い苛立ちと哀しみが、嵐の胸に込み上げていた。
元枝の言葉は正しいのかもしれない。正しいかもしれないが――――。これ以上若雪をまたと無い名器と祭り上げるのはやめてくれ、と嵐は思った。祈るような気持ちだった。空(から)の器の哀しみを、もっと大勢の人間が知るべきなのだ。
 けれどそうする術を、今の嵐は知り得なかった。
「……星の輝く天の器が真に空であるならば、果たしてその器を満たし得るものは、何なのであろうな…。満たされた天の器とやらを、見てみたいものだな」
 元枝が独り言のように言った。

 そのころ若雪は自室の畳に両足を抱えて座り込んでいた。まるで拗ねた子供のような姿勢だ。いくら部屋に一人とはいえ、行儀のなっていない恰好であることは承知している。
 けれど―――――。
(一人、殺してしまった)
最初に襲いかかった刺客を仕留めることで、数人の脱落者が刺客の中に出ることを若雪は望んでいた。怖気づき、逃げ出してくれたらと願った。その願いも虚しく、恐怖に我を忘れた刺客は皆若雪に襲いかかってきた。―――斬らざるを得なくなった。命までは奪わないよう、細心の注意を払ったが。
 刺客と対峙した後の、若雪を見た嵐の目が忘れられない。二人の間を吹き抜けた、一陣の風の冷たさと共に。
 子供時分に散々見てきた目だった。畏怖の眼差し。それは自分と相手との間に冷たい距離を置き、温かな交流を阻んだ。
(なぜそれができる)
(なぜそれがわかる)
(恐ろしい子だ。近寄らないでくれ)
(お前のような子供など有り得ない)
 若雪が幼い頃から発揮した才の数々は、必ずしも賞賛を受けるだけのものではなかった。大人たちの中には若雪を異端視し、遠ざけようとする者もあった。
 耳に繰り返し聞いた「有り得ない」という言葉は、若雪の存在を拒絶する刃だった。
 何より辛かったのは、剣術の稽古で初めて父を負かした時の眼だった。あれもまた、自らの常識を超えた者を見る、畏怖の眼だった。
(――――届かない)
 若雪には出来て当たり前のことをするだけで、親しい人たちを遠ざける。
(…私は山田どのを討つのだろうか)
 ぼんやりと思う。
 鎌倉時代前期、暗殺された父の仇を討った曽我兄弟のように。
 実際のところ彼らは、己の心情に従ったのだろうか。それとも、時代の求めに応じたのだろうか。兄弟は仇討を遂げはしたものの、二人共その後殺害されている。
 それでも、彼らは討たねばならず、討つことを選んだ。
 それが道理であるということは、承知している。
 物事の、あるべき道筋だ。少なくとも今の世においては。
 敵討ち、という行為を、堺にいた時も考えないものではなかった。それはまるで自分の影のように、堺の邸で、ぬるま湯のような優しさの中を過ごす若雪についてまわった。
 神官の家に育った若雪には、そぐわない遠い世界の風習のようにも思えた。
 もしも神官の父であったなら、今の若雪に何と言うだろうか。
 若雪はその仮定を、これまで数えきれない程、幾度となく考えた。
(命を、命で贖わせることを、良しとするだろうか)
 恐らくそうは言うまい。忘れて生きろとさえ、言うかもしれない。
 若雪には、常に道を説いていた父が、この件に関してだけは、世の道理に首を振るのではないか、という確信にも似た思いがあった。或いは自分がそう思いたいだけなのかもしれないが。
 けれど、恨みを忘れて生きる、という選択を思い描くたび、あの血の海が、腕に抱き留めた弟の躯の重さが思い出された。このまま安直に忘れゆくことは、至難の業と思えた。――――山田正邦には妻子がいた筈だ。
(顔を見て、話を聞きたい)
 なぜあんな凶行に及んだのか、少しでも自分を納得させる言葉を言ってくれたなら、許せるかもしれない。その命を奪わないままに、ずっと自分の後をついて来ていた影から、解放されるかもしれない。
 しかしそれは、あまりに都合の良い願いに思われた。
 自分の中に、静かに、確かに息衝(いきづ)く正邦への殺意もまた若雪の心の一部だ。
 五年前より身の内に凝った、赤黒く暗い塊を若雪は自覚していた。
 これまでに若雪は望んで人を殺したことはなかった。
 いくら時代が認めても、と若雪は思う。
(心が欲するに従って人を殺めた時、私はそれまでの私ではいられなくなる気がする。…これまでとはまるで異なる人間に、なってしまう気がする。それが私には恐ろしい…)
 その先に待つのは、大義を果たした晴れがましさなどではなく、奈落の闇ではないか。
 そう思えてならない。
 握っていた右手を開き、じっと眺めてからまた握り締める。美しさとは程遠い掌。どんなに身を飾ろうと、肉を斬る感触を十二分に知るこの掌は、いつも若雪に己の真の姿を突きつけるようであった。
握り締めた拳を口元に運び、固く目を閉ざす。
(それでも仇を討てば。影は消えるだろうか。影が消えれば私は、もっと自由な生き方が出来るだろうか。もっと楽になれるのだろうか。けれどやはり―――、殺したくない……いや、殺さねばならない……殺したくない…)
 その時、部屋の襖の向こうから声がした。
「若雪どの、…もう寝たか?」
 嵐だった。
「はい。寝ました」
慌てて居住まいを正す。
 嵐の足音を、若雪はこれまで耳にした例が無い。
加えて不意の声かけに、一瞬狼狽えた若雪は頭を通さずに答えた為、内容と矛盾する返事をしてしまった。
 襖の向こうが沈黙する。
 それもそうだろうと、若雪は一人赤面した。
「開けてもええか?」
「はい、どうぞ」
 再びの声に若雪はまたも反射的に答えた。
 襖を開けた嵐は、居心地悪そうに若雪の部屋に入ってきた。
 そのまま近くの畳に腰を下ろした嵐を見て、若雪は改めて思った。
(やはり大きくなられた)
 昔は、座ればもっと小さくまとまった身体だった筈だ。男性としては細身の部類だろうが、間近に座られると、自分より一回りは優に大きい体格の差に驚かされる。異性が放つ圧倒するような気配に、若雪は無意識に後ずさった。
「若雪どの、今度俺と立ち合わんか。ええ勝負になると思うで」
「は……は?」
 若雪の怖じけた様に気づく素振りも見せず、前置き無くいきなり話を切り出した嵐に、思わずはいと答えかけて止まる。
「鷹が虎に負けんところを色んな奴らに見せたる。あんたが独りでないことを、見せたるんや」
 どこか嵐の様子が変だ。熱に浮かされているかのような。それに今一つ話のあらましが解らない。自分と刺客との対峙を目にして凍りついたように立っていた嵐が、なぜ今そのようなことを言い出すのか。
 けれど。
 若雪はふと思った。
(嵐どのが、もし私と互角かそれ以上に戦ってくれるのであれば、確かに、私は己一人を化け物のように感じることはなくなるかもしれない。私も常人(じょうじん)と変わらぬのだと、ただの人間にしか過ぎぬのだと、きっと安心出来る。それに―――周囲の目も変わり、何より独りではなくなる…)
「俺は、若雪どのに、器の中を満たしてほしい。空のままであって欲しないんや」
「はい」
 何の話か、未だ解るようで解らないが、若雪は嵐の妙な勢いに押されて、ひとまず相槌を打っておくことにした。
「自分の意志を、もっと大事に育てろや。俺らは主家に命を捧げる侍やない。あんたの主は、あんた自身やろ。己以上に大事なもんを作るような生き方をすな。…その内しんどうて堪(たま)らんようになるぞ。今のままやと、自分の才に振り回される人生を送ることになんで。解ったか?」
「―――はい」
 今度は何を言われているか解った気がした。今の嵐は、若雪の本質を突いた言葉を語っている。自分の為に紡がれたと確信できる言葉は、若雪の胸を打った。
 これまで生きて来て、若雪の才覚を称えたり恐れたりする者は多くあったが、その才に振り回されるな、と忠告されたことは一度も無かった。己の意志を育てろと言われたことも―――――。それらの言葉は余程若雪という人間を理解し、思いを添わせなければ出る筈も無い言葉だった。嵐は本当に大人になったのだ、と若雪は思った。改めて、三年という月日の大きさを感じた。
「嵐どの」
「なんや」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしてへん」
 そのまま、嵐は喋ることをぴたりと止めた。不自然な間を訝しく思いそろりと近づいてみると、静かな寝息が聴こえてきた。微かに漂う酒の匂いに今更ながら気づく。胡坐をかいたままの姿勢で嵐はすうすうと眠りこんでいる。健やかな寝息にやや気抜けする。
「――――…」
 若雪は何とも言えない思いでそれを見つめ、嵐を運んでもらうべく館の家人の姿を探しに部屋を後にした。

       四
 
このころの出雲大社では多数の連歌が奉納され、法楽もしばしば催された。
 連歌師を招いて国造家で行われた宴の帰り、水野の持つ松明に先導され、屋敷までの夜道を山田正邦は歩いていた。気のせいか水野の口も足取りも重い。
 折角小野清晴を討ったというのに陰気くさい奴よ、と正邦は思っていた。
 思ったところで、水野の松明が常とは逆の方向に曲がった。そちらは確か家屋敷もまばらになる松林だった筈だ。
「待て、水野。道が違う」
 水野は聞こえなかったように歩み続ける。
 空には細い月が出ている。星の瞬きが今日は少ない。
 と、水野が松明を不意に地面に置き、突然蛙のようにガバリと平伏した。
「殿、申し訳ございません!!水野は今この時より、永のお暇を頂戴致しまする!」
 言うや否や、正邦を置いて元来た道を走り去って行った。
「な、…なんじゃと?永の暇とは…どういうことじゃ」
「言葉通りの意味でしょう――――山田どの」
 突然背後から聞こえた涼やかな声に、正邦は驚き振り返った。
 そこには亡霊がいた。
 淡い墨色の上衣に、黒に近いほどに深い墨色の袴。
 暗い衣服の色に際立つ、整った白い面。後頭部で結われた黒髪が仲秋の風に靡(なび)いている。
「―――お主は誰じゃ」
「ご存じでは?」
「死んだ筈じゃ!今度こそ、私はその死骸をこの目で確認した!!」
「それは水野が私に遣した刺客の一人です。――――私が、この手で斬った。顔立ちが判別しにくいよう細工しろと、水野に命じました。水野が、玉造からそうした細工の得意な職人を呼び寄せたのです。あなたの家臣は、存外に顔が広い。いえ、元家臣と言うべきですね。それにしても良い働きをしてくれたものです。自他の死を容易く擬することのできる技術は、この乱世において得難い技と言えるでしょう。……あなたは腐っても神官。間近で死骸の顔を確認するのは抵抗があった筈。自分の見えぬところで多くの血が流れるのは平気でも。そのようにして兄のものと偽って見せられた躯を、あなたは希望混じりの不確かな判断でそうと信じ込んだだけです」
「馬鹿な………」
 呆然として呻いた正邦に対し、若雪は静かに続けた。
「己の心とは、かくも測りがたきものですね。山田どの」
「――――兄?兄じゃと?小野三郎…?いや、年が合わぬ。顔も違う…。――――お主は誰じゃ…?」
 再度の問いかけに若雪は答えた。
「小野若雪。かつてそう呼ばれていました」
正邦は目をぎょろりと巡らして、思い出した。小野家の子息は皆文武に秀でるが、娘の天稟はそれを遙かに上回ると、昔神官たちの噂に聞いた。
 大社国造に披露する奉納試合で、並みいる武芸者を倒し、最後まで勝ち残ったのはまだ年端もゆかぬ少女であったとも記憶している。
「では…、小野次郎清晴は…」
「真実、五年前に亡くなりました。あなたの送り込んだ刺客に殺されて。次郎兄の面影にあなたが過ぎた怯えを見せなければ、私はそれと気づくことも無く、あなたは今頃も安泰でいられたでしょうに」
 それでは自分は、最も恐ろしい小野の人間を討ち漏らし、果てには再度手を出してしまったのだ。陰では化け物とさえ囁かれていた、剣の遣い手であった少女を。正邦は己が致命的な失敗をしでかしたことを悟った。
「…なぜ小野家を襲ったのです。室と、御師職の為ですか」
「――――そうじゃ。室は、数が限られておる。養う家族も抱えた身でありながら、近習見習でろくな領地も無い私のような者にとって、御供宿の経営権である室は喉から手が出る程に欲しいものであった。しかし室を維持するにも、私には元手が無かった」
 御供宿の経営と維持は、そもそも一定の財力を有する家でなければ不可能なことであった。
「小野家に狙いを定めた理由は。武勇に優れた家であると、知らなかったとは言わせません」
 言葉を重ねるたびに、若雪の言葉は少しずつ冷え冷えとしたものになっていった。
 白色の炎は赤く燃え盛る業火よりもなお熱いと言う。若雪の声は、その白色の炎のようであった。
 正邦はそれが恐ろしかった。
「小野の、あの当主が、私の借財の頼みを断わりおったせいじゃ!自らは御師職を有し、室を有し、遠くは備後に至るまでに商いを盛んにしながら、この私には貸す金が無いと申す。室を維持する為の金を借りた上で、国造様に金品を納め、御師職を頂かんと考えておったというに。御師職とはそのようにして得るものではないと、滔々(とうとう)と私に説教をしおった。自らは親から何の苦も無く受け継いだ職権であったくせに!!」
言い放った正邦は肩で息をしていた。
 では小野家の御師職と室、そしてその地位で築いた財が正邦を凶行に走らせ、道を誤らせたのか。
 若雪は目眩がするような思いでそれと認識した。
 幼かった若雪の何不自由ない暮らしを守り、育んだ筈の富が、両親たちを死なせた――――――。
 それでも、若雪の知る限り、両親が奢侈に溺れるということはなかった筈だ。
 慎ましく、神官としての分を守った暮らしの在り様を、子供らに示しながら生活していた。その事実は正邦の言を受けた今の若雪にとって、一筋の救いだった。ゆるがせに出来ない記憶だった。
 恐怖と怒りに震える声で激昂した正邦は、若雪が至って静かであることを不思議に思い目を上げた。彼女は苦悩を面に浮かべ視線を斜め下に背けている。正邦の存在を忌避し、視界に入れまいとしているようだった。
 若雪の静かな声が響く。
「今、あなたが御師職を有するのはなぜですか。通常であれば小野家の縁戚に移る御師職であった筈」
 その声もまた、正邦と同じく微かに震えていた。
 憤りと怒りと、そして悲哀に。
「そうじゃ。それゆえ、小野家の縁戚は御師に相応しからぬ行状をしたと虚言を広げた。小野家の消えたのち、その財を得た山田家は多くの家を郎党に組み込み、大社配下でも有数の家にのし上がった。国造様も一目置かれるほどの。山田家を除き御師職と室を有するに適した家は無くなったのじゃ。新興の我が家に職権を与えることを国造様は迷うておられたが、結果的には山田家に御師職と室を与えてくださった!」
 最後にはほとんど叫ぶような、正邦の告白だった。
 湧き上がった怒りと憎しみを凌駕する哀しみが、若雪の身の内を満たしていた。
(虚しい…)
 両親の生き様も、正邦の恨みも、今ここに立つ自分の憎しみさえもが、急に自分から遠のいたように思えた。
 若雪は片手で顔を覆った。
「…国造様はあなたの財の出所に疑問を抱いておられなかったのですか」
「抱いておられれば私に権益をお与えになる筈もない。私の周囲で疑問を抱いた人間は黙らせた。―――――小野家より奪った金を使って」 
「………職権と財の為に…小野家の者六名の命全てを奪おうとしたのですか」
 更に問う若雪の声は力無い。
 答える正邦の声もまたか細いものになった。
「―――仕方あるまい。一人でも生き残っておれば御師職はその者に継がれる。年少であっても。討ち損じた娘が行方知れず、と聞いた時は焦ったが…。何を出来る筈も無いと、高を括っていた………」
 こんなことになるとは、と正邦は小さく呟いた。
「違う!」
 若雪が突然叫んだ。
 正邦がビクリ、と肩を揺らす。
「違う、違う!違う!認めない…。そんなこと…、私は信じない。そんなことの為に、私の家族が殺された訳が無い!!――――太郎兄は十七、次郎兄は十五、三郎に至っては、まだ十二だった!……職権と財だけのために、散って良い命ではなかった!もっと他に!私を納得させるだけの、理由があったと言ってください、もっと他に!!―――――止むを得ない仕儀であったと、説明してください。でなければ私は、否応無しにあなたを斬らねばならなくなる……!」
 激しくかぶりを振りながら、若雪は悲鳴のような叫びを放った。
 正邦が虚ろな目で、言い募る若雪を見た。
「―――…すまぬが、小野家を襲わせた理由は、今申したことが全てじゃ」
「―――――そんな筈が無いっ!」
 声を荒げる若雪に、正邦が虚ろな目のままぽつりと言った。
「……何が悪い?何をそれ程、憤ることがある?」
「何――――…?」
「世に不条理なことなど、幾らでも転がっておるではないか。強者が無法を押し通し、弱者は奪われ踏みにじられる。この世のあなたこなたに、無法など幾らでも転がっておるではないかっ!―――そんなこと、とぬかしたな。お主がそのように言えるのは、自らが財に守られる人間であったからじゃ!特権を持つ身であったからじゃ!持ち得る者が持ち得ぬ者を平然と罵る。それを、驕りと申すのじゃっ!!お主も所詮は、あの男の娘よ。…私は最初の子を病で亡くした。簡単な理由じゃ、病を治す薬代が払えなんだ。手段を選んでは生きて行けぬ世なのだと、私はその時悟った。ゆえに、あるところから奪った。何が悪い!?私だけが特別なことをしたのではない。私はなけなしの財で浪人共を雇い、小野家を襲わせた。失敗すれば、それこそ飢えて死ぬしか無いような、賭けだったのじゃ。その賭けに私は勝った。天が、私に味方したのじゃ!!今の世の定めた流れが、お主の家族の行く末を決めた!ただそれだけのこと!」
「黙りなさい。…あなたが当世の定めを盾とするなら、私もまた、当世の定めに従い、あなたを仇として討つことになります。――――迂闊にものを、喋らぬほうが良い」
 表情の抜け落ちた、蒼白な顔でそう告げる若雪に、正邦は口を片手で覆った。
 そのままの状態で尋ねる。
「私を、殺すか?」
 我ながら馬鹿げたことを訊いている、と正邦は思った。
(殺さぬ筈がない。……そうじゃ、殺さで済む筈がない…)
 それが当然であり、紛うかたない世の正義だ。時代が定める、正しさだ。
 その言葉に若雪が正邦を見た。正邦が死ねば、その一族郎党は路頭に迷うことになる。正邦の妻は夫の後を追うかもしれない。残された子供の未来は穏やかなものではないだろう。
 胸元から雪華を取り出す。
「………………」
若雪は、これ以上無い程に強く、奥歯を噛み締めた。
 正しさとは、何だ。
 時代とは――――――――――――――――――――――何だ。
 その柄を握ったまま若雪は動かない。
(父様、母様……)
 自分はどうすれば良いのか。
 叶うことなら今ここに姿を現し、道を示して欲しかった。
 殺せ、と。もしくは殺すな、と。

 それは前日の晩のことだった。
 若雪は館の広い庭を正面に見通せる広縁に坐していた。傍らには懐剣・雪華を置いてある。
 水で溶いた藍のような色合いの夜空だった。
その藍の色を、時折黒い雲が気紛れに通り過ぎていく。
 先程まで出ていた月を雲が覆った。目がそれを認めた時。
「迷うてんのか」
 嵐の声が尋ねた。
いつからそこにいたのか、嵐は気配も無く広縁の端に腰かけていた。目は藍の夜空へと向けられている。
若雪はそれに驚くことなく、嵐の横顔を見て口を開いた。
「……私は神官の家に育ちました。社では武将の求めに応じて戦勝祈願を、敵の降伏祈願をも請け負いました。神官自ら刃を持ち、戦に参加することもあります。……神に仕えると言えど、決して清らかなばかりの勤めではないのです。それでも、人の命を尊べと、自らを神に仕える者であることを忘れるなと、父は口癖のように言っていました」
 嵐は静かに話に耳を傾けている。
「…仇討をためらうことが、仇討を成し得ないことが、世の道義に反することだとは承知しています。私のためらいは、道義に照らし合わせれば、罪深いものなのでしょう。――――けれど、それでもやはり、家族が、仇討を願うとは、私には思えません。道義に従うために仇を討て、と望むとは、どうしても思えません。もし私が山田どのの命を奪うのなら、それは、当世の正義を振りかざして、私怨を晴らすに他ならないのです…」
「……俺は部外者やし、若雪どのに何を決めろとも言えんけど」
 初めて会った時の若雪の無残な状態や、明慶寺で震えていた細い肩は今でもはっきりと覚えている。容易には忘れられない記憶だ。
「私怨を晴らすのは、あかんことか?この際、世の唱える道とやらは置いとくとしてや。自分の中の憎しみを、哀しみを軽うすることが出来るなら、仇討はあんたを生かすための行為とも言えるやろ」
「……私が山田どのを討てば、私はずっと自らの後ろをついて来ていた仇討の影から解放されるかもしれません。――――けれどそれで、私の心は晴れるのでしょうか」
(…俺なら迷わん)
 嵐は思った。
 道義ゆえではない。
大事な人間の命を害した相手を、ただ迷わずに討つ。
至極当然で、簡単な話だ。嵐にとっては。
 けれどそれは嵐であれば、の選択だ。嵐と若雪の感覚には、どちらが正しいと言うものでもない、大きな落差がある。この時代には稀な程、他者の命を重く見る若雪の選択に、嵐の考えを押し付けるわけにはいかない。元よりこれは若雪が一人で対峙するしかない問題だった。
(せめて兄の一人も生きとったらな)
 二人共、暫く口を開かなかった。
 細い月が雲間から再び姿を現した。
 その間隙を突くように若雪が言った。
「嵐どの。私は今回に限ったことでなく、人を殺めたことがあるのです」
「………今の時勢やとそうやない人間のほうが少ないんとちゃうか」
「…御師として父、母と諸国を巡る道中では、少なからず盗賊の襲撃に遭いました。私たちは彼らにとって十分に魅力ある品々を運んでいましたので。私はまだ未熟で、人を殺さずに倒す腕がありませんでした。……私の手は、既に、多くの血に染まっております。この上は、出来得る限り命を奪いたくありません。私はきっと、臆病なのです……」
 若雪は嵐の顔を見た。嵐は真っ直ぐに若雪を見返して言った。
「決めるんはあんたや、若雪どの。ただ、これだけは忘れんといてくれ。あんたはもう、小野若雪やない。今井若雪や。今井家の人間で、………俺らの、大事な家族や。独りやないことを忘れんな」

 雪華の柄を握る手が、震えた。
 正邦は両目を強く瞑ったまま、これから身を襲うであろう刃の感触に備えている。自分の身に、その肉に刃が喰い込む感覚をまざまざと想像した。両膝はとうに地についている。
(美知。沙耶―――)
 そんな正邦を眼前に、一瞬、若雪が最後の助けを求めるように狂おしく視線を巡らした中、少しばかりの距離を置いた松の木に、寄り添うように静かに立つ嵐の姿が目に飛び込んできた。嵐は、自分も事の顛末を見届けたいと若雪に訴え、若雪がどのような行動に出るにしろ、その邪魔をせぬことを条件に同道していた。嵐も共にその場に立ち合う、と決まった時、若雪は少しほっとした。そして同時に、正邦を斬る自分を見られたくない、とも思い複雑な気分に陥った。
 木陰にいることも手伝い、その表情は定かではない。
 だが若雪はその姿を目にして、見守られている、と思った。
 今井若雪や、という言葉が今聴いたもののように耳奥に鳴り響いた。
その瞬間、宗久の庇護下で過ごした一年足らずの日々が、うねるような優しい波となって若雪の心中に打ち寄せた。影をかき消す、暖かな陽の気配を心に感じた。
明慶寺に差す光に、舞う花びら。
(あの時も、あなたがいてくれた…)
 遠く離れたと思っていた陽光が、今はすぐ近く、自分の傍らに在る。
 憎しみや哀しみが介在する余地は、そこに無かった。
人は人により損なわれもする。しかし。
(このようにして、救われもする―――――)
 拠るべき正しさが見えぬままでも。
 ただそこに、いるだけでも。
 両親と兄弟の面影が胸に浮かぶ。ほんの一瞬、若雪は瞑目した。
(ごめんなさい…)
 そのまま嵐のみを視界に留め、若雪の唇がゆっくりと動いた。
「私は………、今井若雪です。小野若雪は、五年前に死にました。その、恨みと共に。今はその形見の懐剣が残るのみ。―――そして、この懐剣もまた、私怨により人を殺めるため、振るわれて然るべきものではありません」
 言葉を終えると嵐から正邦へと視線を戻した。
 若雪が静かに語ったその意味を悟り、正邦が目を見開いた。
「立って、後ろを向きなさい」
 若雪の命令に、その意図がわからないまま、正邦はおどおどと従った。
 次の瞬間、雪華が一閃し、パッと鮮血が散った。同時に、正邦の右足を凄まじい激痛が襲う。
「が、…ぐああああっっっ」
 たまらず、地に伏して転がる。右足首の辺りから血が流れ出し、正邦の袴の裾をも濡らしていた。
「右足の腱を切りました。その足では、最早、御師として回国することは叶いますまい。国造様に御師職と室を返還する旨、申し出てください。然るのちには小野家の縁戚にそれらの権利が渡るよう、不行跡があったという偽りを撤回してください。できぬとは言わせません。…多少の無理は、していただきます」
 若雪が血を拭った雪華を胸元にしまいながら、平生と変わらぬ口調で、先刻の激情が嘘であったかのように淡々と言った。
 土にまみれ、身悶えしながら、正邦は信じられないものを見るような目で若雪を見ている。
「は―――!これで―――、これで私を、許す、―――のか。命は、見逃すと、…そう申すか―――――…!」
 激痛の中、あえぎながら尋ねる声は震えていた。
 若雪は地に伏す正邦を見下ろしている。その表情は影となり、窺い知ることが出来ない。ただ肩の向こうに、細い月が見えるだけだ。
「……いいえ。私の手に今あるあなたの命を、あなたに預けるだけです。忘れないでください。あなたは、私に一生の借りがある。小野家の人間への弔いの心を、身に負った罪を、忘れないでください。決して。生ある限り疼(うず)くであろう、その傷の痛みと共に。忘れたら―――――――――許さない。その時にはあなたの命を、この手に返していただきます」

 足を引き摺りながら、地を這うように去って行く正邦の姿を、嵐は松の木陰から見送った。正邦の這った後には、細い血の道が出来ている。とろりとして赤い、血の道だった。
 罪業(ざいごう)の色だ、と嵐は思った。
小野若雪はもういない。
その言葉は若雪に、自分が側にいる今を忘れて欲しくなくて口にした言葉でもあった。同時に、若雪を助ける思いもそこにはあった。嵐の目には、懊悩する若雪が山田正邦を殺さずに済む理由を求めているように見えた。殺さない自分を、許す理由を。若雪を助けてやりたい、と手を差し伸べるような思いが、嵐に言葉を選ばせた。
 彼女はもう今井若雪でしかないのだと。
 そう告げることで、若雪が仇討を成し得ない自分を許す気持ちになるよう、嵐は望んだ。
 刃で若雪を助けられないのなら、せめて言葉で彼女の心を守ってやりたかった。
 正邦を追い詰めた時の若雪の表情は、正邦と同じくらい進退窮まったものに見えた。
 果たして自分の言葉が救けとなれたのかどうかはわからないが、結果として若雪は正邦を死なせない選択をした。ただ不具の身とするに留めた。そのことを、何より若雪の為に嵐は良かったと思っていた。
(今の世の正義にはそぐわんやろな)
 けれど時代の求める正義など、嵐にとってはさらさら顧みるべきものでは無かった。内心、くそくらえとさえ思っている。世の中には、巷間に染み通った倫理観に縛られる人間と、そうでない人間がいる。若雪は前者であり、嵐は明らかに後者だった。前者であるゆえに苦しまずにいられなかった若雪の姿は、巷間の思惑をまるで意に介さない嵐にとって、見ていてどうにももどかしいものだった。時代が肯定する如何に関わらず、結果を引き受ける覚悟があるのなら、人は己の心と信念に従って生きるべきなのだ。
 それでも、胸の片隅では、ただ正邦を不具の身とするだけの仕置きは、やはり生ぬるい、と感じずにはいられないのもまた、嵐ではあった。
 そして、嵐は、正邦の所業を肯定する気は毛頭ないが、その言い分が全く理解出来ないわけではなかった。
〝この世のあなたこなたに、無法など幾らでも転がっておるではないか〟
 確かに、それは事実だ。
 嵐自身、戦場を駆けながら、数多(あまた)の命を奪ってきた。
 鳥が魚を喰らうように、獣が鳥を喰らうように。
 人道に悖(もと)る行為とは縁が無かったと、胸を張って言うことは決して出来ない。いつか自分にも、贖(あがな)いの時は訪れるのかもしれない。若雪とは事情が異なり、嵐は自らその道を選んだのだ。そうである以上、自分の歩んだ後にも罪業の赤い色は恐らく刻まれている。その色から目を逸らすことだけはすまいと、嵐は戦場に出始めたとうの昔より心に定めていた。それが嵐なりの自戒であり、嵐に屠られる命への礼儀と心得ていた。
 時代がもう少し違うものであったなら、或いは正邦も凶行に奔る衝動を抑えられたのかもしれない。ただ、正邦の言葉を全て認めてしまえば、それはどんな時代でも自分を律して生きようとする人間への、冒涜となるのだ。
 命を見逃したところで、正邦が今手にある職権を失えば、残った小野家の財を以てしても、遠からず、正邦の身内を含めた一族郎党が困窮する日が来ることは、目に見えている。
 それは若雪も承知しているだろう。
 けれど御師職も室も、正邦が死ねば恐らくどのみち他家へと動く。
 それを考えれば、正邦の命が助かっただけでも、少なくともその身内にとっては大きな救いとなる筈だと嵐は思った。ただ生きている、というだけで人に与えられる恩恵は、確かにある。
「気が変わったらいつでも言いや。俺が代わって討ちに行ったる」
 あえて軽く言う嵐に、若雪は微笑んだ。
嵐が作ってくれた巧みな言葉の逃げ道を、若雪は正確に理解していた。
 自分が今日、どれ程嵐に救われたか、いつか彼が知る日は来るだろうか。
 その存在に、どれ程感謝したか言葉で告げる日は。
 数年前よりずっと大人びた嵐の横顔を見ながら、若雪は思った。
「…ありがとうございます。……思わぬ長逗留となりました。元枝どのにはすっかりお世話になってしまって。…嵐どの。――――共に、堺に帰っていただけますか」
「ああ、帰ろ。俺は最初(はな)からそのつもりや」
 嵐は当然のことのように答えた。
五年前より、ずっと若雪について離れなかった影は今宵を限りに消えた。
 夜明けはまだ来ないが、身を包む闇はこれまでに無く温かいように感じられた。
 松林の中、連れ立って歩く嵐と若雪の二人に、優しい夜風が触れていった。

吹雪となれば 第三章

吹雪となれば 第三章

戦国時代・自治都市堺を束ねる会合衆・今井宗久の養女となった、出雲大社御師の娘・若雪。 宗久の甥・嵐のために堺を離れて三年以上の時が過ぎていた。宗久の思惑に沿い、石見銀を得るため地方領主のもとに逗留していた彼女は、思いがけず家族の悲惨な死の真相に迫ることとなる。そしてそのころ嵐は―――――。 人と神の 願いを織り込めて 流れる時は見ていた 血も涙も 瞬きの笑顔も

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更新日
登録日
2014-06-06

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