旧作(2010年完)本編TOKIの世界書一部「流れ時…最終話」(時神編)
時神栄次とその心に住む住人達のお話です。
TOKIの世界。
壱‥‥現世。いま生きている世界。
弐‥‥夢、妄想、想像、霊魂の世界。
参‥‥過去の世界。
肆‥‥未来の世界。
伍‥‥謎
陸‥‥現世である壱と反転した世界。
リグレット・エンド・ゴースト
この日本には時神という時間を守る神様がいる。別に時間を止めたりできるわけじゃない。ただ、人間の時間を監視し見守るそれだけだ。
時神は人間から誕生する。はじめは人間で徐々に神格を上げ、神となる。
歴史は人間がつくるのであって時神がつくるのではない。つまり、時神になったら自分の歴史もつくる事はできない。故に歳をとらない。
そんな時神も永遠ではない。自身の力が弱まったら新しい時神が人間から生まれる。そうすると力の弱まった時神はいままでの時間の力と人間の歴史を動かす力が入り混じり消滅する。そして新しい時神に力が受け継がれる。
時神という神称は永遠かもしれないが個人は永遠ではない。
「……そこまではわかっているのだ。」
栄次(えいじ)は唸った。時神は三人いる。彼は過去神、現代神、未来神の中の過去神である。眼光鋭く、長い茶色かかった髪をひとまとめにして緑の着流しに黒の袴をはいている。そして腰には匕首と鯉口が差さっていた。
パッと見て侍だ。
栄次は山道を一人歩いていた。今は夜中なのですれ違う人はおそらくいない。
夜目がきくのか灯りもなく前へ進んでいる。
……気になるのは価値観だ。この時代が現代であると今の人間は思っているわけだ。……ということは現代神が管轄するはずじゃないのか?それなのに俺はこの時代で現代神に会った事はない。昔の人間にとってはこの時代は未来だろう。だが俺は未来神には会った事もない。
なぜここが過去だと言い切れる?
「……それはね……。」
どこからか声が聞こえた。幼い女の子の声だ。
「……誰だ?」
「……誰でもいいよ……。あなたの問いに答えてあげる……。」
「俺の心を読んだのか?」
「……うん。」
声の主は控えめに言葉をこぼす。
「姿を現したらどうだ?お前は人間ではなかろう。」
「……うん。だけどこのままで……いさせて。」
「……。かまわん。」
「あなたは……今がいつだかわかる?」
「……現在は平成の時代だろう?」
「そう……。」
栄次は近くの木のそばに座り込んだ。
「それがどうした?」
「時神はね……。いつでも三人そろって存在しているんだよ……。」
風が通り過ぎる。栄次はそこに何かいる気配を感じたがなんだかはわからなかった。
「だが俺は俺のいる時代で会った事はない。」
「それは……そうだよ。ここは過去なんだもの……。」
「だからお前の言っている事が俺にはわからん。」
「わたしには……見える。この時代にいる三人が……。」
わずかな風がまた通り過ぎる。
「?」
「空間の違い……。三人は同じ時代でもそれぞれの世界で生きている……。こことは別次元の世界……今の時代が現代であるとしている世界、今の時代を未来であるとしている世界……。あなたがいるこの世界は……ここが過去であるという世界……。」
声が栄次のすぐとなりで聞こえた。
「……だから俺は他の時神に会えないのか。」
「そういうこと……。この同じ山道で今、未来神が鼻歌を歌いながら歩いているよ……。すぐそこにいるよ……。でもあなたには見えない……。次元が違うから……。」
栄次があたりを見回してみても人がいる気配はない。もちろん鼻歌も聞こえない。
「そうか……。すぐそこにいるのか。」
「そう……。現代神はマンションの一室で眠っているよ……。でもあなたがそのマンションに行っても現代神はいないよ……。」
「ふむ……。なぜお前にはそれがわかるのだ?」
栄次はどこへともなく語りかける。
「わかるよ……。わたしはもう……この世界の住人じゃないから……。」
「……霊か?」
栄次の問いかけに声はしばらく沈黙した後、「うん」とつぶやいた。
「お前、いくつだ?」
「……七歳……。」
「……七つか……。いつ死んだんだ?」
「……今でいう……戦国時代。」
声は栄次のまわりをまわる。
「戦に巻き込まれたのか?」
「……わたしは忍だった……。」
「忍か……。忍の里の住人だったか。まだ身軽な子供の時代に諜報とかをやっていたのだな?」
「……そう。本当は嫌だった……。大きくなっても女忍として生きなくてはならなくて……。」
空気がまた揺れる。
「俺とお前、会っていたりするか?」
「……会っているよ……。あの時代で。」
「いつだ?」
「あなたは覚えているかわからないけど……わたしにとってそれが人間としての最期だったから……。」
「人間としての……最期か。」
栄次の声も自然と暗くなる。
「わたしはあなたの見ている前で……殺された。」
「俺の見ている前か。諜報がばれて捕まったか。」
「……そう。『こうや』って人に……斬られた。」
「……更夜……あいつか。あれは真面目な人間だった。思い出した……。あの時のおなごか。あの時、毅然とふるまっていたおなご……子供ながら立派だと思ったものだ。皆は城で幽閉しようと考えていたようだが……忍という事で更夜はお前に刃をむけた。拷問もろくにできなかった俺達をぬるいと言った。忍は情報を持ち出す存在だ。こちらが危険になりかねない。やつはそう言ってお前を斬ったのだ。あの後、やつはお前を立派だと言い、墓まで立てて埋葬した。その墓に花を添え……ああ、そうか……ここがその墓のあった場所か。」
栄次は何かを懐かしむ感じであたりを見回した。
「……うん。今はないんだけど……。わたしの身体も……もうないし。『こうや』にあっちで会ったよ……。」
「あっちとは?」
「黄花門(おうかもん)ってとこの……そばで……。」
声は流れて消えた。
……黄花門?聞いた事ないな……
栄次は立ち上がるとまだまだ続く山道をゆっくりと歩きはじめた。
声の主はふふっと笑った。
神々はこちらに来れない……。
……わたしも『こうや』も絶対に彼らに見つからない自信がある……。
わたし達の計画は……ここからはじまる……。
栄次は山道沿いにある古い神社内で眠った。古びた誰も参拝に来ていないような神社だ。
「おはよう……。……いつもここで寝ているの?」
「なんだ。お前、ついてきたのか。」
栄次を起こしたのは謎の少女の声だ。
「うん……。あれ?仕事は?……平成の時代、仕事するの大変って聞いたよ。」
「まあな。俺はもう、どこかで働くのはやめているんだ。俺は弱小神じゃない。金は高天原からおりるし、飯は神の使いである鶴が用意してくれる。俺の本当の仕事は過去の管理だ。人間に交じって働くというのはもうずいぶん前にやめている。」
「ふーん……。人間の時を管理する神が人間に関わらないっていいのかな?」
「いいわけないが俺自身が嫌になった。」
「なるほどね。気持ち、わかる気がするよ。」
声はまた栄次のまわりをまわり始める。
「……おい。昨日言っていた黄花門というのはどこにある?」
栄次はどこにいるかもわからない声に話しかけた。
「黄花門に行きたいの?」
「ああ。少し興味がある。」
「いいよ。連れて行ってあげる……。」
声の主は楽しそうに笑うと栄次の側に寄り添ってきた。
「しかし……実態はないはずなのだが……なぜかぬくもりを感じるな……。」
「今、あなたの目の前にいるんだよ。チュウできる距離だよ。ねぇ、チュウしてもいい?ふふっ。」
少女は栄次をからかい笑う。
「そういう事を俺とやるのは不適切だな。とりあえず黄花門へ連れて行ってくれ。」
栄次は呆れた声で少女にささやく。
「あーあ、テレてもくれないんだね。」
少女は少し残念そうにつぶやいた。
「お前、俺をいくつだと思っている……。まあ、お前ももうとっくに七つの娘ではなくなっているのだとは思うがな……。」
「まあ、そうだね。……じゃあ、そろそろ行く?」
少女が声を発した刹那、とても柔らかい風が栄次の髪を撫でて行った。
「ところでどこへ行けばいい?」
「わたしの声についてきて……。おーにさんこちら、手の鳴る方へ~。あ、鬼じゃなかったね。おにぃさんこちら~。」
「鬼ごっこか……。ふっ。」
少女の声に栄次はわずかに微笑むとそっと立ち上がった。
二話
「はあ~。」
学生服に身を包んだ少女、アヤは茶色の短髪をなびかせながらため息をついた。
「夏休み明けの学校ってこう新鮮な気分ではあるけれどこれから毎日続くと思うとあれよねー。」
今は学校の帰り道だ。始業式だったので帰宅は早い。お昼前の雰囲気の中、アヤは大通りを歩く。
……なんか友達つくって部活!ってやってみたいけど……私は永遠にこの歳から変わらないし……。同窓会とか呼ばれたら大変よね……。
アヤは時神だ。日本の時間を監視する神である。生は人間からはじまり、徐々に神へと移行し、人と共に生きる事を強いられる。故にアヤは人間が多く集まる学校へ通っている。
この日本には八百万の神がいると言われている。時神だけでも過去、現代、未来の三人の神がいる。アヤはこのうちの現代神だ。
……しかし、暑いわね……今年は猛暑だわ。
セミはまだ姦しく鳴いており通り過ぎる人も汗だくで歩いている。
……とりあえず家に帰ってシャワーして……
アヤはマンションの四階の一部屋を借りていた。今は一人暮らしをしている。マンションの中へ入ると日陰になったからか少し涼しく感じた。そのまま、エレベーターで四階へ行く。
四階につき、アヤはエレベーターを降りると目の前のドアへ向かった。
アヤの部屋はエレベーターから一番近いドアにある。素早くカギを出すとドアを開けた。
窓を閉め切っていたせいかモワッと生暖かい風がアヤを包む。
「あっつ……。窓開けましょう。窓窓!」
アヤは狭い自室の窓を全部開けた。風はあまり入って来なかったが開けないよりはマシだった。廊下にも部屋にもさまざまな時計が置かれている。アヤの趣味だ。アヤは時計を集める事が大好きだった。
自分の集めた時計達を満足そうに眺めるとアヤはそのまま、浴室に向かった。歩きながら制服をハンガーにかけてブラウスとショーツ姿になる。
……どうせ誰もいないんだからどんな格好で歩いててもいいわよね。
浴室に入り、脱衣所でブラウスとブラジャーとショーツを素早く脱ぎ、洗濯カゴへほうった。
浴室のドアを閉め、シャワーを出す。
……今日は下着、対にしなかったわね……。どんどんガサツになっていくわ……私。
アヤは頭からシャワーを浴びながらぼうっとした頭で色々と考えた。
……あ、そういえば今日、セールの日でお刺身が……
……ああ……もっと涼しくなってから行こうかしら……。お刺身腐っちゃうわよね……。
そんな事を考えながらシャンプーで頭を洗う。
……トリートメントまだあったかしら?そろそろ買いにいかないと……
……まあ、それもお刺身買う時でいいわ……。
なくなりつつあるトリートメントを髪につけよく頭を洗う。
……トリートメントは良く流さないと逆に髪に悪いって美容師さんが言ってたわね。
シャワーで良く流したアヤはボディソープをアカスリにつけ、体をこする。
……はあ、気持ちいい。汗でベタベタした身体をスッキリさせるにはやっぱりシャワーよね。
「ふう。」
一通りシャワーを浴びたアヤは浴室から外へ出た。涼しくはないがさっぱりした。
……あ、しまった。着替え置くの忘れていたわ……。タンスがある部屋は窓全開にしちゃってるし……しかたないわね……タオルを巻いて……
タオルを手に取ろうとした時、視界に白い物体が映った。白い物体は洗濯カゴの中でもぞもぞと動いていた。
「……な……何……?」
アヤはギョッとして手を止め、固まった。
『ラビダージャン!これがパンツというものかっ!』
白い物体が凛々しい女性声でしゃべりかけてきた。同時に洗濯カゴからヌッと顔が覗いた。
「きゃあああ!」
アヤは思わず叫んでいた。
『ぎゃああああ!』
なぜか白い物体も悲鳴をあげた。
「……って……え?何?兎?」
アヤは白い物体をもう一度視界に入れた。白い物体は兎だった。赤目の白兎。
ドワーフくらいの小さい兎だった。その兎はこちらを怯えた目で見つめていた。
「因幡の白兎?」
『はわわ……違う、違う。自分、月神の使いの兎でごじゃる。あー、びっくりした。』
「月神の兎?なんでそんなのがうちの洗濯カゴにいるのよ……。それから私のショーツをいじらないで!」
アヤはドキドキする胸を抑えつつ、そっとタオルをとり、体に巻く。
『ふむ。実は自分、用があって時神様の元へ参った。で、トリートメントとはなんであるかっ?お刺身は鮮度が大事とな。』
「何なのよ。まったく頭おかしくなりそうだわ。……って、それ、さっき私が考えていた事じゃない!」
『筒抜けでごじゃる!』
アヤは表情のない兎に戸惑い、頭が混乱してきた。
「筒抜けって……。」
なんだか恥ずかしくなりアヤは頬を赤く染めた。
『感情読み取りのメカを使えばっ!自分が開発したでごじゃる。』
アヤが怯えているので少し調子に乗ったらしい兎はくるっと一回転した。白い光が兎を包む。
「うむ。実は自分、こういうものでして。」
「どういう者かさらにわからなくなったわ。」
兎は人型になった。目は真ん丸で真っ赤。兎の耳のように立っているのは髪の毛で美しい白髪をしている。一体どうやってこの髪をピンと立たせているのかは不明だ。紫色の着物を着ており、袖はない。着物も短く、太ももあたりまでしか布がない。どうやらメスの子兎のようだ。
身長はアヤの半分くらいしかない。
兎は鋭い前歯を前に出して微笑んだ。
「やれやれ。人型になって説明をしようと試みたが失敗したようだ。ウサギンヌ!」
この兎はなかなか頭がぶっ飛んでいるようだ。人間よりのアヤはまったくついていけなかった。
「だから、全然わからないわ。」
「あ、自分、月の兎でウサギって呼ぶでごじゃる。」
「月の兎なのはわかったわ……。それから神の世界に常識が無い事も知っているわ。そこを踏まえて聞くけど、あなた、私の家で何をしているの?」
「何って……あれぇ?自分、何していたのでありますかっ!」
ウサギは急にオロオロとし始めた。アヤを困った顔で見上げる。
……私が困っているのよ!あなたじゃないわ!
……それとこのウサギに日本語を教えた神は誰なのよ……。めちゃくちゃじゃない……。
アヤは色々ツッコミを入れたかったが心の底へ押し込み、とりあえず服を着ようと冷静に思った。
「ウサギ、話は後で聞くからとりあえず、タンスのある部屋を探して窓を閉めて来て。」
「わかったでごじゃる!いざっ!参らん!」
真面目に話しているのかわからないがウサギは素直に言う事を聞いてくれた。
アヤはタオルを巻いたまま脱衣所から外に出る。
「閉めた?」
「ばっちしでごじゃる。」
遠くでウサギの声が聞こえたのでアヤは着がえに向かった。タンスの置いてある部屋は自室とは違う。自室の隣の部屋を着替える部屋にしている。アヤはタンスのある部屋へ入って行った。
「ちょ……何よこれ……。」
アヤは言葉を失った。
「ちょっと窓を改造してみたのでごじゃる!らっびだーじゃん!」
「……。」
着がえ部屋の窓は謎のボタンがいっぱいついている雨戸みたいなものに変形していた。ここは普通の曇りガラスの窓だったはずだ。
「あの短時間で一体何があったの……?それより、この雨戸みたいなのは何!」
アヤは動揺して巻いていたタオルをとろうとした格好のまま叫んだ。
「実はこの窓、素晴らしい機能を備えていて、こう、ボタンを押すと……一部外を見られます。こういう事もできますっ。このボタンを押すと時神様の部分だけ形どられて外へ見えます。」
ウサギはどこから出したのか謎のリモコンを持っており、それについているボタンを押しまくっている。
「だから、なんで窓がこんな事になっているのよ!」
アヤは自分の身体部分だけ形どられて外へ丸見えなのに気がつき、顔を真っ赤にして叫んだ。
「いやー、いい形の窓だったんで触って見たくなってしまって。少し改造おば。」
ウサギは楽しそうに笑っていた。アヤは今ウサギとは正反対の顔だ。
「私はただ、窓を閉めてって言ったのよ!誰が改造しろって言ったのよ!しかもいらない機能作って!」
「まあ、結果閉まっていれば『おうけっ』かと。」
「おうけって何よ。オーケーでしょ。どうでもいいからちゃんともとに戻して。何の能力を持っているか知らないけど!」
「ういっす。おうけっ!親方!」
ウサギはビシッと敬礼すると見た事もないような器具を沢山取り出し、目に映らない速さで窓を元に戻した。
「一体、あなたに常識と日本語を教えた神って誰なのよ……。ひどすぎるわ。生前はただの兎でしょ?死んでから霊体を持って神に仕える兎になったのよね?だったら知識も仕えている神から吸収したはずだし……。」
アヤは呆れた目でウサギを見た。
「月子さんから教わった。日本語は独学を交えておじゃるがウサギンヌ!」
ウサギは前歯をカチカチ鳴らしながら楽しそうにアヤを見上げた。
「月子さんって誰よ……?」
「おお!そうでござった。月子さんからの用事でありました。ああ、月子さんは月照明神(げっしょうみょうじん)という名前の神様で月に住んでおられる。皆に『月子さんと呼べ』と月子さんはおっしゃっているんで、自分も月子さんと呼んでいるのであります。」
「月にも変わった神様がいるのね……。」
アヤは心の中で会いたくないなと思ってしまった。
そういえば以前、太陽へ任意ではないが行った時、月の兎の事について聞いた。確か、太陽神の使い、猿をからかう為だけに月から太陽へ渡るためのワープ装置をつくってしまったとか。それをつくったのは少女の兎で……
……まさか……
「あなた!?」
「ん?」
ウサギはいきなりの事で頭を捻った。
「太陽と月にワープ装置をつくったっていう兎って……。」
「ああ!うん。物作りは自分の趣味である。ラッビダージャン!まあ、ワープ装置が見つかってしまった後は月子さんと同胞達に耳がもげるくらいお仕置きされたが……。」
ウサギはあまり思い出したくない事を思いだしてしまったようだ。顔に怯えと恐怖が浮かんでいた。プルプルと文字通り子兎のように震えている。
「でもめげないのね……。で、その月子さんって神様が私に何の用なの?」
「うむ。実は……白金 栄次の事で……。」
「栄次!」
アヤは思わず声を上げた。白金栄次は時神だ。過去を主に守る神、過去神である。まさか過去神が関わって来るとは予想していなかった。
「あ、とりあえず着替え!」
アヤは慌ててタンスからピンクのベストと青のシマのTシャツ、紺色のかぼちゃズボンを手に取る。下着各種も一緒に取り、先に取った洋服の方を床に置く。
「おお。ニンゲンの服!ラビダージャン!」
「今更だけど、ラビダージャンとかウサギンヌとか何?」
「ああ、月子さんからキャラは大事だと言われて自分、模索した結果、これで固定されたというわけでごじゃる。」
ウサギは真面目な顔で頷いた。
「あ、そう。」
アヤはますます月子さんに会いたくなくなった。
その後、ウサギはまじまじとアヤの着がえを見つめ始めた。いくらウサギが少女でも見られているのはとても恥ずかしかった。顔を赤くしながらアヤは服を着た。
三話
「はあ……。俺ももっとやる事探さないとダメかな。」
赤髪長身の男が汗を流しながら大通りを歩いている。大通りでは平日のお昼という事もあってあまり車は通っていない。近くに遊園地があるが彼が向かっているのは遊園地ではない。
別に特に行くあてはない。ただぶらぶらと歩いているだけだ。
ときたま通り過ぎる風が肩辺りまである赤髪を撫でて行く。セミが姦しく鳴くほど暑い日なのだが彼は長袖長ズボンで光を吸収しやすい紺色の服を着ていた。
あまりに暑かったので男は袖を肘あたりまでまくった。
……だいたい、未来神って何したらいいかわかんないんだよな。俺は誰基準で未来にいるんだ?まあ、どうでもいいけどな。
彼は時神未来神だ。未来を主に守る神である。名前は湯瀬プラズマと言う。実は平安初期から生きているという大変長寿な神である。
大通りを通り過ぎ、山道へと入る。特に意味もなく炎天下の中、山道を登る。日陰に入ったので少し涼しくなった。
……今は平成の時代か……俺も無駄に長生きしたもんだな。
プラズマは運がいいのか悪いのか自分よりも力を持った時神が現れず、ずっと存在し続けている。
山道はきれいに舗装されており、車も通れる道だ。登るのは困難ではなかった。山と言うよりも丘を登っていると表現した方がいいかもしれない。その丘のてっぺんまで来ると大きな遊園地が見えた。プラズマは遊園地の観覧車を遠目で眺めるとまた歩き出した。
……そういえば何回か夢でこの時代の事が出てきたな。俺がもっと未来に生きていてこの時代が現代だと思われる時期に俺が何度かこの時代に連れて来られるんだよな。そんで、侍と女の子に会う。
……おそらく侍が過去神で女の子が現代神なんだろうな。この時代を生きていた時の現代神がけっこう問題児なのか巻き込まれやすいのかわからないが次元がけっこうゆがむって事だな。
これから。
……まあ、それも一つの未来だし、本当に来るかどうかもわからない。
彼にはときたま、ある一つの未来が横切る事がある。未来は枝分かれした木のようにたくさんあり、わからない。……いや、少なくとも自分は沢山あると思っている。だからあまり参考にはならないが一応、覚えられたら覚えるようにしている。それが未来神の能力だ。
プラズマの足は山を下り始めた。誰も歩いていないので鼻歌を唄いながら歩く。昨日も夜道をこうやって歩いた。最近は鼻歌を唄いながら散歩をする事が趣味のようになっていた。
「……っ?」
突然、プラズマは足を止めた。脳裏に何かが走り抜ける。
……なんだ?
プラズマは頭の方に意識を集中させた。頭の中で走り抜けた映像を繋ぎ合わせる。
ぼやけた風景の中で着物姿の男が二人、刀を抜いたまま静止している。どこなのかはぼやけていてよくわからなかったが桜の花びらが舞っているように見えた。銀髪眼鏡の若い侍と茶髪の若い侍だ。二人とも長い髪を後ろでゆわいている。銀髪の侍は髪が顔の右側半分を覆っており、右目は全く見えない。
男達は真剣な面持ちでお互いを見つめている。そしてお互いとも正眼の構えをとっている。
茶色の髪の方は間違いなく、過去神の白金 栄次。残念ながら銀髪の方の侍は誰だかわからない。
やがて一定の距離をとっていた二人が同時に動き出した。刹那、電光石火の剣技が二人から放たれた。銀髪の侍が突如、栄次の後ろに現れ、逆袈裟をかける。栄次はそれを捻ってかわすと横に薙ぎ払い、刃を返して斬り上げた。銀髪の侍は逆袈裟から袈裟へ刀を返す。お互いの刃は刀のぶつかりを防ごうとわずかな動きですれ違った。隙ができるのをお互いが一瞬の判断で防いだらしい。
……なんだ。この剣技は……こいつらは化け物か?
プラズマは久しく見ていない剣技にいささか驚いていた。
剣術自体に驚く前に栄次も銀髪の侍も人間が到達するレベルを超えている。瞬発力も動体視力も異常だ。
お互いの突きをかわし、刀がぶつからないように避け、ただ相手を斬る事だけ考え、動く。
……栄次は一体、なんでこんな事になったんだ?これは未来に起こるかもしれない事なんだろう。
その時、未来が走り去るように消えていった。
……おっと、ここまでか?
プラズマはもとに戻りつつある世界の中で複雑な表情のまま固まっていた。またセミが姦しく鳴きはじめた。それを耳に入れながらふと思った。
……そういえば、桜が舞ってたな。春か?来年の春かなんかに栄次がなんかあるのか?ん?
……なんかそれも違う気がするが……。なんだかだいぶん近い未来な気がする。
プラズマは山を下りながらあれこれ考えを巡らせたが答えは出なかった。いつ頃の事を予知したかよくわからないのであまり考えないようにした。
「いんやー、話せば長いのでありますが。」
ウサギは歯を見せて笑った。ここはアヤの部屋。時計がいっぱいあるこの部屋は机とベッドしかない。ベッドはピンクのかわいらしい花柄の生地で統一されている。床はフローリングでその上から花柄のカーッペットをひいている。ウサギはそのカーッペットの上に正座しており、アヤはベッドの上に座っていた。
「弐の世界を御存知か?」
「弐の世界?」
ウサギはいきなりそう問いかけた。カーッペットの上に新聞紙をひいて紅茶とクッキーを置いている。ウサギはそれを頬張りながら美味美味とほっこり顔をしながらアヤを見上げた。
「生物の妄想、死霊が住む世界でごじゃる。」
「まあ、聞いた事は……あるわね。イソタケル神あたりから聞いたわ。確か、天記神(あまのしるしのかみ)が弐の世界にも関わっているとか……。」
アヤは紅茶を飲みながらウサギを見据える。紅茶はもちろんアイスだ。熱いのは飲む気にならなかった。
「おお。お偉い神様と知り合いとな?うーん。美味美味。」
「美味って何よ……。私、イソタケル神食べないわよ……。」
「いんや。この菓子の事でごじゃる。」
「ああ、お菓子ね……。」
「歯ごたえ良くてウサギには最高のおやつ……うむ。美味美味。」
ウサギは幸せそうな顔をしながらクッキーをもぐもぐと食べている。
「で、話を続けない?」
「おお、そうであるな。ええっと、天記神を知っておるなら話は早い!我らの情報バンク、図書館の神、天記神。ラビダージャン!」
ウサギは頬張っていたクッキーをちらしながら叫ぶ。アヤは新聞紙をひいといてよかったと心から思った。
「それで?栄次がどう絡むの?」
「栄次が黄花門に入ってしまった。故にちょいと時神様に来ていただきたく思って。と、言うわけでごじゃる。」
「ちょ、ちょっと待って。全然わからないわ。話早すぎるわよ!」
アヤは慌てて声を発した。この説明ではまったく理解できない。ウサギはかなり話をすっ飛ばしたようだ。
「うー……ちょいと飛ばし過ぎたか。ええっと、弐の世界は御存知か?」
「それ、さっき話したじゃない……。」
ウサギはオドオドしながら言葉を話す。アヤは呆れてため息をついた。
「そ、そうか。えっと……動物にはない力、考える能力が人間にはある。その人間の脳は弐の世界により繋がっている。その人間の脳、つまり心は眠っている時、意識を失っている時に弐の世界に帰る。弐の世界は心の集合体。死霊は心だけなので弐の世界に住む。」
「つまりは心の集合体が存在するための世界ってわけね。」
「うむ。弐の世界は心ひとつひとつがそれぞれの世界を作っている。死霊もその夢の中で生き、その人間を守る守護霊となる。弐の世界は非常に曖昧で不確定要素が強い世界。故、壱の世界に住む我々が易々と入れる場所ではない。ウサギンヌ!」
「それが弐の世界なのね。死霊も心の中で生きる……心の世界ってわけね。そこまでわかったわ。ああ、クッキー私食べないからゆっくり食べていいわよ。」
クッキーを掴むウサギの手が徐々に早くなっている。アヤにとられまいと必死に食べているようにも映る。アヤに突っ込まれ、ウサギは急にほっとした顔をしてゆっくりクッキーを食べ始めた。物事をすぐに信じてしまう性格らしい。因幡の白兎に似ているか……。
「ちなみに参の世界が過去で肆の世界が未来。伍はわからぬ。陸は虚像の世界。」
「陸の世界は知っているわ。こことまったく同じ世界だけど昼夜が逆転しているのよね?で、あなた達、月神と太陽神が交互に二つの世界を守っている。太陽がこちらにある時はこちらを太陽神が守り、陸の世界は月神が守る。で、あなた達は一体しかいなくて今、ここにあなたがいるって事は向こうにはあなたはいない。……ちょっと待って!あなた、月と共に動いているのよね?という事は今、夜になっている陸にいるはずじゃない?なんで真っ昼間のここにいるのよ!」
アヤはふと気がつき、叫んだ。
「ん……。現世に降り立ったはいいが……迷ってしまって、月に帰れなくなっちゃったでごじゃる……。本当は夜にここに着く予定だったのだ。じゃが……もう月は向こうに行ってしまい自分は取り残されて……。」
ウサギが今にも泣きそうな顔でこちらを見るのでアヤは少し困ってしまった。
この状況からするとこのウサギはとてもドジな兎のようだ。そして群れから離れた事により、いよいよどうしたらいいかわからなくなり、洗濯カゴをあさっていたと思われる。兎は臆病な生き物だ。それは人型になっても変わらないらしい。
「まいったわね……。あ、ところでなんであなたはそんなに弐の世界に詳しいの?普通の神は知らない事なんでしょう?」
アヤは話題を変えて気を紛らわさせてあげようとした。
「うむ。それは月神様が弐の世界の表面も守っておられるからでごじゃる!中までは関わっておらぬが表面だけ。生身の人間が肉体を持ったまま、弐の世界に入ってしまわぬよう監視しているだけでごじゃる。だいたいの人間は夜、弐の世界へと心が動く。だから自分らは夜と共に行動しているのでごじゃる。肉体が弐に入らぬように監視しながらな。」
「でも、太陽が昇っている時に寝る人もいるじゃない?」
「それはそれで別の監視役がいる。まあ、だいたい、肉体のまま弐に入り込もうとするのは子供が多いのでごじゃる。子供は夜寝る。だから昼はそんなに監視を強めてはいない。らびだーじゃん!」
「なるほどね。で、その不確定な場所になぜか栄次が入っちゃったわけね?」
アヤは先程のウサギの話とつなぎ合わせ、予想を口にした。
「おお!話が早い!それで時神様に手伝ってほしく思い……あ、一度、月に来ていただきたいのでごじゃるが……月が……。」
また思い出してしまったらしいウサギが悲しそうな顔をする。アヤは慌てて話題を変えた。
「つ、月に行ってもいいわ。だけど、まだ時間が早いようだから……えっと、天記神の所へ寄ってもいいかしら?」
「……?」
ウサギは不思議そうな顔をこちらに向けた。
「ほら、ちょっと弐の世界について知っておきたいじゃない?」
「おお!」
アヤの言葉の真意がやっとわかったらしいウサギは感動しながら大きく頷いた。
アヤは心の奥底からため息を吐いた。
……また……巻き込まれてしまった……。て、いうか……自分がやる気満々でこの件を処理しようとしている事が悲しいわ。こんなペットみたいなウサギ、放っておけないじゃない……。
ウサギがクッキーを頬張る音と姦しいセミの鳴き声を聞きながらアヤは頭を抱え、アイスティーを飲み干した。
四話
栄次は深い森の中を進んでいた。もうすでに方向感覚がない。まわりは木々が覆い茂っており、同じ風景が続くため、もう戻る事は困難に思えた。道も険しくなり、岩がゴロゴロと転がっている。普通の人間なら恐怖と疲労でおかしくなってしまうだろうが栄次は平然と森の深くに進んでいく。
「ここは……樹海か?」
「ただの森の中だよ。青木ヶ原樹海みたいでしょ。あの樹海も同じ風景が続くから迷うんだって。迷う事には変わりないんだけどあの頃とは雰囲気がだいぶ変わったらしいよ。」
「……そうか。」
栄次は少女の声に相槌を打つとまた黙って歩き出した。
「……すぐにあの頃の事、思い出せるよ。紅色の蛇(くちなわ)……栄次。」
「紅色の蛇か。なつかしい。確か更夜(こうや)は……。」
栄次が何かを思いだすように目を空へと向ける。
「蒼眼の鷹(たか)……更夜。あの時はあなた達の名前がわからなかったからこう呼んでいたけど今だったら笑い話だね。あだ名、臭すぎだよね。」
「まあ、そんな所だろう。少なくとも俺は敵には名乗らない。」
岩を飛び越えながら栄次はどこにともなく口を開く。
「あなた達の敵がそう言う風に呼んだ由来は朽ちてほしいという願いが込められてくちなわ、更夜は名前に夜が入っている事から鳥目で弱いという事で鷹にしたらしいよ。というか、鷹って鳥目じゃないしつけた人は馬鹿だよね。まあ、悪口だよ。あなた達が強すぎたから本来の意味とは別に皮肉る意味も付け足したんだろうね。」
少女の声は絶えず前から聞こえる。だが姿は一向に見えない。
更夜に会っても声だけ聞こえて姿は見えないのではと栄次は今更になって思い始めた。
「ところで黄花門に着いたらお前の姿は見えるようになるのか?」
「もちろん。見えるよ。」
少女の声は栄次の疑問に即答した。
「そうか。」
栄次は短くそう言うと岩を軽々と飛び越えた。
「……あなたの心はどんどん昔に返って行く。そうするとわたし達が見えるようになる。」
また違う岩を飛び越えた時、栄次は何か不安定なものを感じ取った。空間が変わったような不思議な感覚だ。
「霊的空間に入ったのか?」
「そうだね……。」
少女がつぶやいた時、栄次の目の前に幼い女の子が現れた。真黒な忍び装束を着ており、肩先まである黒い髪の上に髷のようなものがついている。栄次はその少女の姿を一瞬で思い出す。
……変な髪だとあの時、思っていた……。この娘の姿を長年忘れていた……。
少女の前髪は子供らしく眉毛の上で切りそろえられている。パッと見て男の子なのか女の子なのかわからない。真黒な瞳には光がなく、濁りきっていた。
……健全な心をこの子は持っていない。人を騙す事だけを考え、人を殺す事に全力を費やし死んだ。……哀れなおなごだ。
栄次の感覚は徐々に『あの頃』へ戻っていた。
「はっ!」
気がつくと栄次はきれいな泉の前にいた。真夏だったはずなのだが泉の真ん中に満開の桜が咲いている。
「ここが黄花門だよ。栄次。」
「黄泉……。よもつひらさか……。桜が花……死者の門……それで黄花門か。」
栄次は足の先が泉に浸かっていたので慌てて足をひいた。
「それともう一つ、桜花(おうか)もあるね。」
少女は子供らしい笑顔で微笑む。この表情に栄次は何度も騙された。
……あの時、俺はこの娘を殺せなかった。
「ねぇ、そういえば栄次はなんで自分の刀を持っているのに人を殺す時だけ落ちている刀とか人から奪った刀を使ったの?ずっと疑問だった。」
「今更隠す事もないから話そう。俺は時神だ。時神は人間の時を守る神。人を殺す事はできない。自分の刀はもう霊的な武器に変わってしまっていたため、何度人を斬ってもその人間は死なない。だが、先程人間が使っていた武器なら俺の力が入り込んでいないので人を斬る事ができる。」
「ああ、そういう事。」
少女はふふっと笑った。
「……お前……名は?」
「……知っているよね?」
少女に見つめられ、栄次は不安感を抱きながらもまた唐突に思い出した。
「……霧隠(きりがくれ)……鈴(すず)。」
「正解。」
少女……鈴は嬉しそうに笑った。
「……更夜はどこにいる?」
栄次は鈴に尋ねた。
「その泉の中にいるよ。」
「泉の中……。」
栄次はしゃがみ込み、泉の水を眺めた。泉に自分の顔が映った。なんだか懐かしい感じと共に泉に溶けていっているような気がする。何が起こっているのかはわからない。栄次は懐かしい感覚に抱かれながら流れに身を任せていた。逆らう気はまったく起きなかった。
「栄次……あなたはこの世界で生きる事に疲れすぎているんだね……。気持ち……よくわかるよ……。」
鈴の声が遠く聞こえた。栄次は『あの頃』に戻っていく自分に逆らえなかった。
『あの頃』の事を居心地がいいと思った事はない。だが、なぜか心は軽かった。
アヤ達は駅前にある大きな図書館にいた。
「天記神ってどこの図書館にもいるわけ?」
「うむ。基本、どの図書館からも霊的空間に続いているのであります!ラビダージャン!」
ウサギとアヤは図書館を見回した。茶色のシックな壁、床。空間はレトロな感じ。古い本から漫画本まで棚にぎっしり詰まっており、大学生が机に座ってパソコンを開いている。絵本コーナーには子供が多数おり、皆、涼みにきたのか席を立とうとしない。
「どうも。こんにちは。」
本の貸し出し所にいたスタッフの女性がすぐに声をかけてきた。
「あ、えっと……こんにちは。」
アヤはいきなりだったので戸惑いながら返事をした。この女性にはこの霊的兎が見えているらしい。
……ウサギが見えている?という事は神かしら?
「あちら、歴史書コーナーの先でございます。」
「かたじけない!さっそく行くでごじゃる!時神様!」
ウサギはアヤの手を掴むと歴史書コーナーに向かい走り出した。
「ちょ……ちょっと!え?何よ!いきなり!……走らなくてもっ……!」
走りながらアヤは振り返る。しかし、もうすでに女性の姿はなかった。
歴史書コーナーは図書館の一番右端にあった。窓はなく、薄暗い。本棚にはここら辺の歴史が書かれている本が並んでいる。その先に、もう一つ空間があった。
「あそこから先が霊的空間なわけね。人間からするとここから先はただの壁。」
「この世で肉体を持っている以上はここから先は映らない!ここから先は心が行く世界でごじゃる故。」
ウサギはアヤを引っ張りながら解説をする。
「ねぇ、じゃあ、なんで私はここに入れるの?私は人間には見えるしパッと見て普通の人間よ?」
「何をおっしゃる!時神様はすでに人間の心が生み出した霊的存在。ただ、人間が『時神様は人間と共に生き、我々を見守ってくださっている。』と想像をしたが故に人間に見えるだけでごじゃる。」
ウサギは歯を見せて笑う。
「なるほど……。私も人間につくられた存在って事ね。」
アヤとウサギは霊的空間に入り込んだ。霊的空間といっても先程の歴史コーナーの延長線上のようなものだ。ただ、大きな本棚に本は一冊しかない。真っ白な表紙の本で達筆な字で天記神(あまのしるしのかみ)と書いてある。
「後はこの本を開けばいいと思うぞ!がはは。」
ウサギは先程から楽しそうだ。かわいらしい前歯を見せながら笑っている。
「ほんと、楽観的よね……。霊的生物は。じゃあ、開くわよ。」
アヤは楽しそうなウサギを横目で見ながら白い本を手にとった。そのまま、ためらいもなく本を開く。
……まあ、一度経験していないと戸惑うわよね。本を開くのけっこうためらうもの。
真っ白なページを何枚かめくった時、目の前も真っ白に染まった。
「……ん。」
気がつくとアヤ達は霧の深い場所に立っていた。盆栽があちらこちらにあり、どこかの庭のようだ。深い霧の奥に大きな建物が映る。
「さあ、行くでありますよ!時神様!」
「え……ええ。そうね。もう、なんだかあなたに対して何とも思わなくなったわ。」
アヤはウサギに引っ張られる形で霧の中を進んだ。しばらく歩くと霧の中から古い洋館が現れた。パッと見てお化け屋敷だ。
……一度来た事あるけど……やっぱりここは気味悪いわ。
アヤはふうとため息をついた。ウサギは飛び跳ねながら洋館の軋むドアを開ける。そしてアヤに先に入るように手で促していた。
「わかったわ。入るわよ……。」
アヤはドアを抑えているウサギの横を通り過ぎ中に入る。
「あら。いらっしゃい。」
洋館に入った刹那、男の声が聞こえた。
「ついこないだぶりね……。」
「そうね。」
アヤの前に奇抜な格好をした男が現れる。物腰は女そのもので仕草も女。彼は男だが心は女だ。紫色の着物に星をイメージしたらしい帽子をかぶっている。帽子から生える青い髪は長く、腰辺りまである。高貴な雰囲気のある男性だ。
「こんちはであります!天記様!」
「あら、ウサギちゃん!」
ウサギは丁寧に頭を下げた。天記神はオレンジ色の瞳を輝かせながら微笑んだ。
なんだかとてもお互いうれしそうだ。
「ニンジンくださいであります!」
「ああ!もう!かわいい!ああもう!かわいい~!」
天記神はニンジンをおねだりしたウサギを抱きしめモフモフとあちらこちらを触っている。
……なるほど。このウサギはいつもここに来てニンジンをおねだりしているのね。だから元気だったのか。このウサギ。
アヤはそう思ったが口には出さず、この前起こった事件を思い出してみた。
……もう、天記神は落ち込んでないみたいね。あれから何も起こってないみたいだし。
……しかし、いまだに慣れないのよね……この神……。
「ああ、アヤちゃん。そこの椅子にお座りになって!それとウサギちゃんもぉ!ニンジン持って来てあげるわね!ああ、アヤちゃんには洋菓子と紅茶でいいかしら?」
「え、ええ。ありがとう。」
天記神に押されるまま、アヤは沢山ある椅子の一つに座った。目の前には長机。上を見渡すと天井まで続く本棚。
……一体ここにはどれだけの本があるのかしら?
アヤは上を眺めた後、そのまま隣に座っているウサギに目を向けた。
「ニンジン!ニンジン!ニンジンでごじゃる!」
ウサギは目を輝かせながら即興で作ったらしいニンジンの歌を歌っていた。
やがて天記神が戻ってきた。机に紅茶とガトーショコラ、ニンジンが丸ごと置かれる。
「ウサギちゃんは何にも調理してないニンジンがいいのよね?」
「ありがとうでごじゃる!これで『ばちぐー』。」
ウサギは持って来てくれた天記神にお礼を言うと「いただきます」をしてニンジンにかぶりついた。ポリポリゴリゴリと歯が折れてしまいそうな音が聞こえてくる。
「さすがウサギね……。」
アヤはおいしそうに食べているウサギを呆れた目で見つめ、紅茶をすっと口にする。紅茶は温かい紅茶だった。ここの図書館自体が涼しいので温かいものも普通に飲めた。
「今、外は夏かしら?ここまで来るのに暑かったでしょう?」
天記神がアヤの向かいに座る。
「まあ……そうね。暑かったわ。八月も終わったのにまだ暑いのよ。ここは涼しいわね。」
「ここは半分弐の世界だからかしら。季節はないのかもね。」
「……!」
アヤは紅茶を飲む手を止めた。
「あら?どうしたの?弐の世界について聞きに来たんでしょう?」
天記神はアヤを眺めながらフフッと笑った。
「まだ何にも要件言っていないのになんでわかったのよ……。」
「あのいい男の栄次様の件でしょう?私、ちょっと『ふぁん』なのよ~❤なんかすごい硬派じゃない?もう……会ったらハグよね~。」
天記神は幸せそうな顔で恥ずかしがっている。
……ハグ……ねぇ……。
アヤはその情景を思い浮かべ顔を青くするとブンブンと頭を振ってガトーショコラを頬張り始めた。ちなみにウサギは横でニンジンをかじりながら馬を制作している。
……べ、別におかしい事じゃないわよね……。彼は女性……なんだから。そう……女。
「冗談はここまでにしてと……。栄次様は弐の世界に入り込んできましたよ。正規ではないルートでね。それで月が大騒ぎして情報を集めているけれど弐の世界に入れないんだから何にも見つからない。」
……冗談ってどこまでが冗談だったのかしら?まあ……いいわ。
「じゃあ、私達がここに来ることをある程度想定していたのね?」
「まあ、そうねぇ。来ないかとも思っていたけど。私はどっちにしろ、ここから動けない。だから情報なんてほぼないに等しい。」
「でもここ、弐の世界なのよね?」
「そうよ。弐の世界でもここは大量な想像力を持つ人間の心が通り過ぎる世界。私は眺めているだけだけど面白いわよ。ここに来るのはお話を作っている人とか妄想激しい人とかそういうはっきりとしたものがあって心の中で世界を作っている人かしら。まあ、こういう事を言うとなんか変人扱いしているみたいだけどね……。」
天記神はフフフと微笑む。
「じゃあ、ここから栄次を助けに行けばいいんじゃない?ここ、弐の世界なんでしょ?」
「……っ!」
アヤの発言に天記神だけではなく、隣でニンジンを頬張っていたウサギも顔を青くした。
「な、何よ?」
「時神様!それだけはダメでごじゃる!弐の世界は正直どうなっているかわからないであります!戻れなくなるでごじゃる!」
ウサギが必死に止めるのでアヤは唸った。
「そう?まあ、天記神もここから動けないわけだし……やっぱり、色々やばいのね。」
「アヤちゃん……この世界は神々も無意識によく訪れる世界。アヤちゃんの心もここに来ているのよ。心がちゃんと朝になった時、あなたの元へ戻って来れるのはあなたの肉体が常世にあるから。肉体も一緒に入り込んだら出られなくなるわよ。」
天記神が鋭いオレンジ色の瞳でアヤを射抜く。
「……じゃあ、夜寝てから来ればいいのかしら?」
アヤは怖気づきながらも言葉を発した。
「アヤちゃん、あなたは寝ている時に正常な自分でいられる?弐の世界にいるって事がわかる?」
「……わからないわね。」
「弐の世界は毎回変わるわ。心に反応してね。一人一人世界が違うのよ。例えばこないだのアヤちゃんの世界は前現代神、立花こばるとが存在している世界。あなたはきっと覚えていない。」
「……立花……こばると……。」
アヤは何かを思いだすように目を閉じた。それから怯えた目で天記神を仰ぐ。
「ね?心がある者には必ず弐の世界が存在するの。そうやって沢山世界がある中であなたは他人の世界を壊さずに栄次の世界を探し出して入り込めるかしら?」
天記神に言われ、アヤは何も言えなかった。こばるとがいた世界を自分がつくっていたなんてまったく覚えていなかった。
改めて弐の世界の怖さを知った。
「じゃあ、どうすればいいのよ……。」
アヤがぼそりとつぶやいた時、天記神のオレンジ色の瞳が鋭くすっと横に動いた。
「どうしたのよ?」
「お客さんね。」
「お客さん?」
アヤの目も自然とドアの方へ向く。しばらく、ウサギのニンジンを食べる音だけが響いていた。
「ふぅ……どうも。ちょっと暑いから涼みにきたんだが……。」
ドアが開く音と共に男の声が響く。その後すぐに赤髪、長身の男が顔を出した。
上下紺色の長そで長ズボンを着ており、頬に赤い三角形のようなペイントをしている。
キリッとした紅色の瞳が異色さを出しているが整った顔立ちをしている。
「湯瀬プラズマ!」
「なんだ?お前誰?ひょっとすると現代神……か?」
プラズマは驚きの声を上げた。
「え……?私を覚えてないの?」
彼は時神の中で未来を守る神、未来神湯瀬プラズマだ。何度かアヤは彼に会っているのだが。
アヤとプラズマはお互い固まった。ウサギはニンジンを頬張りながら首を傾げている。
「あら?肆の世界の方ね。いらっしゃいませ。」
「ちょっと、天記神……。肆の世界って何?なんかそこのウサギが未来とかって言ってたけど。」
アヤは動揺した頭を平静に戻そうとしながら質問した。
「常世は三本の線のように歴史が伸びているのよ。今が現代の世界、過去の世界、未来の世界の三つ。時神は時渡りできない仕組みでしょ?できるとすれば人間と時神の力が混ざり合っている時。つまり、時神になりかけの時か消滅する時か……。」
「嫌な事を思いだすわね……。」
時神の生は人間から始まる。はじめは人間の力と時神の力、両方持てる。徐々に人間の力がなくなり時神は役割を与えられその時代で生きなければならない。消滅する時は人間の力が逆に入ってくる。徐々に時神としての力は失われていき、人間になっていく。百年を超えた時神ならば完全に人間になった段階で身体の時間が急速に動きはじめ、消滅する。
現在存在している時神よりも強い力を持つ時神が誕生したら、その時神は消えて行く。
アヤの先代時神、立花こばるとはアヤが誕生した段階で劣化を始めた。まだ生きていたかった彼はアヤを殺そうと試みた。この時アヤはまだ時神になっていなかった。人間の歴史を作る能力と時神の力、両方持っていた。それと同時にこばるとも人間になりかけている故、両方の力が使えた。時神の事を何一つ知らないアヤを連れまわし、人間の能力と時神の能力を使って時を渡り、プラズマと栄次にアヤを殺させようとした。
そんな事件が少し前にあった。
「一度、あなた達が過剰に時渡りをしていた時があったみたいだけどそれはあなた達が過去の世界、参や未来の世界、肆に飛んでいたって事なの。」
「過去、現代、未来は一直線だと思っていたわ……。」
アヤの言葉に天記神は微笑んだ。
「三直線だったのよ。本当はね。」
天記神はどこからか紙を出すと近くにあったペンで三本の直線を描いた。
「真ん中が現代、左の線が過去、右が未来。」
天記神は説明しながら三本の線の同じ所に点を打ち、それを線で結ぶ。三本の線に垂直になるように線が引かれた。
「この点は全部平成の時代ね。参の世界では過去の平成、肆の世界では未来の平成。過去に行く時は参の世界を通るし、未来ならば肆の世界に行く。時間を飛ぶ時には絶対にこの真ん中の線、現代の世界、壱にはいけない。」
天記神が『xyグラフ』のようにx軸に時代、y軸に時間と書いた。
「なあ、それだと違う時代の自分には絶対会わないんじゃないか?」
先程から天記神の後ろで紙を覗きこんでいるプラズマが声をあげた。
「そうね。普通は会わないわ。参の世界は過去の時神しかいないもの。肆の世界にはあなたしかいない。でも、現代神が時を渡り、肆の世界であなたを連れてから参を渡ってまた違う時代の肆に戻ってきたら、その時代にいる自分に会ってしまうわよ。」
「なるほど。壱や参を経由して本来いるべき時代じゃない肆に渡ったらその時代にいる俺に会うわけか。」
「ものわかりいいわね。」
天記神がプラズマに笑いかける。プラズマは何度かこの図書館に足を運んでいたらしい。天記神とも仲がよさそうだ。
「ごめんなさい……。ちんぷんかんぷんだわ……。」
アヤは途中からわけがわからなくなり半ば聞いていなかった。ウサギは横でニンジンを東京スカイツリーに変えている。
「まあ、いいわ。そんな事を知っていてももう意味ないですからね。」
天記神は混乱しているアヤに微笑んだ。
「ま、まあ、その話はいいわ。なんでプラズマと私が会うの?肆と壱は違う世界なんでしょ?」
「ここは弐の世界よ。横軸方向に存在する世界なら人間の図書館を通ってここに来られるわ。ここは違う世界でも同じ時代なら繋がっている場所だから。」
「じゃあここで未来神や過去神に会う事はおかしなことじゃないわけね。」
アヤは冷や汗をかきながら天記神を見つめる。本来、時神は常世で会ってはいけないものだ。
時間のバランスが崩れるなど色々言われている。
「そういう事。同じ時代の時神だったら大丈夫よ。あなた、この平成の時神でしょ?」
天記神がプラズマを見上げる。
「そうなんじゃないか?この平成を未来だととらえている世界だろ?まあ、俺自身もそこらへん、よくわかんないんだけどね。」
「そうか。だから私の事を知らなかったのね。私が会ったあなたはもっと未来のあなたって事。」
アヤは椅子に座るプラズマを見つめた。プラズマはウサギの横の椅子へ座った。
「そこらへんはどうでもいいんだが、そこでニンジン食っている生き物はなんだ?」
「らびだーじゃん!」
ウサギは元気よくプラズマに東京スカイツリーを見せた。ニンジンでできているとは思えないほどに精密にかじられている。
「なんかうまそうな外見してるな。君。」
「ひゃ!?」
プラズマの発言でウサギは顔を青くして縮こまった。
「冗談だ。で、何?この生き物。」
プラズマは青ざめているウサギから目を離すとアヤに話しかけた。
「ウサギよ。月神の使いらしいわ。」
「はあ、ウサギか。」
プラズマはまたウサギに目を向ける。ウサギは東京スカイツリーの先端をもぐもぐと食べながらプラズマを青い顔で見つめている。
「あ、あげないであります!これは自分の……っ。ひい……。」
ウサギはプラズマが少し動いただけで声を上げた。だがニンジンは離さない。
「ウサギそのものだな……。」
「ウサギちゃん、怖かったらこっちいらっしゃい。」
天記神においでと手招きされ、ウサギは素早い動きで天記神の横に座る。もちろん、ニンジンは持ったままだ。
「で、現代神はここで何しているんだ?なんか調べものか?」
「アヤでいいわ。あなたも栄次の事で来たんじゃないの?」
アヤに問われ、プラズマは首を傾げた。
「栄次?過去神か?」
「そうよ。なんか、彼、心と死霊の世界、弐の世界に入り込んでしまったみたいなの。」
「弐の世界……。」
プラズマは先程見た未来を思い出した。
「そういえば、栄次ともう一人銀髪の男がな、桜が舞っている場所で刀を交えていた未来が通ったぞ。」
「え……。」
アヤはプラズマを戸惑った顔で見つめた後、天記神を仰ぐ。
「桜……弐の世界であるならば黄花門……だわね。」
天記神はふうとため息をついた。
「黄花門?」
アヤとプラズマは同時に声を出した。
「どこにあるかはわからないわ。ただ、霊が通る門……だったかしら?いや、そうとも言えないわね。弐の世界は不確定要素がありすぎるから……。言い伝えだと霊が通る門。まあ、その言い伝えも人間が考えたんだと思うけど。」
天記神が頭を抱えた。
「つまり、あるかどうかもわからないし、どこにあるかもわからない。あったとしてもなんだかわからないって事ね。」
「そういう事。」
天記神はため息をついた。
「あ、そういえば。」
突然ウサギが話に入ってきた。
「ん?どうしたの?ウサギちゃん?」
天記神がウサギの頭を撫でながら尋ねる。
「えーと、実は月神の御姫様、月子さんにはお姉様がいるのでごじゃるがずっと意識が戻っていないであります!もしや、弐の世界から出られないのかと……。」
「なんでそんな大事な事を思いだしたように語れるのよ……。あなた。」
アヤは呆れた目をウサギに向けた。
「月神か……。そういえばなんでウサギがチョロチョロと動いているんだ?」
プラズマはアヤに説明を求めた。
「月神は弐の世界と表面上で関わっているらしいわよ。それで栄次が弐に入り込んでしまったと知ってまず、私の所に来たらしいわ。」
「なるほどな。じゃあ、君はあれなんだ。問題を起こす方じゃなくて巻き込まれる方か!」
プラズマはアヤに対し大きく頷いた。
「そんな納得のされ方は嫌だわ……。で、一度月に来るように言われたんだけど、今は月が出ていなくてウサギが月に帰れないからしかたなくここにいるの。」
「しかたなくって……アヤちゃん。」
向かいの席ではにかむ天記神が映る。
「ああ、えっと、弐についてお話を聞きに来たの。」
慌ててアヤは言葉を付け加えた。
「そうなのか……。よし、俺も付き合う。栄次の件は少し心配だ。現代神だけに任せておくのも悪いしな。」
プラズマは余っていたガトーショコラを口に入れる。
「うう……そこの男も来るでごじゃるか……。えっと……どちらにしても月にはまだ帰れないのでしばらくここにいるであります!ウサギンヌ!」
ウサギはニンジンをすべて食べ終わり、おかわりをおねだりした。天記神はニコニコと笑いながら奥の部屋へ消えて行った。
「向こうの部屋には台所でもついているのかしら?」
アヤは一息つくと紅茶を口に含んだ。
五話
私は忍たった。
……知っている……
まあ、いいからちょっと聞いて。
……かまわん……
私があの時、何を思って動いていたのか……あなたに見てほしいの。
……。
「鈴。」
「はい。」
ここは人里離れた山の中。ここに私達の隠れ家があった。私は当時十二歳。
本当は七歳なんかじゃなかった。ただ、顔が幼すぎなのと身長が低い事から子供によく見られていた。七つと言っておけばどんな敵だって必ず隙を見せる。これも忍術のテクニックだ。
ここは隠れ家内の畳が敷き詰められた部屋。
「お前にやってもらいたい事がある。」
私の目の前にいるのは伊賀流の忍術使いで霧隠と名乗っている男、私の父。才蔵ではない。普段はみすぼらしい着物を着ている。ちなみに私も前で合せてひもで結んだだけの簡単な着物を着ている。
「なんでしょうか?お父様。」
私はなんだか嫌な予感はしたが逆らわずにとりあえず話を聞くことにした。
「蛇(くちなわ)と鷹は知っているか?」
「知っていますが。」
「お前にそれの討伐を命じたい。」
「!」
嫌な事だとは思っていたけど予想をはるかに超える事を言われた。
「お父様がやればいいじゃないですか……。」
「まともに向かっては勝ち目がない。」
父が何を言おうとしているのかすぐにわかった。
「お父様は性転換もできるではないですか……。まあ、あれは凄く痛いらしいですが。」
「伊賀流の忍術を使って女に化けてもあの者達は騙せない。だがお前ならできるだろう。お前は正真正銘の女だ。」
「……。家を存続させるのが大事なのですね……。ここの城主にあの二人を殺せと命令が来ているのでしょう?」
私の言葉に父は渋面をつくった。どうせ私の事なんてただの駒くらいにしか思っていないだろう。私には兄がいる。その兄に家督を譲るために父は頑張っている。兄はここからそんなに離れていない城の屋敷に住んでいる。影の稼業でまわりを蹴落としてきたが一応、そこらで名の通った武将だ。
蛇と鷹は敵国に住む殺人鬼のあだ名である。勘が鋭く、まわりの偵察忍者もかなりやられている。かなりの腕利きで反射神経も忍をはるかに上回る。忍もこの国の武将もあまり会いたくない人物だ。故に、自国は隣の国にも関わらずあの国を落とす事ができない。
その腕利き二人を殺せと父は言う。
「……わかりました。」
私は諦めてこう言った。忍は組織で動いている。武将は兄だがその下には蟻のように沢山の忍がいる。今も遠くで吹き矢を構えている男がいるらしい。私が反対したらきっと殺すつもりだ。忍は情報を外には絶対に漏らさない。このまま、反対して逃げたらどこまでも追ってきて殺される。
観念した私は七つの娘として敵国に入り込むことにした。着物などは父が用意してくれた。父親が娘を敵国城主に売るという話でまとまった。金がない家を装い、汚らしい格好で父親役の男に連れられて取引所に向かう。敵国の城主は鷹と蛇のおかげかピリピリしている様子もなく、他国から女を買っては遊んでいるらしい。
正室も側室もいるって言うのに。
蛇と鷹が消えたら終わりだろうなと私は思った。ここ取引所で女達は使いの者が来るまで待機させられる。金のない農村の娘達が身体を震わせながら座り込んでいた。
見張りの多い門の前で待たされる。どの娘も十五、六くらいだろう。私よりも年上だ。
私が果たして彼女達と共に城の内部へ入れるか……少し疑問を持った。
やがて使いの者だと思うが、ひとりずつ顔から身体から眺めまくっている男が現れた。選別しているらしいなと私は思った。弾かれた女は涙を流し、別の男に連れて行かれる。
……この中で素直に家に戻れる女がいるかな……。ここで弾かれたら自殺するしかないね。
……それか……
私は連れ去って行く男を睨みつける。
……あの男どもが手をつけてから別の所に売るか。あの男達に殺されるか……。
まあ、いい選択肢はないね。
「なんだ?生意気な顔をしているな。」
「はっ!」
私は選別の男が前に立っている事に気がついてなかった。
……しまった……
「お前、まだ子供だろう?……まあ、長い目で見ればありか……。ふむ。体はそこそこ。顔は上々。」
男はそれだけ言うと隣の女へと行ってしまった。私は他の男に連れ去られる事はなく、その場に残された。気がつくと残されている女はたった三人。他の女はすべて弾かれたらしい。
私達三人は男に無造作に担がれ、樽の中へ押し込まれた。
……なるほど……正規ではなく、贈答品とかと混ぜて城に入れる気だね。
私は樽の隙間から外を伺った。牛車に乗せられているらしく揺れが激しい。前に樽が二つ。おそらく私以外の女。後は刀とか食べ物とか兜とかそういうのだ。
城に入ったところで前二つの樽は担がれて城の内部へと消えて行った。しかし、私の入っている樽は一向に担がれない。他のよくわからないものもどんどんと城の内部へ吸い込まれていく。
不思議に思っていると樽の蓋がパカッと開いた。
「……?」
私は上を向いた。眩しい太陽の光をさえぎって先程の男がこちらを見ていた。
「お前はまだまだ殿に奉仕できる女じゃないからな。城に入る前だ。」
「……。」
私は怯えたような顔をする。平気な顔をしていたら怪しまれるからね。
なんとなく見えてきた。
……お父様はこれを狙っていたんだ。ここの城のつくりは覚えている。城の近くの屋敷には名のある武将が住み、城の遠方にある屋敷には地位はそれなりだが手柄が多い武士が住む。つまり、城主が要注意人物と思っている人間か、裏切る可能性が高い人間をこちらに住まわせているって事。
手柄が多いのに地位をそれなりにしているって事で予想がつく。
この城から遠い所にある屋敷は少し特殊で個人で屋敷を持っていない。つまり沢山の武士が缶詰状態にされているって事。故にお手伝い兼、夜の秘め事用に女が多数住み込みで働かされている。かなり特殊な屋敷だ。
……蛇と鷹は城の中じゃない……ここにいる……。
少し身震いしたが冷静な面持ちで樽から外に出る。
「怖いか?」
「……。」
男の問いかけに私は怯えて声も出せないフリをした。男はニッと下品に笑うと私の手を引いて歩き出した。
……下品な男……。
私はそう思いながらも男に素直について行った。
そして一つの屋敷の前にたどり着いた。城からかなり離れていたがけっこう大きな屋敷だ。
「じゃあな。後はここの女どもに聞いてくれ。」
男は乱暴に私を突き飛ばした。私は受け身をとろうかとも思ったがやめて素直に転んだ。
男はそれを満足そうに眺めると私に背を向け歩いて行った。
……中に入ってまず、蛇と鷹の居場所を突き止めるのが先だね。
私は身体についたほこりを払うと屋敷内へと足を運んだ。
屋敷内はきれいに掃除されていた。軋む音がする木の廊下を歩きながら物の場所を確認する。
ここは廊下の両側に障子で仕切られた部屋が多数ある。これのうち、どれかが蛇と鷹の部屋。
まずは内部調査からやっていかなければならないね。
少し歩いた所で気配がした。私は振り返りたいところを堪えて気がつかないふりをする。
「あなたが新入り?」
声をかけてきたのは女だ。振り返るときれいな着物を着ているきつい顔の女が立っていた。
「え……えっと……。私はどうすればよろしいでしょうか……。」
私はわざと戸惑った声をあげる。演技には自信がある。私は何度もこういう潜入をして人を殺してきた。もう今更、なんとも思わないけど。
「こっちにきなさい。」
女は冷徹な笑みをこちらに向けている。
……ああ、なるほど。この女はいやがらせ、もしくはいじめの達人だね。
私はわかっていたがあえて従い女の元へ向かう。
女は私の手を引いて歩き出した。手を握る力の強さ、引っ張り方でこの女が今、どういう気持ちなのかなんとなくわかった。
単純に遊び道具が来たとしか思っていないね。
私は呆れたが顔には出さずに従う。
女は男達が住んでいる部屋から少し離れた部屋の前で止まった。中から女の声がする。
ここは女部屋らしい。
女が障子をそっと開ける。
「ねぇ、見て。こーんなみすぼらしい子が入ってきたわ。」
女がひどい言葉で私を紹介する。女部屋には沢山の女がいた。座る場所がないくらいだ。そして化粧や香の匂いだろうか、艶やかな匂いがする。
……夜は男の部屋に行っているから寝る部屋がなくてもいいのかな。
私がそんなくだらない事を考えた時、女達の過激ないじめは始まっていた。
「ねぇ、あなた、男に対するご奉仕の仕方知っている?」
女の内の一人が私に詰め寄ってくる。いやらしい笑みを浮かべて化粧の濃い顔で近づいてくる。
「知りません……。お姉さま。」
「障子戸をいきなり開けてね、お水を盃に入れてあげるのよ。それでね……。」
……この女は私に恥をかかせるつもりだね。男の奉仕の仕方はある程度知っている。
無茶苦茶言ってるけどなかなかおもしろいよ。お姉さん。
「そうなのですか。参考にいたします。」
私は無邪気な笑みを女に向ける。女は満足そうに頷いた。
「あ、そうだ。ねぇ、この子、今日、栄次様付きにしてみない?」
「あはは!それいい!」
一人の女の意見に他の女達は笑いと共に騒ぎ出した。
……栄次様?
「じゃあ、あんた、今日栄次様ね。」
女は急にそっけなくそして冷たい目で私に命令をした。
……この女達がまともな男を指名するはずがないね。きっと危ない男だろうな。もしかしたら……。
「あの、お姉さま、栄次様ってどういうお方ですか?」
「とーっても優しい男よ。安心しなさい。」
この笑み、この声の高さ……間違いない。嘘だね。という事は真逆かな。
「戦で強いお方なのですか?」
私は信じたふりをして目を輝かせる。
「そうよ。とーっても強い方。」
女は調子に乗ったのかペラペラとしゃべり出す。
……これは声の感じで嘘じゃないね。という事は強くて冷徹な男。……ありえるかもしれない。
だが殺すのはちゃんとわかってからだ。しばらく、時間がかかりそうだね。鷹と蛇の外見とかどういう性格か、いつ隙を見せるか……。いままでの殺しで一番、大変な仕事だね。
まあ、私自身、男の子に化ける事が多くてこんなガチガチな女役なんて初めてなんだけど。
まわりの女達を見ても笑顔が引きつっている。誰もその男の場所に行きたがってない。
……これは心してかからないと……殺される。
時間はいくらでもある。長い年月をかけて確実に殺せる時に二人とも始末する。
夜になった。ある程度の着物を着せられた私は一人の女に連れられてある障子戸の前に立っていた。ここら辺の地理は覚えた。部屋の場所もわかった。女は薄笑いを浮かべると私を置いて暗闇に消えて行った。
部屋にはろうそくの明かりが灯っている。中に男がいる。それは気配でわかる。
私は怖気づいた子供を演じる。もじもじと障子の前で大げさに動く。なんか言葉をかけられるかとも思ったが男は声をかけてこない。
私は強行に走る。
「し、失礼致します。」
怯えながらそっと障子を開ける。いきなり障子を開けるのは無礼かとも思ったがしかたがない。正座をし、頭を床につける。多少、作法が間違っていた方がいい。完璧すぎると怪しまれるからだ。
だいたいここの国の作法なんて知らないし。ここの国はおかしい国なんだからなんでもいいのか。
「……子供か?」
私は暗闇に映る男の顔を見た。眼光鋭く、茶色の髪の男。緑の着流しを着ている。手元には刀が握られていた。
……この男、私の気配から少しの殺気を読み取った?警戒……されている。
「……。」
私は怯えた子供を演じる。これからはじまる初めての行為に身体を震わせている子供。
「……あいにくだが……俺は女を呼んでいない。これからもう寝るつもりだったのだ。酒もいらん。」
男は困った顔でこちらを見ていた。
……この男……底が見えない……。間違いない。蛇か鷹だ。
「そ、そんな事おっしゃらないでください。困ります……。」
わざと無礼に子供らしく必死さを出してみる。
「お前、名は?」
「鈴……と申します。」
「歳は?」
「七つです。」
「七つか。俺は子供には興味が沸かない。すまないが……。」
……冷徹な感じではないね……。だけどいきなり殺せるような男でもない。
そんな事を考えていた時、男の目が私の後ろに向けられた。私もさっきから気がついている。
例の女がこちらを覗き見ている。この男が賢く優しい男なら私を中に入れるだろう。
「……まあ、いいだろう。少し入るといい。」
男は私を中に入れてくれた。私は無造作に障子戸を閉める。作法通りに閉めたらあの女が怪しむだろうからね。
……やはり、優しく賢い男だ。そして勘が鋭い。私が無理やりここへ連れて来られた事に気がついた。
「お前、売られてきたのか?」
「……はい。」
「俺はここの城主が狂っている人間だと思う。若い女を連れて来てはここで奉仕に慣れさせ、後で自分の物にする。それに精通してそうな女はすぐさま連れて行かれる。お前もその類だろう。」
「……。」
私は黙った。ここで素直に答えてしまったら城主の首を狙っていると思われかねない。
この男はまだ私を疑っている。私はわからないフリをする。
「まだ子供だからわからんか。……今日はここで眠っていくといい。俺は何もしない。……哀れな娘だ。」
……哀れね。ある意味そうかもしれないな。実際、色々やってきたけど男に抱かれた事なんて実は一度もないんだからね。あなたが初だったかもしれないのにね。
男は布団をひいてくれた。
「俺は座って寝るからお前は横になるといい。」
男はそう言って障子戸の近くに座った。
ここは無理に抱かれなくていいか……。素直に眠った方がこれからのため……。
私は男をじっと見つめた。
……手を出してもすぐに反応できる位置に座っているね……。これじゃあ、寝ている所を襲う事はできないね。
「なんだ?安心して眠れ。俺は何もしない。」
男はそう言ってろうそくの火を消した。暗闇が空間を支配した。しばらく私はそのまま横になっていた。真っ暗の中、虫の鳴き声だけが響く。
私は横目で男を見た。
普通の人間には見えないけど私には彼が見えている。夜目の訓練は相当積んだ。横になっていた私はゆっくりと起き上った。この男がどれだけの者か少し試したくなったからだ。恐る恐る気配を消して男に近づく。
だがだいぶん早い段階で気がつかれた。閉じていた目がすっと開き、刀に手がかかる。
先程からあちらこちらで男女の嬌声が聞こえる。まったくはしたない屋敷だね。
私は男の間合いに入るのを諦めた。私が気配なく近づいたとあったら間違いなく怪しむ。
私は布団の中に戻ってからこの男の緊張を解く術を探した。
ええっと、この男はたしか栄次って名前だったね。
「……栄次様……。」
私はひどく甘えた声を出す。
「お前、まだ起きていたのか。」
「私……このままだとお姉さま達に叱られてしまいます。ただ、男の人の部屋で眠っただけとあっては……その……。」
きれいに誘えた。実に子供らしい。
「そうだな。では、俺が酒に酔ってそのまま寝てしまったという事にすればよい。俺は別にどう言われようが構わぬ。」
栄次の表情はなんら変わりなく、私を見てもいない。私は完全に諦めた。今日はおとなしく寝て明日またうまく女達に言ってもう一回ここに来よう。
次の日、なんの痛手もなく女部屋に戻った私は話術で女達を操った。また栄次になるように女達を誘導したのだがもう一人の男の奉仕をするよう言われてしまった。
……またやっかいそうな男だ……。女達の証言から、こちらの男も強くて冷徹な男。
鷹か蛇の可能性が高い。また当然、一回目で殺そうとは思わない。殺せる男でもない。何回か部屋に出入りしないと迂闊に動けないな。まあ、あの栄次はちょっと後回しにするか。
で、ここに来て二日目の夜。また、女に連れられて男の部屋を目指す。栄次の部屋とは少し離れた部屋に置き去りにされた。昨日と同様、私はもじもじと身体を動かす。
「……入りなさい。」
低く鋭い男の声が障子戸の中から聞こえてきた。栄次とは違い、こちらはすぐに声をかけてきた。私は恐る恐るの演技で障子戸を開ける。
「し、失礼致します。」
昨日と作法を同じにしてみた。そのままゆっくりと障子戸を閉める。
「子供が入ってきたとは聞いているがずいぶんとかわいらしい子供だ。こちらへ来なさい。」
私は男の顔を眺めた。歳をとってもいないのに銀髪で目は藍色、栄次よりも肌が白い。整った顔立ちをしているが目が悪そうだ。
私は素直に男の側へと寄った。男は私をじっと見つめる。
「なるほど。君、七つではないな?」
「……っ!」
男は私が七歳ではない事に気がついた。いままで誰も気がつかなかったというのに……。
それと同時に単純な恐怖が私の横を通り過ぎる。
……この男は……栄次と比べるとやばい部類だ。
男は私の腕をいきなり掴んだ。
「うっ……。」
私は思わずうめき声をあげてしまった。あまり冷静な思考回路になっていないが素直な反応という意味では絶大な効果を発揮するだろう。
「この手……細やかな作業が得意か?腕もよく鍛えられている。」
男は鋭い瞳をさらに鋭くして私の腕を触る。きっと目があまり見えないから触って確かめているのだろう。普通の人だったら気がつかない事をこの男はどんどん上げていく。
……ちょっと……まずいな……これ。
「何を……していたんだ?」
単純に興味で聞いたのかそれとも疑っているのか……。そんなの考えなくてもわかる。後者だろう。男の瞳が深く、冷たいものに変わっているからだ。底冷えするような感覚の中、私は怯えながら答える。まあ、もちろんこの辺も演技だけど。
「昔から手先が器用で……お母様ゆずりだと思うんですけど。ちょっとわからないです。ごめんなさい。腕は畑仕事をよく手伝っていたからだと思います。」
私は子供臭く精一杯の意見を述べる。まあ、これも演技なんだけど。
「なるほど。そうか。それで俺に何をしてくれる?」
「お酒お注ぎ致します。」
私は持って来た徳利と大きなお椀を畳に並べる。お椀の方を男に差し出した。
このまま事が進むかと思ったが彼は私の予想を反する事をしてきた。
「お前がまず飲むといい。」
男は先程よりもさらに冷たい声を出し、私の耳元でささやいた。別に毒なんて入れていない。
こんなので殺せる相手ではないと思っているからだ。ただ、ここで飲まなかったら色々まずいし、飲んだら飲んだでおかしい……。
私が迷っていると男は薄笑いを浮かべ私を押し倒した。この男は色々といきなりだ。
ここから先の行為ははじめてだが何とかなるだろう。私は彼を受け入れる体勢になった。
その時、私に覆いかぶさりながら男は耳元で冷たくささやいた。
「俺を殺しにきたんだろう?どうなんだ?それと、酒は飲まなくて正解だ。」
「……っ!」
殺気。明らかな悪寒と恐怖が私を包む。この男は……私の正体に気がついている。
気がついていてわざと……。
無様にも私は恐怖で動けなかった。男は私の体をゆっくりと触りながら反応を見、鷹のような鋭い目で本性を暴こうとしている。男は服を脱がない。私を抱こうとはさらさら思っていないって事だ。何を考えているのかわからない。
……こんな恐ろしい男を殺せるわけがない……。
「どうした?余裕がなさそうだな。作り物の女の鳴き声ではないのか?」
私はこの男の愛撫を喘ぎながら受けるので精一杯だった。指は上から次第に下の方へと動く。
「んっ……。」
こんなはずじゃなかった。頭は真っ白でもう何も考えられない。私を支配するのは快感だけだった。まどろみと熱の中でさらに絶望的な言葉を彼はかける。
「……栄次から変わった子供がいるという事を聞いてな……。俺を殺したければ今やればいい。できなければこれから後悔する事になる。」
すべて見透かした上で言っているのだろう。私は指の動きに合せて小さく反応するくらいしかできなかった。男は冷酷な表情のまま私に触れ続けた。身も心もズタズタに切り裂かれるようなそういう感覚も同時に湧いてくる。
……この男は下品な他の男とは違う。
これは近づく女の本性を暴く技。的確な場所を的確に触り徐々に抵抗できなくする。性的な気持ちでやるのではなく、女を性的な気持ちにさせるそういう技。男の忍者が得意とする技だ。
いままでこういう女相手に何度も用心を重ねていた……そんな情景が浮かぶ。
私は思った。この男は間違いなく忍……だと。
この忍も何かの任についているはずだ。だが今はそんな事どうでもよかった。
男の指の動きに私は情けなくなるほどに喘ぎ、体を痙攣させた。
「こういう事に慣れていないのか?足と腕しか触れていないが。反応が丸見えだな。」
何度か絶頂をむかえさせられて私は意識を失った。
畜生……。あの男、あれ以外何もやってこなかったのか?
夜明けを迎えたのか部屋の中もだんだんと明るくなってきた。
「大丈夫か?送っていくぞ。ああいうの、初めてだったんだろう?」
男はフラフラしている私に声をかけてきた。私は男を殺すどころではなく快感の中に溺れ、勝手に意識を失った。最悪だね……。
「大丈夫……です。」
電撃が走っているようにピクピクと体中が痙攣している。私は操り人形のように力なく壁に手をついた。
「この部屋の間取りとか覚えておいた方がいいんじゃないのか?」
男の言う通りだったが私はもうそれどころではなかった。
「……。」
「心配するな。少し触っただけだ。後は何もしていない。」
私は動揺していた。男の顔をまともに見る事ができなかった。男は指先を軽く舐めると私を殺気のこもった瞳で見つめた。
……完全に気づかれていた。恐怖がさらに足を動かなくする。まさか、この男、忍だったなんて……。
「名は更夜。敵国には蒼眼の鷹と呼ばれているか……な。」
蒼眼の鷹……更夜……。確かに鷹のような鋭い目を持っている。目はあまり見えなさそうだが気配で色々わかってしまうのか。これは間違いなく鷹だ……。
更夜は知らずの内に私の背後に立っていた。悪寒と粟粒の汗がまた私を襲う。
「そしてもう一つ。俺はまだお前を完全に忍だとは思っていない。故、今は生かすが忍だとわかった段階でお前を殺す。子供とか女だからとかそういう言い訳は通じない。忍はそういう運命だ。お前は忍だとばれる事なく俺を殺してみせろ。これは命をかけた勝負だ……。そうだろう?」
私は振り返る事ができなかった。冷たい声を聞きながらただ震えていた。逃げる事は許されない。
逃げたら確実に他の忍に殺される。情報の漏えいを防ぐためだ。だから私の選択肢は一つだけ。彼らを殺す事。
私は覚悟を決めるしかなかった。
あの更夜って男は私をいつでも殺せると行動で示してきた。あの男は近寄りたくはない。
今考えている作戦は栄次と更夜に殺し合いをさせるというもの。
ちなみにあの夜から三か月はたった。更夜も栄次も女を呼ばない。私は女達から嫌がらせで栄次と更夜の元へ毎日のように連れて行かれる。しかも女達は私が自ら望んで行ったというように言う。そのたびに栄次に泣きつき、私は言い訳をする。そうすれば自然と更夜にも伝わる。
そう言う方法を取り、いままで堪えてきた。
更夜とはなるべく会いたくなかった。単純に怖かった。更夜自身は栄次に何も言っていないようだ。だから私は平然と栄次に近づける。だがここで、迂闊に更夜の悪口は言えない。この優しい男はきっと私が怖い目にあったと聞いたら更夜を真っ先に問い詰めに行く。
そうすると私の計画がばれてしまう。
私の口からではなく、自然に更夜を落とすような何かをしないと状況は変わらない。
更夜の部屋に連れて行かれる時はしかたなく部屋に入った。遠くで女が見ているから逃げる事はできない。更夜は特に何もしないのだが私は恐怖心からその日は一睡もできない。
そのうち、女達が更夜と栄次の部屋で何もしてないと騒ぎ出した。上に伝えて私を追い出そうと言い始めた。このまま逃げられるなら良かったのだが私はここから逃げてもすぐに殺されてしまう。ここに居座る術を探した。私は二人の男に積極的に詰め寄らないといけなくなってしまった。
障子戸から影が外に映る、それを見た女達が何にもしていないと言ったのだろう。確かに何もしていない。座り込んで相手を監視しているか寝ているかのどちらかだ。うまく何かしているように見えないか……。忍術は使えない。色々とバレてしまう。
栄次の方はなんとかなった。女達が見ていたら一睨みで追っ払ってくれた。相変わらず私には手を出さない。私もこの男に手を出せない。しっかりと間合いを取っている。
問題は更夜だった。
「なんだ?」
私は震える足で更夜に近づいた。更夜の器用そうなしなやかな指先を見、嫌な気持ちが沸いたが私は覚悟を決めて言った。
「……私を……だい……。」
しかしそこから先の言葉は出なかった。
「ああ、なるほど。」
更夜はそう言うとヒュッと針を投げた。私は思わず反応してしまう所だったが針は私に向けられて飛んだのではなく、障子戸と障子戸の隙間から外へ消えて行った。
「きゃっ!何!か、体が動かない……。」
すぐに女の声が響いた。しばらく騒いでいた女だったが他の女が来て連れ去って行った。動けなくなったのが金縛りか幽霊か何かかと思ったらしい。女が逃げていく足音が聞こえる。
「これで静かだ。」
更夜は満足そうに頷いた。私にはこの男が何をしたのかわかっていた。影縫いの術だ。灯りの灯っている部屋の側に女がいたので影ができる。その影に針を投げた。影を縫い付け、動けなくした。それで助けに来た女が無意識に針を蹴とばしたかなんかして女は突然動けるようになった。金縛りとか妖怪の仕業とかこの女達は考えるだろう。
忍者が紛れ込んでいないかぎり……忍術かどうかなんてわからない。
「……っ。」
「なんだ?何かおかしなことでもしたか?」
更夜は無表情で壁に寄り掛かる。
知らないフリをするしかないね。私は知らないふりをするしかない。更夜は私が忍かどうかを調べている。更夜が忍である事を私が他人に言った場合、更夜は私を忍だと確定し、まっさきに私を殺しに来る。
忍術を見ているのはたぶん私だけ。忍術だと気がつくのもたぶん私だけ。
「それで?なんだ?」
「……いえ。」
私はそう言って再び更夜と距離をとった。更夜は針に糸をつけていたらしい。針はそのまま、更夜の手の中に戻っていた。
……証拠は残さない……。腕利きの忍だね。
その日はそれで終わった。また一睡もできなかった私は疲れた体を引きずりながら廊下を歩く。こんな毎日ではいつまでたっても彼らを殺せない……。どうやって仲たがいさせればいいのかわからない。あの男はなんでもお見通しな気がする。私は自信を失っていた。故に強行に出る事にした。更夜を無理やり悪者にする。危険度は高い。だがそれしかない。あの男に子供や女で近づいて行っても意味がない。もう闘う覚悟で行く。
私は胸にこの事を秘め、女部屋へ帰る。
「あんた、やっぱり男との秘め事、避けているでしょ。栄次様と更夜様が何もしないのを良い事に。」
「それでここで生きていけると思っているの?」
何も知らない女達が私を見て喚く。私はすまなそうな顔をして涙目になる。これは演技。
「ちょっと聞いているの?ねぇ?その顔腹立つのよ!子供でいりゃあ、あの二人も優しくなるのかい?ええ?」
「そりゃあ、あたしもやってみたいねぇ。子供みたいに泣いて栄次様―とか。」
私はむせ返る女の匂いを嗅ぎながら障子戸の隅に申し訳なさそうに座る。居場所はここしかない。ちなみにこの女達のせいで私はろくに食事もしていない。
……まあ、別にいいんだけど。
「あんたの事、源(げん)様にお伝えしておいたわ。源様もさすがに呆れてあんたを追い出すって。」
ある女の発言に私はピクンと動いた。源様というのは私をここに連れてきた男の名だ。冷酷で下品な男。この女達は源に何を言ったのかわからないが無い事ばかり言ったのだろう。子供として入ったのが仇となってしまった。女達は子供なら何でも許してもらえると考えている。
もともと私は優遇されて入ってきた。殿に奉仕するために。
この女達はまだ若いがいまだ殿に呼ばれていない。このままここで一生を過ごすのではないかと不安に思っているのだろう。この女達はおそらく、幼い時に入って来て殿の子を産むためにここにいる。そんな中、さらに若い私が入ってきたから動揺し、イライラと不安を私にぶつけてきたに違いない。
「明日よ。あした。明日、あんたはここにいない!かわいそう。」
遠くに座っている女がクスクスと笑っている。
……明日で終わり……こうなったら、すぐにでもやってやろう……。もう後悔はない。
「……っ!」
私は鋭く冷たい目で女達を見た。女達は私の変わりように驚き、体を震わせていた。
当然だ。私は何人もの人を殺してきた。本性は殺し屋のようなものだ。私はただの子供ではない。むしろ、子供でもない。……今、すごくいい案を思いついた。
残念だけど、あなた達の人生はここで終わりだよ。
私は仕込んでいた鍔のない小型の刀をすっと出す。女達は私の殺気に声も出せない。動けもしない。私は立ち上がると音もなく地を蹴った。私は風のように駆ける。駆け抜けた場所から次々に女達が倒れていく。どの女も首から大量の血を吹いて何が起きたかもわからずに絶命する。残った女達の目には私は映らない。見えても四人に見える。私は今、四つ身の分身を使っている。速く動き、残像で四人になったように見えるのだ。まあ、今はただ、速く動いているだけで、勝手に四人になっているのだけれども。
どうせこの女達には私は見えない。別に見えようが見えまいがどうでもいい。彼女達を高速ですべて仕留める事に意味がある。
血の臭いや殺気を感じ取り更夜が現れる前に全員殺す。
ほんの一瞬でこの部屋にぎっしりと詰まっていた女達はすべて死んだ。血しぶきなんてあびるわけがない。血しぶきが飛ぶ前に次の女にかかっていたからね。
私は真っ赤に染まった部屋で準備を進める。死んでいる女達を蹴とばし、畳の下に隠しておいた粗末な着物に着替え、ついでに隠し持っていた火薬を取り出す。私は絶命している女の腹の上に乗っている。畳は血の海。きれいなところがここしかなかったからね。
「……さあて……来た……。」
私は持っていた小刀を捨て、歩いてくる足音を聞く。聴覚の訓練も死ぬほど受けた。一年中目隠しされ音を聞き分ける訓練をさせられた。この音のない足音は間違いない。忍だ。
つまり更夜。
更夜は一定の足音でこちらに近づいてきている。おそらく私の領域に入った刹那、更夜は離れた場所にいても一瞬で私の目の前に現れるだろう。忍の脚力は尋常じゃない。私の間合いに入った時、『歩いている』から『走る』行為に変える時、おそらく一瞬だけ止まる。その時が好期。
今まで歩いていた更夜が一瞬止まった。この部屋からまだ遥か先にいるが好期だ。
ここだ!
私は障子戸の奥、廊下の先にいる更夜に向かって走り出した。走り出しながら火打石で火を起こし、火薬に引火させる。女達がいた部屋は大爆発を起こし、爆風と炎が巻き上がる。もちろん、私にもそれが襲いかかる。私は吹き飛ぶ障子戸を踏み台に上へ飛んだ。ここまで一瞬。火薬の量を調節したから吹き飛んだのはこの女部屋だけ。私は木の天井にクナイを刺して天井に張りつく。もうこの段階で更夜が爆発した部屋の前にいた。まだ爆風と炎が舞い上がっている最中だ。爆発している間に私はこれだけの事をやった。天井にいたのもほぼ一瞬、クナイから手を離し、飛びながら更夜の影に影縫いをしかける。
近くに証拠となるもの……火打石などを多数置き、そのまま私は四つ身で更夜の前から走り去った。
完璧だ。これで動けなくなった更夜は女を大量虐殺し、部屋を爆発させた罪人となる。
ここからは更夜が忍だったとバラしながら泣き叫ぶ子供を演じればいい。単純に女達の生き残りを子供らしく演じればいいだけだ。ちなみに今着ている着物は私が売られた時に着ていた着物だ。着物にはいい感じに煤がついている。
追い出される話が出てこの着物に着替えて出て行こうとしたという設定だ。私はフラフラと男の部屋に入り込む。これは別にどこの部屋でもいい。誰かいれば。
「ど……どうした?なんだかすごい音が聞こえたんだが……。」
髭の生えた優しそうな男が心配して近寄ってくる。外はもうけっこうな騒ぎになっていた。
今頃更夜は大変な事になっているに違いない。私ははやる気持ちを落ち着かせ、男を使い、先程の場所へ行く。
「な……なんで……お前が……。」
「忍だったのか?」
廊下は野次馬だらけになっていた。男達の困惑の声が聞こえる。
「まず火を消せ!」
そして沢山の男達が忙しなく走り回っていた。
……成功だ。
女を殺したのは目撃者を失くすためだ。死んだ女達を集め、爆発で吹っ飛ばせば証拠が残らない。残ったとしても女達は爆発で死んだと思われる。
微塵隠れの術を参考に私が考えた術だ。ちょっと派手だったけど。
私は混乱している人々の間を抜けながら廊下を進んだ。更夜がいるだろう場所まで出た時、私は目を見開いた。
燃える部屋の前にいたのはきれいな着物を着た『私』だった。騒いでいる男達の声も燃える炎も何も聞こえなかったし、見えなくなった。
目に映るのはただケラケラと笑っている自分。私は目の前にいる自分を驚愕の表情で見つめた。
……な、なんで……
……どういう……こと?
……どうして?私が……
体が震えた。自分はあの時、しっかりと更夜を捉えていたはずだ。
騒がしい中、聞き取れる声が聞こえた。おそらくこれは私にしか聞こえない。
「絶望的な顔をしているね。」
目の前の私は私の声でそうつぶやくとケラケラと冷たい瞳で笑う。
「なんで……。」
私は焦点の定まらない目で自分を見つめていた。
「微塵隠れのまがいものに四つ身、影縫い、見事なものだね。フフ。」
「……。」
間違いない。目の前にいる自分は更夜だ……。
「あなた、更夜……?」
私がそう問いかけた時、目の前の自分は跡形もなく消えた。私の身体に冷や汗が流れる。
「消えた!あの子供が消えたぞ!」
男達は私がここにいるのに前を指差して騒ぎ出した。私を探そうと人波が前へ動く。
「普通の人間は眼前の事しか見えていない。」
流れる男達に後ろに追いやられながら私は更夜の声を聞いた。
後ろだ……。後ろに……。……いる。
私は咄嗟に振り向こうとした。殺気と悪寒が身体中を駆け巡る。私の身体はガクガクと震えていた。ふいに後ろから抱かれた。更夜の手が私の口を塞ぐ。片方の手で私の腕を掴む。
「これは逆さ卍の俺流だ。驚いただろう?」
「……っ。」
私は声を発する事ができない。更夜は私の耳元でそっとささやく。
「逆さ卍とはだいぶ違うが……女に化ける技だ。素材は処女の蜜。処女の蜜を使う事によって俺はお前に化けられる。俺がただでお前を楽しませるわけがないだろう?俺はお前のそれを身体に留め、使いながら、何度かお前になりすまして女達を動かし、お前を追い詰めた。お前がどう来るかはわからなかったが結果は同じ。俺はお前になればいい。だが俺の身体に入り込んだお前の蜜はもうなくなってしまった。もう俺はお前に化けられない。あれは消耗品だ。今のが最後だった。」
更夜は冷徹な笑みを私に向ける。
……やられた……!
私はそっと脈打つ下腹部に手を当てる。更夜と会った最初の夜の事を思いだし、目をつぶった。
何度も馬鹿みたいに喘ぎ、絶頂を知ってしまった事を悔いた。あの時、私のそれを更夜は身体に取り込んでいた。私はまったく気がつかず、快感に支配されていただけだった。
更夜は私に一通りささやくといきなり腕をひねりあげた。
「あっ!ああうっ!」
私はあまりの痛みに苦痛の叫びを漏らす。その叫び声で気がついた男達の視線が一斉に私に向いた。
「今捉えました。このまま、逃亡する気だったようです。目的は何かこれからみっちり吐かせましょう。」
更夜の声は一定で感情がなかった。
「……っ!」
私は絶望に支配された。……負けた。その言葉が頭をまわる。これから起こる事に対し、恐怖心が襲ってくる。もう終わった……。私は腕の痛みに泣き叫び冷酷な更夜を本当に怖く思った。
「痛いか?残念だったな。お前は忍だ。あれだけの忍術を見せられたら疑いようがない。」
また冷たい声が私を刺す。
「ああ……ああ。」
怯える私に更夜はまたささやく。
「悪いが……俺にはやらないとならない事がある。お前は邪魔だ。まあ、お前のおかげで俺は城の内部に侵入できたけどな。まあ、念のためお前に化けて入り込んだが幸い誰にも気がつかれなかった。気がつかれてもお前の姿だ。疑いは俺にはいかない。おかげで大方の部屋は把握した。……俺が何をしようとしているのか。わかったか?」
「……。」
更夜は私にだけすべてを話した。私はこの男が何の任につかされているのかわかった。
どこの国から来た忍だかわからないがこの男はこの国の主を殺すつもりだ。そのためにこの国に潜伏し、わざと手柄を立てて名を集め、私みたいに襲ってきた忍達を踏み台に確実に城主を仕留める方法を探していたのだ。末恐ろしい男だ。人間らしい部分がまるでない。
「以上だ。お前は罪人として堂々と俺が殺してやる。」
更夜はそう言うと私の右腕を突然折った。私は激痛に叫び、恐怖と絶望とこいつを仕留められなかった屈辱が瞳からあふれるようにこぼれた。悔しかった。私自身が持つ忍としての自信もこの男に砕かれた。
殺してやる。殺してやりたい。この男をいますぐに……。
私は嗚咽を漏らしながら強くそう思った。だがもう遅い。私はこれから更夜に弄ばれ殺される。ざわざわと周りが騒ぐ中、更夜は無抵抗な私を引きずり歩き出した。光がなくなった私の瞳に顔を青くして立っている栄次が映った。彼が蛇だという事はもう気がついていた。だがその名に似合わず、私にとても優しくしてくれた。本当に蛇なのかと何度も思った。更夜とは正反対だったから。
私は栄次から目を離すとそっと目を閉じた。
主が私の件を外に漏らさぬよう処理しろと下の者達に言ったらしい。城ではなく、屋敷で私は詰問をされた。もちろん、『城の中の人間に』ではなく、『爆破した屋敷の連中に』である。私は何も語らなかった。語るわけがない。私は忍だ。情報は漏らさない。手と足は縄で縛られている。これから拷問されるのかなと考えた。だが誰一人、手を出してくる者はいなかった。
「幽閉……するのはどうだ?」
男の内の一人が声を上げた。私の外見が子供なのと女である事から情けをかけたんだと思われる。
「そ、それがいい。いくら忍といっても子供だ。」
男達は声を震わせながら次々と賛成した。殺されず一安心といきたいところだがおそらく更夜がそれを許さない。この意見で団結し始めた時、更夜が男達を黙らせた。底冷えするような殺気が室内を包んだ。更夜は鷹というあだ名で恐れられている。まわりの人間も更夜に恐怖心を抱いていた。故に誰も更夜を怪しい男だとは思わない。更夜は常にこうで、皆から怖い男と認識されているためだ。
……賢い男だね……本当に。
「まったくぬるい。この子は忍です。忍は情報を持ち逃げし、一度逃げたら足あとを追う事も不可能。おまけにこの子は城の内部に潜入し、殿の首をとろうとしている。私も信じたくはないが城内部に潜入している所を栄次が見てしまっている。」
更夜は感情のない声で栄次に同意を求める。栄次は小さく頷いた。栄次は更夜を真面目で正義感の強い男だと思っているらしい。栄次は城に入り込む『私』を見てしまい、動揺しているようだ。更夜が殿につくす男だと考えている栄次は更夜の正義感を無視できず、困惑した顔で同意する。栄次がどういう性格なのか更夜はわかっていたんだろう。『私』になりすまして城に侵入するついでにわざと栄次の前を通ったらしい。
……本当にどこまでも最低だ。
「皆さんがこの子を殺せぬというのならば私が殺しましょう。この子はいくら拷問してもおそらく何も吐かない。」
更夜は冷たい瞳で私を見る。私は更夜を睨みつけた。こいつだけは殺してやりたい。
今の私は怒りと後悔と屈辱でいっぱいだった。知らずに溢れ出る私の殺気にまわりの男達が恐怖して距離をとる。栄次は諦めたように目を閉じていた。
更夜が遠ざかる男達を避け、私に近づいてきた。腰に差している刀を抜いた後、私に目線を合わせるようにしゃがんだ。顔を近づけ、私の耳にそっとささやく。
「忍に思いやりや同情の心はない。お前に同情したら俺がお前に殺される。忍は隙を見せた方が負けだ。お前は今も俺を殺したいんだろう?殺したくてたまらないんだろう?普通の子供はな、そんな冷酷に……そして簡単に人を殺す事はできないんだ。まったく騙す事と殺す事を最優先に考える子供というのは悲しいな。お前の素直な笑顔が一度見たかったものだ。嘘で塗り固められたものではなくて……な。」
更夜の声が最後だけふと柔らかく優しくなった。更夜の仮面の下を見たような気がした。だがそれは一瞬で消えた。すぐに私から離れるとまた冷酷な瞳で刀を振りかぶった。
……おかしい……更夜がこんなに隙を見せるはずがない。
私は更夜の刀の振りかぶり方が隙だらけに見えた。このままだと死にきれないと思い、左手に仕込んでおいたクナイで手の縄を切り、そのクナイを一か八かで更夜に投げつけた。クナイはまっすぐに飛び、更夜の右目に深々と刺さった。
「ふむ。ここまで抵抗するとはな……。見事だ。」
更夜はまったく怯まず、そのまま刀を振り下ろし……私を斬り殺した。
私が最後に見たのは自分の身体からあふれ出る真っ赤な血とせつなさと悲しみを含んだ蒼い鷹の左目。
……隙を見せた方が負け。彼はそう言った。最後の最期、彼は私に大きな隙を見せた。私に殺してみろと言ったようなものだ。それに気がついた私はわざと目を狙った。最後まで更夜の思い通りになるのは嫌だったからだ。少しだけだが彼に復讐できた気がした。
でも今思えばそれは『復讐させてやった』という事なのだろう。
私が死んでからすぐに更夜は栄次に殺されたらしい。そこから先の記憶は栄次から聞きたい所だね。この件は栄次が思い出す事に意味がある。わざわざ私の心を公にしたんだから思い出してくれないと困るんだよね。計画上。
私は今もずっと……更夜を殺す術を探している……。
わたくしは人々が作り出す個々の世界、弐を眺めながら思うのです。
栄次の世界は栄次の心が明るくならないかぎり……幸せになれない。わたくしはそう思うのです。このままでは更夜は無限に鈴を殺し続け、鈴は無限に更夜を殺そうとする。
弐の世界は心の世界。死んでしまった生命も住む世界。生きている生物の心が霊達の住む所。
……栄次……あなたの心で鈴と更夜の人間像を変えないといけないのです。生前の人間像に囚われているとその人間の魂はずっとそのままで変わりません。あなたがきっと今はこうなっているに違いないといい方向に想像するだけで二人の魂は救われるのです。
……あなたは知らずの内に沢山のものを引きずってしまっている。それの処理の仕方がわからず、鈴を常世に出現させてしまった。そしてあなたは自らの心にカギをかけた。
……お願い。気がついて……栄次……。このままではいけません。
わたくしは栄次の心を見ながらずっと訴えかけるのです……。
六話
夜になったらしい。アヤとウサギとプラズマは天記神の図書館で妄想ノートを読んでいた。
「ねぇ、これが弐の世界にたどりついたっていうノート?」
アヤは天記神にマス目のノートを見せる。
「そうよ。それは今の大人が子供の時に妄想で書いたノート。もういらないからと捨てられて行き場のなくなったノートがこの弐の世界にたどり着く。まあ、この図書館に来ることはとてもめずらしいんだけどね。」
天記神はなぜか顔を赤くして恥ずかしがる。アヤは不思議に思い、中身を読んでみた。
「うっ……。」
アヤは唸った。中身は女の子の妄想ノートだった。
……佐々木君とショッピングしてデート。ちゅうかを食べてしゅうまいをあーんってし合う。きれいな花畑で手をにぎってあついキス。
小学生くらいの女の子だろう。ずいぶんませた事を書いている。漢字がうまく書けていないところをみるとまだ小学校二年生にもなっていなそうだ。
……まあ、大きくなった女の子がこれを見たら恥ずかしすぎて破って捨てるだろうな。
「ね?私、これが一番すきなのよぅ!佐々木君との妄想デート計画書!たまに少し挿絵が入るのよね!佐々木君、なかなかイケメンじゃない。」
天記神が興奮気味に話す。彼は女性というよりも主婦だとアヤは思った。
横でプラズマは爆笑している。
この内に秘めたノートを捨ててしまったがために見ず知らずの神々に読まれているとは……かわいそうな女の子。
アヤは同情した。ちなみにウサギは天記神の横で眠っていた。夜行性なのでそのうち起きるだろう。
「おい、アヤ、俺とやってみるか?この妄想で。おい、天記神、焼売あるか?俺、佐々木君やるな!ははっ!」
「な、何言ってんのよ!」
アヤは呆れながら叫んだ。
「焼売はないけどアンパンだったらあるわ!やってみる?」
天記神はノリノリだ。このままではこのノート通りの演技をずっとやらされる可能性がある。
プラズマはたしかすごく気まぐれな男だった。アヤについてくると言っていても途中でやめるかもしれない。
「私の目的は月に行く事!あなた達の遊びに付き合っている暇はないのよ!」
アヤは声を鋭くして言った。
「わ、わかった。悪かったよ。冗談だ。冗談。」
プラズマはアヤの気迫に押されじりじりと後ろに退いていた。
「ざーんねん。目の前で美しいラブストーリーが見れると思ったのに。」
「あなたねぇ……。」
天記神はため息をつくとウサギを起こしにかかった。
「ウサギちゃん、月にお帰りの時間よ。」
天記神にしばらく揺すられ、寝言を言いながらウサギは目を開けた。
「うにゅぅ……ニンジンは自分のものでありますっ……。」
「このちっこいのは夢の中でもニンジン食ってたのか。」
プラズマはもごもご言っているウサギに呆れた。
「ちょっと、起きなさい。月に行くんでしょ!」
「ああ……時神様。はあ!時神様二人!」
ウサギはなんとか起き上ったが起きるなり、アヤとプラズマを見て困惑した顔になった。
「私はアヤでいいわよ。」
アヤは今更かと思ったが口には出さなかった。
「アヤ様!……と……」
「プラズマだ。」
「ヴィラドゥム……?」
「プラズマ……だ。なんでわざわざ難しく言ったんだ。お前は。……ああ、未来神でいいよ。」
プラズマはウサギが口をパクパクさせているのでわかりやすい方を口にした。
「じゃあ、ミライでいいでごじゃる。」
「なんで俺だけそんなぞんざいな扱いなんだ……?」
ウサギはアヤの影に隠れながら頭を抱えるプラズマを見つめていた。
「じゃあ、とりあえず自己紹介も終わっているし、さっさと行きましょう。」
「ウサギンヌ!」
ウサギは元気よくジャンプした。
「もう現世の図書館は閉まっていると思うから現世に戻らずにここから月に行きなさい。」
天記神が図書館のドアを開けてくれた。外はむあっとした暑さはなく、適温だ。アヤ達は外に出た。ここからは月の使いであるウサギに頼るしかない。
「ウサギンヌ!自分はここからしか帰った事がないであります!」
「そうねぇ。ウサギちゃんはいつもここで遊びすぎちゃうからダメね。まあ、ここは壱の世界と陸の世界に食い込んでいる場所だからここからなら壱に月があろうが陸に月があろうが関係なく帰れるもの。」
「じゃあ、私達もとっくに月に渡れていたんじゃないの。」
アヤは時間の無駄をしたとため息をついた。
「それはないわよ。だってアヤちゃん達は現世の壱と反転の世界陸に二人存在するじゃない。あなた達が壱から陸の月に渡る事はできないわ。陸は壱と昼夜逆転の世界。もちろん、陸にも壱と同じ人間がいる。月や太陽の関係者なら壱と陸で一体しかいないからどっちに月があっても渡れるのよ。原則、太陽が出ている世界にいるのが太陽神、月が出ている世界にいるのが月神。太陽が出ている世界で月神や兎がいる事はない。だから月神や太陽神ではないあなた達は陸にもいるからここから陸にはいけない。」
「なるほど。」
「俺にはよくわからないな。」
アヤは天記神の説明に大きく頷いたがプラズマは頭を捻っていた。
「ま、いいわ。とりあえず行きなさい。ウサギちゃんが門を開いているからね。」
天記神は空を見上げているウサギを指差した。太陽に行った時は大変だったなとアヤは改めて思った。あれからそんなに時間はたっていないはずなのにだいぶん前の記憶な気がする。
太陽の件はまた別の話。アヤは後でゆっくり思い返してみようと思ったのでここから先は考えないようにした。
「みんなーっ!いっくよ~♪」
ウサギは突然、騒ぎ出した。
「あっつい君のハートに虹色シャワーかけてあげるねっ♪どっきゅんどっきゅん!ああ!世はきれいなファンタジー!幻想の月はすぐそ・こ❤あれー?君の月はどこかな~?君の月はここ❤わ・た・し・よっ♪」
よくわからない歌詞で歌を歌いはじめたウサギをポカンとした表情でアヤ達は見つめた。
ウサギは意味わからずにてきとうに歌っているらしい。正直、歌は上手とは言えない。
歌い終わると目の前に長いエスカレーターが現れた。そのエスカレーターの前には鳥居がある。なんだかすごい違和感があった。その鳥居の横にアイドル度と書いてある電光掲示板が貼り付けられており、その電光掲示板に五〇%と書いてある。
「くあ~……ダメでありました……。やっぱり自分のキャラって難しいでごじゃるなあ。」
「……。」
悔しがるウサギにアヤもプラズマも何も言えなかった。このエスカレーターを登った先に色々な意味ですごい奴がいるようだ。
「まあ、とりあえず行くであります!ラビダージャン!」
「ウサギちゃん、二人とも引いているわよ。もっと自分を出して行った方がいいんじゃないかしら?」
「おお。そうか!次はこのままで頑張ってみるであります。」
ウサギはそう言うと天記神に手を振り、鳥居の中に姿を消した。
「アヤちゃん、プラズマさん、ウサギちゃんを追った方がいいわ。」
天記神が二人の背中を押した。二人は思考回路が戻っていないまま押されて鳥居をくぐった。
「あ、ありがとう。じゃあね。ま、また来るわね。」
アヤはぎこちなく挨拶をかわす。
「えーと……そうだな。俺もまた来るよ。」
プラズマも戸惑いながら手を振った。
「いってらっしゃーい。」
天記神は笑顔でこちらに向かい、手を振りかえしてきた。アヤ達は勝手にエスカレーターに乗っていた。上に進んで行く内に天記神がいる所に白い霧がかかり始めた。おそらくウサギが開いた、月へ行く門が閉まり始めているのだろう。
いつまでも下を見ているわけにはいかないのでアヤ達は上を見る事にした。エスカレーターのまわりには灯篭が多数浮いている。まわりは白い霧で覆われており、とても静かだ。
「静かで落ち着くでごじゃる。」
いつの間にかアヤ達の近くに戻ってきていたウサギがほっとした顔でこちらを見ていた。
「そうね。静かね。」
「お、あれ見ろ。」
プラズマが前を見るように促した。アヤはプラズマに従い、上を仰いだ。周りの霧が少し上でなくなっている。霧の先で夜空に散りばめられている輝く星々が目に入った。
「あそこから図書館の空間が終わるのか?」
プラズマはウサギに質問した。ウサギは困惑した顔で首をかしげていた。
「考えた事もなかったでごじゃる……。」
「まあ、別にどうでもいいか。」
プラズマがつぶやいた時、バッと霧が晴れた。周りは一瞬で星に囲まれた。星は暗い夜空によく生えていた。
「きれいね。」
アヤは星々を眺めながら下をふと見た。ビルや家々の明かりで様々な色に染まったきれいな夜景が眼下に広がっていた。
「雲が多い日は残念でごじゃるが、そうでない日は創作意欲をかられる美しさであります!」
「創作意欲ね……。まさかこのエスカレーターも作ったとか?」
アヤの質問にウサギはにんまりと笑って頷いた。
「このエスカレーターは階段を改造したのでごじゃる!」
「そうだと思ったわよ。ほんと、あなたって凄いのね。」
こんな会話をしている内に月が見えてきた。月は白いような黄色いような輝きを放ち、静かにそこに浮いていた。やがて周りの風景がクリーム色に染まった。月に入ったらしい。
「そろそろ月の宮に到着でごじゃる。ラビダージャン!」
ウサギの言った通り、すぐに建物が見えてきた。建物は和風のお城。天守閣というのか。
「うーん……城はいいと思うんだけど……。」
アヤはうーんと唸っていた。プラズマも顔をしかめている。そのお城はなぜかショッキングピンクに染められていた。パッと見て偉い人が住む城には見えない。それどころか入る気にもならない。
「はい。到着であります!」
固まったままだったアヤを動かしたのはウサギだった。ウサギはこの何とも言えない違和感に気がついていないのか平然とエスカレーターを降りる。
「なんて言うか……入る気を失くさせる城……だな。」
プラズマもアヤ同様戸惑いながらエスカレーターを降りる。
「ご案内するであります。」
ウサギはぴょんぴょん元気そうに飛び跳ねながら半ば引きずるようにアヤ達を誘導した。
城の周りにいるのは男の兎だった。兎はもともと小さい生き物だからか人型になってもそんなに大きな男はいない。耳だと思われる髪の毛は皆、ダンロップのようにぺたんと垂れていた。どの男も着物を着ていたがその着物が可愛くアレンジされていた。皆、不本意で着ているように見える。
「ただいま帰ったでごじゃる。」
「あー、はいはい。月子さんがまっているよー。」
男は城の前に座り込みながらニンジンをかじっていた。警備をしているらしいのだがどの兎もそういう風には見えない。
アヤ達はその男を通り過ぎ、城の内部へ入る。
「うわあ……。」
二人は同時に声を上げた。城の中もショッキングピンクに染まっていた。あちらこちらに真っ赤なリボンがつけてあり、床はピンク色の絨毯。その絨毯に赤いハートが無数に書いてある。天井からは星とハートの飾りが垂れ下がっている。そして目の前にはエスカレーターがある。ちなみにエスカレーターもピンク色だ。
「おいおい……なんだ。この夜の気分にさせる建物は……。」
「知らないわよ……。ああ、これはだいぶイタイ事になっているわね……。」
城の内部にいる兎達は皆、女の兎で着物とメイド服を混ぜたような格好をさせられていた。
あんまり先に進みたくなかったがアヤ達はウサギに従い渋々エスカレーターを登りはじめた。
この城の神々や兎がおかしいのかと思っていたがどうやら違うようだ。皆、嫌々やらされている感じである。
すれ違った男の月神も可愛くされていてもう見ていられない。男の月神の表情は暗い。せめてもっとメンズな格好をさせてくれと目が言っている。月はほぼ例の月子さんに侵略されているようだ。
アヤ達は顔をひきつらせながらエスカレーターを登った。
「ああ、そうでありました!」
ウサギが何かを思いだしたようにアヤ達を見た。
「何よ?」
「月子さんは正装を望むのであります。」
ウサギはアヤ達の格好を眺めながらポリポリと頭をかく。
「ああ、着物になれって事な?」
プラズマは「まあ、当然だよな。」とつぶやいた。
「えーと……ヴェラッドゥム?」
ウサギはまた下を噛みそうになりながらプラズマを呼ぶ。
「プラズマだって言ってんだろ!いちいち難しく言うな。」
「ミライ、さっさと着物になるでごじゃる。」
諦めたウサギはやっぱりミライに戻ってしまった。
「結局それに戻ったな……。ったく、いちいち失礼な兎だな。」
プラズマはうんざりしながら手を横に広げる。神々の正装、霊的着物に着替えるのは実に簡単だ。手を横に広げるだけである。プラズマの身体が光りで包まれたと思ったらもう着物に着替えていた。プラズマは青い水干袴に烏帽子をかぶっていた。
「やっぱ霊的なものは軽いな。この着物はいいんだが今の時代、これで外歩いていたら写真とられるからな。」
「たしかにそうね。……それがあなたの着物なのね。初めて見たわ。」
アヤは感心しつつ、自分も着物に着替える。鮮やかなオレンジ色の今どきの着物。きれいな着物なのでアヤは結構気に入っていた。
「アヤもよく似合っているな。」
「ありがとう。」
そんな会話をしている間に五階にたどり着いていた。五階は月子さんとやらがいる階だ。壁に現世のアイドルグループのポスターが多数張られている。
「女のアイドルグループが好きなんだな。ここまで来るとファンと言っていいのかオタクと言っていいのかわからんな。」
プラズマはため息をついた。
「このポスター、一体どこから持ってきたのかしら?月子さんも月神も兎も人間に見えないじゃない。」
「ああ、それは自分が……。」
「複製したのね……。」
ウサギが言いかけたのでアヤは結論を先に言った。
「ラビダージャン!」
ウサギはにっこりと笑って頷いた。
なんだかどうでもよくなってきたので先に進むことにした。廊下を挟んで沢山のドアがある。月神が住んでいるのか兎が住んでいるのかわからないがどのドアもピンク色で真っ赤なハートが大きくプリントされていた。
……ああ、目が疲れる……
アヤはうんざりしながら進んだ。
まっすぐな廊下をしばらく歩くと大きなドアにぶつかった。一番奥にある部屋だ。
「ここが月子さんのお部屋であります!ウサギンヌ!」
ウサギはニコニコ笑いながらひときわ立派なドアをとんとんと叩いた。
「月子さん!ただいま帰ったであります!」
ドア越しにウサギが声をかけるが何の反応もなかった。
「おい、いないのか?」
「そんな事はないであります。」
プラズマの問いかけにウサギは困った顔を向けた。
「まあ、とりあえず開けてみるであります!」
「ちょっと、いきなり開けるわけ?カギかかっているんじゃないの?」
アヤは慌ててウサギを止めたがウサギは勢いよくドアを開けた。
……カギはかかっていなかった。
開けた瞬間、爆音が聞こえてきた。どっかのアイドルグループの曲がかかっているらしい。恐る恐る中を覗くとレースのカーテンの奥で影が揺れていた。飛び跳ねたりしているのが見える。踊っているのか?
部屋はピンク色で床は真っ赤なハートが描かれている絨毯がひかれていた。鏡台の上には化粧道具が沢山乗っており、アイドルのポスターがあちらこちらに張ってある。アイドルが着ているステージ衣装もウサギに作ってもらったのか沢山ハンガーにかけられている。
「月子さん!帰ったであります!」
ウサギがこの爆音の中、ひときわ大きな声を出して影に向かい叫ぶ。
「えー?」
かわいらしい女の声が爆音の中から聞こえてきた。すぐさまカーテンの奥で影が揺れ、爆音は消えた。アヤ達は塞いでいた耳から手を離した。
「月子さん、時神様を連れてきたであります!」
「え?ちょっと待って!ノックしなさいっていつも言っているでしょ!この馬鹿兎!ああ、もう!ノーメイクなんだから、まだ絶対開けちゃダメ!ダメだからねっ!」
レース越しに慌てている影が映る。何かを準備しているようだ。
「ノックしたでごじゃる……。」
「はい。いいわよ。カーテン開けなさい。」
ウサギはため息をつくと声に従いレースのカーテンを開けた。アヤ達の目に最初に映ったのはピンク色の髪の毛だ。がらつきの大きなリボンで髪をツインテールにしている。まつげはエクステをつけているのか異様に長く、ナチュラルに見えるがけっこう時間がかかりそうなメイクをしている。そして十二単を身に纏っていた。挑戦的な目つきで立っているその姿は子供だ。
「ずいぶんと……まあ、あれな見た目ね……。」
「人形みたいだな……まあ、あれもありか……。」
プラズマとアヤがこそこそ話をしていると目の前にいるその少女が話しかけてきた。
「私ね、月子さんって言うの。よ・ろ・し・くね❤」
人差し指を唇に当て上目づかいでアヤ達を見上げる。ぶりっ子を演じたいらしい。
「……はあ……。」
アヤ達は反応に困り口から息を漏らした程度の返事しかできなかった。
「きゃっ!トノガタ!私初めて見ましたー……。こわーい❤」
月子さんは両手を握り、口元に当てる。
「なんのキャラをマネしているのかわからないが先程から何度もハートまみれにされた男の月神とすれ違っているんだが……。」
プラズマがアヤにそっとささやく。
「ええ。知っているわ。……なんだかイライラするのは私だけかしら。」
「いままで会った事ないタイプだな……。」
「月子さん!本題に入るであります!」
二人が戸惑っているとウサギが話を勝手に進めてくれた。
「ああ、ええっとね、そうねー。弐の世界に過去神が入り込んじゃったって言うのは知っているよね?それでね、こっちから弐に入れる門を開くからね、過去神を連れて戻って来てほしいのね?わかった?」
月子さんはやたら「ね」を連発しながら可愛らしい声をあげてこちらに向かいウインクを投げた。
「半ばよくわからなかったけどとりあえず、栄次を連れて戻って来いって事ね。」
「わかってんじゃない。話は以上。じゃ、頑張って。あ、その子つけるから。」
月子さんは甲高い声から一変して低い声になった。
「あなた、嫌な性格って言われない?」
「えー、そうかなあ……?月子さんわかんない❤」
眉毛がぴくぴく動いているアヤに月子さんは人差し指を頬に当ててウインクをした。
……こんなアイドルいるかしら?
誰をマネしているかわからないがアヤは心の中でそう思った。なんだか腹が立つのでさっさとここから出たかった。
「で、どうやって弐に行ったらいいんだ?」
プラズマも呆れていた。
「おねえちゃんの部屋から行けるよ❤頑張って❤頑張れハートあげるねっ!ぷいーん!」
月子さんはまた可愛い声に戻ると指でハートマークを作りプラズマに飛ばす。
「じゃあ、月子さんはお疲れのようなのでそろそろ行くであります。」
「どう見たってお疲れじゃないだろ!どこを見たんだお前は!」
「そうよ!どこからそうなるの!」
ウサギの発言で二人は思わず声を上げてしまった。月子さんはさっさとカーテンを閉めるとまたアイドル曲をかけ始めた。ウサギは慌ててアヤ達を追い出すとドアを閉めた。
「何なのよ!あの女は!」
アヤはついに怒りが爆発した。
「……月子さんは自分がアヤ様達を連れてくるのが遅かったからご立腹のようでごじゃる。」
「君も大変なんだな。てか、あれ、怒っていたのか。」
ウサギがため息をついたのでプラズマは同情した。
「はあ……もう、いいからさっさと行きましょう。」
アヤはうんざりした顔でウサギを見た。もうどうでも良かった。
「ふぃ……。わかったでごじゃる。この横の部屋が月子さんのお姉様のお部屋。」
「近っ!」
ウサギは月子さんがいる部屋のすぐ横のドアを指差した。この部屋のドアは一つだけだったはずなのだがいつの間にもう一つドアができたのか。
「こんなところにドアあったかしら?」
アヤは無機質な茶色のドアを眺めながら目を細めた。
「ああ、月子さんの力でこのドアは普段封印されているでごじゃる。」
「なんでだ?」
プラズマはこのドアの異様な雰囲気に気がついていた。この建物自体異様だがそれとは違う雰囲気だ。このドアだけ違う世界のようなそんな気がする。
「お姉様は眠っておられるであります。そしてこのドアは弐の世界に通じてしまっている。なぜこうなってしまったかはよくわからないでごじゃる。自分達は弐の世界の表面を管理しているのでごじゃるが、何があったか昔に当時月神トップだったお姉様が弐の世界に望んで行ってしまわれたらしい。月子さんはお姉様が帰ってくるのをずっと待っておられるのであります。ラビダージャン!」
「そのお姉さんは弐の世界からこっちに戻って来られるの?」
「普通は無理でごじゃる。一度入れば帰れなくなるでごじゃる。だがお姉様はなにか意図があって入ったと月神達からはささやかれているであります。故、あまり心配はしてないでごじゃる。」
「なるほどね。」
アヤはなんだか怪しいなと感じたが月の話なので関わらないようにしようとそこから先は特に聞かなかった。
「で、その俺達も弐に入ったら帰って来られないんじゃないか?」
プラズマが心配そうにウサギを見据えた。
「ここからなら弐を間接的に見られるので弐に入らなくても過去神の心を探し出せるでごじゃる。見つけたらそこに入り込めばいいであります。時神は三人で一人。誰かがはぐれるという事もないと思われるでごじゃる。ただ、過去神を見つけてから弐の外へ出るにはどうすればいいか……。月子さんは時神の問題だから時神が何とかするべきだとおっしゃっていただけでごじゃるし……。」
「無責任すぎるだろ……。」
「なんせ、弐の世界はわからないからどうしようもないでごじゃる。それと、弐の世界には一人時神がいるそうで、月子さんはその時神を頼って戻ってきたらどうだろうかと言っていたでごじゃる。」
「時神……。」
アヤとプラズマはウサギの言葉に息を飲んだ。不安定な弐の世界に時神がいる……。その時神は弐の世界で何をしているのか。少し不気味だが頼みの綱にせざるを得ない。
「まあ、このまま怖気づいて栄次をほったらかしにもできないし、行きましょう。」
「そうだな……。戻れなくなったら……どうする?」
プラズマはアヤの意見を伺う。
「それを考えたらダメよ。今を考えるの。」
「……だな。」
アヤの言葉にプラズマはフフッと笑った。
「じゃあ、ドアを開けるであります。」
「ちょっと待って。あなたも行くって事はあなたも帰れなくなるかもしれないわよ。」
アヤはウサギを止めた。
「自分も戻れなくなったらとかは考えないで行くであります。」
「それでいいの?」
アヤの問いかけにウサギは微笑んで頷くとドアノブを握った。
「君、意外に勇気あるな。」
プラズマの言葉を最後にアヤ達は月子さんのお姉さんが眠っているという部屋へ入って行った。
ウサギがドアを閉めた時、真っ暗な空間にきれいな星々が映った。その中で白拍子の格好をしている女が横たわっていた。女は長いピンク色の髪をなびかせ、ぴくりとも動かずその場にいた。目は閉じられており完全に眠っている。
「あれが月子さんのお姉さんね。」
アヤがぼそりとつぶやく。
「ん?」
真っ暗な空間で突然プラズマが声を上げた。
「どうしたの?」
「身体が浮いてないか?」
アヤはプラズマの声で自分が浮いている事に気がついた。足が地面についていない。
「何よこれ……。まるで無重力じゃない。」
「ここは宇宙って事か?」
「こっちであります!ウサギンヌ!」
気がつくと遠くでウサギが手招きをしていた。いつのまにそこに行ったのか。
アヤ達は半分泳ぎながら月子さんのお姉さんを通り過ぎてウサギの元へ行った。この空間はどこまでも続いているように見えた。
「けっこう、進むの大変ね……。」
「だな……。」
「下を見るであります!」
ウサギは足元を指差した。アヤ達もそれにならい下を見る。
「……!」
遥か下で様々な空間がぐちゃぐちゃにくっついていた。雪国の横で真夏の太陽が海を照らしていたり、ロボットが動き回っていたり、時代もめちゃくちゃだ。
「これは現世に生きる命の夢であります。これらは心の表面。弐の世界の表でごじゃる。」
「これが表……。」
もうこの段階で入るのは躊躇われる。この無数にある夢の中に心の神髄があり、そして霊が住む空間がある。ここから栄次の心を探すのは困難に思えた。夢が邪魔して心の世界を覗くことができない。特に人間は本心を隠す生き物だ。何か絶対に隠したい事を持っているものだ。その心をかばうように夢が覆っている。第一、栄次の夢すら見つけ出せる自信がない。
「ちょっと……どうするのよ……。」
「探すしかないだろう……。時神の勘でな。」
プラズマの頬には汗が伝っていた。
「はあ……。」
アヤは深いため息をついた。
七話
あれからそんなに時間は経っていなかったと思う。城主が殺された。夜中だった。殿は正室でもなく側室でもない女と寝ていたらしい。その女も共に殺されていた。次の日になるまで誰も気がついていなかった。
そしてその日から更夜が消えた。
城は大混乱だった。殿の死を悲しむ暇もなく、次に頭になるものを決めていた。候補として選ばれたのは元服したての城主の息子だった。この混乱の中ではまともな指揮ができるとも思えずこの国はもう終わりかとそう思った。あちらこちらの国が武器を取り、この国の国取りがはじまった。
現城主は盛んな時期、若い発想が抜けず、父親の仇を打ちたいと憎しみを込めた目で俺に更夜を殺せと命じてきた。俺は何度も更夜を探しても意味がないと言った。しかし、この男はきかなかった。
「更夜を殺せ。お前が首を持って来なければ町の娘十人を殺す。」
この男からそう言われた時、俺は心底驚いた。何の関係もない娘を更夜のために十人も殺すのかと。
狂っている……。そう思った。
この男は今、冷静な判断ができていない。ひどく動揺し、何をしたらいいかわかっていない。
こういう男は何をするかわからない。俺はとりあえず了承した。
「お前に五人つける。お前が逃げたらすぐにわかるぞ。」
「……。」
これが俺と主の最初で最後の会話だった。
俺は監視をされながら旅に出た。更夜に対する情報はまるでなかったため、一度、国の外に出る事にした。俺はそこそこ有名になっていたらしく、蛇が出たと何度も殺されかけた。まあ、ここは敵国、襲われてもしょうがないのだが。
だが人は一人も殺していない。俺が持つ、この霊的な刀は人を斬っても殺せない。時間が戻り、その人間の傷はなくなる。ただ、一瞬だけくる痛みに耐えられず失神するだけだ。
本気で更夜を探しているわけではなかった。もう少しであの城主の命運は尽きる。そうしたら、こそこそついてくる五人を解放して俺も自由になる。そう思っていた。
だが運命は残酷だ。俺は更夜を見つけてしまった。ある山道を歩いていた時だった。山の中腹あたりに自然でできたのか草原が広がっていた。草原はそこだけで他は深い森で覆われている。その草原の真ん中に見覚えのある銀の髪が揺れていた。
「更夜か……。」
「追手とはお前か。栄次。そうだとは思ったがな。」
更夜はこちらを振り返りもせずにそう言った。更夜は追手が来る事を知っていたようだ。
更夜は俺が知っている更夜とは全く違った。声は鋭く低い。
「お前を殺さないといけなくなってしまった。」
俺は静かにそう言った。
「ああ、知ってる。」
更夜は短くそう言うとこちらを向いた。更夜の右目は髪で隠されていた。あの時の情景が目に浮かぶ。あの少女が更夜の右目を奪った。あの娘を殺した後、更夜は顔色を変えずにこう言った。
「もともと目があまり見えないのです。目が一つなくなったくらい別にどうだっていい。」
俺はあの時、この男も正気ではないと思った。
「さて。その後ろの五人は演武を見るためにいるのか?俺を殺すためにいるのか?」
更夜の殺気は草木に身をひそめていた男達を恐怖させた。
「後ろのは関係がない。追手は俺だ。」
「そうか。ならばやる事は一つだな。」
更夜は冷徹な笑みを浮かべながら素早く刀を抜いた。
「お前は本当に殿を殺したのか?」
俺はまだ確信していなかった。実際にその場面を見たわけではないからだ。
「そうだ。今の殿が言っていなかったか?」
「それはお前が逃亡したから怪しんでいるだけだろう。」
「いや、俺がやった。あの殿では先が望めないからな。そう思わなかったか?」
この時の更夜の言葉で俺が感じた事はこの国の行く末を案じて殿を殺したのではないかという事だ。鈴の記憶を見た後では更夜の印象はまるで違う。この言葉はそう思わせるための話術。
今ならわかる……。だが当時の俺はわからなかった。更夜が忍であるという事も知らなかった。
「滅びるのは時間の……問題だったかもな。」
俺は刀を抜いた。更夜が俺を本気で殺すつもりだったからだ。片目では距離感もつかめないだろう。更夜が倒れるのも時間の問題だと思っていた。しかし、更夜は左目をそっと閉じた。
……目を使わないって事か?
俺は刀を握り直した。これは手ごわい相手だ。更夜は目を閉じたまま、まっすぐ俺に向かって来た。まるで見えているかのように的確に刀を振るう。俺は更夜の逆袈裟を紙一重で避けた。
「避けたか。おもしろい。」
更夜は笑みを浮かべ、そのまま俺の視界から消えた。
……後ろか。
俺は感覚で前に飛んだ。風が背中を通り過ぎる。そのまま振り返る。更夜が今度は袈裟斬りをしていたようだ。刀は下で止まっている。
「凄いな。斬れそうで斬れない。さすが蛇。」
更夜は刀を構え直す。
「獲物の背後から近寄る、まさに鷹だな。」
俺がそうつぶやいた時には更夜はもういなかった。
……右だな。
俺は目を右に動かす。突きの姿勢をとっている更夜が映った。俺は更夜の突きを後ろにわずかに退いてかわし、刀を横に薙ぎ払った。
「……っ!」
更夜は強靭的な脚力で突きの姿勢のままであるにも関わらず上に飛んだ。俺の刀は更夜の足すれすれを横に凪いだだけだった。更夜は素早く着地すると刀を正眼に構える。
鍔せりあいはしなかった。お互い避けて刀を振るう。しばらくその繰り返しが続いた。
俺自身、こんなに敵と対峙した事はなかった。この緊張感も久しぶりだ。命の削り合いも散々やってきたがこの男ほど凄腕はいなかった。殺されるかもしれない。あまり感じた事もない感情が俺を渦巻いた。俺自身、少しおかしくなっていたのかもしれない。
俺は自分の刀を地面に刺した。
「何をしている?刃こぼれでも見つかったか?」
更夜は目をつぶったままそうつぶやいた。俺は構わず後ろにいた男達に叫んだ。もちろん目線は更夜に向けている。
「誰か刀を貸してくれ。」
男の内の一人が肩をビクつかせながら近くの地面に刀を刺していそいそと退いた。
……もっと近くまで持って来てほしかったな……。
俺はしかたなく刀に向かって走った。更夜が後ろから追って来るのを感じながら刺さっている刀を引き抜き、そのまま流れるように横に凪いだ。更夜は刀で俺の刀を受け止めた。はじめて刀と刀がぶつかった。
お互い勢いよく弾かれ吹っ飛ばされた。俺は刀を構えたまま更夜と間合いをとる。ふと更夜を探すがもう更夜は俺の視界にはいなかった。
……今度は左か。
風を斬る音と閃光が絶えず続く。なかなか勝負が決まらなかった。俺も更夜も紙一重でかわしているため、身体中切り傷でいっぱいだった。髪紐はほどけ、更夜もひどい有様だ。さすがに息が上がってきた。この男は……強い……。地面に咲いている名もなき花達は俺達の血で真っ赤に染められている。更夜もおそらく疲弊している。顔には出さないが辛いはずだ。
「うわああ!」
ふいに後ろから声が聞こえた。何かが風を裂く。俺は咄嗟に避けた。何かは顔をかすめて飛んで行った。
……矢だ……。
俺はすぐに気がついた。
後ろの男がいきなり矢を放って来た。
……何もするな。どうせお前達ではこの男を殺す事はできない。
俺は奥歯を噛みしめた。
「はっ!」
その時、更夜の左目が開き、ふと後ろを見る仕草をした。そして矢に自ら当たりに行った。
「……っ?」
避けられたはずだ。……何故避けなかった。なぜ当たりに行った?
俺は更夜の行動が信じられなかった。それを考える間もなく俺の身体は勝手に動いていた。
更夜に隙ができた。俺の身体は更夜を殺す絶好の機会だと勝手に判断し動き出した。
そして俺は更夜を渾身の力で袈裟に斬っていた。更夜は肩から足にかけて深々と切り裂かれてその場に仰向けで倒れた。俺の手はその時震えていた。いままでの戦で俺はとどまる事を忘れてしまっていた。思考よりも先に身体が動いた。それがたまらなく怖かった。
そして俺は更夜を斬ってしまってからなぜか後悔をした。もちろん、更夜を殺すために刀を借りた。だが俺は後悔していた。
更夜は苦しそうに血を吐きながら笑っていた。
「はは……。まったくお前はどこまでも俺を殺すつもりだったんだな。」
「更夜……?」
更夜は俺に対して言ったわけではなかった。更夜のすぐ後ろにある……墓。その墓に向かって言っていた。墓といっても粗末なものだ。木の棒が一本立っているだけだ。
「なんで俺はお前なんて守ってしまったのかな。なあ、鈴。」
鈴……あの娘の名だ。更夜は鈴の墓に矢が刺さりそうな所を自分の身体で防いだということか。なぜそんな事を……。
「お前、骨もないのにそこに埋葬したのか。」
俺は死ぬ直前の更夜に話しかける。
「そうだ。忍は骨すら残してはいけない。だが、墓くらい残してやってもいいだろう。あんな子供が襲ってきたのははじめてだったんだ。あいつは立派だった。しかし、お前は本当に人間か?強いな。」
「お前もだいぶん人間離れしていたぞ。お互い様だ。……俺はな……今、すごく後悔している。」
俺はうつろな目の更夜の前にしゃがみこむ。
「後悔?それはおかしな話だな。お前は俺を殺すつもりだったんだろ?喜ぶべきことじゃないか。まあ、俺を殺したところでここから先、何か変わるわけでもないがな。」
「確かにな……。」
「さあて。俺はこれから鈴にでも会いに行くか。また殺されかけるかもしれないが。それから栄次、お前ともっと話してみたかったというのは嘘じゃない。こんな世じゃなきゃわかりあえたかもな。」
更夜の言葉を聞いて俺は後悔していた理由がわかった。更夜とわかり合えたかもしれない。俺はあの時、そう思ったのだろうな。
「更夜……俺は……。」
「もういい。……じゃあな。」
更夜はそう言うと火打石で自らの身体に火を放った。元から油でも塗っていたのか普通では考えられない炎が更夜からあがった。更夜は切なげな青い瞳でこちらを見た後、炎に包まれ消えて行った。本当に何も残らなかった。灰と人間が焼ける臭いが鼻に突く。俺は呆然とその場に立っていた。俺の後ろでは更夜の死を喜ぶ男達の声が聞こえている。
……そんなにこの男が死ぬのが嬉しいか?
俺は心の中で男達に問いかけた。
……俺は不思議と悲しい。なぜかな。
「これでは首を持って帰る事すらできんではないか……。」
俺はそんな事をつぶやいていた。煤けて誰だかわからなくなってしまった更夜から目を離し、鈴の墓に目を向けた。鈴の墓には小さな花が供えてあった。その花は更夜の血で汚れ、真っ赤に染まっていた。夕陽が鈴の墓を悲しげに照らす。墓には不思議と血の一滴すらついていなかった。更夜はここにずっといた……。そして毎日花を供えに来ていた……。
一瞬、過去が通り過ぎた。
「お前はどんな花が好きだ?女の子なんだから……何かあるだろう?」
ぶっきらぼうに問いかける更夜と作りたての墓。更夜は座り込み、どこから持ってきたのか小さい花を何本か墓の側に置いていた。
「俺は柔らかい表情ができない。……お前にどういう顔をしたらいいかわからない。俺はもう色々と疲れた。……俺が向こうへ行った時、今度は上手に俺を殺せるぞ。鈴。」
やわらかい風が更夜の髪をなで、供えた花が優しく揺れている。一瞬だけだったがそんな情景が浮かんだ。本当に一瞬だった。
忍は証拠を残さない。今思えば更夜は本当に忍だったのだな……。
またあの男と刀を交えたい。……邪魔が入らない状態で本気でぶつかりあって……俺は更夜に斬り殺されたい。俺もこの世から消してほしい……。
それが……俺の……願いなのだ……。
栄次がそっと目を開けた時、泉の上に立っていた。場所は先程の所とは少し違い、泉の周りを囲むように桜の木が根を生やしていた。桜はどれも満開で美しい桃色の花びらを散らしている。周りは夜のように真っ暗だが桜がオレンジ色の輝きを放ち、あたりは明るい。
まるで幻想だ……栄次はそう思った。
「久しぶりだな。蛇。」
その時、聞き覚えのある声がした。栄次が前方を見るとそこには右目を髪で覆っているあの時の更夜が立っていた。栄次は胸が高鳴っていた。
「こ……更夜……。」
「そうだ。更夜だ。眼鏡というものをかけてみたぞ。これはいい。よく物が見える。ああ、この眼鏡はな、そこらへんで拾った。」
よく見ると更夜は眼鏡をしていた。そういえば昔から目が悪かったとよく言っていた。だからこそ、栄次と戦っていた時、目を頼らなかった。
更夜は表情もなしにそう栄次に話しかける。声のトーンも一定だ。
「本当に……更夜なのか……?」
「そうだが。」
栄次は更夜の無機質な感じに懐かしさを覚え、自然と笑みをこぼした。栄次自身、あまり笑わない。自分でも驚くほど自然な笑顔だった。
「また会えるとはな……。」
「会って行う事と言えば一つだろう?」
更夜はあの冷徹な笑みを栄次に向ける。
……更夜は何一つ変わっていない。あの時と同じだ……。そう……あの時と。
栄次の心は高ぶっていた。
「ああ、そうだな。」
栄次はそっと刀を抜いた。更夜も刀を抜く。お互い正眼の構えをとる。風が二人の髪をそっと撫でていく。その柔らかい風がやんだ時、栄次の目の前にはもう更夜はいなかった。
「はじまった。はじまった。」
鈴は桜の木の枝に座っていた。微笑みながら二人の戦闘を見守る。
「更夜は栄次を殺す目的で、わたしは更夜を殺す目的でだね。……いいね。更夜はわたしが栄次を連れてきたって知らない。わたしがあの時やろうとしていた策は成功した。このまま更夜を殺してしまえ。栄次。」
鈴は楽しそうに戦闘を眺めていた。戦いは長引いていた。二人とも傷だらけでボロボロだった。だがお互い、刀が止まる事はない。栄次は高鳴る胸を抑えながら刀を振るい続けた。
やがて勝負はついた。更夜が栄次に一瞬の隙をつかれ袈裟に斬られた。更夜はそのまま仰向けに倒れた。
「はっ……。」
栄次はあの時の感覚が蘇ってきた。斬ってしまってからの後悔。体が勝手に動いてしまう感覚。
……これではあの時と同じだ……
……俺が求めていたのは……違う。
栄次はあの時と同じように炎に包まれ燃えていく更夜をうつろな目で見つめていた。
ふと顔を上げると燃えているはずの更夜が立っていた。先程の傷もなくなっている。更夜は銀色の髪を揺らしながら栄次を見つめていた。
「更夜……。」
栄次がそうつぶやいた時、更夜が刀を構えて突進してきた。栄次は更夜の突きを横に避けてかわし、刀を振るう。
また栄次の胸が高鳴り始めた。
八話
「ねぇ、プラズマ、見つかった?」
アヤは遥か下にあるそのぐちゃぐちゃな世界を眺めながらプラズマに問いかける。様々な世界は姿を変えながら動いている。
「いや、残念だが……まったくわからん。」
「それっぽい夢は?」
「それもわからん。」
アヤとプラズマの頬には絶えず汗が伝う。上から眺めるだけでは無謀だ。手がかりすらない。
「ウサギ、少し世界を動かして。」
「ラビダージャン!」
ウサギは小さい鉄の棒に見える謎の装置を触る。弐の世界が少しだけ動いた。弐の世界を動かすそれは地球儀を動かすのに近い。ウサギが少し装置をスライドさせると弐の世界が少しだけ横にスライドする。そうする事によってまた別の世界を見る事ができるのだ。
「困ったわね……。確かに弐の世界は入ったら出て来れないわ。心の世界って怖いのね。」
「ん?ちょっと待て。」
アヤがため息をついた時、プラズマの顔が険しくなっていた。
「どうしたの?」
「あれを見ろ。」
プラズマが右下あたりを指差した。アヤも指の先に目を向ける。
「……何あれ……。」
様々な世界を一人の人間がまっすぐに飛んでいた。こんなに様々な世界があるというのにその人間はためらいもなく進んでいる。アヤ達はその姿を上から眺めた。
「人間じゃないな……。」
プラズマもアヤも何か違和感を覚えていた。
「ウサギ!あの人を追って!」
「ラビダージャン!」
ウサギはアヤの指示に従い、飛び去る人間を追う。その人間はオレンジ色の短い髪に肩無しのユニフォームのようなものを着ており、下は長ズボンだ。ズボンの腿あたりに飛行機の翼のようなものがついている。おそらくそれで空を飛んでいるのだろう。背格好から分析すると男だ。
「プラズマ、あの人……。」
アヤはなんとなく気がついた。雰囲気というか直感に近い。
「ああ。あれが弐の世界の時神……か?」
プラズマもアヤと同じ答えだった。
「しかし、ずいぶんと奇抜な格好をしているのね……。」
「ここは弐の世界だろ?なんでもありなんじゃないか?上からでもわかるくらいにこの世界は意味不明なものであふれている。あれもきっとよくわからないパーツを身体にくっつけているだけだろ?」
プラズマは男を目で追いながらつぶやく。プラズマの言葉にウサギが嬉しそうに答える。
「まあ、自分は弐の世界からこちらに飛んでくる意味不明なものを使って創作をしているでありますが!」
「そうなの?」
「そうでごじゃる!この装置も……。」
「おい!ちゃんと動かせ!見失うぞ。」
楽しそうに話しはじめるウサギにプラズマはぴしゃりと言い放った。
「うー……。」
ウサギは頬を膨らませながら男を追う事に専念し始めた。
しばらくして男は一つの世界で止まると急に消えた。
「消えた!」
「中に入り込んだんじゃない?」
男が消えた場所は真夏の太陽が草むらをただ照らしている世界。上から見ただけだとよくわからないが世界としては現世に似ていて普通だ。
「消えたって事は中に入ったって事か?」
プラズマがウサギに目を向ける。
「まあ、そう考えるのがよろしいかと。あの男は弐の世界の表面、夢のさらに表面を飛んでいたのでごじゃるな。そしてあの男は夢の中に今、入り込んだ。見た所、あの世界を探して入ったようにも見えるから何かあると思われるでごじゃるなあ。ウサギンヌ!」
「……だよな……。どうする?アヤ、行くか?」
プラズマはウサギから目を離し、今度はアヤに目を向ける。
「手がかりが何もないんだから行くしかないんじゃない?」
「だよな……。」
アヤも正直怖かった。あの弐の世界の時神だと思われる男も話のわかる男かどうかも怪しい。協力的かどうかもよくわからない。まず、時神かどうかもわからない。だが、栄次に会うためには行くしかなかった。
「ウサギ、あの世界に行くわ。どうやって入るの?」
「狙いをさだめて飛び降りるであります!」
ウサギはビシッと手を前に出した。
「飛び降りる?ここは無重力よ。飛び降りるなんて……。」
「ここから先はちゃんと落ちるであります。」
ウサギは少し先に進み手を広げた。空間は宇宙と同じなのでどこからそうなっているのかはよくわからない。ウサギが立っている先は重力があるらしい。
「間違った世界に入ったらどうするんだ?狙いをさだめてもここから落ちたんじゃその横の世界に入ってしまうかもしれないだろ。」
「別世界に入ってしまったら終わりでごじゃじゃのごじゃごじゃ!ですが!自分がジャンプの達人であると時神様達は知らないでアルカ!デアルカっ!」
「誰だよ……。」
なぜか気分が上がっているウサギにプラズマは静かにツッコミを入れた。
「まあ、でもウサギに任せるわ。只者じゃなさそうだし。」
「ラビダージャン!」
ウサギはアヤの言葉に大きく頷いた。
「じゃ、さっそく行くか……。」
「そうね。」
「じゃあ、自分につかまるであります。」
ウサギがアヤとプラズマに手を差しのべる。二人はウサギの手をそれぞれ握った。
ウサギはしばらく目を忙しなく動かし入るべき世界との距離を測っている。
「見えたであります!」
ウサギは元気よくその世界に向けて飛び込んで行った。アヤとプラズマはウサギにすべてを任せた。ウサギがいた場所から先はウサギの言った通り重力がかかった。下に引っ張られるようにアヤ達は落ちて行った。きれいな星空はいつの間にか、絵で描いたような星に変わり、お菓子やら何かのネジやらぬいぐるみやら電車やら得体のしれないものが次第に舞い始めた。
それを眺めていたら、だんだんと眠たくなってきた。心が身体から離れていくようなそういう感じた事のない感覚がアヤ達を襲った。アヤはたぶんそこで気を失ったのだろう。そこから先の記憶はあまりなかった。
なぜだ……。なぜ……俺は更夜に負けない……。こんなに戦っているというのに……。
栄次は更夜を何度も斬った。だが更夜は何事もなかったかのようにまた栄次に襲いかかってくる。
栄次は今、更夜を押し倒し、刀で更夜の心臓を突き刺していた。何度もの戦いで栄次は疲弊していた。肩が大きく上下しており、息も荒い。体は真っ赤になるほどに斬りきざまれている。
……どうして……俺は死ねない?
「あはは。これで更夜は何回死んだのかな?いい気味だね。とっても楽しいよ。」
いつの間に近くに来たのか鈴がケラケラと笑っていた。
「鈴……。お前、これが楽しいのか?」
「楽しいよ!だってあれだけ殺したかった更夜をこんなに何度も……殺してくれて……。」
「では……なぜ泣いているのだ……。」
栄次はうつろな目で鈴を見つめる。鈴はケラケラと笑いながら……泣いていた。
「さあ?わかんないね。こんなに楽しいのに……。憎んでいた更夜を何度も殺しているのに……。」
刺殺したはずの更夜は何事もないかのようにまた栄次と間合いをとるように立っていた。
栄次は霞む目で更夜を見つめる。更夜の顔には何の感情もなかった。
「……こんなに楽しいのに……なんでだろう?わたしは……なぜか悲しいよ……。」
鈴の言葉は風に流れるように消えていった。栄次はまた更夜と刀を交えていた。
オレンジ色の髪の子がわたくしの前を通るのです。その子はその無機質で機械のような目をわたくしに向けもせず通り過ぎるのです。おそらく壊れてしまった壱の世の時神を抹消しに行くのでしょう。
もうああなってしまっては現世で新しい過去神が生まれていなくても、おしまいです。
弐の世界に自ら入り、人間との干渉を絶ち、早く消えてしまいたいと願う時神はもう壱の世界にはいらない。頻繁にいるのです。長い年月を生きすぎてこうなってしまう時神が。
まだ栄次はもとに戻る事ができると思います……。彼を助けに来る時神達がいる。
トケイ……早まってはいけません。……そう言いたいのですが彼には感情がありません。
彼に感情というものがあったらわたくしの言葉は届くでしょう。
しかし、この弐の世界で感情を持つのは死ぬよりもつらい事。ずっとこの世界にいて狂わずにいられるのはトケイに感情がないから。あの子は弐の世界に望んで入り込んだ壱の世の時神を消すために存在する時神……。それも弐の世界の時を守るために大切な事……。
……トケイはそのために生きている……ほんとうにかわいそうな子……。
アヤ達は真夏の太陽の下にいた。地面は青々とした雑草が元気よく伸びている。まわりは何もない。ただ、太陽とどこまでも続く草原が広がっているだけだ。
「ん……。」
アヤはいつの間にか閉じていた目を開けた。アヤは草の上に寝転がっていた。なぜか身体がだるく、意識を保とうとしなければ眠ってしまいそうだった。プラズマがアヤを必死で揺すっていた。
「おい!おい!しっかりしろ!ここでもう一度寝たらやばそうだぞ!」
プラズマはわざと声を荒げる。プラズマも寝てしまいそうになり、大声を出して眠気を覚ましていたらしい。アヤは朦朧とした意識の中、頭を横に振った。少しだけだが目が覚めた気がする。
「大丈夫よ……。プラズマ。」
アヤはよろよろと立ち上がった。ウサギが心配そうにアヤを見ていた。ウサギは眠くないのだろうか。
「ウサギは眠たくないの?」
「自分は夜行性故、眠たいとは思わないであります!現在、壱の世界では夜であるため、本来今は起きているであります。先程、図書館で爆睡したのもプラスして大丈夫でごじゃる!」
「あ、そうなの?……というか……暑いわね……。」
アヤは真夏の太陽を迷惑そうに見上げる。あの太陽も心を持つ者が創ったものか。
こんなに暑いのならセミが鳴いていてもおかしくないのだがこの世界はセミどころか音がまったくしない。
「風の音すらしないぞ。」
プラズマは耳を澄ましたが自分達の声以外何も聞こえない。草を踏んでも踏んだ音がしない。
「なんだか……不気味でごじゃる。ウサギンヌぅ……。」
ウサギの髪か耳かがだらんと垂れている。怯えているようだ。
「!」
突如、ウサギの耳が片方立ち上がった。
「どうした?」
「足音が聞こえるでごじゃる!この音のない空間で……。はわわわ……。」
ウサギはさらに怯え、体を震わせながらアヤの影に隠れる。さすが兎と言うべきか耳の発達は素晴らしい。
「ちょっとしっかりしなさいよ……。ついて来た時の威勢はどうしたのよ!」
アヤは腰に引っついてきたウサギに喝を入れる。
「そういえば俺達は霊的着物をまだ着ていたんだったな。」
「それがなんなのよ?今、関係あるの?」
アヤとプラズマは月子さんに会う為に正装をした。そのまま着替える事なく弐に入ってしまったから着物のまんまだ。
「久々だが、霊的武器を……。」
プラズマは手から弓と矢を出現させた。
「あなた……そんなものを持っていたの?」
「ああ、生きるために持ち歩いていたんだが知らんうちに具現化できるようになってしまって……。栄次の場合は刀がそうなんじゃないか?」
プラズマは弓を懐かしそうに眺めながらアヤに答える。
「そうなの?……その道具に付喪神がつきそうね……。」
「まったくだ。……まあ、なんか襲ってくるって感じかもしれないし、一応構えておく。」
プラズマはウサギが怯えている方向に矢を絞った。
「あなた、弓矢の腕前は?」
アヤは弓矢を構えるプラズマに問いかけた。格好が恐ろしく似合っている。平安の世の人間のようだ。
「俺は遠距離攻撃専門だ。あんまり覚えていないが火縄銃の鉄砲隊の時、狙ったものははずさなかった。弓矢なんかはたぶん古くからの付き合いだ。まあ、なまってなきゃ当たるだろ。」
「本当に大丈夫かしら……。『たぶん』とか『覚えていない』とか……話を聞く限りでは不安だわ。」
「ミライ!頑張るであります!」
呆れているアヤの影に隠れながら不安げにウサギは声を発していた。
「おう!バックにいるのは女二人!俺が守ってやるよ!」
プラズマはにやりと笑った。
「ほんと……大丈夫かしら……。」
アヤは頭を抱えた。
「おい、ウサギ。足音が聞こえてくる正確な位置、わかるか?」
「えーと……ちょい右?いや左?」
「OK!」
「ちょっ……!OKじゃないでしょ!今の!左か右かもわかってなかったわよ。」
ウサギのグダグダな言葉にプラズマは頷いた。アヤは慌てて会話に割って入った。
「んー……。なんとなくわかった。」
足あとはもう近くまで聞こえる。それなのに姿が見えない。静寂な中、不気味な足音だけどんどん近づいてくる。
「ん?」
プラズマが何の前触れもなく狙いを定めた。刹那、人影が少し遠くで揺れた。
「ま、待つでごじゃる!ミライ!」
「いっ?」
ウサギが叫んだ声と弓が唸る音が同時に響いた。
「月照明神(げっしょうみょうじん)様!」
ウサギは矢が当たる寸前の人影に向かい叫んだ。ウサギは絶望的な顔をしていたが矢は当たる事なく顔のすれすれを飛び、地面に刺さった。
「危なかった……。お前が叫んだからわざとはずしたんだぞ……。」
プラズマは冷や汗をかきながらウサギに目を向けた。アヤはプラズマの腕前が常人を超えている事に気がついた。
……あれは明らかに額を狙っていた。あの瞬時で的を絞り、的確に矢を放った。その後、ウサギの止める掛け声で咄嗟にぎりぎりで的を外した。やはり長く生きた時神は生が人間から始まるとはいえ常人ではない。
「あら……物騒ですこと……。」
人影が声を発した。声は女のものだ。だんだんと姿が露わになっていく。白拍子の格好をしたピンク色のストレートヘアーの女が地面に刺さっている矢を眺めていた。
「月子さんのお姉さんか?さっき、あの宇宙で寝てた女だな。」
プラズマがアヤに耳打ちする。
「ウサギが月照明神って言っていたわ。月照明神は月子さんじゃない。」
「月照明神様は二人そろってそう呼ぶでごじゃる。」
アヤのつぶやきを聞いていたウサギはすぐさま声を上げる。
「じゃあ、やっぱりあの神は月子さんのお姉さんなわけね?」
「うん。」
アヤの問いかけにウサギは複雑な表情で頷いた。
「ウサギ、あなたは何のためにこちらに?情けないですよ。足音だけで怯えるのではなく、月神の使いならばもっとしっかりしなければ。」
月照明神はウサギに優しく微笑みかけた。
「も……申し訳ないであります……。月照明神様は何故この世界に……。いや、それ以前の問題で何故弐の世界に入られたでごじゃる?」
「そんな事を言っている場合ではないのです。このままでは栄次が消滅しますわ。あの子はまだ戻れる……。彼の心はこの裏側にありますわ。」
月照明神はウサギに対して何も答えなかった。
「まあ、あんたの事はいいとして、栄次にはどうやったら会えるんだ?」
プラズマが馴れ馴れしく月照明神に話しかける。
「目を閉じて栄次を探しなさい。それだけでいいのです。」
月照明神は静かにそう言った。
「目を閉じるだけ?そのまま寝てしまいそうなのだけれど……。」
アヤが不安そうに月照明神を見上げた。月照明神は女性ながらプラズマほどではないが身長が高い。凛とした雰囲気の美しい女性だった。目元は月子さんに似ているが可愛らしさはなく、おしとやかだ。
「眠ってしまったら戻れないですよ。目を閉じて栄次を感じなさい。それから、ウサギ、あなたは栄次を知らないのでいくら目を閉じても心へは入れません。」
月照明神はアヤの後ろに隠れながら目を必死で閉じているウサギに声をかける。
「はっ!そうでありましたか!」
「人の心に入るという事は大変な事です。お互いが知り合っている事が第一条件で絆が深まれば深まるほど心に入りやすくなりますが深くなりすぎると今度は嘘にまみれます。自分を嫌いにならないでほしいとか余計な感情が入るとその人間は嘘という壁を作ってしまいます。お互い、なんでも話せる仲だとしても……心では大事に思っている人であっても……言えない秘密はあります。心に入るという事は泥だらけの靴で畳を踏むのと同じ事。それだけ大変なのですよ。それと……栄次が作り出した心の世界の住人は栄次の心です。栄次が動かしているに過ぎません。心は色々なところで繋がっています。一人で何役も演じられます。」
月照明神は切れ長の瞳でアヤとプラズマに目を向けた。
「なるほど……な。その話だと栄次はそれほどまでに追い詰められているという事だな。」
プラズマは何とも言えない顔でアヤを見た。
「栄次はこの世界のカラにこもり、自分一人で演劇を行っているという事よね。……栄次は……私達に心を開いているのかしら……。」
「わからないが……やってみるしかないだろ。どうせここからどうしたらいいかわからないんだ。この女のやり方でやってみよう。嘘をついている感じでもないしな。」
「ええ。そうね。」
プラズマとアヤはお互い頷き合うと、そっと目を閉じた。
「トケイも……よろしくお願いいたします……。時神様。」
この意味深な月照明神の声を最後にアヤ達は暗闇に飲まれていった。
九話
栄次は更夜を袈裟に斬った。
……まただ……また同じだ……。
栄次は肩で息をしながら歯を噛みしめた。
……何故俺の身体は勝手に動く……。
栄次は血にまみれながら泣いていた。
……どうして……
更夜がまた何事もなかったかのように立っている。
「つらいか?栄次。」
更夜が戦ってからはじめて声を発した。
「更夜。もっと本気でやってくれ……。これでは俺が……」
「……俺はつらい。」
栄次の言葉を半ば無視するように更夜が言葉を紡ぐ。
「俺はもう、あの時代から解放されたはずなんだ。なのにまだ、縛られている。どうしてなんだ?」
更夜は栄次に向かい、刀を構える。
「わたし……更夜を殺す事しか考えられないんだ……。どうしてかな……。」
隣で鈴も栄次に話しかける。
「俺に聞くな……。」
栄次はまた震える手で刀を握る。
「ねえ……あなたは更夜に斬られて……それで幸せ?」
「……。」
鈴はいつの間にか表情がなくなっていた。淡々と言葉を紡ぐ。
「栄次、お前を殺す努力はする。だがお前はそれで幸せになるのか?」
今度は更夜がそうつぶやいた。
「俺に聞くな……。俺に……聞くんじゃない……。お前達はそんなんじゃなかったはずだ……。どうしてしまったのだ……?」
栄次の声はか細く、消え入りそうだった。栄次は自分の知らぬ間に心での葛藤を続けていた。
もう、生きている意味はないから消してほしい……それが表の願い。
だが裏では俺は死んでいいのか?まだ生きてする事があるんじゃないのか?と思っている。
その葛藤が鈴と更夜を作り出す。栄次の心によって彼らも変わっていく。それを栄次は知らない。鈴の過去も栄次の過去神特有の過去見を行っていたにすぎない。
自身の壊れかけた心すら栄次は気がついていない……。いや、これからも気がつかないだろう。トケイに壊されるまで。
ここは神の気配もしない。誰もいない。俺はここで未練なく死ねる……。
鈴が行った策により俺は更夜と戦い、殺される。誰の邪魔も入らない所で死ぬ。
……鈴が考えていた計画は成功しないが更夜の計画は成功する。
俺を殺すという計画……あの時の再戦で俺は更夜に負け、更夜は俺を殺すという目標を達成する。そういう流れのはずだ。
そのはずだった……。
そのはず……。
そのはず?
「!」
そこまで考えた時、栄次は気がついてしまった。自分の心を知ってしまった。
……何故……俺は鈴がやろうとしていた策を知っていたんだ……?
……何故俺は更夜に斬り殺されるはずだと思っている?
この流れは俺自身、知らないはずだ!鈴の策も殺される未来も俺は知らないはずなんだ!
何故『そのはずだった』とあたかもわかっていたかのように言えるんだ!
「……はっ。」
そして栄次はすべてを気づかされた。
……これは全部……俺が考えた物語の流れ……。俺の……心だ……。
……そうか。……鈴も更夜も……俺が勝手に作っていた……。自分が死ねないのは心の中で生き死にの葛藤をしていたから……そうか。そうだったのか……。
そういう事だったのか。
栄次の瞳から涙がそっと頬をつたい、泉に波紋をつける。栄次はその場で膝を折った。
……そうか……。そうだったのか……。おかしいと思っていたんだ……。
むなしさが栄次の心を撫でていく。更夜と鈴はその場でうずくまる栄次をただ見つめていた。
「……俺は……。」
栄次は嗚咽を漏らしながら一人、静かに涙を流していた。
……俺は……一体何をしていたのだ……。
栄次がそう思った矢先、鋭い痛みが襲ってきた。
「がっ!」
栄次は呻き、突然吹っ飛ばされた。水しぶきをあげながら栄次は無残にもその場にうつぶせで倒れた。
泉は水たまりのように浅く、栄次は冷たい水に顔をつけながらあたりを舞う桜の花びらを眺めた。何が起こったかよくわからないが腹に鋭い痛みを感じる。もう起きあがる気力もなかった。
「……。」
栄次の瞳にふと人間の靴が映った。もう顔を起こす気力もない。栄次はそのまま靴を眺めていた。
……一体……誰だ?
靴はすぐに栄次の瞳から姿を消した。
「ぐっ!」
今度は栄次の背中に鋭い痛みが走る。蹴られている。踏みつぶされている。
その痛みは一定に続く。まるでプログラミングされた機械のように蹴り上げたり踏みつぶしたりを繰り返す。
栄次はもう誰にどうされてもよかった。もうどうでもよかった。
きっともうアバラも何本か折れているだろう。栄次は感情がまったく感じられないその打撃をただ静かに受け入れていた。もともと斬られてボロボロだった栄次の傷口をえぐるように打撃が食い込む。栄次はただ瞳に映る赤い液体を眺めているだけだった。
その打撃はまるで時計を壊すようだった。踏みつけて蹴りあげて秒針や歯車やフレームを折り曲げ、割り、壊す。正確に時をはかるための数字は血で汚れた。
栄次を痛めつけているその人物は声も発さず、ただ栄次を壊している。
……ああ、俺はこういう死に方をするのか……。
栄次は次第に暗くなっていく視界を受け入れながらそっと目を閉じだ。
「……!」
刹那、一瞬だけアヤとプラズマが脳裏に浮かんだ。
……そうだ……。俺が死んだら、俺と同じ境遇にいる彼らはどうなるのだ……?
……今もきっと……迷惑をかけている。俺が勝手な行動をしているが為に彼らに迷惑をかけている……。
……だが……俺はもう……。
そう思った時、栄次は弓矢の轟音を聞いた。それと同時に身体がふっと軽くなった。
「栄次!」
聞き覚えのある声が響く。栄次はそっと目を開け、頭をわずかに持ち上げた。
視界に入ったのはこちらに向かって走って来ているアヤとプラズマだった。着物の裾を濡らしながら必死でこちらに向かって来ている。水しぶきの軽い音があたりに響いていた。
「ちょっとしっかりしなさい!栄次!」
アヤは栄次に近づき必死で揺すった。栄次の身体は損傷が激しく、体は真っ赤に染まるくらいの血で汚れていた。泉にも広く栄次の血が広がっている。
「あ、アヤ……。」
「そうよ。今、助けてあげるから!」
アヤは栄次に声をかけ続けた。
「あいつ、俺の矢を受け止めやがった。」
プラズマはアヤの近くでまた弓を構える。プラズマの目線の先にはオレンジ色の髪の男、トケイが何事もなかったかのように浮いていた。顔に感情は読み取れない。
服についている電子数字とウイングについている電子数字が動いていた。何をカウントしているのかはわからない。電光掲示板のようにオレンジ色の光りが何かの時を刻んでいた。
「あれは……時神か?」
栄次ははじめてその男を見た。
「そうよ。ここは心の世界、弐。あの時神は弐の世界の時神らしいわ。」
「心の世界か……。今ならわかる。……あの時神は俺が壊れる時間をはかっているのだろうな。おそらく。」
「嫌なカウントをしているわね……。今、あなたを元に戻してあげる。」
栄次はうつろな目でアヤを見上げた。
「やはり俺は死なない方がいいか?」
栄次はいままでにないほどの弱々しい瞳でアヤを見上げ、口を動かす。
「当たり前じゃない……。あなたは今死ぬべきではないわ。」
プラズマの弓を射る音がまた聞こえる。一人でトケイと戦っているようだ。アヤは構わず続ける。
「私達の為に生きようと思わなくていいわ。あなたが生きなければならない理由は後ろにある。」
アヤはすぐ後ろを指差した。アヤは栄次と向かい合う形で話し込んでいるため、栄次は前を見上げる形となる。
「更夜……鈴……。」
栄次の瞳に映ったのは切なげにこちらを見ている更夜と鈴だった。
「あの人達は、あなたとどういう関係かはわからないけどあなたの心にいる霊達。」
アヤは栄次にそっと時間の鎖を巻く。ここは弐の世界。時間の巻き戻しも簡単にできた。栄次の傷は巻き戻り、どんどん消えて行く。
「更夜と鈴は俺が作った者達だ……。今はいない。」
「違うわ。彼らはあなたの心に住んでいるのよ。あなたが死んでしまったら彼らはどこに行くの?」
「彼らは……本物……なのか?」
栄次は半信半疑でアヤを見上げた。
「弐の世界は心と霊が住む世界。心を持つ者が映す独特の世界、それが霊達が住む世界なの。この世界に詳しい人から聞いてきたわ。あなたがここを住みやすい世界に変えれば彼らがあんな顔をして佇む事もなくなる。彼らは憶測だけどつらい生活をしてきたんじゃない?もう幸せにしてあげてもいいと思うの……。」
アヤは話しながらなぜか泣いていた。あの女の子も男も知らない人だというのになぜか涙が止まらなかった。
時神は三人で一人。この世界で無意識にアヤは何かしら関わっていたのかもしれない。
そしてあの二人の本当の心をどこかで見てしまったのかもしれない。
「アヤ……何故、お前が泣く……。お前はまったく関係ないだろう……。」
「わからない。でもなんだか悲しいの。どうしてなのかしら……。」
アヤはよくわからないまま涙を流していた。
「更夜……鈴……お前達は俺の心の中で俺に操られて動いていたんだな……。」
「……。」
栄次の問いかけに二人は何も話さなかった。
「……栄次、あなたの望む更夜と鈴はどんな?本当にあなたが考えている姿は?」
「栄次、お前の望む更夜と鈴はどんなだ?本当にお前が考えている姿は?」
アヤとプラズマは同時にこんな言葉を発していた。無意識に口が動いた。
アヤとプラズマは驚いて目を見開いていた。自分が言った事が信じられないという表情だ。
鈴や更夜といった名前は知らない。それがすんなりとまるで昔から知っているかのように口から出た。
「俺の望む更夜と……鈴……。」
栄次の傷はほとんど治っていた。栄次は身体をゆっくりと起こす。濡れた髪が滴となって栄次の頬を垂れる。
「俺が望む二人……。」
栄次は消え入りそうな声でつぶやき、二人を見つめる。
「?」
プラズマは弓を構えるのを突然やめた。無機質だったトケイの瞳から涙が流れていたからだ。表情は変わらない。動くのを止め、じっと栄次を見つめていた。
「鈴は成長していて美しい娘になっていて……更夜は忍をやめて鈴と楽しそうに生活しているんだ……。それで……。」
栄次は早口につぶやきはじめる。鈴は栄次が夢中で話している間、そっと目を閉じて聞いていた。そしてふっと目を開けて大人の姿へと変身した。更夜も初めて柔らかい表情を見せ、栄次を見ていた。
「実はね……わたし達は望んであなたの心に住んでいるんだよ。」
「そうだ。お前からあの計画を持ち出された時は驚いたもんだ。俺達を追い出し、自分も死のうなんてな。しばらく計画に乗ってやっていたが本当は乗り気じゃなかったんだ。」
大人になった鈴と更夜は栄次を柔らかい表情で見つめながらつぶやいた。
「俺はそんな計画立てていないぞ。」
栄次は大人になった鈴に少し驚きながら言葉を発した。
「無意識に心の中でね……。心って怖いんだよ。」
鈴はふふっと笑った。大人になった鈴はとても美しかった。髪型は変わっていないがさっきよりも髪が伸びていた。目は鋭いが凛々しく、気品のある顔立ちだ。身長も伸び、大人な女性になっていた。
「無意識に……か。俺はこの世界に意識がない時に来ていたのか……。」
「そういう事だね。……わたしって大きくなるとこういう風になるんだね。やっと大人になれた。」
鈴の言葉に更夜が顔をしかめていた。
「俺を責めるな。俺だってあの時は必死だったんだ。」
「震えている子供にあんなことしたのに?危険な事も……したのに。」
「そう言うな……。沢山償っただろう?俺は何をしたらお前に許されるんだ?」
二人の会話を聞きながら栄次はこれが本当の二人かと思っていた。あの時にはなかった仮面をはずした二人の姿。栄次がこの世界を壊していたらこの二人の本当の顔を見る事ができなかった。栄次自身も忘れていた二人の面影をハッキリと思いだし、二人が忍ではなかったらきっとこうなっていただろうというビジョンが浮かんだ。
「俺の心にはお前達がずっといてくれたのか……。」
栄次はそっとつぶやいた。
「あの時、唯一わたしに優しくしてくれた人だったからね。」
「お前は唯一俺を斬り殺した人間だ。お前は忘れていたかもしれないがな。」
二人はふっと笑った。
「俺はやはりまだ死ぬわけにはいかないという事か……。」
三人が打ち解けてきた時、トケイが動き出した。
「!」
プラズマは身構えた。アヤとプラズマがいる方向にまっすぐ向かって来ていた。
殺気も何もない。感情がないため何をするのかまったく読めない。トケイはアヤにいきなり襲いかかった。蹴りをアヤの腹に入れようとしていた。
「アヤ!」
プラズマは素早くアヤの腕を引いた。トケイの足は突き出した形で止まっていた。爆風がアヤの身体を通り過ぎる。
「なっ……。」
アヤは絶句していた。プラズマも顔を青くする。
……あれをくらっていたら死んでいた……。
プラズマは慌ててアヤを連れてトケイから離れる。肩で息をしながらトケイの行方を探す。もう目の前にはいない。
……どこいった?
二人はあたりを伺うがトケイはいない。
「右だ。」
「!」
ふいに栄次の声が聞こえたかと思うと前に思い切り突き飛ばされた。トケイの足が右からまっすぐ伸びていた。栄次が前に押してくれなければ当たっていた。
「栄次……。」
「原因は俺なんだろう?お前達まで巻き込んで……。」
栄次はアヤを担ぎ、プラズマの腕を引くと走り出した。まるでトケイの動きが見えているかのように目を左右に動かしている。
「……上か。」
栄次はプラズマの腕を自分の方へ引く。引いた直後、プラズマが先程までいた所に衝撃が走っていた。泉の水が避けられ地面に亀裂が入っている。トケイはまた姿を消した。
「あんなの当たったら死んじまうぞ!てか、お前凄いな……。よくあれを察知できる……。」
「なぜかお前達も標的になっているようだな。」
蒼白なプラズマに栄次は冷静に答える。
「私達もこの弐の世界に勝手に入り込んだからきっと怒っているのよ……。」
アヤは担がれながらつぶやいた。
「なんで怒っているってわかんだよ!」
「なんとなくよ。なんとなく、わからない?」
アヤの問いかけに栄次とプラズマは唸った。
「わからん。感情がないではないか。」
「……私にしかわからないのかしら……。あの時神……私達を恨んでいるみたい。」
「恨んでいる?なんでだ?」
プラズマは栄次に引っ張られながら眉をひそめる。またすぐ横で地面が陥没していた。
「ちょっと違うかもしれない……。よく説明できないけれど。」
アヤの視界にふとトケイが映った。トケイのすぐ後ろに黒い影が揺れていた。
「……え?誰……?」
アヤは無意識にそう言っていた。誰だかわからないのにアヤはその人物を知っていた。
刹那、影は揺れて消え、かわりに更夜と鈴が飛び込んできた。二人はトケイの腕を掴み動きを封じた。
トケイはじたばたと動いていたがやがて動くのをやめた。更夜と鈴にはトケイの攻撃はまったく効いていなかった。トケイは時神しか狙っていない。本来、壊れてしまった栄次を消すためにこの世界に来たはずなのだがなぜかトケイは時神全員を消そうとし始めた。
「あなたは……。」
「おい。アヤ……。」
アヤは栄次から無理やり降りると更夜と鈴に腕を掴まれているトケイに近づいて行った。
その瞬間、なぜか更夜と鈴が消えた。急激に周りが歪み、風景も変わり始めた。そしてただ、真っ暗な空間になった。アヤは何かに取りつかれたかのように恐る恐るトケイに近づく。
「これは……一体……?」
栄次とプラズマは急に変わった風景に戸惑い、ただアヤを見つめていた。
「違う世界に入ったのだ。」
栄次がふと横を見ると更夜と鈴が立っていた。声を発したのは更夜らしい。
「あの女の子の世界……かもね。」
「なんでいきなりこんな事になったんだ?」
プラズマが不思議そうに鈴に声をかける。
「知らないね。赤毛のお兄さん。あの子になんかあったんじゃないのかな?」
鈴はアヤとトケイをじっと見つめていた。
「栄次、動くな。」
アヤを助けようとしたのか咄嗟に動こうとした栄次を更夜が止めた。
「あのままではアヤが危ないではないか。」
「でも動くな。」
更夜が諭すように栄次に声をかけた。栄次は諦めてその場に立ち止った。
アヤはもうトケイの前まで足を進めていた。
「あなたは……。」
アヤはトケイではなくその後ろに佇む人物に目線を向けていた。
「アヤ……久しぶりだね。僕を覚えているかな。」
覚えているに決まっている。忘れるわけがない。いまだ、アヤの心に縛りつくあの記憶。
「立花……こばると……。」
「名前をフルネームで覚えていてくれたんだね。殺した神の名前はちゃんと覚えるようにしているのかい?」
少年の顔立ち、黒い短髪、黒い学生服の男の子はアヤに笑いかけた。彼はアヤの前に生きていた現代神、立花こばるとである。
「殺した神って……しょうがなかったのよ!私だって生きたかった……。今はちょっと後悔している部分もあるけどね……。じゃあ、あの時、私はどうしたらよかったのよ!」
アヤは周りを考えずに叫んだ。トケイは力なく横で座り込んでいた。まるで壊れたおもちゃのようだった。
「どうしたらよかっただって?君が消えればよかったのさ。僕の計画通りに消えればよかったんだ。」
こばるとはあの時のナイフを取り出す。アヤの足は震えていた。
……そう……私はあれでこばるとを殺した……。自分が生きる為だけに……。
「あれは前現代神立花こばるとか!」
プラズマと栄次は驚き、声を発した。
「ねえ、アヤ。こいつはなんでこの世界にいるか知っている?」
こばるとは目の前に力なく座っているトケイを蹴り飛ばす。トケイは瞬きもせずに石像のように固まっている。
「弐の世界に入り込んでしまった壱の世界の時神を始末するためでしょ?」
「そうだ。こいつはね、僕が作ったんだ。いや、僕の妄想だ。僕は狂った時神がどこへ行くのかずっと考えていた。もう何百年も前からね。狂った時神の魂を壊す時神がいるだろうと僕が描いたストーリーだ。ここまでの形になったのはつい最近だけどね。感情がなくてただ時神を壊す時神、楽しいでしょ。」
こばるとは笑顔をこちらに向けた。
「……。」
アヤは言葉がなかった。単純に震えていた。この人は自分を許してはいない。あのナイフで刺して冷たい言葉をかけた自分を死んでからも未だにずっと憎んでいるという事だ。
「さてと。僕はね、あの時、助けてもくれなかったあいつらも許せないんだ。どうせ皆時間の事なんて何一つ考えずにそこの栄次みたいに狂っているんだろ?そんで、皆この世界に入って来てしまった。じゃあ、トケイが壊す価値があるよね。」
こばるとが冷たい目でトケイを見つめる。トケイはこばるとの言葉を合図にゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと待って……!」
アヤが叫んだと同時にトケイは栄次とプラズマの元へと飛んで行った。
「アヤ、君はこっちだよ。」
こばるとがタンと靴で地面を鳴らすと周りの風景がまたぐにゃりと歪んだ。そして今度はアヤとこばるとだけが残された。
あの時、アヤは時神にまだなりきっていなかった。人間の力と時神の力を両方持っていた。アヤはこばるとよりも力の強い現代神だった。故にこばるとの時神としての力は衰えて行った。こばるとの身体に人間の力が流れ込み、時神としての力はどんどんなくなっていった。衰えていくこばるとは焦ってアヤを消しにかかった。時神のシステムはとても残酷だ。今存在している時神よりも強い時神が出てきたら存在していたその時神は消える。そして強い時神が時神としてこの世に生きる事になる。こばるとが考えた事は弱っていく自分の力を止めるには時神になっていくアヤを消せばいいという事だった。強い時神が消えれば自分が消滅する事はない。だからアヤを殺そうと思った。だが、こばるとはアヤと戦い、負けてしまった。
こばるとはアヤに自分はもっと時を守って行きたいのだと言ったがアヤはそのナイフでこばるとの胸を刺した。それは少し前の記憶。アヤが時神になったばかりの時に起きた事件。
この真っ暗な空間は……アヤがこばるとを殺したあの空間……。
思い出したくなかった。逃げたかった。自分が犯してしまった罪の重さはずっとアヤについてまわる。
「僕は時神としてのシステムを壊したい。だから、もう一度、君を消すよ。」
こばるとは手を横に広げ、水色の着流しに着替える。
「私はまた……あなたと向き合うのね……。」
アヤは怯えた目でこばるとを見上げた。
「君の着物はオレンジなんだね。似合っているよ。」
こばるとは冷笑を浮かべると一瞬でアヤの前に現れた。そしてアヤの腹を蹴り飛ばした。
「うっ……。」
アヤはその場にうずくまった。痛みよりも恐怖がアヤを襲っていた。逆らってはいけない。このまま自分は消えなければならない……。アヤはそう思ってしまった。
「今回は抵抗しないんだね。」
こばるとはアヤを仰向けにさせると冷たいナイフを首元へつきつけた。アヤは身体を震わせながら泣いていた。
「私は……私は……。」
嗚咽で言葉の先が出てこない。このまま消えてしまった方がいいのか……。
……アヤ、心を強く持ちなさい……。これはあなたの罪の意識が生んだものです……。
ふいに声が頭で響いた。
……月子さんの……お姉さん……?
アヤは涙で濡れた顔でこばるとを見つめながら問いかけた。
……そうです……。いいですか……?何百年も生きた時神が今更、こんな子供じみた事を言うわけがありません。よく考えなさい。これはあなたの心です。
月子さんのお姉さん、月照明神の声は鋭くアヤを突き刺してくる。
……私の心?
……あの時の事をもっとよく思い出しなさい。あなただけが悪かったのかを……。
……。
アヤはそっと目を閉じた。こばるとの動きは止まっている。もしかしたら無意識に時間停止をしたのかもしれない。
あの時、彼は私を消すために過去や未来へ渡り、過去神と未来神に私を殺させようとした。それに失敗して最終的に自分で私を殺す事にした。彼は時神の運命に逆らった。彼の気持ちもわかる……。だけど……それで私が殺されるのはおかしな話……。もっと彼と話ができたら私と一緒に時神を続けられる方法を見つけられたかもしれない……。
「ねぇ……こばると……。」
アヤはそっと目を開けてこばるとを見つめた。もう怯えはない。よく考えたら答えは出ていた。
「なんだい?アヤ。」
「あの時、私達はもっとお互いの事をわかりあって一緒に時神になる方法を探し出せたかもしれない。もう後の祭りだけど……私も自分が生きたいが為にあなたを殺してしまった。その事をひどく後悔している。でもね……あなたもあなたでおかしかったのよ。」
アヤがそう言った時、こばるとの表情がふと歪んだ。
「……うん。僕もわかってたんだ……。アヤに罪はないんだ……。僕が摂理にそむいたからいけないんだよ……。ずっとわかってた。アヤにひどい言葉をかけたってずっと思ってた……。言う術を探してた。君が僕についてずっと引きずっているのならば言う。僕はもう君の事、恨んでやしない。僕も弐の世界を彷徨ってよく考えたんだ。……あの時の僕は不安と焦りでいっぱいだった。僕の方こそ許してほしいよ……。」
こばるとはナイフを投げ捨てた。そして続けた。
「もう、この件で悩むのはよそう?お互い辛いから。僕はこういう形で君の心に居座りたいんだ……。ダメかな……。」
こばるとはアヤの表情を伺い、怯えている。本当に怯えていたのはアヤではなくこばるとだった。こばると自身も罪の意識に縛られ、死んでからもずっとこの事ばかり考えていた。
本当はアヤに許してもらいたかった。でもあんなことをしてしまった手前、言いだせなかった。
「……そうね。もう考えるのはやめるわ。あなたの事は忘れないけど。あなたが私の心にいてくれるのなら……私は頑張って生きるわ。」
アヤが笑いかけるとこばるとに初めてあたたかい笑顔が浮かんだ。
「さっきはごめんね……。アヤがそうしろって言うから……。君の世界が僕を動かしたんだ。」
「……あなたは私の心に従ったのね……。私こそごめんなさい。」
「アヤ、アヤはもう、戻った方がいいよ。……僕の元にずっといてはダメだよ。」
こばるとの言葉にアヤはハッとした。
「そうだ!トケイは!」
「彼を作ったのは実は僕だけじゃないんだ。僕はアバウトな外見を作った。後は君が作ったんだ。」
こばるとは目を伏せた。
「私が?」
「そう。君が。君が自分を壊してほしいって思ったから……。なるべく感情がなく、嫌な思いにならないようにって君が……。」
「私が……そんな事を……。」
アヤは愕然とした。そんな事を思ってもいなかった。
「僕の事で罪を感じてしまった君は自分が生きてていいのかと心の中でずっと思っていた。もういっそのこと壊してほしいと君は願っていた。そのうちに壊れた時神であると無意識にアヤは心で自分を作ってしまった。トケイは昔からいたらしい。彼は僕がもともと作ったものだから何百年も前からいたという話だ。だけど彼に感情がなくなったのはここ最近。君が彼の感情を消してしまった。きっと僕の心と君の心はどこかでつながっていたんだろうね。心がトケイと結びついてしまったんだって。」
こばるとはアヤに切ない笑みを向ける。
「そんな……。私……そんな事考えてもないのに……。」
「心って怖いよね……。人間はね、自分でも思ってもみない所に心があるんだ。他人に自分の心が完璧にわからないように嘘で壁を作るのと同じで自分自身の本心もそう思いたくないからって自分で作りかえてしまう事もできる。つまり自分でも知らない本心がある時があるって事だね。」
「そう……。私の本心……。心の中の中って事よね……。やっぱり、弐の世界って怖い。」
アヤは動揺していた。気がつきたくなかった自分の心を見てしまった気がした。
「僕と君が作ってしまったあのトケイを助けてあげたいんだ。でも僕はこの世界から出られない。さっきは君が望んだからトケイと他の時神達を締め出してしまったけど、今、君は違う事を思っている。僕と一緒にじゃなくて自分一人でトケイをなんとかしたいって思っている。」
「……っ!」
こばるとは本当にアヤの心がわかってしまっているらしい。アヤは目を見開いた。
「いいよ。僕はここにいるから。君の心に従う。」
「でも、あなた、こんな真っ暗な所に……。」
「君が変えてくれるのならそれでもいいよ。」
アヤは歩いてもいないのにこばるとから遠ざかっていた。こばるととの距離がだんだんと広がっていき、次第に黒い世界が遠くに見えるようになる。心が無意識にトケイの元へと動いているのだろう。
アヤは咄嗟にお花畑を想像した。
するとこばるとが立っている所から白い花が咲き、黒い世界は徐々に消え、青空と白い花畑の世界が出来上がった。こばるとは遠ざかって行くアヤにニコリと微笑んでいた。
最終話
時神達を攻撃しながらトケイは自身に問いかけていた。
……僕はなんで時神が憎い?
……時神が憎い?なんで会った事もない時神が憎い?
だいたい、僕の憎しみの感情はどこにある?そもそも感情はあるか?
ここにはない?
ある?
僕は一体……『だれ』だ?
「アヤ!」
プラズマと栄次が同時に声を発した。何もない空間から突如アヤが現れた。ここは先程の桜の木が囲む泉。アヤはどこか必死の表情でトケイに向かい走っていた。
「危ない!」
プラズマがアヤの手を思い切り引く。アヤの視線ギリギリをトケイの蹴りが通り過ぎる。トケイの攻撃は空間を裂き、風を巻き起こした。
「何やってんだ!危ないだろ!」
プラズマの怒鳴り声もアヤの耳にはほとんど入っていなかった。
「彼は……私が作った……神様。今ならはっきりとわかる……。彼は私が作ったこばると。さっき会ったこばるととは違う……。私が思い描いたこばると。そして同時に彼はこばるとが妄想で作り出した者。こばるとが考えたシステム。私とこばるとが思い描いたものがトケイに結びついてしまった……。」
トケイは栄次と交戦中だ。アヤはそんなトケイを暗い瞳で見つめる。
「……。よくわからんが……アヤはあれの心がわかるんだよな?さっき、なんだか恨んでいるみたいとか言ってただろ?」
「時神の運命を恨んだのは私。自分を助けてくれなかった時神達を憎んでいたのはこばると……。心がわかっていたんじゃない。私達の心が鏡のようにトケイに映っていただけ。」
アヤはプラズマに目線を上げる。プラズマは眉を寄せた。
「じゃあ、あいつの心とか感情とかそういうのはまったくないって事なのか?あいつ、泣いていたぞ。」
プラズマの声がアヤの心に低く響き渡った。アヤには彼自身の感情を読む事ができなかった。もちろん、憎しみを露わにしたこばるとの感情もわからない。わかるのは自分の感情のみだ。
泣いていたのは私の心かこばるとの心か……アヤが思う所はそこだった。
彼に自身の感情はない。アヤの結論はプラズマから問われる前から決まっていた。
「小娘。あの橙の髪の男にはうっすらながら感情がある。あれは自分が『だれ』なのか迷っているぞ。」
「!」
アヤの考えを遮ったのは更夜だった。
「トケイにさっきまでなかった戸惑いを感じられるね。」
いつの間に近づいてきていたのか鈴も首をかしげる。更夜も鈴ももうすでに弐の世界の住人だ。心に関しては敏感な所があるのだろう。
その直後、栄次がアヤ達の近くで止まった。いったん、間合いをとろうと離れたらしい。栄次の行動にトケイは追いかけもせずただ、その場に立ち尽くしていた。そしてはじめてトケイは声をあげた。
「僕は一体、なんなんだ……。」
ほとんど叫びに近かった。悲痛な声はアヤ達まで届いた。アヤ達は驚いていた。いままでなんの感情もなく動いていたトケイが急に壊れた。精密に動いていた時計が何かの拍子に狂う……。秒針、短針、長針がすべてバラバラに動き始めたのと同じように思えた。
「僕は一体『だれ』なんだ……。」
こばるとにもとらえられ、アヤにもとらえられる彼は突然に自分を求め始めた。
……自分が誰か……自分をうみだしたのは誰か……答えを探しているの?
……彼が恨んでいるのは時神ではなく……自分自身の運命。憎んでいるのは時神ではなく……彼を作ってしまった私とこばると……。
……さっきまでは私達の心が反映していただけなのに……今は違う……。
アヤにはわかった。それと同時に自分と同じだという事に気がついた。アヤも時神の運命を恨み、時神を作ったこの世界を憎んだ。
トケイは自分を産んだアヤ達を憎んでいる。アヤは何も言えず、ただ下を向いた。
彼は弐の世界の時神として生を受け、これからもずっとここで暮らす。今のアヤと同じように。
「誰なんだ……。君は……僕なのか?」
トケイはアヤをじっと見つめ、そんな事を口にした。
「いいえ。あなたと私は違うわ。」
アヤはこう答えるので精一杯だった。トケイの顔もろくに見る事ができず、ただ下を向いていた。自分の時は誰を恨めばいいかわからなかった。だが、トケイは自分を恨んでいる。恨む対象が自分なら、彼を助けられるのもまた自分。
アヤは残酷な言葉をかけることに決めた。
「あなたはここ、弐の世界の時を守るのが仕事。いままでもずっとあなたはこの世界を守ってきた。あなたはここの時を守る。それは時神としての使命。そしてそれがこの世界のシステム。」
トケイの存在を否定してしまったら彼はどうなってしまうのだろう。アヤはそれを考え、トケイの存在を当たり前にした。世界がアヤを時神として当たり前の存在としたように。
恨まれるならしかたない。だが彼を否定すれば彼はずっと孤独を彷徨うだろう。なぜ生かされているかもわからずにただ一人で孤独と戦い続ける。
きっとそれの方が辛い……。
アヤはそう思った。
「この世界を守る時神……?僕が?」
「そうよ。」
トケイの言葉にアヤは苦痛の表情を浮かべ返答した。プラズマと栄次は何も言わない。ただ、アヤとトケイの会話を聞いているだけだった。
「僕は誰なんだ?」
トケイは無表情で目線を靴に落とす。
「あなたはトケイ。弐の世界の時神。そして私はアヤ。壱の世界の時神よ。」
「壱の……世界?」
トケイは狼狽していた。今いきなり何もかも知ったという感じだ。アヤは彼を当たり前にするために言葉を発する。それに気がついた更夜と鈴がトケイに声をかける。
「俺は弐の世界の住人だ。」
「あ、わたしもそうだよ?」
残酷な事をしている事はアヤにもわかっていたが更夜と鈴が乗って来てくれた事にどこか感謝していた。
トケイにアヤの心でもなく、こばるとの心でもないと……別人であると思わせなければならない。そちらの方が個人を尊重できると思った。きれいごとを並べてはいるが実際はだましているだけだ。騙して彼を作ってしまった自身の心の平安を保とうとしているだけだ。
とても苦しかったがその感情を彼に知られてはいけない。なるべく平然と当たり前のように……。
「そっか。じゃあ、僕はこの世界の時間を守らなければならないんだね。」
トケイは表情をまったく変えずにアヤを見つめた。アヤは彼の顔をろくに見る事もできなかった。
「そうよ……。」
アヤは辛うじて声を発した。
「あ、わたし、時神になりたいな。」
静かに流れる時の中でふと鈴が声を発した。
「お前……何を言って……。」
栄次が鈴の発言に対し、言い返そうとしたが鈴はさらに言葉を続けた。
「わたし、なんだか新しい事をしたいみたい。この弐の世界で時神できないかな?せっかくいるんだからトケイだけじゃなくてもっと増やそうよ。」
鈴はなぜか楽しそうだ。アヤ達は鈴の発言に戸惑った。時神はそう簡単になれるものではない。それに楽しくもない。
「そうだな。俺も暇になったから時神になるか。ああ、壱の世界の時神達、せっかくの時神だ。なんか楽しめ。ようは気の持ちようだ。」
更夜も楽しそうに笑い、暗く沈んだ壱の世界の時神達を眺める。
「気の持ちようか……。」
栄次はそっと目を伏せた。
「確かに。そういやあ、立花こばるとは時神として楽しんでいた。時の流れをもっと見ていたいと何度も言っていたな。」
プラズマは苦笑を浮かべると鈴と更夜を見据え、続ける。
「そしてここは弐の世界。まあ、なんでもできるだろ。君達二人を時神にする事は余裕だろうな。」
「おい……プラズマ……。」
栄次が戸惑いを浮かべた表情でプラズマを見つめる。
「俺達は気負い過ぎたんだよ。彼らみたいな考えでいく方が良かったんだ。……そして……アヤ。」
プラズマはただ佇むアヤを呼んだ。
「……。」
アヤは黙ってプラズマを見上げた。
「あの二人がトケイの重荷を一緒に背負ってくれるってさ。感謝だな。」
「……!」
アヤはプラズマの言葉に何か言い返そうとしたが何も言わなかった。
「弐の世界の過去、現代、未来を守る神で統一しよう。つまり三人。数は合う。で、俺達とは少し違っていつも三人一緒ってのはどうだ?」
プラズマは吹っ切れてしまったのか鈴と更夜に笑顔で話しかける。
「三人一緒ってのが大きいね!いいよ。じゃあ、わたし現代神やろうかな。」
「俺は過去を懐かしむ方だから過去神がいいな。」
鈴と更夜は勝手に話を進め、最後にトケイを見た。
「お前は未来神でいいか?」
「君達も……時神なの?」
トケイは相変わらず無表情で鈴と更夜を仰ぐ。
「正式にはこれからだね。三人でこの弐の世界の時を管理していくんだよ。楽しく生活しようね。」
鈴はトケイの肩をポンポンと叩き、微笑んだ。
結局は鈴と更夜に救われた……。アヤはそう思うと心苦しかった。そして優しい亡霊達に感謝してしまった。
「お?」
鈴と更夜とトケイが同時に声を上げた。何かが変わったらしい。周りの風景は泉ではなくいつの間にか草原に変わっており、なぜか瓦屋根の家が一軒建っていた。
壱の世界の時神達が同時に同じ事を思った時、鈴と更夜とトケイは時神になっていたという所だろう。
「さすが弐の世界だな。なんでもできる。あ、住む所は俺の世界っぽいな。ここで三人で楽しく暮らしなよ。」
温度は適温で柔らかい風が絶えず吹き、草を揺らしている。ここはプラズマの世界らしい。
「いい家だね。わたし、女一人だから女部屋がほしいなあ。お風呂もロックのかかるドアでよろしく。それから……。」
鈴は矢継ぎ早に要求をぶつけてきた。
「おいおい……そんなに信用ならないのか?」
更夜が苦笑を浮かべつつ、家を眺める。
「それと……更夜があの時供えてくれた花を……この家周辺に……。」
鈴が最後につぶやいた言葉に更夜はハッと目を開け、
「そうか……。あの花、気に入ってくれていたのか。」
とつぶやき微笑んだ。
「うん。……あ、それは栄次が後ででいいから想像して作って。お願い。」
鈴は真剣な顔で栄次を見つめた。
「わ、わかった。」
栄次は半ば押される感じで承諾した。
その時、トケイがそっと口を開いていた。
「僕はこの世界で時神をやる事が運命……。弐の世界の時を守る……。君達、壱の世界の時神はここにいてはいけないんじゃないかな?僕が壱に帰してあげるよ。わからないけど壱の世界へ帰すやり方をなぜか知っているんだ……。」
もともとトケイは壱の世界の時神を排除する目的で生まれた。その認識がアヤ達の影響で『排除する』ではなく『追い出す』に変わったらしい。
「君、俺達を壱に送る術を知っているのか?」
「うん。知っているみたい。」
プラズマの質問にトケイは静かに頷いた。
「じゃあ、栄次も取り戻したし、帰るか。」
プラズマが栄次を見、そしてアヤを見た。アヤは何も話さず下を向いたままだ。
「じゃあ、いいんだね。行くよ。」
トケイは無表情のまま栄次とプラズマ、そしてアヤの手を握ると腰についたウイングを起動させ、空へ舞いあがった。
「トケイ!待っているからすぐに戻ってきなさいよー!」
「俺もここにいるからな。」
鈴と更夜は無表情のトケイに微笑みながら手を振っていた。
「うん……。彼らを元に戻したらすぐ戻るよ。だからそこで待っててね。」
無表情だったが声にしっかりと感情が入っていた。どうやら表情の作り方を忘れてしまっているらしい。
「そこはにぃ~って笑うんだよ!」
「わかんないよ。後で教えて。」
鈴の発言にトケイは楽しそうにつぶやくとゆっくりと上昇をはじめた。
「栄次。そんな顔をしてんな。この状況を見ろ。誰一人不幸な顔をしている者はいない。」
更夜が今度栄次に声をかける。
「更夜……鈴……。」
栄次は切なげな表情で二人を見据えていた。
「わたし達はいつもあなたの心と共にいる。いつでも会える。また今度眠った時に弐に遊びにくるといいよ。」
鈴は穏やかな瞳で栄次を見上げた。
「そういう事だ。さっさと行け。お前に感傷的になられても気持ち悪いだけだ。」
更夜はフフッと笑うと消えゆく栄次を切なげに見上げた。栄次もフフッと笑うと
「お前も気持ち悪い顔をしているぞ。」
とそう言った。
……この世界は栄次の世界ともつながっている。また会えるさ。
更夜はそう最後につぶやくとこちらに向かい微笑んでいる鈴にそっと微笑み返した。
ふと気がつくとアヤ達は先程の場所にいた。太陽が草原をただひたすら照らし、暑い。おまけに何の音もしない。
その世界で月照明神とウサギは静かに待っていた。
「お、やっと来たでありますかっ!ラビダージャン!」
ウサギはぴょんと飛び跳ねるとアヤ達に近づいてきた。
「栄次も元に戻ってこられたのですね。あら……トケイまで。」
月照明神は優しげな笑みを向けながら柔らかい口調で話す。
「僕を知っているの?」
トケイは不思議そうな声で月照明神に言葉を投げる。
「ふふ。知っております。」
月照明神は上品に笑いながら切れ長の瞳でアヤをそっと見つめた。アヤは月照明神と目を合わせながら今にも泣きそうな表情をしていた。
「これから僕は弐の世界の時神になったみたいだから、色々よろしく。……って、君もこの世界の人じゃないね。壱の世界に帰してあげる。」
「あら、ありがとうございます。」
無表情なトケイに月照明神は小さくお辞儀をし、微笑んだ。
「じゃあ、行こうか。」
トケイは間髪を入れず時神達を連れて舞い上がる。
「あう~……待つでおじゃる!」
飛び立とうとしたトケイの足にぴょんとウサギがくっついた。トケイはさらに上昇をはじめた。
「ああ!月照明神様!このウサギの足に捕まるでおじゃる!置いてかれてしまうであります!」
ウサギは焦りながら自身の足をピコピコと動かす。
「月照明神、さっさと捕まりな。マジで置き去りにされるぞ!」
プラズマも月照明神に向かい叫んだ。アヤも栄次も何も話さなかったがじっと月照明神の行動を見ていた。しかし、月照明神は動かない。もうアヤ達は消え始めている。
「はやく捕まらないと……。」
アヤも思わずつぶやいていた。
「……大丈夫。わたくしはまだここにいる事にします。」
「……?」
「あんた、出られなかったからしかたなくここにいたんだろ!」
焦るプラズマにおっとりとした顔を向けた月照明神はさらに言葉を続けた。
「わたくしをここから出してくださるのはあなた達ではありません。」
月照明神はそうつぶやくとお礼を述べて微笑んだ。
「……?」
そこで時間切れになった。アヤ達は薄れて消えて行った。
……わたくしを救ってくださるお方はあの件を解決してくれる……。それまでわたくしはこの世界に留まります……。あの件に関しては時神様達には関係の無い事……。あなた達はあなた達に関係する事を解決すればよいのです……。
月照明神はそっと目をつむりその場から煙のように消えた。月照明神の表情はどこか寂しそうだった。
アヤ達はトケイに連れられて弐の世界を出た。お菓子や電車や絵に描いたような星など様々なものが次第に舞いはじめ、しばらくしてそれは徐々に消え、星々は現実にある輝くものに変化した。
トケイは突然止まるとアヤ達を上に放り投げた。
「うわおっ!」
プラズマが大げさに声を上げる。
「ここまでだね。後は勝手に壱に着くよ。」
トケイは無機質な瞳でアヤをじっと見つめていた。アヤは耐えられず目を伏せた。
……アヤ、僕はね、君の手を握ってわかった。アヤが僕を作ったんだね……。そして僕は君が思い描く立花こばるとだってことも……。
「……っ!」
アヤの頭にトケイの声が響く。
……でも僕は恨んでやしない。僕は君が描いた立花こばるとであってあのこばるとじゃない。
僕は個人として十分生きられる。それに僕は仲間ができて幸せだよ。だから、君がそんなに気負う事もないし悲しむ事もない。
トケイはそっと瞬きをし、再びアヤに目線を向ける。
……だからたまにアヤも弐に遊びにおいで……。僕は君の心にずっといるからさ。もちろん、立花こばるとと一緒にね……。
「トケイ……。」
アヤは落ちる涙を堪えられなかった。
「ごめんね……。ごめん。トケイ。いや、私の中の立花こばると……。私はあなたを勝手に作り上げていた。あなたをずっと苦しめていた……。」
アヤのまわりがだんだんと白く染まる。トケイも消えていく。
「あなたにひどい運命をあたえてしまった……。」
……別にいいんだよ。もう。今は幸せだから❘……。
アヤが最後に見たのはトケイの自然な笑顔だった。
「はっ!」
アヤは閉じていた目をパッと開けた。どうやら知らぬ間に眠っていたらしい。
「……ん?」
アヤはあたりを見回した。
「ここは……私の部屋?」
アヤは自室のベッドに横になっていた。ふと窓に目を向けると眩しい太陽の光が目に届いた。
時刻を見ると午後一時をまわっていた。真昼間だ。外ではセミが力強く鳴いている。
アヤはしばらくボウッとしていたが急に我に返り、慌てて外へ飛び出した。
……私……眠っていたの?ここは……壱?それともまだ弐?
外はまだ暑いが、秋の雰囲気を感じる風が通り過ぎる。いつの間にか空は高くなっており、うろこ雲がアヤの遥か上を流れていく。アヤはそのままマンションを出て、図書館へ向かった。
アヤはなぜか走っていた。アスファルトに反射した太陽の熱がアヤの身体を包む。アヤは流れる汗もそのまま、大通りをただ走る。暑いからか大通りを歩いている人はほとんどいない。
陽炎がゆらゆらと図書館を揺らしていた。アヤは駅前の図書館に滑り込むと歴史書コーナーの影に向かい足を進めた。そして棚に一冊だけあった白い本を勢いよく開く。
「おう。アヤ、来ると思った。」
アヤの瞳に最初に映ったのは未来神のプラズマだった。ここは天記神がいる図書館の庭である。
「私も……いると思ったわ。」
「ちなみに俺もいる。」
アヤのすぐ隣で栄次の声がした。栄次もプラズマも先程会った時と何一つ変わっていなかった。
「で、なんか俺、家で寝ていたんだが……。」
プラズマが首を傾げながらアヤと栄次を見つめる。
「私もよ。」
「俺もだ。」
三人は不安そうな顔でお互いを見る。壱にいるのかそれともまだ弐にいるのかよくわからない。体も魂だけなのかそうじゃないのかもよくわからなかった。
「もう……壱に帰ってきていたのよね?自分が壱にいるのかまだ弐にいるのか、この図書館に来て確信しようと思ったのだけれど……。」
アヤが不安げにぼそりとつぶやいた時、
「もう、壱に時神様方は帰っているのであります!ラビダージャン!」
ひときわ凛々しい女の声が下の方から聞こえた。
「ウサギ?」
アヤ達が目線を落とした時、白色の髪の毛と赤い瞳が目に入った。
「じゃあ、もう壱に帰ってきているんだな。俺達は。」
「うむ。そうでごじゃる!あ、それよりも月子さんに褒められたでおじゃる!いままでなかったのに!わーい!ウサギンヌ!」
ウサギはピョンピョンと飛び跳ねながらやたら嬉しそうだ。
「そうだ。私、月子さんのお姉さんに助けられたのに何にもお礼をしてないし、言ってないわ……。」
「月照明神様はいつか壱の世界に戻って来た時にお礼を言えばいいと思うでおじゃる。お姉様は穏やかな性格であるからきっと微笑んでくれるであります。」
ウサギはニヒヒッと笑うと飛び跳ねながら天記神の図書館に入って行った。
「またニンジンねだるのか。あいつは。」
プラズマは呆れた目をウサギに向けつつ、歩き出した。
「今度、壱に彼女が戻って来た時にちゃんとお礼言いにいきましょう。」
アヤもプラズマに続き歩きはじめる。その後を栄次が追う。
……それにしても、最後に言っていた月照明神の言葉が気になるわね……。
『わたくしをここから出してくださるのはあなた達ではありません。』
あの時は確実に壱に帰れる状況だった。だがあの神は残ると言った。つまり、戻っても今抱えている状況が何も変わらないので今戻っても意味がないという事なのか。
何の問題を抱えているのかはわからないが救えるのならば救いたかった。
「アヤちゃん、弐の世界お疲れ様。今、温かいお茶入れるわね。」
「え?あ……ありがとう。」
アヤは知らぬ間に図書館の中にいた。気がつけば天記神に促されて席に座らされていた。
「ああ、そういやあ、栄次。あんたは肆の世界と参の世界の仕組みみたいの知らなかったよな?過去と未来に関する話だ。」
「肆と参?知らんな。」
プラズマは栄次に過去と未来と現代の話を得意げに話しはじめた。先程天記神から聞いたばかりの説明を熱いお茶を片手に語る。栄次はふむふむと頷きながら聞いていた。
その横でウサギがニンジンをかじりながら木彫り人形のように月子さんを作っていた。
「ところでウサギはなんでここに来たの?」
「いんやあ、時神様方が混乱してここに集まるかと思いまして……。」
アヤの質問にウサギはニンジンを飛ばしながら答えた。
「そうね。大当たり。皆動揺してここに集まったわね。」
「じゃあ、今度からなんかあったらここに集合すればいいのでは?ウサギンヌ!」
ウサギの発言で時神達の動きが止まった。
「あ、あれ?自分、なんか言ってはまずい事を……。」
ウサギは戸惑っていたがアヤ達は逆の表情をしていた。
「そうね!それいいかも!」
「まあ、壱、参、肆は別々の世界だからここで相談だけになるが一人で悩むよりはマシだ。」
「確かにそれはいい考えだ。」
時神達は興奮気味にウサギに目線を向けた。ウサギはホッとした顔をアヤ達に向けていた。
それを遠目で眺めながら天記神は一人、微笑んだ。
あれから少し時が経った。外で鈴虫が鳴いている。風はだいぶん冷たくなり、外はすっかり秋の雰囲気だ。葉は赤色や黄色に色づき、風に吹かれ飛ばされていく。
今日は満月だ。
栄次はすっかり暗くなった山道を登る。鈴の声を聞いたあの場所まで栄次はただ山を登った。
しばらく登ると横に草原が見えた。あの時よりは狭くなっているがその草原は確かにあった。
最初、鈴の声を聞いた時、この草原の先に今はない鈴の墓がある事に気がついていたがこの草原には入り込まなかった。
栄次はそっと瞬きをすると草原の中に足を踏み入れた。あの時、更夜と戦ったあの生々しい記憶が脳裏に蘇る。だが不思議と今は嫌な気分ではない。
「ここだ。」
栄次は一人つぶやくと今は何もなくなってしまった草原の真ん中に立った。
「ここに鈴の墓が……。」
栄次は木の棒を二本持ってくるとその場に二本とも刺した。まわりの雑草を取り払い、棒に土をかぶせる。
……更夜もここで死んだ。だから俺が二人分の墓を今、ここにたてる。俺が消えるまでずっとこの墓を守っていく。死んでから手を合わせてくれる者がいないと言うのはとても悲しい事だ。俺がいるから安心して眠れ。……鈴、更夜。
栄次はそっと手を合わせた。長い事目をつぶっていた栄次はふうと息を吐くと目を開けた。
立ち上がってもう一度自分の作った墓を見た時、視界の端に白い小さな花が何本か咲いているのを見つけた。名前は知らないがこの花はあの時、更夜が供えていた花であり、鈴のお気に入りの花だった。
「あの時の……花か。野性化してここに咲き始めたのか。」
栄次は切なげに微笑むと二人の墓を後にした。心にいる二人が幸せそうに笑っている事を信じて。
白い花は満月に照らされて幻想的に輝いていた。
アヤは白い花畑の中にいた。目の前には瓦屋根の家。アヤはドキドキする胸を抑えつつ、家に近づく。
家の近くまで来た時、声をかけられた。
「あ、えーっと、アヤだっけ?こないだはお世話になったね。入りなよ。」
アヤがふっと上を向くとなぜか屋根の上に鈴が立っていた。鈴はきれいな着物を着ていた。
「あなた、そんな所にいたら危な……。」
アヤが言い終わる前に鈴が華麗に飛び降りた。そのまま音もなく地面に着地する。
「やだなー。忍にそんな事言う人はじめてだよー。」
鈴はケラケラ笑い、アヤの手をとった。
「ちょっと?」
アヤは戸惑いの表情を見せたが鈴は楽しそうに笑った。
「今ね、宴会やってるからどうぞ。」
「宴会?」
鈴はアヤを引っ張り家の中に入る。家の中は木の廊下が続いており、部屋は襖で仕切られている。その閉まっている襖の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
鈴は襖の前まで来るとそっと襖を開けた。
「お?アヤも来たのか。」
第一声はプラズマだった。皆で宴会をやっているのかお酒とおつまみが並んでいる。
「すみません……。トケイさん。お酒が少し足りないので追加お願いいたします。」
「あなたは……?」
アヤの目の前に月照明神がいた。ピンクの髪を払いながら酔った顔をトケイに向けている。
「うん。わかった。お野菜の漬け物も持ってこようか?」
「あ、よろしくお願いいたしますぅ。」
トケイは相変わらず無表情だがけっこうこまめに動く男らしい。この宴会の席の接客をやっているようだ。
「あ、トケイ。僕も青リンゴサワーちょうだい。」
「うん。オッケー。」
ふとその横を見ると立花こばるとがトケイと普通に会話をしていた。
「こ……こばると?」
アヤは思わず声を上げた。
「ん?あ!アヤ!となりきなよ。まだ始まったばかりだからさ。」
こばるとに声をかけられ戸惑ったアヤは鈴に目を向ける。鈴は不安げなアヤに笑いかけるとトンと背中を押した。アヤは戸惑いつつ、こばるとの横に座る。長机が置いてあり、その周りを囲むように座布団が置いてある。旅館の宴会席のようだ。
「現代神が二人いるとなんだか変な感じするな!」
プラズマがアヤとこばるとを交互に眺めながら笑う。
「確かにねぇ。普段は会わないからね。というか僕はもう時神じゃないけどね。」
こばるとは梅酒を飲みほしながらプラズマに答える。
「えっと……。」
アヤは気まずそうにあたりに目を動かした。
「アヤ、せっかくの宴会だから楽しもう?なんか飲む?メニューあるよ。」
こばるとは紙に書かれたメモ用紙をアヤに渡す。
「ええ……?居酒屋みたいじゃない……。」
「なんか霊を客に居酒屋でもやろうかなって思っているんだってさ。」
こばるとがバタバタと動き回っているトケイを軽く指差すとニコリと笑った。
「へ……へぇ……。」
アヤがあいまいに頷いた時、奥の方の襖が開いた。先程アヤが来た場所ではなく、反対側の襖だ。
「そこの小娘。お前は何を飲むんだ?」
冷たい感じではなく、どこか懐かしさを含む声で話しながら更夜が顔を出した。
「あ、えっと……リンゴジュースで……。」
アヤは更夜を怖いと感じながらもなんとか声を発した。
「酒は飲めんのか?まあ、いい。おい。トケイ。リンゴだ。」
更夜はできるだけ優しく微笑むとトケイにリンゴジュースを注文する。
「はーい。ちょっと待っててね。」
トケイは無表情でアヤにピースを返すと更夜と入れ替わるように奥の襖に引っ込んで行った。
アヤはトケイを見送った後、月照明神に目を向け、すまなそうに話し出した。
「月照明神さん。あの時助けてくれてありがとう。あの時は自分の事ばかり考えていてお礼が言えなかった。」
「別にいいですよ。あなた達が今よりもいい関係になる事をわたくしは望んでいるだけでしたので。お気になさらずに。」
月照明神はアヤにフフッと笑いかけた。
「でも……。」
「いいのですよ。それよりも助言があなたに届いてよかった。今はそれが救いです。」
「……そうね。本当にありがとう。」
アヤは月照明神に心からお礼を言った。
刹那、話の終わりを見計らい、更夜が声を発した。
「ところで鈴を見なかったか?」
更夜の表情が急に険しくなる。声も鋭い。なかなかの気迫を感じた。
「す、鈴さん?えっと……さっき、外に……。」
アヤは軽く怯えながら答えた。
「外か……。気配消すのうまくなったな……。あの女。」
更夜はなんだか不機嫌そうだった。そんな時、また襖が開いた。
「よし、これで皆そろったね。」
襖から楽しそうな鈴と戸惑っている栄次が顔を出した。
「アヤ、プラズマ……これは?」
栄次はオドオドと二人を見つめる。栄次もアヤ同様、いきなりここに出現し、鈴に連れてこられたらしい。
「あ、えっと宴会よ!」
「そうそう!宴会!」
アヤもプラズマもよくわからずにやけくそで声を発する。
「は、はあ……そうか。」
栄次もあいまいな返事を返した。その時、更夜と鈴の目が合った。
「鈴……。」
「げっ……。」
更夜の睨みに鈴はじりじりと後ずさりを始めた。そしてそのまま高速で逃げようとしたところを更夜に捕まった。
「台所を半分くらい爆破してそのまま逃げるとは……。」
「あ、あれは焼き物やろうと思って火薬の量を……。」
更夜は低く鋭く鈴を責める。鈴は青い顔で引きつった笑みを浮かべていた。
「もともと料理に火薬はいらん。お前は何を作るつもりだったのだ。」
「えーん。だって料理なんてした事ないもーん。」
鈴は更夜に責められ、しくしく泣く。
「その嘘泣きはやめろ。少しお仕置きだな。」
「わっ!ちょっと待ってよ!ごめんね。ほんと、ごめんね!」
鈴は慌てて更夜にあやまり始めた。
「その辺にしておけ。更夜。鈴は反省している。」
割って入るように栄次が二人をなだめる。鈴は素早く栄次に抱きつくとしくしくと泣いた。
「栄次、お前は甘い。そいつは嘘泣きだ。」
更夜はぶすっとした顔で鈴を睨みつけた。
「あ、リンゴジュースとお漬物持って来たよ。」
その時、呑気なトケイの声が後ろでした。
「あーありがとうございますぅ!」
そしてさらに呑気な月照明神の声が重なる。
それを聞いていた更夜はもうどうでもよくなってしまったらしく、頭を抱えてため息をついていた。
「あれ?どうしたの?」
「別になんでもない。」
「そう?」
トケイはリンゴジュースをアヤの前に置き、漬物を月照明神に渡すと不思議そうな顔をしながら奥の襖へと引っ込んで行った。
「いいか。鈴、後で料理を教えてやるから覚えなさい。」
「……はーい。」
更夜の言葉に鈴はバツが悪そうに返事をした。更夜はフンと唸ると栄次に目を向けた。
「お前は?何飲む?」
「何って……。」
栄次が困っているとこばるとがスッとメニューが書いてあるメモを差し出した。
「あ、なんか居酒屋始めるらしくて予行練習しているんだってさ。」
こばるとはトケイの持って来た青リンゴサワーをグビグビ飲みながら微笑む。
「居酒屋……。そうか……。じゃあ……日本酒……。冷で。」
「お前、なかなか渋いな。」
更夜はフムフムと頷くと奥に引っ込んだ。
「あー、どうなる事かと思ったけど助かったよ。栄次。更夜のお仕置きは刺激的だからね。」
「し……刺激……。」
鈴がさらりと言った言葉に栄次の眉がピクンと動いていた。
「刺激……。」
プラズマが何かいやらしい事を考えたのか頬を赤くしながらゴクリと唾を飲む。
「刺激……。」
こばるとは恥ずかしそうにアヤの影に隠れていた。
「エッチですわねぇ。」
一人空気が読めなかったのか月照明神だけ楽しそうに平然と言葉を発する。
「ん?エッチって何?」
鈴にはそこら辺の日本語が理解できなかったらしい。首を傾げていた。
「エッチは変態の……。」
こばるとが声を発したのでアヤはすばやくこばるとの口を塞ぎ、慌てて答えた。
「博多のHよ。」
「どういう意味だかわからないよ。」
鈴はさらに戸惑った。
「わからなくていいわ。酔っぱらいの気まぐれな言葉よ。」
「ふーん。そうなんだ。」
鈴はアヤの言葉に不思議そうに頷いた。
「ところでここは夢なのかなんなんだ?」
途中で話をきり、栄次がぼそりとつぶやいた。
「まあ、いいよ。とりあえず、朝まで楽しんでね。」
鈴は栄次に向かいウインクを投げると手を振り、奥へ消えて行った。鈴と入れ替わるように今度はトケイがひょっこり顔を出す。
「はい。日本酒だよー。」
トケイはいまだ立っている栄次を席に座らせ、徳利と猪口を机に並べた。
「おつまみもあるよ。鈴が今、焼き物の特訓中みたいだけど。」
トケイは表情の変化はないがどこか楽しそうだ。弐の世界の時神達は非常に行動力があるらしい。
「じゃあ、栄次、とりあえず飲もう!」
プラズマと月照明神の近くに座った栄次はさっそく二人に絡まれていた。
「ああ……なんてたくましいトノガタ……。わたくしの好みですわ。」
「そ、そうか。それは良かったな……。」
栄次は戸惑いながら猪口に口をつける。
こばるととアヤは呆れた目を向けたがやがて楽しそうに話しはじめた。
やっと宴会が開始された。
そして襖の奥。
更夜とトケイと鈴が様子をうかがっていた。
「やけに楽しそうだな。」
「ね。楽しそう。やっぱこれが一番いいよね。」
更夜の言葉に鈴はニコニコしながら答える。
「僕達ももっと楽しもうね……。」
トケイも幸せそうに言葉を紡ぐ。
「よし、じゃあ、後で俺達も混ざるか。」
「さんせーい!」
「やったー!」
弐の時神三人はお互い手を叩き合い、楽しそうに笑っていた。
これは夢なのか弐の世界で起きている現実なのかアヤにはわからなかった。
だが幸せを感じた。真実の究明をしなくても別にいい。心とはフワフワしていて本当がない。もともと真実なんてないのかもしれない。だからこれはこれでいい。
そしてこれから続く神としての生活。なるべく楽しく過ごそうと心に決めるアヤだった。
……これから先、どうなるかわからない。それでも私は楽しく生きよう。
……今こうしてこばるとが……トケイが……皆が笑っていられるように。
……私は精一杯、楽しく生きる……。
そう決めた。
旧作(2010年完)本編TOKIの世界書一部「流れ時…最終話」(時神編)
テーマは「孤独」です