私の1.17 震災日記
私が体験したそのままの記録です。
震災1995年1月17日 AM5:45
前夜、友達と夜中まで話しをして、連休明けの仕事の事を考えながら、
いつものように家内の隣に寝た。
2歳と3ヶ月の子供は、爆睡状態、程なく私も眠りの世界に入りました。
「お父さん!!」と家内の声と同時に今まで感じた事の無い大きな揺れ、
まだ夢を見ているのだろうか?しゃれにならない位の現実、
まるでゴジラが我が家を掴んで揺さぶっているような感じの中、
家内は「勇」と名前を呼びながら、子供の寝ている方へ身重の体で
今まさに動こうとした時、なぜか私は、家内を引きとめ、「動くな!」と
家内の体を覆うように上になる、真っ暗なはずの家の中にも関わらず
家内が上を見ながら「天井が崩れてくる」と言い、次の瞬間、
大きな音と共に砂煙が舞い、私は、背中に天井が乗ってくるのを感じました。
息をする事も出来ないくらい埃が舞いあがり、
その後なんとか息が出来るようになったとき、
自分の体が挟まれて動けない事に気が付きました。
足の上にタンスが倒れて背中には、天井、下には、家内が、
そして子供は、大きな声で泣いていましたが、
怪我や何かで痛がっている様子では無かったので「助かった」と、
心の中でつぶやきました。
この時もまだ、何が起こったのか理解が出来ず、
只、降りかかった現実を身にしみて「大変だ」と理解しただけでした。
子供の無事を確認すると、出来る限りの周りの状況を知ろうと、
片手づつ手探りで触っていきました。自分の左側に空間が少しあったので、
家内に体を少しそちらへ動いてもらい少しは、お互い楽になったのです。
次に家の中の状況を思い浮かべるのですが、
想像を絶しているため思いもできませんでした。
安全に付いて考えた時、
「この家から火の出る原因となる事は,無いだろうか?」
ストーブは、タイマーがセットしてあるが、この状況だと、
電気は、遮断されているので大丈夫、
ガスもマイコンタイプのメーターなので大きな振動があればバルブが閉じるはず、
それら以外に、火の出る原因は無いので、ここからは、火災は起こらない。
しかし、延焼となるとこのままでは、逃げる事も出来ない。
まるで落語の「不精の代参」の枕話やんか と、その場に及んでいらぬ事を考えていました。
家内には、「火事になったら・・・」何てこと言えるわけも無く、
只、祈るばかりでした。
そうこうしていると、母の声が聞こえてきたりして、母の無事もわかり、
どれくらいの時間がたったのか、気が付くと子供の声が無く心配になって、
名前を呼び「大丈夫か?」と言うと、
「とーしゃん、かーしゃん、じょうぶ、じょうぶ」と
一生懸命、自分が大丈夫だと答えるのです。
またその内、疲れて真っ暗な中、彼は眠りにつくのです。
起きては、「とーしゃん、かーしゃん」と、呼んで、
答えてあげるとまた、安心してか、寝てしまいます。
そんな子供と共に、このような非日常的な場面の中で守られていると、
心から実感し、「必ず助かる」と確信しました。多分この時、
いえ、家が崩れかけた時に心の中で、「死んでしまう」との思いがあれば
間違いなく、家族にとって「今」がなかったのでは、と思います。
このような中、私はこんな事を思いました。
「あと1ヶ月もした頃には、近所の人と笑いながらこの事を喋っている。」と
その時の風景まで思い描き、信じて止まなかったのです。
この時は,まだ外の状況も、本当に自分の置かれた立場もわかっていませんでした。
実際には、この光景が実現するのに3ヶ月を要し、笑いながらではなく、
その後のいろんな方からの援助、応援に対して感謝の気持ちがいっぱいで、
涙に言葉を詰まらせながらと言う、一寸違った姿でした。
話しを生き埋めの現場に戻します。
時間がどれくらいたったのか、全然解らず、だんだん挟まれた足が
痺れてくるし、ザワザワとした外の音は、聞こえるのですが、
こちらからいくら叫ぼうと、返事すらないのです。
その内にも何度かの余震が在り、背中の天井が少しずつ余震のたびに
私の体を下に押し付け、はじめは腕立ての状態でしたが、
助けられたときには、もう胸が床に殆ど当たるくらいの空間しか
ありませんでした。
外から、声が聞こえるたびに、大きな声で助けを求め、
拳で天井を叩き音を出したりしましたがさっぱりです。
「玄関が壊れているのなら、勝手口の方に廻れば良いのに」なんて、
思ったりしましたが、事実を知らないって、今思うと笑っちゃいます。
なぜならもう、家の形すらない瓦礫の中に私達は埋もれていたのですから。
助け出されて、近所の仲の良い友達からこんな言葉を聞いたくらいなんです
から・・「家を出てからすぐにここに来たけど、家の形がなくなってるし
もう死んじゃってると思って、泣き崩れちゃった」と、
それくらい崩れていたのです。
この後に登場する兄は、崩れた家を見て「生きているとか、死んでいるとか
よりも、ここには、誰も居ないと思った」そうです。
しかし、その時は、まだ瓦礫の中で動けず、居たのでした。
人は、不思議なものでもう自分は、助かると信じこんでいると
このような状況の中でも、決してパニックになる事はなく、
どちらかと言えば、結構気楽に助けを待っていた様に思います。
状況は、真っ暗な中、身重の家内と、少し離れた所に2歳の子供、
殆ど体の廻りのわずかな空間だけを残して、私自身は、
少しづつ背中を天井に押されながら、外部からはこちらに、
音や声が聞こえるだけで、こちらからの声は届いていない、
続いている余震に瓦礫と化した家は、益々崩れていっている。
移り火があれば良く乾燥した木造のこの家は、一溜まりもなく、
燃えてしまい、その中に居る私たちは、・・・
これが、現実であるにも関わらず、そんな状況で、
「あー、10時半にアポイントがあったよなぁー連絡取れないし、
ところでいまなんじかなぁー」なんて、のんびりした事を
思ったりしている自分でした。
どれくらい時間が経ったのかわかりませんが、
挟まれた足の痺れが痛みに変わり、次第に自分のものでないような感覚に
なりはじめた頃、外の様子が騒がしくなり、
なんとなく私たちを呼んでいるような・・?
こちらからのも声を出したりしてだんだん、声が近づいて来て
「ちょっとのいときよ」の声の後、頭の上の天上が破られ、
初めて明かりが見えたのでした。
時刻は、すでに10時になろうとしていました。
破られた穴は、次第に大きく開けられ家内を引き出してもらい
私は挟まれた足を無理やりに近いくらい自力でひっぱり出し
なんとか瓦礫の下から抜け出す事が出来ました。
表に出て振り返ると、そこには、原型をとどめず、踏み潰されたような、
もと家であったらしい瓦礫が庭まで飲み込んで横たわっていました。
近所の方が皆で掘り探して下さったのです(感謝、感謝)が、
子供は、おびえ手を差し伸べた方にいやいやをして助けてもらうことも
出来なかったのです。
私のほうへ助けてくれた方が近寄ってきて「お父さんでないとダメですわ」
といって子供のほうへ促してくださいました。
長男は、私が手を伸ばすとこれまで見たことのないような笑顔で微笑み、
一生懸命小さな腕を、手のひらをいっぱいに広げ、私を求め、
抱き上げた時のぬくもりは、今でも思い出す事が出来ます。
大きな地震にこの小さな体が一生懸命立ち向かって
今やっと笑顔で安堵することが出来たんだと思います。
お母さんは、先に助けてもらい私達が助け出されるのを
じっと見守ってくれていました。
家内の近所の友達が近寄ってきて
「死んじゃったと思って、泣いちゃったよ!」と言いながら、
泣き出して家内と抱き合ってました。丁度その時、実家の兄が来てくれ、
家内と子供、お母さんを私の実家へ取合えず連れて帰ってもらい、
もう1度夕方6時から7時に避難所で会う約束をして、別れました。
別れ際、二万円「使う事もできひんやろけど」と言って、
着ていたブルゾンといっしょに私に手渡し、帰っていきました。
その日は、悔しいくらいに良く晴れ、昼間は、春のような暖かさでした。
すぐに、助けていただいた方と一緒に御近所の方の救助に参加しました。
お向かいの家の御夫婦が一階に寝ていたとの事で2階の屋根を捲るすぐ床、
2階の床の下は、・・・そこは、もうすぐに、隙まもなく1階の床でした。
この瞬間次の救助にうつりました。
気がつけば、もうお昼近くになっていました、思えばまだ1度も
トイレにもいってない自分に気が付きました。
小学校のトイレを借りて用をたし、考えれば水すら飲んでなかったのです。
本当に不思議なもので、このような状況の中では、食欲や排泄の欲求まで、
体が押さえ込み、動くことだけに集中する事が出来るのですね、
この頃になると、上空に沢山のヘリコプターが飛んでおり、
私達が救助しようとして閉じ込められている人の声を頼りに
瓦礫を取り除くのですが、ヘリの音でそのわずかな声が
かき消されてしまうのです。 なんの為のへりなんですか?<
友人の若者達と共に1階で閉じ込められたお爺さんを助けるべく
声を頼りに少しずつ瓦礫となった家の木材を手鋸と人力で少し開けては、
確認しながら進めるのですが、声を聞こうにも上空のヘリの音で
声がうまく聞こえない。
「何の為のヘリ何や!」「邪魔ばっかりしやがって!」
誰からともなく声が上がる、でも怒鳴っていても仕方が無い、
分かっているが言わずにはいられない。
場所がわかり助けようとした時、そこには、大きな梁があり
手鋸ではとうてい切れそうも無い「消防署行ってチェーンソー借りて来い」
若いのが走って行った。これで助けられる誰もが思った、彼が帰ってきた。
手には何も持っていない、
「出払っていて、待ってる人が何人もいていつになるか解からん」みんな、
肩を落した。
しなくては、いけない事はまだここにある。
もう一度、手鋸を持った力の限り木に向って挑んだ、
一人が疲れたら交代で次々に鋸を引いた、少しずつの切れ目がとうとう
下まで到達した、声が上がる、「ここからやで!」みんなで声をかける、
一気に捲って行く、お爺さんの腕が見える、足場を作って一人が降りる、
みんなで体を支える、手を掴んだ、みんなで体ごと引き上げる、
狭い場所に閉じ込められて体力も弱ってた、でも元気に「ありがとう」
うれしかった、みんなうれしかった。
冬の暖かな日中ではあったが、みんな汗だくになって
手も顔も煤で汚れていた、ここで浮かれているわけにはいかない
次に俺達にできる事は?
この頃、近くの友人知人の様子を確認しに一回り近所を廻ったのですが、
道は、崩れた家に塞がれ、道路は盛り上がり本当に時空の隙間に迷い込んだ
「漂流教室」のようでした。
当時家内が仲良くして頂いていた、奥さん(友人のお姉さん)が
閉じ込められている所へさっきの友人と一緒に行き
形のなくなったアパートにその友人と合流し、人がやっと入れる隙間から
這ってアパートの中に入り、程なく女の子をひっぱり出しその後すぐに
彼女をひっぱりだした。
その時体は、まだ温かく急いで病院へ運んでいってもらった。
けれど、それから2時間もしない時に道で会った知り合いの方から
信じたくない事実を知った。聞けば、殆ど即死に近い状態で布団の中で、
まして狭い空間であった為に、体は、温かいままであったそうです。
今でも、彼女を引っ張り出す時の温もりをはっきりと覚えています。
あの時は悔しくて道路の真中で、大きな声で「なんでなん!」と、
誰に言うでもなく、答えを求め、叫びました。
避難所に行くように近所の人や知人に出会っては話をして、
知り合いのおじいちゃんが家から出られないと聞けば、2、3人の友人と
手助けに向かい、家から皆でおぶりながら出してあげたり、
病院まで車で搬送したり、休むことなく夕暮れまで、お腹が減った事も忘れ
て皆で走りまわりました。
日がどっぷりと暮れて、日中の暖かさが嘘のように冷え込んできて、
避難所に戻ると、そこはもう足の踏み場もないくらいに人であふれていました。
友人と共に非難されている人に、タバコを屋内で吸う事をやめてもらう事、
管理者の許可なく厨房設備を使わない事、を説明して回りました。
この時、一人の年上の友人から、
「下の子供が、倒れたタンスの下敷きになって、死んでもたんや」
何もいえなかった、只、両手で手を握り一緒に涙する事しか出来なかった。
家にも何度か友人と一緒に尋ねてきた、野球が大好きな子供でした。
(その後この兄弟の事は,新聞にも記事として載りました。)
そして、彼が次に言った言葉は,「家族大丈夫やったか?」
只うなずく事しか出来なかった、
こんな状況で、他人の家族を気遣う、人として何といって良いのか
自分にも出来るのか?こんな素敵な友人がいたことに感謝すると共に、
亡くなった子供の冥福を祈らずには,いられなかった。
この震災で沢山の人が亡くなりましたが、
自分の身近でこんな短時間のうちにこれほどの人が亡くなる事が
どれ程あるだろうか、「哀しい」どれほど哀しめばいいのかそれと共に
私の中では,「生きなきゃ」ほんのちょっとの身体の動きで「死んでいた」
そんな自分は,家族のためにも、「この震災に絶対負けない」
「まけるなんて出来ない」と心に誓いました。
避難所で知人と今日の事お互い労いながら話をしている時、
呼び出しがあって行って見ると、約束通り兄が迎えに来てくれていたのです。
車まで(渋滞で乗り捨ててきたので)2KM程歩いて車の中で、
持って来てくれたお握りと、ホットウィスキー、本当に暖かかった。
実家につくと、夕ご飯が用意してあった、温かいお風呂もあった、
子供は疲れてかもう寝ていた、これからどうするのか?
それよりも「今ここに生きている」今まで生きてきて始めてそう実感し、
生きている事を噛み締めた。
実家に帰ってから、始めて震災の被害の大きさを知って驚きました。
食事をしながらも、避難所にいる友人達は、どうしているだろう、
ニュースを見ては知っている場所がもう面影もなく画面に映し出されていました。
もう泣く事も忘れてしまったのか映像を見ても、涙は,出なかった。
浴槽につかりながらも、被災地の人は,暖を取る事が出来ただろうか、
自分一人とても後ろめたい気持ちになった。
ここ三田は,多少の被害は,あったものの普段の生活が流れている。
とても不思議だった。
翌日目を覚ましたら、か、か、からだが動かない・・
全身筋肉痛になっていました。
埋まっていた間、腕を突っ張り崩れる家に僅かながらの抵抗をしていたから
でしょうか?
義理の母は、胸を痛め、家内は,妊娠中で(次男当時5ヶ月目)精神的な面で
弱っていた事も有り発疹が体に出て、三田についてすぐ医者に行きました。
家内は,特になにもなく母は、肋骨にヒビが入っていました。
長男は,ただのかすり傷だけ、こんな大きな被害の真中でまして自宅は,
壊滅的(壊滅してる)な被害の中、家族がただこれだけのケガで済んだ事、
改めて「生かされている」事に感謝しました。
落ち着いて実家を見まわすと震災の被害がここにも…
実家は,平屋、築 40年以上、土壁 です。壁のあちらこちらが落ちかけて、
鴨居も下がりちょっとこのままでは,・・。痛い体に鞭打つ様にして、
近くの材木やさんに材料を買いに行き、
1日かけて家の中と外壁のヒビにコーキングしたり、・・・気が紛れました。
「これから,どうするか」考えても分かりませんでした。
3日程経ったころ、私への電話が有りました。勤め先の上司からでした。
「どないしてんねん!連絡ぐらいよこさんか!」しかし、
連絡し様にも覚え書きなど有るはずもなく、電話の回線がヘビーな状態の中
どうしろと言うのだ。 当然反論もせず、「はいはい」と・・・
返事をしこれまでの状況を説明しました。
会社の建物は,阪神電車の線路が崩れた間近に立っており、
被害は相当あったものの(倒れ掛かった隣の家に押され)傾いただけで
済んだようでしたが、業務が出来る状態ではなく上司の自宅を拠点に
業務を再開するとの事
取合えず、今の所、自宅待機で連絡待ちになりました。
このころ、家族の者は、・・家内は,体調が優れず
母もケガの具合もあり比較的おとなしくすごしていました。
長男は、私の母に付いて買い物に行ったり、店のほうへ行ったり、
わけもわからず、彼なりに楽しく過ごしていました。
ただ、今まで住んでいた家がつぶれてしまったことは、伝えていました。
その原因は,「怪獣が来てお家が踏まれてしまった」と言ってましたので、
母が世間話している時に自分のことを話していると分かると、
「お家怪獣が来てぺっちゃ―ん」と説明していたそうです。
彼は,有り難い事に当時の記憶がトラウマになることなく、
当時についての恐怖体験も見る限りでは,無かったようです。
これだけは、本当に助けられました。彼が,人見知りせず、
人懐っこい性格にホンとずいぶん親として助けられました。
何処に行っても,かわいがられていました。
震災から3日程過ぎたころ・・・
運転免許の事で明石の免許センターへ行く用事があり、いざ明石へ、・・ 。<a
この頃、実家のある三田市から明石市まで行くには、
以下のような経路になります。
神戸電鉄で鈴蘭台まで行き、三木線に乗り換えて,三木まで、そこからバスで明石まで、
いったいどれくらい時間がかかったんでしょう?
明石の運転試験場に行ったのは、この時、免停中でして、
地震がなければ、2回目の講習を受けて、晴れて免許が返って来る筈でした、
が、・・・地震の影響で試験場の業務が停止し、講習どころではなくなっていました。
かといって仕事に復帰するにも免許がいると言う事で、
直談判・・結果地元の警察で免許を返してもらえる様に処理をしてもらいました。
その帰り明石の駅近く、2号線を歩いている時に、パチンコはやってるし、
マクドにケンタッキー、吉野家全てが普段通りでした。
本当に違う国に来たみたいです。
地震の震源地は,目と鼻の先に見えていると言うのに・・・
そんな中、神戸方面に向かっている車の中に、明らかに
「震災救援物資」を積んだトラックが目の前を通っていきました。
政府や行政の指示でなく、皆さんの暖かいお気持ちの詰まった救援物資が、
運ばれていくのを見て、もう押さえきれない感謝の涙が頬をつたっていました。
この日以後、仕事に戻る準備をして、この後の私の震災復興が始まります。
何をするでも無く過ごした日は、あっと言う間に過ぎて行き、
震災後1週間ほど経った頃に電車で単身、神戸へと向かったのです。
当時、三田から神戸に入るルートは、神戸電鉄で三田から谷上へ、
そこから地下鉄で新神戸、その後は、ひたすら歩く・・
当時、神戸にいた親戚(叔父の家族と叔母夫婦)が春日野道にいたのですが、
避難所(小学校)暮らしで、新神戸から元住まいまでの途中なので、
母から頼まれた (風邪が流行っていたが薬が不足していたので) 薬や、
お握り、肉の佃煮などを配り・・・がしかし、お握りや日々の食料は、
この頃は、もう飽和状態であまっているくらいになっていました。
偏った情報により本当に、現場で欲しいものが現場に届いていない状況でした。
この頃は、薬や乳児用のミルク、生理用品が不足していたように思います。
かといって援助物資の食品無しでは、誰一人生活できない事は変わりありません。
けれど、
飽和状態の援助物資の食べ物に被災者さえも、感謝と言う気持ちも薄れ、
飽きてきたーというのが事実でした。
が! 薬は、有るだけちょうだいと言う勢いでした。
その後、職場(当時は、建材や住機の卸販売施工)に立ち寄りブルーシートを
もらって、住んでいた所の近くの避難所によって、
友達に薬とお握り佃煮を渡して何人かの知っている人にも薬を渡して、
その後元住まいにたどり着きました。
震災当時、近所の家内の友人が言った通り、正面から見ると
人が中で生きていたようには、見えません。
屋根をつたって裏に回るとなんと形になって残っているではありませんか、
ラッキー!! まるで、泥棒のように窓を空けて忍び込み
(姿は、そのまんまですが、この時は、まだ余震が続いていて本当に怖かったのです。)
タンスの引出しに入っている通帳と印鑑(泥棒が横行していたと聞きますが
見るからにつぶれた家だったので入られる事も無く無事)を取合えず持って、
あとは、家内の下着、など当座のものを漁ってバッグに詰めて、
職場からもらってきた、ブルーシート(この頃、闇相場では、
1枚3000円位していたと思います。)を屋根にかけて、
次に掘り出すまで痛まないように雨を防いで元住まいを後にました。
もう1度、避難所により、友人の奥さんに、家内の下着の何枚かを渡して、
職場から営業車を借りて帰りました。
次の日から仕事に復帰すべく、事務所ではなく部長の自宅
(三木市が拠点となって営業をしていたのです。)に通い、
そこから営業兼配達に走りまわりました。
それから程なく神戸の事務所が使えるようになったのです。
が 神戸に仕事場が戻れたものの私は、相変わらず三田の実家、
毎日の通勤は、1時間半から2時間、渋滞渋滞、もうイヤになるくらい、
これがたまにだったら、イライラもするでしょうが、毎日ですから、
諦めと言うか慣れてきまして気になら無くなってきて、・・・
気の短い私が鍛えられた???
通勤だけでは、なく仕事中何処に行くにも渋滞、おまけに規制、
今から思うと途方も無いくらい我慢の我慢の毎日、仕事のほうは、バイク、
自転車を使って近くを回ったり、ちなみに自転車の活動範囲は、
芦屋市から長田区まで(会社は、東灘区)の約10キロ位、得意先へ
自転車で通いその姿が「震災で頑張る看護婦さん」のドキュメンタリーの映像に
映っていた事も有りました。
車で国道を走っていると、魂が抜けた様な面持ちで、
いつ見てもずっと道端の同じ所に座り込んでいるおじさん、
そんな人が何人となく目に付きました。
また、震災をいつまでも呪う事しか出来ない人、
自分では何もせず只、行政、政府に対して文句を言っている人、
被害者意識の過剰な人、そんな人を見るたびに
「負けたくない」という思いが強くなって行きました。
仕事をはじめて、はじめての休みの日、実家の車を借りて、
崩れた家の中に閉じ込められた物を掘り出しに行って来ました。
裏の窓から家の中に入って、服を取るためタンスの前に、当然引き出しも、
扉も開かない、こんなこともあろうかと道具を持っていったので
扉を割ったり、・・タンスをバラバラにしながら服を取りだし・・
ハイ!家内の嫁入り道具ですが・・仕方なく・・・
掘り出したかったのは、服、アルバム、息子のお気に入りの緑のコート、
子供が生まれた時に彼(勇)当てに書いた手紙、
でも服と一部のアルバムだけ、
それと74年75年物のドイツワインの「アウスレーゼ」
新婚旅行で買ったヘネシーVSOPをしっかりもって帰った。
次に掘りだしに行ったのは、得意先の人が手伝ってくれると言うので
チェーンソーと共につぶれた家で集合。
得意先の人は、震災直後から長田で救助(掘り出し)をされていたとの事、
焼け跡には、骨のかけらも無いくらい全てが灰になってしまっていたと語ってくれた。
言葉に出来ないし、作業としてこなさないとやってられない、
何故なら「悲惨過ぎた」そう言って話してくれました。
この日チェーンソーで瓦礫を切っていったり、バールで突き破ったりして
思いでのビデオテープ、アルバム、勇への手紙など沢山の無くしたくない、
思い出を取り出す事が出来ました。本当に感謝感謝です。
お昼は、母親が心をこめて作ったお弁当を一緒に食べました。卵焼き、牛肉の佃煮、お握り、今でもその時の味を思い出します。
何物にも替える事が出来ない、思いでの品々、それを取り出す事の為、
私は会社を1日休みました。
その事に、上司、先輩は、良い顔をしてくれませんでした。
「あーっ当事者じゃないから・・」その時わかりました。
沢山の無くしたものが在って、でも無くしたくないものをまた、
取り戻せるチャンス、お金を払ってでも手に入れたい、
そんな気持ちもわかってもらえなかった、とっても辛かった、哀しかった、
それまでもそれからも、人一倍仕事をしていたつもりだった、
文句も言ったことは、無かった。
でも、それから少しずつ離れていった心がそこにあったように思います。
価値観の違いが、はっきりと感じる事が出来た事件でした。
もう、今年で10年目(2004・6・9)になりました。
当時、震災ででこぼこの道をトラックで荷物を運び今では、
考えられないような時間をかけ移動していました。
国道沿いの歩道に只呆然と椅子に座り、その眼の先には、現実ではなく
まるで絶望の谷底を覗いているよな、生気のない姿をした人が
ここそこにいたように思います。
そこを通るたび出会う明日をなくした人達、
そんな人達も日を追うごとに沿道から一人、二人と消えていきました。
そうこうしていますと、あちらこちらに家が建ち始めました。
中には、震災を経験したにもかかわらず、こんな柱で?こんな金物?
信じられないような、ひ弱い家を建てていたのを何件も見ました。
震災直後も物資の不足を言い事に途方もない値段を吹っかけていた業者が
後を絶ちませんでした。
どうでしょう、もし、我が子がお腹をすかし今にも、力尽きてしまいそうな時・・
そこに、何十倍もの値段の食料が売っていたら・・・親ならそれを惜しみもせず
我がこのために買うでしょう、普通の値段で仕入れた物と解かっていても・・・
しかし、こんな足元を見た下司な商売 欲深い人の浅ましさが判りますね。
今日であの日からもう11年が過ぎました。
本当に駆け足の11年です。
当時2歳半の長男は、勉強もそこそこにゲームが大好き
ありがたいことに本だけは、よく読む。
おなかの中にいた次男は、今日も学校から帰ってくるなり
友人とどこかへ遊びに行ってしまった。
当時形も無かった三男は、一番の腕白で少年野球をやっている。
当人の私といえば・・・・・
改めて震災日記を読んでいて
あの時の力強さが素晴らしく思います。
本当にあれは、私だったのだろうかと言うくらい
紛れも無く私なのですから、もっとがんばらねば
改めて、当時いろんな形で援助や励ましを送っていただいた
世界中の方々に感謝し誓いたいと思います。
「私は、生きている。これからもずっと・・・」
震災の年の夏に転職をきっかけに私は、
長男(次男は、生まれたばかりなので)と二人で和歌山の白浜に電車の旅をしました。
やっとオシッコと言えるかどうかの頃ですから
言葉の理解力も当然(^。^;)な感じ、朝早く家内の見送る中、出発
JR三田から一路大阪へ、乗り換えて天王寺そこからくろしお号で白浜まで、
この日は、大変天気も良く(良すぎでバカ暑)
お昼ご飯は、飯屋さんで勇もいつもよりたくさん食べてくれ、なんだか
いつもいない私とずっと一緒に過ごしているのがうれしいのか、
いつも一緒の家内がいなくてもぐずりもせず、本当に良い子でした。
食事の後、予約した宿へ,・・予約は,「男性2人」とだけで予約、
何故なら、幼児と父親だけと言う事で、なん件かの宿に断られたのです。
なぜいけないのだろ? つくなり宿の大将は,「子供さんとですか、
大人二人と思っていたから・・」帰りの清算のときは,
ちゃんと子供料金にしてくれました。
宿で荷物を置いて、一緒に近くの浜へ泳ぎに行きました。
勇は、始めての海でしたが怖がることなく、浮き輪に乗っていれば
深いところでも何処でも平気で、キャッキャ、と喜んでいました。
途中でかき氷を食べ、たしか彼は,イチゴだったと思います。
こぼさないようにそーっとスプーンを口にはこんでは、ニカッ!
美味しそうに食べていました。
そのあとの時間の流れとどうしたコウしたについては、
順序良く話せませんが以下のよう事をしました。
熊楠記念館見学・・あんまり有名じゃないけど、
日本のファーブル博士と言って良いくらいの凄い人
とっても賢いし行動力のある人岬近くのとっても綺麗な所でした。
ここで彼のエピソード・・
私が色んな展示物を見ている間に、
ベンチに座ってとなりの御婦人と何やらお喋り、
挙句には,お菓子までもらって機嫌良く食べている。
「あんた!何処の子?」と言いたくなる。・・
グラスボート乗船・・
船の底がガラス張りになっていて海の中が覗けるっていうやつ、
色んな魚がいて、海の中本当に綺麗でした、
エピソード2・・・
海の中を泳いでいる魚(多分、鯵etc)を見て一言「美味しそうなお魚・・」
きっと回りの方は肩を震わしていたに違いない・・
エネルギー博物館・・どんなんだったか忘れた?
アトラクションで3Dスクリーンの地底のたび?かなんかがあった
エピソード3・・・
彼は,そのアトラクション怖くてずっと目をつぶっていた。
花火・・・宿近くのマーケット?で花火を買って浜辺で2人で楽しみました。
特に事件なし
アドベンチャー・ワールド・・・とにかく暑かった、
だって動物もだれだれでライオンとか虎なんか出てこなかったもの、
シャチのショーは,楽しかった
でも、本当の海に帰りたいだろうなぁーなんて、
ショーを見ながら考えていたのは,私だけなのだろうか?
とにかく夏のA・Wは、夕方前から行って見るのが一番良いと判明!!
エピソード4・・・
お客様へのサービスでおサルの赤ちゃんが抱けると言うのがあって
彼も始めは,意気揚揚と並んでいたのですが、
いざお猿さんを抱く時になって怖気づき
でも、勇気を出して抱っこしてまいした、
その時の写真を見ると、完全にお尻引き気味に引き攣った笑顔がそこに・・
と、まぁ~ツアープロデュース&コンダクター兼父とパンパース小僧の2人旅無事完了、
昨日その彼に覚えているか聞いてみると「ぜんぜん」ですって、(T.T)
私の1.17 震災日記