月の巫女Ⅲ 月の涙 第三章 誓い

〔1〕 反故 (1)


ギルバーヂアはフラフラと飛んでいると感じていた。足元が崩れ空に投げ出された。左腕の羽には捨てることの出来ない女の身体があった。哀愁が動かないルチアの身体を抱き締め飛んだ。右手には血に濡れた太刀を握り締め、白い曇った世界をただひたすら飛んだ。
何処を目指せば良いのか分からない空白の時をただひたすら飛んだ。白い雲の間をひたすら。
何時間も、何日も、飛んでいる気がした。
漂っていたのかも知れない。卵を失い命の実も手に出来なかった。失意が胸中を支配していた。これから何をすれば良いのか分からない。それでも腕に抱いた身体を離さず飛び続けた。
悠久の世界を飛ぶギルバーヂア。
青い世界が永遠に続くかの様にあった。
飛び続ける羽根が、疲れを感じてきた。疲れは、彼を睡魔へと導く。
このまま二人で――と思った心が、風を感じた。するとルチアのなんとも言えない芳香を感じた。
ルチア――俺の卵と、感じた心が感情を高めた。胸が締め付けられる思いがあった。
満月の宵を思い出した。ルチアの身体をこのまま捨てては行けない。せめてこの身をラグルへ埋めたいと思った心が脳裏に故郷を描いていた。
育った岩屋から見える瀑布の滝、眠るに相応しい巌山の風穴。巣穴へ。その場所へ卵を宿した女の身体を――と思った時、睡魔は消えた。
ラグル――ラグル島。
仲間が待つ島。雛親鳥ダイールが待っている。彼の顔が見たい。ギルバーヂアは一心にそう思った。
帰りたいと。
すると、霧が流れていると気づいた。白い霧が流れる間に青い色が見えた。霧の間は鮮やかな青だ。青い青い世界。青一色に魅せられた瞳が震え、胸が波打った。
空だ。見慣れた空の色だと感じた。その色の下には――。
あった。島だ。島がはっきり大きく見えた。遥か上空から見える尖った牙を並べた五つの山を持つ楕円形の島。
帰ってきた――。夢ではないラグルの緑地の匂いがした。潤む目は迷わず尖山を目指した。
重く腕を振り上げ風を切った。追い風に乗り島へ降りる。習性が疲れ果てた肩羽根を高く広げた。荷を抱える腕は思う様に動かせなかった。それでも故郷を見た彼は希望を持った。種族を繋ぐ新たな卵をまた探しに行くと、墜落しそうな身体を支え飛んだ。身体を支える肩羽も疲労で思うように動かなかったが、気力は風を掴んだ。
ホッとしたギルバーヂアのその気力を支えているのは、古巣だ。古巣の岩棚に白く輝く卵が並ぶ光景だ。
育った巌山の風穴を目指して飛んだ。荒野が見えた。その地下には石洞がある。
そうだとギルバーヂアの脳裏は馳せた。奇妙な岩が並ぶあの場所。そこへ、命の実の代わりにルチアの身体を葬ろう。それから、もう一度――行く。
荒野を目指した。風に乗って三枚羽根で浮遊する不安定な身は墜落しそうなほど疲れていた。瞳が霞んでいた。
その霞む眼に荒野から飛び立つ黒い無数の塊が見えた。それが鳥だと直ぐに分かった。空を飛ぶ集団がギルバーヂア目掛けてやって来る。
幻かと眼を見張る瞳が捕らえたのは、群れを為す男鳥の姿だ。仲間だ、仲間が来たと分かった。
荒野から空を目指す無数の黒い塊がギルバーヂア目指して飛んでくるのが見えた。その先頭にいるのは雛親鳥のギダールだった。
灰色と白の斑の羽根をしたダイールは、見事に生還したギルバーヂアのその腕を掴むと声を上げた。
「良くやったな!お前は俺達の誇りだ!」
ダイールのその長い腕はギルバーヂアを引き寄せ抱き締めようとして大きく弾けた。
「嘴!お前、嘴はどうした!」
突き放されたギルバーヂアは腕にあるものを落とさぬようにフラフラと地に落ちるように着地した。そこは湿原の荒れ地だった。懐かしい水の匂いがギルバーヂアの意識を鮮明にしていた。生まれ育った地に帰って来られたと、嬉しさが込み上げていた。が、次々に降り立った者達は奇妙な顔を向けていた。その奇妙な顔は口々に言う。
――嘴、嘴の無い鳥――
「地帝の国で、盗られた!」
と、ギルバーヂアは叫んだ。そして、異様な姿なのだろうか?鳥族には受け入れられない奇妙な顔か?と自分に問うた。
「地帝と戦ったのか。勝ったのだな」
鳥は勝手なものだ。地帝の国から天界へ行ったと知ると拍手喝采となった。
――良くやった。良く戻ってきた――。
――お前は、俺達の英雄だ――。
抱きしめられたギルバーヂアは懐かしい雛親鳥の匂いに安堵した。そして次々に掛けられる帰途を喜ぶ声に、帰ってきたと実感した。しかし、成果は得られなかったと気力無い言葉を返した。
「済まない。天帝を、殺した。必ず、もう一度‥、天界を目指す」
「ああ、分かっている」
と、ギダールは言った。それが聞こえたはずのギルバーヂアはまた言葉を繰り返す。
「もう一度、卵を手に入れる。命の実を‥天帝の園を‥剣がある」
「分かっている。もう言うな。それより早く行こう。地下の巣穴だ。お前の言うとおりになった。さあ早く。お前の園だ」
ダイールの言葉の意味を知らないギルバーヂアは、そこに何があるのかを考えない。ただ、地下の奇妙な憧憬を思い出していた。
「地下の石洞‥。行く。そこに、埋める。俺の卵を‥」
さあ行こうと言ったダイールは、ギルバーヂアの腕が抱える物を見た。そして笑みを浮かべたダイールはギルバーヂアに寄り添う地下の入口に向かった。
細い岩の入り口を抜けた男鳥達は地下へと飛下りた。
地下の高い天井を持つその場所を一目見たギルバーヂアは喫驚した。石柱と垂れ下がる牙のような岩、だんだんの水盤。白い奇妙な岩屋が生い茂った緑の林と重なっていた。
「ここは何だ?」
と言ったギルバーヂアは、はっとした。
「天帝の庭だ!すると‥天帝は‥あの女は」
真実を語っていた――。彼女の育てた黒い実がたわわに枝を飾っていた。
ギルバーヂアの腕から剣がガチャンと落ちた。ルチアの身体がゆるりと落ちた。
「良くやったな。ギル。これが、この黒い実が命の実か。素晴らしい。これで、俺も卵を手に出来る、俺だけの卵‥」
ダイールは嘴を開けて笑った。その嘴の間から鋭く光る牙が見えた。その瞬間、ギルバーヂアは自分の口を押さえた。そこに嘴は無い。
「さて、もらおうか」
と、ダイールは両腕を差し出した。その腕が何を示しているのか分からないギルバーヂアは茫然と身をかがめたままだ。その彼にダイールが更に言った。
「約束を忘れては無かろう」
約束――。何か分からなかった。地に落ちたルチアの身体を救い上げたギルバーヂアはダイールを見上げた。
黄金の鞘に収まった剣は地に落ちたままだ。他には何も持ち帰らなかった。
何だと、ギルバーヂアは聞いた。すると、渋面を呈した顔が叫んだ。
――女をよこせ――。

(2)


女?――ルチア?!
「死んだ――!」
と、ギルバーヂアは叫ぶが、不満を面に表したダイールは立ち尽くしたままで動かない。
怒気を表した顔が同じ言葉を放った。
「女をよこせ!」
「この女は死んだ。天帝の実を食べて死んだ」
羽根が包む身体は冷たい。死んだ身体は冷たいのだとギルバーヂアは知っていた。
「嘘をつくな!約束しただろう。天界から浚って来た最初の女をくれると!」
今まで悪態を付いたことないダイールがはじめて見せた憤懣の顔だ。死んだ女の身体を渡すわけにはいかないギルバーヂアは焦りを憶えた。
「天界と地界を繋ぐ剣を持ってきた。だから、もう一度、天界を目指す。攫う、女を攫って来る‥」
「その女で良い。よこせ!」
その必用が何なのかギルバーヂアには分からなかった。律儀なダイールの性格が約束した言葉を確実に守るのだと分からないギルバーヂアは面食らっていた。一途なダイールの性格は誓いを守ろうとしただけだった。誓いは守る、それが彼の信念。形式だけで良かったのだ。だが、やはり彼も男鳥だ。形式だけでは済まない種が、女の芳香から蘇りつつあった。
「この女は、悪しき実を食べて死んだ。だから、ここへ葬りたいんだ。ダイール。俺の卵を‥。守りきれなかった卵をここに‥‥。それが終わったら、新しい女を攫う」
「誓いを破るな!ギル!その女は生きて息をしているぞ」
「天帝に毒の実を食べさせられて、‥‥」
死んだと、言おうとしたギルバーヂアは、腕の中の身動ぎを感じた。
ルチア!開いた瞳が見上げていた。その指が彼を確かめるように唇を押した。
「私、寝ていたの?女神様は?」
物憂げな視線がギルバーヂアに微笑みそう言った。愛着が二の腕の羽根を逆立て更に丁寧にルチアの身体を包み込んだ。すると、心ときめかす妖艶な香りに包まれた。艶やかな香いが心をざわつかせた。満月が近づいていると感じた。
湧き立つ感情が、全身を波打たせた。人間の女の潤いに満ちた香り、それは側に立つダイールをも、欲気させた。種を繋げ――とダイールの心底が忘れていた欲望を蘇らせたのだ。
「女、こっちへ来い。お前は今から俺の物だ。俺の卵を産んでもらう」
その言葉で我に返ったルチアは、鳥族の原型を見た。
嘴を持った半獣だ。楕円形の禿げ頭に白いうぶ毛が光る横に、立ち上がった耳があった。くすんだ大きな嘴が顔の中央を占め、のっぺりとした顔は黄色いかさぶたのようなゴワついた皮膚が覆っていた。翼を持つ魔神?ではない奇怪な鳥だ。ギルバーヂアと同じ翼を持ち立っていた。
潰れた平面の顔に垂れ下がる重い瞼がギョロリと飛び出た大きな眼を覆っていた。その舐めるような眼に見詰められたルチアは、余りの恐ろしさに脳裏は言葉を無くし、心は恐怖の叫びを上げていた。
「ダメだ!ルチアの腹には俺の卵がいる。お前には譲らん」
ギルバーヂアは叫んだ。しかし男の心を蘇らせたダイールは譲らない。
「俺はお前の親だ。逆らうのか」
ダイールの長い腕がルチアの手を掴んだ。だが拒絶の心が腕をはらった。
「嫌よ!私はこの方の子供を生むのよ。何人も、何人でも産んで育てて、そして一生を添い遂げるわ!」
「添い遂げる?それは何なのだ?」
と、ギルバーヂアは優しく聞いた。
「死ぬまで一緒に暮らすことよ。死ぬまでよ‥。私の夫は、あなた。あなたが何人の妻を娶られようと、私の心は変わらないわ。夫は一人、あなたよ。一生一緒にいるわ。もう、他の人のモノにはなれない!」
ルチアはギルバーヂアに強くそう言った。心底思った言葉を放ったのだった。そして産毛に包まれた硬い皮膚の胸に顔を埋めた。
「そうか。番か!その昔、女鳥が多くいた頃はそうだった。自分の相手がいた。それなら俺と番になった方が良い。番を選ぶなら俺にしろ!女!俺はもう歳だ。お前ももう若くない。卵を産める年は直ぐ終わる。俺と同じように親になって暮らすしかないだろう。今から何百年も生きる若い雄にとって、お前は一時の飾りだ。何人ではなく何百人の女の一瞬の飾りだ」
「飾り?何百人の‥妻!」
ルチアは震えた。異界の人だ。異界の人の寿命――、それは自分とは違う。それだけではないと彼女は分かった。年を取った自分とは違い夫は若い――青年だと。
「ああ、飾りならまだいい。一瞬のゴミかもしれんぞ」
そう言ってダイールは声を上げて笑った。嘴を大きく開けて笑った。嘴を開けた醜い姿が与える恐怖よりルチアの心には、怒りが込み上げていた。労りのない無慈悲な心が女心を引き裂いていると感じもしない、醜い鳥男に反感が芽生えた。こんな男の妻にはならないと、なってはならないと思うルチアだが、ギルバーヂアの羽根の中に身を隠すしかなかった。が、ダイールのその腕は伸びてきた。
恐怖で縮み上がったルチアの脳裏に、天帝の言葉が蘇っていた。
――醜いモノの子を育てるつもりか?
――魔性の子じゃ!
異郷の地で、醜い男の子を育てる――嘴を持つ子を――嫌よ!!
ダイールの手が、ルチアの腰を掴んだ。恐怖に慄く身体を、ダイールは掴み取った。死者の実がルチアの身体を麻痺させているのかギルバーヂアの羽根を掴んだ手に力が入らなかった。呆然と立ったギルバーヂアの腕からルチアは消えた。
ギルバーヂアはこの時、ダイールが罵るように放った言葉を反芻していた。
卵を産める年――これから何百年の俺の命、それに比べルチアは後何年卵を産めるか――新しい女が必要なのは俺かもしれない。若く何年も卵を生む女を手にしたほうが良い。ダイールには先見の銘がある。だから俺は生きている。滝の洞穴でダイールと過ごした日々が蘇っていた。ダイールは親だ、彼を敬わねばとギルバーヂアは決意した。
彼にルチアを譲る――と、踵を反した。その時、裂帛がギルバーヂアの脳裏を割いた。
抱きしめる身の柔らかさと芳香が刹那に蘇った。森の中の日々が、共に眠った日々が、更に満月の余韻が胸を締め付けた。
すると消えた。ダイールとの日々が。
ギルバーヂアの脳裏から憧憬が消えた。
親鳥ダイールとの生きるために必死だった日々が消えうせた。瞬時に脳裏に浮いたのは愛を語るルチアだった。
「その手を離せ。その女は俺の妻だ!」

(3)


ルチアは青くぬけるような高い空を見た。
倒れ込んだ湿原の溜水で顔を洗った。必死で顔に付いたぬめりを、腕に付いたぬめりを、洗い落としていた。
水の冷たさが、現実だと教えた。歩み来る夫の形相が現実だと教えた。
現実は、夢の世界のように始まった。ダイールの腕がギルバーヂアの胸に抱かれたルチアを奪い取った時から。執念に満ち溢れたダイールの風体は、ギルバーヂアを尻込みさせた。射竦めるその形相はルチアを離さなった。
空洞の岩棚の中、たわわに実った林の中で、妻だと言い切ったギルバーヂアの声を無視したダイールはルチア身体を長い舌を伸ばし確かめた。女の肌の感触をその顔は、飛び出た眼をぎょろりと一回転させ頬を震えさせて表した。フニャフニャと笑い、柔らかくむっちりと垂れた胸を弄り、面白いと呟いた。子を生む女の面白みをとことん確かめたいとダイールは欲気に駆られていた。欲気は巣穴へ向かえと本能を呼び起きしていた。巣穴に女を連れ帰れと――。
ダイールは重い荷物を抱え、逃げるように地上を目指した。その後を追うのは声を上げ叫ぶギルバーヂアだ。
迷路のような岩壁を蹴り狭い洞穴を巧みに抜け、地下道から地上へ出たダイール。追うギルバーヂア。
空を二羽の鳥が、優雅に弧を描きながら飛んで行く。しかし、ダイールの前を後を飛ぶ焦燥のギルバーヂアはひたすら叫び声を上げていた。
ルチアを取り戻すと。
ルチアの方は、意識が朦朧としていた。瞳は闇と光が眼を刺激し、目まぐるしく変わる視界を捕えられない。身体は乱暴に締め付けられる腕の力に息が出来なかった。それでも入り混んだ岩棚の迷路を飛んでいると分かった。
拐われたのだと、途切れそうな意識は悟っていた。醜い鳥男に拐われ空を翔けていると分かっていた。
冷たい水が顔を濡らした。地下水の雫に濡れた顔が、吹き付ける風の痛さで空を飛んでいると感じ取った。
大空を漂う怖さが襲った。
傲慢な男の腕をしっかりと掴まずにはいられない浮遊は恐怖だ。叫ぶ声も嗄れ、喉は荒ぶる力がなかった。
地下の暗闇から抜け出したと。だがルチアには、何処が天上なのか大地なのか分からない。唯鳥男の胸にしがみついて居なければならない。助けて――と願った時、声が聞こえた。名を呼ぶ夫の声と彼の広げた腕が間近にあった。その手に縋り付こうと身を捩った。そうはさせまいと、ダイールの翼が風を切り半回転した。すると、眩い光がルチアの眼を刺した。青い色が眼に飛び込んできた。
異郷の大地!ルチアは眼を見張った。
牙のように立つ灰色の山が目前に立ち塞がり、濡れた岩肌を晒して雄大にそびえ立っていた。その遥か先の薄紫色の濃淡に重なる山々が山頂に雲を持つ光景は絶景だった。砂漠で生まれ育ったルチアは初めて見る光景に眼を輝かせずにはいられなかった。
眼下に広がる深緑が柔らかな羊毛を敷き詰めた様に見えた。瑠璃色の翼を広げた鳥達がゆったりと飛んでいた。振り落とされる怖さより、眼に写った光景が衝撃的だった。緑色の湖があった。山上から流れ落ちる滝の白い水しぶき。岩山の風穴をくぐり抜けた。その下に広がる荒涼な大地を見たと思うと、空に投げ出された衝撃に身を縮み上がらせた。ダイールが急降下したのだ。ルチアは悲鳴を上げる間もなく、湿った大地に投げ出された。その衝撃で何が起ったか考えられない。
意識が混迷していた。眩暈と頭痛が彼女を襲った。頭を抱えて蹲っていた。
横に並ぶ二つの影が、言い争う声を遠くで聞いている気がした。
時を追う毎に激しくなるその声から逃れるために四つん這いになって水の張った湿地を歩いた。その頬にむき出しの二腕に何かが飛んできた。ぬるりとしたそれを指でなぞった。瞳がゆっくりと後ろの光景を振り返った。
瞳に写ったモノ。
ルチアは無意識に手足を動かした。その姿勢のまま、慌ててその場を離れようと手足を動かした。必死で動かした。しかし、身体が思うように動かなかった。更に彼女の足首を、その手が掴んでいた。恨みを込めた醜顔が、長い腕を伸ばし掴んでいた。その見開き動かない瞳が、見据えていた。
悲鳴を上げた。その手を振り払うために、何度も何度も声を上げた。足をばたつかせ喉の奥が出せる全ての金切り声を上げて後退った。
鳥の血も赤いと、離れてみるルチアの瞳に写った。倒れた身体がある。ルチアを向いた顔が、醜いと思う顔が何かを呟いて草の中に落ちた。湿原の透明な水が色をかえていくのが分かった。紅色のきれいな色が立ち上がった草の間を染めていく。夢のような視界の中に時が流れていく様子をルチアは見ていた。すると、パッシャと意識に問い掛ける音に顔を上げた。夫がいた。肩翼を小さく畳んだ夫ギルバーヂアが呆然とした心地で立ち尽くす姿を見た。そしてその眼は、滴り落ちる紅色の雫を見た。
血に濡れたその爪。夫が獲物を捕るその自慢の爪を一見したルチアの意識は、全ての音を消した。湿地を撫でる風の音が、空を掛ける動物であろう鳴き声が、消えた。その耳に聞こえるのは天帝の声だ。
――お前の未来を告げる。汝のその爪は、鋭い爪はそれぞれ大切な者の命を奪うだろう。お前は殺す。この世で最も大切な者を殺すだろう――
大切な者を殺した――雛親鳥を――親を殺した。
ルチアは呆然と、湿地に転がった身体を捕らえた。その身体に垂れる紅い雫は、鋭い爪から流れ落ちていた。瞳は紅い雫なぞるように長い腕を見た。ルチアの瞳は羽に包まれた腕を追い、立ち尽くすギルバーヂアを見上げた。
夫の顔、苦渋を表したその顔を見たルチアの視界がぼやけた。
私のために、仲間を殺した――。夫を育てた親鳥だと、声を上げたルチアは顔を覆った。そこにぬめりが張り付いていた、腕にも――。
ルチアは必死で顔を洗った。気を逸した様に腕を洗った。
湿原の水は冷たく清く、ルチアの恐怖を取り去った。そして餌場となるこの場は、雛(お)親(や)鳥に徹した男鳥の夢も取り去った。自分の雛と草地の間に隠れる餌を追い掛け戯れる夢を取り去ったのだ。

2 天地の扉 (1)


残忍非道の鳥族!
その言葉を地界に広めたのはギルバーヂアではなかったが、確定させたのは確かにいずれ鳥の王と呼ばれる彼だ。
彼はその手始めに地の一族ホルトログ族を襲った。
「帰ってきたのか‥」
ジョカルビの驚きに満ち溢れた顔を見たギルバーギアは悟った。
「企んだな」
凄みのある顔が、ジョカルビを睨んだ。ジョカルビは預言者ではない。呪師だ。呪師が初めて見たギルバーヂアの顔貌は無垢であった。しかし今は違うと感じ取れた。残忍を表したとジョカルビは感じ取った。旅が鳥族の本質を呼び戻し残忍に目覚めさせたのか?それならばここへは帰っては来れまいと。
「企む。何のことだ。お前さんが地帝の元へ旅立ってから、二月になるが風聞は流れてこなかったぞ」
平素を装うジョカルビを冷たい鳥の瞳が、更に冷たい輝きを放ち睨み付けた。小さく折り畳んだ肩羽が呼吸するように波打って震えっていた。
「風聞‥。そんな物お前にはいらないだろう。魔術師なのだから、業を使えば簡単に見えて来るだろうに」
ギルバーヂアは初めてジョカルビと出会った時と同じ部屋で同じ立ち位置で壁に寄りかかると、長椅子で身を強ばられているハイアラードを見た。垂らしていた髪を結い上げた、ほっそりした項を晒す姿が怯えをはっきりと見せていた。
「ソウマの弟子は、年頃を向かえて性を持ったか。花月‥か」
と言うとフフンと笑った。瞬時、ハイアラードの顔色が変わった。若さが知識を持つ。これからより多くの知識を持ち敵対していくと予感が脳裏に浮いていた。
「卵を持ったのか。美味しいとは思わないが‥」
ハイアラードは、その言葉に震えた。予見が脳裏を埋め尽くした。鳥族の贄に差し出された惨めな姿が見えた。瞳を見開き大きく震える身体の両手が抱いていた岩塊がバラバラと落ちた。指に残った最後の石を強く握りしめた蒼白のハイアラードに悦を表すギルバーヂアが言う。
「ソウマの弟子は予見者か!自分の運命を予感出来るのは悲しいことだな。だが、運命には従ってもらう!」
雛親鳥達はギルバーヂアに知識をあたえた。子を生む女達の身体の作りは同じ、その腹の奥に卵を隠しているのだと。地の一族は両生体、女に变化した者は髪を結い上げるのだと。その結い上げた髪を振り乱しハイアラードは叫びに似た声を上げた。
「イヤだ!お前の雛なぞ、産む気は無い!きっぱり、断る!」
「ああ。それでも良いさ。卵は他の女が産んでくれる。そうだな。ジョカルビ」
ジョカルビを向いた顔は笑顔だ。歪んだ唇が声を上げて笑う。狭い部屋に声は響き渡った。ルチアの知らない残忍な顔が光を放つ明るい部屋に勝ち誇った声を上げた。
「女を用意しろ。卵が産める女を五名。お前の娘もな。ジョカルビ。この術師の代わりに」
「娘‥二人共か?」
苦渋に満ちたジョカルビはやっとの想いで言葉を放ったのだが、ギルバーヂアは更に甲高い笑い声を上げた。
その声は響く。狭い部屋を揺るがすように響いた。腹を抱えて笑うギルバーヂアの声が止んだ時ジョカルビは知った。騙されたと――。
「お前に娘がいたのか?それも、二人も!」
娘がいるとは知らなかった。虚勢を張ったのだが、思いもよらぬ収穫だった。滑稽だと言わんばかりのギルバーヂアは横柄な態度でジョカルビに迫る。
「二人共だ。良いか!この女の代わりは二人だ!‥それとも、この女を差し出すか?」
色を無くしたジョカルビは言葉が出ない。呆然と立つその彼に言葉が執拗に迫る。どうするのかと――。
「私はお前等のモノにはならない!死んでもな!」
と、二人の間を割る声が叫んだ。ハイアラードが叫んだ。
「生きる者は簡単には死なないものだ。試して見るか?お前の仲間はお前より子を選んだぞ。見ろ!」
長椅子の前に腰を折ったギルバーヂアがハイアラードに顔を寄せてそう言った。ギルバーヂアのその飛び出た目玉がくるりと動くと出入口の横に立ったジョカルビを見た。ジョカルビは長椅子に背を向けていた。背は後で起った事を知らぬと言うように――。
ハイアラードは眉間を上げてギルバーヂアを睨み付けた。憎悪にも似た拒絶がその顔に現れたいたがそれを気にする様子もないギルバーヂアはハイアラードの横に座ると逃げようとする身体を掴んだ。
鋭い爪が編み上げた髪を鷲掴みにした。髪を飾った花簪が床で音を響かせたが、空を切る言葉はない。無音の時が恐怖を表した顔を嬉しげに見詰め更に顔面に引き寄せた。
長い舌がハイアラードの目の前でうねった。この時初めてハイアラードは鋭い悲鳴を上げた。背を向けていたジョカルビが振り返った。と、罪悪に震える声を上げた。
「やめろ!!鳥の王よ。我らの種族から手を引け!お前に渡す娘はいない!」
怯えと恐れを表した顔が強い語気を放っていた。震えるジョカルビの手が長い杖を掴んでいた。杖を持つ手がゆっくりと構えを執る。
「呪を放とうと言うのか?ソウマ殿」
ギルバーヂアはフフンと鼻で笑った。ジョカルビはその自信ありげな顔から新たな恐怖を察した。顔色を変えたジョカルビは、先ほどとは一変した震え声を放った。
「天界へ行き着いた‥のだな。手ぶらでは帰らなかった‥」
「ああ、ソウマ殿の助言で手堅いものを得られた。貴男のお陰で‥」
口元を緩めた顔が更に言った。
「命の実も、熟した女も手に入れた」
そう言ったギルバーヂアはハイアラードの胸を隠す衣を引き裂いた。
「やわらかな肉を持つ女だ。海族の女のように‥嫌それ以上に豊かな女を手に出来た。俺の卵を宿した女だ。俺を愛し俺のために生きる女だ‥」
言葉に狂気が現れていると、ジョカルビは感じた。それが何により現れたのか分からない彼はただ見詰めた。鋭い爪はハイアラードの衣を全て剥ぎ取った。両の肩羽が開くとハイアラードのその身を隠した。分厚い唇から太い舌がニョキリと現れると細長い管が音をたてた。それは細い首に絡んだ。
血を抜かれる――。その通りだ。管の先が首に刺さった。管が波打つ。
「やめろ!助けてくれ!殺さないでくれ‥貴男様が望む事を、言われるままに従う」
崩れ落ちたジョカルビは、そう叫んだ。彼の脳裏は記憶の襞に詰まった全ての情報を掘り出し鳥の弱点を見つけ出そうとした。娘を守る術を考えた。二人の娘、種族の娘達‥、差し出せば終わる‥か?それは永遠に続く――。
「いや‥それより」
一人の犠牲で済むのであればと、ジョカルビは思った。ギルバーヂアがハイアラードの身体に現を抜かしている間に彼に術を掛け地底深くに埋めると。
蹲ったジョカルビは息を止めて羽を膨らませ獲物に執着する鳥を見据えた。床に置いた両手は強く杖を掴んだ。そして、時を待つと静かに頭を垂れた。
 やがて口を固く結んでいたハイアラードの口から声が漏れた。すすり泣きにも似た吐息だ。顔を上げたジョカルビは羽の間から飛び出した細長い足を見た。ギルバーヂアの両肩に掛かる白い足。二枚の肩羽に隠れる長い腕が抱きとめる身体は見えないが、震える羽の間でもがく女の声が大きくなっていく。
 立ち上がったジョカルビは杖を構えた。そして業を放った。鳥よ――と。
真剣の業が、ギルバーヂアを掴んだ。はずだった。
業はギルバーヂアの身体に吸い込まれた。霧の様に消え去った。代わりに現れたのはハイアラードの顔だ。紅潮した顔が口を開き激しい吐息を繰り返す。潤った裸体が羽の間から顔を出した。
それはまさしく女の顔だった。艶然に燃え尽きた女の姿が長椅子の上で呆然と横たわった。その口に黒い実を押し込む爪があった。口から紅黒い汁がたれていた。ギルバーヂアは厳しい声で言った。食えと。

(2)


「後、四人だ!」
と、ギルバーヂアは言った。
天界の実を食べた女はもう人ではない。それをジョカルビの記憶の壁は刻んでいた。
ハイアラードは食べた。
ギルバーヂアの命のままに性に潤った身は朦朧とした意識の中で実を味わった。喉を抉る苦さと腐った吐瀉の匂いがハイアラードを我に返したが、口の粘膜が覚えた泥のような食感を吐き出せなかった。吐き戻しそうな感触を飲み込んだハイアラードは、涙を浮かべジョカルビを見上げた。その見開いた瞳に涙が後から後から湧き出ていた。
その涙が心の感情を一緒に流していったのか、流れる涙が止まった時、表情のない面が静かに動かず座っていた。その変化を確かに捕らえたジョカルビは、呆然とその場に崩れ落ちた。
もう目の前のハイアラードは、地の一族では無くなったと。
苦渋の涙が頬を濡らす。
「先ほど、業を掛けたな。ソウマ殿。それで守備はいかがだった?」
不気味に光る瞳が意味深げにそう言った。
「そうだ。お前さんを地下深くに埋めてやるつもりだった。お前さんが生きていると、我らが苦渋の涙を飲む‥。こんな事が、こんな事が許されるか!」
生きる屍だ!――と涙にくれるジョカルビが、ハイアラードを抱き締めて叫ぶ。
怒りがジョカルビの身体を激甚に震えさせた。
「怒ることはないだろう。ソウマ殿。死んではいない。生きて食べて卵を生む。鳥族の嫁になっただけだ。俺は後四人の嫁が欲しいのだ。明後日の満月に間に合うように雄種鳥に与えたい。嫌とは言わさぬ。それとも業で抑えこむか?」
丸い瞳をぐるりぐるりと左右に回したギルバーヂアが平然と言った。
思いやりの心が消え去ったと、ジョカルビは悟った。若い鳥は情熱の中に、慈しみの心を持ち合わせていた。しかし目の前に居るのは、その心が完全に消え去った唯の男鳥なのだ。
「業を防ぐ術を天帝に教わったのか?」
「天帝か?奴は俺をあざけはするが愛しんではくれぬ。美しく気高い奴を盗んでくれば良かったのかな?奴の血と肉を食し、卵を盗る。奴の雛ならをどんなに綺麗な雛か・・。産れた子は天界の主か?鳥族のものか?俺のものだな。だが奴は‥」
やはり狂気を宿していると、ジョカルビは心が冷えるのを感じた。
「いいものがある。これはどうやって使うのだ?ソウマ殿」
ギルバーヂアは腹を突き出して見せた。白いうぶ毛で覆われたその場所に特別変わった様子は見えなかった。ジョカルビはギルバーヂアの腹に関心はなかった。あるのは、鳥の性根を潰す。そうしなければ鳥の持つ悪が、地界に再び恐怖をもたらす。
慄然とした心が決意した。憎々しい笑みを浮かべるその顔を地べたに這わせると、決意が凍りついた心を悠然と立つ男鳥に向けたその時、
「俺の弱点を知りたいのか?」
と、ギルバーヂアははっきりと言った。その言葉が、ジョカルビの胸を刺した。鼓動が止まった。
『心を読んでいる。この鳥は相手の心を読んでいる』
と、固唾を飲んだ瞠目が息を止め、ギルバーヂアを見上げた。
「今の俺に弱い所はない。足りない所は多いにある。お前のような知識だ。ありと溢れた記憶を持てない事だ。俺達のこの小さな頭には地の一族の様な知恵を収める脳がない。鳥の歴史も呪い師が持つ偉大な業もこの世で起った風聞を刻む脳を持たない。だから、俺には貴男が必用だ。貴男の種族が」
床に立てた杖に縋りつく強張ったジョカルビは、ギルバーヂアを凝視した。何を言いたいのかと。
「貴男が俺達鳥族を根絶やしにしなかった事を悔やんでいると知った。だが今は遅い。遅すぎるのだよ。俺は生きると誓った。育った岩穴で、強くなると誓った。自分の卵を手に入れると誓った」
ギルバーヂアは蹲ったジョカルビを見た。真剣な眼差しで見た。先ほどの狂気は何処に消え去ったとジョカルビもギルバーヂアを見た。二つの反発する心が一瞬緩み穏やかに絡んだ。
「貴男の知識があったからだ」
知識!ジョカルビの脳裏で何かが弾けた。そこに知識の宮殿がある。記憶の迷路、複雑に絡み合って今は迷路の記憶部屋だ。そこから鳥の弱点を探さねばならないが、動揺した心がまだそこへ辿り着けなかった。
その時、ギルバーヂアの長い腕が動いた。ジョカルビは大きく身じろいだ。目の前でゆるやかに動いた鳥の腕が持つ鋭い爪が光った。それが瞬時、ジョカルビを戦慄に包む。しかし、爪は彼を無視してうぶ毛で包まれた腹を弄った。
安堵の吐息を吐いた瞳が、鋭い爪が握った物を何気なく見入った。
漠然と腹から現れたものを夢見心地で見入った。ジョカルビに輝く大きな太刀を見た。大の男が抱え込む大きな重い太刀だと脳裏が捕らえたその時、驚愕が彼を襲った。夢ではない。現実!!
『紫流剣!!』
声にならない叫びがジョカルビの口を吐いた。
「紫流剣?天と地を分けた伝説の剣なのか。この剣が天界と地界を分けた。伝説の勇者が持った時、鋼が紫と化し行く手を照らす・・」
 大きな両の手が支えるように持つ重い太刀を一目見たジョカルビの脳は記憶の襞まで一直線にたどり着くと刻みついた情報をギルバーヂアに教えた。人の心を願えば心が読める。新しいものを創ろうと思えば創れる。壊そうと思えば壊せる。しかし、使い手の質で違うとジョカルビの記憶がギルバーヂアにすんなりと伝わった。
「勇者が使えば勇者の剣、愚者が仕えはただの棒。魔剣にはならないが、人の命を絶つことは出来る」
「わしの命を絶つか。鳥よ」
「あなたのその頭には俺の求めるものがある。それをわざわざ、捨てることはない。使わせてもらう!」
「断る。自ら絶つことが出来る」
「俺もあなたと同じようにあなたを気にいっている。語り合える友だと思っている。あなたの代わりをほかの者にさせたくはないのだが、あなたがいやだと言うなら仕方ない。他の者と楽しむことにしようか?」
そこで言葉を切ったギルバーヂアは不気味な笑顔を見せるとさらに言う。
「王族・・継帝・・術師・・あなたの一族は地下にあふれる。毎月一度は一族が顔を合わせる日があるのか。その中には長老と名がつく呪い師が何人かいる。あなたには劣るが・・。新月祭は賑やかなのか?」
 ジョカルビは瞳を閉じた。問われている意味が分かった。膨大な知識を持つ者は幾らでもいるのだ。そして脅しに屈することない弱みを持たない者はいないのだと、分かるジョカルビは目の前に立ちはだかる者を見た。ギルバーヂアの顔から笑みは消えないのだと。
「お前さんは確かに賢い。出会いの時から変わらず持つ決意。信念を貫き通す強さ。鳥族のために生きるその意思が変わることなく何百年続くのか・・。鳥の王よ。わしが知る時の流れを語ろう。それでわしら種族の娘から手を引いてくれ」
「だめだ。娘はもらう。毎月・・もらう。卵は溢れるほどに手に入れる。俺の雛を。雛だ!雛が生まれてもうまく育つかわからない。だめなら、次を考えねばならない。知識が、あなたが必要だ!あなたの頭が・・」
 狂気がギルバーヂアを包み込んでいる。彼の一途がその心を壊していくのだと、ジョカルビもギルバーヂアの心と同じ悪辣を持たなければ、地界は滅びると感じ取った。

(3)


ルチアは待った。
ギルバーヂアが帰るのを待った。ここで俺の帰りを待っていてくれと、彼は言った。
 夫の言葉に従う。それが妻の務めだと、ルチアは彼女と同じ肌色をした不思議な岩場の空間を見上げた。高い天井がある。空はないが雲を感じさせる模様が重なり天井一面を覆っていた。滑りそうな光沢の岩は今まで見たことも無い模様を形に表し見詰めるものを招いていた。美しいとルチアは見回した。天井を支えるような柱が幾つも立ち上がっていた。その横に布のように垂れ下がった岩の重なりが見えた。尖がり岩が動物の牙のように一列に並ぶ先に上下に別れて並ぶ岩や、投げ捨てられたような不揃いの丸岩。波のようにうねる板岩を横に重ねた坂道が段々と遥か奥へ奥へと続く。水を貯めたくぼみが花弁を思わせる水盤がルチアの足元にあった。よどみない水は梳くって飲めた。
彼女は動かず長細い岩の上に座っていた。一人いる身が寂しいとは思わなかった。色を変える明るい空間が包み込んでいた。奇妙な岩の空間は微妙に色合いを変え、見詰める瞳を飽きさせなかった。
横には黒い実の群生があった。手を伸ばせば幾らでも実がもぎ取れた。
 ルチアは実を食べた。腹を満たすためではなく心を満たすために食べた。口を動かすと心に巣くった切なさも不安も掻き消えた。
 熟した実は深く頭を垂れる。年寄りはそう教えた。幼い子供を教えるのは村の年寄りだった。楽しかった記憶は朧だ。記憶のままに垂れ下がった実をもぐと口に入れた。感触も味もない果物だと感じた。それが心の渇きを収めた。実を食べ、時が過ぎゆくのを待った。
 何日も家を空けた男は帰らないと、年寄りは言った。男は新物好きだ。新しい女を求めて去っていく。女の腹に子が出来たら去っていく。我が子がうまく育てば良いが育たなかったら、子無しだ。子無しは、夫との縁が切れる。そうなれば、若い夫は次の女を連れてくる。
 心の怯えを推し量ったように、連れてきた。
若く美しい娘を連れてきた。年寄りが語る教えの中にいる天女のような娘を連れてきた。ルチアを抱えるように腕に抱き飛んできた。従順な娘は怯えも見せずに羽の間から現れた。胸が苦しい。ルチアに微笑む異世界のその姿に胸が締め付けられた。
美しい娘を先ほどまでルチアが座っていた場所に座らせる嬉しそうな夫がいた。たわわの実をもぎ女の口へ押し込む夫を見られない。見詰めたら心が壊れる。お前はもう年だ、妻の座を与えただけでもうれしいと思えと、悪辣な言葉を放つ夫の姿が心底から沸き上がった。彼も男だ。美しさ以上に、若さも求めるだろうと口惜しさが目頭を熱くした。
「あなたの目はいつも濡れる。何故だ?」
その言葉でルチアは我に返った。ギルバーヂアがルチアの顔を覗込んでいた。
辛いから、心が張り裂けそうだから、若い娘に嫉妬しているからとは言えない。
「寂しくなるの。心が、そうすると涙が出てしまう。一人ぼっちでいると悲しくなって涙が出るのよ。あなたが帰ってこないのでは無いかと・・」
「帰ってくるよ。いつも、あなたのもとへ。あなたの香りが、俺を離さない。いい香りだ。それにとても、綺麗だ」
跪いた腕がルチアを抱いた。その羽が頬を撫でる。満月のような銀の瞳が真っ直ぐにルチアを見詰めていた。曇りない瞳が真っ直ぐに見詰めていた。偽りのない顔だ。溢れる涙がまた頬を濡らした。
「まだ寂しいの?ルチア。頬が川のように光っている。俺といると悲しいのか?」
「いいえ、嬉しいの。人って、嬉しい時も涙が出るものなのよ。私、泣き虫になったのね。寂しかったから・・」
「もう寂しくないよ。ルチア。女達がやってくる。種族は違うがここで暮らす女達だ。あなたと一緒に、卵を産んでくれる。たくさんの雛でここが溢れるのだよ。俺は嬉しくて仕方ない。君も喜んでくれるよね」
「女!ここで暮らす女・・。あなたの?」
 ダイールの言葉がルチアを襲った。若い夫、彼の妻達。これからともに暮らさなければならなくなるのだと心が冷える感覚を覚えた。拒絶の心だ。誰にも渡さない。心の奥底に炎が揺らめいた。
「違う。鳥族の妻だ。仲間の妻達だ。ここで暮らし、この実を食べる。あなたと同じように」
 仲間の妻たち・・。その言葉が揺らめいた炎を消したが、不安が胸に広がっていく。
「あなたの妻になる娘さんではないの?」
「俺には、あなたがいる。あなたの匂いに包まれたい。今夜、月が上がったら・・」
「今宵?満月・・!」
 胸で何かが弾けた。一つではない二つ・三つも弾けた。吐息が喉を押し上げた。下半身がジワリとした痛みにも似た感覚に包まれた。
今夜は満月なのだ。野獣が盛る日。
嘴を持つ鳥だと分かる者達が空を駆け籠一杯の実を採って行った。それまで一緒だった若い娘を連れて行った。一人残されたルチアはまた涙が溢れてきた。その涙を拭くのはギルバーヂアの唇だ。
満月のような瞳の輝きが、ルチアを雄の盛りの世界へ導く。

3 命    (1)

 
雛親鳥。
鳥の風体が、ルチアに迫った。岩の上をピョンピョンと跳ねながら湯あみするルチアに近寄ってきた。怖さに息が止まりそうになった。
彼等の風貌は、まさしく鳥だ。毛のない鳥だった。しかし、その醜い風貌とは違い動作は緩慢で語りは穏やかに思えた。そして何より驚いたことは、彼等は世話好きなのだ。
彼等の役目は世話を焼くことだ。浚ってきた娘達の世話をすること。雛親鳥はルチアの姿を確かめると五人の娘達を連れてきた。そして、ルチアを見習う様に湯あみさせた。
雛親鳥は娘達の世話を甲斐甲斐しく行った。冷酷な種族とは思われないやさしさが娘達に注がれていた。
自ら動くことない心を無くした娘達には、雛親の手が確かに必要だった。雛親のほうも情熱を注ぐものに一心に尽くした。それはルチアにとって異様な光景だった。
若く美しい娘の間を行き来する嘴をもつ鳥男達。羽の抜け落ちた細長い産毛が長すぎる腕を疎らに覆い、天女を写し取った娘に触れた。醜く歪んだどす黒い顔が表情の動かない娘達を愛玩する姿は不気味以上の言葉では表せなかった。
細長い腕の何処にそんな力が隠れているのか鳥男は軽くルチアを抱き上げた。太い四本指がこんなにも器用だったのかと驚かされた。細やかな動きで髪を梳いた。服を脱がせ暖かな流水に浸け綿毛で身体をくまなく洗う。壊れ物のように丁寧にやさしく世話をしていた。
心を無くした娘達はコネアの実を食べ続けた。その中にハイアラードもいた。長がった白髪を短く切り揃えていた。肩の上で乱れる髪はやつれ果てた表情を映していた。滑らかな乳白色の肌が変わらず濡れたように光っていたが、耳や首を飾っていた色石はなかった。水晶のような瞳の輝きもなかった。差し出された実を黙って食べていた。
地下洞窟の中は時を告げる明かりはなかった。地上には形を変える月がいた。
月は空から姿を消したその朔の夜、ハイアラードが最初に苦渋の声を上げた。心底からの叫びだった。声は広すぎる風穴に響き渡った。その叫びに雛親鳥達は右往左往した。そしておびただしい血糊を見た雛親鳥達もけたたましい声を上げた。
「俺達の卵が死んでいく・・。何故だ」
「前と同じだ。雛は生まれない」
激しく力み下半身を血で濡らしたハイアラードがいた。そして次々に下腹部を抑えた娘達が苦渋の表情で叫びだした。それを見た雛親鳥達が罵る言葉を残して飛び去った。
ルチアは血を拭いた。泣き声を上げて血糊を拭いた。流産したと分かった。腹の中で子が育たなかったのだと。
苦痛に声を上げ続ける身体をただ抱き締めるしかなかった。大丈夫だと言葉を繰り返すしかなかった。
その時、ルチア――と名を呼ばれた。水晶の輝く瞳が見上げていた。
「石を、見つけて・・ほしいの。赤い・・四角い石。見つけたら、胸に乗せて・・、ルチア」
「どうして、私の名を知っているの?」
「夢が、教える・・。あなたが、私を・・幸せにする・・。赤い石を・・。お願い。ここの何処かに、必ず・・あるわ」
 激しい苦痛がハイアラードを我に返したのだ。しっかりと手を取り合った二人はお互いの気持を察していた。拐われてきた屈辱と異世界にただ一人取り残された二人の孤独が触れ合った。
「赤い四角な形の石ね。分かったわ。必ず、そうするから心配しないで、すぐ良くなるからね」
ルチアはそう言った。約束を守ると強く言った。
「輝く時は、すぐに過ぎる・・。切り捨て・・て」
苦痛を表す顔が、歯を食いしばってそう呟いた。砂漠の砂のように白い指がルチアの胸を差した。震えるその指が指し示す意味をルチアは分からなかった。
「あなた・・愛される・・時は、短い。忘れられる、前に・・」
私も?忘れられる前に捨てる?何を捨てるの?と思ったが深く考えなかった。娘達の叫びに気が動転していた。しかし他の娘達に血を見ることはなかった。
ルチアは探し出した。赤い石を探し出した。静かに眠るハイアラードの胸に置いた後、彼女は気付いた。
ハイアラードは生気を取り戻した瞳をルチアに向けて言った。
「ありがとう。ルチア。これで愛する人のもとに、行けるわ。ほかの娘達にも与えてあげて。彼女達も愛する人のもとへ、行けるように」
 微笑みを浮かべた顔が、はっきりした言葉を放った。
「異様な者を手にする前に、潔い決断をなさい。あなたの美しい時は一瞬に過ぎ、鳥はあなたの事を忘れる・・。あなたが狂気に包まれる前に、決意を・・」
ハイアラードの言葉は消えた。その心は幸せな場所を求めて旅立ったのだと分かった。
 胸に置いた赤い柱状の結晶が掻き消えていた。そして瞳を閉じたその顔は穏やかな笑みを見せていた。その顔とちがいルチアは震えた。
石は毒だ!手は赤い石を掴んでいた。片手でしっかり掴んでいた。無意識が、指を開いた。そこにまだ石があった。指から落ちた毒の石が音を立てた。
音はルチアの脳裏に響いた。異界の娘達の自害用の石だと。
地に横たわった異界の種族を見詰めたルチアは、彼女は望みの死出へ向かったのだとはっきりと悟った。そして自身の未来を考えた。
 夫に忘れられる時が来る。老い果て醜く化した自身を思い描き震えた。ハイアラードが呟いた言葉が胸に響く。
 忘れられる前に、と。

(2)

 ルチアは本当に身ごもっているのか分からなかった。身体の不調は消え去っていた。異界が自分を変えたのだろうかと思った。熟した木の実は美味しかった。他の食が欲しいとは思わなかった。娘達のように心を無くしてはいなかった。自分の足で、自分の意思で歩いた。
 階段のような岩場を歩いた。重なりあう平岩の間に立ち上がる霧を目指して歩いた。ルチアはゆっくりと岩を跨ぎ水の溜まったその中に足を浸した。暖かい。衣を脱ぐと岩の間の溜り湯に浸かった。満月の余韻が今だ身の内に残っていた。羽に包まれ何度気を失ったのだろうと、余韻が残る内股を洗った。そこは熱い。足が感じる温さよりも水が冷たいと感じた。胸は熱くたぎっていた。吐息が何度も口を吐く。毎日抱かれたいと身の裡が熱く重苦しい。だが、それを言い出せない形相を呈した無言のギルバーヂアが、ルチアの前に五人の娘を残して去った。
 その不満が赤い石を探し出したのだろうか。
 娘達は二度と瞳を開けることはなかった。ルチアは口を閉ざしたまま月が太るのを待った。ギルバーヂアは月が太るごとに焦った。卵を産む者が居ないのだ。
 執念はやはり地の一族に向いた。ジョカルビに向いた。
「最後の一人になっても、もらっていく」
ギルバーヂアはジョカルビに迫った。女を後十人寄越せと。
「三月も待てば生まれてくるだろうに。何を焦る。年に二回は雛が生まれてくる。待てば良い。娘達は天性の実を食べ、卵を産む。今年は五人の娘で終わりだ。これ以上は、娘はやらんぞ!どんなに脅されてもな!」
「お前の娘を連れてこようか。会いたいだろう。お前の目の前で雄種鳥を侍らせようか?」
「合わせて貰おうか。鳥の王よ。それだけ。焦るには何かあるだろう」
ジョカルビは動かなかった。鋭い爪に目前を塞がれてもピクリとも動かなかった。鳥族と同じ心境で見定めよと強い意志をもって望んでいた。
「娘達に卵を産む、意思が無いのだろう。強く望まない限り実は結ばぬ。あきらめることだ。地界のどの部族も娘等を隠す。満月の前は特に綿密に気を配って地上には出さない。各種族が暗黙に決断した。我らも同じだ!」
ジョカルビの語気は強い。真意が見て取れた。思い通りにはさせないと。
「地界の奴ら・・」
鳥の黄色い顔が紅潮した。怒りが顔貌をはっきりと変えた。吊り上げた眉間がピクピクと震え乾いた声を上げる。
「我らだけが滅びる・・。そんなことはさせない。そんなことをしたらダイールが恨む」
「同じ地界人であっても異種族だ。食が違う。わしらは石食い。海族もそれに近い。食が違えば身体の創りも違う。娘等にお前達の卵を育てる場所がないのだ。だから卵は死んでしまう」
「命の実は役には立たないのだな。地界のどの種族の娘が食べたとしても卵は生まれないのだな?」
この問いにジョカルビは答えなかった。答えなくとも伝わると、押し黙ったまま鳥の表情を見ていた。彼は引き下がらない。だが、渡さない。すんなり渡せば、必ず若い女を要求し続けると・・。拒否し続ける。しかしいつかは、鳥族全員が団結して襲ってくる。
今までであれば防げたであろうが、ギルバーヂアの身体には剣がある。天帝が守っていた太刀がある。それをこの地界で振るえば地界が消滅する。
ジョカルビの記憶がそう言った。避けなければ、鳥族が滅びるよりも恐ろしい事態が起こるとジョカルビはじっとギルバーヂアの言動を見ていた。すると、か細い声が流れた。
「俺だけが卵を持つことを許さない・・」
俺だけ!その言葉に、ジョカルビは衝撃を受けた。すでに卵を産む者が居る。それもギルバーヂアの雛だ。
「お前さんに卵が産れるのか・・。相手は誰だ」
今度はギルバーヂアが黙った。彼の瞳だけがジョカルビを見た。ギョロリと。
「天界の女だな!剣と一緒に持ち帰ったのか」
睨み付けていた瞳の強さが揺れた。目を細めた眉間が苦悩を表したと感じ取ったジョカルビは、口元に笑みを浮かべて言った。
「お前さんにも、弱い処はあるな。鳥族が持たない愛。固有の者を愛する心を持った」
ギルバーヂアの全身が強張った。そう感じ取ったジョカルビは、更に言った。
「愛しい者を胸に抱く。やすらげるだろう。穏やかな心地が胸を覆い尽くす。いつまでも抱き締めていたいであろう。だがな!鳥族の歴史はそうあってはならない。お前さんが頂点を極めるためには不要じゃ。不要!楽しみだ。お前さんがどうあがくのか」
 足掻く。俺が足掻く?何のために・・?卵のためにだ!卵を持っている者のためだ。しかしそうなのか?
ギルバーヂアははっきり困惑を表し、ジョカルビを見詰めた。その勝ち誇った顔が告げる意味を考えた。
奪われたくない、失いたくない、それが愛?ルチアが、はっきり言い放った言葉が蘇った。
『この人を、愛しています』
今胸が持つ不快な心地の事なのか?ギルバーヂアは自身に問いかけた。その姿を確かめたいと思う気持ちが愛なのでろうか?
「この不可解な心地が愛か?不要のものか?」
ギルバーヂアはジョカルビではなく胸に聞いていた。胸がカチリと音を立てた。今は必要だが何れ不要になる者だと剣は教えたのだ。同じ種族ではない者は、同じ時を過ごせないと告げたのだ。
「ルチアを捨てろ・・と言っているのか?あいつは俺の帰りを待っている。いつも、いつでも。俺に居場所を知らせるために火を焚いて俺を待っている。早く帰ってやらねば、俺の卵が寂しがる…。俺はこの腕がある限りあいつを抱き、あいつを守る!」

(3)


鳥族は腕に羽を持たない幼い鳥を雛鳥と呼ぶ。雛鳥は雛期から成長期を経て雄種鳥に成長し雛親鳥になる。卵と雛を育てるのは、壮年となり飛ぶ力が衰えた男鳥だ。
雛鳥は雄雌の区別なく巣穴で育てられた。しかし雄の男鳥は雛期を過ぎ成長期に入ると、雌の女鳥と異なった成長過程で育っていく。
女鳥は白銀の羽が生え揃い声変りを迎え成人する。それまで巣穴から動かずにいるが、男鳥は成長期に入ると直ぐに巣穴を飛び出し、餌を捕るために地を駆けまわった。まだこの時期の雛は空を飛ぶことは出来ないが、腕を振り上げ細い足で地を駆ける。この成長期はいずれ翼となる両腕を使うことで身長よりも遥かに長い腕を持てた。そして成長期を終えると、長い腕に見事な羽が生え揃う。大空を羽ばたけるのだ。雛鳥は待ち構えたように空を目指すがまだ羽は弱い。思うように風を掴むことが出来ず苛立つ心が、強い翼を持ちたい懸命に腕をはためかした。空を飛ぶことに憧れていた雛も、やがて成人の時を迎えた。雛ではない男鳥の証が肩翼だ。身を覆い隠す翼が肩から反り上がって生え揃ったのだ。肩翼は傷みも違和感も無くむず痒い感覚で何時の間にか生えていた。それは急速に伸び羽が飛び出たように生えた。
男鳥は四枚翼を持つと、種を継ぐ熟年期に入り雄(お)種(す)鳥と呼ばれる。種を撒き種族を外敵から守ることを役目とした。だが彼等もやがて年を取ると雌鳥が産んだ卵を守り雛の世話し育て上げる壮年となり雛(お)親(や)鳥の役目に徹する。壮年の男鳥は命を捧げるように雛鳥を育てた。
この雛鳥が成長期を終え成人したと見て分かるのは、全身を包み込む肩翼を持った時だ。二つの肩翼と二本の腕を合わせ四枚翼が鳥族の証。天の一族だ。
天の一族の寿命は五百年から七百年、永らえる者は千年の命を持つと言う彼等は地界のどの種族より長寿だ。だが彼等の生存率は低い。それは翼だ。空を駆ける強い翼を持たぬと生き抜けない。成長期を過ぎた足は地を駆けることが徐々に出来なくなり平均を取るだけの物になっていく。生き抜くためには、空を駆ける強い翼と餌を捕る強い意志を持つことが必要だ。
女鳥達は男鳥が与える獲物を食べ、卵を産むことを生涯の仕事としていた。しかし宿命を負ったように卵を産み落とせば、次の相手を探しに命が続く限り夜空をはばたく。卵を産んだことすら忘れたように夜空に向かい清涼な声を上げる。小さな嘴を大きく広げて美しい声を張りあげて歌い続ける。澄み切った細く悲しい声音は星の煌めきに届きそうなほど高く響く。さらにその見事な羽は男の心を惑わし、やがては餌とするのだ。
雄を誘う呼び声は風に乗り魂を燻る音律となり男の心を誘い惑わす。
今滅びに瀕した鳥族の若い雄種鳥は、雌鳥ではない熟年の女を手中にした。
天界の女が孕んだ――!
新しい記憶が脳壁に吸い込まれた。ジョカルビは滅びの種族が宿命に逆らったと彼の記憶の宮に書いた。死の淵から蘇った血は宿命を敵とし血を繋ぐと。
若い鳥は新たな性質を持った。種族にない感情だ。生き延びた血が種を継ぐために生まれた感情だろうかとジョカルビは迷路の記憶を刹那に廻った。
彼等の特質は卵に執着する。執着が愛に化けたのか?それはそれで良い。問題は確実にギルバーヂアの女が腹に子を持ったことだ。それを無事に産ませられれば、種族は安泰だ!
彼の脳に閃光が走った。記憶の襞は餌をついばむ雛の姿を描いた。口を大きく開けた雛の口に小さいが鋭く硬い嘴が光る。その口に雛親鳥は口移しに食を与える。食がなければ生きられない。どの種族も同じだと、ジョカルビの冷えた心が震えた。
我等は石食い。鳥族は肉食だ。食が違えば種を育む宿が違う!
種を体内で育めるはずはないと、激震のジョカルビは確信した。
『鳥の相手は雑食の人間だ』
種族の安泰。鳥族に娘達を捧げる御仕着せがなくなる。地界のどの種族からも恐怖は消え去る。
研ぎ澄ました脳は冷たい覆いを被った。地界だけの平穏を願う覆いが記憶の宮を覆った。
『必ず、産ませる――』
ギルバーヂアの異質な感情を利用する。それが己の種族を守り、やがては地界の平穏に繋がる。繋げなければならない!
「雛が欲しければ、天界を目指せ!」
ジョカルビは強く言った。
「食の合う相手を探し出し、種を付ければ得られるぞ。雛だ。お前達が欲してやまない種族の雛だ。産んでくれるのは、人間の女だ!天界に住む種族は鳥と同じ雑食だ。食が合えば、種と卵も合う。雛が生まれる!」
ギルバーヂアは身震いした。
天界の種族は地界の種族のように異なる種族の集まりではない。同族が幾つかの群れを創って暮らしているのだ。ルチアと同じ種族が何万という年頃の女は抱えて暮らしているとジョカルビは言った。
柔らかな身体を持つ女が、良い匂いを発して男が種を付けてくれるのを待っている。そうであろうと耳に口づけた声が囁いた。
その通りだと、ギルバーヂアは柔らかに息を吐いた。ルチアは孕んでいる。そしてギルバーヂアの卵を産む。他の女達も腹に卵を隠し持っているのなら、それを貰う。貰えば良い。貰えと腹の中でカチリと音が鳴った。
「どうすれば天界に行ける」
ギルバーヂアは早口で聞いた。直ぐでも女を手に入れたい。その焦る気持ちがジョカルビに迫った。鋭い爪が目前で光った。
「一日の猶予をくれぬか。海王バジュラも相当の物知りだ。」
「バジュラ・・。彼は俺に好意を持たないだろうに、知恵を授けってくれのだろうか?」
「彼も種族の娘を鳥族の嫁にする気はない故、良い知恵を授けるだろう」
嫁?海底深くに住む海族の娘達を容易には浚えない。どの種族も用心して娘を住処から外へは出さないと聞けているはずだ。海族の娘達が一番安全な場所にいて地上にいる鳥族に浚われる危険性はないと、乙女心を知らないギルバーヂアは思っていた。
海族は魚ではない。長い二本の足を持っていた。足趾(あしゆび)の爪は無いが桜色の花弁のような水掻きを持ち、身体を支え地に立つことが出来た。喉に鱗の器官を持ち地上でも息をすることもできたが言葉を発せなかった。
天界も地界も人の形はほとんど変わらない。二本の手足と頭と胴体で地に立つことが出来る。口を持ち食し言葉を話す。男と女が居て子を持つが、異種族婚は女の種族に男が嫁すことが多い。それは女人の生殖器が子供の種族を決めるからだ。食物の違いで女人の姿が少し違った。ちなみに地の一族の女人は乳房を持たない。必要ないからだ。
海の底に住む乙女達は、空が好きだ。
かわたれ時や黄昏時に色を変える空を眺め、輝く黄金の月が形を変えるのを確かめ、煌めく夜空が宝石箱を開けたように輝くのに胸を時めかせた。風に煽られるのも、雨に打たれることも好んだ。外の世界で一日の時の流れを見詰め季節を知る。
この海族の乙女達は千年の時を過ぎても、空を見上げ心時めかす習性は変わらない。これから千年の後に生まれる、天界の水の民シュエレン族の王子アルクセイの母も夜空を大いに好んだ。そして月の輝きと夜空に魅せられ、ギルバーヂアがこれより創る天界と地界の通路で生まれた歪が連れて来た人物に恋するのだ。
金色の髪と空の青い瞳を持った船乗りの王に身を捧げる恋をする乙女が、海王バジュラの来孫だ。各種族は未来栄光に血を繋げと、熱き血潮を波打たす。
海の乙女は月を眺め、熱き恋に胸時めかす。幾百年の時は流れても、命を継ぐ者達は変わることなく寄り添う相手を求めるのだ。
求める心を知るギルバーヂアは、ジョカルビの言葉に頷いていた。外界に贄を求めるのであれば、海王バジュラも知恵を貸すと彼は新たな希望に胸を沸かせた。予見の業を持たないギルバーヂアは、彼の孫を脅かす相手を知ることはない。

月の巫女Ⅲ 月の涙 第三章 誓い

月の巫女Ⅲ 月の涙 第三章 誓い

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-03-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 〔1〕 反故 (1)
  2. (2)
  3. (3)
  4. 2 天地の扉 (1)
  5. (2)
  6. (3)
  7. 3 命    (1)
  8. (2)
  9. (3)