月の巫女Ⅲ 月の涙 第二章 天界
[Ⅰ]女
1)
怯える事無い女の横に、干乾びた死体が転がっていた。
「ルチア‥」
彼女は、そう答えた。
青く澄み渡る空の下に、壮大な黄色い砂地が真っ直ぐに続いていた。見る者は絶景だが砂地を越え行く者は苦難だった。四方を砂地が覆う大地に立つ彼女は祈るように天を仰いだ。
風が無かった。砂漠の砂が襲う恐怖は無かったが、目の前にいる者が何時自分を襲わないかと恐怖があった。恐怖に勝ちたいと彼女は思った。
彼女の名はルチア。三十路を過ぎ、一心に尽くした嫁ぎ先から追い出された女だった。後から嫁いで来た若い娘達が次々と子を成していったがルチアは成すことが出来なかった。
子無きは去る。それが買い取られた種族の掟だった。掟に従い三度嫁いだ。そして、四度目の身売りだ。三十路を過ぎた子の産めぬ女を嫁に買う男は見つからないだろうと覚悟を決めていた。
ルチアが暮らす砂の民は、嫁を金で買うのだ。嫁の数が金持ちの証、子沢山が富の象徴だった。
子が出来ぬ女は不要だと今度は品物と交換された。
ルチアが生まれたのは風の民が暮らす山岳に近い平地だったが貧しかった。それ故、当然のように商人の集落市に出された。豊満な肉体と整った顔形が高値で売れた。十六の時だった。実家の長男はその金で二人の嫁を貰った。
女は売り物。砂漠の民の掟は嫁いだ女は二度と実家に戻れないのだ。ルチアは三度婚家を移った。そして今度は砂漠を二日歩き続けた辺境の集落が婚家となったと知った。
貧しい辺境の集落へ嫁入り。それに似合う男が目の前に立った。
着古した長衣を着た壮年の痩せた男は、垂涎の眼差しでルチアを見た。子が出来なくてもその身があればそれで良いと、男の目つきが言っていた。それで良いと彼女も思った。
今度は追い出される事は無いだろう。幼い時の貧しさは身に染みていた。それ以下の暮らしであっても耐えられるとルチアは静かに安堵の吐息を吐いた。彼女の腕を掴んだ男はぴったりと身体を寄せた。指が女の体を確かめるように長着の中の胸や尻を弄る。
しかし砂漠の道中に欲望を満たしてはならない掟に守られ、男と一夜を砂地で明かしたルチアは目の覚めるような青空を足早に歩いていた。
日が天上高く上がり、冷えていた大地が急激に熱く感じられるようになった頃だった。
突然叫びが聞こえた。それは人の雄叫びのようでもあり、獣の鳴き声のようでもでもあった。
二人は驚き、咄嗟にその声の聞こえた方向を見上げた。
二人は、真上を見た。蒼穹の空が高く広くあった。奇妙な音はあるが瞳に映るものはない。四方を伺うルチアは絶叫の叫びに身を縮め立ち尽くした。
そこへ何かの塊が突然、音を立てて落ちてきた。それは連れ添う二人の前に、音をたて砂埃をまきあげて落ちてきた。
“それ”は、砂にまみれた灰色の塊は、ゆるりとした動きで大きく見事な翼を広げた。
鳥!大鳥が天から落ちてきたと二人は思った。だが、それは人の形をしていた。
「大天使‥天界のお方!」
ルチアは叫んだ。しかし、ルチアの手をしっかり掴んだ男は震える声で言った。
「魔神‥だ」
怯えを表した男の手は、腰の刀を抜いていた。彼は恐怖に心乱し、闇雲に“魔神”に斬りかかっていった。振り上げた刀は無防備に立ち尽くす者の腹を割いたと見えた。だが、鋭い金属音が響いた。その時、ルチアも奇妙な鳥の形をした者が魔神だと察した。
ルチアは悲鳴を上げた。羽根がピクリとも動くまもなく刀が胸を切り裂いた。ガシャンと金属と金属がぶつかる音がした。男は狂ったように刀を振り回した。その度に魔人の身体は鋭い金属音を立てた。
魔人の身体は鋼だと気付いた男はやっと構えた刀を落とした。太刀打ちできないと刀を落とした時、魔人の両翼が大きく波打った。すると、男の身体が空に舞った。
男は叫んだ。空に向かって助けを求めて叫んでいた。奇妙な翼を持つ者の口が裂けるほど大きく開いたと見ると、中から蠢く赤い舌が現れたのだ。空中にある男が恐怖の叫びを開けた時、ルチアも同じ叫びを上げていた。
魔神が怒った、と――。
砂の大地にへたり込んだルチアは頭を抱えて大地に蹲った。聞こえて来る音に耳を塞いだ。
魔神は人の血を吸う――。次は彼女の番だと心を決め固く眼を閉じ無心に祈った。天上にいる女神に助けてくれと一心に祈った。そこにドサッと物が落ちる音がした。音に無意識が、彼女を振り向かせた。
真横に横たわったモノを捉えた瞳が凍りついた。
眼を剥き恐怖に歪んだ顔がルチアを見ていた。咄嗟に小さく悲鳴をあげたルチアは後退った。そして、何かにぶつかりそれに縋り付いて立ち上がろうとしたが立てなかった。奇妙に歪んだ白い屍体から、逃げ出そうと手足をばたつかせたが動けなかった。恨みを込めた男の顔は大金をはたいてお前を買った。お前は俺の女だと言うように睨んでいた。その顔から眼を反らすと、今度は魔人の顔があった。息が止まる思いのルチアは恐怖に身構えた。
鳥のように出っ張った丸い眼瞼に包まれた銀色の大きな瞳も、彼女を見ていた。分厚く太い唇と高い鼻を持つ男の顔は鳥に間違いなかった。その身体は全身を覆い隠す真っ白い羽毛に包まれ、四枚の大きな翼を持つ鳥の魔人だ。
不気味な光沢の銀の瞳に見詰められたルチアは、天に捧げる言葉を呟いた。助けを求める言葉を天に向かって叫んでいた。
――助けてくれるなら何でもする――
と、祈るルチアの顔に魔人が翼を伸ばしたその翼で起きた風が吹き付けた。魔人ははためかせた翼を畳んだ。すると翼の先の鋭い爪が顔を上げたルチアの目前で光った。その途端、彼女の祈りは魔人へと移った。彼女は魔人の足元にひれ伏して心の中で叫んだ。
――命を救ってくれるならあなたの僕になる。助けて、助けて――と、その肩に羽根が触れた。
「ここは何処だか、教えてくれないか?」
はっきりと聞き取れる声がそう言うと砂の上に座り込んだ。
「砂の大地。ヘルガの町と風の大地の中間辺り‥」
魔人の言葉が恐怖を取り去った。ルチアは何故かはっきりと答えを返していた。それは、魔神が人と同じ言葉で問うたからだ。彼女は優しげな物腰に驚いていた。男から優しい言葉を掛けられるなど、生まれて初めてだった。
大きな銀色の瞳がルチアを見据えた。曖昧な地理しか知らないルチアは、それ以上は言えなかった。
「そうか。ここは天界か」
そう呟いた魔神は小さく翼をたたむと、肩を覆う翼の中に腕を隠した。綿毛の様な短い白い髪が立ち上がって風に揺れていた。大きく見開いた眼がルチアを見据えていた。その顔には野獣の様な獰猛さは感じられなかった。
身を縛る夫となる男はもう居ない。夫に仕え家に仕える日々から、つかの間でも開放された。集団で暮らす一族に嫁いだ嫁には安らぎの時はない。一刻でも人の目を気にすることない安らぎがあればと、何時からか心の片隅で思っていた。そのためか魔神に対する恐怖は薄れた。
「あなたは、卵を持っているのか?」
魔神は名の次にそう聞いた。
「卵‥?」
ルチアは分からず首を振った。
「俺は天界に住む白の地帝に会いに来た。白の一族の土地は何処にあるか、教えてくれるか?」
それもルチアは知らない。
魔神は砂の上で長い間考えていた。その間、ルチアは動かなかった。頭から陽射しを避けるために布を被った。砂地は急激に気温が上がる。それを知る彼女は干乾びた男の腰から水袋と食料を取り上げると肩から下げた袋にしまいこんだ。婚家を出る時持ち出せたのは花飾りの付いた象牙の櫛と対の耳飾りだけだった。それを袋から取り出した手はゆっくりと丁寧に撫でていた。笑みを浮かべた自分に気づいたルチアは慌ててその品を仕舞いこんだ。
「この大地は‥俺に合わない‥何処かに、湿った大地がある所へ‥」
魔神は乾いた声でそう言った。口元から乾いた舌が覗いていた。気温が急激に上がっていた。眼を細めた顔が苦痛を表していた。ルチアは水袋を差し出した。砂の上で暮らす民は日中頭から布を被り陽射しを避ける。布もなく上半身裸の魔神は熱さに強いか、それを知らない異邦人だろう。
本能がそれを水だと感じたのか魔神は素直に受け取った。その時、鋭い爪が白い指に刺さった。血が滴り落ちると、魔神の口がそれを受けた。
ぞわりとした戦慄がルチアの背を走ったが、直ぐに下半身が熱くなる感覚を憶えた。ざらついた舌が指に絡みついた。その感触が身体の奥に張り付いた。ゴクリと唾を飲んだルチアは魔神と瞳が絡んだ。彼の方も驚いた表情でルチアを見ていた。
魔神は吸い付いた舌を離すと言った。
「水の湧き出る所は、何処にある」
舌の余韻が残る指を見たルチアは驚いた。痛みも傷もなかった。彼女は天を仰ぐ魔神の横顔を見上げ、乾いた喉を鳴らして言った。
「良く分からないが、ここから近いと思う‥‥」
ルチアは四方遥かに続く丘陵を見回し自分の後の短い影を見た。そして前を向いて言った。
「影と反対の方向へ真っ直ぐに行く。草原が見えたら泉が湧いている所がある」
男は夜を明かした場所を離れる時、泉で食事をすると言っていた。砂の民は一日二回の食を摂る。昼前と寝る前。昨夜は少しの食を貰えたが朝から何も口にしていなかった。飢えがあった。飢えを凌ぐのは水だ。彼女も水を欲していた。二の刻も歩けば草原が見えてくるだろうとルチアは思った。
魔神は飛び立った。飛び立とうとした魔神は、何故かルチアを二度振り返った。一瞬振り返った顔が、何かを思いつめたように考えこみしばらくルチアを見ていたが、やはり飛び立っていった。
殺すか助すけるかを考えたのかと、彼女は思った。そして、助けてくれたのだと‥‥。
ルチアは魔神が飛び立った方向へ歩いた。すでに水袋は空だ。泉に辿り着けばなんとかなると考えた彼女は乾いた砂の上を急がず止まらずゆっくりと歩いた。だが足は止まってしまった。
夜の夜気で湿っていた砂は、乾いた空気と照りつける陽射しで乾ききってしまった。乾いた砂は慣れない足取りを更におぼつかなくさせ、急く心を更に急かせた。
日光と砂が旅慣れない彼女を襲う。熱さに悲鳴を上げ、よろよろと歩く足が止まると倒れた。
日は高く、砂は熱く、横たわった身体を熱していた。額に浮く汗も無かった。身体の火照りだけを感じた。だがそれも感じなくなった意識は助け手を求めゆっくりと遠のいていった。
闇が覆う中で、冷たい物に触れた。無意識が口を開けていた。流れこんできたものを飲み込んでいた。誰かが差し出した水袋を無意識に掴んでいた。貪り飲んだ。すると光の世界が開いた。
光の中に立つ者がいた。翼が見えた。
魔神――。
ぼんやりと眼に映る姿に涙が溢れていた。
こぼれ落ちる涙と共に飛び付いていた。すると、ガッチンと金属がぶつかり合う奇妙な音が抱き締めた腹から響いた。その音に驚いたのはルチアだけでは無かった。魔神も驚きを隠さずに言った。
「良い物を‥俺に似合った、よりよい物を贈ってくれたのだな。それが貴方方の真心なのだな‥」
魔神は天を仰いで言った。
2
魔神は、確かに魔物だった。鋭い爪で野生の獣を捕らえると血を吸った。長い舌のその先端は更に長いひょろひょろとした管を隠していた。それが真っ直ぐに伸びると獣の首を突き刺した。そしてジュルジュルと奇妙な音を鳴らし、血を啜った。鋭い爪が肉を割き臓物を取り出すと食らいついた。恐ろしい時をルチアは眼を閉じて静かに待った。彼女の住む砂の民達も生肉を食べる習慣があった。それは年に一度の祭りの時、神に捧げるため家畜を殺すのだ。その時、割いた腹から取り出した肝の臓を男達は分け合って食べた。血は神に捧げ、肉は丸焼きにされた。
一日神に祈りを捧げる間、女達は火を炊き続けた。
ルチアは火を起こした。魔神が投げ捨てた獣を焼いた。
ここは風の民が住む山岳の何処かだ。泉から魔神の胸にしがみつき夢の中の様に夜陰の空を飛んだ。夢では無いと綿毛のような羽が風に煽られて顔を擽った。必死で捕まっていなければ空中から落ちる恐怖で、山岳の沢に着き地に足が付いた途端、安堵で足が萎えルチアは座り込んで自身を抱きしめた。
何故その場所を魔神が選ったのかルチアには分からなかった。岩山を目の前にした林の中に緩やかに降り立った。鬱蒼とした薄暗い場所。しかしそこは、小屋を立て暮らしていける物が周りにあった。枯葉に薪になる枯れた木々も岩の転がった広い沢もあり水浴びも出来た。
魔神はルチアの裸体を見ても何の興味も示さなかったが時折側によると首筋に顔を寄せ、匂いを嗅いでいるのか柔らかな首を確かめているのか分からない仕草を見せた。何時かは彼の食になる。飢えた時の餌。怖さが背を走ったが、今は周りに獲物がいて飢えることが無い。命は繋がっていると分かると夜の寒さを凌ぐため魔神の腕の羽に抱かれて眠った。魔神もそれを嫌がらなかった。
魔神が何かを探している事がルチアにも分かった。青空を見詰める眼がそのまま星空を見詰めていた。そして、ルチアを置き去りに飛び立っていった。彼女は焦らなかった。魔神の残した獲物があった。獲物を焼く。それが与えられた仕事のように薪を集め生木を並べ肉を燻した。
ルチアは明日を考えた事が無かった。今を生きる。それが砂に囲まれた種族の本質の様なものだった。今を生きて明日がある。魔神に置き去りにされたとしても殺されたとしてもかまわなかった。明日に希望を持たない。だが、もし、魔神が帰ってきてくれるのであれば――。
魔神が飛び立って二日目の朝、雨が降った。細い霧の様な雨だった。出来上がった燻製肉を袋一杯に詰め込み薪の枯れ木を一本握ると彼女は歩き出した。火を消してはならない。
直ぐ近くの沢へ向かった。急な坂を、木々を伝い沢へ下りた。すると切り立つ灰色の岩壁が見える。岩壁の上には緑の雑木が並び、その間から細い滝が白い線の流れを描き岩場に囲まれた水面を繋いでいた。そこから遥か頭上には霞が緑一色の峻険の山脈を隠していた。
ルチアは断崖が創る風穴へ飛び込んだ。中は乾いていた。長年積み重なった枯れ葉と枯木が散乱した細長い空間が奥へと続いているのを闇に慣れた瞳は見た。闇の奥を見詰める瞳は怖さを憶えた。鎮まり返った空間に外から突きつける冷たい風が戦慄を呼ぶ。
薪はまだ燻り叩くと火の粉が散った。枯れ葉を集め薪の燠に覆いかぶせると息を吹いた。うまい具合に火は燃え上がった。ルチアはホッとした。すると涙が溢れて来た。今まで、集団で暮らしてきた彼女は激しい寂しさに襲われていた。
火を絶やさない。煙燻る枯れ葉を集め懸命に火を焚き時が流れるのを待っていた。雨が止めば帰って来る。帰って来なければ沢伝いに歩いて行こう。
明日になればと、初めて明日を願った。
だが、帰ってきた。ばさばさと羽がはためく音がした。
心弾かせたルチアはその胸に飛び込もうとした。しかし、立ち上がった足が止まった。薄闇は魔神の顔をルチアの瞳に写さなかったが、その雰囲気が違うと感じた。柔らかに感じていた彼の雰囲気が冷気を放っているように感じたルチアは後退った。
「雨が上がったら、北へ行く」
魔神はそう言うとルチアの肩を掴んだ。一緒に来いと。頷くルチアの前で魔神の口が大きく開いた。そこから太い舌が現れるとニュルリと波打ち細い首目指して伸びた。
魔神の丸い瞳が闇の中で光った。
それはまるで満月の様な輝きだった。
(3)
「この身に何かが宿った。この震えはお前が与えたものだ」
魔神の腕は、確かに震えていた。ルチアの肩を掴んだ手の震え。寄せた顔が頬で揺らす額羽。耳に掛かる荒い吐息。
彼女には言葉の意味は分からなかった。分かるのは間近に迫った死の恐怖だ。魔神が本質を表したと感じた。
耳がニュルリと発した音を聞いた。戦慄が背に走った。太い舌の先端から細長い管が現れる音だ。瞬時、波打った身体は逃げよと告げた脳裏の言葉に身を捩った。しかし、鋭い爪が目前を防いだ。指が顎を掴んだ。項がねっとりとした熱い舌を感じた。
彼女は生き血を吸われるかとグッと眼を瞑った。
舌が首筋に張り付いた。そして、細長い管が、肌を滑り胸の間に滑り込んだ。それは乳首に絡みつくとグッと閉まった。その途端、死の覚悟を決めたルチアの胸中でパチンと何かが弾け、そこが急に熱くなった。
「心の奥まで届く香りだ。こんなに、良い香りを嗅いだ事がない‥」
香り――、私に香りがあったの。ルチアの胸をなんとも言えない柔らかな心地が包んだ。男が称える言葉。私の身体は香り良いと、初めて聞いたのだった。更に魔神はルチアを褒めた。
「貴方の肌は、素敵だ。暖かく、柔らかい‥」
言葉が更にルチアに感情を高めた。私は安値の女じゃない。私は良い女よ――。
魔神の長い腕に掴まれた手が反することなく身を開いた。細長い舌の管は器用にルチアの身体から衣を剥ぎ、うねりながら二つの乳房を弄んだ。まもなく立ってはいられない心地よさが身の裡を震えさせた。意識が遠のき膝を崩した。脳裏が衝撃を受け記憶が飛んだ気配だった。その耳に魔神の優しい声が響く。
「貴方は素敵だ。とても、良い‥。とても、素敵‥」
言葉は魔法か。ルチアの脳裏に恐怖はない。魔神と姿もない。あるのは高なった感情を分かち合える相手。
彼女は声にならない言葉を漏らしていた。宙をもがいた指が硬い耳を掴んだ。長い産毛が立ち上がった大きく細長い葉っぱ形の耳を掴んだ意識は暗い夜陰に落ち込み朦朧となっていた。
舌の先端から飛び出した管は血を吸うだけのものでは無かった。その管はぬめりを持ち柔らかな感触でゆったりと乳房の上で蠢いた。それは身悶えるルチアをよそに、更に下腹部を目指して這っていった。
身体に巻いた長い布が散乱した落ち葉の上を覆った。そこへ長い腕に支えられた身体が細長い管の感触にたまらず崩れ落ちた。
身体の芯が熱い。しっかり閉じていたはずの両足が自然と開いていた。腰布から太腿が覗くと彼女は分かっていた。恥じる行為だと感じながら股を突き上げていた。指は人ではない異質の羽を感じていた。柔らかな羽根を掴んでいると、魔神の行為を受け入れていると、戒めの行為だと。だが、羽毛が、乳首をくすぐる羽根が、肌を蠢く触覚が脳裏の記憶のすべてを消し去った。願うのは唯一つ。火門の燃え上がった炎が燃え尽きるまで紅蓮の炎がこの身を焼きつくすまで燃え尽きたい。
ルチアは顔を振り、声を絞り上げた。逆巻く炎の如く声を上げ続けた。ルチアの望んだ通り触覚は会陰を這った。太い舌がその奥へと滑り込んだ。
受け入れてはならない行為に喜びを表わし、どれほどの長い時が過ぎたのか、朝の光を浴びても喉の渇きを満たすと、また飽くことなく受け入れていた。空腹を満たすとまた、お互いを意識した。
「いい匂いだ。匂いが貴方を放すなと言っている。心が解けていきそうな安らぎを感じる」
喘ぎ声を漏らすルチアに、魔神は何度もそう言った。
天上に登った橙色の輝く満月が、眩しい日の光になった。それでも魔神は、ルチアの身体を離さず貪っていた。陶酔しきった意識が唇を重ねお互いの舌を絡めた時、男の触手が熱くほとばしった中に滑りこんできたのを感じた。
〔2〕 受胎
(1)
魔神は、彼女だけの夫だ。今までの夫は、妻達の共有だった。同じ部屋に何人もの妻を囲い、好きに夜の相手を選っては妻達の前で行為を為す。それが子を為す女の仕事と割りきったルチアもそんな夫に何度も抱かれていた。
妻達は姉妹、食を分かち合う家族。助け合い夫に従って生きる。これが女に与えられた決まりだった。それでも嫉妬の眼差しと蔑視を感じていた。ルチアも他の女達と同じように嫉妬が胸の奥に揺らいだのを覚えている。自分以外の女が夫に愛される姿に、夫の子を抱く女の勝ち誇った姿に、嫉妬は満たされない心の裡からやって来た。満たされなかった心が嵐の過ぎ去った朝を迎えた時、見詰めていた魔神の銀色の瞳のその視線に溶けていった。優しい瞳が見詰めていた。その穏やかな表情の頬に手を当てた時、ルチアは夢ではない現実に歓喜した。男の腕の中で朝を迎える喜びが身体の奥で迸った感情を思い出させた。身体の芯が熱く踊る。貴方の女でありたい。
霧が立ち込めた洞窟は水の匂いがしていた。
ざらついた四本指が丁寧にルチアの身体を起こすと良い香りだとまた囁く。胸の奥がゆっくり熱くなった。その身を抱え魔神は空を飛んだ。置き去りにはされなかった。
その後、魔神は舌を伸ばしてはこなかった。寄り添う態度は変わらなかったが、注意深く見詰めていると感じた。側にいる時間が長くなったと感じた。
魔神は動物なのだと、同衾するルチアは思った。身体に触れる事を嫌がらなかった。硬い耳に噛み付いても、唇を重ね舌の感触を味わっても欲情することは無かった。穏やかな眼差しで包み込んでいた。その眼差しが空へ羽ばたく時、不安を見せる不思議を思った。
同じ場所に長くは留まらず二日置くと次の場所を目指した。魔神にしがみつき夜空を舞った。地に足が着くと直ぐにルチアは火を起こした。魔神は黒い木々の間から天上を見上げ、集めた枯木に火が燃え上がったことを確認すると飛び立つ。そして必ず、獲物を手にして帰ってきた。血抜きを終え臓物を取り出した獲物を持ち帰える魔神の姿が胸を熱くした。
そして感じた、私“だけ”の夫なのだと。
月が空から消えた朔の夜だった。二刻ほどの飛行が辛いと思った。地に足を付けた途端、めまいが襲った。身を起こしてはいられない不快さに冷たい土の上に横たわった。その彼女の姿に魔神は直ぐに気づいた。そして声を上げた。
「女は死ぬ」
ルチアは魔神の言葉を受け止めた。
「私は死ぬのね」
異形な姿の者と交わった。それだけではなく激しい行為をまた受けたいと心馳せていた。罰を受けて当然だと思った。死ぬのであれば最後の時まで彼の胸に居たい想いが占めていた。
「死なせやしない」
魔神は強く言った。
ルチア――とはじめて魔神は彼女の名を呼んだ。ルチアはハイと答えた。魔神は火を起こした。細い羽毛を抜き取ると慣れない手つきで慎重に火打ち石を鳴らすのを横たわるルチアは見ていた。魔神は羽根を焦がす炎の側に寄ることがない。私のために火を起こしたのだとルチアは分かった。
夜の寒さと獣に襲われる恐怖を知らない魔神には必要ないものだと、眼に涙が浮いた。思いやりの心が胸を熱くしていた。腕を伸ばし羽根を気にしながら立ち上がった炎に枯れ葉を撒き細い枯れ枝を置く姿が嬉しかった。太い薪を重ねて消える事の無い燃え上がる炎を確かめた姿が、後を振り返った。
煙が風に流れルチアの鼻を燻る。その香りで少し気分が良くなった彼女は、大丈夫と身を起こした。頭が重く、喉の奥に違和感があったが笑みをつくった。その顔を見詰めた魔神が言った。
「天界を‥もう一度、天界を目指す。待っていてくれ」
その言葉を残して魔神は飛び立った。
行かないで――。心が叫ぶが言葉にならなかった。待つしか無い。言葉を信じて。
(2)
子のない女の死に様が、どんなに惨めなものかをルチアは知っていた。子のない老女が死出に向かって褥に横たわる日々を送っても、集落の誰も気に留め無かった。
人は何時か死ぬ。悟った言葉が人々の上にあった。しかたないの言葉が――。
しかしこの老女の最後は惨めだった。末期の水もなく逝った。子があれば死装束も墓も与えられたであろうが夫は気に掛けず屍は野獣の餌になった。
子もない惨めさがルチアを襲った。眩暈と頭痛、喉の奥から胸全体が息苦しい身が病に犯されているのは確かだ。火を絶やさない様に魔神が山と集めた枯れ枝が積まれていた。それに身を預けていた。枯れ枝を手にした指に力が入らない。それでも、薪を火に投げ込んだ。
病に掛かった女なぞ、夫は振り返らない。子があれば少しは安らかに逝ける。子があればとルチアは涙を浮かべた。
音はない夜の闇と立ち上がった炎が心の不安をあおる。どんなに思っても仕方ないことだが、子を抱いた女達が妬ましかった。彼女等に出来たものを何故、天は与えてはくれないのだろうかと憎しみ以上に怒りがこみ上げていた。もう若くはない。手に入らない小さな温かい身体を思い描いた瞳が溢れ出る涙を止められなかった。
母になりたかった。母に――。
魔神が熾した炎が消えないように薪を燃やし続けていた。その煙がますます不快を呼び寄せた。たまらず嘔吐したルチアは呆然とした。そこへ、ザワザワザと激しい木々を薙倒すような音が天上から響いてきた。
夜明け前だった。梢の上が紫掛かった灰色の明かりを付けたように見えた。そこから、黒い塊がルチアを目掛けて落ちてきた。初めての出会いの様に翼を持った異様の姿が落ちてきた。
ルチアの魔神だ。彼は、帰ってきた。
不本意な着地をした身体から羽根が飛び散りルチアの嗅覚を燻るとまた激しい吐き気が彼女を襲った。抱き留められた腕の中で強くえずいた。
「天界へ辿り着けない。青い星も紅い星も目指したがダメだ‥」
魔神は苦渋に満ちた言葉を放ち強くルチアを抱き締めた。ざらついた肌が頬を撫でた。しかし言葉はルチアの耳に届かなかった。彼女は一つの疑問の中にいた。子を宿した女達は、皆同じように胸の不快を訴えては嘔吐した。胸のつかえと嘔吐は彼女にはっきりと教えた。身籠った、と――。
「子ども‥が、出来た」
どんな顔で魔神を見つめて呟いたのだろうと、思うルチアはまたえずいた。
魔神の羽根は若葉の匂いをつけていた。それがまた吐き気を呼んだ。身体の中の全てを吐き出すように声を上げて吐いた。夫の女達はそうやって身体に宿ったものを教えた。これは病気ではない。母になった女は皆そうなのだと――。
「私も、母親になれるのね?」
ルチアは魔神に問うていた。貴方が私を変えたのかと。人間の男達が出来なかった奇跡を起こしたのかと。
「母親とは何だ?」
不思議顔が反対にルチアに問う。
「貴方の子どもが、お腹に‥。私は母になれる?」
弾け飛んだ魔神の表情が叫んだ。
「子ども?!卵か?」
林の間が明るくなっていた。魔神の表情ははっきりとルチアの瞳に映る。そのひどく驚いた表情が声を放った。
「卵!俺の卵が出来たのか?俺達は再び卵を手に出来る!」
俺の雛が生まれる――、歓喜あふれた声が木々の間に響き渡った。魔神はルチアの腹の中で起こった奇跡を喜びと全身で表していた。その態度が彼女に確信させたのだ。私は子どもの産める女だと――。
だが、魔神の声が突然、止まった、天に向かって吠えていた言葉がピタリと止まった。両手を高々と上げたまま、何故か表情が固まった。そして、凍りついた顔がゆっくり、振り返った。
実が、いると、呟いた。強張った凄みのある表情がルチアを睨みつけると言った。
「貴方を守る実が‥。アレがなければ、死んでしまう」
「実?死?‥私は病気ではないわ。つわりよ。身体に子を宿した女なら誰でも起こす、自然と治ってしまうわ。つわりで女は死なない‥」
「俺達の世界は違う。女は皆、死んでしまう」
「私は、死なない。子どもを生むのよ」
ルチアは自分の言葉を疑わなかった。しかし、綻びた顔は時間と共に苦渋を呈してきた。昼をすぎる頃には、嘔気に悩まされ動くことも敵わない程に衰弱していた。
「私‥母に、なりたい‥」
「なれる。ルチア。実を食べれば‥」
「実ね。何の実?」
「天界の、天帝の国にある命の実だ。それを食べれば、‥もう一度、天界を目指さなければ。あそこの実を‥その実を取ってくる。それを食べれば直ぐによくなる」
命の実――。魔神はそれを探しに来たのだと、神様の国にそれはあるのだろうと思った。神様の国に辿り着けない。いいえ、辿り着ける。この人なら、こんなに優しい人だもの。神様は受け入れてくれる。
「待っていてくれるな。天の何処かに入り口があるはずだ。地の果てまでも飛んで行く」
地の果て――。言葉がルチアを震えさせた。もう会えないかもしれない。
「行かないで‥私を一人にしないで」
「いかねば、貴方が死んでしまう」
魔神の言葉が胸を震えさせた。私の命を救うために行くのだと、目頭が熱くなった。私はこの魔人に愛されているとルチアははっきりと感じた。この魔神は嵐の吹き荒れる中でも天の果て地の果てまでも、私のために飛んで行ってくれると思った心が声を上げた。
「一緒に行くわ。貴男と‥、何処までも一緒に行きたい‥」
魔神は縋り付くルチアの手を振りほどかなかった。反対に強く抱き締めた。そして強く言った。
「ああ、行こう。一緒に、天界の実をもぎに」
「実を食べるわ。貴男の側で、貴男の子どもを生むわ」
ルチアの心は強く念じていた。子を産むと。
「俺も‥貴女と一緒に居たい。貴女の匂いに包まれていたい」
抱き合った林の中に天上からの光が降り注いでいた。唇を重ねた二人の心は一つに溶け合った。
行こう――と魔神が言った時だ。魔神の身体の中でまたガチャンと大きな金属がなった。すると魔神の腹が、瞬時に眩い光を放った。眼も開けられしない眩い光だ。その光が抱き合った魔神とルチアを包み込んだ。金色の光が二人の姿を一色に染めた。そしてゆっくりと輝きをなくし、消えていった。
光の消えた林間に二人の姿は無かった。
(3)
種を付けた。初めて――。
同じ月と日を持つ地界と天界。同じ青い空が広がっていた。二つの世界がどうやって繋がりどんな違いがあるのか分からない。海の砂を集めた大地に落ちた。そこに雄と雌がいた。雄は我等と同じぐらい凶暴なのか、雌を奪われまいとしてか、立ち向かって来た。雌は心躍らせる香りを身に付けていた。
心引地ける香りが、立ち去りがたい思いを抱かせたのは何故なのだろうか。問う心はあったが天帝の国を探す事を一番と深くは考えなかった。
ここは天界、緑に茂った草も木々も雄々しく広がる大地も同じ、更に生きる獲物も同じだ。だが、ここに住む者が違う。翼を持ち空を駆ける者達はいない。皆同じ形をして二種類に分かれていた。卵を持つ女と種をつける男。
女は良い。何度嗅いでもいい香りを漂わせていた。それが火を付けた。雨に濡れた翼を振った時雌の香りが瞬時、本能を弾かせた。柔らかな肩に触れただけで満月の本能を呼び起こした。震え立つ身が脳裏の奥に隠し持った何かを光らせた。それは精神をもぎ取り俺の全てを支配した。馳せよ。只ひたすら本能に馳せよと――。
唇の感触が、舌が、舌の触手が柔らかな肉に喰らいついた。食であるはずの肉に。食肉以外の肉にのめり込む不可解を何と理解すれば良いのだろう?
それが種を繋ぐことだ。本能がそう叫んだ。
その日は我等が中日と呼ぶ三日間の満月だった。頭に満月の三日三晩は無かった。天帝の住む天空だけを考えていた。唯ひたすら天空だけを目指した。天を――。
どんなに高く青空を目指しても天に達する事が出来なかった。息を詰まらせて気を失って失速した。
ドスン――。
落ちた。と、朦朧の意識は感じた。動けなかった。体中痛い。息苦しさと頭の中が激しく痛んだ。そこでまた気を失った。
朝の光があった。緑色の明るい光が回りを包んでいた。全身が身動きできない強張りと疲労に瞳を開けていられず睡魔の中に横たわっていた。
どれほどの時を眠っていたのか。雨に打たれて気がついた。翼は無事だった。両腕も、肩羽根も無事だった。まだ飛べる。飛んで探さねばと思う心が何故か曇った。身が重いと感じた。しかしそんなはずはない。肩の翼が身丈と変わらず身体を包み込むほどに雄々しく生えた。完全に雄種鳥になった。ならば身が重いはずがない。
雄種鳥――。雄種――。何かが胸に湧き上がり胸が踊った。匂いを求めていた。
林を、女の居る林を目指した。しかし、姿が無かった。火が消えていた。逃げたのかと心に問うたが否と答えが返った。胸で眠る者は逃げない。
女は火が好きだ。女は火を絶やさない。心の裡がそう言った。近くに火がある。煙立つ場所があると。
霧に煙の匂いが混じっていた。煙より女の匂いが強かった。甘い香りだ。身も心も捧げても悔いない匂いだ。
匂いは本能を呼び覚ました。
――繋げ、繋げ、種を繋げ――。
繋いで行く。必ず。
気づいた時、種を撒いたと分かった。初めて種を撒いた。本物の雄種鳥になった。雌を得た。その雌はどうなるのだろう。不安が過った。種が付いた雌は全て死んでしまう。この雌も死ぬのだろうか。たぶん死ぬ。天帝の命の実を手に入れなければ死んでしまう。探している間に血を吐き死んでしまうと思いながら、天帝を探していた。飛び立つ度に、不安が募った。
やはり雌は病に罹った。しかし、病ではないと言った。
子どもだと、腹に宿ったと。
卵!卵だ!俺の卵が腹に!満月は願いを叶えてくれた。
だが、女の宿命が。命の火を消してしまう。救いたいと思う。心からだ。俺の雌を、俺の卵を、どうしたら天帝の実を手にいれられるのだ。知りたい。何度空を駆けても、天帝の国は見えない。何処をどうさまよい歩けば天帝の国の扉を開けられるのだろう。地の果てまで行ったとしても探し当てられないかも知れない。それならば、女の願う通りに側にいる。
二人の心は一つだ。実を手に入れたい。
青い色が眼に飛び込んで来た。真っ青な空を見上げる自分に気づいた。腕に女がいた。両目を固く閉じた女はやっと息をしているように儚い。その身体を片腕に抱き羽根の中に隠した。それから、足元の白い大地を見た。煌めく砂の様に見える大地だが崩れるような柔らかさはなくしっかり踏みしめる硬さがあった。白い大地は青と混ざることなく遥か彼方の地平線へと続いていた。
何故、大地が白なのかを考えた。
実をもぎ取りに二人で行こうと女と俺の心が一つになった。その後が分からない――。
天は青、地は白の夢の様な世界が広がっていた。手が届きそうな青空が落ちて来そうな色合いだった。息をすった。
ここは天界だと脳裏が叫んでいた。
“実がある”そう思い後を振り返った。すると遥か先に黒い塊が見えた。三枚羽根で飛んだ。身体の重みが感じ取れない透明に澄んだ空気が身を包んだ。ここは飛ぶための世界だと思えるほど身が軽かった。荷物を抱えているのが気にならず大気に交わり灌木の林へゆうに着いた。
黒い実をたわわに付けた枝を見た時、心が波打った。これだと胸裏が弾け、腕が自然と実に伸びた。
「許しなくわらわの園から果樹をもぎ取れると思うてか」
傲慢な女の声が落ちてきた。
[3] 天帝
(1)
ギルバーヂアの目の前に白い女がいた。声と共に忽然と現れたのだ。すると空が、色を変えた。虹色を織り交ぜた布が灌木の林を隔てるように覆いつくし、青い空が掻き消えた。悠然と立つ白い女の後ろで灌木の林は消え去った。
ひやりとする冷気が足元から立ち上がり、その気配に似合う細身の女が冷然とした視線を向けていた。薄く透き通った虹色の境界がギルバーヂアを囲む場に、白い女は白銀の髪を地に這わせて立っていた。白い長衣から白く輝く細長い腕を見せ、面長の美を形作った顔には紅い唇が鮮やかな色を添えていた。空よりももっと青い瞳が輝いていた。だがその美しさより冷ややかな視線が、ギルバーヂアをゾッとさせた。
大地は平坦で柔らかな感触の黒黄色だ。ギルバーヂアの世界と変わらない大地だが大気が違う、そしてそこに立つ者も違う種族だ。
白い女は顔に掛かる髪を指で払いながら言葉を放った。
「聡明な心が、天聖の結界を越えたかと思えば異形の者か。地界の魔者が無垢の者でなければ通れぬ結界を越えるとは‥。それがお前の本質なら褒め称えようが、純粋ではないようじゃ」
冷然とした感情を見せない声で、白い女は言った。
「なるほど、一人ではなく、番で来たか。結界を越えるほどの純愛があったか。だが、目指す場所を間違っておる。異形の者よ」
白い女は自分の世界に帰れと、言いたい素振りを見せた。その態度に冷酷な生きものでは無いと感じたギルバーヂアは聞いた。
「貴方は天帝ですか。天帝なら助けて欲しいのです。卵と雌を」
白い女は否定せずに即答した。
「助けられぬ」
「ここに命の実があると聞きました。それを食べると病が治るのだと。この女を助けてください。」
ギルバーヂアは羽に隠したルチアを取り出すと両膝を付いて白い女を見上げた。
「命の実は死人が食らう実ぞ。転生を許された者達が再生のために食らう‥。生きた者が食らうものではない」
「死者。死んだ者がどうやって食べられる?生きているから食べられるのでしょう」
「死者の魂は生きておる。魂は実を食らう。そして善に生きるが悪に生きるかを考えあぐねる。善に生きるはここへ、悪に生きるは地界へ引き寄せられる。地帝はわらわより温情のある方じゃ。お前をわらわの元へ送り届けるとはの」
女の口元が緩んだが言葉は冷たく投げられた。
「ここには汝にやる実は無い。わらわの心を変えぬ限りは、な。わらわの心を変える‥クック。地帝の可愛い坊やでもわらわの心を変えられはせぬ。お前ごときが、幾ら願っても嫌じゃ。地界の奴等、わらわにお前の始末を任せたに相違ないな」
「始末‥。俺を殺す‥」
「地帝も手を焼き、わらわの元に‥この天界に汝を送り届けたということは、ここでお前を始末させたいと言う事じゃ」
「地帝‥オヨが‥、嘘だ。オヨは俺をこの世界へ、送ってくれた。女に会わせてくれた。そのオヨが俺を殺すなんて、そんな事は無い!」
「お前は何も考えずに、ここまで来たのか?何故、“雌鳥はいなくなった”“卵は何故に育たない”そうであろう?何故だと問うたことはないのか?」
ギルバーヂアは、はっとした。そうだと初めて疑問に思った。雌鳥はいない、全ての洞窟をまわったが腐敗した卵の殻と唯一匹だけ残った雛が居ただけだった。その雛も死んだ。それに意図があるのかとその顔を白い女に向けた。
「クック‥。地界の奴等の傑作じゃ。地界の奴等‥何も知らぬ、汝を‥クックッ」
冷たい青い青い瞳を見開きニマリと笑う顔が毒々しさを見せて言った。
「地帝の業よ。地の一族ソウマの入れ知恵に海王の指図。何も知らずに来た汝は、馬鹿な鳥ぞ」
馬鹿な鳥でも良い。天帝に会えたのだからとギルバーヂアの心は沸き立っていた。
「鳥族の雌は美しい。特に満月ともなれば、とみに美しく輝く。匂い立つは天女にも等しく」
ギルバーヂアは驚いたが、身じろぎもせずにいた。彼は雌鳥を知らない。見たことがない上に男鳥から女鳥の話を聞いた事が無かった。
「我が大地に住むに相応しい天女だが、難点が一つ。彼女等は卵を生む。卵を生むために声を上げて、男を誘う。彼女等の歌声は大地を越え、海を越えて流れていく。その声を聞いた男達は魅せられ誘われる。満月の明かりの中で、この世の者とは思えない美しい姿を見る。肩から生えた真っ白な翼を広げたその姿。一度見た男達は忘れられぬ。その腕に抱けばその色香に酔いしれて命尽きるまで追い求める。種族など関係無く。」
夢見心地の顔が天を仰ぐように言った。
呆然と聞き入っていたギルバーヂアは、はっとした。北の洞窟に住んでいた老が見せた哀愁の顔を思い出した。その顔が最後に思い浮かべたのは、女鳥だったのだろうかと思った。
「女鳥は、何故、居なくなったのですか?」
「地界に住む魔導師が結託したのじゃ。地帝が雌鳥に夢見の業を掛けた。男達が惑わぬように、の」
「夢見の業?それは何だ」
「甘美な夢の中に誘われ、徐々に現に戻れなくなる。夢見を続け寝食を忘れ衰弱し、いずれは死に至る」
死にいたる――。死の夢が女鳥を襲った。女鳥を奪ったのは地界の奴等、ギルバーヂアの羽が逆立った。
海王バジュラと地の呪い師ジョカルビの顔が目前を覆った。彼等の罠にはまったのか。混雑した疑問が脳裏を駆け巡った。そこに温厚なジオラの顔が現れた。オヨの顔が戦慄に包まれた心を溶かす。彼は優しかった。彼の仲間も‥。
(2)
「俺達は、俺達鳥族は、地界の奴等に嫌われていたのか。俺達が何をしたと言うのだ。教えてくれ!」
ギルバーヂアは叫んだ。真実答えを求めて叫んだ。
明るい白色に近い虹色の空間に影はない。顔に掛かる影もない無表情な顔がしばらくギルバーヂアを見詰め口を開いた。
「雌鳥――」
冷たく響く細い声が間を開けて語り出した。
「地界に住む男達。彼等は発情期の雌鳥に魅入られ、大地を海を深森をさ迷い帰っては来なんだ。分かるであろう。年頃を迎えた種族の男達が雌鳥に魅入られ、居無くなれば種族は滅ぶ。汝はその眼で見たであろう。地の底に住まねばならない地の一族も沈黙の一族も、海の底で暮らす海族も、何故にその身を隠しておるのか。考えたことはなかったか?広い空を自由に飛び、地上で暮らす種族は鳥族だけじゃ。その意味を?その元は雌鳥だ。それ故、地帝が呪詛を流した。二度と雌鳥は生まれない」
それは真実なのか?地帝の業が女鳥を死滅させたのか?もう二度と女鳥を手に入れられないのかと、ギルバーヂアは崩れるように膝を付いた。すると羽の間から、ルチアの身体が滑り落ちた。
ルチア――。とっさにその身体を抱き上げたギルバーヂアはぬくもりを感じた。それは生きている、そしてそこに卵がある。それが、俺の希望だ。彼女が卵を産めば――。ギルバーヂアは白い女を見上げた。実があればと。
白い女は、ぎくりとした。鳥が持つ大きな銀色の瞳が彼女を真っ直ぐに見た。曇り無く怯えること無く真っ直ぐに見詰める瞳は、望みを得ようと強い眼光を放っていた。
見据えるその瞳の輝きが異様な輝きに満ちたと、彼女は感じた。それだけで大気を包む冷気より冷たいものを背に感じた彼女は言った。
「わらわの心は変わらぬ。どんなことがあろうとの」
語る赤く小さな唇はギルバーヂアをあざ笑うかのように白い歯を見せた。傲慢な顔がゆるやかに立ち上がったギルバーヂアの動きに身構えた。そして彼女は、叫ぶ。
「鳥よ!迷宮へ、落ち‥」
その時だ。羽の間から白い腕が伸びた。青白い顔が覗いたかと思うと、生気ないか細い声は呟いた。
「女神さま‥?」
ギルバーヂアの翼の間から差し出す震える指が、白く輝く女人に触れようと空を漂った。このルチアの動きが二人の緊迫を取り去った。
「女神さまですか?‥ここは、天の国ですね。何て綺麗なところでしょう‥。そして本当に、お美しい御方」
両の手を組み高く上げたルチアは羨望の眼差しで白い女を見ていた。
ルチアの瞳には眩しい光に包まれた聡明な女人が写っていた。それが天の国の女神なのだと。
「どうか、お腹の子を救ってください」
「救う‥」
白い女の表情がにわかに曇った。純な母の顔が縋り付く眼差しを向けていたからだ。
「命の実を食べると、この方の子どもが産めるそうです。実を分けてください」
「それは出来ぬ。そなたには気の毒だが生者が口に出来る代物ではない。確かにそなたには死の影が見えるが、死者ではない。ここの主は天帝であるわらわ」
決めるには天帝である彼女だと強気な顔が更に言った。
「その身に宿ったものを流すのであればその生命救ってやろう。出来ないのであらば、そのまま帰れ」
「私は命など、惜しくない。この子を救ってください。」
「そのような醜い者の子を育てるつもりか?」
「醜い?この方が‥‥?」
ルチアは不思議顔で見上げた。そこに彼女を見る真剣な眼差しがある。美しいとは言えないが柔らかに包み込む腕と胸がある。その心は砂漠の男達より、優しさに満ちている。魔神の心は醜くなどないとルチアは天帝に笑みを向けた。その表情が天帝を驚かせた。
「人の子を抱きたくはないのか?何に心惑わされた?母になりたのなら、人間の男と契れ。地に足を付けて暮らしたいとは思わないのか?」
「それでも良いのです。女神様。私はこの人を愛しています。この人の側にいたい‥この人の子を産みたいのです」
「魔性の子ぞ。全く別の世界の者ぞ。異郷の地で子を育てて生きていかねばならぬのじゃぞ」
「良いのです。この人と一緒なら‥」
唖然とした顔が息を吐くと、真顔のギルバーヂアに首を振った。
「それでも実はやらぬ。怒ったのか?鳥よ。わらわを殺し、実を奪うか。実を奪ったとしても育て方が分かるまい。どうする?」
「地下に水がある。そこで育つと聞いた」
「地の民のソウマ。‥‥そうか。ジョガルビの入れ知恵か‥」
白い女、すなわち、天帝はしばらく考えた。彼女は地の一族の迷路のような記憶の襞を持たない、過去に起きた事柄全てを把握出来てはいない。ジョカルビは地の一族の長だ。彼が一番の記憶の持ち主。彼は天帝の知らない真実を知っているかも知れない。
天帝の細く艶やかな眉は不安と恐れを混ぜた表情を見せた。その表情を速やかに読んだギルバーヂアは叫んだ。
「命の実を貰う!」
嘘はつけない、ごまかせない。天帝は両手をこすった。その手の中に収まる大きさの黒い実が現れた。
「女よ。お前にこの実が食えるか。死者の実ぞ」
ルチアは我が身で立ち上がると実を求めて天帝の元までフラフラと歩き跪いた。ギルバーヂアは動かずじっと見ていた。黒い実を受け取ったルチアが感動の言葉を放つまで。
「何て綺麗な実なの。天の国の実って、やっぱり綺麗なのね。すべすべの赤い実。とても美味しそう」
ルチアは手にした実に頬擦りをしていた。その姿にギルバーヂアは喫驚した。ルチアの白い手が持つ黒い実、それは表面がひび割れた硬い殻に包まれ皮ごと食べられる風ではない。更に紅いという。
「紅い?! 何故、赤なのだ。実は黒い!」
ギルバーヂアは叫ぶ。それに答え、睨み付ける天帝は言った。
「女にはそう見える。天界の女じゃ」
天帝に対して一旦反感を持った心は疑心を取り除けなかった。鳥族を滅ぼそうとする地界の輩と結託している女に騙される、それが強い言葉となった。
「嘘だ!俺を騙そうとしているな。俺に幻を見せ、偽物の実をくれるつもりか!」
「わらわは嘘はつかぬ。騙しもせぬ。ここは天界、聖人天上の聖殿。そこを治めるわらわは無垢の者ぞ」
「無垢‥、そのような冷たい心の持ち主が、聖地を守る者なのか?俺が聞いている天に住む神は優しく全ての者に幸せを分け与える慈愛の母と聞く。お前は母ではない。地帝の国の者達の様な優しさも持たない」
「この方は女神様よ。旦那様。私これをいただくわ。とても甘い香りがしている。食べたいわ」
ルチアはギルバーヂアを振り返ってそう言った。その顔は子どもの様な笑みを浮かべていた。実に魅入れている顔つきで今にも齧り付きそうな姿を爪は止めた。
「やはりお前は嘘を付いている。命の実は人の食べられるものではないと聞いた。顔を背けるひどい代物で砂を噛むような、俺が嗅げば気を失う嫌な匂いの実だと聞く。お前が先に食べろ。鳥族を根絶やしにする奴等と同等の天帝だ。俺の卵を持つ女を殺そうとしているのか分からない」
「わらわは聖地を守る主、嘘はつかぬ。信用出来ぬのであらば去るが良い」
「実を手に入れるまでは帰らん。実を、命の実を出せ!」
声を張り上げて天帝に迫るギルバーヂアにルチアのか細い声は届かない。ルチアは立ってはいられないとギルバーヂアの足元に座り込むと長い腕に縋り付きその掌が握る赤い実にそっと触れた。彼女は口論する二人を見上げ紅い実に視線を這わせた。それはルチアを招いていた。食べよと。
(3)
「では証拠を見せろ。お前が聖人である証を、天帝の証を見せろ」
天帝はその言葉で口をつぐんだ。そして凄みのある眼光を向けた。無言の間があった。睨み合う二人のその間をわったのはやはり天帝だ。
「お前の未来を告げる。汝のその爪は、鋭い爪はそれぞれ大切な者の命を奪うだろう。お前は殺す。右手は男を左手は女を‥。この世で最も大切な者を殺すだろう」
「そんな世迷い言、信じるか。俺らは他種族を殺してきた。俺達の未来が約束されてもいないのに、戦わなくてどうする。それよりお前は何者だ。お前が天帝でないのなら、左手はお前を殺す」
「汝に女のわらわを殺せるのか?卵を持つ女のわらわを」
「お前も女だったな。それなら、卵を産んでもらおうか」
ギルバーヂアはニマリと笑い、一歩前に出た。醜い、そこに嘴があれば更に醜いと、天帝はそう思った。鳥の顔を持つ男の分厚い唇が歪み、ほってりとした頬が揺れた。それを見た天帝は背に寒いものが走り一歩下がった。だが、口は負けてはいない。
「汝はわらわに種を付けられるのか?鳥が満月でもないのにサカリを起こせると?」
天帝はその言葉を投げたことを少し後悔した。やっと成人した若い男が突飛ならない何かをやらかす。その気配があった。予想もせぬ事を鳥族の雄は天聖のこの場で行う。その予感が背を震わせた。
「さらっていくさ。それより証を見せろ」
この男は何を言っても納得しない、やはり命を立つ。それ以外はないと天帝である彼女は決めた。そしてそれを自らの手で行うと口を開いた。
「天に剣、地に鞘と言う言葉を聞いた事があるか?」
ギルバーヂアの唇が真一文字になった。
「この世界は、元々は一つだったと知っておるか。鳥よ。魔性者と魔を使えぬ人と入り乱れた世界であったのじゃ。魔性の者は千年以上の命を持つが人は百年で死に至る。命の長さも違うが食も営みも違う。神は絶滅の人を救うために世界を二つに切り裂いた。聖なる剣でじゃ。その剣は天界にあり鞘は地界の地帝が持つ。鞘は守りじゃ。地界は鞘に守られている。そして天界の剣を守る者がわらわじゃ」
天帝の手が何時の間にか光を発する大きな太刀を手にしていた。柄を握り片手を添えた天帝はその腕をギルバーヂアに差し出した。
「この剣だけでは信用せぬか」
それではと、声を放った天帝は間合いを取ると大きく腕を振り回すと剣を横に投げた。女の腕がその大きな太刀を振り回すことなど出来ないと思っていたギルバーヂアは素破を上げた。
太刀は白い空を真っ直ぐに飛んだ。そして視界から消えた。
「剣は持つ者を選ぶ。このようにの」
天帝の両手をギルバーヂアへ差し出した。そこに光り輝く太刀がパッと現れた。
「まやかしだと思うておるな。持ってみよ」
天帝は軽く切っ先を持った手で柄を瞠目のギルバーヂアへ差し出した。受け取ろうとした彼は雷に打たれたような衝撃でひっくり返った。その横にルチアが倒れていた。ギルバーヂアに衝撃が走った。動かないルチアの横に食べかけの黒い実が落ちていた。衝撃に震える彼の上に天帝の強い激が飛ぶ。
「聖剣は、人を選ぶ!天と地を繋ぐ聖剣じゃ。お前如きには触れられぬ。聖地を守る清い者でなければな!」
天帝の身体が大きく伸び上がった。その片手に力が入った。
無意識に立ち上がったギルバーヂアは長い腕を伸ばしルチアを抱き取ろうとしていた。そこへ天帝の全身がドスンと飛び込んできた。
突然、腹が冷たい物を感じた。腹は重たい物を感じた。だがギルバーヂアにはその重みを感じる余裕が無かった、彼は倒れているルチアから眼が離せない。周りを見る余裕が無かった。
天帝の柔らかな香りと身体を感じた彼は呆然とその顔を見た。勝ち誇った顔が口元に白い歯を見せていた。
その笑みの元は、剣だ。聖剣、それが重い衝撃と共に彼の腹にある。それを少しも気にしないギルバーヂアは声を上げた。
「お前がルチアを殺した。お前の実が卵を殺した」
ギルバーヂアの瞳に写っているのは青ざめ動かないルチアだ。勝ち誇った天帝の顔ではない。それ以前に彼には天帝が何をしたかを考える余裕が無かった。それ故、天帝の叫びが耳に入らなかった。
「何故、倒れぬ?聖剣が腹を差したというに‥」
「お前が、殺した!」
羽をそばだてたギルバーヂアの怒気を表した姿が天帝に迫った。汚れを嫌う聖剣が血塗られたが何も起きない。起きないはずが無かった。命を奪うはずだ。突き刺さったその身は瞬時に枯れ果て灰となるはずだと、言葉を失った白い身体が後退った。
何も起きない驚異が確かな恐怖を表わしワナワナと震える顔が、手から離れた太刀の行方を見た。
太刀はギルバーヂアの腹に突き刺さったままだ。
白銀に輝く鋼が羽毛の腹で動く度に揺れた。
只々、後退る天帝。
その姿を眼で追う片手は動かないルチアを羽に包み、もう片手は腹に突き刺さる柄を握った。
「馬鹿な。聖剣が人を受け入れるはずがない!」
黄金の眩い光が叫ぶ天帝の眼を差した。顔を背ける天帝はそれでも真実を探る心を忘れてはいなかった。ギルバーヂアは無意識に握った柄をゆっくり押した。腹から背へゆっくりと押した。何の抵抗も無く剣が肉を通過する。刃が融け去り柄だけが残った。まるでその身が鞘の様に。その時だ。
ガチィン――と音が響いた。
「まさか!!」
天帝は叫んだ。
黄金の明かりがおぼろげな光を放った。すると苦痛を表したギルバーヂアは柄を引き抜いた。その途端、黄金の光が眼を射した。
瞬間二人はたじろいだ。
「天と地が一つになった‥。地帝よ。何を考えた?」
天帝はギルバーヂアが片手で持ち肩に構えた物に瞳を揺らした。それは黄金の鞘に収まった太刀だった。
「乱世が‥始まるのか‥。鳥が‥乱世を‥グウッ」
天帝が意を決した事を、ギルバーヂアは平然と行っていた。腹を抑えて両膝を着いた天帝はそこから溢れ出るものが地に滴り落ちるのを確かめた。そしてゆっくりと血で汚れた目の前の鞘を見上げた。
「天に剣、地に鞘、二つは一つであるが一つとしてはならぬ。異界と実界、守れるのであれば喜んで差し出そうぞ、この命‥」
天帝は両手で鞘の血糊を拭き上げた。そしてその両手で柄を覆うと、短い言葉を投げた。すると鞘はカチンと音を立てた。
「封印だ。血の封印。再び聖者がこの剣を持つまでの‥‥」
言葉を切った天帝はゆらりと立ち上がった。
「この場所を切り離す。血で汚れたこの場所を、疾く切り離さなければ聖地が消滅する。わらわの庭‥は、わらわと共に消える‥、実は‥」
天上が暗さを見せた。夕方が近づいた様な闇がゆっくりと回りを包み込んでいた。天帝は左側腹を押さえ穏やかな顔を天上に向けて言った。
「天界にはもう命の実がなることはない。世話をするものがいなくなった木は枯れていく。ならばお前の巣に全て贈ろう。生かすも枯らすも汝ら次第じゃ。だが、汝の女が食ったこの実の種は、わらわの躯と一緒に地帝に贈る」
冷然の笑みがギルバーヂアを向いた。その顔は何故か、勝ち誇り悠然とした面を見せていた。
黒黄色の地が明るい灰色に変わり、ギルバーヂアを取り巻く空間が明るい白色へと変わっていく。見下し射竦める冷たい瞳が、傲慢な白い身体が空に解けるかのように透けていく。
「地帝の‥、あの水晶宮で根付く。その女の子供らと同じように、地界と天界の双方の血を引く混血の子ら。その子らを生かす実となるように‥。そしていずれ‥何千年かの後に‥生まれくる子に‥託そう‥」
その言葉を残し天帝の姿が空に消え去った。その途端、白色が取り巻いていた空間が消え去り、ギルバーヂアの目前が一瞬に青の世界に変わった。
月の巫女Ⅲ 月の涙 第二章 天界