シフト vol3

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青い十字架

 一九九五年 冬。

 地下鉄上野毛駅に銀色の列車が滑り込んできた。青白い蛍光灯に照らされた構内は、人がまばらなせいか、寒々として見える。しかし、今は夜の六時。列車のドアが開くと同時に、暖かい家庭を目指す、サラリーマンや学生達で、プラットホームは満たされていく。 そんな中に埋もれて、女子高生らしき集団が大声ではしゃぎながら、改札を抜けていく。紺色のブレザーに短いミニスカート。当然のように彼女たちのステータスシンボルである、ルーズソックスは身につけていた。横を通り過ぎる黒々とした会社員達の奇異な視線をものともせず、決して犯すことの出来ない自由な世界を謳歌しているかのようにも見える。

 矢川ミライもそんな群れ遊ぶ女子高生の一人だった。髪を茶髪にし、口には色つきのリップ、帰宅時に渋谷や原宿に寄らない事はなかった。ただ、友達がやっている、”がんぐろ”だけはできなかた。将来、肌への影響が心配だったのだ。
 六時という帰宅時間は、彼女にとっては、早いほうだ。いつもなら、門限の九時ぎりぎりまで、カラオケやプリクラに興じるのだが、今日だけは例外だった。父が無理矢理雇った家庭教師が来るのだ。友達はそれを聞いてあざ笑う。 「ミライさ~、そんなん無視すりゃいいじゃん」 「そうだよ! 親の言いなりなんて、ダセ~」
 ミライにとって、別に親を拒絶する理由は何もなかった。しかし、一流企業の重役を担う父親と、一流大学へ通わせたい母親・・・ミライにとって、家庭はどことなく息苦しさを感じさせる場所だった。
 来年は受験が控えている。勉強は嫌いではなかったが、人に押しつけられてやる勉強など、意味がないと思っていた。まして、受験のためや親のためにやるとなると、なおさらだ。彼女はいつも感じている。言い得ない焦燥感と社会に対する漠然とした嫌悪感・・・  この一九九五年という年は、長期化の様相を呈した不景気に代表されるように、あらゆる事象が混沌へと導かれ始めた年だった。若干十六歳の彼女でさえ、その空気を肌で敏感に感じていたのかもしれない。

 予定時間を十五分も過ぎて、ミライは家に帰ってきた。重厚な作りの扉を開けると同時に、母親の千佳が飛んできた。
「み~ちゃん! 今日先生が来るって知ってるでしょ。もっと早く帰って来なきゃ、だめじゃない」
千佳は叱るとも窘めるとも付かないトーンで言った。実際、ミライは母親に叱られた事がなかった。教育熱心とは言え、両親とも基本的には子供を叱ると言う事はない。それが、教育方針なのか、子供を信用しているのか、判断は付かない。ミライが髪を茶色に染めた時も、「似合わない」とか「不良っぽい」とかは言われたが、元に戻すよう、言われた覚えはなかった。
 「先生は、もう部屋でお待ちになっているから、お行儀よくね。それと、ちゃんと挨拶してね」
今まで、高校受験の際に進学塾へは通ったことはあるが、家庭教師は初めての経験だった。父親のつてで、現役の東大生を雇うことができたようだ。開けっぴろげに見える性格のミライでも、自分の部屋で待つ、見知らぬ男性と挨拶を交わすのは、多少なりとも緊張感を伴う作業だった。
(東大生ってどんな人だろう・・・ぶよぶよの近眼男だったらいやだな・・・)

 吹き抜けのある広い階段を上り、部屋の前に立って、ゆっくりとドアを開ける。自分の部屋のドアをこんなに慎重に開けたのは、初めてだった。  部屋には、細身の男性が背を向けて座っていた。何か本に目を通しているようだったが、ドアが開く音に反応して振り返った。

 「ミライさんですね。今日から家庭教師をさせていただく、広野雅斗です」

 東大の赤門をくぐってから、三年が経とうとしている。飛行機事故で家族を失ってから、受験までの一年半は、何かに追い立てられるように過ぎていった。一人生き残ったこの命を何か特別な存在として捉えた訳ではなかったが、死神の手のひらからこぼれ落ちた、たった一滴の命のしずくを、漠然と消耗させる訳にはいかなかった。別に、何かに成りたいと言う、一般的な少年が抱くような夢などなかったが、自分に与えられた命と時間を最大限生かせれば、波紋が広がるように、それに共鳴する何かが得られると言う、確信のような物があったのだ。

 通常、受験を終えた新入生達は、合格の喜びと、開放感、キャンパス生活に対する期待と不安が入り交じり、舞い上がってしまうケースが多い。しかし、雅斗は入学後も変わることはなかった。親代わりになってくれた叔父からは、学費だけは出してもらっていた。しかし、生活費まで仕送りしてもらう事が、経済的に難しい事は彼にもよく解っていた。彼は多くのアルバイトで生活費を稼ぎながらも、常にトップクラスの成績を維持し、三回生までには、所定の単位を取得していたのだ。当然、サークルに参加して、人生の中で最も輝かしい自由な空気を満喫する時間などなく、友人も限られていた。

 三回生の冬。学年末試験を終えた雅斗は、港区のオフィス街にそびえる、高層ビルの三十二階の接客室で、ある面接を受けていた。この時期、ほとんどの学生は就職活動をほぼ終える。遅くとも、夏までには内定がでないと、翌年の就職は難しくなるのだ。雅斗も例外ではなく、三回生の後半には数社の入社試験を受け、すでに二社から内定が出ていた。この会社を最後にしようと思っていたが、実際就職となると、何か物足りなさと違和感を感じるのだった。

「あ、お待たせしました。締産重工技術センターの常務で、矢川と言います」
矢川と名乗る中年の男性は闊達そうな笑みを浮かべ、名刺を差し出した。
「今日、来ていただいたのは、あなたの希望をお聞きするためです。すでに人事部の面接は終わり、内定が出ています。しかし、ご存じの通り、我が社は日本屈指の工業製品開発会社で、その活動範囲は、船舶の開発営業から、原子力発電まで多岐に渡ります。もちろん、広野さんが、大学では科学工学を専攻され、高い成績を収めておられるので、開発を希望されている物と思いますが、開発にもいろんな部署がありますので・・・」
 矢川は常務という重役のイメージとはほど遠い、若々しさと、明るさを兼ね備えていた。しかし彼の笑みからは他の者を飲み込む、すごみのような物が感じられた。この不況の中にあって、次々と新しい分野を開拓し、会社から多大な信頼を得ているという自信が漲っているかのようだ。
 雅斗は、それこそリクルートスーツに身を包んでいたが、内心、会社にとっての新しい歯車としての自分をきれいに見せようとしている事に対して、ある種嫌悪感を感じずにはいられなかった。

「本来、営業や事務関連の面接は、各関連部署で行うのですが、開発部門に関しては、私が直接担当することにしてるんです。なんと言っても、我が社の命運を担う部門への新規採用ですから・・・」
 矢川は、雅斗が当然締産重工へ入社するという前提で話をしていた。確かに、今までの会社と比べれば、規模は格段に大きく、給与の面でも優遇されそうだ。何にもまして、一流企業での開発業務というのは、技術畑の人間にとって、羨望のまとだった。  しかし、雅斗にとって一流企業であるかどうかは問題ではなく、初任給についてもさほど気にはしなかった。では、なぜ締産自動車を選んだのか・・・ それは、この会社に特殊な部門があったからだ。
 矢川常務の話を受け流す形で、雅斗は質問した。
「伺いたい事があります。締産重工には、確か宇宙開発部があると思うのですが・・」
 矢川は多少、面食らって、落胆の表情を浮かべた。
「宇宙開発? あなたの夢はロケット関連ですか?」
「そう言うわけではありませんが、多少興味があるので・・・」
「・・・確かに関連会社にそう言う部門があります。しかしそこは、宇宙事業団から依託を受けた、第三セクターなんです。つまり、締産と国がそれぞれ出資をし、ロケットエンジンの開発や人工衛星の部品を製造している民間機関で、規模も小さく予算も少ない・・・あまり良い条件ではありませんよ」
「そうですか・・・しかし、国産ロケットの開発は、宇宙事業の要だと聞きます。ですから、締産重工さんもかなり投資をし、力を入れていると思ったのですが・・・」
「日本の宇宙開発は、たかが知れていますよ。アメリカのNASAと比較してはいけません。我が社にとっても、日本にとっても、ロケット開発の優先順位は極めて低いんです。どちらにしても、それは私の受け持ちではない・・・ 同じエンジンでも、自動車のエンジンを開発する方が、あらゆる面で合理的だ。しかし、あなたの開発に対する夢や思想まで、否定はしません。始まりは地味でも、どのような未来が待っているか解らない・・・あなたの努力と才能で、みんなを驚かすような物を造ってください」

 約三十分の面接を終え、一階のフロアからビルの外へ出た。接客室の暖房が利きすぎていたのか、体が火照っている。面接中に窓から見えていた黄色い夕暮れは紫色に変わり、乾燥した東京の空気を仄かに染めていた。程良く冷えた風が雅斗を包み、熱を持った体を冷ましていった。深呼吸をしながら、今まで居た巨大なビルを見上げる。
(確かに、不況の最中、こんな好条件の就職はないな・・・)
しかし、雅斗は喜び勇んで大企業と呼ばれる会社の従業員になる気には、なかなかなれなかった。
 見上げたビルのその向こう、広大な夜空に輝いているはずの星々は、全く見ることができなかった。

 雅斗が、木城舞との待ち合わせの約束をしたファミレスに着いたのは、約束の時間の十分前だった。背中まで伸ばした黒髪、一重だが切れ長の涼しげな目、薄化粧の割にはそれぞれのパーツがはっきりしているせいか、情熱的にも見える。しかし、決して派手という訳ではなく、二人がけの席で読書をしている姿は、日本的な清潔感を漂わせていた。
 雅斗はコートのポケットに手を突っ込んだまま、無言で舞の横に立った。
「あ、びっくりした~。何か言ってよ」
舞は、読みふけっていた小説の世界から引き戻されたて、ちょっと大げさに驚いてしまった。雅斗が前の席に座ると同時に、今まで掛けていたメガネを外した。いつも、待ち合わせと、本を読む時はメガネをしているのだ。
「早かったね。どうだった? 面接」
「面接ね・・・もう、採用は決まっているみたい。単なる顔見せだった」
「すごいじゃない! あの、締産重工だよ。今時、東大生って言うネームバリューだけじゃ、通用しないのに、広野君本当ラッキーだよね」

 舞は、雅斗と同じ東大生だが、学年は一つ下だった。しかも文学部で、本来彼との繋がりはあり得ないはずだったが、二人が登録している家庭教師の派遣会社で知り合い、自然と付き合うようになったのだ。
 最初は食事をし、社会や環境ついて話をする程度の仲だったが、半年ほど前、半ば強引に舞が雅斗のアパートに押し掛け、一線を越えてしまった。それ以来、二人はどこにでもいるようなカップルになったのだった。

 「でも、そのスーツ、似合わないよね。子供がおめかししているみたい・・・」
雅斗はちょっと顔をしかめただけだった。彼は、めったに感情を面に出さない。それが時にはクールに見えるが、時には暗いイメージを相手に与えてしまう事もあった。しかし、彼は、自分に対する他人の評価を全く気にはしていないようだった。意図してそうしているのかは解らないが、舞には、せめて自分の視線をもっと意識してほしいという、願望があった。

 「ね、他には何かなかったの?」
「そうそう、面接員の人が、矢川って言う常務だったんだけど、最後に困ったお願いをされてしまったよ」
「どういう事?」
「高校二年の娘さんがいるんだって。その子の家庭教師をしてほしいって」
「へ~、いいじゃない。どうせ、単位は皆取ってしまったんでしょ? 就職もほぼ決まったし、これからの一年は時間がたっぷりある訳だし」
「まだ、締産に行くって決めてないよ。それに、これだとまるで、家庭教師と引き替えに内定をもらったって事に事になるんじゃないかな」
「考え過ぎよ。たかが家庭教師ぐらいで、内定の条件にするもんですか」
「常務もそう言っていたよ。これは採用とは全く関係ない、ってね」
「・・・でも、よく考えれば、ちょっと心配だな」
「まあ、大丈夫だと思うけどね。娘さんの成績が少しでも上がればいいわけだし、結構なお金にもなる」
「そうじゃなくって。その娘さんって高校二年だっけ? もう充分大人よね・・・」
「何いってるんだ・・・?」
雅斗はさすがに面食らって、舞をにらんだ。
「冗談、冗談。稼いだお金で、また広野君のおもちゃに投資ができるね。ねえ、今日秘密基地に行っていいでしょ」

 秘密基地とは、雅斗のアパートの事だ。しかしアパートとは名ばかりで、実の所は古びた木造の貸店舗だった。本来、何らかの事業に使えるように十畳ほどの多目的スペースが設けられた造りになっており、その横に六畳ほどの和室とユニットバスがくっついていた。家賃八万で、決して安いとは言えないが、雅斗にはどうしても「実験場」なるスペースが必要だったのだ。



 雅斗がミライの家庭教師を始めて二ヶ月が経とうとしていた。回数もすでに八回を数え、雅斗は大学四年の、ミライは高校三年の春を迎えていた。
 大学受験を控えたミライだったが、相変わらず悪友達と、渋谷界隈を俳諧する毎日を過ごしている。家庭教師の日でさえも、遅れて帰ってくるのが当たり前になっていた。だからといって、雅人がとやかく言う問題ではない。時間に遅れてたがために勉強に支障を来すのは、彼の責任ではなかった。
 今日もいつものように雅人は彼女の部屋で紅茶を振る舞われ、本を読みながらミライの帰りを待っていた。そして本来の授業開始時間を三十分遅れて彼女は帰ってきた。
「もう、何度言ったら解るの? 先生に迷惑かけちゃだめじゃない」
「関係ないよ。そんなに言うのなら、時間を遅らせればいいじゃない」
子を心配するあまり、おろおろするばかりの母親と、いつからか、親が鬱陶しくなった娘の、いつもの会話が聞こえる。家庭とはこんな物だったかな・・・雅斗の頭に、今でははるか遠くに霞んでしまった家族との団らんが、かすかによみがえった。

 階段を駆け上がる音がしたと思うと、ノックもなしにミライが入ってきた。
「こんばんは。おそかったね」 「もう、疲れた~」
ミライは雅斗との挨拶もせず、カバンを投げ出すと、ベッドにころがった。
「だって、マキがさあ、面白い所があるからって、行ってみたら、キャッチでさあ、これがマジひつこいんだ」
「・・・」
「あっちこっち逃げ回ってさ、大変だったよ~」
「変なやつに連れ去られなくってラッキーだったな」
「感情こもってないなあ。自分には関係ないって、顔に出てるよ」
「まあね。ところで、今日中間試験の結果発表でしょ。見せて」

ミライは、不機嫌に雅斗をにらんで、カバンを拾い上げた。
「はい」
UFOキャッチャーで取ったらしいぬいぐるみと一緒に、一枚の紙切れが机に投げ出された。中間試験の成績一覧表だ。
 主要七教科の平均点は九十二点。最低点は地学の七十四点だった。一覧の右上に、学年順位が出ている。・・・二十二位・・・トップクラスだ。

「どう? 少しは驚いた?」
「・・・」
雅斗はしばらく成績一覧を眺めていたが、それから少し苦笑いを浮かべながら、ミライを見た。
「確かに、この成績は予想してなかったな」
「でしょ? あたしがただぶらぶら遊んでばかりいる、と思ったでしょ?」
「別に」
「やることさえやれば、親も文句はないでしょ? だから、テストだけはまじめにやるの。もっとも、あたしの場合、授業を聞くだけで、頭に入ってくるんだけどね」
ミライは得意げな表情を浮かべ横目で雅斗を見た。

「だから、本当はあんたも必要ないんだ」
「確かに、今の成績で満足するなら、僕はいらないかもしれない。でも、君ならトップになるのも簡単だろ? 多少努力さえすれば・・・」
「これ以上の成績を取るのに、何の意味があるの? このままで十分志望校には入れるよ」
 雅斗は少し考えて質問した。
「矢川さん、将来何になるの?」
「何も考えてない。別にいいじゃん、将来の事なんて。就職なんかしなくても、うちの親、お金持ってるし、困ることなんかないよ」

 人はジェネレーションギャップを感じると「今の若い者は・・」というフレーズをよく使う。多かれ少なかれ、同じ道を辿ってきたにもかかわらず、話が合わないと「理解不能」で切り捨ててしまうのだ。しかし、多くの場合、理解不能に陥るのは年齢差の問題ではなく、意識の疎通の問題である場合が多い。現に、雅斗とミライの年齢差は四つしかなく、「今の若い者は・・・」というフレーズを使うには、彼も若すぎた。

「まあ、君がそう思うのなら、僕がとやかく言う問題ではないけどね。僕の仕事は家庭教師の授業を滞りなく行う事で、進路指導は専門外だしね」
「・・・先生、彼女いる?」
「・・・ああ」
「よくこんな冷血漢と付き合っていられるよね~」
ミライは、絶対自分なら彼のような男とは付き合わない、とでも言いたげに、露骨に嫌悪感を顕した。

 規定の時間が過ぎ、この日の授業も終了した。いつもなら、母親にお礼を言って、そそくさと矢川邸を後にするのだが、今日はそのまま帰る訳にはいかない事情が雅斗を待っていた。

「こんばんは。終わりましたか?」
帰り際、階段横のリビングからにこやかに顔を出したのは、締産重工の矢川常務だった。普段は仕事が忙しいらしく、家に帰るのは十二時を回ることも珍しくはないようだ。おかげであの面接以来一度も顔を合わせてはいなかったが、今日だけはどういう訳か、早々に帰宅していた。
 雅斗の脳裏に、あのにこやかな営業スマイルがよみがえった。そして今日もその笑顔とうらはらに「笑っていない」目だけが、雅斗に言い得ないプレッシャーをかけている。

「その節はありがとうございました」
「ま、ま、せっかくだから、ちょっと話でもしましょう」
矢川は半ば強引に彼をリビングに誘った。キッチンからも声がする。
「先生、ごめんなさいね。引き留めちゃって。主人が今日はどうしても先生と話がしたいって・・・」
母親が、ブランデーとグラスそしておつまみを運んできた。
「娘は、どんな具合です? 親が言うのもなさけないが、高校生になってから、態度ががらっと変わりまして・・・私なんかとも、まるで他人と話すような感じなんです。何を考えているのやら」
 
 さすがのやり手重役も、家に戻ると娘の父親、そこにいたのは、子供を心配する普通のおじさんだった。
「ご心配には及びません。今日テストの成績を見ましたが、学年で二十二位でした。ちゃんとやってますよ」
「おお、そうですか。いや、先生のおかげですな」
「いえ、僕は何も・・・」
自分がいなくても、この成績は取れました、とも言いづらく、雅斗は黙ってしまった。

 時間は夜の十一時を過ぎていた。娘の進路や友人関係の話が一通り終わって、雅斗はそろそろ帰るべきだと感じていた。
「では、僕はそろそろ・・・」
カバンに手を掛けた時、矢川が何か思い出したように、それを制した。
「あ、ちょっと待って。はい、これ」 いつ用意したのか、重厚なテーブルの下から一枚の封筒を取り出して、雅斗に渡した。裏には締産重工のロゴと住所が印刷されている。どうやら社封筒のようだ。
「これは?」
「遅くなったけど、採用通知書です」
雅斗は、多少緊張して中身を開けた。そこには正式採用する旨の文章が記されていた。
「細かい条件などは、人事部から追って連絡が行きます。おめでとう」
「ありがとうございます。しかし、ちょっと疑問があります」
「なんです?」
もっと、喜びを露わにする状況を期待していたのか、矢川は多少肩すかしを食ったような表情で、雅斗の顔をのぞき込んだ。
「採用者みんなに、常務が直接通知を手渡すとも思えません。なぜ僕だけ・・・」
「ああ、それは偶然にも、あなたがうちの家庭教師をしているからです」 雅斗は「偶然」という言葉をこの状況で使う彼に、いらだちを感じた。確かに家庭教師の仕事と本採用は関係がないかもしれない。しかし、けして偶然ではないはずだ。
「それに、私は人を見る目には自信があります。先日、あなたと合って、何かこみ上げてくるエネルギーのような物を感じたんです。あなたなら、道を踏み外す事無く、大事を成し遂げてくれる・・・そんな気がしたものでね。それに、直接書類を渡せば、他の会社を選べないでしょ。どうか、期待を裏切らないでください」
最後にプレッシャーをかける事は怠らなかった。まるで、締産に入社する事を義務づけているかのような威圧感があった。それにしても、そんな漠然とした認識で、この人は、人材の選別を間違えた事はないのだろうか・・・

「あ、それと、配属ですが、たぶんモーター技術センターになるでしょう。宇宙開発でなくて申し訳ないが、配属先は君には選べない」
まあ、この会社にいれば、自分の目指す仕事に繋がるかもしれない。給与の面でも優遇されそうだ。実社会での技術的経験を積むには良いところかもしれない・・・  雅斗は、漠然とした焦燥感が追い求める先の答えへ、近づきつつあると感じた。常に感じる得体の知れない圧力のようなもの・・・夜眠っていても、それは彼の胸のあたりで、高速回転をしてる。まるで時計の分針が秒針の速度で回転しているかのような波動に、うなされて目が覚めることも少なくなかった。飛行機事故の精神的な後遺症がまだ残っているのかもしれない。だが、年月が経つにつれ、その感覚はますます強くなってくる。やはり、自分の内面は何かを追い求めているのだろうか。本当に答えは、この先にあるのだろうか。

 視線を感じて振り返ると、いつの間にか居間に下りてきたミライが立っていた。
「そう、そう言うことなの?」
彼女の目は、今まで以上に軽蔑と嫌悪感を漂わせていた。
「先生ってどこか得体が知れないって思ってたけど、まさか父に取り入って、仕事にありつくなんて・・・ 冷たい上に計算高い男って最低! あんたもお父さんと同じだよ」
すかさず、矢川が切り返した。
「こら、なに言ってるんだ。わしが家庭教師ごときで、就職に便宜を図るわけないだろ」
 会社では何百人もの部下を叱咤する彼も、たった一人の娘の尊敬を得る方法を心得てはいないようだ。誤解を与え、父としての尊厳が保てないと感じたのか、面接時には想像もつかない、慌てぶりを露呈してしまった。
 彼が一歩、ミライへにじり寄ると同時に、彼女は階段を駆け上がり、部屋へ閉じこもってしまった。矢川はそれ以上追うことはなかった。雅斗の視線があったからだ。将来部下になるかもしれない人物に、これ以上家庭の事情を見られることを恐れているかのようだ。すぐに、一瞬見せた娘に対する父親の焦りは、彼の表情から消え伏せていた。

「娘には後でちゃんと言っておきますから、今後ともよろしくお願いしますよ。あんな娘だが、なんとしてもまともな道を歩ませたい。大学受験までは、面倒みてやってください」
「・・・」
雅斗は軽くうなずいただけで、何も言わなかった。ミライに対しても、自分の立場を弁解をするつもりもない。なぜなら、彼女の誤解を解いて、心証を良くすることに意味を見いだせなかったからだ。仕事はあくまで家庭教師であり、ミライが彼に対してどんな感情を抱こうとも、今の雅斗には全く関係ないように思えた。



 八月を迎え、東京地方はヒートアイランド現象も手伝い、酷暑に陥っていた。多くの学生達は、夏休みとは言え、卒業論文に着手するため、大学に閉じこもる人間が増える。  しかし、雅斗は一人、冷房の利かないアパートの一室で「研究」に勤しんでいた。研究とは言え、それは全く学校の授業や論文とは関係がなかった。
 店舗を改造したような古ぼけたアパートは十畳ほどの土間と六畳の和室に分かれている。寝食は主に和室で行い、土間はその研究に使われていた。木城舞が形容するように、そこは彼にとって、「おもちゃいじり」に熱中できる、秘密基地だった。  何の研究かは舞にも言わない。時々装置を使って面白い現象を見せてくれるが、それが何に通じるのか見当も付かなかった。最初はその変人ぶりに面食らったが、一度付き合ってみると、変人も個性に見えてくる。その個性がやがて魅力に繋がり、彼の持つ得体の知れないミステリアスな部分と相まって、いつしか離れられなくなってしまったのだ。
 実際彼には不可解な点が沢山ある。まず、過去の話を一切しない。両親が早くに死んで、親戚の家で育てられた、とは聞いたが、なぜ両親が死んだのか、具体的にいつの事なのか、少年時代はどんな子供だったのか、など一年近く付き合った今でも、ほとんど知らないのだ。  舞は、雅斗を魅力的に感じる反面、いつも置き去りにされていると言う疎外感にさいなまれていた。普段はなるべく彼の心の領域には踏み込まないようにしている自分、また、彼の過去を詮索しないことで、懐の広さを見せようとしている自分に、違和感を感じ始めているのも事実だった。彼の心の中には鍵のかかった部屋がある。自分にその鍵を見つける事ができるだろうか・・・  

 商店街でスイカを半切れ買った舞は、公園通りを抜けて、空き地の多い一角へ出た。この辺は比較的緑が多いせいか、蝉の鳴き声もすごい。今年は蝉の当たり年だろうか。吹き付ける熱風がキラキラと光る黒髪を巻き上げていたが、その一部は首筋にへばりついていた。胸元へ流れる汗を、ハンドタオルでぬぐい、アパートの土間へ続く引き戸をノックした。  中から、同じく汗だくの雅斗が顔を出した。
「スイカ買ってきてくれた?」
「はいこれ。でもぬるくなったよ。冷蔵庫に入れておくね」  
舞は夏休みに入って、毎日のように雅斗の家を訪れていた。もし、お互いが一人暮らしなら、家賃の節約のため、同棲しても構わないのだが、舞が実家で両親と住んでいる都合上、そうも行かなかった。
 土間の片隅に、男の一人暮らしには不似合いなほど大きな冷蔵庫が置いてある。中身の半分は実験用剤の保管庫として使用されていた。  舞はフリーザーの方を開けて、スイカを入れた。
「冷凍庫の方に入れるから、覚えて置いてね。こっちの方が早く冷えるでしょ」
スイカを入れたものの、なかなか扉をしめない・・・
「おい、そこで涼むなよ」
「だって~ よくこの暑さを我慢できるね。エアコン買おうよ」
「だめだめ。それでなくても実験用の電源を確保するので精一杯なんだから。エアコンなんか入れたら、ブレーカーが落ちるよ」
「じゃ、シャワー貸して。もう、ベトベトで気持ち悪い」
生活空間である和室の隣には、申し訳程度のユニットバスが付いている。当然、脱衣所などなく、舞はその場で、湿ったTシャツとジーンズを脱いだ。小振りな胸と、細身の体から張り出した、骨盤が露わになった。舞はちらっと雅斗の方に視線を走らせ、ユニットバスの扉を開いた。しかし、彼はすでに機械に夢中になっていて、舞の裸など、興味がないかのようだった。

 土間に置かれた長机に設置されたマシンは、何かのモーターを思わせる形状をしていたが、無数の配線や何かが通る管の異常さが、単なるモーターでは無いことを物語っていた。それ自体の大きさは三十センチほどだが、繋がるパソコン、電源、変圧器、その他何に使うのか解らない、タンク類を全て入れると、十畳ほどの土間が一杯になる。これらのほとんどは、雅斗がアルバイトで稼いだ金で買った、中古の工業製品だった。  雅斗はタンクのバルブを開け、冷却液を注入した。この暑さだ、冷却液の流れるパイプが一気に冷やされ、白い水蒸気を滴らせていた。モーター内の温度はすでにマイナス八十度を下回っている。超伝導磁石が機能を発揮し始める。
 次にコンプレッサーのような機械のスイッチを入れた。カタカタという回転音が次第に早くなり、ブーンという連続音に変わった。モーター内の気圧計はほとんどゼロを指していた。
 最後にモーターのメインスイッチを入れる。変圧器で加圧された電子が数万ボルトと言う大電圧となって、特殊なコイルを貫いた。数分後コイルの回転数は秒速一万回転を超えていた。音は全くしなかった。真空中で回転するコイル軸が、磁力により浮遊しているために、摩擦が起きないのだ。
 雅斗はパソコンの画面で回転数、電磁力の強さなどをモニターし、出力を段階的に変えて観察を続けた。モーターは完全にカプセルで密閉してあるはずなのに、影響を受けるはずのない外部に発生した水蒸気が、螺旋状に旋回し、白いスパイラルを形成していた。この現象の原因が何なのか未だにわからない。彼を悩ませる要因の一つだった。

「わあ、きれい~」
いつの間にか、バスルームから上がった舞が、タオルで頭を巻き、パンティだけの姿で立っていた。
 旋回する水蒸気のスパイラルは、竜巻のように立ち上がり、天井付近まで達している。
「なんだか、この辺涼しくなったね」
冷却液の影響で、マシンの表面のほとんどが氷結し、周りの温度を数度下げていたのだ。
 しばらく観察していた雅斗は「だめか!」と独り言のような舌打ちをし、電源を落とした。緩やかに旋回をする白いリングは、静かに空気に溶けていった。
 舞は、しばらく機能を停止したその「おもちゃ」を眺めていたが、ふと我に返り、真っ昼間に裸で得体のしれない機械を見ながら、棒立ちになっている自分に、滑稽さを感じ、くすくすと笑い出してしまった。
「どうしたの? 何かおかしかった?」
雅斗は実験の失敗を笑われたようで、多少不機嫌になった。
「ちがうのよ。ここ工場みたいでしょ? こんな所で女の子が裸で立ってるなんて、不思議に思わない?」
「そう?」
気のない返事に、舞は笑顔を浮かべながらも、疎外感を感じずには居られなかった。
 実験の修正案の事で頭が一杯の雅斗がパソコンに向かおうとした時、舞が静かに後ろから抱きつき、彼の脇の下から、手を回した。
「どういう事? うら若い乙女が裸で居るのに、無視するなんて」
多少冗談めかしてはいるが、彼女は急に追いつめられたような切迫感を隠しきれなかった。
「ねえ、今度うちに来ない? ここより涼しいよ。お父さんも一度連れて来いって言ってるし」
雅斗は目をつむってしばらく考えた。舞は、緊張しながら父親に挨拶する雅斗の姿を想像した。
(別に不自然じゃないわよね。単にうちに遊びに来たときに、挨拶を交わすだけだし・・・・)

 数秒後、雅斗は振り向き、舞の手を解いて言った。
「それって、僕が就職の内定をもらったから?」
「え?」
「この不況の中、安定した職に就けた事で、将来一緒に暮らしても安心だ、って思ったのか?」
「別にそう言う訳じゃ・・・ 大げさに考えすぎよ」
「でも、少しは結婚の事を想像したろ? これなら、親に紹介しても大丈夫だ、って」
「そんな事!」 「一応言っておくけど、僕は将来に渡って結婚するつもりはないから・・・もし、ちょっとでもそんな気持ちが頭を過ぎったのなら、あきらめて」

 舞は彼と付き合いだして一ヶ月ほどで、会話の節々からにじみ出る「冷たさ」に気が付いていた。しかし、それも個性と割り切り、聞き流して来たのだ。言葉ではそう言っても、内心はきっと自分の事を大事に思っていてくれる。そんな根拠のない思いにしがみついていたのに・・・

「今日は、帰るね・・・」
舞は、ようやく乾き始めたTシャツをかぶり、ジーンズを履いた。そして電話の約束だけして、そそくさとアパートを後にした。
 確かに彼女は雅斗以上に、大手企業への就職決定を喜んだ。今にして思えば、将来一緒に暮らす自分の姿を多少なりとも想像していたのかもしれない。でも、そうだとしても、まだ先の話だった。数年後に話をするかもしれない事柄を、今この時期、早々と否定されてしまったと言うショックと、彼の中の自分が思ったほど大きくないんだ、と言う落胆が家路につく彼女の足を重くしていた。
 舞は一度立ち止まると、抜けるような青空を見上げ、再び吹き出してきた汗と一緒に泪を拭った。

 舞の後ろ姿を見送り、雅斗はしばらく立ちつくしていたが、無表情のままパソコンへと向かい、データの打ち込みを始めた。しかし、その背中からは、何かに追い立てられているような、焦りが感じられる。  静まり返った空間で、カタカタと響き渡るキーボードの音だけが雅斗の部屋を満たしていた。
 冷凍庫の中では、忘れ去られたスイカが凍りついていた。



「ミライ~ こっちこっち!」
行き交う大学生の中に混じって、一際目を引くだぼだぼのルーズソックス。私服に着替えてはいるものの、明らかに女子高生と解る風貌の一団が、慶領大学の正門を駆け抜ける。
 十一月を迎え、各大学は学園祭に湧いていた。矢川ミライが志望校としている、この慶領大学のキャンパスも、有名アイドルグループ「ジャパン」のコンサートが人気を呼んで、内外の大学生や、高校生が大勢して押し掛けた。当然、ミライ達の目当ても「ジャパン」だった。

 「どこだろう・・・広すぎてわかんない~。早くしないと始まっちゃうよ」
ジャパンのコンサートは今回の学園祭の目玉と言う事もあり、中庭に設置されたステージを使って、誰もが無料で見ることができるように企画されていた。しかし、たった一時間のコンサートですら、莫大なお金がかかる。それをまかなうために実行委員会は、スポンサーから無料で提供された色々な商品や、ドリンク、酒類を定価で売り、収益を上げる事にしたのだった。

 「ちょっと、あそこじゃない?」
マキが経済学部棟と文学部棟の間から、人が溢れかえっているのを見つけて言った。
「うっそ~。あれじゃとても見えないよ」
中庭に近づいてみると、前座のお笑い芸人が漫才をしているようだったが、お笑い芸人どころか、ステージすらまったく見ることは出来ない状況だった。
「どうする~?」
マキがあきらめ気分で、地面にしゃがみ込んだ時、しばらく回りを見回していたミライが、腕に腕章を付けた女子大生を見つけて、近づいた。

「すいません。係りの人ですか?」
「ええ、そうですが」
「私、今度の入試でこの学校を受験するんです。その下見に来たんですけど、棟の中に入れます?」
ミライが何をしたいのか悟った友人達も、口裏を合わせたように、しゃべり出した。
「そうそう、下見下見。ねえ、中に入れて、いいでしょ」

係員の女子大生は訝しげに、いかにも遊び人風の女子高生達を見回して言った。
「だめです。棟内は立ち入り禁止です。みんながジャパンを見ようと、窓や屋上に殺到すると危険なので・・・それに、本当にここを受けるの?」
彼女らの風貌から言って、一流私立の受験生には見えなかったのか、頭から信じていないようだった。
「ちょっと、この人失礼ね!ミライは本当にここを受けるんだから。そのために東大生の家庭教師まで雇って勉強してるのよ」

ミライは、よけいなことを言うな、と言う表情でマキをにらんだ。
「広野先生は関係ないよ! あんなやつの助けなんか無くても一発合格できるんだから」
「本心じゃないくせに。それならなんで未だに雇ってるの?」
「だから・・・・!」

さらに反論しようとしたミライは肩を強く掴まれて、驚いて振り向いた。係りの女子大生が目を剥いてミライを凝視している・・・
「そ、その東大生って、広野って名前なの?」
その形相とあまりの真剣さに、ミライは後ずさった。
「そ、そうですが」
「広野雅斗?」
「え? 知ってるの?」
係員は、回りを見回し、彼女らを手招きした。
「ちょっと、こっちへ」
ミライ達は、思ったより簡単に経済学部棟へ入ることができたのだった。

 ステージでは、まだ、若手お笑い芸人が漫才を続けていた。最初は多少笑いも起きていたが、今は静まりかえっている。どうやら滑りまくっているようだった。
 ミライ達は、明かりの消えた棟の三階に椅子を並べて、窓越しにステージを眺めた。
「やった!特等席」
「窓は開けないでね。見つかると怒られるから」
係員は自分も椅子を持ってきて、ミライの横に腰掛けた。

「それで・・・広野君は元気?」
「広野くん? ずいぶんなれなれしいけど、あなたは?」
なぜこんな事でむかつかなければならないのか、と感じながらも、ミライは女子大生と雅斗の関係が、気になってしかたがなかった。

「あ、私高校の時の同級生なの。上原美代子と言います」
「ふ~ん。で、付き合ってたの?」
「ひゅ~」 マキ達がからかって、口笛鳴らした。単刀直入なミライの質問に、美代子は多少面食らった。

「付き合ったって言うか、ちょっと難しいんだけど・・・結局ふられちゃった」
「そうなの? わかるな~ 先生冷たいもんね。何考えてるか、全然わかんないし」
「やっぱりそうなんだ・・・未だに苦しんでるんだね・・・」
「え? 苦しんでるって?」
「知らないの? 事故のこと」
「事故?」

 美代子は「しまった」と感じた。この子が知らないと言う事は、雅斗が事故の事を誰にもしゃべっていないと言う可能性が高いのだ。
「ううん、何でもない」
「ちょっと、何でもない訳ないでしょ。何よ、事故って!」
「それは・・・」

 会場から「わ~」と言う悲鳴にも似た歓声がわき起こった。マキが興奮して立ち上がる。
「出てきた、出てきた! きゃ~」
 その時、背後から大きな声がした。
「こら、あんたら、何やってるんだ!」
巡回のガードマンだった。 すかさず、美代子が弁解した。
「あ、この子達受験の下見に来て・・・」
「とてもそうは見えないが! あんたも係員ならちゃんと決まり守ってもらわないと」
「すいません」
結局、彼女らは一瞬、ジャパンを見れただけで、追い出されてしまった。その後、どうやってもコンサートを見ることはできなかった。

 ミライはコンサートが気になりつつも、美代子と話をせずには居られなかった。歓声と音楽の中の断片的な会話だが、ほとんどが美代子からの質問だ。ミライの質問ははぐらかされてばかりだった。
「上原さん、あなたの事を先生に言っておきましょうか、会いたいんでしょ」
「ううん、いいわ、言わなくて。私は、彼の前に現れない方がいいと思うの」
「気になるなあ・・・ね、教えてよ。何があったのか。ちょっとだけでいいから」
美代子はしばらく考えて、一言だけ言った。
「飛行機の事故なの・・・じゃ、私行かなくちゃ」
軽く会釈をして、美代子は去っていった。


「飛行機・・・」
 ミライは慶領大学からの帰り道、その事が頭から離れなかった。マキ達のカラオケの誘いも断って、家に帰るなり父親の書斎に駆け込んだ。
「ちょっと、み~ちゃん。お父さんの部屋に勝手に入っちゃだめよ」
リビングから母親の声がする。
「うるさいな~」
 机の上のパソコンを立ち上げ、ブラウザを開き、東峰新聞のメンバーズサイトにアクセスした。この新聞検索のページは、父親が会員になっている、新聞記事の有料データベースで、あらゆるニュースがキーワードで検索できるようになっていた。

「飛行機事故」で検索してみる。 五千八百件もヒットした。
「多すぎるな~」
飛行機事故・墜落・日本人・生存・・・色々なキーワードを試してみる。次第に件数が限られてきた。そんな中の最も最近の記事を抽出してみた。 「これは・・・」 見覚えのある事故の記事だった。旅客機と自衛隊機の接触墜落事故・・・。大きな事故だったので、当時中学生だったミライもよく覚えている。

 東洋航空旅客機墜落  死亡二百二十三名、行方不明六十七名  少年一名が奇跡的に救出される   ”救出されたのは、長野県在住の広野雅斗さん(十六)。事故調査委員会は搬送先の病院を明かしていないが、静岡県内のある病院で治療中のもよう”

 ミライの瞳が大きく見開かれ、青く光るモニタに釘付けとなった。  記事の中の死亡者、行方不明者一欄を見る。スクロールをするマウスがぴくりと止まった。 「広野新之介、広野良子・・・」  暗がりの中、茶色に染まった髪がディスプレーと重なり、震える輪郭を際だたせていた。一時間経っても、ミライは書斎から出てくることはなかった。


 街の街路樹は色づき、銀杏並木は歩道に黄色い絨毯の演出を施している。緩やかに沈みきった太陽が、夕暮れの東京をトワイライトに染めていた。薄紫のグラデーションをバックにシルエットに浮かび上がったビル群の谷間を秋風が吹き抜け、家路に急ぐ人々の歩速を早める手助けをしている。    そんな足早に行き交う人々の中に、木城舞の姿があった。隣には愛想の良さそうなビジネスマン風の男。二人はまるで古くからの友達であるかのように、楽しそうに会話を弾ませている。

「金本さん、今日はごちそうさまでした」
舞が、長い黒髪を静かに揺らして、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、付き合ってもらって、迷惑じゃなかった?」
「いいえ。楽しかったです」
「そう、木城さんもこれから就職とか色々あるでしょ、僕で良ければいくつか良いところを紹介できるけど」
「はい、頼りにしてます」
 金本は、舞が昔所属していたサークルの先輩だった。当時はほとんど話をする機会も無かったし、彼はすぐに大学を卒業して、いなくなってしまった。舞にとって、かすかに記憶に残っている程度の間柄だったが、最近になって、ふとした切っ掛けで再会し、流れで何度か食事共にしていた。舞は、彼の彼女に対する興味以上の感情が、毎回強くなってくるのを感じていた。彼女自身も、そう言った彼の視線を多少心地よく思い始めているのだった。

「じゃ、今日はこれで」
「あ、タクシーで自宅まで送ろうか」
「いえ、ちょっと寄るところがあるので・・・」
「また彼氏の所? まあいいか・・・電話するよ」
「さようなら」
多少、複雑な笑顔を浮かべ、手で挨拶をして人混みに姿を消していく後ろ姿を見送り、舞は地下鉄の乗り場へと下りていった。

 雅斗はその日も、新しく改良したマシンと格闘していた。就職が決まり、卒論を提出してしまった彼は、もう大学へ行く必要もなかった。人生で最も時間を好きなことに費やせる期間は、後僅かしか残っていない。数ヶ月もすれば、仕事に追われる日々が延々続くのだ。それまでには何とか結果を出したかった。少なくとも、マシンから発生する特殊な「場」の正体を突き止める事が、今現在の目標だった。

 コイルの回転数はすでに秒速三万回転を越えている。当然ながら、コイルから発生する電場と磁場の変動は観測する事ができたが、どうしても、「第五の場」の存在を捕捉する事ができない。

 ドンドン!  静まり返った、薄暗い部屋の空気を、突然ノックの音が切り裂いた。実験に熱中していた雅斗は、一瞬はじかれたように振り向いたがすぐに、やれやれと言う表情で、戸口に向かった。
 ロックを外し、扉を開いた彼は、唖然として彼女を見た。  そこに立っていたのは長い黒髪の舞ではなく、茶色い髪の、表情に多少幼さの残るミライだった。

 ミライは入り口の雅斗を押しのけ、ずかずかと土間へ入り、回りを見回している。
「変人とは思っていたけど、まさかこんな所に住んでるなんて・・・うわ~何?この機械」
雅斗はあっけに取られながらも、彼女を制した。
「ちょっと、勝手に入らないでくれる? それと、どうしてここに来たんだ」
「いやだな~授業を受けに来たに決まってるでしょ。それとも、何か別のこと期待した?」
 ミライは、冗談めかして小悪魔的な視線を送った。幼いとは言え、大学を控えた十七歳。十分に大人としての魅力も兼ね備えている。

「今日は曜日が違うだろ。それにとっくに門限を過ぎてるじゃないか」
「門限? なんなの?それ。先生まで私を縛る気?」
「いいから。タクシー拾ってやるから、帰えろう」
雅斗が嫌がるミライを半ば強引に外へ連れ出そうと、肩に手をやった時、彼女は「きゃ」と声を上げた。  見ると、半開きのままの戸口に誰か立っている。部屋が薄暗い上に、長い髪が風に揺れるシルエットを見て、驚いてしまったのだ。

 「お客さん?」 冷静を装いながら入ってきたのは、買い物袋を抱えた舞だった。さすがの雅斗もタイミングの悪さに顔を歪め、どう言う順序で説明するべきかと、言葉に詰まる。

「ああ、彼女さんですか? 初めまして、矢川ミライです。広野先生に家庭教師をしてもらってます」  
あっけらかんとしたミライの自己紹介が、濡れ場では無かったことを物語っていたが、まだ舞は腑に落ちない表情だ。

「矢川さん、どうしてあなたがここにいるの?授業はいつも家でやってるんでしょ」
「だから、今日は先生の家で教えてもらおうと思って・・・」

雅斗はこじれる前に追い返そうと、再び説得を試みた。
「ここで教える事はないよ。聞きたいことがあれば、明後日教えてあげるから」
「明後日じゃだめなの! 今日教えて! 先生がどんな人生を歩んできたか、これから何をするつもりなのか」

 雅斗も舞も彼女が何を聞きたいのか、計りかねていた。
「あら、買い物袋・・・食料品ね。先生にこれから料理作ってあげるつもりだったの?」
「ええ、まあ」
「いつも、料理を作ってあげるの? そうだよね、先生自炊なんてするタイプじゃないし。でも、おいしい、とか、ありがとう、とか言ってくれた? どうせ、ご飯食べて、すぐそこの機械に夢中になって、あなたには目もくれないんじゃない?」
「そんなこと・・・」
舞は口をつぐんだ。そこまでひどい状況ではないとは思ったが、ミライの感の良さには言葉が出なかった。

「それで、満足なの? それとも、理解ある”彼女”を演出しているのかしら」
雅斗も口を挟まなかった。あのミライがなぜここに来たのか、急にまくし立てる理由は何なのか・・・心のひだに引っかかるかすかな違和感を感じ始めていた。
「矢川さん、わかったような事を言わないで。私は、雅斗を十分理解してるし、尊敬もしている。私たちはそれで・・」
「じゃ、先生が熱中している、この”機械”何なの? どうして、ここまで熱中するの?」
舞は答えられなかった。
「やっぱり知らないんだ。先生がどういう過去を背負っているか」

 雅斗が感じていた違和感が、具現化し確信へと変わった。遠くに置き去りにした過去が、時空を越えて現在の雅斗へ追いつこうとしていた。

「六年前の東洋航空機墜落事故、あれに先生は乗っていたの!」

「矢川さん!」
 雅斗はミライの言葉を封じたい気持ちがこみ上げ、怒鳴り声を上げてしまった。舞は焦点の定まらない目で、何かを追っている。それが何を意味するのかすぐには理解できないようだった。ミライは、一呼吸入れ、彼の目を真っすくに見た。
「私、先生を軽蔑してました。嫌いでした。でも、それは先生の偽りの姿に惑わされた結果かもしれない・・・広野先生という人物を判断するためには、本当の姿が必要なんです。授業してください。先生の過去と未来について・・」

 ミライはいつしか、必死に懇願していた。なぜそうしてまで、他人の人生を知りたいのか・・・自分でも解らない。ただ、一つ、今までに見せたことのないほどの、真っ直ぐな目から流れる涙が、単なる好奇心では無いことを物語っていた。

「・・・言いたくないね」
「どうしてなの? 何で人に言わないの? 何で同情を買わないの?」
「必要ないからさ」
「先生の未来にとって? 先生の未来って、これ?」
ミライは振り返り、そのマシンを指さし、近づいていった。

(しまった、まだ電源が入ったままだ。コイルの回転が止まっていない)

「矢川さん、それに触らないで!」
しかし、ミライは引きつけられるかのように、一歩、また一歩と近づいていく。

「そんなに・・・大事なもの・・なの?」

「何なのよ! これ。先生・・・何に向かおうと・・・してるの?」

 ミライの足取りが怪しくなり、目がうつろになる。
「雅斗、彼女変だよ」

「矢川!」
雅斗が駆け寄った瞬間、ミライは崩れるように倒れ込んでしまった。足が冷却液のバルブに引っかかり、弾みでジョイントが外れる。液体窒素が轟音と共に吹き上がった。冷却剤を失ったモーターの温度が一気に上昇し始める。強力な電磁石が、超伝導としての機能を失い始めていた。

「舞! 彼女を頼む」
普段は冷静な彼がここまで慌てるのは、尋常ではないと悟った舞は、必死でミライを機械から引き離した。
 雅斗はメインスイッチを切り、吹き出す冷却剤を止めた。しかし、高速回転を続けるコイルは、真空中の磁場の中で、回り続けていた。バルブの損傷で、非常停止装置の油圧が下がっていたのだ。パソコンの画面で、機械の制御状況を確認する。

「回転軸が、少しずつぶれてる」
マシンを乗せている金属の台がカタカタと音を鳴らし出した。同時に、床に散乱している、ボルトやビスが共鳴したかのように、細かく跳ね上がる。次第にその動きは激しくなり、ついには空中に浮き、マシンを中心に回転を始めた。

「これは・・・」
雅斗にはその現象を確認する余裕がなかった。駒の重心がぶれていくように、コイルの回転軸は制御不能に陥っていた。体にも重たく鈍い振動が伝わり、今や部屋全体がうなり声を上げていた。

「何なの!これ!」
「だめだ、舞逃げろ!」
そう叫んだ瞬間、ついにコイルの運動は臨界点を越えてしまった。

「バン!」

 耳をつんざく破裂音と共に、衝撃波が襲ってきた。雅斗も舞も壁に叩き付けられた。倒れていたミライは、一メートルほど転がっただけだった。

 5分ほど過ぎただろうか・・・耳鳴りが収まり、舞はようやく立ち上がることができた。肩を壁に打ち付けたのか、多少痛みがはしたが、それほどひどくはなかった。白く煙った部屋の中を見回し、回りがどれほどの惨状か確認した。しかし、部屋そのものはこれと言って変化がなかった。今は静まり返った、例のマシンにおそるおそる近づいてみる。頑丈に密閉されているはずの金属のカプセルの上部には、十センチほどの穴が開いており、中は空洞になっていた。その穴の延長線を辿るように、天井へ目を走らせる。そこへも十センチほどの穴が開いていた。

 「超高速で回転するコイルが、屋根を突き破って飛んでいったんだ」
雅斗が後ろからゆっくりと近づいてくる。舞はっとして、彼の腕を見た。血が滴り落ちている。
「雅斗!」
「大丈夫、破片でちょっと切っただけだよ」
言葉とは裏腹にかなり痛そうに腕を抱えている。
「でも・・・」
「それより、矢川さんが、目を覚まさない」
舞が、床に横たわっているミライの体を調べた。
「怪我はないようだけど・・・一応救急車を呼んだ方がいいね」

   

(機械に近づいた時、何故か彼の感情が私の中に流れ込んできた)
 全く音のしないはずの空間で、「さー」というノイズ音だけが耳に残っている。なんか、懐かしいにおいがする・・・ 一瞬で彼という存在を理解したが、次元を越えると同時に、その感覚はすぐに無限の彼方へ消えていった。  

(私どうなたんだろう・・・)

 意識だけが光速で膨張し、広大な宇宙に染み渡っていく。とても気持ちがいい・・・自分は矢川ミライという名だが、そのしがらみも今はない。自由に時空を越えられるような気がする。何にも縛られず、心を解き放つ事ができる。全てが自分の中にあり、自分が全ての中にある。過去も未来も見通せるが、それらは人智を越えた時空にとけ込み、思考や言葉で表す事ができない。
 今や、人や物、地球さえも、はたして存在していたのか怪しくなってくる。確かに矢川ミライは、ある一点に存在していた。だがしかし、それは意識を越えた宇宙的な揺らぎの、ある一面でしかない。大統領も、独裁者も、犯罪者も、警察官も、会社員も、ホームレスも、戦士も、異教徒も、殉教者も、親も、子も、幸福な者も、不幸な者も、健康な者も、病んでいる者も・・・全てが揺らぐ、水面の波の一つずつ・・・溶け合い、離れ会う、時空の波のいわゆる一面・・・  
 それらは融合分離を繰り返し、時には大きなうねりとなって、一つの「系」へと導いていく。そのために必要な、最初の一滴・・・波紋を作る最初の切っ掛けが必要なのだ。

 ミライは自分のあるべき立場を理解した。

 揺らぐ時空から生まれた星が、一房の雪となって降り積もる・・・  いつしかそれらは白銀の雪原へと姿を変え、人々の足跡を刻む。ここにも「私」はいたのだ。漠然とした夢を紡ぎ出す少年の手。幸福と孤独の狭間で自らの意志を形にする手。雪の中で無心に未来をつかみ取ろうとしている。「私」は傍らでほほえましく眺めていた。そしてあなたは一人ではないと言うメッセージをその場に残した。同じロケットの雪像として・・・

 星々の瞬く夜空を見上げながら、父親の話を無心に聞く少年。星々が誘うままに、少年と「私」は宇宙の深遠さをかいま見た。「無限」に目覚めるその時を待ちながら・・・

 彼を導く多くの友人達との出会い。偶然と必然のいらずらに翻弄させられながらも、熱い感情を交換した、聖なる場所。始めて感じる心の喜びを「私」も感じていた。

 そして、家族との別れ。行き交う人混みの中で、自分の存在そのものに疑問を感じている。あの恐怖に打ちのめされた瞬間から、自分が消えても何も変わらないと言う絶望感と、その後も感じ続ける事になる焦燥感。「私」もそれを一緒に体験していた。

 いつしかミライの意識はゆっくりと、思考レベルへと降下し始めた。黄金色の光が無数の束となって通過していく。光は次第に虹色へと変わり、それらを自らの目で確認しているのだという、肉体的感覚ももどりつつあった。


 病室では、腕に包帯を巻いた雅斗と、舞が無言で椅子に座っている。ミライが意識を失ってから、すでに二時間時間が経過していた。病院に運ばれてから、まもなく母親が駆けつけたが、容態が安定していると言う事もあって、一度着替えを取りに家へと向かったのだった。
 舞は、今まで知らなかった彼の内面をどう解釈するべきか迷っていた。事故に遭う前の雅斗がどういう人物だったのか、今はどう感じているのか、これからどうするつもりなのか・・・しかし、それを聞いたからと言って、何か変わるのだろうかと言う疑心にも取り付かれていた。
 確かに舞は彼の事を何も知らなかった。しかし、それは雅斗も同じで、お互いの過去や将来の夢などを語り合うことはほとんどなかった。その束縛を伴わない距離感が、自分たちの関係をうまくまとめていると感じていたのだ。
 しかし今は、それが途方もない隔たりに感じられる・・・元々自分たちは、全く違う道を歩んでいたのではないだろうか・・・ただ単に寂しさを紛らわすためのパートナーでしかなかったのではないか・・・舞の心に今まで感じたことのないような空洞が、大きく広がりつつあった。

「舞、ごめんな。危険な目に遭わせて・・」
雅斗がぽつりとつぶやいた。その表情は、色々な思惑が重なり合った複雑な心境を物語っていた。
「ううん、私は大丈夫。でも、この事故よりも、雅斗の過去を知った事の方がショックだった・・・あなたの性格なら、こんな事が無ければ、言ってくれなかったね」
「・・・そうだな」
「もっと、色々話をすれば良かった。そうすれば、私たち違った関係になったかも」
「いや、変わらないよ。第一、僕の過去が何だって言うの? ひとたび天災が起これば、何千人何万人という人間が一度に死ぬ。戦争になれば、何十万何百万人もの人が犠牲になる。偶然にもその場から生還したからと言って、みんなが聖人や人格者になるわけじゃない。傷の深さは、事故の大きさや死者の数で決まる訳じゃないんだ」
「でも、あなたは違う。明らかに何かに向かっている。それだけは解るの」

雅斗は舞の黒い瞳を覗いた。そしてゆっくりと視線をミライへ移した。


 どたどたどた・・・がちゃっ! 夜の病院にけたたましく足音が鳴り響き、病室のドアが突然開いた。  入ってきたのは、息を切らせながら、ミライに駆け寄る常務の矢川だった。二人には目もくれず、飛びつきそうな勢いでベッドに駆け寄ると、緩やかに、そして力強くミライの肩を揺すった。
「ミライ! どうしたんだ。何があった。返事をしろ・・・」
だが、彼女はぴくりとも動かない。  しばらく、娘の顔を撫でていた矢川が、くるりと向き直り、鬼の形相で雅斗をにらみつけた。

「どういう事だ、これは!」
雅斗は一呼吸置いて、矢川を真っ直ぐに見た。
「卒業論文のための実験の最中に、事故がありました。ミライさんはその場に倒れて意識がなくなりました。僕の責任です。申し訳ありません」
「そんな危ない実験を娘の前でやったのか!それになぜ、娘がおまえの家にいた?」
「それは・・・」
「まさか、おまえ・・・娘と・・」
「違います!」 舞が見かねて口を挟んだ。

「娘さんは、今日突然彼の家にやってきたんです。話をしている内に、偶然事故が起こって・・・でも、お医者さんの話では、怪我はしていないそうです」
「なら何故意識が戻らないんだ! 娘に何かあったら、ただじゃおかんぞ!」
矢川は憎しみのこもった表情で、雅斗をにらみつけていたが、その目からは今にも泪がこぼれそうだった。そこにいたのは立場も地位もかなぐり捨てて、無心で娘を心配する父親の姿だった。

「私は大丈夫だから・・・」
今にも消え入りそうだったが、確かにベッドから声がした。矢川が顔をくしゃくしゃにしながら、駆け寄る。
「おい、気が付いたのか? 大丈夫なのか?」
「うん、お父さんごめんね」
矢川は、何度も頷きながら、娘の手を取った。
 ミライはまだぼうっとした表情ながらも、しっかりとした笑顔を浮かべて父親を見た。その顔はまるで今までのミライとは別人のように晴れ晴れとして見える。

「お父さん、先生は悪くないの。私が勝手に押し掛けて、迷惑かけたんだから・・・倒れたのも単に疲れが溜まっていただけなのよ」
「いや、しかしおまえ・・・」
「ちょっと先生と話があるの。ね、お願いだから、話をさせて」

 まだ、納得のいかない矢川だったが、とりあえず娘の意識が戻った事で、冷静さを取り戻していた。
「ちょっとだけだぞ。私は当直の医者におまえの意識が戻った事を知らせてくる」
矢川は多少疲れたような足取りで、病室を出ていった。

 舞は、さっきまでとはちょっと違って見えるミライを見ながら、自分の居場所の無さを感じていた。
(何故だろう・・今日の彼女の行動を今では許し、受け止める事ができる。私、引き時なのかもね・・)
「ねえ、雅斗。私、今日話したいことがあったんだけど、また今度にするね。今はミライさんの話を聞いてあげて」
 じゃ、と手を振り、舞は病室を出ていった。

 雅斗は多少困惑した表情で、横の丸イスに腰掛けた。
「私、ずっと先生と会うのを待っていたような気がするの・・・昔から。でも、誤解しないで。変に言い寄ったりしないから。そう言う感情じゃないんです」
何から話すべきか迷っているようだった。
「寝ている間に、夢を見ました。目覚めてみると、どんな内容だったかよく覚えていないんだけど、あの感覚だけは鮮明に覚えている・・・何か、大きな物と溶け合うような、自分が全ての人と繋がっているような・・・星が沢山光っていた・・・先生もその星達の中の一つでした。でもそれは一際大きく輝いていた・・・」
 雅斗はミライの瞳孔の奥に、無限の広がりを見たような気がした。

「先生も、それを見ているはずです。そして気が付いている、何をするべきか。だからこそ焦りを感じている・・・でも、もう焦る必要はないと思う。自然に道は出来ていきます。私、そのお手伝いをします」
雅斗の胸の奥に、幼い頃から度々経験してきた神秘的で不思議な感情が蘇ってきた。しかし、それの意味するところまでは解らなかった。
「今はまだ具体的な歩みが見えて来ないかもしれない。私もよく解りません。でも、必ず結果が現れて来ます。自分を信じてください」

ミライの口調は穏やかで、優しく、とても十七歳の少女の言葉には思えないほどの落ち着きがあった。
「それと、私が経験したこの不思議な体験・・・あの機械に関係があると思うの。人間の意識との関係を突き詰めれば、答えが見つかるんじゃないかな・・・」
 雅斗は無言でミライを見つめていた。そして、にっこりと笑い「ありがとう」と言った。

 「気が付きましたか」 夜間当直の医師が、診療用具を抱えて入ってきた。後ろから心配そうな矢川が覗いている。
「あ、ちょっと診察しますから、お二人とも廊下で待っていてもらえますか」
 矢川は廊下の長椅子に腰掛け、何かを考えているようだった。雅斗は少し離れて、壁に背中を付けて立っていた。

「広野くん。私はまだ納得がいかない。無事だったとは言え、娘が危険にさらされたのは事実だ。できれば、二度と娘には近づかないでほしい」
「・・・・」
「こんな事があって、そのまま君を締産重工に入れる訳にはいかない。かといって、一旦契約を交わした新入社員を私の個人的な事情で解雇するわけにも行かない。君には、どこか遠くの子会社へ、出向してもらうことになると思う。私としては、君が自主的に退職してくれることを望むがね・・・」
「いえ、仰せの場所で働かせていただきます」
 怪訝そうに見つめる矢川に深々と頭を下げ、雅斗は病院を後にした。



 矢川ミライはその後、高校をトップの成績で卒業し、無事慶領大学への入学を果たした。黒いストレートの髪をショートにカットし、ジーンズ姿でキャンパスを闊歩するその姿は、以前のミライとは見違えるほど大人びて見えた。しかし、あの病院で話をして以来、雅斗とは一度も会ってはいなかった。
 木城舞は、あの後電話で「言いたかった事」を彼に伝えた。自分の彼に対する気持ちの変化と、生きる道が違うと感じた事などを正直に話した。それ以来、彼女もまた雅斗と会うことは無かった。

 一九九六年春、締産重工へ入社したばかりの雅斗へ、辞令が下った。
”広野雅斗。株式会社テイサン・エナジー ペルー支社へ出向を命ず”

シフト vol3

シフト vol3

自分でも気が付かないうちに、見えない力に流され翻弄される青年を描いたSF大河、第三部。人と宇宙と意識がある1点で交わる時、新たな扉が開かれる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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