シフト vol1

無限

 見渡せば、遙か山並みの稜線まで続く原野と牧農地帯。八ヶ岳連峰が見下ろすこの野辺山高原は、冬になると零下二十度を下回る事さえ少なくはないが、積雪自体は不思議と多くはない。しかし、今年は寒波が早く訪れたようで、十二月のこの時期でさえ、五十センチを超える降雪量があった。時折、村々を見守る伝説の巨神の吐く息が、大地を伝い走るかのような地吹雪となって、この地域一帯を白く煙らせる。事実、この村には昔からの言い伝えや伝説が数多く残っていた。何者をも寄せ付けない八ヶ岳の荒々しさが、人々に畏怖の念を抱かせても不思議ではない。村の生活にはこれらの言い伝えが、伝統となり染みついているのだ。そのせいか、外界からの喧騒もまるで勢いをなくするかのような不思議な空気がこの村には漂っていた。だれもこのような農村に急激な変化が訪れるな事など、想像もしようがなかっのだ。・・・神々の結界をも打ち破る異界の侵入者。一九八一年、日本古来から受け継がれてきた伝説が色濃く残る八ヶ岳連峰の麓に、それは忽然と姿を現した。伝統の村にはまるで不似合いな、直径四十五メートルの円盤。それを支えている巨大な金属の支柱。今にもそこから銀色の服を着た金星人が現れてもおかしくはなさそうだ。その建造物は人々に御山に対する畏怖の念とはまた違う感情を抱かせた。・・・現代科学の結集・・・異形のパラボラアンテナはいつも上空を見つめ、時折神々と張り合うかのように、うなり声を上げながら首を振るのだった。  

 広野雅斗は小学校から帰る途中、母親の運転する車に拾われた。父親の新之介が急きょ、夜勤になったと言うので、母が夕食を弁当にして差し入れに行くところだった。日はすでに尾根の向こうに沈みかけている。別に友達と遊んでいて遅くなったわけではなかった。鹿児島で育った雅斗が、父の長期研究のため、この地に来る事になったのは約二ヶ月前。それまで、雪という物をほとんど触った事がなかったのだ。
 クラスメイトが時々からかいながら通り過ぎるのを横目に、一人校庭の脇で城とも塔とも見分けの付かない雪像を作り続けている内、日が暮れてしまったのだ。元々一つの事に熱中するとのめり込んでしまう性格だが、転校後まだ友人ができないのも一人遊びに興じる理由ではあった。  
 広野家の車はファミリータイプのセダンだが、まるっきり寒冷地仕様ではなかったので、さまざまな不具合を露呈していた。エンジンやクーラント液の凍結、アイスバーンでの走行など、広野家にとっては初めての体験が目白押しだった。父はこの車に愛着を持っていたので、なかなか手放そうとしたかったが、母は最新の四輪駆動車に買い換えるべきだと主張している。その問題の車の窓を開けながら、母が叫んでいた。

「まさちゃん、いつまで遊んでるの? 暗くなってしまったじゃない! もう、心配かけないでよ」
雅斗は、今初めて日が暮れた事を知ったような顔で、空を見上げた。西の空はまだ明るい黄金色を残していたが、山々は真っ黒なシルエットになって夜の精霊の到来を待っていた。
そこにひときわ目立つ楕円形のシルエット。父新之介が勤めている、野辺山宇宙電波観測所だ。母が一段と大きな声で呼んでいる。雅斗は一度だけ雪で出来た力作を見やり、車へと向かった。明日の朝には意地悪な上級生に踏みつぶされているであろう事は想像できたが、万が一無傷で残っていたら、幸せな一日になるかもしれない。  

 鎖を履いたセダンの前輪はは二、三回空滑りをしてから、駆動エネルギーを車体へと伝えた。今年は雪深いとは言え、わだちに沿って走れば、それほど運転は厳しいものではなかったので、母でも数回の練習で、何とか走れるようになったのだ。
「寒いのに雪遊びなんかして~ しもやけになるじゃない」
この辺の子はみんなしもやけを持っている。
「学校の子にいじめられなかった?」
「・・・・」
「父ちゃんね、急に夜勤になったんだって」
いつもの事だった。
雅斗は、アクセルとクラッチのタイミングをまるで自分が運転しているかのような感覚でまねながら口を開いた。
「何か発見したの?」
「そんなこと、母さんにわかる訳ないじゃん」
「ほら、彗星とか、新しい小惑星とか、超新星とか・・・」
「父さんの仕事、そんなんじゃないんじゃないの?」
「ふ~ん。そういうのやれば、有名になれるかもしれないのに」

 手持ちぶさたな雅斗は、なにげなくラジオのスイッチを入れた。スピーカーから流れてきたのは、今日の最後のニュースだった。 「地球の裏側、アンデス地方では、今日未明からはじまった皆既日食を見ようと、たくさんの観光客が押し寄せています。今回の日食はこの地方では、二百五十年ぶりの・・・・・ピーガー、ザザザー」

 車は広い道路に出た。途端にじゃらじゃらとチェーンが金切り声を上げ始めた。幹線道路は除雪が行われているので、雪は皆道路脇に除けられている。むき出しのアスファルトとチェーンの相性は最悪だった。タコメーターは五千回転を記録していたが、スピードは四十キロメーターほどしか出ていない。後からジープが近づいてきて、スマートなエギゾストノイズと共に追い抜いて行った。
「この車、雪国には無理があるわよね~」
ジープはテールランプのみを残して、ダークブルーの空気の中へ溶けて行った。 空はもう漆黒の闇に包まれている。いや、真っ黒に見えていたのは、道路の両脇にそびえる木立の群で、その上にあるはずの夜空は、ほのかに青く輝いていた。

 母が注意深くその場所を確認しながらウインカーを出す。この林道を抜ければ、ようやく父の仕事場だ。本来は朝晩送り迎えをしているので慣れているはずの道だが、先日の雪でそこはまるで別の道のように姿を変えていた。多少残されているわだちは、夜の冷え込みで所々アイスバーンになっている。緩やかな上り坂だがタイヤが空回りをしたのは、二、三回ではなかった。他の車が全く通らないのと、カーブがほとんどないのが救いだった。
 車を駐車場とも空き地ともつかない場所に止めてサイドブレーキを引いた。母がうしろの座席に置いてあった包みを取り、反対の肘でドアを開ける。エンジンを切ると同時に張りつめた静寂が雅斗を襲った。ざくと言う足音と共に体を外に出す。気化した水分と炭酸ガスを含む白い息が真っ黒い木立のじゅうたんに吸い込まれて行った。
 目の前にそびえる円盤はいつ見ても恐れと感動の入り交じった感情を抱かせる。まだ未完成の施設だが、このままでも十分かっこいい、と雅斗は思った。すべてが完成するのは、来年になりそうだ。父は、それまでのテスト観測要員でありながら、大学の研究も兼ねると言う使命を帯びてこの地に来たのだった。

 新之介は入り口近くのロビーでコーヒーを入れているところだった。ここには来客用の茶道具もそろっており、魔法瓶の傍らには常にインスタントコーヒーとクリープが置いてあるのだ。
 母がやや怒ったような表情で弁当の入った包みを渡した。
「や、ありがとう 急にアンテナの精度調整の結果をまとめて本部と大学に送らなければならなくなってね 今日は邪魔なノイズも少ないし空気も澄んでいるから、やってしまおうって事になったんだ」
「それで、いつまでかかりそう?」
「そうさなあ、途中仮眠は取るけど、明日の昼頃までかかかるかもな、あ、帰りは高橋さんに送ってもらうよ」
「それで、また夕方まで寝るってわけ?」
「しかたないだろ、それが仕事だし・・・お、雅斗、飯食ったか?」
「食べてないわよ。だってこの子今まで校庭で遊んでたんだから」
「そうか!友達ができたのか」
「ひ・と・り・で!」
「・・・・」

 新之介はまるるで父親らしくはなかったが、だからと言って家庭をかえりみないタイプでもなかった。母良子とはお見合いだったが、他人からは恋愛結婚だったのではないかと思わせるほど、友達口調で話をするのだった。それは雅斗がいてもいなくても変わらなかった。ただ、家庭と仕事を比較する時、どうしても仕事に比重を置く傾向にある。と言うより、彼にとって天文学は人生を通した趣味だったし、他の何物とも比較のできない対象だった。良子もそのことを良く理解していたが、星の話をする夫に対しては、子供に向き合うような対応をしてしまう所があった。
 同僚の高橋さんが夫婦の会話に入るきっかけを伺うようにそっと近づいて来た。
「やや、お弁当ですか? いつもご苦労ですな。うちのやつにも見習って欲しいものだ」
良子は軽く会釈をして、至極自然な感じで夫の仕事ぶりに関する質問を始めた。内容を聞いても理解できないにもかかわらず・・・・

 大人の雑談ほど子供にとっての苦痛はない。雅斗は話がもう少し長引く事を覚悟し、研究所の外へと出てきた。とっくに胃の収縮は極限に達していた。大人と子供では時間の流れ方が違うのではないかと、子供ながら漠然と思うことがある。大人にとって一時間でも子供にとっては、三時間かもしれないのだ。科学者なら、その辺の研究もしてほしいものだ。雅斗はこういった事に一人、思いを巡らせる事が得意だった。

「どうだ。今日の星空は素晴らしいだろ」
いつの間にか新之介が後に立っていた。
「月は地球の裏側に行っているし、しかも今日の空気は最高に澄んでいるなあ・・・星を見るには絶好のコンディションだよ」
「星を見る?」
雅斗が怪訝そうな顔で見た。
「だって、これアンテナでしょ」
「そう、電波望遠鏡って言うんだ」
「なんでアンテナなのに望遠鏡なの? 筒もないしレンズもないじゃん」
雅斗は光学望遠鏡の事を言っているのだ。以前誕生日に新之介が倍率の低い天体望遠鏡を買ってやった事がある。最初は喜んで月や金星などを見ていたが、すぐに部屋のオブジェになってしまった。雅斗が飽きっぽかったからではない。低倍率とは言え、天体望遠鏡だ。月を見ると視界いっぱいに眩しいばかりの真っ白なクレーターを観測する事ができる。それは息をのむ、迫り来るような感動を伴っていた。
 しかし、すぐにその望遠鏡は使われる事がなくなってしまった。理由は地球の自転だ。肉眼では月や星の動きはほとんど認識できないほど緩慢な物に思える。しかし、望遠鏡の先に見える月は、僅か一分ほどで視界から逃げて行ってしまうのだ。一度逃げられると、次にとらえるのは至難の業だ。雅斗は、後で知った。赤道義と自動追尾装置が必要な事を。

 「電波望遠鏡というのは、目に見えない光を見るための物なんだよ。たとえばさ、X線とかγ線とか・・・」
 雅人はまだ八歳だった。そんな専門的な表現に興味をもてる訳もなく、ただ上の空でうなずいていた。  
 新之介は話題を変えてみた。
「友達、できないのか?」
「・・・・」
「まあ、焦ることはないさ。こういう時は自然に任せるのが一番。友達ができないのなら今は必要がないってことじゃないか? それが必要になったら、自然にできるよ」
 ある種無責任な言動に思えた。実際、転校して来てすでに三ヶ月が過ぎようとしていたが、未だに友達はできない。別にそれほどひどいいじめにあっている訳ではない。たまに話しかけてくる優しい女子もいる。でもその目と言葉の振動が哀れみに満ちているのだ・・・母は自分から積極的に話しかければすぐできるよ、と言う。でも、話す事もないのに何を話せばいいと言うんだろう。結果として、毎日給食の後と放課後は一人で遊ぶ習慣になってしまている。別に寂しくはなかった。父の言うとおり、今は必要がないのかもしれない。

 微かに青みを帯びた夜空にはきんと冷え切った空気が張りつめていた。成層圏まで入れても僅か数十キロメートルの気体の層は、その存在をも感じさせないほど星々の光りを透過させている。唯一、そのきらめく「またたき」だけが、大気の存在を主張しているかのようだった。
 星の名前まではわからない。様々な強さで光る星々とその真ん中を南北に突っ切る遙か彼方の光の帯。目が慣れるに従って銀河のうねりは競うように自己主張を始めた。よく見ると、ところどころ深く黒い穴が開いている。雅斗は寒さを忘れて見入っていた。ふと、隣にいるのが父親ではあるが、天文学者でもあることを思い出した。思いもよらなかった事だが、今初めて感じた疑問が口をついて出た。

「宇宙ってどこまであるの?」

 新之介は一瞬意表を突かれたような表情を見せ、そして、数秒考えた後、答えた。
「一言で言えばどこまでも・・・って事かな、果てがない、と言うか、難しく言えば、大きさはあるけど、距離が無限なんだ」
 新之介はうまく説明できなかった事を少々照れたような表情でごまかした。 しかし、この発言が雅斗の脳の一部に刺激を与え、大量のノルアドレナリン類を分泌させた事には気が付かなかった。

果てがない・・・?

 この視線の先にはまず空気があり、そして宇宙がある。その中に、それぞれ営みを持った星々が点滅している(ように見える)・・・でも、自分たちを包み込む銀河のその先には、延々と同じような空間が続き、何処まで行っても行き止まりがない・・・つまり、自分は今、{無限}を見ているのだ!

無限?
無限って? 無限なんてこの世にあるの? ・・・・・

 今にも吸い込まれそうな宇宙は遮る物が何もないかのように雅斗を迎え入れていた。まるで自分が星々の一つになって宇宙空間に漂っているかのような錯覚を覚える。自分という一つの点。そして回りには360度の果てのない空間。今やどちらが上か下かもわからない。光と闇の巨大な時空がぽっかり口を開けていた。{気が遠くなる}感覚。雅斗は初めてその不思議な、言葉では言い表すことのできない世界をかいま見た。

闇に落ちる!

そう思った瞬間、一瞬我に帰ったが、からだが意識とは切り離されて動いてしまっていた。

「あぶない!」

父親の叫ぶ声もはるか彼方から聞こえてくる。
人は睡眠中に「落ちる」夢を見ることがある。今それが覚醒時に起きてしまったのだ。目の前には建物の入り口へと繋がっている階段がある。雅斗は夢で見るのと同じように、階段を踏み外してしまっていた。まさにゆっくりと天地はひっくり返って行った。夢と違うのは腕と肩に激痛が走った点だけだった。

 新之介が駆け寄った時は雅斗はすでにうずくまって動かなくなっていた。実際転落したのは五~六段ほどだったが、打ち所が悪ければ、救急車を呼ばなければならない。新之介が後を振り向き良子を呼ぶより早く、母と高橋さんが飛び出してきていた。みんな口々に「大丈夫か」とか「どうした」とか「何処を打った?」などと叫んでいる。雅斗はそれを受けて、ちょっと大げさにしかめっ面をしながら起きあがった。両親に多少の安堵に表情が浮かび・・・そのあと、雅斗ではなく、父が母からしかられてしまったのだった。


 翌日は昨晩の澄んだ空気をそのまま受け継いだかのような晴天だった。かなり冷え込んだが、同じ気温でも曇天と晴天では心の温度が違う。まして、雅斗にとって昨日の「体験」の余韻がすべてを明るく照らしていた。階段から落ちた時の擦り傷が頬と肘にあった。そこは赤チンが塗られていて、実際より大げさで恥ずかしさを覚える。
 あの時・・・ほんの2~3秒だったかもしれないが確かに何かを見た。何かを感じた。何かを体験した。しかし、何も覚えていなかった。いや!ついさっき体験したかのように克明に覚えていた。それを理解できる思考回路が人間にはまだ備わっていなかったのだ・・・
 ただただ、あの時の興奮をそのままに、雅斗は学校へと向かった。母は、何かがいつもと違う・・・と、少し不安を覚えながら見送ったが、それが何なのかは検討もつかなかった。たぶん階段から落ちた時のショックが少し残っているのだろうと分析するにとどまった。

 学校に着いてからそのまま教室に向かおうとした雅斗はふと校庭の端、体育館の裏手で昨日作った「それ」の事を思い出した。まだ日陰なので溶けてはいないと思うが、このあたりでは毎朝上級生が遊んでいる。たぶんおもしろ半分に潰されてしまっているだろう・・・(ま、そうだとしても、今の自分は何とも思わないだろうけど・・・)  何のためらいもなく、その場をのぞき込んだ雅斗は、「あっ」と声を上げてしまった。潰れているどころか・・・・これは・・・?
 雅斗の「作品」の横にもう一本何か塔のような物が立っている。その物はまるで雅斗の作品と競うかのように、怏々しく、きらきら光りながらそびえているように見えた。そして、その横に「僕の方が高く飛ぶ!」と雪の上に書いてあった。それを作った「彼」は雅斗の作品を「ロケット」だと理解していたのだ。そして、まるで共同作業のように、横に並べて同じような雪のロケットを完成させていた。 雅斗は自分では気がつかなかった、見えない「友人」の存在に気がついた。授業開始のチャイムが鳴り始めたが、まるで聞こえないかのようにその場に座り込んで2塔のロケットを眺めていた。
(僕、一人じゃないんだな・・・)
雅斗の目から自然と涙があふれて来ていた。

奇跡の生還

 一九九〇年。雅斗、十六歳、高校二年の夏。

 父、新之介の研究員としての仕事はとっくに終了していたが、根っからの「宇宙」人だった彼は、この地と「巨大円盤」が気に入り、大学に席をおいたまま、ここで研究を続ける事になったのだった。
 冬は極寒の野辺山高原も、この数ヶ月だけはすべての物が競い合うように輝き、動き、自己主張する。気温はさすがに三十度を超える日は少なく、避暑地としては最適だった。そんな訳で、近くにリゾート別荘地が分譲を開始していた。何を好んでこんな田舎に遊びに来るのか、雅斗には不思議でならなかったが、それでも分譲を始めた物件は片っ端から売れて行くそうだ。土地は高騰し、下がる事などあり得ないので、貯蓄代わりに土地だけ買って行く人もいるようだ。しかし、このところ、ニュースでは「株価が大きく下がり始めた。これは好景気の終わりを意味するのでは?」と騒ぎたてている。まあ、雅斗にとっても新之介にとっても、株価など全く関係のない話だった。なぜなら、星の動きは天地がひっくり返ろうと、株価に影響されはしないのだから・・・

 雅斗が住んでいる村には高等学校はなく、ほとんどの生徒は隣町にある高校へと進学して行った。雅斗も例外ではなく、毎日電車を乗り継いだ通学となっていた。
 夏休みが始まって、十日ほどたった頃に最初の登校日があった。登校日というのは中学時代と違って、最初の模試に向けての補強授業だった。雅斗が通っている高校は公立でありながら、結構な進学校だった。なぜ、進学コースを選んでしまったのか、雅斗自身にもわからなかたが、「とりあえず」大学に行くべきだといつの間にか思うようになっていた。しかし一学期の成績は、中の下。全教科の内、三つも赤点を記録してしまったのだ。同級生たちの多くは家庭教師を雇うか、進学塾に通っていたが、広野家では、そのような話は不思議と出なかった。あの奔放な父親にして、教育パパも似合わないが、母ですらあまり雅斗の成績には興味がないかのように装っていた。(たぶん、内心雅斗の進学をどうするか、いろいろ考えてはいただろうが・・・)
 雅斗には、高校生になって数人の新しい友人(悪友?)ができていた。今回の「成績表見せあいこ」で彼らが雅斗につけたあだ名は、「赤点スリー」だった。だが、雅斗は彼らの一人にお返しのあだ名を付けていた。「赤点ファイブ」と・・・・
 雅斗が教室に入るやいなや、友人の一人、平川達也が声をかけて来た。
「赤点スリーがそんなに悔しくて勉強しに来たのか~!」
「うっさいな~。家にいても暇だからだよ!」
 達也は、周りの連中とトランプに興じている。きっと点数をつけて一点につき十円などと、お金を賭けているんだろう。雅斗も以前、昼食時にこの「トランプ遊び」をして千円も負けた事があった。それ以来、その輪には加わらないようにしている。そんな事もあって、友達からは、必要以上にまじめ気取りに思われているようだ。

「そうじゃないだろう~。来たくて来たくてたまらなかった・・・違う~?」
達也がトランプから一瞬目を離し、視線を横に送った。その先には・・・上原美代子が机に座って、参考書に蛍光ペンを走らせていた。肩ほどのセミロングの栗色の髪の毛は彼女の元々の髪色だ。格別美人と言うほどではないが、多少幼さの残るその表情と物静で大人びた仕草とのアンバランスが雅斗にはこの上ない魅力に感じられる。彼女の笑顔を一日に何度見ることができたか、数えた事もあったほどだ。

 雅斗は「何訳のわからん事を!」と、言いつつも顔の温度が数度上がった事を隠せなかった。雅斗の彼女に対する仄かな想いは、友達の間では”ばればれ”だったが、まだ彼女の耳には入っていないと雅斗は確信していた。いくら悪友たちでも、そこまで彼を裏切る行為をするとは思えなかったからだ。

 それまでがやがやと騒がしかった教室が、ふっと静まった。気が付くと達也の後ろにいつの間にか担任教師が立っている。
「はい、没収!」
あまりにも味気なく、あっさりと達也の楽しみは奪われてしまった。
「後で返してくれるんだろうな」
ふてくされたように達也が言った。
「生徒手帳を読め。関係のない物を校内に持ち込んだら没収する・・・とあるだろ。校則も守れないようじゃ、大人になってから法律も守れんぞ!」
「知るか!そんなの」
 場の雰囲気が一気に険悪になった時だった。教室の扉がガラリと開いて、一人の生徒が走り込んできた。顔を紅潮させて汗だく、息をぜいぜいさせながら彼は言った。 「遅ばせながら、すいません!」 生徒の九十%はこの言葉でどっとわいた。トランプ没収事件はそのまま曖昧になってしまったが、これでよかったのかもしれない。
 遅刻した生徒も雅斗の友人の一人で、川島成海という女の子っぽい名だが、体格はがっしりしており、無精ひげに分厚い眉毛と、名前とはほど遠い容姿を持っていた。家は先代から続く町工場で、従業員も二、三人しかいない零細企業だ。この好景気にあっても、経営は苦しいようで、何に使うのかわからないような小さな部品や、スプリング類の制作をしていた。従業員を増やすゆとりなど無かったので、彼が進んで工場の手伝いをしていた。「親父は今のままでいいと言うけど、俺は嫌だね。いつか、世界の市場を独占するような物を開発してやる」いつも彼が言っている”意気込み”だった。(彼はやたら理工系の成績は良かったが、文化系はてんで、だめだった)

 「今度の模試はいつもの試験と違って成績表には関係ないけど、これからの進路を決める上で大事なテストだから、気を抜かないように」
通常の授業とはひと味違った、試験のための事業がこうして始まった。

 補強授業が二回目を迎えた八月二日の下校時。雅斗は珍しく一人で家路についた。いつもは、達也か成海と一緒に途中まで帰る事が多かったが、今日は二人とも休んでいた。達也は、たぶん来るのが、かったるかたんだろう。成海はおそらく、家の手伝いだ。彼は大学進学を考えていたが、達也はどうやら就職を考えているようだ。なぜ、進学コースに進んだのか未だに不明だ。
 蝉があちこちで鳴き始め、お盆が近いことを感じさせられる。なんだか、お盆が近づくともう夏が終わってしまうような気がしてちょっと残念な気持ちになる。

 ふと、前方十五メートルほどの所を一人の女子が歩いているのが目に入った。栗色の髪、清楚な歩き方、後ろからでも見間違うはずもなく、彼女は上原美代子だった。雅斗の心臓が鼓動を早めたのは言うまでもない。首筋に汗が流れるのも気にせず、自然と歩調が早くなり、彼女に近づいて行った。意識して近づいた訳ではないが一分もたたたない内に彼女に追いついてしまった。そして、追い抜きざま・・・
「さ、さようなら」
 今まで、2、3度しか言葉を交わしたことがなかったので、緊張もいたしかたなかったが、あまりにもありふれた挨拶に自分でも自己嫌悪に陥りそうだった。しかし、彼女から帰って来た言葉は「バイバイ、広野くん」だった。
・・・初めて名前を呼ばれた・・・ 天使のようなその言葉に振り返った雅斗の目に映ったのは、今までで最も間近で見た彼女の笑顔だった。

 お盆を前にした八月十日。
「雅斗、ちょっとお父さんを呼びに行って来て」
母が忙しそうに夕飯の支度をしていた。いつもよりは一時間ほど早かったが、明日から鹿児島に帰省する支度もあるので夕飯を早めにすます事にしたのだ。
 自宅から二十分ほど歩いた所に小さな清流がある。天文学者の父親とは言え、年中望遠鏡やコンピューターと向き合っているわけではない。休みの日は大好きな渓流釣りに出かける事が多かった。まして今は夏期休暇。思う存分自然との戯れを楽しめると、朝早くから出かけたままだった。
「なんで、僕が?」
雅斗は不平をもらしながらも、夕涼みにはちょうどいいこの時間帯の散歩は嫌いではなかった。そんなわけで、自転車を使わず歩いて行くことにしたのだ。

 夏の強烈な太陽も山の峰に姿を消し、山から発せられる「後光」が数本のたなびく雲を黄金色に光らせていた。この辺も幼い頃、引っ越して来たときに比べれば、かなり風景が変わってきた。観光を目的とした施設や、避暑、スキー客を当てにしたペンションも数多く点在した。それらの多くは東京近郊から、殺伐とした競争社会に嫌気がさし”脱サラ”をしてこの地に引っ越してきた人々だった。人口も増え、閉ざされた農村から近未来のモデル地区へと大きく変貌しようとしていた。しかし、自然が破壊的に失われる事もなく、今でも山々は雄々しくそびえ、町はずれからは広大な原生林が山の裾野まで広がっていた。そんな町はずれの一角に雅斗の家はあった。

 夏至の頃に比べれば多少日も短くなっている。家から十分も歩けば、あたりは結構薄暗くなり、オレンジからブルーへと移り変わっていくベールがゆっくりと周りを包んでいた
。  稲荷神社のある角を曲がろうとして、雅斗は出会い頭に自転車とぶつかりそうになった。 「うわっ」と叫ぶと同時に自転車は「チャリリン」とベルを鳴らし、かろうじて彼女は転倒を免れた。

「大丈夫ですか?」

双方、同時に発した言葉だった。 しかし、雅斗から次の言葉は出てこなかった。自転車の少女はあの上原美代子だったのだ。学校で見る彼女とは違って、涼しげなノースリーブとフレアスカートが良く似合っていた。

「広野君!・・・・」
驚きの表情を浮かべたのは彼女も同じだった。
「ごめんなさい。ライト点けずに走っていたから悪かったのよね。怪我しなかった?」
「いや、全然。大丈夫だよ。それより、どうしたの? こんな時間に・・・」
雅人は冷静を装いながら、当たり障りのない会話へと突入した。
「あ、うちのお父さんが町内会の役員をやってるから・・・お盆の祭りの準備してるんだ。それで、お手伝いさんのために差し入れを持って行って来たの。」

 美代子の家庭は、母親を早くに亡くし、父子家庭であることは知っていたが、家庭の事だけで大変だと想像できるのに、町内会の役員までとは・・・よほど世話好きなんだな・・・いや、彼女が母親役をやっているから、お父さんにもある程度余裕があるのかな・・・ などと、雅人は新鮮な気持ちで想像を働かせてしまっていた。(そういえば、彼女の行動がちょっと大人びて見えるのもそのせいか・・・)

「えっと・・・勉強してる?」 (また、しょうもない話を持ち出してしまった)
「うん。今からやっておかないと・・・私高校を卒業したら、東京の慶領大へ進もうと思ってるんだ・・・」
「慶領?・・・そうか、この前の期末テストもベスト5に入っていたよね。すごいな~、僕なんか何も考えてないから、勉強なんてやる気にならないや」
「でも、お父さん学者さんなんでしょ? すごいじゃない!」
「うん、まあそうなんだけど・・・」
 その後、話題が出てこなかった。(限界だ・・・)沈黙がこれほど重く感じたことはない。蝉の鳴き声も全く聞こえなくなった上に、あたり一面の紫がかった空気が、すべての音さえも奪い去って行くようだった。ここで、もし彼女に{じゃ、またね}なんて言われると、二度とチャンスは訪れないような気がした。しかし、彼女もこの沈黙に何か思いを馳せているように見えたのは、自分の思い上がりだろうか・・・

 雅斗がそう感じた瞬間、一筋の光が天から降ってきた。いや、それは夜になると自動的に点灯する、街灯だった。その光は、まるで彼らを導くかのように、神社の境内へと続いていた。  思いもよらない言動が出るのは、いつも追いつめられた時だ。
「お参りしようか」
なんでそんなことを言ってしまったのか。それに道を外れて人気のない神社に、この薄暗い中誘うなどという非常識な行動が許されるはずもない・・・ しかし、非常識な言動はなおも続いた。
「上原さんが一発で合格できるようにさ・・」
一瞬、また沈黙があり彼女は言った。
「うん」

 境内まではほんの三十メートルほどだったが、石段を上るため、美代子は自転車を脇に止めた。神社に至るまでの道のり、何を話したのか、またお参りはどうやったのか・・・よく覚えていなかった。ただ、父が星の研究をしているとか、自分もできれば東京に行きたいとか、お盆は実家の鹿児島に帰るとか、そう言う話をしたような気がする。しかし、それは全部自分についての話ばかりだった。それほど雅斗には余裕がなかったのだ。 (はてさて、これからどうすればいいんだろう・・・目的のお参りは済ませてしまった。)

 二人は無言のまま後ろを振り向き、もと来た道を戻ろうとした。  その時だった。黒く周りを囲む神社の森の上、広く広がる夜空に強大な青白い発光体が飛来した。一瞬あたりが照らされて明るくなったほどだった。二人は息をのみ、今までとは明らかに違う沈黙の内に、お互いの顔を見合わせていた。
「今のなに?!すごく光った! 音もしたよ・・・もしかしてUFO?」
美代子が興奮したように早口でしゃべった。しかし、雅斗には当然のようにその正体がわかっていた。
「今のは・・・火球だな」
「火球?」
「流れ星のでっかいやつさ」
「流れ星って、見たことあるけど、あんなんじゃなかったよ」
「うん、普通の流れ星は宇宙に漂うの小さな塵が、地球の重力に引き寄せられて、大気との摩擦ですぐ燃え尽きちゃうんだ。でも火球はそれより大きな岩石や氷の固まりが落下したときに、なかなか燃え尽きずに地上付近まで落ちてくる。当然、燃える時間も長いし、すごく明るく光るんだ」
「へ~、それじゃ、隕石みたいなもの?」
「まあね、あれが地上まで届くと隕石って事になるのかなあ」
「広野君、詳しいね、あ、そうか、お父さんが・・・」
「違うよ、ちゃんと興味をもって、自分で調べたんだ」
雅斗はわざと怒ったような表情をして見せた。
「ごめんなさい」
そう言う、美代子は申し訳なさそう表情で笑ったが、青白い街灯に照らされた彼女の透き通った笑顔は、さっきの流星など及びもしないほど、美しかった。

 いつしか、二人は石段に腰を下ろして星や宇宙の話に花を咲かせていた。でも、どちらかと言えば、美代子が雅人の話に会話を合わせているようでもあったが・・・
「さっきの流星、もう見れないのかな」
「あんなのは、めったに見られないよ。どうして? もう一度、お祈りするの?」
「あははは」
美代子が声に出して本当に楽しそうに笑った。その笑顔を見て、雅斗も笑った。
「上原さん、流星は見られないかもしれないけど、明日は日食がみられるよ。部分日食だけどね。ぼくはその頃ちょうど飛行機の中だから、見られないかもしれないけどね」
「へえ、そうなんだ、日食も見たことないな。楽しみ~・・・え? 飛行機?」
「明日から鹿児島に帰るんだ。あ、言わなかったっけ? 八日間ほど向こうなんだ」
「そんなに長くいるの?」
「でさ・・・その・・・田舎から帰って来たら、え~と、飯盛山にでも登ってみない? ほら、あそこハイキングコースがあるじゃない。リフトで上の方まで上がれるし、涼しいと思うよ」
デートの誘いだった。
「うん。じゃ、お弁当作って行くね」

 拍子抜けなほどあっさりとした返答だった。そして、次は美代子の番だった。
「私、広野君の事、色々知ってるよ。ずっと前から・・・もちろん、平川君や川島君が言っている噂も・・・」
(あいつら! やっぱり!)
この暗がりでは美代子の顔色はうかがえなかったが、紅潮しているのは間違いなかった。

 日はとっぷりと暮れ、紺色の空気が二人を優しく包んでいた。傍らでは虫たちが、まるで秋の到来を感じさせるかのような音色を奏でていた。二人だけの時間、二人だけの演奏会、二人だけの沈黙・・・  肩が一瞬触れたが、それは磁石のように離れなかった。美代子の体温が雅斗に伝わり、彼女の髪が頬をくすぐった。そして、目が合うのが早いかどうかというタイミングで、神社での儀式は終わった。覚えているのは、唇の柔らかさと歯がぶつかった事だけだった。

 家に帰るなり、母の良子が血相を変えて飛んできた。
「何処行ってたの!」
「あ、・・・・」
さっきまでの、人生で最も幸せな一時間ほどが一気に吹っ飛んだ。美代子と別れた後、急いで川縁まで行ったが、日もすっかり暮れて暗くなってしまていたそこには、父がいるはずもなく、そのまま引き返した来たのだ。でも、美代子と共有した時間の余韻が残っていたせいか、母に叱られるという考えには至っていなかったのだ。
 奥から父の声がする。
「なんだ、やっと帰って来たか」
「どういうつもり? 出かけて二時間近くも何やってたの!」
母の執拗な追求が続く。
「ええと、途中で友達に会って・・・」
「もう少しで、お父さん、捜索願いを出すところだったんだから・・・」
「ちがうだろ~ そう言ったのはおまえじゃないか」
新之介がのんきそうな言い方をしたので、母はますます頭に血が上ったようだった。
「ほんっと! いくつになっても親に心配かけるわね!」
「うっせ~な! こんな事ぐらいでわめくなよ」
「それが親に言う言葉?」
「もういいよ~」
雅斗はめんどくさそうにキッチンに向かった。父はすでに食事を済ませて、缶ビールを飲んでいたが、母はまだ夕食には手をつけていなかった。雅斗はそれを見て、ちょっと申し訳ない気持ちが湧いてきたが、啖呵を切った以上、謝る気にもなれなかった。
「もう! 早く食事を済ませて、明日の用意をしなさいよ!」

 そうだ、明日からの帰省の準備をしなければならない・・・そして、八日たつと、また彼女に会える・・・(八日も会えないのか) でも、その間は、彼女の事を考えながら過ごす事ができる。それもまたいいもんだ・・・ 雅斗の頭の中は美代子の事でまた満たされてしまった。

(さっき、分かれる時に、なんて言ったかな・・・なんだっけ、こんな大事な事忘れるわけない そうそう、僕が「電話するよ」、それで彼女が「気をつけてね」・・・か) ふだんなら社交辞令に聞こえる挨拶も、今の雅斗にとっては、心のこもった大切な言葉だった。{気をつけてね}が意味する言葉は非常に広範囲だ。帰り道の事なのか、田舎に帰省した時の事なのか、それとも、電話するときに彼女の父親に悟られないように・・・と言う事なのか・・・
(そうだ、その全部だ)
いつの間にか、雅斗は夕食を食べながら、にやけていた。
「父さん、流れ星へのお願いって、案外迷信じゃないかもしれないよ」
雅斗が上の空でつぶやいた。 両親はそれを見て(気持ち悪い~)と言う表情で、顔を見合わせるのだった。

 次の日の早朝、それぞれ荷物をまとめて、出発の準備はなんとか整っていた。それで朝早くから申し訳ないとは思ったが、比較的近所に住んでいる、高橋さんに車で駅まで送ってもらう事になっていた。しかし、野辺山から羽田空港まで一度出なければならず、この行程だけで四時間半もかかってしまう。そこから飛行機で鹿児島空港まで二時間、またそこから電車とタクシーを乗り継いで、一時間半。それぞれの待ち時間も考えれば実家に着くのは夜の八時頃になってしまう。かなりのハードスケジュールだ。
 外で車の短いクラクションが聞こえた。
「高橋さん、来たよ」 新之介が玄関から叫んだ。
「すいませんね。朝早くから」
「いやいや、どうせ盆休みだし、僕らの実家はこっちにあるし、広野さんが羨ましいですよ。こんな旅行ができて・・・」
「雅斗、早く荷物を持ってきて」
雅斗はだるそうに、リビングにまとめられていた荷物を運び出した。もっとも機嫌がわるかったのではなく、まだ起きて間がなかったからだった。  

 朝早いという事もあり、駅までの道は全く混んでいなかった。しかし、これからが大変だ、お盆の帰省ラッシュ。毎年ニュースでは新幹線の乗車率が200パーセント、などと恐ろしい話をしている。まあ、今回は飛行機のチケットもちゃんと取れたし、予定通り実家に着くだろう・・・今の雅斗には、何もかもがうまく行くようにしか思えないのだった。
(そうだ、帰ってきたら、僕も勉強しよう。少なくとも、彼女と釣り合うほどの成績が取れるよう・・・)

 羽田空港にに着くと、本当にちゃんと実家に着けるだろうか・・・と、不安になるような光景を目の当たりにする事になった。
「うひゃ、こりゃすごいな~」
「去年はこれほど混んでなかったような気がするけど・・・」
父も母も、この混雑を見て、一気に疲労感が襲ってきたようだった。
「とにかく搭乗手続きをしょう」
良子と雅斗をロビーの端に残して、新之介はカウンターへ向かった・・・が、すぐに引き返してきた。
「この異常な混雑の訳がわかったよ」
「え?なにかあったの?」
母が不安な表情を浮かべて聞いた。きっと、今日中に着けるのかどうか、心配しているのだ。

「うん、この暑さで積乱雲が発生していて、飛行機が離陸を見合わせているみだいだ」
「そんな! いいお天気じゃない」
母がスモークガラスの窓から外を見やった。
「いや、どこか解らないが、飛行ルートの途中らしい。気流が乱れているんだと。とにかく、待つしかないよ」
「まさか、このまま、ここに泊まり、なんて事はないでしょうね」

 待つこと一時間あまり。ようやくアナウンスが流れて、雅斗たちの乗る飛行機もあと一時間ほどで飛べる事になった事を知らせた。 しかし、おかげで実家に着くのがかなり遅れる。父は早速搭乗手続きに向かい、母は、電話で鹿児島に事情を伝えていた。
(あ~あ、何もかもうまく行くなんて思うもんじゃないな)
さすがの雅斗もその場に座り込んで、うつろな目でそわそわと行き交うファミリーを見ていた。昨日の流星・・・あれを見たとき、世の中、偶然なんてないんじゃないかとも思った。すべてが必然で、何もかもが、ある方向に向かって導かれているのではないか、と。でなけでば、あの時二人の心を”確かめ合わせる”ための神社での出会い、導く街灯、後押しする大流星・・・・これらが、偶然で説明できるだろうか。それなら、この混雑と飛行機の遅れ、あわてふためくファミリー達はどうだろう。みなそれぞれが意味のあることだろうか? それは、誰を何処に導こうと言うのだろう・・・?  

 雅斗は、ばかばかしい妄想をするのを止めた。飛行機の遅れが自分を何に導くと言うのだろう・・・危険な思想だ。自分中心に地球が回る的な・・・・
「よし、行こう!」
新之介がチケットを持って戻って来た。母もほぼ同じくして戻ってきたので、広野ファミリーはその他大勢の人々の中に埋もれつつ、ゲートへと向かった。
(みんな、同じだ・・・自分も六十億分の一にすぎない一個の点だ。埋もれてしまえば、見えなくなる・・・それだけの存在なんだ)


 雅斗達の乗った旅客機は、予定を二時間二十分遅れて離陸した。機内ではシートベルトのサインが消えてもそのまま外さないように・・・と言うアナウンスが流れている。やはり気流が乱れているようだ。高度を上げながら加速するボーイング機は十分ほどすると、カタカタと揺れ始めた。時々小さなエアーポケットにぶつかるのか、ストンと数メートル落ちるような感覚が何度かあったが、機長からのアナウンスによると、水平飛行に入ると揺れは収まると言うことだった。
 座席は真ん中の三人席で雅斗、新之介、良子の順に座っていた。これからの二時間ほど、まったくする事がない。暇つぶしにウォークマンを持って来ているが、それでカセットを全部聞いたとしても、時間をもてあますだろう。

「まったく、飛行機ってやつはここ数十年何も変わらないな。相変わらず、化石燃料を燃やして火を噴いて飛ぶ」
新之介が暇そうに「空の旅」という小冊子を見ながらつぶやく。
「へえ、じゃどうやって飛ぶのが理想なん?」
雅斗も興味なさげに聞き返した。
「いや、おれが言いたいのは、この百年ほどで科学は飛躍的に進歩したように見えるが、実は根本的な部分では何も変わっていない、て事だよ」
「??」
「たとえば、自動車のワイパー・・・あれは車が発明された時から、あのままなんだ。こんなに科学が進歩したって言われるのに、なぜ未だにゴムの棒で雨を避けなきゃならんのだ?・・・エンジンも同じ、進歩したのはその機能であって、トーマス・エジソンがあれを発明した時から、基本は何も変わっていない・・・これが真の進歩と言えるか? 」
「たしかに、そう言う事って多いかな・・・アポロ計画で月まで行けたのは、ほんの数十人のアメリカ人だけだし。それも花火のでかいやつに人を乗っけて・・・アニメに出てくる空飛ぶ円盤もなければ、身長五十メートルのロボットも存在しないよね」

珍しく雅斗は父の話に同意した。
「そうか、それで親父は未だに火を吹きながら、羽を広げて飛ぶ飛行機に、不満があるんだ」
「そう言うことだ」
「なら、親父が発明すればいいじゃん」
「分野が違うだろ、分野が。俺のやるべき事は、宇宙の仕組みを解明して、その始まりと終わりを見極めることだ」
「でも、それは資本主義経済には全く貢献しないよね~」
「まあな・・・」
 新之介がちょっとむっとして、また小冊子に目を落とそうとしたその時だった。ようやく安定してきた機体が、突然大きく揺れた。

 その揺れは二、三回続き、その後急降下を始めた。
 機内に悲鳴がこだまする! 飲み物を配り始めた客室乗務員が前方五メートルほどの所で、つんのめった。すでに配り終えていた飲み物のカップは、球状になった液体を這わせながら、中に浮いていた。
 これは今までの「ストン」とは比べ物にならないほどの落下だ。まるでジェットコースターの落ちる瞬間に似ているが時間が長い。 全身の血が頭に上り、アドレナリンを大量に分泌しているかのようだ。はるか前方のコックピットあたりから「ビービー」という警告音のような物が聞こえる。しかしそれが何なのかわからなかった。
 三十秒ほどすると、こんどは急上昇に転じた。同時に機体が左側に大きく傾きだした。窓から、点在する積雲を通して海面が見える。反対側の窓からは太陽の光線が差し込み、客席を舐めるように移動している。こころなしか、光が弱い。
(そうか、部分日食が始まっているんだ・・・)

 その時、父が太陽の差し込む側の窓を指さして叫んだ。
「見ろ!」 小さな窓だが、確かにその向こうに、緑色をした別の機体が見えた。それはずいぶん離れた所を飛んでいるように見えたが、その向きは間違いなくこちらに向かっている。つまり、この飛行機は上昇しながら旋回をしているが、あちらの飛行機は逆に降下をしながらこちらに旋回している事になる。
 まだ距離がある、と思った次の瞬間、その機体は旅客機の窓十枚分を遙かに越える大きさまで接近し、太陽を背にして巨大なシルエットになっていた。誰ともなく「ぶつかるぞ!」という怒鳴り声が飛ぶ。悲鳴が渦うまく。そんな中、父の新之介は両脇に雅斗と良子を抱え込んでいた。

「バギッ!バリバリ!」 「ゴオー!!!」

 何とも形容のしがたい大音響と共に機内が真っ白になった。耳が痛い! 斜め前にしゃがんでいた客室乗務員が空中を飛んでいた。彼女だけでははない。ほとんどの荷物用ハッチが全開になり、中にあった荷物も後ろの方に吹っ飛んでいく! 今や悲鳴は、ゴオー!と言う音と共にかき消されていた。
 飛行機はまた急降下を初めていたが、ただパニックになっている場合ではない。何が起きているのか、確認する必要があった。雅斗は激しい振動に体を奪われながら、後ろを向いた。  声も出なかった・・・ 雅斗のいた席から四、五列目ほど後ろのあたりがすっぽり無くなっていたのだ。何か鋭利な刃物で機底をえぐられたようにも見える。あの飛行機が、下をかすめる際に垂直尾翼でえぐって行ったとしか思えなかった。大きく開いた穴のある場所にいたはずの乗客の姿は当然なかった。その近辺の人々も激しい振動と流れ出す気流に翻弄されている。

「頭を膝に付けて、かがみ込め!」
父が叫ぶと同時に、パニックになっていた周りの乗客も我に返ったように、それに習った。
「大丈夫だ。飛行機は亀裂が入ったぐらいでは落ちない」
落ち着かせるように、父が話しかけてくる。 しかし、それも気休めにしか思えないほど、機体の揺れは激しかった。単なる急降下ではなく。右に左に、上に下に大きく揺れ続けている。雅斗は必死で思考回路を働かせた。
 えぐり取られたのは、底部、その亀裂は機体の直径の三分の一にも及んでいる。当然下には色々な電気系統を司るコード類があるはずだ、いや、それより大切な物がある。尾翼を動かすための油圧パイプだ! これが切れれば尾翼は動かず、操縦不能になる。今まさにその状態ではないのか・・・雅人はテレビで見たことがある。油圧系統は安全を考えて何本も走っており、どれか一つが切れても大丈夫な構造になっている。しかし、もしその全部が切れていたら・・・ 絶望的な考えが襲ってきた。全身の震えと共に、冷や汗が吹き出してくる。

 (死)

  今まで考えた事も無い究極のイメージが雅斗を包んでいた。
(そんな、こんな所で死ぬのか!)
(どうしてなんだ! なせこんなに早く死ななければならないんだ!)

周りからあらゆる音が遠のいていく・・・

(でも、この意識状態は・・・夢に近い)
(もうろうとした意識で死を見つめている)
(夢の可能性もある・・・)

 色を失った地獄絵・・・声にならない悲鳴、すでに気を失っている者、嘔吐物を機内にまき散らす者、それらすべてが、作られた非現実的な現実に思えた。
六十億分の一の点・・・か。
たとえ、その点一つが消えた所で、世界は何も変わらない・・・生きていても変わらない・・・死んでも変わらない・・・自分は、はたしてこの世に存在していたのだろうか?

 突然、目の前に美代子の姿が現れた。笑って手を振っている・・・

「気を付けてね」

(そうか、このことだったのか・・・ごめん、もう会えそうにないよ・・・)
 美代子の顔つきが、少しずつ変わりだした。それは・・・小さな頃の自分へと変化していった。
「宇宙って、どこまであるの?!」
「宇宙にはいくつの星があるの?」
小さな雅斗が自分に問いかけてきた。
「そうだな、宇宙は有限だけど無限なんだ。行けども行けども果てがない。だから、星も無限にあるのかもな」
「じゃ、星はいつ生まれて、いつ死ぬの?」
「星は宇宙の至る所で生まれて、気の遠くなるような時間を過ごした後、死んでいくのさ」

 小さな雅斗は急に遠ざかって行き、最後には光る点になってしまった。気が付くと周りには無数の点がひしめき合い、輝いている。
 これは? 以前見たことがある。そう小さな頃・・・もう何を見たのか思い出す事も無くなっていたが、確かにこんな感じだった。

 自分という一つの点と、周りの沢山の点の区別はつかなかった。しかし、その内の一つが大きく光り出し、巨大化したかと思うと、突然小さくしぼみ始めた。また小さな点に戻った、と思った瞬間、目もくらむほどの光を発し、大爆発を起こした。それは想像を絶する巨大な火の玉となってすべてを覆い尽くしていった。燃え上がる衝撃波が雅斗を襲った。

 爆音と共に片方のエンジンが火を噴いている。同時に機体は大きく旋回し機首を斜め下に向けた。目の前に海が迫っていた。思ったより高度は下がっていたのだ。超新星大爆発の幻想から目覚めた雅斗が見た物は、機体の側面を伝う炎と急速に近づく海面だった。
(やっぱりだめだ! 助からない・・・)
 次の瞬間、一度も経験をしたことが無いほどの衝撃が雅斗を襲った。続いて水平線が高速で回転するのが見えた。そして再び巨大な猛火と衝撃が襲ってきた・・・

 偶然か必然か、この機内に居合わせた、人々の人生と意識はここで途絶えた。


 比較的大きな星はその最期に大爆発をして、衝撃波と共にガスをまき散らす。よく見ると近くで、遠くで同じような現象が起こっていた。死んだ星は、別の死んだ星と融合し、ガスの密度を高めていく。至る所で点滅を繰り返す星々は、融合しあいながら新しい星を誕生させていた。
(ああ、自分もこの星々と融合していくんだ・・・そして・・・)

「バチッ!」

 脳から足先まで、電気が走ったような感覚を覚え、雅斗は目を覚ました。しかし、そこはベッドの上ではなく、海水が半分進入し、白く煙った廃墟のような機体の中だった。どれくらい気を失っていたのだろう。燃料の燃えたきな臭さと同時に、吐き気を催すような異臭が鼻をついた。かろうじて動く首を回して、あたりの確認をする。亀裂が入っていた部分から後ろ半分は、どこかに行ってしまっていた。前方は黒く焼けた座席を残して、天井すらなくなっている。座席の隙間から沢山の黒いマネキンが覗いていた。斜め前の通路には、頭から血を流した女性が転がっていたが、腰から下が無かった。

(親父や母さんは?!)

 今初めて、自分は生きているが、家族がどうなのか、心配しなければならない事に気がつき始めた。
 (まさか、二人とも・・・・?)
最悪の思いが頭をよぎる。 横にいるはずの父親は・・・体半分が前の座席の下にのめり込み、不自然に背骨が曲がっていた。口からは大量の出血の跡があり、息は・・・していなかった。その隣にいるはずの母は完全に姿が消えてしまっていた。

 母を探そうとして立ち上がろうとしたが、全く体が動かない。それどころか、胸と左手に激痛が走る。息ができない・・・雅斗の意識が遠のいて行った。

 再び、目を覚ました時、雅斗はこんどこそベッドの上にいた。
(やっぱり、夢だったんだ)
「ん?・・でも、ここは?」
そこは今まで見たこともない部屋だった。傍らにいた、白衣の女性が、はっ、とした表情で近づいて来る。
「気分はどうですか?」
「良くないです」
口には、何か吸入器らしき物が付いているので、うまく発音できない。雅斗はようやく、そこが病院の個室だという事に気が付いた。
(だとすると・・・やはりあれな夢じゃなかったんだ)
フラッシュバックのように、突然記憶が蘇って来た。
「そうだ!、親父と母さんは?」
「ちょっと、待っていてね。今先生を呼んでくるから・・・」
やさしそうなその看護婦さんは、質問が聞こえなかったかのように、部屋を出ていった。

 一分もたたない内に、先生らしき中年の男性が入って来た。笑顔とも慈愛とも違う、なんとも言えない表情だ。
「どこか、痛みますか?」
「ちょっと胸が苦しいです。それと、首が痛い」
「一応、怪我の状況を言っておきますね。肋骨が三本折れて、肺を圧迫していました。左腕の骨も折れて皮膚を突き破っていました。首は軽いむち打ち、その他、裂傷多数、打撲多数、軽度のやけどがあります。満身創痍といった所ですな。でも、あなたは生きている。折れた肋骨もそれほど内臓を傷つけていませんでした。当分は絶対安静ですが、一ヶ月もすれば退院できますよ」
 一通りの説明を聞いていた雅斗は、すぐにでも医師の話を遮り、先ほど看護婦にした質問を口に出したい衝動にかられていた。しかし、時間がたてばたつほど、その答えを聞きたくないと言う思いの方が大きくなるのだった。  医師は、雅斗を落ち着かせるためか、必要以上に優しげな、ゆっくりとした口調で話した。そして、最後に言った。
「何か、聞きたいことは?」
向こうから、確信を突く言葉を切り出されてしまった。
「その・・・父と母は・・・・?」
数秒の沈黙の後、医師は口を開いた。
「助かったのは、あなた一人です」

 川島成海がようやく雅斗の入院している病院を探し出し出すことができたのは、事故から三日後だった。広野家は全員事故に遭い、雅斗を残して死亡している。親戚も近所にはいない、雅斗の実家に電話しても誰も出ない。それで、片っ端から、事故現場に近い大きめの病院を当たって行く内、マスコミが取り巻いている病院を発見する事ができたのだ。しかし、全く中には入れてもらえないし、病室も教えてもらえなかった。理由は「面会謝絶」・・・・
マスコミも、唯一の生き残り、奇跡の少年・・・と言う高視聴率ネタに群がっていたが、やはり、絶対安静という事で、インタビューはおろか、病院の入り口すら入れない状況だ。唯一、鹿児島から駆けつけた、親戚だけが出入りを許されていた。

「俺は、雅斗の親友だぞ!一分だけでも合わせろ!」
そう叫ぶ成海に、メディアの視線が集中した。今は全く、本人の取材ができない状態だ。しかし、このまま手ぶらで各局まで帰る訳にもいかない・・・ 気が付くと成海は、マイクやTVカメラの総攻撃を受けていた。
「広野雅斗君とは、どういう関係ですか?」
「広野君には会いましたか?」
「友達がたった一人生き残った事をどう思う?」
「彼は、どんな少年・・・・」
「会ったら、どんな声をかけま・・・」
「雅斗くんに、彼女は・・・」
矢継ぎ早に浴びせられる質問のマシンガンに、成海は気が遠くなりそうだったが、一番重そうなカメラを抱えているカメラマンを見つけると、背を低くし、腹のあたりからタックルを食らわせた。カメラマンは、命に代えてでも高価なカメラを守るべく、機材を抱えたまましりもちをついたが、彼に押されるようにして、ひしめき合っていた連中も将棋倒し状態になってしまったのだ。おかげで、スペースができた。成海は大きながたいを猛スピードで突進させ、その場からのだ出に成功した。

 数百メートルも走った所で、後ろを振り向いたが、電気コードに繋がった彼らは追ってくることはできなかった。成海は、息を切らしながらも、近くの電話ボックスを見つけ、扉を開いた。

 事故から四日目の夜、政府が組織した「事故調査委員会」の記者会見があった。まだ、ブラックボックスもボイスレコーダーも海底に沈んだままだ。管制官の証言と通信記録を元に、今、解っている事だけ・・・と言う前置きで始まった会見だった。
「今の段階では、自衛隊、管制官双方の証言から推測するに留まりますが、雷雲避けるため、通常の飛行ルートを大きく迂回した、自衛隊の輸送機がボーイング機をかすめて飛行した際、垂直尾翼が機底をえぐった事による操縦不能が墜落の原因と考えられます。しかし、なぜ、迂回ルートが管制官に伝わっていなかったのか、なぜ、お互いの衝突探知機が作動しながら、両機の衝突が避けられなかったのか・・・疑問な点は数多くあります。 今後は、ブラックボックスの回収を待って、より詳しい調査を継続していく予定です。  犠牲になられた皆様とそのご家族には、心からお悔やみ申し上げます」
 ワイドショーの、にわかコメンテーターが言っていたことと、ほとんど同じ内容の記者会見だったが、最後にこう付け加えられていた。
「なお、この度の事故で、奇跡的に一名の生存者がおられます。怪我の具合は全治三ヶ月、そして、一ヶ月ほどで退院はできますが、なにぶん十六歳という若い少年であります。心の傷はいかほどかと想像に耐えません。今後は心のケアも必要でしょう。みなさんも過度の取材は控えていただくよう、お願いします」

 病室で会見のテレビを見ていた雅斗には、何の感慨も浮かんで来なかった。「若い少年」という響きが、何か他人事のような気持ちにさせる。昨日から、カウンセラーと名乗る女性と、調査委員と名乗る男性陣が、一日に一度づつ病室を訪れるようになっていた。調査員の中には製造元のボーイング社から派遣された外国人も含まれてたが、通訳を介したコミュニケーションには無理があった。
 確かに、心にキズを負った。しかし、雅斗はそれを客観的に捉えようとしていた。両親の遺体は見ていない。見せてもらえない、と言う方が正しいが、遺体確認は親類がすでに行ったそうだ。自分で両親の遺体に接すれば、心的損傷がひどくなると判断されたのかもしれない。
 病室は八階の角部屋だったが、カーテンは閉ざされている。数百メートル離れたビルの屋上から、写真週刊誌のカメラマンが、超望遠カメラで狙っている可能性があるからだそうだ。いまさら、顔が全国に知られようと、雅人には何の憤りすらも湧かないだろう・・・これも「心的損傷」の病状なのだろうか・・・

コンコン・・・
 ドアがノックされた。
(今度はどちらだ? カウンセラーか、調査委員か・・・)
しかし、雅斗の予想は大きく裏切られた。ドアが静かに開き、入って来たのは、上原美代子だった。

「思ったより元気そうだね」
「そう?」
「うん」
「・・・・どうやってここに入れたの?」
「川島くんがね、連絡してくれたの。そして、ご親戚の方に、必死になって頼んでくれて・・・いとこだって事にしてもらったの」
「そうだったんだ・・・・ ごめん。ピクニックは中止だ・・・」
雅斗は未だに続くテレビ特集を焦点の定まらない目で見つめながら呟いた。

「ううん・・・そんな・・・私・・・・私、何を言ってあげればいいんだろう・・・何も言えないよ・・・・」
美代子は鼻を赤くし、今にもこぼれそうな涙を手のひらでぬぐい上げた。長い沈黙が二人の距離を象徴しているようだった。だが、今回の沈黙は、雅斗にとってこれと言って何かを感じさせる物ではなかった。

{気を付けてね・・・}

 雅斗は、墜落の直前、目の前に現れた上原美代子に思いを馳せていた。そして、感じた。彼女はあの時、みんなと一緒に死んでしまったんだ。


 一ヶ月後。雅人は、マスコミを避け、裏門から病院が用意したタクシーに乗って駅へと向かった。当分の間、一緒に暮らすことになる叔母が同乗している。残暑も遠のき、過ごしやすい季節になったはずだが、車の窓から見える街の木々は、秋が近いせいかどんなに太陽の日差しを受けても、輝いて見えることはなかった。

 その後、なんとか学校へは復帰したが、友人や周りの人々は、はれ物を触るように彼と接した。しかし、雅斗もそれを気にすることもなかった。なぜなら、彼そのものが、別人のように変わっていたからだった。
 成海とだけは、以前と変わらぬ付き合いがあったが、美代子とはあれ以来、話をする事すらなかった。彼女は何度か雅斗の家を訪ねたが、その都度、理由を付けて合うのを断っているのだ。肩を落とし、去っていく彼女を部屋の窓から見送った事もあったが、どうしても恋慕にときめくあの感情は戻っては来なかった。

 しばらくして、雅斗は、鹿児島の親戚に引き取られる形で、転校していった。


 二年後の春。東京大学のキャンバスは喜びと悲しみの入り乱れる奇声に包まれていた。胴上げされる者、宝くじの当選番号でも確認するかのように、掲示板の数字を読み上げる者、途方に暮れて肩を落とす者・・・この時間が、この場所が、自分の人生の縮図と化したかのような錯覚に皆陥っていた。
 そんな中、一人の青年が自分の番号が掲示板にあるのを確認すると、周りの雑音など、全く興味もないかのように立ち去って行った。一見暗そうに見えるが、その目には他とが違う光が宿っているかのようだ。雅斗、十八歳。穏やかだが力強い春光が、東京に出てきたばかりの彼を包み込んでいる。しかし、それは六十億分の一の砂粒が、いくつもの偶然の助けを借りて輝き出すのか、それとも、埋もれてしまうのか、彼のチャレンジャーとしての気質を見定めているかのようにも感じられた。

シフト vol1

シフト vol1

自分でも気が付かないうちに、見えない力に流され翻弄される青年を描いたSF大河、第一部。人と宇宙と意識がある1点で交わる時、新たな扉が開かれる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 無限
  2. 奇跡の生還