明け方の月
「明け方の月を知ってますか」
「ああ、何でしょうか?」
「私は朝に散歩に出るのですがね。朝ぼらけの頃です。ふと空を見ると月が出ているのです。もう空は白みがかり、明るいです。日の出はまだですがね。だから、薄明るい空に月が出ている」
「それが明け方の月ですか」
「さあ、こんなのは大昔からあるので、それなりの言い方があるのかもしれませんがね。私は明け方の月と呼んでいます。といっても自分自身に言って聞かせるようなもので、人にそれを言うのはあなたが初めてです」
「それが何か」
「日はまだ昇っていません。いつもは日の出の方角へ向かい、歩いているのです。散歩なんですが、コースは決まっています。日が出る方角へ向かっているので、気付かなかったのですよ」
「何がですか」
「だから、月です。進行方向とは逆側に出ていましたからね。スポーツカーとすれ違ったので、ふと振り返ったのです。そのとき、見たのですよ。明け方の月を」
「うーん」
「どうかしましたか」
「いえ」
「こういう月は何度か見ていたはずなんです。だから、妙なものを見たわけじゃありません。子供の頃から、見ていたのでしょうねえ。昨日見た月は満月に近かった。だから、大きかった。地平線近くだと、膨張して見えるでしょ。だから、膨らんでいました。晴れていましてね、日がもっと昇れば青空になるでしょう。その手前の淡い青です。この色も綺麗です。薄い青地に月。少し感動しましたねえ」
「あのう」
「何か」
「それは、どういうことでしょうか」
「花鳥風月の、月なんでしょうなあ」
「花、鳥、風、月ですか。花札のようなものですね。でも風が分かりません」
「私もです。風は見えない。雨や雪のことかもしれませんがね。花鳥風月を楽しむは風流人のやることでしょう。風はそこに出てきますねえ。辞書で引けば分かるのでしょうが、私は物知り博士になる気もありませんからねえ」
「花鳥風月の月を見られたのですね」
「そうです。月はいくらでも見てます。しかし、そんな気で見たことは滅多にありません。満月のとき、驚くことはありますがね。明け方の儚そうな月は、そんな驚きはない。ここです。この境地です」
「宮本さんは暇だから」
「そうでしょうねえ。他にやることもないので、そんなものに目が行くのでしょうが、実は、ここには欲がない。進歩もない」
「はい」
「見返りがない。お月さん博士になるわけじゃないしね。それにもう遅い。専門家になるには」
「つまり、無為な行為が出来ると」
「有為をやりたいところですがね。もうその気がなくなったと言いますか、可能性を悟ったとき、やる気も落ちるのですよ」
「はい」
「だから、明け方の月を見ても、どうということはない。妙な期待もない。将来に役立つものでもない。そして、しなくてもいいことです」
「役立つことがいいですねえ」
「君にはまだまだ未来があるからねえ」
「はい」
「私にも欲はあるが、果たせそうなものがない。だから、明け方の月が見えるんだよね。だから、君が見ている月とは違う月なんだ」
「僕にも、その境地が分かるようになるのでしょうか」
「ああ、そのうちね」
「でも散歩中、上ばかり見ていて、ぶつからないようにして下さいよ」
「そうだね」
了
明け方の月