旧作(2010年完)本編TOKIの世界書一部「流れ時…5」(時神編)
梅雨時期の話です。神々は創作も入っていますが神話の神も出てきます。
日本ファンタジー小説です。
TOKIの世界。
壱‥‥現世。いま生きている世界。
弐‥‥夢、妄想、想像、霊魂の世界。
参‥‥過去の世界。
肆‥‥未来の世界。
伍‥‥謎
陸‥‥現世である壱と反転した世界。
プラント・ガーデン・メモリー
相変わらず雨が降り続いている。おそらく梅雨がきたのだ。かわいらしい緑色のカエルのフードをかぶった少女がフードと同じ色のカエルのぬいぐるみを持ちながら楽しそうに走る。
少女はきれいな金髪と美しい青色の瞳をしていた。
「梅雨がきたよーっ。梅雨がー来たよーっ!」
少女は興奮気味に田舎の田んぼ道を駆ける。ぬかるんだ土の道を走り抜けると同時に蛙の鳴き声が響きはじめた。
彼女がこんなにも騒いでいるのに農作業している人々は彼女に気がつかない。
ここはまわり山に囲まれたお年寄りが多い小さな村。ちょっと騒げば皆何事かと家から出てくるそんな村だ。
「あの……。」
少女が騒いでいると隣から控えめな女の子の声がした。
「ん?なあに?誰?」
少女は無邪気にも話しかけてきた者に笑いかけた。
「カエルの神様か雨の神様かわかりませんが……ひとつ頼みを聞いてくれませんか?あ、わたくし、山の神です。山神……というか木種の神です。大屋都姫神(おおやつひめのかみ)と申します。ええと……一応名前はヒエンです。」
大屋都姫神、ヒエンと名乗った女の子は蛙フードの少女に丁寧に挨拶をした。ヒエンはボーダーのニット帽をかぶり、ピンク色のパーカーに短いスカートをはいている。緑色の髪と瞳を持つ愛嬌のある顔つきの女の子だった。補足で言うと番傘をさしている。
「ヒエン?スサノオ尊の娘?へえ……あのスサノオ尊の娘か……。あれ?あたしになんの用なの?ああ、あたしはカエルって呼んで!えへへ。」
カエルフードの少女は自分の事をカエルと名乗ると歯を見せて笑った。
「兄を探しているんです。」
「兄?五十猛神(いそたけるのかみ)のこと?ゆーめいだよねっ。」
「そうです……。」
「どこ行っちゃったの?」
「それがわからないから頼んでいるのですが……。あ、痕跡が残っている山はわかっているんですが……。」
ヒエンはカエルのペースについていけず頭をひねっていた。完全に相談する相手を間違えたという顔つきだ。
「ああ!じゃあさ、とりあえず時神に相談しようよ!あたしも手伝うよ!」
「え?時神ですか?」
「うん!」
カエルは戸惑っているヒエンの手を引くと楽しそうに走り出した。
「……。で?うちにきたわけ?」
カエルとヒエンの前にひときわ不機嫌そうな顔の高校生くらいの女の子が座っていた。
普通のマンションの一部屋なのだが時計がいっぱいある少し奇妙な部屋だ。椅子と机は一つしかないため、ヒエンとカエルは床に座っている。
「そうなんよー。あたしは時神のアヤに相談するのがベストだと思っちゃってさー!天才!」
カエルがニヒヒとアヤと呼ばれた高校生くらいの女の子に笑いかけた。
「はあ……私としてはこんな憂鬱な雨の日にやっかい事はごめんなんだけど……。」
「まあ、そんなこと言わない!言わない!」
「だいたい、あなた誰なのよ!」
アヤはカエルに頭を抱えながら叫んだ。カエルの横でヒエンが「面識なかったんですか!」と驚愕の顔でカエルを見ていた。
「あたし、カエル!よろしく!」
「いや……そういう問題じゃなくて……。」
「まあ、とりあえず彼女を助けてあげてよー。」
「イソタケル神でしょ?スサノオ尊の子供なんて見たこともないわよ。」
カエルとアヤの会話にヒエンが控えめに入り込んできた。
「あの……わたくしも父がスサノオなのですが……。」
「わかっているわ。イソタケル神の妹、大屋都姫神(おおやつひめのかみ)でしょ。」
「ええ……。」
「時渡りしてイソタケル神がいなくなった時を調べるつもりできたんだろうとは思うけど、一度、その山に行ってみないと私もわからないわ。だいたい時を渡る事なんてできないわよ。」
「別にいいよ!さあ!行こう!今すぐ行こう!」
カエルはいきなり立ち、アヤとヒエンの手を握る。
「別にいいって……ちょっと!ま、待ちなさい!雨降ってるじゃない!傘とかカッパ着ないと……。その山の場所はわかるのよね?その痕跡が残っているっていう山!」
「うー……。いいよーそんなの!はーやーくー!」
「あんたねぇ、頼み込んできたのに偉そうじゃない?」
アヤは重い腰をあげるとカッパを出すべく押入れを開けた。ヒエンは申し訳なさそうにその場に座り込んでいた。
るんるんと歩く若い女。花がついているベレー帽のようなものをかぶり、花をイメージしたのかフリフリつきの紅色のシャツ、下は足首がすぼまった白いズボン。手には手袋をしていて如雨露(じょうろ)を持ち歩いている。そして腰には刀のような大きなハサミがぶらさがっていた。
花がついているポシェット、金髪のロングヘアーが女性らしさを出している。
「こんにちは~♪」
女はにこやかな表情で謎の建物の中へ入って行く。古い洋館のようだ。
「なんだ……。草姫か。なんの用だい?」
「あらん❤草姫ちゃんじゃない。どうしたの?」
洋館に入ると二人の男性が女を出迎えた。二人の男はまるっきり同じ顔をしている。
だが、一人はあきらかに女性だ。でも男性だ……。ん?
「はじめてきたのにーなーんで私を知ってるのかしら~?あれ?まあいいか~♪」
女はあまりそのことは気にしていないようだ。
見回すと洋館は本棚でいっぱいだった。どうやらここは洋館ではなく図書館らしい。
「で?要件は何よ?」
オネェだと思われる男性が声を発した。なかなかイケメンだ。
「うん~、とりあえず冷林のね~♪」
「はあ?冷林だって?それ知ってどうすんだい?」
男の方が女を睨んだ。
「そんな事を言うのはやめなさい。……いいわよ。草姫ちゃん。」
イケオネェは男を叱った。男はぶすっと顔を膨らませると本棚の一角を指差した。
「ああ、そこらへんにあるから勝手にみていくといい。」
「ありがと~♪まず、『読む』方からいこうかしら~♪」
女はまたるんるんと指差された方向へと向かった。
「今、お茶でもだすわね。」
イケオネェは急須から緑茶をいれている。机がたくさんあり、女は席に座りながら本を読み始めた。
その横でイケオネェが微笑みながら緑茶を机に置く。
「ねぇ?何をそんなに読む事があるの?冷林なんて調べても何も出ないんじゃないかしら?」
「う~ん。まあ、いいの~♪ネコヤナギにねぇ。」
「花言葉……自由ね……。」
女は呑気な笑顔をイケオネェに見せると緑茶に口をつけた。
二話
アヤ達は駅に来るのが一時間に一本というローカル電車に乗っていた。ドアは押しボタン式で時間帯も時間帯だからか乗って来る人がいないため、ずっと閉めきりになっている。
雨が絶えず降っており、現在は午後の一時。
「で、まだ先なの?」
アヤはまわりの風景を見ながらつぶやいた。まわりはもう山しか見えない。人も住んでいるかあやしい。
「もーちょい!」
カエルは『シカ注意』の看板を見ながら車掌の物まねをしている。
「ごめんなさい。アヤさん。雨の日に遠出してもらって……。」
「いいわよ。今日は暇だったから。」
落ち込んでいるヒエンにアヤは優しく声をかけた。
「ねー、見て見て!キツネェ!」
その時、カエルが窓の外を指差した。アヤ達も窓から外を覗く。
「あら、ほんとね。なんでこんなところにキツネがいるのかしら。」
木々の中をキツネの群れが走っていく。
「この山にはなぜか昔からキツネが多く住んでいると言われています。ですが、昔話などでここのキツネが悪く言われた事はありません。」
ヒエンがアヤに対し答える。
「ああ、キツネはだますとかそういうたぐいの話ね。」
「ええ。どちらかと言えばゴンキツネのようなお話が多いんです。」
「へぇ、そういえばキツネの神様を一人知っているわ。実りの神様と呼ばれていた……えーと……日穀信智神(にちこくしんとものかみ)だったかしら?皆からはミノさんって呼ばれているわね。」
「ああ、知っている知ってる!あのキツネ耳生えているちょっとワイルドな神様だね!ほら、腹筋われてんじゃん!」
カエルの言葉にアヤは眉をひそめた。
「んん……。でも何にもしていない驚異のなまけものよ。彼は。」
「ああ、そうなんですか?いけないキツネさんですねぇ。」
そこからアヤ達の会話は日穀信智神、ミノさんの腹筋の話になった。話はなぜか弾んだ。気がつくともう降りなければならない駅にいた。
「わっ!ここ!ここ!降りるよ!」
「え?」
カエルが慌てて『開』のボタンを押して外に飛び出す。続いてヒエンとアヤも飛び降りるようにホームに足をつけた。
「ちょっといきなりすぎるわよ!駅名ちゃんと見ておいてよね。」
「ごめんごめん。なんか盛り上がっちゃったからさー。」
「腹筋の話からなぜ肉体美に話がいったのか不思議で考えていたら降りる駅でした……。すいません。」
二人はえへへと頭をかく。アヤはため息をついて気分を変えた。
「で?この駅何にもないんだけど……。」
ホームは半分崩れていてところどころ雑草が生えている。改札もない。もちろん屋根もないため、アヤ達は雨合羽を着ている。
「こういう無賃乗車になっちゃうような駅はいけないと思うんだけどなあ。」
「あ、でもあそこに木の箱が置いてありますよ。」
ヒエンがカエルにこそこそと話しかける。確かに向かいのホームに木の箱が置いてある。木の箱はきのこが生えそうなくらい湿っており所々腐りかけていた。
「ああ、ここに切符をいれろって事ね。」
アヤ達は向かいのホームに行き、切符を箱の中に入れた。箱の中には何も入ってなさそうだった。
ふと横を見ると屋根のついた切符売り場が見えた。券売機には蜘蛛の巣が張っており使えるのか使えないのかわからないくらいさびれていた。
「アヤさん……帰りはわたくしがなんとかしますから!」
ヒエンは目に涙を浮かべながらアヤに頭を下げている。
「いや……うーん。できる事ならお願いしたいわ……。」
アヤは引きつった顔をヒエンに向けた。
ため息をつきつつ、アヤ達は駅から出た。何と言うか心境が山の中で遭難した気分だ。
ふと横を見ると錆びついた看板が立っていた。文字はほとんど読めないがどうやらこの辺に伝わる昔話が書いてあるらしい。
「昔話?キツネのかなあ?」
カエルが興味を持ったのでアヤ達も看板を頑張って読み始めた。
……むかしむかし、この村にはキツネが多くいました。
キツネは化かすと言われていたのでこの村の人々は何か悪い事が起こってはキツネのせいにしていました。
そんなある日、この村を大飢饉が襲いました。
まったく雨が降らなくなり、作物は枯れました。
村の人たちは食べるものもなくつらい生活をしていました。
そんな時、ある村人が村のど真ん中で沢山の食料を見つけました。
それは山で採れる山菜やどこにあるのかわからない果物ばかりでした。
その村人は不思議に思いました。
作物がとれない時に村の真ん中にこれだけの食料があるわけがない。
村人は慌てて村の人々にこの事を話しました。
村人は言います。
これはキツネが自分達をからかう為に幻をみせているんだ。
毒が入っているかもしれない。
キツネが我々を化かしているのだ。
村人達はそのキツネを懲らしめるため罠を張りました。
しばらくしてその罠に一匹のキツネがかかりました。
キツネは手に食べ物を持っていました。
村人達はこのキツネが犯人であると確信しました。
村人達はそのキツネをこっぴどく痛めつけ逃げ行くキツネに向かい銃をうちました。
その翌日、この村の近くの林で一匹のキツネが死んでいるのを村人が見つけました。
村人はざまあみろと思いました。
でもよく見るとそのキツネはかなりやせ細っています。
歩くこともままならないくらいやせ細った体で人間を化かす余裕があるでしょうか。
そこで村人は気がつきました。
このキツネは自分が食べるはずのものをすべて村人にあげていたのだと。
村人はキツネを抱えると村へと戻りました。
そしてその話を村人達にしました。
村人達はキツネを殺してしまった事を悔やみ、涙を流しました。
そしてそのキツネは村人達により神様として祀られました。
食物の神、実りの神として……
それからというもの、この村でキツネを悪く言う人はいなくなりました。
昔話はここまでだった。そこから先はキツネ神の説明だった。
現在、昔話に残っているハコ村は残っておりませんがキツネ神の信仰はいまでもあつく、このあたり一帯で祀られております。十月には実りの秋を願ったお祭りも行われております。
今現在は神社を新しく建て直し、キツネ神様も移動していただいております。
……御祭神、日穀信智神
……千福神社
「ってこれミノさんじゃん!」
「あら、ほんとね。ちゃんと信仰されてるじゃない。……この昔話ノンフィクションなのね。」
「まあ、こういった類の神様のお話はノンフィクションが多いですよ。人間からするとそうは見られないかもしれませんが。」
アヤ達は雨の中頷き合うと目的地へと足を向けた。
「さーてと……。」
大きなハサミを持った女、草姫は大きく伸びをした。ここは濃い緑色の葉が特徴的な木々で覆い茂る林の中。雨は降っておらず太陽が照っている。地面はひびわれておりほとんど雨が降っていないようだ。
「……いくわよ~。錨草ね~!……ああ、あの花言葉は人生の出発だから……今の私とはちょっと違うかな~。まあ、いいか~。」
草姫はルンルンと手を振りながら緑深き林へと歩き出した。
……もう、妹の事はいいのに……あの神ったらしょうがないわね~……。
……変わらぬ愛情を永遠に……センニチコウ♪赤いカーネーションはいいすぎよねぇ。ふふ。
……じゃあ、ヒルガオで……ね?花言葉は……
三話
アヤ達は大雨の中、イソタケル神の痕跡が残っているという山へと入って行った。もちろん、登山道ではなく草覆い茂る道なき道だ。
「ああ、もう、こんな雨の日に……。登山なんて……遭難じゃない……。」
アヤの元気はない。地面はドロドロで容赦なく服を汚す。おまけに濡れて寒い。
「あたしは楽しいねっ!雨は楽しいねっ!どんどーんふれー!」
カエルはやけに元気だ。カッパを脱ぎ捨てて冷たい雨にあたりながら幸せそうに笑っている。
「やめて。あなたが言うとなんだか雨が暴風雨になりそうだから……。」
「えー、いいじゃん。」
アヤとカエルの会話を聞きながらヒエンは申し訳なさそうにアヤを見た。
「あ、あの……本当にごめんなさい……。こんな雨の日に……。木種の神としては嬉しいのですが……一般の方からするとこの雨はお辛いでしょう……。」
ヒエンがあまりにもつらそうな顔をするのでアヤは慌てて言い直した。
「い、いや、いいのよ。これくらいの雨、大丈夫よ。ただ、歩きにくいだけよ。」
「そうですか……。もう少しなので……頑張ってください……。本当にごめんなさい……。」
ヒエンが泣きそうな顔でアヤを見るのでアヤもどうしたらいいのかわからず、とりあえず土砂を登った。
「この辺だねっ!」
先を飛ぶように歩いていたカエルがふと立ち止まった。雨は先ほどよりも強くなっている。周りは他よりも濃い緑色をしていた。よく見るとそれは木々についている葉だった。その葉が他の木よりも濃い緑色なのでここがやけに浮きあがって見える。
「ここだけなんか雰囲気違うわね……。」
アヤは土砂を登りきり一息つきながらあたりを見回した。
「地面の草も青々と覆い茂る美しい場所です。兄の気配はここで途切れています。」
ヒエンはアヤの様子を窺うように言葉を発した。
「ねぇ、なんかわかった?」
カエルはニコニコ笑いながら雨を楽しんでいた。
「わからないわよ……。ただ、なんか変な感じがするだけ。神様の気配ってやつかしら。」
アヤは首を傾げてヒエンに目を向けた。
「そう……ですか……。」
「なんかごめんなさいね。役に立てそうにないわ。」
「……いえ。」
ヒエンは目を伏せた。
「っ!」
その時、アヤの頭に声が通り過ぎた。
……そうだ……。図書館……あそこにいけば……あれがあるじゃないか……。
その声は一瞬で通り過ぎた。男の声だった。
「アヤ……さん?」
「え?」
気がついた時、ヒエンがオドオドとこちらを見ていた。
「なに?アヤ、なんかあったの?」
カエルはぴょんとこちらへ飛んできてアヤの顔を覗き込んだ。
「図書館……。誰かが図書館に行こうとしてた……。」
「はあ?」
アヤがいきなり突拍子もない事を言い始めたのでカエルは半分笑いながら首を傾げた。
「図書館?どうしたんですか?いきなり……。」
「わからないわ。今、声が聞こえたのよ。男の……。」
アヤの言葉にヒエンは眉をひそめた。
「なになに?幻じゃないの?男がほしいの?ねぇ?」
カエルがニヤニヤしながらアヤの周りをまわる。
「うるさいわ。あなた、ちょっと黙って。」
「……ごめん……。」
アヤに怒られたカエルはしゅんと肩を落とした。
「それは兄かもしれません……。」
今の会話をまったく聞いていなかったヒエンが話を元に戻した。
「そう……なの?じゃあ、なに?この近くの中央公民館にでも行けばいいかしら?」
「たぶん……違います……。人間の図書館ではないでしょう……。」
ヒエンは深刻そうな顔をアヤに向ける。
「ああ、あたし知ってるよ?行ったことないけど高天原に近いとこにある図書館だよねっ!あれ?あそこじゃないの?常識的に考えればそこだと思うけど。」
「どこよ?神々の常識っていう図書館がなんだか私にはわからないわ。」
アヤは草の匂いをふんふんと嗅いでいるカエルを眺めながらつぶやいた。時神の生は人間から始まる。徐々に神格をあげていき神となる。アヤはついこないだ神になったばかりだった。それまでは普通に人間の女子高校生として学校に通っていたのだ。
「ああ、えっとどこだったかなー?ねぇ?ヒエン?」
カエルの視線にヒエンはビクッと身体を震わせた。
「あ……あの……ごめんなさい。知りません……。聞いた事ぐらいしか……。」
「はっ、はっ、はーっ!だよねーっ!」
カエルは楽観的に笑っていた。
「だよね……じゃないでしょ?どうするのよ。」
アヤは大きくため息をついた。もう家に帰りたくなってきた。
「んじゃまあ、とりあえず雨神様にでもお願いして連れてってもらおうかっ!」
カエルは空に向かって手を振っていた。
「雨神様?雨の神様って事よね?」
「そだよ?雨神様には実体がないからあたし達が呼ぶんだよねっ!それが輪唱!あたし達は雨と共にいるってイメージらしいけどさ、実際はあたし達が呼んでるんだよっ!雨神様の使いの蛙だからねぇ!最近、龍神とかと混ざっている事もあるけど純粋な雨神様はずっと変わらずいるんだよ。」
「へえ……雨神とカエルの関係ってそういう事ね。」
カエルはアヤに笑いかけながら説明する。
「まあ、そういう事!実際は雨神様を纏っているのがあたし達、蛙なんだ。だから蛙イコール雨神って言う神様もいるよね。おそれおおいけどねぇ。」
「呼ぶって言ってたけど実際は魔法みたいに雨神を出現させるって事ね。」
「そうそう!あったまいい!」
カエルはぴょんぴょんと飛び跳ねている。まったく落ち着きがない。
「そ、そういう仕組み……だったんですね?」
「っちょ……あたしよりも遥かに生きているヒエンが知らないってどういう事?」
「ご、ごめんなさい……。」
ヒエンはカエルに頭を下げている。アヤはため息をまた一つつくと話を元に戻した。
「で、その雨神があなただとするならばどうやって教えてもらうのよ……。」
「だから、あたしじゃないんだってば。実体はないししゃべらないけど感情はあるんだよ。だから纏っているけどあたしじゃないの。」
「よくわからないけど魔法に感情があるって事ね?」
アヤはいい表現を見つけようとしたが見つからなかったのでわかりやすく聞いた。
「まあ、うん。うーん……まあ……ん?」
カエルは戸惑った顔でアヤを見返した。カエルにもよくわからないらしい。
「とりあえず……やってみてもらえませんか……すいません……。」
ヒエンがひかえめに入り込んできた。
「うん!わかった!」
考えるのをやめたカエルがヒエンに向かい元気に返事をした。
「ねぇねぇ、雨神様、雨神様?図書館に行きたいんだけどいいかな。」
カエルは普通に空に向かって話しはじめた。実際には雲に向かってという方が正しい。
「そんな普通でいいのね……。」
アヤはカエルを黙って眺めていた。
「はいっ!はいっ!はーい♪」
カエルはニコニコ笑いながら手拍子をしている。カエルの感覚は相変わらずわからない。
しばらくすると全域だった雨が集中豪雨になってきた。風も強くなってきてアヤ達を押し出す。
「この雨の通りにいけば着くって。風に従えって。」
雨神は集中豪雨で道をつくったらしい。つまり雨の降っている所を歩けば着くという事だ。風も先程よりもだいぶん強い追い風だ。足が持っていかれそうだ。
「そんな事言ったってこんな風じゃ歩けないわ。」
アヤがつぶやいた刹那、カエルがヒエンとアヤの手をとって走り出した。
「レッツゴー!」
「わわわっ!ちょっと待ちなさい!」
「走ったら危ないです!きゃあああ!」
アヤとヒエンがカエルを止めようとするが風のせいで足が勝手に動いて行く。ヒエンは顔面蒼白で走っている。こんなに速く走った事はなかったので転びそうで怖かった。カエルは風に乗りぴょんぴょん飛びながらアヤ達を引っ張る。このまま本当に吹っ飛ばされそうなくらい足が地面から離れている時間が長かった。もうほぼ浮いている状態だ。
「ちょっと!ちょっと!いやあああ!」
カエルが山の斜面を全速力で駆けるのでアヤもさすがに全力で止めにかかった。
「大丈夫!大丈夫!」
「大丈夫じゃないわよ!いつ転んでもおかしくないじゃない!転んだらただじゃすまないわ!」
「あ、足が折れます!足折れます!」
ヒエンは先ほどから絶叫している。
「だいたい普通に歩けばいいじゃない!なんで走るのよ!」
「時間かかるじゃん?」
アヤはカエルを叱ったがカエルの笑顔を見て色々あきらめた。
「……もうやだ……。」
「えー?何?聞こえなかったぁ!」
アヤのつぶやきはカエルに届くことなく風に流れて消えた。もう山を下りきり田んぼが多い田舎道を走っている。先程の山よりも平面なので恐怖心は半減したが今度は前から叩きつけてくる雨が痛くてしょうがなかった。カエルとヒエンは人間には見えないがアヤは人間と共に生きる神なので人間には見える。今、この状態を人間が見たら目を丸くするかもしれない。
走っている内に一軒家がだんだん多くなっていき、ひときわ大きい黄色い建物が見えてきた。商店街を走り抜け、どんどん黄色い建物が近づいてくる。どうやら目的地はこの黄色い大きな建物らしい。黄色の建物の目の前まで来た時、暴風雨が小雨になってきた。雨の道は途切れ、また全域を濡らしはじめる。
「目的地ってここ?」
カエルが首を傾げている。
「ここってこの町だか村だかの中央公民館じゃない……。」
アヤはがくがく震えている足を落ち着かせながら黄色い建物を仰ぐ。
「はあ……はあ……こんなに走ったのははじめてです……。」
ヒエンは今にも倒れそうな顔でヨロヨロとアヤにもたれかかってきた。
「ちょっとしっかりしなさいよ……。大丈夫?」
「……ま、まあ、とりあえず入りましょう?」
ヒエンはアヤに吐きそうな顔を向けてささやいた。
「よし!行こう!」
カエルはもうすでに自動ドアから中に入り込んでいた。アヤもフラフラしているヒエンを支えながら自動ドアを潜った。
アヤはびちょびちょになっているカッパのフード部分を取りながらあたりを見回す。雨だからか客は少なく従業員もあまりいない。乾いているタイル床を濡らしながら歩いていると図書館を発見した。
「あれが図書館かな?けっこう奥まったところにあるんだねぇ?」
カエルはタイル床を滑りながら図書館の前まで進んだ。
「わたくし、人間の図書館はじめてです……。」
ヒエンはオドオドとドアの前でアヤとカエルの顔を交互に見ている。もしヒエンが人間だったら間違いなく変人扱いされるだろう。
「カエル、あなた、雨神が普通の図書館と勘違いしてるって事ない?」
「え?あたし達が図書館って言ったら人間の方じゃないっしょ。それくらいわかると思うんだよねぇ。」
カエルは少し不機嫌そうな顔をしながら図書館のドアを開けた。アヤもカエルの言葉を信じ、キョロキョロしているヒエンを引っ張り中に入った。
中に入ると実に普通の図書館だった。子供が絵本を母親と読んでいたり少年達が学校の課題をやっていたりとどこにでもある普通の図書館の風景だ。
「うーん……。」
さすがのカエルも唸っていた。
「やっぱり違うんじゃない?」
アヤも頭を抱えた。ヒエンにいたっては楽しそうにあたりを見回している。
「わあ、絵本がいっぱいですねぇ……。」
「ヒエン。」
「あ、ごめんなさい……。」
アヤがヒエンに声をかけると我に返ったヒエンがアヤ達の元へ戻ってきた。
「そこのお客様方。」
途方に暮れていた時、受付のお姉さんが声をかけてきた。
「え?はい。」
カエルとヒエンは見えないのでアヤが対応する。
「そちらの右の棚、白い本でございます。」
「え?」
アヤは思わず聞き返した。あまりにいきなりだったためなんと言えばいいか返答に困った。
その間に受付の女性は元の持ち場に戻ってしまった。
「すっごいな。ちょっと、ちょっと。今の人、あたし達見えてたのかな?」
「え?どうして?」
カエルの発言にアヤはまた驚いた。
「お客様方っておっしゃっていましたね。」
ヒエンの言葉でアヤは「あっ。」と声を上げた。
「でもあの方、人間よね……。」
「まあ、深い事は気にしない!とりあえず右の棚の白い本ってのを……。」
アヤはカエルに引っ張られながら沢山並んでいる棚の内、一番右の棚へと足を進めた。右の棚には白い本が一冊だけ置いてあった。
「これだねっ!」
「ああ、そういう事ですか。」
カエルが本を触ろうとした時、ヒエンが声を上げた。
「え?何自己解決してんの?何々?」
カエルが本から手を離すとヒエンを見上げた。
「えっと、ここはもう幻の空間です。人間の常識ではこの右の棚はない事になっています。つまりここは人間の目からするとただの壁です。もしかしたらもう壁を突き抜けてここは外に出ているのかもしれません。」
「ヒエンは何かを感じたのね?」
「ええ。ここだけ神霊的空間で覆われています。間違いありません。」
ヒエンが真剣な表情で頷く。
「じゃあ、やっぱこの本に秘密があるんだねっ?結局あの受付の女の人なんだったんだろ。ま、いいか。」
「ああ!ちょっといきなり触るの?その本……。」
アヤの制止も無駄に終わり、カエルはさっさと白い本に手を伸ばしパラパラとめくった。表紙には天記神と書いてある。
「表紙は『てんきじん』かしら?」
「いや、違います。『あまのしるしのかみ』ですね。」
アヤの読み間違いをヒエンが訂正した時、本が光り始めた。
「え?」
そのまま三人は光に吸い込まれていった。
「ん……?」
気がついたら古い洋館の前にいた。洋館の周りは手入れされた盆栽が並べられている。この空間だけしかないのか辺りは白い霧で覆われておりまったく何も見えない。相変わらず雨は降っている。
「うわーっ……お化け屋敷?」
カエルが顔をしかめて洋館を眺めた。見た目、明治時代の建物みたいだ。
「兄はここにいるのでしょうか……。」
ヒエンはそわそわと洋館の前をうろついている。神の世界でも彼女を見たら変神と思うかもしれない。
「ここでまごまごしているわけにもいかないから入りましょうか。」
アヤはヒエンとカエルを連れて洋館の扉を押した。きしむ音と共にドアは開いた。
「あらあら?お客様?雨の日に何か調べものでございますか?ささっ、どうぞ。ふふ?」
ドアを開けると男が声をかけてきた。だが物腰は女そのものだった。中に入ると膨大な本が本棚に収まっていた。遥か彼方まで棚は続いており、上の方の本はどうやってとればいいかわからない。
意外に明るい部屋の中にひときわ目立つ男が二人、椅子に座っていた。頭に星をモチーフにしたのか五芒星のような帽子をかぶっており、そこから美しい青色の髪が背中まで伸びている。紫の着流しのようなものを着ておりそれが高貴な雰囲気をさらに醸し出している。
「ここはまた……すごい所に来てしまったわね……。」
アヤはこちらを見ている男を眺めながらつぶやいた。
「わあ!本がいっぱい!頭おかしくなりそっ!ははっ!」
カエルは天井を見上げながら楽しそうに笑っていた。
「初めて見る顔ねぇ……。雨の中、ご苦労様です。どうぞ。お座りくださいね~。」
男は近くにあった机の側に行くと椅子を全員分座りやすいように引いてくれた。気配りができる男らしい。アヤ達はとりあえず案内されるままに椅子に座った。
「はい。緑茶ですけどどうぞ。」
座ったらすぐに緑茶が目の前に置かれた。
「あの……ここは……図書館ですか?」
「あら、やだ!あなた、タケルちゃんの妹ちゃんじゃない!」
男は口に手を当てながら驚くとヒエンの近くに座った。
「え……わたくしと兄を御存知なんですか?」
「知ってるわよぅ!こないだから彼、書庫にこもりっきりなのよぅ!出てこないっていうか……。」
「え!じゃあ、兄はここにいるんですか!」
ヒエンの顔が輝いた。
「うーん。いる事にはいるんだけどどこにいるのかはわからないわよぅ。」
オネェだと思われる男は困った顔をこちらに向けた。
「わからない?」
「だってここには大量の本があるのよ?その一つ一つ調べるわけにはいかないじゃない?ねぇ?」
男は遠くで座っているもう一人の男に声をかけた。男は双子なのかまったく同じ顔をしており格好も同じだ。男からは返事がなかった。
「あらあら、術がきれちゃったかしら?ちょっとごめんあそばせ。」
オネェだと思われる男は座っている男に近づいて行った。
ここに入ってからわからない事がどんどんと出てくる。さすが神の世界だ。常識はまるでない。
「術がきれちゃったって……?」
アヤはよくわからなかったのでとりあえず緑茶に口をつけた。
しばらくして男が戻ってきた。
「で?何の話だったかしら?あ、私は書庫の神、天記神(あまのしるしのかみ)と申します。ね?」
天記神は座っている男に目を向けた。
「ああ。そうだな。俺達はそう呼ばれている。」
男の方はぶっきらぼうにそう答えた。
「あの方は……。」
「ふふ、彼は私よ。男の私。本当は一神なんだけど本って男の目線、女の目線で感じ方が変わるじゃない?私、昔はバリバリの男だったのよぅ。それでね、過去の日記の自分をこうやって外にだしているわけ。これで男女両方の目線からものをとらえられるようになったのよぅ。今は身体は男だけど心はお・ん・な。」
天記神は所々頬を染めながらこそこそとささやく。
「……はあ……。」
アヤ達は反応に困り呆然と天記神を見つめ返していた。日記の自分を外に出せるとは書庫の神も只者ではない。
「はっ、話を元に戻しますが、あ、兄はどこに……。」
頑張って話題を元に戻したヒエンは必死の表情で天記神を見つめた。
「そうねぇ……。どこにいたかしら……。来たところまでは覚えているのよ……。」
「ああ、確か冷林関係じゃなかったか?」
天記神が頭を捻っていたところ、男の方の天記神がぼそりとつぶやいた。
「それは草姫ちゃんじゃないの?」
「その前だ。馬鹿だな。覚えてないのか?」
会話を聞いている限りではこの二人はあきらかに別人だ。一体何があったらこんなに変わるのか。
「冷林……。」
ヒエンがつぶやいた。アヤも冷林は知っている。高天原の四つの区分の内の一つを仕切る神だ。高天原南は龍神達が住む竜宮がある。その竜宮の上に立つのは天津彦根神。その他、高天原東を統括する思兼神、通称東のワイズ、高天原西を統括するタケミカヅチ神、通称西の剣王、そして高天原北を統括する縁神、通称北の冷林。
「縁神、冷林を調べていたの?」
アヤが天記神に質問した。ちなみにカエルは疲れたのかうとうとと居眠りに入っていた。
「まあ、彼が言うならそうなんじゃないかしら……?冷林の記述は確か七冊くらいだったかしら?そしたら絞り込みやすいわね。」
「ちょっと待って。さっきからどこにいるかわからないとか絞り込みやすいとか何なの?」
アヤが絡まった部分をほぐそうと気になる事を聞いた。
「あらあら。ここにあるのは人間界の本じゃないのよぅ。読むものもあるけどここの半分は感じる本。」
天記神は『感じる』の部分だけ艶めかしく言うと近くにあった本を一冊とった。
「感じる本?」
「そうこれみたいにね。見た目、普通の本でしょ?でも、この中身は何も書いてないの。これは記憶を保存している本。開いたと同時にこの本の中に入って体験するの。」
天記神は他に誰もいないのに声を潜めてささやいてきた。
「本に入るの?」
「そうなるわねぇ。あ、入るなら『しおり』を忘れないようにね。本が終わるまで出てこれなくなるわよ。『しおり』を持っていれば疲れた時に戻って来れるし、もう一度同じ所を読む事もできるわ。」
天記神はアヤのゆのみに緑茶を注ぎながらにこりと笑った。
「しおりねぇ……。」
「兄はしおりを持っていなかったのでしょうか?だから出て来れないのですか?」
ヒエンは天記神に恐る恐る質問をした。
「さあ?タケルちゃんはよくここに来るし私がつくったしおりを持っていると思うわよ。はい。これ。」
天記神は机に三人分のしおりを置いた。どのしおりもかわいらしいピンクの和紙で作られており紫色の花とクローバーが描かれていた。かわいらしいので女の子には受けがよさそうだ。
「普通のしおりみたいね。何か特別な力があるのかしら?」
アヤはしおりを手に取って裏返しにしてみたりしたがどうみても普通のしおりだった。
「それはね、ただの紙。それを地面に置けばこちらに戻って来れるわよ。」
「へぇ……。」
「じゃあ、さっそくですがその冷林の本というのを見せていただけますか?」
ヒエンはそわそわと落ち着きがない。そんなヒエンを見ながら天記神はにこりと笑い頭を下げた。
「わかりました。今、ご用意いたします。」
天記神は手をそっとかざした。遥か上の本が何冊か抜き取られフワフワ浮きながら机に向かって飛んできた。本は風に散る木の葉のように音も立てずに机の上に落ちた。
「はい。この七冊。この中の一冊は確か今、草姫ちゃんが……。」
「草姫ちゃん?」
アヤとヒエンが同時に天記神を仰ぐ。カエルはカクンカクンと頭が上下している。これはその内おでこを机にぶつけるだろう。
「……えー……先客が読んでおります。」
「先客がいても読めるのよね?」
「もちろんです。」
「じゃあこれからにする?イソタケル神が入った本はわからないのよね?」
アヤはヒエンをちらりと横目で見た後、天記神に目を向ける。
「うーん。わからないわねぇ。あ、でもこの三冊は書いている神が違うだけで同じものをモデルに書いているからこの三冊は何か所かリンクしているわよ。冷林をモデルに書いている神と冷林の周りの森を主体に書いている神と冷林の森の近くに住む人間主体で書いている神のがあるわ。舞台が同じだからリンクするわよ。」
「じゃあ、この三冊はどれに入っても一つになるわけね。」
アヤは目の前に並べられた三冊の本を眺める。
「ええ。そうよ。」
アヤは一つだけ気になる本があった。それは冷林の森の近くに住む人間主体の話だ。タイトルは冷林が守護し森、日穀信智神誕生。
……日穀信智神(にちこくしんとものかみ)……実りの神、ミノさんの話だ。という事は先ほど読んだ昔話が出てくるかもしれない。あの看板には今はないハコ村と書いてあった。人間主体ならばおそらくハコ村の人間だろう。それと冷林が守護する森がどう絡むのかアヤは気になった。
「どれから入って探しましょうか……。」
ヒエンはオドオドとアヤを見上げる。
「どうせ全部入るなら……私はこれからがいいわ。」
アヤは『冷林が守護し森、日穀信智神誕生』と書いてある本を手にとった。
「じゃあ、それからにしましょう……。ごめんなさい。アヤさん。こんなところまで付き合ってもらって……。」
「いいわよ。」
アヤがヒエンに返事をした時、隣でゴチンと痛そうな音が聞こえてきた。カエルが机におでこをぶつけた音だ。
「いったあ……!スパーレルアカメアマガエルにはなれないってば!目が赤すぎじゃん……。ねぇ!ええ?アフリカツメカエル?無理無理!」
寝ぼけたカエルが大きな声で叫んでいた。まだ夢か現実がわかっていないようだ。
「やっと起きた。これからこの本に入るわよ。」
「ん?はっ?よくわかんないけどいいよっ!あれ?ここどこ?バナナは嫌いだよ。マルチニークコヤスカエルさん。」
「誰がマルチニークコヤスカエルよ……。しっかりしなさい!」
アヤがカエルを揺すったがカエルは相変わらずぼうっとしている。
「うん!でもコバルトヤドクカエルにはなりたいなっ!トマトカエルにはなりたくないなっ!」
ぼうっとしているのだがはっきりと言葉を発している。アヤはめんどくさいのでそのまま手にしおりを握らせると天記神に目を向けた。
「本を開けばいいのよね?」
「そうよ。」
天記神はにこりと笑うとそっと立ち上がった。
「じゃあ、開きましょう……。」
ヒエンがそっと本に手を伸ばし、震える手で本のページをめくった。
「それでは歴史の世界へ!はば、ないす、でぃ!」
天記神の下手くそな英語が聞こえてきたと思ったらアヤ達はもう木が覆い茂る森の中にいた。
「何?最後の……?どっかのアトラクションじゃないんだから……。」
アヤは一瞬有名なテーマパークを思い浮かべたが頭を振って今ある現実に目を向けた。
「ここが……本の中なんですか?」
「ええええ!本の中なのっ!ここ!すっごー!」
ヒエンのつぶやきに我に返ってきたカエルが叫び出した。
「この辺、どこかで見たことのある木だなと思ったらさっきまでいたあの森じゃない。」
先程と違うのは大雨でなくカラッカラの大地と眩しく照らす太陽だ。地面の状態からするとしばらく雨が降っていないらしい。
「暑いわね……。真夏かしら……?」
アヤがつぶやいた時、カエルが悲しそうな顔をこちらに向けた。
「ここ、嫌だ。嫌い。蛙がいない……。水がない……。」
カエルの元気は急になくなってしまった。ふてくされている。
「ちょっとしっかりしなさいよ……。」
「ダメだねっ……。耐えられない。帰る。蛙だけに。」
カエルはぷくっと頬を膨らませて地面を見つめた。
「確かにこれはひどいですね……。蛙にとってここは地獄です。雨どころか水もない……。」
ヒエンはむくれているカエルの背中をさすりながら太陽を仰ぐ。
「だって、ここには雨神様がいないよっ。ここ、蛙が一匹もいないし。ここ異常だよっ。蛙がいないのには理由があるんだよっ!いないなんてありえないよっ!」
カエルは悲しくなったのか目に涙を浮かべながらアヤ達を見た。
「日照り……かしら。あの昔話の……。」
「日照りでも……蛙はいるよぅ……。蛙の力が一時期弱まる時があるんだけどその時だけ雨を降らすことができない……。でも、蛙はいるんだよぅ……。力が戻ったら雨を呼ぶんだよ……。」
カエルはめそめそ泣いている。カエルがこの状態をおかしいと言うのならばこの日照りはおかしいのだろう。アヤは何と言えばいいかわからなかったのでとりあえずカエルの頭を撫でておいた。
「えっと、ここにいても何にもなさそうなので色々歩いてみませんか?」
ヒエンの提案にアヤは頷いた。子供みたいに泣いているカエルを引っ張りヒエンと共にアヤは歩き出した。
横でキツネが死んでいる。だが彼女がいる歴史書にはまるで関係のない物事だ。キツネの方へ向かうとおそらく違う歴史書に入ってしまうだろう。
「私は彼に会わなくちゃいけないんだから~。まっすぐに!牡丹並みにね~。」
草姫はきりっとした瞳を目の前にいる神に向ける。キツネを通り過ぎまっすぐに走る。
……彼に会う為に……
四話
アヤはあまりの暑さに着ているカッパを脱いで下に着ている青いワンピース姿になった。
カッパを脱いだと同時にカッパは跡形もなく消えた。着ている本人がいらないと感じたものはこの世界から消える仕組みになっているらしい。
「カッパが消えたわ。図書館に戻ったのかしら?」
「それはわかりませんが……ここは本ですからね……。異物は無い事になるのではないでしょうか。」
アヤがカッパを持っていた手を開いたり閉じたりしている。急につかめなくなったので変な感覚だけが手に残っていた。番傘をやめてカッパに着替えていたヒエンもカッパを脱いだ。やはりカッパは消えてしまった。
「やっぱりそういう事なのね……。」
アヤは納得すると歩き出した。しばらく歩いていたので先程の場所からはだいぶん遠のいた。
土で舗装されている道に出、その道をゆっくりと歩いている。その道の周りは林だ。
「あーあ、ほら見てよ~、キツネもグダグダだよ。」
アヤの隣にいたカエルがフラフラと歩きながら歩道脇のしなびた草むらを指差す。すぐ横でキツネの群れが力なく動いていた。その反対側の林では死んだキツネの肉を腹を空かせた子ギツネがつついている。食べられるものなら見境がなくなっているようだ。
「うわあ……。見たくないの見たね……。」
カエルはその光景から目を離し、ため息をついた。
「草花にも力がありません……。」
ヒエンは枯れて茶色くなっている草花を悲しそうに見つめていた。
さらに歩くと草も木も何もないただ、ひび割れた地面が広がっている場所に出た。不自然なくらい何もなく広い。草の一本も生えてなかった。
「ここは……何かしら……?」
「空き地かな?」
アヤとカエルは顔を見合わせながら足を前へ進める。
「なんかこの近くにいるって言われている人間が行事とかに使っていた場所なのではないですか?ほら、お祭り……とか。」
後ろを控えめについてきたヒエンがぼそりとつぶやいた。その一言になんだか納得した二人は「なるほど」とつぶやき大きく頷いた。
謎の空き地を通り過ぎ、また林の道に戻った。
「あっ!」
林の道に入った刹那、アヤは声を上げた。
「え?どうしたの?」
「なっ、なんですか?」
カエルとヒエンがそれぞれの反応を見せつつ、アヤを仰ぐ。
「今、人が……。」
アヤは遠くを眺めながら目を細める。
「人?例の村人?」
「じゃないかしら?」
カエルは村人に興味を持ったらしい。少し元気を取り戻すとヨタヨタとしながら足を速めた。
「木々がこんな状態では人間の状態はもっと劣悪でしょう……。そしてあのキツネ達も長くはありません……。」
ヒエンは色々ショックを受けているようだ。先程から顔色が悪い。
「ヒエン、ここは本の中よ。事実かもしれないけど言い伝えとかなら空想も入っているかもしれないじゃない。」
「そう……ですよね……。」
アヤはヒエンの背中を軽く叩くと先に歩き出したカエルの後をついて行った。ヒエンも顔色を青くしながら続く。歩くにつれ茅葺の屋根がぽつりぽつりと見え始めた。やはり人間の住む集落らしい。
「まったく声が聞こえないわね……。」
「……どういう状況なのか見なくてもわかりますね……。」
人影一つない家々を眺めながらアヤ達はさらに進む。さすがに家の近くに寄る事はできなかった。餓死した人間の骨を見てしまいそうだったからだ。
恐る恐る足を進めていた時、男の声が聞こえた。
「またか……。」
男は吐きすてるようにつぶやいていた。アヤ達は声が聞こえた場所へと近づいていった。
草陰から覗くと痩せこけた人々が何人か村の真ん中に集まっていた。
「キツネだ。」
「くそ……。あのキツネの肉を食ってやりたい……。」
村人の声が力なく聞こえてくる。目の前に起こったありえない事象にどの村人も戸惑いを隠せなかった。村人達の前には沢山の果物、野菜などが散らばっていた。
「この日照りで作物が育たないっていうのに……こんな事があるか?」
「だから、キツネだ。あいつらが俺達に幻を見せているんだ。」
村人達の心は荒んでいるように見えた。
「キツネは私達をみて喜んでいるのよ。ざまあみろってね……。」
痩せこけた頬、目の下にクマが出ている女がすたれた目でその場に座り込む。
「もう、お乳も出やしない。涙の一滴も出やしない。」
その一言を境に誰もが黙り込んだ。しばらく沈黙が流れる中、アヤは考え事をしていた。
……ざまあみろ?
アヤは村の女が言ったその一言が気がかりだった。
……ざまあみろ?この日照りに対して?キツネがざまあみろ?
……この村人達……何かしたの?キツネに恨まれるようなことを?
「アヤ、あれってミノさんの昔話?」
気がつくとカエルが眉を寄せながらアヤの顔を見上げていた。
「そうだと思うわ。」
「わたくし、一つ気になる事がございます……。」
ヒエンが珍しく凛とした顔でアヤを見据えていた。
「何が?」
「あのキツネさん、日穀信智神、ミノさんはどうやってあの作物を手に入れたのかです。」
ヒエンの言葉にカエルが「ああ!」と目を見開いた。
「そういえばそうだね!だってキツネもあんな状態だったじゃんね?」
「そうねぇ……。確かに変だわ。」
アヤも首を傾げた。
「幻術って事はないのかなっ?」
「それはないです。ただのキツネには力はありません。この辺に力を持ったキツネもいないようです。」
カエルの言葉にヒエンがはっきりと言った。
「うーん……そう?じゃあさ、あれ何?」
カエルは納得のいかない顔で野菜や果物を指差す。
「……それはわかりません……。ですが、あれは本物でしょう。よく見ると赤茄子(トマト)や胡瓜などが転がっていますね?……この時代にない食べ物ではないでしょうか?」
「そうなの?この時代はいつ頃?」
「この草花の感覚は間違いなく江戸時代以前でしょうね。赤茄子(トマト)が食べられるようになるのは明治以降ですし、胡瓜は江戸時代ですから。」
「草花の感覚……色々凄いわね……。じゃあ、未来に食べられている野菜がなぜかここにあるってわけね。」
「そういう事です。」
ヒエンとアヤの会話をふんふん聞いていたカエルが口を挟んできた。
「じゃあ、やっぱりあれは怪しいねっ!いますぐミノさんを尾行しなきゃ!」
「尾行って言ってもこの時代の彼はキツネさんなのではないですか?」
「そっかあ……。そうだねぇ……。」
カエルとヒエンが同時に唸る。カエルとヒエンをよそにアヤは一人答えにたどり着いた。
「なるほど……。冷林だわ……。ここで冷林が絡んでくるんだわ。」
「え?」
「だってこの本のタイトルは『冷林が守りし森、日穀信智神誕生』……。ミノが普通のキツネだったら怪しいのは冷林じゃない。」
「おお!確かに!」
カエルはアヤの言葉に大きく頷いた。
「冷林はどこにいるのでしょうか……。」
「それに関してなのだけれど村人に聞くって言うのはどうかしら?」
アヤの発言にヒエンが顔を青くした。
「そ、それはダメなんじゃないでしょうか?」
「あら?どうして?ここは本の中なんでしょう?知りたい事は調べればいいのよ。」
「はあ……まあ、そうなんですけど……。知らないわたくし達がいきなり話しかけて大丈夫なのでしょうか?それからわたくし達は人間に見える事になっているのですか?」
ヒエンが不安げな顔をしているのでアヤは顎で前を見るように促した。
「あっ……。」
ヒエンは前を見て驚いた。目の前でカエルが普通に村人と会話している。カエルが見えているようだ。村人達は怪しむ事もなくカエルに話しかけている。
「ね?いいみたいよ。」
「は、はあ……。」
とりあえず二人はカエルが何を話しているのか耳を傾けた。
「あのさ、冷林知らない?どこにいるの?ねぇ?」
まったく態度のなっていないカエルにアヤ達はため息をついた。
「冷林?いるとかいないとかじゃなくて不思議な林だ。」
今にも倒れそうな男性がカエルに普通に答えていた。
「ん?」
「霊魂が寄りつく林だ。霊魂が寄りつくせいかその林は少し他とは違い、涼しい。霊魂の『れい』と冷たい林の『れい』、それをかけてあそこの林を冷林と呼んでいる。それだけだ。」
「ふーん。もとは場所だったんだ。どこにあるの?それ。」
「ひときわ濃い緑色をしている場所だからすぐにわかる。あっちの方だ。」
男はアヤ達が先程歩いてきた方を指差した。
「ああ、さっき行ったとこ?ありがと!バイっ!」
カエルはにこりと男に笑いかけて手を振るとアヤ達の所に戻ってきた。アヤはすかさずカエルの頬を引っ張る。
「いででで……!何すんのさあ!」
「あなたねぇ……。なんで餓死寸前の人にあんな態度がとれるのよ……。」
「ええ?だって本の中じゃん……。」
カエルが頬を膨らませてアヤを見上げた。アヤはため息一つつくと話題を戻した。
「で?さっき私達がいたあそこが冷林がいる林なのね?」
「冷林は場所なんだってさ。」
「そこに冷林がいないって事はないでしょ?とりあえず行きましょう。今度はちゃんと調べるのよ。」
「ほーい……。」
カエルはアヤに渋々従った。
「手間になりますが戻りますか?」
「ええ。戻ってみましょ。」
ヒエンとアヤは歩き出す。その後をカエルが追うようについてきた。『しおり』を置いてまた最初から戻った方が早いのだが何か見落としている事もあると思い、歩いて戻る事にしたのだ。
相変わらず日差しは強い。カエルはもう倒れそうだがアヤが手を引き必死に歩かせる。
「もうダメだ……。おんぶっ!」
カエルがアヤにまとわりついてきた。
「甘えはダメよ。ちゃんと歩きなさい。」
アヤに怒られ、カエルは文句を言いながら素直に歩きはじめた。
「ごめんなさい。カエルさん……。付き合ってくださって本当に感謝しております……。」
ヒエンがカエルに必死に頭を下げている。
「お願いだから周りを見て。見落としがないか調べるために歩いているんでしょ!」
アヤもイライラしていた。この暑さとまだまだ歩かなければならないという気持ちがアヤをイライラさせていた。
「そうだ!着物になろう!霊的な着物は神々の正装!そして最強の防具でもあるじゃないか!」
カエルはいきなりそう叫び、両手をバッと広げた。刹那、カエルの周りを光が包みこんだ。すぐに光は消え、カエルの服は赤い着物へと変化していた。
「あ、それいいですね。」
ヒエンも両手を広げカエルと同じように服を着替える。ヒエンは淡いピンク色のかわいらしい浴衣に変身した。
「ああ、全然違うねぇ。オシャレで人間の服着てたけどやっぱ頼るところは着物なんだよねぇ。」
「人間は『着物は窮屈で色々不便だ』と言いますが神は逆ですね……。あ、アヤさんは着替えないんですか?」
ヒエンとカエルがきょとんとした顔をアヤに向けている。
「着替えるって……あなた達どうやっているのよ……。なんか魔法少女の変身シーンみたいな……。」
「え?」
アヤの発言に二人は口をポカンと開けた。
「魔法少女ってなんですか?」
「ヒエン、そっちの疑問じゃないよっ!」
頭を捻るヒエンにカエルが一応つっこむとアヤに目を向けた。
「え、本当に知らないの?」
「知らないわ。他の神も皆そうやって着物に変わるのよね。そういえば。」
「両手広げて服を着替えるイメージをすればいいんだよ。」
「よくわからないわ……。」
「とりあえずやってみよう!」
カエルはアヤにガッツポーズをおくる。アヤはカエルに指示された通り両手を広げた。
「着替えるイメージって何よ。」
「ええと自分が服を脱いでいるってイメージ。」
カエルの言葉通りをなるべく実践してみた。ワンピースを脱いでいる自分を想像する。普段、服を脱ぐときに『脱ぐぞ』と思った事がないのでそう思うと少し新鮮だった。
「おお!アヤはオレンジなんだねっ!」
「何がよ?」
カエルは感動していた。
「着物だよ!きもの!変わってるでしょ?」
カエルに言われ、アヤは自分の身体に目を落とした。
「え?」
アヤは驚いて目を見開いた。なぜかアヤはオレンジ色の着物を着ていた。いつ着替えたのか予兆も感じ取れなかった。本当に自然に服が変わった。着ているイメージすらしていなかったがアヤは買った事もない着物に身を包んでいた。
「ああ、アヤさん、きれいなオレンジ色……。コウリンタンポポみたいですね。」
ヒエンもうっとりとしたまなざしでアヤを見ていた。
「コウリンタンポポって何よ……。」
「北海道あたりで野生化しているタンポポです。キク科ヤナギタンポポ属の多年草です。きれいなオレンジ色をしています。」
「そ、そうなの?」
ヒエンがあつく語り始めたのでアヤはとりあえず相槌を打っておいた。
「うーん。ちょっとマニアックでわからないかなー……。」
カエルはあまり興味がないのか目を細めてぼうっとしている。
「ええと、確かに着物になれたけど……これすごい身体軽いわね。温度もあまり感じないし……適温って感じ。」
アヤは巧みに話題を変えた。
「そうですね。だから神々は着物を脱がないんですよ。」
「なるほど……。」
「でも服のバリエーションがこれしかないのでオシャレをしたい神はだいたい着物を脱いで着替えてしまうんですよ。」
「へぇ……。」
元気を取り戻したアヤ達は着物のまま歩き出した。
「ほんと、歩きやすいわね。人間が着る着物とは大違いだわ。」
「これは霊的な着物だからねっ!」
先程よりも幾分元気になったカエルが先頭をぴょんぴょん飛びながら進む。
「なんか色々凄いわね……。」
アヤはいまだに着物になれた理由もよくわからず機能のみに感動をしていた。アヤが着物を触っているとヒエンが声を上げた。
「あっ!キツネさんが走っています。まだ走る余力のあるキツネさんがいるんですね。」
ヒエンは林の奥を走っているキツネを目で追っていた。アヤも慌ててそちらに目を向ける。
「なんか怪しいわね……。追いましょう!」
「あれミノさんかな?」
素早く走り出したカエルがぼそりとつぶやいた。アヤもわからなかったがそんな気がした。
アヤもヒエンもカエルに続き走り出した。不思議と着物は重くなくアヤは軽やかに地面を蹴っている。
普通よりも速く走れているような気がする。
「あのキツネ、思ったより足速いなァ……。」
カエルは雨が降っていないと弱いのかすぐに息切れを起こした。アヤはカエルを励まし後ろからつついて走らせる。
「頑張って!」
「ああ、待ってくださーい!」
「頑張ってってば!」
アヤはヨタヨタと後ろを走っているヒエンにも声をかけ続ける。ヒエンを引っ張りカエルをつつきながら忙しなくアヤは走り続けた。気がつくと例の空き地にたどり着いていた。草も何もないただ広い場所。キツネはその広い土地を駆け、道からそれて再び林の中へと姿を消した。
「さっき、私達がいた方じゃない方向へ行ったわ。」
「とりあえず追いかけましょう……。はあ……はあ……。」
ヒエンはまたヨロヨロと走り出す。
「ちょっとしっかりしなさいよ……。ほら、カエルも!」
「うーん……頑張るよぉ……。」
カエルは覇気のない声を出すとヨタヨタと走り出す。ヨタヨタヨロヨロしている二人を引っ張りながらアヤはキツネを追った。なんで自分がこんなにむきになっているのかわからないがあのキツネは追わなければならないと思った。
キツネを追い、獣道へと足を踏み入れた時、空間が変わった。
「なんか今、変だったわよね?」
アヤはすぐに異変に気がつきあたりを見回していた。
「はあ……はあ……あれですよ……。きっと別の歴史書に入ったんじゃないですか?何か所かリンクしているって言ってたじゃないですか……。ぜぇぜぇ……。」
「あなた、頭、よくキレるわね……。息もきれているけど……。」
息が上がって苦しそうなヒエンにアヤはため息をついた。
「あれー?なんか雰囲気変わったね?今、ポヤンって変わったよね?」
カエルは不思議そうにあたりを見回していた。
「カエルより冷静だわ。」
「そ、そうですか?」
アヤはカエルを呆れた目で眺めながらつぶやいた。
「それよりキツネ追おうよっ!」
カエルが走り去ったキツネを指差しながら叫ぶ。
「あ、そうね!行きましょう!」
アヤ達はまた走りだした。キツネは険しい山道を飛びながら登っていく。ごつごつした岩がアヤ達の行く手を阻む。ロッククライミングとまではいかないがかなりきつい。
「あのキツネ……どんな体力してんのっ?こんなの登れるわけないじゃん!」
先程、山を全速力で駆け降りていたカエルが今やこんな状態だ。
「確かに……。おかしいわね。」
アヤは顔をしかめながら岩を登る。ヒエンに至ってはもう話す気力がないようだ。
気力と戦いながら三人はなんとか岩を登りきった。
「女の子が歩くとこじゃないよ……。まったく……。」
カエルは足首を抑えながらため息をついた。
「ここはあの例の林ですね……。あの岩山を登ってもここにたどり着くんですね……ぜえぜえ。」
ヒエンは今にも倒れそうになりながらあたりを分析する。岩山を登るとそこは先程までいたあの緑が濃い林だった。ここだけは日照りをあまり感じさせず緑が覆い茂っている。
「ヒエンはこんな状態でも色々見ているのね。すごいわ……。」
アヤももう歩く気力が沸いてこないくらい疲れていた。
「そ、そうでしょうか?」
「ええ。」
アヤもとりあえず周りを見わたす。キツネは少し先で立ち止まっていた。キツネの足はガクガクと揺れている。キツネ自身も体力の限界をとうに超えているらしい。
「あのキツネさん、きっと全速力で走らないとこの岩山登れなかったんですね。」
「確かにねっ。あんな状態だったら途中で倒れちゃうもんね。もう勢いで登ってたのかなァ?」
ヒエンとカエルの言った通り、キツネは普通に立てていない。よく見ると所々怪我をしている。岩山を登った時にあちらこちらかすったり木の枝ですれたりしたのかもしれない。
「あのキツネさんは何度もこの道を行き来しているって事ですね。」
「全速力で……ね。」
あのキツネがミノさんだとするならミノさんの体つきの理由も少しわかったような気がする。神になったミノさんの体つきは人間の男性と変わらないが筋肉がつきすぎず脂肪もあまりない。そんな体つきだ。ひょろっと細いのに筋肉はある程度ついている。なかなかしまりのある身体だ。
「あっ!」
カエルがいきなり叫んだ。何事かとアヤ達もカエルが見ている方向に目を向ける。キツネのすぐ横で赤茄子(トマト)、胡瓜などの野菜がいきなり出現した。季節はずれの柿やサツマイモなどもあった。
「あれ……例の野菜じゃない!」
「いきなり出現しましたね。ほんの少し、神の気配がこのあたりまわっています。」
「冷林かしら。」
そういえばなんだかここら辺だけ他の場所と違い、涼しい。そしてなんだが潤っているようにも見える。来た当初は気がつかなかったがこうやって里に下りてからここへ来るとそれが顕著にわかる。
「ここの木々は人々の信仰を糧に生きているようですね。」
「人々の信仰……やっぱり冷林よね。」
「それだけではないかもしれないです。ここの木々は違うものも混ざっているように思えます。現代の時とは感覚がまるで違いますね。」
ヒエンは近くにある木をそっと撫でた。木種の神は何かを感じ取ったらしい。
「おっ!あれ見て!」
またカエルが叫んだ。アヤ達は木から目を離すと再びキツネに目を向ける。
「何よ?」
先程と何も変わっていない。キツネが野菜の匂いをクンクンと嗅いでいるだけだ。アヤはまた木に目を向けようとした時、林の奥の方で何かが目に入った。底冷えするような何かがアヤを駆け巡る。もう一度、林の奥の方に目を向ける。
「れっ……冷林……。」
林の奥の方でこちらを見ている水色の物体。人型クッキーのような単純な形をしたぬいぐるみがどこにあるのかもわからない目でじっとこちらを凝視している。人型クッキーの顔部分にはナルトのような渦巻きが描いてあるだけで目も鼻も口も何もない。
冷林はこちらを見ているだけで向かっては来なかった。
しばらく冷林と向き合っていると今度はキツネの横が光り出した。
「今度は何よ……。」
アヤは冷林から目を離し、光の方に目を向けた。光はすぐに消え、一人の女が現れた。女は菫色の着物を着ており、金色の長髪をなびかせながらキツネを撫でていた。
とてもきれいな女性だったがこの林には浮いていた。
「あなたが何をしたいのか、私にはわかる……。」
女はキツネを撫でながらキツネに言葉をかける。
「でも、あなたはもうこの辺でやめるべきだ。元の里に戻したいのだろう?私はあなたを手伝っているがもうそろそろ私自身も限界だ。かわいそうなキツネよ……。もうこれを期に人間と関係を絶て。あの里の人間はもうおしまいだ。あなたの声は届いていない。こんな結果を招いたのは私の力不足だったのだ……。あなたは何も悪くない……。だから……もう……。」
女はキツネの耳にそっとささやく。キツネは女を見上げているだけだった。
「あなたが神々の責任をおう事はないし元に戻そうとしなくてもいい。あなたはまだ元気なうちにこの界隈から出て行くべきだ。ここまで頑張ったのだ。なんなら私が潤っている大地へと連れて行ってあげようか?」
女の言葉にキツネは一度目を閉じると首を大きく振った。そしてそのまま小ぶりの赤茄子(トマト)をひとつくわえるとまた全速力で走り去った。アヤ達の横を高速で飛んで行き、そのまま岩山を飛び降りて行った。
「やめろっ!もう行っても意味ないんだ!人間はあなたを信じていない!」
女は叫んだがもうすでにキツネは走り去った後だった。
「っく……。もうダメね……。私が彼の生までも無駄にしてしまったと……あなたはお思いなのでしょうね……。冷林様。」
女は目に涙を浮かべながら後ろでただ佇む冷林を睨みつけた。冷林は何も言わなかった。
「私は……神様失格ね……。最後に……タケルに会いたかった……。あの神なら……馬鹿な私をきっと叱ってくれた……。」
女はただ泣き崩れていた。アヤ達は何も言えずただじっとその場に佇んでいた。そのうち、遠くの方で何度も銃声が響きはじめた。アヤ達はハッと銃声が聞こえた方を振り向いた。里の方からだった。アヤの中に一つの予想が横切る。アヤは咄嗟に走り出した。
「あ、アヤ!」
「アヤさん!」
カエルとヒエンはアヤを呼んだがアヤには聞こえなかった。予想していた事がおそらく現実で起こっている。アヤは無我夢中で走った。足に枝がひっかかろうと葉っぱに頬を切られよとかまわず走り続ける。喉があつくなってくる感覚を覚えながらアヤは獣道を駆け、広い空き地を抜け、村の近くへとたどり着いた。
「……っ。」
アヤは苦しそうに息をしながら怯えたように足を止めた。アヤの目の前であのキツネが血まみれで倒れていた。
「ミノ……。」
アヤはキツネを抱き上げた。まだかろうじて息があった。キツネは目に涙を浮かべながら苦しそうに息をしていた。
「アヤさん!」
「アヤ!」
ヒエンとカエルもアヤに追いつき肩で息をしながら立ち尽くした。
「だめ……。死んじゃだめ……。ミノ!」
「あ、アヤさん。ここは本の中です。しっかりしてください!」
ヒエンがアヤを止めに入るがアヤは気が動転しているのか平静ではなく、ヒエンを突き放した。
「……アヤ、ここは歴史書だよ!昔話に書いてあったじゃん。」
「私が助ける。」
「ダメだって!」
カエルもアヤを止めるがアヤは聞かない。アヤは身体から時間の鎖を出現させた。自分でもどうやったかはよくわからないがこの時はなぜか必死に時間の鎖を出していた。キツネを撃たれる前の状態に戻そうとしていた。キツネの傷口は徐々に塞がっていた。
「アヤさん!ダメです!」
ヒエンが叫んだ時、痩せこけた男性がこちらに向かってきていた。おそらく村人だ。ヒエンとカエルはアヤを無理やりひっぺ返すと近くの草むらへ連れて行った。
「ミノが死んじゃうわ!」
「アヤさん、彼は死んでいいんです!」
ヒエンの言葉が悪かったのかアヤの目つきが鋭くなった。
「死んでいいって何よ!」
ヒエンに掴みかかろうとしたアヤをカエルが素早くポカンと殴った。
「アヤ、落ち着きなってば。現代でミノさん、生きてるでしょ。ここでアヤが助けちゃったら今生きているミノさんどうなるのさっ!」
「あ……。」
カエルの言葉で我に返ったアヤは恥ずかしそうに下を向いた。
「それにしてもなんで本の中なのにアヤさんの力が発動したのでしょうか?」
ヒエンはほっとした顔をカエルに向けると話題を変えた。アヤはまだ動揺しているのか顔を両手で覆っていた。
「知らないよっ。ああ、びっくりした。アヤがあんなになるなんてねっ。ミノさんに恋しちゃってんじゃないの?あ、そういえばさっき、あの女神がタケルって言ってなかった?」
「ああ、それも疑問ですね。タケルとはイソタケルの事でしょうか。そうなると私の兄ですね。あの女神は誰なのでしょうか……?」
「待って待って。話さっきのに戻すけどさ、なんでキツネが撃たれたばっかなのにもう村人が登場しているのさ?」
先程から話がコロコロ変わるのでヒエンは頭を捻った。
「何の話でしょうか?」
「キツネの話だよっ。あの昔話だと翌日に村人が死んだキツネを発見するんじゃなかったっけ?」
「ああ!そうですねっ!」
「私のせいかもしれないわ……。」
カエルとヒエンの会話に割りこむようにアヤがつぶやいた。
「時間の鎖を出しちゃったから?」
「ええ。まわりの時間とか歴史とか丸無視して時間の鎖が出ちゃったの。ただ、ミノの怪我を治そうとしただけだからあんまり考えてなかったわ。現世でやってたらあたり一帯グッチャグチャだったわね……。」
時神が出す時間の鎖は時間を止めたり、巻き戻したりできるが現世でそれをやると周りの建物や生き物などの歴史、時間を完璧に把握して制御しないと時間の鎖を出した後、時間がおかしくなるところが出てしまう。故に時神は現世で時間関係をいじる事は禁止されている。人間の時間を監視するのが時神の役目だ。
「ああ、それで仕組みはわかりませんが本の中の時間が一日ずれてしまったんですね……。」
キツネを見ると流れていた血はこびりつき、茶色く変色している。土を汚していた血液も乾いて地面に張りついている。キツネはもう息をしていないだろう。
村人の男がキツネを蹴りあげたがそのやせ細った身体を見て慌ててキツネを抱き上げた。そのままキツネを抱え男は村へと戻って行った。
「さて、これからミノさんになるのかなっ?」
カエルは村人が去って行った方向を眺めながらつぶやいた。
「追ってもいい?」
アヤが控えめにヒエン達を見上げた。ヒエン達の目的はイソタケル神を探す事だ。ミノさんの生きざまを見る事ではない。本当ならばあの女神をもっとよく調べるべきだったのだがアヤの勝手で村へと戻ってきてしまった。アヤは自分のしてしまった事に頭を抱えていた。
「いいですよ。もうここまで来てしまいましたし。」
「逆にここまで来たら気になっちゃうよっ!」
ヒエンとカエルはアヤに笑いかけた。
「ごめんなさい……。」
「そんな……あやまらないでください。アヤさんの気持ちはとても素敵です。」
「まあ、なんでもいいよっ!はやくいこっ!」
カエルがヒエンとアヤを引っ張るので二人は引っ張られるまま草むらを出た。
「ありがとう。カエル。」
「え?何?聞こえなかったァ!」
「なんでもないわ。」
アヤはとぼけているカエルにそう言うと村人が歩いて行った方へ歩き出した。
しばらく歩くと村人達の声が聞こえてきた。
「このキツネ……俺達に食べ物を届けに来ていたんだ……。神の使いかもしれない……。それを撃ち殺してしまった……。」
村人の男は顔を真っ青にして他の村人達を見回す。他の村人の顔も青い。
「まずいぞ……。今すぐ祭らなければたたり神になるかもしれない。」
「今すぐ祭司と巫女を呼べ!」
「祭司はもういないだろ!巫女は病にふせっている!とてもじゃないが立てる状態じゃない!」
村人達は慌てていた。
「今立っている村人を全員集めてあの地へ連れて行け!」
「我々だけで祭事をやるというのか!供える物も何もないじゃないか!」
村長ももういないのか村は統率がとれていないようだ。
「しかたない。何人か命を捨てる覚悟を持て。」
一番年長だと思われる村人の男がそう命じた。村人達はただ息を飲むだけだった。
しばらくしてこのままだと皆死んでしまうと確信した村人達はぞろぞろとキツネを抱え歩き出す。
「あの人達……死ぬ気なの?」
「……。」
アヤのつぶやきをヒエンとカエルは黙って聞いていた。
そのまま待機していたが村人がいなくなってしまったのでアヤ達は再び動き出した。村人達はあの広い土地に集まっていた。やはりここは祭事を行う場所だったのか。もうすでに何人かの村人は自害していた。アヤ達は思わず目をそらした。祭事は見ていられるものではなかった。
神主も誰もいないこの祭事は皆本当にあっているのかもわからずに行っているようだ。村人はそこらにあるカラカラの草をむしるとキツネの上にかぶせはじめた。火打石をつかって火をつける。
キツネを燃やす気らしい。
「ミノは……たたり神になる事を恐れられて祭られたのね……。」
アヤはなんだか複雑だった。あんなに優しいキツネがたたり神と恐れられている。これは信仰ではない。厄災を持ちこまないでくれと願われているのだ。昔話とは違う結果にアヤはショックを受け、下を向いた。
アヤが落ち込んでいる最中も炎は轟々とキツネを焼く。村人は泣きながらこれ以上悪い方向へいかぬよう願っている。
やがて村人は徐々に村へと引き返して行った。村人達はこれでよかったのかと煤けた草を眺めながら不安げな顔で去って行く。残った数人の村人が骨になりきれていないキツネを地面に埋める。
その周りに自害した村人を添えるように埋めた。
カエルとヒエンも悲痛な顔で埋められるキツネと村人達を見ている。あんまり見たいものではなかった。
あまりのショックに三人は呆然としばらく佇んでいた。村人はもういない。
「なんて言えばいいか……わからないですね……。」
やっとの事でヒエンが口を開いた。いくら歴史書といえども実際に見ると耐えられるものではなかった。
気がつくと日が沈んでいた。オレンジ色の夕陽がアヤ達を眩しく照らす。
どうすればいいかわからずにただ呆然としているとザッザッと土を蹴る足音が聞こえた。そしてすぐにアヤ達の目に金色のきれいな髪が映る。
現れたのはあの女神だった。
夕陽は傾き徐々に星が見え始める。埋められたキツネの上にぼんやりと若い男性の影が映りはじめた。アヤは咄嗟にミノさんだとわかった。影は徐々に鮮明になっていく。頭にキツネ耳をはやした男性が座り込む形で現れた。キリッとした水色の瞳、濃い黄色の髪、間違いなくミノさんだった。いまと違う所は髪が腰辺りまである事と雰囲気が違った。そして裸だった。
「あ……。」
アヤはパッと目を離した。色々髪で隠れているがなんだか恥ずかしかった。
「すっぽんぽんだねっ。ミノさんたら。」
カエルは逆に興味があるのかミノさんを上から下から眺めている。
「や、やめなさい……。カエルさん。」
ヒエンも恥ずかしかったのかカエルの目を手でおさえた。いきなりの事で三人とも戸惑っていた。
そんな事をしている間に話はどんどん進んでいく。
「たたり神に……なってしまったのか?」
女はミノさんに対しつぶやいた。ミノさんからは異様な気が出ている。
「……俺は……こんな事をしたかったわけじゃない……。人間に死ねって言ったわけじゃない!」
ミノさんは立ち上がると女をまっすぐ見つめ叫んだ。
「わかっている。わかっている……。」
女は苦しそうに下を向いた。
「人間は死にたかったのか?だったら今の俺がもっとも苦しい殺し方をしてやる。人間がそれで満足するならなっ!食物も受け取らず俺を撃ち殺した……。人間はよほどこの界隈を嫌っているようだな。そんなに死にたかったのか?俺はいままで何をしていたんだ!」
ミノさんは狂ったように叫び出した。
「落ち着け。名もなき神よ。あなたの心が人間に理解されなかっただけだ。私が出した食物も悪かったのだろう。あれは高天原で現在栽培されている野菜達だ。この界隈にはないものだった。あなたの手助けをするのに十分な食物がこのあたりにはなかったのだ……。だから高天原のを持って来てしまった……。それ故、人間は幻だと思ってしまった。あなたが死んだのも私のせいなんだ!」
女は必死にミノさんを止めた。涙をこらえている顔だった。本当はとてもメンタルの弱い神なのかもしれない。
「違うな。俺はそうは思わない。おたくは悪くないだろ。もともとは人間が招いた結果だ。そうだろう?俺はこの村の人間を滅ぼす。もうほとんど残ってねぇだろ。食ってねぇから立ってるやつなんか数人だろうよ。」
「頼む!思いとどまってくれ!頼む!」
女はミノさんにすがるがミノさんは女を突き飛ばした。
「何言ってんかわかんねぇんだよ!思いとどまるってなんだよ。俺は知らねぇな。」
「……っ。」
女は一瞬顔を強張らせるとミノさんから離れた。
「わかった……。でもあなたにはここを守ってもらわねばならない。私の信仰はもうないに等しい。消えるのも時間の問題だ。私の代わりにこの地を守ってもらわねば困るのだ……。実りの神として土地神として……。花泉姫神(はないずみひめのかみ)、それだけは守りたい。」
「別にいいが、じゃあ、人間を消してからでもいいよな。」
「違う!違うんだ!……くっ……このままでは彼が厄神になってしまう……。これも私のせいか……。」
金髪の女、花泉姫神は手を前にかざすとミノさん目がけて白い光を飛ばした。
「……?なんだ?これ。」
「じっとしていろ。あなたの為になる事だ……。」
ミノさんはきょとんとしていたが花泉姫神はどんどんやつれていく。あたたかい白い光がミノさんを包みこむ。ミノさんの目つきがだんだんと穏やかになっていった。雰囲気も現代にいるミノさんに近づいてきた。
刹那、白い光が突然消えた。
「うっ……。」
花泉姫神はいきなり苦しそうにその場に倒れ込んだ。
「おたく、何をしたんだ?大丈夫か?」
ミノさんは呆然と花泉姫神を見つめていた。
「ああ……。どうだ?あたたかいだろう?あなたが持つべき力は……人間を消す力ではない……。こちらの力だ……。完璧に渡せなかったか……。私ももうダメだな……。」
「……。」
ミノさんは花泉姫神から目を離すとそっと目を閉じた。
その時、
「花姫!」
と遠くでミノさんではない男の声がした。その声にヒエンがいち早く反応を見せた。
血相を変えて走ってきた男は水色の浴衣を着ており濃い緑色の髪をしていた。髪は背中まであり、髪の先端は葉になっている。髪というよりツルと表現した方がいいか。そのツルのような髪をなびかせながら精悍な顔つきをしている若い男が花泉姫神を何度も呼んでいた。緑の瞳はヒエンのものそっくりだった。
「お兄様……。」
ヒエンが声を震わせてつぶやいた。
「あの神が……イソタケル神……。ヒエン、あれは本の中のイソタケル神よ。」
アヤは咄嗟にヒエンに目を向ける。先程のアヤと同様、ヒエンも何かするかもしれないと思ったからだ。
「大丈夫ですよ。わかっていますから……。」
ヒエンは不安げな顔でこちらを見たが何もする気はなさそうだ。これがアヤとヒエンの生きた年数の違いなのかもしれない。ヒエンは冷静だった。アヤは頷くと広い土地へと目を向ける。
「……っ……何をしたんだ……。一体何をした!」
イソタケル神は倒れている花泉姫神を抱き起すと声を張り上げた。
「ああ……来てくれたのね……。タケル……。この土地を見て……あなたは何を思う?」
花泉姫神は泣きながらイソタケル神の腕を掴む。
「ひどいな……。僕がいない間に何があったんだ?」
「そんな顔しないで……。いつもみたいに怒りなさいよ……。」
悲痛な顔をしているイソタケル神に花泉姫神は苦しそうにつぶやいた。
「冷林は……あれは何をやっていたんだ!お前はまだ力が弱いから冷林の一部の林を守る事で実りの神として力をあげるんじゃなかったのか?」
「そうだった……。はじめはそうだったのよ……。」
ミノさんは二人の会話を静かに聞いていた。今神になったばかりのミノさんには何の話なのかはわからなかった。
「それなのになんでお前はこんなに弱りきっているんだ……。この土地も……なんでこんなに荒れている……。」
「私は所詮、神になんてなれなかったのよ……。」
花泉姫神は嗚咽を漏らしながらイソタケル神の胸に顔をうずめる。
「神になってまだ間もないのに何を言っているんだ。これからだろう?」
イソタケル神が必死に声をかけるが花泉姫神は首を横に振った。
「……。最後まで私は中途半端だった……。ごめんね……。あなたに私の後始末を押し付けて……。」
花泉姫神は瞳に涙を浮かべながらミノさんを見上げる。ミノさんは怯えた表情で花泉姫神を見おろしていた。
「どうしよう……。ちゃんと始末をしてから死にたいのに……時間は待ってくれないみたい。」
「おい!しっかりしろ!」
「タケル……。」
花泉姫神はイソタケル神の頬をしなやかな指先でそっと撫でると目を閉じ、消えていった。
「おい……なんでこんな事になったんだ!なんでだ!」
イソタケル神はいままで感じていたぬくもりを握りしめながら悲痛な声を上げた。
「……っ……。」
目の前に立っているだけのミノさんは怯えた瞳でただ地面を凝視しているイソタケル神を見つめていた。刹那、イソタケル神が威圧のこもった瞳でミノさんを睨みつけた。
「なんでお前が花姫の神力を持っている……。花姫はなんで消えた……。あの子はまだ神になってから一年も経っていないんだぞ!」
「し、知らねぇよ!俺は今神になったんだ……。そんなの知るわけねぇだろ!」
ミノさんは動揺しながらイソタケル神に叫んだ。
「……あいつの管理が悪いからこんな事になったんだな。」
イソタケル神はそうつぶやくとミノさんの前から姿を消した。
「……なんだったんだよ。……で、俺のやる事はこの村の再生か……。ここら周辺の活性化か?」
ミノさんは腕を横に広げる。ミノさんの身体に赤いちゃんちゃんこと白い袴が巻きつく。なぜか服を着るやり方を知っていた。
「さっきまでの禍々しい気持ちはなんだったんだろうなあ……。」
今や穏やかな気持ちのミノさんはゆっくりと村へ歩きはじめた。その背中に悪意は感じられなかった。
アヤ達は一通り話を聞き終わり、ふうと息をついた。
「あの女神は誰だったのかしら……。なんだかすごく切なそうな感じだったけど。ミノがらみでなんかあったのね。」
アヤはカエルとヒエンに目を向けた。
「うーん……。なんかあの女神がやっちゃったみたいだね。」
「お兄様はもしかしたらあの女神を本で調べているのかもしれませんね……。神にしてはやたらと寿命が短いと思います。一年も経っていないと……。ミノさんへの力の譲渡が原因で死を早めてしまったらしいですね……。」
カエルとヒエンは複雑な表情で今や誰もいない空き地を眺めている。
「たたり神になりかけていたミノをあの女神が救った……。そして自分はもうダメだと悟ってミノにこの土地を守る神になってくれと願った。というわけよね?ミノ……の原型はあの女性だったのね……。」
「そういう事になりますね……。何があったのかはよくわかりません。」
「この本はここで終わってるんじゃないのっ?過去を見たいなら別の本に入ろうよっ!」
ヒエンが首をひねっている横でカエルがしおりを取り出した。
「ちょっと、まだこの本には続きがあるんじゃない?」
アヤがそうつぶやいた刹那、目の前が急に真っ白になった。
「なっ……何なに?」
そう思うのもつかの間、白い光が裂けるように消え、気がつくと図書館の椅子に座っていた。
「あらあら?おかえりなさい。」
雨の音が外でしている。天記神が目の前に座っていた。アヤ達はいきなりの事でまだ頭が回転していなかった。
「な……え?」
三人はきょろきょろとあたりを見回す。本が高く積まれており、遠くの椅子に男版天記神が座って本を読んでいる。
「大丈夫かしら?時間にして四時間ってとこね。」
天記神がぼうっとしているアヤ達の前に緑茶を置いて行く。
「ああ、そっか。本の中にいたんだもんねぇ……。感覚ないや……。」
カエルがつぶやいたのを境になんだかどっと疲れた。
「わたくし達はしおりで戻ってきたんですか?」
「違うよっ!あたしはしおりを地面に置いてないよっ?」
「じゃあ、あれで話が終わっていたんですね?」
カエルとヒエンの話を聞きながらアヤはなんとなく緑茶に口をつけた。緑茶の温かみが身体に入った瞬間、今がどれだけ平和なのかに気がついた。
「アヤ、大丈夫?」
「え?ええ。これはけっこうな心労ね……。」
「少し……休みましょうか。」
カエルとヒエンも緑茶に口をつける。三人ともショックを受け、しばらく呆然としていた。
「あ、天記神さん…わたくし達が入っていた本の前の話ってありますか?」
ヒエンはとりあえず本だけでも出してもらおうと天記神を呼んだ。
「ええ。ありますが……でも、もうちょっとお休みになられてはいかが?本は逃げないわよ。」
「そ、そうですね……。」
ぼうっとしている三人を少し切なげに見た天記神はどこからか洋菓子を持って来た。お皿にクッキーを盛り三人の前に出す。
「これ、もらいものですがどうぞ。はじめての子はけっこう衝撃を受けちゃう子もいるのよね……。私が癒してあげるわよ。ね?」
天記神は微笑むと三人の側に寄り、手を握った。男らしい大きな掌だったが別に変な気持ちにはならなかった。この神の心が女だからかもしれない。どちらかと言えば大らかな母親の手のようだ。
しばらく動く気もしなかった。アヤ達は放心状態のまま、ただぼうっと座っていた。
やっぱり違うか……
金色の長い髪をなびかせ大きなハサミを持ち歩いている女、草姫はため息をついた。緑の濃い林で冷林とイソタケル神が立っている。
「なんで花姫を見捨てた!」
イソタケル神は吐き捨てるように冷林に言い放った。しかし冷林は何も話さなかった。
「ここら一帯はお前の管轄だろう!僕が割り振った土地がそんなに嫌だったのか?」
イソタケル神が一方的に怒鳴っている。冷林はイソタケル神にただ頭をさげているだけだった。
これは草姫にはどうでもいい事だった。
……私が会いたいのはこのイソタケルじゃないのよぉ~……。
……やっぱり彼は……この本にはいない……。
草姫はしおりを取り出した。
……スカビオサ……花言葉、再出発ね~。
草姫はパッとしおりから手を離した。
五話
「ふぅ……。」
緑茶を飲んで一息ついたアヤ達は着物から既存の服に着替え落ち着きを取り戻していた。
「あ、そういえばさ、アヤ達が脱いだカッパってどうなったの?」
カエルがぼそりと天記神に話しかけた。
「ええ。こちらに戻って来てますよ。乾かして丁寧にあちらにたたんでありますのでご安心なさって。」
天記神は男版天記神が座っている椅子の前を指差した。先程まで本に埋もれて見えなかったが机の上にたたまれたカッパが置いてあった。天記神は本当に気のきく神様らしい。
「ああ、やっぱりこっちに戻ってきていたのね。天記神、ありがとう。」
アヤは素直にお礼を言った。天記神はうふふと笑って本を一冊取り出した。
「これ、ご所望の本です。一応置いときますからどうぞ。」
天記神が置いていった本のタイトルは『冷林地方の悲劇』だった。なんだか縁起が悪いタイトルだ。
「あ、そういえば、天記神さん。お顔の紫のペイントが消えてますよ?」
ヒエンが天記神の顔にあったペイントが無くなっている事に気がついた。
「え?あら、やだぁ!また術が切れちゃったようねぇ……。ごめんあそばせ。」
天記神はまた先程と同じように男版天記神の所に行くと何か言い、また戻ってきた。次に会った時はもうペイントがしっかりとついていた。このペイントは術の発動時につくものらしい。
「ヒエンちゃん、ありがとう。」
「え?あ……いえいえ。」
返答に困っているヒエンに天記神が微笑みかけた時、すぐ横で金髪のオシャレな女が現れた。女は大きなハサミと如雨露を持っていた。
「草姫ちゃん、ずいぶん長かったわねぇ。」
「うーん。これはダメだわぁ~……。違うもの。」
「あら、そうだったの?」
金髪の女、草姫に天記神が困った顔を向けた。
「……っ!ちょっ……!」
草姫を見たアヤ達は目を丸くして驚いた。草姫はアヤ達が先程までいた歴史書のあの女神と全く同じ顔をしていたからだ。あの女神、花泉姫神(はないずみひめのかみ)だったかは消えてしまったはずだ。
「あ、ちょっと失礼。これ、先に読ませてもらってもいいかしら~。」
草姫は呆然とこちらを見ているアヤ達に愛嬌のある顔つきで微笑んだ。
「え……あ、どうぞ。」
アヤ達は気が動転していた。戸惑いながらとりあえず目の前の本を女に渡す。
「ありがと~。それではお先に~。」
草姫はふふっと目を細めて笑うとアヤの前にあった『冷林地方の悲劇』を手に取った。そして何の迷いもなく本を開くと中へと入って行った。
「ええと……。」
「あー!びっくりしたァ!」
ヒエンとカエルは草姫が消えたと同時に声を上げた。
「い、生きていたって事?あの女神は……。」
アヤも動揺していた。
「でも雰囲気違い過ぎじゃないかっ!」
カエルが口をロボットみたいに開けて大げさに叫ぶ。
「図書館で冷林の事を調べているわけですから同一神と考えていいのではないでしょうか?」
「じゃあ、なんで消えたのかしら……。」
ヒエンとアヤが頭を捻っていると横から天記神が口を挟んできた。
「よくわからないけれど……彼女はその歴史書に出てくる花泉姫神とは違うわよ。双子のおねえちゃん、草泉姫神(くさいずみひめのかみ)。で、草姫ちゃん。」
「え?別神なんですか……。」
天記神の言葉を聞き、ヒエンは落ち込んだ。彼女が生きている事に望みをかけたが叶わなかったようだ。
「私も彼女に会ったのは今日が初めてだわよ。でも、彼女は有名だから。よく本で見ているしね。」
天記神はホホホと口に手を当てながらいたずらっぽい笑顔でこちらを見た。
「あの女神の双子の姉……。それが冷林を調べているって事はイソタケル神も関わってくるんじゃない?」
アヤは天記神を見上げた。 天記神はちょっと迷っていたがアヤ達に話しはじめた。
「さあ?それは私が関わる事じゃないからなんとも言えないけど、草姫ちゃんは植物の生死を司る神。人間の生死を司る死神に近いかしら?ハサミで草花の命を絶ち、如雨露で草花に恵みを与える。草花のバランスを保っている大事な神様ね。反対に今は亡き双子の妹はその草花から得た恩恵を人間に渡す神様。つまり実りの神ね。あの二神は対になっている神様なのよ。まさに双子!ジェミニ!」
天記神は塾の講師並みにわかりやすい説明をしてくれた。さすが書庫の神。
もしくは個人情報になるからと複雑な説明を省いたため簡易的な説明になったのか。
「へえ……、草木にもそういう神様がいるわけね。草木関係なら冷林、イソタケル神とも関わってくるはずだわ。あの女神を追った方がいいかしら。」
「そうだねっ!じゃあ、さっさと入ろう!元気出たし。」
長い説明は苦手なのかカエルがそわそわとアヤをうかがいはじめた。
「あなた、本当に自由気ままなのね。……私は大丈夫よ。ヒエンは?」
アヤはヒエンを仰ぐ。
「あ、わたくしも大丈夫です。」
ヒエンの顔はまだ若干青いがだいぶん血色が戻ってきていた。
三人が息を吐いて意気込みをしていた時、天記神が口を開いた。
「時神現代神さん、歴史書をあまりいじらないでね。」
「え?」
「歴史書はあくまで歴史を記憶している本、記憶を変えられちゃったら歴史も変わるのよ。今回はかなり狂ってしまった歴史を私が歴史の神、流史記姫神に連絡を入れて帳尻を合わせてなんとか一日のずれで済ましたのよ。」
天記神はキリッとしたオレンジ色の瞳でアヤを睨みつける。
「あ……。」
アヤは言葉を詰まらせた。
「……お願い。今後あれだけは絶対にやらないで。約束して。ね?……この件は高天原に報告しなかったわ。高天原に見つかる前になんとかできたから。もし見つかっていたら罪に問われていたわよ。ここは高天原にかぎりなく近い場所。気をつけて行動しなさい。」
言葉一つ一つが鉄のようにのしかかってくる。間違いない……言雨(ことさめ)だ。言葉が雨のように降り注ぐことからこう呼ばれるようになった。空気が重くなるためアヤは首を動かす事もできなかった。
……凄い言雨……。
カエルはガクガクと身体を震わせているがヒエンはなんともなさそうだった。つまりヒエンは天記神よりも神格がはるかに上だという事だ。
「言雨ですか。今や使える神などほとんどいないそれをあなたは使えるのですね。千年級の神でないと使えない言雨。あなたも長生きなのですね……。」
ヒエンは単純に感動の意を天記神に向けた。
「あら、ごめんなさい。わかってもらいたくてつい出てしまったわ。言雨は遺伝もあるみたいだから一概に千年とは言えないわよ。」
天記神の声を聞きながらアヤは申し訳なさそうに下を向く。もう鉄のような重さはない。
「ごめんなさい……。歴史をおかしくしようとか……ええと、そんなつもりじゃなかったの。」
「わかっているわよ。初めてだとそういう気持ちになるでしょうね。あなたは時間をどうにでもできてしまうから辛いわね。ごめんなさいね。いきなり怖い思いさせちゃって。」
「いえ、私が悪かったのよ。もうしないわ。」
「今回はもういいわよ。」
天記神はアヤの頭にそっと手を置くと「ごめんあそばせ。」とつぶやいて男の天記神の方へと行ってしまった。
「怒られちゃったねぇ……。おお、くわばらくわばら。」
カエルはふうとため息をつくと本に手を伸ばした。
「悲劇……ですか。アヤさん、大丈夫ですか?動けますか?」
「大丈夫よ。この縁起でもないタイトルの本にさっさと入りましょう。」
まだ疲れは完全にとれていないがアヤは本をぱらりとめくった。ヒエンとカエルは「よしっ!」と意気込んで目を閉じていた。
気がつくと先程と同じ場所にいた。だがカラカラの大地ではなく、木々は青々と茂っている。心地よい風がアヤ達を通り過ぎた。気温は適温だ。
「おお!ここは蛙がいっぱいいるねっ!」
カエルは元気にぴょんぴょん飛び回っていた。
「蛙がいっぱい?さっきと同じ所よね?あなた、蛙がいないって言ってたじゃない。」
アヤは先ほど入った本についてカエルに問いかけた。
「さっきはいなかったんだよ。ここは日照りじゃないねっ!」
カエルは笑顔でこう答えた。
「ああ、やはりこの地域は日照りではなかったのですね。……それが突然、日照りになった……。」
「なんでかしら……。」
「それがこの本に書いてあるんでしょっ!ほら!いこ!」
今回やけに行動力があるカエルがヒエンとアヤを引っ張る。アヤとヒエンは顔を見合わせながらカエルに続く。青々と茂る林を歩いているとキツネが走り回っているのが見えた。キツネ達は先ほどの本とは正反対に元気に走り回っている。
「なんか身体がうずくなあ!近くに水辺でもあるのかなっ!」
カエルは一人元気に道を駆けて行った。
「あなた、あの村に向かっているの?」
「んー、わからない!でもなんかこっちな気がする!」
何の気がするのかわからないがどこに行ったらいいのかわからないのでとりあえずカエルについて行く事にした。
「こちらに行きますと、先程の村がある方面ですね。」
ヒエンはあたりを見回しながら草花を眺めている。色とりどりの野草が花咲き、とても美しい。木々も背伸びをしているかのようにピンと立っている。
「なんだかさっきのを見ちゃうと……ショックが大きくなるばかりね……。この後、あの生気のない森になるのよね……。」
アヤは複雑な表情でカエルに続く。しばらく歩くと林が開けた。
「え……?」
アヤ達は驚きの声を上げた。目の前に大きな泉が広がっていたからだ。
「あれ?あの村に行く途中に泉あった?」
「いずみ?」
アヤとヒエンも頭を捻る。泉は透明度が高く、風に揺られた水がチャポチャポと心地よい音を立てながら寄せては退いている。水面越しに小さい魚が泳いでいるのが見え、遠目で見ると光の関係か澄んだ青色の水がずっと続いていた。しばらくきれいな泉にアヤ達は心を奪われていた。太陽に照らされた泉は幻想的で思わずぼうっとしてしまうほどだ。
しばらくして我に返ったアヤが声を上げた。
「ここ、あの何にもない空き地みたいな所じゃないの?」
「あっ!」
ヒエンとカエルも声を上げた。ここは村人がミノさんを埋めた所だ。あの何もないただの広い土地だ。
「泉だったのね……。」
「埋め立てられたんだ……。ここ……。」
カエルが美しい泉を眺めながら悲しそうにつぶやいた。
「え?」
「埋め立てられたんだよ。この泉。蛙が沢山住んでいる泉が簡単に干上がるはずないもんねっ!」
カエルが泉の水をそっとすくう。カエルの手からキラキラと光る水が滴っていく。
「カエルさんの仮説はあっていると思います。わたくしもこの泉は日照りでなくなったのではなく、埋め立てられたと……。」
「そっか。やっぱ人間が悪いんだ。人間がねぇ……。埋め立てなんて人間しかできないし。」
カエルはヒエンの声を聞き流しながら泉を眺め、つぶやく。
「カエル?」
アヤがカエルに声をかけようとした時、後ろから声がかかった。
「ここはきれいだろう?お前達の言った通り、ここは埋め立てられたんだ。」
男の声だった。三人は咄嗟に振り向いた。本の中で直に話しかけてくるという事はこの時代の者ではないという事だ。
「お、お兄様……。」
ヒエンは嬉しいのか悲しいのか不思議な顔をしていた。アヤ達のすぐ後ろには先程本で見たイソタケル神とまったく同じ風貌の男が立っていた。ツルのような緑色の髪と緑色の瞳、精悍な顔つき、水色の着物。この彼は本の中のイソタケル神ではなく、おそらく本物だろう。
「ヒエン、僕を探していたのか。大丈夫だ。すぐに戻る。だからお前はいったん本から出るんだ。」
イソタケル神はそっとヒエンをなでる。
「我ら蛙達の救世主!会いたかったよー!けっこう簡単に見つかった!」
「お前は……カエルか。」
イソタケル神はヒエンから手を放すとカエルの方を向いた。
「あの林、森を救ったうわさは聞いているよっ!蛙達もずいぶん助けてくれたらしいねっ!詳しい事は知らないけどさ。しかし、この原因をつくったのが人間だったとは……。」
カエルはイソタケル神を仰ぎながらつぶやいた。
「僕はこの泉を元に戻したいんだ。そのために動いている。冷林をなかった事にすればあれがあの林を守る事もなくなる。そして今度は僕がこの林を守り、花姫を育てる。そうすれば泉が埋め立てられるなんてことが起こるはずがないし、花姫が消えてしまう事もない。」
「おお!すごいねっ!それ、ほんとにできんの?本の中だけど。」
イソタケル神の言葉にカエルは興味を抱いていた。カエルにとっては花姫云々よりも泉のが大切な話らしい。
「できる。ここは歴史書だ。歴史書ごと変えてしまうのだ。」
「お、お兄様!そんな事は許されません!」
途中でヒエンが口を挟んだ。カエルはなぜかあからさまに嫌そうな顔をした。
「泉を元に戻すのはさんせーい!確かに、冷林なんていなくてもいいし。あたし達は冷林に助けられたわけじゃない。あたしらはイソタケル神に助けてもらったんだ。冷林なんてどうなってもいいよっ!歴史書変えてそれが常識になるようにしちゃえばいいじゃん!」
「カエルさん!ダメです!」
「そう?ダメかなあ?あたし、いいと思うんだけど。」
ヒエンの言葉にカエルは首をひねった。純粋に悪い事だと思っていないようだ。
「カエル、僕の手伝いをしないか?」
イソタケル神はにこりとカエルに笑いかけた。
「え?マジ!手伝う!手伝うよっ!しょうもない人間達も助けてあげられるんだから、さいっこうな話じゃないかっ!」
カエルも楽しそうに笑う。アヤは状況を見ているだけで何もしなかった。
「ダメですって!カエルさん!」
カエルは叫んだヒエンを睨みつけた。
「うるさいな。何がダメだっていうのっ!冷林が犠牲になるだけで皆助かるんだよ?泉も蛙も皆平和に暮らせるんだ!その改変を本の中だけでできるならこんなおいしい話ないじゃないかっ!ヒエンもあのひどい有様をみたでしょ!」
「歴史はもう歴史としてあります!それを変えるなんて許されない行為です!」
カエルとヒエンはお互い睨みあっている。意見はすれ違い、食い違う。そんな中、イソタケル神はアヤに目を向けていた。
「お前は時神だな?」
「そ、そうよ。」
アヤはイソタケル神を怯えた目で見上げた。何と言っても怖かった。イソタケル神は神話でとても有名な神だ。おまけにスサノオ尊の息子だ。ヒエンもスサノオ尊の娘だがそれとはなんだか違う力を感じる。ヒエンは温かさを感じるがイソタケル神は荒々しさを感じる。持っているものの種類が違う。
「なつかしいな。時神現代神に会ったのはこれで四人目だ。」
時神は転生を繰り返して存在している。現在いる時神よりも強い力を持つ時神が出てきた時、その現在存在している時神は消滅する仕組みだ。イソタケル神はアヤの他に三人の時神現代神に会ったらしい。時神は元々、過去、現代、未来にそれぞれ一人ずついる。過去神、未来神も現代神同様、転生を繰り返して存在している。
「四人目ね……。」
「時神、お前は本の中で時間が操れるな?」
「……。」
アヤはイソタケル神の問いにあえて答えなかった。
「お前は一緒に来てもらおうか。」
「嫌と言ったら?」
「あたしがゆるさないよっ!」
アヤの問いに答えたのはカエルだった。カエルはいたずらっ子のような顔で微笑むと傘をアヤに突きつけた。傘はいきなり現れたのでどこに隠してあったのかは不明だ。おそらくカエルの霊的武器なのだろう。
「あなた、どうしたのよ……?」
「泉が元に戻るんなら戻したいだけだよっ!アヤの能力はきっと大事だ。だから一緒に来てもらう!よくわかんないけどっ!」
カエルが叫んだ時、カエルの持つ傘の先端が光り始めた。
「な、何?」
「アヤさん!避けてください!」
アヤはヒエンの声で咄嗟に横に避けた。カエルの傘から水の弾が勢いよく飛ぶ。水の弾はかなり小さいものだったが高速で駆け抜け、近くの木に乾いた音を立てて弾けた。水が当たった木の幹が少し剥がれていた。
「何するの!あぶないじゃない!」
アヤはカエルに怒鳴った。木の幹を軽く剥がす水弾をゼロ距離で食らったらまともに立っていられないだろう。
「ちょっと力の調整して気絶する程度にしたんだけど避けられちゃあねぇ……。」
「あなたねぇ……!」
アヤがカエルに言いかけた時、ヒエンが素早くアヤの手を引き走り出した。
「ヒエン!?」
「ちょっと距離をとります!間近で対峙は危ないです。」
ヒエンとアヤは蛇行して走る。後ろからカエルが水弾を打ってきているようだ。あちらこちらで破裂音が響いている。まっすぐに走っていたら当たっていただろう。それを予想してヒエンは蛇行した。十分距離をとってヒエンとアヤはカエルに向き直った。
「!」
しかし、カエルは目線の先にはもういなかった。遠くにいるイソタケル神は腕を組んでただ立っているだけだった。
刹那、風の音が耳元でした。ヒエンは咄嗟に大きな葉を出現させた。葉はすぐに真横に一直線に斬れて消えた。
「その傘はなんなんですか……。」
カエルが傘で葉を薙ぎ払ったらしい。どういう仕組みなのか葉は刃物で斬ったかのようにまっすぐに斬られていた。そのままカエルはアヤを狙い傘を振るう。ヒエンがまた葉を出現させアヤを守った。葉はまた真っ二つに斬れた。ヒエンは怯まずにカエルに向かい攻撃を仕掛ける。植物のツルが生き物のようにカエルを捕まえようと動いた。
「うわっ!おわっ!」
カエルはぴょんぴょんはねながらツルを避けている。
「なかなかしぶといですね……。」
ヒエンが唸った時、カエルがバサッと傘を広げた。そのまま広げた傘をクルクルと回す。だんだんと傘の回転数は上がっていき、カエルの傘にツルが弾ける音を出しながらのけ反りはじめた。
「こんなの弾いてやるっ!」
「ならば上から……。」
「ヒエン!」
ヒエンがツルを上に伸ばしはじめた時、アヤが突然叫んだ。刹那、ヒエンが短く呻き、その場に崩れ落ちた。
「ヒエン……すまない。」
ヒエンのすぐそばに立っていたのはイソタケル神だった。素早く近づき、ヒエンに当て身をくらわせたようだ。
「ヒエン……!ちょっと!ヒエン!」
アヤはうつぶせに倒れているヒエンを揺すったがヒエンはびくとも動かない。
「心配ない。妹は気を失っているだけだ。」
「……。」
アヤはイソタケル神達を睨みつけながらヒエンに寄り添うことしかできなかった。
「一緒にきてもらうぞ。」
イソタケル神が手を伸ばした時、金髪の長い髪をした女が高速で近づいてきてアヤとヒエンを抱き上げると空に舞った。
「えっ……?」
アヤは女に抱き上げられながら下でうごめく大きな木の根を見つめた。彼女はこのうごめく大きな木の根に乗り、ここまで高速で来たらしい。そして女は浮いているわけではなくその木の根の本体に立っているだけだった。つまり木の枝だ。大きく育った木の枝に女は立っていた。
カエルとイソタケル神はいきなり出現したこの大きな木に動揺していた。
「ちょっとずらかるわあ~。イヌショウマ!花言葉逃げるぅ~!」
「花姫っ……?」
イソタケル神はその金髪の女を見つめ、目を見開いた。しかし、瞬きをした間に女とアヤ達は跡形もなく消えていた。女が高速でハサミを振り、木を一瞬で灰にし、それで目隠しをしたからだ。その灰は一度瞬きした後にはもうなかった。もう、大きな木もなく、イソタケル神とぼうっとしているカエルだけがその場に取り残された。
六話
「ふう……。あっぶなかったわねぇ~。」
金髪の女がケラケラと笑っている。アヤは倒れているヒエンをそっと椅子に座らせた。
アヤ達は図書館に戻って来ていた。おそらくこの女がしおりを投げたのだろう。
「あら?もう出てきたの?しかも草姫ちゃんと一緒に?」
天記神が驚きの表情でアヤ達を見ていた。
「何よ……どう反応したらいいわけ?」
アヤは戸惑いながら金髪の女、草姫を見つめた。
「あなた達、ただの歴史めぐりじゃなかったのねぇ~?」
草姫は音を立てながら椅子に座ると足を組んだ。
「歴史めぐりっていうか……。」
「はい。草姫ちゃん、お茶。」
すかさず天記神が草姫の前に緑茶を置く。
「だから、なんであなたはそんなに慣れなれしいのかしら~?私ははじめてここに来たのよぉ?」
「あら、ごめんあそばせ。どうしても花姫ちゃんが映ってしまってね……。」
天記神は笑顔で草姫にあやまりながらアヤとヒエンの前にも緑茶を置く。
「ああ、妹ねぇ……。あの子はここを愛用していたのかしらぁ~?」
「ええ。頻繁に来てくれたわよ。すごくまじめで勤勉だったわ。」
「そうなのねぇ……。」
草姫は昔を懐かしむように天記神を眺めた。天記神はせつない笑みを草姫に向けるとそっと目を離した。視線はアヤへと動く。
「で、ヒエンさんは眠ってしまったの?それと、あの元気な子は?」
「そうだわっ!実はね……」
アヤは色々と思いだし天記神に訴えかけようとした。しかしそれは途中で草姫に遮られた。
「しばらく一緒に歴史を見ていたんだけどねぇ~、なんか疲れちゃったみたいで今は寝ているの~。」
草姫は勝手にしゃべりだした。
「ちょ、ちょっと!あなた!何勝手な……」
アヤが草姫に向かい声を荒げたが草姫は平然とこちらを睨み返してきた。
「つ・き・み・そ・う。」
その後すぐ、草姫が呪文のように言葉を発する。
「―っ?」
草姫の声を聞いた途端、アヤの口から声が出なくなった。言雨ではない力がアヤの付近をまわっていた。
「月見草。花言葉は無言の恋。あなたは誰に恋をしているのかしら~?ふふ。ちょっと黙ってなさい……。」
これは呪文でもなんでもない。ただの威圧だ。草姫は威圧をアヤに向け、話す気をなくした。ただそれだけであって花言葉はまるで関係がない。
「あのカエルちゃんは歴史をもっと見たいって言ってまだ中にいるわ~。」
「あら、そうなの?」
天記神は怪しいと感じたのか眉を若干寄せていたが深くは聞いてこなかった。
「う……うーん……。」
その時アヤの隣で声が聞こえた。ヒエンが目を覚ましたのだ。ヒエンはきょろきょろとあたりを見回すとハッと目を見開いた。
「ここは?カエルさんは!」
「はいはーい~。寝ぼけるのはそこまでねぇ~。じゃ、天記神さん、ヒエンも目覚めた事だしカエルちゃんを追う事にするわぁ~。」
草姫は天記神に笑いかけると素早くヒエンとアヤの手を握り本を開いた。
「あなたはさっきの―……。」
ヒエンの言葉はそこまでで後は本に吸い込まれてしまった。
「で、あなたは何なのよ!」
再び本の中に戻ったアヤは急に話せるようになったのでとりあえず草姫に向かい叫んだ。
「私は草泉姫神よ~。草花の生死を司る神。」
「そうじゃない!」
「んもう……わかっているわよぅ~。ゴットジョークじゃない。流しなさいよ~……。」
草姫はふうとため息をつくと辺りを見回した。ページは最初からなので最初にいた場所からだ。ここら辺にはイソタケル神もカエルもいないらしい。
「あ、あの、わたくしには何にも状況がわからないのですが……。兄はどこに……?」
ヒエンは不安そうな顔でアヤと草姫をうかがっている。
「とりあえず、落ち着きなさいよぅ~。私はねぇ、この件、天記神に見つかりたくないのよぅ……。あれに見つかったらタケル様は地の底。そうなる前にとめたいじゃなーい?」
「えっと……どういう事でしょうか?」
「私もタケル様を追っていたのよ~、あの林からタケル様の声を聞いてねぇ、図書館に来たのよ~。冷林の本はあの林の木からできている紙なのよ~。あの本は生きているの~。私は本を触っただけで記憶を観る事ができたのだけれども、わざわざ入ってその木本来の記憶をいただいたのよ~、歴史書は木の記憶。一本の木が見せる一定の範囲しか見えない記憶。そう!ローズマリーなのよ~!あ、花言葉ね~、記憶よ~。その木が見た風景。テリトリー、つまり庭のようなもの~。それが歴史書。もちろん、その記憶を我々に見えるようにした神もいるけど……天記神なら作者と呼ぶかしら~……。」
草姫は近くにある木をそっと撫でる。
「庭……。」
「そう。庭よ~。木の縄張りって呼ぶよりも庭って呼んだ方がいいじゃな~い。それで私は今現在本として生きている木からタケル様が何をしたかったのかを知ったの~。でも、どこの本にいるのかわからなくて~探していたのよ~。」
「つまりあなたも私達と同じって事?」
アヤの質問に草姫はふふっと笑った。
「あなた達よりもタケル様の事知っているわよ~。彼はね~、妹を蘇らせて冷林を消すつもりなのよ~、さっき聞いたでしょ~?」
「そんな事をしたらーっ!」
ヒエンが怒鳴り始めたので草姫が人差し指を立てて「しーっ。」とヒエンを制止した。
「だから、聞きなさいよ~。そんな事をしたら人間はあんまり変わらないかもしれないけど~、他の神とか冷林側が痛手を負うでしょ~?タケル様を裁ける神はいないかもしれないの~、彼は凄い力を持っている神だもの~。だからこそこんな事をしてはいけないのだけれど~……彼はきっとそれはわかっている……。」
「たしかに平常時でもハンパない神力を感じたわ……。でも、あの神は狂暴な感じではなかったわね。」
アヤの発言に草姫は顔を引き締めた。
「そうなのよ~。彼はとても使命感が強い男……ダッチアイリスなの~。あ、花言葉ね~、使命。で、妹が消えてしまった事を自分のせいだと思っているの~。そして妹を守れなかった冷林を罰しようとしているのよ~。彼はその権限がある。冷林の上に立つものとしてね~。冷林を消去する事できっと彼の力は減ってしまう~……。それは草木のために困るのよねぇ~……。妹が生き返らないのは残念だけど、私は彼を止めたいのよ~。そ・れ・で、天記神に知れたらどうなるかわからないからできれば何事もなかったかのように終わらせたいわけよ~。」
「ふーん……そういう事ね……。あなたの事少しわかった気がするわ。」
つぶやいたアヤの横でヒエンが気難しい顔をしていた。
「兄は……肝心な事、わたくしに話してくれません……。今回の件はわたくしの方が正しい判断ができそうです。たしかに天記神に見つかり高天原へ報告が行ってしまったらいくら他の神が手を出せないにしても兄はどうなるかわかりません。ここは妹として何事もなく終わった方がいいですね。」
ヒエンはため息をひとつつくとアヤに目を向けた。
「アヤさんは……大丈夫ですか?」
「何がよ?」
「その……一緒に来ていただいても……。」
「もうここまで来ちゃったもの……いいわ。」
アヤの反応でヒエンの顔色がだいぶよくなった。本当は色々と不安だったらしい。
「ありがとうございます。」
「でも、私が行ってもきっと足手まといで何もできないわ。力を使ったらきっと天記神に知られる。」
「何もしなくていいです!いてくれるだけでいいです!それに兄はあなたを狙っています。あなたが一緒に来て下されば兄があの泉にいなくても、もう一度兄が現れると思います。」
「餌って事ね。」
「そ、そういう意味ではありませんが……。」
戸惑っているヒエンを眺めながらアヤは微笑んだ。
「冗談よ。」
「じゃあ、さっきの泉までいきましょ~か~?」
草姫は話が終わったと感じたのかさっさとスキップをしながら行ってしまった。
「まだカエルとイソタケル神は泉にいるかしら……。」
「いる確率はほぼゼロですね……。」
「わかるの?」
「いいえ。予想です。まあ、あと少し気配ですね……。」
「それで泉にいなくても……ね。」
アヤとヒエンもとりあえず草姫に続いて歩きはじめた。相変わらず日差しは強いが地面が潤っている感じがある。ついこないだ雨が降ったようだ。よく見ると若干地面が湿っている。
濃厚な草木の香りをかぎながらアヤ達は林を抜けた。そして先程のきれいな泉の前まで来た。
「……。」
アヤ達は周囲に目を配りながらそっと林から身体を出した。
「い、いないわね……。」
警戒をしていたが泉の側には誰もいなかった。
「ふぅ……もうこの辺にはいないみたいね~……。」
草姫が引き締めていた顔を緩めた。目の前は先程と同じ、透きとおった青色の泉が広がっていた。
「どこに行ったのかしら……。やっぱり本の先?」
「……そうだと思います……。どうすればページが進むのでしょうか?」
ヒエンはとりあえず草姫に目を向ける。
「そんな~、私見られても困るわよ~。泉を迂回して村にでもいく~?ネコヤナギ~!」
「ねこやなぎ?」
「あ、花言葉。自由って事よ~。……まったくもう、花言葉少しは知っていてよ~。盛り上がらないじゃなーい!」
草姫は泉の淵をすっと指差してアヤ達に微笑みかけた。
「花言葉……。」
アヤは草姫の指先を目で追いながらつぶやいた。泉の淵は村人が歩いてこちらに来ているのかちゃんとした道ができていた。泉がなかった時はそのまま突っ切れたが今回は泉の淵を歩いて村に行くしか道がなさそうだ。泉をぐるりとまわるためかなりの遠回りになる。
「しょうがないです。とりあえず村に行きましょう。もうこの辺だと村しかページを進めるものがないと思います。」
「……確かにそうね。」
ヒエンの声掛けで草姫とアヤは迂回する道を歩きはじめた。
泉の淵に差し掛かった時、本のページが進みはじめた。それは五歩歩く毎におこった。泉の反対側で村人が集まり始め、何かを話していた。
「何か遠くで話していますね……。ここからだと遠すぎて何をしているのかわかりません。」
ヒエンは反対側の泉にいる村人達を見ようと必死に目を細めていた。
「ヒエン、泉に落ちちゃいそうよ……。」
前のめりになりすぎて泉に落ちそうになっていたヒエンをアヤが素早く救出した。泉の淵は土で補強してあり落ちないような工夫がしてあった。おそらく先程の所と反対側の岸以外はけっこう深くなっているらしい。
「あ、ありがとうございます……。すいません……。」
「んもぅ……何やっているのよぉ~。……あら。花姫~。」
草姫はヒエンを呆れた目で見ていたがいきなり目の前に花姫が現れたのでそちらに目を向けた。
花姫はアヤ達の前に座り込み泉をじっと眺めていた。草姫と同じ金色の髪がキラキラと泉に照らされ光っている。花姫にあの時の面影はなく、嬉々とした顔で泉の魚を目で追っていた。
「少しは……慣れてきたか?」
花姫は後ろで聞こえた声にハッとして振り返った。はじめは驚いた顔をしていた花姫だったが声の主を見つけて笑顔に戻った。
「タケル!来ていたなら声かけなさいよ。」
花姫のすぐ後ろに緑色の長い髪を持つイソタケル神が髪と同じ色の瞳を花姫に向け微笑んだ。
アヤ達は一瞬ぎょっとしたがこのイソタケル神は本の中のイソタケル神らしい。胸をなでおろして話を聞く事にする。
「だから一番にお前に話しかけたんだが。お前、またサボっているのか?」
「サボっているなんて心外だわ。泉を見ているんじゃないの。ねぇ?」
「相変わらず口が悪いな……。」
イソタケル神は頭をポリポリとかくと花姫の横に座り込んだ。
「お前、その態度、相変わらずの強気、僕だけだろうな?」
「当たり前じゃない。他の神様にはちゃんと敬語使っているわ。人間に助言する時も威厳を放って助言しているわ。まあ、巫女を通してだけどね。」
花姫はいたずらっぽい顔で笑った。
「そうか。」
イソタケル神はふふっと微笑むと泉に目を向けた。
「何?その笑いは。」
「別になんでもないよ。」
「あら、そう?」
花姫は泉を眺めているイソタケル神をチラッと見つめ、顔を赤くするとまた泉に目を戻した。
「ここの泉はきれいだな。よく管理されている。」
イソタケル神は泉を見て幸せそうに微笑んでいた。
「そ、そう?それはありがとう。」
「だが仕事はサボるなよ。」
「サボってないわ。冷林様が頑張って下さっているだけ。」
「まあ、はじめはそれでいい。いつまでもそれに甘えるのはダメだ。」
イソタケル神は横目で花姫を見るとまた泉に目を戻した。
「うん。」
花姫は先程から右手を出したりひっこめたりしている。どうやら地面に手をついて座っているイソタケル神の左手を握りたいらしい。だが握る勇気が彼女にはなかった。
その内、イソタケル神がすっと立ち上がった。
「じゃあ、僕はもう行くよ。お前は強いから問題ないと思うが一応、冷林にもお前の事よろしく言っておくからな。」
「あ……。」
イソタケル神は花姫の肩をぽんと叩くと林の中へと消えて行った。花姫はイソタケル神の手を掴もうとしたが掴めなかった。引き留める勇気も彼女にはなかった。
「なんで……いつもそんなに早く行ってしまうの……。久しぶりに会えたのに……。私、本当は強くなんてないのよ。」
花姫は自分の右手をせつなそうに見つめると、やがてあきらめたように村人達の方へ歩いて行ってしまった。
「妹ったらタケル様に恋をしちゃってたの~。そ・れ・は知っていたわよぅ!あの子、私達じゃ手が届かない神だと知っているのかいないのか……ああ、もうジ・キ・タ・リ・ス!なのよ~もう!あ、花言葉は隠しきれない恋❤」
草姫は一人で盛り上がっている。
「なんか……せつない感じなのですが……草姫さん、盛り上がりすぎですよ……。妹さんなんでしょう?」
ヒエンが唸っていると草姫が困った顔をこちらに向けた。
「でもねぇ~、私、あの子と会った事ないのよ~。妹がいるって知ったの彼女が死んでからだもの~。イソタケル神と彼女の関係がわかってきたのはほんと最近なんだから~。」
「そうなの?」
アヤの問いかけに草姫は大きく頷く。
「そうよ~。私は草花の生死を司る神として生きていたけれど山神でも土地神でもなかったからけっこうウロウロしていたのよねぇ~。だからタケル様も私と面識はないのよ~。」
そういえば……
アヤは草姫とイソタケル神が会った時の事を思いだした。イソタケル神は草姫を花姫だと言っていた。草姫を知っていたら草姫だと気がつくはずだ。それを花泉姫神と間違えたという事はつまり草泉姫神の存在をたった今知った事になる。
「と、いう事は今、草姫を花姫だとイソタケル神は勘違いをしているんじゃないかしら?」
「それはないと思います。」
アヤの言葉を遮りヒエンが口を開いた。
「?」
「運悪く、カエルさんがいるじゃないですか。彼女は草姫さんだと知っています。天記神さんがわたくし達に草姫さんを紹介していたじゃないですか。」
「確かにね……。」
アヤはため息をつくと歩き出した。
「先行くの~?いいわよ~。」
草姫もアヤに続き歩き出した。ヒエンも後に続いた。
五歩進む毎に歴史が動いているのがわかる。ここはそういう歴史書らしい。反対側の泉に近づくにつれて村人がはっきりと見えるようになった。村人達は血色よく健康体で、どの人もおだやかな顔をしている。先に餓死寸前の人々を見ていたせいか村人達がやけに太って見えた。
「この泉を埋め立てるなんて……。」
村人の中の誰かが声を発した。
「そんな事、冗談ですよねぇ?」
「お上がそう決めたんだ。俺達は逆らえねぇよ。」
村の男が表情暗くつぶやいた。
「ただ見ていろっていうの?」
先程歴史書で見たと思われる女性が男性に叫んだ。女性はあの歴史書よりもだいぶ太っていた。
「しかたねぇだろ。埋め立てて土地にするって言ってんだから。俺達村の人間がお上に口だせるか?殺されちまうぞ。」
「……そうだけど……。」
村人達は途方に暮れているようだ。
「やはり埋め立てられたのですね。この泉は……。」
「……村の人は埋め立てに賛成してないみたいね……。」
ヒエンとアヤはこっそりとつぶやいた。
「この歴史書、けっこう編集されているみたいね~。」
突然草姫がアヤとヒエンに向かい声をかけた。
「え?」
「いらない所を見せないようにしているのよ~。だから歴史が進むのが早いの~。前も言ったでしょ?ここは木の記憶なの~。その木の記憶を見えるようにした神が作者と呼ばれているの~って。その作者がいらないところを排除してこの歴史書をつくったのよ~。」
「なるほど……。」
アヤ達が頷いていると草姫が真剣な顔で話しはじめた。
「なんかおかしいと思って分析したらこの作者がわかったわ~。私は木から色々わかるの~。この本は生きている木。誰が書いたかなんて木……つまり本に触れればわかる……。この本の作者は天記神……あいつが書いた作品だわ~。あいつなら木の記憶を見せる事ができるわ~。それとタイトルも改ざんされているの~。この本のタイトルは『冷林地方の悲劇』ではなく『花泉姫神の一生』……。」
「そう……なの?なんで題名を変えたのかしら……。」
アヤの言葉に草姫の表情が険しくなっていく。
「そうねぇ~。きっとあいつは……すべて知っていたんだわ~……。タケル様の居場所も私がしようとしている事も……全部。」
「え……?全部知ってた……?」
草姫の発言にアヤとヒエンの顔が曇る。
「そうですね……。わたくしも今考えればおかしい点がいくつか出て来ました。まず、図書館の管理者なのに誰がどこにいるのかわかっていなかった事。わからなかったら神が入った本を普通に本棚にしまうなんて考えられません。どこにいるのかわからなくなってしまいますからね。本棚にしまえるという事はどこにいるのか把握しているという事ではないでしょうか。」
ヒエンがアヤを仰ぐ。
「……。よく考えれば彼、けっこう怪しいわね……。確かに、少し時間をいじってしまった時もすぐに気がつかれた。なんだか色々と知ってて黙認している感じがあるわね。タイトルの改ざんをする意味はどこにあるのかしら……。」
「それにやたらと草姫さんと花姫さんに詳しくなかったですか?まあ、それは本の神様だからと言われたらそうかもしれないですけど……。」
「これ……なぜこんなにも編集されているのかしら~。省いたどうでもいい所に大切な事が隠れている気がするのよ~。ねぇ?」
天記神に対する疑問が良く考えればいっぱい出てきた。
「編集して大事な事を隠したって事ですか?」
ヒエンに向かい草姫はくすりと笑った。
「だって~、そう考えちゃうじゃな~い?そ・れ・に、あの神、はじめて会った私を知っていたのよ~?」
「天記神はあなたが有名だって言ってたわ。」
アヤの発言に草姫は首を傾げた。
「そんなわけないわ~。だいたい、私はタケル様にも知られていなかったのよ~?あなた達も私を知らないでしょ~?」
「……。」
確かにそうだ。草花、山、土地で有名な神の兄妹が草泉姫神を知らない。それなのに天記神は知り尽くしているかのように詳しい。アヤの事やカエルの事は「誰かしら?」という感じだったところをみるとすべての神を彼が把握し、知っているわけではなさそうだった。
「じゃあ、彼もなんかしらでこの件に関わっているって事かしら?」
「そう考えるのが妥当ですね……。」
「でも、じゃあなんで彼は素直に私達が望む本を出してくれたの?何かを隠したいなら別の本を渡すはずじゃない?」
「もっと大きな話かもしれません……。天記神に全員騙されているなんて事は……。」
ヒエンがそこまで口にした時、草姫が声を上げた。
「ちょ……ちょっと見てよ~!泉が半分なくなっているわ~?」
「う、ウソ……。」
アヤとヒエンが我に返り見てみると確かに泉は半分埋め立てられていた。いつの間にか村人ではない人間達が多く行き交い、土を運ぶ作業が進められていた。あの綺麗だった泉の水はもう濁りきっており透きとおっていた水面下はもう茶色くなっていて見えない。村人は遠くの方でただ立っているだけだった。
泉からふと目を離すと埋め立てられた泉の上で慌てている花姫が映った。
「な、何しているの!やめなさい!」
花姫は動揺しているのか声が聞こえるはずのない人間に直接話しかけている。
そんな慌てている花姫の元に急に冷林が現れた。
「冷林様!」
冷林は何も言わずにただ浮いているだけだった。
「ええ。大丈夫です。何とかします。ここで私がやらなければこの土地を守る資格はありません!あなたからもらったこの土地を弱小ながら守らせてください。」
冷林は花姫を心配しているようだ。助けようかと声をかけているらしい。
「私にやらせてください。ちゃんと考えがあるんです。」
花姫は冷林に頭を下げた。冷林は何も言わずに頷いた。
「ごめんなさい。」
冷林は何かあったら自分が責任をとろうと言ったらしい。それの答えとして花姫があやまった。冷林はその後、何の前触れもなく消えて行った。
「―さんのやり方でやってみる。」
花姫は誰かの名前を言った。だが不思議とそこだけは何かノイズが入ったように聞き取れなかった。
「ちょっと気になるわね……。今の。誰かの名前を言ったわ。」
「綻び、みつけた~!」
眉をひそめたアヤに素早く目線を動かした草姫は何かを感じ取るように目を見開いた。
「戻ってみましょう。」
「ちょっと私ができるだけ木の記憶を引き出してみるわ~。ブロックされているからけっこー大変だけど~。ふふふ。これはわかりやすい綻びを残したものね~天記神。」
アヤとヒエンにウインクを投げた草姫が最初に戻った。その後でアヤとヒエンも五歩足を戻す。
「―神さんのやり方でやってみる。禁忌だけどきっとうまくいく。あの男はきっと色々知っているだろうから……。」
花姫の言葉が一言プラスされた。やはり、言った言葉も所々省かれているらしい。
「もう一度戻してみるわ~。さっきよりも神の名前が聞こえた気がしない~?」
草姫がまたまた五歩戻る。アヤとヒエンも後に続く。ちなみに草姫がどうやって省かれた所を持ってきているのかはわからない。木の記憶を引き出せる何かがあるのかもしれない。
「天記神さんのやり方でやってみる。禁忌だけどきっとうまくいく。あの男はきっと色々知っているだろうからその後の対策もきっと大丈夫……。タケルに認めてもらうためのいい機会なのだから頑張らないと。禁忌だから冷林様に知られたら大変だしね。気をつけないと。」
ほぼノイズだらけでうまく聞き取れなかったがおそらくこんな事を言っている。この花姫の言葉はだいぶん省略されていたようだ。
「天記神……。今、天記神って言ったわよね?ついに名前が出たわね。」
「……こういう綻びがあると入り込みやすいのにな~。ていうかあいつ、妹に禁忌を教えたって事~?」
アヤと草姫は顔を見合わせた。
「天記神は禁忌を花姫さんに教えて結果として花姫さんを消してしまったというわけですね?これは立派な犯罪ですよ。何をしたのかはわかりませんがあの神はこの件を隠していたという事ですね。」
「そういう事よね……。こういう綻びをもっと見つけていくわよ。」
アヤとヒエンと草姫はお互い頷き合うと先に進んだ。
目の前では相変わらず花姫が立ち尽くしたままだ。途方に暮れたように地面を見つめていた。
「……違うわね~……。」
草姫はまた声を上げた。ヒエンとアヤは咄嗟に立ち止った。
「どうしたの?」
「あれ、他に誰かいるわね~……。」
草姫は何かを感じ取ったらしい。アヤ達にはただ花姫が呆然と立ち尽くしているように見えていた。
「……。」
「あの呆然と立ち尽くす間にもう一つ、記憶が抜けているわ~。よく見ると記憶を張りつけたようにくっつけているのがわかるの~。」
アヤにはわからない。ヒエンにもわかっていない。これも木の記憶から読み取ったのか。
「中に入り込みましょう~。」
草姫がそう言った途端、透明な壁が裂け、埋め立てられた泉の上にうっすらとキツネと天記神が現れた。
「天記神と……キツネ?ここもはしょったのね……?」
「大事なところをはしょる歴史書ってなんなのかしらね~……。」
草姫がふうとため息をつく。先程からどうやって中の歴史を持って来ているのかはアヤ達にはわからなかった。
「一体何をしているのでしょうか……。」
ヒエンはキツネと天記神を素早く観察した。キツネはおそらくミノさんだろう。そしてその横にいる天記神には女性的な面影はない。キリッとしたオレンジの瞳が花姫をじっと見据えていた。
「俺に頼るとは殊勝な心がけだな。」
天記神が低い声で花姫に言葉を発した。
「……あなたの言った通りにキツネを一匹連れてきたわ。それに無理に男ぶらなくてもいいわよ。私にはわかっているんだから。」
「花姫ちゃん……俺はやっぱり女になりきる事も男になりきる事もできないらしい……。」
「大丈夫でしょ。あなたはちゃんと女になって私も誰の手も借りずにこの状況を変えられる。術を使えば……でしょ?」
花姫は切羽つまった様子でもなく天記神を見上げる。
「このキツネはメスで老いているか?」
「ええ。もう歩くこともギリギリのメスよ。」
「大丈夫。人間だとすぐに高天原に気がつかれてしまうからできないが天寿を全うしようとしているキツネならばできるかもしれない。じゃあ、やるよ。」
キツネはミノさんではなかったのか。アヤ達は険しい顔で天記神と花姫を眺めた。
男と女が揺れ動いている天記神は今現在天秤状態だ。男にもなり女にもなる。
「何をする気なの?」
そんな不安定な天記神を見上げながら花姫は質問をした。
「このキツネを生まれる前に戻し、オスとしてもう一度やり直してもらう。そしてそのメスの生を俺がいただく。そして新しく生まれたオスのキツネはお前の手足となり動くだろう。俺の生をこのキツネに渡すからかなり知性を持ったキツネに出来上がるだろう。」
天記神は花姫を鋭い瞳で一瞥する。
「どうやるか知らないけど……じゃあ、あなたはどうなるの?メスのキツネにでもなるわけ?」
「それは違うな。生だと言っただろう?心ではない。キツネはキツネでオスとしての本能を持って生まれ、俺は俺で女の精神、心を持って生まれ変わる。キツネは一度生きた時間を戻されるが俺はそのままだ。それにメスの生を持つという事は人間や神だと精神が女になる。つまり俺は女に変わるだけで対して変わらない。」
「難しいわね。まあ、つまりは……精神は人間でいう心の事。生は本能に近い部分ね。キツネは本能に近い部分で動いているけど人間や神は精神が働くってわけね。だからキツネはオスとして、あなたは女として生まれるって事か。で、どうやるの?」
「このキツネを本にしてしまい、このキツネの歴史を焼く。俺は本を読んだ者の精神を糧とする神、キツネの魂くらいなら簡単に取り出せる。花姫ちゃん、このキツネの記憶を持っている木はあったか?」
天記神はただぼうっと座っているキツネを眺めながら聞いた。
「ええ。苦労したけど縄張りがあって同じところにずっといたみたいでこのキツネが生まれた時からを覚えている木はあったわ。」
「その木の元へ案内してくれ。」
「……ええ。」
花姫と天記神は歩き出した。キツネはおいてけぼりだ。もう動く気力もないのかその場からまったく動かない。
「……追った方がいいかしら?」
アヤが草姫に問いかけた。
「いいえ~。大丈夫~。行かなくてもここら辺を何歩か歩けば自然に話は先に進むわ~。木を取りに行っただけでしょ~?大した話じゃないわ~。」
「そういうものですか……。」
とりあえず、三人は付近を歩いてみる事にした。この歴史は天記神が隠した歴史。見るにはけっこう労力がいた。歩きながら歴史の綻びを見つけ入り込む。普通に見ているだけでは決してわからない歴史だ。無理やり入り込んでみていると天記神と花姫が一冊の本を手に走ってきた。本をどうやって作ったのかはわからないが草姫が見たがらなかった所からするとその木を消したか切ったか何かしたのだろう。
「や~っぱり戻ってきたわ~。ここで術を使うみたいね~。」
草姫の言葉にアヤは眉をひそめた。
「あなたはなんでここに彼らが戻ってくる事がわかったの?」
「それはね~、これの後の歴史書に入った時に、埋め立てられた泉からへ~んな神力がしてたのよねぇ~。怪しいとは思ってたけど~、あの時はタケル様を探す事で頭いっぱいだったから~。」
草姫は指で髪の毛をクルクルと動かしていた。
「そうですね。それは私も感じていました。だから祭事をやるところだと思ったんです。」
草姫の言葉に頷いたヒエンはアヤに目を向ける。
「そうだったのね……。私には何も感じなかったわ。」
アヤが頷いた時、キツネの元に天記神と花姫が戻ってきた。
するとすぐに天記神の持っていた本が勢いよく燃え始めた。天記神は無造作にその本を地面に捨てた。轟々と燃えている間、キツネがどんどん薄れていく。そのキツネの歴史が焼かれ、なかった事にされていく。だがキツネは動かなかった。今、何が行われているのかおそらくわかっていないのだろう。
そしてその埋め立てられた泉全体に五芒星の大きな陣が出来上がった。キツネはやがて完全に消えてしまった。天記神は瞳を閉じて手を前にかざす。すぐに本は跡形もなくなった。その後、天記神はそっと目を開ける。
「なるほどね。よくわかったわ。花姫ちゃん。これが……あなた達が感じている女の子の感情……。素敵じゃない。」
天記神は人が変わったようにホホホと笑った。
「お、女になったの?なんか物腰が全然違うわね……。」
花姫は陣が消えてから恐る恐る天記神に近づいて行った。天記神はもう女性そのものだった。だが身体は男のままである。
「おかげさまで。これで術は完了したわ。あのキツネは今、オスとして生まれ変わった。あのキツネの母親は死んでいるから別の母親になっちゃったけど問題ないと思うわ。これであのキツネを使ってあなたは自分一人でこの絶体絶命の状態を改善する。これがあなたの望みでしょ。他の神に頼らずに一人で状況をすべてもとに戻したい。キツネがうろうろしているくらいなら神も人間も絶対に気がつかない。これからはあなた次第よ。」
「わかったわ。ありがとう。天記神。あのキツネには初めてあったかのように接した方がいいのよね?」
「それはそうよ。もう一度生をやり直しているんだから。……禁忌なんだから絶対に見つかっちゃダメよ。あくまであなたはキツネを手伝うの。泉を戻したいと思っているキツネの手助けをするのよ。わかったわね。」
「……わかったわ。ありがとう。」
天記神と花姫はクスクスと笑い合った。その笑い声のさ中……
……ブツンッ!
と隠れていた記憶が唐突に閉められた。先程、呆然と立っていた花姫と今の花姫が重なる。
「なるほどね~……こんな記憶を隠していたなんて……。大変な犯罪よ~。まだ存在しなければならない木を殺し、キツネの魂を弄び、歴史を変換させた……とんでもないわね~。」
怒りが爆発しそうな草姫の横でアヤは動揺していた。
……ミノは……偶然ではなくて必然で作られてしまった神様って事なの……?天記神と花姫のためにいいように使われたってだけなの……?
自分には関係のない事なのに何故か怒りが込み上げてきた。
「とりあえずキツネさんの謎とかは解けました。皆さん、冷静に先へ進みましょう……。」
アヤと草姫の顔が険しくなっているのを見たヒエンは二人をなだめた。
「……ええそうね~……タケル様云々の話じゃなくなってきたわ~。まったくトリカブトよ!あ、花言葉は怒り……ね~。」
草姫は大きく深呼吸して怒りを静めた。アヤも相当頭に血が上ったらしく無言で花姫を睨みつけていた。
アヤは本当に怒りが爆発すると何も話さなくなる。
「あ、アヤさん……行きましょう……。イライラする気持ちわかります……。」
「え?あ……ええ。そうね。」
アヤはヒエンに背中を撫でられ我に返った。少し気分の落ち着いたアヤはヒエンに連れられてゆっくりと歩き出した。自然の香りをかぐと心が安らぐというがヒエンもさすが木種の神で話しかけられただけで心が和んだ。
三人は無言で歩いた。泉の反対側に近づくにつれて埋め立てられている面積は広くなっていった。
しばらく歩くとキツネが現れはじめた。おそらくミノさんであろうそのキツネは作業している人間を必死に妨害している。それを眺めていた幼い男の子がダッとキツネに向かって走り出した。
遠くで女が名前を呼びながら男の子を追いかける。
「あの女の人……。」
アヤとヒエンには見覚えがあった。
「前の歴史書で……『キツネがざまあみろって言っている』って言ってた人じゃないですか?」
ヒエンとアヤは顔を見合わせた。目の下にクマがある、あの痩せていた女だ。この時はクマもなく痩せてもいなかったが顔を見たらすぐにわかった。
作業している人間をすり抜け男の子はキツネの前に立つと大きな声で怒鳴った。
「みてよ!キツネさんもこの泉を埋めちゃうことに反対しているんだ!やめてって言っているんだ!ここの神様も怒っているよ!この泉には神様がいるんだって……」
男の子はそこまで言ったところで後から追って来た女に頭を下げさせられていた。
女はおそらく母親だ。男の子は必死に抗おうとしているが女が許さなかった。作業をしている人達が一斉に女と男の子を睨みつける。
「申し訳ありません……。子供の戯言です……。許してやってください!」
「下民が我らの意向に反すると申すか。」
作業を指揮していたと思われる男性が女に鋭い声をあげた。
「滅相もございません……。」
男の子の口を塞ぎながら女は必死に頭を下げている。作業をしている内の何人かは刀を差していた。逆らうと打ち首になる恐れがあると村人達は恐れているらしい。その内、作業をしている人間達も男の前で土下座をした。ここで働いている人間のほとんどがこの村の人間、もしくは別の村の人間らしい。村の壊滅を恐れた者達が男に頭を下げている。
「どうか許してやってください……。幼子です。なんだかわからず発言したのでしょう……。わたしらが代わりにお詫び申し上げます……。申し訳ございません……。」
その中ひときわ歳をとった男が震える声で男の前へと現れ、頭を垂れた。
「……おぬしが村長か。」
男はそう言うと突然刀を抜き、村長だと思われる男性の首をはねた。
「ひっ……」
土下座をしている村民、そして男の子は身体を震わせながら目の前で絶命した男を見ていた。男の子の瞳孔は開き、恐怖と悲しみが混ざり合う。逆らったらこうなる……男の子はすぐに感じ取ったようだ。
「坊主、お前もこうなりたいか?」
「あ……ああ……。」
男の子は涙を浮かべながら首を横に振った。怯えた目で男を見ていた。男は目をそっと閉じ、血のついた刀を布でぬぐうと鞘に戻した。
「見せしめだ。……さっさと作業をはじめる事だな。」
男の言葉で震えあがっている村民が徐々に動きはじめた。大人達は逆らうとこうなる事がわかっていた。本当は皆、泉を埋め立てる事に反対していたのだ。この村人達はこの泉には神様が宿っていると信じていた。そしてこのキツネがたびたび邪魔をしてくる事でやはりこの泉には神がいたのだと村人達は確信した。だが村人達は逆らう事ができなかった。作業を指揮している男もそんな神に恐怖しながら仕事をしていた。彼もまた、自分よりも上の人間に逆らえなかった。
「俺にも家族がいるんだ……。妻と子供を人質にとられているんだ……。あの坊主と同じくらいの子だ……。泉を埋め立てられたくなかったら……俺の家族を助けてくれ……。」
指揮をしていた男は誰にも聞こえない声でぼそりとそうつぶやいた。
アヤは震えていた。目の前で首を飛ばされた男が無残に転がっているからだ。
「アヤさん……見ない方がいいです。」
ヒエンに背中をさすられていても胸の動悸がおさまる事はなかった。
「吐きそう……。もうダメ……いや……。」
アヤの足がガクンと落ちかけたのを見て草姫がアヤを引っ張った。そのままアヤを連れて歩き出す。ヒエンも続いた。歩いている内に風景が変わってきた。もう泉の反対側に来ており、泉はほぼ埋め立てられていた。先程までアヤ達がいた岸部に今度は沢山の人間が集まっている。
「……この村の人間はなぜ私がこの泉に住んでいると知っているのに作業を止めないのだろう。」
アヤ達の前にまた花姫が現れる。そのさらに横にミノさんと思われるキツネが立っていた。
「あなたはよく頑張ってくれた。私がここに住んでいるという事を村の人間にも外の人間にも知ってもらう事ができた。……だが泉の埋め立ては止まらなかった。……なぜなのだろう。」
花姫はキツネに目を向ける。キツネは作業している人間を眺めているだけで何も言わなかった。
花姫はキツネに何かしらの指示を出すとすっと消えて行った。
「あの子は……人間の事がよくわかっていなかったのね~。冷林に頼っていればよかったのよ~。」
草姫は困惑した顔で歩き出した。
「どこへ行くの?」
草姫の背中越しにアヤは声をかけた。歴史が動いたせいかアヤは少し落ち着きを取り戻していた。
まだあの男性の映像が頭に残るがあまり思い出さないようにした。
「村よ~。歴史の綻びがまだあるかもしれないじゃない~。」
「兄はどこにいるのでしょう?」
「……さあね~。まあ、とりあえず色々動いてみるしかないわ~。」
ヒエンとアヤを引っ張り草姫は村へと足を向けた。短い林をぬけて草が覆い茂る道を歩いて行くとあの歴史書とはまったく違う村が現れた。まだ日照りの被害を受けていないのか村は作物であふれ、沢山の村人が畑仕事に精を出していた。村長と思われる男性はもういないが村はそこそこ統率がとれているようだ。幼い子供達が村中を駆けまわり少し大きくなった子供は笑いながら畑仕事を手伝っている。
「あ、おキツネさんだ。一緒に頑張ってくれたおキツネさんだ。」
騒いでいる子供の内の一人が声を上げた。他の子供達も騒ぎ出した。
子供達の前にミノさんと思われるキツネがしっぽをゆらゆらと揺らしながら座っていた。
子供達の騒ぎ声で大人達も気がついた。
「あら、あのキツネ。ほれ、お食べ。」
台所仕事をしていた女が家から出てきて青物野菜の切れ端をポンと投げた。キツネはありがたくその野菜の切れ端を食べた。キツネは時々村に現れては村人を守っていた。それもあって村人はこのキツネの事を好いていたようだ。キツネのまわりに村人が集まってきて拝んだり頭を撫でたりしていた。
「ミノさん、えらい人気ですね。」
「ミノが花泉姫神の化身だと思われていたわけね。」
「あら~?」
突然、草姫が声を上げた。
「こ、今度は何?」
「今、あっちで影が動いたような~。」
「影?」
アヤ達は草姫が指差した方を向いた。草姫は茅葺屋根の家がある裏あたりを指差していた。
「その影がすうっとあっちの方に~……。」
草姫が指を泉があった方面へと向ける。
「追いかけましょう。」
ヒエンが走りかけた時、チュンッ!チュンッ!と謎の音が響いた。草姫がぼうっとしていたヒエンをいきなり引っ張った。
「な、何するんですか!」
バランスを崩し倒れそうになったヒエンが草姫に向かい叫んだ。草姫は何も言わずに先程までヒエンがいた所を指差した。
「……っ!」
ヒエンは目を見開いた。草姫が指差していた地面は弾丸が落ちたかのように陥没している。そしてその周囲が少し濡れていた。
「これは……。」
「カエル……!」
どこにいるのかわからないがカエルが放ったと思われる水弾がヒエンを狙ったのだ。
その水弾は次から次へとどこからともなく襲ってきた。
「上だわ~!」
草姫の声でアヤ達は咄嗟に上を向く。日光が照りつける大空をバックにカエルが舞い上がっていた。カエルはいたずらっぽい笑顔でこちらを見ていた。
「輪唱!」
突然カエルが大声で叫んだ。するとどこからともなく蛙が鳴きはじめた。蛙の声はどんどん大きくなっていく。
「か~え~る~の~う~た~が~」
蛙達の輪唱に交じってカエルが唄い出した。
「き~こ~え~て~く~る~よ~」
カエルは大きく腕を振るった。するとどこからか厚い雲が立ち込めポツポツと雨の雫が落ちてきた。
「ゲロげろゲロげろ……。」
なぜだかだんだんと平衡感覚がおかしくなってきた。声も水の波紋のように頭に響き渡る。
「まずい!」
草姫が耳を抑えながら叫んだ。アヤ達は今、まともに立てているのかもわからないくらい感覚が狂っていた。ハッと何かに気がついたヒエンは咄嗟にアヤを抱きしめた。
「くわっ!クワッ!くわぁ!」
カエルが腕を振り上げた瞬間、豪雨と雷がアヤ達をピンポイントに襲った。
ズカアアンッ!と大地が割れる勢いで光が地面を突き抜けた。
ゴロゴロゴロ……と雷が落ちた後の余響が耳にこびりつく。
「はあ……はあ……か、雷……。」
「ヒエン!?」
「だ、大丈夫ですか?」
ヒエンは肩で息をしながらアヤを離した。見た所アヤに怪我はない。他の二人にも怪我はなさそうだ。当たっていたら生きていないと思うのだが……。
「無傷かいっ!やっぱすっごいなッ!大屋都姫神(おおやつひめのかみ)。さすがスサノオ尊の娘。その大きな葉っぱの力は凄いねッ!」
ヒエンは大きな葉を瞬時に出現させアヤと草姫を守った。葉は雷に当てられ燃えてなくなった。
その後、にやにや笑っているカエルが軽い足音を立ててスタッと地面に着地した。
「どうだった?美しくも狂おしい蛙達の輪唱はッ!」
「最悪だったわ~。蛙はもっとしっとり鳴かないと……。」
草姫がげんなりした顔をカエルに向けた。
「あんた、草姫だねっ!ほんっと似てるよねぇ。あ、もうこの泉に住んでいる蛙達はあたしに協力してくれるみたいだからこの界隈、日照りになんなくてすむねっ!後は蛙達が弱って死んでしまう前になんとかすれば!」
カエルはケロケロと笑う。
「ダメです!ここの蛙は本来生きてはいけない蛙達です!歴史を戻しなさい!」
ヒエンの忠告をカエルは笑って流した。
「やーだよっと。この蛙達が死んでいいなんて誰が決めたの?歴史を戻す事ってそんなに大事な事?あたしにはわからんねっ。」
「兄はどこですか?」
ヒエンがカエルに鋭い口調で聞いた。
「さあねっ。それよりアヤをもらっていくねっ!輪唱!」
「それはさせません!」
ヒエンが身構えた時、また蛙の声が響く。
「うう……。だ~か~ら~これは……なんなのよ~……。」
草姫とヒエンは頭を押さえてうずくまった。カエルはその中、草姫とヒエンの横を通り過ぎアヤの目の前に立った。
「アヤ、大丈夫?」
「う……うう……。」
アヤは苦しそうに頭を押さえ呻いている。
「さ、いこう!」
カエルはアヤの手をとった。アヤは動けなかった。蛙の声で意識を失いそうになったのははじめてだった。
「あ……アヤさん……。」
「いったい~……頭が割れそう~……。」
二人はアヤを助ける余裕はなさそうだ。カエルはアヤの手を掴むとその強力な脚力で空高く飛んだ。
「か~え~る~の~う~た~が~……」
カエルはまた輪唱にかぶせて歌いはじめた。
「き~こ~え~て~く~る~よ~。ぐわっ……ぐわっ……ぐわっ……ぐわっ……ゲロゲロゲロゲロ……」
「や、やめて!」
アヤがカエルに叫んだ。だがカエルはこちらをみて笑っていた。
「クワックワックワッ!」
今度は比較的普通に聞き取れた。アヤは咄嗟に目をつぶったが先程のような雷は落ちなかった。そのかわり、雲がヒエンと草姫を覆い尽くす。アヤは上からだんだんと見えなくなっていくヒエンと草姫を怯えた目で見つめていた。
「さあ、いくよっ!」
カエルが空中で足を動かした。カエルはまるでそこに地面があるかのように空間を飛んで行った。
トンッ!トンッ!トンッ!と音をさせながら雲に覆われたヒエンと草姫を追い越して地面に着地する。アヤも危なげながら着地をした。
カエルはそのままアヤを引っ張り走りはじめた。
「じゃあ、そろそろ。」
走りながらカエルがパチンと指を鳴らした。地面を揺らすほどの衝撃と音が響く。それは絶えず続き、地響きがこちらまで伝わってくるほどだ。
「な、何?今の!あなた!何したのよ!ねえ!何したの!」
アヤはカエルに手を引かれながら必死に叫んだ。
「……何って?美しい夏の積乱雲をヒエンと草姫のまわりに置いただけだよ?あれくらいしないときっと倒せないでしょ?」
平然と答えるカエルにアヤは目を見開いた。
「何言っているのよ……。そんなことしたら……。」
「アヤはそんな心配しなくていいんだよっ!ただの暴風雨と雹と雷じゃん?」
「あなた……ヒエンを助けるって言ってたじゃない……。」
「助ける?イソタケル神に会いたいからって言ってただけじゃん。イソタケル神にはもう会えたんだし、頼まれごと終わったし、もう自由に動いていいんでしょ?」
涙声のアヤにカエルはふてくされたように言い捨てた。
「いい加減にしなさいよ!」
「うるっさいな!さっさといくよっ!」
カエルは走る速度を速める。アヤは引っ張られながら続いた。
「ヒエン……草姫……。」
アヤは心配そうに振り返ったが相変わらず雲が立ち込めていて二人が無事かはわからなかった。
アヤは無理やり走らされている間、進んでいく歴史を見ていた。カエルは埋め立てられた泉をまっすぐに走り去る。
色々な記憶がその間に流れた。だんだんと追い詰められていく花姫。雨が降らなくなったこの地域。荒んでいく人々の心。キツネは苦肉の策として高天原の作物を人々に届けはじめる。
村人の支えとなっていたキツネは今や幻を見せる化けキツネとして罵られていた。
カエルはこの記憶をすべて見て見ぬふりで一点を見つめただ走っていた。どこへ向かっているのかとアヤは走らされながら周りを見回す。もうただの空き地に成り果てている地面を蹴りあげながらカエルはあの林に向かって走っていた。
「冷林の林に……はあはあ……向かっているのね?」
アヤは上がる息を抑えながらカエルに話しかける。
「……。そだよ。そこに英雄もいるよっ!」
英雄とはおそらくイソタケル神の事だ。
「イソタケル神はどうやってあなた達蛙を救ったの?」
「イソタケル神は弱っていた蛙達に木が持っているわずかな水を与えてくれたらしいよっ!噂によると根っこに溜まっている水を抽出してくれたんだってさ。木を何本か犠牲にしてあたしらを助けてくれたんだ。蛙はほとんど死んじゃったらしいけど生き残りの蛙達が頑張って鳴いて雨雲を呼んだんだってさ。そんでイソタケル神が土を掘って小さい穴をつくってくれて、そこに雨がたまってさ、蛙はそこで繁殖を繰り返して元の雨が降る状態に戻したんだってさ。」
「なるほどね……。それで英雄。」
「あたしは実際見てないから知らないんだけどねっ。この話はずっと残っていてねぇ。もともとはこの泉がなくならなければよかったんだよ。イソタケル神は今度、泉を消さないように頑張ってくれている。それを助けなければ蛙がすたるってもんでしょ?まあ、実際、蛙の存在に気がつかないで人間ばかりどうにかしようとしたダメダメな花姫の事はどうでもいいんだけどねっ。」
カエルは鼻息荒く話す。
「そう。花姫は色々なところに目がいかなかったのね。」
アヤはそこから先、何も話さなかった。ヒエンと草姫が無事である事を祈りただ走った。カエルは泉があった空き地を過ぎて林の中へと入って行った。そしてそのままあのキツネがたどった険しい岩肌を登っていく。カエルがアヤの手を離す事はなかった。
アヤは半ば引きずられるように足を進めている。やがて岩山を登りきり最初に入った歴史書で見た林……冷林にたどり着いた。
「カエル。連れて来てくれたか。」
肩で息をしているカエルとアヤに緑の髪をなびかせた男、イソタケル神が微笑んだ。
イソタケル神は近くにいた金髪の女を抱き寄せる。おそらく花姫だ。花姫は眠っているようだった。
「花姫?」
アヤは目を細めた。
「そだよっ!英雄が花姫を捕まえたんだっ!」
カエルがアヤの隣で嬉々とした声を上げた。
「さて、時神。協力してもらおうか……。」
イソタケル神が鋭い目でアヤを見据え、笑った。
アヤはイソタケル神を睨みつけながら拳を握りしめた。
「協力って何よ……。」
「なるほど、口のきき方がなってないな。」
イソタケル神が目をそっと細める。
「神は皆こんなもんでしょ。」
「違いない。神は神力で神を従わせる事ができるから敬語なんてあってないようなものだ。」
イソタケル神はアヤを見つめクスクスと笑った。
……そういえば……この神からは今、威圧を感じない……。
アヤに動揺の色が現れるとイソタケル神は笑うのをやめた。
「気がついたか。僕は今、力を消しているんだ。君を力で支配したくはない。これからためになる話だ。協力してもらいたい。」
イソタケル神の横でカエルが騒いでいる。「何悩んでんのさ!」と言っているような感じだが今のアヤにはカエルの言葉はまるで頭に入って来ていなかった。
「嫌よ。私には断らなければならない理由がある。」
アヤは頬に伝う汗もそのまま神格の高い神と交渉をしている。威圧感とかそういうものがまるでないにしても恐怖心は消えない。
「ふむ。」
「あなたに協力したら……日穀信智神……ミノが消えてしまう……でしょ?」
「ああ、彼は僕が生かしたんだ。あの神だけだったら信仰を集められなかっただろう。この地域には泉と蛙が必要だった。その判断もできないような神はいてもしょうがない。だが、花姫の力を受け継いでいる以上、守るしかなかった。しかたなしに生かしたんだ。」
イソタケル神はたんたんと言葉を紡いだ。
「すべては花姫の為ってわけね……。ミノはどうでもいいの……。」
「どうでもいいわけではない。日穀信は生かしたまま、花姫も生かす。それが……僕のしたい事だ。君はただ、時間の鎖を花姫に巻くだけでいい。後はこちらがやる。」
「……い、嫌よ。私やらない!」
アヤは恐怖と戦いながら叫んだ。イソタケル神が何かを言おうとした刹那、水色の物体がアヤ達をすり抜けた。それを見た瞬間、イソタケル神から抑えられていた神力があふれ出した。
「冷林……。」
神力はどんどん広がり、言葉にこもった言雨がアヤとカエルを震え上がらせる。
冷林は林を一通り飛び回るとイソタケル神の前で停止した。
「本の冷林か。好都合だ。ここで消させてもらおう。」
イソタケル神は花姫を震え上がっているカエルに預けると冷林を消しにかかった。
……こんな状況じゃあ一歩も動けないじゃない……
アヤは目だけそっと動かし、カエルを見た。カエルもアヤ同様足の指も動かせないような状態らしい。
イソタケル神は冷林に飛びかかりながら両手を広げた。すると周りの草花が動き出した。その草花達はそのまま冷林に襲いかかる。地面の草はまるで剣のように冷林を切り裂き、木の枝は鞭のように冷林に飛ぶ。冷林は驚いた様子で必死に避けていた。イソタケル神は素早く冷林の後方にまわると冷林を掴み地面に押し付けた。衝撃が突き抜け、冷林が剣のような草に食い込む。
「……っ!」
アヤは絶句した。このまま見ているだけでは冷林が消滅してしまう。アヤは咄嗟に時間の鎖を冷林に飛ばした。時間の鎖は冷林に巻きつき、すぐにフッと消えた。
「―っ!」
イソタケル神がアヤを鋭い目で睨みつける。刹那、イソタケル神の力がアヤを貫いた。アヤは立っている事すらできずその場に崩れるように膝を折った。意識を集中していないとそのまま死んでしまいそうだった。
……この神は……やっぱりレベルが違いすぎる……
アヤは瞼すら閉じる事ができず定まらない焦点でイソタケル神を見つめていた。冷林はなんとか弱る前に戻す事ができた。しかし、その冷林も臨戦態勢どころか立っている事もつらそうだった。
冷林よりも遥か上をいく神力……アヤには想像ができなかったが実感はしていた。
……何よこれ……どうすればいいの?
アヤはどうする事もできず、その場から動かなかった。
七話
カエルに何かあったのか突然積乱雲が消えた。ヒエンと草姫は神々にとって最大の防御服、着物に素早く着がえ、雷と雹、暴風と戦っていた。ヒエンはピンク色の浴衣、草姫は紅色の振袖だ。
積乱雲が消えて太陽の光が二人を照らしはじめる。だんだんともとの静寂が戻ってきた。
「た、大変でしたね……。」
「はあ、はあ……死ぬかと思ったわ~。あなたが葉っぱで守ってくれなかったら大変だったわよ~……。私、防御の方面はあまり強くないから~……はあ……ちょっと戸惑っちゃったわ~……クロタネソウね~……。あ、花言葉は戸惑い。」
草姫が大きなため息をつく。
「そうです!そ、そんな事よりも!とにかく!えーと!アヤさんを追いましょう!」
ヒエンは両手を広げて浴衣から元の服に戻ると慌てて走り出した。
「ああ、待ちなさいよ~……。まじめなの?せっかちなの?もう~……」
草姫がやれやれと首を振り、ヒエンを追いかけようとした。
刹那、目の前に突然天記神が現れた。なんの前触れもなかったので草姫は息を飲んだ。
「うっ……わあああ!」
草姫は柄にもない声を出してのけ反っていた。そしてその声に驚いたヒエンが草姫を振り返る。
「驚かせてごめんなさい。」
天記神は一神で女性の方らしい。そして天記神の表情は暗く、何かを訴えかけていた。ヒエンも進みかけていた足を戻し、草姫の元へ戻ってきた。
「天記神さん……わたくし達……。」
言いかけたヒエンを手で制止した天記神は透きとおる橙色の瞳で二人をそっと見つめた。
「……知っております。隠していた記憶、見たんでしょ?」
「ええ。みたわよ~。ずいぶんな大犯罪、やってくれたものね~。歴史書の改ざんも重大な罪じゃないかしら~?」
草姫は凛とした表情で怯えている天記神を見据えている。
「あなたがご立腹な理由は木を勝手に殺した事でしょ……。それとも花姫ちゃんに禁忌を教えた事かしら?」
天記神は悲しみを含んだ目で草姫を見つめる。
「そう、前者。花姫はどうでもいいのよ~。あなたはもう許されないわ~。ここにはスサノオ尊の娘、大屋都姫神、ヒエンがいるのよ~?しらばっくれても意味をなさないわ~。」
草姫はそっと目線をヒエンに映す。ヒエンは悲痛の表情で天記神を見上げる。
「あなたはこの事を何百年も隠していた……それは大きな罪です。」
ヒエンの美しい緑色の目に見据えられ、天記神は苦渋の顔でその場に跪いた。
「ええ……承知しております……。」
「……あなたはその罪を誰かに気がついてほしかったのではないですか?」
ヒエンの問いかけに天記神は伏せていた顔をあげた。
「それは……どういう……?」
「言葉通りです。あなたは始めから全部知っていましたね?兄がどこの本にいるのかもすぐにわかっていたはずです。あなたはそれをあえて伝えず、その後の歴史書を渡しました。私達にその歴史を見てほしかったんじゃないですか?花姫がどういう神だったのかとあの地域の状態など……。」
「それは考え過ぎでございます。私にそんな……。」
天記神は再び、ヒエンから目を逸らすと目線を下に落とした。
「あなたは冷林の本を七冊出してきました。その七冊はすべてあの時代の話です。冷林ほどの神があの時代以外の歴史書を残していないなんてありえません。」
「七冊?それはありえないわね~?話によると冷林の歴史書、百冊はあるそうじゃない~?知恵の神、思兼神が言っていたわ~。あなた、なんでそんなピンポイントに冷林の本が出せたのかしら~?」
途中、草姫も会話に入り込んできた。天記神の顔がますます曇る。
「……しかたありません……わかりました……。白状いたしましょう。……私は怖かったの。あの時の私は完璧だったわ。……完璧に隠し過ぎて怖くなったのよ。花姫ちゃんは消えてしまった。自分にも非があるはずなのに私は何事もなかったかのように過ごした。はじめは誰かに気がつかれるのが怖かった。でもだんだんとその内、気がつかれない事に恐怖心を抱きはじめたわ。私はこのままノウノウと生きていていいのかしら……ってね。それで、歴史の張合せを以前よりも雑に編集したの。気がついてほしかったけど気づかれたくなかったわ。その後の事を考えちゃうとね……自分から罪を口にできなかったの。でも、このまま誰にも気がつかれずに胸のもやもやだけを抱えて生きて行く気にもなれなかった。」
天記神はそこで言葉を切ると微笑んだ。
「私は最低で最悪の神。そして私は今、気がつかれたことを後悔している……。」
「……あなたの罪は見過ごせませんが……結果として今、人間界と高天原は保たれています。私は今更この件を高天原に持って行こうとは思いません。」
「ちょっと!ヒエン~?」
草姫が不満そうな顔を向けたがヒエンは構わず続ける。
「そのかわり、あなたにやってもらいたい事があります。」
重苦しい言葉が天記神にのしかかった。ヒエンが天記神に言雨を放ったのだ。
「……はい。」
天記神はヒエンに頭を下げながら震えていた。
「兄にいままでの事すべて話しなさい。花姫の罪の事もすべて。」
「……?はい。かしこまりました……。これは私……タケルちゃんに殺されてしまうかもね……。」
ヒエンの言葉に答えながら天記神はぼそりとつぶやいた。
「……なさけはかけません……。早く行きましょう。アヤさんが危険かもしれませんから。」
ヒエンは一言そう言うとさっさとカエルが逃げた方へ歩きはじめた。
「ちょっと~ヒエン~?」
その後を慌てて草姫がついて行く。天記神もあきらめたように目を閉じると歩き出した。
イソタケル神はアヤから目を離すと冷林を掴んだ。
目を離された事によりアヤとカエルの力が少し緩む。これ以上、何も言う気になれなかったし、何もする気になれなかった。
脱力感がアヤの行動力全部を奪い取った。
アヤはただ、呆然とイソタケル神の右手を見ていた。イソタケル神の右手には剣のように鋭くなった草が握られている。左手に掴んだ冷林を高くかざし、右手に持った剣のような草をつきつけて構える。
「お前は花姫の責任をとらなければならない。あの時、責任を問いただした時、お前は逃げた。その責任、その罪をここで償ってもらおう。」
アヤは一秒がやけに長く感じた。ここで動かなければ冷林は殺される。
動けない中、アヤは冷林が何を思っているのか考えた。
……ああ、そうか……
結論はすぐに出た。
……冷林は花姫が何をしていたのか全部知っていたんだわ……。助けを請わない彼女の意見を尊重して気がついていないふりをして……禁忌に手を染めてしまった花姫を……黙ってみていた……。
……そして禁忌に手を染めた罰として冷林は花姫を見捨てた。そのことに花姫も気がついていて彼女はイソタケル神に何も言わずに死んだ。
……そういえば花姫、こんな言葉を言っていたわね……。『私が彼の生までも無駄にしてしまったと……あなたはお思いなのでしょうね……。冷林様。』と。やはり、花姫は冷林が自分の禁忌に気がついていると確信していた……って事。
「ま、待って!」
そこまで考えた時、アヤは声を発していた。隣にいたカエルはビクッと肩を震わせたが何も言わなかった。
「なんだ。」
イソタケル神が再びこちらを睨む。言雨が緩んでいたアヤとカエルを突き刺した。
「れ、冷林は……責任をとりたくてもとれなかったのよ……!」
アヤは倒れそうになりながらも必死で声を上げる。
「……どういう事だ……。」
「れ、冷林はもう……人間と密接にかかわってしまっていたから、あなたに処刑されたくてもできなかったのよ……。自分が死んだら人間は?この林は?魂はどうなる?って考えたんでしょうね……。だから……あなたから逃げたのよ……。それともう一つ……花姫を守ったの。」
「花姫を守った?それはない。やつは花姫を見捨てた。一年も経っていない弱小神、自分の部下となる神を無情にも消したのだ。」
イソタケル神の威圧でアヤはそれ以降何もしゃべれなかった。つたう汗とぼやける視界と戦いながら立っているのが精一杯だった。
……違うのよ……違うの……。冷林は花姫が自分のせいで死んだと周りに思わせるためにあなたに何も言わなかったのよ。もし、冷林が素直にこの出来事を言ってしまったら……花姫の禁忌は死んでからも消えない罪となってしまう。そして……天記神もただではすまない。
アヤはそれが言いたかった。花姫の罪もすべて話したかった。だが言葉が声に変わる事はなく、アヤはただ怯えた目でイソタケル神を見つめるしかできなかった。
押しつぶされるようにアヤは再び膝を折った。そのまま倒れ込むが腕で額が地面につかないように必死で耐えた。
「アヤさん!」
「っ?」
誰かがアヤの前に素早く立った。すぐにアヤの身体から重いものがすべて取り払われた。脱力しつつ、前に立った者を見上げる。
「……ひ……ヒエン……?」
「アヤさん!大丈夫ですか!」
アヤの顔を心配そうに覗き込んでいたのはヒエンだった。アヤはボウッとする頭で自分の顔を触り、地面に目を向けた。
滝のように汗をかいていた。アヤの汗で地面の色が黒っぽく変わっていた。
「ふいー……やばかった……。ヒエンが生きててよかった~……。」
気がつくと隣でカエルが足を投げ出した状態で座っていた。気絶している花姫はカエルのすぐ横で無造作に放置されていた。
「カエルさん……。」
「ああ、もうやだ。こんなに疲れるんだったら別に泉が戻らなくてもいいや。現に今、向こうでは雨が降っているわけだし、今のあたしに不自由なかったわ。だいたい、あんなのといたら命がたりないよっ!」
カエルは悪ぶれる様子もなくニヒヒとヒエンを見て笑った。
「カエル!あなた裏切っといてそんな……!」
アヤは腹が立って叫んだがすぐにヒエンに止められた。
「アヤさん。もういいです。蛙とはそういう生き物なんです。雨雲のように感情がうつろいやすく単純で純粋。何も考えずに行動し、思った事はすぐに実行する。……その話は聞いたことがあります。」
「やっぱり神様の常識は人間様には伝わらないって事ね。もういいわ。」
アヤは諦めてもう一度ヒエンに目を向ける。
「あなた、無事だったの?怪我は?」
「あれくらいでは何ともありません。ただ遅くなってしまった事が心残りです。」
イソタケル神は何をしているのか先程からまったく動きがない。それに気がついたヒエンは慌ててイソタケル神の方を向く。
「お前が……草泉姫神というのか。先程そこのカエルから聞いた。」
イソタケル神は消すはずだった冷林を離し、後から来た草姫と天記神に目を向けていた。
「そうよ~。やっと正式に会えたわ~。キツネノカミソリね~。花言葉は再会。問題がキツネ関係だしちょうどいいわね~。」
草姫はクスクスと笑う。その後ろで天記神が顔を引き締めて立っていた。
「やはり花姫とは別神か……。……で、なんで書庫の神が来ているんだ?」
イソタケル神の声で天記神はビクッと肩を震わせる。
すべての視線が天記神に集まった。しかし、天記神は何も言わなかった。
「そうか。歴史を改変しようとしている僕を止めに来たか。」
「……違うわ……。」
天記神はしばらくしてから口を開いた。
「では何をしに来たんだ?」
「あなた達を全員消しに来たの……。」
「……なっ!」
イソタケル神の問いかけに天記神は即答した。アヤもヒエンも草姫もカエルも皆予想していなかった答えだった。天記神はふっと顔をあげるとクスクスと笑った。
「本の中は私の管轄よ……。」
天記神は両手をバッと横に広げた。刹那、五冊の本がどこからともなく現れ、天記神の周りで五芒星を描いてまわりはじめた。
「な、何……?」
「本の裏側、紙と紙の間に連れて行ってあげる……。そこで全員この世界から消してあげる。」
天記神は勝ち誇った顔でヒエンを見据えた。
「な、何を言っているんですか!や、約束が違います!」
「やっぱりあの件は……見つかりたくない。」
天記神が目を閉じてそうつぶやいた。あたりは何の変わりもない。先程と同じ風景が広がっている。
ただ、すべての物に動きというものがなくなってしまった。
「……時間が止まった?」
アヤは感知しようとしたが時間が止まっているとはどうしても思えなかった。止まっているのとは違う。だが止まっている。
「本の中、木の記憶で歴史、現在進行形のものじゃないから時間が止まったのとは違うわよ。あなた達がページとページの間に入り込んだだけ。ここなら何をしても読者や外部の者に知られる心配はない。」
「確かに絶対に見ない所ですね……。紙と紙の間は。」
ヒエンはいたって冷静だ。
「じゃあ、これは斬っちゃったほうがいいわね~。」
草姫は大きなハサミを構えるとやみくもに周りを斬り始めた。
「やめた方がいいわよ。この生きた歴史書がただの灰になるわ。」
天記神の言葉で草姫の手が止まった。
「植物の生死のバランスを保っている私が勝手に歴史書や木を伐採する事は禁忌。確かにやめた方がいいわね~。」
「歴史書の中の木はあなただったら操れるでしょ。歴史書となっている木に『見なかった事にして』と言えばあなたが本の中で草花をいくら殺しても歴史になんの影響も出ない。ここに連れこめば記憶と記憶のはざまだから何にもない。あなたは草木と会話する術もない。」
「あら~ずいぶん詳しいのね~。困惑しているわ~。クロタネソウよ~。」
草姫と天記神の会話中、アヤは天記神の周りをまわっている本を眺めていた。タイトルが書いてあるのだがよく読めない。ちなみにカエルはとなりで止まってしまった草を触っている。色々と興味がなくなっているらしく、はやく元の世界に戻りたいらしい。
「ここでは誰も能力を発動できないって事ですね。草花がないって事ですからね。」
ヒエンはちらりとイソタケル神を仰ぐ。イソタケル神は戸惑っているようだった。なぜこんな事になっているのかを必死で考えているようだ。今現在、彼一人だけあの時起こった真実を知らない。
いつの間にか花姫はイソタケル神の腕の中へと戻っており、イソタケル神に全身を預ける形で止まっていた。相変わらず気絶したままだ。
アヤは所々見落とした文字を当てはめて予想でタイトルを作り上げた。
―動かぬ狭間
―留める紅炎(こうえん)
―轟く閃光
―唸る荒南風(あらはえ)
―落つる氷柱(ひょうちゅう)
……この五冊だ。一体どういう意味なのかわからない。
……動かぬ狭間……これだけはなんとなくわかるわ。今の状態よね。まさかあのタイトルどおりの事をここでするつもりじゃないでしょうね……。
アヤは警戒しながら本を目で追う。
……荒南風っていうのは……漁師が使うあれよね……。梅雨時期の強い風……だったかしら?
「アヤさん。この本が気になるの?」
天記神は何の表情もなく問いかける。アヤは戸惑ってはいたものの何も言わなかった。
「この本はね、子供が妄想で書いたノート。ゲームや漫画の影響でしょうね。自分もこんな能力使えたらとかこんな世界があったらとかそういうのを書いたものよ。子供が大人になるとこんなものはバカバカしくなる。これらノートは燃えてなくなり行き場を求め、私の所へたどり着く。小説でもなんでもないただの落書き。でもこの落書きは私が編集する事で霊的な能力へと変わる。……たとえば……」
天記神は『留める紅炎』を読んだ。何と言ったのかはわからない。ほぼ一瞬の出来事だった。
アヤ達の周りに深い紅色の現実にはないような炎が突如噴き出した。
「あ……っつ!」
カエルは慌ててアヤの側に駆け寄る。
「この炎……ありえないくらい熱いわ~。水分が全部飛びそうだわ~。」
草姫もあまりの熱さに真ん中にいるアヤに近寄ってきた。
「あああう……!」
ヒエンとイソタケル神は炎から離れていたのだが苦しそうに声をあげていた。火はもともと草木の神にはつらいものだ。
「ヒエン!」
「あ、アヤさん……大丈夫です……。」
慌てて駆け寄ってきたアヤにヒエンは苦しそうに咳き込みながらつぶやいた。
「あれはなぜ僕達を消そうとしているんだ……?」
イソタケル神は肩で息をしながらヒエンに向かって歩いてきた。
「それの原因を彼から説明してもらうはずだったのですが……お兄様。申し訳ありません。」
「予定が狂ったという事か。それに関しては後で聞こう。……草木を作り出した僕達にはこの炎は予想以上にきついな。天記神は僕達の弱点をついて一番に僕達兄妹を消すつもりだ。能力を使わせないようにする戦術から僕らを殺す以外の事は考えていないらしいな。」
イソタケル神はツルのような髪から水分を花姫に渡していた。
「まいったわね……。」
アヤは頭を抱えた。天記神がこうくるのはなんとなく予想はしていた。だが自分達ではなくイソタケル神とぶつかるだろうと考えていた。イソタケル神がかけ離れた神力を持つので勝負はあっという間につくと予想していた。
しかし、天記神はイソタケル神を止めるため全力を出すのではなく、事実を知られたくないから全力で全員を消そうと動きだした。ヒエンが何か天記神と約束を結んでいたようだがそれも失敗に終わったらしい。
結果、イソタケル神と共闘を強いられ人数の割には大ピンチとなっている。
「よし、ここはあたしがなけなしの水を皆に提供するよっ!」
カエルは慌てて口から水を吐きだした。上に向かって吹いたので雨のように水がさーっと落ちてきた。
「きっ……きったないわ……。」
アヤは呻いたがカエルの吐いた水はねばねばしているわけではなく飲み水にも使えそうなくらいのきれいな水だった。一体どんな体の構造をしているのか全員がびしょびしょになるくらいの水をカエルは噴射した。
「あー……もうダメだ。水なくなった。」
カエルはくたっとその場に座り込んだ。
「カエル、助かった。」
「カエルさん、ありがとうございます。」
「ありがと~助かったわ~。」
イソタケル神、ヒエン、草姫は同時に礼を言った。アヤは対して変わらなかったが草花の神にはこの炎はだいぶ堪えたらしい。
周りの炎はいまだ消えていない。天記神がどこにいるのかもよくわからないくらい炎が高く、周りを囲んでいるため抜け出せない。
「弐の世界で彷徨う本はやはり強力……。」
炎の先から天記神のつぶやきが聞こえた。
……?
「そうか。あれは弐の世界の書庫の神でもあるのか……。」
「弐の世界?」
イソタケル神の発言にアヤは首を傾げた。
「この世界の住人はまず行けない場所だ。ただ、人間のような能力、想像力をもつ生き物なら意識を失った時、眠っている時などに行ける世界だ。動物や人間の霊も多く住み、死後の世界という者もいる。」
「夢の世界とくくるわけにはいかないわね……。そんな世界があるの?ほんとに神になってからわかんない事ばかり出てくるわ。」
「まあ、弐の世界については僕もよく知らない。この世に住むものは弐の世界について知る必要がないからな。資料もない。おそらく天記神も口止めされていて弐の世界については何も話さないだろうな。もしかしたらあいつも知らないかもしれない。書庫から出る事を世界から禁じられている可能性がある。」
「まあ、よくわからないけど知らなくていいなら別にいいわ。とりあえず、この状況をどうするかよね。」
アヤは今普通にイソタケル神と話していた事に肝を冷やした。
……そういえば、威圧感がない……。神力を消したって事?
アヤがイソタケル神に改めて視線を移した時、紅炎が突如弾けて眩しい光がアヤ達を襲った。
「うう……っ!」
目をつぶる暇もなくアヤ達は光に飲まれた。
「アヤ?アヤどこ行ったのさっ!あれ?ってゆーか皆いない!」
カエルの声が響く。アヤは閉じていた目をそっと開けた。……つもりだった。
「あれ?真っ暗だわ……。」
アヤは自分が目をずっと開けっ放しにしていた事に気がついた。目を閉じて前が暗くなったのではなく世界が真っ暗になったのだ。
「……違います。真っ暗になったのではありません。視覚をやられたんです……。動いてはダメです。」
ヒエンの声もどこからか聞こえてくる。
「黙っていた方がいいかもよ~?敵がどこからくるかわからないじゃない~?コクタン……私も今、コクタンよ~。」
「あーっ!それはわかる!花言葉は暗闇っしょ!」
「カエルちゃん、せーかいっ!」
「そんなのんきな会話している場合じゃないでしょ!」
アヤに怒られ、カエルと草姫は黙った。二人の落胆の顔が思い浮かぶ。
「先程から風に紛れて潮の匂いがする……。」
いままで黙っていたイソタケル神がどこからか声を発する。イソタケル神も目が見えていないようだ。
「潮……唸る荒南風だわ。さっきのは轟く閃光ね……。」
「なるほど……草花にとっての弱点ばかりを集めた攻撃という事か。僕達は今、草花を操れない。俎上の魚だな……。炎の次に光を奪い、強い風に潮水か……。」
風がどんどん強くなってきた。もう怒鳴っても声が相手に届くかわからない。天記神はこれを狙っていたのか。目を奪っても耳がある。耳も奪ってしまえば人や神はコミュニケーション能力を失う。神ならばまだテレパシー能力をつかえる者もいるかもしれないが……。
ちょうど少し警戒が緩んだ頃、どういう状況なのかまったくわからないがいきなりアヤ達の身体が水に沈んだ。塩辛い水がアヤの体内に入り込む。
「これは……海?がっ……うう……。」
息がまるでできない。声も発する事もできない。何かを考えている余裕もない。
これで天記神は思考を奪った。
……死ぬ……。皆は?皆は何をしているの?
アヤはその時ハッと気がついた。
……草花の能力は使えない……でも私の能力は……使えるんじゃないかしら?
このままでは死んでしまうと考えたアヤは見えない恐怖と戦いながら時間の鎖を自分に巻いた。
……巻けた!やっぱり私の能力は草花に関係ないし、狭間も何も関係ないから使える。
アヤは自分の身体を襲われる前に戻した。息も普通にでき、目も見えるようになった。
……この水攻めに遭うまで十五分ほど。十五分間、私はこの状態を保っていられる。
アヤはまわりを見回した。不思議な事にあの紅い炎が水槽の代わりをしており、その炎の水槽の中にアヤ達が閉じ込められている形となっていた。カエルは潮水では息ができないのか意識を失っているようだ。
残りの三人は水槽の上の部分にいた。草姫は座禅を組んだまま苦渋の顔をしており、ヒエンとイソタケル神の兄妹は身体に神力を纏って水をかろうじて防いでいたがおそらく長くはもたない。草姫もおそらく、座禅を組んで集中力を上げ、神力を高めているのだろう。もともと植物は潮水が苦手だ。いくら集中していても普通の水とは違うので負けてしまう可能性が高い。おまけに能力がまったく使えない。
非常にきつい状態になっている。
アヤはそれを確かめて今度は上を向いた。揺らめく水面のさらに上の方で大きなツララが沢山出現していた。
……落つる氷柱……。あれが降ってきたら間違いなくここにいる神々は全滅。草花にとって氷も脅威で、おまけにカエルは意識を失っているし、氷や冷たい物が苦手。
……最悪だわ。
とりあえずアヤはカエルに時間の鎖を巻いた。ぴくんとカエルが動きはじめ、きょとんとした顔であたりを見回している。
「カエル、こっちきなさい。」
アヤの言葉に反応を示したカエルがいそいそとこちらに向かって来た。さすがカエルと言ったところか泳ぎはかなり速い。
「あ、アヤ!どうなってんのっ?なんか息できるようになったし目も見えるし、なんか楽しくなってきた!」
カエルはこちらに笑顔を向けた。
「あなた、だいぶ狂っているわよね……。」
「ん?」
「もういいわ。とりあえず、私は泳ぎが得意ではないから残りの三人をこっちに連れて来て。」
アヤは上にいる三人を指差す。
「ほーいっ!」
カエルは素早く泳ぎ、残りの三人の内、ヒエンをまずつれてきた。
「アヤさん?無事でしたか!」
ヒエンはアヤがいる方向とはまったく逆の方向にしゃべりだした。神力を纏っているおかげで水がヒエンを襲う事はなく、ヒエンは普通に会話ができているわけだが視覚はまだ戻っていない。
「あ、そうか。ヒエン、まだ目の方は見えていないのよね……。」
アヤは慌ててヒエンにも時間の鎖を巻いた。
「なんだか時間を巻き戻されたような気がしますが……目が見えます。」
「さすがね……。ヒエンにはこの力がわかるのね。」
アヤは感動しているヒエンをよそに残りの二人にも鎖を巻いた。
「あら~?苦しくないわ!目もみえるし~すっごおい!これ、時神さんの能力なのね~?」
草姫は楽しそうに笑っている。この神もまともな精神をしていない。
「はあ……はあ……。」
イソタケル神は肩で息をしていた。とても苦しそうに見える。
「タケル様~、あなた、神力を花姫にあげていたんでしょ~?二人分の力を潮水の中で出せるなんてあなた~けっこう、化け物よね~?しかもその子、気絶しているから四人分くらいの力をださないといけないって事よね~?」
「まあ、そうだ。」
イソタケル神が一息ついたところでカエルがひょいっと現れた。
「アヤが呼んでるよっ!下に集合!」
カエルは下の方にいるアヤ達を指差した。イソタケル神達は神力で水を防いでいたが、実際に水を飲んでしまった者は当然沈む。アヤが下にいる理由を考えたイソタケル神は「自分のせいか」とつぶやき、渋面をつくった。
「じゃあ、泳げないから~つれてって~。」
草姫はカエルの手を握った。イソタケル神も草姫が握っていない方の手を握った。
「うっわー、なんか底冷えするものがあたしを包むんですけどっ!」
イソタケル神の力を感じ取ったカエルは顔を青くしながら泳ぎだした。
「やっと来たわね。」
平泳ぎで泳いできたカエルにアヤはため息をついた。
「時神、助かった。だが、お前は大丈夫なのか?」
イソタケル神が心配そうにアヤを見ていた。
「私は大丈夫よ。あなた、私を心配するの?」
「当然だ。」
アヤは花姫のためかと思ったがどうやら違うらしい。
「アヤさん、わたくし達、草木の神は基本、争いを好みません。お兄様はあなたを殺そうとしたわけではありません。」
ヒエンに言われてアヤはたしかにそうだと思った。この神は極力、自分の神力を使わないようにしている。交渉していたときもこの神は力で支配しようとはしなかった。ただ、あの時は自分の部下である冷林が現れて抑えていた感情が流れてしまっただけだ。
「わかったわ。ありがとう。イソタケル神。突然だけど上を見てくれるかしら?」
アヤは人差し指で上を指差した。ヒエン達はアヤに習い水面を仰ぐ。
「……っ!」
「ぎゃああ!つ、つららぁ?」
カエルが顔を真っ青にして太くて鋭利な氷柱を眺めている。
「数が尋常じゃないわね~?これで死なない時の為に今度はあれ使ってトドメをさすってわけね~?」
草姫は水を触った後、人差し指を氷柱に向ける。
「万が一、これに当たらなくても水を凍らせるつもりなのか?」
「ええ?英雄はあれを全部避けられる自信があるのーっ?すっごおい!」
カエルはイソタケル神の言葉に単純に感動した。
「僕達はこの中でうまく動くことはできない。カエルが避けられる自信がないとするならば避ける事は不可能だな。」
「ええーっ!あたし頼みだったの?あんた、一人で男なんだからさー、か弱い女の子を守ってよぉ!」
「カエルさん、わたくし達、もう女の子って呼んでいいんですか……?アヤさんならわかりますが。」
カエルの叫びにヒエンは冷静につっこみを入れた。
「そう?あたし、まだ二十五歳だけどさ~?」
「二十五!?」
アヤと草姫は思わず叫んだ。
「なんだい?そんな驚かなくても……。」
「カエルちゃんってもっとお子様かと思っていたわ~。意外よ~。」
「うーん。そう?」
草姫の発言にカエルは首を傾げた。
「ま、まあ、神様なんて外見年齢あてにならないわ……。それより、上どうしましょうか?」
「ああ、それならいい案を思いついた。」
アヤは即答したイソタケル神に目を向ける。
「え?どうするのっ?」
カエルが興味津々な目でイソタケル神を仰ぐ。
「ここに植物をつくる。そうすれば僕達はまた力を使える。」
「植物!お兄様、無理です!わたくし達は三人でこの日本の草木をつくったんですよ!妹もいないと……。」
「ツマツヒメの事か?問題はない。その役割をする者がここにはそろっている。」
大屋都姫神とイソタケル神の他にもう一人、神話では妹がいる。ツマツヒメ神という。
「そろっていると言われましても……。」
「大丈夫だ。このフロアくらいならな。時神が水のない空間を少しでも作る、そこにカエルと草姫と僕とヒエンで木を生み出す。」
イソタケル神は困った顔をしているヒエンの頭を撫でる。
「それしかないなら、しかたないわね~。私は元々木の魂を管理している神だから、ちょっと良い事なのかわからないけど~。」
草姫も複雑な顔をしている。
「いいわけないです!ここに出して好き勝手に作った植物は今後どうなるんですか!」
「僕がちゃんと連れて帰る。心配するな。一本の木をつくりたい。それだけでいい。」
口論している間に氷柱はさらに大きくなった。そろそろ落ちてくるかもしれない。
アヤはさっさと時間操作でほんの少しだけだが水を省いた。
「こんなものしかできなかったけど。」
「十分だ。」
アヤを先頭にヒエンも草姫もしかたなしに従う事した。まず動いたのはヒエン。ヒエンは髪の毛を一本抜くと水のなくなった空間にそっと置いた。その次に手をかざす。ヒエンはそのまま目を閉じ、神力を高めはじめた。
「ヒエンは男神が持っていない生み出す能力を持っている。これはほぼ女神しか持っていない力だ。僕も持ってはいるがこの能力はとても低い。」
女性は子供を産む力を持つ。故に神の世界でも何かを生み出すのは女の方が得意だ。
気がつくと髪の毛は一つの種に変わっていた。
「これでいいでしょうか?一応、黒松に育つと思います。」
「完璧だ。ヒエン。」
「縁起いいわね~。で?次どうするの~?」
草姫は冒険に思いをはせる子供のような表情になっている。単純にわくわくしているらしい。
「カエルが水を草姫の如雨露に入れる。」
「お兄様、カエルさんはもうお水がないんですよ?」
「だいじょーぶぅ!海水から出た水分をためたよっ!あたしは!」
「それ……、貯めたのって海水じゃないですよね?」
「違うって!海水だったらあたしが飲めないよ。ここは水の中って事もあって湿度が高いっしょ?その水滴みたいな水分の事よっ!」
「はあ……そ、そうなんですか。」
カエルはえへんと胸を張るとヒエンに笑いかけた。
「それを計算に入れてないわけないだろう。カエル、やってくれ。」
「はいはーい!」
カエルはイソタケル神に言われた通り、如雨露を構えた草姫にむかい水を吹いた。カエルの口から出た水は水鉄砲のように草姫の如雨露に吸い込まれる。あんまり見たい光景ではなかったがアヤもその風景を興味津々に見ていた。
「はい~、オーケーよ~。で、私がこの水を霊的に変えて~この種にかけると~。」
草姫はカエルにオーケーサインを出すと如雨露で水を種にかけ始めた。
「この種はこんな環境にも関わらず~私に生きろと命じられ~元気に根を張り始める~。私は生死を司る神、木の生き死にを握っている~。」
草姫の言葉と共に種は目を出し、地面もないというのに根を伸ばしはじめた。
「さて、僕の番か。」
イソタケル神は草姫と変わって木の前に立った。花姫をいったんアヤに預ける。
そしてそのまま両手で芽を握る。猛々しい力が木だけではなく、アヤ達にも伝わった。
「な、何この力……っ!地面が揺れているの?」
「アヤさん、アヤさんが震えているんですよ。大丈夫です。大きすぎる力、大地の力で身体が震えているだけですよ。」
「なんか大きいものがこっちに迫ってくるみたい。」
「時神。」
「な、何?」
イソタケル神にいきなり呼ばれアヤは動かない口を必死で動かした。完璧に圧倒されていた。
「この木の時間を早送りしてくれ。終わってから後でちゃんともとに戻してくれればいい。」
イソタケル神はアヤから花姫を受け取るとそう命じた。
刹那、氷柱が何個か一気に落ちてきた。たまたま、アヤ達が固まっている所には落ちて来なかった。その太くて鋭利な氷柱を見たアヤは喉をごくりと鳴らすと松を睨みつけた。
「わ、わかったわ。もうこうなったら何でもいいわ!」
アヤは木に時間の鎖を巻きつけた。歴史とかそういうのは一切考えないで時間を早回しにする事だけを考えた。
木はみるみる大きくなって行き、立派な黒松に成長した。
「よし、成功だ。」
イソタケル神は大きく育った松を操り氷柱を叩き落としていく。
「行くわよ~?」
草姫がアヤとカエルの手を握る。
「え?」
草姫は木を操り、根を出現させるとその根をしならせて上の枝に投げさせた。
「きゃああ!」
アヤは顔面蒼白で叫んだ。
「わああ!すっご!たのし!」
正反対の反応をしている二人を眺めながら草姫はぴょんぴょんと枝を登る。異常なくらい背の高い松に育った。水槽をはるかに超え、潮水をものともせず堂々と立っている。
隣りでヒエンも枝に乗りぴょんぴょん飛んでいるのが見えた。イソタケル神はいつの間にそこへ行ったのかもう水面から外に出ている。氷柱をすべて木で弾き、下にいるアヤ達が素早く来ることができるようにしてくれていた。
アヤ達も水面から外に出る事ができ、こちらを睨みつけている天記神と目が合った。イソタケル神は木の枝をバネに水槽となっている紅炎を飛び越して、天記神の前に着地した。そのまま松の葉を一本天記神の首元に突きつける。花姫は抱いたままだ。
「この松の葉がただの松の葉だと思うか?」
「あなたの神力で触れたら斬れてしまう葉になってしまったわね。」
イソタケル神の目が鋭くなった。
「お前は罪もない神を何人も殺そうとしたんだぞ。」
「……あなただって一緒じゃない。歴史をおかしくしたらどうなるかわかっているの?」
天記神はイソタケル神を睨みつけ、言雨をぶつける。
「いい加減にしろ……。」
イソタケル神から天記神よりはるかに恐ろしい言雨が降りまかれる。後から着地したアヤ達はイソタケル神に近づくことはできなかった。声も出せない。
「……は……は。もう終わりね……。『終局』ってやつかしら……。いえ、『ちぇっくめいと』の方がいいかしら。」
天記神は冷や汗を流しながらその場に膝をついた。顔は微笑んでいるが身体は震えている。
「……。」
「はやく殺しなさいよ。私は大きな罪を犯した。もういいわ。こうなってしまったら私はあなたに勝てない。時神ちゃんがいる事が……誤算だったかしらね。」
天記神は目を伏せた。このまま何も言わずに死ぬ気だ。
「そうだな。しかたあるまい。」
イソタケル神は神力を込めた松の葉を剣のように大きくすると天記神の首目がけて振るった。
アヤも草姫もヒエンもカエルもイソタケル神を止めようと動こうとした。だが誰一人動ける者はいなかった。
『……ダメ。』
「……っ!」
イソタケル神は突然起きた事で手を止めた。後ろで大きくなった黒松が操ってもいないのに葉を何本も飛ばしてきたのだ。
頭の中でとても聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『タケル……』
「花姫!」
『違う……わたしは花姫じゃない……。だけど彼女の心は持っているわ……。あなたの手にいる花姫を捨てて……お願い。』
「お前は誰だ?この花姫は見捨てられない。」
イソタケル神は黒松に向かい叫ぶ。
『お願い……わたしを生き返らせないで……』
「え……。」
イソタケル神は眉をひそめた。
「花姫ちゃん?」
天記神も目の前にそびえる黒松を見つめる。
『天記神さん。わたしは花姫じゃない。けどあなたの事は覚えている。あなたはもう苦しまなくていいの。すべてはわたしが招いた事だから。ほんとうにごめんなさい。』
「私は……。」
『あなたがそこまで秘密を守ってくれるとは思っていなかった。あなたは死んではいけない神。』
「でも……私はあなたを殺してしまった……。教えてはダメだから……禁忌だったのよ……。絶対見つからないってそのことばかりで……最高の策だって調子に乗ってた。私はあの時……助言するべきではなかった。」
天記神は目に涙を浮かべ両手で顔を覆った。
「おい。どういう事だ?」
イソタケル神は天記神の胸ぐらをつかむ。掴んだ後、この神が女神であると気がつき、手を離した。
「……花姫ちゃんはあの時私に相談を持ちかけてきた。誰にも気がつかれずに一人で泉を元に戻す方法はあるかと……。冷林にもあなたにも気がつかれる事のない方法を教えてくれって。私は他に思いつかなかったという事もあったけど自分が女になりたかったから禁忌を教えたの。自信満々にね。」
「……なんだと。」
「キツネ一匹の歴史をいったん消して生まれ変わらせて花姫ちゃんの手足にする方法を……私は教えた。でも、彼女は失敗してしまった。キツネを使って泉の破壊を全力で防ごうと努力していたけど本当は蛙を先に助けるべきだった。人間の方を助けるつもりならば別の神に頼み込んで泉の埋め立てを指揮している側の人間を救ってあげればよかったのよ。村人をいくら救っても上には逆らえないんだから意味がない。花姫ちゃんは泉の埋め立ての阻止をいくらやっても何も変わらないって事に気がついてなかった。その段階でもう冷林に気がつかれていたの。冷林は花姫ちゃんのことを思ってか、罰するつもりでやったのかわからないけど救いの手を差し伸べようとしなかった。結果、花姫ちゃんの信仰心は消えてしまい、消滅してしまった。あの時、花姫ちゃんは色々な神に助けを求めるべきだった。未熟な神が一人でなんでも背負い込んでしまった結果がこれ。……それが真実よ。」
天記神の悲痛な顔を見ながらイソタケル神は奥歯を噛みしめた。
「そうか……。花姫は……禁忌に手を染めていたのか……。」
イソタケル神は悲痛の声をもらした。それにかぶせて寂しそうな声が聞こえる。
『そう……その通りよ。だからタケルはわたしを無理に生き返らせたり、守ったりしなくていいの。』
「そんな……そんな事を……今更……。」
『ごめんなさい。タケル……。あなたの手の中にいるその子を……もう離してあげて……。本に……返してあげて。』
「そんな事……できるわけないだろう……。」
イソタケル神は花姫を震える手で抱きしめる。
『そのままではわたしが生まれ変われない。あなたが望んだこのイノチをわたしは無駄にできない。死神からも生きろと命令されているから……。』
草姫の表情も自然と暗くなる。
「死神……ねぇ~。私、一応あなたのおねぇちゃんなんだけどねぇ~。あなたにあの時会えていたらって私はちょっと思っているわ~。でもいいわ~。生まれ変わるなら……それからまた会いましょう……。タケル様、花姫を離してあげて~。」
「花姫……。」
イソタケル神はいまだ気を失っている花姫の美しい顔を見つめた。
……この花姫は自分が手を離して地面についた段階で消えてしまうのか……。
いつの間にか本は元通りになっていた。炎もなく水槽もない。天記神の足元に先程まで浮いていた本が散らばっている。術は切れていた。
本の中の時間がゆっくりと動き出す。
……もうダメだ。彼女を助ける事がどう考えてもマイナスにしか思えない……。
……彼女は禁忌に手を染めていた……。……だから彼女は助けるべきではなかった。……そう助けてはいけなかった。
「花姫……ごめんな。僕が……気がつけなくて……ごめんな……。」
イソタケル神は涙を流しながら花姫を抱きしめ、震える手で花姫を手放した。花姫はゆっくりとイソタケル神の手から滑り落ちて行った。
苦しかった。自分が守ろうとした部下を……冷林にも見捨てられた部下を……自分も手放してしまっている。救ってあげるどころか二度も殺してしまった。
……タケル……
頭の中ではなく直に声が聞こえた気がしたイソタケル神は落ちゆく花姫を見つめた。
花姫はこちらに笑いかけていた。
……いままでありがとう。そしてごめんなさい。
地面に着く直前、最後にもう一つだけ言葉を発した。
……あなたが大好きだった……ずっと……今も……
「花姫!」
イソタケル神が叫んだ刹那、花姫は地面に落ち、消えて行った。
「……花姫……。」
花姫は本来いるべきページに戻ったのだろう。
『ありがとう。イソタケル神様。大丈夫。今度は間違えない……。……わたしはもういなくなるけど生まれ変わったわたしをお願い……。……タケル。さようなら。』
そこで完全に頭の声も消えた。……風に流れるように消えて行った。
「うう……。」
イソタケル神は地面に手をついて泣いていた。アヤ達は震えているイソタケル神の側に寄った。
「あの子は……そう……いつも自分勝手で……。」
「お兄様……。花姫さんはもう何百年も前に死んだ神です……。今は……前を向きましょう?」
ヒエンはそっとイソタケル神の肩に手を置く。
「でも……あれは僕のせいでもあるんだ……。」
「そんな事はありません。花姫さんだって自分で選択した道です。お兄様が気に病む事はありません。」
ヒエンは優しくイソタケル神の肩を撫でる。イソタケル神はヒエンの頭に手を置いた。
「……お前の言う通りだ……。僕はおかしくなっていた。花姫を救う為に歴史を壊すという禁忌を侵そうとしていた……。お前はそれを止めに来てくれたんだよな……。僕はお前に救われたんだな……。下手したら僕も花姫と同じことをするところだった。」
ヒエンとイソタケル神の会話を聞きながらアヤは草姫を見上げる。草姫もアヤを見つめていた。
「アヤ、私は早く彼に会いたいわ~。」
「彼?誰の事よ?」
「あの松~。」
草姫が松を指差しながら微笑んだ。
「なんで男ってわかるのよ?女じゃないの?」
「だって黒松は男松じゃない~?赤松は女松だけど~。」
「そういう事ね……。」
アヤは松に目を向け、ため息をついた後、もう一度草姫を見上げた。草姫は珍しく険しい顔をしていた。
「私、もう離れないわ……。妹が死んだって事を気がつかずに……助けられもせずにこうやってのうのうと生きていたなんて……。あの木は私が守っていく。いずれ、神になった時、すぐに手を差し伸べてあげられるように……私が……そばに。」
草姫の顔は決意に満ちた顔だった。会ってまだ間もないが彼女のこんな顔は初めて見た。
「そう。頑張ってね。」
「ヒルガオ~。花言葉は優しい愛情……。あの兄妹みたいになりたいわね~。」
草姫は再び笑顔に戻った。
「そうね。」
アヤも微笑み返した。
そして先程から忙しなく、隣でカエルが無駄にぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「あたし、けっこう花姫の悪口言っちゃったけど英雄があんなに大切にしていたんだからきっといい神様だったんだよねっ?はんせー……。」
カエルは隣でへこんだ顔をしていた。
「大丈夫よ。あなたが言った事は事実でしょ。」
「まあね。いやー、世知辛いねぇ。」
カエルは相変わらずカエルだとアヤは思った。
「それより早く、あの松を戻してよ~。」
「ああもう、わかったわよ。」
草姫が催促するのでアヤはさっそく時間の鎖を木に巻きつけた。
「苗の所までよ~。種までは戻さないでね~。」
「わかったわ。」
アヤは手を広げた。
「アヤちゃん……。」
「何?」
アヤに話しかけてきたのは天記神だった。
「私は……このままでいいのかしら……?」
「いいんじゃないかしら?花姫がそう言ってたじゃない。それから罪を償うって事は死ぬ事じゃないわ。あなたも罪悪感を持っているなら別の事で罪を償って行ったらどう?」
「……そう……。何をすればいいかしら?」
天記神は救いを求める目でアヤを見ていた。
「……知らないわ。そういうのは自分で考えるのよ。現にそうやって頑張って生きている神を知っているわ。今は歯科医院で働いているみたいだけどね。」
「……わかったわ。自分で言うのもあれだけど、死にたくはなかったのよ……。私が死ぬと色々面倒だから。これから頑張って生きる道を探すわ。……ありがとう。アヤちゃん。」
最後のありがとうの部分だけ天記神は男になった。結局、彼は男なのか女なのかいまいちわからないままだった。
所々で捨てきれない男の部分が出てしまったのだろう。
「さ、お兄様、外へ出ましょう。」
「……ああ、そうだな。」
ヒエンとイソタケル神は立ち上がり、寂しそうな表情でこちらに向かって来た。
「皆さん、ごめんなさい。ここまでありがとうございました。おかげで兄を見つけられました。感謝しています。」
ヒエンはアヤ達の前で一礼をした。
「そんな、あなたのような有名な神に感謝を述べられるほど私は働いていないわ。」
アヤは慌ててヒエンの頭を上げさせた。その横でカエルは笑っている。
「ま、あたしは何もやってないけどねっ!邪魔はちょっとしたかなっ?ははっ!」
こんな状況でもぶれないカエルはやはりカエルなのだとアヤは思った。
「色々とすまなかった……。」
ヒエンの横にいたイソタケル神がヒエンに習い頭を下げる。
「……っ!」
一礼をしたイソタケル神にアヤとカエルは息を飲んだ。隣にいた天記神も目を丸くしている。
「タケルちゃん!い、いえ、タケル様!あなたは頭を下げてはいけない神……。」
「天記神、彼女達は僕とお前、そして花姫も救ってくれたんだ。こんな事だけでは足りないくらいだ。」
「……っ!……そうね。ごめんなさい。」
しばらく目を丸くしていた天記神だったがイソタケル神に習い、一緒に頭を下げた。
「ちょっと、ちょっと、何これっ?」
カエルがこの奇妙な光景に指を差しながらアヤを見上げている。
「……。」
アヤは無言で無礼なカエルの頭をひっぱたいた。
「痛いじゃん!アヤ!なにすんのさっ!」
「ちょっと黙ってなさい。」
「……ほーい。」
アヤの一睨みが怖かったのかカエルは素直に黙り込んだ。
「そんな事はどうでもいいんだけど~、ほら。」
この奇妙な状態を壊したのは草姫だった。草姫は黒松の苗を抱いている。先程とはまるで違う、とても小さい松だ。手で簡単に折れてしまうほど弱々しい。
「この松が……花姫の生まれ変わりか。」
「かわいいですね。あと何百年待てば樹霊になるのでしょう。今から楽しみです。樹霊になった時、神になった瞬間にわたくし達がいられたらいいですね。」
二人は草姫が持っている小さい松をそっと撫でた。
「私も手伝うけど~、あなた達が主に育てるんだから頑張ってね~。」
草姫は松をイソタケル神達に押し付けると少し寂しそうに笑った。
「ああ。ありがとう。草姫。この苗は……今はなくなってしまったハコ村があった場所に植えようと思う。」
イソタケル神とヒエンはお互いを見合い、大きく頷いた。
「じゃ、もどろっか!」
カエルがしおりを取り出した。一同はカエルに微笑むと頷いた。
最終話
雨の音がする。今はちょうど梅雨の時期だった。思わず忘れてしまう所だった。
「……戻ってきたのよね……?」
アヤは周りを見回す。大量の本がずらっと棚に並べられており、机と椅子が沢山置いてある。その奥の方でもう一人の天記神が本を読んでいた。
間違いなく天記神の図書館だった。
「はあ、やっと戻って来れたっ!じゃあ、かえろっと!蛙だけに!あれ?これってどうやって帰るの?」
カエルは忙しなくあたりを見回している。
「現世に戻るのならばこの図書館から出れば戻れるわよ。」
「ほんとっ?わーい!」
カエルは天記神の回答に目を光らせると外へ飛び出して行った。
「あ、皆バイバーイ!また会ったらあそぼっ!」
ドアから出て行った後にカエルの声が遠く聞こえた。
彼女はあっという間にアヤ達の前から姿を消してしまった。
「騒がしいわね……。なんかこう、余韻的なものに浸ったりとかしないのかしら?」
アヤは呆れた目で完全に閉まったドアを眺めた。
「あ~あ~、カエルはやっぱカエルよねぇ~。じゃ、私も帰るわ~。先にハコ村に行ってるわよ~。じゃあね~、スサノオ尊の子孫達……とアヤ。」
「はい。助けてもらった事感謝しています。先にハコ村に行っててください。」
「そうだな。ありがとう。草姫。」
ヒエンとイソタケル神の言葉を聞いた草姫はフフッと笑うと堂々と歩き出した。
「また会った時、声かけなさいよ。」
アヤは咄嗟に言葉を発した。草姫は立ち止ると振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「ふふ……。あなたの事、忘れていなければね~。彼岸花。花言葉は悲しい思い出。これは忘れちゃいましょう~?そしてもう一つの花言葉……再会。今はこちらを採用するわ~。じゃね~。」
草姫はまたアヤ達に背を向けると鼻歌を唄いながらドアから外へ出て行った。
「なんでこう、神って軽いのよ……。」
アヤが眉をひそめたのを見たヒエンはクスクスと笑った。
「アヤさん、わたくし達は個人個人で生きる意味を持っています。その役割は一人ではできません。必ず誰かがそばにいる。神々はいつでもつながっていると考えているから軽いんですよ。」
「そういうものかしら?」
アヤは釈然としない顔をしている。
「そういうものです。」
ヒエンはふふっと微笑んだ。
「そろそろ行こうか。」
イソタケル神がヒエンに笑いかける。
「あ、わたくしはアヤさんをおうちにお送りしなければなりませんので。」
ね?とヒエンはアヤに目を向ける。
「いや、私は別に一人でもたぶん帰れるけど……。」
「でも約束しましたから。」
ヒエンの真面目な声にアヤはポリポリと頭をかいた。
「そうか。時神……本当にすまなかった。何か相談事があれば何でも乗る。いつでも僕を呼んでくれ。」
「あなたを呼ぶほどの惨事が起きたら頼らせてもらうわ。」
「くだらない内容でも構わない。お前の頼みとなればなんでもしよう。」
イソタケル神は真面目な顔で大きく頷いた。
……この真面目兄妹……。私みたいな神が神話の大御所を動かせるわけないでしょう!
世間的に!
そう思ったがアヤは黙る事にした。この真面目な兄妹にこれ以上言うと面倒くさい事になりそうだったからだ。
「では……。天記神、また来る。」
「え……ええ。私も……頑張るわね。」
イソタケル神は天記神を一瞥すると外へと出て行った。
「天記神……。今はつらいと思うけど……頑張って。私もここを利用したいと思っているの。」
アヤは先ほどからうなだれている天記神に声をかけた。
「あなたを殺そうとした私のもとへあなたは来たいの?」
「もう、解決したでしょ。あなたはもう十分苦しんだんじゃないの?もう、いいと思うの。」
「アヤちゃん……。」
天記神は戸惑った顔をアヤに向けた。
「ね?だから、私はまたここに来るからね?」
「……私を慰めてくれるの?」
「そ、そういうつもりでもないんだけど……。」
アヤは顔をほんのり赤くして頭をかく。
「ありがとう。ごめんね。本当に……ごめんなさい。」
天記神は震える手でアヤの肩を掴んだ。
「別にいいわよ。私は生きているから。」
「ほんとに私何やっていたのかしら……。ほんと……馬鹿ね。」
天記神はアヤから手を離した。
「天記神さん。わたくしもこの図書館を利用したいと思います。もっと本を読みやすくしていただけませんか?」
ヒエンは天記神に真面目に提案した。
「はい……。努力してみます。あなたにも畏れ多い事をしてしまったわね。非礼をわびます。」
天記神はヒエンに深々と頭を下げる。
「別にいいですよ。わたくしは生きてますから。」
ヒエンはアヤが言った言葉と同じ言葉を発すると歩き出した。アヤもヒエンに続き歩き出す。
「ああ、ちょっとお待ちを。カッパをお忘れです。」
天記神は優しくアヤとヒエンにカッパをかぶせた。
「ありがとう。」
「ありがとうございます。」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。」
三人はお互い笑い合うと歩き出した。天記神はドアの傍までアヤ達を見送ってくれた。
「また……来るわね。」
アヤは手を振るとヒエンと共にドアを勢いよく開けた。外は大雨だったがヒエンと共に元気よく走り出した。なんだかすごく走りたい気分だった。
天記神はそんなアヤとヒエンを悲しそうに微笑みながら見つめていた。
……アヤちゃん……あなたも過酷な運命を背負っているのね……。私なんかが手を出せる神ではなかった。……頑張ってね……アヤちゃん。それと……本当にごめんなさい。
天記神はそっと目を閉じた。
アヤとヒエンはもう霧の中へと姿を消していた。
※※
アヤが走り去ってすぐのこと……。
「では、イソタケル神と冷林、そして……日穀信智神(にちこくしんとものかみ)……ミノさんが関係している本を出してください。ヒエンさんの兄、イソタケル神が冷林の封印をしたまま行方知らずのようなのです。その関連の本を出してください。」
ある少女の要望に天記神は明らかに狼狽していた。
「……?どうしました?」
「……いずれ来ると思っていましたが……これはちょっと複雑な事案なの……。」
天記神は迷った顔をしていた。
「どういうことですか?」
「……私は壱の世界を生き、陸の世界を生き……未来の肆、過去の参も生き……そして弐に住んでいます……。他の世界は次元が違いますがこの図書館は常に一定です。つ、つまり私は壱の世界の方面の事も変わらずにわかる……。」
「何を言っているのですか?話が……。」
少女は困惑した表情を浮かべていた。
※※
「ふう……なんか駆け抜けた感じだったわね。」
「けっこうあっという間に現世に戻って来れましたね。」
ここはアヤの家の前。アヤはマンションの一室に一人で暮らしている。雨は相変わらず降っており、今夜は台風になりそうだ。
「この雨が過ぎるのはいつなのかしら?」
「もうだいぶん暑いですからね。もうすぐ梅雨が明けますよ。」
「ヒエンはこれからハコ村へ行くの?」
「ええ。アヤさんも来ますか?」
ヒエンの問いかけにアヤは首を横に振った。
「私はいいわ。関係ないしね。それよりも行きたいところがあるから。」
「そうですか。じゃあ、ここでお別れですね。色々助けていただきありがとうございました。兄妹共々、これからアヤさんの手助けをいたします!」
ヒエンはまたビシッと頭を下げる。
「あー、そうね。うん。わかったわ。私が本当に困ったら助けに来てもらおうかしら。」
アヤはてきとうに答えたがヒエンは目を輝かせていた。
「ぜひ!」
ヒエンは目を輝かせたまま、アヤに手を振ると去って行った。
……はあ……やっぱり神でまともな神に会った事ないのよねー……。まあ、何がまともなのかよくわからないけど。
アヤはヒエンが走り去った方向とは逆の方向へと歩き出した。大通りから裏道へ入り公園を通り抜けて大きなスーパーを横切る。今日は大雨だからかあまり歩いている人を見ない。
「……いるかしら?」
アヤはスーパーの裏に続く長い階段を見上げた。遠くの方に鳥居が見える。この裏道はほとんど人が通る事はない。静まり返った裏道に雨の音だけが響いていた。
アヤは階段を登っていく。階段の周りには紅葉の木が植えられているが今は真緑の若々しい葉っぱがついている。
この階段を登っていると山を登っている感覚になる。都会の中の緑。そしてここはやけに神秘的な雰囲気に包まれていた。
……まあ、ここにいる神はてきとーでいつもごろごろしてて……
気がつくと鳥居の前にいた。山の頂上にあるこの神社は日穀信智神が住んでいる神社だ。
アヤは鳥居をくぐる。
「誰だ?」
すぐに男の声が聞こえた。
「私よ。」
「なんだ。アヤか。」
「なんだって何よ。人が心配して来たってのに。『キツネノカミソリ、花言葉は再会』って草姫が言ってたわね。」
「心配?再会?花言葉?草姫?何言ってんだ?おたく。」
アヤの目の前にスタッと男が降ってきた。金色の短髪にキツネ耳、赤いちゃんちゃんこを着ている青い瞳をしている男だ。
「そうよ。ミノ。」
男は日穀信智神、皆からミノさんと呼ばれている男だ。
「おたくが俺の事を心配するなんて珍しいな。」
ミノさんの軽い発言を聞いていたらなんだかイライラと共に胸が熱くなってきた。
「何よ……。元気そうじゃない……。いなくなっちゃうかもって心配してたのに……。」
「おいおい……なんだよ……。なんでいきなり泣くんだよ?いなくなるってなんだ?いきなり存在を消すなよ……。」
ミノさんは戸惑っていたがアヤは目から落ちる涙を止められなかった。
「あなた!消えるところだったのよ!私がどんだけ頑張ったと思ってんのよ!馬鹿馬鹿!」
アヤはミノさんに抱きついた。
「ななな……え?」
ミノさんは素っ頓狂な声を上げてオロオロとしていた。当然だ。ミノさんはアヤがいままで何をしていたのか知らない。
「……あなたの過去を見たわ……。キツネの時からね。」
「ああ、なつかしいな……。キツネの時はよく覚えてねぇが。」
アヤのささやきにミノさんは切ない声を発した。アヤに抱きつかれてちょっと恥ずかしくなったミノさんはアヤを自分から離した。
「んー、えっと……なんか食うか?そういえばさっき、ニンジンを供えに来たよくわかんねぇ人がいたな……。なんか多く買っちゃったからとか何とか言って置いていってたな。ほら、これ。」
ミノさんは生のニンジンをアヤの前に出した。
「それ……供え物っていうのかしら?それからニンジンってそのままボリボリ食べろとでも言うの?」
ミノさんを眺めながらアヤは大きなため息をついた。
「ん……。そりゃあ、あれだな。野性的だな。」
「わかったわよ。なんか料理してくればいいんでしょ?私が!」
「お?本当か!」
「そのかわり手伝って。」
「ええ……。」
あからさまに嫌な顔になったミノさんをアヤは無理やり引っ張って行った。
なんか少し幸せな気分になっていた。……自分も単純な生き物だなあと感じてしまった。
……キツネノカミソリ……花言葉、再会。いい花言葉だわ……
アヤはミノさんを引っ張りながらふふっと笑った。
その日の夜、雨風が強い中、寝たアヤは夢を見た。
それは大きく育った黒松の前にヒエンとイソタケル神と天記神と草姫がおり、その真ん中に見知らぬ幼い男の子が立っている。その男の子は茶色の短髪をなびかせて幸せそうに笑っていた。
……さ、これから頑張ろうな。名もなき神、イズミ。
イソタケル神がそう言って男の子の頭をそっと撫でた。
草姫もヒエンも天記神もイソタケル神も皆幸せそうな顔をして笑っている……そんな夢だった。
旧作(2010年完)本編TOKIの世界書一部「流れ時…5」(時神編)
テーマは「後悔」です。