遣らずの雨

「世の中には天啓や啓示のようなものがあるようだ」
 紅葉シーズンで賑わう土産物屋の二階で湯豆腐を食べている客の会話だ。二人は同じ会社の同僚。
 仕事で湯豆腐を食べに来ているのではない。遊びに来たのだ。
「天啓ですか」若い方が、その話に乗ってくる。言いだしたのは先輩なので、無視するわけにはいかない。
「啓示、天啓、お告げ、何でもいい。そういうものがある」
「そうなんですか。神のお告げですか」
「まあ、それをしっかりと聞いておけばいいんだが、無視することが多い。あのとき、素直に従っておけばよかったこと、多々ある」
「多々ですか。凄く多いですねえ」
「しかし、この湯豆腐は高い」
「湯豆腐が何か天啓を」
「いや、それは関係ない。さっきから値段を見ていたのだが、これは高すぎる」
「ああ」
「いや、湯豆腐の話じゃない。天啓の話だ」
「はい」
「遣らずの雨がある」
「何ですか? それ」
「出先で雨が降ってきたので、帰りにくくなったのさ」
「傘があるでしょ」
「持ってこなかった」
「でも、傘ぐらいコンビニへ行けば売ってるでしょ。それに雨の中、長く歩く必要は、それほどないと思います」
「昔々の話だ。今の話じゃない。これは、雨が引き留めているんだなあ」
「それが天啓なのですか」
「偶然そのとき、雨が降り出す。まあ、もう少し小降りになるまで、いなさいと、相手が言う。そこで長居をするわけじゃないから、出ようとする」
「それは例ですね。先輩が実際に体験したことじゃないでしょ」
「誰かの家を訪問し、そんなことになったこともあったかもしれないけど、滅多にないねえ。この遣らずの雨は天が帰さないようにしているとみるかどうかだ」
「先輩、湯豆腐冷めますよ」
「いや、この湯豆腐は檜の湯船に入っておるので、すぐには冷えない。それに私は猫舌でね。熱いと駄目なんだよ」
「そうですか」
「我が家の近くに家電店があってねえ。自転車ですぐに行ける。ずっと狙っていたデジカメがあった。一眼レフだよ。これは持っていない。フィルム時代の一眼レフはあるんだが、今は使っていない。やはりデジタルでないとね。それを買う決心が大変だった。高いからねえ。それに家族に見つかる。大きいからねえ、ポケットに隠せない。それに買った限り、リビングでじっくり触ってみたい。家内には何となく買うような伏線を何発もかましている。だから許してくれるはずだ」
 後輩は下を見て、湯船の湯豆腐を箸で挟んでいる。
「やはり普通の割り箸がいいですねえ。こんな上等な塗り箸は駄目ですよ」
「そうじゃない。スプーンが付いておるだろ」
「あ、なるほど、これを使うんでしたか」
「二ヶ月」
「あ、はい」
「二ヶ月の間に、五度決心し、買いに行こうとしたが、その手前で辞めた。家内への伏線が足りない。フラグが立っておらん。だから、その流れに乗せるには、もう少し仕込まないといけない」
「あのう」
「何だ」
「遣らずの雨はどうなりました」
「すぐに出る。この後だ」
「はい」
「いつも未遂で終わるので、今度は大決心をした。高い一眼レフを買った後での周辺での影響も、もう無視することにした。大決心だ。それをやり、開店間際に突っ込むことにした」
「うちのポン酢の方が美味しいですよ」
「聞いておるのかね」
「聞いています」
「では、続ける」
「はい、ゆっくりどうぞ」
「今度こそ買って帰るとね。そして、家を出た瞬間、俄雨だ。しかもかなり強い」
「それが啓示ですね。天啓ですね。やらずの雨ですね。買いにやらさない雨ですね」
「来たな、と私は考えたが、無視して傘を取りに戻り、そして再出発した」
「強引ですねえ」
「買わずにはおれん。そのエネルギーを発散させないと、病気になる」
「そうですねえ。ストレスですよね」
「再出発は我が家の軒下から。そして雨。留め雨だな。遣らずの雨のようなもの。しかし私は無視し、家電店までずぶ濡れになりながら辿り着いた」
「傘を差していたのでしょ」
「それほど強い雨だった。パンツまで濡れたよ。天啓の凄まじい警告だよ」
「それでも買ったのですね」
「ああ、買ったとも」
「よかったですねえ」
「よかったのはそこまでだな」
「はあ」
「家に帰ってから大変な騒ぎになった。あれほど張っていた伏線。つまり、私は近いうちに一眼レフを買うであろうということを、何度も何度も何度もかましていた。その伏線がことごとく効いていなかったらしい」
「奥さんともめたのですね」
「家庭の事情はこれ以上話さんが、やはり……」
「やはり?」
「あの雨が天啓だった。啓示だった。お告げだった」
「そうですねえ、天が止めたのですからねえ」
 その先輩は、鞄から一眼レフを取り出した。
「これがそのカメラだ。紅葉を一眼レフで撮したい。それで買った。今日はハレの日なんだ」
「よかったですねえ。目的を果たしたんですから」
「しかし……」
「何かまだ不満でも」
「いつものコンパクトカメラのほうがよく写る」
「そんなことないでしょ」
「いや、思ったほどの凄い写りじゃない。ズームが伸びないので超望遠が出来ない。やはり天啓は正しかったんだ」
「先輩」
「ん」
「湯豆腐冷めますよ」
「うむ」
 
   了
 

遣らずの雨

遣らずの雨

「世の中には天啓や啓示のようなものがあるようだ」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-07

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