天聖の門  白銀の扉 ~アムルの章

***


「そんなはずない。そんな、夢見など、信じない」
 主座にいるアムルは、族長イオンに向かって叫んだ。
ザーロ種族。彼等は族長一族を族家と呼び、一心に尊んでいた。それは、このザーロ族家は特別な血を引く者が長の座を受け継いでいたからだ。
 特別な血。純血の血族と拝される稀代の呪い師。族家の敷地内で密かに育まれ、成人するまで人の眼に触れることが無かった。
族家が住まう館。この館の広間に、長一族と彼等に仕える者達は整然と拝座していた。
この日、族家は隠し育てていた主座に就く純血の血族を披露した。それが、アムルである。まだ成人前のアムルを披露したには訳があった。それがアムルを震えさせた。

――純血の血族――。
それは、この大地を創った聖馬族の末裔、奇跡の業を括る者。

族長であるイオンが放った夢見の言葉に、族家臣下は驚きの声を上げた。それは、耳を疑う言葉だった。その言葉を真っ先に拒否したのは、漆黒の髪を持つアムルだ。族長の隣に座ることを許された少年に悲しげな紫の瞳を向けたイオンは広間に座する者達に向かって言った。
「おそらく、一月の間もないだろう。後は、掟どおりアムルが継ぐ。高官吏はそのまま、ガイルとエド。他の者もそのままの役処を任す」
族長の高座に座るイオンの声は、透き通るような細く美しい。
「嫌だ。私は、族家など継がぬ。私は‥」
声を詰まらせ、懸命に否定するアムルの取り乱した声が広間の吹き抜け消えた。幼さの残る甲高い声だ。
「私は、聖馬族だ。精霊を守ることが使命だ」
――聖馬族――。
その言葉が、アムルの身体を突き抜けた。宿命がある。精霊を守るために生まれた身ゆえ、隠棲を強いられた。やっと館に部屋を与えられた。その日、初めて族長イオンにあった。抱き締められた暖かさに泣きじゃくった。
 その暖かさが大地に捧げられる。再び一人ぼっちになる。
肩に掛かる漆黒の髪が聖馬族の証。純血の血族はその生命を終える前に、髪が銀色に変わる。
イオンの鬢髪が、すでに銀色に変わり始めていた。
「この髪が、銀色に変わればもう人ではない。精霊の命に従う聖馬だ。ダサイサの地に精霊が現れ助けを求めている今、使命を全うせねばならない」
「誰が、私を守る」
見開いた紫の瞳に涙を溜めたアムルが叫んだ。天に向かって叫んでいた。脳裏はしっかりと定めを理解していたが、心が失う者の価値に焦燥していた。同じ種であるイオンには、アムルの嘆きが伝わっていた。
「ダザイサの地は、滅びに向かっている。ダザイサにいる呪い師達は、それぞれの技で同じ夢見に見解を得るだろう。二十年前、一族が滅び、四族となった。五族で保っていた均衡が破れ、精霊が姿を見せることも少なくなった。このザーロの地にも精霊を守ることを勤めとする血族の誕生を見ることが無くなった。おそらく我らが最後であろう。それでも精霊を救わねばならない…」
イオンはアムルの肩を抱き涙に濡れた頬を拭いた。そして、皆に向かって言った。
「絶やしてはならない。聖馬族が、居なくなれば、精霊が再び、現れることが無くなりダザイサは人の住む地ではなくなる」
そのために行く。幼い長を守ってくれと、銀色の鬢髪を風になびかせたイオンは館を後にした。

1. 風の大地

 天が泣いている。
人々はそう思った。天から水の粒が降ってきたのだ。ポッツポッツと大きな水の塊が落ちてきた時、人は大地の終わりと思った。しかし水の塊が勢い良く落ち始めると精霊族が同胞のために泣いているのだと感じた。
終わったのだ。戦いが…。語族を二分しての戦いは終わった。
ここはダザイサ国の南に位置するチナ種族都邑ペトラカ。戦いの収束の場となった族長館内。
「私が初めて外の世界に触れたのは、族家を継いだ日だった」
アムルはここで初めて笑った。少女のような笑顔だとドルバン族の隷属コリンはそう思った。
彼はこのひと月道中を共にし、アムルの身の回りの世話をしてきた。が、微笑む顔を見たことが無かった。明日になれば、故郷に向けて旅立てる。その喜びが笑顔をつくったのかと湯に浸かる姿を見入った。
「私は隠れ屋で育てられた。乳母と数人の呪い師が世話をしてくれるだけで隠れ屋の外に出たのは先の族長が精霊のために命を捧げると知った日だった。私が族家を継ぐと知った日…だ。精霊がいて聖馬がいる。精霊を守ることが聖馬の役目だと資質が教える」
ゆっくりと湯から上がる姿態は衣を纏っているが、眼を引き付けられる美しさがある。コリンは腕を差し出してその身を支えた。
――肌に触れてはならん――
ザーロ族宰相ガイルは、そう忠告した。
ルーヌ草原でダザイサ種族を二分した戦いが始まった日、多勢に無勢のドルバン族が苦戦を強いられている中に軍勢を引き連れて現れたのがザーロ種族だった。
軍を束ねていたのはコリンより三・四才若い、まだ十三・四歳ぐらいの漆黒の髪を持つ色の白い美しい族長だった。
族長の名はアムル。大柄の二人の呪い師の間に立つ少年が、稀代の呪い師だと知るのに時間は掛からなかった。
「お前は御方の眼に止まった。側に侍よ。だが、警告する。お目を止めることも叶わない特別な血筋のお方だ。触れる時はお布を持て、問われた時だけ口を開け。おまたせするな。異変があれば我ら二人が駆け付ける」
強い語気の宰相二人も稀に見る呪い師だと風体が伝えていた。
いつの間にかドルバン族長の天幕の中に引き寄せられ日常の賄いをするようになったコリンは、ザーロ族長の天幕にも足を向けた。そしてザーロ族の少数軍が、精鋭部隊であることを知った。
大群を率いるパルナ族とチナ族に圧され危機に貧していたドルバン族を援護する小部隊が現れた。彼等はパルナ軍を蹴散らし負傷したドルバン族長エルグを救った。このエルグが戦いの根源だった。そのことを知らないのか刀傷で瀕死にあるエルグを少年のザーロ族長は救った。
奇跡の業を目の当たりにしたコリンは、静かに跪いた。そして、頭を垂れた。
遵奉のお方。コリンの胸は高なった。
ルーヌの荒野で起きたこの戦いが、伝説の愛を生んだ。そして二人の義兄弟を、巡り合わせた。
奴隷の子として生まれ傅き尽くすことを喜びとするコリンと族家の長子として生まれながらに傅かれてきたエルグ。この二人の異母兄弟は、彼等の大地ダザイサに数多くの口伝を残す。精霊と聖馬が戯れに創った極寒の地は、彼等の愛で新たな伝説を作り上げる。
ドルバン族長エルグはこの夜、チナ族領ペトレカでダザイサの王となった。だが、彼の心中にはダザイサを見詰める気は無かった。形式だけがエルグの上を通り過ぎて行った。彼の心はドルバン族主要ボアーム都邑族家、エルグが住まいする館広間にあった。そこに眠る者、それを抱き締めたい。一刻も早くと願っていた。酒宴の席は朧気に過ぎていった。当然のことながら、酒宴に無縁のアムルは湯泉に浸っていた。コリンは静かにそれを見守っていた。


湯から上がったアムルは、肌に張り付いた長着を脱いだ。驚いたコリンだが、言われるままに平然と座る背に張り付いた髪を解いた。真っ黒い髪がシミひとつ無い真っ白い肌をより白く輝かせていた。触れてはならないと思う手が震えた。髪を編む指が肌に触れ鼓動が息を止めた。やわらかな感触がもう一度それを確かめたいとコリンは息を飲む。
「感じるのか。コリン」
不意の言葉がコリンの動きを止めた。
「生きる証を持っている。私には与えられないものを…」
振り返った少女のような顔が、コリンを見上げた。薄紫の瞳が濡れたように輝きを放ち目前にあった。赤い唇がゆっくりとコリンに迫りその手は逃げるように顔を逸らした髪を包む布を外した。
「髪を伸ばしてコリン。もう短く刈る必要はなくなった。貴方はあなたのままで…。自由に生きられる」
「自由‥‥」
「エルグ殿は、貴方を奴隷から開放する。貴方だけではなくルーヌ族、すべての者を解放するだろう。ドルバン族でもルーヌ族でも、好きに生きていける」
「ドルバン族…?」
「貴方の父親はドルバン族、母親はルーヌ族。ルーヌへ帰るのか。種族を率いて…」
「ルーヌ…」
コリンは考えた事が無かった。ドルバン族の地で生まれドルバン族の奴隷として育った。父も母も知らない。今は族長エルグの叔父イルミが主だ。主の命で戦いに参加したのだ。自らの意志では無かった。奴隷の一人と命ぜられるままに族長の側に侍った。そして、ザーロ族の若い族長に魅入られた。
コリンは初めて見た呪い師の業に喫驚した。刃物傷矢傷を瞬く間に修復する業、熱を取り去る業。悪夢に怯える心を取り戻す業。
野営地に張った天幕の中でアムルと側近の呪い師は奇跡の業を繰り返した。
コリンは水を汲みに沢へ走り、桶に水を満たした。そして、眼を見張った。業を施した白い腕が冷水をお湯に変えた。何度も清水を泡立たせる身が夜半まで必死に業を施しコリンの腕に倒れ込んだ。それがザーロ族の宰相の一人若い呪い師エドを怒らせた。
――触れるな。下賎の者が触れられるお方では無い――
触れられる方では無い。確かにそうだとコリンは思っていた。だが心とは逆にアムルはいつも側にいた。
今もそうだ。側にいることが自然だった。
「三月後の満月に精霊の使い女がザーロ領ダグ山脈のフロルの泉に立つ。もし使い女が漆黒の髪を無造作に垂らしていたら逃がすな。白銀の髪の娘ならそのまま見送れ。いいな。漆黒の髪をしていたら捕らえよ」
そう言ったアムルは、右の中指から緑色の石が付いた銀色の指輪を外した。それは、コリンの左の小指にはまった。
「貴方の声を聞きたい。貴方の笑った顔が見たい。何を言えば貴方は声を上げて笑うだろう。貴方に愛を誓いたい。そう言うと、貴方はもっと困った顔をして怯えた瞳で私を見る。分かってはいるが、今それを伝えたい。今言わなければ、明日はお別れだ。笑ってくれ。コリン」
瞳を見開いたままのコリンは、何も言えずにいた。息が掛かるほど間近に、声を聞いていたからでは無かった。少女の面差しが、綻ぶ乙女の面へと変わったとはっきり感じ取ったからだ
腕は脳裏が刻む忠告の言葉とは逆に、細くしなやかな身体を抱き締めていた。そして心が馳せるままに唇を重ねていた。
「誓って良い。私が愛する人は…貴方一人。永遠の愛を…誓う」
「僕が自由を得たなら貴方のために生きたい。貴方に一生仕えたい」
この時、コリンは真実そう思った。この少年に忠誠を誓い生涯仕えたいと…。
だが、瞬時弾けるようにアムルの身体から離れたコリンは、瞠目の眼差しを揺らしそれを見詰めた。


チナ種族ペトラカ都邑族長館内大広間。ドルバン族長エルグの前でチナ族長ラウィルは自分の非を認めた。彼はパルナ種族族長のように死を持って戦いを終わらそうとは思っていなかった。
「真実を知りたいのです。我らの地に住む呪い師は予見した。元凶はドルバン族長、貴方様だと…。我らは敗れた。真実は何処にあるのですか。ドルバン族が風の大地を滅ぼした時、五族で保っていた均衡が崩れ、精霊がこの地に現れる事がなくなったと聞いた。そしてやっと現れた精霊をドルバン族長が死に追いやった。それが何故、この戦いを勝利出来たのだ。我らが滅び、滅びるはずのドルバンに栄光があるのだ」
ラウィルは声を荒げて叫んだ。その問いに答えたのはザーロ種族官吏呪い師ガイルだ。
「すべてが真実だ。元凶は確かに、ドルバン族長エルグ殿だ。だが、エルグ殿を死なせる訳にはいかない。何故なら、精霊はエルグ殿の帰りを待っているからだ。ボアームの館で風の大地ルーヌの呪い師に守られ深い眠りに付いている。貴方が反する心がなければ終息する。次の満月までにエルグ殿をボアームにいる精霊に合わせたい」
「精霊は死んだはずだ。」
「エルグ殿を待っている」
「嘘だ。我らが業師は見た。精霊の死を…」
「ザーロの聖馬が命を救った。旅立つ日を待っている」

チナ族領ペトラカ都邑、族長ラウィルの館。終息の喜びで賑わう館の奥、騒ぎの届かない湯殿でザーロ族長アムルとドルバン族の奴隷コリンはいた。
「私は誰かのために髪を結い、その人の背を流しその人の髪を洗いたかった。囚われの身でも、隠れ屋に押し込められ一生を送っても良い。愛しい人といられるなら…」
アムルはコリンの髪を洗った。コリンに反する心は無かった。背を流す手を止めなかった。コリンと共に湯に浸かるのはザーロ族長アムルでは無かった。惜しげもなく裸体を晒す乙女だった。
呪い師が見せるまやかしの業。それで良かった。これほどの喜びが何処にあろう。コリンは彼の片手がすっぽりと入る小さな形良い乳房に触れた。そして頬を寄せた。涙が滴り落ちた。
小さな乳首。唇は、それを撫で口に含んだ。
心が詰まる想いに喉を鳴らした。
「真実誓う。コリン、貴方だけに愛を誓う」
コリンは何度も何度も頷いた。そして求められるままに唇を重ね、柔らかな肌を求め欲情のままに高なった感情をその身に沈めた。
何が起きたか分からなかった。少女の姿のままのアムルが腕にいた。笑みを浮かべた顔が静かに瞳を閉じていた。身動きしない身体は波打つものが無かった。
乱れた髪を解き長衣を着せたコリンはその身体を抱き上げて湯殿を後にした。
血相を変えた二人の呪い師が掛け来る姿がぼんやりとコリンの視界に入った。その光景はゆるやかに消え去った。コリンの身体は同じ奴隷族の呪い師ヤパスに抱えられドルバン族長エルグの眼の前に運び込まれた。
「ザーロ族長を汚し死に追いやった者です。種族の絶対的存在、純血種を死に追いやった者を彼等は許さない。ドルバン族に宣誓布告も余儀ない。コヤツの首を跳ねて直ぐにザーロ族に和解を…。一刻の猶予もなりません」
ドルバン官吏等は声を揃えて言った。
この戦いでザーロ族の呪い師の業も兵士の強さも身に沁みて分かる官吏等は青ざめ怯えをはっきり押し出していた。だがヤパスの腕が抱く少年を一目見たエルグは震える腕を差し出していた。
明るい栗色の巻き毛。幼くして逝った妹と同じ色の髪質がエルグの腕に抱きとめられると一瞬眼を開けた。その瞳の色は、父親と同じ澄み切った空の色だった。
更に少年の面差しを知っていた。身近にいた奴隷の少年の面差しは眷属の物だ。失ってはならない者。エルグはそう感じた。

2  金の三角錐


「国がやっと一つになったというこの時期に、混乱を招くような対応は出来かねます」
宰相のアクトがきっぱりと言ってのけた。アクトは呪い師では無い。予見も業も持たない彼を頼れないとエルグは感じたが、半人前のタヘタ呪い師ヤパスの業で血の縁を探り得るか疑問があった。
「その通りだ。ザーロ兵の強さは十分に知り尽くした。戦うは不利だ。和解が一番の得策。」

「一刻も早く凱旋したい。それはザーロも同じはずだ。満月までに態勢を整えなければ・・・。彼等の決断の方が早い。だが、鵜呑みには出来ない。素直に彼等の言い分を通せば、呪い師を持たない我らは巻かれるだけだ。館にいる精霊が異境に旅立たれれば、ザーロ族が我らに屈する理由がなくなる。属領とするために挑んで来られたら勝ち目は無い‥」
エルグとは違い側に侍る官吏達は奴隷であるコリンの血を重視しなかった。
それ故、ザーロ族呪い師がコリンを罪人として幽閉すると聞いても配する心は無かった。
「純血の血族である我らの族長を汚し、そのお方を死に追いやった罪は重い。一生を墓守とした幽閉する。ドルバン族長には異議ないと察するが…異義あればこの場で伺う」
ザーロ族の筆頭呪い師ガイルがコリンの腕を掴むと言った。コリンの指に緑色の指輪が光っていた。
「アムルに貰ったのか」
ガイルは静かな口調で言ったが、弟の呪い師エドは慄然とした心を隠せなかった。
慌てて指から外そうとする仕種を止めたガイルが静かに言った。
「アムル様の意志だ。受け取っておけ」
「それでは、俺からこれを・・・。アムルに」
コリンは懐から小さな三角錐を取り出すとガイルの目の前に差し出したが、エドが横から取り上げ床に放り投げた。チリリンと鈴のような音がしてタヘタの呪い師の弟子ヤパスの足元に転がった。
「呼び捨てにするな。こんな物、何になる。アムル様は、生き返りはしない。・・・こいつを引っ立てろ」
エドのその怒りはザーロ族すべての人が、表さずにはいられない怒りだとコリンは感じた。コリンはされるままに後ろ手を縛られ荷馬車の後ろに乗った。
「我らは時を急ぐ。聖馬族の遺骸は満月の夜に泉に捧げなければならない。我らは最後の純血種を失った。この報いは必ずドルバンの上にも訪れる。その日の覚悟を決めて事に望まれるがよろしかろう」
ザーロ族は去った。罪人であるコリンを連れて…。
 新月の細い月が西の空にあった。

帰路を目指す。ザーロ族もドルバン族もルーヌ草原を行かなければならない。広大なルーヌ草原。ルーヌ族の大地。風の巫女を祭った大地に戦いの後が生々しく残っているはずが、墳墓が整えられ香木の煙に包まれていた。
ドルバン族を率いその場で馬を止めたエルグは東の彼方を見た。彼等の仕業と、両手を合わせた。
遺骸はエルグ達の帰りを待っていた。香木を燻し死者に祈りを捧げる人の心は悲しみに打ちひしがれていた。従兄弟のセルの遺骸もその中に横たわる。失った者の価値が身にしみていた。
ボアームの族長館に戻ったエルグは、そこにも漂う香木に涙を拭くと広間の一角に座った。そこに眠る身体を抱き締め、帰ってきたと告げた。
 それから、その場に座る者達に声を掛けた。
すると、口を開いたのはルーヌ族の呪い師ガルマだ。
「ザーロ族の動きは早かった。草原から狼煙が上がった時、我らの方も急いで人を集めルーヌへ向かった。すでにそこに、彼等がいた。それが役目と言わんばかりの働きぶりだった」
「敵にまわしたくない部族だな。だが、厄介な事が起きた」
「厄介な事と関係あるかどうかは分からないが、ザーロ族に新しい族長が立つと感じた」
エルグの眉間が動いた。瞳を落とした彼は精霊の寝顔を見た。何処かザーロ族長アムルを思わせた。
「聖馬族の血を引く最後の長が死んだ。だが、死の理由が分からない」
「ザーロは純血種を失った。まさか、そんな一大事を族家が見逃すわけが無い。純血種は両性体だ。女人化して子孫を継いでいくはずだ。種を残さず・・・死ぬなぞ。ザーロ族長一族が許さない。自らの命に替えても阻止するのが本望と知り得ている・・・何故だ」
瞬時。顔色を変えたエルグは叫んだ。
「ヤパス。タヘタのヤパスを呼べ」
エルグの脳裏にザーロ族官吏呪い師ガイルの顔が浮かんだ。彼は冷静だった。静かな眼差しで奴隷の少年コリンを連れて行った。
「大切な者を奪われたのかもしれん。いや、そんなはずは無い。だが、アムルはコリンを気にいっていた。あのコリンは・・・、あの少年は誰だ」
「コリン?ルーヌ族の奴隷の子か」
その言葉を放ったのはイルミだった。エルグの叔父のイルミ。父親の面差しを持たない細面の彫りの深い顔立ちと細りした体型の初老の男が人中からゆるりと現れてはエルグの前に座った。
イルミは族長であるエルグに深々と拝礼し、彼等の横で眠る精霊にも深く拝礼した。それから、精霊を挟み瞑想にあるルーヌ族の呪い師ガルマに会釈すると口を開いた。
「我が家の奴隷だ。セルに追従させたが、何かやらかしたならわしが責任を負う」
「コリンはお前の子か」
エルグは問うた。水色の瞳が真っ直ぐにエルグを見詰めた。その髪は栗色の巻き毛、すでに隠居の身の彼は鬢髪だけを三編して後ろで止め無造作に髪を垂らしていた。
「いいえ。身に覚えはありません」
その通りだろうとエルグは思った。イルミは父親とは違いボアームから外へ出ることがない。温和な気性が孫のセルを思い出させた。
「誰の子だ」
頭を垂れたイルミは首を振った。ザノフの子だと言えたら良かったが、分からない。それが奴隷の子だ。親と引き裂かれ税と紛れてやってくる。生まれた地からそのまま都邑であるボアームに送られて来る子は珍しい、ほとんどが各地を点々と送られてここに着く。
道端で泣いていた奴隷の子に何故か眼を止めた。手足を彩る打たれたであろう傷が生々しく目尻が熱くなって問うた。髪を切れと言われたと幼子は言った。見事な巻き毛だった。抱き締めると温かい、無くした子が帰ってきた心地で買い取った。孫のセルを失った今、コリンを養子にしたいとこの場で願い出るとイルミは決めていた。そして、その事を口にした。
「養子か・・・」
エルグはそう呟いただけで、口を閉じた。そこへ、ヤパスが現れた。
ヤパスは拝礼したまま広い板間を進みイルミの後ろに控えるともう一度深く拝礼した。親族臣下でなければ広間の敷居はまたげない。奴隷の身は廊下で儀式を見守るだけの習わしだが名指しで呼ばれた以上は、族長の前に姿を見せなければならない、顔を見てはならないと暗黙の決まりがあった。声が掛かるまで待たねばならない。
だが、声を上げたのは瞑想にあるガルマだった。
「ヤパス。お前は何を懐に仕舞っている」


ヤパスは懐を探った。そして指が触れた物を目の前で揺らした。それを見たガルマが息を飲んだ。
そして、両の手が包んだ物を額に押し付け深く息を吐いた。それからしばしの間、掌に哀愁の瞳を向けた後、口を開いた。
「これはルーヌ族の、巫女の耳飾りです。これには、仕掛けがあるのです」
そう言ったガルマは、三角錐を袖で磨き上げ指で弄った。
それを見たエルグは声を上げた。そして素早く立ち上がると戸口から姿を消した。間を置かず現れたエルグの手には金色に輝く同じ三角錐があった。
「これを何処で・・。これもルーヌ族の耳飾りです。それもこれは、風の巫女の物。エリカナ様の血を引くお方が健在なのか」
エルグは首を振った。
「では、片方を持っていたのは・・・。誰が持っておったのだ。ヤパス。まさか、そちの持ち物と言うわけではなかろうな」
コリンとは言えないヤパスは問うた。
「これが何の意味があるのですか。師匠様」
「ルーヌ族のくせにルーヌの古史も知らんのか。ルーヌは風の大地と言う意味を持つ。そしてルーヌは風の巫女が代々祭り事を行なってきた。巫女はダザイサの大地に立つ五つ柱を見る事のできる方だ。天と地を支え立つ柱の中心となる風の門を守る巫女。風の巫女の印が五角。三角錐の中央にある。確かにルーヌ族家に伝わる物だ。乙女となった娘が耳に飾り夫となる方に片方を渡す。夫は仕掛けを閉じ首に飾る。そして娘へ譲る。エリカナ様は娘子がおられた、その方の夫となった方が持ち歩いたか、娘に譲られたか」
「耳飾りを持っていたのは先の族長ザノバ、父だ。もう片方を持っていたのは誰だ。ヤパス」
エルグは頭を下げたままのヤパスに言った。
「コ、コリン・・・」
「やはり、弟だったか・・。アムルは知っていた。コリンが義弟だと・・・。それだけでは無く風の巫女の孫だと知っていただろう。あの二人の呪い師達も・・・」
二つ揃った耳飾りを握り締めたエルグは震える声でそう言った。つかさずイルミが呟くように言った。
「そうか。兄じゃのせめてもの救いは、我が子に名を付けた事だな。族長は我が子とは知らず二度あの子を抱き締めている。奴隷の子に名は無い。主が名をつけるまで・・・。コリンと名をくれて抱き締め巻き毛を撫でた。もう一回はマリナ様が輿入れされた時だ。酔った域でやって来た。コリンが大きくなったら嫁を見つけてやると叫んでいた。その子が、我が子だったとは・・」
イルミの憂いよりガルマは必死の形相を呈していた。一大事が起きた。種族の長になる人が見つかったのだ。だがヤパスの思考を読み取ったガルマは、長となるべき人が奪われたと悟ったのだ。
取り戻さねばならない。種族の復興のために象徴となるべきお方を取り戻さねばならない。その硬い決意を奴隷地区タヘタに住まう呪い師達に予見の業として送った。

3 使い女

コリンの意識が周りの気配を感じ取った。
満月が山間にあった。記憶の中では確か新月だった。チナ領ペトラカを旅立った荷馬車から見えた。その後の記憶が朧だ。
磨き抜かれた板間に座る自分に気づいた。なめらかに甘茶色に光る床にコリンの身体が写っていた。堅木で組まれた格子戸が見えた。広い板間の側面は丸太を縦に組み合わせた板壁だ。高い天上のその上に格子の明かり取りの窓がある。牢獄かと、一見した脳裏は感じた。が、後ろを振り返り隣の間を見た瞳は違うと悟った。
隣は寝間だ。寝台が見えた。天蓋を備えた堅木の寝台と毛皮で覆われた椅子。そして小机の上に玉飾りと飾り紐が色鮮やかに整列していた。
さらに奥には開き戸が開いていた。コリンは何も考える事無くその開き戸を抜け階段を降りた。
何故かその通路を知っていた。階段を軽い足取りで下ると湯気の中へ吸い込まれた。
湯殿だ。岩屋に溢れ出る白く濁る湯は嗅ぎなれない匂いを漂わせていた。
中に少女がいた。見知った少女。服を脱ぐと少女が着せかけた長衣を羽織り湯に浸かった。裸体の少女も湯の中に浸かった。そしてコリンの横に並んだ。形良いふっくらとした乳房がコリンの目前に湯の中から現れた。乳房に触れた。指が柔らかさを確かめると口に含んだ。舌は夢では無い確かな味を確かめると強く吸った。少女の指がコリンの肩を強く掴んだ。
はっとした感覚で、夢から飛び起きた。
跳ね起きたコリンは、周りを見回した。
寝台にいた。見慣れない場所。天蓋の仕切が揺れ、朝であろう光りが溢れ鳥の声がしていた。
「おめざめですか。旦那様」
少女の声が言った。天蓋を開けて現れた少女は湯殿にいた少女だ。
「誰だ」
「お忘れですか」
少女はそう言った。コリンは首を振った。少女は何も言わず、裸体に長衣を着せると帯を結んだ。その手がコリンの髪を梳いた。
「ここは何処ですか。僕は何をすればいいのですか」
少女の手が止まるとコリンは問うた。少女は指差した。隣の板間を。
「あそこを磨けばいいのですか」
そう言ったコリンを少女は驚いた様子で見たが、直ぐに両手を床に付いて深々と頭を下げた。
「旦那様が主でございます。賄いは全て小間使いである私がいたします」
「僕は奴隷だ。僕の主はドルバン族長の叔父上、イルミ様だ。いや、今はザーロ族の罪人だった」
ここはザーロ族領の何処かだろうとコリンは聞いた。
「ザーロ族家の北麓の一角です」
そう言った少女はコリンの手を取ると格子の窓へ導いた。そこが崖の途中にあるのだと目下の風景で
分かった。やはりここは牢獄なのか。
「アムル様は私達の長。旦那様はアムル様と契を交わされたお方。それ故、旦那様は私の主にあらせられます。主を、旦那様を得られた事を感謝して忠誠を貴方様に・・・」
少女は瞠目のコリンに拝礼した。そしてまた口を開いた。
「この身は主である旦那様の物です。旦那様の命のままにこの身も命も捧げる覚悟をお知りください」
コリンは少女の名を聞かなかった。ザーロ族に奴隷はいないと知りながらも少女の口調が隷属を感じさせた。名を付ければ側に侍る、そんな気がして身を引いていた。

だが、一巡もせぬうちに少女がザーロ血族の眷属だと気付かされた。寄り添うだけで悪夢から解き放たれ心が癒された。脳裏は記憶を持たないが暖かな肌の感覚が残っていた。その感覚がルーヌの戦場で業師がやっていた術だと捕らえた心が名を聞いていた。
「名はソニア。所は東館真宮。姓はサーイ、官位は一位上」
ザーロ族が少女の発した言葉を聞いていたならばその場で拝礼しただろう。が、言葉の意味が分からないコリンは少女の名だけを理解した。
姓はサーイ。役職は東館真宮、東館は祭り事を行なう場所、真宮は長を補佐する役所。官位は一位から始まるとコリンが知るのはずいぶん先の話だ。その時、姓がとても大切なものだとも知るのだ。
コリンはソニアと名乗った少女と向き合った。瞳を逸らさずに見詰めた。ソニアも瞳を逸らさずにコリンを見ていた。
旦那様―。その言葉の意味が静かにコリンの胸に染みた。
朝夕の食事と暖かな湯、新しい衣服。広い板間と整えられた寝間、幽閉の身にはあまりにも優遇された環境だった。だが、静まり返った幽閉の場は焦燥と苛立ちが苦悩を呼ばずにはいられない。夜半灯火を見詰める心が理性を失う。ルーヌの大地で巡り合いペトラカの屋敷で失った身体が恋しくてならなかった。
嗚咽をあげるコリンを抱き締め、寝間へ導くのは側にいる少女だった。
悲しみで満ち溢れた心は暗黒の闇に漂っているはずが、朝を迎えていた。
朧気な記憶は憤懣を拳に託して荒れ狂った。大木を巧妙にはめ込んだ床や壁を叩き回った。拳の痛みが怒りを取り除いたが愛着は蟠ったまま叫びとなって室内に木霊した。心だけでなく全身が受け止めてくれる者を求めて闇に向かって心底から叫んでいた。嗄れた喉は言葉を失い悲しみで凍りついた胸は闇に砕け散ったはずだ。
だが、必ず朝が訪れた。光が、さえずりがコリンを呼び覚ました。それがコリンを苛んだ。
ザーロで繰り返される日常は日々最悪になった。
その日、何故か、脳裏は鮮明に記憶の糸を解きほぐした。我が身を傷つけることが捌け口になった。血を見ると心が癒された。皮膚を割いた。飛び散った血に少女が声を上げて縋り付いた。
記憶はそこで途切れたが、記憶の襞が傷を覚えていた。確かに少女のかんざしを左前腕に思い切り深く突き刺し力任せに引いた。
「傷は、傷がない」
コリンは少女を見た。彼女は、両の手を差し出していた。その手が奇跡を行ったと知った。アムルと同じ業師。
ザーロ種族は、長一族を族家と呼ぶことを知っていた。族家の中でも、純血種と尊ばれるのが聖馬の血を受け継ぐ者。その純血種に最も近い血を持つ者が血族と言われていた。
血族の眷属の少女と二人きりの日常。ザーロ族家の真の目的は分からなかったが、何をさせたいかが分かった。
立ち上がったソニアの白い太腿が目前に現れると躊躇いも無く唇を押し付けた。



「ここはアムル様の館です。だからここは旦那様の館。誰をお招きになっても構いませんが、この隠れ屋を見つけ出せる呪い師は血族の中にもめったにいるものではありません」
新月の糸のように細い月を見上げるコリンの横に座ったソニアは言った。そして、耳元に寄せた唇が熱い息を吐きかけながら囁く。
「采配は、旦那様次第・・・」
鳶色の瞳が背に手を回してきた。
「身を持って答える。生身を重ねるとその者の心を掴み取れる。これもひとつの信頼の証」
忘れないでとソニアは念を押すように言うとコリンの膝に馬乗りになった。その手はすでにコリンの心を掴んでいた。
「旦那様を取り返すためザーロ族家へやっと足を踏み入れた。未熟な呪い師がここを見つけ出すことなど出来ないと分かりきっているのに・・・。必死のヌール族のために何かして上げた方がよろしいですか。旦那様」
「ルーヌ族・・・」
冷たい風が頬を撫ぜ、温かい唇が項に吸い付いた。漏らす吐息が唇を求め重なりあった。
「ルーヌの長を・・・取り返すために、一人で・・ザーロ族に挑む覚悟を感じられます」
「誰・・」
「タヘタ・・。まだ、下級の呪い師。名は・・ヤパス」
知っていた。イルミの屋敷に出入りしてイルミの孫セルの家臣になりたいと言っていた男だ。コリンは一度も口を聞いたことが無い年長の男の顔を思い出した。
「彼が誰を取り戻す」
問うコリンに艶然の顔が声を漏らした。
「取り戻す。私達も、主を。旦那様を・・」
ソニアの唇が首筋を這い耳元で言葉ではない言葉を綴りながら身体を揺らしていく。
「記憶はこの事実を忘れる。でも、身体は覚えている。柔らかな感触をどうすれば手に出来るか。さあ、本能の中で、目覚めなさい・・コリン。さあ、コリン」
名を呼ばれた意識がゆっくりと闇に落ちた。

「コリン。コリン。聞こえるか。コリン」
名を連呼され闇から抜け出したコリンは周りを見渡した。
少女の声が男の呼び声に変わったと気づいたが、ぼんやりとした視線は目の前の男の顔を思い出すのにしばらくの間がいった。
「ヤパス・・」
ルーヌ族集落タヘタ邑で呪い師を目指すヤパスが両肩を掴んでいた。
「大丈夫か。ザーロ族家の牢で気を失っているのを見つけて救い出したんだぞ」
「牢。ザーロ・・」
「覚えていないのか」
ぼんやりとした顔付きがまだ夢を漂っていると感じたヤパスは言葉を放った。
「ペトラカでザーロ族長が亡くなった。お前が捕らえられ、連れられて行った。だから、取り返しに来た。動けるか。動けるようなら、国境を越えたい」
国境。その言葉で顔を綻ばせたコリンは何かを感じたように叫んだ。
「駄目だ。ダグ山へ行く。フロル村の泉に行く」
「追われているのに泉か・・捕まっても知らんぞ」
それでも良いとコリンは草地を歩き出した。ヤパスは深い溜息を付くと、ダグ山はこっちだと前に立った。
隷属は馬に跨がることは出来ないひたすら自分の足で走らなければならない。走る事に慣れているはずの身体が重いと感じたコリンは聞いた。石の季節からどれほどの時が経ったのかと。
「今日は白の三日だ。ペトラカのあの日から三月経った。木の葉の色が変わり始めている。ヌール族はルーヌへ帰る準備を始めている」
ヤパスは告げなければならない事があった。そして説き伏せなければならないことも・・・。黙考していたヤパスは心を決めて足を止めた。振り返った後ろにコリンの姿が無かった。山岳の険しい上り坂の途中にその姿はあった。
ザーロ都邑からダグ山を目指すにはかなりの山岳を越えて行かねばならない。このままの歩みだと籠もりの季節の前にボアームに帰り着けない。それどころか、夜明け前にはザーロ兵に取り押さえられてしまう。
小道を駆け上がり足を止めたヤパスはニヤリと笑うと、やっとのおもいで後を追って来るコリンを待った。

4 満月の泉


小道を登り切った大木の幹に隠れるようにその荷馬車はいた。荷馬車は二人のために用意されたと幌のない荷台と替え馬のない一頭だけの馬で分かった。ドルバンの隷属が使う荷馬車だった。荷台には荷馬車に似合う衣服と長旅になることを予想した食物が積まれていた。
タヘタの長からの贈り物だ。タヘタの業師達は確かな予見を手にしていると感じたヤパスは、木々の間から垣間見える天上を見上げた。星のきらめきは月光の明かりに霞んで見えた。星は流れない。暗示がないのなら目標は一つ、コリンの意向に沿うと決めた心が道幅の広い街道を見た。闇に慣れた眼は繁茂に囲まれた暗い街道の遥か彼方を見入った。そして鼻先を押し付けてきた馬を撫でコリンを振り返った。野良着に着替えたコリンが小さく折りたたんだ長衣を腰紐で括っていた。その帯に眼を向けたヤパスは神妙な顔付きになった。
紋章の縫い取りがあった。ルーヌ大地に張った天幕の入り口で、その紋章を前に見ていた。
ザーロ族の旗印ではなく、アムルの天幕の入り口に掲げてあった。ヤパスの震える手は荷台の隅にそれを押し込んでいた。心は不安で満ち溢れていた。ザーロ族家の敷地へいとも簡単に入り込め幸運と、騒ぎを起こすこと無く抜け出せた疑問を思った。それが、タヘタの業師達の手助けであると信じた。
馬もその道を知るかのように軽い足取りで一昼夜を歩き続け、夕暮れを前に目的の泉に辿り着いた。
コリンもその場所と言わんばかりの強張った表情が、泉を見詰め動かなくなった。
 
 ザーロ族領は峻険な山脈の間になだらかな山脈を幾つも持つ山岳種族だ。生活習慣は同じ隣山岳種族のドルバンとはかなり違いがあった。それは種族の要に聖馬族の血を持つ聖者を持つ尊ぶ心があるからだろう。族家に対しての尊重は計り知れない。また、族家の方も種族の民を守り抜こうとする真意も計り知れない。
族領中央を横断するように横たわるダグラル山脈。その中心に峻山ダグが天に届きそうな雄々しい姿を見せ付けていた。五族領から見る事の出来るダグ山は神が住まう霊山と崇められていた。それ故かダグ山周囲には集落が多い。そして賑わいもザーロ族家のある都邑よりも確かな活気にあふれていた。その活気あるフロル都邑の市に異種族の粗末な荷馬車が紛れ込んだとしても特に目立つこと無く通り抜けられた。
 ザーロ都邑からフロル都邑まで街道は一本道だ。その街道は更に次の山脈サイロワへと続いていた。サイロワ山脈の手前からドルバン領に抜ける道がある、そこを間違わずに行けたなら石切り場を持つガン山にたどり着くとガルマから聞いていた。しかし、街道は使うなと言われた、何かを予感してのことだろう。ザーロ族領に足を踏み入れたのは今回が初めてのヤパスは人の行き交う道を選んでいた。そして今も街道沿いにある市に食を求めて立ち寄っていた。
昨夜、月光の下に現れた者は無かった。月が欠けるまでの数日を泉で過ごし事になるのかと配色のヤパスはコリンと共に茶店に入った。そこは丸太を組み薦を被せた夏場の時期だけの、仮設小屋だ。さほど広くはない店には市の活気が分かる人々が詰めていた。奥の立食の食台の間に割り込もうとした二人だが入り口中程にある長椅子の空きに気づくとそこに並んで座った。
 ヤパスとコリンはこれまで、ほとんど面識が無かった。ボアームにいる隷属は大半の者がタヘタ集落に住み農耕を主な仕事としていた。農耕の合間に山に入り木を切り倒して籠もりの準備もした。隷属の一部の者は族家の屋敷内に住み賄いを任されていた。更に極一部が、個人の屋敷に買われていた。
タヘタ集落に住むヤパスは個人屋敷に住むコリンの日常を知らない。今年、精霊がボアームに現れて初めて顔を合わせた。言葉少なく黙って指示に従う笑顔溢れる少年だとだけ知っていた。
今、その顔に笑顔はない。凝り固まったような虚ろな瞳が、開いた席に座り込むと静かに前を向いた。
三月の投獄生活が彼の質を変えたと思うヤパスは二杯の粥を手にしてコリンの横に座った。虚ろな意識は差し出されて物に目を向けたが反応しなかった。じっと見詰めるだけだ。そこへ旅のお方と女の声が呼びかけた。 
 「これは注文の品だったのですが、余ってしまいました。よろしければ、召し上がって頂けないでしょうか」
声を掛けたのは、鳶色の瞳をしたまだ若い娘だった。娘は長い灰色の髪を後で結び、大きな盆を抱えていた。
 食事が二人の目の前に並んだ。コリンは躊躇う事無く箸を持ったが、ヤパスは躊躇った。箸を持ったことないヤパスは生まれてから今まで隷属の暮らしを強いられていた、それが二人の動作する心を分けた。
 静かに食を楽しむコリンは左手の小指にある違和感に箸を置くと指を弄った。内側に隠すようにはめた指輪の石を外に向けるとまた箸を握り食し始めた。
左手が動く度に小指に嵌めた緑色の石が、明るい光をはなった。その場にいる者達はその不思議と思える光を気にすること無く語り合い食を進めていた。
 ヤパスは膳を彩る色鮮やかな食材を見詰めたままだ。細い指が叉子を差し出した。顔を上げたヤパスは鳶色の瞳をした娘の顔が目映く輝いて見えた。
 代金はいらないと言った娘が明日も待っていますと食の入った袋を手渡した。その言葉通り翌日もその場を訪れ同じように食し娘に見送られたが、明日もと言う言葉は無かった。

 月が登った。コリンは三日同じ場所に佇み湧き上がる水で波紋を広げる泉を見詰めていた。一本の大木が茂った枝葉を大きく広げ泉の上を覆っていた。泉の周りは砂利地。まばらに生えた草が流れ出る清水と戯れる穂先を揺らしていた。
 満点の月が天上に掛かった。荷馬車の御者台で時の過ぎ行くのを待っていたヤパスは立ち上がった。そして草地を歩き繁茂の茂みが隠す泉を覗いた。
 泉は人の背の二倍程の長さしかない。泉を囲む茂みから覗くと水の中に立つコリンが見えた。もう諦めて寝るぞと、声を掛けようとしたヤパスは動きを止めた。泉の反対側に何かいた。一歩躙り寄った。すると繁茂の間から注ぐ月光は、信じられない者を照らし出した。
漆黒の髪を腰まで垂らした真っ白い肌の乙女。それはまるで――。
息を飲むヤパスの視線は、泉の中を迷わず進み乙女の手が握る太刀を片手で受けと取るコリンにある。ヤパスは身動きせず一心に見入った。周りに揺らいだ影を感じること無く、コリンのもう片手が乙女の背を掴むその仕種に固唾を飲んだ。
コリンが片手で抱くは聖馬の使い。下級の呪い師でも感じる霊気が泉の周りを包んでいた。それを感じないのか抱き寄せた乙女と影を重ねていくコリン。
――聖なる者だ、触れてはならない――。
ヤパスは叫びたかったが、それは心中だけになった。
誰かの手が口を塞ぐと腕を後ろに縛り上げたのだ。そしてそのまま荷台に転がされた。それでもあがく心は、月光の下に居並ぶ者達を見た。ザーロ族の精鋭の兵士と彼等の前に、二人の宰相がいた。それだけでも心は凍りついていたが、もう一人若い娘を捕らえたヤパスは、背に戦慄が走った。罠にはまったと感じた。

朝の光りの中、コリンの声が響いた。
「やった。アムルだ。アムルを取り戻した」
フロルの泉、茂みの中から喜びの声を上げたコリンは林間を垣間見声を無くした。
ザーロ兵士達が居並ぶ姿があった。更に、背後から声がした。
「ご苦労であった」
振り返った瞳にソニアが写った。その後ろにガイルとエドがいた。
彼等の発する雰囲気が尋常ではない。そう感じたコリンは両手の中の裸体を強く抱き締めた。しかし、瞑想しているのであろう瞳を閉じたガイルとエドが呟きを漏らすと、コリンの腕から力が抜けていくのが分かった。腕がゆっくりと柔らかな肌から滑り落ちていく。
ソニアの手が裸体の二人に衣を着せかけしっかりと帯を結んでいく。濡れた髪を拭き櫛を入れる手が耳元で囁く。
旦那様――。
身体の自由が効かない。虚ろな時間が過ぎていく。瞳だけが彼等の仕種を見詰めるだけだった。
幌馬車がアムルの姿をした乙女を招き入れた。ソニアが後に続く。幌布を閉じ馬が嘶くと車輪がゆっくりと動き出した。
コリンの脳裏が、声なき叫びを上げた。
「ご苦労だった。コリン。我等は聖馬人を取り戻した。お前の力があったからだ。その感謝を釈放で返そうと思う。これからはザーロ族の囚われ人では無くルーヌ人でもドルバン人でもお前の自由に生きられる。だが、ザーロには近づくな。お前はザーロとは無関係。この地から直ぐに立退く事を命じる。お前の友も一緒に開放する」
そう言ったガイルは、コリンの小指から緑色の指輪を抜いた。
ザーロ兵達は、幌馬車を囲み立ち去った。殿を勤めたのはエドだ。彼は渋面を割ること無く馬にまたがるとコリンに一瞥もくれず立ち去っていった。代わりに穏やかな笑みを見せたガイルがコリンの頬に手を当て、一言何かをつぶやくと駆け去った。
 コリンは立ち尽くした。溢れる涙を止めることが出来ず声を殺して泣き続けるしか無かった。

5 太古の血


 
 ボアームの族長館、主のいない東館の広間に座した夢見ガルマは唸り声を上げた。鴨居をくぐった者は確かな気を発していた、それは太古から続く特殊な血を持つ者が放つ気だった。
「コリン様です」
 広間に入ったヤパスが、声高に言った。その腕が抱え引きずられるように入ってきたコリンの姿を見たガルマは流涎の想いが一気に吹き出した。
 色白の肌と彫りの深い目鼻立ち、背の高いほっそりした姿態はひと目でルーヌ族と分かった。だが、栗色の巻き毛はドルバン族長家の血筋だ。そしてその面差しは、やはり族長エルグに似ていた。
風の巫女の血質を激しいまでに受け止めたガルマは、深く悔やんだ。これほどはっきり感じられる血の形質を同じ地に住みながら、何故今まで感じなかったのかと己に問うた。ドルバン族家の血も濃い。血が血を隠したのだとガルマは悟った。
「太古の血質は脈脈と受け継がれてきた。これからも受け継がれていく」
ガルマは、そう呟いた。ルーヌ族は長を取り戻した。風の大地で太古から続く暮らしも取り戻したと思う握り締め両の手がむず痒い。何かを予知してだろうが、確信を得ることが出来ない。タヘタに帰らねばここに長く居過ぎたと彼は感じていた。あるべき場所にあらねばならない。彼のあるべき場所は彼が定位置と決めたタヘタ集落陋屋の住まい。しかし、今は己の主である方を目の前にしている。その方を定位置につけるまではここを去れないと悲願が胸を熱くしていた。
コリンは己の持つ偉大な血を知らず怯えるような瞳を揺らして初めてくぐった族長館を見渡していた。そして、その眼は広間の中央を見詰めたまま動かなくなった。
「コリン様。如何がなされた」
ガルマは彼の前に膝を折ったコリンに尋ねた。コリンの両手には一本の太刀が握られていた。フロルの泉で受け取った物だ。
「これをあの場所に置いてもいいですか」
「エルグ殿の太刀。旅立たれる時それだけを手にされたはず、それが戻ってきたと言うことは二つに一つ。幸か不幸か・・。異郷の地のことは我が業では解りかねる」
分からない、確かに分からない事だらけのコリンだった。それでも分かる事があった。部屋の中央に光り輝く場所が見えた。その場にこれを置く。そのために、これを受け取って帰って来たのだと。
コリンは置いた。その場所が義母兄エルグの異郷に旅立った場所とは知らず。

「我等のために、あなた様を開放したのかもしれません。ドルバンか、ルーヌか、その両方か、あるいはダザイサのためにあなた様をボアームに帰されたのでしょう」
「ダザイサ‥‥。彼等は聖馬人を取り戻した。不用になった者を置き去りにしただけだ」
と、ヤパスが叫んだ。
「違う。彼等は尊敬に値する者をないがしろにはしない。唯の奴隷なら裸で打ち捨てて置けばいい。それが服を与え、髪を結った。それも族家の縁が‥‥。長に対する扱いだ。それも自分達の‥」
言葉を切ったガルマはしばらくの間、無言だった。深い瞑想が必要だった。業師の格はザーロ族家の血族達の方が優っている。タヘタに住む呪い師はほんの一握り、数も能力も比べるまでも無い。心して考えねばとガルマは平静を試みた。
「ザーロ族も太古の血筋を取り戻した。その血を大切に守っていくだろう。そのためには災となる者を打ち捨てたのかもしれない。ルーヌは長を取り戻したがドルバンは長を失った。後を継ぐ者がいない。パルナ族も同じだ・・。彼等は俺等に何をされていのだ」
ガルマの眼に床の上で緩やかな光を放つ太刀が写った。鞘にドルバン族の紋様が黄金色に輝いて瞳を引き付けた。
「人には使命がある。精霊の大地に生まれたからには託された使命がある。風の巫女はそう解く。与えれた使命は何かを先に見付けねば先へは進めない。大地は何を成せとザーロ族長アムル殿に囁いたのだろう。そして、禁を犯した理由は何だ。何故同志で無い者を伴侶に選った。何故よみがえる事を知った‥」
苦悩の裡を見せるガルマにコリンが言った。
「ペトラカの呪い師が扉の鍵を持っている」
「扉、扉って何だ」
ヤパスが叫んだ。
「風の門へ続く扉‥」
「風の門、ルーヌの巫女だけが見る事の出来るとされる門‥‥それに‥鍵があるのか」
ガルマはコリンの言葉に驚きの声を上げた。そして考え込みはっとした。見詰めるコリンの顔が無表情を呈し瞳は虚ろだ。呪者が心を操ると感じたガルマは瞠目の裡が怒りを生じた。怒りは両手を握りしめて己の未熟を思い起こし消え去った。呪い師は心を見だしてはならない。乱れた心に悪しき物が住み付き無窮の大地に生きるものでなくなる。古史はそう伝えていた。
 大きく息を吐いたガルマはコリンに聞いた。
「貴方はどなたですか」
すると居住まいを正したコリンが顔をあげると言った。
「ザーロ、サーイ」
「我等に何をさせたいのか」
「平穏を‥聖馬が望む平穏を‥我が主は聖馬人‥‥‥」
細く消え入った言葉がガルマに天を仰がせた。ザーロ族は常に神秘の中に隠れ住む種族だ。彼等は敵意を持たずダザイサを見守る。
「ザーロ族に感謝せねば、五族を守ることが我等に託された使命。そして我等も生粋の呪い師を育て上げねばならない。籠もりの季節を終えたら風の大地の再建だ。主だったものを選って、準備に取り掛からせよ」
 そう言ったガルマの表情は暗い。宰相にコリンを預けたヤパスは問うた。何を憂えることがあるのだと。
「ドルバン族は呪い師を持たない。ザーロは稀代の呪い師を持ち太古の教えを守っている。ルーヌは巫女を失い、教えもおぼつかない。長を失ったパルナ族は敵意を諸に見せている。そしてチナ族の長は名高い業師。彼は今何を考えているだろう。もしかしたら我等を、ザーロの呪い師と同じようにこの場に居て我等の心を見ているのかもしれない。彼等の方が何段も上格だ。上に立つより従った生きる方が容易い‥‥」
ヤパスはガルマの力ない言葉に返す口を持たなかった。やっと呪い師の仲間入りをした心無い彼は師を見詰めるばかりだ。その師であるガルマは一息置くと強い言葉を発した。
「わしはこの場を、離れられなくなった。風の大地を見守るのは、ヤパスお前だ」
「俺が-。タヘタには兄達がいる。兄達を差し置いてなんで、俺みたいな下端が――」
「そうだな。何故、お前なのであろう。異国の地から帰ってきた太刀と共にやってきた。大地は選る。大地を守る者を・・・・わしは、あの太刀を守る。お前は風の大地に住む者を守れ」
ガルマの指は広い板張りの中央にポツリと置かれた太刀を指差した。それは完全に闇に落ちた広間の灯火のように光を放っていた。

6 安住の地


ダザイサ五族が住むこの大地をフルゴール大陸と古史は伝えていた。峻険の山脈で囲まれたこの大陸の果てをダザイサに住む者は見たことが無かった。古史は精霊と聖馬が聖なる物を慈しむために創った大地だと伝えていた。精霊と聖馬が大地に溢れていた頃、清水が湧き出る泉の脇には香木が生い茂っていた。香木の皮は乾くと香となった。皮を剥いだ香木は夜陰を仄かに照らす燭になり人の日常に常にあった。一年の三分の一が雪に閉ざされるこの大地はしかし、五穀豊穣の実りが人々の上に約束されていた。それ故に人は峻険の山脈を越え行く必要が無かった。人の生活は太古から変わることは無かった。だが、精霊は大地に姿を現すことが無くなった。聖馬族が大地を駆ける姿を見ることはなくなった。
古史は新たな歴史を語り継ぐ。
ダザイサ王家、初代の王の名はコリン。彼の在位は二十年と語られる。その後を継いだ彼の子も在位二十年、代々ほとんど変わることのない在位で世襲されていた。
古史は各種族の呪い師が口伝として残していた。口伝は種族によって違うが、王家の歴史だけは正確に忠実に統一されていた。
真実と虚実。呪い師の修行の一つがこの二つの口伝を正確に憶え、的確に後世に伝える。真実を呪師に、虚実を大地に生きる者達に―――。

 ボアーム族館は、初代の王を迎えた。
 ドルバン族の長、ルーヌ族再建のために必要な長であり、ザーロ族長の夫でもあるコリン。若きザノフの面を持つコリンは、歴代のドルバン族長の中でも特に誠実な質と慈悲の心を持ち合わせ、人の意見に耳を傾け真剣に考えあぐねた末に実行していく。努力を惜しむこと無く、器用に与えられた仕事をこなしていった。それ故、ボアーム内治を任されている宰相のラウィルは、長い時を共に生きたいと願った。それは、長い籠もりの冬間を族館で働く者達の心も同じにした。だが、コリンの決意は違った。
「私は、春になったらここを出て行く。もう決めたことだ」
とラウィルに言った。
「貴方は、正当なドルバン族の長だ。そして、このダザイサの王だ。あなたには責任がある。その責務を放置して何処へ行かれると言うのですか」
ラウィルは強く反論した。コリンのその性格ならば責務を果たす、ラウィルには勝算があったがコリンは静かに首を振った。
「私が居なくともボアームは不動だ。貴方達がいる。私にはあの人しかいない‥」
愛に生きたい――、ラウィルはそう感じ取るとしなやかに項垂れた。
やはり同じ血。同じように愛に生きる。エルグと同じように唯一人の女性(ひと)を愛し続け、その女性のために生きる。
ラウィルも精霊と聖馬の大地に生きるに相応しい性質を持った者だった。彼は静かに拝礼した。その心には、長に対する忠臣があった。
コリンが一人で族館を後にしたと聞いたヤパスは、憤懣を胸にその後を追った。種族を捨てる。許さない行為だ。風の巫女の血を受け継いだ者が血の本質であるルーヌを目指さず種族再興の希望を捨てて出て行った。
―許さない―
悪辣な心を煮立たせ苦悩のヤパスは、ザーロ種族の都邑サイロに着いた。その顔を見るその瞬間まで怒りが沸き上がっていた。だが、コリンの顔を一目見たヤパスは込み上げる涙を止めることが出来なかった。都邑の賑に塗れたその姿がはっきりヤパスの目に写った。人混みの中から輝くように見えた姿を追った。両の手がその身体に触れた時、然りと抱きとめていた。涙が頬を滴り落ちた。
―貴男が居て俺がいる。貴男を守ることが使命だ―
と、ヤパスは悟った。
夜陰に香木の淡い緑色の明かりが照らす。ザーロ族家集落から続く草原に野宿を決めた二人は肩を並べて座っていた。コリンの穏やかな顔が言った。
「特別な場所だ。僕らでは探り当てられない特別な呪い師に守られた場所‥‥。明日、もう一度市の人混みに立つ」
「人混み‥。族家に向かわず市か」
「僕はザーロに立ち入れない。官吏の呪い師に言われた。だが、今ここにいる。彼等は禁を犯した僕を捕まえに来る‥」
「捕まったら、殺されるだけだ」
「それでいい。あの人のいるこのザーロで死ねるのなら‥」
「ザーロ種族が冷酷無比だと言いたいのか」
闇に包まれた草原がにわかに明るくなった。直ぐ近くに馬の手綱を持った女が立っていた。二頭の馬が幌を付けた荷台を引いていた。
「貴方が来てくれると思っていた。連れて行ってくれるのか」
「それが、旦那様の願いなら‥」
「アムルに逢いたい。連れて行ってくれるか」
「それが旦那様の望みなら‥。その男も共に」
コリンは頷いた。そして、言われるままに幌に身を隠すと馬は走りだした。

その場所は、香木の明かりも役にたたない闇が覆っていた。
ソニアの手が導くままに狭い入り口を潜り階段を上がった。板間だと感じた時、入り口の戸が閉まる音がした。するとヤパスが握った香木が生き返ったように明かりを取り戻し、広い板間を照らした。
丸太小屋の懐かしい場所が、香木の明かりに照らし出されていた。
「ここは長の隠れ家、主であるアムル様以外は奥の間には入れません。ご主人であれせられるあなた様を除いて‥奥で寝ることは許されません」
ソニアはそう言うと仕切の引き戸を開けコリンを中に導いた。と、後に続くヤパスを強く睨んだ。その顔は下賎の者を見る冷たい眼差しだった。
お前が踏み入れる場所ではないと強く柳眉を逆立てる顔から視線を逸らしたヤパスは板間の端に座り込んだ。蔑視される事は覚悟していた。それを承知でコリンの後を追ったのだからどのような待遇であろうと耐える決意があった。その決意が一月の間、影のようにひっそりと断崖絶壁の上に立つ庵の窓から見える光景を見つめ続けた。そして、いずれ来る日を待った。

コリンはアムルを腕に抱いた。頬に手を置くと、静かに開いた水晶の様な輝く瞳が笑いかけた。白い細い指が、何時もの習慣のようにコリンの唇をなぞった。それが、心が熱くした。自然と涙が溢れ頬を流れて落ちた。涙を拭くのは柔らかな頬だ。
すがりついた腕が首を抱き、重なった唇が教えた。腕が抱いたのは、確かにアムルだと――。
チナのペトラカで愛を誓ったアムルだ。だが、口を吐く言葉が無かった。赤い唇、薄紫色の瞳、流れる黒髪、そして小さく整った乳房、香しい匂いも全てアムルだと告げていたが、心を無くしたかのように表情が無かった。舌を失ったように愛を語らなかった。それでも腕はしっかりと、コリンを抱き締めてくれた。
それで良いと、その時は思った。しかし、日が経つにつれ異常な違和感に襲われた。アムルの形をしたアムルで無い者。玩具のような肢体。只生きているような身体を感じたコリンは叫んだ。
「違うこれはアムルじゃない。アムルの心は何処にある――」
意志を持たない抜け殻の様な身体は、朝餉を終えるとソニアに連れられ姿を消す。夕闇と共に帰ってきた。一緒に夕餉を取り、地下の湯船に浸かった。物言わぬ身体が寄り添うと一つになった。だが、心は一つにはならなかった。物言わぬ身体は、自ら動くことも無くなった。
コリンの胸で眠り、朝目覚めると腕から消え、疲れ果てた身体が帰って来ると食も摂らず寝入ってしまう。
「ここから出たい。どうすれば、出られる」
闇に明かりが灯るとコリンは叫んだ。闇に姿を表したアムルは崩れるようにコリンの立膝に顔を埋めると動かなくなった。抱き上げた身体は軽い。はじめて抱いた身体の重みはない。
二人でここを出て行く――とコリンは言い切った。すると、ソニアは冷静な言葉を放った。
「アムル様はザーロ族の長で在らせられます。族家がそれを許すとお思いですか。族家の呪い師の手から逃れる手立てを、旦那様の今の呪い師は持ちあわせてはいません。無理です」
「死ぬまでここに、閉じ込められるのか」
「それが嫌ならアムル様を捨てて出て行かれる事です。族家の縁の者は誰も止めません。族家が望むのは血筋です。アムル様は二十歳までに完全に女性化されます。そうすると役目を‥、お子を残される役目を果たされます。聖馬の血を継ぐ役目を‥。そして我等族家の呪い師は、その方を守り育む。ザーロ族家が太古より守り通してきた掟です。それを、ただ一人残った大事なお方を、他種族に譲るとでもお思いですか。旦那様の代わりはいくらでもおります。何処へ行かれても追うことはありません。ですが・・」
「アムルを捨てて出て行けと‥‥」
「旦那様の意志です」
身動きもせずに眠る身体が、催事に欠くことが出来ない役目を負っていると分かっていた。生粋の呪い師だ。ザーロの民、誰もがその身を必要としていると分かっていた。しかし、
「アムルを、置いて行けない」
「では、残られることです」
「駄目だ。ここが、この生活がアムルを蝕む。この衰弱した身体を見ろ。‥僕は何も出来ない」
「今は月の光が弱いからです。満月が近づくと月の光が特別な花が咲き、それに触れることで癒やされる・・。しかし、夏の間だけ・・大地が雪に閉ざされる雪の季節は・・・・」
「冬は、どうなる」
「聖馬は人ではない。その姿より残酷な状態を見ることになるでしょう」
「残酷・・・・」
「人ではありません。呪師。業を施し、人の命を救う。死が目前にあったとしても、呪師の本能を全うする‥‥」
「死‥ぬ‥かも‥」
「いいえ、族家には呪師に近い者が多数控えております。そのような事は起きません」
「だが‥過酷な仕事は、‥続く‥」
ハイと、ソニアは顔色も変えずに言った。
「ここにアムルを置けない。出て行く。アムルがペトラカで何を願ったか分かった。ここは、牢獄だ。夢も希望もない。暗黒の場所だ。族家の呪い師は冷酷非情なのか。アムルは人間だ。乙女だ――」
コリンは奥歯を噛み締めて言った。チナのペトラカで形を変えてまで望んだものは何だったのかをコリンは察したのだ。人として生きる。
「ここを出る。お前を殺しても、ここを出て行く。直ぐに、入り口の鍵を空けろ」
「旦那様、冷静になって‥。ここを閉ざしているのは私ではありません。要の呪い師達‥、彼等の想いがこの屋をつくる。‥でも、人の手が創ったものに完璧はありません。必ず、抜け道が‥‥」
怒りを表していたコリンの顔色が変わった。
抜け道――何処からかここへ入って来たのか分からなかった。何処かの壁に抜け道はある。だが、どんなに探しても抜け穴となる壁は見つからなかった。戸口は湯殿へ続く通路のみ、後は仕切の壁と断崖を見下ろす窓のみだった。窓からと思ったが、首を振った。
アムルを連れて行くとなれば――。コリンはソニアを見た。助けがいる――。救いを求める眼差しが顔に影を落とした。
ソニアはアムルの寝顔を確かめると、その場に立つ尽くすコリンに妖艶な瞳を向けた。
「旦那様を逃がす・・と言うこと、それは罪を負うことです。その罪に似合うものをいただけるなら・・」
女の顔が艶を綻ばせて身体を寄せてきた。
「似合うもの・・」
コリンの間近に立ち腰を合わせた女の艶然が囁いた。
「この身体を納めてくださるのなら、旦那様の御意に従いましょう」

7  贖い

ダザイサの大地に似合う者達が、精霊と聖馬の地を守る。
無窮の大地には無辜の心を持つ者達が代を重ね、太古から伝わる教えを守り継いでいく。

これが試練ならそれを受けようと、コリンはそう思った。この庵を抜け出せるのであれば、どんな命に従う。コリンはソニアの裸体に腕を伸ばした。
「次の朔の日に約束を果たします」
ソニアは事を実行した。何故にとコリンは問わなかった。呪い師の導きが必要だった。
コリンはアムルを布で包むとしっかりと身体に縛り付け、ソニアに導かれるままに漆黒の闇の通路を進んでいた。
「片手を壁から離してはなりません」
ソニアは厳しく言った。コリンもヤパスも左手を壁に付けて歩いた。通路を、階段を、押し黙ったまま、必死で歩いた。木の感触が岩の感触に変わり暗黒の間を抜けたと感じた時、滝の音と清々しい香りに包まれた。
「まだ、安心してはなりません。夜明けまでにシュア山を越えなければ、技の網に掛かり居場所を突き止められてしまいます」
 馬車を操るのはヤパス。気を張り巡らせ馬を先導するはソニア。荷台に抱きあうはコリンとアムル。
荷馬車は平坦ではない辺境の山道を選って進んでいた。その意味を中級の業師に成長したヤパスには分かった。
後を残さないためだ。葉陰のそよぎが生んだ清浄が、風に混じり業師が残した足跡を消し去るのだ。地には業師の足跡が残るが、葉揺は清浄となり業師が残した仕業を消し去る。
ソニアは本気でアムルを逃がす気でいる事が、ヤパスは不可解だった。何故種族の象徴の逃亡を手助けするのかと。それも特別な血を受け継ぐ者を‥‥。
 
荷馬車で山岳を越える道のりは、日を嵩んだ。それ故、彼らがルーヌの荒野にやっと足を踏み入れたのは、すでに満月になっていた。が、追手がコリン等の前に現れる事は無かった。
「チナに向かう。あそこが二人の始まり‥。ペトラカの何処かでひっそりと生きていけたら、それだけで良い」
 コリンはそう言った。
「何処までもお供いたします」
 ソニアのその言葉は、コリンの顔を曇らせた。
日の光は天上を行く。穏やかな風は荒野の色あせた葉束を揺らしていた。荒廃の大地が遥か彼方へと永遠と続き、山岳の影も見えなかった。遥か彼方の雲が取り巻く地平線を見詰めるヤパスは、荷馬車で行くにはあまりにも広く遠いと感じた。それでもチナを目指すコリンに付いて行くと決めていた。
ルーヌの大地には大きくゆったりと流れる二つの川があった。その一つはジュール川と呼ばれていた。それはドルバン領アロア山脈から流れ、ザーロ領シュア草原で小さな小川となった。もう一つはサイ川だ。チナからパルナ領に流れていた。ザーロからチナ領に入るには二つの川を渡らなければならなかった。
コリンはこの日、ジュール川を渡ると直ぐに野営した。何故か、アムルが奇妙な動きをしたからだ。日中、コリンの腕から離れないアムルがソニアに手を差し出したのだ。
ソニアがアムルの手を取った時だ。彼女は苦渋の顔をコリンに向けた。そして、肩を震わせたのだ。その背にアムルが縋り付く。
「私はサーイなのに‥大地はそれを許してはくれない‥」
しゃがみ込んだソニアは、啜り泣きながら太腿を拭いた。
ヤパスもコリンもソニアの嘆きが分からなかった。ソニアの心が分かったのは女の心を持つアムルだけだった。アムルはソニアにぴったりと寄り添った。

この道中一番気を張り詰め寡黙に働いたのはソニアだった。
火を焚いてはいけない――。草が焼けては後が残る――。煙を上げては居場所が知れる――。不満を持ては大気が乱れ業師の夢見に捕らえられる――。汚水は地に埋める――。食べ後を残さない――。
沢山のことをソニアはコリンに教えた。野にある草が薬草だと、馬が食む者は人も食べられるのだと教えた。更に毒草は生食出来ないが、乾食となると身体に良い物があると休息毎に地に座り込んで教えた。夜空を見上げ年中動かない星位置を指差し、方位を教えた。
ダザイサの大地に生きる動物は人を襲わない。太古から彼等の血に組み込まれた資質だと教えた。そして人にも資質があるのだと言った。資質は大地が決めるのだと‥。
「ダザイサの大地は、精霊と聖馬が戯れに創ったと古史は語ります。彼等の世界を真似て・・。でも、人は違います。異界にはいない生き物を創った。脆く儚い短命だと聖馬族は哀れみ、彼等の世界に似せたこのダザイサで生きるのは難しいと天と地を支える柱が必要となりました。五つの柱を、守るために聖馬は五種類の人を創り。五種類の人の血は入り混じったたが、柱を支える者達の資質は変わらず受け継がれていく・・」
 ソニアが語る言葉の真意がコリンには分からなかった。資質が何なのか、精霊と聖馬が創った大地が何を求めているのか、理解できなかった。
気を張り詰めていたソニアはジュール川とサイ川の間で手綱を握るヤパスの腕に崩れ落ちた。
「過労だ。食事もろくな物を食っていない上に業に気を捲らせ身をすり減らしている。休む場所を作る」
夜具の上に横たわる身体が身じろぎもせずに寝入る。その身には香油の香りはすでに無く、土の塗れ血が滲んだ手足がむき出しだった。旅に必要な下衣も脚絆も身に付けてはいなかった。ジュールの川で水浴びした以来、髪に櫛も入れてはいなかった。その髪を梳くヤパスは静かに言った。
「一緒でない方が良い。ザーロ族家も必死で我等の居場所を探しているはずだ。ソニアの業がなければ、呪い師の夢見に捕らえられるのは時間の問題だろうが、俺の業が彼等にどれほど通用するか試したい。・・二人で行け。チナの族長ラウィル殿は正義の人だ。必ずアムル様をかくまってくださる。それに、ダザイサの王も一緒にな‥‥」
行けとヤパスは言った。躊躇うコリンは替え馬と食を残すと言った。しかしヤパスは首を振った。直ぐに追手が来る。彼等に貰うと笑った。

8 風の扉


風が吹き付ける荒野は荷馬車を覆う幌が風を受け嘶く音となって野を駆け行く。風が鳴らす音はソニアを起こした。刹那に、彼女は飛び起きた。その眼に、手綱を握るコリンの姿が飛び込んだ。
「行かせはしません。私は旦那様のサーイです。お二人のお世話を・・旦那様――」
気配がソニアを目覚めさせたのか。彼女は叫んだ。
「そうか。そなたの目的は受胎。風の巫女の血を継ぐ者を生むことか」
ソニアの腕を掴んだ時、刹那にヤパスは叫んだ。掴んだ腕からソニアの宿命とも言える決意が胸を貫いた。それは衝撃としてヤパスの胸に残った。その二人の横を、馬車は通り過ぎる。
アムルを腕に抱いたコリンが手綱を握る馬車が走り去って行った。
裂帛を上げ追いかけようとするソニアと制するヤパス。
「駄目だ。行かせやしない。二人の旅立ちに、俺達は不用だ」
「お前に邪魔はさせない。アムル様を守りコリン様のお子を生むのか私の役目、そこをおどき」
ソニアの険を顕にした顔がヤパスの腕を振り解く。だが男の力は強く、声は太い。荒い声が熱り立った胸を押さえつけようと怒気を飛ばす。
「そなたは風の巫女の血を持つ者を、手に入れられない。風は吹かなかった。新しい命は、生まれない」
「それでも行く。再生されたアムル様を守る――。無理やりこの地に留めさせた。聖馬族は許さない。二人を‥守らなければ」
ヤパスの腕を振りほどこうと、必死の形相が裂帛を発した。行かせまいとするヤパスの方も制する心が荒くる。柔らかな身を大地に投げつけ、その上に馬乗りになっていた。
荒野と言える大地の上で一組の男女が縺れお互いを傷つけるために腕を振り上げた。
だがここは無辜と至上の大地と謳われたルーヌの地。
風は止んだ。青空は雲に隠れた。
頬を叩かれたソニアは拳を握った。拳はいとも簡単にヤパスの顔を掠め太い腕に絡み取られてしまった。肩を抑えこまれたソニアが甲高い声とともに鋭い爪をヤパスの太腿に突き立てていた。その爪の痛みがヤパスを我に返した。
男の強い力に負け荒い息を吐く身体が、起き上がろうと必死の形相を見せていた。
 身を包む柔らかな布が裂け、細い肩がむき出しになった。白い背と布の間から見える乳房。その眩しさに、ヤパスは掴んだ腕を離した。身体の真が熱くなるのを憶えた。
ソニアは、ヤパスの心の変貌を感じた。即座に後退ざった。だが、男の腕は女の片足を掴んだ。たあいもなく引きずられ倒れたその上に重い身が伸し掛かった。雄々しい男の腕が女の衣を剥ぎ取るとそこに唇を押し当てた。
ソニアはそれでも抵抗し激しく罵る言葉を上げていたが、何時しか言葉は呻きに変わった。腕はヤパスの腰を抱いていた。そして腰紐を解き脱がせていた。天高く上がった雲に掛かる日は荒れ地に降り注ぎ、無風だった大地に生まれた風が草を撫で始めた。
抱き合った男女が朝を迎えた。
女は静かに帰路を目指すと言った。
「私はアムル様を守れなかった。族家に帰り許されるまで蟄居いたします」
男を向く顔は、穏やかな表情を見せていた。ありがとうと言葉が流れた。お互いは目を合わせず寄り添った身体を離したが絡んだ指は離れなかった。女は立ち上がった。それでも、絡まった指を離すことない男の腕は力を抜かなかった。
ヤパスは言えなかった。行くな――、側に居ろ――と。項垂れまま地を見詰め座り込んでいた。
白い雲を茜色に染める眩い日が二人を照らし始めた。地に座る裸体と立ち上がった裸体が空を仰ぎみた。それでも片手を握り合う二人は、お互いを確かめる事が出来ない。
「手を離してください。帰らなければ‥アムル様の庵に‥今の私に似合いのあの場に‥‥」
「一人であそこに篭もるのか」
ヤパスはソニアを振り返った。天を仰ぐ清らかな横顔が光の中で輝いて見えた。何かを悟った顔付きがゆっくりと振り返った。美しい女人だとヤパスは思った。信念を持ち教えに準じる生粋の女人だと。
「サーイの名を無くしても、要の業師に変わりはありません。族家のために篭もります」
「サーイとは何だ」
「姓です。名はソニア」
「名は変わらず、姓は変えられる。姓は四つ。トーイ、サーイ、シイ、リジ。今、そなたはリジになった。姓の最下位、リジ‥どういう意味だ」
大地を吹く風が強くなった。
「ルーヌの大地に戻り、業師の腕が本来を取り戻したのね。貴方は純粋のルーヌ族‥風の巫女がルーヌ人の帰りを待っていた‥どれほどの時をおこうとも、再び種族は帰って来ると信じた巫女の思いが叶った。ここに風の大地はよみがえる‥‥貴方がここを守るから‥」
ヤパスの片手がソニアの肩を抱いた。すると彼の脳裏が殴られた様な衝撃を受けた。
「守る‥人は何かを守る。守りの役目‥が、ある。それは守られる役目も‥‥。リジは、性の無い者‥女では無い者の意味か。トーイは気高い巫女の地位、シイは夫を無くした女の地位。リジはそれに値しない者‥」
 脳裏が自身の記憶ではない記憶を紐解いていた。口伝が教えたわけでもない記憶が次々とヤパスの脳裏に溢れ出ていた。
「夢見の業を手に入れたのね。もう貴方は要の呪い師。この大地を治めるのに相応しい呪い師となった。夢を繰るごとに違和感は消え、業は冴えてくるでしょう。手を離して、私も私の大地で努めを果たしに帰ります」
全身を強ばらせ脳裏が爆発する衝撃で、ヤパスは動けなかった。頭の中が何度も何度も夢を描き激しい痛みとともに消滅していった。それは頭の中を棍棒で殴られる衝撃だった。ヤパスはソニアに縋り付き脳裏の爆風が収まるのを待った。
最後に脳裏が描いた場は暗室に一人座る老婆の様なソニアだった。
ヤパスは間近にある顔に向かって言った。
「何故、サーイからリジになった」
問うヤパスの腕から力が徐々に抜けていった。
「種族の掟だから‥従う」
「下賎の者に抱かれたからか。愛する男に去られたからか。そうだとしても、コリンには愛を誓った妻がいる。だから、そなたを妻だとは思っていない。あくまでも手段だ。妻を救うための手段だ。だから、置き去りに出来た」
 酷な言葉を吐いた。それでも聡明な胸は、言葉を受け止められるとヤパスは信じた。
「良いのです。それで、事実は残る・・私はあの方のサーイでした。」
「そなたは、誰だ」
「ザーロ種族、族家の呪い師、名はソニア、姓はリジ」
「姓を捨てたのなら、名も捨てろ。そして、ザーロも捨てろ」
ヤパスは強く言い放った。
ソニアに、ザーロへ続く青い空に向かって、強く言い切った。そして、膝を付いたヤパスはソニアを仰いで更に言った。
「ルーヌ族は一夫一妻だ。妻は一人。俺の妻はそなた一人だ。このルーヌの野に誓う。一生の愛を誓うのはそなた一人だ。姓も名もザーロも捨てて、ルーヌ族ヤパスの妻になってくれ。このルーヌで、共に生きてくれ」
ソニアの動きが止まった。衝撃の言葉だった。彼女にとって、その言葉は思いもかけない告白だった。
膝を崩した彼女は、ヤパスの腕の中に落ちた。これほどの愛の告白を受けたザーロの女人はいないと、ソニアは溢れ出る涙を止められなかった。見開いた瞳は溢れ出る涙で曇ったが、目前にあるヤパスの真剣な面がはっきりと見えた。何時も前髪を隠す額帯はなく広い額とルーヌ族特有の彫りの深い目鼻立ちが一心に見詰めていた。その心は真実だと。両肩を掴んだ太い手のぬくもりが冷えきった心を温めていく。
涙は男の心を受け止めたのだ。
貴方と添いたい――。貴方の愛に縋る――。ソニアはヤパスの胸に飛び込んだ。
真実の涙が大地の落ちた、その時だった。地がゆるりと動いた。ソニアは、はっとした。異質の感覚が、胸で弾けた。ヤパスも身じろいだ。大地が一変したと感じた。
ボコボコと地鳴りにも似た音が二人の耳に届いた。二人は眼を見開いた。
二人の素足が冷たい感触を感じた。それは留まることを知らず溢れていた。こんこんと乾いた大地を濡らし流れていった。
ああと、ソニアは声を漏らした。
「泉だ。荒れ地に、泉が‥」
ヤパスは勢い良く溢れ出した地を見詰め声を上げた。
「ルーヌが聖地を取り戻した。ルーヌ族は天聖に復活を約束されたぞ」
感嘆の声を発したヤパスとは違い、ソニアは悲痛な声を上げた。
「風の扉が開いた。私達のために風の扉を開いた‥‥」
「風‥ルーヌは風の巫女を取り戻すことが出来るのだな」
「いいえ、扉は‥風の扉は愛の扉。巫女では無く‥アムル様と旦那様のために開くはずの扉が‥何故。二人の真実の愛が天聖の門を押し開かなければならないのに‥。私達のためではない‥愛の扉‥アムル様‥私は何ということしたの」
「愛の扉‥。エルグ様が行かれたのは異郷の愛の扉を潜るためではないのか。」
「エルグ様は異郷には辿り着けない。エルグ様は精霊の愛を勝ち取ってはいない。後を追っただけです。二人の心が結ばれないと扉は開かない。だから、アムル様はコリン様に愛を託されて異郷へ向かう死を望まれたのです。異郷で苦悩されるエルグ様の手助けのために、それが精霊の従者の役目。必ず、コリン様は愛を貫きアムル様を再生されると‥呪師達は希望を託し私も印を込めました」
「風の門は、ルーヌの巫女が守る柱ではないのか。扉が開くと、何故いけない‥」
「アムル様は聖馬人です。聖馬人であるアムル様は禁を犯しました。成人してもいないのに身体を変えて契られた‥天聖の門を潜らなければ罪は消えない。風の扉を開け天聖の門を潜り聖地に立つ‥そうすることがご自身を取り戻すことなのです。私達が開けた扉は、私達の願いを受け止め閉まる‥」
願いは一つとソニアは腹部を両手で包んだ。
「罪‥二人は罪人‥何時かは許されるだろう」
「‥大地は二人を引き離す。どんなに二人の愛が深かろうと異郷で精霊が愛に目覚めない限り、エルグ様は天聖の門を潜れない。相対する場にいるコリン様も愛を貫けない。引き裂かれる、この大地に‥対の大地に‥‥」
 ソニアは、陰惨な予見の言葉を括った。だが、荒廃の大地を見るヤパスはそこに遠くない明るい未来を予見した。活気ある集落に栗色の巻き毛を風に戦がせる乙女が耳に金色の耳飾りを揺らす姿を見た。
「ダザイサの大地は無辜の大地だ。この地に住む者達は太古の教えを守り二人を助けていくだろう。そして二人はここへ戻ってくる。そのために村を創る。二人がいつでも帰ってこられるように」
いいえとソニアは言えなかった。アムルは私達のために宿命を背負ったのだと、私達二人を結びつけるために負った贖いは何時無辜の大地が取り除いてくれるようにとソニアは泉の水を手で掬った。
ヤパスと分け合って飲んだ。それから、二人は顔を合わせお互いの顔を見た。風が二人の男女の顔を撫でていた。
ソニアは頷いた。そしてそっと眼を瞑った。ヤパスはソニアに唇を重ねた。
ヌールの古史は新しい記述を綴った。
男と女は風の大地で慈しみあった。そして二人の喜びが大地に聖水を沸かした。二人はそこに新しいルーヌ種族を生んだのだと――。


                   1章   風の扉   完

天聖の門  白銀の扉 ~アムルの章

天聖の門  白銀の扉 ~アムルの章

精霊と聖馬が創った大地ダザイサ。そこに暮らす五族は呪い師達が極寒の地を守っていた。語族の一つ東の山岳民族ザーロ族、族長一族の始祖は聖馬族だった。今もその聖馬族の血を受け継ぐ者を大切に守っていたが、最後の一人となった族長アムルは他種族の奴隷の少年と契りを交わし、そのために無に返ってしまった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ***
  2. 1. 風の大地
  3. 2  金の三角錐
  4. 3 使い女
  5. 4 満月の泉
  6. 5 太古の血
  7. 6 安住の地
  8. 7  贖い
  9. 8 風の扉