月の巫女Ⅳ 真夢月

***

満月の宵。
航海に出て、何度目の満月を迎えたのであろう。
アルグは数える事をしなかった。したくても出来なかった。彼の習性が満月の宵は睡魔の眠りに就くからだった。眠りこけるアルグをよそに幾つかの思いがけない出来事を何とかやり過ごしたボロ船ライジェリアス号は、大海原を今日もゆっくりと進んでいく。

この半月、晴天に恵まれ、たおやかな日々が続いていたのだが何故か、日々船の中が騒がしくなっていく気配があった。
今日はいやに騒がしいと感じたナルだったが、活気があると考えなおした。が、やはり変だなと、首を捻った。
日が傾き出した時分から、人のざわめきが強くかんじられた。なんだか負に落ちないざわめきだ。
船が狭くなったのか。それとも、人の数が増えたのか。二つともに違うと考え込みながら居室から操舵室へと向かうナルは、また、背中を押され壁にはじきとばされた。彼は黙って、誰かが通りすぎるのを待った。
荷物を背負った数人の影が、笑い声をあげ通りすぎて行った。
雲ひとつない夜空がオレンジ色に輝く満点の月を頂き、海上を照らしていた。明るい海上とは違い、船室が並ぶ通路は深い闇に落ちこんだかのように人の影も映さぬ暗黒に見えた。
また、数人の集団がナルを押し退け通りすぎていく気配があるが、足音がなかった。
手にした松明の明かりが通路の闇に溶け入りそうに光を失しなっていく気配が、逆立つものを止められずにいた。
確かに気配がある。だが、瞳が姿を捕えることが出来ない闇が通路を覆っていた。
背後に、誰かがいる。瞬時に振り返ったが、あるのは自身の薄い影と、胸裏が覚えた恐れだった。
戦慄が、背に走る。
動きを無くしたナルが、船上の賑わいに視線を上げた時 船が大きく揺らいだ。

1  祭りの後?



――アルグ――
その声が、ゆるやかに脳裏に届いた。
睡魔の業を引き裂くような鋭い声の波紋だった。それまで緩やかな空気に抱かれたアルグは、安らぎに浸っていた。深海を漂うように穏やかに静かにのんびりと手足を思い切り広げて、自由に漂っていた。
誰かに分けてあげたいような幸せ気分だった。
限りなく穏やかな深海が、ぷるりと震えた。
何かが、夢の扉に波紋を投げかけた。波紋がすべてを包み込み揺らいだかと思うと、アルグを抱いていた緩やかな世界が消え失せた。
 ――起きろ――
誰かが、叫んでいる。その感覚だけが、脳裏を過ぎった。そして、誰かが、身体を掴んだと感じた。その時、玲瓏な声が頭の中に響き渡った。
――アルグ。昨夜が、なんの日か、皆に伝えなかったのか――。伝えなかったのか――。たのか――
何度も言葉が木霊す。睡魔の業に溶け込んだ脳裏がやっと言葉を受け止めた。
「なんの日…」
と、口を開いた事さえ感じ取れない身体が、目前に立つガジョムの渋面を捕らえた。が、誘いに魅いられたままで重い瞼を開けてはいられない。
そのまま、ベッドに倒れ込んだ。すると、また叫び声が飛ぶ。
「寝ている場合か。外を見ろ。昨夜、皆になんと伝えた」
「昨夜…。ナルに‥。禁止令を、出した。飲むな、騒ぐな、自生しろ…ファア‥」
「あくびしている場合か、外だ。外に出ろ」
その言葉と共に一瞬身体が宙に浮いた。そして唐突にドスンと重くなった。ガタゴトと階段を引きずられる感覚があったが、腕の枕だけは離さないと強く抱き締めていた。ガジョムであろう細腕が成し遂げる荒業に喫驚することなく身を任せていた。
それから板の上に投げ出されたのであろう痛みが走った。それでも我を取り戻せず、何故にこれほど身体が重いのかと思った。
どれほどの間、その場にいたのだろう。明るい陽の光を受け睡魔の帳から抜け出たアルグはやっと眼を開けた。
日の光が、起きよと降り注いでいた。頬を撫でる風がくすぐる感覚を取り戻した時、瞳がガジョムの無表情な面を写した。
そして、その表情が訴える現実が飛び込んできた。
祭りの後 ?
一見して、眼を閉じた。まだ、夢の途中か ?
もう一度、眼を見開いた。すると、夢ではない信じられない光景があった。
船上には、転がった酒樽。酒と海水の混ざった悪臭。落書きと残飯で散乱した甲板。その上、人の姿も、声すらもない。


呆然とした心地が、周囲を見回し怒気をあげた。しかしながら、反応する声も姿もない。
「ナル…」
幼い時から側に居て兄のように世話をやくナルの姿がない。船内を一巡し帆柱に手を掛けたアルグは上を見上げた。帆はたたまれていた。船の持ち主を表す旗だけがひらめいていた。空は青い。薄い雲が細い筋を描いて地平線の遥か彼方にある。
息を吐いた、再びの叫びを上げたがやはり返る声がない。姿がない。
船内を駆け巡った。
恐怖が心に張り付いた。そしてもう一度声を張り上げたが、返る声がむろんない。
寝ている間に、何が起きた。
作為の途中、手を休めたように置き忘れた幌があった。厨房は、次の料理のために鍋が磨かれ、食材が積ませたままになっていた。
祭りの後だけが残る船は、凪の海原に浮いている状態だ。嵐でも来たものなら、小型のこのボロ船 海の藻屑となる。
海上を見渡せる操舵室。そこにも、人の姿は無かった。あの意志の強いガイでさえ、居なくなっていた。
今まで.一人きりで時を過ごしたことのないアルグは、顔と同じように心も一変した。そして、震える我が身を抱え、居室に戻ると寝台に座り込んだ。
「皆、何処に消えた。あの頑固なガイまでが、持ち場を離れて居なくなった」
アルグは、嘆きにも似た落胆の声を上げた。その時、唐突に現れたガジョムが言った。
「そうだ。お前の仲間は、不満と欲求に満ち溢れている」
カジョムは、アルグの目前に手を差し出した。その手には、琥珀の頸飾があった。
ガイの物だ。彼の胸に、何時も揺れていた。肌身離さず身に着けているはずの物を捨てて、居なくなった。その真意は…。
夜着に身を包んだままのアルグが、いつもの繋ぎ服のガジョムを見上げ眉を潜めた。
「俺に対しての不満と欲求か。それで、一斉蜂起で、海にでも飛び込んだのか」
「海ではないが、飛び込んだ」
「空か、月かへ、飛び込んだのか」
先ほどまで取り残された失意で、心が砕け散る程の悲しみにあったのだが、何故か ガジョムの言い回しに、置いてきぼりを食らった怒りが沸き上がってきた。立ち上がったアルグは、頭ひとつ背の高いガジョムにつかつかと歩み寄ると身を乗り出して声を上げた。
「俺に不満があるなら、直接言いに来い。こそこそ、隠れやがって。やつらの隠れ家を言え。踏ん捕まえて、成敗してやる。居場所を吐け」
何をしていても無表情の面が割れることないガジョムは、今も微動だもせずアルグを見詰めていた。
「見捨てないのか」
「奴らが、何処へいったかは知らんが、行って 捕まえる」
「本気か。奴と、勝負するのか」


拳を握り一心に睨み付けたアルグの眼に、ガジョムの髪がゆるやかに波打つように見えた。はっと眼を見開いた。一昨日の昼に同じ光景を見た事を思い出した。その時、禁止令を出せと言われたのだ。禁止令は、出した。部屋に来たナルに…。その後、信じられないほどの睡魔に襲われた。
「私は遠慮するが、行くのなら案内役をつけよう。行くは容易いが帰りは乱れる」
「一緒に行ってくれないのか‥」
「旅立ちを願ったのは、あなただ。旅立ちには、それを見送る者が必要だ。だから、私が見届けよう」
静かに言葉を放つガジョムの姿が、何故か揺らいで見えた。揺れる身体とは違い左の腕は、はっきりと形がある。
杖を持つ腕。杖に腕が絡ませて持つその姿が、何故か眼に焼きつくように見えていた。
初めて出逢った日も、身長と変わらぬ細い杖が左手にあった。その時は、白く輝いていたと思ったが、今は黒みがかった木の杖だ。その先端には、拳大のコブが花のように付いている。
以前見た物とは違うと、心に掛かるアルグにガジョムが静かに言った。
「形を保っているのが、難しくなってきたか」
「形…」
「私も、観念せねばならない時を迎えたと言うところかな。あなたと違って、予見を受けられないゆえ、反する心が大きい」
ガジョムが何を言いたいのか、さっぱり分からないアルグは言葉を返せない。それよりも早くナルを、ガイを、皆を捕まえてぎゃふんと言わせなければ気が収まらない。それ以外のことなど考えられない。焦る心が、身支度をと思った。
「行くなら、その服の方がいい」
そのガジョムの言葉にアルグは喫驚した。身体全体を隠す夜着を着たままだった。これで良いのかと思う心がある。
「調度良い時刻になった。真夢月、反故、いかなる結末になるか」
笑みを浮かべた顔が、楽しんでいる。と、アルグは感じ取った。それを、肯定するかのようにガジョムが言葉を放つ。
「夜の部分。地界の民が安息であるための対の場所。闇だけが覆い尽くす死者が集う場所。一度迷い込んだら、強固の意志を貫かねば彷徨い続ける」
アルグは、固唾を飲んだ。仲間が忽然と消えたのには、神妙な意図がある。ナルやガイの性格から、黙って船から離れるはずがない。
ここでやっと、アルグの脳裏が快活に動き始めたのだった。
「暗黒だけが、支配する世界へ行くのだ。そこに、あなたが必要とする仲間がいる。ココミルが案内はしてくれる。後は、お前の采配。暗黒の王は、ずる賢い。何にも触れるな。何も欲するな。忠告は、それだけだ」
「暗黒‥」
と、呟きを漏らした心が急に沈み込んだ。懐中が、不安と心細さを抱いた。
不安を確か表したアルグが、縋りつく瞳をガジョムに向けた。
「一人では心細いだろうが、ココミルがいる」
「一人。何処に行くのか知らないのに、一人で行かせるのか。それに、ココミルって何だ」
ガジョムは、真直ぐにアルグを見た。見詰められるアルグも透き通る水色の瞳を見上げた。すると、突然 両の手が熱いと感じた。
「行け。左がココ。右がミル。そして、そこにいる…」
その言葉と共に床を叩く杖の音が部屋に響き、鼓膜が共鳴するかのように脳裏に広がった。すると、意識は闇に落ちた。

2  ここは何処? 



「新しい魚が手に入ったと、親方様に伝えな」
唸るような濁声に呼び起こされたアルグは、瞬間 何が起きたかと混乱した。
「馬鹿野郎。これは、シュール族の子供だ。食い物じゃねえ。見世物だ。綺麗に泳がせて、皿に盛れ。極上の盛りだ」
更に濁声の大声で、目覚めたように瞳を開いたアルグは信じられないほど馬鹿でかい指につまみ上げられ声を上げようとして気づいた。
魚だ。足が、魚。尻尾になってる。
「ぎゃー」の、悲鳴が、水に投げ込まれて掻き消えた。
尻尾が、邪魔。足が動かない。息が出来ない。溺れる。助けて――その他ともろも叫びに叫んだ。思い切り美味しい水を飲んだアルグの叫びが届いたのか、両の掌から腕にかけて刺すような痛みが通りぬけた。すると、体全体が熱いと感じ足が大きくうねった。
泳げた。
水の精になった感覚で泳ぎだしたアルグは、優雅に水槽を泳ぎ水の上に顔を出した。気もち良いと思ったその時、再び指に捕まった。
摘み上げた指は先程より小さかった。
「子供かと思ったらちょうどいい年頃の人魚さんだ」
柔らかな敷物の上に優しく置いた指が、そう言った。
「黒髪に桜色の人魚は珍しいから、サムダ様が喜ばれる。人魚さん。いい子だから、お皿の真ん中に座って。白い服が良く似合うわ。ちょっと、尻尾を出して見て」
アルグは、言われた通りに尻尾を振った。素晴らしいことに、足と尻尾が思い道理にはためいた。皿の上を飛び跳ねたい気持ちだったが、両手がチクチクと痛む感覚が心せよと告げているようで静かに行儀よく座った。
「う~ん。いいわ。赤い花を髪に飾って、手には、珊瑚を持って…」
薄暗い中に濁声の独り言が響くが、顔は見えず身体がぼんやりと映るだけである。だが、指だけがはっきりと明かりを点したように写り、桜色の花がさいたような珊瑚をアルグに手渡した。そして、その手は皿の上を彩りの珊瑚で飾っていく。
夢見心地で黙って見ていたアルグは、食べ物の匂いが鼻につくと脳裏が弾け飛んだ。
夢中ではない現実だ、と悟った瞬間、何が起こったのかと爆発する勢いで答えを探し脳裏を攪拌させた。思い出した。仕事を一斉放棄した輩を叩きのめしに来たのだ。急に沸き起こった怒りに、立ち上がろうとしたが、身体が動かない。石のように重く伸し掛かる圧迫で動けない。唯、両腕だけが熱いと感じた。それが、ココミルの仕業だとも感じた。動いてはならないのかと息を吐いたアルグは闇の音を捉えようと耳を澄ました。


音のない世界だ。
何も聞こえず、何も写すことの出来ない世界がアルグ前にあった。
身体の周りだけが,仄かに明るい。
闇の世界なのだが、濁声には色がちゃんと見えている。何故。アルグは首を傾げた。
「大人しくしていろよ。直ぐ着くからな」
その言葉と供に、歪んだ鏡の世界が広がった。そして、揺れ始めた。
時化の日の大揺れがしばらく続いただけなのに、金色の鏡で閉ざされたアルグは、船乗りならぬ船酔いをしていた。むかつく胸を抑えて大揺れが収まるのをぐっと待った。
その声を聞くまで、金色の鏡が消えうせたのも大揺れが収まったのも気づかなかった。
「今日が、何の日か知らずに漂っていたか。シュールの人魚ともあろう者が‥。自分の価値が分かっておらぬ」
太くはっきりした若いと感じる声が、遥か天井から響いた。それと一緒に何か香り高い風が届く。むかつく胸を押さえたアルグは上を見た。そこには、緑の髭だけが淡い光に映し出されていた。その髭が動く度にやわらかな言葉が響くが、船酔いから覚めぬアルグは吐き気から逃れられず言葉を発せられない。
アルグは、自分の身体が縮んだか、それとも巨人を相手しているのか分からなかった。どんなに見上げても、眼を凝らしても顎髭だかしか見えない。
「わしは、黒の民族の地帝ザイサラスだ。サムダと呼んでくれ。ここはハガルカム島だ。シュール族の娘さん。天中の日に流されるとは、幸運なのか不運なのか」
 皿の上に行儀よく座るアルグはただ頷いた。サムダと言う王様の前に差し出され審議を受けているとだけ感じた。どうも考える事が苦手になったらしく天中とはなんだろうか、と曇った顔を髭に向けた。
「・・心細意であろうが、心配はいらぬ。私がお守りいたすゆえ・・。しかし、二十年ぶりかな。安息日に異変があったのは、あの時は、天界から人が流れ着いた」
暗室のような部屋を見渡すことが出来ない。蓋されて運ばれた先が食台だろう。ぼんやりした明かりがアルグの足元と緑の髭だけを浮かび上がらせていた。
「黒い髪をした人魚は珍しい。地の一族の血縁が、はっきり形に現れた人魚は、サリア姫以来だ。美しいサリア姫。天中の日の目覚めさえなければ、あんな人間のものにならずに済んだものを……」
サムダは、深く長いため息を吐いた。
その息が疾風のようにアルグの全身を撫でて通り過ぎた。疾風はアルグを驚かせた。それは今まで嗅いだ事ない甘い香だ。
香りが余韻を生んだ。深く大きく息を吸い込むと自然と瞳が閉じ瞑想の中へ導く。また夢中へ引き込まれてしまいそうになった。すると両の手にチクリと痛みが走り眼を見開いた。目の前には言葉を綴る髭があった。
「シュールの城には三人の姫がいたが、一番美しかったのは、三の姫のサリア。勇猛果敢な姫君だった。嵐にも、海神にも、挑む強さと慈悲の心を持ち、煌く判断力。・・・それを、アスラが、人の分際で、姫を浚うとは・・」
―アスラ―
アルグの脳裏が弾け飛んだ。アスラ王の事かと、叫びを上げたが、声がでない。身体が動かない。自由が効くのは両手だけだ。それも、ばたつかせるだけ。ココミル、何とかしろと、必死で手を振るアルグに香りの良い息が掛かる。
「興味あるのか。」
その声に答えたのは、闇間に響いた細く凛とした声だった
「ええ、興味ありますわ」
はるか向こうに、小さな白い光がふわりと灯った。
暗夜の小さな灯火。
それが、暗黒が包むこの場所を仄かに照らした。それだけで、アルグは自分がいる空間の広さを知った。大宴会を開くに相応しい大広間。
巨人が使う食台が長ったらしく続いているのが、ぼんやりとうかがわれた。その両側には、似合いの椅子が騒然と並んでいた。壁際の棚に並んだ光輝く物が何であるかが分からないが綺麗だと感じた。高い天井にも、何か光があると覗わせたが分からない。
それよりも、人影の淡い光が立ったその壁が眼を惹きつけた。
アルグは、はっとした。
出口だ。
凝った造りの壁が、出口の扉。
どっしりと高い天井へ掛かる扉。逃げ道はそこだと、頭の中で言葉が弾けた。
白い人影は、ゆっくりとアルグ達の方に近寄る。長い食台に整列する椅子を一つずつ数えるよう歩み寄り、女人の形を呈し時その場所に腰をおろした。

月の巫女Ⅳ 真夢月

月の巫女Ⅳ 真夢月

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-01

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