掌編恋愛小説7「ある天使の話」

ある天使の話

 少女の眼の前に天使が落ちてきた。
 うずくまっているせいで顔はよく見えなかった。美しい顔をしているだろう、彼は天使なのだから。全身から淡い光を放っていた。際立っているのは銀色の翼と髪だ。光が強いわけではない。眼に痛い程の刺激になることもない。だがそれは明らかだった。最も美しい光。もしかしたら本当はこれのことを光と言うのかもしれない。光と呼ばれるそれ以外のものは複写にすぎない。そうだ。そうだろう。これほど優しい光は今まで誰だって見たことはない。この少女がそれを初めて見たのだった。
 銀の翼に少女は触れようとした。
『綺麗・・・・・・天使はこれで飛ぶのね・・・・・・?』
 すると間もなく少女の心の中で鈴の音が聞こえてきた。
『天使は翼では飛ばないんだよ』鈴の音は言った。
 少女は何処から言葉が聞こえてきたのかわからなかった。彼女自身の中から聞こえてきたからだ。眼の前の天使が発した声だと考えるのが自然だが、外から聞こえたのではなかった。そうは言っても耳の奥で鈴の音が響いたわけでもない。鈴の音が感覚を経ずに聞こえ、意味が響いたのだった。
「あなたが喋ったの?」少女は訊ねた。
『そうさ。僕だよ。喋ったわけではないけどね』
 天使はむっくりと起き上がった。少女の眼に天使の美しい顔が映った。鈴の音が少女に聞こえたように、天使の姿は少女にしか見えなかった。確かに見てはいるが、これもまた感覚を経ずに見ている。微笑む天使の顔は無表情に等しい。喜びも悲しみも含まない微笑。無表情な微笑は顔面に完全な美を作り出している。しかしその美は一瞬にして崩れた。
『僕らは翼では飛ばないんだ。いや飛べないと言ったほうがいいかもしれない』
 天使は優しげな表情で少女に語りかけた。鈴の響きは少しずつ内から外へ漏れ始めていた。
「どうして、じゃあ何のための翼なの?」
『君が僕に与えた翼さ。僕に翼などなかった時には、僕は自由に飛べたんだ。それが当たり前だった。だけど、翼があっては、僕らはどうにも飛べやしない』
 少女には意味が解せなかった。
 翼は飛翔の象徴だ。「飛ぶ」という意味が天使に与えられると同時にその否定も与えられる。「飛べない」。意味に縛られていなかったからこそ今まで天使は自由に飛ぶことができた。だが少女が天使に与えた翼は天使を飛べなくしたのだった。
 鈴の音のような声で天使は言った。天使の声はもう、少女の中で響くことはできない。音が無意味の内に留まれなくなってしまった。
「僕は自由だった。苦しみだって、喜びだって知らなかった。だって僕は天使だったんだから」
「今は?」
 少女の顔は不安に満ちていた。
「僕は落ちてしまった。愛だ。人は人を愛すると飛べることがある。だけど天使は、・・・・・・落ちるしかないんだ。僕はもう飛べない。喜びも苦しみも知ってしまった」
 少女は漸く天使の言う意味を解した。天使は少女を愛したがために落ちた。翼を与えられた天使は真実の空に留まることができなくなった。天使の空はすでに少女の中にあった。少女の中のそこひなき青空は天使に喜びを、苦しみを、命を与えた。天使は命を得た、そして死をも得たのだった。
「僕はもう消えてしまう。喜びも苦しみも知ってしまった。僕は完全な美、完全な自由を失って、命を得た。だから死んでしまう。この世界は対称に出来ている。必ずしも意味による対称ではない。美の対称は喜びと悲しみ、自由の対象は愛。地上と天とで全てが対称になっている。地上は全てが不完全だ。僕は落ちてしまった、君を愛して。だから僕はもうすぐ消えてしまう・・・・・・」
 少女の眼の前にはすでに天使はいない。少しずつ鈴の音が遠ざかり、やがてビルの狭間に消えた。

掌編恋愛小説7「ある天使の話」

以前書いたもの。なおさず、移した。

掌編恋愛小説7「ある天使の話」

天使が少女に恋をするのです。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-20

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