掌編恋愛小説2「初恋の人」
初恋の人
出会いや別れは何かしらの偶然と深く結びついているものだ。でもその偶然は必然と言っていいほどに、僕らにとっては当然のこととして受け入れられる。それがつまり、運命というものなのだろう。運命は僕らの意志とは関係なく、僕らの元に小さな驚きをもたらし、そして奪い去っていく。
就職活動も既に終盤戦だった。この時期を逃すと、後は秋採用の会社か或いは中小の信頼性の乏しい企業を狙うかしかない。
焦っていた。焦りばかりが先立ち、二次面接、三次面接と次々に深度を増していく就職活動の多忙さに僕は憔悴しきっていた。今日受けるのは二社。一社は説明会を兼ねた面接、もう一社は三次面接でそれを通れば最終だ。早いうちに内定が欲しい。
僕の焦りとは関係なく世間の時はあっという間に過ぎていく。夏の太陽に焼かれ、全身から汗が噴き出してワイシャツを濡らしていた。
ライフイズベリーショート、と誰かが言っていた。そう、人生はすごく短いんだ。
内定が欲しい、とは何のことだろう? 僕は自らの就職活動の意味を見失っていた。
長い長いトンネルから抜け出す為の光明も見当たらず、ひたすら走り続け、足の動きを止める勇気もない。本当は一度足を止めて自分が何処にいるか、よく確認するべきなんだろう。
ただ、・・・・・・光が見出せない。
汗は止めどなく噴き出す。
夏の就職活動は肉体的にも精神的にも相当な負担となる。早ければ春には内定が貰える筈だった。
焦りが募り、肉体が疲弊しきるのが丁度この夏の盛りなのだ。
最寄の駅までの道がいつも以上に遠く感じられた。足取りは重たかった。今日の面接で、僕の人生が決まる。
本当にそんなので僕の人生が決まるのか?
あぁ、アイスが食べたい。熱くなりすぎた心身を、深いところから冷やして欲しい。アイスが・・・・・・。
ドンっ。僕は何かにぶつかった。ズボンの左ひざ辺りに大きな白い染みが出来上がっていた。
目の前に佇む少女は齢四、五と言ったところだろう、ぼくの方を非難するかのようにじっと見つめていた。
地面にはズボン同様に大きな白い染みが拡がっていた。夏の日差しは驚くほどその白を引き立たせていた。
あぁ、アイスが食べたい・・・・・・。
「あたしのアイス。あたしのアイスが落ちちゃった」
怒りから悲しみへと徐々に表情が変わっていった。今にも彼女は泣き出しそうだった。
僕は頭がぼぅっとして今にも倒れそうだった。
ごめん、ごめん。
「ごめんね」
やっと言葉が出た。
「ごめんね、僕が新しいのを買ってあげるから」
「ホント? やったぁ、ホントはね、イチゴのが良かったの。でもね、ママがね、イチゴのは五十円高いから、駄目って」
少女は打って変わって満面の笑みを顔に滲ませた。無邪気で純粋なその笑顔はどこか懐かしく、就職活動で荒んだ僕の心を綺麗に洗い流してくれるかのようだった。
しかし暑さのせいで僕の意識は遠のいていく。少女の笑顔が頭の中で別の顔に変わっていく。
一人の女性が僕のほうに近づいてきた。僕は彼女と少女が親子であることにすぐ気が付いた。どこか面影があったからだ。
夏の太陽が僕を照らしていた。少女は依然として笑顔のまま僕の前に立ち尽くしている。
強い日差し。
ぼぅっとする。
さらに意識が遠のく。
急に視界は強い光で満ち、僕は懐かしい記憶の奥底へずるずると引き込まれていった。
そうだ。こんな馬鹿みたいに暑い季節じゃなかった。アイスなんていらない。僕に必要なのはコタツとミカン、それだけだ。そんな季節のこと。
彼女は幼なじみだった。幼稚園から一緒で、小学校の途中から同じクラスになった。
僕の彼女との思い出は六年生のバレンタイン間近のもの。もしかしたら、あれが僕の初恋だったのかもしれない。と、時々思い出したりする。
その時期、クラスの男子たちはみな浮き足立っていた。貰える当ても無いチョコを期待しては、どこかそわそわしながら毎日を過ごしていた。
僕だって同じだった。誰が僕みたいな、性格も顔も良くない、勉強だって運動だってできない人間にチョコをくれるんだ、と自分自身でよく理解しながらも、もしかしたら誰かが間違ってくれるかもしれないという淡い期待を懐かずにはいられなかった。それが男子ってもんだと思う。
しかし、その年に限ってはそんな期待をさらに高める出来事があったのだ。
バレンタインの前に、彼女は僕に聞きたい事があると言った。そして放課後、三組の前の廊下で待ってるね、と。
僕は誰にもそのことを言わなかった。誰かに見られるのは嫌だった。クラスの皆に噂されるなんて考えただけで・・・・・・。
その日は委員会があり、放課後になる頃には既に日が傾きかけていた。
僕は三組の前の廊下で佇む彼女を見つけた。少し暗い、誰もいない廊下で黄昏時の紅い光を受けた彼女は、いつもと違って何処か大人びているような気がした。
彼女も僕に気づき手を振った。その姿はいつもの子供っぽい彼女で、僕は安心して彼女の元へ駆けていった。
「ねぇ」
「なに?」
「十四日ってサッカーある?」
僕は近所のサッカークラブに所属していた。万年ベンチだったが、ようやく六年生になってレギュラーの座をつかんだ。とは言っても、やっぱり一番下手なのは僕だったけど。
「ん、うん。あるよ」
「じゃあその日も××は学校でサッカーしてるんだ?」
××とは僕のことだ。
練習は小学校で行われていた。
僕はサッカーの練習を六年間、一度も休んだことがなかった。そのくらいサッカーが好きだったんだ。下手だったけど。
「あぁ、うん」
「そう」
彼女は何処か照れているような気がした。僕も恥ずかしかった。
彼女は僕のことが好きで、それでバレンタインの予定を聞いているってことは明らかだ。にもかかわらず、僕は恥ずかしさのせいで素直にそれを受け入れることが出来なかった。だから、あんな失敗を・・・・・・。
「あぁ、そっか。お前、○○のこと好きなんだろ。な、そうだろ。あいつにチョコあげたいから予定聞いたんだろ。○○もサッカー部だもんな」
○○は同じくクラスメートで、クラスの中ではダントツに人気だった。性格良し、顔良し、おまけに勉強できるし運動神経抜群。そして、学校で一番足が速いのも彼だった。
僕の言葉を聞いた途端、彼女は一瞬笑った。それは歪んだ笑顔だった。そして俯いて、沈黙し、僕に背を向け、紅く染まった廊下をゆっくりと歩いていった。
廊下を満たす紅く強い光だけが、今でも僕の脳裏に焼きついている。鮮明に、ただ、悲しげに、あの紅い光だけが・・・・・・。
僕はすっかり気を失っていた。目をゆっくり開けると、さっきの少女とその母らしき若い女性が傍らに立ち、僕の顔を覗きこんでいた。僕は木陰のベンチで横になっているようだった。
「あぁ、良かった。気がついたみたい。ねぇ、××君、だよね?」
「えっ?」
「××君でしょ? ほら、幼稚園から中学校まで一緒だったじゃん。覚えてない?」
僕の初恋の彼女だった。あまりに唐突だ。
「ああ・・・・・・えっ! 結婚したの?」
彼女、子供、結婚・・・・・・僕の中であらゆるものの整理がつかなかった。そしてさっきの夢のような想い出のような、不思議な時間がまだ続いているのだと思った。
「うん。あたし、夢が叶ったんだよ。あの時に話したあたしの夢」
「ねぇ、アイス。イチゴのアイス」
少女は僕との約束を忘れてはいない。
「ああ、アイス。アイスを買ってあげなきゃ」
僕はまだ頭がぼぅっとしていた。
「夢? 夢って、何の話?」
立ち上がろうとすると、少し足元がふらついた。僕は身体を起こしはしたものの、まだベンチに腰掛けたままだった。
「はい、これ、飲んで」
彼女はスポーツドリンクを僕に手渡した。
「ありがとう」
僕は一口飲んだ。水分が身体に染み渡るのが感じられた。そうか、熱中症ってやつか、と、今さら思う。
「夢の話、忘れちゃったの? あたしたち、六年生の修学旅行で、同じ班だったじゃない?」
そうだ。そうだったんだ。思い出した、それで、その時。
「でも同じ班の二人がさ、急にいなくなっちゃって――」
「アイス、アイス、イチゴのアイス」
少女が僕らの間に割って入ろうとした。
「そうそう、で、あいつらは駆け落ちごっこみたいなのを――」
僕らは小学校の頃に戻ったかのようだった。
「うん、で、あたしたちは二人っきりだったでしょ。その時――」
「話したな。君は確か・・・・・・お母さんになりたいって。そう言ってた」
「そう、あたし・・・・・・お母さんになりたかったんだ。優しくて、あったかくって、大きなお母さんに」
「良かったね。夢、叶ったんだね?」
「でもまだ夢の途中だけどね。もっともっと、ちゃんとしたお母さんになりたいもん」
「そっか」
彼女は立派にお母さんになったんだ。夢を叶えたんだ。すごい。僕は・・・・・・僕の夢って、なんだったんだ?
「ねぇ、聞いてもいい?」
「何?」
「僕の夢って、何だったっけ?」
彼女は優しく微笑んだ。
「自分の夢なのに、忘れちゃったの?」
「・・・・・・うん」
「アイス買ってくれないの? イチゴのアイス。約束でしょ?」
少女はすねるような小さな声で言った。
「××君はね、人を助けたり、守ったりすることの出来る人になりたい、そう言ってたよ。だから、もっと強くなりたいって。あたし、それを聞いて××君のことを――」
「あっ!」
「えっ?」
今日は三次面接。それに僕の人生が掛かっていたのに。
「まぁ、いいや」
「どうしたの?」
彼女は怪訝そうに僕を見た。
「ただ、ね。今さ、就職活動中でね、今日は面接だったんだけど。もう間に合わないからいいや」
「そうなの? 駄目だよ。急いで行って、謝れば大丈夫かもしれないじゃない」
「いや、なんか、夢ってのを忘れてた。でも、今日、少し思い出した。思い出したら、今日の面接がそんなに大事じゃないことに気づいちゃったんだ」
「そう?」
「うん」
「ねぇ、・・・・・・アイス。アイス」
少女は再び泣き出しそうだった。
「そっか、ならよかった」
彼女はもう一度、僕に向かって優しく微笑んだ。
僕は約束どおり、少女にイチゴのアイスをご馳走した。少女も再び、あの無垢で純粋な笑顔を取り戻した。僕にとってはどこか懐かしい笑顔を。
運命は、思わぬところで、思わぬように作用する。驚きを伴って、時には悲しみや喜びを伴って。運命によってもたらされた光明を頼りに、僕はこの就職活動という暗いトンネルを、前より少しばかりしっかりと歩める、そんな気がした。
初恋のあの人と、その娘に感謝。夏のアイスは、ひんやりと冷たくって、気持ちよかった。
掌編恋愛小説2「初恋の人」
初恋とかよく思い出せないけど、自分がかつて好きだった人たちはもうみんな大人になってるんだなぁと思うと、少し感慨深いもんがあるなぁ、と書いてみて思った次第です。