掌編恋愛小説1「ミント味の沈黙」
仕事帰りのバスで見かけた眼鏡の女性。そこから生まれた物語です。というか、妄想です。
ミント味の沈黙
「あの、聞こえちゃったんで、はい」
彼女はイヤホンを外し、僕の方を振り返って言った。暗い車内でも彼女の眼鏡は憂愁とともに奇妙な可憐さをも讃え、行きかう車のライトを反射し、その輝きが僕の胸を鋭く射抜いた。
これは・・・・・・恋だ!
彼女が差し出す手は闇の中、ひとり孤独に何かを求めるような寂しさを感じさせ、その手を握り締めることが僕が今するべき唯一のことのように思えた。
もちろんそんな訳ないのは知っていたし、実際にそうすることもなかったが・・・・・・。
「あ、ありがとうございます」
そう言うと僕は、彼女の差し出したミント味のガムをゆっくりと受け取った。
慎重に受け取らないと周囲を満たすこのミントの馥郁たる香りが壊れてしまう。そしてまた、僕の心を喜びで満たすこの甘い感情までもが漏れ出してしまう。それだけはなんとか避けたかった。
帰りのバスの中、彼女は僕のすぐ前の席に座っていた。そして僕は彼女から香る爽やかな匂いに酔いしれていた。こういうと少し変態っぽいけど・・・・・・彼女の噛むガムは、すごく美味しそうだった。だからつい後ろにいる友人にそのことを話してしまったのだ。ただ、「美味しそうな匂いがするね」とだけ。
「いえ、まぁ・・・・・・。聞こえちゃったんで」
彼女は照れくさそうに応じながらも再び視線を前へと戻してイヤホンを付けた。そして纏め上げた髪の下から覗く彼女の細く白い首だけが僕の目に映った。
ガムを食べてしまうのはもったいない。もし食べてしまったら、それこそ彼女が作りだすこの場の空気は全て壊れてしまう。僕にはもらったガムをすぐに食べる勇気はなかった。
「・・・・・・おい」
後ろの席から友人が小突いてきた。
バスの中は静寂で満たされていた。誰も彼も疲労して、仕事の後に周囲の人間との会話を楽しむ余裕などはないようだった。そんな雰囲気を気にする素振りも見せず、幾度となく後ろから友人は僕を小突いてきた。
「・・・・・・おい。なぁ、俺にもくれって言えよ」
「なんで僕が言わなきゃいけないんだよ」
そう言いながらも僕はもう一度彼女と話す機会が得られたと思い、内心では気分が高揚していた。
バスの心地良い揺れが本来であれば僕を眠りへと誘ってくれるはずなのだが、今日だけは僕の胸の鼓動と共振して互いの振幅を増していくばかりであった。緊張と不安が入り混じって胸の高鳴りは抑えようがなかった。
「なぁ!」
友人の後ろからの催促が止むことは無く、車内の静寂を乱す僕らはまるで悪者なのに、友人はそのことに少しも気づかなかった。
「あぁ・・・・・・わかったよ」
僕は友人とのやりとりが面倒で嫌気が差していたが、それでも彼女との会話のきっかけが得られて嬉しかった。
そんなやり取りを交わしている最中に彼女が振向いて言った。
「あのぅ・・・・・・聞こえてるんで」
さっきと少し様子が違ったが、それでも同じようにガムを差し出した。今度ばかりは迷惑がっているようだった。眼鏡は依然として憂愁と可憐さを讃えていたが、その奥で微かに光る瞳にはある種の冷たさがにじみ出ていた。
『恋も早々と終焉ですか・・・・・・』と、心で呟きながらも、僕は素早く手を伸ばした。
「すみません。ありがとうございます」
彼女の手に僕の手が微かに触れた。夏の盛りの暑い時期だと言うのに、彼女の手はひんやりと冷たく気持ちよかった。
懐かしい感触。
それが僕に死んだ祖母のことを思い出させた。それはまったくの不意打ちで、僕は面食らって何を言ったらいいのかわからなくなってしまった。
驚いた表情の僕を見て彼女は動揺していた。
「あ、あの、ごめんなさい」
彼女は何か失礼なことをしたのだと思ったのか、僕に謝った。
それに対し僕は何かしらの弁明をすべきだったのだろうが応えることが出来なかった。
頭の中が祖母との想い出で溢れていった。
僕はおばあちゃん子だった。両親が働きに出ていたため、祖父母と共に時間を過ごすことが多かった。祖父は古い人間にありがちな頑固さと厳格さを兼ね備えた狷介孤高の老人といった風で、幼いながらに僕は祖父を怖れていたし、祖父も僕を疎んじていた気がする。今思えば、祖父は僕とどう接したらいいのか知らなかっただけかも知れない。祖父は確かに僕を愛していたのだろう。
僕が中学生になった頃、祖父は心臓を患って亡くなった。普段当たり前に存在していた祖父がいなくなったのが、僕には理解できなかった。多感な時期と重なったこともあり、僕は学校へ行くことが減り、家にこもりがちになっていった。
そんな時に祖母は僕の側にいてくれた。僕は時々子供のようにぐずった。内から溢れる感情を自分で抑えることができず、泣き喚いたり暴れたり、なんとか自分の力で何かを変えようともがいていた。
祖母はじっと僕を見つめ、落ち着くのを待ち、そして優しく手を握ってくれた。「大丈夫、大丈夫」とだけ言った。僕は何が大丈夫なのかわからなかったが、祖母の優しく、少しひんやりした冷たい手を、皺しわの手を握りながら、「あぁ、大丈夫なんだ」と思った。
これが祖母との思い出。
祖母は祖父を追う様にして、祖父の死の丁度一年後に亡くなった。
「あ、いや、あの・・・・・・」
何とか彼女に弁明しなければならなかった。にもかかわらず、僕は何と言ったらいいのかわからなかった。
彼女はどぎまぎしながら僕から視線を外して俯いた。
静寂が周囲を覆い始めるとミントの香りが余計に強く引き立ったような気がし、透き通った風が僕の頭の混乱を吹き飛ばした。
「ばあちゃんはこんないい匂いしなかったな。なんか、なんて言うんだろ、もっとね、いつも線香の匂いばっかしてたから」
「え?」
顔を上げると、彼女は怪訝そうな表情を見せた。
「おい! 早くくれよ! あ、ありがとうございます」
後ろから友人が彼女に声をかけると、彼女はまた少しだけ俯き、上目使いで恥ずかしそうに小さく肯いた。
「いや、何かね、祖母を思い出したんです。あなたの手に触れて。なんとなく」
「はぁ・・・・・・そ、そうですか」
まだ混沌の中にいる彼女は、なんとも不思議な表情で僕を見つめていた。
「あ、ごめんなさい。そんなこと言われても困りますよね、うん」
「まぁ・・・・・・でも、何か、そういうことですよね。きっと。きっとわかります」
彼女はまるで訳がわからず、僕の言うことを何とかして解そうと必死になっているように見えた。その姿が健気で、彼女がより愛おしくなった。
「あ、いや、ただね、僕は思ったんです。あなたは優しい人なんだなって。だって言うでしょ、手が冷たい人は心が温かいって」
束の間の沈黙・・・・・・その後、彼女はハッと息を呑むような表情を見せると前を向き直り、細く白い首をまた僕に見せた。気のせいか、その首筋はほんのりとピンク色を滲ませた色だったような・・・・・・。真偽のほどは、もうわからない。
僕たちを乗せたバスは県道を進んでいった。夜十時を過ぎているにもかかわらず、まだ車や人の通りは多かった。街灯に照らされオレンジ色に輝いた樹木が窓の外を物凄いスピードで走っていく。駅はもうすぐだ、彼女はもうこちらを振り返ることはなさそうだった。
彼女はイヤホンを付け、外界から彼女へ向けられる雑音を全て拒絶するかのように、じっと窓のそとを静かに眺めていた。
僕の後ろの席からは、先程とは打って変わって、豪快な鼾が響き渡り、不協和音は車内の静謐を粉々に打ち砕いていた。
気がつけばもう、ミントの香りもしない。
「素敵な出会いだと思ったのに。この恋もまた終わりか」
僕は小さく呟いた。
ガタっと背後から音がした。僕が振り向くと、目を覚ました友人は寝ぼけたように言った。
「あ、あぁ、何か言ったか?」
「何も言ってないよ、寝とけ。あ、いや、もうすぐ着くか」
バスはコンビニの角を曲がると駅から少し離れたバス停に止まった。
仕事終りの重たい身体を、皆々がおもむろに起こしては、バスを後にする。
最後には起きたばかりの友人と、僕と、彼女だけが残され、その順で下りようとした。そして友人が下りた瞬間、乗降用のステップで突然に彼女は僕の方を振り向いてイヤホンを外して差し出した。
「これ、聞いてみてください」
「あ、あぁ、はい」
今度は僕が怪訝な表情を浮かべる番だった。
彼女からイヤホンを受け取ると、訳も分からず僕はそれを耳に当てた。
「・・・・・・あ」
イヤホンから流れて来たのはただの沈黙だった。随分とお喋りな沈黙だ、つまり、僕の独り言を聞いていたって、そういうことだろう?
僕は彼女にイヤホンを返すと、彼女は言った。
「別に、いいんですよ。おばあさんを思い出したかったら、私の手をいつでも触ってくれれば。でも、私、別に優しくなんてないから」
そう言ってバスを降りると、彼女は駅へと向かう横断歩道を小走りで渡っていった。走り去る彼女の首筋は、確かにピンク色に染まっていた。
青信号は点滅し、赤へと変わった。彼女が駅の階段へと吸い込まれていく。
僕はポケットからガムを取り出して口に放り込み、耳に手を当てて周囲の音を遮断して、遠く彼女から漂ってくるミント味の沈黙をもう一度ゆっくりと味わうことにした。
掌編恋愛小説1「ミント味の沈黙」
不思議なことに、妄想は深めていけばそれなりの物語になるのです。そもそも空想や妄想や想像は、何かしらの物語を孕んでいるのではないかと思います。それは絵にしても音にしても同様。もしかしたら味や香り、感触、もっと言えば空腹感とかですら物語りの始まりかもしれません。
二度ほど見た女性。
彼女の雰囲気が自分にこの話を書かせたと思うと、なかなか面白いものです。
これから、自分が小さな恋をする度に、それを小説にしてやろうと思っています。ので、よろしく。