月の巫女Ⅲ 月の涙 第一章 天の一族

【1】 天の一族


*****

ギルバーヂアは無心で爪を研いだ。
巌山の風穴。瀑布のしぶきが岩屋を濡らしていた。真っ直ぐに吹き抜ける洞窟の奥。仰ぎ見る高い風穴の明かり取りの窓から日の光が差し込んでいた。幾重にも重なる光の輪が床に散乱し腐敗した卵の殻を照らし出していた。崩れた卵から育たなかった雛のくちばしが覗く。それは一つでは無い。風化した殻と羽毛の玉。肋骨を思わせる茶褐色の小さな塊。滝から風とともに届く水の粒が腐敗した卵を干からびさせること無く覆っていた。
洞窟は行き止まりの壁から岩の割れ目のような通路が左右に別れていた。右の割れ目は直角に下降して小さな子どもでも通りぬけ出来ない。左の方は狭い部屋で行き止まりになっていた。なめらかの岩肌をした岩棚が何段かある、そこにも無数に散らばった卵の欠片が闇の中で白く浮いていた。一番奥の岩板には横たわったものがあった。それは人の形にも鳥の形にも見えた。手足の長い痩せこけた子供のようだったが肩から伸びた腕が羽に包まれ床の上を震えるように波打っていた。人ではない者は嘴のような硬い唇を開くと低い濁声を放った。
「あーたぁん」
その繰り返される声を聞くギルバーヂアは手を止めなかった。両の足爪、両の手爪と研ぎ終えても魅入られたように長く鋭く尖った黄色い四本の爪をしげしげと見詰めていた。そして砥ぎ石を嘴に当てるとゆっくりと先端を尖らせた。そこには強い痛みがあった。それでも強い者に憧れる彼は動きを止めなかった。
武器となる物を磨きあげた彼はすでに声が聞こえなくなった奥の岩間へ向かった。壁に向かい立った彼は目下にあるものを見た。
瞳を閉じていたが嘴のような口が開いていた。そこから触手のような長い舌が赤い粘液に塗れ垂れ下がり岩の上で輪をかいていた。羽が覆う長い腕を大きく開き岩板に投げ出した身がすでに軀となったと見て取れた。小さな軀を抱き上げると岩屋の入り口に立った。そこから森海の鮮やかな緑で覆われた光景が見渡せた。
ギルバーヂアに気づいた仲間達三人が身を休めていた大木の枝から洞窟へ飛び降りて来た。
「最後の雛が死んだ…」
ギルバーヂアは彼等に言った。三人は軀となった雛を確かめ、罵る言葉を口にした。
この三人はギルバーヂアより背が高く厳つい肩をしていた。確かに彼等の方が年上だと見えとれた。それでも彼等はギルバーヂアに頭を垂れ小さな軀を受け取ると言葉を待った。
「生き残るものは何人だ」
「すでに百人足らず…」
腕の羽を小さく脇に畳んだ中年の男が疲れた声で答えを返した。
「卵は孵らない。それを生む女も、もういない。どの岩屋も同じだ。我らは滅ぶために居るのか」
「滅ぶ……。そんなことはない。いやあったとしても覆す。卵を手に入れる。卵を産める者があれはそれを攫ってくれば良い」
「卵は女が持っていると老が言っていた…」
と、翼をとじたまま肩を震わせた年長の男が言った。彼の名はダイール。ギルバーヂアを育てた男鳥だ。
「女か…。なら、女を攫って来い。満月の夜までに巣を南の山中へ移す。水場と洞窟を探させろ。そして、女だ。浚えるだけの女を攫って来い」
ギルバーヂアは小さな軀を取り上げると空に舞った。そして鋭く磨き上げた爪で軀目掛けて振り下ろした。
二つに切り裂かれた軀が瀑布の中に掻き消えた。
風が創り出した洞窟を根城とする種族は天を駆けることを許された一族。身長よりも長い腕を持つことの許された民。天界と地界に住まうどの一族よりも醜くそして残忍な性質を持つ者達。
それは天の民。
別名、鳥族。

[Ⅰ] 卵


1.


――女鳥でない者が卵を産む訳がない――
――種族が違う――
意を唱える者が多かった。しかし、ギルバーヂアは攫ってきた女達を目の前にして言い切った。
――滅びるまで待つのか――
――俺達は、天を裂いても生き残る――
――女に種をつけろ――
新しく整えられた南の巣穴、羽を広げた雄(お)種(す)鳥(とり)の乱舞が満月の光を浴びて狂宴の場を作った。ギルバーヂアは冷たい視線で一人静かにそれを見ていた。
三日三晩の雄種鳥の狂宴が終わった。
女達の身に破瓜の血は無かった。確かに海の乙女だという眠りがあった。細い触手を伸ばし匂い立つ部分にぬるりと滑り込んだ途端、海の乙女達は目を覚ました。それが何であるか分からないうちに男鳥が身を離した。そして次の男鳥が手を伸ばし背後から肩を掴んだ時、悲鳴を上げ身を強張らせたが触手は狭い空間を抜け湿った中を蠢いた。恐怖の叫びが連呼すると長い翼を震わせた手が乙女の頭を掴み開いた口に嘴を突っ込んだ。
食ったのだ。舌を。血を流す乙女は喉の奥から恐怖の叫びを発し地を這いつくばって逃げ惑うが更なる腕が背後を襲い乳房を掴む。この狂宴から三日立たぬうちに一人の女が死んだ。自ら死を選んだ訳では無かった。食われた舌が化膿した訳でも噛まれた乳房から血が流れ過ぎた訳でも無かった。破瓜の血ではない血が股を濡らしていた。
「卵が死んだ…」
宴が終わった巣穴に舞い降りたダイールが呟いた。そして率いる雛(め)親(す)鳥(どり)の仲間に聞いた。
「女は何人いる」
「五人だ」
呆然としてはいられないギルバーヂアは叫ぶ。
「大事に扱え。腹に雛がいる。誰か、女の食物を取りに行って食わせろ」
雛親鳥が数羽下界に向かって飛び出していた。
南の巣穴にいる男鳥の数は三十人余り、その中で触手を伸ばし卵を受胎させる事が出来る雄種鳥は二十人と少ない。齢三百年。二百を超えると生殖能力が極端に落ちた。そうなると飛ぶ能力も衰え雛を育てる親鳥の役目へと移る。雛の巣から離れずただ巣穴を守り、雛を育てる雛親鳥。ダイールも遠くまで飛べなくなった。島をゆるりと見て回るだけだの腕力しか無かった。本能のままに雛を育てたいと思うダイールは不安な顔でギルバーヂアに言った。
「誰かが匂いの違う女を拐ってきた。奥の岩場にいる」
「匂いの違う女。海族か」
「ああ、間違いなく海族の女だ。魚臭い匂いがしている」
「逃げないように見張れ、俺は北の巣穴に行ってくる」

2  

北巌山の頂き。その巣穴には長老を頭に一群の群れがあったはずが男鳥の姿がない。何処かに巣穴を移動したのだろうすでにそこは廃墟と化していた。ギルバーヂアは、閑散とした場所を見詰めた。
奇妙な形の風蝕洞が仕切りの空間を作りながら取り巻く中央に見上げる高い天井がある。明かり取りのような穴が一ヶ所ポッカリ大きく口を開け漂う雲を見せる。その下に尖った岩が並ぶその奥、天井を支えていた石柱が風化して崩れ落ちたその間にだんだんの石筍が並んでいた。そこに取り残された者を隠すかのように岩と枯れ葉が乱雑にある。
石筍の窪みに微かに動きがあった。枯れ枝と枯葉に蹲った人影。干からびた腕を投げ出すように石壁に凭れて座る身は飾る羽は無く。力を象徴する両肩は肉が削げ落ち浮き立つ骨が皮膚に覆われ投げ出した足に絡んでいた。そんなやつれ果てたその老人の前で羽を畳んだギルバーヂアは頭を垂れた。
「成人を迎えたのか」
老人の枯れ枝のような長い腕が立ちつくすギルバーヂアの目前に伸びた。その指は額を覆う羽をめくるように触れ力ない言葉を放った。
「悲しいことだな。ラグル島には誰もお前の卵を産む者がいない。この島はもう男だけの世界だ」
石筍の縁を四本の足指でしっかり掴んだギルバーヂアは老人の前に屈みこんだ。そして自分の額から羽を一枚抜いた。白くフワフワした柔らかい綿毛のような毛先に黒い縞が混じっていた。いつの間に生えたのか気づかなかった。周りに居る者は気づいていたであろうが、誰も口に出来なかったのだろう。男鳥が抱える難問がある以上……。
「女鳥のように他の種族の女に卵を産ませたい。卵だ。教えてくれ。老」
ギルバーヂアはダイールの不安に満ちた顔を思い浮かべた。ダイールは感が良い。卵が、雛が死んでいく中、まだ雄種鳥だった彼は親雛鳥を目指した。種を蒔くより雛を育て上げる事が大事だと言いはり死にかけたギルバーヂアを育て上げた。親であるダイールが見せた不安を取り除きたい。
「我らは地界の者とは混じらない。混じろうとしても混じれない。我らは卵を育てるが、他の奴らは雛を産む。我らは空を飛べるが奴らは飛べない。だが、奴らは魔術を持ち我らに挑む。奴らは我らを毛嫌いし蔑視の眼を向けている。我らを滅ぼす機会を狙っていることだろう。気を付けねば滅ぼされる」
真剣な眼差しと虚ろな瞳が絡んだ。
「俺は番人にはなりたくない。滅びる種族の番人になるぐらいなら魔術師に挑み彼等を滅ぼすために命を捨てる」
虚ろな瞳に光が宿った。
「その心があるなら、もう一つの世界を目指せ」
「もう一つの世界」
「我らが飛んでいる空は、違う世界を隠していると聞いたことがある。もしかすると、もう一つの世界にも我らと同じ鳥族がいるやもしれん。卵を生む者が…」
「どうすれば行ける」
鳥族の老はしばらく考えた。
「地の一族は記憶の王宮を持っていると聞く。生まれてから体験したすべての記憶が迷宮のように分布した脳の襞に埋め込められ即座に取り出せる。彼等の記憶の何処かに我らの未来に繋がるものがあるかもしれん」
「地の…」
呟きを漏らしたギルバーヂアの脳裏は瞬間廻ったものがあった。それは、恐れ。外界を知らぬ恐れ。
「海族から匂いが違う女を拐ってきた」
「どんな、匂いだ」
「魚臭い」
「そうか。その女を大事に扱わなければならないな。子を宿している。子供は種族に送り返せ。それがこの世界の掟だ。それを守らなければ魔族が結束して襲ってくる。コソコソやっているうちはいいが、いずれは…」
老は最後の言葉を飲んだ。そして、力を込めて言った。
「ギルバーヂア。お前は死の底から蘇った鳥だ。その強運がお前を救うだろう。もう、ここへは来るな。後はお前に任せた。好きなように一族を纏めるが良い」
そう言った老は枯れ枝の中に身を横たえた。

3

美しい紅色が空を覆う夕時、また一人、高原族の女が死んだ。そして、夜の帳が下りる前に妖精族の娘も死んだ。
―やはり異種族間では種が合わない―
男鳥ははっきりとそれを感じた。
―残った女達が死ねば俺達は―
「道を探す。老が言われた。もう一つ違う世界があり、卵を産む女がいると…。俺が行って攫ってく」
 ギルバーヂアの言葉にダイールが声を上げた。
「違う世界。そんな世界があるのか。あるのであれば俺も行く」
「そうだ。ただ黙って死を迎える生き方なんか望まない」
男鳥達が次々に声を張り上げる中に、突然濁声が響いた。
「お前達に行きつけるものか。人のものを盗む事しか出来ぬ輩よ。わしの孫を返してもらう」
唐突の声が巣穴の洞窟に雷のように響いた。誰かが女達のために汲み置きした水樽の中からはっきりした言葉が響いた。そこから湯気が立ち上ったかと思うと人の顔を呈した。ギルバーヂアはその樽からさほど遠くない岩棚の上に異質な匂いのする女といた。
「孫‥」
ギルバーヂアは、人型の湯気に向かって呟いた。この時、彼が掴んでいた女は確かな仕種を見せた。
「お前等が攫った海族の女。ホルトログの南の森で攫った娘を返して貰おう」
ギルバーヂアは掴んだ女の肩に腕を回すと、細長い筒のような舌を細い首に押し付けながら囁いた。
「しゃべるな。喋るとその舌を食ってやるぞ」
首に舌先を押し付けた。それだけで舌が肉に突き刺さり血が流れた。それを啜ったギルバーヂアは美味いと思った。初めて味わった血の味に浸りたいと思う心を押さえ声を放った。
「今更、返す訳がなかろう」
「わしが誰だか知らぬようだな」
岩屋にまた嗄れ声が響いた。その場に居る男鳥は怯えを隠しギルバーヂアを振り返った。ギルバーヂアは女の首筋に魅入られていた。初めて味わった血の感触をもう一度確かめるために女の首筋に舌先を押し付けた。触手の長細い先端で波打っている部分を強く吸った。生暖かい感触が粘膜を覆う。めり込んだ触手は舌が覚えた食感を美味いと脳裏に伝え本能のままに味わい、舌なめずりすると言った。
「海王バジュラ…」
ギルバーヂアは海王を知らない。が、海族の深海から峻険巌山の頂きにある水桶に魔を掛けられるのはその者しか居ないと彼は直感した。
「なるほど、群れを束ねるだけの才はあるな。だが、鳥よ。ただ飛ぶだけで魔を持たず卵を繋ぐだけのお前達に地界の魔導師を相手できるか。わしは水のある所ならどこでも魔手を伸ばしお前の心の臓を握りつぶせる」
「確かに名高い魔術師。だが、すべてが見えている訳ではないな」
硬直した身体を引きずるように人型に近づいたギルバーヂアは勝ち誇った声を上げ、髪を鷲掴かんだ女の首を晒した。
「我ら鳥族は魔を持たぬが、代わりを持つ」
女の首から一筋の血が流れ落ちていた。それに気づいた人型は揺れた。
「お前が俺の心の臓を掴んだらその苦しみでこの両手は肉を裂く。くくくっ」
口ばしを開けて笑った。大きく開けた嘴から太く長い舌が空に伸び上がりゆらゆらと揺れた。それは奇妙な音となり洞窟に木霊した。
「俺達は滅ぶ。どうせ滅ぶならお前等を道連れにしてやる。お前達の女を、な」
ギルバーヂアは腕が抱いた女の口へ嘴を押し込んだ。そしてゆっくりと嘴を開けた。女の口が開いていく。恐怖が涙となって滴り落ちていく。
「待て。鳥‥。食うな。と‥り、いや、ギル‥ギルバーヂア殿。」
ギルバーヂアは動きを止めない。女の口がこれ以上は開かないと目を剥き、声を上げ乾いた舌を見せた。その舌に鋭い嘴が刺さった口蓋から血が滴り落ちた。
「もう良い。鳥の王、条件を飲もう」
女の口から離れたギルバーヂアは視線を人型に移した。バジュラの焦燥の顔がある。だが、彼のその言葉だけでは足りない。相手が降伏するまで手を休めては成らない。冷酷な心は女の乳房に磨き上げた爪を立てていた。雑食の彼等は生肉を食らう。それを知らぬ者は地界には居無い。唇から垂れた赤い血を舌で舐めニンマリとした表情がバジュラを向いた。それから羽交い締めにした女を向くとクククッと笑い声を上げ柔らかな乳房を掌で押した。細い身に似合わない大きな乳房がフニャリと揺れた。爪は胸を隠す布を引き裂き垂れ下がった乳房の上にある桃色の乳首を摘む。裂帛が岩の間に響き渡った。
「やめろ。すべての、すべて、条件を飲む…」
バジュラは声を上げた。

4


壮年の男鳥達が、口々に言った
「お前には、まだ無理だ。俺達に任せろ」
「今やっと成人したばかりの翼が三日三晩の難業には耐えられん。しかも往復だ。途中で力尽きれば・・」
「俺達が行く。次の満月までに地の一族から娘になる者を攫ってくる」
若い羽根が逆風に挑み三日三晩無限の空を飛び続けられるのか。不眠不休に心気をもぎ取るかもしれない。が、ギルバーヂアは首を振った。そして一人、初めての長旅に挑戦した。
目標を見失うと海の藻屑となると自身に言い聞かせた。不眠不休が心を乱し目標を見失うかもしれない。筋力の弱さが風力に負け波の間に消えて行くかもしれない。戻り来ることの無い自分を思った。しかし、岩屋には風の音が響いている。長年聞き慣れた子守唄様なヒュウーヒュウ―と長く細く鳴り響く。どの岩屋にも必ずある音がギルバージアに、お前の居場所は此処だと告げていた。

ホルトログの広大な大地までラグル島から丸三日休むこと無く飛び続け、やっと西側の樹海へ辿り着く。その樹海から地下に繋がる洞穴を探さねば成らない。地の民は地下を根城として生きている。
地下に潜ったなら翼は使えない。水晶の瞳を持つ彼等は夜目が効く。狭い地下通路をあかりなしで行き交う事ができ迷路であろうと迷うことがないのだと。その上、魔力で襲いかかる敵を触れること無く倒す事が出来る。我らはその地にあっては、地下へ潜っては成らない。地の民が気まぐれに地上に顔を出すのを待たねば成らない。年を重ねた者は、そう語った。そして若い同胞に、夢を託したのだ。
――お前は強運の持ち主だ。必ず獲物を獲ってくる――
――月の出の方向へ翔べ――
――月も星も移動する――
――脳裏が刻んだ方角を見失うな――
月の出と共に出発したギルバージアを、鳥男達は見送った。
月は彼の目標から少しずつ離れていくが、気にならなかった。日中は風の恵みがあった。日差しも羽根を痛める強いものでは無かった。雲も目標を覆うことなく月夜を輝かせた。
だが三日目、風は逆風となった。
渾身の力が尽き欠けたギルバーヂアは、眼下に海が迫ると気づかず飛んでいた。朦朧とした意識が黒い塊を見た。靄の中に切り立つ岩が転々と続いていた。しっとりと濡れた岩の塊と瀑布の滝を思わせる飛沫。意識がそこが休息の場だと招いているように感じ取っていた。睡魔が見せる幻だと虚ろな脳裏が腕を休めるなと命じていたが、心が岩を抱き締めたいと馳せた。
そして突然、白い靄が彼を包んだ。動きを止めた腕がポチャリと海面を叩く。
落ちた。腕が海の中にゆっくりと落ちていくのが分かった。 

――必要なのは誰よりも強い翼、強い腕、強い意志だ――
――強い者は何処にでも居る。地の底にも海の中にもそして闇の中にも呪術を使う者が潜んでいる。打ち勝つのは意志だ。覚えておけ、ギルバーヂアよ。奴らが呪術を使う前に腹を裂け。障壁となる彼等に挑み勝ち進まなければ卵を手に入れることは出来ない。天を駆ける強い翼を持て、敵となる奴らと向き合う強い意志を持て――
雛親鳥を纏めるダイールの声が、闇の中から響いた。それに重なるようにもう一つの声も響いた。
――何のために、何を手に入れたいのだ。ギルバーヂア。一族のためか。自分の資質を残すためか――
強い語気だ。誰か分かわからない太い声。瞬時に夢から覚めたギルバーヂアは、顔を上げた。誰の声と問わず只々、我を取り戻すために周囲を見た。闇が包む岩の上に倒れている自分に気づいた。
波の音がある。
生きている自分を見た。波に洗われた羽根を窄め身震いをした。傷は無い。岩の上に身を投げ出して気を失っていたのか眠っていたのか、分からないが薄闇がもうすぐ朝を呼ぶと感じた。だが、立ち上がったギルバージアはしばらくの間動けなかった。方角を見失っていたからだが、耳に微かな音を捉えたその瞬間岩を蹴っていた。
朝を告げる鳥の声が小さく聞こえてきた。
穏やかな凪の岩場が霧に包まれ点々と覗く。ホルトログの領域であると感じた。未知の島が白む前に身を隠せる場所を探す。

ラグル島、森林の大地。身を隠し休める場所は豊富にあった。大僕の虚をその爪で掘り横たわる場所を作った。
夜陰を待った。脳裏は何故か鮮明だった。外界から聞こえる物音が鼓動を高め眠気を寄せ付けない。奇妙に聞こえる風の音、空を行く食料となる獲物。腹が異常に空いていた。満たしたいと思う欲望があったがそれ以上に異なる地への恐れがあった。外界が奏でる奇妙な音は脅威だ。
音に慣れろ。ギルバージアは自分に言い聞かせた。聞こえくる音は自然の音なのだ。あちらこちらから色々多様な強弱のある音がしきりにするが攻撃する音では無いと、半日費やしてやっと理解した彼は眠りに入った。
目覚めた時、すでに月が輝く夜となっていた。
虚から身を乗り出したギルバージアは、何処を目指していいか分からない。
とりあえず月を目指した。新月から十日目のやや太った月。それは下界をはっきりと照らしていた。
樹海はやがてまばらな林へと変わった。それでも月夜は彼を招いていた。羽根を休めることなく飛び続けると林は草原となった。
緩やかな傾斜にデコボコの岩が飛び出た草地が遥かに続いていた。
風は水を含み穏やかで心地良い。塩に塗れた肌を優しく撫でて通り過ぎていく。
空を横切るものもいない。安息の心地に、巨大な岩の塊が写った。そこから光の筋が見えた。はっきりと分かる青い光の筋。そこが地底への入り口なのかと自分に問うギルバージアは惹かれるように青い光を目指した。
人の気配を確かめ音のない静まり返った大地に降り立った彼は青いと見ていた光の色が紅色に変わっていることに気づいたが躊躇うことなく岩屋の狭い入り口に立った。そして、両の指先を見た。旅立つ前に丹念に磨いたはずだがひび割れ欠けていた。それでも戦える。意志を固めたギルバージアは足を踏み出した。途端、匂いが鼻を付いた。空腹を呼び覚ます匂い。急に空腹が彼を襲った。
足が無防備に臭いに導かれて木製の扉を押し開けていた。青白い光が眼を差した。
「遅かったな。ギルバージア。待ちくたびれたぞ」
太い声が言った。聞き覚えのある声と思った瞬間、入り口の扉が勢い良く閉まった。

5.

弾け飛んだ瞳は、部屋を一巡し羽根を広げ身構えた。戦いは有利と脳裏が答えを出した。広い部屋の中央には匂い立つ食材を置いた食台が一つあるだけだ。その食台に備えられた椅子に白い髪の男が平然と座っていた。白い髭を蓄えたその男は大理石のつやつやとした石を思わせるような白色の肌で、瞳が水晶のように輝きを放っていた。岩屋のような高い天井を瞬時捕らえたギルバージアは、羽根を広げ相手の懐を狙えると、食台の向かい側にゆったりと座る相手を見た。
「気に要らないのか」
白い塊のような相手は、太い声で言った。
「わしに用があるのだろう。そのために海を渡ってやって来た。一人で良く三日間、飛んできたな。歓迎とは言わないがくつろいでくれ。お前さんに合う食事の用意をしておいた。心配はいらぬ。バジュラから聞いた。今は休息を取るが良い。わしには時間は、十分にある。お前よりな。隣にお前好みの寝間を用意しておいた。腹を満たし休むが良い。わしのことは気に掛けるな。隣の二階に小部屋を制作中だ。窓の付いた見晴らしの良い、恋人達の寄り添う部屋にしたい。一番デカイ水晶窓をはめ込んで夜景を楽しむ。さあ、取り掛からねば。お前は食べて飲んで寝ろ」
そう言った老人はすっと姿を消した。取り残されたギルバージアは瞳を見開いたまま呆然となった。
灯が招きの合図だったのかと緊張を解いた口元に笑みが浮いた。掻き消えた老人の心中が無償であると感じた。そして、心を奪う色鮮やかな食卓を見た。
胃袋が満たされると眠気が押し寄せてきた。卵を繰り抜いたような岩の窪みにコケが敷き詰められていた。枯葉の寝床より気持ちが良かった。ギルバージアは満たされて眠った。そして、夢を見た。緑の草原に一本の灌木が見えた。枝にはタワワに実った赤い実が揺れていた。その実を細い指がもぎ取り頬張る乙女達の姿を見た。背中に羽根がある乙女達だ。腕に羽根は無い。攫ってきた女達のような姿が黒い影に恐怖を表し飛び去った。後に残った灌木の実をもぎ取る鳥男達を見ているのはギルバージアだ。
ギルバージアは夢から立上ると、身を休めていた薄暗い部屋から明るい広い部屋へと出た。そしてあらためてその部屋を見回した。何一つ無い広すぎる空間。つるつるとした初めて触れる床の感触に壁に手を当て足を滑らせた。飛び立つには不向き、だが爪を立てれば飛び立てると、高い天井を見上げた。
「いい部屋だろう。わしの力作じゃ。地下故に窓は無いが白亜に蛍石を取り込んで見た。石が光るから明かりは要らない。俺等には眩いが、お前さんには調度よい明るさじゃろう」
突然の声にギルバージアの身体は波打った。背後から発せられた声を聞くまで気配を感じなかった。恐怖がギルバージアに迫った。
「心配するな。取って食いはせん。我らは石喰い。雑食では無い」
突然現れた老人と食卓と椅子。それだけでも恐怖が包むが更に背後を取る声が響く。
「この方は地の一族の呪い師を束ねるソウマ師ジュカルビ様。私は弟子のハイアラード。食卓を整えましょう」
言葉が終わらないうちに匂いが立った。心馳せる匂い。と、思う間に食卓にあふれんばかりの彩りが並んだ。背後に立っていたのは長身の男だった。明るい亜麻色の髪をした無防備な長衣を纏った緑の瞳を輝かせたその男はギルバージアのために杯に飲み物を注ぐと静かに食台に差し出した。
「俺はお前達の仲間を浚いに来たのだぞ」
ギルバージアは平然と食卓に座った二人に荒い言葉を放った。しかし大皿に焼いた肉を取り分け彩りの果物を飾るハイアラードは手を止めず、これが仕事と言うように無言で続けていた。
白い塊のような老人ジュカルビは座れと合図した。それに従ったギルバージアを確かめたジュカルビは口を開いた。
「それを話しあうために、食卓を用意した。我らはお前さんに差し出す娘はいない。これからも同じだ。海族も妖精族も、この地界に住む住民達は誰ひとり、贄は差し出さん」
「その言葉を受け取って帰っても良いのか。こちらには…」
「みなまで言うな。分かっておる。お前さんが目指そうとする天界には鳥族はいない。卵を産める者達もいない。諦めることだ」
「それで引き下がると思うのか」
「いや、思わん。ムキになる。だから、わしなりの解釈をした。誰かに雛を産んでもらえば良い」
それはもう試した。無残な結果だったと、ギルバージアははっきり顔を曇らせて言った。
「生まれない。皆、死んでいく」
「死なせなければ良い」
「死なない女がいるのか」
「皆,何時かは死ぬ。お前さんもわしも…」
「まわりくどい言い方をするな。爺さん」
「諄く言わねば有難味に欠ける。お前さんは頭の良い子だ。閃きがある、意志の強さも孤独に立ち向かう気力も、そして引くことも心得ている」
ギルバージアの額羽根がぴくりと動いた。やはりなと言う顔付きになった。激を飛ばすこと無くその場の雰囲気に合う穏やかな言葉で言った。
「やはり、引けと言うのか」
「その通りだ」
強張った顔が折り畳み床につく肘を支えに立ち上がる仕種を見せた時、ジョカルビは慌てて声を放った。
「今引いてもらっては困る。苦労して作った料理が無駄になる。さあ、食って飲んで笑え」
食って飲んで…。それが地の一族の主義なのか。
「笑えるか」
憤慨を表したギルバージアが叫びに似た言葉を放った。だが、
「笑えるさ。笑ってもらわねば困る」
と、ジョガルビがニヤリと笑い顔をつくった。その眼に赤い光が灯った。

[2] 実

1.
ギルバージアは確かに笑みを浮かべた自分に気づいた。
彼は上空にいた。帰りの空だ。ホルトログの大陸からラグル島への帰り道、ジュガルビに教えられた海域を飛んだ。すると逆風を半日飛び続け疲れた瞳に幻のような白い塊が見えた。眼を凝らし先へ進むとそれははっきりと分かった。砂浜だ。それも眼にも鮮やかな白。
紺碧の水の上に真っ白い砂地が現れていた。その白い円を描いた中に、真っ平らな四角い岩が砂地の上に顔を出していた。
ギルバージアは青海の中で眼に眩しい色鮮やかな光景に笑みを浮かべていた。
巨大な黒い岩石と白い砂地は彼を招くように瞳に写った。招かれるままに岩の上に立ち、それが海面に現れた不思議を思った。行く途中にはそのような物は眼に付かなかった。鳥族の誰もその事を教えなかった。知らなかったのか。知っていても、教えられた経路から反れているこの場所は休息の場として使かわれた事が無かったのだろう。
――その場に身を休める時間は限りがあるが、十分に休息は取れる――
ジョガルビの声が脳裏にある。
――岩場は羽根を休め入眠出来る――
なるほど、とギルバージアは頷いていた。
得体のしれない一族の呪い師だが、偽りを言ってはいないと悟ると何故か心に掛かった。
呪い師ジョガルビが言った言葉を掘り起こした。
「太陽と月を挟み、二つの重なりあう世界がある。人間界とも呼ばれる天界と我らが住む多種族の地界。天界には白帝、地界には黒帝の魔手が支配している故に、二つの世界は交じり合ってはいるが行き交うことは出来ない。天を駆ける事を許されたお前達であっても同じだ。わしの持つ記憶には、我ら地界の者が天を目指したことなぞないが、これから先に現れないとは限らない」
言葉を切ったジョガルビの紅色の瞳が、光を放ったように明るいとギルバージアは感じた。そして口を噤んだまま、予見のような言葉を聞いた。
「月と日が風を呼ぶ。風が地界を覆う羽衣となり星を産む。星は行く手を示す。赤と青、白と黄色と星には色がある。今のこの春の季節は赤.い星が支配する。赤と青の星の位置を頭に刻め、赤い星を視点に青い星が何処にあるかを探す。日は季節を告げる。日と月が天上にある時、始まりを示す。始まりには形がある。形は大地を隠す。隠れたものを風が表す。忘れるな。ギルバージアよ。現れた時の立ち位置を忘れるな」
ギルバージアには、ジョガルビが言う言葉の奥底が見えない。そこへ助け船を出したのが弟子のハイアラードだ。彼は柔らかな笑顔を見せて語った。 
「ソウマ殿は地界の夜空が、表す季節を言われているのです」
明るい亜麻色の髪がしなやか流れ顔を隠すように覆う。その間に緑の瞳が輝くその瞳の色が一変し、紅色を呈した。
「地界では、星の色が節目を表す。節目は四つに別れ、四つの色で季節を教えている。赤、青、白、黄色が天上に輝き季節を知る。今は赤い星の季節。赤は宮(みや)、青は盛(さかり)、白は和(なごみ)、黄色は基(もと)の季節、赤い星が真上に来た時、次の季節が天上の何処にあるかを探す。青は次の盛の季節、白い星は和の季節、そして黄色の星が天上にある時は動いてはならない。基の季節は不浄を取り去る季節だ。あなた達一族は語り部を持たないのだな。長となる者は伝えねばならない…」
だから、滅びかけているのかとギルバージアは岩の上から砂の上に降り立った。足底が触れた初めての感覚だった。身体の重みを受け止めてはくれない不安定な感触が心地良いと感じた。身を屈めて湿った一塊を手で握り締めた。そして弄んだギルバージアの脳裏に、砂は心地良い感触として確かに残った。だが、砂が乾き嵐となって襲う脅威があることをこの後知るのだ。そして、そこで出会う者が彼の乾いた瞳を潤ませる。
砂地が浸され始めていた。白い砂が消え失せ波が岩を洗うようになった。
――飛び立ち帰路を目指せ――
ジョガルビが叫んでいるように感じた。
彼等は何故ギルバージアに教えるのだろう。海族の女が人質だからか。それだけでは腑に落ちない疑心が残った。それは、もう一度あの場所へ帰りたいと思う心を生んでいた。
仲間の雄鳥が島の上で群れていた。
明らかにギルバージアを待っていたのだろう。手荷物の無いその姿を見た者達が失望すると思ってはいた。確かに失意を表した男鳥が岩戸に頭を垂らして座り込んでいる。
巣穴に戻ったギルバージアは一休もせずに声を上げた。
「バジュラの孫を送り返せ」
――人質は開放しない――
――人質がいなくなれば、海族の魔手が我らを襲う――
――俺達は最後まで希望を繋ぐ――
「希望はある」
ギルバージアは強い口調で叫んだ。
「俺は、地の一族の呪い師にあった。呪い師の頂点に立つ老だ」
「老…。我らの老より賢いのか」
「もちろん。俺が行く手を照らし導いてくれた。だから…」
ギルバージアは羽根を広げて見せた。つややかな羽根に傷ついた箇所は無い。ゆっくりと腕を上げ羽ばたきを見せた。
「地の民の老は言われた。我ら種族を救う道は一つ。天界の白一族が育てるネコアの樹の実を手に入れる」

2

――天界とはなんだ――
鳥族には口伝が無い。三百年の齢を生きゆく者達なのに子孫に残す知恵が無いのかとギルバージアは縮めた腕を抱いた。そして周囲に転がる女の遺体を見た。残忍が鳥族の資質だ。欲のままに食し、只命を繋ぐ。
ホルトログの呪い師は違った。仲間を守る知恵だけでは無く異種族の危機を回避する知恵も持ち合わせ、異なる種族を歓迎する慈悲もある。その慈悲に今は縋るしか無い。
――無理だ。異界だ。我らが足を踏み入れられない域だ――
「それでもやらねばならない。どうせ死ぬのなら負ザマな死に方はしたくない」
ギルバーヂアの自信に満ち溢れた声がはっきりと響き渡った。
「初めに地界の地帝に挑む。そして、異界へいく。異界に君臨する帝の城から生命の実を盗み出し、ここを聖地に変えて見せる」
 ――聖地――
その言葉を知る男鳥の奇妙な鳴き声が、巣穴の岩戸に響き渡った。
――光輝く場所だ。清涼の風が取り巻く所――
 ―――そんな場所は俺達に似合わない――
甲高い怒涛の響きは鳴り止まない。
「チサ草原に巣を移す。雛親鳥達は、草原に住む野獣を根絶やしにしろ」
――駄目だ。あそこは荒野だ。水場がない――
ギルバーヂアは歪な岩が地上に顔を出すラグル島中央のチサ草原に巣を移すと言った。その言葉に彼に従う仲間達は反する声を上げた。
「地中深く穴を掘れば、水が溜まると地の呪い師の老が教えてくれた。チサ草原の何処かに地下に繋がる風穴があり、地下通路から水源を繋ぐと…。探しだせ。未来を繋ぐ気があるなら…。そのためには、地下の水が必要だ。穴を掘れ。地下水源を見付け出せ。我らは両方が必要だ」
 座り込んだギルバージアの目前に干からびた女の遺骸が横たわっていた。肉をもぎ取られ大腿の骨を晒した遺骸には乳房も目玉も無かった。周囲を見回したギルバージアの表情に気づいたダイールが歩み寄ると同じ様に足を抱えて座った。
 「全ての女が逝った。このまま続けても駄目だ。実が女の命を救うのであれば、その希望に縋るしか無い」
 何時も静かな言葉を放つダイールは、今も物静かにそう言った。だが岩屋に集う者達は違う。
 ――コネアの実は、卵を守るのか――
――女はもういらないのか――
 立ち上がったギルバージアは夕闇が覆った岩屋の中に蹲った者達が灯す瞳の輝きを一見すると言った。
「コネアは奇跡の実だ。死に掛けた者を生き返らせる。その実があれば、卵を蘇らせる」
男鳥に歓喜の声が上がった。希望を手にした者達には、笑みがある。その顔を見回したギルバージアはダイールを振り返ると囁くように言った。
「この岩屋から水を一掃しろ。バジュラに俺の行動を知られたく無い。娘は明日の朝、腕力の強い者二人に送り届けさせろ。事が収まるまで、俺達の動きを悟らせるな。万が一のために、な」
と言葉を放つ瞳は得体のしれない不気味な輝きに包まれていた。その脳裏はホルトログの大地にあった。
「笑う前に笑えぬ話を先に済ませるか」
ホルトログのソウマ師ジョカルビは、鋭く光る赤い瞳でギルバージアを睨み付けるとそう言った。
「自制出来る者であれば良いが、鳥族の習性は恐ろしい」
食台の上で両肘を付いたジョカルビは、動きを止めた。動きを無くした身体から語る言葉は無い。ギルバージアの瞳が空を泳いだ。何を言いたいのか予想できないのだ。
「種を蒔く習性ですよ。一度、種を蒔く事を覚えると自制が利かず暴動と化す。女鳥がいなくなった原因も一つはそこにある」
と、ハイアラードが物静かに言った。
「次の満月に鳥男達を自制させられるか。させられるのであれば、多いに協力しよう」
ジョカルビはまだ無動にある。組んだ手が口元を隠して声を放っていた。
「今度の満月は、お前も自制し皆を治めろ。それができるのであれば笑える」
大きく頷いたギルバージアは、出来ると言った。
この時ジョカルビの記憶の宮は、整列した記憶の扉を開けていた。鳥族の習性。孫を繋ぐ機能。額羽根を付けた者達は種を蒔く者達、種を撒いた者達が額に羽根を飾っているのだと。
だが、この記憶は間違っていた。
ギルバージアはまだ種を撒いた事の無い、雛鳥だったのだ。種を撒いた事の無い雛鳥は、自制を言い渡たされそれを守った。守る事が出来る身だったのだ。それを見抜けなかったジョカルビは激しい後悔に苛まれ、記憶の宮を閉ざせと遺言を残す。
死の直前まで鳥族に加担した罪は消えないと涙と後悔を口にし続けたそれは、このギルバージアの仕業にある。種を蒔く欲望を天界の女人達に求めるのだ。その最初の犠牲者は、風の民の王妃だ。貞淑な妃は夫と民のためにその身を捧げ食された。その残忍な行いを伝え聞いたジョカルビは激震の声を上げる事となる。
今は、残忍を見せずに囁くようにダイールに言った。
「女を攫うのは、天界からもどった後だ。聖地を造り、結界を張る。奴らが攻めて来られないような島を作くらねば・・・。協力してくれるだろう」
「ああ、我が一族のためなら骨身は惜しまない」

3

鳥男達は種をまく満月の三日間をチサ草原で過ごした。鳥族の歴史の中でこれほど静かな満月の宴を過ごしたことは無かった。
彼等は日中、広大な草原をさまよい嘴で土を突き地質を探った。両手で獣の住処を掘り返し血と肉を食した。彼等はただ地下の入口を見つける事に没頭した。
そして、疲れた身体を葦に茂みに横たえ小さく畳んだ手足を羽に隠し両手で頭を抱えて眠った。
 その必死の心が叶った。
地下入り口があった。
チサ草原一体に広がった地下鍾乳洞の入り口を発見した。
地下の洞窟は地上の岩屋に似てはいるが格段の差があった。ひんやりとした冷気で覆われていた。羽根を小さく畳み手関節を器用に動かし一人がやっと通り抜けられる通路の壁を弄り高い天上を見上げ、行き止まりで引き返し足を水に濡らし懸命に奥を目指した。そして突然開けた空洞に、声を上げた。
羽を広げて飛べるのではないかと思える広い岩の空洞があった。
奇妙な岩を垂らした高い天井。天地を支える柱のように見える岩が並んだ場所。その横には牙のような鋭い岩が整列し奇怪な形がある。それらを一望した瞠目は、奥の風景へと魅せられた。空洞の奥には水を張った入れ物のような段々岩が見えた。その中に透き通った水が天井から盛れる光を受け止め揺らいでいた。
鳥男達は、別世界のように白く輝く石の世界を飛び跳ねた。
ギルバージアも驚嘆の瞳を牙のように突き出た驚異の光景を見詰め、どちらが上なのか下なのか分からない岩の幻想を楽しんだ。
しばらくして、ジョガルビの言葉を思い浮かべた。
 ――地下の更に下に水脈がある――
 ギルバージアは雄種鳥と共に更に下へ続く道を探した。羽を持つ彼等は、細く入り組んだ狭い風穴を通り抜けるのは困難きわまり無かった。冷たい雫が身体を濡らし信じられないほどに冷えを呼んだ。彼等はそれでも未知の世界に挑み種をまく習性を忘れた。
 
 ジョカルビが求める清らかな場所があった。
勢い良く流れる清らかな水。地下だというのに地上と変わらない灯を持つ場所。高くも無く低くもない天井。
知識とは素晴らしいものだとギルバージアは思った。
――光を嫌い、光を好む――
――清い水の溢れる場所――
この場所が木の実を育てるとギルバージアは一人ほくそ笑んだ。
バジュラの孫は返した。約束通り無傷で。だから奴らは約束を守る。ギルバーチアの内心はすでに勝利を得たかのような喜色にあった。
だが彼はジョカルビが言った最後の言葉を忘れていた。
――土は愛を求める――
月が欠け始めると仲間達に向かって言った。
「風の季節を迎える前に、地帝の島へ乗り込む」
その言葉だけで拍手が起こった。
「しかし、地帝が住むヘガルガ島へどうやって行くのだ」
 ダイールが問う。
「黒の一族の王ウィリオズは夢喰いだ」
「夢喰い・・・」
ギルバージアは、その言葉を知らなかった。眉を潜めた顔をダイールに向けた。
「地帝ウィリオズは地界随一の魔術師だ。悪霊をも彼の手に掛かれば空をとぶ蝶のようなものだ。おまけに人の夢を横取りし悪夢に変える無情な奴だ。油断すれば、夢に食い殺される」
ダイールは不思議と物知りだ。普段から無口な彼は良く物事を見聞きしているのか問うと必ず答えが返ってくる。それはギルバージアを和ませた。今もそうだ。笑みを浮かべたギルバージアは言った。
 「そうだ。それでも、ヘガルガ島へ行く」
 無理だと、ダイールは頭を抱え込んだ。対峙する前に、ヘガルガ島へ足を踏み入れる事が出来るのか。魔の島に入り込んだとしても、黒族の根城に入り込めるのだろうか。魔を使う相手とまともに勝負出来るか。疑心が胸裡に渦巻く。
 配色を見せたダイールの表情を掴んだギルバージアは額羽根を振りわせて笑った。
「地の呪い師の老が笑えと教えてくれた。そして、良く見ろと・・・」
「見る・・・」
ダイールは呟いた。そして見るとはどういう事だと、深く考え込んだ。

4

草原の朝は異常なほど騒がしい。夜明け前から朝を告げる小鳥がけたたましく鳴き始めていた。ギルバーヂアはその草原で朝を迎えた。夜明け前は、かなり冷えを感じた。
寒さは羽を窄め手足をその中に隠してしまえば良い。柔らかな土も乾いた草も、海の砂より香り高く感触が良いと感じた。
鳥族の習慣は、寝間を岩屋の奥深い
風も光も通らない淀んだ場所を選ぶ。何故なのかを知らない。誰も答えを返してはくれない。ダイールも知らないと言った。だが、我らは群れで行動する、誰かが岩屋を安全な場所と選び定位着したのかもしれない。それでは岩屋で無くても良い。
次の日は島の西側にある湿地帯で一夜を過ごした。ここはダイールの気に入りの場所だ。日中腹を満たすために訪れていたが、夜を過ごすのには些か渋面を呈したダイールだがギルバーヂアの横にいた。
「もう種は撒かないのか」
と、ギルバーヂアはダイールに聞いた。
「ああ、撒くさ。卵を産める者がいたら誰より先に種を付ける。俺はもう歳だ。完全に雛親鳥になる前に自分の卵を手にしたい。だから・・」
言葉を切ったダイールはギルバーヂアをじっと見た。
「お前には悪いが、お前が攫ってきた最初の女は俺が頂く」
その言葉でギルバーヂアは嘴を大きく開けて笑った。鳥族に愛はない。攫ってきた物は共有なのだ。女でも獲物でも、ギルバーヂアもいずれ女を攫う心積もりである。その最初の獲物を雛(お)親(や)であるダイールに譲る、約束すると言った。 
この約束。ギルバーヂアとダイールの絆が交わした約束。二人は左の四本指を差し出し三本の指を絡ませて笑った。鋭く研ぎ磨かれた戦うための鋭い三本爪と掴む物を傷つけないためのつめ先が丸まった指は約束を確かに受け止めた。しかし、それは後にダイールの命を奪う事になる。更には、ギルバーヂアの心に残忍を確定させてしまう引き金となるのだ――。
 ラグル島に住む鳥族はギルバーヂア達だけではない。鳥族の老を頭とした一群が北側の峻険の山脈に個々に別れて隠れ住んでいる。すでに老は命尽きたはずだ。後を束ねたのは誰であろうと気になるダイールは呟く。
「北の奴ら最近、姿ないな。ラグルを出て行った訳でもないが飛んでる姿もない。何処へ移動したのだ」
 湿地帯は食の狩場だ。そこで一日を過ごした二人は獲物を狩る者に出会わなかった。
 ギルバーヂアは何も答えなかった。

3] 地帝  1


 血。赤黒くねっとりとした液体が、左肩を濡らしていた。
 肩から反り返るように生えた真新しい羽が中程から折れ、そこから滴り落ちる血が風に煽られ顔にも掛かった。血の匂いが生きる証のような拍動を呼び覚まし、眼に刺さる明るさが真昼であると気づかせた。
 身動ぎ周囲を警戒するように耳を澄ますのは、鳥族の若い雄種鳥ギルバーヂアだ。
彼は、記憶の糸を捲った。
ホルトログの大地から東へ二日飛んだ。引き潮の岩場で休憩を取り飛び続けると、白い煙が二本立ち上った円錐の山を中央に持った荒野のような島が見えてきた。
 ジョカルビが指示した通り、島の上空を飛ぶギルバーヂアは風に漂う嫌な匂いに顔を顰めた。その匂いから逃れようと下降したが何かに弾き飛ばされた。彼は手を差し出して眼には見えぬ障壁を弄った。確かにそこに見えない壁があった。
 これが結界。ギルバーヂアは、ニマリと笑った。何時かこの業を手にする。心の奥底にそれを秘めた彼は、ジョカルビの言葉に従い上を目指した。
――白く立つ登る煙を目指せ。唯ひたすら――

これが痛みなのかと思えるドクリドクリとした熱い感覚が全身に響いていた。座り込んでいる頭の中は、急下降と身体が受けた激しい衝撃で中身が飛び出さんばかりの攪拌状態にあった。
出血と全身を包む痛みが、霞む朧な視界と途切れた記憶を取り戻そうと焦った。フラフラと視点の定まらない身体は、立ち上がる事が出来ず折れた翼に手を掛けた。
天空から落ちた。それは、分かった。
何故、落ちた。ギルバーヂアは自分に問う。
答えは、白い煙が放つ異様な臭いだ。必死で煙の中を飛んだ彼は思い切り異種を吸い込み激しい頭痛と吐き気に襲われ、腹の底から何かが飛び出しかと思うと記憶の光が消えた。
再び光を感じたのは激しい衝撃を受けた時だ。
地面に叩き付けられた、脳裏が刹那に感じた。だが、何が起きたかが分からなかった。
血の臭いを嗅いだ時、全身が大きく波打った。身を投げ出し、眼を見開いて青空を見ている自分に気づいた。
身を起こそうと藻掻く腕が重い。羽根が思うように開かなかった。足が強張り曲げる事が出来なかった。何が起きたか考える気力が無かった。しかし、血に交じる異臭を感じた時、脳裏が弾けた。
地上に叩き付けられた。その衝撃が、折れた翼と全身を強張らせる違和感だ。身体が受けた衝撃はそれだけではない。白い煙の異様な匂いに絡め取られ気を失ったその後、長い間転げ落ちた振動が脳裏を撹拌していた。
無意識が地面に爪を立てていた。
まだはっきりとしないぼんやりとした意識は右手を見た。霞む視界はそれでも、折れ傷つき土に塗れた爪に流れる血を捕らえた。鋭く磨き上げた両爪が急斜面を滑り落ちる身体を止めたのだと伝えていた。
折れ垂れ下がった翼の痛みも土にもぎ取られた爪の痛みも、初めて知る心地よさだった。
その痛みが奏でる心地良い余韻。いつまでも浸りたいと思うのは、鳥族の習性なのか、彼自身の性質なのかを知らないギルバーヂアは、完全に雄種鳥に成長し四枚羽を背に飾っていた。
ギルバーヂアは立ち上がると見開いた瞳を周りに向け、人影のない黄色く荒れた山肌を見回した。木も草もないだった広い急斜面が、目前遥か上へと広がっていた。その頂きに白い煙が立ち上っていた。

 黒の一族。
彼等がどんな生活を送っているのか、地の世界に住む者達はほとんど知らないとジョカルビは言った。ただ彼等の王である地帝は、特殊な魔術師なのだと――。
 「お前さんは、世界を知らぬヒヨッコじゃ。知らなくともお前さんに似合ったものが、お前さんに会いにやってくる。すれば、お前さんの価値が分かる。今と変わらぬ価値であれば良い。残酷を持ちあわせてはいるが非道ではない。忍耐も、知恵を磨く力もある」
再びホルトログを訪れたギルバーヂアにジョカルビが言った。
「ソウマは、今の貴方を気に入っていると言われている」
 背後からハイアラードの声が響いた。またしても唐突の現れ方だ。
 「我らは地帝に、刃を向けることは出来ぬ」
と、ジョカルビが強い語気で言った。
「これが地界の暗黙の約束。黒の民が居て我らがいる。我らが居て黒の民がいる訳ではない。我らは地帝の意志で生かされている。お前さんもわしも・・・」
それは大事なことなのだとギルバーヂアの心は刻んだ。
頷いた彼の横に立ったハイアラードは空を掴む仕種をした。するとその手の下に、腰を下ろすための椅子が現れた。
ギルバーヂアの瞳は突然、現れた物に釘付けになった。背もたれが変わった形をした細長い椅子にハイアラードは足を投げ出して座った。そして肘掛けに身体を擡げて無造作に垂らした髪をすくい上げた。
鳥族は、生活用具を持たない。その場にある自然の物を使う。初めて訪れた時は気づかなかったが色や形ある物が部屋を飾っていた。それだけではない。女の匂いも男の匂いも持たないハイアラードが額や耳や首筋を飾る光輝く物に興味が注がれた。その見詰める心は穏やかだ。
横に並んだハイアラードはギルバージアの顔を覗き込んだ。表情を変えない顔に小首を傾げて言った。
「地帝によって地界の均衡が守られているのです。地帝は、我らにとってこの世界の王です。地帝の発した言葉には、従わなければならない・・・」
だが、まだ世界が始まってから一度も帝命を受けたことがないが――と呟くジョカルビは更に言う。
「分かるか。ギルバージアよ。お前さんが行こうとしている場所は要塞だ。一度は眼を瞑った海王も帝命を受けたからにはそれに従う。殺れと言われたなら、お前さんを殺る」
 「死を覚悟で望むなら、地帝の島へ入り込めないことはないでしょう」
 分からないと黙りこむギルバージアにハイアラードは静かに言った。

 右腕を大きく動かすと肩関節がポキンと音を鳴らした。ここも激突の衝撃を受け脱臼していたのだ。肩を回すギルバーヂアは何故結界を抜けられたのかを思った。広い荒野のこの場所がヘガルガ島に間違いはない。魔術師が住むこの地に奇跡のように紛れ込めた不思議を思った。
 空は日が傾き夕暮れ時に変わろうとしていた。
風で血は乾き赤い塵となって空に飛び散った。すると急激に煙の臭いが鼻をついた。
折れた翼と痛めた肩では飛ぶことは出来なかった。それでも崩れそうな身体は悪臭と言える臭いから逃れるために山を下り始めた。
鼻がもげそうな異臭で再び気を失ってしまいそうなギルバーヂアは、その嫌な臭いから逃れるために必死になった。小さく丸めた腕で折れた翼を支えた不安定な身体が急な坂道をよろめきながら下っていく。煙が立ち込める場所から逃げるために唯ひたすら歩き続けた。
木も草もない荒野を歩く奇妙な人物を島に住む者達の眼に触れないはずがない。だが、人影どころか荒地には音が無かった。見回す大地は、無音の荒地だ。ここが本当にヘガルガなのでろうか。

成功するとは思わないが、もし地帝の島に入り込めたらと、ギルバーヂアは心の中で言った。
――心配するな。必ず島には入り込める。結界を抜けた鳥族の記憶がある。後は運――
 楽しそうに声を上げて笑うジョカルビは記憶の中だ。ギルバーヂアは笑うどころか真剣な眼差しで足を取られる荒野を下り平坦な草地へ辿り着いた。それでも、臭いは追いかけるように漂ってくる。
日が落ちた大地に闇が広がる。闇は、ゆっくりと外界の全てを包んだ。
もたもたと歩く身体はやっと臭いから逃れられたと大きく息を吸った。すると、今まで漂っていた空気が変わったと感じ取った。
滝の匂いだと感じた身体は、崩れ落ちた。近くで滝の音がしている訳ではない。ただ漂う風が水を感じさせた。 霧のようにひんやりと傷つき火照った羽を包み込み通り過ぎていく風は、ラグルの瀑布の飛沫の匂いだ。その匂いが疲れ果てた身体を癒した。すると、脳裏が鮮明になった。冴え渡るとまではいかないが、スッキリした脳裏は、やっと周りの気配に気づいた。光のない闇の中に佇んでいることに気づいた。そこが森だと気づくのにしばらくの時を置いた。
繁茂の枝を茂らせた鬱蒼の森にいた。辺りを包み込んでいた香りが、この森の香りだと気づいた。
 空から見た島には緑なす茂みは無かったはずだと記憶を括った。更に、人の影も無かった・・。
島民は地の民と同じ地底人なのか。それとも海族のように夜行性なのだろうかとギルバーヂアは想い捲らした。そして、闇の中を再び歩きはじめた。
夜半を過ぎると、月が登り始めた。
すると、ギルバーヂアの足が止まった。灯が点ったと思った。遥か先の方に一斉に灯が点ったと思うとギルバーヂアの目前にも一瞬に光が走った。いや、光が灯ったのだ。立ち並ぶ木々も草も明るく光を放っていた。その中に突然地面から生えた植物が輝く葉を揺らして立ち上がった。軸を揺らしたかと思うと黄金に光る花びらを咲かせた。
外界の一変していた。
夜空の下、月光が見せる森は光輝く神秘、そのものだった。
ギルバーヂアの瞳は、森の中を一巡して更にもう一度身体全体を一回転させて見回していた。初めて見た信じられない黄金色の輝く世界だ。
光の粒が地上に生えた全ての物に降り注いだように光輝いていた。輝く森をゆっくりと歩くギルバーヂアはハイアラードが胸に飾っていた光輝く物を思い出した。美しい物は心踊らせるのだと――。森を抜け荒野に足を踏み出したギルバーヂアは、またも驚嘆の声を上げた。
 そこも光輝く世界があった。峻険の山が光の粒をまき散らしたように美しく輝いていた。驚嘆の吐息を吐けずにはいられなかった。
――白い煙を立ち上げている峻険な山を持つ島――
これが黒の一族の島なのかと固唾を飲まずにはいられない。島民は一体何処にいるのだろう。何が起こるか分からない恐怖が胸に沸き上がっていた。だが、欲した心を見透かすようにその笑い声は森に響いた。
クスクスと草地の間から声が響いた。
おはよう――。おはよう――。あちらこちらから声が飛び交う。明るい髪に白い布を纏った大きな瞳が草叢から顔を出すと立ち上がった花冠にその身を滑り込ませまたクスクスと声を上げた。
ギルバーヂアの前にも数本の花を付けた植物が立ち並んでいた。その大きな花冠に身を滑り込ませた小さき者達。ゴソゴソと花冠の中で動き回っていたが、動きを止めると裸足がニョキッと飛び出した。眼を見張るギルバーヂアは初めて見る物を前に仁王立ちだ。すると、その顔が突然現れた。
瞠目のギルバーヂアと緑色の大きな目玉を持つその小さな者は瞬間、見詰め合った。
 先に身を引いたのはギルバーヂアの方だった。
 彼は身を翻すと同時に足を滑らせて大地に転がった。ドサッと言う音に、グギッと鈍い音が混じった。背に痛みが走った。鋭い痛みだ。
右手が翼を掴んでいた。左肩の折れた翼が完全にもぎ取れてしまっていた。ギルバーヂアは血が滴る折れた翼を目の前にかざした。その瞬間、大地から灯が一斉に消え失せた。

折れた翼を片手にギルバーヂアはまた歩き始めていた。歩くことが不慣れな彼の歩みは遅くおぼつかない。月光の荒野を、折れた翼はまた生えて来るのか自身に問いながらあてもなく歩き続けた足が止まった。
目標を見出したからではない。身体が限界を見たからだった。天上の月が幾重にも重なって見えた。乾いた口は閉じようとしても閉じられなかった。空腹は我慢出来たが喉の渇きは限界を越えていた。どこかで水を補わなわなければ急速に干からび朽ちていく。
乾いた荒野には水はない、乾いた風が全身を撫でて通り過ぎて行く。このまま風に晒され続けたら完全に干からびると五感が水を探せと危機を伝えていたが、すでに飛ぶことも出来ないギルバーヂア座り込んだ。
乾いた瞳を閉じたらもう二度と開けることが出来ない。
生きた証は手に出来なかったがそれでもここで朽ちても悔いることはない。朧に霞む瞳が重い瞼を閉じかけた時、背を何かが突いた。
「ここで道を塞いでいるのは、誰じゃ。ここはわしの通り道じゃとて、開けてくれぬか」
言葉が滝の匂いを運んできた。身じろぐギルバーヂアの背をさっきよりも強く何かが突いた。ギルバーヂアは
重い身体を動かす事もままならず肩を少しだけ横にずらした。それだけで何かが横を通り抜ける風を感じた。風は水の香りがした。
水と、唸りを上げたギルバーヂアの手に冷たい物が乗った。資質はそれが何であるか直ぐに察知した。
「礼じゃ。わがままと思うな。わしは盲じゃからして、決められて場所を往復するしか脳がない。喉が乾いているようすじゃからしたて・・、道を開けてくれた礼は、それで足りるな」
その言葉を聞く前にギルバーヂアは水袋に嘴を突っ込んでいた。乾いた舌が水に触れると瞬間に伸びた。干からび縮んでいた舌が水袋の最後の一滴まで吸い取るために極限まで舌先を伸ばして水を飲み干していた。
「お前さん迷子か、行く場所がないのならついて来い。腹も空いておるな。ごちそうとは言わんが一食ぐらいは食わせてやるわ。ついておじゃれ」
老人はそう言った。言葉を受け止めたギルバーヂアは唸った。喉の渇きが急速に治まった彼は、空になった水袋を確かめた。
丈夫な革袋だった。彼の長く伸びた爪が、今はボロボロに折れ曲がり鋭いとは言えない爪だが、強く引っ掻いても破れない丈夫な物だった。彼はその袋を腰着に滑らせた。
「魔の山の地下から組み上げた特別の水じゃ。仕事の礼金にもろうた水じゃ。どうじゃ、美味いじゃろう。まだ樽にたんとあるゆえ気にするな。気に入ったなら樽ごとごちそうするぞ」
確かに特別な水だったのだろう。両手一抱えほどの水がギルバーヂアの全身を潤していた。彼は悠然と立ち上がる事が出来た。そしてはっきりとした視界が足元にいる小さな白ひげの老人を捉えた。老人は手に持った杖でギルバーヂアの細い下腿を叩くと、行くぞと踵を返し歩き出した。
手に握る杖を左右に振りながらちょこまかと行く歩みは早い。後を追うギルバーヂアは辺りが鬱蒼の森に一変した不思議を不思議と感じず後を追っていった。
「ここがわしの家じゃ。年寄りの愚痴に付き合うなら一泊を許すぞ。どうじゃ」
老人が立ったのは何の変哲も無い一本の太い木だった。太い幹は四方に反り返る大きな枝を持っていた。枝には垂れ下がる大きな葉が月光を跳ね返すように輝いていた。
木が住処であってもギルバーヂアは驚かない。本能が木の枝や虚を住処と捉えていた。しかし違った。そこは幻だった。
老人は杖を高く持ち上げると、幹を叩いた。幹から光が漏れた。漏れる光は扉の形だった。確かな扉を老人は押し開けた。光溢れるはずの中は薄暗かった。それでも食台であろう丸い形と座るための椅子が見えた。
すでに決められたようにギルバーヂアは老人の後に従い中に入り背凭れのない丸椅子に座った。そして折れた翼を食台に置いた。
「元に戻してもらいたいか」
先ほどまでのしゃがれた声が響きの良い太い声に変わったと感じたギルバーヂアはじっと老人を見た。食台を挟んだ向うに座る姿が大きく見えた。
 
「もう、生えてはこないのか。爪は折れたがまた生えた‥。これは駄目か‥」
薄闇に光を放つような姿から眼を逸らしたギルバーヂアはぼそぼそと呟いた。すると、
「駄目じゃ。鳥がもいだ翼は、生えてはこん」
「鳥‥眼が見えるのか」
「盲じゃ。だから感じる。お前さんの声と息遣いが、奥に篭った音を発している。そして、嘴に似合わぬ細長の舌の動きが訛りをうんでいる。はっきり言ってお前さんは鳥族じゃろう」
まだほとんど語ってはいない。それでも分かるのかと声を上げそうになったその時、老人は言った。
「お前さんの大事なものと交換するのは、どうじゃ」
「大事の物‥‥」
 何を言われたのか直ぐには分からなかった。老人の握る杖が食台を叩くと、はっとしたギルバーヂアは老人を見詰めた。ここは魔術師の島。この老人も魔術師なのだろうと。
「誰でも一つは失いたくない物を、持っている。失いたくないものが大事な、大切な物だ」
「俺は何も持っていない。それに今、大事な物はこの羽だ」
「うむ。確かに立派な翼じゃ。治したいのはその翼。折れた翼を貰っても仕方ない。その嘴じゃどうじゃ。固く形良いと聞くぞ。わしの宝箱にぴったりはまるなかなかの物じゃろうて、わしはそれが欲しい」
「これは、駄目だ。この嘴がなければ卵を銜えて飛ぶことが出来ない。水を貯める場所が無くなる」
 鳥族の舌は人の形をした者達とはかなり違う。舌根から伸び舌は太く平たくしっかり形成され先にいくほど細くなり大の男の掌の長さは十分あった。舌は水分を吸うことが出来るように中が空洞で細長く伸びた。それゆえ長い間飛ぶ時は水袋の代わりとなるのだ。
嘴を持つ利点は、舌を守るだけではない。獲物に食らいつく事も出来なくなる。ギルバーヂアは、毛を逆立て全身で拒絶の反応を見せた。
「だから、失いたくない物‥‥。嘴は失っても変わりはあるが、翼がなければ、どうなる。お前さんはこれからまだまだ飛び続けねばならん‥‥」
 途中言葉を切った老人はスクッと立ち上がると、また言葉を投げた。
「そのまま動くな。動かず今の言葉を考えろ。動けば、業が解ける」
それから、背を向けると同時に両手を叩いた。
すると、闇を割るように声が響いた。
ジオラ――
叫び声が、飛び込んで来た。
「ジオラ爺~。亡霊が花園を荒らした~。障りの大地に皆が近づけないよ――。何とかして、早く――」
 けたたましく叫ぶ小さな者が、闇の中から突然現れたかと思うと唐突に消えた。ギルバーヂアは動く間もなかった。見ると老人の姿もないことに気づき、深く溜息を吐いた。そして、考え込んだ。
 これから、先を考えねばならない。一番大切なことは卵を手に入れる事、卵を手にするには卵を生む者がいる。卵を産むものは女、女は天界にいる。天界に住む人間の半分は女、女の半分は卵を身体の中にどっさり持っているのだとジョガルビが語った。一人攫ってくるだけで良い。それに必要なのは翼だ。四つのうちの一個が無くなっただけだ。まだ飛べるかもしれないと思った。だが、飛んでる途中に逆風で荒れたら、この島を出るのにも強い羽根が必要だ。
「どうやら、心は決まったようだな」
 老人の声で顔を上げたギルバーヂアは食台の上に乗っていたはずの羽根の塊が無くなっているのに気づいた。そして急に左肩がズシッと重くなった。
「では嘴を頂こう」
「待て、俺はまだ、何も」
「言わなくとも比重が違う。考えるまでもない。心配せんでも女が喜ぶ口元に仕上げておく。これからを思うとそのほうが断然良いぞ」

嘴を取られるためにここに来たのでは無い、と叫んだギルバーヂアは慌てて口を押さえた。口元が燃えるような熱さを感じた。慌てて嘴を押さえたが包み込む両手の感触がなかった。目前で両の手を開らいて見詰めた。硬い皮膚に覆われた掌があった。折れてはいるが長い爪も生えていた。両の手を握りしめその感覚を感じた。感覚を失ったのは唇だ。ギルバーヂアはもう一度、嘴を弄った。嘴が、ない。そして全く感覚がない。
両手で包み込むように何度も口元を撫で続けが、嘴が突然消えてしまった場所には痛覚もなかった。異様な感触だった。
ギルバーヂアは怒るより焦っていた。狼狽えていた。
眼を見開きせわしなく視線を揺らすギルバーヂアの動揺を捕らえない老人ジオラは笑い声で言った。
「ついでに三角前歯で舌を傷つけないように先の平たい白い歯に変えておいたぞ。その長すぎる舌を噛み切ったら大変だからのう」
と言うと瞳の無い透明な水晶の瞳を見開いて言葉を続けた。
「食事をごちそうすると約束したな。試しに粥を啜っておじゃれ」
言葉が終わらないうちに食台に湯気の立ったお椀が二個並んだ。ギルバーヂアは初めて嗅いだ匂いで、何故か激しい空腹を感じた。唾液が口一杯に広がった。
腹を満たす、それだけが、心を占めた。
ギルバーヂアは口元を擦る手を止めて老人ジオラを見た。片手でしっかり椀を掴み老人がすることを真似た。初めて道具と言うものを使って食事をした。椀と匙だ。片手で匙を持ち椀の中を救い上げ新しくなった口へ運ぶ。舌で吸えば簡単に終わる食を舌の上に乗せる感覚が分からなかったが、外界に塗れた経験が乏しいギルバーヂアは素直にジオラを真似た。
雛鳥から立派な雄種鳥に成長したギルバーヂアだが、まだ雛鳥の性質から男鳥の本質に目覚めてはいないことが幸いしていた。
真性の男鳥の性質が無い彼は、まだ無の状態に近く善と悪の区別を知らない。
善でも無く悪でも無い状態をジオラは眼では無く心の波長で感じ取っていた。
雛鳥と雄鳥の間の無辜の心。疑う事を知らず純粋に物事に立ち向かって行く本能に近い無辜の心。ジオラは粥を丁寧に掬い飲み込んでいく仕種から感じた鳥族の舌の欠点を見ぬいた。
「お前さん達一族は鋭い嗅覚を持ち合わせた代わりに旨みの感覚を疎かにしたな。食することは大切な時間じゃ。特に恋人達はな。二人で寄り添うためにも無くては成らない時間じゃ。そのための大切な物をお前さんにやろう」
ジオラはそう言うと、大きな白い歯を見せて笑った。その途端、ギルバーヂアの匙を握る手が止まった。
「どんな感じがするかな」
ジオラの問いに匙を椀に返したギルバーヂアは、また口元を擦り始めた。感覚がなかった口が感覚を取り戻していた。それだけでなくトロリとした感触に交じる甘く柔らかい塊と小さな粒々が口で溶け混ざり合う食感を味わった。舌が小刻みに口の中で動き、頬張った物の違いを見た。物を潰す歯の感触も、気にいった。
歯は噛み破るための道具では無いと知った。そして、食感も知った。ジオラが与えた粥の中身が、幾つもの食材を混ぜ合わせて一つの食感を作っていると知ったギルバーヂアは顔を綻ばせた。
「人が作った食は上手い。女が作る料理は特に上手いぞ」
「そうだとも。飯は上手いに限る。ジオラ爺。花粉団子を持って来た。皆からの礼だ。蜜も持って来た」
 先ほど現れた小さい者の声が響いた。大きな緑色の瞳が水晶のように光り輝く小さな身体が、大きな籠を抱えまた忽然といた。暗緑色の髪が濡れたようにしっとりと輝きクリーム色の皮膚が滑らかな小さき者は籠の中から黄金色の丸い塊を取り出すとギルバーヂアの前に差し出した。
「さあ。客人も食べてくれよ。オヨ特性の団子だ」
食する事。ギルバーヂアが黒の国で学んだ事だ。

ギルバーヂアは月光の明かりを跳ね返す星空よりもまだ細やかな光の粒が覆う花畑に立った。もちろん誘ったのはジオラだった。
ギルバーヂアは羽根をしっかりと閉じ、腕を縮めて我が身を抱いた。口から感嘆を発していた。
月の欠片が埋め尽くす大地を見回した。風が羽根を撫でる度に大地を覆う輝きも揺れた。冷酷な心も溶かしていく荘厳な大地だった。ギルバーヂアは大地に座り込むと遥か彼方まで続く大地を見続けた。
膝よりも小さな者も一緒だった。小さな者の名はオヨ。三人が花畑に立つと咲き乱れる大輪の花の中から顔を出したのは同じ様な緑色の輝く瞳をした小さな者達だ。笑い声と共に立ち上がった花をゆらゆらと揺らし始めると中から忽然と顔を出した。その顔は身を乗り出してギルバーヂアに向かて言った。
「おはよう。外の国のお方。私はミュウ、貴方がシャンテね」
「シャンテ・・・・」
花の中から顔を出した者に驚きを隠せないギルバーヂアは呟いた。
「ハハハッ・・天から落ちた、と言う意味じゃ」
ジオラが笑いながら言った。
「確かにシャンテは落ちてきた。爺に羽根を直して貰ってた」
オヨが叫ぶと花の中から次々に顔を出した小さな者達が口々に発する言葉は―。
――シャンテ――シャンテ、よろしく――
驚きの表情を隠せないギルバーヂアの口元にはすでに違和感は無かった。大きく口を開けて笑った。嗅覚は麻痺したままだが彼はそれを感じない特別な時だった。静かな美しい時はゆっくりとギルバーヂアの瞳を楽しませた。キラキラ輝く幻想的な光景が広大な大地を埋め尽くし、見詰める瞳を飽く事無く見詰めさせた。

異様な匂いが身体を取り巻き、腹の中から何かが飛び出さんばかりの不快な目覚めだった。ギルバーヂアは身悶えた。鼻を押さえ現実に返った。
硬い嘴が無かった。肉の塊がフニャリとした感触で掌を覆った。そこが人の形に近い物になったのだと悟ったが人と同じでは無いとも感じ取った。口中一杯に大きな舌が占めていた。それが弾けそうな頬を感じた。それでも唇は想い道理に動くようになっていたが、尖った鼻に開いた穴から出入りする空気が異臭をからだ全体に送り込んでいた。
「ジオ‥ラ」
気を失いそうな匂いから逃れようと、脳裏は記憶の中の老人を呼んでいた。
すると、即座に声が返ってきた。
「すまぬ。お前さんが寝入った故に置いて来てしもうたが、見捨てたわけじゃないぞ。自分の足で立ち、歩け。ヘルガ人は地の底に潜って、仕事に精出しておる。地下へ降りるぞ」
「地の底‥‥そんな所で‥ウグッツ」
立ち上がったギルバーヂアは、更に強く匂いを吸ってしまった。信じられない悪臭が、脳裏の全てを覆う感覚で意識が霞んでしまった。それは、足先から地面にのめり込む気配に崩れ落ちた。
「ほれ、水じゃ。しっかりしろ。シャンテ」
冷たい水袋が頬に触れると何時ものように長い舌で水を飲み干していた。そして皮袋を腰布の中に押し込んだ。
「ここの空気は濁りが無い。濁りない気が濁りない層を生む。見よ。美しい結晶を・・」
その言葉で顔を上げたギルバーヂアは光の中に座り混んでいることに気づいた。
光の中‥。それは透明な壁が幾重にも重なる限りなく広い透明な世界だった。足元も天上も透明な層が限りなく深く続いていた。
「黒‥の国‥か。ここは、ヘガルガ‥か」
ギルバーヂアの胸に疑心がよぎった。ここは、目的の場所ではない。間違った場所で心躍らせる物に酔いしれていると感じた。彼は暗黒を思った。そこに獰猛な者が、爪を磨いて待っていると立ち上がった。そのギルバーヂアの動きを止めたのはジオラだ。
「どうした。まだ、水が飲みたいのか」
一瞬言葉を失ったギルバーヂアは座り直した。座ると立ったままのジオラの顔が目前に並んだ。ジオラはギルバーヂアを向いていたが、彼の瞳は暗い緑石が埋め込まれたように動かず物を写してはいないことが分かった。
「俺は、間違ってここへ着いたみたいだ。ヘガルガの地へ行きたいのだ」
「ヘガルガ‥。聞いたことがないがのう」
とジオラは静かに言った。その手はいつの間にか杖を握っていた。
「地帝と対峙しに来たが、‥‥」
「地帝‥黒か、白か」
何故かギルバーヂアに背を向けたジオラはそう言った。
「白に、黒‥地帝が、二人か。ジュカルビは、白の地帝とは言わなかった」
ギルバーヂアは考え込んだ。彼の知れない世界がまた一つ増えた。自分が住む世界は地界と呼ばれ七つの種族が住んでいると知った。もちろん地の一族呪い師のジュカルビから聞いたのだ。だが、彼は白の地帝がいる種族を語らなかった。もしかしたら、ヘガルガの地から無事に帰り着いたら天界に住む一族を語り、それと一緒に新たな一族を語ってくれるのかも知れないと思ったギルバーヂアは躊躇いがちに言った。
「‥俺が逢いたいのは、黒一族の王だ」
だが、聞き手のジオラは横には居なかった。振り返ると小さな者達に囲まれている彼に気づいた。立ち上がったギルバーヂアの耳に言葉が響いた。
「誰に会いに来た」
「黒の地帝」
問いに迷わず言葉を返した。すると、目の前から光が消えた。刹那に、暗黒が取り巻いた。蹌踉めいて膝を着いた床が透明な水晶と同じ冷たさを放っていた。

周りが暗いことに気づいた。身を起こしたその場が荒野だと気づいた。異臭のない大地は森の様な清々しい香りを漂わせていた。何があったか思い出せずぼんやりと座り込んでいた。その背に声が飛んだ。
「そこを避けてくれぬか。シャンテ」
「ジオラ‥‥」
まだ覚醒しないギルバーヂアは、身動いだだけだったがジオラは礼を言うと横に座った。
「俺は今まで、何をしていたのだ。まだ、昼だったはずなのに、どうしてここに‥‥」
頭を抱え考え込んでいるギルバーヂアの足元が、次々と煌めき始めた。顔を上げた彼の瞳は幻想の世界を捕らえた。心が現れるような美しい世界、ため息を吐いた心はそこに居る目的を忘れたように見入った。
そこに、賑やかな声が始まった。
――おはよう。シャンテ――
――おめざめ悪い、シャンテ――
はっきりした可愛いい声が、ひっきりなしに聞こえてくる。そこが彼等の寝床なのだと分かる大きな花弁の間から現れた顔は大きな目玉が煌めく小顔の愛らしい者達だ。
ギルバーヂアは、穏やかな心を振りまいた。本当に穏やかな時だった。目の前に差し出された花粉団子を次々に頬張り新しい口の感触を楽しんだ。ジオラが差し出した水袋を空にした。懐にしまおうとした袋をジオラは素早く取り上げ自分の懐に仕舞いこんだ。
「シャンテ、昼間は何処に行っていたんだ」
オヨの言葉にギルバーヂアの脳裏は弾け飛んだ。はっとした。昼、明るい水晶の中から何処へ。
「黒の‥地帝に、会いに‥行った」
「地帝様って、どんな方」
茎を揺らしたミュウが、ギルバーヂアの目前に迫った。ふっくらと膨らんだ花弁の中に無数の花糸が伸びる、その絡み合った花糸の上にちょこんと座ったミュウが花弁の間から顔を覗かせていた。
「黒の地帝‥会ったのだろうか。いや、地帝には会ってはいない。闇に居た。青い光が天上から地に真っ直ぐに降り注ぐ場所を見た。赤い光が襲ってきた。光は酷い悪臭を放っていた。気を失うあの匂いだ」
弾け飛んだ身体はそう言うと直ぐにジオラを向いた。
「ジオラ、頼む。この鼻をなんとかしてくれ。俺は匂いが駄目だ。臭わなくしてくれ。鼻なんか無くていい。取ってくれ。そして、この爪をもっと強く大きく丈夫にしてくれよ」
ギルバーヂアは、ジオラに泣きついた。彼の全ての爪が折れ曲がっていた。右手の中指が完全に抜爪し腫れ上がっているが血糊はない。
ジオラは見えぬ眼を大きく見開いて驚きを全身に表わして言った。
「お前さん、ヘガルの子供のようじゃな。いいか、シャンテ。お前さん鳥族にとって嗅覚は天性じゃ。それが無くなったら卵は取れん。それよりその爪の方じゃ。爪を無くせ」
即座にギルバーヂアは声を上げて反論した。
「イヤだ。この爪があるから鳥族だ。仲間は皆、爪を磨き獲物を取る」
「‥‥いずれ、その爪がお前の大事な物を奪う。爪が無くとも指があれば生きていける」
「爪が無くなったら、俺は鳥族ではない。卵を探す旅が出来ない」
ギルバーヂアはラグルを思った。淀んだ湿原と荒れ果て原野。卵の育たない風穴、瀑布の飛沫に晒され死んでいった兄弟達。洞窟で蹲る者達には希望がない。唯一つ、希望があるとすれば‥‥‥。
「爪が無くなれば、お前さんの生きる道は穏やかなものとなる。ここの暮らしのように穏やかな日々じゃ。良く考えろ」
「穏やか‥この気持が穏やかなのか‥‥」
ギルバーヂアは言葉を切った。そして、目前に広がる光の世界を見回した。本当の美しく輝く穏やかな世界だ。虫達の競い合い奏でる音が、静かに戦ぐ風の中に聞こえてくる。これがヘルガ人の夜の世界、昼の世界は水晶の荘厳な世界。
「ラグルを変えるためには武器がいる‥そのためには‥‥」
ギルバーヂアは両の手を見た。
「爪など磨かず、心を磨いたらどうじゃ。‥ヘガルの人になってここで静かに暮らさぬか」
「ここで、この大地‥」
ギルバーヂアは固唾を飲んだ。天の星より美しい場所。咲き乱れる花の中に小さな顔が笑顔で囁き声を上げていた。その中で葉っぱの上に立つオヨが真剣な眼差しでギルバーヂアを見詰めていた。
オヨはギルバーヂアの答えを待っていた。
「こんな俺でも、ここで暮らせるのか‥」
瞬間、オヨが破顔した。しかし、天を仰いだギルバーヂアは首を振った。
「仲間がいる。兄弟達が‥‥。彼等に約束した‥。必ず卵を生む者を持って帰ると‥。俺の武器は、この爪だけだ。俺はこの爪でラグルの未来を変えると誓った。そして、あそこを変える。あそこで、子供を育てる。そのためには、強い爪が必要だ」
ラグルの殺伐の大地を楽園に変えるとギルバーヂアの強い意思が言葉に溢れていた。
オヨは葉っぱの上から姿を消した。
「そうか。お前さんはその道を選ぶか」
そう言うとジオラは立ち上がり杖を振りながらひょこひょこと立ち去っていった。ギルバーヂアはその場に座ったまま動かなかった。その手には鋭く光る爪が綺麗に生え揃っていた。

「シャンテ。もうすぐ、ここは昼の大地に変わるわ。私達は地下に潜らなければならないの。仕事があるから・・」
ミュウがぼんやりと座り込んでいるギルバーヂアに声を掛けた。
「貴方も一緒に、どう」
白み始めた空に小さな者達の姿はない。光を放っていた草花が色あせしょぼくれ大地の上で枯れはじめていた。光が消えゆくその大地に気づいたギルバーヂアは驚かなかった。心の裡の何か消え去った気配が何なのかを思
いあぐねていた。
「何処へ行く」
と聞いたギルバーヂアは、何処かへ行きたい衝動があった。
「水晶洞‥‥」
ミュウのその言葉だけで、ギルバーヂアを包んでいた大気が揺れた。すると、大地が一変した。
透き通る石の上に立っていた。昨日の透明な壁が立ち並ぶ場所ではない。限りなく高く広がった空と思える、頭上に剣を束ねた透明な石が波型にぶら下がっていた。だがそれ以上に眼を惹いたのは、怖いほど深く深く見える濃緑の地底だ。地底に吸い込まれる気配が、暗夜の飛行で目標を失ったときの恐怖に似た戦慄を感じ全身を身震いさせた。翼を広げずにはいられない驚異が、今立つこの場を一望した。遥か遠くまで見渡す事のできる石の色が昨日見た色とは違った。水の色かと思えば奥深くなるほど薄緑から濃緑になっていた。
「この奥に特別綺麗な石があるわ。それを切り出して一角獣の餌にするのよ。それは男の子の仕事。私達、女の子は一角獣と散歩。螺鈿の森を一周りして帰って来るわ。それよりオヨは深宮よ。貴方が深宮へ下りるってジオラから聞いているから‥」
「深宮‥」
「地帝が住まわれている所。貴方がそこに大切な物を探しに行くって知ったから。オヨは必ず行くわ。だって、彼は貴方が好きよ」
「オヨが、俺を・・。何故だ。俺はオヨのことをよく知らない。彼も同じだろう。一昨日、はじめて会って挨拶しただけだ。アッ、花粉団子を貰った。うまかった。礼を言うのを忘れていた・・。それより、俺が探している物をオヨは知っているのか」
「いいえ、知らないわ。でも、分かるわ。青い光が教えたから・・オヨはそれを取りに行く」
「青い光‥俺には分からないのに、イオに分かるのか。何が必要なのか。地帝にあって聞かなければ分からない」
「分からなくても良いのよ。皆が分かっているのだから‥‥私も一緒に行きたいけど、そこには行けない。だからシャンテ、一人で行って‥思い浮かべるのは青い水晶。さあ、思って。青色、青色の水晶」
――青――
脳裏が青い水晶の光を思い描いた。するとそれだけで、尖った柱の上に立ったミュウが消えた。明るい光が、消えた。
青い水晶の間にいた。青い水晶の壁が天上から真っ直ぐに並ぶ空間に立っていた。床は暗く磨き抜かれたようにつるつるとして、歩くのが苦手なギルバーヂアを躊躇わせた。翼を広げるには狭い空間だ。翼を小さく畳んだギルバーヂアは両の手を壁に付けて光を目指して進んで行った。すると、目の前が大きく開けた。
森、透明な石の森だ。煌めく大小の石を積み重ねた巨大な柱が広い空間を彩っていた。ギルバーヂアが立つその場を中心に円を描くように並んだ水晶が七色の淡い光を発していた。
荘厳の場所だと自然に感嘆の吐息は漏れた。
物の影を写さない曇りなく透き通った柱はそれぞれに光を放っているように見えた。無音とゆらぎのない世界が特別な場所と感じた瞳が天を仰いだ。見上げても曇りなく高くある紅色の天辺は見えない。翼を広げ天上を目指す気は今のギルバーヂアには無かった。それよりも、桜色の淡い光の筋が天上から真っ直ぐに床に降り注ぐ点光が気になった。天から差す光の筋が床の青い色に融け、そこだけが薄紫だった。磨き抜かれたようなツルツルの面に薄紫の光の輪は列を成し点々と続く。素足がその光の点を追い滑らかな床を歩いた。
何処かへ導かれている。そんな気がする光の輪と滑らかな床の所々に花が咲いたような無数の水晶の塊が鮮やかな虹色で眼を惹きつけた。その輝きに魅せられた瞳は、確かに導かれていた。それは何時しか、暗色の中で見た向い合った二本の青い水晶柱の前に立った。
――地帝の在所の入り口は青い水晶柱が目印だ。二つ並んだ柱は門だ。魔神が門を守っている――
ジュカルビの声は脳裏にある。脳裏は更に昨日確かにこの場所に立ったことも思い出した。そうだった。昨日暗闇から突然現れた光の束に襲われた。それがこの場に巣食う魔神なのだと感じた。
今日もかと思う心が爪を確かめ身構えながら前へ進んだが、何も起こらずにそこを通り抜けた。
すると、薄黄色い空間が広がっていた。不気味なほど静な空間は、天上から鋭い塊が幾重にも重なるように垂れ下がり淡い光を発していた。不揃いな黄色い水晶の層が光と影を揺らし床に模様を描いていた。
周りを見回すギルバーヂアの眼は光のない真四角な壁を捕らえた。近づくとギルバーヂアの姿を写した。
ギルバーヂアは醜い自分の姿から眼を逸らした。そして秀麗なハイアラードの姿を思い出していた。男なのか女なのか分からない細身で手足の長い身体が美しいと思った。彫りの深い面長の顔に見開いた瞳が輝き小さくふっくらとした唇が愛らしいと思った。その姿になりたいとは思わなかったが上半身羽根で覆われた身体が美から程遠いと感じた。ギルバーヂアはもう一度顔を見るために壁に躙り寄った。ぽってりと腫れ上がった様な瞼を開くと丸い眼が縦長の半月の瞳を見せた。ジオラが好奇心で創った分厚い唇が顎の上を占めていた。大きな鼻が顔の中央ででんと構えていた。醜い、と思いながらまた一歩前に躙り出た。すると、声が飛んだ。
「黒の大地に迷い込んだ鳥族の男のその後を知っているのか」
振り返ったその眼に、小さなオヨが立っているのが見えた。帽子の着いた短い半袖の上着を着た小さく可愛らしい手足を覗かせたオヨがまた言った。
「正義を振りかざす気はない。悪を野に放すことが正義かと問われたら返す言葉がない。海王もソウマ殿もこの場なら悪を食い止められると、この場を選んだのだろうか。それともこの心と同じように、まだ無辜の心を失わない者に惹かれ希望を叶えようと思ったのだろうか・・・・」
両の手が何かを抱き止めている様なオヨの小さな身体が立ち尽くすギルバーヂアの方へ歩み寄って行く。一歩歩み寄るごとにオヨの身体が大きくなっていく。
一歩一歩と近づくごとに背が伸びていくオヨを、ギルバーヂアは瞠目に見入る。
二人が同じ背丈になったその時、ギルバーヂアの目前に迫ったオヨは渾身の力を放った。両手が握っていた物が無防備の腹に突き刺さった。
甲高い金切り声が怒涛の様に薄黄色い光の間を走った。ギルバーヂアの腹に銀の塊が刺さった。床に仰向けに倒れた身体がのたうち回った。
「黒の大地に迷い込んだ鳥族の男はここに、この場に立った。そして地帝の怒りに触れた。黒の地帝は常に温厚だ。人が手に負えない悪辣な者達の魂を深宮へ招き見守る慈悲深いお方だ。その方がはっきりした怒りを見せた鳥族の行いは、ヘルガ人の光の地を荒らし水晶を蹴散らし一角獣を食い殺すおぞましいものだった。怒りに達した地帝はその鏡に鳥族の男を閉じ込めた。これに触れるとお前も永遠に閉じ込められる。お前は、触れるな」
痛みがギルバーヂアを半狂乱に取り乱させていた。それでも言葉はしっかりギルバーヂアの脳裏に刻み込まれた。
「これは間違った選択だ。だが、正義を振りかざすことは出来ない」
心の臓が止まるほどの激しい拍動痛がギルバーヂアを襲っていた。それでも意識は鮮明に言葉を受け止められたが、四肢の末端までも届く拍動の痛みに呼吸することも出来ない身体は大きく開いた口から長い舌が立ち上がっていた。それを静かに見ているオヨは手を伸ばした。
銀の塊を握り締めていた手がオヨの細くしなやかな指に絡まった。大きな掌に似合う太い指と長く鋭い爪を持つ両手が白い手を握り締めた時、腹に刺さっていた塊が消え失せた。
「今、貴方の中に銀の鞘が溶け込んだ。一角獣の銀の鬣と銀水晶を細工師達が磨き上げた業物だ。その業物は鞘に収まるものを求めるだろう。だが、何が収まるかはお前しだいだ。良きものを求めて天界を目指せ」
ギルバーヂアは身を起こした。痛みが消え失せていた。塊が消え失せた腹は痛みが消えていた。影も形も痛みも無くなった腹を擦るギルバーヂアは驚きが隠せなかった。
「これから、天界を目指せるのか‥」
「ああ、旅立つと良い」
「これだけで、腹に刺さったこれだけで天界まで辿り着けるのか。天界に辿り着いたらどうすればいいのだ。オヨ」
「白の地帝。天の上にある白の一族の元へ行け。そこに、命を創る実がなる木がある。その樹の実を貰い地下の鍾乳洞に植える。清い水が留まることを知らず流れている場所に植える。実は一日で木になりひと月実がなる」
「それを卵を持つ女達に食べさせれば、女達は死ぬことはない」
「そうだ。だが絶対ではないぞ。人が食えるものではない。砂を噛むような食感と口にするのも叶わぬ苦さが一口、口にしただけで吐き出す。それをどうやって食わせるか‥」
「それだけ知れば十分だ。オヨ。礼を言うよ。俺の名はシャンテじゃ、俺の名はギ‥‥」
「言うな。その名を言うな。お前はシャンテ。鳥族だが、羽根を折った気の良いやつ、名はシャンテ。いずれ鳥族の王になる男じゃない。行け。シャンテ。爺、空けろ。扉を――」
長身のオヨはそう叫んだ。
「僕は今まで通り帰る場所がないさまよう悪の魂を救う。それ以上に、次代の地帝として誓う。悪辣な者達から‥貴方から、この地界の大地を守る――」
激しい言葉を放つオヨの横に、長身のジオラが立っていた。その手は杖を振り上げた。すると驚愕のギルバーヂアの足元が突然開いた。真っ青な空と同じ色の空間がギルバーヂアの身体を吸い込み消えた。

                                                     1章   天の一族   完

月の巫女Ⅲ 月の涙 第一章 天の一族

月の巫女Ⅲ 月の涙 第一章 天の一族

天界と地界、二つの世界は交わることがない。天界には人間が暮らし、地界には異質な種族が暮らしていた。千年の命を持つ者達が‥。地界の民に鳥族がいた。残忍非道の鳥族、天を駆ける事を許された彼等は雌鳥を失い男鳥のみとなった。子孫を繋ぐために各種族の女達をさらった。しかし、女達は次々に死んでしまう。一番年下の男鳥が命を繋ぐために天界を目指す。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-07-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 【1】 天の一族
  2. [Ⅰ] 卵
  3. 3
  4. 3
  5. 4
  6. 5.
  7. [2] 実
  8. 2
  9. 3
  10. 4
  11. 3] 地帝  1
  12. 12
  13. 13
  14. 14
  15. 15
  16. 16