始まりはキッス 【完結】

それは突然、放課後の教室で始まった。
放課後まで授業を受ける事のない大西光が教室に残り、携帯をいじる斉藤健次郎の顔を覗きこむと呟いた。メールに夢中の健次郎は、光が、何を言ったのかきいていなかった。それどころか、彼の前に異色の存在が腰を折ったのを気づかず、無意識の言葉を返していた。
「幾らだ」
指が三本、目前を塞いだ。その白く細い指を避けるため身をずらした健次郎は、ポケットにあったものをそのまま差し出した。
「こんなに。いいのか。お前、金持ちだな。俺、金持ち好きだ」
その声に、我に返った健次郎はぎょっとした。寝癖ですごいウェーブが掛かる何時カットしたのか分からない長髪を手で梳き、額を見せた光の顔が目前にあった。
大西光と、斉藤健次郎。
高校生活がスタートして一年三ヶ月になるが、この二人には、これまで接点が無かった。それは、これから先も続き、卒業を迎えるはずであった。
目立たず力まずを決めている健次郎は、彼の方針とは逆にかなり目立っていたが、それに気付かない鈍感な気質だった。だから、一年時一学期の終りまで、最前列中央、教卓の前が空席だと思っていた。そこを指定席に居座る奴が存在するとは夢にも思っていなかったのだ。
入学初日、その席は空いていた。いや、光のために開けてあったのだ。出席日数ぎりぎり、遅刻と早退を繰り返す斎藤健次郎が、その席を確保している者を初めて見たのは、朝からじっとりと蒸し暑い七月初めだった。
遅刻を免れ席に着こうとした時、その姿に気づいた。寝癖で立ち上がったボサバサの長髪、夏だというのに長袖のカッターシャツを着込みきっちんと襟をたてていた。更に、ダボダボの長ズボン。
一見して、異質な人物だと分かった。
いや、奇人変人がこの高校の特質なのだ。自分を含めてと、一見硬派を気取る健次郎は悟っていた。
三年間、持ち上がりのこのクラスの仲間の顔は、去年と同じで、一人も欠けてはいないうえに担任も同じ辰巳大輔。
この担任辰巳大輔は、二十四歳の独身、体育教諭。教師歴二年のまだ新米教諭のはずだが、アメフト選手並の風体と濁声ですでに学年生徒を牛耳るワンマン教師である。
噂であるが恋人もいるらしい。あくまで噂であるが相手は、美人で誉れ高い養護教諭の京田彩夏とか。我が校きっての秀才兼変人が集う新聞部が定例外に発行する号外新聞に載ったらしい。
ちなみに、在学中にこの号外に載った最多の人物は、斎藤健次郎なのだが彼はそれを卒業式のその日まで、知らずに過ごす。
新聞部を影で動かし、それをさせているのが、この辰巳大輔だ。
そして、この辰巳大輔の超お気に入りが大西光なのだ。
光は、辰巳のことを、おたつみと、呼んでいる。そして、おたつみの方は、ひかるちゃん。ホームルームの第一声は、「おはよう」ではなく「光ちゃん」から始まる。初めて、光の後ろ姿を見た日、辰巳は教室へ入ってくる早々、寝癖頭に声を掛けた。
「光ちゃん。今日も可愛いわ。朝ごはん、食べた」
寝癖頭が、首を振った。
健次郎は、唖然と見詰めた。
「まあ、大変。保健室に用意してあるよ。食べてきなさい」
すっくと立ち上がった光が、教室を後にする姿に手を降った辰巳が振り返るなり声音を一変させた。
「お前ら、光にちょっかい、出すなよ。光は、ワテのもんじゃ。分てると思うが…」
言葉を切った辰巳は、健次郎を睨み付けると更にドスの利いた声を放った。
「斎藤健次郎。大西光を泣かせるような真似しやがたら、柔道部入部許可をやる。ボクシング部でもいいぞ。めちゃくちゃに叩きのめしグゥの音も言わせん。肝に命じとけ」
その言葉で震え上がったのは、健次郎だけでは無かった。クラス全員が顔を引き攣らせ、ハイと返事していた。
辰巳は、実行派だと、この後耳にした。実際に光にいちゃもんつけした三学年の悪が、柔道部員に呼び出しを受け連日の荒稽古を受けたと隣の席にいる鈴木智雅が耳打ちした。
これも、新聞部の号外が出たと。それ以来、誰も光に手も口も出す者がいない。
しかし、ホームルームの光と辰巳との会話は、聞いていて楽しい。表面は眉も動かさず真面目を装い、内心は笑い転げていた。
「光ちゃん。高校卒業したら一緒に住もうね」
「嫌だ。俺は、女々しい男は嫌だ」
「あ~ら。筋肉隆々。男の中の男。光のために毎晩、鍛えている。俺様の操は、光の物だ」
「俺は、おたつみの操なんか、要らない。それに、俺、十八までに初体験する」
その言葉に、教室が少しざわめいた。健次郎も堂々と言い切った背中を見入った。つかさず鋭い目線を一巡させた辰巳が怒鳴った。
「そうはさせん。貴様ら、全員参加の夏キャンプがある。光の操を汚すものがあれば、即刻、柔道部室が待っている。地獄の日々があるぞ。分かったか」
瞬時、静まり返った教室には顔を上げる者が無いない。その中、静かに立ち上がった光が声を放った。
「保健室に行ってくる」
「腹が痛いのか。生理か~」
振り返った光は、辰巳の頭に拳骨一発食らわし踵を返した。
「ごめん~。オンスだった」
「どっちでもないわい」
二度目の拳骨が、あった。
その夏のキャンプに、光は顔を見せなかった。それだけでなく、すべての学校行事に姿を見せること無い。それでも、光は校内の保健室に一人でいる。
健次郎は、辰巳の庇護を受けているからと、光を無視している訳でも軽蔑しているわけでも無い。唯、単に声を掛ける機会に恵まれなかっただけであった。
保健室で大半の時間を過ごし教室にいることの少ない存在だけに、唐突の出現に狼狽したのだが真直ぐに見詰め煌く黒い瞳が返事を欲していると感じ言葉を返した。
「なんだ」
「キス、だ。お前が、買った」
「買った…」
白い指が、握る物が目前で揺れる。
「俺が売って、お前が買った」
「何を…」
気だるそうな瞳が、身を乗りでしてきた。そして、こう囁いた。
「くちびる」
単語が、健次郎を硬直させた。辰巳の怫然が脳裏を覆ったが、顔面に迫った顔がそれを一掃した。青白い顔に整った目鼻立ち、小さくふっくらとした唇。少女のような面差しだ。大西光の顔を初めてまじまじと見た健次郎の裡で何かが弾けた。
ざわめきが胸を満たし、全身が鼓動となった。
鼓動が外界の音をすべて消し去った。あるのは、光の吐息。
喘ぎ高鳴る心が、そのまま唇を重ねた。すると、今まで感じた事の無いざわめきが腹の底から沸き上がってきた。今まで味わった事の無い不可思議な感覚だ。匂いもない、味もない、ただ柔らかいだけ。まるで、自身とキスした感触。
それは、健次郎の胸裏に何かを植えつけた。
「キスって、味があるんだ」
光のつぶやきが、余韻に浸る健次郎を呼び起こした。
「どんな味だ」
「親父」
返ってきた答えに、唖然となった健次郎は、なぜ、親父なんだ。まだ十八だ。お前と二つしか変わらんと、意義申立せんとばかりに口を開けた時、
「おたつみ。お待たせ」
予期せぬ言葉が健次郎の耳を疑わせ心を震撼させた。見開いた瞳がゆっくりと廊下へと続く引き戸を見た。
廊下に、辰巳がいた。
健次郎の心臓が凍った。
強張った渋面が、健次郎の視線と一瞬絡み背を向けた。
健次郎は喉を鳴らした。辰巳は振り返らなかった。
ほっとした心地が吐息を吐いた時、屈託のない光の次の言葉が彼の前途を奈落に突き落とした。
「俺、初めて売れたぞ。俺の唇、買うって。押し売りじゃないぞ。ファーストキスだ。おたつみ~怒ってるのか――」
怒るどころかおたつみが、怒り狂う。即座にやって来て、この二階の窓から放り出される。いや、その前にあの太い腕でボコボコに殴られ、窓から逆さ吊りだ。
確かに拳を握り身構えた健次郎の心は、その姿勢に反し懺悔にある。
焦る心が、過去を悔いるように祈った。祈りが通じたのか、二人の足音は遠のいて行った。だが、光を気に入っている辰巳がこのまま黙ってはいない。
翌日、反撃がくる。その時は……と、指が右腹をまさぐり、そこにある傷を確かめた。

***



翌日、辰巳の体育授業が男子は武道館での柔道となった。
健次郎を軽々と背負い投げした柔道部員の林(はやし)琢磨(たくま)が心配そうに声を掛けた。
林琢磨は、健次郎と同じ訳ありの十八歳。二年遅れで高校入学した健次郎とは違い、一年遅れと留年で二年生に上がった琢磨は、我が校きっての秀才兼変人が集う新聞部で暗躍している情報屋だ。
「お前、馬鹿だな。大西光(おおにしひかる)は、おたつみの彼女だ」
「分かっている」
健次郎は呟いた。だが、心中は、わかりすぎている、叫んでいた。
「おたつみだぜ。おたつみ」
おたつみと何度も繰り返す琢磨。一年間、担任を見続けた健次郎の同級生等は辰巳の事を光同様に呼んでいた。それは、辰巳の性質が彼等にそう呼ばしていたのだが、健次郎はまだ気づけずにいた。
「いや、それより、おたつみに挑戦するとこが異常だな。よほどの、強者か、よほどの鈍感か。ま、どっちにしろ。我が校、ならではだな」
と琢磨は言う。
大の字に寝そべる健次郎を覗きこんだのは琢磨だけではない。柔道着をだらしなく着込んだ帰宅部大前(おおまえ)要(かなめ)が二人の間に割って入った。それだけではない。もう一人、新聞部副部長鈴木(すずき)智(とも)雅(や)が割り込むなり怒涛の質問を始めた。
「それで、どんな、感想を持った。光ちゃんの唇は、口説き文句は、辰巳教諭の今日のシゴキは、これからも二人は付き合っていくのか、おたつみと前面対決は何時…」
「口説かれたのは、俺の方だ」
叫ぶ健次郎に食い下がるのは、新聞部鈴木智雅。腕まくりした片手にはメモがあった。
「それじゃ何故、お手軽体育授業から、ハードメニュー付きフルコースに変わった…」
「光ちゃんの彼氏が、メニュー伝票を切り替えたからでしょう。斉藤(さいとう)健(けん)次郎(じろう)君」
と、大前要。
「俺は、無実だ。あいつに、さそわれた」
「そんなこと言っても、おたつみが信じるかな。クラスの誰供口を聞かない光ちゃんが幕下の俺達なんか眼下にないぜ。ましてや、ホームルーム遅刻連発お前の存在、皆無だぜ」
要は上気した顔を綻ばせて言った。
その通りだ。光は、ホームルームだけは欠くことがない。その後、お決まりの保健室。だが、時折教室で授業を受けたが寝ていた。
智の言葉に何故だか健次郎は、納得してしまった。影の薄い俺の存在知るわけ無いと。
琢磨は、夢中で喋りつづけた。
「全校生徒、おたつみと光の仲を知らないものはいない。そんなヤツに、手を出すなんて信じられないよ」
そう言う琢磨は、辰巳と京田彩夏の噂を知らないのかと、思いめくらす健次郎の胸元を掴むと厳つい身体を右肩に引き寄せ、また、やすやすとなげた。そして、伸びている健次郎の顔を覗きこんだ。
「しかし、お前。窓際族のくせに、良く光に申し込めたな」
―窓際族―
確かに、今の健次郎は意欲を失ってしまった敗者のように時間が立つのを待つ唯のおっさんだ。それを望んで、この高校を選ったのだ。
健次郎が通うこの高校は男子校ではない。クラスの3分の1が女子である。普通科二クラスの女子を選ったかのように容姿端麗な子が揃っていた。
さらに、クラス担任、辰巳大輔の趣味なのか。席替えしても変わらず可愛い女子は前列を締め、むさ苦しい輩は後部へ追いやられている。健次郎も後列である。そして、半年ほど前から窓際の一番後の席で定着してしまっていた。
窓際の隠遁暮らしを一年もやっていると、悪行で慣した日々へ無償に帰りたくなる。拳が覚えた痛みと心中の乾きが満たされぬ焦燥の限り走り続けた日々が脳裏の奥にある。
だが、悪名でならし日々には帰らない。
畳の上に何度も叩きつけられる衝撃が、沸き上がるざわめきを抑えきれず拳を握らずにはいられない。だが、決意がある。母まなみのために誓った決意。
右脇にある傷跡が、じわりと熱く拳を握る肩の力みを取り去っていく。拳の痛みが心地良いあの日には、二度と帰らない。
健次郎は身を起こすと壁に持たれて座った。目を開けてはいられない疲労感で頭の奥に痛みを感じていた。胡座を描いた太腿に肘を付き、頭を抱えるその耳に聞きなれない声が問い掛けてきた。
「昨夜も夜遊びか‥」
重い瞼を見開き相手を見た。見慣れない人物が横に座っていた。こんなヤツクラスにいたかなと健次郎は思い巡らした。
しばらくして、はっとした。黒板の前に立つ印象が蘇った。思いでした。クラス委員の一人、新正道だ。同じ窓際族だが反対側の廊下側の主だ。校庭を望む窓際が劣等生なら廊下側は優等生揃い。反する気持ちのない健次郎は、そうだとこたえると背中にある壁を滑ってその場に横たわった。
「ああ。俺はもうだめだ。死んだ…」
「勝手に死んどけ」
新正道は言葉を吐き捨てると立ち上がった。そして、武道館から立ち去った。この時正道が林琢磨と目配せした事を見逃さなかった健次郎だがそれが何故なのかを自身に問わなかった。はっきり言って斎藤健次郎は周囲に鈍感である。健次郎を糞が付くほど鈍感な奴だ、と林琢磨は思っていた。だから丁度いいのさ、と大前要が言う。
「十四部。上がった。今回は写真入りだ。やったね~」
正道と入れ替わりに姿を消していた鈴木智雅が現れた。上機嫌の智雅はのびている健次郎の横に並ぶとお前のお陰だとぱちりと頬を叩いた。すると頬を押さえた顔がムクリと起き上がったがまた倒れこんだ。
「本当にこいつが東で番を張っていたのか」
要が声を上げる。智雅が答える。
「僕の情報に間違いはない。東聖和中の一匹狼斎藤健次郎。家電のサイトーグループの会長が親父だ。大きな声じゃいえないが母親は、愛人だ…」
―愛人―
肩を並べた彼等は甲高い声を上げた。

****

「奴はどうだ」
「寝てる」
「殴らなかったのか」
「僕は野球部だ。ボクシング部じゃない。おたつみのとこへ入部する気はないぜ。それにぶん殴るんなら今のところあんたの方が適任だ」
「一発お見舞いした方が想いを断ち切れると思うが……」
「前途有望の僕を奈落に突き落としたいのか、あんたは――。あいつは元番だ。それに一発で終わるか。僕だって始まったらあいつがぶっ倒れるまで叩きのめす」
「すげえ。さすが中学時代はボクシング部キャプテン。光ちゃんをめぐる四角関係……。う~ん、いい見出しだ」
いつの間にか鈴木智雅がいつものようにメモを片手に立っていた。その後に大前要がいた。
「ああ、好きに書けば良いさ。おたつみ公認だからな。だが、光を泣かすような記事は書くなよ。その時は、この手で御前の鼻をへし折るからな」
正道の眉間にしわ寄せた顔が智雅では無く要の顔を睨み付けた。この場に現れたことが正道の機嫌を損ねたのだと要は直ぐに気づいた。
武道館の更衣室。狭い部屋の両側に鍵付きロッカーが並ぶ中央に木製の長椅子が一個だけ置かれていた。そこに腰掛け語っていたのは辰巳大輔と新正道。親しげな口調の二人の間を割ったのが鈴木智雅。智雅に引っ付いてきたのが大前要。
辰巳は怖ず怖ずと後に控える要を手招きした。顔を綻ばせた要がロッカーと辰巳の間に割り込んできた。正道は動かずその要の顔を見ていたが、小学生のガキが親父に褒められた時の顔だと呆れ顔を智雅に向けて気づいた。智雅の穏やかな笑みが頷く表情。こいつもなのかと、正道は要をもう一度見上げた。その心を見抜いたように辰巳が口を開いた。
「だいぶ慣れたな。良いクラスだろう」
「皆と話が出来るようになった。友だちが出来た」
要が智雅を振り返った。ニンマリと笑った智雅が手に持っていた号外版の学校新聞を辰巳に手渡した。それを捲り視線を這わせた辰巳が声を出さずに笑った。
いい出来だと言いたそうな目が紙面から離れない。その辰巳に正道が不服そうに言った。
「何で斎藤なんだ…」
新聞面を飾る斎藤健次郎の眠たげな顔を、正道は指で弾いた。
「あいつが適任だ。家庭環境が良い。マンションひとり暮らし。両親は別居。放任主義。同棲しても気づかれない」
と教師らしからぬ言葉を吐く辰巳に負けぬ要が
「それにお金持ちですよ。親父が出さなくてもママさんは出すな。この間の保護者会の時アンケート頼んだら、健次郎のママさんあっさり受けてくれた。他のおかん達はダメだ。嫌な顔で睨まれた。ま、内容がイマイチだったからな…」
と、言う。それに相槌打つのは智雅。
 「子供が友達を傷つけたら幾ら保証するか、てやつか。いじめについてアンケートとは仮でホントは、金持ち調査だろ」
 「ママさん、迷わず丸付けた。保証無制限……」
 大きく頷いた辰巳は新聞を正道に渡すと立ち上がった。そして、今の言葉は聞かなかったことにすると言った。踵を返した辰巳が足を止めた。半開きになった窓から見える校庭に視線を向けたまま動きをなくした。その態度に気づいた智雅は近くの窓を開けて外を見た。要も続いた。
 「志野達女子はテニスか。ほら、女子はあそこ…テニスコート」
 要の指が示す方に女子が群れていた。その中に長い髪を一つに括った長身の子がラケットを振る姿がある。同じクラスの志野陽子だ。光の隣の席を確保している女子の一人だ。
だが辰巳が見ているのはそこではない。コートを囲むフェンスだ。そこに光がいた。
光は彼女を気に入っているのか時折フェンスに乗りかかるようにテニス部の練習を見る事があったが、それは夕方の涼しい時だ。
 「光…。珍しいな。こんな時間に校庭に立つなんて…」
「何―。こんな、暑い日に…」
智雅の言葉で声を上げ窓から身を乗り出したのは正道だ。すでにその場に辰巳はいない。
「光。またぶっ倒れるぞ。彩夏を呼んでこい。智雅」
彩夏とは、養護教諭の京田彩夏のことだ。正道は何故か京田彩夏の事を呼び捨てにしているが、他の奴らが呼び捨てにする事を許さず言い直させた。これも号外版に片思いとして載った。
 身を翻した正道は武道館から飛び出していた。後を追う智雅と要。二人が見たのは光を抱え必死の形相で保健室に向かう正道だった。
「京田教諭。大西光さんが倒れた――」
要が真っ先に保健室に駆け込んだ。続いて正道だが、彼は隣の職員室から顔を出した養護教諭の京田彩夏に声を荒げた。
「あやかー。早くしろよ。奥の部屋に寝かせる。部外者を追い出せ」
 この学校の特色の一つは保健室だ。扉を開けるとサロンを思わせる小さなテーブルとそれに合う椅子が長方形の部屋に並んでいた。その右奥が薬部屋と教諭の机があり左奥にベッドが三台並ぶ部屋がある。更に奥には個室一つ整えられていた。保健室は出入り自由だ。誰でもここのサロンのようなテーブルを使える。今も何人かがぼんやりとした時間を過ごしていた。だが、光の登場で追い出される前にそそくさと立ち去った。
光が日中使う部屋は奥の個室だ。個室のベッドに光の身体を横たえた正道は踵を返した。その背に京田彩夏の呟くような小さな声が言った。
「ありがとう。新君」
「別に礼を言われることじゃない」
背を向けたままで正道は言った。その顔は陰りを帯びた険しい表情を見せていた。今まで一度も見たことのない顔を見た要は胸の奥に突き刺さる物を感じた。胸の奥に何かが引っ掛った感じが取れない。
もしかしたらと思った。
「正さんは光さんの事、好きなんですね」
好き。何気ない言葉だが意味の深い言葉だ。
「ああ、気に掛かる」
武道館に向かう長い廊下を歩く正道は横に並ぶ要にそう答え立ち止まった。俯く背が気に掛かるの言葉の意味を興味深く表していた。感性の鋭い要は好き以上愛に近い心を確かに感じ取った。
―気になるのなら、なぜ健次郎に譲るのか――いや、何故健次郎なのか――光が気に入っている女子もいる―
要は疑問をはっきり顔に出した。
正道は小柄で何処か弱々しい雰囲気を持つ要が向けた真っ直ぐな視線を直視した。無表情に近い強い眼力から逃れた顔が無言で下を向いた。
少年の純粋さがいじめを招いくのだろうか。歯向かうことの出来ない純粋さ。そうであれば悲しいと正道は要から視線を逸らした。
業間のチャイムがなった。健次郎は琢磨に起こされた。
「早く着替えろ。教室に戻るぞ。それともまだ武道館に居たいのか」
寝起きがいいのか悪いのか。言葉に反応した健次郎は大きな欠伸と伸びをすると立ち上がった。この時期には蒸し暑い淀んだ空気に溜息を付き上着を脱ぐと額に浮いた汗を拭き肩に掛けた。その背には白い肌をキャンバスにするかのような赤い爪痕が彩っていた。

***


一・二時限目のシゴキを終えた健次郎は、午後の授業はエスケープだと決め込んでいた。
しかし、四時限目が終わり机を抱き締めた時、耳元で囁やく声に心が一変した。
「部室で待っている」
誘われた。健次郎は、光が吐息を吐いた耳に触れ胸の高鳴りを押さえた。そして、放課後、フェンシング部へ足を向けたのだった。
部屋には光が一人、剣を構えていた。肩で揃えた髪を元結で縛り、相変わらずの長袖、長ズボン姿だ。
「早くしよう」
顔を見るなり胸が爆発する言葉を、光は吐いた。
「何、する」
「キスだ。昨日、契約した。ひと月は、お前のものだ」
「…」
健次郎は目が点になった。唯のバイトなのだ。学友の宿題請負と同じ小遣い稼ぎの――。
遠目から見る光は屈託の無い明瞭な少年である。独特の個性を持つがその声に陰りは無い。日中の大半は保健室にいる光の成績は常に学年上位だ。教室にいても机を枕に寝ている何故か頭の出来が良く、クラス仲間の宿題請負をバイトにしていた。
「嫌になっても、金は返さない」
「俺が稼いだ金じゃない。親父面した奴がくれる。どうでもいい金だ」
膝を抱え座り座り込んだ横に、元結を外し、髪を直した光が並んだ。そして、約束の口づけ。ライトキッスをした。唇が触れ合うだけのささやかなキッス。それだけなのに、健次郎の胸は高鳴っていた。夜の帳が教える激しい熱情にも劣らぬざわめきに浸っていた。
「お前、大人なのに何故、子供のふりする」
現実が、声を放った。
「大人。俺が、か」
「大人の匂い。すべて、経験してる…」
「何を、だ」
「俺の知らないこと。親父が知っていること」
立ちあがった光は、帰ると言って踵を返した。
「帰る。ここまで呼びつけて」
健次郎は、光の腕を掴んで叫んだ。
「俺、体育、出ないから、ここへ来て印鑑押して帰らないと、進級出来ない。ま、日課だな」
「なんで、貴様に合わさないかん」
「ここは誰も来ない。俺が、叫んでも誰も来ない。いい場所だ」
誰も来ない。部員はお前一人なのか。それでも、先公が来るだろう。
「顧問は誰だ」
「おたつみ」
健次郎は息を飲んだ。その名は聞きたくない。
「おたつみは、ここには来ない。柔道部とボクシング部が忙しい。だから、誰も来ない」
「襲ってもらいたかったのか」
「お前、俺なんか、相手にしなくても女はいくらでもいる。昨夜も一緒だった」
健次郎は、言葉に詰まった。事実だ。掴んだ腕を離した。カバンを手にした光が、部屋から出ようとする後ろ姿に叫んだ。
「明日と明後日の分、させろ」
きょとんとした顔が振り返った。そして、宿題も休日分やっているから、そうだな。
カバンを持ったまま近寄った顔が、健次郎の前に来た。その下唇を吸った。そして、上唇。両手が掴んだ肩が細いと感じ強く背中を抱き、一旦離した唇をまた強く吸った。身動きしない身体が腕の中にいる。心地良い。今まだ抱いた女達より、心地良い暖かさが伝わってきた。目を開いた健次郎は、光の顔を見た。瞳を閉じたまま身動せずそこにいる。
「お前の手、暖かい」
我が身を抱き額に汗する顔が呟くようにそう言った。
「お前もいい香りだ」
瞳を開けた光が、はにかむように頷いた。
「一ヶ月ぶりに、風呂に入った。シャンプー買ったし、髪も洗った」
「一ヶ月…」
「風呂は嫌いだ。でも、歯磨きは毎日するぞ」
「俺は、好きだ。バスタブ一杯湯を張って思い切り長湯する。朝湯もいい。お前、一緒にどうだ」
「俺と…お前、二人で‥」
光は、考え込んだ。その反応が変だと、健次郎は感じ取れなかった。普通、風呂を誘う男はいない。あっさり、跳ね除けられると思ったが、重い口調が返ってきた。
「何時か、出来るようになる。お前が、そう望むなら、そうなれる気がする」

*****

放課後の駐車場で、健次郎を待つお抱え運転手の城島(きじま)俊(しゅん)は苛立ちを覚えた。
何時なら放課後まで残ることなく帰るコールがあるはずが、今日に限ってない。更に、時間が押していた。店に入る時間が…。
この城島俊は、健次郎をマンションまで送り届けたら、次の仕事が待っていた。
小さなクラブの支配人。
すでに両親は他界し、大学に通う天涯孤独の苦学生が生きる術に選んだのが、健次郎の母まなみが経営する夜の店だった。そして卒業と同時にサイトーグループへ入社した。昼は健次郎とまなみの運転手、夜はクラブの支配人。そして深夜は―――。
早く帰らねばと焦っているが、当の健次郎は放課後過ぎても姿を表さない。
今日は、予約が二件入っていた。腕時計を見詰める俊は、今日の予約客の一人、八田(はった)誠一(せいいち)の習癖を思った。彼は、以前、健次郎の腹を縫った外科医だ。今は都心の大病院勤めから開業医となり腕の良い医者と定評があった。羽振りの良い彼は店の得意客だが、俊の眼から見れば鼻持ちならないロリコンだ。
仮面の下に覗く顔を、酒は真実の鏡のように映し出す事がある。
何気ない動作を店の入り口で監視する俊は気づく。気づいたとしても口にだすことなないが、何気なくそっと周りの雰囲気を変えて客の悪癖を回避するのだが、来店時の客の顔を伺わなければ采配を振るえない。
早く現れろと願う俊の携帯がなった。
健次郎を車に乗せた俊は、ほっとした。そして何故か、上気した顔が何も言わず後部座席にいる不思議が気になった。何かがあったと悟った。それは日を置かず彼を驚かせた。
俊が驚いたのは、大西光のその風体では無かった。健次郎が初めて友人と肩を並べて歩く姿を見た事だった。
健次郎は気付いてはいないが、俊は六年前から彼の行動を見ていた。
まなみの涙も見ていた。
健次郎の知らないまなみを城島俊は知っていた。が、語れなかった。
おばさま族を卒業した健次郎が、ボーイズ・ラブに走ったとしても驚かない。俊にも人に語れない部分がある。人は影の部分を持つ。それを語れるか語れないかは、語るための努力が必要なのだろうと俊は思っていた。
俊は、光を観察した。光の方も、俊を見ていたに違いない。
何も語らない瞳が、家まで送るという健次郎の言葉を無視し二週続けて同じ場所で車を止めさせた。
「何処へ行く」
健次郎は、この日、しつこく聞いた。
「ドクター八田。俺の主治医。会いに行く」
木曜日。先週と同じ場所を指定した光は、健次郎の腕を振り切る様に車を降りると振り返ることなく人混みに消えていった。
驚愕が俊を襲っていた。Dr八田。まさかの文字が脳裏を覆った。ロリコン八田。彼は外科医だ。小児科医でも心療内科医でも無い。俊は首を振ると心に湧いた不安を打ち消した。
はっきりとした信念を持つ城島俊がこの大西光と出会いで彼の人生を大きく変えるのだ。そして、光の生涯を観る一人になるのだが、今はそれを知らない。

連夜の夜遊びで毎回叩き起こされ高校へ通う健次郎は、お抱え運転手城島俊に対して感謝の心はない。彼にとって城島俊は父親が雇った一介の運転手だ。それが入学日、初対面の健次郎に歯向かうような眼差しを向けた。それ以来、俊に対し反感を覚えた。それを、態度で示した。通りがかりの物騒なお兄さんにいちゃもんを付け、俊に後始末させた。いつかは、高速道路のパーキングに置き去りにした。
それでも俊はこの一年三ヶ月、日曜以外は健次郎の身の回りの世話をしつつ父京介に日中の報告を続けているだろう。新卒の社員が任されたのが、盆暗息子のお抱え運転手。熱意を持って入社したはずが、不本意な仕事だろう。俺だったら、辞めているだろうと…。ルームミラーに写る俊の渋面を覗き込んでいた健次郎の脳裏は異母兄の傲慢な顔を想い浮かべた。
十六歳年上異母兄、斎藤慎吾。まなみが父京介との関係を深めた三年前から何度か会っていた。
事務所を構える敏腕弁護士。二人の子供を持つ家庭的男だと聞くが、健次郎には冷淡だ。当たり前だと健次郎は思っていた。健次郎の出生が、ひとつの家庭を壊した。十年以上前から独り身の京介。京介の面差しを持つ健次郎、母親似の慎吾。初めて親戚一同の前に会した時、京介の母親琴乃は健次郎に温かい手を差し出し自分の横に座らせた。それだけで、血族と認められた。血族と認められても、慎吾からは兄弟と認められなかった。慎吾の態度が、殊更冷たくなった。冷酷な態度と言葉が京介や琴乃の前でも吐き捨てられた。この頃から、怒る気持ちを抑えられるようになった。
「言葉を誓いよ」
まなみの言葉が胸に響く。
「言葉に発したことは実行する。実行できないことは、言葉にしてはいけない。怒りに任せた言葉を発しないで‥言葉は誓い」
脳裏のまなみは、何かがあるたびに強い態度でそう言った。自分を曲げることのないまなみ。彼女は、同じ年頃の母親達とは違い黒い髪を染めることはない。誰よりも黒い髪を後ろに束ね一粒の真珠を耳元に飾り明るい色の口紅で陰りを帯びた顔を隠す。
母一人子一人の生活。学校が終わると母まなみが経営するブティックへ通う。
物心付いた時からまなみに男の影を感じた事が無かった。父親の事を聞かなかった。知らなくて良い生活だった。だが、中学二年の進路指導の時、その存在を知った。
電気大手メーカー斎藤グループ社長兼会長。斎藤京介。その人が、父親。そして、自分が父親の戸籍にいる。
まなみとは別姓だと知った。更に、驚愕の真実を知った。
愛人。
まなみが、自分の母親が、愛人だった。
思春期の健次郎にとって受け入れがたい真実だった。
そこから、悪行を重ねる日々がはじまった。
乱闘と暴走。問題児としとして、呼び出しを受けるまなみは、
「中二病よ。その内、熱が覚めるわ」
と、教師の前では神妙な顔をしながら健次郎の前では平然と笑っていた。確かに、時が経てば熱も覚める。だが、熱が覚めるには、時間が掛かる。
慈愛を秘めた悲しげなその笑顔が、過去を語ることなく背中を向けていた。失意と怒りが、怒責となって胸中を駆け巡り、出口を求め、拳を握り喘いだ。
大柄で厳つい体躯でスポーツが得意な健次郎は、小学時代は陸上選手を目指し走り続けた。中学二年の半ばまで体操部に所属し腕力には自信があった。
まなみの生き方に反感を持つものがいたら、自分を愛人の子と後ろ指差すものがいたら有無を言わさず叩きのめした。それは、いつしか校内だけではとどまらず対立中学まで手を伸ばし、喫煙、飲酒、愛欲の結末が刃傷沙汰まで及んだ。
中三の卒業を間近に控えた時期だった。脇腹を刺され生死を分ける大手術となった。そのため、高校進学できず退屈な日々が教えたのが車を転がすことだった。
夜間の暴走行為。
夢中で走り回った。その結果が、暴走炎上事故。夜の繁華街で起きた暴走車衝突事故。右大腿複雑骨折、第三・四胸椎骨折、ベッドに二ヶ月括りつけとなった。
この時、初めて、父と会った。
憔悴したまなみの後に立っていた。
まなみは何も語らなかったが、京介が重い口を開いた。
これからの事はすべて任せれば良い。高校、大学、就職、父である彼がすべてを整えると言うとまなみの肩を抱いて部屋を去った。この時のまなみの形相が、健次郎の脳裏に焼き付き離れない。一点を見詰め、息を殺したように強張った顔が伝えたもの。今まで見たことのない顔が、午後のまどろみに居る健次郎のもとに帰ってきた。
寝顔を覗い、一瞬 むせび声を上げ部屋を去った。残され移り香は、まなみの香水ではなく石鹸の香りだった。

******



まなみは健次郎のマンションを久しぶりに訪れた。そして、玄関に白い花を飾った。玄関に白い花を飾る。健次郎が、無謀の日々を送るようになって無事を祈るように飾り始めた。小さい花を一輪だけ。それが頼りない自分の姿に重なり、何故か涙が溢れ出ていた。
玄関から続く廊下を隔て、左右に同じ間取りの部屋がある。左が健次郎の部屋だ。右がまなみの部屋だが一度も泊まったことが無かった。その部屋を覗いたまなみはしばらく立ちすくんだ。
女の子の部屋だった。
白い家具とピンク色のフリルとレースが溢れ、隅を飾る花と小物がまなみに微笑みかけていた。似つかわしくない部屋だった。今身を置く部屋とは、天地の差があった。
それがこのマンションのこの部屋を管理している人の望みなのだと思ったまなみは、静かに扉を閉めた。
健次郎の部屋の隣がトイレと洗面所、バスルームと続きリビングの扉があった。まなみは真っ直ぐに廊下を歩きリビングからキッチンへと向かった。城島俊の手が行き届いた部屋は整然としていた。
彼女は、台所に立ち健次郎の帰りを待った。

予告なしの訪問だったが、健次郎は驚く素振りは無かった。
静かな夕食になった。
「彼女が、出来たと聞いたわ」
その言葉にも、顔色を変えない健次郎は静かに頷いてみせた。
「貴方が、年下の娘に興味を持ってくれてホッとしたわ」
まなみの本音に近い言葉にも、健次郎は箸を止めることなく食べ続けていた。
刃傷沙汰から今までかなり年上の女性と付き合っていることを京介から聞かされていた。マザコンだと指摘されてもいた。そして、今回もそれと同等にかなり込み入った相手だと、告げられていた。
それでも良い。いずれ社会に出て、人並みの幸せを掴んでくれればそれで良い。平凡な幸せを掴み普通に暮らしてほしいと、まなみは合わせた両の手を強く握り締めていた。

******


玄関の白い花。
陶器に生けられた悲しげな小さな一輪を久しぶりに見た健次郎は、父親京介から忠告の連絡が入ったと悟った。
逃げている訳ではないが、まなみの問いに答えられなかった。
後片付けをするまなみの後ろは母のイメージから遠い。何故か…。健次郎の脳裏は音のこだます記憶を持つ幼い時の記憶だろう。恐れ怯える心を温かい腕がしっかり抱き抱える記憶。
嫌な週末だった。彩りのネオンも煩すぎる騒音も握るハンドルも頬を打つ夜風にも、なぜか心中に沸き立つ気配が無い。胸の奥を締め付ける感覚が明かりを求めていた。きらびやかな色と音に浸ろうとした。酔余の柔らかな優美を抱き止めその中で馳せた。だが、その行為は虚しかった。

月曜の朝、教室の光の指定席でその姿を見た時、健次郎は胸に刺さっていた楔が消え失せた感覚にほっとした。そして、背に悪寒が走った。もしかして、これは――。
ホームルームの途中。光は、姿を消した。午後になっても帰って来なかった。
―保健室―
行くしか無い。健次郎は、不安に揺らぐ胸の裡を抑え保健室に向かった。が、
「帰った…」
金槌で殴られたような衝撃が脳裏に走った。
暗黒に落ちた心地の健次郎には、京田彩夏が何かを伝えようとした言葉が耳に届かなかった。そのまま重い足を引きずり二階の教室へ辿り着くと、六時限目を上の空で過ごしチャイムと共に立ち上がった。
「帰るのか」
前の席に座る林琢磨が声を掛けた。
「暇人のくせに、そんなに急いで帰るのか。たまには別ルートも良いもんだぜ。俺は、部活があるから遠慮するが―」
このクラス、放課後の動きがやたら早い。すでに大半の者がカバンを手に教室から飛び出して居無い。その理由を健次郎だけが知らなかった。
「僕もいけません。通学に二時間掛かるし、急行に乗り遅れたら帰り着くの一時間も違うから直ぐ行く。あ、そうだ。健次郎さんのお陰で三学期からは楽できます。感謝してます。それでは――」
 帰宅部要が、いつものように慌てて教室から出て行った。
「ああ、良かったな。着工がだいぶ遅れていたから皆心配していたが、おたつみだいぶ頑張ってくれたから‥」
要の後ろ姿に手を振る琢磨は一人事のようにそう言った。健次郎は要が感謝と言った意図が分からなかった。
「辰巳‥が、何を…」
「寮。学生寮。寮を建てる認可は下りていたが、問題は金。寄➗付➗金~」
と言う琢磨はニンマリ笑う。
三学期までに男子寮、春までに女子寮が建つ。駅からだいぶ遠のくが環境の良い広い土地が手に入ったと定例の学校新聞が後で伝えた。
「部活やりたくても通学時間を取られて出来ない奴や、電車通学に耐えられない子もいる。親が毎日送り迎えしてもらってる子もいるし陽子のように下宿してる子もいる。号外を出したかったが、おたつみに止められた。寄付の大元が嫌がるからと…。おっ、お前の運転手早いな。もう迎えに来たぞ」
窓から顔を付き出した琢磨が振り返ると健次郎の手にメモを渡した。
「落とすなよ。メモ。旧村に入ったら道が急に狭くなるらしい。一方通行が二カ所。行きは迂回しなきゃいけないが帰りは直線。わかりやすいらしい。俺は行ったことがないが知り合いが言っていた」
「なんだ」
「見れば分かる」
確かに見れば分かった。名前と生年月日が印刷された下に手書きの住所が記してあった。
大西 光
七月十一日生まれ、今月誕生日かと感心したように頷きながら立ち去っていく健次郎を見送った琢磨の肩を掴んだ正道が囁くように言った。
「渡したか」
「ああ、確かに」
「会いに行くかな。会いに行けば一歩近づいた事になるが…。奴の明日の反応で決めるか。厄介な事に十一日は木曜日だ。再来週の木曜日」
「智雅がうまく仕切ってくれる。智雅に任そ。それより智雅とお前、同じ小学校へ通ってた時があったんだな。お前、光を知っていたのか」
琢磨の問いに、正道は確かに顔色を変えた。眉間が表す固まった表情。それは苦脳と琢磨は感じた。
「おっ、健次郎の車が動き出した。明日が楽しみだな。正」
琢磨は明るい声で言った。

長屋。
道路沿いの並木が隠す長屋は、同じ戸口がズッラリと一列に遥か奥まで続いていた。
新興住宅地のアスファルトされた駐車場と並ぶ更地の長屋。その場所は閑散とし不思議に健次郎の眼を惹きつけた。不快を表す事なく健次郎の要望のままに並木道に車を付けた俊は、ここからは歩けと指差した。
そして駐車場の間に消える健次郎を見送った俊は、携帯を取り出した。
住宅地の中のそこだけが取り残されたように、だだっ広い更地すでに暗くなっていた。一直線に真っ直ぐ並ぶ戸口の上に外灯の明かりが光っていた。
健次郎は口笛を吹いた。初めて眼にする光景だった。戸口に屯する人達の声が響いていた。田舎ののどかな光景だなと思った瞬時、誰かが叫んだ。
――男がきたぞ――
その一声が、戸口から戸口へ連呼された。
のどかな黄昏時が、野次馬の罵声と化した。
――彼氏だよ。彼氏。金持ちだよ。きっと――
――金持ち男が会いに来おった――
 尋ねなければと思っていた健次郎の心が消え失せた。危ない場所に足を踏み込んだと思った。このまま踵を返して消え失せねばと心が焦った。だが、取り囲まれていた。
「上級生かい」
健次郎が何をしに現れたのかを知るように声が飛ぶ。
「顔は、悪くないが、背がもうちょっと足りないね」
初対面の相手を気遣う相手ではないと引く健次郎を押しやる老人達は
「今夜は泊まりか」
「布団は、あるか」
「風呂はどうする」
信じられない会話を続けていた。
背を押され一軒の戸口へ立った。そこから自動ドアだった。戸口は簡単に開き、中へ押し込まれるとピシャリと閉まった。瞠目に固まった健次郎はガラスの戸口を見詰め耳を異常に澄ませた。人が立ち去る気配が無い。
「お前、度胸あるなあ~。俺だったら、あんな爺さん達に囲まれたら逃げ出すぞ」
背後からの突然、声がした。飛び上がった健次郎は戸口の引き戸にぶつかった。内と外で音が響く。
光が、闇に溶けこむように鴨居に座っていた。そしてゆっくりと立ち上がると、健次郎の前に立ち顔を寄せた。それは当然のように唇が触れ合う。広げた腕は記憶されたように細い身体を抱き締めた。それは今まで感じたことのない感情を生ませ立ち上がる炎のように全身を駆け巡っていた。
抱き締めた身体は異様に熱く汗ばんでいたが、髪からシャンプーの甘い匂いと首筋からはさわやかな香りを漂わせた。香りは平常な心をもぎ取り異常に高まった感情だけを爆発させていく。
健次郎は何を抱き締めているのか分からないほどの激情にある。舌が重ねた唇の間を縫い、歯を押し開けその中にあるものを確かめた。甘い味を確かめた。逃げる気配が無い甘さが絡む。強く吸い上げた。それでもその身体は逃げなかった。手が畳のめを撫でた。吐息が項を這い耳朶を吸った。
「俺…。綺麗な…部屋で…」
光の吐息が言った。
健次郎は、はっとして顔を上げた。光の上におい被さった自分に気づいた。
「俺は決めている。毟られる前に毟る。ここでは無い。綺麗な場所」
 身を起こした健次郎は夢見るような面持ちの光を見入った。言葉の意味を理解できない健次郎はしばらくの間光を見ていた。
そして、感情の高鳴りが静まり返ると気づいた。倒れこんだその場が作る空間。
物一つ無い三畳間と襖で仕切られた四畳半。寒々とした部屋にあるのは、小机と壁の本棚。音を聴かせる物は何も無い。人の生活が見えない。
「お前、誰と住んでる」
周りを見渡した健次郎が聞いた。
「いない…」
「誰も。親父さんが居るんだろ」
眼を上げて健次郎を見た光は、小さな声で言った。
「透明だ」
「透明…?無職」
頷いた光はポツリと言った。
「行方不明」
「じゃ、ここに誰と住んでるんだ。これは、人の…」
部屋じゃない。健次郎はそう言いたかったが、言葉を切った。他人が言うことではない。光は天井から垂れ下がった電球に明かりを灯すと壁伝いに滑って座り込んだ。
「今は、一人でも暮らしていける」
健次郎は、はっとした。母親もいない。また、無言の時が続いた。それを割ったのか女の声だ。
太くはっきりした女の声が光を呼んだ。引き戸の叩く音にも視線を上げず項垂れたままの光の横で立ち尽くした健次郎は振り返った。
「ひかるちゃん。おっちゃんが、布団を持ってけってうるさいの。借りるかい」
声の主は現れない。
「隣の八重子おばさん。俺の面倒を見てくれる。おばさん。入って」
短い髪の中年のふくよかな女性が姿を表すとゆっくりと頭を下げた。慌てて座り込んだ健次郎も頭を下げた。
「こいつは、帰る。ここには似合わない。それに、俺、初体験は真っ白い綺麗な部屋って決めている。ここは、嫌だ。十八までには、…」
乱れた髪で顔を隠す悲しげな瞳が、健次郎を見た。

******  


後部座席に走り込んだ健次郎は強張った顔を、下に向いたまま動かなかった。長屋から帰路を目指しハンドルを操る俊も言葉は無い。
健次郎は帰れと言った光の言葉に素直に従った自分の心をどうすることも出来なかった。あのままその場にとどまれば良かったのか。いや無理やり車に押し込んで連れてくれば良かったと、想い悩む健次郎は首を振った。おそらくどちらもダメだ。激しく拒否される。嫌われたくは無い。失うのが怖い。
悶々とした心地が睡魔を寄せ付けない。暗い四畳半の気持ち悪いぐらい整然とした部屋で一人、時を過ごす光のことが頭から離れなかった。それはいつしか、薄闇の玄関を飾る一輪の白い花に重なっていた。
翌日、普段道理の姿で現れた光はいつものようにボサボサに立ち上がった髪など気にする事なく席に付いた。それから何時も通りに五冊のノートを確かめると、鉛筆を走らせホームルームの時間もそれに没頭した。机を抱く健次郎は人の間からその姿を覗き見ながら苛立ちと焦燥を織りなす胸中を整理できずにいた。
―契約の宿題―
そんな事しなくても俺が金を払う。健次郎の脳裏は叫んだ。そして光は受け取らないと知る心が机に沈み込んだ。
ノートを後に回した光が立ち上がった。つられて立ち上がりそうになった健次郎は頭を抱え、一度も振り返らず立ち去る後姿を睨みつけた。睨み付けてもどうしようも無いと分かる心は項垂れた。そんな健次郎の落ち着きなく顔色を変える様子を、正道等四人ともう一人担任辰巳は見ていた。
 その後、光は教室へは戻らなかった。
放課後、保健室へ入った健次郎は一番奥の仕切られた部屋へ入った。光が寝ていた。
物音に振り返った精気ない顔が、健次郎の胸にしみる。
やはり抱き締められずにはいられない。
放課後光の部室へ通い、長屋の前の駐車場まで送り届ける。
「見られている。いいのか」
「いい。親父に、俺がアブノーマルだと教えてやる」
唇を離した健次郎が言った。そして、また 唇を押し当てた。肩を強く抱いても抵抗しないが指が首筋に触れると容赦無く払いのけた。
「もう、知ってるんだろ。うちの学校。かなり変わり者が集まっている」
その頂点が自分だと言いたげな表情が、ルームミラーを睨み外へ眼を向けた。
光は、車を止めさせた。
「もうここでいい。後は歩く」
「送る」
「行くところがある」
「そこまで送る」
「何故」
健次郎は、答えなかった。
光もそれ以上聞かなかった。そして抱きとめる腕を払うこともなく、絡ませた指を解くこともしなかったが、車を止めろときっぱりと言った。
人混みの中に紛れた姿が消え失せても窓に張り付いた健次郎は暫くの間動かなかった。俊はアクセルを踏まずじっとその場に留まっていた。
「どうして、追わない」
その言葉に健次郎はやっと身体の向きを変えた。それを待ち構えたように俊が言った。
「何かにのめり込んで後悔しても良いと思う。何もせずに後悔するより、何かをして努力しての後悔だったら悔いることは無い。それが世間に認められなくたって自分の意志を貫く事が大事だ。タケシには、そうあって欲しいと僕は思う」
そう言う言葉を掛けられるとは思ってみない健次郎は、はっきりいって驚いた。嫌われていると思っていた。だから言葉はすんなりと出た。
「何をすれば良いのか、分からない」
「好きなんだろう。光が」
健次郎は素直に頷いた。
「好きだと伝えれば良い。好きだから一緒にいたいと云えば良いさ」
「それだけで、良いのか」
「ああ、一緒に居たい意志を伝えれば、それに対して答えを返してくれる。一緒に暮らしたいといえば真剣に考える。そういうやつだ。まなみの部屋が空いているし京介氏には内緒にしておけば…。ばれるまで、な」
正道が今から画策しようとしている事を俊はあっさりと言ってのけた。驚いた健次郎は俊の顔をまじまじと見た。
兄のような眼差しが穏やかな笑みの中にあった。健次郎はその顔に飛びついた。だが俊は、確かな拒否を表した。
振り払ったのだ。
「やめろ。タケシ。人を簡単に信用するな」
見詰める眉間が怒気を表していた。驚く健次郎に背を向けシートに座り直した俊は、強い眼差しをルームミラーに向けた。そこに写る顔に、貯めこんだ言葉を放った。
「僕の父親は…、精神病院で亡くなった…。母は、僕が小学校三年生の時に自殺した…父のせいだ」
言葉を切った俊は喉を鳴らした。そして祈るように手を組むと額を押し付け無動の時をつくった。外はまだ明るく人の往来は続き邪魔な車を迷惑そうに見つめながら行く。
「父は、犯罪者だ。彼の罪は闇に消えたが、犯した罪は消えない。彼のために、少女は毎晩泣いた。闇の中で行われた行為を拒否することも出来ず、同じ年頃の娘のように笑うことも着飾ることも出来ずに苦しんだ。八年間、高校を卒業し…逃げるように故郷を後にするまで兄は妹を汚し続けた…その事実を知った、おふくろは罪の意識も持たない父に耐え切れず…死んだ」
唐突の告白を受け止める健次郎は、後退さった。健次郎には俊の告白の意味が分からない。タケシと呼んだ真意も分からなかった。
「父親と同じ血が僕のこの身体を廻っている。犯罪者の血だ。弱い者を虐げた血がある。お前とは違う血が―。僕なんか信用するな・・・今に、お前を叩きのめし、お前の親父から大事なものを奪いとてやる」
分かったかと、俊は怒鳴った。声を詰まらせ叫んでいた。何事にも冷静な俊が見せた怒気。肩の震えが感情の乱れを見せていた。唖然とした健次郎は俊の後ろ姿を見続けた。
だが、この一回だけだった。後にも先にも城島俊が心中の怒りをはっきりと見せたのは―。

******


健次郎は時計を見た。自分の部屋だと分かる四角な黒い壁掛け時計の針がきっかり六時を指していた。
朝の六時。眠りから覚めた意識が、今日は金曜日だと告げた。
登校日なのに俊が起こしに来ない。
身を起こした健次郎は、昨日のことは夢では無いと思った。だが、夢なら良かったと思った。人の過去を知るのは興味深く面白い。自分の過去もなかなかおもしろいと思う健次郎だが、掘り起こしたく無い過去を持つものも居るのだと母まなみを思う彼は知っていた。
人に知られたくない過去、人に語れない過去。それを持つ城島俊。この事実。それを彼自身が語った。それも叫びに近い告白だった。
分からない。何故、健次郎に向けて衝撃の告白を解き放ったのか疑問が渦巻く。全てが、夢ならいいと立ち上がった足はリビングへと向かった。
俊は、台所で食パンをくわえ、真新しい半袖シャツに背広の片袖を通していた。何故か俊の趣味は、健次郎と似ていた。まなみの店で揃えているのかと思えるほど同じブランド物を兄弟ように身に着けていた。
早く夏物を取りに行かねば、まなみから催促の電話が入る。そう思う健次郎の心を見抜いたように、いつもの俊が言う。
「また、木曜日に店を休む。夏服を取りに来いと伝言だ。伝えたからな。健次郎」
分かったかと念を押すようにそう言った俊は、焼いたパンの上にハムと目玉焼きを乗せたいつもの定番メニューを差し出していた。食べるかの声も無く差し出された物を、健次郎はいつも素直に受け取った。飲み物は自分で用意しろと背を向けるはずがテーブルに付いた。
コップを二つ。カップソーサーを二つ。温かいコーヒーと冷たいオレンジジュース。それを用意するのは健次郎。何時の頃からか、朝起きると冷蔵庫から冷たいジュースを注ぎ、慣れない手付きでポットから熱湯を注ぐものを用意した。
幼心が母を思って作り出した習慣だった。朝早くから夜遅くまで休む日も無く働くまなみのために・・・。
中学のあの日まで・・・。
一旦止めたものを、またやり始めていた。俊はその意図を知るかのように何も言わず二つを飲み干すと、車へと向かうが今日の顔付きは違う。
何かを言いたそうな顔付きであるが、やはり無言で立ち上がった。
健次郎も何も言わずオレンジジュースを飲み干すと身支度を整えるために部屋へ向かう。その手にテーブルの上に置かれていたカードが握られていた。

大西 光    血液型  A(+)
七月十一日生まれ   蟹座
好きな色       赤
好きな食べ物     りんご
趣味         ない



 琢磨が健次郎に渡したカードと同じものだが、文字数が増えていた。このカードには意図があると俊は踏んでいるのだろう。誰かが健次郎のために用意したのだと。二人を繋ぐために・・。
しかし、光の心はカードとは裏腹に健次郎に告げた。
契約更新しないと・・。
「ドクターに言ったのか。俺達の関係」
健次郎の問いに、光は頷いた。
「忠告されたのか。先公のように、学生にあるまじき行為だと‥」
「いや。いい傾向だって。お前との関係大切にしろって、言われた。俺、友達、つくれないから・・同級生、触れられる男友達、あいつに笑われた」
「それじゃ。なんで、やめる。前と同じだけ払う」
「金はある。御前がくれた金、まだ残っている。タラ賃さえ払っておけば、ドクターと八重子おばさんが何とかしてくれる。ただ・・」
真顔の光が、健次郎を見上げた。しばらく見詰めた後、視線を落として言った。
「忘れられなくなる。唇が、覚えている。お前の感触を・・・」
感触。確かにそうだ。悶々とした心地をいつまでも抱えてはいけない。何時か決別が来るならば、きっぱりした態度であろうと健次郎は決意した。
「分かった。それじゃ」
ライトキッスがフレンチキッスに変わった。それでも光は健次郎の腕の中にいた。
「誕生日にデートだ。俺の住む聖和の町並みを見せてやる。服を見立て、食事して、お別れのキスをする。明々後日の木曜日。最初で最後のデートだ」
「木曜日・・・」
Drと張り合って木曜日と言った訳では無かった。光の誕生日が丁度木曜日に重なっていた。顔を曇らせた光は行くと言った。これがひとつの事件に繋がるとは思わない健次郎だった。

光の姿を見たまなみの顔が、一変した。激しいほどの動揺を見せた。
 言い表せない程の衝撃を受けたと、固まった顔が告げた。
 まなみの経営するブティックの二階に紳士服売場がある。まなみは午後からはたいていそこに居ると、健次郎は迷わずエレベーターに乗った。
カウンターで服と幾つかの小物を用意するまなみは、エレベーターから現れた健次郎に気づいた。
「あら、一人なの」
黒髪を後ろにきちんと結い上げたいつもの顔が、笑みを浮かべてそう言った。
高校生になりここへ現れる時は必ず運転手の俊が一緒だが、今日は違うのかと何かあったのかと憂いを帯びた顔付きのまなみはそう言ったのだ。
「友達、連れてきた。そいつに似合う服がほしい」
健次郎は下を指差し、首を振った。二階のこの一角には人の気配は無い。階段を上がって来る俊ともう一人の姿を捕らえたまなみは顔を覆った。
初夏、晴れ渡る空に気温が異常に上昇したこの日。黒い上下の学ランに身を包んだ姿が俊と一緒に階段を上がって来た。その姿がまなみの前で、健次郎の横に並んだ。
健次郎は、思い込んでいた。
何事にも動じることは無いと・・・。中学校の後半から高校入学まで思いに任せた行動にも心乱す事が無かった。そのイメージのままにあると信じて疑わなかった。
だが違った。目の前に居る母親は、同級生の母親よりも確かな反応を表していた。
光の風体は確かに人を驚かせるが、これほどはっきりした驚きを見せた人はいないと健次郎は思った。
それが、不可解だった。健次郎が今まで起こした事件には、顔色も変えずに立ち向かった人とは思えないほどの動揺が声を上げていた。
それからだ。健次郎が衝撃で動けなくなったのは・・・。
視線と聴覚が捕らえた真実を、受け入れないと激しく震えた。窓際に置かれたソファーにまなみは倒れ込んだ。
「まなみ!」
その姿に声を上げ駆け寄ったのは俊だ。
健次郎を押し退け、抱き抱えるように俊が横に並んだ。
まなみも俊の名を呼んだ。いや、名を呼ぶ前に男の腕がその身体を抱き締めた、と健次郎には見えた。
それから、言い争うような二人の会話。涙を拭くまなみの悲しみを表す顔。狼狽える俊の愛着に満ちた顔。すすり泣くまなみと肩を揺さぶり抱き締める俊。
二人の抱擁を見た健次郎は、その間を割ることの出来ないと悟った。
抱きあった二人が醸し出す雰囲気に瞳を揺らした。
身近な母親が、一瞬で遠のいた。振り返れば必ずそこに居ると思っていたまなみの姿が朧に消え去った。
今まで気づかずに来た。二人の関係。
衝撃に見詰める健次郎の視界が、白くぼやけ見えなくなった。

*****


呆然とした心地が何をしていたのか分からなかった。唯、目的もなく歩き回っていたのだろう。
携帯がなった。無意識が反応していた。
「琢磨。ああ、智雅と一緒か。光…は‥」
― 光 ―
脳裏が、弾け飛んだ。 
現実が、健次郎を掴んだ。
マンションの前に立つ自分に、気づいた。
光の姿が無い。
見知らぬ場所に置き去りにした。店に引き返したが、何処にも居なかった。二階にも…。 
更なる衝撃が健次郎を襲った。都心の人混みに塗れた光。探し出せない。健次郎の指がワナワナと震え携帯を操れない。座り込んだ。全身を貫く襲撃が心臓を握り潰す。立っては居られなかった。全身が鼓動に包まれ為す術を失っていた。
携帯がなる。長いコールでやっと現実に戻った健次郎は、握り締めた携帯を耳に当てた。
琢磨だ。途中で切れた会話を取り戻すために声が荒い。
「…光を‥何処かに、置いてきた…」
「なん‥」
琢磨の叫びが耳を突く。
「俊に、電話‥出来ない。あいつが、まなみを…。信じない。まなみが‥信じない。信じ、られない。俺は、どうすれば良い。俺は何処へ行けば良い…教えてくれ‥」
健次郎の言葉から彼が窮地にいると分かった。琢磨は心得ていた。心を乱した者の扱いを。
「今、マンションの前。近くの繁華街‥。駅は近い。ああ、わかりやすい。待っていろ…必ず行く」
――言葉は誓いよ。発した言葉は必ず守る――
まなみの口癖が、脳裏に響いた。言葉を実行した琢磨が、智雅を伴い辰巳大輔の車で現れた。
健次郎は、辰巳の腕の中で泣いた。泣くだけしか無かった。心の激情は、ただ流し去る。流れ落ちるものが止まるまで辰巳は静かに待った。車の中の二人も神妙な心であるがそれよりも、光の居場所を探さなければならなかった。すでに二時間以上は経っているだろう。
光が取る行動は・・・不明だ。
智雅は頭を抱えた。光は日課以外の事が出来ない。外界と接する事が出来ない。それを健次郎には伝えられなかった。
誰かに助けを求めることすら出来ない光の行動。それが、恐怖だ。その恐怖を健次郎に託した。それ自体が光を窮地に追いやったのだろうかと智雅は中途半端な自分を責めた。そして、正道だったらどう出るかと思考した。正道だったらと・・・。しばらくして、弾け飛んだ。
正道だったら、念には念で学ランのポケットだと智雅は閃いた。
GPS機能付き携帯を念のためにと心配性の正道が持たせているだろう。
その通りだった。正道はすんなりと光の居場所を教えてくれた。
「近くまで帰ってきている。近くの商店街にいる。三十分前からそこを動かない。二人は一緒なのか?」
電話の向こうに木霊する音がある。正道はトイレにいると、智雅は直感したがそこが何処かまでは分からない。
「そうだろうよ。健次郎のことだ、光を家まで送るさ。光が帰り着いたら教えてくれ。じゃ、後で・・」
智雅は手早く携帯を切った。そうしなければ感の良い正道は誘導尋問してくる。今日は塾日。今の時間に携帯に出るということは、彼の関心は光にある。この事実を知れば…。
「まずいな。場所が悪い。正は気づいているな。動けずにいるということは家か、塾か。急ぐに越したことは無い」
健次郎を助手席に押し込んだ辰巳がそう言った。聞いていたのかと智雅は頷いた。
「光は奴と一緒だ。危険以上の危険信号だ。正には知られたくない。急いで光を取り返す」
辰巳の太い声が車内に響く。その言葉の意味を健次郎も琢磨も知らない。だが、いずれ知ることになる。

******


要は教室の雰囲気が、何時もと違うと感じた。
健次郎の姿は無く、光はホームルームに姿を見せず、教壇でクラスを纏める指揮を取る正道が座ったまま動かない。智雅は部室にいるのか、姿がない。琢磨は机を抱きしめていた。
月一の席替えで、要の席が教室中央に変わっていた。中央列四番目、後ろからも前からも右からも左からも丁度真ん中の席、この席で定着したくない~と、要は窓際の前から六番目の席で寝入る琢磨を見た。その後ろは空席の健次郎だ。その場所に眼を向けた要はおかしいなと黙考した。最近やたら真面目に酒と煙草を匂わせずにホームルームから着席しているはずが、昨日放課後何かがあったのかと誰かに問いたかったが要はまだ気軽に話しかける相手が居無かった。
二年二組、普通科クラスの在籍者三十五名は、非常におとなしく今時珍しい真面目なクラスメート達だ。その中の数人を除いて…。
智雅と光は同じ中学を卒業して、この高校へ入学した。
後の者はそれぞれ違う中学校出身だ。何故か三十四の中学校出身者が揃ったこのクラス。どんな募集をしたらこのように多様な場所から人を選ってこれたのだろうと普通の人は考えるだろう。このクラスで一番遠い中学校を卒業しているのは、大都会からやって来た佐野陽子だ。スレンダーの綺麗な顔をしているが笑顔に乏しく何時もリストバンドを左手首にはめている。体育は出席するかプールは休む。大体の女子は水着姿を披露しないが、要と同じ電車に乗り合わせ、彼より二駅先で乗り降りする巨体の女子神谷千紗(かみやちさ)は泳げないがプールに入る。そして、以外な特技を披露したのが去年のプール大会だった。泳げない人のためにプールを歩く競技。ダントツ一位で二十五Mプールサイドにタッチした瞬間、千紗はクラスのヒーローになった。入学式の日、その巨体を小さく折りたたむように席に座り一学期を過ごした彼女は水泳大会の優勝トロフィーを校長から貰った時、豊満な胸を揺らしていた。今その姿が要の前の席にいるが、気を使っているのか細く頼りない要の邪魔にならないように右の女子と机を付けていた。その千紗が時折ちらりと要を振り返る意味を今は知らない・・・。
集まった者達は仲良く肩を寄せあって勉強にスポーツに勤しんでいた。
人の出会いとは奇妙なものだ。それぞれ違った場所で育まれた者達が一ヶ所に集まり、未知を極めていく。それが、一年四ヶ月何事も無く過ぎていた。そして、これからも過ぎていくはずが・・・。
正道の仏然の顔が何かがあったと告げていた。智雅がいないと情報を伝える者がいない。ホームルームは辰巳の毒舌は冴えずに終わった。
一時間目に智雅が姿を表さなければ、業間に新聞部室に行くと決めた要は椅子に深く座った。
「光は保健室だ。今日は何時もより具合が良くないらしい」
一時間目の終わりに戻ってきた智雅は、業間にそう言った。
「何か、あったのか」
健次郎の席を指差した要は聞いた。
「ああ、奴が現れれば分かる」
智雅は、必死で正道のノートを書き写し、教科書を睨んでいた。智雅も正道も同じようにレベルが高い。有名校の特待生として受け入れられたはずが、何故ここへ来たのだろうと要は首を捻った。更に同じ出身中で無いこの二人は、いやに親しげだ。同じ塾に通っているわけでもない二人の接点が何処にあるのかと興味を持つ要は琢磨を見た。琢磨は窓の外に興味を示したままで振り向こうともしなかった。こうして、三時間目が終わった時、窓から外を見ていた琢磨が声を上げた。
「来たぞ」
その声に直ぐ反応したのは、智雅だった。智雅は、部室に行くと言い残し教室を後にした。その理由を、健次郎の顔が告げた。
 昨夜、派手に暴れた、と顔を彩る腫れと出血斑が告げていた。昨日何があったかを号外が知らせる。

 斉藤健次郎VS辰巳大輔
見出しはそうなっていた。
三角関係に終止符。斉藤健次郎。逆キレ。ボクシング部に殴り込む。

 紙面に真っ先に飛びついたのは要だった。彼はヒャア~と、声を上げた。
「これは嘘だ。殴ったのは僕だ。奴は無防備だった。奴の心境も知らず馬鹿なことをしたと反省はしている」
教壇の上に広げた紙面を叩いた正道が声を上げた。さらに、健次郎に向かって叫んだ。
 「僕は、謝らない。お前が光にしたことは許されない。お前がどんなに謝っても、光の心を傷つけた事に間違いはない」
 「ああ、謝るな。俺もお前に謝ることは何もない。お前になんか遊んじゃいない」
 教壇から一歩踏み出した正道は拳を握り締めて、すっくと立ち上がった健次郎を睨み付けた。健次郎も負けてはいない。やはり拳を握り正道へとにじり寄った。
 そこへ割って入ったのが数学教師、間部学(まなべがく)だ。
 「今は数Ⅱの時間だが、道徳の時間変更になったのか。新正道」
 間部は小柄で無口な壮年教師だ。スポーツ系では無く真面目一途の男を振り返った正道が丁寧に言った。
 「間部教諭、その通りです。本日は教室内の都合で道徳心を学ぶことになりました。どうぞ、座って御聴衆ください」
 その言葉で理性を失ったのは間部だった。彼はそのまま肩を震わせて立ち去った。ここにいる教師は二種類いると、傍聴を決め込んでいた智雅は感じていた。保守派と革新派。保守派はこの間部学。教師歴三十年のベテランだが教えるのは下手だ。頭が良くて出来の悪い脳細胞が理解できないのかと思えば違う。脳の機密度は並だ。ただ単に教える事が下手なのだ。相手が何を考えて動いているかを理解する能力に欠けている。それだけならそれでいいが、甲乙を付けたがる者と信念の無い者は不快だと智雅は思った。智雅だけでなく正道もそう思った心が態度をつくったのだと感じた。
生徒は種々だ。学校という花壇に種を蒔かれまだ何の花かも幹かも分からないふたばの状態だ。それをふた手に別れた教師たちに弄られ空を目指す。日を目指す向日葵であれば良いが夜間植物であれば・・・。
代わりに理性を取り戻したのが健次郎だ。彼は握り締めた拳を開いた。だが心の裡に広がった鬱憤が掌を熱くし何かを捕らえなければ収まらない。その蟠りを机に打つけた。音が教室に響いた。驚きの声を上げる者もいたが動揺するものは居無かった。
健次郎は自席の椅子に座ると机にうつ伏せ頭を抱えた。
「自習時間だ。勉強しろ。分からない所があれば、窓際の席か智雅に聞け」
速やかに号令を出した正道は、整列した教室を見回した。自習の言葉に反する者はいないと読んだ正道は健次郎の前に立った。椅子を正道に譲った琢磨は隣の席を確保し傍聴を決めたが、無音の時を置くだけだった。

「僕は、光を知っている」
 四時間目の終了チャイムがなった後、不意に正道がそう言った。側に智雅がいた。窓辺に要が立っていた。クラスメート達は食堂へと移動していた。その時間を見計らったように正道が窓辺へ身体を向けている健次郎に言った。
「僕は光と同じ長屋で生まれた。僕が四月であいつが七月。僕は未熟児であいつは過熟児。僕がやっと立ち上がった時あいつは歩いていた。幼稚園に入った時も、あいつの方がデカかった。でも、小学校入学した時、僕の方がでかくなった。それが嬉しくて、手を繋いだ。それから、何時も一緒にいた。登下校も、ご飯も一緒に食べ一緒に寝た。好きだった。大好きだった。でも、一緒に居られなくなった。小学校三年の時に転校した。それからあったことが無かった・・・」
「お前達二人は特別仲が良かった。実を言うと俺も小学校卒業まで長屋に居たんだ。光ん家の右隣。三人一緒に良く遊んだが、何時も俺が弾かれた」
「お前が鈍いからだ」
「違う。お前の方が鈍かった。光と遊ぶ時だけ素早かった」
二人の会話に要が声を上げて笑った。
「要も笑えるようになったんだ」
感心したように智雅は言った。それに続いて正道が言った。
「光も笑えるようになるだろうか・・・」
「光は自分の生き方を決めている。決めたのは光だ。俺達じゃない。光が望むように・・・。だけど、これだけはあいつじゃなく、こいつにやらせたい」
何故か、智雅の渋面が顎を杓って見せた。正道も同じ顔付きで健次郎を見た。二人の見据える顔に瞠目の健次郎は無言だ。頬の痛みを抑えて机を囲む奴らを見ていた。
「僕は光を守ると約束したのに出来なかった。おばさんが亡くなった時も心が傷ついた光を置き去りにおじさんがいなくなったと知った時も行けなかった。どんなに行って慰めてやりたかったか。だけど義父に言えなかった」
健次郎は、はっとした。そして、正道を見詰めた。真顔の正道が言葉を続けた。
「僕のおふくろ連れ子の再婚だから、旦那にすごく気を使っている。今の光を見せたら卒倒するだけじゃなくて僕を説き伏せるために躍起になるだろうな」
苦笑いが空に視線を移すと溜息を漏らした。
「昔に、帰りたくはない。長屋の貧乏暮らし…。僕が生まれる前に親父が死んだと聞いた。一文無しだった母は長屋で僕を生んだ。早産だった僕が生き残れたのは長屋に住む人の真心だと姉貴から聞いた。母の昼の稼ぎではタラ賃を払ったら幾らも残らない。だから、夜も働く母の帰りを姉貴と二人、腹を空かせて待ち続けたあの頃には帰りたくない…。辰巳が言うように今は、健次郎が光には良い。だけど、必ず取り返す。金を稼ぐようになったら、金持ちになってやつから光を奪う。必ず…、奪ってみせる…」
 正道の声が詰まった。それでも、正道は言葉を続けた。
「保健室で待っている。行って、やってくれ・・・」

 ******

城島俊は、斉藤慎吾から呼び出しを受けた。電話口では爽やかな口調の慎吾だが、その態度は横柄だ。
開口一番に、奴は彼女と上手くやっているかと聞いた。
 挨拶なし、前置きなしの質問。都心テナントに事務所を構える腕利き弁護士の慎吾。富も名誉もある慎吾にとって俊は唯の使用人だ。横柄であったとしても構わないが、慎吾に雇われた身では無いとはっきりとした態度を通しておく。これは俊が六年間、夜の世界を見て学んだことだ。人間の本能は群れを作りたがる。群れとは上下関係だ。下か上か横かの関係。今の二人の立場を慎吾は、上下関係で成り立っていると錯覚していると俊は思った。今、俊を雇っているのは京介だ。しかし、京介と俊は対等にある。二人の間には、まなみと言う人物がいるからだ。
 ―まなみ―
 慎吾にとって目の上の人物。
「奴って誰ですか」
と、俊は言った。某ホテルのロビー。寛ぐ人が少ない空き席に並んで座った二人はお互いの顔を見ること無い。一月後このホテルの一室で戸籍上兄弟である二人が対峙する事件が起きる。もちろん、光を巻き込んでの事件であるがその予兆とも言える慎吾の態度を軽蔑したように顔も見ずにいる俊。
「健次郎。奴の彼女の名前と住所、あるか」
一瞥も無い二人だが、お互いの顔付きが分かった。慎吾は懐から茶封筒を出した。俊は目の前のそれを手で押しやると言った。
「夫人からたっぷり貰えてる」
その言葉で慎吾が振り返ったのは確かだった。弁護士は情報屋だと思う俊は、まなみと彼の関係をすでに入手隅と踏んでいた。俊はそれを弱みと相手に取られたくない。慎吾もそれを強みに出来ない。二人には斉藤京介と言う共通の壁がある。
「健次郎。奴はまじめに高校生を気取っているのか。一人暮らしだなんて・・・親父は、何を考えているのか」
奥歯を噛み締めたままの慎吾は、内心を隠すように言葉を放った。
「その親父さんに聞いた方が、内申点が上がると思いますよ。でも直球でも、受けたくない会話ですね」
「直球・・・。何のことだ」
「貴方が関与する問題では無いということです。問題は京介氏と健次郎さん親子。そして僕らの関係にも関与しない事。健次郎さんがいて京介氏とまなみの関係がある。健次郎さんがいなければ僕らの関係だけが成立する。京介氏とまなみは交通事故にあったようなもの。事故の後遺症が尾を引いているだけで事故がなければ、二人の関係は無い」
「後遺症が、健次郎・・・」
「そこまでの、情報はなしか」
声を上げて笑ったのは城島俊、考え込んだのは斉藤慎吾。
「それから、もう一つ。お嬢様はB 型でしたね。健次郎さんはA 型です。良い情報でしょう」
俊はまた声を上げて、笑った。そして一度も慎吾の顔を見ること無く立ち上がると立ち去った。残された慎吾は動きをなくし頬杖を付いたままでいた。
これで慎吾は俊の上に立つことは無い。対等にいられるだけでいいと俊は思った。余分な者に関わりたくないと思った。だが、二人の関わりはこれからスタートするのだ。健次郎を介して親密に長く付き合っていく。今はそれを知らず慎吾は、健次郎に憎しみの炎を燃やし始めたのだ。憎しみの捌け口、それがこの場所となる。
 その頃、斉藤京介は辰巳大輔を前に健次郎が通う高校にいた。応接室、十帖の洋間に二列に並ぶ椅子、真ん中に並ぶテーブルは一列、その中央に京介は座っていた。頭を垂れたままの校長が何度も謝罪の言葉を口にしていた。
 真剣な眼差しの大輔は何度も京介の姿を見、小なりの言葉を交わしていたが間近に対等に話しするのは今日が初めてだった。
 「気にされることでは無い。喧嘩両成敗では無く、青春のスポーツだろう。この時勢だ。あふれでた物品だけでなく、めまぐるしく行き交う情報、必要としない遺物が必要以上の価値を持つ世の中。新しく世に出る者達は眼に見えない物質の中を泳いでいる事を気づくのに、痛みを知る事が大切だ。人は日々の流れの中で直ぐに物を忘れがちだが、強く印象に残った物は忘れない。忘れたい物をしまい込む」
 「同じ気持で運営していければと思っています」
京介の言葉に大輔は返した。
 
この立場の違う二人の共有する言葉は、高等学校だった。
大輔は、高校教師になると中学時代から決めていた。世の中に適合できない子供達を受け入れる高校を創りたい。そしていずれは大学をと、大学時代の大輔は弱小サークルで活動していた。
世の中には種々多様な活動グループがありスポンサーを求めていた。大輔もスポンサーを得るために、会社訪問に明け暮れる日々を送った事があった。
理想の高校を創る。不思議顔をされた。政治家を目指すのかと良く聞かれた。
教師を目指す大輔の男友達四人は理想に燃えていた。
初めてまともな寄付を受けたのは、精密部品を造る工場からだった。大輔は礼状を出すだけでは彼等の喜びが伝わらないと足を運んだ。
元請けの会社が賛同して寄付が成ったと教えられた。
元請けの会社。そこは遠かった。それでも大輔は仲間と一緒に出向いた。
たまたま居合わせた取引会社役員の一言が寄付に成ったと、教えられた大輔達は顔を見合わせた。相手は分からず溜息を吐いた。だが、若い心は陽気だ。せっかく来たからには、旅の思い出を作ろう。誰かの一言でパフォーマンスをすることになった。
厳つい彼等は体育会系だ。レスリング仲間。路上パフォーマンスをやった。だが花が無い。駆り出されたのが大輔の幼馴染、同じ大学の京田彩夏だった。彩夏は素直に大輔の情熱を聞き、レオタードに身を包み華やかな仮面を付けてマイクを握った。そんな感じで手近な地区での募金活動と署名を手にした。
会社に幾度と無く挨拶に行った。人は何度か顔を合わすうちの心が通い合うのか、今まで目も合わさず口も利か無い嫌な奴だと思っていた人物が、その渋面顔で大輔に話し掛けてきた。
佐野と名乗った。佐野は単身赴任。都心に家族を残した理由が娘の引きこもり。
 「母親が、家内が、塾に迎えに行くのが少し遅くなっただけだった。十分ぐらい・・・。娘はいなかった」
 単なるひきこもりでは無かった。夜の街、一人母親の迎えを待つ少女に伸びた悪夢だった。大輔は長い時間を掛けて佐野氏の心を解きほぐした。孤立するのは子供だけでは無いのだとこの時大輔は知った。親の心も同じ苦しみを持つのだと。
 このしばらく後(のち)、大輔等は京介と出会った。佐野が大輔に京介を紹介したようなものだった。佐野は大輔に親会社の視察がある、宴会の余興をやらないかと持ちかけた。
お偉いさんは高級クラブ・料亭接待が通常。普通では接待の意味を成さない。佐野は田舎料理と真心で接待すると言った。
「主要人物は学生時代、陸上選手だった」
大学駅伝に出場者だと、酒の好みから血液型まで教えた。
 この時、大輔は脇役だった。主役は頭脳明晰の親友が陸上部の友とやってのけた。勝算ありだった。
脇を守る大輔は宴会の席で彼の理想を酒と一緒に触れ回った。宴会の席には合わない雑音だっただろうが、それを受け止める人物もいたのだ。それが、斉藤京介だった。
 友人等は四回生になると大輔と違う道を選んだ。それでも良い。皆躊躇いなく自分達の道に進んだ。
 想いは、理念を持ち生きること。
大輔はそれでも唯ひたすら駆け回り、今京介の前にいた。
 「公立高校でこれほどひらかれた高校は他には無いでしょう。この二年で、体育系部は顧問の数を増やし臨時職員雇用を大幅アップ。空き教室を食堂用フロアに改造し学食の販売を午前と午後二回増やし日に三回に変更。だだし、飲食は食堂フロアに限ると厳守。緊急対応は、内科は今まで通り小児科医の校医を新たに一医院確保済。後は心療内科医を確保できたら良い・・」
普通の教師がごく普通に生徒を受け入れる高校がここだと、大輔は語った。伝統を誇示する訳でも、斬新な教育法を打ち立てた訳でもない。平凡な日中活動を取り入れた普通の高校を目指す。
大輔の言葉を聞き入る京介は、穏やかな表情を見せていた。大輔には信じられない寛いだ顔が、隣を仕切る磨りガラスを見ていた。
隣にも応接間がある。少人数用の小部屋。そこにはまなみと彩夏はいた。
「幼馴染です。小さい時から一緒にいて嫌だと思ったことは一度もありません。そんな恋愛もあっても良いと思いませんか。奥様」
「聞いていて心が和むわ。」
「父は私が小学校入学前になくなりました。余り良く覚えてませんが、母はとても苦労していたのを覚えています。その頃から、ズ~ッと一緒にいて、」
「羨ましいわ。支えあって寄り添って生きて行ける人に巡り会える人は多くは居ないわ」
「まあ。奥様だって、あんなに素敵な旦那様がいらっしゃるのに・・・」
まなみの暗い顔が瞳を落とした。言いようもない表情が苦痛を押し出している事に気づいた彩夏は質問した。
「誰か他に好きな方がいらっしゃるのですか」
いいえと、まなみは直ぐに言葉を返した。その揺れる瞳は仕切の磨りガラスを向いた。そこから、人の影は見えないが愛着の眼が動かずしばらくじっと見ていた。

*****

養護教諭不在の札が入り口にあった。
昼食時間、食堂フロアに人が集まる時間だ。いつもの時間がいつもの様に過ぎる。
保健室の前に立った健次郎もいつもの朝を迎え、いつもの様に城島俊に起こされた。悪夢のような夜を過ごした健次郎にいつもの朝が迎えられるとは思っていなかった。
「喧嘩したのか。直ぐに顔を冷やさなかったな。・・・自業自得だ。そのまま行け」
俊は何事も無かったようにそう言った。そしていつものように朝食を作った。健次郎もいつものようにカップに手を伸ばした。ホットティ一杯をテーブルに置き、オレンジジュースを前に座った健次郎はウオッカを注ぎたい気分だった。目の前に朝食の皿が後数分出現せねば手は後ろの扉を開いていた。
飲んでくれば良かった。その勢いで中に飛び込めただろうと、保健室の文字を睨む健次郎はドアに手を掛ける事が出来ずに踵を返した。この後、五・六時間目業間にも同じように踵を返した。そして放課後――。
 その物音を聞く研ぎ澄まされた心がなければ、二人を結ぶ糸は完全に切れていたはずだ。
 養護教諭の京田彩夏の声が微かに響いた。その後を追う物音が確かに響いた。
ドアを開けると誰も居ない部屋の奥から、鳴り止まない音が続いていた。彩夏の甲高い声があった。低く唸るような声が叫び始めた時、健次郎は部屋に飛び込んでいた。
散乱した本とノートで敷き詰められた床に、筆記用具が振りまかれていた。ベッドパットが壁の棚に無造作に垂れ下がり、枕とシーツがベッド下を隠すに覆っていた。
むき出しのベッドマットの上に二人がいた。ベッドに腰掛ける彩夏とその腕が抱く人物。その身体を押さえる彩夏は必死だ。それは握ったベッド柵をガタガタと揺らし、身体を大きく上下運動を繰り返しながら天上に奇声を上げていた。
 「正道。押さえて~。大ちゃんがいないの」
人の気配に気づいた彩夏がそう叫んだ。だが、健次郎は動けない。
「ドアを締めて。あたら・・」
動きのない人影に振り返えった彩夏は、健次郎の姿に驚き声を上げた。その時、光の身体に突き飛ばされベッド下に落ちた。その姿勢のまま、固まったその視線が健次郎を捕らえ動けない。
健次郎の手からカバンが落ちた。音が部屋に響く。
すると、それは振り返った。
人ではない野獣のような黒衣に身を包んだ者が戸口を振り返った。
異様な形相。
健次郎は刹那にそう感じ凍りついた。飛び出るほどに眼孔を見開らいた鋭い目の輝きがあった。黒髪が乱れ飛ぶ斬髪の間から血の気を失った青ざめた顔が白く浮きたち異常な輝きを放つ形相が垣間見れた。
その異様な姿が蹲っていたベッドから身を翻した。
健次郎は瞬間、飛び上がる仕種で身を引いた。健次郎が今まで見たことがない人影が落としたカバンに飛びついていた。
その人影はカバンを引かき回した。中を弄り、中身を床にばらまいた。
それは、光だ。大西光。だが、健次郎の知る光ではない。
健次郎は我が身を抱いた。それでもその場に立ち尽くし、目前が見せる激闘を見ていた。
彩夏の手を振り払い何かを必死で探す仕種の光。部屋に駆け込んできた正道が羽交締めし抑制する姿。そうはされまいと抵抗する身体が上げる金切り声が部屋に響く。
「くすーり。くすりが、ほしい。先生。助けて――。なんでも、する。出来る、せんせー。オレ、上手だって・・。だから―」
光の心底からの叫びだ。
「健次郎。ドアを閉めろ」
正道が叫んだ。呆然と立つ健次郎はその声でおもむろに踵を返すとドアに手を掛けた。すると甲高い声がその背に飛んできた。
「行かないで―、せんせい―。十八になったら、せんせいの物になる――。約束だから・・」
健次郎は、振り返った。光が発した言葉を、正道の手が止めた。両手が塞ぐ口から悲鳴のような声が、何度も漏れ叫ぶ。
やっとのおもいでドアを締めた健次郎の足は自然とその場に崩れ落ちた。
光が発した言葉の意味は――。
意味はと健次郎は固唾を飲み、ドアを抱き締めるように崩れ落ちた。その耳に正道の唸り声と彩夏の悲鳴が聞こえたかと思うと熱い身体が飛び込んで来た。
光が健次郎の腰に縋り付いていた。
「オレ、十八になったら出来る。服、脱げる。そしたら、あんたのものだ。だから、くすりを・・飲まなきゃ――。壊れる。逃げられない――」
早口で放たれる言葉。それを発する瞳は健次郎を見ていない。その指は健次郎を抱いてはいない。慄く健次郎のズボンのチャックを外していた。
悲鳴を上げたのは健次郎だ。その身体を突き飛ばしたのも健次郎だ。
突き飛ばされた身体が一変した。動きを無くした身体が呟いた。
「せんせい、もう俺の裸、見たくないのか・・・」
言葉を発した身体が、息をする度にふらふらと揺れる。額に玉のように浮いた汗が、頬を伝って流れ落ちる。乾いた口が固唾を飲む。開いた口から漏れる激しい息遣い。空に差し出す手の震え。それらが、掠れた低い声を放つ。
「契約。あんたが――。あんたの・・薬がなきゃ・・・オレは・・壊れる」
もう限界を超えていると彩夏はポケットの奥深くを弄った。
「光ちゃん。薬はここよ」
光の前に差し出された銀色の薬シート。俊敏な指がそれを奪い取るとその場に座り込んだ。

放課後の駐車場で携帯を握る城島俊は、悪夢を見ていると思った。
寄り添う二人が、車の横を通り過ぎた。
斉藤京介と愛人と称されるまなみ。いや、まなみはすでに妻の座が約束されている。彼女がそれを望めば、だが・・・。まなみは妻の座は求めない。夜になれば会える恋人を持っているのだから――。と思う俊の手から携帯が落ちた。
ハンドルを強く握り締めた俊は、一瞥もせずに京介の車に乗り込む可憐な姿を睨み付けていた。黒い車の助手席に清楚な姿が吸い込まれた。それを見る瞳に、憎しみが腹の底から沸き上がっていた。
その身を京介の前で引き裂いて投げ付けてやりたい。それでも、湧き上がった憤怒が消えはしない。京介の方をと、憎しみに駆られた残忍を心に描いた。奴を殺しその屍をまなみの前に晒してやると、走り去る車を直視し口元を弛めた。すると、泣き叫ぶまなみの顔が脳裏を覆った。
出来ない。まなみを泣かすことなど出来ない。健次郎をと思った心もしぼんでしまった。あどけない表情を知っていた。抱き締めることは出来ても傷つけることなど出来ない。
拳を強く握り頭を抱え込んでいた。胸は締め付けられるほどに苦しい。焦がれる想いが悲しみで覆い尽くしても闇の中で見せる笑顔を消し去る事が出来なかった。
どうすれは良いと自身に問う俊は苦悩する胸が消え失せれば良いと思い付いた。
この身が無くなれば全てがうまくいくと――。
運転席から立ち上がった俊は夕立がきそうな空を見上げ、希望ない未来を思った。
天を仰ぎ見た瞳が、校舎の出入り口に二つ点った赤い電灯に気づいた。運動場にいる生徒達がその灯を指差す姿と校舎に駆け込む姿を捕らえ、緊急事態が起こったと察した。
金曜日になると光の行動は異常に高まる。そのことを担任である辰巳大輔は知っていた。養護教諭の京田彩夏も、同じ中学を卒業した鈴木智雅も、そして幼馴染の新正道も知っていた。そして斉藤健次郎が驚愕する事実を彼等は知っていた。
――十八になったら――。
光が口走った言葉、その言葉が健次郎の脳裏に吸い込まれ刻み付いた。

*****

色の違う二枚のシート。震える光の指から一枚のシートが滑り落ち床に落ちた。光はそれを拾い上げず残った方をじっと見た。それから黒い学ランが隠す膝に長細い白い錠剤を次々に押し出すと直ぐに口の中へ放り込んだ。それから彩夏が差し出した水を勢い良く飲み干した。
息を吐いた手が、おもむろにコップを落とした。静まり返った部屋に一瞬だけ響いた音。それに反応しない三人の視線は光だけを見詰めていた。
彼等の視線は、ユラリと立ち上がった身体がフラフラとベッドに上り我が身を抱え込んで座るのを見ていた。
光の手にはまだ薬シートが握られていた。膝を抱えて座る身体が前後ろと大きく揺れていた。
「四錠、三十分かからないで幻覚を見るわ。その前に抑制するわ」
彩夏が正道に手伝ってと囁く。その言葉が、健次郎の耳に届いた。
抑制―その言葉を健次郎は知っていた。
煙草・アルコール・薬――。過去が脳裏を占めた。
「ひかる」
健次郎の低く唸る声よりも、正道のはっきりした駄目だと言う声が空にはじけた。
「駄目だ。光。そんなことしたら光じゃ無くなる」
太い声が光の中の何かを目覚めさせたのか、光が喘ぐように言葉を放った。
「親父が、・・間違った。・・おふくろは、光の中で、生きる子・・が、欲しかった」
掠れた細い声が、そう言うと腕を差し出した。何かを求めるように白い指だけが空を泳ぐ。その指に水の入ったコップを手渡したのは彩夏だ。空になったコップは直ぐに彩夏の手に戻った。息を吐いた光が言葉を放つ。
「親父は・・酔っ払っていた。何時も・・酔って・・・、忘れる。役所で名前を書くのを、間違った・・。でも俺、この名・・・好きだ。光の子じゃなくたって、良い・・。光の中で輝く子って良い。あの女の子達のように生きられたら・・」
光の横にそっと腰を下ろした正道が囁く。
 「なれるよ。ひかる。お前は、光だ。誰よりも可愛くなれる」
 「なりたい・・キラキラした娘達。夢の中で生きる・・」
 膝を抱え込んだ光が頭を擡げたそう言ったかと思うと、突然声を荒げた。

 「駄目だ。親父が、怒る。女々しい生き方・・・許さない。殴りに来る。・・闇の中から、俺を引き裂きに・・・」
恐怖にひきつった顔が出入り口のドアを振り返った。戸口に座り込んだ健次郎はその視線に捕らえられてと思ったが正道の背に縋る身は戸口の上、天上を睨んでいた。
健次郎は戸惑う心を押し隠して見ていた。見ているしか無い健次郎には、静かに開いたドアから滑りこんできた人物にも気づかなかった。
ただ光の気を乱した姿から眼が離せなかった。そして堂々とした正道が言葉を放つ言葉を聞くしか無かった。
「親父さんは、ここにはいない。帰ってきても、皆が守る。いままで通り、おたつみがいる。おヤエさんがいる。長屋の皆がいる」
「な・が屋・・・。帰らなければ、あそこへ。・・に、いなければ・・・」
 光は弾けたように瞳を見開らいた。今にもベッドから転げ落ちそうなその動作を、支えたのは彩夏の手だ。その動作を止めたのは正道の声だ。
 「あそこから出て行く。そう決めただろう。光-。昨夜、思い出せ―、光、お前は押入れにいた‥あそこに、入らない。出るんだ。出て行く。行く所はある。あいつじゃない。健次郎だ。健次郎がお前を――」
正道は唖然と立つ健次郎を指差しただけでない。つかつかと歩み寄ると襟元を掴んだ。そして、叫んだ。
 こいつが―、と正道の憤怒の顔が刹那に健次郎を睨み光を見た。それから息を吐くと一気の言葉を放った。
 「健次郎がお前を、むしる」
 その言葉で、健次郎が立ち上がり、光の身体が波打った。
光の手が握り締めていた白い錠剤が、パラパラと落ちた。今までフラフラと揺れていた身体がピタリと動きを止めた。そして、呟くように言った。
「健次郎がむしる。むしる・・・健次郎」
「そうだ。お前をむしるのは健次郎だ。長屋には帰るな。健次郎の車に乗れ。そして、その効かない薬なんか止めろ。」
 「駄目だ。駄目。頼れない。高校を卒業したら・・あいつが・・一人じゃ生きられない」
 「一人じゃない。健次郎がいる。あいつは金持ちだ。必ず、光の願いを叶えてくれる」
 健次郎と、光は呟いた。そして、大きく頷いた。
「そうだ。健次郎・・。明るい光が、似合う人」
そして、首を振った。その眼は目前に立つ健次郎を捕らえているはずだが、空を見詰めるように朧だ。
 「けん、健次郎・・。あいつは違う。光の中で生きる。俺とは・・違う」
 「光でも闇でも、同じ部屋で生きられる。健次郎に引っ付け。あいつは金持ちだ」
 「俺の事、知ったら、あいつは逃げる・・」
正道の後ろに立っていた健次郎は一歩前に踏み出した。健次郎の脳裏にまなみの悲しげな顔はない。玄関を飾る一輪の花が、光の顔と重なっていた。
 「俺は逃げない。光が好きだ。だから逃げない」
 健次郎の手が光の頬を包んだ。
光の瞳は、確かに健次郎を捕らえ頷いた。
 「俺、綺麗な部屋で、お前と・・・」
 光は床に膝を付いた健次郎の首に腕を絡ませた穏やかな瞳は、はっきりとした言葉を放った。
 「俺、お前が好きだ。一緒に居ても苦しくない。いつかきっと、お前の前で着替えられる。そんな、気、する。だから、お前と生きたい。俺、・・薬、止める・・」
健次郎はしっかりと光の熱く火照った身体を抱き締めた。
 だが、その抱擁は刹那に終わった。
 健次郎の首筋に何かが落ちた。とろりとした液体。手は自然とそれを確かめた。熱い吐息が身体から離れた。何かを無心に呟き始めた光の顔が一瞬、健次郎の眼に刺さり正道の背で隠れた。
 「智雅。健次郎を連れて行け。車が待っている。正も、早く、出て行け――」
大輔の声が、健次郎の脳裏に木霊した。
何が起こるのか、健次郎の脳裏は察知していた。戸口へとおいやられる眼は確かに部屋で起きた事実を脳裏に刻みつけていた。猿轡と抑制帯。それが激しく波打つ身体を縛り上げる。

********


金曜日の夜から月曜日の朝まで部屋に篭った。何もせず部屋に篭ったのは初めてだった。
土曜か日曜にあるいは金曜日の夜に外食を目的としない外出をする。幼い時からまなみと二人外の世界に触れるために出歩いていた。それは、図書館か公園が大半だったが、たまに遊園地であったり映画であったりした。仕事を持つ母親の負い目がさせているわけでは無かった。まなみは食卓を彩る料理を作る。外出のために弁当を拵えた。それは小学校を卒業しても続いていた。
――愛される子供は誰にでも愛される。優しい子供は誰からも優しくされる。明るい子供は外を好む――
そう言って微笑む顔を見る事が無くなった。悲しげな顔が苦しい表情をつくる。その表情の元は自分だと、健次郎は決めつけていた。
親の身勝手で生まれてきた。望んで生まれてきたのではないと、固執の心が傷つくために拳を握った。心が消滅するまで、痛みが身体を引き裂くまで堕ちていきたいと願い突っ走った。あの頃願った熱病は何が癒したのかを両の手は知る。健次郎は握り締めた両手を更に固く握り締めて考えた。
昼の明るさも熱さも好きだ、雑踏も目映く照らす彩りのライトも、光無い夜の暗さも孤独も好きだ。逃げるためではないアルコールの酔いも、視覚が捉えた感覚と聴覚が暴走する心地も好きだが、今は外に出る気持ちになれず、窓を閉ざし自室の蒸し暑い部屋で裸体に近い身体を丸めた健次郎は何をすべきかと考えこんだ。雑踏に塗れたら良かった、見知った女達と夜の繁華街へ繰り出せば良かった、柔らかな肌に溶け込めば良かったと、膝を抱え思う健次郎は駄目だと呟いた。何かをするためにこの両手があるのなら、愛着がある者を‥‥。その想いから逃れられない。
 
月曜朝のホームルーム、この場を仕切る者達が押し黙ったまま着席している重い空気が流れていた。そこへ現れた辰巳大輔の心も重い。窓際の椅子に視線を向けると深く息を吐いだ。
早朝の風は、何時もより冷たかった。そんな日は早く登校する奴がいない。開け放たれた窓から指す日に照らされた机に収まった椅子は座る者を待っている。きちんと畳まれた白いカーテンは文句を言いながら引っ張られるのを待っている。もしかすると奴は来ないかもしれない。大輔は教壇に立ち、おはようの一言で背を向け黒板にチョークを走らせた。本日の連絡事項、今週の目標、週間行事、書き終えると教室を後にした。
おたつみ教室が始まって以来、初めてだった。トークも無く黒板に文字を残して立ち去る辰巳の行動に生徒達声を上げた。それは無言の正道と智雅に向いたが彼等は何も言わず本を片手にペンを走らせていた。二人には手にしたい目標がある。中学までは義務教育、地域が違うと同じ学校に通えない。高校は違う。同じ高校へ通う、二人は固く決めていた。いや、三人だ。その中に光も入っていた。三人、同じ大学を目指す。それ目標に、正道は高い塾費を義父に払ってもらっていた。小遣いは、姉に集った。智雅は正道とは違い住宅ローンを抱えてはいるが共稼ぎの親を持ち一人っ子の彼はかなり裕福な家庭にいると思っていた。それでも、誰もいない家に入り明かりを灯す侘しさがひとつの目標を固めさせていた。
健次郎にも大学を目指すという目標がある。異母兄慎吾と肩を並べる最低条件が大卒。その目標が月曜の朝を迎え、同じ日々の繰り返しを始めていた。
この日、燻る気持ちを押さえて階段を上がる足は重い。二階へ上がる途中何度も立ち止まっていた。引き返そうと思ったが、背を向けることは出来ない。教室の扉を開け、その場を確保しなければならない。そうしなければ、目標から、遠のく。脳裏は分かっていたが、心は重い。踊り場で立ち止まった健次郎は、そのまま踵を返そうとした。
「教室にも入らずに早退か。いい度胸しているじゃないか。斎藤」
と、思いがけない声が飛んだ。
「おたつみ」
見上げた健次郎の方へ、仁王立ちで待ち構えていた辰巳が階段を下りてきた。そして、後退りしそうなその肩を叩いて言った。
「悩み多き年頃だな。同性愛以外の悩みなら副担が相談指導する。メンタル面は担任である僕と校長の領域だ。体調不良は養護教諭・・保健室。絶好調なら教室が待っている。その顔色なら教室が待っている」
行けと辰巳が顎を杓った。
そこへ、業間のチャイムが鳴った。階段が急に賑やかになった。辰巳に腕を掴まれた健次郎は、引きずられるままに教室へ向かった。
教室の扉の前に立った辰巳は、健次郎よりも重く迷う心を秘めていた。教壇の椅子に腰を下ろしたその顔は、健次郎が今まだ見たことの無い奇妙なほど神妙な顔だった。
三時間目は移動教室。クラス全員居なくなった教室は何故か明るく輝いて見えた。
健次郎は光の指定席に腰を下ろした。そして、手が自然と机を撫でた。
「光が何時もこの席に座っていたのは僕のためじゃない。皆に背を向け、人の顔を見ないためだ。人と同じ場にいることが出来ないからだ」
 健次郎は頷いた。この場で交わされる大輔と光の会話に飛び込む人の声は何時もなかった。智雅すら二人の会話には入らなかった。
「ざわめきに、パニックを起こす」
と言葉を切った大輔は肩で大きく息をすると更に言った。
「光は親父に虐待されていた」
 健次郎は驚かなかった。そうであろうと感じていた。
「光が小学校三年生の時だった。今のあの長屋で、飲んだくれのおやじが‥‥。おやじの方は何も覚えちゃいない。光の方は怯えて押し入れから出てこないのに――。正道があの長屋を出ろと言ったのは過去の因縁を断てと言っていたのだ。だが、光はあそこから出られない。オヤジとの因果があるが母親との思い出もある。小学校三年になった時、母親は亡くなった。長屋のあの部屋で光と長屋の皆に見送られて‥‥。だから、光はあそこを出られない‥」
机に両肘を付いた大輔は頭を抱え溜息を吐いた。
「光は、小学校から中学校まで何度も入退院を繰り返している。現実逃避、拒食、自傷、薬物乱用、不眠…。そして、もっと悪いことに光が信頼している医者は光が望む以上の薬を渡している」
そんな奴との因縁を切りたい、そのためには――。
「お前はそんな光の心に入ってきた、たった一人の部外者だ」
それだけしか言えない。これ以上は強いることだと大輔は語ることを止めた。光が十八才までにあの部屋を出るのであればもっと沢山の言葉を綴らなければならない。多くを知れば心の負担も大きい。
 しばらくの沈黙があった。
「俺は、光と暮らしたい。あいつがそれを望むなら、何時からでも‥」
沈黙を破る健次郎の言葉が流れた。
「親父が望む生き方に友達と同居したらご法度はないだろう。それが行き過ぎで、父に勘当されても母親を悲しませても構わない。今更いい子ぶる気はないし、義兄のように真面目な生き方を望んじゃいない。ただ、あの義兄には、俺のためにまなみが蔑まれるのを見たくない。だからって、俺の生き方に指図させない。あいつはアイツで俺は俺だ」
ゆっくりした口調が、語気を強めそう言った。
「光が俺を望むなら、俺は光と暮らす。そう伝える、今直ぐにでも」
「同棲するんだな」
と、大輔が身を乗り出した。
「同居だ。おたつみ、言葉間違ってる」
「その通りだ。言葉は間違って使うものだ。光には、お前の操を奪うのは健次郎だと、伝えておく。それを励みに今を乗り切るだろう」
 大輔は満面の笑みを浮かべると、頼むと健次郎の肩を叩いた。だが、踵を返した大輔の顔はにわかに曇った。健次郎を残し教室を立ち去る大輔の心は朝のホームルームを終えた時より重く悲しい心で沈み込んでいた。

********

保健室の前に立った辰巳大輔は一旦職員室に向い机の引き出しを掻き回し日程表を見た。それから校長向い短い話を済ませると、保健室へ向かった。
保健室の扉を開くと無音の部屋に数人の生徒がそれぞれ好きなモノを手に座り込んでいるのが大輔の眼に写った。いつもの光景だった。一教室を丸々使ったエアコンの効いたリビングとも言える部屋に集うは同じ顔ぶれだ。その数が今年入学当初より少なくなった。校内を彷徨(うろつ)く子ども達も目立たなくなった。同じ志で生徒の顔写真を覚え彼等の大まかな経歴を知り、声を掛けてくれる教師がいるお陰だ。
奥に仕切で囲った部屋が三つ。そこには人の姿は無く、部屋を隠すパーティションもない。手前のテーブル席は満杯。その中に正道と智雅もいた。誰も大輔の顔を見ても驚く素振りは無かった。大輔も言葉を掛けること無く薬部屋へ足を向けた。そこに京田彩夏がいる。
彩夏は訪れた大輔に驚いて立ち上がった。
「光ちゃんは、変わりないわ。午前の日光浴を終えて横になったところよ」
 光を気遣って訪れたと思った彩夏はそう言った。だが大輔は机の横にある丸椅子に腰を下ろすと、疲れを見せるように背を丸めた。
「大ちゃん。何かあったの。伯父さんが何か言ったの。まさか、学校の方針を変えるって‥‥」
「いや。校長の方針は変わらない。唯、ちょっと疲れただけだ。少しだけ」
 顔を上げた大輔だが、笑顔を作ろうとしてもこわばった顔が曇ったままだ、また下を向いた。
「世の中に悪人はいない。光の親父だっていい人だった。ごく普通の気弱な叔父さん。それが一旦酒を口にしたら、酔いつぶれるまで飲み続け人格が変わる。翌日に頭痛は残るが記憶は残らない‥。酒が悪いのか、人格が悪いのか‥。悪い事を悪い事だと知らずに育つ者もいる。どんなにそれが悪い事だと教えても心が悪を捕らえられずに日常を送る者もいる。一つの心に二つも三つも人格を持つ者がいる。どれが悪でどれが正義だかわからなくなる。今、やろうとしていることは正しいことなのだろうか。それとも、唯のエゴか―」
「大ちゃん」
彩夏の手が大輔の膝で握り締めた拳に触れた。太い大きな拳を両の手が包み込むと、逞しい男の肩が小刻みで震えているのが分かった。彩夏は固唾を飲むと大ちゃんと、もう一度呟いた。
最後まで聞いて欲しいと、姿勢を崩さない大輔は言った。
「僕は何時も迷う。九年前のあの夜から、何時も迷っている。決意は変わらないのに迷う心がどうにもならなくなる。これでいいと言い聞かせても迷ってしまう。自分がどんなに弱い人間か知っている。それではいけないと男だから強くなけりゃならないと言い聞かせても駄目な時がある。今がそうだ。幼い子どものように抱き締められたい。そんな僕ではで駄目か。守ってくれって言ったら駄目か。彩夏‥」
 彩夏は名を呼ばれても言葉を発せなかった。笑顔を振りまく快活な男が、何時も彩夏の前にいた。その男の後を従っていたら良かった。迷いも無くその背に付いて行けば良いと、思い続けていた。それはこれからも、変わらない。
――私は貴方に守って貰いたいの。今までのように――彩夏はそう言いたかった。けれど項垂れた顔はその心の裡をあからさまに表し抱き留める腕を求めていた。強い意志を求めていた。
 これからもずっと側にいてくれと、疲れた顔を上げた大輔が言った。
「大‥ちゃん。私、大ちゃんのお母さんのようなお母さんになるのが夢だった。夢は願ったら叶うって、おばさん言ってた。私、夢をかなえるわ。大ちゃんをず~と守ってあげる」
彩夏は言葉と共に、大輔の胸に飛び込んでいた。本当に苦悩があるのかと思うほど大きく温かい胸が、彩夏を包み込むと左手を取った。その薬指に冷たい感触を感じた彩夏は、瞳を見開いた。そして、大輔が発した言葉を繰り返した。
「こんな情けないプロポーズになるとは思わなかった。ノーでも構わないが指輪は受け取ってくれ。誕生日のプレゼントで‥‥」
「答えはイエスだから、誕生日にはルビーを貰うわ‥‥」
と言う彩夏は涙にある。その涙を頷きながら指で拭いた大輔は少しだけ心が軽くなった気がした。大輔の首に飛び付いた細い腕が肩から背中へとゆっくり滑りその身を抱く。言葉の無い静かな時間が過ぎた。
暗く落ち込み乾き切った胸が、爽やかな風に満たされ穏やかな心地へと変わった。守る者が居て、守ってくれる腕がある。心が満たされた大輔は立ち上がると入り口に向かって叫んだ。
「正。覗き見はバツだ。学級委員に相応しくないぞ。それから智雅、早飯しないと昼休みは部室に篭もりだ」
大輔は涙組む彩夏の手を正道等の方へ向けた。指に透明な石の付いた指輪があった。
「智~。僕が失恋したって書くなよ。健次郎に負けたおたつみが保健室で見つけた恋だー」
と叫ぶ正道は確かに泣いていた。

 確かに校内を賑わす大ニュースだ。だが、智雅は記事が書けなかった。健次郎や光のためでは無い。彩夏の家庭事情が込み入っていたからだ。智雅は校長に発行許可を願い出た。大輔を伴っての訪室だった。何時も渋面の校長が顔面紅潮の大輔の横顔を一瞥すると破顔した。
「本当に乗せていいのか。半分とは言わんが三分の一は尾鰭だ。それでも構わんのか」
校長は含みのある言葉を漏らしたが、大輔はそれで良いと言った。
「彼女も納得しています」
「そうだろう。彩夏は‥‥」
そう言いかけた校長は智雅の方をチラリと見ると、咳払いした顔を大輔に向けて言った。
「夏休みも部活を名目に、学校校舎を開放するのだったな。南校舎だけで良ければ、許可する。閉鎖期間は盆前後の一週間と土日のみ。教頭も協力すると言っていたが、全館解放は無理だ。ここの南棟のみで、北棟通路は防犯シャッターで仕切る。給食は賄いが手薄になることも考えて、丼物二品。十時から三時までのパン販売は続ける。生徒の数が去年より増えると見込んで一年次の担任と副担が予想人数を割り出しているが二年次はどうだ」
「金曜日に担当者会議を予定しています。二組は統率が出来ますが‥三組がそれなりで‥」
校長は机の前に立つ大輔に、問題から離れた話題を提供した。語る意図を智雅は察した。大きくどっしりとした机の上には黒い机上札がある。そこに校長、京田悠一郎と書かれていた。その名を見詰めながら智雅は言った。
「移動教室をもっと設けた方が良いと思います。クラスに溶け込めない子が他クラスで気の合う子を見付けられる」
校長の真顔が智雅を向いた。その顔が笑顔で頷いた。
 校長室から新聞部室に入った智雅はパソコンに向かい考えこむが、彼の指は動かなかった。ありのままの真実を書きたかったがそれが出来ない不甲斐なさに頭を抱えてしまった。それでも智雅は大輔の婚約記事を書いた。彼が号外新聞を作り終えたのは金曜日の昼過ぎだった。
その頃、自分の足で二階の階段を上がり踊り場から斜め横に位置する教室に向かう姿があった。新聞を小脇に抱え三階の部室から階段を降りて来た智雅はその後ろ姿に足を止めた。おぼつかない足取りが引き戸を開け、中に吸い込まれて行くのを智雅の曇る瞳は一心に見詰めた。
光だった。光が一週間ぶりに午後の教室に姿を見せたのだった。
一瞬、静まり返った教室がざわめきを取り戻した。青白い顔が喘ぐ息を整えながら机に倒れこむように座り込んだ。

******

「光さんが、登校していない」
要の言葉が、教室に響いた。
光が、いない。登校しなかった。保健室にも教室にも姿が無い。どんなに具合が悪くても必ず登校するはずの光の姿が無いと、要が真っ先に情報を手にして教室に飛び込んで来た。
皆が一斉に要を見た。それから彼等の瞳は、健次郎を振り返った。健次郎は首を振った。彼は何も聞いてはいない。先週末皆の祝福の拍手を受けたばかりの光だった。それから三日経っただけだがまた薬に溺れたのかと健次郎は思った。そんなはずはなかった。土曜日、光は健次郎のマンションに泊まった。そして昨日昼過ぎ俊が運転する車で、長屋前まで送り届けた。
「俺、お前と暮らしたい」
健次郎のマンション。二つある寝室の一つを覗き見た光は声を上げた。そして全ての扉を次々に開き、少女のような体動が喜びを表していた。
「俺、綺麗な部屋で暮らせたら嬉しい。ここは明るい光が差す部屋だ。この部屋で暮らせたら――」
白と桜色のフリルが溢れた部屋に立った光は部屋を飾る小物を見回してそう言うと、ベッドに座りベッドスプレッドを撫でた。それからゆっくりと寝そべった。無防備なその姿は幼子のようだった。その穏やかな表情が俊の手料理を食べた。ボンヤリとした虚ろな時間をリビングのソファーの上で過ごした。そして宵の口に俊が彼の趣味で固めた部屋に消えた。その夜、俊と健次郎は寝息をたてる光を確かめた。
夜半、何故か目覚めた健次郎は不審な物音に耳を澄ませた。
外の気配を確かめるためにドアを開けた健次郎は、バスルームから出て来た光の姿に驚いた。しかし、光の方は無表情のまま健次郎の目前を静かに通り過ぎ、向いの部屋へ姿を消した。
翌日、光はいつもの学制服に身を包んで健次郎の前に立った。
「風呂、俺、風呂嫌いだ」
そうであろうと言う言葉を、光は返した。
健次郎は身を整えるためにシャワー室へ向かった。
洗面台、シャワー室、昨夜の使ったとは思えないほど綺麗に整えられていた。洗濯槽にも使ったと思しき物が無い。夢を見たのかと健次郎は思った。しかし、抱き締めた身体からは香しい匂いがしていた。シャンプーの香りだ。だが、浴室を飾るボトルの香りではなかった。光が身につける何時もの香りだった。その香りを持つ主は、今この学校にはいないと騒がしく口をつぐ。
健次郎は光の登校手段を知らなかった。誰が光を毎朝送り届けているのかを知るのはまだまだ先の話になるが、このクラスでそれを知るのはやはり、智雅と正道だ。土曜の夜に光が何処にいたのかも知るこの二人は、真剣な眼差しで健次郎を見ていた。二人の心は鈍感な健次郎が思い通りに動いてくれと祈っていた。思い通りに動くように琢磨に入れ知恵もしてあるが、‥‥‥。
光のいないホームルーム。怫然の辰巳が、日程連絡を語ると即座に教室を去った。ざわめきが沸き立った。その中で、即座に姿を消したのが情報屋の林琢磨。五分と経たないうちに舞い戻ってきた琢磨は席に付くと後ろを振り返った。
「健次郎。光は、一週間、休みだ。家で何か起こったらしい」
健次郎の机を取り囲む者達が口々に言葉を放った。
「行けよ。健次郎」
光が待っていると、教室が沸き立った。

「ひかりの子。お前は、光り輝く子だよ」
朧な記憶が、言葉を放つ。白くぼやけた顔立ちと黒い髪を束ねた姿が記憶にある。その肩に縋り背を擦る小さな手が俺なのだろう。さすっていた背は、何時消えたのだろう。俺が、ひかりの子でなくなったのは何時だろう。
記憶はない。
唯、ここにいて、近所の人が光、光と声をかけてくれる。
だから、俺は、光なのだ。
大西光。
行方不明の親父を持つ暗闇に生きる子。
親父が闇で生きろと言ったのだろうか。気づいたら薄暗い部屋に一人いた。その薄暗い部屋より暗い場所が好きだ。そこにいると大きな太い指が届かない。何故だろう。
親父が助けてくれる、でもいない。何故だろう。
親父は何処に居る。ここにはいない。もう帰っては来ない。
親父は、死んだ。テレビのニュースが伝えるような死に方。一間のアパート、死後数日が経過した変死。アル中の親父らしい死に方だろう。現実から、逃げて、逃げて、やっと、逃げられた。でも、俺は逃げられない。それでも昨夜は良く眠れた。薬だけじゃない。何かから逃れられた気分になった。
これで、ここから出て行ける。明るい場所が俺を待っていてくれるのだから‥‥‥。
毟られても‥‥。
何時かは、毟られる日がくる。それが、早くなっただけだ。
俺は、一人では生きられない。一人では生きたくない。それでも生きていたい。
おたつみが言う未来があるなら、誰かの腕の中で生きていたい。
その腕が、もうすぐやって来る。
それは誰。怖い者、強い者、闇が好きな者。
この敷居に座って、朝の風を感じていれば、そいつはやって来る‥‥‥。

息苦しい。誰かを待つってこんなに胸が重く苦しく感じられたのだろうか。息をする度に身体が重くなっていく。眠った方が良い。薬を飲んで静かに眠っていよう、そうすれば目覚めたら誰かがいてくれる。これ以上ここに座っていたら胸が押し潰されると立ち上がろうとした瞳に走り込んで来た車が写った。後ろのドアから飛び出てきた人。
健次郎。安堵の胸が鴨居に座っていた。
「お前のほうが早かったな」
顔を見るなりそう言った。それでもその顔は横に座ると肩を抱いてくれた。凭れると何時もの匂いが漂ってきた。そうだ。こいつは金持ちだ。だから、正が智がこいつにしろと言い続けたのだった。俺もこいつが好きだ。
「お前、金持ちだよな。俺を、幾らで買う」
「か‥う。君を買う‥」
大きく波打った身体が動揺したに間違いは無いが、しっかり支える腕は動かない。じっと見入るその唇が触れた。
「身体‥俺は売れる物を持たない。この身体‥。お前が買わなければ‥‥」
「幾らだ」
「契約期間は、十二ヶ月。百‥」
百と言った言葉に頷いた顔は、何時もにまして真剣だ。その手は、迷わず携帯を取り出した。高校生が、簡単に用意できる額じゃないことは分かっていたがお前に縋りたい。俺の気持ちが分かっているのか。俺は何も出来ない。料理も掃除も出来ない。気の利いた言葉も浮かばない。そしてお前の夜の相手も出来ない。そういえばお前の運転手、金を準備しただろうか。俺の目の前で封筒が、おばさんへと手渡されたのだろうか。
お前のほうが、と言った俺のことは理解出来たか。今は出来ないけれど何時かは誰かのために出来るようになりたい。それが、お前であれば嬉しい。何時かこんな服なんかで自分をごまかさない自分で在りたい。
「俺、初体験は綺麗な部屋でしたい。テレビに出てくる真っ白いベッドルーム。それに、似合う服着て、抱かれて部屋に入る…。女々しい夢。描いてはならない夢。だけど、描いてもいい夢だ。夢だからこそ描ける。そして、今はここを出ていく事を考える‥。十八になったらどんな人生が待っているか分からないけど、ここを出ていく。出ていける。お前に、飼われたのだから…」
言葉を連ねる光の真意が、健次郎には分からない。問いたいと思ったその時、クラクションと共に黒の外車が飛び込んできた。それは、俊が待機するセダンの横に停まった。

車の中から出て来た白衣姿の男が、医者だということが分かった。その男が、鴨居に座る二人の前に立った。
「先生、俺、売れた。来年までこいつのものになる」
 中肉中背、目立って印象深い顔立ちでは無い男の面がはっきり割れた。それをごまかすように作り笑顔が言葉を放った。
「そうか、売れてしまったか。それじゃ。ライバルに挨拶しよう。大西さんの主治医をさせて貰っている八田だ。よろしく」
四十前の男の笑顔が、健次郎の記憶の糸を捲った。
「あっ、偉大の外科部長」
八田の眉がにわかに曇った。その瞳は苦笑いする健次郎を見た。
「四年前に腹を縫ってもらった、斎藤健次郎です。中2病の悪ガキ」
「斎藤‥、斉藤健次郎‥‥」
八田はその名で確かに顔色を変えたのだが、健次郎はそれに気付かない。
「お前、名前、男らしいな。俺なんか、親父に間違って名前、付けられた。」
「なんでだ」
狂気を表した放課後の保健室、光が口走った言葉を覚えていた。その意味が察し得ない健次郎は問うていた。
「親父。酔ってた。お袋は、明るい子にしたかった。でも、親父が子を付けなかった。お袋の願った光の子。…だから、俺、闇の中の子になった」
 やはり意味が分からない健次郎は、はぁと言っただけだった。
その二人の前に、八重子が立った。
「光ちゃん。八田さんがすべて手配してくれた。解剖が終わって、遺体が還ってきたら葬儀屋が段取りしてくれる。お骨は、田舎の親戚が取りに来てくれる。会うかい」
光は、首を振った。
光の父親が亡くなったのだと知った健次郎は、父親の死が悲しみでは無く安堵を持って来たのだと集まって来た人の顔から察した。そして、八田の視線が冷たく健次郎を見詰めているのも感じた。
「健次郎。俺、もう行ける」
頭陀袋一つ肩に掛けた光が、健次郎の前に立った。

*******

八月に入っても、健次郎の日常生活は変わらなかった。唯、側に光がいる。それだけが違っていた。健次郎より俊の日常が変わった。朝の仕事が一つ増えたのだ。それも厄介な仕事だった。登校日に鍵の掛かった部屋のドアをおもいっきり叩かなければならなくなった。夜の仕事を終え睡眠時間の短い俊には苦痛だった。三十分早く起き、その部屋の住民を叩き起こす。それでも寝ぼけ眼のこの住民が無造作に抱きついて来る感触が嬉しかった。  
一人っ子の俊は兄弟がいたらこんな賑やかな朝が向かえられるのだと仄かな愛着を感じていた。出来るのであれば、長くこの生活を続けたい。健次郎も同じ気持だった。
賑やかな朝の食卓。テーブル椅子に場を占めた光は、その場が自分のためにあるように両手を広げて顔を埋めていた。
狭い朝食の場になったが二人はいつもの様に定番メニューを口にして立ち上がった。健次郎はカバンを持ち俊は光を抱き上げて車に向かう。
健次郎の車が駐車場に停まるのを二階教室から覗くメンバーは、当然の如く窓際に立った。そして車から下りる二人の姿を見詰めるのが、日課になっていた。毎日の日課を見続ける彼等は、俊の心と同じ様に穏やかな日々が長く続けと願った。
今日からこの高校は、一週間の夏休暇に入った。学校立ち入り禁止。
健次郎と光が二人きりになった。
人の眼には奇妙に映る二人が、シャンデリア輝く下に立った。
健次郎は、光の望みがどんなものなのかを想像出来ない。光の肩を抱き、胸元が開いたその首筋を確かめた。痩せた身体に似合う肋骨が浮き出た胸がある。その胸窩のくぼみを確かめ、飛び出た鎖骨に触れた。汗で濡れた凹凸の肌を一段二段と滑る指を拒否する気配は無い。
「俺、お前のこと好きだ。一緒に居ても苦しくない。いつかきっと、お前の前で着替えられる。そんな、気、する」
光はそう言うと、穏やかな表情を見せた。
――俺、初体験は綺麗な部屋でしたい。テレビに出てくる真っ白いベッドルーム――
その言葉が、健次郎の脳裏を過る。
光が望む綺麗な部屋を見せたい、そんな心が人混みを掻い潜ってその場に立った訳では無かった。健次郎の奥底には愛憎の蟠りが蠢いていた。
愛着と嫉妬を混ぜ合わせた奇妙な心地が心中の壁に張り付き渦巻く。
重苦しい心地が生まれたのは今日の午前、新しい夏服を取りに寄ったまなみの店の中だった。
真っ直ぐに健次郎を見たその顔は真顔だった。その顔は前回見た激しく動揺し気を乱した顔ではなかった。健次郎が長年見続けた母の顔だった。
眉間に悲しみが溢れる顔が健次郎と一緒に並ぶ光を無言で見ていた。だが、俊の姿が現れると母の顔が一変した。女の顔だと取られた健次郎は会話する二人を尋常には見られなかった。
まなみは、満面の笑みを湛え声を上げて笑った。健次郎の中の何かが割れた。ネジの止まった玩具のように崩れていく身体が光の細い肩に縋った。
――マザコン。やっとそれから卒業出来る――
心の何かが言った。
――その通りだ。過保護のマザコン――
健次郎は俊とまなみを見詰め、自身を罵るように笑った。
――マザコンを卒業した俺がどんな愛を選ぼうとお前達の指図は受けない――
心の奥が叫びを上げていた。
電車を降りた健次郎は、振り返った。そこに、光がいる。頭陀袋を片手にいつもの姿が雑踏に顔を顰め周囲を伺っていた。明るい灰色の背広を着た健次郎と着古したダボダボの制服を着た二人が手を繋いで改札を抜け人混みを掻き分けながら無言で出口を目指した。
光の手を取った健次郎は、インフォメーションへ向かった。
駅から直列したこのホテルのレストラン街を何度も利用していた。初めて斉藤一族と対面したのもこのホテルの一室だった。誰かの誕生日や祝い事もここだった。健次郎は迷わず部屋を予約した。その情報がいち早く京介の縁の者に知れるとも思わずに宿泊票に二人の名前を書いた。
二人の情報が京介を通じまなみの耳に入ったのは、辺りが暗くなる頃だった。
まなみに、乱れは無かった。驚きも怒りも無かった。喧嘩と乱交な日々が蘇った。憤懣の捌け口を何故、母である自分に向けなかったのかを知りたい。狂ったように拳を振るい性に乱れた生活を忽然と止めた訳を問いたい。父親の言葉がそうさせたのかと、今でも疑問に思っていた。だが、我が子に掛ける言葉は無かった。唯、まだ、成人していない我が子が、心の闇から抜け出せない光の心情を理解できないだろうと思った。更に二人の心が和しても結ばれることは無い、光の障壁が取り除かれるまではと思った。だが万が一、二人が結ばれたなら迷わず祝福したい。涙がまなみを濡らした。
二人に乾杯したワイングラスに俊の顔が写った。まなみの障壁は、その顔と同じ者がつくった。おなじ指では無い同じ指が頬に触れる。同じ唇でない同じ唇が感情を高めていく。
暗い部屋に浮き出る模様は夜のネオンだが、見る者の心はただの闇である。
まなみの脳裏は、ただ、平穏をと願った。
平穏。それだけを願うまなみの携帯が鳴った。
闇にベルが鳴った。
携帯の着信音。まなみは隣で眠る俊を起こした。
「健次郎さんからです。出ないのですか」
すでに着信音で知るまなみは、首を振り目の前に差し出された携帯を押し返した。
「あの子は、夜中に電話してこない‥」
狂気を感じさせる強張った顔が、俊を見詰めていた。母の勘なのか、携帯から聞こえる震え声は、低く細く聞き取ることがやっとの苦悩に満ちたものだった。
「帝都病院だな。直ぐ、行く」
凍りついたままの面が、すっくと立ち上がった。

*******


薄暗い廊下。整然と並ぶ長椅子。その前列の中ほどに健次郎は座っていた。両手を膝の上で組み項垂れた姿に声を掛けた俊は、素破を上げた。開襟シャツが血で染まっていた。
「今日は、何をしたの」
健次郎の横に座ったまなみが聞いた。その途端、健次郎は嗚咽を上げた。まなみは、はっとした。
「光は、光は何処にいるの」
健次郎は震える指を前方の扉に向けた。救急外来。
「何が、あったの…」
頭を抱えた身体は嗚咽で震えるだけで言葉を発せない。
「何があったか言って。健。教えて‥あの子は、光は、健。しっかりして」
おびただしい血痕が白いシャツを染め抜いている。徐々に、まなみの声が、焦り声に変わった。これは、誰の血と裂帛にも似た叫びを発した時、健次郎はやっと喘ぎ声を発した。
「あいつが‥。あいつが、突然、やってきた‥」
苦痛を表した顔が左脇腹を押さえた。そこに傷は無い。打ち身痕と腫れがある。おそらく、骨折しているだろうとシャツを剥ぎ取りながらまなみは問う。
「誰。あいつって、誰」
「斎藤慎吾…」
「慎吾…」
城島の着ていたシャツを着せかけていた手が止まった。誰かが、情報を慎吾に売った。
「無用心にドアを開けてしまった。奴が、」
部屋を見渡した光は嬉しそうだった、と 涙を吹き上げた健次郎は話し始めた。
クローゼット、浴室、トイレ、ベッドルーム。扉という扉をすべて開けていった。開けるたびに振り返った。その顔は。無表情に近い真剣な顔だった。好奇心が作る真剣なその顔が、突然の訪問者に掻き消えた。慎吾は、ボディガード二人を連れていた。
「奴は、いつものように俺を詰った。まなみを悪辣に言い放った。我慢した。今日は、光が一緒だったから。言いたいことを言わせてやれば、そのまま引き下がると思って、耐えた。だが奴は帰らず、家探しを始めやがった。止めようとした俺を、ボディガード二人に任せ、その間に‥光を…」
光はベッドルームに逃げ込んだのであろう。慎吾はその部屋に入ると出てこなかった。叫んだ。確かに声を限りに叫んだ。すると鳩尾(みぞおち)が熱くなった。力任せに殴打された。衝撃で気が遠く鳴った。奴ら二人の笑いが聞こえた。
膝を着いたその耳に、光の悲鳴が聞こえた。
息を飲んだ。瞳が隣へ続く扉を見た。少女の様な裂帛が何度も部屋に木霊した。蹌踉めく身体が必死になって厳つい二人から逃れるために拳を奮ったが敵(かな)わなかった。激痛が脇腹に走った。消え入りそうな意識が強者に押さえつけられ、勝ち誇った義母兄を見た。覚醒した瞠目が鬼神と化した異母兄の凶暴を見た。シャツを剥ぎ取ろうとする慎吾と抵抗する光。
「兄さん。なんで、そんな酷いことが出来る。あんたは、兄貴なんかじゃない」
その言葉が慎吾の動きを止めた訳では無い。ベッドに抑え込まれた髪を鷲掴みにされた光が何かを言った。
勝利の高笑みが、突然止まった。光の声もない。
沈黙が、部屋を覆った。
慎吾と光が、動きを止めていた。
馬乗りになった身体から離れた慎吾は、動かなくなった光をしばらく見入った。それから身体を震わせ、ベッドに端座した。
この慎吾の不可解な動きを健次郎は、脇を押さえられたまま見た。そして、ゆっくりと身を起こした光に安堵した。だが、それは、束の間だった。
「ベッドサイドにはりんごがあった。光が好きだったから、俺が頼んだ。果物籠には、ナイフが添えられていた。光が手を伸ばしたのは、りんごじゃない。ナイフだ。慎吾の叫び声を、初めて聞いた。あんなにうれしそうな光の顔も初めて見た…」
身じろいだ健次郎はまた嗚咽を上げた。
ナイフを手にしたのは光、側にいたのは、慎吾。シャツに付いたおびただしい鮮血。あれは誰の血。まなみは息を止め、診療室の扉を押した。

******

「今日は、個室を取らせてもらいました。ベッドが空き次第、移ってもらいます。」
まなみは頷き、はいと返事をした。広い部屋をカーテンで仕切っただけの診察室、医者と対面しているのはまなみ一人。まなみの耳に残るのは、か細い小さな声。
「おか・・ちゃん‥」
 化粧気のないまなみの顔を捕らえた光が虚ろな目を開けてそう言った。
採血室の奥、並んだベッドを仕切るカーテンの中を覗いたまなみは声を上げた。
「ひかる!」
 青ざめた顔が、まなみの眼に飛び込んだ。そして布団を止めた固定ベルトを見た。抑制される意味にまなみの脳裏は弾けた。想像以上の何かがあった。崩れ落ちたまなみの横に光の顔があった。血糊で汚れた顔は薄っすらと瞳を開けると口を開いた。
「おかあちゃん。何処に行ってた。‥光、いい子になる‥」
その姿に気づいた看護師が慌てて近づくと言った。
「同伴の男の方に、同意書を貰いました」
固唾を飲んだまなみは大きく頷いていた。この場を使って居るのは光一人だけだ。慎吾は何処に‥。
「直ぐにサインが欲しい同意書があります。本人が暴れるので点滴も麻酔も出来ません。腕の傷を縫うのに――」
自殺―、自傷―、両腕をナイフで切り裂いた―、出血が止まらない―、安定剤内服した――。
「輸血も必要です」
麻酔医はそう言った。説明を受けるまなみは、何を言われているのか分からなかった。心を病んだ子供が救いを求めている、それだけでペンを動かしていた。
俊は健次郎に付き添い整形外科の処置室にいた。
健次郎は鎮痛剤とベルト固定の処置を終えると内服薬を受け取り、救急外来に戻った。
二人はまなみのいるカーテンの中に入った。丸椅子に腰掛け肩を落としたまなみの横にもう一つ丸椅子があった。健次郎はそこに座った。その前に背を向けたまだ若い当直医がカルテにペンを走らせていた。
「付き添いが出来ますか。今、薬で寝ていますが何時覚醒するかわかりません。夜間覚醒して、動き出すと何をするかわかりません。直ぐ、ナースコールを、押してださい。お母さんですね」
いいえ、とまなみが言うと、今まで背を向けていた医者が振り返った。その瞳が俊と健次郎を一瞥するとまなみに言った。
「親御さんは、こられますね」
「いいえ。この子は孤児です。今は、息子と一緒に住んでます」
「息子さん‥。一緒‥」
不審顔の医者の視線が健次郎に移った。蔑視する眼差しがあった。健次郎はその眼差しを、睨み返した。すると、医者はまなみに視線を戻して言った。
「入院手続きに、保険証と保証人が必要ですが、どなたか、おられますか」
誰が金を払うかと、冷たい眼差しが言っていた。
「この子を直してもらえるなら私が保証人になりなります」
「この病気は、長期になりますよ。根気のいる病だ。身内でないと…」
健次郎は光の内情を知らないが、金がないのだけは知っている。今必要なのは、その金である。保険がなければ、全額負担。
親父に泣きつくしかないと焦る健次郎と違い、まなみが静かな言葉を放った。
「幾らかかってもかまいません。私が、責任を持って払います。始終付き添って見ていきます。誓約書をつけてもかまいません」
冷たい医者に対抗してなのか、まなみの強く言い回しに横に控える健次郎は驚いた。
「出来れば、ご主人のサインが欲しいですね」
医者はまたしつこく言った。
「主人は、いません」
仕方ないと言う素振りで署名を促した医者は、
「で、職業は‥」
その言葉で激怒した健次郎が叫んだ。
「払うと言ってるだろう」
だが、医者は健次郎を無視して神妙な顔付きのまなみを睨んだ。
事を進めたい医者が、怒気を表した顔つきで更に言った。
「連帯保証人も書いてください」
「分かりました。息子の父親に連絡入れます」
その時、診察室を仕切るカーテンを開けて現れたのが斉藤慎吾だった。医師の前に立った彼は速攻に言った。
「私がなろう。ここの理事長の顧問弁護士の斎藤慎吾だ。私では不足かな」
慎吾の傲慢な態度はこういう時は役に立つ。医師は青ざめ看護師を呼んだ。

まなみは静かに、慎吾に頭を下げた。だが、怒りが怒涛の如く全身を沸かせる健次郎は、叫ばずにはいられなかった。
「貴様のせいだ。お前が現れなければ、光は‥‥。光は、普通になろうと、していた。やっと‥。やっと、胸のボタンが、開けられるようになったのに‥すべて、貴様が、ぶち壊した‥きさまなんかー」
「やめなさい」
怒りに振り上げた拳を、まなみの言葉が止めた。
「やめなさい。健。発した言葉は自分。言葉は、誓い。人を追い詰めたら、自分も追い詰められる。今を見て。今を見て、これからを考えて。どうあれば良いかを自分に問うのよ。これから、何をすれば良いのかを‥‥。一人ではなく、手を繋いでいける者達で考えるのよ」
発する言葉は自分に対しての誓いだと、怒る健次郎に対しまなみは何時も言い聞かせていた。何年ぶりに、その言葉を聞いたのだろう。最後に聞いたのが三年前の無免許事故だった。健次郎は項垂れた。
「私にも、娘がいる‥‥。三歳になる娘が、今の私の宝だ」
慎吾は、膝を付いた。そして、済まないと言った。
「娘が‥こんな目に合ったらと思うと、自分のしたことが、‥どれほど、残忍な行いか分かっている。娘のためにも、光さんのために尽くしたい‥。本当にすまなかった」
言葉は真実だろう。だが現実は、最悪だ。
健次郎を椅子に座らせ医師に頭を下げたまなみは、元の位置に腰を下ろした。
「前を向いて行かなければ‥」
まなみの心情に反する言葉を医師は返した。
立ち直るのは、難しい。医者の言葉にまなみは黙って頷いた。
事件は兄弟喧嘩の末、同伴の女性が怪我をしたでとどまった。
事は穏便に健次郎の前を通り過ぎていったが、穏便にいかない現実がある。軽い麻酔で眠る光はナイフで縦に裂けた両手首を慎重に縫われた。はじめてではない古傷がそこに残っていた。包帯が手首を隠す瞬間まで涙で曇る瞳を見開いて見ていた健次郎は肋骨の痛みより心の痛みが強かった。長屋の暗い部屋で一人暮らす光の生活を思った。助けたい。正道以上に守ってやりたいと、健次郎は光の前に膝を折った。
「薬が効いているから反応しないだけよ。お前が来たことは分っているわ」
まなみは静かにそう言うと、健次郎の肩を抱く。
「恐怖と不安が、身体を傷つけることで回避する。回避した行為が安堵を生むの」
健次郎の脳裏に十二時間前の残滓な光景が浮かび上がった。
ホテルのあの部屋で光が慎吾に発した声は何だったのだろうか。幼児の様なあどけない笑みを浮かべた顔が健次郎を振り返りベッドに端座する慎吾の前に腕を差し出した。その時、それを見た慎吾は恐怖の叫びを上げた。
ナイフが光った。
止めろ――と健次郎は叫んだ。傷つけるためのナイフだ。一瞬でそれを感じた慎吾はベッドから飛び退いた。健次郎は走った。二人が瞬間、察した行為は違った。
光は他人では無く、自分を襲った。
ナイフは、光の左前腕を割いた。続いてもう一度、腕にナイフが刺さる。
鮮血が空を舞った。鮮血が健次郎の顔に飛んだ。もつれる足がやっと身体を掴んだ時、ナイフを握るは左手だった。それはまた、同じ行為を繰り返した。
健次郎は電流が流れるような痛みのためナイフを奪い取ることが出来ない。滴り落ちる血が健次郎の身体を濡らしていく。言葉で制しても、凶器は指から離れなかった。
光の異常な行為を止めたのが、ボディガードの一人だった。彼らも予期していない出来事だった。一人は、即座にその場から逃げ出していた。残った一人が光の手からナイフを奪いタオルで止血すると、救急を呼んだ。
恐怖の夢の中を歩くような時間だった。
また高校の教室が開放され皆が顔を逢わせたら、お前の事を何て言えばいい。おたつみに何と言えば‥。そう、自分に問う健次郎は溢れるものを止めることが出来なかった。
「済まない‥」
健次郎の後に立った人影がそう言った。慎吾だ。だが、健次郎は振り向けなかった。侘びの言葉を慎吾は繰り返した。まなみは、それに答えているが健次郎は答えられない。まなみは、天使だ。こういうことに関して、憎しみを持たない。病室のベッドの柵に縛られ、半覚醒した身体が頭を振り波打つ姿を目の当たりにした健次郎は怒りを吐き出さずにはいられなかった。
「貴様が、現れなかったら‥‥」
まなみは、健次郎の心中に種火となって残るものに気づいた。
「忘れたの。言葉は、誓い。怒りを言葉にしないで‥、光を守る。それだけを言って。健。怒りからは、何も生まれない。」
守れなかった。守ってやれなかった。今更、守るとは言えない。健次郎は眼の前にいる櫛が梳いた流れる黒髪を見詰めた。

翌日、メンタル病棟に移動した光は眠ったままだった。
「薬、ちょっと多めに使わせて貰ったよ」
まなみと健次郎それに俊、彼等に何故か付き添った慎吾も医師の言葉に驚いた。
四人が見詰めているのは若い女性だ。まだ研修医ではないかと感じる彼女には指導医がいない。机に片肘を付くと顎を乗せた彼女は片足を組んで顔だけを向けた。
やる気ない態度に見えるその女医に眼を剥く四人は、それぞれの面を表した。四人が表したそれぞれの表情をじっくりと捕らえた物憂げな眼差しが、口元に確かな笑みを浮かべた。
そして臆することを知らないこの女医は、はっきりした口調で言った。
「そんなに驚くことじゃないよ。メンタル系は寝る事と食べる事が一番安定する」
今は寝るのが一番と言った彼女は、言葉を発しない者達を一人一人確かめるように見回すと更に言った。
「自己紹介、‥必要だな。私、間宮萌(まみやもえ)。外来で大西光ちゃんを担当するので、よろしく」
―間宮萌――。日に焼けた茶色い肌と黒褐色のショートヘアが額を隠し、生え揃った黒い眉と長い睫毛が印象的な女医だ。
四人が頷くと早速、間宮萌は口を開いた。
「光ちゃん、メンタルの薬を飲んでるね。主治医は、どなた」
光ちゃん――。一瞬の瞠目の後、皆の視線が健次郎を向いた。健次郎は、首を振った。知らない。
「所持品の、これ」
表示のない藥袋を取り出した萌はそれを机に置き、髪を掻き揚げた手で頬杖を付いた。しばらくの間を開け、その手が机に触れるとまた口を開いた。
「安定剤、睡眠導入薬、覚醒剤、メンタル医師の処方だ。知らなかったのかな」
藥袋の中は色鮮やかな薬のシートが五種類入っていた。健次郎は、光が飲む薬を知らなかった。首を振る健次郎は俊に救いを求める眼差しを送った。すると俊は言った。
「外科医の八田大樹。彼が、光の主治医だと宣言した‥彼が‥」 
「外科医、外科医ねえ‥」
握ったペンを指で振りながら見詰める者達に背を向けた女医は、カルテをめくった。
「虐待を受けた経験がありますか」
問いに答えたのはまなみだ。彼女は表情を変えず唯、ハイと言った。女医はその顔をしばらく直視いた後、ペンを握る指をまた振り始めた。そして頷くように首を何回か振ると口を開いた。
「長期戦でいきましょうか。私の務めている診療所が山手にあります。そこに入院手続きを取りますか。三ヶ月‥。それとも、ここで薬調合だけで退院されますか」
健次郎は、はっとした。まなみの固まった表情が両手の中に隠れた。はじめてまなみが光を見た時変化した表情を健次郎は見た。にわかに顔を曇らせた俊がまなみの肩を抱いた。その表情も同じに日に見ていた。
「長期になることは、分かっています。時間もお金も問いません。治してもらえるのなら‥‥」
と呟くようなまなみの声が、両の手の間から漏れた。
「治す、か。難しい言葉‥‥壊れた心が元に戻ることはない。壊れたものは壊れたまま、それ以上壊れないようにちょっと補強するだけ、医者も人、同じように壊れる」
エッと、健次郎は顔を上げた。女医はにこやかな顔で健次郎を見ていた。
第一印象で変わった人だと思った。それを増幅させる言葉を女医は言った。
「人は壊れまいとすると余計壊れる。君は壊れたいと思っているから、気にならないだろう。が、普通は張り詰めた気が正常を隠している。謎解き、楽しい時間。私にはね」
萌は、ここではじめて真顔になった。その顔を見た健次郎は呟いた。
「楽しい‥時間‥」
楽しいと言いながら萌は眉間に苦悩を見せたと健次郎は感じたのだ。
「健次郎君、普通って何か分かるか」
「どうして、俺の名を‥」
「救急外来からカルテがまわってきた。聞かれただろう。住所、氏名、年齢、家族構成。血液型にアレルギー、既往歴から内服している薬。酒に煙草に、性行為‥‥これは聞かないか‥」
萌はふふっと笑った。
「覚えてない‥」
救急車や外来で沢山の質問を受けたが何を聞かれたのか覚えていない。今も夢の中のようだと健次郎は呟いた。
「お前、素直に生きているな。珍しいよ」
「俺が素直――」
健次郎は声を上げた。今まで聞いた事のない言葉だ。怒りも驚きも心中を沸かさないが、鼓動が高なった。しっかりと握り締めた拳に力が入った。高鳴る鼓動は何故だと自身に問う前に萌の口が心を震わす言葉を放った。
「この中で、お前だけが一番まともだ。健次郎君」
「俺がまとも‥そんなことない。俺は中二病の糞ガキ時代を送った。父親にも義兄にも軽蔑されながら、今も変わらず唯、生きているだけだ。毎朝、目覚まし時計に起こされ、出された物を食い、学校に行く。教師に文句垂れることを止め、窓から外を見て一日を終えて帰る。これがまともなのか‥」
そうだと、萌は言った。
「お前は、この中で一番安定した生活を送っている。それが普通、まともなことだ」
まとも、俺はまとも‥。健次郎は萌が発した言葉を受け止め様と考えあぐねた。そして素直にそれを脳裏の奥に仕舞いこんだ。不思議な雰囲気を持つこの萌はその雰囲気に似た独特の見解を持ち、一人の患者を取り巻く者達の心情を見ぬいていた。
「後の三人を見ろよ。お前より遥かに問題を抱えて身も心も苦悩だ」
ぼんやりと自我に浸る健次郎はこの言葉を深く捕らえなかった。曖昧な心地は、母が持つ悲しみ義兄が背負った苦悩を探らなかった。だが慎吾は違った。一変した面が凍りついた表情を呈した。真一文字に結んだ唇が震えていた。その慎吾は視線を健次郎に向いたが一瞬で瞳を返した。それは肩を落とし握り締めた両手を睨み付けたまま動かなかった。
静まり返った部屋の雰囲気が健次郎を我に返した。この時、俯いて動かない慎吾の不思議と思える態度を捕らえた健次郎は、疑問を問う眼を萌に向けていた。
「感じる。患者を見たら感じるんだ。なんとなく彼等の表情が頭の中で大きく弾ける」
萌は健次郎にそう言った。
この女医萌との出会いが健次郎だけでなく、城島俊の運命を大きく変える事となる。

******

真っ白い壁とクリーム色の床をした病棟待合室。狭い長方形の部屋は、病室を感じる洗面台が部屋の角にあった。黒い長椅子が縦に三列並んだその後ろの端に、正道が項垂れたまま座っていた。同じよう表情で深く腰を下ろした大輔も前の席に居た。
八月十三日の昼下がり。小さな待合室に彼等以外の人の姿はない。
エアコンは作動していたが、カーテンの無い日当たり良い室内はやけに蒸し暑く感じられた。その場へまなみと健次郎は立った。黒髪を後ろに纏め黒いリボンを付けたまなみが、大輔とお決まりの挨拶を交わす姿に一礼した健次郎は正道の横に座った。
「来てくれたのか。ありがとう」
その言葉で正道は、手に握り締めていた物を落とした。健次郎から素直な言葉を掛けられるとは思ってもいない正道は驚いた。彼が健次郎と言葉を交わしたのは四度あった。それはどれも健次郎が受け身だった。五回目の今日始めて、健次郎が言葉をかけたのだ。
床に落ちた物を拾い上げる健次郎の仕草を、強張った顔付きの正道はじっと見詰めた。
正道が落としたのは生徒手帳だった。
手帳を手渡そうとした時、健次郎の膝に何かが落ちてきた。
ラミネート加工された写真だった。同じ年頃の幼児三人がビニールプールに入り満天の笑みを浮かべている写真。海水パンツを履いた中央の男の子が両側の二人の頭を抱きかかえたようなポーズを取っているが、何故か両側の二人はおしり丸出しだ。
その写真は三人の幼児の幸福な時を写していた。
動かない表情の正道は、写真を見入る健次郎を一瞥して唇を噛んだ。そして、写真がその手に返るまで考え込んだ。
「このふりチン、お前か。可愛いな」
「真ん中が光、右が僕、左の水鉄砲を持っているのが智雅だ」
と言った正道は顔を赤らめ、素早く生徒手帳にその写真を滑りこませた。その表情に苦笑した健次郎が言った。
「俺は小さい時の写真を一枚も持っていない。小学校の授業で自分の生い立ちを語る課題があった。アルバムが無くて家の中をくまなく探した。けどなあ、一枚も無かった‥‥。貧乏だから無いのだと思った」
はっとした正道は顔を上げた。その眼に健次郎の柔らかな瞳が写った。
「その後、まなみが血相変えて飛び出した。帰ってきた手にはアルバムがあった。俺の名前と誕生日が表紙に付いたアルバム‥。今思えば変だった。まなみと俺が並んで写る写真が貼ってあった。公園で弁当食べている所とか、町中で買い物している所とか、入園・卒園式、入学式。誰が撮ったのだか‥」
悲しみを知る眼だと正道は感じた。すると言葉が飛び出した。
「僕は、キャベツが嫌いだ‥‥」
キャベツ――、健次郎が瞬きして正道を見詰めた。
「光と僕は、キャベツが嫌いだ。一生食いたくないと思う。ジャガイモも」
語気を強めて叫ぶように言った正道は長い溜息を付いた。そして今度は冷静に言った。
「毎日、ナマのキャベツをかじっていた。おやつ代わりに‥光と。たまにジャガイモ‥」 
正道は、はははっと声を上げて笑ったが直ぐに表情が消えた。暗い表情が片手に隠れ、深い溜息と共に言葉を吐いた。
「僕と光、変な関係だと思うか。普通は思うな」
正道は言った。
「僕は光が側にいたから‥辛いことを乗り越えられた。隣に光が住んでいたから惨めな生活でも、笑っていられた。小さい時の悲しい記憶って消えないな。‥腹が減って、もらいもんのキャベツを二人で食べて‥。冬の雪の日、寒さで震えながら親の帰りを待った。二人で薄い毛布に包まって、火の気のない部屋で震えながら眠った。楽しい記憶は写真が思い出させるが、惨めな時の記憶は消したくても無くならない‥‥」
言葉を切った正道は両手で顔を覆った。そしてしばらくの間を置き、鼻を啜り両の目頭を交互に撫でた。
「僕は生まれた時から、父親の居ない家庭で育った。母と姉の三人暮らし。父親はどこかの山奥の農家の出だと聞いた。似たような境遇の母と一緒になったが、僕が出来たことも知らず死んじまった。写真に写っているプールも光が着ている海水パンツも智雅のだ。そして何時も写真を取ってくれたのも智雅の親達だ。僕と光は長屋一の貧乏人子供。僕には年の離れた姉がいたが、突然家を出て行った。僕が保育園の時、向かえに来てくれるはずがいくら待っても‥‥泣いた。おヤエさんが迎えに来て‥光が慰めて‥一緒に生のキャベツに食らいついていた。光の所もおばちゃんが工合悪くて寝たきりだったから‥たまにおヤエさんが差し入れ持って来てくれた時は二人で飛び付いた。おたつみの所も小父さんが失業中で‥‥」
「えっつ、おヤエ‥さん。おたつみ~!」
健次郎が室内に響く大声を上げた。
戸口で女医の萌とまなみを囲み神妙な顔で話し込む大輔が、何だと振り返った。その顔を指差した健次郎が叫ぶ。
「光の隣の八重子さん。おたつみの何」
「おふくろがどうした」
と、大輔が不審顔で言葉を返した。
「え―。隣、おたつみん宅――」
ギャーの叫びに近い甲高い声を上げた健次郎が飛び跳ねた。彼のその手は頭を抱えていた。その姿に声を上げて笑った萌はにこやかに立ち去った。
「お前、ドクターに笑われてるぜ。アホな奴と、思われてないか」
涙を見せまいと奥歯を噛む正道がそう言い鼻を啜った。
「いや。まともだと、言われた。はじめて人間扱いされた気がした」
「それじゃ。あのドクターも変人か‥」
と、正道は真面目顔を健次郎に向けた。
「と言うことは、俺はまともじゃないということか」
健次郎は一人で納得して呟く。しばらくの間をおいて正道が言った。
「光が騒ぎを起こすのは久しぶりだ。高校入ってから安定してた。僕らが居たから‥。中学校時代が一番大変だった。智雅がいたが同じクラスじゃ無かったから‥それに、教師が‥」
「教師も人間だ。嫌なものから眼を背けても仕方ない」
大輔が二人の後ろの席に座ると、そう言った。
「光の母親が病弱だったから僕達、長屋の子供達が全員で面倒見ていた。貧乏人の親は、夕方まで帰ってこない。握り飯一つ手渡され家の前にほりだされる。光は、長屋で生まれた最後の子供だったから皆が可愛がった。だから、あの子が七歳の時、母親が亡くなったその時も笑顔が消えることがなかった。お袋も懸命に世話していた‥」
「お袋、世話…。八重子さん」
辰巳がニンマリと笑った。
「お袋は、光を自分の子にしたかった。子供好きで子沢山を願っていたが出来なかった。僕も、兄弟が欲しかった。だから、光を自分の子にしたいお袋が言ったときは嬉しかった。だが、あの呑んだくれは首を縦に振らなかった」
酒乱――。その文字が健次郎の脳裏に浮いた。その文字の父を持った光の学童期はどんなものであったか今の健次郎には想像できなかった。
「だが、今度は違う。おやじさんは亡くなった。親戚が反対しなければ、光の養子縁組はすんなり行く。そして、あいつにカネ出して貰わなくたって健次郎のおふくろに何とかしてもらえたら‥」
 正道が目覚めたようにそうだと声を上げた。
――光に援助――
健次郎は横に立った眉間を落とした表情のまなみを見上げた。
まなみがそれを許しても、許さない人物が健次郎の後ろにはいるのだ。

*******

繋ぎの拘束着を着た光が、食堂フロアの椅子に座っていた。微動だもしない身体が、左右から掛けた言葉にも前方を向いたまま動かない。
健次郎は、光の前に膝を折った。やはり、瞳には何も映らない。もう夏休みが終わる。毎日通うことが出来なくなる。
あの日、始めて笑い声を聞いた。笑顔を見た。これが全て夢であれば良いと、健次郎は思った。
慎吾は毎日のように姿を見せた。そして毎回何も言わず光の前に座った。その姿を捕らえているのかボンヤリとした瞳が動かず慎吾を見ていると、感じずにはいられないまなみだった。

「私は人を差別したくはないが、我が子は可愛い。私にとって、健次郎は特別だ。年取って出来た子だけでは無く自分によく似た性格が余計可愛い。あの子には言えないが、あの子のためならなんでもしてやりたい。これが親心と言うものなのだろう‥」
京介は、そう言った。
ここは、京介のオフィス。ホテル騒動から一週間経ってやっと大輔は京介に合うことが出来た。
入り口の重いドアを開けると、正面デスクに京介は座っていた。左右の壁際にも書類を積んだデスクがあるが人はいなかった。
窓の無いこぢんまりとした部屋の壁際に京介が座るデスクがあり入り口を向いていた。座ったままの京介の前に立った大輔は着慣れない背広姿にネクタイを締めていた。言葉に戸惑う大輔に眼を向ける事無く書類に眼を通す京介は言葉を放っていく。
「息子の将来に汚点を残したく無いと願うのは普通の親の心だろう。それ以上に、自分が願う理想のままに生きてくれと至らぬ願望を持つ。これも親御心なのだろうか。‥私は、沢山の子供に囲まれた家庭を夢見ていたが、理想には届かなかった。我が子にはと思う事は傲慢だろうが、健次郎には世間が認める理想の家庭を築かせる。それが健次郎を産んでくれたまなみに対しての感謝だと思うが、間違っているかね」
「光と付き合うと、健次郎君の将来に支障があるということですか。光がメンタルを抱えているから‥」
 いやと顔を上げた京介は言った。
「私も少年時代、暴走したことがある。父親は怒り狂ったが、母親は毅然としていた。今で言う中二病から高二病か‥‥父の生き方には多いに反抗したが、やはり父の後を継いだ。あんなに反抗したのは何だったのかと、時々思う。健次郎もそんな日がくるだろう。暴走した日々が何だったのだろうと‥‥。」
「今は唯の反抗期だと言われるのですか。喉元過ぎるまで待つと‥それでも、二人が深入りしたら‥一線を越えたら、世間並じゃ無い生き方を選んだらどうすればいいんですか‥」
「八田光‥この子が、健次郎の将来にどんな風に関わってくるか。これは、斉藤一族にとって大きな問題になる。私にとって重要なことだ。八田氏も二人の生き方を‥‥」
「八田‥八田氏‥。光は、大西だ。大西光」
「いや、八田光さんだ。昨日、謝罪の手紙を貰った。父親から‥これがそうだ。八田氏はドクターだから知り合いの病院に転医されると‥迷惑を掛けたと私とまなみ宛に届いた」
会社宛の封書は京介とまなみの連名だ。それが京介の手中で翻った。
差出人は八田誠一。光に薬を渡し続けた外科医の八田だった。
「そんな、馬鹿な事が‥」
大輔の脳裏から音が消えた。目の前が真っ白くなった大輔は膝を着いた。その身体を支えようとした京介の前で内線コールがなった。
同じ頃、光がいるはずの病室は空だった。午後一時から夜七時まで面会時間。いつものように面会票に記入し病室を覗いたまなみは身を翻した。
間宮萌も一報を受け病院に駆けつけていた。
――退院した――
――父親が現れた――
昼下がりのメンタル病棟の待合室。一週間前、健次郎達が腰を下ろして話をした場所にまた彼等はいた。
「父親は亡くなった。つい、ひと月前だ。その後の事はおヤエさんがやってくれると聞いた」
健次郎は叫ぶ。父親はいない――。それをきっかけに家を出た。
狭い待合室の扉に使用中の札を掛けた萌が、ドアを締め向かい合わせになった長椅子の後席に座った。最前列のその中央にまなみが座る。前の向き合う席に大輔を挟み正道と健次郎が座っていた。
――養父――。
「八田誠一。養子縁組で光ちゃんは、八田光。全て精算して引き取っていった。もっと良い環境の精神科を探すとよ」
萌は不満な態度を隠してそう言った。
「どうして、養子なんだ。主治医だからって、勝手に連れて行けるのか」
「奴は、後見人だ」
 大輔が力無い声で言った。
――後見人――。健次郎はその言葉を知らない。
「光の仮の保護者だ。親代わりに色々手を回してくれる役だ。今、八田誠一と辰巳八重子が未成年後継者だ」
肩を落とした大輔が頭を抱えたままそう言った。彼もショックを受けていることは確かだ。
「後見人‥光の‥。そんなの初耳だ。そうだよな。未成年者が一人で暮らせる訳ないよな‥俺って、本当に鈍感だ。俊が‥怒るはずだ」
健次郎は呟くように言った。
「後見人が何故、養子縁組して強制退院させるの。突然、予告もなく、挨拶もなく‥不法よ」
まなみの強い声が言った。
「確かに‥カンファレンスもなしだ‥」
後からそっと部屋にやって来た俊の肩に身を寄せた萌が独り言を言った。その指は俊の頬を突く。
震える身体を抱いた正道は、青ざめた顔を真っ直ぐ前に向けた。そして、涙声で言った。
「どうして、奴が後見人なんかになれる。光も何故、奴を受け入れる。十八まで、十八まで、‥希望があるからか。高校卒業するまで、僕達と一緒だからか‥」
「十八‥。どして、十八なの。成人して大人でしょ」
と、声を上げたのは萌だ。手遊びの好きな萌だが、話はきちんと聞いていた。
「奴は光を幼い時から診ていた。高校に入学する時、奴が光と約束した‥」
「約束‥‥」
彼等の中で一番狼狽えているのが健次郎だ。彼は身を乗り出し疑心に満ちた顔を正道に向けた。しかし、項垂れた正道は何も言わなくなった。
「約束って‥何だ」
 健次郎の流行る心が大輔に問う。
「まず知っておかなければならない事は、光は未成年と言うこと。光には母親がいない。生活能力が無かった父親は八田誠一に光の面倒を見てくれるように頼んだ。裁判所がそれを認めた。後見人だ。だがそれも十八までだ。光が十八になったら独り立ち出来ると思っていた父親の意思があったから‥と、長屋の住民達の思いだ」
何時もより早口で話す大輔がはたと言葉を切った。顔をあげた大輔の眼が見詰めていた正道の視線と絡んだ。その途端、大輔の顔色が変わった。その顔付きに気づいた健次郎が強張った顔のまなみに眼を向け正道を振り返った。凍りついた顔の正道が前を見据えていた。わずかに動いた彼の唇が固唾を飲んだと分かった。
 時計の音だけが刻む無言の時が流れていった
――俺、十八までに初体験する――
健次郎の脳裏に何故か、屈託の無い光の言葉が蘇った。
「十八まで‥光は‥何が‥」
何がしたいのだ。唇を売ると、言った。俺を売ると、言った。感情を見せない顔が、セリフを吐くようにそう言った。本心なのか。それとも偽り。あの場所を出るための口上か。いや違う。健次郎の知らない何かがある。
それは、何だ――。
「お前が悪い。健次郎、お前がしっかり光を捕まえなかった‥」
頭を抱える健次郎に、正道の怒気を表した言葉が飛んだ。
「誕生日のあの日、光はあいつに連絡した。人混みに残されパニックになった光が、助けを求めた相手はあいつだ。送信記録もあった。奴の車も見た。満足そうな奴の顔も、奴はあの時、何かを手に入れたに違いない。奴が満足する物、‥何時もよりもっと満足する物を。‥お前が光を窮地に追いやった。光を奴に合わせてはならなかったのに、健次郎がヘマした。だから、お前を殴った。分かっていた。でも‥契約はまだ先だ。先だ‥先‥そう思い込んでいた‥」
「約束‥契約‥何だ。それは、教えろ。正―!!」

*******


「自分を売った」
と、大輔が言った。燻る思いを声に出し、剥き出した感情を全身で表わし訴える健次郎。その真剣な行為を止めた大輔は、答えを返していた。だが、その答えを健次郎は理解出来なかった。
「売った‥誰が」
言葉を噛み砕く見開いた瞳が、真っ直ぐに大輔を見た。立ち上がった健次郎の肩を抑えた大輔が、顔を寄せて更に言った。
「身を売る。それが、八田と光が交わした契約だ」
崩れるように座り込んだ健次郎の横に座り直した大輔の耳に、動きを無くした個々の顔が呟く言葉が届く。
光――。
健次郎を見た正道は口を開こうとした。が、押し黙ったまま項垂れた。
「十八歳になり高校を卒業する。そこで独り立ちしなければならない‥。光に出来るか」
 大輔は、健次郎に問うた。
 首を振った健次郎は出来ないと、呟くように言った。頷く大輔は正面を見た。そこに眉間を落とした悲しげな表情のまなみが、口を結んだまま我が子を見ていた。
「保護者を前に謝罪になるが‥健次郎君を利用しょうと策略した‥」
いつものような大きな笑顔の大輔が、健次郎の肩を叩いた。そして真顔を作ると、言った。
「斎藤健次郎。大西光が初めて、本気で興味を持った男友達‥。殻に閉じこもり感情を表さない‥光のために手を貸そうとしただけだった」
大輔の声が震えて止まった。天を仰ぐようにため息を吐いた声が、薄闇が広がった部屋に流れた。
「唯少しだけ光の心が開放されるならと、ささやかな希望だった。だから六月のあの放課後、正等が仕組んでお前等を二人きりにした。光は正直だから自分の気持を、はっきり言っている」
 放課後の教室。携帯メールに夢中だった。あの時、光が何を喋ったのか健次郎は聞いていなかった。光はあの時、何と言ったのだろうとふと思った心が大輔の言葉で消えた。
「単純明解に、キスした。健次郎が好きだ。好きだから一緒に暮らす‥」
その通りだと、瞳を閉じた健次郎は頷いた。
「だが、単純な心でも言えない事がある。自分を語ること‥‥。語れないから遠ざかろうとした。それではいけないとまた、画策が始まった。お前を利用しょうと‥」
言葉を切った大輔は、教師にあるまじき行為だと呟いた。そして、また口を開いた。
「悲しいことだが、光は 一人で生活出来ない。働けない。薬がなければ眠れない。誰かが、世話しなければ生きられない。だから、高校を卒業したら、大学へ通う費用と生活一切を見てくれる男と契約した」
語る大輔は、違うと叫んだ。
「奴は、光の弱みにつけ込んで脅したんだ」
その途端、正道が悲痛な叫びを上げた。顔を覆った手の間から怒号を漏らしたのだ。健次郎も後の席に座る俊も萌も動きを無くした。
「奴が薬を与え飼い慣らそうとしたが、光は鎧を脱がなかった。だが、奴の流涎はやまなかった。光を思い道理にする。だから高校入学するときに一人では生きていけない光の面倒を見ると契約させた。‥皆と大学へ行く。それが光の目標だった‥‥光はそれを受けた。‥高校卒業する三月から四年間、玩具になる。汚れてた身は汚されて当然だと思っている奴に。光がお前にとこにいる間、薬を貰いに行った僕に、しつこく聞いてきた。お前とやったか、何時やるかと。あいつだって、光を脱がせられない。薬を打って、意識を奪わなきゃやれない。そんな、事‥させられない‥」
「それって、犯罪よ」
部屋の明かりを付けに立ち上がった萌が、ポツリと呟きを漏らした。その時、彼女の後で静かに扉が開いた。
慎吾だった。彼はそのまま静かに室内を見回しその場の雰囲気を探ると、健次郎を一瞥しまなみの横に座った。
「あいつ、十八までに初体験する、と言っていただろう。覚えているか、去年の夏休み前のホームルーム」
覚えていると、健次郎は頷いた。生徒と教師とは思えない会話を皆は楽しんでいたが、蛇に睨まれた蛙だった。
「その相手が出来たと宣言した。お前だよ。健次郎」
健次郎の顔が、弾けた。
「俺と…。光は、俺を知らないはずだ。話したことも、顔を合したこともない。保健室にいるか寝てるから、後の席にいる俺なんか気づきっこ無い」
「お前、本当に鈍感なやつだな。誰も両腕を広げて寝ている光の横をすり抜けて前へ出るやつなんかいない。初日に釘を指しておいたはずだ。それを、何度も光の手に触れ押し退けて行った」
健次郎は、苦笑いで答えた。それで席替えの時、後隅の左右の二列を行ったり来たりしていたのだ。光の横をすり抜けないために‥。
「ま、それが良かったんだか。光は、お前の匂いが気に入った。木の香りがすると、天然香水。ムスクて、言うのか」
俺の趣味じゃない。俊だ。彼が毎日、制服の用意をして香りをつける。彼も同じ物を使っていた。香りは違うが―。光が初めて俊に合った時、俊と健次郎が同じと言った。光の言葉はムスクの事を言ったのか。その意味は分からない
「光が十八までに初体験すると、誓言した意味が分かるか」
大輔が問うた。
そんな事、俺に聞くな―鈍感だと言われたばかりだと、健次郎の脳裏は叫ぶ。
「斉藤健次郎。お前に出会ったからだ」

「俺が悪いのか‥」
「いや。光は‥お前に会えて、生きる事を始めた」
生きる事?わけがわからないという顔を健次郎はした。光がゾンビだったとでも?
「光は普通の子供達のように夢や憧れを持つこともなく、単に息をしているに過ぎない。それがある時、自分に感覚があると気づいた‥。感覚があると。触覚と聴覚、それに嗅覚。生きている感覚。生きている意味。生まれてきた意味を考え始めた」
待合室の殺風景な空間に緩やかに流れた言葉に、それぞれがはっと息を飲んだ。
 生まれてきた――意味。何故、産まれて来たのか。その言葉を一番強く受け取ったのは慎吾だ。慎吾の瞳は健次郎を見た。同じように健次郎を見た大輔は言葉を続けた。
「生まれ初めて、他人を意識した‥」
それが健次郎だ。まなみの瞳が揺れた。何かを感じたようにまなみは両手を固く握りしめた。慎吾は細いため息を吐き、瞳を落とした。
長く感じられた短い時間があった。それを割ったのは俊だ。彼は、ぼんやりと言った。
「王子様かな‥。肌を寄せる確かな相手に出会った」
「ヘェ―、どして分かった。光ちゃんの心理」
 その言葉に驚きの表情を見せた俊に、お構いなしで萌は言葉を続けた。
「肌を寄せる‥か。裸を見られても良い相手を意識したか。‥赤裸の心を晒せる相手なぞそう簡単には見付けられない。こういうケースでは特に‥だ。ま、人は稀にそれを一瞬で感じる時があるが、傷ついた心が簡単に和することなど出来ない。恐怖との葛藤‥叫びが消えるまで‥」
萌の言葉はやはり、沈黙を呼ぶ。誰も言葉を発せない。その中で一人正道が席を立った。
「あの子は服という鎧を纏うことで心が安定する。恐怖を抱えた者が普通人を装う手段は、色々あるが光のように安息を得るために服を着こむ。無意識に自身を傷つける。食べ物を拒否する。大抵は何かきっかけが無いと表面に現れない。たまに匂いに包まれる者や逃避‥」
その時、何かが床に落ち確かな音が床に響いた。それはまなみの手から落ちたと分かった。胸の前で組んだ手が確かな震えを見せていた。小さな黒い塊が慎吾の手を経てまなみに戻った。それは香油だった。ガラス瓶に入った透明な液体がまなみの鼻先を隠した。
「何かに包まれていなければ心が壊れてしまう。人と同じであろうとすると恐怖が襲う」
疲れを見せたまなみがそう言った。
「誰でも恐怖心を抱えている‥誰もが恐れを知る。それが突然、叫び出したら異常だ」
叫んではいないだろうと萌はまなみに言った。頷いたまなみは深く息を吐いた。

自分の生き方が持っていながら、大人に反抗し大人にはなりたくない頑なな心と、大人の遊びは知り尽くしている中途半端な男。それが、自身だと健次郎自覚していた。それでも前へ進める。進む第一の目標は、高校を卒業する。そして大学へ進み、父親の言う通りに社会に出る。それから、まなみが願う普通の家庭を築く。
普通の暮らし。健次郎は深く考えた。そして、目の前に居る慎吾を見た。一番のライバルは異母兄、慎吾だ。斉藤慎吾。普通の家庭を築き、凄腕の弁護士として事務所を構え社会的地位も確立している彼。しかし、慎吾は何故弁護士になったのだろう。天性があったからだろうかと、健次郎はふと思った。そして京介が何故それを許したのだろうと思った。
健次郎の視線を避け大輔を見た慎吾は、間を割るように早口で言った。
「家庭裁判所が認めた正式なものです」
その言葉は予期したものだろう誰も表情を変えず動かなかった。
「取り消しの訴えを起こす。そのためには本人が必要です。居場所は‥?」
「奴が連れて行った。八田‥。奴は高校卒供したら直ぐにでも面倒見る気でいる。大学四年間‥卒業するまでと言ってはいるが‥手に入れたものを手放すかどうか‥」
 低く落ち込んだ声音が、健次郎の脳裏を弾かせた。
――むしる――
 鮮明な言葉。健次郎がむしる。保健室で正道と光は、その言葉を繰り返した。
――むしる。何をむしる――と健次郎は正道を振り返った。そこに彼は居なかった。正面のドアの閉まる音がした。そのはめ込み窓に揺らいだ影。
正道――、弾け飛んだ健次郎は後を追った。
ここは三階。エレベーターの前には姿が無かった。階段へまわった。二階へ続く踊り場にいた。立っていた。
振り向かない身体は健次郎が横に並ぶのを待っていたかのように言った。
「僕は光の望みを叶える」
 唐突の言葉に健次郎は驚かなかった。光を知るまで正道を知らなかった健次郎は、唐突が正道の印象になっていた。彼の存在が薄い訳では無い。一年次も今季もクラス役員を熟し皆の指揮を執っていた。だが大半は隣の教室か移動教室にいた。その訳を健次郎は知らなかった。教室の隅で窓から外を眺めていた彼が教室の中へと眼を向けて学校全体を見回していく。
 生きていく意味を学ぶ。人と混ざる事を学ぶのだ。その架け橋となる相手が口を開いた。
「夢も希望を持たなかった奴が、ささやかな希望を持った」
二階へ続く重い扉を見詰めていた正道はノブを回しながらそう言った。そして中へと吸い込まれた。健次郎も続いた。
「希望を叶える。そのためには健次郎、お前を利用する」
誰もいない二階フロアを抜け中央階段へ向かう二人。夕暮れ時の病院内には職員らしき人の姿がまばらに往来しているだけだ。ぶっきらぼうな言葉を、健次郎は黙って聞き入った。
「お前の運転手も協力的だ。光を見つけ出したら、必ず二人きりにする。必ずチャンスを作るから上手くやってくれ‥。お前、経験者だから‥」
エッと、健次郎は叫んだ。それは、階段手すりを掴んだまま動かなくなった。その姿に気づいた正道は階段を引き返し健次郎の耳元で言った。
「そのつもりで、ホテルに行ったんだろう」
確かな動揺が慌てて言葉を放った。
「違う。あれは、あれは唯、光を喜ばそうと‥いや、分からない。何故、あの日‥まなみにあった。そこに‥‥」
「それでも、やってもらう。光はお前とやりたがっている」
「やる‥。何をだ」
「光がやりたがっていること」
そう言った正道は階段を駆け下りた。彼を追いかける健次郎の脳裏はまた一つの言葉が蘇った。
「待てよ。正‥。むしるってことか。むしるって何だ」
健次郎の叫び声に、正道は立ち止まった。また二人は並んだ。前を見据えたままの正道は強く言った。
「天使の羽をむしる。それが出来るのは健次郎、お前だけだ」
――お前に出会ったからだ――大輔が健次郎の脳裏で声を放った。
「何故、俺だ。お前がやれば良い」
 そう言い切った健次郎を眼を見開いた怒りを表した顔が見据えて叫んだ。
「出来ない。そんな恐ろしいこと、‥僕には出来ない‥」
 刹那に悲しみを呈した正道が顔を背け、待合椅子に崩れ落ちると震える肩を抱いた。そして細い声で言った。
「僕は弱虫だ。光を犯す何て出来ない。怖い。‥自然な、本能かも知れないが、それでも怖い。‥本当は、至極当然に簡単なことかもしれないが、僕には‥出来ない」
正道の脳裏に焼き付いているのは幼い時の光だ。天使のような光の笑顔だ。
一緒に遊んで。一緒に寝て。一緒に笑って。好きだった。大好きだった。
あの頃のまま。―――ずっとずっと、天使のままで。
「小さい時から、光が好きだった。今も、好きだ。この気持ちを愛と言っても良いんだろうか‥。僕が子供で、これが憧れだけなのかも知れない。それでも光は僕にとって、天使だ。いつも輝いている天使だ。その光を毟ってみるなんて出来ない。‥本当に僕は弱虫だ‥。弱虫だと蔑まれる方が良い‥」
診療時間の終わった薄暗い外来待合席に何かを待つように座る人の影があった。その中に健次郎も混じった。

 誰かが横に座ったと感じたが顔を上げられなかった。
「帰ろう。健次郎」
 慎吾の声だ、顔を上げた健次郎は穏やかな顔に驚いた。何時も軽蔑した眼差しと眉間にしわ寄せ怫然とした顔が、今は何故か笑みを浮かべて見詰めていた。
「まなみさんは君の運転手が送っていった」
「俊が‥‥。怒らないのか。兄貴」
「怒る‥そうだな。不貞に対し怒り狂う。もうそう言う年で無くなった。いや、もともとそう言う質は無いよ。その怒り狂う気質があったなら、あの中学校時代に父やお前の様に闘争していた」
 健次郎は穏やかにしゃべる慎吾と目があった。何時もなら先に眼をそらす慎吾が友人を見るように見ていた。
「中二の夏休みに入ったばかりの日曜の朝だった。知らない男を連れた、お祖母様がやって来た。おそらくその男は探偵だったんだろう。この日は、父とゴルフに行く約束だった。それがお祖母様と父の口論で中止になった。父は約束を守る人だ。それが顔色を変えると声を張り上げた。今もあの日の事ははっきり覚えている。蔑む眼が、お祖母様のあの眼が、何時もより強く私を睨み付け父を連れて行った。あの日から私の中の何かが変わった。変わらなければならなかった」
言葉を切った慎吾は、拳を噛んだ。横に座る健次郎は頷いた。自分の事だと感じた。健次郎の出生を琴乃が知った。それが斉藤家を揺るがした。
「父は知らなかった。お前が出来たこと、お前を生んだ人が薄汚い明かりも差さないアパートの一室で赤子を抱いて狂気に苛まれていた事を。ボロボロのまなみさんと死にかけた赤ん坊を救い出し斎藤家の籍に入れたのはお祖母様の琴乃さんだ。お祖母様は感が良い。父が受付嬢の行方を捜さえたと知ると執念深く後を追った。当たりだ。母の感か。血筋に対する執念か。何方にしろ。お前を見つけ出した」
健次郎は彼の出生を聞くにはこれが初めてだった。母と父の接点を知らない。聞けなかった。
「まなみは愛人だったのに親父は、知らなかったのか。俺の事‥」
「愛人じゃない。付き合っても無かった。“交通事故”か。本当にそうだ。父が受付嬢の立つロビーを通る事は無い。それがホントの偶然でそうなった。受付に届いた書類。責任逃れの誰かが置いた書類。その日の会議に必要な書類が無かった。まなみさんが悪い訳では無かったがそうなった。急遽設けられた接待の席に失態を押し付けられて呼びつけられた‥それだけが二人の接点だ。その後ひと月後にまなみさんは会社を辞めて行方不明‥」
事実だと慎吾は言うと夜の景色が明かりを灯す玄関をぼんやりと見詰めた。慎吾も最近まで知らない真実だった。琴乃が数十年使う探偵社から買ったまなみの情報。そこには学童期から故郷を後にするまでの驚愕の事実もあった。その事実を健次郎も知らねばならない時が来ると慎吾の心は沈み込んだ。
「酒の上の遊びで俺が出来た‥俺は偶然の産物か」
「遊び‥違うと思う。まなみさんは‥男が苦手だ。付き合った人なんかいない‥」
「俊がいる。一緒に暮らして親父を出し抜いて毎晩、やってる」
「父はそれを認めている。知っていて妻として扱っている」
「なんでだ。不貞だ。そんな事許されない」
「まなみさんの過去を、知ることだ。父が求婚したことがまなみさんを精神のバランスを崩した‥。私にはこれ以上は語れない‥まなみさんに‥、運転手の城島俊君に聞くことだ」
俊――何故、彼にと健次郎は慎吾を見据えた。これ以上を語れない慎吾は、立ち上がり帰ろうと言った。
「まなみが、嫌いじゃ無かったのか」
 怒気を含む健次郎の声が慎吾の背後を掴んだ。もう一度座り直した慎吾が健次郎の顔を見ずに言った。
「父は書斎に篭った。休日の早朝に一時間。何をしているのか気になった。アルバムだ。アルバムをゆっくりと捲っていた。そこに写っているのは母子。仲睦ましい母子。お祖母様が盗み撮りさせた日常が写す写真は子を気遣う母の姿だ。公園、遊園地、動物園、手作り弁当‥。羨む事はあっても、母親を憎むなんて出来ない」
「でも、兄貴。兄貴は‥今までまなみに」
「兄貴‥か。兄貴であれば、こんなに苦しむ事は無かったのに‥」
 そう、たとえ半分だけだとしても、繋がっていたならば。本当に兄弟であったならば。自分は。
「苦しむ‥何が‥」
「まなみさんはお前が小学校に入学するまで、お前が斉藤健次郎だと知らなかった」
 ハァ?と、健次郎は声を漏れした。口元を弛め真剣な顔の慎吾を見詰めた。
「健(たけし)。まなみさんがお前に付けた名は、城島健」
「エッ‥‥き‥じま」
「まなみさんは、城島まなみ」

***********

――お祖母様にとってお前は特別だ――
 脳裏が同じ言葉を繰り返した。特別――の意味は何だと心が焦燥する。
 慎吾の言葉が響く。お前は琴乃に溺愛されているのだと。
溺愛。何故だ?
中二まで親族の存在など知らなかった健次郎の脳裏が藻掻く。父京介の後で控え目に笑う琴乃の姿が揺らぐ。まなみ、京介、琴乃。三人の姿が顔面を覆う。怪物の様に襲う三人の顔が目前から離れない。それから逃れる様に顔を両手で覆った健次郎は、五年前の怒り狂った頃の思いを弄り心底から呼び戻そうとした。しかし、そこには怯えた少年の顔があった。薬を握った放心状態の顔、悲しく笑う顔、好きだと呟き夢見るような顔。
光――。胸の中で何かが幾つも弾ける。これが愛しさなのだろうか。健次郎は項垂れたまま動けなかった。その肩を抱き促して歩くのは慎吾だ。二人は暗いフロアを光に向かって歩いた。
 頭の中が整理出来ずにいた。誰かに問いたかった。俊。登校中に何度ルームミラーを睨み続けたか聞けない。俊は気づいていたのだろうが何も言わず高校の駐車場まで送り届けた。そして去った。
 何時もの日常生活が始まっても、自分を取り戻せずにいた。
おはようと語りかける者達に、返す言葉も浮かばなかった。
今日は八月十九日、月曜日。また夏期校舎が開放になった。去年の夏休み期間一度も登校しなかった健次郎だが今年はクラスメートの呼びかけに従っていた。
大半の者が顔を揃えていたが、光の世話を焼く佐野陽子の顔が無かった。中央席に要はいた。その横に何故か巨体の神谷千紗がいた。二人の語り合う姿がいやに眩しく見えた。
教室全体が輝いている。グループ分けされたようにかたまって座るクラスメート達の姿に眩しさを感じる健次郎は眼を逸らした。溶け込めない自分を感じて。
瞳は自然と正道の指定席を見た。彼はいない。智雅の姿も無い。
 日除けのスクリーンが掛かる窓から外は見渡せない。ぼんやりと机を抱く健次郎は、教室内のざわめきに腕時計を見た。ホームルームの時間が過ぎていると、気づいた。何故だと呟くと前席の琢磨が振り返った。
「健次郎。今日からしばらく、ホームルームは無いぜ。俺、来週まで午後は部活だ。午前はフリーだから移動教室へ行くが、お前どうする」
 今年で三回目の夏季講習を受ける琢磨は、下級生の世話係を買っていた。そこへ行く琢磨は、健次郎を誘っていた。
「健次郎は音楽と美術、どっちの部屋が良い」
「どっちもイヤだ」
 今日から二週間は教諭の講義は無い。エアコン設備のある移動教室か各自教室で自習になる。それを知らない健次郎は、はねのける様に強く言った。
「エッ。違う。授業じゃ無いよ。移動教室の音楽室と美術室を使わせてもらっているだけだ。二組の子達との交流を兼ねて‥」
光の一件を知る琢磨は健次郎を一人に出来ないと、行こうと促す。何かをしなければ心の整理がつかない、そう思った健次郎は言葉に従った。
向かう先は教室前の廊下を真っ直ぐ行った東校舎だった。同じ二階の南館音楽室だ。
健次郎達の教室がある南棟は中央階段を隔て、西と東に分かれていた。H型をした三階建て校舎は各階、中央に通路があり階段が上下を繋いでいた。住宅街の中、正面校門から三階建ての長い校舎が見える。正面玄関から更に奥に長い通路が伸びる、そこが二つの校舎を繋ぐ中央通路、中央階段だ。手前の校舎が南棟、奥が北棟。棟は中央階段をはさみ東と西へ分かれるため東校舎、西校舎と呼ぶ。南棟東校舎一階は中央階段前の角が職員室。その隣が校長室、応接室、警備室を経て保健室と並ぶ。保健室横に校舎階段とエレベターフロア、奥に給食室となっていた。ちなみに給食室の真上が食堂だ。
健次郎等二年生は南棟西校舎二階が定位置だ。一組と二組の窓の下に外来駐車場があり、五クラスが並ぶ校舎の奥にグランドがある。
健次郎と並ぶ琢磨は東校舎へと歩きながら、教室では見せない真面目な顔で言う。
「二年次と一年次は、三組から五組までは普通人が通う普通クラスで、一組と二組は特別クラスだ」
特別――。言葉が胸に刺さった健次郎は、眉間にしわ寄せた。足早の歩行が乱れ止まった。渡り廊下から百メートル足らずの三つ目の教室に差し掛かったところだった。陽だまりの廊下は風もなく蒸し暑い。額の汗を手で拭く健次郎の胸に、ごく普通に暮らしていければそれで良いのと言うまなみの言葉が蘇った。普通に生きるとはどういう事だと今更ながら誰かに問い質したくなった。だが、目の前で言葉を放つ琢磨には聞けなかった。
「二組はパーソナリティ障害を抱えた子が集まっている。正道はエライよ。一年の時から彼等の面倒を常に見ているし、将来の目標もきちんと持ってる。小学校の時から、医者になると決めていたんだって。信じられないよな。俺達より年下のくせして、もうしっかり目標を持って生きるって‥」
目標――言葉がまた、健次郎を襲った。高校へ入学した時の目標は、慎吾だった。遠い存在のはずの慎吾だったが今は違う。後姿に声を掛ければ振り返ってくれる、手を伸ばせば人肌を感じられる。そんな身近くにいる感覚に変わっていた。
ズボンのポケットにはマナーモードの携帯が入っていた。その電話帳に昨夜新しい名前が加わった。
斎藤慎吾、異母兄――。
「正道は医者になりたいのか‥」
歩き出した健次郎は呟く様に言った。
「智雅もだぜ。二人この学校には似合わない秀才だ。俺、今思えばお前に殴られて良かったよ」
「ヘッ!?殴る?」
 健次郎の足がまた止まった。その顔付きは驚きそのものだ。一瞬、琢磨も驚きを表したが直ぐ真顔になると憶えてないのかと、呟いた。
「お前は、な。中学の時、殴り込みに来ただろ。一人で‥俺のダチを追い掛けて‥、忘れたのか。俺の事‥そうだろうな。俺は忘れられない。お前のお陰で、志望校を受けられなかった。一年棒に振った‥」
 琢磨ははっきりと強く、そう言った。廊下を行く人が間合いを取って向かいあう二人を気にすることなく通り過ぎて行った。
健次郎は覚えていないと、首を振った。その顔から目を逸らし開け放たれた窓から身を乗り出した琢磨は、隣校舎を見上げながら言った。
「東聖和中の一匹狼・斎藤健次郎。俺は南聖和中。柔道部に入ってたから喧嘩ご法度。分かっていたが、隣中から殴りこみと聞いちゃ、黙ちゃいられない。やっちまってた。お前の顔面直撃、だがお前は倒れなかった。すげえ気迫で迫ってきた。気迫負けってやつだな。こてんぱんにやられた」
大きく息を吸った琢磨が振り返った。その顔には負けたとは思えない笑みがある。
「その後、俺は謹慎処分だ。一週間の‥。素直に受け取れるか。そんなの‥。殴りこんできたのは、向うだ。お前だよ。健次郎。不公平だ」
琢磨は怒鳴る。
「教師を殴った。処分が伸びた。一ヶ月‥。それから、おおいに青春を満喫して、この学校に来た」
「琢磨‥お前は俺の事‥」
「恨んでないぜ。今はな。良かったと思ってる。お前の気迫に負けた。‥お前の眼、凄かった。背中が寒くなるぐらい凄みがあった。今、あの時のお前を前にしていたらどうするだろう。戦うか、逃げる。いや、謝るかもしれないな‥‥」
「なんでだ。お前は何時も前を向いているやつなのに」
「光、あの子に出会えたからかな。正道も‥。一番はおたつみだ。入学式のあの日お前に気づいた。頭が爆発した。斎藤健次郎、お前を殴り殺すってな。怒り狂ってた俺を止めたのがおたつみだ。おたつみ、生徒の履歴覚えていたから読んでいたんだ俺の動き。去年はだいぶ課題を押し付けられた。遅刻欠席は、ご法度。部活は掃除ばかり。お前は知らないだろうが、去年のホームルームは音読の時間だった。入試面接で誓約させられていたこととお前に一発お見舞いしなければ腹の虫が収まらないと耐えた。だが、途中から気が変わった。光がいたから、それでも、しんどい一年だった」
唖然と話を聞く健次郎をよそに歩き始めた琢磨は、止むことなく言葉を放っていく。
「お前が光を受け入れてくれたことが一番嬉しかった。ゲームのつもりは無い。皆、真剣に光を思っている。卒業するまでに、光は変わる。必ず、健次郎が変えると信じている。一度や二度の失敗気にするな。俺も初めての時は失敗した。お前は経験豊富だから心配ないか」
音楽室の扉の前で立ち止まった琢磨は、満天の笑みを浮かべ大きな身体を揺すって笑い声上げた。
扉の前、そこにも笑い声があった。
「俺、この学校で大切な事を学んだ。決めるのは、自分だってことだ。自分で決断して前に進む。だから、健次郎、お前とのトラブルで一年、いや二年足踏みしたがそれは自分がしたことだから、お前を恨んだりしない。正道や智雅の様に目標を持って生きる」
 もう目標に向かっていると言う顔が、健次郎の背中を叩いた。

「教師になる。おたつみのような」
 琢磨は目標を持った。人より遅れた二年を取り戻すと屈託の無い笑顔を見せた。それに比べ健次郎は迷い悩み狼狽えるしか無い。目標を見失っていた。音楽室に屯する子供達は普通の子達だった。そう見えた。ただ、ボラムに合わせ、ボンゴを叩き、飛び跳ね、床に寝そべり自由時間を満喫したい子供の集まり。
 午前の三時間をその場所で過ごし、給食を食べに食堂へ移動した。あっという間に食事を済ませた子はまた音楽室に帰った。その中で食事をゆっくり丁寧に食べる子が何人かいた。正道と智雅もその中に混じていった。
 突然智雅の前に座る子が泣き出した。大きく甲高い声が食堂に響き渡った。食堂に居るのは遅れてきた健次郎と琢磨、そして泣き出した子を囲むテーブル席。誰もその子をなだめなかった。十分ほど泣いた子がピタリと泣き止むとまた食事を始めた。健次郎に取ってそれは、不思議な事だった。翌日もまた同じ事が起こった。人が少ないテーブル席、昨日の子がまた泣き出した。今度はなかなか泣き止まなかった。テーブル席の皆の食事が終わってもその子は泣き止まなかった。健次郎はじっと正道を見ていた。正道も健次郎を見ていた。食堂カウンター横の一番奥のテーブル席の正道と出口横のテーブル席の健次郎と琢磨。琢磨も何も言わずに見ていた。
 立ち上がろうとした健次郎を琢磨が止めた。
甲高い鳴き声が止まった。正道が健次郎の前に座ると口を開いた。
「面白い現象だろう。今のは十二分。昨日は三分。その前は三十分強だった。怒り出すのも同じ間隔切れる。彼等の習性かな。泣くのも怒るのも時の間だ。何故と問うてはいけない。彼等自身にも、それが何故なのか分からない。彼等はそれをさせられていると考えなければ、薬ではなく、触れ合えるようになれば何時かは話しかけてもらえる‥‥」
「光と同じ病気を抱えている子達だ」
と、琢磨が言った。
「病気。光は病気‥だったのか」
「殻に閉じこもり、人に触れられる事を嫌がる。感情を持たない‥人の考えている事が分からない」
「唯の変人かと思ってた」
「お前と同じ変人だと‥」
頷く健次郎に苦笑いする正道に光のために泣声を上げた姿は無かった。何時もの冷静沈着の正道がいた。その正道が健次郎に囁くように言った。
「光を強制退院させたのは後見人だけの仕業じゃ無いらしい。凄腕の弁護士が付いていると聞いた。後に誰かが、協力的な人物がいるらしいと‥‥」
協力的な人物――。健次郎は、ぎくりとした。琴乃の顔が脳裏を過った。それを現実化にするように翌日夕方慎吾からの携帯があった。
「大西光さんの居場所が分かった」
それは連鎖現象の様に携帯を鳴らした。光ちゃんがいた――。光さんが見つかった――。光は無事だ――。光は――。萌、俊、正道、まなみ。
「今夜取り戻しに行く」
大輔の意を決した太い声。慌ただしくなった。人が一箇所に集まり顔を寄せた。その中に慎吾がいた。慎吾は神妙な顔を健次郎に向けて言った。
――斉藤健次郎、お前の後には斉藤琴乃がいる――
お祖母様――、健次郎は喉を鳴らした。腕を捕まれ慎吾の車に押し込まれた。温厚な顔付きの運転手が挨拶をする暗い車内。その暗闇に似合う暗い顔が言葉をゆっくりと放って言った。
「お祖母様はワンマンだ。だが、感が鋭く先見の明がある。斉藤グループがここまで大きな組織にのし上がったのもお祖母様の知恵だ。だから、一族は誰も逆らわない。それに自分の孫に華やかな道を歩かせたいと願うお祖母様の一存で、事が内緒で勧められた。お前がまだ二歳になってなかったから、斉藤京介の次男として入籍できた」
「入籍‥、俺の」
「まなみさんは君を生んだ後、体調が悪く精神も病んでいた。療養が必要だった。入院中に、こっそり行われた事をまなみさんは知らずに過ごした。退院後も静養していたまなみさんから君を取り上げ無かったのは私の母が、親業が出来ない女だったからだろう。それでよかった。まなみさんと暮らすほうが君は幸せだ‥。仕事の斡旋もお祖母様が影で行った。住む所も」
「気付かなかったのか。まなみは‥」
「お祖母様は表には出ない。何時も代理人がやってのける。弁護士、探偵、部下、使用人‥。自分の血を引く者を守るためなら何でもするだろう。君がやらかした喧嘩、交通事故の後始末も皆、お祖母様が片付けた‥。フッ、知らなかっただろう。だが、知らなければならない大事なことだ」
 闇が覆う町並みに昼の様相は無い。彩る明かりがなければ真実は見えないとヘッドライトが眩しい。
「健次郎、君と光さんが恋愛感情を持つ事を斎藤グルーフは阻止する。お祖母様は君と光さんが性関係を持つことを絶対に反対する。遊びであっても許さないだろう。君の後には斎藤グルーブがある。スキャンダラスな行為はご法度だ」
「俺は今までさんざん好き勝手してきた。それが今更、何故だ」
「君は、未成年。だが、来年は成人。責任を問われる年になる。大人としての自覚と行動。大学生になれば、グループトップの仲間入り。これからは、厳しく眼が君を批判する様になる」
「皆、少しずつ大人になっていく‥俺はいつまでも子供だ。何をして良いか分からない‥正道たちのように‥親父のように生きられない。親父は俺の事、呆れているだろうな。ホテルの件、何もいてこない。軽蔑しているかな」
 沈み込んだ健次郎の肩震えが慎吾の肩に伝わった。健次郎の横顔は慎吾が幼い頃見上げた京介そのものだ
「私は‥‥父が好きだった。母親に満たされない愛情を父親に求めたのかもしれないが、父は私には優しかった。今も、変わらず優しい人だ。君も父に似て良い父親になってもらいたい。私もそう有りたいと思うから、光さんとの事は諦めてほしいと思った。だが、光さんの気持ちを思うと‥辛い。なんとか叶えて上げたいと思う。だが、父の跡継ぎである君がこれ以上深入りすることを避けたい」
「跡継ぎ‥兄貴がいるのに」
「君に兄貴と言われるのは辛い‥。私は弁護士の道を選んだ。この道で生きていく」
 十四才年上の慎吾。二児の父親、奥さんとは三度あった。ごく普通の人のイメージだった。学生時代に恋愛して健次郎と合う前に結婚していた。その人の影響が今の慎吾を作っているのだろうかと健次郎は慎吾を見た。慎吾の顔付きが険しさを見せていた。何かを告げる、その雰囲気が声を放った。
「斎藤グルーブの後には斎藤琴乃が居る。君を溺愛するお祖母様が‥」
「何故、琴乃さんが俺の事を支配したがる。唯が、愛人の子だ。愛人の子が表立つ方が変だ」
「愛人じゃない。五年前に入籍されている。君を餌に‥」
「俺が‥まなみを。‥交通事故‥あの日、まなみは泣いた‥」
「斎藤琴乃が大切なのは血だ。城島家は九州では名の知れた旧家だ。斎藤家と申し分ない縁と思っている。体面以上に血。たった一人の孫を手放しはしない」
「エッ、何?」
「唯一人の孫が、斎藤健次郎だ」
「一人の孫?‥俺が?」
「私達は、兄弟じゃない」

******

慎吾は笑った。腹の底から笑った。これほど楽しく笑えたのは初めてだった。こんな考え方があったのかと思った。兄弟じゃないと言った慎吾の言葉に健次郎は素直にそうかと言った。
「母親が違うからだろう」
「そうじゃない‥そんな単純なことじゃない」
細く沈み込んだ声音にしばらくの間を考えこんだ健次郎は言った、
「そうだな。俺達、一緒に暮らしていないし取っ組み合いの喧嘩もしたこと無い。泣き顔を見たこと無いし見せたこともない。食べ物の横取りもしたことの無い。兄弟ってそういうことするんだろ。俺、兄貴の怒った顔と笑った顔以外見たことない」
その言葉で慎吾の顔は強張った。たった今まで思い悩む心を周囲に気づかれないように隠し続けてやっと言葉にした。生まれた事を罪と感じて必死にもがいていた。それが叫びを上げたはずだった。だが、目前にいる男は何処吹く風と的を外した言葉を返していた。
「君と私は、血の繋がった兄弟では無いと言っているんだよ。健次郎」
 名を呼ばれて振り返った瞳に不満を表した慎吾の渋面が映る。その顔が二人の間には溝があると言っていた。
「兄弟じゃない‥?俺、‥おやじの子じゃないのか?」
「違う!お前が正当で、‥私が‥、私の父親は‥別の人だ」
その言葉で初めて慎吾の心の中を見た健次郎は言葉を失った。
「私は不義の子だ。母の罪を、背負って生まれた子だ」
慎吾の震える声がそう言った。車内の暗さに溶け込む表情が両手で顔を隠しながら言葉を放った。
「君が羨ましかった‥。まなみさんを母に持つ君が‥。私は母親に抱かれた記憶はない。語り合った記憶もない。母は何故私を産んだのだろう。罪だと分かっていながら‥」
 言葉が車内の闇に消えた。不義――、その言葉が長年の苦悩だった慎吾を伺わせた。誰にも、告白出来ない。誰にも、悟られたくも無いと。
夢であれば、間違いであれば良いと慎吾は何度も思い描いた。だが、事実は違う。真実は。息を飲んだ慎吾は呼気と共に言葉を放った。
「小学校三年の時だった。何げない先生の言葉が頭から消えなかった。O型とA型からB型は生まれない――、お祖母様の冷たい視線の意味を感じた。父の手の暖かさが悲しかった‥」
慎吾から眼を反らした視線が、空を泳ぎ膝に組んだ両手を見詰めた。
車内に細く絞ったラジオの音があった。やっとその音を取り戻した健次郎は、二人がここに寄り添い並ぶ意味を考えた。健次郎が父親の存在を知った日から誰に反抗すれば良いのか分からず荒れ狂った。それと同じように冷静で卒にない慎吾が想い悩み苦渋の日々を送っていた。
「血がいるのか。兄弟って‥」
「親兄弟はもちろん、血縁で一族がつながっている。大事な事だ。私は斉藤一族には含まれない人間だ」
「おやじもそう思っているのか。兄貴より一族が大事だと‥兄貴を嫌っているのか?兄貴も親父の事、嫌っているのか?だから親父と違う道を選んだ‥。違う。兄貴は親父を尊敬している。俺を罵りながら、家族の集まりにはどんなに忙しくとも顔を出した。新年には家族を連れて、俺にも紹介した。父親の顔で‥俺は、親父を知らない。ある日突然、俺の前に男が現れ親父だと言った。その親父が、俺には母親の違う兄貴いると言った。突然に父親と異母兄が現れた。兄弟って、血の繋がりなのか」
「父親か、母親かの血がつながって‥‥」
「血の繋がりが兄弟を繋ぐ。それじゃ、養子になった子は兄弟とは言わないのか。養子に行った兄弟はもう兄弟じゃなくなるのか。親が認めて周りが認めなければ駄目なのか」
 健次郎は真剣にそう思いそう言ったのだ。今まで自分の意見をはっきり人にぶつけた事は無かった。ぶつける相手も無かったが今その相手が目の前にいるのだ。
「健次郎。私は、君と同じ父親を持たなかった。だから、‥」
「俺達、兄弟だよ。親父がそう言った。俺達は二人きりの兄弟だって‥だけど、親父が言ったから俺達兄弟になったわけじゃ無い。お互いの母親がいたから出会えた奇跡だ。俺は出会えた事が嬉しい」
 慎吾は何時もの渋面で睨んでいた。それでも健次郎はにこやかな笑みを返して言った。
「おかしいかな。兄弟って、どんなものか分からない。感情をぶつける事の出来る相手かなと思う時があった。だから兄貴は馬鹿な俺のこと怒って罵れるって思った。俺がまた馬鹿なことやらかさないように叱るって‥。俺初めて兄貴にあった頃、薬に溺れていた。連れのダチ等はやばいヤク中だった。精神病棟、そこですごい光景を見た。忘れられない‥光景‥」
健次郎の言葉が途切れた。彼は苦い過去を見ていた。その過去に光の、薬に溺れて顔が重なった。強く拳を握った。そして、人は立ち直れると思った。立ち直るために必要なのは――。
「俺、あの頃変だったから兄貴の叱るでかい声が奇妙に受け取れた。穏やかな親父より兄貴の怒る姿の方に惹かれた。‥俺、心が寂しかったから親父と兄貴が出来た事、嫌じゃなかった。それでも俺の生活、変わらない。まなみと二人の日常は、朝起きて寝るまで変わらない。でも兄貴がいると知った時から、兄貴の存在が変わらずに心の中にいた」
誰かの存在が心に居るということは、切ない思いを消し去ってくれると気づいた健次郎は更に言った。
「この感情は、血が作るんじゃなくて心が作るんだと思う。兄弟は友達とは違う。親友よりもっと感情を見せられるものだと思う。兄貴は俺に思っている全てを隠さず見せた。怒りと悲しみと‥、だから俺、兄貴と親友以上になりたい」
それをその言葉を、斉藤琴乃に聞かせてやりたいと慎吾は思った。親子兄弟の絆、長年胸に刺さっていた刺が抜け落ちていた。血の濃さだけに囚われた執念の愚かさと常人をかけ離れた考えに笑う慎吾。その姿をきょとんと見る健次郎は、笑いの元を作ったのは自分だと分かっていたが、何故笑われるのかが分からなかった。 
「そうだな。その通りだ。私達は斉藤京介を経て知り合った同志だ。一人っ子で育った私達は兄弟がどんなものか知らない。大人になった私達が兄弟ごっこをしても仕方ないか。父親も母親も抜きで親友以上の仲になるか」
笑える事を不思議に思いながら慎吾は健次郎を見た。そして尊敬する人の血を持つ健次郎と同じ思いで歩いて行きたいと思った。
高層マンションの前に二台の車は止まった。俊の運転する車と彼等の後ろから後を追っていた慎吾の車だ。彼等はそれぞれのドアから車を下りた。
「俺は自分の心が分からない。光の事を思うと胸の中で何かが弾ける。これが恋なのか、愛なのか分からない。唯、抱き締められたら良いと思う。この手が光に触れていたらそれだけで良いと思う。側にいたい。唯の同情を錯覚しているだけかも知れない。それでも後悔しない。今は光のことだけを考えたい。だから、行くよ。取り戻しに」
 健次郎は穏やかな顔で慎吾にそう言うと大輔の後を追った。
琴乃の怒る顔が脳裏に浮いた慎吾は、何時かは越えねばならない障壁を越える時は今と思った。

********

「私を、助けて欲しいの!」
立ち去ろうとする京介に、まなみは叫んだ。
ここは、健次郎のマンション。そのリビングのL型ソファーを囲む健次郎達は、悪夢のような衝撃の色を隠す事は出来なかった。ソファーに寝ているのは八田から取り返した光だ。光の顔色を伺うように頭元に萌が座り、片膝を抱いた健次郎と大介が二人の前にしゃがみ込んでいた。ソファーの両端に慎吾と俊がいた。疲れ果てた彼等は誰かが口を開くのを待っていたが誰もが言葉を無くしていた。
無音の部屋に隣のキッチンからまなみの啜り泣く声が微かに聞こえた。声を殺してむせび掻く音が俊の心をざわめかせた。たまらず彼はまなみを抱き占めていた。萌も泣きたいのを健次郎も叫び出したいのを我慢していた。その元は、皆が見詰める光だ。
光――保健室で見た狂人のような光よりも、もっとおぞましい光が、八田のマンションのクローゼットから出てきた。
二つ折りになった姿形は確かに、光だった。だがその顔貌には、色白の少女の様な穏やかな艶は無かった。白目を向いた上天した眼。土色に化した肌に同化した唇からチョコレート色の吐物が濡らす顎。血にまみれた爪。両の手足を固く縛る紐。その手が空を掴むように指を折り曲げ、胸の上で固まっていた。見開いたままの瞳が狂気を現す輝きを放っていた。
着せられた白いネグリジェの下に何時もの黒いズボンが覗く。捲れ上がったその片足は異常に細く赤く化膿したように腫れ上がった無数の掻き傷があった。その傷は黒い痂皮が覆っていた。
狭い空間から取り出されたその身体が突然、奥底から狂気の叫びを上げたのだ。瞠目の見詰める中、狂乱を現すその瞳が、全身を硬直させ声にならない叫びを上げた。激しい抵抗を見せた。
その様子を垣間見たまなみの方も、予期せぬ変貌を見せた。光の叫びに共鳴する裂帛を上げたのだ。その場に立った者達は、崩れ落ちるまなみを見た。だが誰もその身体を抱き留めなかった。その心の余裕が無かった。心を平静に保てなかった。
激しく抵抗する光を押さえつけた慎吾も、光に静注した萌も、八田を取り抑え激しく詰問した大介も、尋常ではいられなかった。
クローゼットの前に崩れ落ちた健次郎は、嗚咽を上げていた。光の身体に縋り付く事も出来ず這いつくばった床で声を上げて泣いた。それゆえ、その場を逃げた八田より先に姿を消した俊に気付かなかった。俊の身を案ずる萌以外、その場を逃げ出した者に気付かなかった。
戦慄くまなみの身体を、一人で立てない身体を支えたのは、萌だ。俊ではない。健次郎の中にホッとする感覚が生まれそれは直ぐに消えた。
目の前には大介に抱かれた眠る光がいた。
大西光。正道が熱愛する相手。そしてこの心が異様な高鳴りを感じる相手。これが愛なのかと爪後が赤く彩る頬に手を置いた。傷ついた身を気遣う心が生んだ同情心だと、心の片隅が問いかける。そうかも知れない。こんな愛は考えられない。愛ではない。愛のはずがない。しかし、否定すればするほど、正道と自分に違いはないと腕を差し出していた――。
やはり、抱きしめると心が安らげた。この心地が愛なのだと。

俊の運転する車に乗り込んだ大輔は、助手席に座った動かないまなみを見た。その尋常ではない顔貌が表す真意が大輔の胸に不可解を生んだ。健次郎を始め、皆同じような衝撃を受けてはずだ。だが、まなみの形相は尋常を遥かに超えていた。母の変貌が後部座席の健次郎には見えない。
震える手で携帯を取り出したまなみは、直ぐにそれを膝に落とした。まなみの携帯を手に取った俊には、彼女が何をしたいのか分かっていた。
携帯を、鳴らした。
相手は直ぐ、出た。
 その相手は京介だった。光を囲む者達を一見した京介は挨拶しただけで帰ろうとした。
この子のための施設を探して欲しいとまなみは言った。しかし、俊の腕の中にいるまなみを見詰めた京介は、踵を返した。その姿に、まなみは叫んでいた。
まなみは京介に駆け寄ると彼に縋ることなくその足元に泣き崩れた。
「この子は、私の過去。助けて、過去から私を救い出して!貴方しかいない‥。私を救えるのは、貴方よ!」
叫びだと、光を前に項垂れていた健次郎は振り返った。そしてゆるりと立ち上がった。リビングに集う者達の視線が動きをなくした京介の吃驚の面を捕らえた。そしてその前に身体を投げ出したまなみを見た。
「私は、白いドレスを夢見てるわ。四十になろうとする女が、白いドレスを着て綺麗な部屋で、愛されたい。おかしいでしょう?でも、心はいつまでも少女なのよ。この子と同じ心を持つ少女なのよ。この子を救うことは、私を救うことよ。それが貴方なのに。私に背を向けて出ていこうとするの。ここに、私の過去があるのに‥。何故、行ってしまうの!」
涙に溢れる顔が叫ぶにも似た声を上げた。まなみの乱れた姿をはじめて見た健次郎は確かな衝撃を受けた。確かな襲撃だ。幼い時から見ていた、まなみと言う女性の姿は無かった。空気の様に隣にいて、姉弟の様に笑いあった、触れ合う事が許された優しい女。まなみという女。それは、母親‥を感じられない母だった。だが、今目の前にいる人は。
健次郎は動悸打つ胸を抑えた。目前で声を上げ感情を見せたまなみの、その存在は何なのだろうと。慎吾を見詰めた健次郎は、衝撃を受けた事実を刹那に思い起こすが、それ以上に激しい衝撃が包んだ。
まなみの真心は、京介にある――。感情を露わにして愛を叫んでいると。それなら何故――、と健次郎の瞳が俊を見た。
立ち尽くす俊、その横に萌が立つ。ソファーに眠る光の横に膝をつく大輔。そして同じソファーの端にいる慎吾。その彼等も、驚きを隠せなかった。慎吾も大輔も、京介でさえ強靭な性質だと思っていたまなみが泣き崩れるとは、想像を絶することだった。ただ、城島俊だけが違う感情でまなみを見ていた。
「夜が怖い。闇の中から腕が、出てくる。息が出来ない。あいつが、私を…」
まなみの恐怖を表した顔が慄然の声を放った。その瞳は部屋の端に立つ者を捕らえ、震える指がそれを指し示した。
空に浮いたまなみの指がゆっくりと弧を描くように滑り止まった。その指が示す方に俊がいた。彼は黙って立っていた。指が示す意図を知るかの様に静かに立っていた。
固唾を飲む雰囲気が、部屋を包んでいた。
やがて指は、膝に落ちた。すると涙にかすれた声が空に流れた。
「男尊女卑の風習が根強く残る町。長男は特別大切にされる‥。八歳年上の兄は、私のあこがれの人だった‥。十歳のあの夏休みまで‥。地下室の闇が隠した恐怖が、毎晩続いた。逃げ出し断ち切った恐怖が闇に紛れて、またやってくる。いいえ、私が汚れているから、闇がやってくる!白いドレスは、似合わない女だって――」
膝を付いた京介がまなみの唇に指を押し当てた。
その光景を見る健次郎は波打つ鼓動が止まった。俊――と、心が叫んだ。と、共に真っ逆さまに闇に落ちたと感じた。奈落の闇。光届かぬ暗黒に招かれたと思った。崩れ落ちた足が膝を付いた。従兄弟だ――。俊と俺は従兄弟同志。だが、素直に受け入れられない事実がある。健次郎の身体が震え出した。
「知っているさ。君がどんな想いで、故郷を逃げ出したか。一人で、頑張ってきたか」
と、言った京介は後ろからまなみの肩を抱いた。その手を撫でた、まなみはゆっくりと首を振った。
「分かっているのに、兄は死んだって。俊は兄では無いって‥。それでも、逃れられない。闇が私を招く。一人は、怖い…。貴方に‥居て…ほし‥。いいえ、貴方は私を許さない!」
意を込めた硬い表情が、京介の肩を押しやった。両手を開き驚きに満ちた身体から離れたまなみが、見開いた瞳で空一点を見詰め我が身を抱き締めた。その身体からは悲しみ以外の何も感じ取れなかった。見詰める者に言葉はない。
「貴方は私を許さない。私は健を殺した。貴男の子どもを――。皆が一生懸命に私を助けてくれたのに、私はそれに、答えられない‥。なぜ、あの子は泣くの。何を言っているのか分からない。誰の子かわからない子を生むなんて、罰を受ける。兄が私を罰する。誰にも言わない。兄様と私の秘密‥。地下室は秘密‥。健も私を罰するわ。母親なんて無理だろうって‥、何故、泣くの。泣きたいのは私なのに」
「泣いて良いんだよ。まなみ。健はそう言っている。君が泣けば、健は安心する。二人で泣こうって‥。泣いてる君を見て、笑ってる君を見て、健は健次郎になった。大きくなった。私達の子はこんなに大きくなって、恋をして失恋してまた恋をしている。そして母親のアドバイスを待っている。見てごらん」
 悲しい過去を持つ女が、健次郎を見上げて頷いた。健次郎は静かに横にたった慎吾を見た。彼は囁いた。
「アパートで発見された女性は、赤子を抱いていた。死んではいないが衰弱した赤子を、母親は死んだと思い込んでいた‥」
真剣な眼差しの慎吾と健次郎の瞳が絡んだ。今、知る時だ。母の半生を知る時だと――。光を抱き上げた大輔は萌と共にリビングを後にした。扉が閉まる音がした。それを合図に京介は口を開いた。
「あの日、あの宴会の帰り、酔ったお前は、闇が怖い。襲ってくる。助けてと縋り付いてきた。離さないでと、私は‥、真剣に捕えなかった。君を知らなかったからだ。今なら‥言える。必ず守ると」
「覚えていない。あの夜の帰り、何があったのか。覚えているのは、私がミスをしたこと、社長がものすごい剣幕で私に怒ったこと。宴会の座で自分の不始末の後始末しろと言われ懸命に謝った。酒を飲んだことがなかったから、後の事を覚えていない」
「本来なら、宴席に呼び付けるなんて非常識はしない。後日、呼び付けるか、書類で済ませば良い筈を‥。私情を混同してた。知りたくない事実を聞かされ、自分の世界が粉々になるほどの衝撃を受けた日だった。家に帰る気が無かった。もう二度と家には返らないと部屋を取っていた」
 京介の瞳が健次郎の横に立つ慎吾を向いた。顔を落とした慎吾の唇の震えを、健次郎は見た。
「下心なんか無かった。ただ酔った君に部屋を譲っただけだった。私は部屋まで送ったら帰るつもりだった。宴会の混雑が好きになれないことと、日中のいざこざを知っていた秘書は止めなかった。後はうまくやるといつもの様に返事が帰ってきた。ねんごろの店が近くにあったからそこへいくつもりだった‥」
京介は言葉を切った。その視線は、健次郎の横にいた慎吾にある。慎吾は京介に一礼するとその場を離れた。
残った四人はソファーに座り直した。

京介は我が子を見た。我が子が幼い頃、何度も抱き締めていた。その子は憶えてはいないだろうが‥。自分によく似た風貌の子。その性格も同じなのだ、そう思うと可愛い。可愛いからこそ真実を知らせたくないと思ってきた。
「決断‥人生には、選択を責められる時が何度か訪れる。人生の選択‥。お前は、木の玩具が好きだった。二歳の頃、レールを組み立てた汽車を走らせる。両手を叩いて喜ぶ顔がたまらなく愛おしかった。一緒に暮らしたかった。本当に一緒に居たかったが、まなみが狂気から抜け出せなかった。私では駄目だと身を引いた。少しでも私を受け入れてくれたらそれで良いと過ごしてきた」
その言葉に健次郎は驚くだけだった。言葉が浮かばなかった。だが、京介の方はまなみの心の叫びが新たな選択肢を与えたと感じた。それは、年頃の子に言うべき事かと考えた。本当の母を知るべきだと決意した彼は口を開いた。
「二十年前のあの夜は、本当に一人になりたかった。仕事からも家庭からも逃げ出したかった。あの日は仕事なぞ頭に無かった。主治医も、母からも同じ言葉を聞いた。同じ言葉‥」
京介の苦悩の顔が片手に隠れた。その手が顔を拭き立ち上がった時俊が言った。
「慎吾さんのことですね」
ソファーの端同士にいる京介と俊がお互いを見た。それに何も言わず座り直すと京介は言葉を続けた。
「酔った女性に寄り添い酒の場を離れた。廊下は明るかった、部屋は明かりが無かった」
そう頼んでいた。何も見たくない、何も聞きたくない、心がフロントに一言添えていたからだ。闇の部屋で何もせず何も考えずにいる。そのための部屋だった。しかし、光から闇の部屋を覗いた腕が抱えた女性は豹変した。
「娼婦だと感じた。娼婦との一夜、それでいいと…。だが、この選択は間違っていた。天使を傷つけたと後で気づいた。それも二年後だ。アパートの暗い一室で」
済まないと京介はまなみを抱き締めた。まなみはその胸で頷く。待っていたと。
「今ここで選べと言われたら、健次郎ではなく君を選ぶ。あの夜、何故逃げたのだろう。君は私に救いを求めていると気づいたのに‥」
娼婦が私を誘っていた。心躍らせる若い裸体が媚を売っていた。私は女の不貞に怒りがあった。手を上げた。本当に初めて…。するとその口が言った。
――はいお兄さま――と、繰り返す言葉。
「訓練された娼婦‥だった。鮮明に覚えている。頬を叩いても傅く態度は変わらなかった‥這いつくばって足の指を舐めた。それ‥ならばと」
両手で顔を覆った京介は叫びに似た声を上げた。
「行為が終わるまで気づかなかった。その身体は何も感じてはいなかった。男の腕の感触も快楽も、感じていたのは恐怖だけだ。見開いた瞳が天井を見ていた。身をおこした私と同じように起き上がった身体が両手を差し出した。要求されたと思った。立ち上がるとその両手は合掌した。祈りを捧げるようなポーズが拳を握りしめていた。何を表すのか分からず、もう良いと言った。すると言葉が返ってきた」
――お兄さま――
それは、衝撃の言葉だった。
「分かっています。お父様にも言いません。お母様にも言いません。お兄様の言う通りにします」
整然と座る姿は身動きも見せずに真っ直ぐ前を見ていた。ぼんやりと口を開けた顔が瞬きも見せずに空を見ていた。その瞳には京介は写ってはいなかった。過去を見ている。見開いたままの瞳から溢れ出るものを見た時、京介は逃げた。その現実から逃げた。
「それが心の重みとなりまなみに行方を追った。直ぐに母に知れたが、かえってその方がよかった。母は執念深い。二年も掛けてまなみの行方を探し当てた。羽を折れた天使を…」
京介は天使から羽を抜き取った。両手を開いてもむしり取った羽は何処にも無い。わなわなと震える両手を見詰め、胸にいる女の顔を見た。その顔には、夜の時が見せた表情があった。
後悔に幾ら時間を掛けても終わらない。
「天羽を無くし傷ついた天使が、祝福を受け小さな天使を抱く事を許された。羽根を毟った私には何があるのだろう。あるとすれば守る事だ。まなみ、君を守る事。側に居て、君を守りたい‥良いのだね」
涙で光る顔は大きく頷いた。それは母だと、健次郎は思った。そこにいるのは紛れもない父と母なのだ。

*********

 夢の時間を過ごしていると、朝の教室に足を踏み入れた健次郎は思った。何時ものメンバーが顔を揃えるがざわめきのない静かな教室を見回す健次郎の瞳に正道は入ってこない。その健次郎に智雅が声を掛けた。
「正は休みだ。姉貴の両親と旅行に行った」
「姉貴‥。姉‥。家出した姉さんに、両親?」
「養女に行ったんだよ。正道が小学校に入る前に。嫌いで別々に暮らしていたわけでは無いさ。どうしょうもなくて家を出て行った姉の気持ち、分かっていると思うよ、正道は。だから、結婚する前に、思い出作りだろうな」
ぶっきらぼうに言う智雅の瞳は、健次郎の表情を見逃さない。その視線の揺れが何処を見たか、眉間がしわ寄せた表情を読んだ。
「正道の父親、あいつが生まれる前に死んじまったから、今の父親は本当の親じゃ無いと聞いてるだろう。姉さん、母親の負担を減らすために養女にいった‥。寂しかったと思う。二人共‥。だから、一緒に育った光の事、捨てられない」
 そうかと健次郎は頷く。前の席にいる琢磨は机の上を本で散らし必死で宿題の課題に取り込んでいた。二人の方を振り向きもしない。光の事を知らないのだろう。それに興味ある智雅が口を開いた。
「サロンに行こうか。紅茶が飲みたい。何もすることないのだろう」
「することはある。宿題‥」
「写すんだろ。あるよ。早く、サロンの席を確保しないとなくなるぞ」
急かす智雅に引きずられバインダーを片手にした健次郎だが、本日はその中に一文字も入れることなく一日を終える。
バインダーを握り締めたまま凝固まった健次郎。その顔を見詰める大輔。離れて座った智雅。
保健室サロン。休みの彩夏に代わりに、朝まで一緒だった大輔がそこに居た。
まなみが泊まる時のために俊の趣味で飾られた部屋に光と萌が寝た。大輔と俊はリビング。救急隊員が光を向かえに来るまで一緒だった。
疲れをはっきり表した大輔が、小さくため息を付いた。
「誰も、思わなかった。隣に住んでいる僕らさえ、気づかなかった」
重い口調が、何かを告げる。確かに鈍な健次郎でも分かった。
「光が、小学校へ上がった頃、長屋の子供の数はピークの半分に減っていた。僕も高校生になって部活もあったから、光の顔を見ることがなくなっていた。夏休みが終わったのに登校してないと、担任がやってきてはじめて騒ぎになった。‥光は、押入れの中にいた‥」
大輔は健次郎から眼を逸らした。そしてしばらく空を泳いだ瞳が、奥の扉から動かなくなると口を開いた。
「九歳、九歳になったばかりだ。小学校三年生。親に甘える子供だ。その子を…」
声が震えていた。
「虐待‥していたのか」
「‥暴行」
顔を覆大きな手、小さくつぶやく声。聞こえたのは、暴行の四文字だった。しばらくして、指から顔を離した強張った表情が喉を鳴らしてゆっくりと声を放った。
「あの日の事は、忘れられない。あの顔、あの表情が、…。怯え痩せ細った身体がシーツを纏い布団の間に隠れ出てこようとはしなかった。日の光を浴びていない真っ白い顔に、はっきり浮いた褐色の痕。びっくりした大人達が、光を押入れから出そうとしたら、信じられないほど抵抗した。動物の鳴声に似た叫び声を上げ、もがいてもがいて必死に叫んでいた。地獄の釜に放り込まれそうな表情だった」
言葉を切った大輔は、驚愕に聞き入る健次郎に顔を向けた。
「その時、光は裸だった。頬から首、両肩に掛けて大人の指痕の紫斑が惨たらしく続いていた。お袋が慌てて駆け寄った」
昨夜の光が眼前を覆った健次郎は素破を上げ、そのまま瞳を閉じた。
「最悪だった。酒乱の親父は、知らぬ存ぜぬを通した。確かに、あの親父は、酒で記憶が飛ぶ。やったことを覚えちゃいないだと。嫌がる子に何をしたかを、」
怒りに震える声が、息を整えた。
「あの後、保健の時間がどんなに嫌だったことか。大人にもなりたくなかった。お前もだろ。あいつが、光が、望む体験を‥普通、望む結婚をさせて‥やりたい。あの子を、僕は小さい時から、面倒みてきた。おむつも替えて、ミルクも飲ませ、一緒に、風呂に入った。光は覚えていないだろうが、‥」
大輔の眼から涙が溢れでて止まらない。健次郎も同じだ。溢れるものを止めることが出来ない。呆然とした心がそれを拭くことも出来ずにいた。
「僕らは、長屋に居る者達は選択を誤った。あいつに、光をみせた。長屋に住んでいたインターン医。金がないから、保健未払い‥。間違いだった。やつにみせたことが光の希望を奪った。奴も親父と同じだった。薬を渡す代わりを要求してた。光は服を脱げない。幼い時の様に笑えない。それでも分かっていてもインプットされた習慣があいつの元へ向かう。‥今度、あいつに渡したら‥、光は完全に光ではなくなる」
 八田――と健次郎の、ヤツと光を切り離す方法は一つだ。大輔の顔が健次郎の間近で異様な眼光をみせた。
「お前を叩きのめしても、やってもらう!」
「ヘッ。何をやる?」
「同じベッドで一晩過ごしてもらう。一晩と言わず二晩でも三晩でも許す。分かったか」
射竦める強い眼光がドスの利いた声を放った。
「ハッ、一晩‥そんな事、許される訳ない。あんた、教師だろう。教師がなんで、そそのかす?そんな事‥」
「教師じゃない。一個人として言っている。夜を一緒に過ごして貰う。もちろん、裸で‥」
「裸‥の、付き合いをしろって‥無理だ。それより、変だ。おたつみは何を考えてる」
「無理でもやってもらう。本気だ。腕力でも押し通す」
周囲を伺うヒソヒソ声で大輔と健次郎は顔を突き合わせていた。しびれを切らした大輔が健次郎の首根っこを掴み拳を握ってみせた。それを止めるかのように、智雅が二人の会話に割り込んだ。
「光の初体験の相手をしてもらう」
丸テーブルに身を乗り出した智雅が平然と言った。
構えたままの大輔がゆるりと視線を智雅に向けた。眉間にしわ寄せた真剣な顔だ。
「ダメだ。断る」
健次郎が言った。大輔の腕が緩んだ。座り直した健次郎は言った。
「両親を悲しませる行為はもう出来ない。真面目に勤める。そうしなければ、俺のために別れて暮らした二人をまた傷つける」
 肩を掴んだ智雅の腕を振り解いた健次郎は静かに言った。周囲のざわめきなぞ耳に入らないという顔が言葉を放った。
「俺‥、親父に愛されていると気付かなかった。親父がどれほど俺を思っていたか、気付かなかった。どんなに悲しませたか、考えなかった。今は、親父やおふくろのために生きたい。二人の子どもで居たいんだ。だから、光にはもう会わない。光の事は考えない。考えたくない」
そう言うと健次郎は立ち上がった。
「健次郎――。待てよ。光は――」
智雅の声を無視した健次郎は立ち去った。

「もう一度だけ、光にあってくれ」
 正道は健次郎に向かって叫んだ。
「二度と言わない!今だけ、この時だけだ!今の光を見てくれ。見るだけで、良い‥。後は何も言わない‥」
それでも健次郎の決意は頑なだった。
「光には逢えない。逢ったら、俺が駄目になる。俺が、だ!俺が‥‥。お前より俺の方が弱い。こんな生ぬるい環境で育った俺だ。お前より弱いに決まってる。弱虫で意気地なしで、マザコンで、おまけに‥」
 おまけに、おまけに‥何だろうと思う。心の奥底から湧きたつこの感覚は‥?折れそうなほど細い身体を抱き、その体が持つ暖かさに酔いしれたあの時から、胸を締め付けるこの思いは。それはとても愛着に満ちた心地、どこまでものめり込みそうになるほど。しかしそれを切り捨てた。二度と会わない。それは父と母を悲しませる結果になる。それだけはしない。そう決意していた。
日曜日早朝、正道は健次郎のマンションを訪れた。必死の形相が伝えたい事が分からない健次郎ではない。だが、逢えば止まらない心の欲望が揺らぐ。だから激しく拒否した。
「何故、駄目なんだ!光が病気だからか!親が居ないからか!汚れているからか!長屋の貧乏人だからか。光は‥、お前が好きなんだ‥。お前が希望なんだ。なんで、分かってくれない!」
心に迫る言葉だ。光が悪いわけでは無い。曖昧な態度で接していた自分が一番悪いのだ。謝らなければならない。だが今はと、健次郎は顔を背けた。
「ごめんよ。正‥」
健次郎は踵を返した。そして自分の部屋に籠った。玄関ドアの閉まる音を聞きながら、心を断ち切れと何度も唱えながらベッドに潜り込んだ。自分の弱さを思った。父のように強い大人になりたい。兄慎吾のような誇れる仕事に就きたい。そして安らげる家庭を築きたい。今不純な心を断ち切らなければ、先へは進めない。心はわかっていた。だが、どうしようもなく心が光を求めて止まない。その姿を見たら、見るだけでは止まらない‥。
何時の間にか、眠っていた。
まなみの声で起こされた。夢かと思った健次郎は周りを見回した。自分の部屋だ。セミダブルのベッドでタオルケットを握り締めたまま眠っていた。起き上がった瞳に、机の上に散らした教科書と漫画本の間の時計が写った。九時半を指す。まだ夢見心地の眼は床に散った学生服と靴下を拾い上げるまなみを見た。夢では無い現実のまなみが声を掛けた。
「朝ごはんを食べて。それから、お出かけよ」
その言葉が夢の続きを伺わせた。定番メニューではない和の朝食。そこに父、京介も居た。淡い色のワンピースを着たまなみと並ぶ。
親子三人で初めての朝食を摂った。味噌汁、玉子焼き、漬物。母の味を噛み締めた。
何故か涙が溢れた。涙のせいか、まなみの言葉に頷いていた。
「光ちゃんに、会いに行くわよ」

 親子三人、後部座席に乗った。京介の何時もの運転手が、穏やかな言葉をまなみと交わす。そのまなみとは違い健次郎の心には重く張り付く決意がある。それを揺るがしてはならないと、三人の会話も耳に入らず無言で時を過ごした。
萌の務める山間の病院に着いた。
広い緑の敷地に立つ真っ白い建物。外来設備が並ぶ建物と棟を別にして病棟が立つ。
「ここでは主治医は一人では無いの。二人か、三人で一人の患者を診る。休みや当直、会議。二四時間付きっ切りって訳にはゆかないからね。担当医ドクターが必ず日勤帯にいるようにね。看護師も同じだ、担当グループを組み、話を聞く。いや、話をしてもらえるまで見守っているのかな。夜間も担当医が必ず連絡を取れるようにしてるの」
 非番の萌が紹介する同僚の中年のドクター。堅物そうな表情が健次郎を向いた。健次郎は眼を逸らすために頭を下げた。過去に中年ドクターに似た表情の教師を何人も叩きのめした記憶がある。それが鮮やかに蘇った。保護室へ案内される健次郎の心の中に、過去に乾き荒み切った夢心が揺らめき始めた。口渇が水を求めるように彷徨った日々を記憶は消し去っていた。それが蘇らされたのは白い部屋に似合わない狭さと薄暗さと、そこに立つ中年の男だ。
 その男が光を診ている、心の中に棘が刺さった違和感が残った。しかしそれで健次郎の決意が揺らいだわけでは無かった。
鍵が外界を隔てる扉の開閉に音を響かせた。
エレベーターで五階へ上がった。そこにも重い扉があった。暗証番号式オートロックドアの扉。行く手を阻む扉が、健次郎の顔を引き攣らせた。指がパネルタッチの上を踊るとロックが外れる小さな音が突き刺さる杭の様に胸に響いた。
そこにまた扉だ。今度は鉄格子の扉。鉄格子から覗く暗い廊下の先に明るい空間が見えた。その中に人が行き来する姿がある。その光景が眼に焼き付いた健次郎は前に進めなかった。
その背を押すのは、まなみだ。
 ロックの掛かった扉の前で向かい合った健次郎とまなみ。まなみは静かに言った。
「死ぬ事を考えた事が何度もあったわ。本当に死ぬために、橋の上にも立ったの」
 まなみは両腕を出した。細身の血管が浮いた白い肌だ。どんな服でも着こなせる長身のまなみ。その体型は幼い時から変わらず輝いている。桜色の爪が七分袖をめくった。
肘窩、両の肘窩、そこに刻まれた傷跡。健次郎の目が震えた。言葉が出なかった。
どんなに頼んでもプールへは行かなかった。風呂にも一緒には入らなかった。それは子どもにそれを見せないためか、それが良かった、どんな長湯でも怒られなかった。のぼせてフラフラになって倒れても。
過去は脳裏の遥か奥に楽しい思い出となって蘇るが、現実は目の前で訴える。眼を見開き考えろと、陰りを帯びた母親の姿がか細く小さく眼に写った。
「真夏に長袖の学ラン、顔を隠すためのボサボサの髪、狂いたいと願うあの表情を一目見た時、過去を‥見たわ。私の過去が‥。黒い服が鎧のあの子。私だと思った。あの店に私の過去がやって来たと思った。兄が幸せになる私を許さないのだと‥」
それを知らずに光を連れて行った。光の誕生日、あの日が予兆の様な嫌な日になった。確かな衝撃で足が竦んだ健次郎は壁に支えられそのまま持たれた。その手は顔を覆う。母の姿から逃れるように眼を覆ったが、言葉からは逃れられなかった。
「死の瞬間を夢見ても、死ねないのだと分かっている。生きているのか死んでいるのか分からない迷路のような日々を過ごす。時間の感覚は分かった。朝が来て一日が始まって夜が来るの、分かるわ。心は冷静なのに頭の中が願っているの、狂いたい。狂って全てのものが見えなくなれば良い、考えられなくなれば良いってね。それでも人は死ねない。人は狂えない。人は助けられる‥」
言葉を切ったまなみは健次郎の名を呼んだ。健次郎と優しい響きが手を開いた。微笑む母が見えた。そのまなみは更に言う。
「京介さんが、貴男のお父さんが言うの。残酷な人には残酷な未来が待っている。残酷な仕打ちを受けた人は残酷ではない。幸せを願えるのだと、だから私に会うのだって。私に向き合って言うのよ、何時も。額にくちづけしてまなみは幸せになれるって‥。なれると思う健次郎?」
問われた健次郎はハッとした。
夢から覚めたと思った。以外な場所が、夢の続きの様な場所が冷めた現実を見せた。何時もの子どもの様なまなみが答えてと向ける真剣な顔を見た。まなみの後ろに立つ京介を見た。
覚めた気配がはっきりと頭の中で幼い時の記憶をたどっていた。 
「私、幸せになれる?」
 夢見るような少女の表情が健次郎にもう一度問うた。
「なれるよ。まなみは何時も俺にそう言ってきた。健次郎は幸せな子だから、幸せになれる。まなみは幸せな子の母だから幸せになれる」
その通りだ、悪夢から覚め、新しい夢を見る。京介と。自分の父と。
今までとは違う母を見る健次郎に、京介は言った。

*********

 そこに慎吾が居た。談話室フロアに並ぶ椅子に光が長袖のツナギを着て座って居た。まなみを見た瞬間、光の表情が変わった。
「お母ちゃん‥」
泣き出しそうな顔がまなみに縋り付いた。その手は慎吾の手を握ったままだ。
拒否が強い――と聞いた。触れられることを極端に嫌うと。それが何故、慎吾を受け入れえいるのだろうと健次郎は思った。光の父親の若い時の写真を見たが似てはいないと萌は言う。第一印象が記憶をすり替えたのだろうと、父親の仕打ちが慎吾の悪意を持った行動に重ねたのだろうと。
そして慎吾は事件の夜を語る。ホテルのベッドの中に隠れていた。何時もの夜の世界の女だろうと、酔った勢いが布団を捲り凝った服を剥ぎ取ろうとした。お父ちゃん――、その一言が現実を見た。
「お父ちゃん。俺、いい子になる‥」
 慎吾が別れの挨拶をすると、光はそう言った。慎吾が肩を震わせて踵を返した。その姿を健次郎の眼は追う。すると廊下に出た慎吾が京介と並ぶのが見えた。俯き加減に言葉を交わす京介の腕が慎吾の肩を抱く。
その二人の表情をガラス越しから見る健次郎は和を感じた。
親子の和み。この場がこんな場所が親子を繋ぐ。胸の奥で何かが生まれた。やわらかな何かを胸に留めた健次郎は、光を見た。まなみに寄り添う光。まなみの印象は光の母親に似ていると、大輔は言っていた。親子のように光の髪を梳くまなみ。嬉しそうな顔が健次郎を招く。
やはり腕を広げて、抱いていた。
一緒にいたい。一緒にいることが光の願いだ。健次郎は、連れて帰りたいと言った。二人の思い出の場所で一日、いや一夜だけでも二人で居たい。
「幼児がえりは、彼女が一番幸福だった時期への逃避です。環境を変えることは、好ましくない。ましてや、幼児期に過ごした場所ではなく、雑踏のマンション。それも、半月、暮らしただけの場所へ‥」
 ドクターの言葉を強く押し切ったのは、まなみだ。まなみには以外な所に強さがある。一見弱いようでいて信念を持つまなみは、家族ですと言った。ドクターに向かいはっきりと言った。光は息子の恋人で、家族ですと。
呆れ顔のドクターは折れた。
「いいですか。一泊だけですよ。安定剤と入眠剤。朝夕と寝前。それと頓服。頓服は少しでも変わった動きを見せたら、飲ませてください。興奮期に入ってしまったら薬が効かなくなり、別処方を切らなきゃならなくなる。その時は速やかに帰って来て貰います」
主治医は親切心で言っているのであろうが、光を囲む一団には聞く耳が無い。荷物をまとめたまなみが光の手を取り身構えていた。荷物を持った健次郎と大輔が、すでに玄関へと向かっていた。そこに俊が待っていた。
皆が送るのは、健次郎のマンションの玄関までだ。
光は、確かに不安な声を出した。
「大丈夫、貴方の家よ」
と、まなみが言った。すると、小さく頷いた光は自分の足で中に入り、まなみの部屋へ姿を消した。
「何かあったら直ぐに、連絡を」
同じホテルに部屋を取ったまなみ等はそう言ってその場を去った。
「刃物は、一切 眼に触れるところには置かないで、話しかける時はしゃがみ込む。水分の摂り過ぎに注意して、薬は処方通り飲んでください」
主治医の注意事項が、健次郎の頭にずらりと並ぶ。
宅配の夕食をテーブルに並べた健次郎は光の部屋をノックした。鍵が掛かって無かった。
健次郎は、部屋へ入った。そしてまじまじと、その部屋を見た。クリーム色の壁。腰窓にピンク地のカーテン。そこに、セミダブルのベッド。光が寝ている。白い机と椅子、机の上には本が積まれていた。椅子にはピンクの座布団。反対側の壁には一間物のクローゼット。角に三面鏡の付いた白いドレッサー。一年半前に越してきた時はまなみが泊まるために白いベッドだけを用意したはずだが、いつの間にか少女の部屋へと様変わりしていた。それを知らなかった健次郎は、半月前に光のために準備した壁掛け時計を見た。その時計の黒い色がミスマッチに入口横の壁にあり六時を指していた。
まなみの部屋だから女の子の部屋だ、男の部屋とは違うと健次郎は壁の時計を突付き、光を起こした。
光は、自分で食べた。飲んでいる薬には、食欲増進作用があり、一旦減った体重が元に戻った、と医師の言葉が脳裏にあった。これ以上強い薬だと、満腹中枢を阻害し餓鬼状態になるとも言っていた。
同じドクター同志なのに萌の方針とかなり違うと感じた。
大輔の影響なのか、薬袋を持った健次郎は深く考えた。大輔は言う。光が感情を乱す度に薬が増えた。申し立てすれば薬変更、分包紙の薬が残り新しい薬が山のように渡された。
残薬の山、それを一気に飲んだ光は昏睡状態になったことがあったと。
変だ。変だと感じた大輔は心療内科ドクターを探しまわったと聞いた。学校校医のために。探し当てたのだろうかと健次郎は光に薬を飲ませた。あいつなら必ず見つけ出すだろう、光や同級生のためにと光の手を取りトイレに誘導していた。
扉の前で待つ健次郎は、正道や智雅を思った。彼等は確かな未来を持っている。確かな未来。それを健次郎も持っていると京介が彼に言った。
隔離病棟談話室、長椅子に座った京介と健次郎。来月保養所に移る。萌の転属先がそこになるからと京介は語った。納得できた。萌はこの病院には合わない。
光を託す、萌に――。頷く健次郎に京介は更に言った。斉藤を捨ててもかまわないと。
「二十歳になったら、斉藤でも城島でも好きな方を選べば良い。城島家の財産は俊君が財産放棄したから、今は全てまなみが継いでいる。昔は田舎町だったが今は新幹線が停まる市だ。そこの名家、財はある。いずれ君と俊君と分けたとしても――」
生きて行くのに困らない、斉藤家と縁を切ったとしても。
「そうされては困るのが母の琴乃だ。跡継ぎを君だと決めている年よりの意思は硬い。君とまなみの間に溝を作りたい、小さくとも」
「溝?溝か。そうだ。溝だ。俺とまなみは川のように大きく掛け離れた場所にいて話、出来なかった。マザコンって言われ続けてきたのに‥」
その言葉に苦笑した京介が言った。
「確かに周りからはマザコンに見えた。高校入学。通学距離が問題で一人暮らしが始まった訳ではない。君とまなみを遠ざけるのが一つの目的だ」
 琴乃に反抗して良いと京介は言った。
 反抗――? 健次郎は首を捻った。その時は意味が分からなかった。しかし次の年のクリスマス、確かな反抗を見せる事となる。
確かな反抗、それは一族が集まる年間行事の一つクリスマス会。慎吾でさえ欠席したことない琴乃主催の会に欠席すると言ったのだ。恋人との夜が大切だと。

歯磨きをする光は、浴室をじっと見ていた。
長い間、洗面所に立ち歯を磨く光。健次郎の何倍をも時間を掛けて歯磨きする姿が、大輔の告白の言葉を思い出させた。長袖寝間着を二重に着込んだ素肌を見せない光の深層に隠したものは、拒絶。人を拒否している。触れられる事、御簾がされる事、それでも薬を得るためにその指と口は男の欲望を満たした。だから、歯磨きが好きだと言ったのかと、健次郎の眼から悔し涙がこぼれた。八田に対して怒りが込み上げていた。
歯磨きを終えた光は、まなみの部屋を素通りして、またリビングに戻った。そして、テーブルの前にたったまま動きをなくした。その瞳は、携帯電話を見ていた。着信ランプの点滅が気に入ったのかと健次郎は光の名を呼んだ。素直に指示に従う光に表情はない。言葉もない。更に手をわずらわせる事も無かった。それは健次郎にはかえって嫌だった。薬で抑えこまれ、心を現す感情無くなったのかと問いたかった。
今、光の心は何処を彷徨っているのだろうか。過去の何処かに心を置いて、幸福なのだろうか。
健次郎は、部屋を覗いた。横になった光は天井を見上げながら何かを呟いていたが健次郎は聞けなかった。寄り添う事に怖さがあった。男の心と切なさが、爆発する恐れ。健次郎は、踵を返すと浴室に向かった。お湯が、切なさと悲しみ、そして、欲情を洗い流してくれた。
消灯は、九時。光の部屋の電気を消した健次郎は、自分の部屋で沈み込んだ。

その夜中、闇間に携帯がなった。正道からだった。時刻は一時二十分。眼を開けた健次郎は、開けておいた扉が閉まっていることに気づいた。瞬間、跳ね起きた健次郎は、光が徘徊していると感じた。刃物はすべて、俊が持ち去った。危険は無いだが、携帯を耳に当て光がと叫んだ。すると、冷静な言葉が返ってきた。
「光は風呂だ。明かりが付いて十分立った。今、浴室で身体を洗っているだろう」
 風呂――。こんな時刻に嫌いな風呂?と健次郎は思ったが直ぐに携帯を掛けてきた正道を思った。
「正。何処にいる」
「マンションの前、お前家が見える所。心配するな。おたつみが一緒だから‥。それより、良く聞け。前にも言ったが、光を預けられるのは健次郎、お前だけだ。頼んだぞ」
「‥分かっている。聞くな。光が好きだ。だから、もう‥」
「済まない。‥光も、お前が好きだ。だから、風呂場へ行け!‥裸の付合い、しろよ。お前が、光をリードして‥光の部屋へ入れ。いいな。間違ってもお前の汚い部屋使うなよ。光の望み‥は、綺麗な‥叶えろよ‥必ず‥‥」
 声を詰まらせ涙を声の正道は途切れた。
携帯を握り締めた健次郎は周りを見回した。頭の奥で潮騒の様な不快な音が響く。正道の言葉がこだまに繰り返される。浴室、そこに鎧を脱いだ光がいると言った。正道の言葉が何をさせたがっているのか分かった。それに従う自身が理解できなかった。鎧で身を固めて安定して光が、自分を見たら‥。いや、それより本当に光は浴室にいるのか。夢かも知れないと思う心が素足の感触を確かめた。しっかり床を踏みしめた。夢だとではないと浴室へ向かった。
確かに明かりがあった。光が自分の姿を見たらパニックを起こさないだろうかと迷う心があったが、洗面所に立った。すると足に脱衣カゴが触った。それに眼を止めた健次郎は、驚いた。白いローブが一枚、きちんと畳まれて置いてあった。それと洗面台の上に真っ白いバスタオルが二枚置いてあった。その横に何故か、口紅が一本とグレーのアイシャドー。それに白い蓋の容器が置いてあった。容器は、ファンデーションだった。幼い頃まなみの化粧品を顔に塗りたくった記憶が蘇った。まなみは思い切り笑った。
「将来は女の人になりたいの。それとも女形。お祖母様がお怒りになるわね。斎藤家の男を女形にはしません、てね‥‥。でも、綺麗よ。子供は男と女の中間なのよね‥‥」
中間なのよね――まなみの言葉が響いた。中間、幼児に性別は無いとまなみは言った言葉が脳裏を占めた。指が口紅を掴んでいた。新品では無かった。使い古しの様にまっ平らな面が見えた。それに比べアイシャドーもファンデーションも使った気配が無い。健次郎はもう一度口紅を手にした。
外泊――。
 一昨昨日、ダメ押しで叫んだ言葉を萌はいいよと一言で返した。
「ただし、一泊だけだ。言われたことをきっちり守り、側についていられれば、ね」
 何時もにこやかに笑みを浮かべる顔が渋面を呈して言った。主治医は一人ではないからね、奴を説得出来ればと。
「大西光の頭の中には、三人の異なる人が住み着いている。これは大切なことだ。健次郎君。昼は少年が頭を支配し少年の心が活動させている。夜は、大人と子供の二つの人格が入り交じる。入り混じった人格が何をするか分からない。何もしないかも知れない。何かのキーワードで目覚めるかも知れない。謎だ」
 それを抑えているのは薬だと、萌は言った。
夜は寝かせる。朝は早く起こす。
 薬は言われた時間、言われた通り飲ませた。飲み終えるのも確認した。言われた時間にベッドに横になった。
 夜間覚醒は無いと聞いた。だが、今光は浴室にいた。
健次郎は喉を鳴らした。果たして、そこを開けていいのだろうか。
――お前、俺と風呂に入りたがっていたな。俺を、幾らで買う――。
父親の葬儀代を出した。その日からホテルに行ったあの日までわずか半月暮らしただけの場所。光の記憶の中でこの場所はどんな風に残っているのか分からない。しかし、シャワーを浴びる音が響くそこは光にとって、綺麗な場所に違いない。
光が思う世界であれば良い。だが、そこに踏み込むには――。
健次郎は、動きを止めた。良いのだろうか。果たして、これで良いのかと、張り裂けそうな鼓動が包んだ。
――光を守れるのは、健次郎だけだ。お前にしか頼めない。今は、光だけを見ていてくれ――
正道の叫びが脳裏にこだました。正道の涙が心の中に落ちていく。
今出来る事は光と同じ所に立つこと。
好きだから、一緒にいたい。明日になれば行ってしまう。
波打つ鼓動が全身を駆ける。今しかない。身を包む硬い鎧を脱いでいる今、その身体を抱き締める。そうしなければ、二度と抱けない。しかし決意に反し膝は震え竦んだ足が動かない。
浴槽に沈み込んだ影が健次郎の瞳に写った。今しかない。握った拳を開きパジャマのボタンに手を掛けた。
その手は、浴室の扉を押した。

*******

健次郎の前に、天使がいた。
生成り(きなり)色の狭い空間に立つ羽のない天使が、裸体を晒して立った。その腕が健次郎を包み込んだ。前腕に走る傷跡が紅く引き攣る肌は確かに光だ。
だが、光ではない。
正道が恋して止まない天使だ。

光は、バスタブに浸かっていた。
物音に驚く素振りはなかった。胸の前で腕組みした身体が真っ直ぐに前を向いていた。
湯越しに見える歪んだ肌色で、全裸であることが分かった。瞬時に瞳を返そうとした時、湯の中から唐突に片足が飛び出した。眼を釘付けにする真っ白い陶器の様な小さく整った足がバスタブの上縁面に並んだ。それは淡い明かりの中で絵に書いたように真っ白い肌を輝かせて健次郎の眼を奪った。
睫毛を濡らす湯気のせいだと思った。だが、見詰める瞳にその横顔が白く透けるように、清楚に輝いて見えた。
胸の中で何かが幾つも弾け飛んだ。胸を押さえた健次郎は、崩れるように座り込んだ。そこへ、細く柔らかな声が響いた。
「正!ひさしぶりだな。一緒に、風呂入るの‥」
明るい声だ。子供の様なあどけない言い回しだった。が、正道と光が風呂に入っていたのかと思った健次郎は、嫉妬にも似た心地が胸に溢れ、不服の声を上げた。
「俺は健次郎だ。ここは、俺のマンション。お前、忘れたのか」
 言葉を放った健次郎は、しまったと思った。言葉を投げて良かったのかと、ガランから湯を出しながら光をチラリと見た。前を見据えた横顔が両手で口元を覆っていた。確かにショックを与えたと思った。この後、光はどんな行動に出るのだろう、パニックを起こしたらどう対処すると、固唾を飲み爆発しそうな鼓動を押さえた。心を沈めようと焦る瞳は、空を泳いだ。見慣れた狭い浴室の淡いクリーム色の壁をなぞるように視線を這わせ時を待った。耳を澄ました。湯の流れる音だけがあった。
息を吸った健次郎は湯を止め、もう一度光を見た。
前髪を両手で描き上げる落ち着いた光がいた。
腕には、紅い傷後が走る。そこにいるのは見慣れた光だ。何時もの光、のはずだ。だが湯気は、薄暗い明かりの下に幻を見せた。その腕に黒い学ランが無いからなのか?晒した細い腕が今まで見た女の誰よりもか細く痛いげに見えた。
瞬時に眼を逸らしたが、見詰めていたい心地が残った。身の裡に熱いものが動悸を打った。湯に沈み込んで身体を覗き見たい真意が欲情かと、自分に問うた。
乙女の様に輝く光。その印象が脳裏から消えていかない。邪心を取り除こうと、胡座を掻いた居住まいを正した。心を隠すように正座した。そして心を洗うように身体を流した、髪を洗った。
髪をタオルで拭いている時だった。何かが背に触れた。光の指だと感じた身体に電気が走った。動けずにいた。
指は脇腹から肩へゆっくりと滑った。柔らかなその感触は今まで味わったことの無い、悪寒に似た気色悪さだ。
ゴクリと固唾を飲んだ健次郎は、逃れたい心地を我慢し身を強ばらせた。その手は直ぐに背に張り付き動かなくなった。ホッとした健次郎は振り返った。瞳を閉じた横顔が天井を仰いでいた。何を考えているのか分からない無表情な顔。その頬がゆっくりと動いた。すると、唐突に微笑む顔が健次郎を見た。浴槽上縁面からちょこんと顔を出した、夢見る様な瞳が言葉を投げた。
「正‥まだ蓮華、咲いているかな。白いやつ。また作ってくれる?冠。真っ白な綺麗な髪飾り。正、私の事、天使だって言った」
エッと、健次郎の顔が弾けた。
「ヒカ‥ル‥」
健次郎は喘ぐように声を漏らした。その瞳は、捕らえた。少女の顔を。
バスタブの縁に腕を持たせ頬杖をつくその顔。
――夜の人格は謎だ――萌の言葉が脳裏に響く。その言葉を頷ける光が呟く。
「私の羽、小さすぎて飛べない。天使の国を目指せない‥‥。だから、むしられる」
むしられる――。その言葉が健次郎の胸に刺さった。汚されるって意味なのかと。
「全て、むしられるなら‥光の中で笑う人が良い。約束の風呂‥。光の中で笑う人。木の様に大きな人。私を攫う人‥」
少女の声音が、健次郎の胸に響く。バスタブの中に誰がいると、見詰める瞳が問う。するとその片手が健次郎の頬を撫でた。
その仕草はまるで無垢な少女のようだと思った。
少女の様な指の仕草を健次郎の目は追う。
髪を描き上げる指、そこに現れた細い首。そこから続くくぼんだ鎖骨と浮き出た肋が見えた。無意識に覗き込んだ。その時だ。湯に沈み込んだ身体が動きを見せた。
裸体が湯船からゆっくりと現れていく。生まれたままの姿が立ち上がった。その姿は健次郎の視線を受け止める様に、裸体を晒した。
ひかる――と、たじろぐ健次郎をよそに臆する事ない裸体が、バスタブを跨ぐ。衝撃が健次郎を襲った。見てはならないものを見た、激しい衝撃で崩れた健次郎は喘ぐようにバスタブを見た。そこに姿は無い。後ろに立っている。暖かな肌が動くその度に背に触れる。夢では無い。夢ならいい。夢ならと、その瞠目は横に立った光を振り返った。
夢では無い現実が掴んだバスタブの感触にあった。顔に掛かる湯の刺激、紛れも無い事実だ。
健次郎は今ある現実を掴むために、震える身体に力を込めて立ち上がった。そして童児のように夢中で石鹸を泡立てる、光をまじまじと見詰めた。
――正道――

正道には出来ない。これはあまりにも、清く美しい者だ。純粋無垢、その言葉に似合う少女だ。
この身を汚すことなぞ正道には出来ないだろうと、健次郎はバスタブの縁にへたり込んだ。
その心は、救いを求め叫んでいた。
助けてくれと、この現実から逃げ出したいと――。
現実――。確かに現実を眼にしていた。
だが、逃げ出せない。
目下には幼児の様に懸命にボディタオルを泡立てる光がいる。上気した肌は痩せた胸に青白い血管と鎖骨を浮かせ、膨らみに小さな乳首を見せ付けていた。背から腰へ流れる滑らかな曲線と丸く柔らかな臀部。大人の身体に童心の心を持つ者が、床に座り込み手遊ぶ姿から眼が離せなくなった。
確かに純粋無垢な心が膝の上で石鹸と戯れていた。笑みを浮かべていた。膝が白い泡で隠れてもまだその腕は動作を止めようとはしない。淡い光の中でそれは、天使に見えた。
――正道、お前は本当に――光を――だから頼むと言ったのだと、健次郎は迷う心を切り捨てた。そして真っ直ぐに見た。
綺麗だと思った。新たに増えた紅い傷跡を加えても、その身体は白く輝いて綺麗だった。
眼を細めて見据えるほどに美しいと感じた。細く長い指が掻きあげた濡れた黒髪が艶やかに背中を覆う。額をはっきりと晒した面長の顔は穏やかな表情で健次郎を見た。
その白く細い指は手に着いた泡を気にすることなく、顔に掛かる髪の雫をしなやかに払う。泡は額に残った。それを気にすること無い、その動きは紅い唇の前で止まった。何かを考えるように唇は、指を噛んだ。すると、言葉が漏れた。
「私、頼んだ‥、壊れたいから、くすり‥ちょうだい‥。思った‥壊れて、世界が消えて‥おやじが‥、消える」
唐突の言葉でも、健次郎は分かった。八田と光の関係が。
「光‥‥」
言葉が詰まった。光が消したいものが分かっていた。腕を差し出し受け止めてあげたいと思う心が震え動けなかった。その表情が分かったのか、黒い睫毛の煌めくつぶらな瞳が視線を返した。
そして夢心に遊ぶ子供の様な仕草で、懸命に泡立てた白い泡と戯れ始めた。石鹸をこれでもかというぐらい泡立てその手が、我が身を包んでいく。這う傷跡を隠すように泡立てた真白い衣で隠す。
傷跡、それは過去。
光が体験した過去は、白い刃物痕が残る痩せこけた四肢と両肩の骨ばった細さが表していた。支えたい心をその身が味わった辛酸を思った。健次郎は胸が詰まった。
「好きだよ。光。誰より君が‥」
心を伝えたいと思った。だが悲しみが心を満たし目頭が熱くなった。涙が溢れ頬を濡らすのを止められなかった。健次郎は泣いた。肩を揺らして泣いた。すると、
「正‥、泣かないで。ずっと、一緒にいるから‥」
健次郎は、はっとした。正道と光の二人の幼年時代を知っていた。二人の辛い過去。それを促す言葉が流れた。
「おねえちゃんの代わりにずっと一緒にいるから‥。だから、泣かないで‥」
 そう言って光は正道を支えたのだろうと、健次郎は思った。
「光‥」
「大きくなったら‥私‥正の‥正の――」
健次郎は顔を上げた。悲しげな顔が、健次郎を見上げていた。その手は両手一杯の泡を抱えていた。それはまるでウエディングブーケの様に見えた。
「正の、お嫁さんになるのか?」
「ううん、違う。健次郎のお嫁さんになる」
「誰の?健‥次郎‥」
「斉藤健次郎。約束した‥教室で‥。約束‥した」
初めて言葉を交わした放課後の会話!健次郎はぎくりとした。聞いていなかった。曖昧な返事をした。
「何を‥言った。憶えて‥」
いない――。躊躇うことなく光は言葉を返した。
「キス‥出来たら、白いドレスを着て、お嫁さんになる‥貴男の」
「貴男‥。俺は、誰だ?」
「健次郎。私をむしる人」
むしる――そうだと、健次郎は呟いた。そして真っ直ぐ光を向くとはっきりと言った。
「俺は、健次郎。君を守る人だ」
うんと、光は頷いた。そしてその手は細い身に泡立てた白い石鹸を塗っていく。
守りたいと思う心が、沸き立つ思いに変わった。身を一つに――と、拍動が全身を揺らすと求める心の怖さが、健次郎を襲ってきた。
両の手を顔の前で組んだ健次郎は本当に祈りを捧げていた。
身は一つを願い、心は一つを恐れた。
しかし、その身が触れると心が弾ける。狂しい想いが漲る。さらに、掌一杯の泡の塊が健次郎を招く。
笑みを浮かべた顔が招く。
呆然とした心地が、目の前の光を見入った。
そして悟った、そうだったのだと。
曇る瞳は両目を擦ると、白い泡のドレスを着た光を見詰めた。
白い泡で全身を包み込んだ光は、穏やかな安堵した表情を見せた。
その姿を見詰める健次郎は悟った。泡は清らかな衣なのだと。そしてここが、この場所が、光の一番綺麗な場所だ。清らかな衣が辛酸の日々を全て、包み込み取り去る。
今、光は、無垢な乙女になった。
身体を清めるこの場所が、光にとって一番の‥‥。
白い壁の淡い光が照らす狭い空間。淡い光に囲まれた静まり返った特別の場所で、健次郎は光を抱き寄せた。
「綺麗だ。光。この世の誰より、大好きだ」
細くしなやかな指が健次郎の頬を濡らす涙を拭きとった時、決断した。
光が願ったことを叶える――。
一時四五分。ここからシンデレラの時間が始まった。

細くしなやかな身体を包む白いローブ。セミロングの髪を櫛で梳いた。白いファンデとアイシャドー。ローズの唇が微笑む。
鏡の中にいるのは、天使の様な少女だ。頭を被った白いバスタオルがヘッドドレス。寄り添い二人は鏡に移る姿を確かめた。そして習慣の様にくちづけを交わした。少年と少女の様に。愛を誓うように少年は跪き、少女の細いウエストに顔を埋めた。少女は少年の愛に応えるように彼の首を抱いた。
やがて少年は立ち上がると少女を抱き上げた。
それは、儀式だった。この世の中で最も清らかな儀式。
扉を開くと、白いゆりの花で飾られたベッドサイドにロウソクの明かりが揺れていた。白いベッドスプレッド、シーツ、ピローケース。
誰かが二人のために用意してくれたその部屋で、肌を合わせ二人はお互いの鼓動を聞いた。言葉は、無かった。唯、熱い思いだけがあった。

********


健次郎は、衝撃で動けなかった。
少女は朝には幼児に返っていた。まなみの姿に気づいた裸体が抱き締める腕から抜け出し縋り付いた。
その光景が健次郎を奈落に突き落とした。
母親の前で全裸を晒した身体がワナワナと震え足元から崩れ落ちた。
まなみは我が子のその激甚の表情に、顔を背けた。奥歯を噛み締めて喉から込み上げる嗚咽を堪えた。
二人は結ばれた。しかしそれは悪夢だと、まなみの脳裏は故郷で味わった悪夢を蘇らせた。
朝の衝撃。兄は平然と朝の食卓にいた。夜間豹変の恐ろしい顔も悪態を吐いた姿も淫乱の陰りもなく母親と会話する姿が脳裏を襲った。故郷での毎朝が蘇った。胸が詰まり溢れる涙を止められないまなみだが、光の裸体を抱くと踵を返した。
心は我が子を抱き締めたかった。だが、成長した我が子だ。京介の子だ。自分を導く京介の子が、行く先を見失う事は無いとまなみは思った。
その通りだ。健次郎は静かに戸口に座り込むと、耳を澄ませた。
母に甘える少女の声が、小さな物音のように聞こえていた。
耳を塞ごうとは思わなかった。最後まで、聞き耳を立てていた。
シャワーを浴び、朝食を摂る音。廊下を行く二人の会話がはっきり聞き取れた。朝食のバターと蜂蜜の付いたパンが美味しかったと。そして、オレンジジュースを飲んだと聞いた健次郎は苦笑いした。オレンジジュースは苦いから嫌だと言う光に、我が家の定番メニューだから朝の食卓に必ず出せと命令口調で言った日々が蘇った。
嫌いなオレンジジュースを飲んだのだと、込み上げる涙を堪えた健次郎は頷いた。そして今度はりんごジュースも出すと呟いた。
二人は廊下を通り過ぎ玄関に立ったと分かった。その玄関で、光が何かを訴えた。
「何処が痛いの?‥そこは‥」
 まなみの声が間を開けてまた言った。
「そこに、健次郎が居るから‥。健次郎が光と一緒だからよ」
まなみの静かな声の意味に、健次郎は立ち上がった。光の言葉を受け止めようと。だが、夜の出来事が夢ではなく二人が一つに繋がった事実を、光の記憶はとどめてはいない。
「健次郎?だれ?」
光は覚えていないのだと、健次郎はドア越しの声にへたり込んだ。衝撃の健次郎とは違いまなみの声は明るい。
「フフッ。秘密の人よ」
「お母ちゃん。ヒミツ、教えて‥」
「健次郎が、そこに入ったの。健次郎は、光が好き。大好きだから、そこから上へ上へ上がって、ここがチクリと痛くなる。光のここが痛くなると、健次郎も痛くなる」
「健次郎‥」
「そうよ。これが健次郎。この健次郎の写真を持って行きましょう。これで、健次郎と光は何時でも一緒よ」
まなみの言葉が、健次郎を震わせた。立ち上がろうとしたが立てなかった。ドアノブを掴んだ手が、我が身を抱いた。
玄関が閉まる音に膝を抱いた。
全ての音が消え去っても動けなかった。だが、やがて顔を上げた。
静まり返った部屋で我を取り戻すのに、どれほどの時が経たのか分からなかった。立ち上がった健次郎は洗面所へ向かった。
洗面台の鏡に姿が写った。自分の姿。つい何時間か前に光と二人でその前にいた。
涙が顔を濡らした。静かにながら落ちる涙。泣きたいと思ってはいないが何故か涙は流れ落ちてきた。その顔を洗った健次郎は、顔を拭いたタオルを洗濯機へ投げ入れようとして、気づいた。
黒い物。洗濯機の上の脱衣カゴ、その中に置かれた黒い服?
それに手を触れた健次郎は、確かな衝撃で戦慄いた。
そこに丁寧に畳まれた物に、眼を見張った。
学ランだった。光の黒い学ラン。昨夜使った化粧品もあった。
鎧を、脱いだ。
光が鎧を脱いで出て行ったと、健次郎は目がさめる衝撃を受けた。
刹那に走った。
階段をそのまま駆け下った。駐車場へ。
光の心は、受け入れた。健次郎はそう思って駆けた。今度は、言葉を受け止めてと。
夢心に光の名を叫んでいた。
もう一度抱き締めたい。光、光――。
俺はお前を――。
玄関を飛び出た健次郎の眼に見慣れたセダンが点滅ウインカーの方向へ曲がるのが見えた。
「行くな!光!帰って来い――」
叫びを上げた健次郎は、セダンを追い掛け公道へ飛び出そうとした。朝の通勤ラッシュ時だ。車の数は多い。
走り去った車を追う健次郎には、周りが見えなかった。今にも車の波に飛び出さんとする、その腕を掴んだのは正道だ。
「バカ!死にたいのか‥」
正道は声を上げた。しかし、その声は詰まった。涙が頬を濡らしていた。
「ありが‥とう‥。健次郎‥僕は、何も‥出来ず」
「俺も、気付かずに‥」
慟哭する正道にむせび泣く健次郎。二人は人目も気にせずに肩を抱き合って泣いた。その二人に暖かな手が触れた。一つでは無かった。大輔と男子同級生が全員顔を揃えていた。その中に女子が数名混じっていた。巨体の千紗とリストバンドの陽子、そして光の席の周りにいる女子が泣き顔で抱き合っていた。
「皆‥。光が行くのを、知っていたのか」
 健次郎は涙を溜めた皆の顔を見回した。頷く顔が苦笑いした。そして彼等は言った。
「光、俺達に手を振ってくれた」
「笑ってた‥。服、脱いでた‥」
「光はズボンにフリルの付いた、ワンピースの短いやつを着て行った」
「チュニックだよ。チュニック」
「長袖だったけどね」
と、男の子達の会話に陽子が口を挟む。
「長袖チュニックで良いじゃない。もうすぐ秋なんだから‥」
「秋か‥。二学期は行事多いからあっという間に期末試験がやってくる。親の怒る顔が見える」
その琢磨の声に皆少し笑った。
「さっ、帰るぞ。社会見学は終わりだ。午前中に帰り着かないと校長に大目玉だ」
と大輔の声が飛ぶ。
「おたつみ!校長のことお父さんって、呼ぶのか?」
「余計なこと聞くな。正!姉貴に言いつけるぞ」
「僕も彩夏に、言ってやる!おたつみは生徒をそそのかす教師だってね」
「いいとも!彩夏がどっちを信じるか、賭ける」
「良いですね。写真取りますよ。彩夏教諭、旦那様を取るか、弟を取るか。帰ったら直ぐ号外が出せます」
「正の姉貴って、養護教諭の京田先生?」
「健次郎さんって、それも知らなかったのですか?」
要の驚きの顔と、皆の白い視線が健次郎をじっと見詰めた。それを割る大輔が声を上げた。
「みんな、帰るぞ!健次郎、早く支度しろよ。運転手はいないぞ。電車だ!電車。駅で待ってるからな!」
 大輔の先導で皆はぞろぞろと歩き出した。
「すごい社会見学だろ。だけど、皆良い経験出来たよ。おたつみは、すごい‥。こんなこと他の高校では経験できない‥。ホントはクラス全員来たかったんだが、移動教室がパニックになるからって、女子が残ってくれたんだ。皆、同じ傷‥持ってるから」
と、琢磨がそう言うと健次郎の背中をポンと叩いて仲間の後を追った。
「行こう。健次郎。皆が‥、仲間がまっている」
健次郎の背を押す正道はそう言った。そして、ありがとうと呟いた。

*******
人は遠回りをするのだ。
それでも目標を持った者達はゆっくりと進んでいく。目的地へ、さらに次へと。
光は帰ってくると、萌は健次郎に言った。
「光ちゃんは、病気じゃ無いよ。幼い時の傷が複雑に絡んで解けなくなった状態だから、診る人も困惑してしまう。確かにカルテには解離性と書き込んだ。メンタルケアが必要な‥病気。だけど違う。心の病んだ子が作り出した妄想だよ。人間には自然治癒能力があるから、心の妄想も叫びも消せる力があるよ。瞬間に感じ取る能力も‥。だから、何をすれば救えるか?と、格闘しなくても救える時もあるし。それに女の子は少女期、娘期、母期と段階を経て老年期を迎える。少女期は汚れを嫌うけど娘期は汚れを求めるのよね。自然の流れに沿ったのだから、結び目は解ける‥。しばらく時間を掛けてみたいな」
むしられる事を望んでいた。自然の流れに沿って少女は大人になったと萌は言う。しかし健次郎は納得いかなかった。一番好きな人と――結ばれた?健次郎には疑問が残った。一番好きな人は、誰だったのだろうか?と。
だがそれ以上は考えなかった。二人の時を過ごした部屋を開けなかった。そこに部屋があることを忘れ、通り過ぎた。
一人の時間が辛かった。静まり返った部屋に落ちる暗闇が心を締め付けた。光と別れるまで、一人が辛いと思ったことがなかった。それが、寂しさが切なさを絡め一人ぼっちで閑散とした部屋で暮らした少女を思い描かずにはいられなかった。少女はどんな思いで、生まれ育った部屋で暮らしたのだろう、日々を耐えていたのだろう。少女の描いた明日は、どんなものなのかと‥。
逢いたい。切にそう願ったが、勇気がなかった。生徒手帳に挟み込んだ萌の名刺があったが、開けなかった。施設の名と住所。見たら駆け出したくなると、日々が過ぎ記憶が薄れるのを待った。鮮明な記憶に靄が掛かり薄れていく記憶を願った。その心を酌んだ様に学校行事の多い二学期は足早に過ぎていった。
三学期になった。あれ以来、遅刻も早退もサボりもせず、相変わらず俊が運転する車で通学していた。健次郎の日常は変わらないが周囲は変わった。
まなみが親父と暮らすようになった。
俊が萌と付き合う様になった。
春に慎吾の三人目の子が生まれると、男の子だと、琴乃主催するクリスマス会で聞いた。すると今度は、京介も負けずに新年会でまなみの妊娠を発表した。今はもう、まなみは黒い服は着ない。アップに詰めた髪を下ろし明るい色のワンピースを着ている。まなみの記憶は和らぎ悪夢の叫びは遠のいているのだろう。琴乃の招く会には京介と共に甥っ子を連れていた。俊だ。兄の分身では無い甥っ子。俊の方も残忍に打ちのめされた乙女ではない叔母を見ていた。俊には寄り添う萌が助言していたのだろう、今まで見たことの無い強い瞳が琴乃の前で信念を語った。
健次郎は琴乃を取り巻く人の顔が、眩しいと感じた。全ての人が輝いて見えた。取り残された自分を思った。暗闇に一人ポツンと立つ自分。明かりを求めて町に立つが、雑踏が目の前を過ぎていくだけだった。
冷たい風に晒され煌めく夜の町を歩いても夜空に星を求めても心を満たせない。
殺伐の胸が流涎していた。安らげる心地を。それは夕闇の中を徘徊させた。
ショーウィンドウを飾るライトが煌めく星の様に健次郎の寂しい心を招く。
目が自然とケースの中の煌めく石を見た。光の様に――。

春休み。長いと思う学校閉鎖の二週間、閉寮となった寮生は家に帰った。健次郎もマンションから京介の家に移った。すると離れに住む琴乃と、顔を合わせる機会が増えた。
昔は、婚姻は家――家を継ぐためのもの。
家に相応しい相手を娶る――。
斉藤琴乃から健次郎は、その言葉を受け取った。古い仕来りに守られた心は孫の前では心奥を隠すのか、琴乃の言葉の端々に«昔は»がつく。
今は昔と違うから貴男の好きなようにして良いのよと、笑顔が心中の毒を隠していると健次郎は感じていた。それに比べ、城島俊の心は聡明だ。語る言葉は少ないが思いやりの心が溢れていた。俊は何時の間にか健次郎と光の思い出の部屋を片付け、居座るようになった。そして変わらず身の周りの世話をし、浮ついた態度を厳しく指摘してくれた。それが健次郎には嬉しかった。兄貴と呼ぶようになった。尊敬を表わしてそう呼んだ。
俊が同居始めると時折、萌がやって来た。萌はやはり天性が医師なのか、健次郎の顔色を見るなりその日の心中を言い当てる。俊が静かに笑う。萌が俊の頬を突付く。穏やかな日中が過ぎる中、萌はきっぱり言った。
「求めなければ、得られない。それがどんなに些細なものでも、求めなければ手にはいらないよ。世の中に必要とされない人はいない。その人は何も成さないかもしれないが、その人の血筋が何かを為すかもしれない。守る人がいて、守られる人がいる。壊す人がいてつくり上げる人がいる。世の中に悪人はいない。悪を必要として善が生まれるのかも、その反対かも知れない」
 悩むことも求めることもやめてはいけないと、健次郎に言う萌は俊の頬を相変わらず突いている。その彼女の助言なのか、俊は新たな目標に向かって猛勉強中だ。
俊は、医学生になった。
健次郎も三年生に進級した。担任は変わったが、同じ顔ぶれが同じ席に座っていた。唯一つを除いて――。
言葉が教室一杯に広がり消えない。一年生を受け持った大輔はその場所にいないが、笑顔で輝く仲間がいるだけで幸せを感じた。
頑張れると、光に透ける新葉を見詰めた。
春は変化の季節だ。健次郎は電車通学になった。すると電車内、構内、通学路とクラスメート以外の生徒と語り合えた。新築の学生寮にも足を向けた。年の差が気にならなくなった。語り笑った。
保健室の光の部屋で日中を過ごす少女がいると噂が飛んでいたが、新聞部は号外を出さなかった。保健室フロアで屯する者達の姿が去年より多くなった。音楽室と図書室の児童書コーナーは更に賑やかになった。
学校は方針を確定し、特別クラスを二教室と決め定着させた。それに合わせた職員を再編成したと号外が伝えた。障害を抱えた子供達。彼等と一緒にと――。
健次郎も琢磨らと一緒に紙芝居をやった。絵本を読んだ。学童期の心を蘇らせていた。光の事を考えなかった。心の隅に置いたままだった。
変わらない顔ぶれが一人を残して、変わらない教室に並んだ。結婚した大輔も変わらず長屋から通っていた。辰巳姓になった彩夏を正道は変わらず、あやか~と呼び捨てにして保健室に通う。

五月になった。連休が終わった。光と初めて言葉を交わしたこの日、俊は休講だからと健次郎を送ってきた。その俊は学校駐車場から動かなかった。登校する生徒の数も疎らな時間帯、車から降りた俊が校舎の時計と自分の腕時計を交互に見たのを、何気なく捕らえた健次郎だったが、その鈍な気質は教室へと急いだ。
俊は、待った。駐車場に見慣れた車が停まるのを。そして、見た。車から降りる幸せそうなまなみが京介と寄り添い笑顔を向けたのを。
俊は眼を細めて、その姿が正面玄関に吸い込まれるまで見送った。それから、二階校舎を見上げた。そこに、健次郎がいる。彼は今、ホームルームの時間だ。
太輔の毒舌が始まるホームルーム。大輔はこの時間担当クラスを抜け出し三年五組にいた。
三年五組――健次郎の教室では、ホームルームが始まっていた。健次郎は指定席の窓側後席で、光の指定席を見ながら突然乱入してきた大輔のドスの利いた声をぼんやりと聞いていた。
「斎藤健次郎。聞いているのか?俺の妹だ。手、出してもいいが、泣かせるなよ!」
「妹?おたつみに、妹なんかいたのか?」
と、健次郎が眠そうな顔で聞いた。
「おう。俺に似て。美人だ。泣かせる真似しくさったら、即・ボクシング部入部だ!覚悟しろ。お前の、生ちょろい身体、部員全員が鍛えなおしてくれるわ」
指を鳴らした大輔が健次郎を睨むとニヤリと笑った。本気の顔だ。
俺は女たらしじゃない!女は一人と決めている!と、反撃出来ない健次郎は机を抱いた。
教室の扉が開く音がした。どよめきが起こったが、健次郎は顔を伏せたまま動かなかった。その耳に大輔の声が響く。
「紹介しょう。俺の妹。辰巳、光だ。二歳年上の彼氏がいるが、頼りない奴だからして、彼氏に立候補するものがいたら、俺を通せ」
歓声が拍手に変わった。
辰巳光?光――?と、健次郎は拍手につられて顔を上げた。その目に、光の指定席の座るセーラー服の後ろ姿が写った。真っ直ぐ伸びたセミロングの黒髪が綺麗に切り揃えられた後ろ姿。
編入生か?と、不思議顔の健次郎はその後姿を直視した。すると、白い指が飾る紅い色に気づいた。髪を描き上げる指の仕草、その中指を飾る物。赤い石の付いた指輪だ。
紅い指輪!
健次郎は、はっとした。去年のクリスマスに人が群れていたショーウィンドウを覗いた。小遣いはたいてルビーの指輪を買った。誕生石。光のための指輪。指のサイズは分からなかったが適当に選んでまなみに渡した。
「ひ、光」
そう呟いた足が、勝手に動いた。確かに光だと、内心が捕らえた。その後姿は――。
「俺の光が‥帰ってきた」
と、よろめくように歩いていた。教室からざわめきが消えた。
セーラー服の少女が振り返る。その目は歩み寄る姿に、視線を合わせたまま動かない。そのまま横に立った健次郎を見上げた。言葉はなかった。怯える素振りもなかった。無表情な顔が健次郎の顔を真っ直ぐに見た。瞳を返すことなく真っ直ぐに――。
健次郎は言葉を掛けたかった。沢山の言葉を――。積み重ねた沢山の言葉を全て吐き出したかった。光に――。しかし、頭の中が真っ白になった。掛ける言葉が消え去った。胸の奥がギュと痛くなった。瞬間、喉の奥が締め付けられる痛みにも似た熱いものが込み上げ、溢れる涙を止められなくなっていた。
嗚咽が漏れた。噛み締める嗚咽に、教室内に啜り泣く声が漏れる。
「私、貴方を知っている‥」
光が、呟くようにそう言った。座り込んだ健次郎を静かに見詰めていた光が言葉を発した、と固唾を飲む雰囲気が辺りを包んだ。
 しばらくの間を置いて健次郎は口を開いた。込み上げる涙を噛み締め、やっと言葉を発した。
「俺も、君を‥知っている‥」
少女が、笑みをつくった。泡のドレスを着た少女の笑顔が、健次郎にやわらかな声を放った。
「斉藤、健次郎‥。光(ひかり)の中に住む人」
光の中?むしる――ではないと、健次郎は考え込んだ。萌の言う通り光の妄想に一部は消え去ったのかと健次郎は思った。
「‥光(ひかり)の中だけじゃ無いよ。光(ひかる)の中に住む人だよ。俺は光での闇でも生きていける。手を繋いだら‥」
健次郎は、両手を差し出した。もしこの手を重ねてくれたら。今度は――。
今度は、離さない。
光は目の前に現れた、両の掌を見た。そしてゆっくりとした動きで、自分の手を確かめた。それから健次郎の顔を確かめるように身を乗り出して見た。その指が涙で濡れる健次郎の頬を拭いた。
「写真の人‥心が痛くなる。手を重ねたら、また‥痛くなる?」
自分に問う様に言葉を投げた光が濡れた指で確かめた。掌を。そして、両手が重なった。
「温かい‥。健次郎、手‥温かい」
「君もいい香りだ」
「風呂に‥入った‥一ヶ月ぶり‥」
「昨夜遅くに、だろ。シャンプー、匂ってる‥」
「‥‥」
瞳が空を泳ぐ光の視線。それを捕らえた健次郎は失言したと思った。すると、突然身の内で激しい脈動を感じた。波打つ脈動が全身を包む。爆発しそうな胸を沈めようと考えた。光は過去の記憶を呼び戻しているのか、パニックの前兆か、繋いだ手を振り解く事なく動かない。どうする?
つかの間、光が眉間にしわ寄せた顔をつくった。それが健次郎を向く。その口がゆっくり開いた。
「きれいな部屋で、二人きりで過ごした」
脳裏が弾けた。光の記憶。健次郎も忘れられない記憶。光の記憶に、健次郎が生きている。そう感じた。何故か、ホッとした。それだけで救われたような気になったのは確かだ。
息を吐いた健次郎の脳裏に萌の言葉が蘇った。
――唇を重ねられるのは、その人を受け入れること、唇を重ねて相手を受け入れる。キス出来るってその人と一緒に要られるって事だ――。
一緒に居たいと強く思った。確かめたい、光の心を。そして守りたいと思ったその時だ。顔を上げた健次郎の瞳に窓越しの京介とまなみが写った。窓辺に張り付く真剣な眼差しを感じた途端、まなみの声が響いた。
言葉は誓いよ――と声を上げるまなみの顔が健次郎の脳裏に浮いた。
誓いたいなら、言葉を放つ――言葉よと、脳裏のまなみが言う。
そうだと、健次郎は奮い立った。
「俺は君にキスがしたい。キスが出来たら、俺の唇が触れても嫌だと感じなかったら、一緒にいて欲しい!俺は君を、光を守る男になる!」
 健次郎は光に顔を寄せた。
薫風の五月、朝のホームルーム。二つの心が一つになった。

********
 
静かに夏が過ぎ、慌ただしく秋から冬になった。受験シーズンが過度期を迎えた。クリスマス、正月と過ぎ受験生は一息付き三学期を迎えた。
三学期に入ると直ぐに、この年の卒業式案内状が父兄に届いた。
三月一日の卒業式に向けてと、印刷された封書の内容を読んだ父兄は首を傾げた。

* 式の開始は例年通り、九時からとなっております。ただし、終了時刻は例年より一時間延長して十二時頃を予定しております。
* 式場、体育館は例年以上の底冷えを予想しております。必ず、座布団・ひざ掛け・防寒着着用と御準備をお願い致します。 <冷え性の方はカイロ持参>
* 中央は、卒業生が座りますので白線内にはお入りにならないでください。
* 卒業生の入退場は、赤線を通りますので係の指示に従い通路を開けてください。
* 写真撮影はご自由に行ってください。ただし、他の方の迷惑にならないようにご協力をお願いします。
* 日程時間が許すならば、御両親で御出席をお待ちしております。兄弟姉妹、親戚の方々の参加も歓迎します。

不思議な文面に父兄は確かに首を傾げた。そして我が子に問うたが、子ども達は「秘密」と笑った。
卒業生の在学三年間で、特に一・二組の父兄参観の出席率は高かった。この年、それを追うのが一年次の参観出席率だ。一年一組おたつみ教室。そこから濁声が明るく響く。
三年一組は新米教師が生徒に教えをこいながら、右往左往の一年間を過ごした。人は成長する。それが現れたのが、この年の卒業式だった。

卒業会場を覗いた来賓各位は驚いた。会場の体育館は椅子が縦一列に並ぶだけだった。緑シートが張り巡らされ白と赤のテープが貼ってあった。体育館は四隅に大型ストーブがあったが、案内の通り底冷えしていた。
父兄達も戸惑った。が、案内状に従い持参した座布団を白線の外に置き夫婦で頷き合った。白線の外なら何処でも良いとアナウンスが入った。体育館の中央を覗き、足の悪い方は椅子を使用してくださいと。

体育館舞台の式台に生花が飾られていた。国旗が壁に掲げてあった。確かに今日は卒業当日なのだ。体育館入り口で式次第が渡された。だが、迷う親達はそれでも手荷物を床に置いた。座を確保して周りを伺った。何か違う模様しものでもあるかのような形式だった。
 正道の両親も、智雅の両親もいた。まなみは京介と一緒に並んで座った。彼女の腕には女の赤ちゃんがいた。健次郎の妹だ。人混みの中でも泣きもせずに寝ていた。
卒業生が入り口、二箇所から飛び出してきた。飛び出してきたという表現がぴったりだった。後から音楽とアナウンスが追いかけて来た。
只今より――とアナウンスが終わると卒業生一クラスがすでに中央席に座っていた。次々に入場する子ども達は思い思いの場所を選って座った。
これは本当に高校の卒業式か?と問いたくなる式が行われた。
舞台中央に個々の顔を写す大スクリーン、これは珍しくは無いがそこに映し出された様子は奇異だった。両親の名を呼ぶ生徒。デジカメ、ビデオ、一眼レフ。記念を記録に残そうと撮りまくる親達。式の始まる前から涙にくれるは母親達。床に転げる子達。
千差万別?床に座布団を敷き座る両親の間に卒業生、在校生が混じった。クラス分けされていない生徒達。卒業生と在校生の混合、男女が入り乱れていた。
 来賓は度肝を抜いた式場だった。更に式は、国家と校歌を大合唱した。貴賓来賓の言葉は式台で行われたが、答辞と送辞は白線内で行われた。
 そして卒業証書授与は、順不同だった。と言うより彼等は勝手に式台に上がっていった。と見えた。
――卒業証書授与――、とアナウンスが流れる。すると、二人の男の子が舞台の階段へ走った。瞠目の観客が声を上げる中、二人は手を繋ぎ舞台端から上がると中央に頭をペコリと下げた。彼等は礼儀を心得ていた。京田校長が式台に着くまで待った。
彼の口から名を呼ばれ証書を手にした二人は頭を下げた。校長は短い言葉を送った。ありがとうと小さな声が言った。そして段を下りた二人は椅子に座る来賓に頭を下げ、別々に立ち上がった両親の元に駆けて行った。その二人を追いかける様に卒業生達は一人では無く誰かと手を繋いで段を上った。二人、三人、あるいは五人、六人と。男同士、女の子同志、カップルの男女。強い者が弱い者の手を取り階段へ導き壇上に立った。その度にアナウンスは両親の起立を促した。
 正道は佐野陽子と二組の心に隙間を埋めた四人と手を取り合い、証書を受け取った。この時、京田校長は舞台を降りようとする正道に声を掛け握手を求めただけでなく抱き締めていた。このシャッターチャンスを、新聞部後輩達は逃さなかった。舞台の端で起こったのはそれだけでは無かった。辰巳彩夏が恩師席に頭を下げた正道に飛びついたのだった。
智雅は車椅子の女子を抱き上げて校長の前に立った。そして後輩らに校長と一緒にピースした。もちろん、カメラに向かって。
要は神谷千紗と一緒だった。二人は繋いだ手を高く上げて白線を一周した。後輩から紙吹雪を貰った。涙、涙の両親と抱き合った。
琢磨は柔道部猛者達と一緒に校長から握手と証書と抱擁を貰った。
卒業生百二名。校長は目の前に立った卒業生に、マイクを通し一人一人名前を呼んだ。一言三年間のエピソードを添えた。
最後に式台の前に立ったのは、健次郎と光だった。
校長は卒業証書をゆっくり読み開けた。そして言った。
「卒業おめでとう。また一つ目標に近づいたね。良い友達にめぐり逢える幸せは君の宝物だ。大切に」
「はい、ありがとう御座います」
と、健次郎は校長に言った。その顔は晴れやかだった。次に校長は光に言った。
「光君。君の保健室は思い出の場所。旅立ちを祝福してくれる場所になりましたね。旅立ち、おめでとう」
光は笑った。その顔で振り返った。小さく手を振った胸元はセーラー服のリボンが揺れていた。足は黒の長ズボン。肩に三つ編みした黒い毛が垂れ毛先に白いリボンが眩しい。その笑顔も眩しい。健次郎は光の肩を抱くとその顔に唇を寄せた。
前代未聞のキスをした。卒業式式台の前、二階席中央からシャッターチャンスを狙う新聞部後輩の活気がある声援を受けて長いキスをした。

秀才兼変人が集まる新聞部。この学校から新聞部が消えることはないだろう。校内で起った数々の事件を取材し伝説を紡いできた新聞部。その愛読者は全学年各クラスをはじめ、校長室から購買にまで及ぶ。その圧倒的な支持者と顧問辰巳大輔という強力な助人を持った新聞部は今日、新たな伝説を紡いだ。
彼等は即座に部室に飛び込むと、今学期最後となる新聞を作り上げた。秀才の名の元にその能力をフル活動させ一時間掛けずに完成させた。それは最後のHR後の花道のために集まっていた全校生徒と父兄を前に公表された。そして最多誌上者、斉藤健次郎に勲章としてその紙面を送ったのだった。
仰天の健次郎は前代未聞の卒業式と書かれた紙面に映るキスシーンに唖然とした。
そのキッスが始まりになる。健次郎と光の始まりはキッス。
そのキスがあらたなる始まりになる。

****


光?誰がそう呼ぶの?
誰かがそう呼ぶから、私は迷うの。
背中の翼が折れたから、闇に落ちたの。光の中を飛べない。折れた翼は元には戻らない。誰かに毟られるまで闇の中でうずくまるの。闇が好きだからうずくまるの?いいえ、違うわ。いつも天上の眩しい光を見ているの。
私は光?光の子?ううん、違う。ひかりの子じゃなくて、闇の子。翼を折って闇に落ちた子。それが私。誰が翼を折ったの?分からない、覚えていないから。
でも、もう子供じゃないから、子はいらない。光の子じゃなくて良いの。
私は光。
闇の中から明るい日差しを見ているわ。もう子供じゃないから、子はいらない。大人になったから光で良いの。
光、私は光よ。
私を愛してくれるなら、折れた翼をもぎとって。羽根が重くて立てないから。
重い羽根がもげたなら、貴方を見るわ。
大好きな貴方を見るわ。あなたに向かって走るわ。
だから、私を受け止めて。受け止めて。
そして約束のKissをして。光の扉を開けるキッスを。
素晴らしい世界が、始まるキッスを。

**エピローグ**

そして幾年月が流れ、多くの生徒が入学し卒業していった。
数多くの子供達が三年間の在学期間をリタイヤすることなく、歴史を残して次のステップへ進んで行った。特に高二の歴史を色濃く残し卒業していった者達が在籍した部が新聞部だ。その顧問は言わずとしれた辰巳大輔、三児の父だ。二人の息子とやや年を離して念願の末娘が生まれ、彩夏を苦笑させるほどの親バカぶりを発揮した。
大輔はより多くの生徒を受け入れようと奮闘した。そして卒業生を見送った。心にかさぶたを覆った子を隙間が開いた子も傷を負い身動き出来ずにいる子を、我が子以上に熱心に見守り声を掛けた。血気溢れる子には放課後の部活で体当たりで指導した。大輔の記憶の中で鮮やかに残る卒業生は多いがその中でも特にとびっきり鮮やかに残る面々はやはり辰巳光を取り巻いたクラスの面々だ。
新正道、鈴木智雅、林琢磨、大前要‥‥そして斉藤健次郎。正道は難関極まりない無料の医学部にストレートで入学し卒業した。脳外科のドクターになった。智也もメンタルドクターになった。琢磨は高校教師に、要は新聞社に勤め海外にいる。
卒業生達は天使の羽根を持つように社会に羽ばたいていた。入学生は?
また新しい生徒が入学してきた。式場で新しい生徒を見回した大輔は教員生活二十年目を迎えた。二十回目の入学式、その日整然と並ぶ新入生達の中に真っ直ぐに頭を上げた少女を見た。輝く瞳を壇上へ向け整然と座る姿に眼を止めた大輔は、その少女の履歴を見た。そしてニヤリと笑った。
入学後のざわめきが落ち着き五月病も治まりを見せ、初めての定期テストを終えた初夏の頃。
午後から保健室で休んでいた友人の鞄を届けた一年生の彼女は、誰も居なくなったラウンジの椅子に腰を下ろした。不思議な保健室と思う彼女の瞳は周囲を見回さずにはいられなかった。二教室をくり抜いた部屋の作りは喫茶より幼稚園の雰囲気だった。壁に並ぶ棚は絵本と玩具、床に座るための畳コーナー。その横に彩りのひざ掛け毛布にクッションを詰めたボックス。それから頑丈なガラス棚が眼を惹いた。
棚に並ぶ分厚い背表紙の大きな本のような塊。
本?と、彼女は巨大なカラフル背表紙のバインダーに手を伸ばした。並んだバインダーの上に一つ余ったように横に寝かされた塊を取り出し、机で開いてみる。
何だ、壁新聞かとワクワクした気が少し萎んだがページを捲った。だが、見ているうちに心が踊り出した。それは不可解な噂のある新聞部の歴代壁新聞だった。不可解な噂はこれかと彼女は思った。
号外と書かれた文字、読むうちに笑いが込み上げて吹き出していた。誰がここに仕舞ったのだろう。こんな場所に?と思いながらページを捲った。すると、
『始まりはKiss』
その煽り文句が眼に飛び込んで来た。学校らしからぬ題に興味が文字を追う。彼女は読みし進めるに従い、口の端を引き攣らせていった。しっかりと写真まで確認した彼女はバインダーを元に戻し、落ち着いた様子でにこりと――しかし見ようによってはニヤリと――微笑みながら保健室を出て行った。新聞部顧問・辰巳大輔に会いに行くために。
彼女の名前は、斉藤聖。
在学中、学年トップの座を維持し初の女子新聞部部長を務めた才媛だ。彼女は、変人新聞部の敏腕記者としても名売った。かつて卒業式での誓いのキスという伝説を残した彼と同じように、数々の学園伝を残すこととなる。

                      完

始まりはキッス 【完結】

始まりはキッス 【完結】

高校生活一年三ヶ月。二年ダブリの斎藤健次郎はクラスメートで担任教師の超お気に入り大西光から突然声を掛けられた。俺の唇買わないか。何故かそうなってしまったかさっぱり分からない健次郎を主人公に話が始まる

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7
  8. 8
  9. 9
  10. 10
  11. 11
  12. 12
  13. 13
  14. 14
  15. 15
  16. 16
  17. 17
  18. 18
  19. 19
  20. 20
  21. 21
  22. 22
  23. 23
  24. 24
  25. 25
  26. 26
  27. 27
  28. 28
  29. 29
  30. 30
  31. 31
  32. 32
  33. 33
  34. 34
  35. 35
  36. 36
  37. 37
  38. 38
  39. 39
  40. 40
  41. 41