平成巌流島

「宮本武蔵殿とお見受けする」
 私の言葉に、目の前の男は怪訝な表情を浮かべる。誰だ、お前―――いぶかしげな男の顔にはそう書いてあった。
「…そうか。我が名は巌流。佐々木巌流だ」
 私の名乗りを聞き、彼は自らの記憶を探るように眉をひそめた。がんりゅう…ささきがんりゅう…、小さな声で呟きながら険しい顔をしている。
「ああ」
 ややあって、彼は間抜けな声をあげた。
「お前、小次郎かァ。佐々木小次郎」
 そうだ、と素直に答えるわけにはいくまい。小次郎は私の名で、今の時代ではこちらの名で呼ばれるとこの方が多いのだが、剣士の私は巌流だ。
 そう訂正すると、武蔵はへらへらと笑う。
「いいじゃねェかよ。どっちだって」
「いい訳あるか、無礼者」
 どこまでも小馬鹿にした男だ。私は深くため息をついた。だがこの馬鹿者に、私はあろうことか負けてしまったのだ。その事実が、なお腹立たしい。
「さて、あの日の続きといこうか」
 だから、私はこの日をずっと待ち焦がれていた。こうやって、彼と再び相まみえるこの日を待ち望んでいたのだ。離れ小島で地に伏したあの日の屈辱を、未だ忘れたことはない。
「続きって、どうやって?」
 彼は首を傾げる。その動きにつられ、首に下げた鈴がカランと音を出す。
「侍たるもの、刀がなくとも勝負はできる」
 私がそういうと、彼は再び怪訝な表情を見せた。三本の彼の髭が、穏やかな風にたなびいている。
「勝負って、この格好でか?」
「ああ、そうだ」
 今度は武蔵が大きなため息をついた。

「お前ェ、猫だろうが」

「そういうお主こそ犬畜生ではないか」

二人の間を、初夏の爽やかな風が吹き抜ける。私たちはただ、二人の間に流れる沈黙の行き場を探していた。


◇◇◇


 青葉がたくましく茂る公園を抜け、無機質なアスファルトの上を小刻みに歩く。武蔵は茶色い毛並みを揺らしながら、面倒臭そうにあくびをした。私は彼の後ろをひたすら歩く。足の長さが違うため、ちょっと油断するとすぐ距離をつけられる。遅れまじと、私はいつもより早足をした。爪が地面を蹴る何とも間抜けな音が周期的に響いた。
「おい、武蔵。話を聞いているのか」
 武蔵はもう一度、面倒臭そうにあくびをして足を止めた。
「お前は、何でそこまでこだわるんだ」
「こだわる? 当たり前であろう!」
 目を閉じずとも、あの時の記憶はさも数時間前の出来事かのように鮮明に蘇る。
「私は主に負けた。お主のような青二才の坊主に。私はそれが気に食わん」
 滅茶苦茶だ―――武蔵は半ば呆れながら、後ろ足で顔のあたりを搔いていた。
 その態度に、あの決闘の日が思い出された。待ち合わせに遅れた武蔵は、ちょうど今と同じような顔で島に乗り込んできたのだった。
「だから納得がいかん。何故私はあそこで切り捨てられねばならなかった!」
 ピク、と、彼の表情が固まる。私の台詞に反応して、武蔵は顔の色を変えた。
「切り捨て…? 俺は木刀を使ったはずだ」
 その言葉に、私の理性は臨界点を軽く超えた。全身の血液が煮えたぎる。
「白を切るつもりか」
 低く響かせたはずのその声も、わずかに上ずってしまった。武蔵は少し考え込むと、一人でに納得したような表情を浮かべたのだ。
 そして、彼は言った。
「ついて来い。決着をつけようじゃないか」


   ◇◇◇


 私は、黙って彼について行った。通り過ぎる景色が、市街地のそれからさらに変化していく。だんだんと磯の匂いがしてきた。
「急げ、あれに乗るぞ」
 そう言って武蔵が鼻先で指したのは、小さな遊覧船だった。
 武蔵は歩みを早める。私も歩みを早めたが、彼に追いつくためにほとんど走っていた。
 ようやっと船着場に着くと、私たちは人混みに紛れて船の中に潜り込んだ。何人かは私たちを見るなり、頭を撫でようとしてきたが、私は必死にそれを避けた。武士の頭を撫でようなどと、無礼な庶民め。私はそう言ったつもりだったが、先方には全く伝わっていないようだ。
 対して、武蔵のやつはといえば甘んじて撫でられている。私はそれを見て、一層がっかりした。奴も落ちてしまったな、と。
 私はでれでれしている彼を横目に、ひとり船尾の方へと歩いて行った。

「悪いな、待たせた」
 のろのろと私の元へやってきた武蔵の口には、一口サイズのするめいかがくわえられていた。
「何だ、それは」
「食うか?」
 武蔵は、くわえていたするめいかを床一面にばら撒いた。そこからは、何とも言えない香りが漂う。食欲をそそるその香りは、私の胃袋の底を突つくようだった。
「お前は、変わってしまったな」
 床に落ちたするめいかを口にしている武蔵に、私は口元のよだれが垂れないように気をつけながら話しかける。
「何というか、あの時の刺すような雰囲気はどこへ行ってしまったんだ」
 あの頃の彼は、一言で言ってしまえばもっと凄かった。何人も寄せ付けないような鋭さがあった。
 もっとも、私の嘆きを聞かずにいかをくわえている今の彼からは、全く想像がつかないが。
「お前は変わらないな。昔から堅物だ」
武蔵は嘲笑気味に言った。
「当たり前だ、変わることなどできるものか。時代が変わろうと、武士道は変わるものか」
「なに、長生きすりゃ嫌でも変わるもんさ。それに、変化してしまえば、こうやって飯にもありつける」
 武蔵は、少し遠くを見つめていた。私は彼の言葉に、黙っていることしかできなかった。

「それよりこの船は、どこに向かっているんだ」
 私がそう質問すると、彼は黙って外を見つめる。その視線の先には島があった。高い手すりの間から、新緑に染まった島が見えた。
「覚えているか」
「―――ああ」
 見覚えのある島の形だった。あの景色は、深く記憶に刻み込まれている。
「「巌流島だ」」
 二人とも声を揃える。いくら時代が経とうが、こうも変わらないとは。私は正直、驚きが隠せないでいた。


   ◇◇◇


 島に着くと、武蔵は再び人混みに紛れて船を出た。放されないようにと、私もそのあとを追う。
 島に降り立つと、先程とは少し違う磯の香りがした。懐かしい、私はそう思う。懐かしい匂いだった。体感時間的には、それほど経っていないはずだが。
 そこで、ふと疑問が生まれた。
 いつの間にか横に並んでいた武蔵が、こちらを覗き込んでいた。こういうところでの鋭さは、昔と変わらないのかもしれない。歩くたび小刻みに揺れる彼に、私は素直に疑問を投げかけた。
「主は、あれから何年生きたのだ」
「さあ、四半世紀は生きただろうな」
 武蔵は、分かってました、と言わんばかりに表情を変えない。そのまま彼は続けた。
「それで、もう死んだと思った、その直後、俺はこの時代で犬になっていた。そこからさらに半年、かな」
 ―――大分、これにも慣れてきた。そう小さく漏らした彼は、うっすらと笑っていた。
 対して私は、何も答えない代わりに黙って下を向いた。
「お前は?」
 何も言わない私に、武蔵はそう投げかける。
「まだこの姿になってからは、一月経っていないか…」
 私は俯き気味にそう答えた。彼は何も言わず、ただ黙って私の横を歩いていた。

 しばらく歩くと、少し見晴らしのいい場所に出た。そよそよと、吹く風に広い草原がなびいている。
 そしてそこには、大きな石像が二つ建っている。刀を構えたそれらの像は、力強く凛としていた。
「この時代に来て始めて知ったんだが」
 像を眺めながら、武蔵は重々しく口を開いた。
「俺たちの闘いは後世まで語り継がれているらしい。この石像がそうだ」
 そう言って、像を鼻で指した。「左様か」と私が答えると、武蔵は石像に背を向けこちらを向いた。
「ひとつ、お前に謝らなくちゃいけない」
 柄になく、彼は神妙な面持ちだった。その姿に、私も少し身構える。
 だが何をすることもない。ただ彼は、深く頭を下げた。

「すまない。信じてくれるかは分からないが、お前を殺すつもりはなかった」

 私の思考回路は一瞬止まった。彼の謝罪の意味がわからない。
「あの決闘は、俺がお前に一太刀入れた時点で決まっていた。だから俺は、気絶したお前をその場において島を後にした」
 武蔵は、頭を下げたまま言葉を繋いだ。私は訳もわからないが、ただ、心の中に何かフツフツと沸くものを感じる。
「お前を殺したのは、俺の弟子たちだ。俺の弟子がおそらく、お前を切り捨てた」
 そこまで聞いて、私はひどい影の中に落とされた気がした。なんということだ、私が宮本武蔵に負けて死んだのではなかったとは。
 そんな惨めな死に方をしていたとは。
 その瞬間、私の血液は沸点を超えた。
「ふざけるな!俺はそんな、そんなことで・・・」
 言葉が出ない。私の脳みそは空転し、完全に冷静さを欠いている。感情が無限に増殖し、私の中を侵食していた。自分でも制御できないような感情の渦が、ぐるぐると頭の中をかき回している。
 そんな私を見てなお、彼は「すまなかった」と頭を下げ続けていた。
 潮風が、私たちのあいだを通り抜けていった。


   ◇◇◇


「さあ、決着をつけるんだろう」
 ややあって、私が落ち着きを取り戻した頃、武蔵はそう言った。私はその言葉に曖昧に頷く。ポッカリと空いた心の穴は、どこか収まりが悪かった。
「俺は、今無抵抗でお前に嬲られても、文句は言えねえ。俺がしたことは、それくらいのことだ。ただなあ・・・」
 そこまで言って、武蔵は鋭い笑みを浮かべる。鋭利に歪んだ口元はどこか当時を思い出せせるものだった。
「ただ、俺はそんな性質(たち)じゃないんでね。黙ってやられるのは、趣味じゃァない」
「そうかい」
「それに、お前さんもお前さんだ。全く覇気がねェ。お前が今何を考えているかしらねえが、どうせつまらないことでも考えてるんだろ?」
 彼は大声で、牙をむき出しにしながら言う。だが彼の言葉は、私の奥底には届かない。血の抜けてしまった心臓は、あれだけ恨んでいた彼の言葉でさえ響かなかった。
「だけどよ、面倒くせェよ、そんなもん。どっかに捨てちまえ」
 私は彼の顔を見る。彼は、心底楽しそうな顔をしている。その表情は、完全に当時のものだった。あの若い、宮本武蔵。命のやり取りの最中、笑い続けた狂気の剣士。
 少し心臓が動いたような気がした。
「ほらよ、お互い面倒なもんを背負っちまったわけだが・・・」
 そう言って、彼は牙をむきだしながら笑う。

「あんときみたいに、目一杯楽しもうぜェ」

 今度は、心臓が動いた。私の中に血液が満ちていくのがわかる。先程までの虚無感は消え、今は鮮明に武蔵が見える。鼓動が高鳴っていくのを、抑えることができない。
 私は深く息を吸い込んだ。
「よかった、安心したよ。お主は、変わってしまったものとばかり思っていた」
「変わったよ、そりゃあ長いこと生きてたからな。だがよ、やっぱ人間、根っこの部分は変わんないってなァ」
 心に空いた穴など、最早どうでも良くなっていた。私は、自分の拍動を確かめる。
 生きている。確かに生きていた。あの時に終わったと思った命は、今もこの時代で、形は違えど続いている。
 再び、彼と剣を交えることができる。
 それだけで十分だった。
「そう、その目だァ。あんときのお前の目だよ」
「案外、変わらないものだろう」
 武蔵は、ニヤリとする。それに釣られてか、私の頬も緩む。
「本当は、あの時もお前と勝負して強くなりたかっただけなんだがなァ」
「別にいいだろう、そんな事」
 ―――そんな大昔のこと。私はそう言って肺の中の空気をすべて吐き出した。

そして、息を吸う。
「私は小倉藩剣術指南、佐々木巌流だ」
「おれは浪人、宮本武蔵だァ」
 二人の口上が終わり、辺りには鋭い沈黙が流れる。感覚が研ぎ澄まされ、わずかに吹く空気でさえ痛い。私は彼との間合いを図る。
 私の目には、木刀を持った武蔵が見えている。
 おそらく彼の目にも、長い刀を構えた私が見えていることだろう。
 彼の呼吸が見える。彼の呼吸と、私の呼吸が同期する。
 私よりも武蔵の方が体が大きい分少し不利に置かれているなと、私は冷静に分析する。これでは、私が間合いに飛び込むには時機が大事である。
 だがそんなこと、どうだっていい。
 あれから、いろいろなことが変わった。私も、そしておそらくは武蔵も。年月の中で変わらないことはおそらく、かなり難しいことなのかもしれない。
 だがそんなこと、どうだっていい。
 今は、彼と剣を交える今一瞬だけは、何もなくていい―――

 やがて私たちは同時に言葉を発する。
「「いざ、尋常に勝負!」」
 島に吹く潮風が、ほんの一瞬だが息を潜めたのだった。

平成巌流島

平成巌流島

宮本武蔵と佐々木小次郎、歴史に残る決闘を繰り広げた彼らは、平成の世で再びあいまみえる。

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-11

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