天聖の門 白銀の扉 ~セナルア編~

世界は、精霊と聖馬の土地と対となって存在する。
かつては精霊と聖馬が戯れる遊び場だった。
いまは呪い師が導き人が住まう、人間の土地となった。
今では、聖馬とも精霊とも交わることはめったに無い。

この世界には4つの扉があり、その奥に一つの門があると伝えられる。
門とは、“異世界”すなわち精霊と聖馬の住まう世界と通じている。
精霊の通る扉。
聖馬の通る扉。
人間の通る扉。
最後の扉がなんのためにあるのか、伝説の中でさえ伝わってはいない。
呪い師とは数多くの流派に分かれるが、業の熟練により階級が上がる。
呪い師の目指すものは、扉への到達であり、門をくぐることである。

登場人物説明

ダザイサ王国・・ルーヌ族を中央に南にパルナ族、西にザーロ族、東にチナ族、そして、王を頂く北のドルバン族の五族からなる。

カシマ・・・・ザーロ族長ザノヴァの長子。呪い師としての自覚が無く、館を飛び出し山岳の小屋で一人暮ら
       ししていた。その独特な性質から異質な者を敵愛してしまうが、自身の信念を曲げず執着し続ける。父の死後、族家の長となる。

ルア・・・・・カシマが愛した醜躯。

オキナ・・・・ドルバン族の業師。寒村の邑長、屋敷で呪い師の弟子を預かっている。

セナルア・・・父親の判らない孤児。呪い師に弟子入りするが不器用な生き方ゆえに、流浪の身の上となる。

セキ・・・・ドルバン族の呪い師。ダザイサ国の夢見師達が受け取った予見を繙くために、チナの匠の呪い師サザラと同行する。

ウィーダ・・ドルバン族の業師。セナルアに好意を持っていたが、師の忠告に従い故郷に帰るがセナルアの行方を探るためサザラとセキに随伴する。

ヤルツ・・・カシマの叔父。父の弟

ノエ・・・・カシマの叔母。母の妹

ギダール・・カシマの幼少時、族家の風習に従い二歳から七歳までの養父

イオ・・・・ギダールの長子。ルアの世話を任される。

1 予見

オキナは毎夜夢見にあった。
だが予見の業を持たない彼には夢は形に残らなかった。
ダザイサ国、王を戴くドルバン種族の山奥邑バンヂュ。
邑長オキナ。
彼は下級であるが、呪い師である。師匠として庵を持ち弟子達に教えを施し、幾多の呪い師をドルバン各地へ送り出す多忙な日々を送っていた。そして白髪の目立つ初老を迎えたこの頃、奇妙な目覚めを感じ始めていた。
不快な目覚めに吐息を漏らした。
冷気で張り詰めた闇の中で吐息がはっきりとした音となって消えた。すると、障子の向こうから柔らかな声がした。
「おめざめですか。お師匠様」
声の主が弟子の一人、ルーヌ族の孤児セナルアだと感じたオキナは言葉を返さなかった。
今は夜明け前、床を畳む時刻にはまだ早い。
気配だけを初老の呪い師は見ていた。
ルーヌ族の孤児セナルア。
今年十七歳になる漆黒の髪をした線の細い寡黙な少年。いつも俯き加減に悲しい笑みを湛え、人の後ろにぽつんといる。気弱な子ではない。芯の強い気丈夫な子のはずだとオキナは思っていた。
まだ人は、眠りの中に刻を置く。静まり返った室内は、何かを予感させる緊迫の帳があった。
予兆かと、セナルアが立ち去ったこと感じたオキナは身を起こした。
しかし、闇は、闇でしか無かった。
夢見の業をもたぬ彼は、深いため息を付くだけだった。
明日から、一月 巡行の旅が始まる。修行の旅だ。各地をめぐり帰ってきたなら、修行が終えた者達の旅立ちを迎える。
屋敷には、技師を志す少年達が寝食を共にしていた。三年間の修業を終えた弟子達はオキナの屋敷から巣立っていく。
呪い師として故郷へ戻っていく者、さらなる熟知に都邑へ向かう者。そして、悲しいかな、何一つ業を会得できず虚しく故郷に帰って行く者。その者がセナルアなのだと、オキナの心は沈み込んでしまい不快な目覚めの真意に触れられなかった。

春を告げる朝焼けが三日続けば大地に残る雪が完全に消え去り、五日目には水浸しの沼地のような大地が乾き、更に一旬もすれば眼に眩しい新緑の繁茂が風に戦ぐ春を迎える。
春のこの季節は、短い。追い立てられるように人は、野に家畜を追い立て畑に鍬を入れる。
セナルアも土を踏む喜びに勇み、まだ明けぬ庭にたった。
春を迎えた大地が重く冷たく張り付くような冷気を放ち、セナルアを迎えていた。胸一杯冷気を吸い込んだ身体が空腹を訴え、それを満たすために走り出した。
桶を片手に沢へと登る道すがら、人眼をはばかる行為を楽しむセナルアを明けぬ大地は隠していた。淡い光を放つ花を付けた草を摘むと、空腹を満たすまで頬張っていくのだ。
オキナの屋敷に住む者はセナルアの狂気に満ちたその行為を知らなかった。衣食を共にする仲間も、師であるオキナも好意を持つ兄弟子のウィーダさえ孤児であるセナルアの本質に触れられずにいた。
屋敷に住まう弟子達が一日は、水汲みから始まる。屋敷にある瓶全てに水を満たし、竈の灰をかき集め火を起こす。乳搾りを終えると、家畜を牧場へと連れて行く。日が傾くと連れ帰る。薪割り、賄い、畑仕事。技の会得に必死の者達は修行の場から出てこようとはしない。
セナルアが一日の仕事を終え、西母屋に足を踏み入れた時、弟子たちは風の業を会得しようと懸命になっていた。
戸口に佇むセナルアの姿に気づいた年長のウィーダは彼を招き寄せると、その掌に木の葉を載せた。それから、唇を指し 隠語をゆっくりと形つくった。
唇が発する高低の音が、木の葉を空におどらせるのだと教えた。
何度繰り返しても、隠音を発せないセナルアを押し退けた昨年弟子入りしたばかりのタダラが、ウィーダの前に木の葉を空に踊らせた。すでにこの業を会得したタダラが得意げな顔つきで、兄弟子であるセナルアの前にいた。一枚、二枚、三枚と木の葉が弧を描き床に落ちていく。
タダラだけではない。兄弟子に、会得した業を見せたいばかりに人垣が出来、セナルアがはじき飛ばされた。
居場所のないセナルアは部屋の隅に踞ると、掌に握り締めた木の葉に念を込めて息を吐いた。
木の葉は動かなかったが、息は柔らかな風となり部屋を抜け戸口へと消えた。
呪い師としての素質が、皆無。細いため息を付いたセナルアは、静かに立ち上がるとその場を離れ帳の中へと姿を消した。



ダザイサ王国。
極寒の季節が、大地を白銀一色に染め一年の三分の一が雪に閉ざされる。この時期、五族は長の元に集まり籠る。この長い籠りの季節に集まった者達を統率するのが呪い師の役目だ。
呪い師には、順位がある。本能に組まれた順列。業の能力のみが順位を決める呪師の掟。
師、先師、支匠、匠、要。そして、種族の呪い師を束ねる総帥。その総帥の上に立つのが聖賢。今まで聖賢になりえたであろう人物はいたが、その地位に立った者はいない。これからも精霊の大地に似合う呪師は現れないと、古史を語る先師は悟っていた。
ダザイサ国の古史を語るは、種族の先師。それは、薬草と手技を得意とする技師。彼等は練磨の修行はない。邑に定住し技を施し古史を語る。
五族共有の古史は、精霊と聖馬が創り守る永遠と、大地が受け継ぐ伝説。ドルバン特有の口伝は異郷の地にある精霊と聖馬を語る。異郷の地に向かった男の愛をも伝える。ルーヌ族の古史は、大地を守るは風の神だと伝える。風の神が聖馬族の末裔が眠る墓を隠し守っているのだとも伝えていた。 
古史を紐解く呪い師は、いない。
夢見の業を開花させ頂点を目指すことが呪師の勤めだと、種族の域を越えダザイサの大地を流離するのが彼等の習わしだった。
呪い師に種族の壁はない。
春を迎えたダザイサの大地には、流離の修行で練磨の業を磨く者達が姿を見せ始めていた。
匠の呪い師ザザラも、足の向くままに大地を流離する修行にあった。
彼は呪術と薬師、それに心気の業を兼ね備えた匠の呪い師である。今は予見の業を会得するために馬を友とし、ドルバン領の山岳に旅していた。
その夜、宿を求めていた呪い師ザザラは、草原を駆け抜けた一陣の風を感じ取った。その風を掴み取ろうと手をかざしてが、一陣の風は彼の腕を擦り抜け頬を撫でて通り過ぎた。
風は、頬を撫でただけだった。だが、頬が感じた風の気質がサザラの動きを止めた。
彼は暫くの間 動けなかった。
聡明な上に従順。これほどの純粋な気を受け止めたことが無かった。
大地でもなく、業師でもない誰かが生み出した風。心の闇を取り除くほどの純粋なその風の生み出された場所を求め、ザザラは馬を進めた。
夜半、突然の訪問者。それだけでも、オキナの屋敷は大騒ぎとなった。バンヂュ邑は流離の呪い師を迎えることのない僻地である。更に、呪い師の中で下級である師が上格である匠に宿を求められた。
屋敷は、騒然となった。
呪い師は常に自身の技を磨くために、大地を流離していた。それ故に、同格者の門を叩く。
オキナは、サザラを拝し、彼がいずれ種族の頂点に立つと感じた。
そして、はっきりと、何故に、と聞いた。
彼は、風を感じた、と言った。
「ダザイサ各地を巡り、初めて感じとった風を探したい」と。
修行の場。そこに群れる少年達。彼らの中に安息の風を作り出せる者達を見出だせなかった。屋敷の隅々まで、気を巡らせ特質の者を求めた。が、気を受け止める者なぞ無かった。
確信を手に出来ないザザラは、偶然が風を生んだのだと思い込んだ。そして、自然と闇に足を向けた。
闇に慣れた瞳は、月明かりが指すドジの一角へ導かれた。ひっそりと静まり返ったその場所は、屋敷が覆う雰囲気を一変させ人の出入りを拒むように閑散としていた。
心を揺さぶった風とは無縁と思われるその場所を、ザザラはしばらく静かに見ていた。そこに、少年の影が揺れた。
天空に上がった三日月が見せる神秘に魅入られていたセナルアは高鳴る胸を抑え帰路に就いた。そして、いつもの習慣のままに厩舎に立ち寄り藁束を抱え母屋に戻った。
それから、背戸を抜けドジへと向かった。
いつもの土間の一角。そこへ、寝床を作る。だが、土間から続く板間に影があった。
人影は、ザザラである。
彼は、藁束を抱えた少年が立ちすくむ姿を捉えると踵を返した。業師は一瞬で少年の孤独な心を読み取った。

翌朝、ザザラは師オキナに胸襟を分かちたいと切り出した。
ルーヌ族の少年。
チナ族術師門下として引き受けたいと、親交が深まると思ったザザラの胸中を反転させる言葉をオキナは放った。
「父無し子だ」
闇の中で感じた少年には、無辜な心がある。しかし、その生まれは、種族の教えに反するもの。
草原の民、ルーヌ種族。広大な草原を有する彼等は、放牧を糧としていた。風の女神を祭り、親を尊び、家族を守る。春になると集落を離れ、家畜を連れ草原を移動する。放牧は家族単位で移動することも、男達だけのこともある。
個々の移動は、広い大地が与える苦難を乗り越える強靭な意志と団結が必須だ。そのため、風の神の教えは厳格である。
父無し子。
「セナルア。あの子は、不浄の子だ。生まれて直ぐに母親を失った孤児故に門下を許したが、生まれのせいか術者として独り立ちもかなわぬ者だ。貴方様のような高名な方の門弟なぞ…とうてい無理かと‥」
正当な血質に欠けた子。清澄の心理が呪い師には必須。ザザラは、このルーヌ族の少年には呪い師としての資質がないと悟った。
ザザラは風の招きの意図を考えあぐね、オキナの巡行に同行した。
二台の荷馬車。ペチカ都邑を巡り技師の元で熟知の技を競う。この単調な旅はサザラの資質を曇らせてしまった。
サザラは、後を追う荷馬車の隅にいる二人を見た。
セナルアと師範ウィーダ。師の眼をはばかるように抱き合う二人。
山岳を離れ、雑踏の中に塗れるとセナルアは必ず熱を出す事を、オキナも日常を共にしている者達は知っていた。どんな薬湯を使っても熱が下がらない身体を介抱するのは、常にウィーダの役目だった。
寄り添う二人の姿が、ザザラの瞳には異質に写った。
呪い師には、あってはならない咎だ。 
非凡な才に恵まれながらも愛憎の中に身を落として行く者達が、集団の中で時折現れる。この二人も、そうなのだと、ウィーダの予見に心した。
ザザラは少女のように温和な性格に隠された神秘を探り見ず、呪い師として確定した若者の前途だけを思った。
その心が、見せたのか。ウィーダの予見は、激烈なものだった。
ウィーダの壮烈な死の予見。
悲痛な叫び声を上げ鮮血の中に息絶えるウィーダ。彼に縋り裂帛上げるセナルアの姿。
ザザラは、我が業の予見に背に戦慄が走った。だが、彼は躊躇うことなく、夢見を目指す新進の業が見せた予見をオキナに手渡した。
オキナの心が、凍った。立ち去るザザラを見送った脳裏が戦慄とともに蘇ったのは、毎朝の不可解な目覚めだった。
やはり、不浄な血質の子と、混沌とした脳裏は鮮明な見解を表せず戒律だけを思った。
その翌朝、破門を言い渡されたセナルアは反すること無く日常の仕事を終えた夜間、ウィーダただ一人が見送る闇の中に姿を消した。

暖かな風が、草の匂いを運ぶ初夏を迎えた。
変わらぬ日常を送るオキナの屋敷に、一人の旅人が宿を求めた。
馬に乗った男が地位のある者だと一見した門徒は、詰問することなく客を座敷へ通した。そして、師であるオキナに告げた。
オキナは対面した旅姿の男が何者なのか、彼の業では探り得る事が出来なかった。
「一夜の宿を」
と、男は言った。
男の声音は、温和である。年はオキナより少し若い四十半ばであろう。角張った顔と黒い瞳から、常人ではない意志の強さがうかがわれた。
三つ編みした赤茶けた髪を後ろで結たばねた髪型が一見ルーヌ族かと思われたが、腰の帯はドルバン特有の飾り文字が施されていた。特別不審な人物とは思われないが、何故かオキナの心が騒いだ。
「王都へ行かれるのですかな」
「いえ。風が導く‥。目的のない旅です」
風。オキナは頭の中で何かが弾ける感覚を覚えた。
セナルアが屋敷を出ていった以来感じる事が無かった不快な心地が蘇っていた。それを旅人に感じさせないように笑みでつくろったオキナは、じっくりと相手を見入った。
真新しい旅装束。
風体は確かに地位のある人物と映るが、供もなく一人。
更に、ここは旅の道筋から離れた編地、旅人が訪れる場所ではない。
男の旅の真意はと、自身に問うオキナには得る答えが見えなかった。
退くべき時を迎えていると、感じた。しかし、後を継ぐ弟子がいなかった。期待していたウィーダも、故郷へ帰って行った。
整然と座る旅の男の面持ちには、陰りが見えた。膝の上で組む両手が、焦燥を見せている。苦悶を持つ者は王都へ向かうのが普通である。王都ボアームには名のある呪い師が詰めていた。彼等を頼りに巡礼がなされる。
それに、何故 風なのだ。オキナは、瞑想した。
二月前の旅人も風に導かれてやってきたと言った。上格の呪い師。名は…。
「…‥泊めて、いただけますかな」
我に返ったオキナは、門徒を呼んだ。
「風が導く場所で、一夜を明かしたいのだ。屋敷を見せてもらって良いか」
男の口調には、強さがあった。有無を言わさない強さ。オキナは平伏した。
驚いたことに男が選った場所は、ドジだった。
ドジへ降りた男は平然と厩からわらを運び、驚き見守るオキナの前で褥を作った。何故、そうするのか分からず狼狽えるオキナをよそに、門徒の一人タダラが声を上げた。
「そこは、セナルアが寝てた場所だ」
傲慢さが垣間見える口調が彼の有能を覗わせたが、男は無表情なまま問うた。
「誰のことだ」
得意満遍の顔がドジに降りると、来客に礼もせずに語りはじめた。
「二月前まで、ここで賄いをしていたルーヌ族の父無し子だ。修行中何一つ会得出来ずに追い出された。俺は、あいつより遅れて入所したがもうすぐ技師だ」
「そうか。故郷に帰って、施しをするが良い」
「故郷。俺は王都へ行く。王都で学んで、要になるんだ。何で故郷に帰らなきゃならない」
その声を無視するように背を向けた男は、オキナに問うた。
「それで、何処へ行かれた」
オキナは不審顔のまま、言葉を返せずにいた。
「セナルア様の行方だ」
「何で、あいつが、様なんだ」
叫ぶタダラに、男はあっさり言った。
「お前のためにボアームの門は開かん。質なき者を暁の門が通さない」
「何で、何で‥そんな事が言い切れる」
「ダザイサが決める。大地を行く風が人を選ぶ。風が選った要となる者達は、すでに気づいている。ダザイサの大地が不穏の雲に覆われようとしていることに‥。気づかぬ者は、ボアームの門戸屋敷には辿りつけない。故郷に帰るが正しい」
「故郷。故郷なんかに、帰るものか。俺は、ボアームへ行く。ボアームで修行して、要になる。要の呪い師になってあんたの未来を見てやるよ」
「資質無き者にボアームの門は開かぬ。門を潜らねば、修行はない。故郷に戻り大義を果たせ」
「資質‥。俺は一番弟子だ。誰よりも早く業を覚えた。ボアームで修行して、誰よりも名高い呪い師になる」
「呪い師が、何故 旅するかを知っているのか。タダラ」
名を呼ばれた少年は、はっとして固唾を飲んだ。
「ガン山麓マスログ集落石切人夫の子。名をタダラ。集落の長が、お前をここへ連れてきた。だが、連れられてきたわけではない。ここが、そなたを招いたのだ。大地が人を選って、人は流離する」
「俺は、自分の道は自分で決める。親父のような生き方はしない。人に諂って生きていくなんて、嫌だ。」
「ザーロ族は、慈悲深い種族だ。血族を崇め、聖馬を守護に慈しみと無辜の心を持つ種族。太古から変わらぬ生き方、そなたの父君はザーロ族そのものなのだろう」
「俺は、ドルバン族だ。ドルバンの高吏になって‥」
「もう、やめるが良い。タダラ。ここで一番であったとしても、下級の指師だ。旅のお方の素性さえ見極められぬ己の立場をわきまえろ。お前は、呪い師としての心義を見失っている。今、要の業師から教えを受けたのだぞ。一つの教えから、十の道を悟らなければならない」
それまで無言だったオキナが、諌める言葉を放つとドジへ下りた。そして、旅人の前に跪いた。
その姿を眼にした者達は即座に師匠の後に従った。
タダラも膝を崩した。諭すオキナの言葉だけではない。肩に、男の手があった。
肩を掴んだ男の手が熱く、全身を包み込む覇気があった。そのまま、反する心を表せば男の破壊的な強さが、いとも簡単に心を握りつぶしてしまう恐れがタダラを小さくした。
何も言えず、俯くだけだった
破顔を見せない旅人だが、それでも腰を折ると静かに言った。
「セナルア様は、何処に行かれた」
オキナは、首を振った。

ドジで夜を明かした男は、屋敷の者が動きを見せない薄闇のうちに姿を消した。
この奇妙な男の出現が、呪い師であるオキナに動揺を与えたことは確かだった。師匠としての彼の行いが、孤児の少年を暗路へと追いやった。大地に住む者の行いではない。
セナルアが父無し子だと知ったのは、匠サザラが宿を求めたその日の昼だった。
ルーヌ族領アロア山脈南山麓ヤカタ邑長が何の前触れもなく訪れると、修行門徒を受けてくれと頼みこんできた。
オキナは、喜んで引き受けた。その時、気を良くした邑長が、各地の風聞を語った。ザーロ族家の長子カシマ。年頃を迎えたボアームの姫巫女。ルーヌ族の大地に、時折現れる狼が今年は姿を見せたと。そして、毎年変わらない雪害を語るヤカタ邑長が突然、切り出したのがセナルアの出生だった。セナルアの生まれ故郷は、ヤタカ邑から少し離れた小さな集落だった。
セナルアは、父無し子。彼が生まれた翌年、ヤカタ集落は雪崩で消えた。生き残ったのが、彼一人だった。父無し子を生んだ娘の村を、大地が許さなかったのだと長は語った。
“父無し子” その言葉だけが、オキナの耳に残った。
生き残った幼子が辿った軌跡より、上辺だけを思った。
愚かな心を、ダザイサの大地は許さない。
オキナは、頭を抱えた。
この夜から、オキナは苦悩を抱えることになった。ドジで一夜を明かした旅人が無言で去ったことが、慈悲の心をもたなかった彼を風の大地は許さないだろうと伝えていた。
オキナの庵は、師の呪い師を育てる場。
ダザイサのどんな小さな集落にも必ず一人は居る呪い師。
薬師とささやかな治癒の業だけを持ち、集落の者達の日常を見守る下級の師。その者が、人の心を見透かし心身の業を持つ匠の呪い師に優るわけがない。ましてや、夢見の業を持ち予見する要の呪い師の足元にも及ばない。そのことを凡人とて知り得ていた。
旅人が立ち去った後タダラは、ドジの竈の前に蹲りその場で大半の時を過ごしていた者の心の裡を考えあぐねた。
オキナは、自室に篭りドルバン族の口伝の書を読み始めた。
五族に分断され、更に細かく各地に分散されて伝わるダザイサの史記。その一部が書に記させてはいるが、大部分は口伝であった。
口伝を語るは、部族の呪い師。
その中には、抜け落ちた部分があった。特に、ルーヌ族に伝わる風の大地の章は特にあやふやに伝わっていた。それは、奴隷としてルーヌの大地を去った時、語り部である風の巫女も失ったからだ。三十数年の時を置いて、再び種族を取り戻し大地へ戻ったルーヌ族は、種族の数と同じように語る口伝も失っていた。
ダザイサの呪い師達は、失った口伝を取り戻すかのように放浪を住処としてダザイサの各地を巡り、大地が見せる修行に耐えた。
サザラも、そうであった。
彼はダザイサの南に位置するパルナ族領の生まれだが、今は隣の部族チナ族領ペトラカ都邑の族長配下の呪い師である。すでに匠の業師として名が売れている彼だが、籠りの季節以外は旅の空にあった。
匠の呪い師は、夢見を得意としていた。
サザラは、誘いの夢見を手にすると急ぎドルバン領ボアーム王都に向かった。

2 異端者

ザーロ族長ザノヴァには、隠遁生活を送る長子がいた。
名をカシマ。
彼は呪い師血族にとってあってはならぬ、その血筋をもたぬ異端者であった。
「異端の子」
ザーロ種族。族家血族が口を揃えて言い切った。
五族の中で、ザーロ種族ほど一族の結びの強い種族はない。太古より戒律と伝統を重視し伝え守り、血族と聖馬を尊ぶ種族であった。
長であるザーロ族家は、聖馬族を始祖として要の呪い師を生み出していた。だが、総師である族長ザノヴァの後を継ぐ長子カシマにはその資質が見えなかった。
里親を間違ったのか。それとも、元々、凡人だったのか。ザノヴァは頭を抱えた。
族家の子は、二歳の誕生日を迎えると里親を選り七歳までの五年間、養育を任される。カシマの里親となったのは、ザイロ都邑の外れダグ山脈系に近いタカシ邑長ギダール夫妻であった。
山河と 亡くした子の代わりに愛を注ぐギダールとその妻ミト。カシマの幼少期は障壁となる物は無かったはずであるが、族家へ帰って来たカシマには呪い師となる気質を備えていなかった。座を保ち長い時を祈り続ける忍耐が心中に刻まれてはいなかった。
異質な子。
血族の見る目の冷たかった。
そんな眼差しなぞカシマにとっては、どうでも良かった。
聖堂の床の冷たさが素足に心地良いのは何故なのか。高い天井から漏れる光がゆるやかに変化して憧憬と恐怖を抱かせるのは何故なのかを問い、人の目には見えぬ小さく蠢く物に執着した。そして、聖堂から外へ族家の敷地を越え、都邑の市が賑わう人の声と彩りに興味を示し毎日のように通いつめた。更に、触手は大地へと移り変わり、泥に塗れ獣を追い求め何日も帰らない日が続いた。その彼を見つけ出すのが、叔父ヤルツの役目だった。
彼は族家を囲む広大な山岳を見渡たせる麓に立ち、大地のすべてが縄張りだと彷徨くカシマの意識を探り、全身泥まみれの野獣のような姿を見つけ出しては屋敷へと連れ帰り湯殿へと投げ込んだ。
何日も野山に混じって野生のようなカシマだが、湯を嫌がることは無かった。ゆっくりと湯に戯れ短く刈った栗色の髪を丁寧に洗う姿から純粋無垢な心根が、ヤルツに伝わっていた。
土を蹴り、草を滑り、石に躓き、怒気を上げ、声を上げて笑い、野辺に明かりを灯し、野宿する二人は土にまみれた手を握り合い融け合う心地を共有した。それは、血族の強固な結束を揺るがすものだ。
族家にあってはならない心地を、今だけ味わっていたいとヤルツは、天上にある月に呟いた。
そして、大地と相和する無辜な心が、少しでも業師を願えば血族の仲間入りが出来ると思うヤルツも、ザノヴァ同様の悲しみが沸きあがっていた。
それから、まもなくして、血族を震撼させる出来事が起きた。
カシマが、遁走したのだ。彼が、十四を迎えた春だった。
ヤルツの業でも血族の要ですらカシマの行方を探れなかった。
ザノヴァは黙って、朱の空を見詰めていた。
都邑から僻村へ、風が伝えるままに遁走するカシマは養母ミトを思った。ミトを泣かせることだと分かっていたが、自身の心を抑えることが出来なかったのだ。
放浪の果てカシマが定着したのは、ザーロ族領とドルバン族領を隔てるメデメス山脈の北山区、寒村コヨージの集落から離れた山奥だった。
コヨージ村は、たくましく成長したカシマを歓迎し集落の中へと誘った。
籠もりの季節を集落で過ごした彼は、春を迎えると泉沸く山間に丸太小屋を立て始めた。
村人達は、カシマの素性を詮索しなかった。時が来れば村の娘と添い、代を重ねていくことを願った。
隠遁生活、それが、息子の願う日々であれば静かに見守ることだと、静かに届く風聞に眉を落とすザノヴァだった。
だが、今回は違った。
―醜躯の男を、熱愛している―
憐憫が、ザノヴァを襲った。
血族は、カシマを受け入れないだろう。それでも、ザノヴァの脳裏は瑞光に包まれたカシマの誕生の予見がぬぐい去れなかった。
ザノヴァは、弟であるヤルツに次代が来ると伝えた。
「次代の追随を頼みたい」
ヤルツは、声をあげた。予期せぬ言葉が、心中を貫いた。
「次代は、カシマだ」
ヤルツは、息を飲んだ。
族家の次代……。
ザノヴァは遁走したカシマの行方を追わなかった。探せと命ずることなく、住む者が居なくなった部屋を閉ざした。そして、その名を口にする事なく、空席を埋めることなく日々を過ごした。
それが、突然 その名を口にする意図。
ヤルツは首を振った。
「いずれ、人は無に帰り異郷の地へと導かれる。精霊と聖馬の大地を守る香木の宿り木になれるのであれば、惜しむことは何もない。唯一つ、瑞光に包まれた予見を見守れないことだけが……」 
苦渋の顔が、時がないと告げていた。
自身の予見を手にした兄の最後の望みが、長子カシマ。
ヤルツは頷くしか無かった。

初夏の風に吹かれてダグ山岳の邑へ着いたヤルツは、市の賑わいが伝えるザーロの変わらぬ繁栄を感じた。いずれ風聞が届くであろうその前に、次代を要とれねばならない。
ヤルツは馬を休めるために立ち寄った茶屋で食を手にし、コヨージ集落への道筋を聴こうとしたその時だった。
漆黒の長髪を三編し元結で束ねた青年の姿に気づいた。漆黒の髪はザーロ族家血族の特有のものだが、今その髪質を持つものが血族にはいない。ヤルツは魅入られたように厳つい風体の青年を目で追った。すると、青年が足を止めたのはなんとヤルツの馬の前だった。そして、ヤルツの馬に語り掛けるのだ。
驚いたことに、馬は警戒すること無く項垂れ擦り寄ろうとする仕草を見せた。
族家が選った俊馬だ。その馬が心を許している。不審心地のヤルツを、その顔が振り返った。
輝く瞳と、はにかむ笑みを浮かべたその顔。
「カシマ‥」
業師の本質が、青年を捕らえてそう呟いた。瞳が捕らえた風体は、別人だった。
幼い時の面影はない。それところか、髪の色はもちろん顔の輪郭も瞳の色さえ一変していると思ったが、微笑み掛ける瞳の色は昔変わらぬ灰色の瞳だった。ヤルツは何故か、安堵した。それでも、ザーロの古史が語る伝説の血族を垣間見た錯覚に胸が震えていた。
旅の疲れと八年ぶりに会えたうれしさからだと思った。
「なんと、凛々しくなったものか…」
「叔父貴も変わりなく、息災で何よりです」
身体に似合った歯切れのよい太い声が、間を置かず帰ってきた。
「なんという幸運な邂逅ぞ。八年前は、どんなにお前を探しまわったか。もう、二度と会えぬと思っていたものを‥。良く、私だとわかったな」
「本当の偶然です。月に一度、市に毛皮を売って必要な物を手に入れるために山から降りてくる。今日が、たまたまその日‥。鞍を外していいですか」
カシマはヤルツの目的を知るかのように、馬の手綱を摂り自分の荷馬車へと導いた。そして、馬から鞍を外すと荷台に積み込んだ。自由になった馬は大きく身震いすると、前足で土を蹴り尻尾を振った。
「日が沈む前には、山に帰り着きたい」
カシマの言葉に、ヤルツはまさかの言葉が脳裏から離れなくなった。待っていたのかと、問いたかったが言葉が出ない。
ヤルツが隣に座ると勢い良く馬を走らせるカシマが、道中を急いでいることは確かであった。カシマは、ヤルツが訪れる事を予感して待っていたのか。濡れたように黒く光る髪が、ヤルツの心を乱して行く。
太古の昔から動乱の大地が落ち着くまで、ザーロ族家の長は黒髪だった。族家に伝わる口伝が教える歴代の族長は、純粋な血族種。特別な資質を持つ者。更に、太古の世界を結ぶ者。
ヤルツは、固唾を飲んだ。紫の瞳と黒髪が、純血の血族の印。
だが、この種は絶えた。絶えたからとて、同じ血族。カシマの中にも同じ族家の血が流れている。
同じ黒髪とて不思議はないと自身に言い聞かせるヤルツだった。
街道から逸れ、平坦な野原へ出るとカシマは更に速度を上げた。先を急いでいると感じたヤルツはカシマが待っていたのだと感じた。呪い師ではない者が予知など出来ないと、心中を覗き見たが手綱を握るカシマの真核は固く入り込む隙はない。無言の時が続いた。
野原はやがて林道へと変わった。そこから勾配のある山道が大木の鬱蒼とした合間をぬって続いていた。馬は荷台がやっと通り抜けられる道幅狭い山道を巧みに登って行った。
突然、林道が開けた。
山道は断崖絶壁の草地を抜け下りの林間へ続いていた。ヤルツは、眼下にある絶景に声を上げた。絶壁から見渡す眼下は緑の草原に似た繁茂の森が広がり、濃淡に連なる山脈の間に集落であろう白い点と立ちのぼる薄墨の線が見えていた。その光景を見せるためか、突然、カシマは馬を止めた。
草地を覆うように疎らに生えた木々の間から夕焼けの情景が色鮮やかに変わり始めた。
紅色の夕暮れ。
その時だった。カシマの意識が、ヤルツの脳裏に飛び込んできた。
白くたなびく雲が朱に染まっていた。
その雲に目を向けた顔が曇ったと感じた時、ヤルツの脳裏に突然、夕暮れ時の林間が飛び込んできた。それは瞬時に消えたが、ヤルツの裡を震わせた。
薄紫の瞳をした眉の細い瓜実顔。紅色の光に包まれた驚いた顔がある。
亜麻色の長髪を乱した悲痛な面が艶然と輝き、脳裏の奥に張り付いた。
息を飲むほどに美しい女人だった。
恋をしたのだ。しかし、悲恋で終わった。カシマの陰りを帯びた顔が、そう伝えていた。
幼い少年が一人流浪の旅で雄々しく成長するまでの過程を思った。それが、心に詰まった言葉を放った。
「族家に、次代が立つ‥」
瞬時、カシマの顔が強張った。
「次代…。族長が‥あの、親父殿が…」
「遺恨を伝えに来た」
「いらぬ。俺は、族家の所以ではない。噂が届いているだろう。俺の悪癖を‥。最後まで、俺は族長を苦しめた」
カシマの語気は強い。その気を受けてか、馬は走りだした。
山道は下り。平坦ではないデコボコ道は荷台を揺らし、言葉を発せない。
ヤルツには、この異常に高ぶったカシマの心の乱れが何なのか。山岳の闇にひっそりと立つ山小屋の戸を開けるまで、探り出す事が出来なかった。


古史は語る。
精霊と聖馬から与えられた大地は、永久の無辜である。この地に活かせれた者達も無辜である。大地は、精霊の望む緑溢れた季節と聖馬の好む白銀の世界で守られ浄化される。
大地に住まう者達が悪しき心を持ったなら。
精霊は糧を与えない。
聖馬は、春を呼ばない。

ダザイサ国の北に位置するドルバン族は、五族の王を戴く種族である。王都であるボアームは王政をしいた時より変わる事なく辺鄙な山岳の麓にあった。森林の中に隠れるように見える神殿造りの館がドルバン族の長、ダザイサ国の王の住まいである。
王族が住まいするには貧相の屋敷だが、種族は不満も無く太古から伝わる暮らしぶりを続けていた。それは種族の伝説と歴史が、この地から始まっているという誇りと信仰があったからだ。
動乱の時期、ダザイサの種族を一つに纏め安定に導いた伝説の男はドルバン族長。彼の壮烈な生き方に感銘し彼の意志を継ぎダザイサ国の礎をしいたのが義母弟と五種族の呪い師達であった。
峻険な山稜アロア山脈を背景にしたこのボアームから少し離れた林の中に、呪い師の邑タヘタがある。ダザイサの歴史を彩った英人を補佐し続けた呪い師を育てた邑だ。
この邑も人を拒むように森緑に隠れるように佇む。
そのタヘタ集落に、ザザラはいた。
三角に組まれた太い四本の柱が守る庵。一巡しても柱の上の古めかしい建物の入口は見出だせない。しかし、その日、柱の一本に細い窪みを見た。
窪みは天上の庵へ続く。
招かれたと感じた。
「風は従順でした。今まで触れたことのない透明な物。泉のように清らかでいて暖かく包み込むやすらぎがありました」
薄暗い板間に蹲った人物の前に腰を下ろしたザザラは一礼するとそう言った。一筋の光すら入らない暗室の板の間、そこに壮年の男が一人香木の淡い明かりに仄かに照らされ静かに座していた。
薄緑色の淡い明かりが見せる顔付きは一見穏やかであるが、眉間が表す心情は苦悶とザザラは感じ取った。その苦悩が我をこの場所に招いた訳ではないと察しながら、夢見師の業を受け止めていた。
夢見の業を括るはタヘタ村長セキ。夢見に落ちるのは匠の呪い師ザザラ。
「その風を生み出した場所を求めて大地を馳せた。そこで少年に会った」
セキは静かにザザラの言葉を聞いていた。口を吐く言葉は、呟くようにゆっくりと重い。飛躍の天性に守られた若者の気迫がなく、陰りを帯びた顔に似合った心中を見せていた。
師の宿に、招かれた意図が掴めない。それが大地をいくら誘っても得る答えが見つからなかった。それが、日を追う事に深く胸に突き刺さる感覚が強くなっていた。
迷う心が道を示せずにいた。が、夢見の業がボアームを示した。そしてこの日、タヘタの門を潜った。
セキは、ザザラの心中が抱え持った苦悩を垣間見た。愛情に似た感情。一歩間違えれば、呪い師としての資質を歪めてしまう。しかし、ザザラの心痛は憧憬だ。稀な資質を持ち種族の頂点に立つであろう呪い師が心を許した少年。その少年が生み出した風も感じ取った。
「少年の名は、セナルア…」
セキはそう言った。つい半月前その行方を追いたどり着いた場所にザザラの気が残っていた。ザザラはそれを知らない。
驚いた顔がセキを見詰め知っているのかと聞いた。首を振ったセキは言った。
「アロア山脈南バンヂュ邑長オキナの弟子だったが破門された。今は、行方知れず」
「行方が…。私が原因ですか。悪しき予兆が少年を追い詰めたのですね」
「いや。いずれはあの場所を出て行かれる方だ。だが、あの方の質ならボアームかここへ招かれるはずがあのような僻地で身を隠せされておられたのか。我らもまた何故今まで気づかずにいたのか…」
ザザラはセキの心中が掴めない。目上の者に問うてはならない決まりがあるがザザラはセキの持つ疑問を問うてしまった。
「彼が持つ資質は稀だ。稀代の呪い師。ザーロ族家が隠し育てた血族に値する」
「あの少年が……」
「ボアームで育て上げたい‥が、行方が分からない」
それだけだは無いのだとセキの顔が更に曇った。
「ひと月ほど前、叫びとも思える風を感じた。それは救いを求める風だった」
セキの重ねた両手が緑色の光を放った。
一瞬で、目が眩む光が消えた。
何事のなかったように、両手を床に付いたセキは空に向かって深々と頭を下げた。
そして、必ず探し出すと呟いた。
予見を掴んだセキは、ザザラの肩を叩くと静かに立ち上がった。
「ザーロ族家に次代が立った。大地に起きた風は逆風。逆らわずして誘う」
季節は、初夏を迎えていた。大地が賑わいを見せる時期。大地が人を招く季節。何のためらいもなくセキは、流離と言った。

3 醜軀

ヤルツは、不思議な者を見た。
人ではない蠢く者。それは、小屋の中で一人カシマの帰りを待っていたのだ。
静かに横たわった者は、カシマに抱き起こされると驚きもせずにヤルツに頭を下げた。
夜気がそう見せたのか、潰れた眼の片方が透明な水晶のように美しかった。
翌日、畑に鍬を入れるカシマを、ヤルツは静かに見ていた。
畑の隅には、芋虫のように這いずりまわる醜軀がいた。頭は人の形に近いが顔は肉がひだを重ねように縦に張り付きそのあいだから右目がわずかに見えた。首はなく、胴体に頭が乗っている。足は見えず細長い腕が身体を支えていた。用を足す姿が男だと分かった。
日が西へ傾きかけると、醜軀を抱いたカシマは家路に着く。夕暮れ前に夕餉の支度を終えたカシマは醜軀の口に無理やり粥を押し込む。
一日を共にしたヤルツは、醜軀に名がある事を知った。
「ルア」
女名だ。カシマの異質がそう呼んでいるのかと思えば、そうでは無かった。
匠の呪い師であるヤルツは、醜軀の本質を見た。
外見は目を背けるほど醜いが、内面は湧き出る泉のような清らかさがある。夕闇を怖がるが夜の闇を好み、食する事を嫌がり、水を飲む事を好む。雨を嫌い、お湯を好む。
湯から上がった身体を拭き、頭の後ろに一房、尻尾のように垂れた赤い髪を解くカシマの満ち足りた心地が、ヤルツの心中に溶け込んできた。
館を出奔した後、長い孤独があったであろう。カシマの孤独を醜躯が補ったのか。ヤルツは枯れ枝のような両の手を取ると、業を放った。
業は、極限まで達せず跳ね返された。が、せめて、この両の手だけでもと念を込めた。
「ルア」
声を上げたカシマが乙女のような両手を握っていた。白い指をしばらく見詰めたカシマはその指を一本ずつ唇でなぞった。そして、嗚咽をあげた。
ヤルツはカシマの心情を、捕える事が出来ない。業を跳ね返す強固な意思が、あった。
ダザイサにある呪い師は、指師 技師 術師 業師 夢見師に分類されその熟知で階級がわかれていた。
指師と技師は師の呪い師と呼ばれ整体と薬草を煎じ、病を癒す。しかし、難病を癒すことは出来ない。術師に委ねられる。心に宿った病を診るのは業師の役目だった。
業師は資質と何より強い意志が、必要である。相対する呪い師の業を跳ね返す強固な意志、相手を射竦める気迫、自分をまげることない信念。
カシマの気質は呪い師の熟知の業も跳ね返す貫徹があった。
ヤルツは、唸りを上げた
そのまま館にいたら純潔の血族に値する業師になっていた。
いや、今からでも遅くない。
ザノヴァの予見がある。
カシマは涙したが、父の意志に首を振った。
「族家は継がぬ」
弟クロトワがいる。
血族は、それを願っている。
カシマは醜軀を抱いて泣いた。
「カシマ。これは、族長の勅命だ。長の意志を反古できん」

その頃、ドルバン族領、ペギ都邑バンヂュ邑のオキナの屋敷にまた旅の男が訪れていた。
旅の男はタヘタ邑長セキ。一人では、無かった。ペトラカの呪い師サザラを伴っていた。
ドジから続く板間に上がった二人は、押し黙ったまま並んで座った。ドジは暗渠のような暗く閑散とした場所では、なかった。
人が群れ語らう声が、あった。
満面の笑みを浮かべたタダラが、二人に拝礼した。
今、この奥を取り仕切るは彼だと穏やかな顔が告げた。
夕餉を囲むその場が、和やかに過ぎていった。
セキは問わず、タダラはオキナが残した口伝を語った。

4 揺らぎ

一族が、醜軀を受け入れない事は分かっていた。一族だけではなく族家の敷地内で生活する者達が奇異と偏見で出迎えるであろうと、カシマは覚悟していた。
やはり、そうだった。怯えと冷酷な眼差しが、醜軀に注がれていた。それに構うことない醜軀は、カシマを観るために整然と並ぶ臣下の列を這いずり回った。そしてうろたえ蔑む瞳など気にせず広間の中央で動きを止めると寝入ってしまった。
その身体を抱き上げ立ち去ったのが、養父ギダールと彼の長子イオであった。
カシマの隠遁がギダール親子の運命も変えてしまった。
ギダールは養父としての信用も邑長としての地位も、無くしてしまった。養育係として不適切であったとして、族家一族の罵倒を浴びた。それでも、何時か必ずカシマが族家に帰ってくると、タカシ邑から下人が住む長屋に移り住み屈辱に耐え長い時を待っていたのだった。
育てた子が、本来の地位に戻った。
ギダールと彼の妻ミトは祝報を耳にした日から、山に分け入り必死に香木探しを始めた。昔、野山は香木で溢れていたというが、今は山奥を幾ら巡ったとしても探し当てる事がない。それでも、ギダール夫妻は、連日山を巡り探し出したのだった。
ダザイサ国には、種族に語り継ぐ口伝がある。
ザーロ族に伝わる口伝は、聖馬人。
香木と泉が聖馬を呼び寄せ、ザーロに平穏と繁栄をもたらすと伝えられていた。
語る口伝そのままの場所が、二人の目の前に開けた。生い茂る潅木が垣根をつくる茂みを押し広げると、そこに泉があった。
光に包まれた泉が、二人の眼に輝く聖地に写った。
二人は手を取り合うと膝を折り、聖馬に祈りを捧げた。
長い祈りを終えると、香木を一枝手折った。
古記に習い祭壇を構えると、短く切った香木を三本備え親子で祈りを捧げた。薄闇の中で淡い光を放つ香木が、邪気を払い旅立つ者を守るのだと伝えられていた。故郷へ戻れる旅立ちは、そう遠くないとギダールは霞む眼で香木を見詰めた。
族家へ戻ったカシマの日常は、しばらくの間は長の業務を負うことなく自由だった。
族長はただの象徴だと思うカシマは、伯母のノエに采配を任せると醜軀を抱き上げ館から続く山林を廻った。幼い時、見ていた光景が敷地内にあった。
山岳の麓一帯が族家の敷地だ。
本館、離館、祭場、家臣達の屋敷、長屋、牛舎、貯蔵倉。広大な敷地には、彩りの建物が溢れていた。
林間に家屋が並び、家畜の声を響いていた。
ザーロの民は、長一族を族家と呼び尊厳と憧憬で拝していた。それは、族家が特別の人物を生み出していたからだった。
純血の血族と呼ぶ特別な資質を持つ者。
語り継ぐ古史には、聖馬人と記されていた。その最期の一人が、大地を放浪し敵対していた四族を纏めルーヌ族を奴隷から解放した。しかし、ルーヌ族の男を夫と選んだため特質が決別と流離の苦難を与え放浪の果てにその命を終える。そして、彼女の夫も妻を求めダザイサの大地を放浪し続け聖馬と精霊の大地を救ったと語られていた。
この史記は、ダザイサ五族に分散されて伝えられていた。
カシマが知るザーロの口伝は、純血の血族。
昔、族家の館を中心に個々の屋敷が建ち並ぶ山岳の奥に林間に隠れるように庵が散らばっていたと言う。それは大地を造り大地を守る者の血筋を、族家が密かに隠してきたからだ。その直系を密かに育むための庵が敷地を囲む森林に幾つか残ると、人の口は伝えていた。
「ここの、何処かにあるはずだが、感じ取れない。俺が、業師でないからなのか。教えてくれ。ルア」
カシマの腕には、いつもの醜軀がいた。醜軀は、そびえ立つ木々を見上げ白い手をくるくると回していた
それが、喜びを表していうことをカシマは知っていた。
外へいると機嫌が良い。その日の食も進むと更に奥へと向かった。
“純血の血族” その最後の一人が夫と共に住んでいた庵を見つけ出したい。それが、敷地の森林を巡る日課となって続いていた。
森林を幾らめぐっても廃墟の後も見られなかった。
何処かに残っているはずだと、そこを見つけ出し静かに暮らしたいと思っていたカシマだが、それを感じさせる物に出会えなかった。
痕跡だけでも良かった。
ザーロの風習に従い妻のために二人で住める小屋を建てるのであれば、せめて純血種の跡地の上にと願っていた。それもかなわないのかと、醜軀をやわらかな大地に置きその横に座ったカシマは、瞑想の中で微睡んでしまった。
その間、醜軀は動かなかった。片手をカシマに絡ませ、午後の日差しが映し出す風景を見詰め静かに涙を流した。
その頃、サザラとセキは、ドルバン族領北アロア山脈から連なるパチュリーズ山脈の東麓、コグスカ山村のウィーダの生家の門を潜った。
セナルアを追っている。初対面であるセキの言葉がウィーダの面を曇らせた。この人はセナルアを知らない。呪い師の勘がそう感じた。が、ウィーダは直ぐ頭を垂れた。そして、問うた。
「セナルアが、何をしたと言うのですか」
「ただ、消息が知りたい」
重い表情が放つ言葉がセナルアの身を案じて遥々やってきたと伝えていた。しかし、ウィーダには二人がセナルアを探す訳が分からない。ケキの顔を見詰めた。
「メデメス山脈南側の中腹、集落からかなり離れた奥山。そこからの足取りが分からない。近くにダグ山がある。ダグ山の麓にはかなりの集落があり、市も立つ。そして、泉の多い場所だ」
ウィーダに向けるケキの表情は固い。真っ直ぐに見入る瞳が何を見ているのかわからない。サザラは何も語らず静かにウィーダに視線を向けているだけだ。
「ムバトの泉からボアーム向かった。ボアームへ向かう辻馬車に乗ったが、途中で降りた。御者が不実な人物か、彼の意志で降りたか」
「泉が見たかったのでは‥。メデメス山脈は風光明媚の地、湧き出る泉が多い。そして、ダラ草原‥草と戯れる」
ウィーダは胸に浮いたままを言った。
「彼を知る言葉だ。なるほど、月が好きか。夜風と朝霧が好み、食を好まず、良く 熱を出す…果敢無く、曖昧‥。曖昧とはどういう意味だ」
セキはウィーダが持つセナルアの質を探り、取り込めない意味に声を上げた。
顔を赤らめたウィーダは俯いた。 
「師に言われました。心に隙があるからそう感じるのだと‥。業師の質を磨けと…」
「本心が聞きたいが、言葉を連ねるのは無理だろう。見せてもらって良いか」
ウィーダは、素直に頷いた。彼にはセキがサザラ以上の上格業師であると感じていた。要か呪い師を束ねる総師。総師とあろう者が一人流離にあるはずがない。要とて同じだと思う心が不意に途切れた。
「異性を感じていたのか」
その言葉で我を取り戻したウィーダだが、何故か心がざわめき立つ。今、彼の腕の中にセナルアがいる感覚が身を震えさせた。
呪い師の業が、セナルアを見ているのだと分かってはいながら、懐中の癒しを求め腕が我が身を抱き締めていた。
セキが、静かな口調で言った。
「確かにもろく儚い。中性を感じさせるが本質は違う。呪い師の質が見えない。彼は、愛に飢えていた。それが、彼の資質を隠してしまった」
「不実な者達の中で育ち、本質が開花されなかった…」
サザラが深いため息と共に言った。
「彼の乾きを癒せる女人がいたら…。資質が目覚め、本来の彼を取り戻せられるかも…」
ウィーダには、二人の会話の意図がつかめない。その顔に気づいたセキが言った。
「ドルバンの総師よりもはるかに尊い方だ」
「尊い…。セナルアが‥」
ウィーダが知るセナルアとセキが探すセナルアは別人かと、首を傾げる様子にサザラが微笑んだ。
「貴方が知る方が、セキ殿が探し求める方だ」
「だが、不可解ことに今の大地に気配がない。その時、疾風が伝えた彼の気も、夢見が伝えた彼の気も、救いを求めるものだった。それが、忽然と掻き消えてしまった。今は大地を流れる風は何も感じない。彼の存在すら感じない。それが、奇妙だ」
「セナルアが助けを求めていたと‥。‥‥それは、何時の事‥」
三月ほど前だとセキは言った。
「庵を出てひと月も経っていない…。そんなに前から…」
顔色を変えたウィーダは震える手で口元を覆った。そして、顔を振った。
「叫びにも似た刺すように強い気が救いを求めていた。ダザイサ五族いる要の業師は瞬時に消えた、その叫びを感じ取った。だが、難が残った。叫びのような気質が、誰のものか。何処から発せられたのかが分からなかった。分かるのは、その叫びを上げた方が要を下僕とする方だということだ。要を震撼された気質‥私を含め、要達は必死で探した。そして、風だということが分かった」
セキはそう言うと口を閉じた。
重苦しい沈黙が辺りを包み憂える思いが膝の上で拳を握りしめていた。
「あの‥、風だとは‥どういう‥」
ウィーダは沈黙を割る不躾に声を震えさせた。

5 妻妾


族長の座を継いだカシマが、やらなければならないことがあった。
族長の隣に座する女人を選ばねばならない。
カシマは、醜軀の立場を明白にした。
正妻。
館に住む血族は怒りの声を上げた。
族長の正室だ。
象徴となる女性で無ければならない。
真っ先に怒気を上げカシマに食ってかかったのは、伯母のノエだった。
業師には位がある。呪い師として修行しなかったカシマには確定の地位は無い。
今、この時点でノエが総師である。要であるヤルツは、何も言えず自体を見守ることしか出来なかった。
ノエは広間の床を這いまわる醜い生物に対して、憎しみのままに業を放った。
とっさに、カシマは防御の業を繰り出していた。
業師ではないカシマと業師が生業のノエ。
相対の波動がルアの目前で瞬時に光の玉をつくった。
黄金の火。
人の眼には、そう写った。
巨大な火の玉が醜軀を取り込む壁となって立ちはだかったと、後に口伝として語られるこの場面を広間にいた者達は固唾を飲んで見入った。
眼が眩む火の玉から視線を背けながら、それでも人の眼は釘付けになった。
黄金色が醜軀を飲み込んだ。すると光は緋王に煌き若葉色と化した。そして、爆発した。
爆風が広間を駆けた。
激しい衝撃が人の身体をなぎ倒した。それでも人は感嘆の声を上げていた。爆風は銀色に輝く光霊となって天井目掛けて飛び去った。
突風の如き白銀の塊が天井目掛けて駆け上ったかと思うと天井が、広間を支える柱が爆音と共に揺れた。太いねだが巧妙に組まれ強固な屋根を作る。
見上げるほどに高い天井が白銀の衝撃を受け強固な広間を揺らした。
白銀の煌きが眼にも鮮やかに写って消えた。業が結晶の刃となって突き刺さったのだ。この業の結晶は、来る時を待つように煌きを消し去り眠りについたのだが、血族はそれを感じ取れなかった。醜軀は広間の中央で何事もなかったように白い手を高く掲げくるくると回していた。
ノエの業は、敗れた。
動揺を隠し切れないノエだが、それでもカシマの前に崩れ落ち平伏した。
カシマの勝利である。
確かな次代を手にした血族は、新たな難問と向きあわなければならなくなった。
五族には沈黙の結びがある。ドルバン王家は、降嫁する年を迎えた姫がいた、次代が沈黙の結びとなる。ザーロ族に次代が立った。必然的に降嫁先がザーロとなる。それが、妾であってはならない。だが、カシマが譲ることは無い。座にある者達は、すでに平伏していた。異議を唱えることなぞ出来ない。
地位の逆転。カシマとノエの地位が入れ替わった。望んだわけではないがザーロ血族の首位を奪った結果になった。ノエ同様のカシマも失意である。お飾りのまま春を迎えザノヴァの喪があければ弟クロトワに座を譲り醜躯と二人元の生活に戻ると決めていた。
広間を埋める人の数がカシマを向き平伏したままの、予想もしない結果があった。その人の波を無視するかのように醜軀を抱き上げ去ろうとした。その時、胸にいるルアの指がカシマ頬を撫でた。
足元に、ヤルツがいた。
跪くヤルツが放つゆらぎに満ちた気質を感じ取ったカシマはしばらく佇んだ後、主座に戻った。そして、そこから一望した。
その場に、養父ギダールと長子イオがいることを確かめると口を開いた。
宰相をヤルツ。補佐にギダール。そして、伯母ノエの地位を剥奪すると言った。深く項垂れたノエは、反する気は無かった。
ヤルツは、ノエの半生を思っていた。族家のために業を極め嫁すこともせず、ザノヴァを補佐し続けた。地位の無い者に部屋は無い。大部屋に移り、我が身の周りは自身でしなければならない。
「それから、ヤルツには昇格祝に室を与える。準備は一巡で行え。以上だ」
この時から、ザーロ種族はカシマを筆頭に動き出したのだった。
頭角を表した族長カシマ。ザーロ族家は新たな一歩を踏み出したのであったが、その前途にドルバン族の呪い師が大きく立ちふさがる。
セキは、サザラとウィーダに言った。
「ザーロで異変があった。ザーロ族家へ向かう」

6 暗雲

暗雲


カシマが居室に選んだのは、鐘楼だった。そこの最上階に一室を設け、ルアと生活を共にしていた。ルアの身の回りの世話を任されたのはミトであった。
寡黙なミトは懸命にルアの世話をしていたが、ある日をさかいにルアはそれを嫌がりはじめた。
暗室に閉じこもり、日の差す座敷へは出てこない日々が続いていた。
ミトは、気づいた。二人が、一線を越えたことを‥。
悲しい契が、醜軀に与えたのは絶望なのか。
動かない身体は、食を取ることもしなかった。このままでは衰弱し動く事が出来ないのではと、ミトは思った。無理矢理に食を与えるのではなく、好む物を摂ってもらいたいとルアの前に居住まいを正すと深く頭を垂れた。
「ス‥テロ‥」
ミトはハッとして顔を上げた。その声が、何を言っているのか分からなかった。
「ヤマ‥ステ‥ル」
喘ぐ濁声が、やっとの想いで言葉をつくっていた。
「やま、すて、る‥」
ミトは、言葉を繰り返した。
「山に捨てる…。カシマ様が、許さない。貴方様のために家業を継がれた。あなた様を失ったならカシマ様は生きてはおられません。私達のためにカシマ様のお側にいてください。私が、お世話いたします」
言葉を理解したのか、確かに醜軀は頷いた。そして、細く白い指が、戸口を指した。顔が、ミトを見上げていた。暗室から座敷に出る気になったルアを、腕に抱いたミトはホッとした
「ワザ‥ワイ‥クル‥。コロ、セ‥」
何を言ったのか分からないミトは、足を止めた。
コロセ。言葉を吐いたルアは暴れ転げ落ちるように座敷の床に降りると窓辺に向かって一目散に這いだした。それは、手すりの柵を掴んだ。そして、何処にそのような器用なワザを隠していたのかと思われるほど素早く手すりを登った。それからその身体が行う行為を予想したミトは、叫びを上げた。
殺せとは、このことだ。動けなかった。瞳だけが、手すりから飛び立たんとする姿を捕らえて立ち尽くした。その横を影が走った。
柵を跳び越えた身体を掴んだのは、カシマだった。
カシマの腕にいるルアを見たミトは、座り込むと泣き出した。
「スマヌ…」
呟いた声が、むせび泣いた。
「お前が悪い訳ではない。悪いのは俺だ。俺が、父の意志に背いたから…」
醜軀を抱くカシマの声は、失意のミトの裡を一変させる情があった。
カシマは心から何かを悔いている。ルアを抱き部屋を去ったカシマが、過去の柵を抱え苦悩しているのだと感じ取ったがそれに関与できないミトはまた涙にむせた。
カシマが向かったのは、湯殿だ。血族のための湯殿。カシマの姿を一見した血族達がすみやかにその場を去り、残された二人はゆっくりとした時を湯に浸かった。
ルアは、すべてをカシマに任せた。すでに抵抗する気はない。身はカシマを受け入れる変化を見せていた。心は、カシマの小屋の扉を叩いた時から決まっていた。
「この契を人は受け入れないだろう…」
カシマは、呟いた。
「それでも、誓う。あの時、捧げた言葉は真実だ。そのために生きたい…」
一人孤独を噛み締めて生きられない思う心が、何故にこの様に残酷な仕打ちが出来たのかを自身に問うた。初めて抱いた時から心馳せる温かみは変わらない。その中に、混ざり溶け込みたいと欲した胸裏が無理やり肉襞を裂いた。
「俺に総師ほどの業師であれば、貴方を変えられただろう。族家の力を借りれば…。だが、父の希望を踏みにじり血族すべてと敵対してきた俺には彼らと相和することなぞ出来ない。だからと言って、去ることも出来ない。最後まで俺を見捨てることが出来なかった父ために、もうしばらくこの地位に在りたい。もうしばらく…。そしたら、山へ帰ろう。また二人だけで、静かに暮らそう…」
カシマの温かみがルアの内に溶け込んでいた。涙をためた瞳がカシマを見上げ、横を向くと小さく頷いた。
それから日を置かず、カシマはヤルツの正室を言葉に発した。
「嫌です。今更、嫁すなど、とんでもないことです」
ノエは声を上げた。
まさかの名指しだった。
「儀に則った華燭にする。長の命に従え」
「若い娘はたくさんおります。子の産めぬ私に部屋などと‥」
「子が欲しければ、妾を持てば良い」
カシマの口から飛び出ようとは思えない冷酷と思える言葉だった。だが、ノエは怯まなかった。
「いいえ、長としての判断が危ぶまれます」
「理屈はどうでもいい。俺に、反する者がいるか、いないかの問題だ。伯母上。貴方は、業師としては、俺より上だ。だが、族家の位置は、違う。俺が族長。族長の命に従ってもらう」
「それでも、嫌だと言ったら‥」
「規律を乱す行為だ。族長あっての族家。族家のために生きてきた貴方が、先代の意志を反故できるか。それとも、俺の命を絶ちそなたが長として立つか。長の俺に従うか…」
「私は…」
族家のために生きてきた。長を支えるために生きてきた。族長の言葉が、族家の要。従うことが、血族。ノエは項垂れた。
「分かったなら、夫を迎えるための準備をしろ。純白の正絹を翌日、部屋の前に飾る事も忘れるな。侍女を二人選び、床の準備をさせろ。以上だ」
立ち上がったカシマは、呆然のヤルツを見た。
見せかけだけの室ではない。カシマの顔がそうヤルツに言っていた。
ノエだけではなく、ヤルツも試されているのだと。


籠もりの季節を前に祝儀を行なう。館の中が慌ただしくなった。
業務に追われるカシマに変わり醜軀を見守るのはイオの役目となった。
イオは鐘楼の閉ざされた部屋の奥に横たわった姿を確かめると、明かりを灯した。嫌がられるのを覚悟していた。その顔がゆっくりと振り返ると枯れ枝のような手を差し出した。
「フユ。クル」
鐘楼の座敷席から見える風景が夏の盛りを過ぎ次の季節が来ると伝えていた。深緑の山肌に黄土色の斑模様が潰れた瞳にも映るのかと胸にいる一房垂れた髪に触れた。そして、持たれる不思議を思った。その身体は軽い。初めて腕に抱いた時、人の重さを感じたが今は幼児の重さと変わらないと爛れ異臭漂う身体を優しく抱きしめた。
「ヒトガ、ツドウ…マエ、イノル…」
冬篭もりの季節前に何かがあるのかとその顔を覗き見ようとしたが枯れた指が頬に触れた。
「チチト、ハハノ…ダイチ…、…イノチ」
父と母の大地、命。
一日の大半を共に過ごすようになると醜軀は言葉を放つようになった。それには深い意味があるとイオは感じ取っていた。少ない言葉が含む意味は、真意を探る難しさがある。
「ルーヌ草原が風の大地だと聞いています。父の大地は」
「テンセイ、ハハ…チセイ…」
醜軀は呪い師だとイオは思った。
「天聖、地聖」
初めて聞く言葉ではない。古史が伝える伝説は、精霊と聖馬が住まう大地は天聖、ヒトが住まう大地が地聖。
「チチ…ハ、マツ…トビラヲ…アケル…モノ」
天聖と地聖の間には四つの扉がある。光と風と闇と水の扉。精霊は水の扉を開き、聖馬は風の扉を開けて地聖の大地へ降り立つのだと聞いていた。
「光と闇の扉を開けるのが人なのですか」
醜軀は頷き口元に手をやった。言葉を括るのが困難だと悟ったイオだがそれでも答えが欲しいと崩れた肩を掴んでいた。
「天聖の門を潜った人がいるのですか」
「イル。ヒトリ…」
醜軀の身体がゆっくりとイオの膝に落ちた。夕闇が迫っていた。それ以上の問いに答えは返らない。白い布に寝入った身体を包むと胸に抱いた。

朝夕に冷えを感じるようになると、大地を流離していた呪い師達は郷里へと踵を返し始める。山麓が色めくこの時期に異種族の旅人が訪れることのないザーロ族家に流離の呪い師が門を叩いた。
呪い師の風習だけでは無い。長は訪れた者を受け入れる。
「訪れた者を追い返してはなりません」
食膳を分かつギダールが言った。
腕に抱く薄衣に包まれたルアの枯れた指がカシマの頬に触れた。ヤルツの業で白く美しかった両手がこのひと月の間に元に戻っていた。それが、カシマの心を震えさせた。その心を見ぬいたように流離の呪い師は対面したカシマに言った。
「風が取り巻いている。精気ない風。その者は籠りの季節を越えること無く逝く。まだ、若い‥至純‥を願う者」
一見してドルバン種族であると分かるいで立ちの老年の業師。大地を流離する年ではない。それでも老人の額に刻まれた皺と眉を落とした憂えた顔が境地を見出すまで誘うと強固の決意が垣間見えた。
カシマは、黙って首を振った。
「真実を見出す業を持たぬゆえに、いらぬ事を申しました」
夢見の業をもたぬ業師だと老人は素直に誤った。そして、風の業師を追ってこの地へやってきたと言った。
「風の業師‥。その方は、どんな方なのだ」
カシマの隣に座していたヤルツが、尋ねた。
「わしには、分からないのだ。三年間も寝食を共にしていたのに、あの方が誰なのか分からない‥。わしが愚かだから、あの方を見いだせないのかもしれない。だが、風がわしに言う。誘え。誘えば出会えると…。だから、導かれるままにここに参ったが、導かれたと感じたのは間違いかもしれない…今この場に導きの風は無い。迷う心しか無い…」
流離の老師。それは、オキナだ。
今宵一夜の宿をお願いすると、オキナは深々と頭を下げた。この老師を追うかのように、翌日 また旅の呪い師三人が族家の門を叩いた。
セキ達である。
不釣り合いな交わりを感じた族家の血族達は、正門から入り謁見の間を目指す三人に刺すような鋭い気と射竦める眼差しを向けた。
風雅を身に付けた初老の男は人を導く才があり、その横に並ぶ青年は熟練した匠の呪い師だが、もう一人の若者は二人の下僕なのかと思えるほど呪い師の地位が低い。流離を組むには不釣り合いな三人に冷たい気迫が迫る。
正門を使えるのは使者だけたと。
その冷たい気配を受け止めたセキは血族を纏める総師が不在だと感じ取った。
種族の柱となる総師。その不在がダザイサに暗雲を呼び寄せようとしているのかと導かれるままに謁見の間に向かった。
長に謁見できるのは一人、その掟通り広間に入り薄縁の隅に座ったセキだった。セキは旅人としてカシマの前に座るつもりだったが、その姿を見た途端心が一転した。
ザーロ族長カシマ。
居並ぶ者達に言葉を投げるカシマの周りに補佐はいない。それでも彼は、問われた難題を即答していく。迷いない言葉が、抱えた苦悶を一掃させる。破顔が拝礼して去っていく。
セキは、これが血族から異端と言われ蔑まれた子かと思った。
瞳が捕らえたザーロ族長カシマの風体は、伝説に残る歴代の族長そのものだ。
ザーロ族家は悪評を世間に流し伝説の血族を隠し育てたのではないのかと疑心が湧いた。が時折見せる虚ろな裡が凡庸であると垣間見たセキは何故か心が騒いだ。見続けるうちに平凡な質が強固な信念を持つ不思議を感じさせた。
完全と不完全、成熟した肉体と到達しない才知。
巷を飛んだカシマの風聞をすべて洗いだした脳裏は、ザーロの異変の元は彼だと読んだ。
業師の資質を感じさせないが天性は業師だ。セキの夢見師の業がそう告げている。覚悟しろと…。
対峙するには慎重な采配が肝要とセキは無心の中に時を置いた。
広間に謁見する者が居なくなると、カシマは流離の呪い師に視線を移した。一人広間の隅に座し静かに時を過ごす初老の呪い師はドルバン族固有の古風な身なりをしていた。
股の割れた繋ぎ服に腰帯を巻いていた。今はそれを身に付ける者が少ない。それが、特別な格付けを持つのだと感じたカシマは、注意深く男を見詰めた。だが、男からは穏やかな気質が伺え敵意を感じ取れなかった。敵意がないと感じた胸は、何故か、得体のしれない何かが身の内に覚醒めた気配を感じた。そして、何故、感じたのかを自身に問うていた。
「おまたせいたしました。部族を継いだ若輩者ゆえ采配振るえず、随分とおまたせいたしました。隣の化粧部屋をお使い下さい。後ほど、宰相がお伺いいたします」
「いや、我らは修行中にて夜露を避けられればと、門を叩いたまでの事。申し遅れましたが、私はボアーム配下セキ、長座敷に控えているのがチナ配下の業師サザラとドルバン族の施師ウィーダ。屋敷を汚すにもったいない。中庭か、土間の隅で結構です」
セキは板敷の暗さに溶け込みそうなカシマに、惹きつけられる何かを感じた。そのため、本来の目的から脱した言葉を選んでいると自分でも気づいた。
「タヘタの長であるあなた様を冷遇したとなれば、この族家の恥。一室を設けますゆえ しばらくおまちください」
その言葉で一番驚いたのは、謁見の間である広間から続く控えの長座敷で聞き耳を立てていたウィーダだった。彼は脳裏が弾ける衝撃を受けた。
“タヘタ、口伝に伝わる村だ。
ドルバン族長を影で支えてきた呪い師を数多く生み出した村だ。その長、それだけでもドルバン種族であるウィーダを震わせたのだが、更なる言葉が彼の心に突き刺さった。
「本来なら総師としてお迎えしなければならないのですが、そちらも何か訳ありの誘いにあられる様子。一時の狩屋としてお使いください」
総師。ウィーダに戦慄が走った。
《ドルバン総師》
種族の呪い師の頂点に立つ御方だ。言葉を交わす事の出来ない雲の上の御方。ボアーム神殿を巡ったとしても、下級の業師が顔を見ることすら出来ない。ましてや、言葉を交わす事など夢また夢だと膝に置く拳が大きく震えた。項垂れたその肩に腕を回すサザラは、彼の心根を指していた。
セキの方は、カシマの特質の資質に魅入られていた。
「夢見の業をお持ちとは、存じ上げず‥」
セキは眼光鋭く睨む形相で相対するカシマを威嚇した。生粋の呪い師が得意とする業、その気を質の脆さを的に揺さぶりに掛ける。心の奥を目掛け真っ直ぐに業を掛ける。しかし、セキの得意技があっさりと撥ね付けられた。
微動だにしないカシマは面も情も割れない。
こんなに簡単に跳ね除けられるとはと、セキは嘆息を吐いた。
下った。と、驚くサザラだった。
彼はセキが業を放ったのを感じ取った。そして、カシマの懐中には届かす消失した事も感じ取った。
だが、このままセキが引く訳がないとザザラは思った。ドルバンの総師が呪い師でもない若輩に屈するわけがない。相手がザーロ族長ならなおさら引き下がるわけにはいかないはずだと、固唾を飲んだサザラは戸口に躙り寄った。
その後を追う様に、ウィーダも中の気配を伺った。しかし、ウィーダの心はザザラの裡とは違い尊敬と恐れを抱いていた。
大地を旅する三人は対等だった。流離の友としての待遇だった。
一旦拝する方だと知った心は萎縮して本来の資質を拡散してしまう。セキはそれを恐れていた。旅の真の目的は、別にある。それには、ウィーダが必要なのだ。呪い師は心を乱すことがあってはならない。セキはウィーダを気遣いながら、ザーロ族家館が醸し出す気迫に混じらない気質を感じ取った。
謁見広間の格子戸から見える離れに眼を向けた。そこに、族家に漂う気配とは違う気迫が漂っていた。
その気迫が、セキを包んだ。
若い情熱が無心に問い求める心と懊悩する宿命を科された心が混ざり合う雰囲気。
セキは即座に、その雰囲気に魅せられた。
ふたつの心が無心に問答するのは古史だ。
古史を語るはオキナ。疑問を問うのは館に住まう少年。その二人は、古史を紐解いている。セキはこの二人の中に混ざりたい気持ちを抑え、カシマを向いた。
そして、強い気迫で睨み付けた。今居る者は門前の敵。それを倒さなければ先へは進めぬ。セキは混沌の気配から抜け出す仕業に拳を強く握り締め床に押し付けた。その気配を感じ取ったザザラがウィーダの手を取ると戸口を閉めセキの後ろへにじり寄った。陰を組み相手を手中に収める。     種族の長に対し不躾な荒業だと感じながらザザラは陰侍を組んだ。
陰侍は瞑想だ。外界が奏でる音を消し去り脳裏渦巻く煩雑も欲望も無い透明な天聖を目指す。呪い師が目指す天聖の門、白銀の扉。扉に手を掛けるのは我なりとザザラは深く深く息を吐いた。

「精霊王じゃなぁ」
オキナはそう言うと煌めく瞳で見詰める少年を見た。ザーロ族には珍しい栗色の髪を肩で揃え、巻布で額を隠す成人前の少年から不思議な香りが漂っていた。単粗な服装が下人かと思えば、問答の知恵は常人を遥かに超えた知識を持っていた。
「太古の昔、ダザイサは極寒の地であった。雪と氷で閉ざされた者達が暮らす大地は、飢えと寒さに耐える過酷な風土だった。ここで生き抜く者達が語り継いた伝説があった。生きる希望が語り継いた伝説は、大地を造り変える精霊王がこの大地から生まれ異境の地へ旅立ち天聖の門を開ける。すると、ダザイサの大地が緑萌える大地へと変える」
「天聖の門…は異境とダザイサを結ぶ門」
「そう語られている。天聖の門の前には四つの扉があり、扉を開ける者を待つと…」
伝説に魅入られた高揚した面差しが吐息を吐いた。夢中にあると。
オキナも無心でありたいと思った。少年の心と同じ飽くことを知らぬ夢中を無心で語りたいと思った。そして、少年が持つ不思議な香りも身につけたいと思った。少年はオキナが族家の逗留を許されたその夜半に突然現れ風の大地はルーヌかと聞いた。そうだと答えると笑みを浮かべた顔が踵を返した。そして、今宵また訪れたのだ。
少年は、天の扉を開ける者を聞いた。それから、母の大地は何処にあるのかと…。オキナは戸惑った。古史は、母の大地を語ってはいない。次に聞かれた父の大地も語ってはいない。
「名は何と言うのだ」
ここで初めて少年の名を聞いたオキナは、その瞳が緑掛かった灰色であることに気づいた。六角の部屋を照らす二つの蜀が見せるまやかしなのかと、口伝が伝える大きな緑色がかった瞳を覗き込んだ。その瞳が言った。
「イオ。ザイロ都邑タカシ邑人。父は東の官吏。名はギダール」
「東の…。族長直属の臣下か。いずれは、そなたもザーロの重臣となる人なのだな」
安らげる柔らかな気を放つ少年。その心根が流離の疲れを癒すように快い。
「いいえ。僕は東館へは行きません。一生をお仕えすると決めた方がいます。その方のためにもたくさんのことが知りたいのです」
「東館を目指さないのか。父殿が失意なさる」
「父も同じ考えだと思います。族家が安泰とわかれば故郷へ帰ると決めていました。僕はお仕えしたいと思う方と巡り会えたのですから、父と同じ道をたどれない。」
宿命を負った子。オキナの胸が大きく弾んだ。予見を持たない彼だが目前で神妙な面持ちで語る少年が未来を向いて歩き始めているのだと悟った。
忘れていた。と、オキナは深く息を吐いた。
少年達は無垢な瞳を輝かせてオキナの庵にやって来た。無辜の心が貪るように仕業を会得していく。必死に輝く瞳を上に向けていた子供達が指師の仕業に夢中になり視線が下を向いていく。床を見詰める少年達は瞳に輝きを失う。ダザイサにいる呪い師が目指すは天聖、輝く瞳を天に向けていなければならない。
庵を旅立つ時、見送るタダラは輝く瞳を向けて言った。
「お帰りになるまで、皆で庵を守っていきます。無事にお帰りください」
真っ直ぐ向いた視線が、曇ることなく天を仰いでいた。その姿がダザイサの呪い師なのだ。
オキナは大きく頷いた。この旅に活路を見出し故郷へ帰れるのであればもう一度技師を育てたいと強く思った。
そのオキナに一歩にじり寄ったイオは縋るように言った。
「お願いです。あのお方を救ってほしいのです。ここへ来てから死を願っていました。でも貴方様がおいでになった時より様子が変わった。風を知る者だと…。どうか、助けて欲しいのです」
言葉が生気無い風を感じさせた。族家館の門を潜った時密かに感じ取った気が、異常に心に掛かっていた。その気が少年の言葉から蘇った。
「その方が主…か」
「あの方は山へ帰りたがっておられる…。何かの因縁であのような醜い姿に変わり果てたのか。毎日、絶望されていた。貴方様がおいでになったからには、必ず元の姿に戻ることができる。どうか、お願いします」
族家の業師が業を解かせない者を一介の指師が施す技はない。
「わしが助けられるのは怪我人と病人。重篤な者を診るのは術師。身毒に侵された者を診るのは業師、その者の未来を診るのが夢見師。すべてを兼ね備えた者が要。指師のわしには助けられぬ。今ダザイサの頂点に立つのはドルバン総師、その方に縋るのが得策…。今直ぐボアームに使いを出されるが良い」
「ドルバン総師様なら本館におられます」
固唾を飲んだオキナは少年が指差す方を見た。開けた窓から繁茂の茂みが夜の気配を隠していたが、その間から小さな明かりが見えた。そこに、風聞でしか聞けぬドルバン総師がいる。
気を伺おうと瞑想に入りかけたオキナの裾を掴んだイオが甲高い声を上げた。
「貴方様です。私の主を救えるのは…貴方様が助け手になると……。どうか、あの方の苦難を取り去ってください。あの方を山へ帰してください。貴方様の手が、どうしてもお借りしたいのです…」
オキナは眼を見開き少年を見入った。少年は真実救いを求めていると分かった。が、ダザイサ随一の呪い師が到着しているにもかかわらず師の呪い師を求める真偽が分からなかった。
「貴方様は必ず主を救ってくれます」
少年はその言葉を残して立ち去ったが身に纏っていた不思議な香りが残った。
何かを悟らせるような香り。オキナは眼を閉じた。

7  天の扉

籠もりの季節を前に祝儀を行なう。館の中が慌ただしくなった。
業務に追われるカシマに変わり醜軀を見守るのはイオの役目となった。
イオは鐘楼の閉ざされた部屋の奥に横たわった姿を確かめると、明かりを灯した。嫌がられるのを覚悟していた。その顔がゆっくりと振り返ると枯れ枝のような手を差し出した。
「フユ。クル」
鐘楼の座敷席から見える風景が夏の盛りを過ぎ次の季節が来ると伝えていた。深緑の山肌に黄土色の斑模様が潰れた瞳にも映るのかと胸にいる一房垂れた髪に触れた。そして、持たれる不思議を思った。その身体は軽い。初めて腕に抱いた時、人の重さを感じたが今は幼児の重さと変わらないと爛れ異臭漂う身体を優しく抱きしめた。
「ヒトガ、ツドウ…マエ、イノル…」
冬篭もりの季節前に何かがあるのかとその顔を覗き見ようとしたが枯れた指が頬に触れた。
「チチト、ハハノ…ダイチ…、…イノチ」
父と母の大地、命。
一日の大半を共に過ごすようになると醜軀は言葉を放つようになった。それには深い意味があるとイオは感じ取っていた。少ない言葉が含む意味は、真意を探る難しさがある。
「ルーヌ草原が風の大地だと聞いています。父の大地は」
「テンセイ、ハハ…チセイ…」
醜軀は呪い師だとイオは思った。
「天聖、地聖」
初めて聞く言葉ではない。古史が伝える伝説は、精霊と聖馬が住まう大地は天聖、ヒトが住まう大地が地聖。
「チチ…ハ、マツ…トビラヲ…アケル…モノ」
天聖と地聖の間には四つの扉がある。光と風と闇と水の扉。精霊は水の扉を開き、聖馬は風の扉を開けて地聖の大地へ降り立つのだと聞いていた。
「光と闇の扉を開けるのが人なのですか」
醜軀は頷き口元に手をやった。言葉を括るのが困難だと悟ったイオだがそれでも答えが欲しいと崩れた肩を掴んでいた。
「天聖の門を潜った人がいるのですか」
「イル。ヒトリ…」
醜軀の身体がゆっくりとイオの膝に落ちた。夕闇が迫っていた。それ以上の問いに答えは返らない。白い布に寝入った身体を包むと胸に抱いた。

朝夕に冷えを感じるようになると、大地を流離していた呪い師達は郷里へと踵を返し始める。山麓が色めくこの時期に異種族の旅人が訪れることのないザーロ族家に流離の呪い師が門を叩いた。
呪い師の風習だけでは無い。長は訪れた者を受け入れる。
「訪れた者を追い返してはなりません」
食膳を分かつギダールが言った。
腕に抱く薄衣に包まれたルアの枯れた指がカシマの頬に触れた。ヤルツの業で白く美しかった両手がこのひと月の間に元に戻っていた。それが、カシマの心を震えさせた。その心を見ぬいたように流離の呪い師は対面したカシマに言った。
「風が取り巻いている。精気ない風。その者は籠りの季節を越えること無く逝く。まだ、若い‥至純‥を願う者」
一見してドルバン種族であると分かる出で立ちの老年の業師。大地を流離する年ではない。それでも老人の額に刻まれた皺と眉を落とした憂えた顔が境地を見出すまで誘うと強固の決意を表していた。
カシマは、黙って首を振った。
「真実を見出す業を持たぬゆえに、いらぬ事を申しました」
夢見の業をもたぬ業師だと老人は素直に誤った。そして、風の業師を追ってこの地へやってきたと言った。
「風の業師‥。その方は、どんな方なのだ」
カシマの隣に座していたヤルツが、尋ねた。
「わしには、分からないのだ。三年間も寝食を共にしていたのに、あの方が誰なのか分からない‥。わしが愚かだから、あの方を見いだせないのかもしれない。だが、風がわしに言う。誘え。誘えば出会えると…。だから、導かれるままにここに参ったが、導かれたと感じたのは間違いかもしれない…今この場に導きの風は無い。迷う心しか無い…」
流離の老師。それは、オキナだ。
今宵一夜の宿をお願いすると、オキナは深々と頭を下げた。この老師を追うかのように、翌日 また旅の呪い師三人が族家の門を叩いた。
セキ達である。
不釣り合いな組み合わせを感じた族家の血族達は、正門から入り謁見の間を目指す三人に刺すような鋭い気と射竦める眼差しを向けた。
風雅を身に付けた初老の男は人を導く才があり、その横に並ぶ青年は熟練した匠の呪い師だが、もう一人の若者は二人の下僕なのかと思えるほど呪い師の地位が低い。流離を組むには不釣り合いな三人に冷たい気迫が迫る。
正門を使えるのは使者だけたと。
その冷たい気配を受け止めたセキは血族を纏める総師が不在だと感じ取った。
種族の柱となる総師。その不在がダザイサに暗雲を呼び寄せようとしているのかと,導かれるままに謁見の間に向かった。
長に謁見できるのは一人、その掟通り広間に入り薄縁の隅に座ったセキだった。セキは旅人としてカシマの前に座るつもりだったが、その姿を見た途端心が一転した。
ザーロ族長カシマ。
居並ぶ者達に言葉を投げるカシマの周りに補佐はいない。それでも彼は、問われた難題を即答していく。迷いない言葉が、抱えた苦悶を一掃させる。破顔が拝礼して去っていく。
セキは、これが血族から異端と言われ蔑まれた子かと思った。
瞳が捕らえたザーロ族長カシマの風体は、伝説に残る歴代の族長そのものだ。
ザーロ族家は悪評を世間に流し伝説の血族を隠し育てたのではないのかと疑心さえ湧いた。が時折見せる虚ろな裡が凡庸であると垣間見たセキは何故か不快な心地が騒いだ。見続けるうちに平凡な質が強固な信念を合わせ持つ不思議を感じさせた。
完全と不完全、成熟した肉体と到達しない才知。
巷を飛んだカシマの風聞をすべて洗いだした脳裏は、ザーロの異変の元は彼だと読んだ。
業師の資質を感じさせないが、天性は業師だ。セキの夢見師の業がそう告げている。覚悟しろと…。
対峙するには慎重な采配が肝要とセキは無心の中に時を置いた。
広間に謁見する者が居なくなると、カシマは流離の呪い師に視線を移した。一人広間の隅に座し静かに時を過ごす初老の呪い師はドルバン族固有の古風な身なりをしていた。
股の割れた繋ぎ服に腰帯を巻いていた。今はそれを身に付ける者が少ない。それが、特別な格付けを持つのだと感じたカシマは、注意深く男を見詰めた。だが、男からは穏やかな気質が伺え敵意を感じ取れなかった。敵意がないと感じた胸は、何故か、得体のしれない何かが身の内に覚醒めた気配を感じた。そして、何故、感じたのかを自身に問うていた。
「おまたせいたしました。部族を継いだ若輩者ゆえ采配振るえず、随分とおまたせいたしました。隣の化粧部屋をお使い下さい。後ほど、宰相がお伺いいたします」
「いや、我らは修行中にて夜露を避けられればと、門を叩いたまでの事。申し遅れましたが、私はボアーム配下セキ、長座敷に控えているのがチナ配下の業師サザラとドルバン族の施師ウィーダ。屋敷を汚すにもったいない。中庭か、土間の隅で結構です」
セキは板敷の暗さに溶け込みそうなカシマに、惹きつけられる何かを感じた。そのため、本来の目的から脱した言葉を選んでいると自分でも気づいた。
「タヘタの長であるあなた様を冷遇したとなれば、この族家の恥。一室を設けますゆえ しばらくおまちください」
その言葉で一番驚いたのは、謁見の間である広間から続く控えの長座敷で聞き耳を立てていたウィーダだった。彼は脳裏が弾ける衝撃を受けた。
“タヘタ、口伝に伝わる村だ。
ドルバン族長を影で支えてきた呪い師を数多く生み出した村だ。その長、それだけでもドルバン種族であるウィーダを震わせたのだが、更なる言葉が彼の心に突き刺さった。
「本来なら総師としてお迎えしなければならないのですが、そちらも何か訳ありの誘いにあられる様子。一時の狩屋としてお使いください」
総師。ウィーダに戦慄が走った。
《ドルバン総師》
種族の呪い師の頂点に立つ御方だ。言葉を交わす事の出来ない雲の上の御方。ボアーム神殿を巡ったとしても、下級の業師が顔を見ることすら出来ない。ましてや、言葉を交わす事など夢また夢だと膝に置く拳が大きく震えた。項垂れたその肩に腕を回すサザラは、彼の心根を指していた。
セキの方は、カシマの特質の資質に魅入られていた。
「夢見の業をお持ちとは、存じ上げず‥」
セキは眼光鋭く睨む形相で相対するカシマを威嚇した。生粋の呪い師が得意とする業、その気を質の脆さを的に揺さぶりに掛ける。心の奥を目掛け真っ直ぐに業を掛ける。しかし、セキの得意技があっさりと撥ね付けられた。
微動だにしないカシマは面も情も割れない。
こんなに簡単に跳ね除けられるとはと、セキは嘆息を吐いた。
下った。と、驚くサザラだった。
彼はセキが業を放ったのを感じ取った。そして、カシマの懐中には届かす消失した事も感じ取った。
だが、このままセキが引く訳がないとザザラは思った。ドルバンの総師が呪い師でもない若輩に屈するわけがない。相手がザーロ族長ならなおさら引き下がるわけにはいかないはずだと、固唾を飲んだサザラは戸口に躙り寄った。
その後を追う様に、ウィーダも中の気配を伺った。しかし、ウィーダの心はザザラの裡とは違い尊敬と恐れを抱いていた。
大地を旅する三人は対等だった。流離の友としての待遇だった。
一旦拝する方だと知った心は萎縮して本来の資質を拡散してしまう。セキはそれを恐れていた。旅の真の目的は、別にある。それには、ウィーダが必要なのだ。呪い師は心を乱すことがあってはならない。セキはウィーダを気遣いながら、ザーロ族家館が醸し出す気迫に混じらない気質を感じ取った。
謁見広間の格子戸から見える離れに眼を向けた。そこに、族家に漂う気配とは違う気迫が漂っていた。
その気迫が、セキを包んだ。
若い情熱が無心に問い求める心と懊悩する宿命を科された心が混ざり合う雰囲気。
セキは即座に、その雰囲気に魅せられた。
ふたつの心が無心に問答するのは古史だ。
古史を語るはオキナ。疑問を問うのは館に住まう少年。その二人は、古史を紐解いている。セキはこの二人の中に混ざりたい気持ちを抑え、カシマを向いた。
そして、強い気迫で睨み付けた。今居る者は門前の敵。それを倒さなければ先へは進めぬ。セキは混沌の気配から抜け出す仕業に拳を強く握り締め床に押し付けた。その気配を感じ取ったザザラがウィーダの手を取ると戸口を閉めセキの後ろへにじり寄った。陰を組み相手を手中に収める。 
種族の長に対し不躾な荒業だと感じながらザザラは陰侍を組んだ。
陰侍は瞑想だ。外界が奏でる音を消し去り脳裏渦巻く煩雑も欲望も無い透明な天聖を目指す。呪い師が目指す天聖の門、白銀の扉。扉に手を掛けるのは我なりとザザラは深く深く息を吐いた。

8  父と母の大地

「精霊王じゃなぁ」
オキナはそう言うと煌めく瞳で見詰める少年を見た。ザーロ族には珍しい栗色の髪を肩で揃え、巻布で額を隠す成人前の少年から不思議な香りが漂っていた。単粗な服装が下人かと思えば、問答の知恵は常人を遥かに超えた知識を持っていた。
「太古の昔、ダザイサは極寒の地であった。雪と氷で閉ざされた者達が暮らす大地は、飢えと寒さに耐える過酷な風土だった。ここで生き抜く者達が語り継いた伝説があった。生きる希望が語り継いた伝説は、大地を造り変える精霊王がこの大地から生まれ異境の地へ旅立ち天聖の門を開ける。すると、ダザイサの大地が緑萌える大地へと変える」
「天聖の門…は異境とダザイサを結ぶ門なのですか」
「そう語られている。天聖の門の前には四つの扉があり、扉を開ける者を待つと…」
伝説に魅入られた高揚した面差しが吐息を吐いた。夢中にあると。
オキナも無心でありたいと思った。少年の心と同じ飽くことを知らぬ夢中を無心で語りたいと思った。そして、少年が持つ不思議な香りも身につけたいと思った。少年はオキナが族家の逗留を許されたその夜半に突然現れ風の大地はルーヌかと聞いた。そうだと答えると笑みを浮かべた顔が踵を返した。そして、今宵また訪れたのだ。
少年は、天の扉を開ける者を聞いた。それから、母の大地は何処にあるのかと…。オキナは戸惑った。古史は、母の大地を語ってはいない。次に聞かれた父の大地も語ってはいない。
「名を教えてはくれぬか」
ここで初めて少年の名を聞いたオキナは、その瞳が緑掛かった灰色であることに気づいた。六角の部屋を照らす二つの蜀が見せるまやかしなのかと、口伝が伝える大きな緑色がかった瞳を覗き込んだ。その瞳が言った。
「イオ。ザイロ都邑タカシ邑人。父は東の官吏。名はギダール」
「東の…。族長直属の臣下か。いずれは、そなたもザーロの重臣となる人なのだな」
安らげる柔らかな気を放つ少年。その心根が流離の疲れを癒すように快いと感じていたオキナは彼が父親の後を継ぐために修行しているのだと思った。
「いいえ。僕は東館へは行きません。一生をお仕えすると決めた方がいます。その方のためにもたくさんのことが知りたいのです」
「東館を目指さないのか。父殿が失意なさる」
「父も同じ考えだと思います。族家が安泰とわかれば故郷へ帰ると決めていました。僕はお仕えしたいと思う方と巡り会えたのですから、父と同じ道をたどれない。」
宿命を負った子。オキナの胸が大きく弾んだ。予見を持たない彼だが目前で神妙な面持ちで語る少年が未来を向いて歩き始めているのだと悟った。
忘れていた。と、オキナは深く息を吐いた。
少年達は無垢な瞳を輝かせてオキナの庵にやって来た。無辜の心が貪るように仕業を会得していく。必死に輝く瞳を上に向けていた子供達が指師の仕業に夢中になり視線が下を向いていく。床を見詰める少年達は瞳に輝きを失う。ダザイサにいる呪い師が目指すは天聖、輝く瞳を天に向けていなければならない。
庵を旅立つ時、見送るタダラは輝く瞳を向けて言った。
「お帰りになるまで、皆で庵を守っていきます。無事にお帰りください」
真っ直ぐ向いた視線が、曇ることなく天を仰いでいた。その姿がダザイサの呪い師なのだ。
オキナは大きく頷いた。この旅に活路を見出し故郷へ帰れるのであればもう一度技師を育てたいと強く思った。
そのオキナに一歩にじり寄ったイオは縋るように言った。
「お願いです。あのお方を救ってほしいのです。ここへ来てから死を願っていました。でも貴方様がおいでになった時より様子が変わった。風を知る者だと…。どうか、助けて欲しいのです」
言葉が生気無い風を感じさせた。族家館の門を潜った時密かに感じ取った気が、異常に心に掛かっていた。その気が少年の言葉から蘇った。
「その方が主…か」
「あの方は山へ帰りたがっておられる…。何かの因縁であのような醜い姿に変わり果てたのか。毎日、絶望されていた。貴方様がおいでになったからには、必ず元の姿に戻ることができる。どうか、お願いします」
族家の業師が業を解かせない者を一介の指師が施す技はない。
「わしが助けられるのは怪我人と病人。重篤な者を診るのは術師。身毒に侵された者を診るのは業師、その者の未来を診るのが夢見師。すべてを兼ね備えた者が要。指師のわしには助けられぬ。今ダザイサの頂点に立つのはドルバン総師、その方に縋るのが得策…。今直ぐボアームに使いを出されるが良い」
「ドルバンの総師様なら本館におられます」
固唾を飲んだオキナは少年が指差す方を見た。開けた窓から繁茂の茂みが夜の気配を隠していたが、その間から小さな明かりが見えた。そこに、風聞でしか聞けぬドルバン総師がいる。
気を伺おうと瞑想に入りかけたオキナの裾を掴んだイオが甲高い声を上げた。
「貴方様です。私の主を救えるのは…貴方様が助け手になると……。どうか、あの方の苦難を取り去ってください。あの方を山へ帰してください。貴方様の手が、どうしてもお借りしたいのです…」
オキナは眼を見開き少年を見入った。少年は真実救いを求めていると分かった。が、ダザイサ随一の呪い師が到着しているにもかかわらず師の呪い師を求める真偽が分からなかった。
「貴方様は必ず主を救ってくれます」
少年はその言葉を残して立ち去ったが身に纏っていた不思議な香りが残った。
何かを悟らせるような香り。オキナは眼を閉じた。

9 呪師


「ヤルツ。入っては、ならん」
カシマの叫びが闇間に響いた。
正門と平行に並び建てられている本館は日中人の出入りが耐えない場所だが、闇に包まれると静寂が暗渠の場を作った。
沈黙が永遠を約束した様に過ぎていくその場所が、蜀を灯す者達の声で振れた。
その中に、ヤルツがいた。彼は業師が張った緊張を感じなかった。不信もなく闇が閉ざす板の間に足を踏み出していた。
その時カシマの声が飛んだ。
が、叫びは遅かった。
闇に落ちた謁見の間には気配を感じさせない四人がいた。そこには人の気配はなかった。静寂だけがあった。
戸締りのためだけに立ち寄ったヤルツは熟知の業師が待ち構える板間に立ってしまった。そして、心中に隠された脆さを掴み取ろうとする者達の手中に落ちた。慎重なはずのヤルツの心核がいとも簡単に業師に記憶をさらけ出してしまったのだ。それも、カシマが一瞬見せただけの記憶。
夕暮の林間。亜麻色の髪をした美しい女人。カシマの腕が抱いているのであろう瓜実顔の女人。
悲恋に終わったであろう夕焼けの情景。
業師達は確かにカシマの記憶の一部を掴み取った。
セキは不本意だとは思ったがカシマの上に立った。呪い師の優劣は必須だ。横並びの地位は無い。
必ず上下関係だけで成る。彼は業師では無い者と対等に向き合ったことがなかった。
今のダザイサに対等に向き合える相手もいなかった。だが、向き合える相手に巡り会えた。
カシマが業師を目指すのであれば手中に収めたい。それが、言葉を放った。
「正室としてお迎え頂きたい」
言葉が床に崩れ落ちたヤルツの内に響いた。ヤルツが手に持つ蜀が凝り固まったカシマの横顔と瞼を見開いたセキの顔を照らした。この二人の強張った肢体が伝えるもの。優劣の競い合いでカシマはセキに負けた。その原因はヤルツだ。不意の出現が互角の二人の邪魔をした。それだけではなく、カシマの心の傷を晒してしまった。
ザーロ族家は呪い師一族だ。その長に立つ者は稀代の呪い師で無ければならない。しかしカシマは呪い師ではない。各種族の総師と相和するには同格の業師を補佐に持たねば外交出来ない。だが、今のザーロには……とヤルツは心の裡が震えるのを抑え呟いた。
「姫巫女…」
ボアーム総師自らの訪家、彼等の真の目的はそれかとカシマは顔を背けた。
「すべて、見通しておられるザーロ族長殿には私の目的がお分かりと存じます。本来なら、来春の喪明けに正式な使者を送るべきところを心踊るままに御意に賜りました」
「喪中ゆえの配慮、恐縮致します。こちらからも使者を立てるつもりでした」
カシマは間を置かずそう言った。そして、高座から降りるとセキの正面に胡座をかいて座った。セキも膝を崩し表情を変えない相手の言葉の含みを探った。
「上意だ。それでもか…」
セキの言葉でカシマの口元が緩んだ。憂える笑みが、悪癖があると言った。
「幼い時から変わることのない悪い質が血族を悩ませ今も変わらない」
「悪癖。貴方様の気に濁りは無い。巫女姫様と同じ気質、何にも混じらず透明で形がない。天を目指すに相応しい」
「人は光を求めて生きるだろう。だが、俺は闇を求めている。闇の中で生きたいと願う。そして、この身はこの身に相応しい者を抱いて生きる」
「それでも本来の資質は変わらない。王家はザーロに降嫁を許された。良き結びとなるとダザイサにいる夢見師は予見を手にしている」
「大地の守護者である夢見師達…か。予見は確かであろう。ザーロ族長とドルバンの姫巫女。族家に次代が現れるのであろう。俺では無い誰かが降嫁の相手だ」
「いや、カシマ殿には不本意かもしれないが我も夢見。予見が、貴方を見た。見間違いは無い」
「噂が届いているだろう。醜軀…の風聞」
「カシマ殿が風聞は我がドルバンにも確かに届いている。だが、噂と質は違う。先の族長は良き師資と遺言を残された。さて、結びの儀。ボアームの巫女であれば、妾でも構わないがダザイサ王家の姫、王家の名誉が問われる。カシマ殿の名誉と王家の名誉、お受けいただけますな。宰相殿」
「御意に…」
ヤルツは問われるままに言葉を返したがカシマは違う。眉間に怒りを表していた。
「ザーロ族長の正室として迎え入れればよいのだな。王家の使者よ」
カシマの言葉にセキは鼻で笑うように口を開いた。
「そうだ。ザーロ族長カシマ殿の正室。他の誰にも変わることない結びを断言いただきたい」
「断言したいはやまやまだが、人の行末は分からん。春になり我が族家に、変異なきにしもあらず‥」
「貴方様でなければならないと、今感じた予見がそう告げた。ダザイサにいるすべての要が事の成り行きを見ている。情は、手に取るほどによく分かる。しかし、永らえることはない。その腕に残る気が、生気無いが、籠りの季節を越えることなく…逝く。それが、その腕が求める者の運命」
怒気を露わにしたカシマは、直ぐにため息を吐いた。常人であれば怒りを全身で表しているはずだが、やはり太古の血を受け継ぐ血統とセキは焦りを覚えた。
その時だった柔らかな声が緊迫を割った。
「シュロの木に縋る…」
現れたのは、オキナだった。
彼は間の中央に進み出ると、天井を仰ぎ座り込んだ。そして、カシマに深々と拝礼した。
「ザーロの口伝にある木です。純血の血族、最後の族長が夫とともに移り住んだ地はチナ族領のペトラカ都邑。北の寒村に隠れ住んでいた時、本来の許婚が追い掛けてきた。その人はザーロ次代の族長。愛を諦めきれない彼に純血の血族が渡したのが一本の枝。帰りの旅の途中、しっかり持っていた枝が落ちた。その枝を拾った娘と族家を守っていったと伝えられ、結ばれる者達が木の下に立つと枝を揺らす。神殿の何処かに植わっているはずです。それで、占えばよろしいかと存じます」

10

セキ達三人はオキナの借り屋と並ぶ離屋に逗留を許された。だが、彼等の表情から新たな苦悶が生まれたことに間違いはない。
「ザーロとドルバンの結びが、ダザイサを安息に導くと予見を受けている。私の主の目的は、結びの使者。ゆえ、敵対は出来ない‥。」
夕餉の前を運び去った者達が、完全に気配を消したと感じたセキが呟きを漏らした。その力ない声がウィーダの気持ちを不安にさせた。
「私は総師様と対等の呪い師ではありません。足手まといの私はコグスカ山村へ帰ります」
ウィーダはそう思った。するとセキは首を振った。
「帰られては困る。陰侍を組めぬ」
「陰侍…。業師の手技だ」
ウィーダは呟いた。技師の彼は、その言葉を聞いたことはあるが見たことがない。垣間見ることが出来ない上格呪い師の世界を描けない。
「陰は三から始まり二ずつ増えていく。占う物の難しさで陰を組む人の数、力量が決まる。確かにお前の憂えはわかる。だが同じ目的で旅をしている我ら。悲しい結末であったにしろ知りたくは無いのか」
「…」
「不思議だとは思わぬか。唐突の叫びと要を圧した気質。安息に満ちた気を残して消え去った。何故だ。何故掻き消えた。存在自体がなかったように感じ取れない。それ以上に不可解なのがカシマ殿だ。術師でも業師でも無いが彼は呪師だ」
「呪師…」
「そうだ。呪師だ」
セキは、胸中にある疑心を語る同格者がいない寂しさを感じた。大地を震撼させた気は、もしかしたらと感じたものがあったが、その想いはサザラ等には伝わらない。
サザラは答えを得るために瞑想した。そして、ふと口を開いた。
「我らの役目とは何なのだろう‥」
「人には役割がある‥。人は役目を重荷と受け取らず大地が望む生き方をしてきた…。それでも綻びは生じた」
サザラとセキはオキナを振り返った。
「事は、オキナの館から始まっていた。ダザイサの夢見師は、予見できずにいた。大地を揺がす難事が起きていることに…何故だ。救いを求めた叫びがなければ、我らは気づかずにいた…」
「私が、愚かでした。セナルアを連れて故郷へ帰るつもりでした。でも、父無し子と聞かされ旅立つ彼を止めなかった。自分の誉を思った」
ウィーダは、涙にある。温和な性質がにじみ出ていた。
「わが大地は、不実を嫌うと人は信じている。命に罪はないと教えがあるというのに…それが、この事態を生んだのか」
足跡を求めダグ山へ向かわなければならないが、もうしばらく客になるとセキは言った。
セキとは違いサザラは慎重に大地に祈りを捧げた。
眠れない夜を明かしたサザラは眠れないまま広大な敷地を散策した。すでに秋の香りが、大地を包んでいた。重く冷たい空気に包まれた大地が、朝のざわめきを伝え始めた。
籠りの季節が近い。各種族の集落が今宵の満月から冬支度を始める。帰路を目指さなければならない。そう思うサザラの心は重い。彼は大地の求めを予見できずセキの真意にも触れられずにいた。何を目指せば良いのかが分からず苦悩していた。
家畜の声が響く大地はすでに明けていた。
族家の主殿閣を囲む丸太の城壁を潜り、東館の離れを目指していた足がふと止まった。そして、無意識に振り返っていた。その目に、少年の姿が写った。その途端、脳裏が大きく波打った。


シュロの木はあった。
早朝より族家の業師が一斉に庭に植わった木を見て回った。オキナの言葉どおり聖堂の庭園にただ一本植わっているのを見つけ出した。
人の背と変わらない高さの木が見事な枝ぶりで幾重もの枝を伸ばし掌に似た深緑の葉を重たげに垂れ下げていた。
人の眼を奪うような特別な木ではなかった。その為人はその木を素通りしていた。
誰も葉のそよぎを見たことがない。人は真偽を問う声を上げたが血族は由来は真実誠の木だとカシマを見た。
カシマには一抱えの布包みがある。それが溺愛する醜軀かとセキとザザラは神妙に気質を伺うが何も感じ取れなかった。気を囲む血族業師も同じように醜軀を探っている。その気の乱れが業を乱していると感じたセキは真偽を見守ることにした。
指師の語り部が新たに伝える口伝がシュロの木の前で始まった。
ザーロの若き族長は啓示を受けるために進み出た。しかし、枝は何の動きも見せなかった。
顔色を変えたカシマはセキを睨んだ。
セキは真実だと言った。
「今宵に婚儀を控えた者がいる。その者をここへ立たせる。ミト。ノエをここへ連れてこい」
納得行かないカシマは怒りに満ちた声で叫んだ。
「ノエ様は昨夜より禊のために部屋のおこもりです。式まで部屋から御出にならせません」
ミトの声の向こうにオキナの姿があった。柔らかな面持ちが両手を組んでカシマの動向を見ていた。集う者たちも同じ面持ちが伺われた。誰もが願うのは族家の安泰安息。その気持を受けたセキが口を開いた。
「カシマ殿。中央にお立ちください。我らが姫巫女様の気を送ります。もし、何事も起こらなければカシマ殿の本意に沿いましょう」
カシマは醜軀をギダールに手渡し一人シュロの木に向かい立った。彼の思いは強い。だが、それは脆く崩れ去った。
晴天の空の下、ザーロ族家の庭園一角で奇跡の仕業を見詰めた老師は後に伝記を語る。
ザーロの若き族長とボアームの姫巫女のためにシュロの枝は笑うように戦いだ。
シュロは枝葉を揃えるように緩やかな揺れを見せた。揺りかごを揺らすように単調な揺れが人をどよめかせた。
若い恋人達は挙って木に向かい、子を持たぬ夫婦は木に祈った。
そして、奇跡の証を語った。
それは確かに奇跡の業だった。
合点がいかないカシマは再度試した。しかし醜軀のために枝は動かなかった。
「まやかしだ。お前たちの罠には掛からん」
そうカシマが叫んだ時だ。シュロの木が一変した。枝葉は天を指差すように一糸乱れない動きを見せた。
深緑色の葉裏は若草色。一瞬で反転したその色が木を一変させた。この時木の前に立っていたのは三人だった。カシマと醜軀を受け取ったイオ。イオは気にせず醜軀を抱いたまま去った。残ったカシマは唖然とシュロの木を見ていた。
これは口伝に語られる事なく後にザーロ族家の古史に加えられることとなる。
それでも瞬時若草色に総変わりしたシュロの木が今もザーロ族家の聖堂の庭園にあると密かに語り部は語る。
残されたカシマは襲撃から逃れられなかった。全身を震わせ動揺を隠せない言葉を呟いた。
「ダグ山は、俺の願いを叶えてくれたのではなかったのか…」
ダグ山。その言葉がセキの脳裏を駆け巡った。
メデメス山脈中岳、雲を頂く峻険ダグ山。山神が住むと恐れられるダグ山に一人で登る者はいない。
「カシマ殿は座に就くまでダグ山近くに住んでおられたのか…」
セキは頭に痛みを覚えた。空が急に闇に包まれたと感じ背に悪寒が走った。
今なら気を乱しているカシマの心中にいとも簡単に入り彼の記憶のすべてを洗い出すことが出来る。だが、セキは踏み込めぬ何かを感じ触れることが出来なかった。
初めて感じた恐れだった。人の持つ感情を手にする恐れ。人の心に踏み込む恐怖を初めて感じたセキはカシマと同じように激しく動揺していた。速やかな心の整理が必要と立ち去ろうとした時だ。低く震える声がその動きを止めた。
オキナだった。憔悴した顔が膝を付くと乙女を救ってほしいと言った。
「風がザーロ族家に誘い込んだ。それは、乙女を死なせるなと言っている」
セキは、夢見の業を持たぬオキナの予見にも似た言葉を繰り返しながら瞑想した。そして、叫んだ。
「林間の乙女…。あの醜軀が……」

11 呪縛

枯れた手が満月を指差した。その指の示すままに本館から続く山岳の小道を歩いた。
小道から並木道へ林間の野原と続き森林へと上がっていく。
月が照らす野原は不思議と音もなく静まり返っていた。座り込むと腕から這いだした醜軀が大地と戯れる姿を見ていたイオはその仕草に眼を見開いた。
何かを一心に食べている。そう見て取れる仕草だが、手は、指は、何も掴んではいない。掴んではいない物を口へと運ぶ。そして、掴んだ物を天と掘り投げていく。
月光が狂気を見せたとしばらく見詰めるうち啜り泣きはじめた醜軀を抱き上げたイオは帰路へ向かった。
鐘楼の入り口に立った時、枯れた指がイオの頬を撫でた。そして、その指が上を向いた。静かに階段を踏み締め二階の踊り場に立つとまた指が頬を撫でた。
「イル。フタリ…」
闇に塗れての侵入者。イオは、顔色を変えた。
族長の居室に無断で入るは敵意がある者の行為。武器を持たないイオは、後退りした。
「ココ‥デ、マツ…」
待つ。イオの心は恐怖にある。その恐怖を確かにする足音が天井階から聞こえてきた。緊迫した懐中が震え、足が竦む。
「マツ‥」
そう呟く掠れ声が怯えるイオを案じているのだと察したが、どうすれば良いか分からない身体は震えを止められない。枯れた両の手がイオの頬を覆った。その手は、ほんのりと温かい。凍りつく恐怖を手の温かみが和ませていく。
足音が上の階から下りてきた。
月光が二人連れの男の顔を照らし出した時、イオの懐中が弾けた。
ドルバンの呪い師だ。
吹き出し窓から差し込む満月が二人の顔を確かに照らし出した。そして、ため息と言葉を残してイオの前を通り過ぎて行った。
「確かに業師に近いが呪い師では無い…。何者かは分からないが我らでは救えぬ」
「総師様でも救えないのですか」
「五族総師が揃っていれば救えるだろう。今のザーロに総師となる者がいない。陰侍を組めない…」
彼等の眼には、薄闇の中に立つイオの姿は映らなかったのか、そのまま下へ続く階段から姿を消した。
イオは、動けなかった。今にも爆発しそうな鼓動を沈めようと息を吐いた。そして、何故彼等は気づかなかったのかと思う疑問より救えないのだと察した悲しみが胸を占めた。
その耳の元で掠れた声が言った。
「コウ‥ボク」

 その頃大広間では華燭の宴が終わり祝福を受けた二人を見送っていた。
カシマは一人大広間の対の小部屋にいた。
「お二人は、若い頃惹かれ合っておられたのですな」
その言葉でカシマは目覚めたようにその方に眼を向けた。いつから隣に座していたのかと瞠目のカシマの視線を捕らえたセキは言った。
「古式ゆかしい華燭。だが当事者等の情は確執で混ざることを知らぬ」
濡縁の柱に持たれ悠久の時を楽しむような姿態が首を振った。
「二人の子はいずれ族家を継ぐ。俺のような異端ではなく血族が認める正当な子だ。そしてシュロが認めた名もない娘と新たな血筋を生み出す」
「予見…。貴方様の…貴方は予見の業をお持ちなのか」
「俺には資質が無い。問いに答えただけだ」
問い。セキは問うた覚えが無いが言葉が帰ってきた。疑問が問いなのかとセキは深い考慮の間を置いた。
音のない空間がふとセキに言葉を産ませた。
「弟君は東館にお住まいなのに祭り事には関与されず姿さえ見せない」
何故分かりきった事を聞くと言いたげな顔が眉間にしわ寄せて振り返った。
「弟はザーロになくてはならない質だ。母似の温和な気質。俺のために奥で父の御霊を祀っている。喪が明ければ宰相補佐。そして俺の後を継ぎザーロを安定へ導く」
次代。そして、その次の次代まで予見しているのかとセキは神妙な心地で空を睨んだ。彼にはザーロ族家の次代は見えない。真実なのか偽りなのか。自答する彼の意識にザザラの気が揺れた。
重暗い顔付きの二人がセキに向かって首を横に振ると戸口に座した。その姿にカシマは、はっとした。
「あそこへ、行ったな」
悟られた。とっさにザザラは身構えた。族長の居室に無断で立ち入る罪。しかし、カシマは怒気を上げなかった。平然の顔で月を見上げた。満月の夜は野で過ごす醜軀の習性を知るカシマはイオと二人まだ野にいると思った。二人はルアに触れてはいないと。
陰りを帯びた顔が振り返った時セキは口を開いた。
「今このザーロに、要を纏める長がいない。要の長、すなわち総師。種族の総師。総師は五人いなければ陰侍を組めない」
「人の数を増やせば良い」
考えることをせず速効の言葉が返ってきた。やはり呪師だ。天性が言葉を放っているとセキは語気を強く放った。
「確かに人の数で能力は補えるが正確な業に達しない。必ず乱れが生じる。故に正しい見解が望めない。同じ才を持つ者が陰を組み事に向かう事が正当だ」
ザザラが静かにセキの後ろへ座り直すと居住まいを正した。その横へウィーダも夢見心地に座った。
セキが口を開いた。
「ダザイサには五人の総師があらねばならない。五業を成して天聖と地聖を支えていなければ天と地の均衡が乱れ大地に悪疫が蔓延り大地にあるものが死に絶える。過言では無い」
「ザーロに不穏は無い。父の代と変わらない籠もりの季節を迎えられる」
「本来ならカシマ殿。ザーロを継いだ貴方様が総師でなければならない。総師を頂く種族は安泰。ザーロ族家も安穏としている。とすれば貴方様は種族の総師に値するお方。それとも、太古より伝わる口伝が間違いなのか」
「口伝に間違いは無い。試して見られるが良かろう」
いつの間にかオキナが戸口に座っていた。
「試す。何を……」
「貴方様が大切にされているお方を貴方様の力で元に戻す」
セキはオキナに会釈をするとカシマを振り返ってそう言った。
「俺の…力」
「貴方様がザーロ総師として陰侍を組む」
「ルア‥が…元の姿に…」
カシマは掠れる声で同じ言葉を繰り返した。そして、叫んだ。
「駄目だ。断る」
瞠目がカシマを見た。何故にとザザラが叫んだ。
「何故だ。元の姿に戻るのだぞ。やるだけの価値はある。いや、やらねば命を救うことは出来ない。宿った命も無くしてしまう」
「宿った命」
「鐘楼の高窓部屋に入った時見えた。命を宿した事があの身体に苦悩を強いたと感じた」
一瞬に弾け飛んだ顔が固まった。そして強く首を振った。
「信じられるか…。お前達の言葉を…俺とルアを引き離そうとする貴様達が、何故助ける」
「救うことがダザイサの呪い師の努めだ」
その場にいる呪い師が声を揃えて言った。
「ザザラとウィーダが貴方様の後ろの盾となり初めて陰侍を組む貴方様を支えます。後は各種族の総師が導いてくれる」
彼等はカシマの決断を待っているとセキは言った。しかし、カシマは動かない。
「それだけで…助けられる…」
と、両手で顔を覆うカシマの表情は見えない。が、姿態が伝える肩の震えが異常を見せた。
「駄目だ。出来ない。あれは‥幻だ」
喉を締め付ける震える声が闇を裂くように響く。
「そうだ。しっかり掴んでいなければ消え去ってしまう……➗。お前達の罠には落ちない。幻覚が俺を狂わせ、狂人になろうと‥ダグの神がこの身を裂こうと、誓った言葉が真実…俺が選んだ罰だ‥。いや、罰では無い。‥誓い。呪詛の……」
狂気に満ち溢れた顔がそれに似合う言葉を放った。ザーロ族長カシマでは無いカシマが闇に溶けこむように座っている。その顔を蝋燭が揺らす光が言いようも無いほどの苦渋を見せ付けていた。陰侍を組むセキ達にはカシマの心理が分からない。ただ見詰めるしかなかった。
「誓いが呪縛を生んだのなら…それに従う」
カシマははっきりした声で言った。それから、唖然と見詰める者達を後目に立ち去った。

11   清風

ヤルツは躊躇った。
ノエの居室。食膳に並んだヤルツとノエ。二人は食膳に添えられた箸を取った。そして盆に並んだ食材を一つまみするとお互いの口に入れた。侍女が入れた盃の水を飲んだ。それが習わしだから二人は無言で作法をやってのけた。侍女も作法のままに隣の間の扉を開くと一礼して静かにたちさった。そこから開け放たれた隣の寝間が見えた。覆いのすべてが純白に整えられていた。窓に掛かる飾り布も寝台の覆布も床に敷かれた薄縁もノエの身体を包む衣も淡い明かりに照らされて白銀に輝いていた。が、目前にいるノエの俯いた顔は表情なく強張っていた。その身を捧げれば族家が安定する。そう信じた決意がうかがえた。どうしたら良いかと、ヤルツは思った。
隣の間で控えている二人の侍女に言い含めれば良い。部屋を出ていく訳には行かないヤルツは深い溜息を吐き、横を向くとその場に寝そべった。
その時だった。
一陣の風が、館内を駆け抜けた。風は孤を描き部屋を流れノエの頬を撫で、蝋燭の明かりを消し去った。
瞬間、身震いしたノエが立ち上がった。ヤルツは、部屋を立ち去るのかと気に留めなかったが、館に逗留する三人の呪い師は飛び起きた。
風。清涼静謐の風だ。
霊標で一人、祈りを捧げていたカシマも脳裏が弾ける衝撃を受け走り出していた。
館の中をすり抜けた風を感じた者達は資質のままに駆け出したが、風を感じない者達はゆるやかに時を過ごし、風を受けためた者達は本能を掻き立てられた。

 ノエは風を感じた。少女の頃約束を交わした、あの場所の風を。
ヤルツは、白く浮く裸体を見た。
それは、彼の前で腰を折ると芳しい香りと共にゆるりと胸に縋り付いてきた。
腕は受け止めていた。唇が何のためらいもなくお互いの柔らかさを確かめ合った。しっとりと湿ったやわ肌が
きつく着重ねた衣を乱れさせ抱きとめた柔らかさに胸を悶々とさせた。その下に熱き鼓動がある。その鼓動を掴み取るかのようにノエの爪がヤルツの背を掴み取った。ヤルツの知らないノエの艶然の顔が首筋を這い、むき出しになった肩を噛んだ。ヤルツも彼の知らないヤルツを知った。痛みが彼の本能を掻き立て柔らかな乳房を掴むとがむしゃらに唇を這わせていた。
熱い吐息がヤルツの耳を掠めた。
「望んでいました」
ノエが呟いた。動きを止めたヤルツは顔を上げてノエを見た。その瞳を避けるように首を傾げ、髪を掻き揚げたノエが小さな声で言った。
「初めて族家の仲間入りをした日、貴方が手を取って聖堂へ案内してくれました。それから、いつも貴方の後ろを追い掛けて…。姉様に叱られました」
相槌を打つヤルツにノエは小さく笑った。
「幼い時の修行の時が、どれほど楽しかったことか」
ヤルツも、思いを口にした。
「何も気にせずに側に要られました」
「階級も格差もなく、森を駆けまわった。風穴の岩場をよじ登り荒屋の隠れ屋に大人の眼を盗んでは遊びに行った」
自然と寄り添った身体が指を絡ませ心も絡ませた。
「君は純血の血族が住んでいた隠れ屋だと言っていた」
「今でも、そう信じているわ。最後の血族種が幼い頃を過ごし夫と暮らした場所。あそこには、愛が溢れていた…。生涯変わることのない不変の愛が…」
「特質な資質を持った貴女には感じ取れたのだろう。私は、感じ取れなかった。だから、貴女は私の前を歩く人になった。どんなに追い掛けても遠くなるばかり…。いつの間にか、族長の隣で采配を揮う人となった」
「それが、私達の間を分けたの。私は忘れない。貴方が言った言葉を‥。雨に打たれ駆け込んだ聖者の隠れ屋。あの時、私は誓った」
八歳の少女がヤルツの前にいた。
雨で濡れた栗色の髪から顔に落ちるしずくを手で拭きとった身体が躙り寄ってきた。
二階屋作りの風穴の岩屋。寒さで震える身体抱きとめ岩の階段を上がった。荒れ果てた二階は、それでも広い板張りが残っていた。すでに部屋の形を留めない隠れ屋の隅に囲炉裏らしきものが見えた。二人手を取り合うと火を熾した。少年と少女が心和して行った業はたやすく形になった。
私が一人前になったら私のために髪を結ってくれと、少年は少女に言った。少女は、約束するわと言った。だが、少女は格段の速さで業師の仲間入りをした。少年は必死で少女の後を追ったが見失った。
ヤルツは見失った者を取り返した。
「姉様がいたから、姉様のために強くなりたかった。気弱な姉様。それでも、族長は心底姉様を愛してくださった」
「義姉様は気弱ではない。優しいお方だった。優しすぎるほどに…カシマ殿を手元で育てなかったことを酷く気にされ身を削られ心を苛んだ。それでも、カシマ殿が必ず帰ってくると疑わなかった…」
族家が持つ古いしきたり。子供を隠して育てる。それがどれほど母親を苦しめるのか。身を離した二人はお互いの顔を見つめ合った。同じ気持であると…。
「確かに、帰って来られた。難問を抱え未来を見据えるために…。彼の力が招き寄せる。彼に和する呪い師を……、そして静かにダザイサを見つめていく」
この人はやはり族長の隣で采配を奮う人だとヤルツは感じた。時を置かずして元の地位に戻る。それでもこの身はこの腕の中から消え失せることは無いのだと強く抱きしめた。
「あの隠れ屋へ。またあそこへいけるだろうか」
「いいえ。あそこはもう無いわ。必要ないものは風の中に消え去った」
「消え‥た。血族からはもう聖馬人の血を受け継ぐものは現れないのだな」
「それは分からないわ。でもあの場所は必要ない…。もう聖馬人を隠して育てる必要がなくなったのだから。ダザイサが一つになり、皆の心が纏まった今大切なお子が攫われる危険がないわ。だから私も、貴方の我子をこの手で育てたい。貴方の妾にお子が出来たなら里子には出さない。ここで私の手で大切に育てたい…」
「妾は持たない。貴方のお子なら聖馬の子に劣らない利発な子だろう。貴方と同じように族長を助け、族家を導いていくだろう」
ノエの身体がヤルツの胸ではじけた。
「いいえ、私はもう子を図かる年ではないわ」
「私の子を産めるのは貴方だけだ。族家を取り巻いている風がそう諭している」
風と呟いたノエは空を仰いだ。
「静謐の風。忘れていた風の香り。隠れ屋で感じた風が、ここにもあるわ」
「風がすべてを拭い去ってくれる。幼い時に描いていた心に帰っていく」
少年の心が少女の手を取るとその身体を抱き上げ純白の褥へ向かった。
「ええ、あの時の心が帰ってきたみたい」
ヤルツはゆっくりとノエの中に身を沈めた。

溶け合った二人とは違い血相を変えたカシマが本殿の大広間に駆け込んだ。後を追うようにセキとサザラ、ウィーダが駆け込んだ。
そこにイオとルアがいたのだが、セキ達三人には感じ取れない。
「この清風は、何なんだ」
セキが、叫ぶ。
言葉を受けるカシマには、セキの叫びの意図が分からない。それを考える余裕がなかった。分かるのは、危機に瀕した予感があることだ。
それを回避する。
戦慄で逆立つ心は、大広間の一角を見た。
月光が注ぐ窓際にイオが座っていた。イオの腕は確かに醜軀を抱えていた。通常の光景だ。だが心が騒ぐ緊縛がある。それを煽るようにセキ達三人が駆け込んで来た。そして息せき切るセキが叫んだ。
「何処に居られる。セナルア様は何処だ」
「セナルア‥誰だ」 
と、問い返すカシマの裡が脳裏の奥を捲り、瞬時記憶の扉を閉めた。そして静かに夜景を楽しむイオを振り返った。その仕草に逃げるなとセキが叫んだ。その声は荒く険しい。

12   聖賢に値する者

「風だ。先ほど感じた風。風を操るお方は、何処に居られる」
射すくめる強い怒気が荘厳の大広間に響く。その怒りに満ちた声が何を仕出かす予感が心を騒がし、月明かりが照らす板間に静かに座る二人を振り返られずにはいられなかった。
「何をしている。何があるのだ」
セキはカシマの不審な動きに声を上げ辺りを伺う気配を見せた。が、直ぐにカシマの方に視線を見けると首元を掴んだ。
「我らが探す人は何処だ」
「し‥知らない」
「貴方様も風を感じたはずだ。この場所から発せられた。つい先程…」
風を探る者達にはカシマだけしか見ない。窓際の二人の姿が見えない。カシマはそう察した。
「あれが、あの感触が風なのか…」
カシマは感心したように言った。
カシマには風が分からないと察しながらセキが叫ぶ。
「十七歳の少年。ダグ山の南側中腹、ナイチ集落からさらに奥深い山岳で、消息が分からなくなった」
この疑問に答えは返らない。カシマの表情は動かないと感じ取ったセキは更に言った。
「我らはしがない呪い師、風が導くままに誘うしかない。風が目指せと告げれば、目指すしかない」
「俺は呪い師では無い。その俺に何をさせたい」
「風はここから生まれた。ここには貴方様だけしかいない。貴方様は関係しているはずだ。知っている事を、我らに教えてくだされ。我らはそのために苦悩している」
カシマは無言だ。微動だにせずセキを見ていた。その傲慢とも思える態度がセキの胸中を逆撫でた。セキは更に叫ぶ。
「教えなければ、貴方様の大切な者を奪う。お前が欲して止まない者。その者の命、我がこの手で、無に返す。我らは命を捨てる覚悟で足跡を追っている。手ぶらで帰る気はない。本望させてもらう」
カシマの面が割れた。セキは確かな怒りで、カシマの腕を掴んでいた。
「貴方様が愛する者。鐘楼に住まいただ生きながらえている者は、この冬を越せない。確かな予見だ。シュロもそう伝えていた。我らが、我ら要が予見を覆す。私の命に替えても良い。だから教えてほしい。言わねば、この場で呪詛を放つ…、いかにする」
セキの語気は強い。跳ね返す強さを持つカシマだが胸に湧き上がったざわめきを消せない。脳裏を覆う不安が汗ばむ掌を強く握りしめ夢のような現実を見た。セキには窓際の二人の姿が映らないのだと察した。その現実が、危機が迫り来ると直感した。
「何が、知りたい」
気迫が声を放ったとセキは感じた。真に迫る顔がひとつの信念の中で問いを求める言葉を待っていると。
「ルーヌ族の少年。彼の行方が知りたい」
「呪い師でもない少年を何故探す」
「彼の資質は総師より上…。聖賢となれる方。もしくは…ザーロの純血の一族に値するお方」
「聖馬人…」
聖馬人は、ザーロ族家の始祖だ。
聖馬が現れたと、伝わってはいない。ザーロ族領に現れたのであれば、族家の誰かが予見しているはずだが、それも聞いていない。
「ただの少年が聖賢か聖馬族か」
「そうです。それに値する方です。その方をタヘタで育て上げたい。それが我ら総師の願い。貴方を含めた五人で行方を追う。追わねば天を仰げずダザイサは次の聖賢が現れるのを只々待たねばならない」
「血族は不穏を感じてはいない。誠なのか」
セキは誠だと大きく頷いた。
「今、ダザイサが暗渠に落ち込んでいる。例年通りの変わること無い実りと産物が与えられているが、大地が暗雲の予兆を見せている。籠もりの季節が長引くか、雪の季節が永遠に続くかもしれない……」
「春が来ない‥のか」
項くセキは更に言う。
「何故憂える兆しがあるのか分からない。そして、この族家も不安定にある。中心となる総師が不在。総師が立てば暗雲は取り除ける」
「暗雲…」
「御方の行方を探し、籠りの季節までには予見を手にせねばダザイサは太古の時に戻り人の住む土地ではなくなる。あるべき方向に導きせねば世界の均衡が崩れ去る。そのためには風の業師が必要なのだ」
「風の業師がザーロの総師なのか」
「いいえ。ザーロの総師は貴方様。あの方は我らの上に立つ方…」
「分からない…」
固唾を飲んだカシマの心中が微かに揺らいだのを感じたセキは事の始まりはダグ山にあると予感した。確かな予見を手にするまで引いてはならないと鼓動が熱く主事を伝える。
「では、聞く。貴方様は四月前にダグ山へ登られたであろう。そこで誰と出会った」
心を閉ざせと身を引き締めるカシマに対するセキは清泉の湧きあふれる感覚が全身を湧かせていた。
「だれ…と‥」
カシマの意志は固いと知るセキは、巧みな言葉を操りオキナの記憶を武器に挑むと。
「貴方様が持つ気質がダグ山頂に残っていた」
「狩場だ。メデメス山脈は、狩りをする者なら誰でも踏み入る。ついでに、ダグ山にも回る」
「そうであろう。あなた様は相当の使い手、その気を高めれば得る獲物は多い。その高まった気が、ダグ山頂西側に残っていた。我らが探す御方もその場を通った。たぶん、迷われたなだろう。御方との気が貴方様と同じ気が同じ場所で交わった」
「出会ってはいない」
打ち消す言葉に語気は無い。身体がゆっくりと崩れ落ちた。
「御方と貴方様と同じ気が、ダグ山で交わった。四ヵ月前です」
そう言ったセキも床に膝を付き真剣な眼で相手を向いた。右斜め後ろにサザラが座し瞑想に入った。ウィーダも、セキの左後ろにいた。
「足跡が残っていた。カシマ殿と御方。カシマ殿は帰路に着かれたが、あのお方はその場に残った。いや、その場で掻き消えた。一瞬だけ念を放ち、何事も無かった様に消えた。」
カシマは、呪い師の心の強さを心得ていた。今三人の心がひとつになった。セキは仕掛けてくる。心をもぎ取り脳裏の奥を弄り必要な物を吸い取ると、カシマは膝に置く両の手に力が入った。
「交わった気が救いを求めた。そして、一瞬で消え失せた。後に残ったのは、風‥。無風の心地。それが何を表すのかが知りたい」
カシマは、何も答えない。
「小柄な漆黒の髪をした少年。水晶のように輝く大きな瞳をした色白の少年」
「水晶の‥瞳」
カシマが呟きを漏らしたその時だ。カシマの記憶の扉が開いた。
光に包まれた林間に少年がいた。
旅装束の少年を腕に抱くカシマが激しいまでの感情を乱した記憶。
「セナルア」
ウィーダが、叫んだ。瞬時、カシマの面が割れた。彼の脳裏の奥に仕舞い込んだ記憶が弾けた。
「確かに、セナルアに間違いない。彼だ」
膝を崩したウィーダがそう言った。頷くセキが強張ったカシマを見詰め静かに言葉を放った。
「ルーヌ族の少年に逢ったのだな」
カシマは後ろを振り返った。月明かりが降り注ぐその場所。イオと醜軀は変わらずカシマの瞳に写っていた。しばらくの間格子戸の影が重なる場所を見ていたカシマは呟いた。
「少年は、‥死んだ」
「死‥。嘘だ。今しがたあの方の風を感じた。無辜の風だ。呪い師の心を天聖へ導く事が出来る清風。」
余韻に浸る面持ちがあえぐように息を吐く。心底風を求めているのだと受けとれた。
「二人のために風が吹いたのか―」
「二人‥。華燭の‥。聖堂ではないこの場所から」
考えこむセキは歩きはじめた。大広間を伺うために。その足が向かう先にイオが居る。気付かないセキは左右に目を凝らしイオの前を通り過ぎた。そして大広間の中心に立った時上を見上げた。そこに何かがある。何であるかを感じ取れずしばらく考え込んだセキはその場に座り込んだ。
その間、カシマの心中が只ならぬ緊張に包まれた事をザザラは感じ取った。
「何故、少年は死んだと言い切るのだ」
ザザラは聞いた。するとカシマはすんなりと言葉を返した。衝撃の言葉を。
「俺がこの手で殺した」


13  聖馬人


喫驚が沈黙を生んだ。時が止まった感覚があった。それを割る乾いた声。
「ダグ山で‥人を、撃った‥」
固唾を飲む固まった面がお互いに視線を向け合った。
「あの日、手にする獲物がなかった、焦っていたのかもしれない。見間違った…黄昏が、獲物を写した。矢には、毒が塗ってあった。助けようと‥した‥が、矢は胸を貫いていた‥」
必死で矢を抜き、血を啜るカシマが嗚咽を上げる姿をサザラの予見の業で見たウィーダが声を上げた。
「セナルアを殺した…。セナルアを、貴様が」
それまで感情を抑え込んでいたウィーダが身体を震わせ声を荒げた。その身体に手をかけたザザラは、呪い師は気を乱す事があってはならないと、諭した。
「それが誠なら、遺骸はどうされた」
嘘だ。そう、セキは叫びたかった。カシマの記憶。闇に包まれた林間は、穏やかな風に包まれていた。それが、人の死であるとは信じがたい。
「そのまま、去った…」
「獣の餌にしたのか」
ウィーダが声を上げた。
「気を乱してはならない。ウィーダ。呪い師で無くなる…」
ザザラの声が闇に響いたその時だ。床が音をたてた。月に照らされたその場所から、カシマが見詰めていたその場所で何かが打つかる音がした。
と、淡い光が、緑色した光が灯った。
―香木―
その光が何であるか見た者は瞬時に分かった。そして、忽然と姿を表した二人が分かった。
醜軀を抱いたイオが慌てた様子で床に落ちた香木を拾う姿を見たウィーダが叫んだ。
「貴様が愛した者を殺し、貴様の息の根を止める」
その言葉が終わらないうちに狂気の叫びを上げたウィーダの足は床を蹴った。刹那に恐怖を察したイオは、醜軀を抱いたまま駆け出していた。
この異変に血族は飛び起きた。そして救いを求める者のために走った。
闇の大広間。
出入り口は遥か先の二カ所。狂気を見せる男の厳つい腕を逃げようとイオは必死で戸口を目指した。だが業師の攻防も諫める声も届かぬ狂気に包まれた心がイオの肩を掴んだ。醜軀が腕から落ちた。カシマが必死に駆け寄る。ザザラとセキの腕が乱れた心を抑えこもうと絡む。甲高い声が助けを求めて口を吐く。
残忍と化した手が、醜軀の首を掴んだ。そして、そのまま床に叩きつけたのだった。
―何故、これほど醜い者を愛せる―
ウィーダの心中が叫んでいた。
イオの悲鳴とカシマの叫びが広間を駆けた。
その鋭い叫びが、天井の梁に溶け込んでいた業を揺り動かした。
一瞬で眠りから覚めた仕業が、銀色を呈し広間に明かりを灯した。そして烈火のごとく弾け飛んだ。
それは、悪行を成した心中目掛けて飛び去った。
ウィーダの動きが止まった。
彼は胸を抑えた。忽然とそこに現れた塊。指はそれをなぞった。そしてゆっくりとそこを見た。銀色の光が灯っていた。呆然とした顔が夢遊の心地を表した後、笑みを浮かべた。その瞬間、大きく波打った身体。
はじけ飛ぶ鮮血が空を揺らした。
おびただしい鮮血が滴り落ちた。
鮮血を浴びたのは、床に蹲る醜躯だ。
だが、崩れゆくウィーダの足元にいる醜軀の身体には、浴びたであろう鮮血が無かった。セキは蜀の明かりを掲げ醜軀を見た。そして、嗚呼と叫びを上げた。
床に蹲っているのは、銀色を呈していた。それはゆっくりと立ち上がった。
「そのお姿は……」
脳裏が衝撃に震えた。身の裡で爆発しそうな鼓動が耳にも響いた。見開いた瞳は写した現実に膝が震え崩れ落ちずにはいられなかった。
「貴方様が、セナルア様」
銀色の髪と白い肌に紫の水晶のような大きな瞳をした乙女が頷いた。セキは膝を揃えて居住まいを正した、そして拝礼していた。
それは、口伝の中でのみ生きる者なのだろう。銀色に輝く姿に広間に駆けつけた者達は次々に平伏していた。
―大地が平穏を取り戻した―
とセキは感じた。籠もりの季節が春を呼ばない極寒の季節は巡っては来ないとザザラもオキナも感じた。不穏は取り除かれたのだと、鮮血に塗れた身体が膝を付きゆっくりと両手を広げ倒れ行く姿を見入った。不実は罪なのだ。その罪を背負った者は贖う。オキナの屋敷でザザラが予見したものは現実となった。

ウィーダは見た。
崩れ落ちるその時。
銀色の光を放つ乙女の姿を‥。そして、聞いたカシマの焦燥の声を‥。
「ルア‥ルア‥」
‥ルア…。
「セナ‥ルア。僕は君を愛していた…」
と、サザラの腕に抱きとめられたウィーダは呟いた。
銀色の髪をした乙女がいた。その面は悲しみを湛えた瞳でウィーダを見ていた。一目で古史が伝える聖馬人だと分かった。
「綺麗だ。まるで…口伝の聖馬‥人……」
ウィーダは笑みを浮かべて、眼を閉じた。
「私も貴方が好きだった…。共に生きても良いと思っていた」
乙女の声が言った。
何時の間にか人溜りが出来ていた。血族縁者達も不穏の予感を察し、一目散に広間に駆け込んでいた。その中にヤルツとノエもいた。
彼らは蜀の明かりがきらめく中に立つ銀色の髪を持つ乙女を見ていた。
真っ白い肌と銀色の髪、紫水晶の輝きをした大きな瞳が聖馬人の証。その証を持つ者がその身に相応しい玲瓏な声を放った。
「風の扉が開いた…」
風の扉。見上げるサザラとセキの脳裏は、古書を繙いた。
ダザイサの大地には、精霊と聖馬が溢れていた。
―大地には、天と地、水と風と4つの閉ざされた扉がある。―
―その先には閉ざされた門がある。そこを開くには、鍵を持つ者が封印の門の前に立たねばならない―
とあった。
「行かねばならない」
古書を知らぬカシマはセナルアの足元に崩れ落ちながら叫んだ。
「行かせやしない」
「扉が空いたからには誰かが通り抜けなければならない。均衡が崩れる」
「一緒に行きたい。俺では随伴の資格がないのか」
いいえと、セナルアが首を振った。
「貴方は、私の夫。門を潜るに相応しいお方。でも、門を潜れば二度とここへは戻れない」
「戻れなくても良い。この命を捧げると誓った。それでも駄目だったのか。彼では無く、この生命では…」
カシマは震える腕を差し出したがセナルアは動かない。広間には押しかけた人の群れが、息を殺して事の成り行きを見守っていた。
「大地が選った人を連れてはいけない」
大地が選んだ。セキは、固唾を飲んだ。口伝に伝わるダザイサ初代の王が脳裏を過ぎったのだ。その王は、大地が選ったと伝えられる。いずれ、王となられる方なのだとセキはカシマの前に跪いた。そして、悲しげな瞳を揺らす聖馬人に礼を尽くした。
「貴方を、見たかった。ダグ山の風が、伝える人を…」
セナルアは、しばらくの沈黙の後言葉を続けた。
「父が待っている。種族のために帰らなければならない」
「種族…」
聞いて良いかとセキが口を開いた。
「そのお姿から察するに、貴方様は聖馬人。何故少年の御姿で我らの前に立たれたのですか」
「私にも私が何なのか分からなかった。自分が周りの者達と違っていると感じていた。あの日ダグ山でカシマに会わなければ、死が目前に迫らなければ気づかなかった。私がこの地に住む者で無いということに・・」
「ザーロの血族も聖馬人と聞いております。同じ聖馬人ならこの地で暮らしてはいただけないのですか」
「私の父は聖馬族。母が聖馬族の血を引く者はこの地で永らえるが、父が聖馬の私は伴侶を迎える前に天聖へ帰らなければならなかった。でも出来なかった。この胸を矢が貫いたためではなく。彼の気が私を包んだから。今まで味わったことのない強くたくましい気が、孤独をもろともしない気が心に打ち込まれていた柵を爆発させた。こんなに強い気質がこの大地にあったことの感動が、全身を震えさせた。腕に抱かれた時、傷を吸う唇の心地が我を忘れさせた。彼のすべてを手に入れたいと‥」
セナルアは床に蹲るカシマに手を差し出した。その手に縋り付いたカシマは言った。
「一瞬で乙女だと気づいた。俺のために現れた人だと、胸が張り裂けそうだった。俺の孤独を埋めるその人の死が目前に迫っていた。俺のこの手が愛した者を殺す。出来ない。出来ない…救いを求めた」
「私も同じ‥どんな形でも‥貴方のもとにいたい…と。でも、今は違う。貴方が与えた命があるから‥。父の大地で、与えられた命を守る…。それが、使命」
言葉を切ったセナルアはイオを呼んだ。イオは懐から三本の香木を取り出すと一本をセナルアに渡した。広間が、ざわめいた。が、直ぐに静まり返った。
香木は青白い光を放つ。横たわるウィーダの胸で淡い光を放った。
二本目の香木がセナルアの手に握られた時、カシマは声を上げた。
「行かせや‥しない」
広間に響く声がセナルアの腕を掴むと、香木を奪い取り床に投げた。
「この大地が、如何になろうと‥。聖馬族の怒りがこの世界を滅ぼそうと、お前を手放しはしない。この思いは同じでは無いのか。ダグ山で誓った言葉は嘘か。」
狂気が面を覆っていた。カシマは後ろから羽交い絞めした身体を強く抱き声を張り上げた。
「お前だけのために生きたいと思う心は罪か。同じ罪を犯すならいっそ、お前を殺し聖馬の怒りをうける。この身体がどんな罰を受けてもお前の軀を抱いて要られるなら…」
気を逸脱したカシマの腕がセナルアの細い首へのびた。二人の正面に立つザザラには、カシマが何をしようとしているのか分かった。太い腕が細い首に絡み力任せに行なう仕業。制する声と恐怖の叫びが上がる中、セナルアは動かずザザラを見ていた。セナルアの唇が微かに動いたと見たザザラは風だと感じた。
風がザザラの頬を撫でた。すると、彼はドルバン領アロア山脈から続く草原にいる自分に気づいた。初めて純粋な風を感じた場所。そこから峻険のダグ山が見えた。
ザザラははっとした。ここは岐路だ。本来はダグ山へ向かうはずだった。そこに招きの風があった。そこで、邂逅があった。一生を友とし使える人との邂逅。今その人は死を願っている。愛する者と同じ道をいくために。
「遠回りさせた。この人を守って。守る価値のある方です」
セナルアの声がザザラの脳裏に響いた。
ザザラは渾身の気を固め、カシマに放った。身じろいだカシマが、業を阻止しようとしたことは確かだった。床に倒れ込んだカシマが身を起こすと香木を手にしたセナルアに、行くなと声を張り上げ縋り付こうと駆け寄った。だが、ザザラが立ちはだかる。ザザラの気がカシマを押さえ込んだ。
「愛しているなら、行かせるのです。人は生きる場所があり生きる目的がある。あの方は貴方のために生きる。貴方の影を伴侶として‥貴方もあの方の影を伴侶として生きなければならない。それが、貴方の役目です」
愛しているならとザザラはカシマの肩に手を置いた。その身体が我が身を抱き嗚咽をあげる。そして何度も頷き、崩れ落ちた。
曇る瞳が愛しい者を見上げた。
悲しい笑みを浮かべた顔が香木を胸に抱き静かに広間の中央に立った。
銀色の光が、ザーロ族長カシマが愛した者を包み込むと消し去った。

終章


 「風の扉が閉まった‥」
 天を仰ぎ気配を伺っていたセキが言った。
「天聖の門は扉を開ける者を待っていたのだろう。やっと大地を覆う大気から険しさがなくなった。穏やかな風が流れ始めた」
そう言ったオキナの顔からも陰りが消え失せていた。カシマの表情からも険しさは消えていたが、瞳は悲しみを表していた。
「出合ったのは、乙女だ。亜麻色の髪をした乙女。鬢髪が銀色に輝く紫色の瞳が美しい人…」
鳥がさえずる晴天の朝を迎えていたが誰もその場から離れる者はなかった。不意にカシマがそう言った。広間の中央に座る彼の横には布に包まれたウィーダの遺骸がある。今宵月の出と共に同族の者達に連れられて生家へと旅立っていく。その前にすべてを語らなければならない。カシマは頭を上げ凛とした声を放った。頷くオキナは目を閉じたままその言葉を聞いた。
「あの日、手にする獲物はなかった。焦る心が林間に獲物の影を写した。気を捕らえた感覚だけで獲物を倒す自身があった。人だと思わなかった」
「ルア様も焦っておられたのだろう。夕闇が嫌いなお方ゆえ…」
ヤルツがボッソと言った。その腕には醜軀が望んだようにノエがいた。カシマの口元に笑みが浮いた。そして頷くと口を開いた。
「‥美しい人だった。一瞬で心奪われた」
黄昏色に染まった林間の光景がセキの目前に広がった。
「ジョオ蛇の毒だ。解毒の蔓を持ってなかった。矢を抜き毒を吸い出したが、どうすることも出来なかった。天に山に祈った。助けてくれと…。この身がどんなになろうとも、この人を助けてくれ‥と。どんな贄でも受け入れる。この人の命を救ってくれと叫んだ…。胸が締め付けられ息が出来ず冷たくなった身体を抱き無我夢中で歩き続けた。気がついた時、納屋に一人いた…。弓と矢筒を持ち呆然と立つ自分に気づいた。血糊がなかった。身体にも衣服にも泥と草穂が脚絆を汚すだけで…」
言葉を切ったカシマは深い溜息を吐いた。
「夢、全ては夢だと思った。だが、あまりの生々しさがすべてを打ち消すことが出来なかった。あの場で聞いた狼の遠吠えが耳に残り腕は抱きとめた暖かさを覚えていた。外に出ることが出来なかった。小屋に篭りどんな形でも帰って来いと祈り叫んだ……➗➗。煩悶の日々だった。五日後の満月の夜に戸を叩く音が俺を呼ぶまでは…」
その場に集う者達は身動きせずにカシマを見ていた。
「月の光が戸口に蹲った者を照らしていた。背に戦慄が走った。顔をそむけるぐらいに醜い身体を見たからでは無い。必死で山道を這い上がって来たとわかる身体を咥えた銀狼がいたのだ。餌にするためでは無いと俺の前で寝そべった銀狼が腹を見せ低い唸りを上げた。そして、ルアの身体を押しやると闇に消えた…」
「聖馬の使魔。今年は狼が姿を見せたとヤカタ邑長が語っていた。誠であったか」
オキナは低く呟くような声で言った。その胸の裡は少年の哀願に対し何も出来なかった後悔があった。オキナはカシマの声を聞きつつ少年の姿を探した。
「確かに、誓った…。この腕が守る者はただ一人だと…だが、これはあまりにも酷な仕打ちだと思わずにはいられなかった‥。神への誓いは永遠だと教えられた。俺等を救ったのは、本当にダグ山の神だったのだろうか」
呟きを放つカシマにセキは言った。
「貴方様もジョオ蛇の毒で瀕死の状態にあったはず。その貴方様を救い小屋まで運んだのは聖馬族の業だろう。貴方様を試すために、聖馬族はセナルア様をあのような姿で貴方様に託された…」
何故にと、問われればセキには答えは分った。
「あの少年が、いない」
オキナが叫んだ。少年の気配が広間にも館内にも無いと感じ取ったオキナはセキに駆け寄った。
「行ってしまわれたのだ。聖馬人の従者として風の門を潜られた」
唖然とするオキナを座らせたセキは空に向かって言った。
「人には役目がある。少年は任された役目を全うするために旅立った。彼はカシマ様のお子を腕に抱きその成長を見届けてくれるだろう。お子が戯れに泉を覗いてくれることを願い聖なる大地を守っていかねばならない。精霊族と聖馬族が泉を通り抜けてこの大地を遊び場と戯れられるように無辜の心であろう」
セキの言葉が終わらぬうちに、怒涛の声が上がり瞬時に静まり返った。

聖馬に捧げられた遺体は、セキとオキナが付き添い月の出と共に出発した。ザザラはカシマと共に見送った。カシマの落胆は大きかった。鐘楼に篭り何日も虚ろな日々を過ごした。その間、祭り事を行ったのはやはりノエだった。その補佐にザザラが付いた。
籠もりの季節に入った。鐘楼は閉ざされた。生活の場は東母屋に移った。カシマは不満を言わずザザラと語る日々が業師の修行となった。
失った者の空白を埋めることの出来ない切なさをザザラの情が満たし籠もりの季節に集まった者達の苦悩だけでない希望がカシマをザーロ種族族長であらねばならないと諭した。真の総師であれと……。
この年ザーロ族家の籠もりの季節は短かった、と人は語った。新しい族長と雪の季節を過ごした者達は大地と触れ合う喜びより館を去る寂しさを覚えた。だからサーロ都邑の雑踏に時折姿を見せるカシマに歓喜の声を上げた。
この日、初夏のサーロ都邑は特別な日だった。
ボアームから輿入れの馬車が列を成して草原の小道を行く。人は歓喜で腕を振った。族家館で行われる華燭の典。その主役が行商で賑わう仮設広場に顔を出すとは思わなかったのだ。誰かがカシマのために赤い玉飾りが付いた櫛を差し出した。躊躇う事無く懐にしまったカシマは明るい顔で礼を言った。そして馬の腹を蹴った。
カシマとザザラは馬を操り、都邑の人混みを抜けただひたすら山道を駆け続け族家集落が小さな点に見える草原へと辿り着いた。カシマは馬から降りたが、ザザラは手綱を握ったまま風を受け止めた。
風が不思議な気配を漂わせていた。
「館に帰る。お前の邪魔はしない」
と言ったザザラは、口元に笑みを浮かべ駆け去った。カシマより多くの事を大地から感じ取るザザラは兄のような存在になっていた。野宿することを止める事無く天を指さし星を語った。山岳で迷えば木々が道を示すと教えた。野山の葉が隠す実を探し草を選り土を掘った。闇が隠す大地と明けゆく大地が与えるものは同じではないと土にまみれた手を見せて言う。
夕にあったものが朝には無く、朝現れたものが夕闇に消え去ることを大地は教えた。

輿入れした幌馬車の御簾を開けたノエは声を上げた。
空だった。

だが、人には役目がある。
カシマは野に塗れる光輝く女人を腕に抱いた。
ザザラは二人を見届ける役目を負った。
セキは変わらずタヘタで瞑想の時を過ごしていた。
オキナはバンヂュ邑で弟子達に口伝を語った。新たな口伝を語るのはタダラ。

精霊と聖馬は、大地を創った。聖なる心が宿った久遠の大地を創った。
その大地にいるのは五種族。五種族を守る者は大地をゆく風が選った呪師。呪師が目指すは天聖。
天聖は待つ。四つの扉を押し開け一つの門をくぐる者を。


                               完

天聖の門  白銀の扉                  セナルアの章     

天聖の門 白銀の扉 ~セナルア編~

天聖の門 白銀の扉 ~セナルア編~

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 登場人物説明
  2. 1 予見
  3. 2 異端者
  4. 3 醜軀
  5. 4 揺らぎ
  6. 5 妻妾
  7. 6 暗雲
  8. 7  天の扉
  9. 8  父と母の大地
  10. 9 呪師
  11. 10
  12. 11 呪縛
  13. 11   清風
  14. 12   聖賢に値する者
  15. 15
  16. 16
  17. 終章