シン『どん底先生』第五章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)
第五章 おじさん受験生、京大を行く
――「分からないなら、自分で受けてみる」
高校数学の参考書を手に取ったとき、手が震えた。
近所の本屋だった。
参考書の棚に並ぶ、見慣れたタイトル。
その中に、昔から知っている一冊があった。
『オリジナル』。
私は思わず立ち止まった。
「……これか」
25年以上前、四日市高校で散々苦しめられた数学。
あの頃の私は、数学と物理ができなかった。
大学受験直前には、勉強している途中で身体が震え、椅子から転げ落ち、病院に運ばれた。
数学という言葉を聞くだけで、身体が昔の記憶を思い出す。
そんな私が、50代になって、また『オリジナル』を手にしていた。
ページを開く。
問題を見る。
そして――
「あれ?」
意外と解ける。
一問。
また一問。
「あれ、これ、分かるやん」
自分でも不思議だった。
25年前には、あれほど苦しんだ問題なのに。
もちろん、全部が簡単だったわけではない。
分からない問題もある。
途中で手が止まることもある。
それでも、昔のように「何が書いてあるのかすら分からない」という状態ではなかった。
私はしばらく問題集を見つめた。
そして、思った。
「ひょっとしたら、高校数学もいけるんちゃうか?」
きっかけは、生徒だった。
英語だけを教えるつもりで始めた塾だったのに、生徒から数学の質問が飛んでくる。
やがて、英語、数学だけではなく、理科、社会、国語まで指導するようになった。
さらに、優秀な生徒が増えてくる。
高田、東海、灘、ラ・サール。
難関高校の入試問題まで持ってくる。
「先生、これ分かります?」
最初のうちは、
「ちょっと待ってな」
と言っていた。
それでも、何とか解く。
そして、ある時、生徒から言われた。
「高校に入っても、先生に教えてもらえませんか?」
私は考えた。
高校になれば、当然、数学も高校数学になる。
英語だけ教えるつもりだったのに、また数学がついてくる。
そこで、もう一度考えた。
「灘高の入試問題の数学が解ける私やったら、高校数学もだんないかな?」
試してみる価値はある。
そう思った。
そして本屋で『オリジナル』を手に取ったのである。
そこから、私の長い数学との付き合いが始まった。
『オリジナル』を二周。
『一対一対応の演習』を二周。
『チェック&リピート』を二周。
『京大の数学』を二周。
さらに、Z会の「京大即応」を8年間続けた。
途中で、
「もうええやろ」
と思ったこともある。
それでもやった。
なぜなら、教えるためだった。
「自分が分かった」だけでは足りない。
生徒から突然、
「先生、これどうしてこうなるんですか?」
と聞かれる。
そのとき、
「たぶんこうや」
では困る。
だから、自分でも何度も問題を解いた。
その間に、京大模試を10回。
センター試験を10回。
京大二次試験を7回。
気がつけば、ノートは110冊になっていた。
手が真っ黒になるまで書いた。
そして、成績開示をした。
京大数学――7割。
文系だった私が、である。
後になってブログに書いたら、
「なんで文系なのに数学7割取れるんですか?」
という質問が全国から来た。
答えは、特別な裏技ではなかった。
ただ、何年もやった。
何冊も解いた。
何回も間違えた。
それだけだった。
もちろん、才能のある理系の生徒と同じように数学ができるようになったわけではない。
私は、数学ができなかった人間だ。
だからこそ、分からない問題を前にしたとき、生徒の気持ちが分かる。
「むっちゃ頭に入らん」
その状態から、
「分かった!」
に変わる瞬間がある。
その瞬間を、自分自身が何度も経験した。
それが、私の数学指導の武器になった。
そして、もう一つ。
私は次第に、ある疑問を持つようになった。
英語についても、本当にこれでいいのだろうか。
私は英語を教えてきた。
アメリカで使っていた英語も知っている。
資格試験の英語もやってきた。
受験英語も知っている。
それなのに、受験英語を教えていると、どうしても引っかかるものがあった。
「この採点、本当にこれでええんやろか?」
そんな疑問を抱えながら、京大模試やZ会の「京大即応」を受け続けた。
京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを合わせて10回。
Z会の「京大即応」は8年間。
ランキングに載ったこともある。
Z会から「六段認定証」をもらったこともある。
それでも、添削を見るたびに、
「うーん……」
と思った。
自分の感覚と、採点の感覚が合わない。
「いったい、誰が採点してんだ?」
調べてみても、詳しいことは分からない。
企業秘密なのだろう。
ただ、受験参考書に書かれているような訂正が多いことは分かった。
そんなときだった。
京大医学部を目指している生徒から、突然、聞かれた。
「先生、英検1級取るのと、京大英語で8割取るの、どっちが難しいんですか?」
私は答えられなかった。
胸がギュッとなった。
これは、困った。
英検1級なら、私は持っている。
アメリカで生活していたから、生きた英語も使える。
受験英語も教えている。
でも、
「京大英語で8割」
と言われると、話が違う。
何をもって8割になるのか。
どういう英語が採点者に評価されるのか。
自信を持って答えられない。
しばらく考えた。
そして――
「……よっしゃ」
私は言った。
「俺が受けたるわ」
50代後半。
普通なら、もう受験なんかしない年齢である。
だが、私は受けることにした。
分からないなら、自分で確かめる。
それしかない。
Z会の「京大即応」をやった。
河合塾、駿台の京大模試にも申し込んだ。
名古屋の河合塾で模試を受けた。
周りは高校生ばかり。
そこへ50代のおっさんが一人。
自分でも、
「場違いやなあ」
と思う。
そんな私のところへ、見知らぬ男子高校生がやって来た。
そして、まっすぐな目で言った。
「その歳でチャレンジする姿、僕、尊敬します!」
私は困った。
そんな立派な人間ではない。
自分では、それがよく分かっている。
でも、その言葉は嬉しかった。
恥ずかしさと嬉しさが混ざって、泣きそうになった。
受験というのは、不思議なものだ。
年齢が違っても、試験会場に入ればみんな受験生である。
……まあ、私は何度も「保護者」に間違えられたけれど。
願書を出そうとして四日市高校に問い合わせると、
「30年前の調査書? あるわけないやろ!」
という話になった。
そりゃそうだ。
学校だって困る。
そこで京大の入試課に電話をした。
「卒業証明書で大丈夫です」
そう言われて、なんとか出願できた。
そして試験当日。
三重大学の共通テスト会場へ行った。
ところが、
「受験生以外は立ち入り禁止です! 出てください!」
と言われた。
いやいや。
「私も受験生です」
と言いたかった。
……というか、実際に受験生なのだ。
さらに京都。
「からすま京都ホテル」に泊まって、京大行きのバスに乗ろうとした。
すると、
「お父さん、このバスは保護者はご遠慮いただいてます……」
と言われた。
「お父さんちゃう。受験生や」
心の中でツッコんだ。
50代のおじさんが京大を受験する。
世間から見れば、かなり珍しかったのだろう。
でも、私にとっては遊びではなかった。
教えている生徒たちに、
「京大を目指せ」
と言う以上、自分も確かめたかった。
一回の受験で、新幹線代、ホテル代、受験料など約7万円。
それを7回。
合計すると、約50万円。
安くはない。
でも、必要だった。
一度だけ受けて、
「京大英語はこうです」
なんて言うのは、私にはできなかった。
だから、何度も受けた。
そして、成績開示が届いた。
英語――8割。
数学――7割。
その数字を見たとき、私は思った。
「……ほんまに取れたな」
数学は、7割。
英語は、8割。
でも、本当に知りたかったのは点数だけではなかった。
「どういう英語を書けば、京大では評価されるのか?」
そこだった。
そこで、7年間の受験を一つの実験として見直した。
最初の2回。
私は、いわゆる「受験英語」で書いた。
結果は、6割くらい。
次の2回。
資格試験の参考書で覚えたような、少し古い口語表現を使った。
すると、7割くらい。
そして最後の3回。
アメリカで実際に使っていたような、中学レベルのシンプルな英語で書いた。
すると、8割前後まで上がった。
記録を整理すると、
昔ながらの受験英語――平均66%。
資格英語――平均76%。
生きた英語――平均79%。
数字は、私にとってかなり面白い結果だった。
もちろん、これは私一人の受験結果であって、これだけで京大英語の採点基準を断定できるわけではない。
それでも、私は一つのことを感じた。
京大で評価されたのは、
「難しい英語を書いたこと」
ではなかった。
自分が伝えたいことを、自分の言葉で伝えようとすること。
それだったのではないか。
私は、それまで英語を「正しく書くもの」だと思いすぎていたのかもしれない。
生徒にも、文法。
構文。
単語。
訳。
もちろん、それらは大切だ。
でも、それだけではない。
「何を言いたいのか」
「どう伝えるのか」
そこまで考えなければ、本当の英作文にはならない。
そして、私自身が受験したことで、もう一つ分かったことがある。
生徒が言っていた、
「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
という言葉である。
私はそれを聞いて、
「そりゃそうやろ」
と笑った。
教えることと、受験することは違う。
でも、だからこそ、自分で受けてみる意味があった。
先生だから何でも分かっている必要はない。
むしろ、
「分からん」
と思ったら、自分で確かめればいい。
数学もそうだった。
25年前にはできなかった。
でも、50代になってやり直したら、できるようになった。
英語もそうだった。
「京大では、どんな英語が評価されるのか?」
分からなかった。
だから、自分で7回受けた。
私は、いつの間にか「教える側」から「もう一度学ぶ側」に戻っていた。
そして、それが案外、面白かった。
若い頃は、勉強ができないことが怖かった。
間違えることが恥ずかしかった。
人に笑われることが怖かった。
けれど、50代になってからは違った。
間違えても、
「ほな、もう一回やったらええ」
と思える。
分からなければ、
「分からんから教えて」
と言える。
できなければ、
「できるまでやってみるか」
と思える。
これは、若い頃の私にはなかった感覚だった。
だから私は、受験生を見る目も変わった。
成績が悪い。
模試で判定が悪い。
数学ができない。
英語が伸びない。
そんな生徒を見ると、以前なら「もっと勉強しろ」と言っていたかもしれない。
今は違う。
その子が、
「むっちゃ頭に入らん」
と思っている場所まで、自分も一緒に降りていく。
そして、
「ここ、分からんよな」
と言える。
そこから、
「じゃあ、どうしたら分かるようになるか、一緒にやろか」
と言える。
それは、私自身が何度も失敗したからできることだった。
数学が苦手だった。
受験で倒れた。
社会に出ても、何度も失敗した。
50代になってから、また受験した。
笑われたこともある。
保護者に間違えられたこともある。
会場から追い出されそうになったこともある。
それでも、受けた。
そして、分かった。
勉強というのは、年齢で終わるものではない。
文系とか理系とか、そんな簡単な分類でもない。
「一度できなかったから、これからもできない」
というものでもない。
できなかった人間が、何年もかけてできるようになる。
その過程そのものが、誰かを教える力になる。
50代のおじさんが、京大の試験会場に座っている。
周りには高校生。
みんな真剣な顔で問題を解いている。
私も鉛筆を握る。
そして、問題を見る。
昔の私なら、
「こんなん無理や」
と逃げていたかもしれない。
でも、今の私は違う。
分からなければ、考える。
間違えたら、直す。
またやる。
それだけだ。
試験が終わったあと、私は席を立った。
「さて、帰るか」
そう思った。
でも、本当は帰るだけではなかった。
この受験で得たものを、塾の生徒たちに返さなければならない。
自分が何歳であろうと関係ない。
先生であろうと、生徒であろうと関係ない。
分からないことがあれば、自分で確かめる。
できなければ、できるまでやってみる。
私は、この頃から少しずつ、そういう生き方を信じるようになっていた。
そして、気がつけば私は、
「数学なんか、二度とやるものか」
と思っていた少年から、
「数学、面白いやん」
と言うおじさんになっていた。
人生というのは、ほんまに分からん。
昔の失敗が、後になって教える力になる。
昔の恥ずかしい経験が、誰かを励ます言葉になる。
そして、一度捨てたと思っていた数学の問題集が、50代の自分をもう一度、机の前に座らせる。
だから、私は今でも生徒に言いたい。
「できるかどうかは、やってみてから考えたらええ」
やる前から、
「自分には無理」
と決めんでもええ。
私自身が、それを何度も証明してきたのだから。
シン『どん底先生』第五章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)