275 天上天下唯我独身

275 天上天下唯我独身

初信 社畜の悟り/コンビニの菩薩

 □社畜の悟り

 終電が消えた。

 雨だった。

 四月だというのに夜風は冷たく、ネクタイの隙間から入り込んだ湿気が肌に張りつく。

 俺――黒崎誠一、四十二歳、独身。

 都内の中堅メーカーに勤める、ただの係長だ。

 駅前の大型ビジョンでは、若いアイドルが笑っていた。

『人生、楽しんだもん勝ち!』

 その下を、俺はコンビニの半額おにぎりを握りしめながら歩いていた。

 鮭。

 百三十八円。

 二十時以降の割引き。

「……勝てるわけねえだろ」

 思わず呟いた。

 誰もいない。

 いや、人はいる。

 みんなスマホを見ていた。

 恋人と電話している男。

 友達と笑っている大学生。

 子供の手を引く母親。

 世界は幸福で満ちている。

 その輪の外側を、俺だけが歩いていた。

 

 会社を出たのは二十三時四十分。

 そこから上司に電話で捕まり、修正、修正、また修正。

「黒崎くんさぁ、“誠意”ってわかる?」

 電話越しに課長が笑う。

 午前零時を回ったあとで、誠意の話をされると、人は少しだけ死ぬ。

「……はい」

「若い子たちの見本にならないと。君、中間管理職なんだから」

 若い子たちは、とっくに帰っていた。

 見本はいつも、損をする側だ。

 

 アパートに着いたのは午前一時半。

 築三十年。

 ユニットバス。

 壁が薄く、隣人のくしゃみまで聞こえる。

 だが静かだった。

 誰もいないからだ。

 独身男性の部屋は、時間が止まる。

 冷蔵庫を開く。

 水。

 麦茶。

 賞味期限の切れた納豆。

 それだけ。

 腹は減っていた。

 だが、面倒だった。

 食べることすら。

 俺は半額おにぎりを机に置き、そのまま床に倒れ込む。

 スーツのまま。

 ネクタイも外さず。

 天井を見上げた。

 シミが、人の顔みたいに見えた。

 

 ……最後に恋人がいたのはいつだったか。

 三十二か。

 いや、三十三だったかもしれない。

 結婚の話が出た時、俺は残業を優先した。

「ごめん、今ちょっと忙しくて」

 その“ちょっと”は、十年続いた。

 気づけば彼女はいなくなり、友人はいなくなり、休日に連絡をくれる人間も消えた。

 残ったのは、会社だけだった。

 その会社も、別に俺を愛してはいない。

 交換可能な部品。

 壊れたら替えがある。

 それだけだ。

 

 スマホが震える。

 課長からだった。

『悪い、明日の会議九時からになった』

『資料、朝までに再修正お願い』

 数秒見つめる。

 それから、スマホを伏せた。

 返信しなかった。

 初めてだった。

 

 静かだった。

 驚くほど。

 

 腹が鳴る。

 そういえば、今日食べたのはカロリーメイト一本だけだ。

 昨日は?

 ……覚えていない。

 眠ってもいない。

 性欲も、もう長いことない。

 ある日突然、消えた。

 疲れすぎると、人間は発情しない。

 生命維持だけで精一杯になる。

 

 断食。

 断眠。

 断性欲。

 

「……修行僧かよ」

 笑った。

 乾いた笑いだった。

 

 だがその瞬間、不意に思った。

 ――もし。

 もし、このまま全ての欲が消えたら、人はどうなる?

 食欲。

 睡眠欲。

 性欲。

 承認欲求。

 金銭欲。

 出世欲。

 幸福への執着。

 全部なくなったら?

 

 その時だった。

 

 ブツッ。

 

 部屋の電気が消えた。

 停電だった。

「……は?」

 窓の外を見る。

 他の部屋は明るい。

 この部屋だけだ。

 ブレーカーか。

 立ち上がろうとして、ふらつく。

 視界が揺れる。

 まずい。

 さすがに限界か。

 

 だが。

 その瞬間。

 

 世界が、静止した。

 

 雨音が止む。

 時計が止まる。

 冷蔵庫のモーター音が消える。

 全てが凍りついたような静寂。

 

「……なんだ」

 

 闇の中。

 自分の呼吸だけが聞こえる。

 

 いや。

 違う。

 呼吸すら、いらない気がした。

 

 急に、自分という存在の輪郭が曖昧になっていく。

 会社員。

 係長。

 独身。

 四十二歳。

 全部、“設定”に思えた。

 

 苦しかった。

 寂しかった。

 認められたかった。

 愛されたかった。

 

 でも。

 その全部は、“俺が俺を空っぽだと思っていた”からじゃないのか?

 

 空っぽなら。

 最初から空なら。

 埋める必要なんて、ないんじゃないか?

 

 その瞬間。

 黒崎誠一は、確かに何かを理解した。

 

「ああ……」

 

 涙が落ちる。

 理由はわからない。

 悲しいわけじゃない。

 むしろ逆だった。

 

 救われていた。

 

 誰にも愛されなくても。

 何者にもなれなくても。

 独身でも。

 孤独でも。

 失敗しても。

 

 存在しているだけで、よかった。

 

 闇の中。

 黒崎は静かに呟く。

 

「天上天下……唯我独身……」

 

 その時。

 

 止まっていた秒針が、再び動き出した。


 □コンビニの菩薩

 翌朝。

 黒崎誠一は会社を休んだ。

 

 二十年間で、初めてだった。

 

 スマホには鬼のように通知が溜まっている。

 課長。

 部長。

 営業。

 取引先。

『体調不良?』

『今日の会議どうするの?』

『連絡ください』

『既読ついてますよね?』

 

 黒崎は画面を閉じた。

 不思議と恐怖はなかった。

 昨日までなら、胃がねじ切れるほど焦っていたはずなのに。

 

 窓を開ける。

 朝の空気が入ってくる。

 鳥の声。

 遠くを走る電車の音。

 小学生の笑い声。

 

 世界は、こんなに静かだったのか。

 

「……腹、減ったな」

 

 久しぶりにそう思った。

 

 気づけば丸二日近くまともに食べていない。

 さすがに危険だ。

 黒崎は適当にパーカーを羽織り、近所のコンビニへ向かった。

 

 春の朝。

 住宅街。

 通学する高校生たちが笑いながら横を通り過ぎる。

 黒崎は少しだけ目を細めた。

 若いな、と思った。

 羨ましいというより、遠い。

 別の生き物を見るような感覚だった。

 

 コンビニに入る。

 自動ドアの音。

 温かい空気。

 揚げ物の匂い。

 

 だが――

 

 黒崎は立ち尽くした。

 

 眩しかった。

 

 弁当。

 カップ麺。

 スイーツ。

 酒。

 雑誌。

 広告。

 全部が、

「買え」 「満たせ」 「幸福になれ」 「寂しさを埋めろ」

 と叫んでいるように見えた。

 

 欲望の寺院。

 

 昨夜の“静寂”を知ってしまった黒崎には、それが異様に感じられた。

 

「……気持ち悪いな」

 

 無意識に呟く。

 その時だった。

 

「でも、人間ってそういうものですよ」

 

 女の声。

 

 振り返る。

 

 白いワンピースの女がいた。

 

 二十代後半くらいだろうか。

 黒髪。

 妙に透明感がある。

 化粧気は薄いのに、なぜか目を引く。

 

 だが、一番奇妙だったのは。

 

 彼女だけ、“静か”だった。

 

 コンビニの喧騒から切り離されたみたいに。

 存在の輪郭が薄い。

 夢の中の人物みたいだった。

 

「……知り合いでしたっけ」

 黒崎が言う。

 

 女は少し笑った。

「いいえ。たぶん、初めましてです」

「たぶん?」

「人は何度も出会いますから」

 

 意味がわからなかった。

 

 だが、なぜか不快ではない。

 

 彼女はお茶の棚を見ながら続ける。

「みんな、空っぽなのが怖いんです」

「……」

「だから食べる。働く。恋をする。課金する。承認を求める」

 

 黒崎は思わず彼女を見た。

 

 課金。

 その単語だけ妙に現代的だった。

 

 女は微笑む。

「でも昨日、あなた、少しだけ気づきましたよね?」

 

 心臓が止まりそうになる。

 

「……なんで」

「止まったでしょう?」

 

 黒崎の呼吸が浅くなる。

 

「世界」

 

 女は当たり前のように言った。

 

「あなた、一瞬だけ“向こう側”を見たんです」

 

 向こう側。

 

 昨夜の静寂が脳裏によみがえる。

 止まった世界。

 空っぽなのに満たされていた感覚。

 

 黒崎は乾いた唇を開く。

「……あれは何なんだ」

 

 女は少し考えてから、

「悟り、と呼ぶ人もいます」

 と言った。

 

 コンビニのレジで、

「からあげクン、レッド一つお願いしまーす!」

 という陽気な声が響く。

 

 あまりにも俗世だった。

 

 なのにこの女だけ、別の場所に立っているみたいだった。

 

「宗教の勧誘か?」

 黒崎は警戒する。

 

 女は吹き出した。

「あはは。違いますよ」

 その笑い方は妙に年相応だった。

「ただ……珍しいんです」

「何が」

「あなたみたいに、“壊れた結果”、空に触れる人。でも、やっと見つけました」

 

 黒崎は眉をひそめる。

 

「普通は修行します。山に籠もったり、滝に打たれたり」

「俺は残業してただけだぞ」

「現代の苦行ですね」

 

 少しだけ、笑ってしまった。

 

 何年ぶりだろう。

 誰かと自然に会話したのは。

 

 女は棚から無糖の炭酸水を一本取る。

「人って、限界まで削れると、たまに世界のノイズが消えるんです」

「ノイズ?」

「欲望とか、自我とか、不安とか」

 

 彼女は黒崎を見る。

 真っ直ぐに。

 

「でも普通は、そこで壊れる」

 

 静かな声だった。

 

「あなたは壊れなかった」

 

 その言葉に、黒崎はなぜか寒気を覚えた。

 

 まるで。

 

 何かに“選ばれた”みたいで。

 

「……あんた、何者なんだ」

 

 女は少しだけ考えてから、

 

「無職です」

 

 と言った。

 

 黒崎は盛大にむせた。

二住 コンビニの菩薩

 黒崎は盛大にむせた。

「ゲホッ、ゲホッ……!」

 黒崎誠一、四十二歳。

 社会人歴二十年。

 

 今、無職の女に敗北していた。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「……急に無職とか言うなよ」

「事実ですし」

 

 白いワンピースの女――いや、無職は、悪びれもなく炭酸水を持ったまま言った。

 

 コンビニのイートイン。

 平日午前十時。

 老人が新聞を読み、恐らくズル休みしてる学生がスマホゲームをしている。

 その片隅で、“悟りかけた社畜”と“透明感のある無職女”が向かい合っていた。

 

 地獄みたいな光景だった。

 

「……で、本当に何者なんだ」

 黒崎は缶コーヒーを開けながら言う。

 

 女は少し考え、

「大仏桔梗です」

 と答えた。

 

「おさらぎ……?」

「はい。大きい仏って書いて、大仏」

 

 名前まで仏だった。

 

 しかも桔梗。

 花みたいな名前だ。

 

「本名か?」

「本名です。たぶん」

「たぶん?」

「戸籍見たことないので」

 

 黒崎は頭を抱えた。

 

 会話のテンポがおかしい。

 

 というか、この女、妙に浮世離れしている。

 美人なのに生活感がない。

 ブランド物も化粧もアクセサリーもない。

 なのに、不潔感も貧乏臭さもない。

 

“何も持っていない仙人”

 みたいだった。

 

「仕事は?」

「してません」

「金は?」

「減りますね」

「そりゃそうだろ」

 

 桔梗は炭酸水を見つめながら、しゅわしゅわ鳴る泡を楽しそうに見ている。

 子供みたいだった。

 

「前は働いてたのか?」

「一応」

「何を」

 

 桔梗は少し黙る。

 

「死ぬほど働いてました」

 

 その瞬間だけ。

 

 空気が変わった。

 

 黒崎は気づく。

 この女も、自分と同じだ。

 

“向こう側”を見た人間だ。

 

「……ブラック企業?」

「はい」

「残業?」

「月二百くらい」

 

 黒崎が真顔になる。

 

「盛ってないか?」

「毎日始発。休日出勤。終電で帰れたらホワイト扱いでした」

「地獄じゃねえか」

「楽しかったですよ」

 

 桔梗は笑う。

 

 だがその笑顔には、どこか壊れた透明感があった。

 

「みんな、壊れていくんです」

 

 ぽつり、と彼女は言った。

 

「同期も、後輩も、上司も」

「……」

「泣いてる人もいました。失踪した人も、自殺した人も」

 

 コンビニのBGMが流れる。

 陽気なポップス。

 

 それが妙に遠かった。

 

「でもある日、気づいたんです」

 桔梗は言う。

「“頑張る”って、なんだろうって」

 

 黒崎は何も言えない。

 

 その問いは、あまりにも重かった。

 

「私、恋人もいたんですよ」

「……へえ」

「結婚の話も出てました」

 

 だが、と彼女は笑う。

 

「仕事してたら全部終わりました」

 
『俺と同じだ』と黒崎は思った。

 桔梗は軽く言う。

 軽く言いすぎていて、逆に痛かった。

 

「彼、最後に言ったんです」

 桔梗は窓の外を見る。

 

『お前、もう人間じゃないみたいだ』

 

「って」

 

 春の光が差し込む。

 

 その横顔は綺麗だった。

 異様なほどに。

 

「……それで辞めたのか」

「はい」

「よく生きてたな」

 

 桔梗は少し考えてから、

 

「死ぬのも面倒だったので」

 

 と言った。

 

 黒崎は吹き出した。

 

「ははっ……なんだそれ」

 

 笑ってしまう。

 

 すると桔梗は、少し驚いた顔をした。

 

「あなた、笑えるんですね」

「失礼だな」

「もっと、“無”の顔してる人かと」

 

 黒崎は苦笑する。

 

 たしかに昨日までの自分なら、こんな会話はできなかった。

 誰かと話す気力すらなかった。

 

 だが今は違う。

 

 世界が少し静かだ。

 

「……なあ」

 黒崎は言う。

「昨日の、あれ」

「はい」

「本当に悟りなのか?」

 

 桔梗は少し黙る。

 

 それから静かに答えた。

 

「たぶん、“入口”です」

「入口?」

「世界のノイズが消える瞬間があります」

 

 彼女は自分の胸に手を当てる。

 

「食欲」

 

 次に額。

 

「睡眠欲」

 

 そして、少しだけ困った顔をして、

 

「性欲」

 

 黒崎が気まずそうに咳払いする。

 

「それらが極限まで薄れた時、人はたまに“自分”を見失うんです」

「……」

「でも、それは怖いことじゃない」

 

 桔梗は笑う。

 

「だって、“自分”なんて最初から幻想かもしれないから」

 

 その言葉に。

 

 黒崎の背筋が、ぞくりと震えた。

 

 昨夜。

 世界が止まった瞬間。

 確かに自分は、“黒崎誠一”ではなくなっていた。

 

 係長でもない。

 独身でもない。

 失敗した人生でもない。

 

 ただ、存在だけがあった。

 

「……なあ」

 黒崎は低く言う。

「それって、救いなのか?」

 

 桔梗は少し考えた。

 

 そして。

 

「人によります」

 

 と答えた。

 

「発狂する人もいますから。精神崩壊して入院する人も。でも、たどり着ける人もいます」

 桔梗は炭酸水を一口飲んだ。

 しゅわ、と小さな音が鳴る。

「それがあなたです」

 その声音は静かだった。

 淡々としているのに、妙に現実感があった。

 黒崎は眉をひそめる。

「……そんなに危ないものなのか」
 
 桔梗は頷いた。
 
「人間って、“自分”が壊れるのに耐えられないんです」

 窓の外。

 通学中の高校生たちが笑っている。

 普通の世界。

 だが桔梗の話だけ、別の深度に沈んでいく。

「たとえば、ずっと“会社員の自分”として生きてきた人がいるとします」

「……」

「でもある日、その役割が消える。リストラでも、離婚でも、病気でもいい」

 彼女は指で机を軽くなぞる。

「その時、“役割のない自分”に耐えられない人がいる」

 黒崎は黙る。

 心当たりが、ありすぎた。

「仕事が自分だった」

 桔梗は続ける。

「恋愛が自分だった。家族が自分だった。承認が自分だった」

 彼女は黒崎を見る。

「でも、それ全部が剥がれた時、最後に何が残ると思います?」

 黒崎は答えられない。

 桔梗は小さく笑う。

「“空っぽ”です」

 その言葉に。

 黒崎は昨夜の静寂を思い出す。

 世界が止まった瞬間。

 自分の輪郭が消えた感覚。

 怖かった。なのに。どこか安心していた。

「普通の人は、その空っぽに耐えられません」

 桔梗は言う。

「だから壊れる」

 彼女は少し視線を落とした。

「私の同期にもいました」

 黒崎は何も言わない。

「真面目な人でした。すごく優秀で、責任感が強くて」

 コンビニのコーヒーマシンが鳴る。

 その音がやけに遠い。

「でもある日、急に笑わなくなった」 

 桔梗は続ける。

 

「寝なくなって、食べなくなって、ずっと働いて」

「……」

「ある時、“世界の意味がわからない”って言い始めたんです」

 

 黒崎の背中に冷たいものが走る。

 

 それは。

 

 少し前の自分と、あまりにも近かった。

 

「その人、どうなった」

 

 桔梗は静かに答える。

 

「病院に入りました」

 

 沈黙。

 

「妄想と現実の境界が壊れたらしくて」

 

 黒崎は息を呑む。

 

「自分が神だと思い込んだり、逆に“自分なんて存在しない”って泣き続けたり」

 

 桔梗は炭酸水を見つめる。

 

「人間、“世界の土台”が崩れると脆いんです」

 

 しゅわ、と泡が弾ける。

 

「だから、本来は順番が必要なんですよ」

「順番?」

「少しずつ手放すんです」

 

 彼女は指を折る。

 

「執着」

 

 一本。

 

「承認欲求」

 

 二本。

 

「恐怖」

 

 三本。

 

「孤独」

 

 四本。

 

「そうやって、少しずつ“空”に慣れていく」

 

 黒崎は低く呟く。

 

「俺は、順番を飛ばしたのか」

 

 桔梗は苦笑した。

 

「あなたの場合、“残業”で強制スキップしましたね」

 

 思わず吹き出す。

 

「なんだよそれ……」

「現代日本、たまに荒行すぎるんですよ」

 

 二人は少し笑った。

 

 だがその後。

 桔梗は真顔に戻る。

 

「でも」

 

 静かな声。

 

「たどり着ける人もいます」

 

 黒崎は顔を上げる。

 

 桔梗の瞳は、どこか遠くを見ていた。

 

「空っぽを、“終わり”じゃなく“始まり”として受け入れられる人」

 

 コンビニの光が、彼女の横顔を照らす。

 

「何もない」

 

 桔梗は呟く。

 

「だから、何にでもなれる」

 

 その瞬間。

 

 黒崎の胸の奥で。

 

 何かが、小さく震えた。

三行 家なき菩薩/デートみたいですね

 □ 家なき菩薩

 沈黙のあと。

 

 桔梗は、こほん、と小さく咳払いした。

 

「あの」

「ん?」

 

 彼女はなぜか視線を逸らしている。

 さっきまで悟りだの空だの語っていた女とは思えないほど、急に落ち着きがない。

 

「お願いがあって」

「……宗教勧誘は断るぞ」

「違います」

 

 即答だった。

 

 そして桔梗は、妙に申し訳なさそうな顔で言った。

 

「私、家なくて」

 

 黒崎は固まる。

 

「……は?」

 

 桔梗は炭酸水を両手で持ちながら続ける。

 

「止めてください」

 

「いや待て待て待て」

 

 黒崎の脳が急速回転する。

 

 家がない?

 つまり?

 ホームレス?

 この透明感ある美人が?

 

「え、いや、友達とか」

「いません」

「親」

「疎遠です」

「彼氏」

「いたら今こんなこと言いません」

 

 正論だった。

 

 黒崎は頭を抱える。

 

「いやでも、なんで俺なんだ」

 

 桔梗は少し考え、

 

「なんとなく、大丈夫そうだったので」

 

 と言った。

 

「その“なんとなく”で人生決めるな」

 

 だが桔梗は真面目な顔で続ける。

 

「あと、あなた昨日、“向こう側”見てたじゃないですか」

「その理由で居候するな」

「同志かなって」

「悟り界隈みたいに言うな」

 

 桔梗は少し笑った。

 

 その笑顔を見て、黒崎は余計に困る。

 

 美人なのだ。

 普通に。

 かなり。

 

 なのに本人に色気の自覚がない。

 

 危険だった。

 

 黒崎は視線を逸らし、缶コーヒーを飲む。

 ぬるい。

 

「……ホテルとかは?」

「お金減るので」

「働けよ」

「働きたくないです」

「清々しいな!」

 

 思わずツッコミが出る。

 

 桔梗は真顔で頷いた。

 

「一回壊れると、“普通に働く”の怖くなるんですよ」

 

 その言葉に。

 黒崎は黙る。

 

 わかってしまった。

 

 会社に行く前の日曜の夜。

 胃が重くなる感覚。

 通知音が怖い感覚。

“また明日が始まる”ことへの絶望。

 

 それを、この女も知っている。

 

「……どれくらい家ないんだ」

「三週間くらいです」

「どうやって生きてた」

「漫画喫茶と公園と、友達の家ちょっと」

「友達いるじゃねえか」

「出禁になりました」

 

 黒崎は天を仰いだ。

 

 なんなんだこの女。

 

 だが。

 

 不思議と嫌じゃなかった。

 

 むしろ。

 

 こんなふうに誰かと話したのは、何年ぶりだろうと思った。

 

 会社の会話は命令と謝罪ばかりだった。

 

「すみません」

「確認します」

「共有不足でした」

 

 そんな言葉しか使ってこなかった。

 

 でも今、自分は笑っている。

 

 それが少しだけ、おかしかった。

 

 桔梗は恐る恐る言う。

 

「……だめ、ですか?」

 

 その瞬間。

 

 黒崎の中の何かが、致命傷を負った。

 

 上目遣いとかではない。

 媚びてもいない。

 

 本当にただ、

「雨の日の捨て猫」みたいな顔だった。

 

 しかも悟ってる。

 意味がわからない。

 

「……条件がある」

 

 気づけば、そう言っていた。

 

 桔梗の顔が少し明るくなる。

 

「なんでしょう」

「勝手に仏教セミナー開くな」

「開きません」

「部屋で座禅するな」

「善処します」

「あと」

 

 黒崎はため息をつく。

 

「働けとは言わん。でも、せめて人間らしい生活しろ」

 

 桔梗は数秒きょとんとして。

 

 それから。

 

 ふわり、と笑った。

 

「はい」

 

 その笑顔は。

 

 コンビニの蛍光灯の下なのに、妙に綺麗だった。


 □ショッピング

「服は?」

 

 コンビニを出た後、黒崎はふと気づいて聞いた。

 

 桔梗は白いワンピースの裾を見下ろす。

 

「これがあります」

「いや、それしか見てない」

「はい」

 

 はい、じゃない。

 

 黒崎は改めて桔梗を見る。

 白いワンピース。

 白いカーディガン。

 白いスニーカー。

 

 統一感がすごい。

 

 仙女か。

 

「着替えとかないのか」

「実家出る時に、この一張羅以外、古着屋に売りました」

 

 さらっととんでもないことを言う。

 

「なんで」

「お金なかったので」

「生活終わってるな……」

 

 だが桔梗は、なぜか誇らしげだった。

 

「でも、物が減ると楽ですよ」

「そこだけミニマリストみたいに言うな」

 

 黒崎はため息をつく。

 

 放っておけない。

 

 たぶん今の彼女、風呂入って洗濯したら着る服がなくなる。

 

「……なら、買ってくか」

 

 桔梗が固まる。

 

「え」

「服」

「いいんですか」

「いいも何も、その格好だけで生きるの無理だろ」

 

 桔梗は数秒黙り。

 

 それから、小さく言った。

 

「ありがとうございます」

 

 その声音が妙に素直で。

 黒崎は少しだけ視線を逸らした。

 

 

 昼前。

 二人は駅前のショッピングモールへ来ていた。

 

 平日のモールなのに人で溢れている。

 カップル。

 家族連れ。

 学生グループ。

 

 幸福の見本市だった。

「あれ、人多いな」

「今日祝日ですよ? 昭和の日」

「あ、そっか」

「流石、ブラック企業ですねー」

 

 黒崎は少し居心地悪そうに歩く。

 

「……場違いだな」

「そうですか?」

 

 桔梗はきょろきょろと周囲を見回していた。

 

 妙に楽しそうだった。

 

「すごいですね」

「何が」

「人間の欲望が全部ある」

 

 第一声がそれだった。

 

「服」

 桔梗が指差す。

「化粧品。アクセサリー。甘いもの。映画。ガチャガチャ」

 

 まるで動物園を観察する学者みたいな口調だった。

 

「ここ、“欲望の百貨店”ですね」

「ショッピングモールに謝れ」

 

 だが黒崎も、少しわかってしまう。

 

 以前の自分なら、ただ疲れる場所だった。

 

 だが今は。

 

 人間が“何かを求めて生きている場所”に見える。

 

「でも」

 桔梗は静かに言う。

「嫌いじゃないです」

 

 彼女は子供服売り場を見る。

 笑い合う親子を見る。

 クレープを食べる高校生を見る。

 

「みんな、満たされようとしてる」

 

 その横顔は優しかった。

 

「それって、たぶん悪いことじゃない」

 

 黒崎は少し驚く。

 

 もっと達観したことを言うかと思った。

 

「欲望否定派じゃないのか」

「否定してませんよ」

 桔梗は笑う。

「人間ですから」

 

 その言葉に。

 黒崎は少しだけ安心する。

 

 この女は、仙人みたいなのに。

 ちゃんと人間だった。

 

 

 ユニクロ。

 

 桔梗は店に入った瞬間、明らかに緊張していた。

 

「どうした」

「服屋、久しぶりすぎて」

「どれくらい」

「二年くらい」

 

 重症だった。

 

 黒崎は適当に棚からパーカーを取る。

 

「こういうのでいいだろ」

 

 桔梗は受け取り、まじまじと見る。

 

「……柔らかい」

「そこ?」

 

 彼女は感動した顔で生地を撫でていた。

 

「文明すごい……」

「原始人か」

 

 思わず笑う。

 

 桔梗は少し照れたように笑った。

 

 その後も。

 

「この色、変じゃないですか?」

 

「サイズ大きいですか?」

 

「ズボン難しいですね」

 

 などと言いながら、試着室へ入っていく。

 

 出てくるたびに。

 

 普通に可愛かった。

 

 黒崎は困る。

 

 白ニット。

 ワイドパンツ。

 シンプルなパーカー。

 

 どれも似合う。

 

 というか素材が強い。

 

「……どうです?」

 

 試着室から顔を出す桔梗。

 

 黒崎は視線を逸らしながら言う。

 

「……いいんじゃないか」

「雑ですね」

「男の感想なんてそんなもんだ」

 

 桔梗はくすっと笑った。

 

 その瞬間。

 

 近くを歩いていた女子高生二人が、ひそひそ声で言う。

 

「え、あの二人、歳の差カップルかな?」

「でもなんか落ち着いててよくない?」

 

 黒崎の動きが止まる。

 

 桔梗も止まる。

 

 沈黙。

 

 数秒後。

 

「……」

「……」

 

 桔梗がぽつりと言う。

 

「デートみたいですね」

 

 黒崎は盛大にむせた。

四廻向 ガチャガチャ

 フードコート。

 

 黒崎誠一は、うどんをすすっていた。

 

 桔梗はたこ焼きを見つめている。

 なぜか一個ずつ観察してから食べていた。

 

「……熱っ」

 

 猫舌らしい。

 

 さっきまで悟りについて語っていた女とは思えない。

 

「で」

 黒崎は麦茶を飲みながら言う。

「なんで家出されたんだ」

 

 桔梗の動きが止まる。

 

「……」

「その顔、ろくでもないな?」

 

 桔梗は視線を逸らした。

 

 そして。

 

「ある麻雀ゲームのキャラを全部集めたくて」

 

 嫌な予感がした。

 

「借金してまで課金したんですよー」

 

 黒崎は静かに箸を置いた。

 

「……は?」

 

 桔梗は指をつんつん合わせながら続ける。

 

「限定だったんです」

「限定で人生壊すな」

「でも復刻未定で」

「知らん!」

 

 周囲の客が少し見る。

 黒崎は咳払いして声量を下げた。

 

「いくら使った」

 

 桔梗は目を逸らす。

 

「言え」

 

 沈黙。

 

「……」

「おい」

 

「……五百万くらい」

 

 黒崎の脳が停止する。

 

「五百……」

 

 五百。

 

 万?

 

「高級車買えるぞ!?」

「でも和了演出すごく綺麗で……」

「魂売るな!」

 

 桔梗はしょんぼりした。

 

「最初は微課金だったんですよ」

「全員そう言う」

「一人引けたら嬉しくて」

「うん」

「気づいたら、“この子も欲しいな”って」

 

 黒崎は頭を抱える。

 

 完全に沼だ。

 

「しかも雀士ごとに専用ボイスとかスキンとかあるじゃないですか」

「知らんが」

「あと期間限定の着せ替え」

「知らんが!?」

 

 桔梗は真剣な顔で言う。

 

「人間、“限定”って言葉に弱いんですよ」

 

 妙に哲学っぽく言うな。

 

「で、実家に借金バレて追い出されたのか」

「はい」

「はいじゃないんだよ……」

 

 黒崎は天を仰ぐ。

 

 さっきまで“空”について語ってた女が、ソシャゲで人生崩壊していた。

 

 落差がひどい。

 

「いや待て」

 黒崎は気づく。

「お前、欲望捨ててないじゃねえか」

 

 桔梗は真顔になる。

 

「はい」

「はい?」

「だから失敗したんです」

 

 その言葉に。

 黒崎は少し黙る。

 

 桔梗はたこ焼きを見つめながら続ける。

 

「私、たぶん空っぽだったんですよ」

「……」

「仕事しかなかったから」

 

 フードコートの喧騒。

 子供の笑い声。

 ポテトの匂い。

 

 その中で、彼女の声だけ静かだった。

 

「だから、キャラクターに執着した」

 

 黒崎は何も言えない。

 

「推しがいる間だけ、“生きてる感じ”がしたんです」

 

 その感覚。

 

 少しだけ、わかってしまった。

 

 人は時々。

 何かに依存しないと、生きられない。

 

 仕事。

 恋愛。

 酒。

 SNS。

 ゲーム。

 

 執着は、心を支える杖でもある。

 

「……全部集めたのか」

 

 桔梗は静かに首を横に振る。

 

「最後の一人、天井前で出ませんでした」

 

 黒崎は腹を抱えて笑った。

 

「ははっ……!」

 

 笑いが止まらない。

 

「五百万円使ってコンプできてねえのかよ!」

「笑わないでください!」

「いや無理だろ!」

 

 桔梗は真っ赤になっている。

 

「だ、だって確率〇・五パーセントで……!」

「数字を語るな!」

 

 周囲の客がまた見る。

 

 だが。

 

 黒崎は久しぶりに、心の底から笑っていた。

 

 会社でも。

 恋人と別れてからも。

 

 こんなふうに笑ったことはなかった。

 

 涙が出るほど笑ったあと。

 黒崎はふと呟く。

 

「……なんか安心した」

 

 桔梗が首を傾げる。

 

「何がです?」

 

 黒崎は少し笑う。

 

「いや、お前でも俗なんだなって」

 

 悟ったようなことを言う。

 空がどうとか語る。

 

 なのに。

 

 限定ガチャで借金する。

 

 あまりにも人間だった。

 

 桔梗は数秒きょとんとして。

 

 それから、ふっと笑った。

 

「人間ですよ」

 

 彼女は静かに言う。

 

「だから、苦しいんです」

 □天井

「ちなみに、なんてアプリなんだ?」

 

 黒崎は何気なく聞いた。

 

 桔梗は一瞬だけ目を輝かせる。

 

「あっ」

 

 嫌な予感がした。

 

「雀士天国です」

「雀士天国?」

「はい、略して雀天」

 

 黒崎の箸が止まる。

 

「……あれか?」

「知ってるんですか!?」

 

 桔梗の声が一段階高くなる。

 

 黒崎は苦い顔をした。

 

 知っている。

 

 というか。

 

 やっている。

 

「まあ、会社の若い奴に勧められて少し」

「えっ」

 

 桔梗の目がキラキラし始める。

 危険信号だった。

 

「どのキャラ推しですか!?」

「いや別に推しってほどじゃ」

「誰ですか!」

 

 圧が強い。

 

 黒崎は観念する。

 

「……凪波澪」

 

 数秒。

 

 桔梗の動きが止まった。

 

「え」

 

 静止。

 

「……凪波澪?」

「なんだよ」

 

 桔梗は震える声で言う。

 

「いいなぁ!!!!」

 

 フードコートに響いた。

 

 黒崎は慌てる。

 

「声デカい!」

「だってぇ!!」

 

 桔梗は机に突っ伏した。

 

「私、その子だけ出なかったんですよぉ……!」

 

 周囲の視線が痛い。

 

「最後まで来なかったんです!」

「お、おう」

「和風メイドスキン限定だったのに……!」

 

 泣きそうな顔だった。

 

 黒崎はスマホを取り出す。

 

 雀士天国。

 

 ログインだけ続けていたアプリ。

 

 なんとなく引いたら出たキャラ。

 

「これか?」

 

 画面を見せる。

 

 そこには。

 

 SSR 凪波澪
 限定スキン【月下ノ白椿】

 

 桔梗が硬直した。

 

「…………」

「おい?」

 

 次の瞬間。

 

「いいなああああああ!!!!」

 

 また叫んだ。

 

「うるさい!」

 

 桔梗は本気で悔しそうだった。

 

「そのスキン、演出神なんですよ!?」

「知らん!」

「和了すると蝶が舞うんです!」

「知らんって!」

 

 だが。

 

 その時。

 黒崎はふと気づく。

 

「……天井まであと何回なんだ」

 

 桔梗がぴたりと止まる。

 

「……二十連です」

 

 黒崎はスマホを見る。

 

 二十連。

 

 まあ、金額としては。

 

 ……いや高いけど。

 

 五百万に比べたら誤差か?

 いや誤差ではない。

 感覚が麻痺している。

 

「でももう石なくて」

 

 桔梗はしょんぼりと言う。

 

「だから諦めました」

 

 その顔を見て。

 

 黒崎はため息をついた。

 

 本当に、自分は甘いと思う。

 

 四十二歳独身。

 貯金だけはそこそこある。

 

 趣味もない。

 使い道もない。

 

 昨日までなら、

「ソシャゲに金なんか使うな」

 で終わっていた。

 

 なのに。

 

 今。

 

 目の前のこの女を見ていると。

 

 なぜか。

 

“救われてほしい”

 と思ってしまった。

 

「……なら」

 

 黒崎は財布からクレカを出した。

 

 桔梗が固まる。

 

「俺のクレカ使っていいから」

 

 数秒。

 

 完全停止。

 

「……え?」

 

「天井まで行け」

 

 桔梗の瞳が大きく開く。

 

「えっ、いや、えっ」

「二十連だけだぞ」

「で、でも」

 

 黒崎は苦笑する。

 

「推しが出ない苦しみくらいはわかる」

 

 会社で。

 人生で。

 何度も“届かなかった側”だったから。

 

 欲しいものに、あと少し届かない。

 

 その感覚だけは、痛いほどわかった。

 

 桔梗はわなわな震える。

 

「……仏……?」

「違う」

「黒崎さん、実は菩薩……?」

「違うって」

 

 だが。

 

 桔梗は、じっと黒崎を見る。

 

 その目は、冗談じゃなかった。

 

「……ありがとうございます」

 

 小さな声。

 

 黒崎は少し照れくさくなって視線を逸らす。

 

「ただし条件」

「はい!」

「爆死しても泣くな」

 

 桔梗は真剣な顔で頷いた。

 

「ガチャは自己責任ですから」

 

 その数分後。

 

 二人はフードコートで並んでスマホを見つめることになる。

 

 四十二歳の社畜と。

 悟りかけた無職女が。

 

「お願い……!」

「お前さっきまで空とか語ってなかった?」

「今は俗です!」

 

 ガチャ演出に一喜一憂していた。

275 天上天下唯我独身

275 天上天下唯我独身

三大欲求の棄却の末に、その独身は悟りを開く。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-12

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  1. 初信 社畜の悟り/コンビニの菩薩
  2. 二住 コンビニの菩薩
  3. 三行 家なき菩薩/デートみたいですね
  4. 四廻向 ガチャガチャ