275 天上天下唯我独身

275 天上天下唯我独身

初信 社畜の悟り/コンビニの菩薩

 □社畜の悟り

 終電が消えた。

 雨だった。

 四月だというのに夜風は冷たく、ネクタイの隙間から入り込んだ湿気が肌に張りつく。

 俺――黒崎誠一、四十二歳、独身。

 都内の中堅メーカーに勤める、ただの係長だ。

 駅前の大型ビジョンでは、若いアイドルが笑っていた。

『人生、楽しんだもん勝ち!』

 その下を、俺はコンビニの半額おにぎりを握りしめながら歩いていた。

 鮭。

 百三十八円。

 二十時以降の割引き。

「……勝てるわけねえだろ」

 思わず呟いた。

 誰もいない。

 いや、人はいる。

 みんなスマホを見ていた。

 恋人と電話している男。

 友達と笑っている大学生。

 子供の手を引く母親。

 世界は幸福で満ちている。

 その輪の外側を、俺だけが歩いていた。

 

 会社を出たのは二十三時四十分。

 そこから上司に電話で捕まり、修正、修正、また修正。

「黒崎くんさぁ、“誠意”ってわかる?」

 電話越しに課長が笑う。

 午前零時を回ったあとで、誠意の話をされると、人は少しだけ死ぬ。

「……はい」

「若い子たちの見本にならないと。君、中間管理職なんだから」

 若い子たちは、とっくに帰っていた。

 見本はいつも、損をする側だ。

 

 アパートに着いたのは午前一時半。

 築三十年。

 ユニットバス。

 壁が薄く、隣人のくしゃみまで聞こえる。

 だが静かだった。

 誰もいないからだ。

 独身男性の部屋は、時間が止まる。

 冷蔵庫を開く。

 水。

 麦茶。

 賞味期限の切れた納豆。

 それだけ。

 腹は減っていた。

 だが、面倒だった。

 食べることすら。

 俺は半額おにぎりを机に置き、そのまま床に倒れ込む。

 スーツのまま。

 ネクタイも外さず。

 天井を見上げた。

 シミが、人の顔みたいに見えた。

 

 ……最後に恋人がいたのはいつだったか。

 三十二か。

 いや、三十三だったかもしれない。

 結婚の話が出た時、俺は残業を優先した。

「ごめん、今ちょっと忙しくて」

 その“ちょっと”は、十年続いた。

 気づけば彼女はいなくなり、友人はいなくなり、休日に連絡をくれる人間も消えた。

 残ったのは、会社だけだった。

 その会社も、別に俺を愛してはいない。

 交換可能な部品。

 壊れたら替えがある。

 それだけだ。

 

 スマホが震える。

 課長からだった。

『悪い、明日の会議九時からになった』

『資料、朝までに再修正お願い』

 数秒見つめる。

 それから、スマホを伏せた。

 返信しなかった。

 初めてだった。

 

 静かだった。

 驚くほど。

 

 腹が鳴る。

 そういえば、今日食べたのはカロリーメイト一本だけだ。

 昨日は?

 ……覚えていない。

 眠ってもいない。

 性欲も、もう長いことない。

 ある日突然、消えた。

 疲れすぎると、人間は発情しない。

 生命維持だけで精一杯になる。

 

 断食。

 断眠。

 断性欲。

 

「……修行僧かよ」

 笑った。

 乾いた笑いだった。

 

 だがその瞬間、不意に思った。

 ――もし。

 もし、このまま全ての欲が消えたら、人はどうなる?

 食欲。

 睡眠欲。

 性欲。

 承認欲求。

 金銭欲。

 出世欲。

 幸福への執着。

 全部なくなったら?

 

 その時だった。

 

 ブツッ。

 

 部屋の電気が消えた。

 停電だった。

「……は?」

 窓の外を見る。

 他の部屋は明るい。

 この部屋だけだ。

 ブレーカーか。

 立ち上がろうとして、ふらつく。

 視界が揺れる。

 まずい。

 さすがに限界か。

 

 だが。

 その瞬間。

 

 世界が、静止した。

 

 雨音が止む。

 時計が止まる。

 冷蔵庫のモーター音が消える。

 全てが凍りついたような静寂。

 

「……なんだ」

 

 闇の中。

 自分の呼吸だけが聞こえる。

 

 いや。

 違う。

 呼吸すら、いらない気がした。

 

 急に、自分という存在の輪郭が曖昧になっていく。

 会社員。

 係長。

 独身。

 四十二歳。

 全部、“設定”に思えた。

 

 苦しかった。

 寂しかった。

 認められたかった。

 愛されたかった。

 

 でも。

 その全部は、“俺が俺を空っぽだと思っていた”からじゃないのか?

 

 空っぽなら。

 最初から空なら。

 埋める必要なんて、ないんじゃないか?

 

 その瞬間。

 黒崎誠一は、確かに何かを理解した。

 

「ああ……」

 

 涙が落ちる。

 理由はわからない。

 悲しいわけじゃない。

 むしろ逆だった。

 

 救われていた。

 

 誰にも愛されなくても。

 何者にもなれなくても。

 独身でも。

 孤独でも。

 失敗しても。

 

 存在しているだけで、よかった。

 

 闇の中。

 黒崎は静かに呟く。

 

「天上天下……唯我独身……」

 

 その時。

 

 止まっていた秒針が、再び動き出した。


 □コンビニの菩薩

 翌朝。

 黒崎誠一は会社を休んだ。

 

 二十年間で、初めてだった。

 

 スマホには鬼のように通知が溜まっている。

 課長。

 部長。

 営業。

 取引先。

『体調不良?』

『今日の会議どうするの?』

『連絡ください』

『既読ついてますよね?』

 

 黒崎は画面を閉じた。

 不思議と恐怖はなかった。

 昨日までなら、胃がねじ切れるほど焦っていたはずなのに。

 

 窓を開ける。

 朝の空気が入ってくる。

 鳥の声。

 遠くを走る電車の音。

 小学生の笑い声。

 

 世界は、こんなに静かだったのか。

 

「……腹、減ったな」

 

 久しぶりにそう思った。

 

 気づけば丸二日近くまともに食べていない。

 さすがに危険だ。

 黒崎は適当にパーカーを羽織り、近所のコンビニへ向かった。

 

 春の朝。

 住宅街。

 通学する高校生たちが笑いながら横を通り過ぎる。

 黒崎は少しだけ目を細めた。

 若いな、と思った。

 羨ましいというより、遠い。

 別の生き物を見るような感覚だった。

 

 コンビニに入る。

 自動ドアの音。

 温かい空気。

 揚げ物の匂い。

 

 だが――

 

 黒崎は立ち尽くした。

 

 眩しかった。

 

 弁当。

 カップ麺。

 スイーツ。

 酒。

 雑誌。

 広告。

 全部が、

「買え」 「満たせ」 「幸福になれ」 「寂しさを埋めろ」

 と叫んでいるように見えた。

 

 欲望の寺院。

 

 昨夜の“静寂”を知ってしまった黒崎には、それが異様に感じられた。

 

「……気持ち悪いな」

 

 無意識に呟く。

 その時だった。

 

「でも、人間ってそういうものですよ」

 

 女の声。

 

 振り返る。

 

 白いワンピースの女がいた。

 

 二十代後半くらいだろうか。

 黒髪。

 妙に透明感がある。

 化粧気は薄いのに、なぜか目を引く。

 

 だが、一番奇妙だったのは。

 

 彼女だけ、“静か”だった。

 

 コンビニの喧騒から切り離されたみたいに。

 存在の輪郭が薄い。

 夢の中の人物みたいだった。

 

「……知り合いでしたっけ」

 黒崎が言う。

 

 女は少し笑った。

「いいえ。たぶん、初めましてです」

「たぶん?」

「人は何度も出会いますから」

 

 意味がわからなかった。

 

 だが、なぜか不快ではない。

 

 彼女はお茶の棚を見ながら続ける。

「みんな、空っぽなのが怖いんです」

「……」

「だから食べる。働く。恋をする。課金する。承認を求める」

 

 黒崎は思わず彼女を見た。

 

 課金。

 その単語だけ妙に現代的だった。

 

 女は微笑む。

「でも昨日、あなた、少しだけ気づきましたよね?」

 

 心臓が止まりそうになる。

 

「……なんで」

「止まったでしょう?」

 

 黒崎の呼吸が浅くなる。

 

「世界」

 

 女は当たり前のように言った。

 

「あなた、一瞬だけ“向こう側”を見たんです」

 

 向こう側。

 

 昨夜の静寂が脳裏によみがえる。

 止まった世界。

 空っぽなのに満たされていた感覚。

 

 黒崎は乾いた唇を開く。

「……あれは何なんだ」

 

 女は少し考えてから、

「悟り、と呼ぶ人もいます」

 と言った。

 

 コンビニのレジで、

「からあげクン、レッド一つお願いしまーす!」

 という陽気な声が響く。

 

 あまりにも俗世だった。

 

 なのにこの女だけ、別の場所に立っているみたいだった。

 

「宗教の勧誘か?」

 黒崎は警戒する。

 

 女は吹き出した。

「あはは。違いますよ」

 その笑い方は妙に年相応だった。

「ただ……珍しいんです」

「何が」

「あなたみたいに、“壊れた結果”、空に触れる人。でも、やっと見つけました」

 

 黒崎は眉をひそめる。

 

「普通は修行します。山に籠もったり、滝に打たれたり」

「俺は残業してただけだぞ」

「現代の苦行ですね」

 

 少しだけ、笑ってしまった。

 

 何年ぶりだろう。

 誰かと自然に会話したのは。

 

 女は棚から無糖の炭酸水を一本取る。

「人って、限界まで削れると、たまに世界のノイズが消えるんです」

「ノイズ?」

「欲望とか、自我とか、不安とか」

 

 彼女は黒崎を見る。

 真っ直ぐに。

 

「でも普通は、そこで壊れる」

 

 静かな声だった。

 

「あなたは壊れなかった」

 

 その言葉に、黒崎はなぜか寒気を覚えた。

 

 まるで。

 

 何かに“選ばれた”みたいで。

 

「……あんた、何者なんだ」

 

 女は少しだけ考えてから、

 

「無職です」

 

 と言った。

 

 黒崎は盛大にむせた。

二住 コンビニの菩薩

 黒崎は盛大にむせた。

「ゲホッ、ゲホッ……!」

 黒崎誠一、四十二歳。

 社会人歴二十年。

 

 今、無職の女に敗北していた。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「……急に無職とか言うなよ」

「事実ですし」

 

 白いワンピースの女――いや、無職は、悪びれもなく炭酸水を持ったまま言った。

 

 コンビニのイートイン。

 平日午前十時。

 老人が新聞を読み、恐らくズル休みしてる学生がスマホゲームをしている。

 その片隅で、“悟りかけた社畜”と“透明感のある無職女”が向かい合っていた。

 

 地獄みたいな光景だった。

 

「……で、本当に何者なんだ」

 黒崎は缶コーヒーを開けながら言う。

 

 女は少し考え、

「大仏桔梗です」

 と答えた。

 

「おさらぎ……?」

「はい。大きい仏って書いて、大仏」

 

 名前まで仏だった。

 

 しかも桔梗。

 花みたいな名前だ。

 

「本名か?」

「本名です。たぶん」

「たぶん?」

「戸籍見たことないので」

 

 黒崎は頭を抱えた。

 

 会話のテンポがおかしい。

 

 というか、この女、妙に浮世離れしている。

 美人なのに生活感がない。

 ブランド物も化粧もアクセサリーもない。

 なのに、不潔感も貧乏臭さもない。

 

“何も持っていない仙人”

 みたいだった。

 

「仕事は?」

「してません」

「金は?」

「減りますね」

「そりゃそうだろ」

 

 桔梗は炭酸水を見つめながら、しゅわしゅわ鳴る泡を楽しそうに見ている。

 子供みたいだった。

 

「前は働いてたのか?」

「一応」

「何を」

 

 桔梗は少し黙る。

 

「死ぬほど働いてました」

 

 その瞬間だけ。

 

 空気が変わった。

 

 黒崎は気づく。

 この女も、自分と同じだ。

 

“向こう側”を見た人間だ。

 

「……ブラック企業?」

「はい」

「残業?」

「月二百くらい」

 

 黒崎が真顔になる。

 

「盛ってないか?」

「毎日始発。休日出勤。終電で帰れたらホワイト扱いでした」

「地獄じゃねえか」

「楽しかったですよ」

 

 桔梗は笑う。

 

 だがその笑顔には、どこか壊れた透明感があった。

 

「みんな、壊れていくんです」

 

 ぽつり、と彼女は言った。

 

「同期も、後輩も、上司も」

「……」

「泣いてる人もいました。失踪した人も、自殺した人も」

 

 コンビニのBGMが流れる。

 陽気なポップス。

 

 それが妙に遠かった。

 

「でもある日、気づいたんです」

 桔梗は言う。

「“頑張る”って、なんだろうって」

 

 黒崎は何も言えない。

 

 その問いは、あまりにも重かった。

 

「私、恋人もいたんですよ」

「……へえ」

「結婚の話も出てました」

 

 だが、と彼女は笑う。

 

「仕事してたら全部終わりました」

 
『俺と同じだ』と黒崎は思った。

 桔梗は軽く言う。

 軽く言いすぎていて、逆に痛かった。

 

「彼、最後に言ったんです」

 桔梗は窓の外を見る。

 

『お前、もう人間じゃないみたいだ』

 

「って」

 

 春の光が差し込む。

 

 その横顔は綺麗だった。

 異様なほどに。

 

「……それで辞めたのか」

「はい」

「よく生きてたな」

 

 桔梗は少し考えてから、

 

「死ぬのも面倒だったので」

 

 と言った。

 

 黒崎は吹き出した。

 

「ははっ……なんだそれ」

 

 笑ってしまう。

 

 すると桔梗は、少し驚いた顔をした。

 

「あなた、笑えるんですね」

「失礼だな」

「もっと、“無”の顔してる人かと」

 

 黒崎は苦笑する。

 

 たしかに昨日までの自分なら、こんな会話はできなかった。

 誰かと話す気力すらなかった。

 

 だが今は違う。

 

 世界が少し静かだ。

 

「……なあ」

 黒崎は言う。

「昨日の、あれ」

「はい」

「本当に悟りなのか?」

 

 桔梗は少し黙る。

 

 それから静かに答えた。

 

「たぶん、“入口”です」

「入口?」

「世界のノイズが消える瞬間があります」

 

 彼女は自分の胸に手を当てる。

 

「食欲」

 

 次に額。

 

「睡眠欲」

 

 そして、少しだけ困った顔をして、

 

「性欲」

 

 黒崎が気まずそうに咳払いする。

 

「それらが極限まで薄れた時、人はたまに“自分”を見失うんです」

「……」

「でも、それは怖いことじゃない」

 

 桔梗は笑う。

 

「だって、“自分”なんて最初から幻想かもしれないから」

 

 その言葉に。

 

 黒崎の背筋が、ぞくりと震えた。

 

 昨夜。

 世界が止まった瞬間。

 確かに自分は、“黒崎誠一”ではなくなっていた。

 

 係長でもない。

 独身でもない。

 失敗した人生でもない。

 

 ただ、存在だけがあった。

 

「……なあ」

 黒崎は低く言う。

「それって、救いなのか?」

 

 桔梗は少し考えた。

 

 そして。

 

「人によります」

 

 と答えた。

 

「発狂する人もいますから。精神崩壊して入院する人も。でも、たどり着ける人もいます」

 桔梗は炭酸水を一口飲んだ。

 しゅわ、と小さな音が鳴る。

「それがあなたです」

 その声音は静かだった。

 淡々としているのに、妙に現実感があった。

 黒崎は眉をひそめる。

「……そんなに危ないものなのか」
 
 桔梗は頷いた。
 
「人間って、“自分”が壊れるのに耐えられないんです」

 窓の外。

 通学中の高校生たちが笑っている。

 普通の世界。

 だが桔梗の話だけ、別の深度に沈んでいく。

「たとえば、ずっと“会社員の自分”として生きてきた人がいるとします」

「……」

「でもある日、その役割が消える。リストラでも、離婚でも、病気でもいい」

 彼女は指で机を軽くなぞる。

「その時、“役割のない自分”に耐えられない人がいる」

 黒崎は黙る。

 心当たりが、ありすぎた。

「仕事が自分だった」

 桔梗は続ける。

「恋愛が自分だった。家族が自分だった。承認が自分だった」

 彼女は黒崎を見る。

「でも、それ全部が剥がれた時、最後に何が残ると思います?」

 黒崎は答えられない。

 桔梗は小さく笑う。

「“空っぽ”です」

 その言葉に。

 黒崎は昨夜の静寂を思い出す。

 世界が止まった瞬間。

 自分の輪郭が消えた感覚。

 怖かった。なのに。どこか安心していた。

「普通の人は、その空っぽに耐えられません」

 桔梗は言う。

「だから壊れる」

 彼女は少し視線を落とした。

「私の同期にもいました」

 黒崎は何も言わない。

「真面目な人でした。すごく優秀で、責任感が強くて」

 コンビニのコーヒーマシンが鳴る。

 その音がやけに遠い。

「でもある日、急に笑わなくなった」 

 桔梗は続ける。

 

「寝なくなって、食べなくなって、ずっと働いて」

「……」

「ある時、“世界の意味がわからない”って言い始めたんです」

 

 黒崎の背中に冷たいものが走る。

 

 それは。

 

 少し前の自分と、あまりにも近かった。

 

「その人、どうなった」

 

 桔梗は静かに答える。

 

「病院に入りました」

 

 沈黙。

 

「妄想と現実の境界が壊れたらしくて」

 

 黒崎は息を呑む。

 

「自分が神だと思い込んだり、逆に“自分なんて存在しない”って泣き続けたり」

 

 桔梗は炭酸水を見つめる。

 

「人間、“世界の土台”が崩れると脆いんです」

 

 しゅわ、と泡が弾ける。

 

「だから、本来は順番が必要なんですよ」

「順番?」

「少しずつ手放すんです」

 

 彼女は指を折る。

 

「執着」

 

 一本。

 

「承認欲求」

 

 二本。

 

「恐怖」

 

 三本。

 

「孤独」

 

 四本。

 

「そうやって、少しずつ“空”に慣れていく」

 

 黒崎は低く呟く。

 

「俺は、順番を飛ばしたのか」

 

 桔梗は苦笑した。

 

「あなたの場合、“残業”で強制スキップしましたね」

 

 思わず吹き出す。

 

「なんだよそれ……」

「現代日本、たまに荒行すぎるんですよ」

 

 二人は少し笑った。

 

 だがその後。

 桔梗は真顔に戻る。

 

「でも」

 

 静かな声。

 

「たどり着ける人もいます」

 

 黒崎は顔を上げる。

 

 桔梗の瞳は、どこか遠くを見ていた。

 

「空っぽを、“終わり”じゃなく“始まり”として受け入れられる人」

 

 コンビニの光が、彼女の横顔を照らす。

 

「何もない」

 

 桔梗は呟く。

 

「だから、何にでもなれる」

 

 その瞬間。

 

 黒崎の胸の奥で。

 

 何かが、小さく震えた。

三行 家なき菩薩/デートみたいですね

 □ 家なき菩薩

 沈黙のあと。

 

 桔梗は、こほん、と小さく咳払いした。

 

「あの」

「ん?」

 

 彼女はなぜか視線を逸らしている。

 さっきまで悟りだの空だの語っていた女とは思えないほど、急に落ち着きがない。

 

「お願いがあって」

「……宗教勧誘は断るぞ」

「違います」

 

 即答だった。

 

 そして桔梗は、妙に申し訳なさそうな顔で言った。

 

「私、家なくて」

 

 黒崎は固まる。

 

「……は?」

 

 桔梗は炭酸水を両手で持ちながら続ける。

 

「止めてください」

 

「いや待て待て待て」

 

 黒崎の脳が急速回転する。

 

 家がない?

 つまり?

 ホームレス?

 この透明感ある美人が?

 

「え、いや、友達とか」

「いません」

「親」

「疎遠です」

「彼氏」

「いたら今こんなこと言いません」

 

 正論だった。

 

 黒崎は頭を抱える。

 

「いやでも、なんで俺なんだ」

 

 桔梗は少し考え、

 

「なんとなく、大丈夫そうだったので」

 

 と言った。

 

「その“なんとなく”で人生決めるな」

 

 だが桔梗は真面目な顔で続ける。

 

「あと、あなた昨日、“向こう側”見てたじゃないですか」

「その理由で居候するな」

「同志かなって」

「悟り界隈みたいに言うな」

 

 桔梗は少し笑った。

 

 その笑顔を見て、黒崎は余計に困る。

 

 美人なのだ。

 普通に。

 かなり。

 

 なのに本人に色気の自覚がない。

 

 危険だった。

 

 黒崎は視線を逸らし、缶コーヒーを飲む。

 ぬるい。

 

「……ホテルとかは?」

「お金減るので」

「働けよ」

「働きたくないです」

「清々しいな!」

 

 思わずツッコミが出る。

 

 桔梗は真顔で頷いた。

 

「一回壊れると、“普通に働く”の怖くなるんですよ」

 

 その言葉に。

 黒崎は黙る。

 

 わかってしまった。

 

 会社に行く前の日曜の夜。

 胃が重くなる感覚。

 通知音が怖い感覚。

“また明日が始まる”ことへの絶望。

 

 それを、この女も知っている。

 

「……どれくらい家ないんだ」

「三週間くらいです」

「どうやって生きてた」

「漫画喫茶と公園と、友達の家ちょっと」

「友達いるじゃねえか」

「出禁になりました」

 

 黒崎は天を仰いだ。

 

 なんなんだこの女。

 

 だが。

 

 不思議と嫌じゃなかった。

 

 むしろ。

 

 こんなふうに誰かと話したのは、何年ぶりだろうと思った。

 

 会社の会話は命令と謝罪ばかりだった。

 

「すみません」

「確認します」

「共有不足でした」

 

 そんな言葉しか使ってこなかった。

 

 でも今、自分は笑っている。

 

 それが少しだけ、おかしかった。

 

 桔梗は恐る恐る言う。

 

「……だめ、ですか?」

 

 その瞬間。

 

 黒崎の中の何かが、致命傷を負った。

 

 上目遣いとかではない。

 媚びてもいない。

 

 本当にただ、

「雨の日の捨て猫」みたいな顔だった。

 

 しかも悟ってる。

 意味がわからない。

 

「……条件がある」

 

 気づけば、そう言っていた。

 

 桔梗の顔が少し明るくなる。

 

「なんでしょう」

「勝手に仏教セミナー開くな」

「開きません」

「部屋で座禅するな」

「善処します」

「あと」

 

 黒崎はため息をつく。

 

「働けとは言わん。でも、せめて人間らしい生活しろ」

 

 桔梗は数秒きょとんとして。

 

 それから。

 

 ふわり、と笑った。

 

「はい」

 

 その笑顔は。

 

 コンビニの蛍光灯の下なのに、妙に綺麗だった。


 □ショッピング

「服は?」

 

 コンビニを出た後、黒崎はふと気づいて聞いた。

 

 桔梗は白いワンピースの裾を見下ろす。

 

「これがあります」

「いや、それしか見てない」

「はい」

 

 はい、じゃない。

 

 黒崎は改めて桔梗を見る。

 白いワンピース。

 白いカーディガン。

 白いスニーカー。

 

 統一感がすごい。

 

 仙女か。

 

「着替えとかないのか」

「実家出る時に、この一張羅以外、古着屋に売りました」

 

 さらっととんでもないことを言う。

 

「なんで」

「お金なかったので」

「生活終わってるな……」

 

 だが桔梗は、なぜか誇らしげだった。

 

「でも、物が減ると楽ですよ」

「そこだけミニマリストみたいに言うな」

 

 黒崎はため息をつく。

 

 放っておけない。

 

 たぶん今の彼女、風呂入って洗濯したら着る服がなくなる。

 

「……なら、買ってくか」

 

 桔梗が固まる。

 

「え」

「服」

「いいんですか」

「いいも何も、その格好だけで生きるの無理だろ」

 

 桔梗は数秒黙り。

 

 それから、小さく言った。

 

「ありがとうございます」

 

 その声音が妙に素直で。

 黒崎は少しだけ視線を逸らした。

 

 

 昼前。

 二人は駅前のショッピングモールへ来ていた。

 

 平日のモールなのに人で溢れている。

 カップル。

 家族連れ。

 学生グループ。

 

 幸福の見本市だった。

「あれ、人多いな」

「今日祝日ですよ? 昭和の日」

「あ、そっか」

「流石、ブラック企業ですねー」

 

 黒崎は少し居心地悪そうに歩く。

 

「……場違いだな」

「そうですか?」

 

 桔梗はきょろきょろと周囲を見回していた。

 

 妙に楽しそうだった。

 

「すごいですね」

「何が」

「人間の欲望が全部ある」

 

 第一声がそれだった。

 

「服」

 桔梗が指差す。

「化粧品。アクセサリー。甘いもの。映画。ガチャガチャ」

 

 まるで動物園を観察する学者みたいな口調だった。

 

「ここ、“欲望の百貨店”ですね」

「ショッピングモールに謝れ」

 

 だが黒崎も、少しわかってしまう。

 

 以前の自分なら、ただ疲れる場所だった。

 

 だが今は。

 

 人間が“何かを求めて生きている場所”に見える。

 

「でも」

 桔梗は静かに言う。

「嫌いじゃないです」

 

 彼女は子供服売り場を見る。

 笑い合う親子を見る。

 クレープを食べる高校生を見る。

 

「みんな、満たされようとしてる」

 

 その横顔は優しかった。

 

「それって、たぶん悪いことじゃない」

 

 黒崎は少し驚く。

 

 もっと達観したことを言うかと思った。

 

「欲望否定派じゃないのか」

「否定してませんよ」

 桔梗は笑う。

「人間ですから」

 

 その言葉に。

 黒崎は少しだけ安心する。

 

 この女は、仙人みたいなのに。

 ちゃんと人間だった。

 

 

 ユニクロ。

 

 桔梗は店に入った瞬間、明らかに緊張していた。

 

「どうした」

「服屋、久しぶりすぎて」

「どれくらい」

「二年くらい」

 

 重症だった。

 

 黒崎は適当に棚からパーカーを取る。

 

「こういうのでいいだろ」

 

 桔梗は受け取り、まじまじと見る。

 

「……柔らかい」

「そこ?」

 

 彼女は感動した顔で生地を撫でていた。

 

「文明すごい……」

「原始人か」

 

 思わず笑う。

 

 桔梗は少し照れたように笑った。

 

 その後も。

 

「この色、変じゃないですか?」

 

「サイズ大きいですか?」

 

「ズボン難しいですね」

 

 などと言いながら、試着室へ入っていく。

 

 出てくるたびに。

 

 普通に可愛かった。

 

 黒崎は困る。

 

 白ニット。

 ワイドパンツ。

 シンプルなパーカー。

 

 どれも似合う。

 

 というか素材が強い。

 

「……どうです?」

 

 試着室から顔を出す桔梗。

 

 黒崎は視線を逸らしながら言う。

 

「……いいんじゃないか」

「雑ですね」

「男の感想なんてそんなもんだ」

 

 桔梗はくすっと笑った。

 

 その瞬間。

 

 近くを歩いていた女子高生二人が、ひそひそ声で言う。

 

「え、あの二人、歳の差カップルかな?」

「でもなんか落ち着いててよくない?」

 

 黒崎の動きが止まる。

 

 桔梗も止まる。

 

 沈黙。

 

 数秒後。

 

「……」

「……」

 

 桔梗がぽつりと言う。

 

「デートみたいですね」

 

 黒崎は盛大にむせた。

四廻向 ガチャガチャ

 フードコート。

 

 黒崎誠一は、うどんをすすっていた。

 

 桔梗はたこ焼きを見つめている。

 なぜか一個ずつ観察してから食べていた。

 

「……熱っ」

 

 猫舌らしい。

 

 さっきまで悟りについて語っていた女とは思えない。

 

「で」

 黒崎は麦茶を飲みながら言う。

「なんで家出されたんだ」

 

 桔梗の動きが止まる。

 

「……」

「その顔、ろくでもないな?」

 

 桔梗は視線を逸らした。

 

 そして。

 

「ある麻雀ゲームのキャラを全部集めたくて」

 

 嫌な予感がした。

 

「借金してまで課金したんですよー」

 

 黒崎は静かに箸を置いた。

 

「……は?」

 

 桔梗は指をつんつん合わせながら続ける。

 

「限定だったんです」

「限定で人生壊すな」

「でも復刻未定で」

「知らん!」

 

 周囲の客が少し見る。

 黒崎は咳払いして声量を下げた。

 

「いくら使った」

 

 桔梗は目を逸らす。

 

「言え」

 

 沈黙。

 

「……」

「おい」

 

「……五百万くらい」

 

 黒崎の脳が停止する。

 

「五百……」

 

 五百。

 

 万?

 

「高級車買えるぞ!?」

「でも和了演出すごく綺麗で……」

「魂売るな!」

 

 桔梗はしょんぼりした。

 

「最初は微課金だったんですよ」

「全員そう言う」

「一人引けたら嬉しくて」

「うん」

「気づいたら、“この子も欲しいな”って」

 

 黒崎は頭を抱える。

 

 完全に沼だ。

 

「しかも雀士ごとに専用ボイスとかスキンとかあるじゃないですか」

「知らんが」

「あと期間限定の着せ替え」

「知らんが!?」

 

 桔梗は真剣な顔で言う。

 

「人間、“限定”って言葉に弱いんですよ」

 

 妙に哲学っぽく言うな。

 

「で、実家に借金バレて追い出されたのか」

「はい」

「はいじゃないんだよ……」

 

 黒崎は天を仰ぐ。

 

 さっきまで“空”について語ってた女が、ソシャゲで人生崩壊していた。

 

 落差がひどい。

 

「いや待て」

 黒崎は気づく。

「お前、欲望捨ててないじゃねえか」

 

 桔梗は真顔になる。

 

「はい」

「はい?」

「だから失敗したんです」

 

 その言葉に。

 黒崎は少し黙る。

 

 桔梗はたこ焼きを見つめながら続ける。

 

「私、たぶん空っぽだったんですよ」

「……」

「仕事しかなかったから」

 

 フードコートの喧騒。

 子供の笑い声。

 ポテトの匂い。

 

 その中で、彼女の声だけ静かだった。

 

「だから、キャラクターに執着した」

 

 黒崎は何も言えない。

 

「推しがいる間だけ、“生きてる感じ”がしたんです」

 

 その感覚。

 

 少しだけ、わかってしまった。

 

 人は時々。

 何かに依存しないと、生きられない。

 

 仕事。

 恋愛。

 酒。

 SNS。

 ゲーム。

 

 執着は、心を支える杖でもある。

 

「……全部集めたのか」

 

 桔梗は静かに首を横に振る。

 

「最後の一人、天井前で出ませんでした」

 

 黒崎は腹を抱えて笑った。

 

「ははっ……!」

 

 笑いが止まらない。

 

「五百万円使ってコンプできてねえのかよ!」

「笑わないでください!」

「いや無理だろ!」

 

 桔梗は真っ赤になっている。

 

「だ、だって確率〇・五パーセントで……!」

「数字を語るな!」

 

 周囲の客がまた見る。

 

 だが。

 

 黒崎は久しぶりに、心の底から笑っていた。

 

 会社でも。

 恋人と別れてからも。

 

 こんなふうに笑ったことはなかった。

 

 涙が出るほど笑ったあと。

 黒崎はふと呟く。

 

「……なんか安心した」

 

 桔梗が首を傾げる。

 

「何がです?」

 

 黒崎は少し笑う。

 

「いや、お前でも俗なんだなって」

 

 悟ったようなことを言う。

 空がどうとか語る。

 

 なのに。

 

 限定ガチャで借金する。

 

 あまりにも人間だった。

 

 桔梗は数秒きょとんとして。

 

 それから、ふっと笑った。

 

「人間ですよ」

 

 彼女は静かに言う。

 

「だから、苦しいんです」

 □天井

「ちなみに、なんてアプリなんだ?」

 

 黒崎は何気なく聞いた。

 

 桔梗は一瞬だけ目を輝かせる。

 

「あっ」

 

 嫌な予感がした。

 

「雀士天国です」

「雀士天国?」

「はい、略して雀天」

 

 黒崎の箸が止まる。

 

「……あれか?」

「知ってるんですか!?」

 

 桔梗の声が一段階高くなる。

 

 黒崎は苦い顔をした。

 

 知っている。

 

 というか。

 

 やっている。

 

「まあ、会社の若い奴に勧められて少し」

「えっ」

 

 桔梗の目がキラキラし始める。

 危険信号だった。

 

「どのキャラ推しですか!?」

「いや別に推しってほどじゃ」

「誰ですか!」

 

 圧が強い。

 

 黒崎は観念する。

 

「……凪波澪」

 

 数秒。

 

 桔梗の動きが止まった。

 

「え」

 

 静止。

 

「……凪波澪?」

「なんだよ」

 

 桔梗は震える声で言う。

 

「いいなぁ!!!!」

 

 フードコートに響いた。

 

 黒崎は慌てる。

 

「声デカい!」

「だってぇ!!」

 

 桔梗は机に突っ伏した。

 

「私、その子だけ出なかったんですよぉ……!」

 

 周囲の視線が痛い。

 

「最後まで来なかったんです!」

「お、おう」

「和風メイドスキン限定だったのに……!」

 

 泣きそうな顔だった。

 

 黒崎はスマホを取り出す。

 

 雀士天国。

 

 ログインだけ続けていたアプリ。

 

 なんとなく引いたら出たキャラ。

 

「これか?」

 

 画面を見せる。

 

 そこには。

 

 SSR 凪波澪
 限定スキン【月下ノ白椿】

 

 桔梗が硬直した。

 

「…………」

「おい?」

 

 次の瞬間。

 

「いいなああああああ!!!!」

 

 また叫んだ。

 

「うるさい!」

 

 桔梗は本気で悔しそうだった。

 

「そのスキン、演出神なんですよ!?」

「知らん!」

「和了すると蝶が舞うんです!」

「知らんって!」

 

 だが。

 

 その時。

 黒崎はふと気づく。

 

「……天井まであと何回なんだ」

 

 桔梗がぴたりと止まる。

 

「……二十連です」

 

 黒崎はスマホを見る。

 

 二十連。

 

 まあ、金額としては。

 

 ……いや高いけど。

 

 五百万に比べたら誤差か?

 いや誤差ではない。

 感覚が麻痺している。

 

「でももう石なくて」

 

 桔梗はしょんぼりと言う。

 

「だから諦めました」

 

 その顔を見て。

 

 黒崎はため息をついた。

 

 本当に、自分は甘いと思う。

 

 四十二歳独身。

 貯金だけはそこそこある。

 

 趣味もない。

 使い道もない。

 

 昨日までなら、

「ソシャゲに金なんか使うな」

 で終わっていた。

 

 なのに。

 

 今。

 

 目の前のこの女を見ていると。

 

 なぜか。

 

“救われてほしい”

 と思ってしまった。

 

「……なら」

 

 黒崎は財布からクレカを出した。

 

 桔梗が固まる。

 

「俺のクレカ使っていいから」

 

 数秒。

 

 完全停止。

 

「……え?」

 

「天井まで行け」

 

 桔梗の瞳が大きく開く。

 

「えっ、いや、えっ」

「二十連だけだぞ」

「で、でも」

 

 黒崎は苦笑する。

 

「推しが出ない苦しみくらいはわかる」

 

 会社で。

 人生で。

 何度も“届かなかった側”だったから。

 

 欲しいものに、あと少し届かない。

 

 その感覚だけは、痛いほどわかった。

 

 桔梗はわなわな震える。

 

「……仏……?」

「違う」

「黒崎さん、実は菩薩……?」

「違うって」

 

 だが。

 

 桔梗は、じっと黒崎を見る。

 

 その目は、冗談じゃなかった。

 

「……ありがとうございます」

 

 小さな声。

 

 黒崎は少し照れくさくなって視線を逸らす。

 

「ただし条件」

「はい!」

「爆死しても泣くな」

 

 桔梗は真剣な顔で頷いた。

 

「ガチャは自己責任ですから」

 

 その数分後。

 

 二人はフードコートで並んでスマホを見つめることになる。

 

 四十二歳の社畜と。

 悟りかけた無職女が。

 

「お願い……!」

「お前さっきまで空とか語ってなかった?」

「今は俗です!」

 

 ガチャ演出に一喜一憂していた。

五地 食事と睡眠って大事

 □空と味噌汁

「お願いします……!」

 

 桔梗がスマホを胸の前で握る。

 

 フードコート。

 

 周囲では家族連れが笑い、学生たちがポテトを食べている。

 

 その片隅で。

 

 無職女が、祈るようにガチャを回していた。

 

「十連目です……!」

 

 演出。

 

 虹。

 

「おっ」

 

 桔梗の目が輝く。

 

 だが。

 

「すり抜けぇぇぇぇ!!」

 

 SSR【天城レイナ】

 

 違う。

 

 目当てではない。

 

 桔梗が机に突っ伏す。

 

「終わった……」

「まだ十連あるだろ」

「でも流れが悪い……!」

 

 ギャンブラーの顔だった。

 

 黒崎はコーラを飲みながら眺める。

 

 なんなんだこれ。

 

 四十二歳にもなって。

 美人無職とソシャゲガチャを見守っている。

 

 人生、何が起きるかわからない。

 

「いきます……」

 

 桔梗が震える指で二十連目を押す。

 

 演出。

 

 光。

 

 金。

 

 紫。

 

 ……終わり。

 

「…………」

 

 沈黙。

 

 そして。

 

「出なかったぁ……」

 

 桔梗が魂の抜けた顔になる。

 

 黒崎は苦笑した。

 

「まあ、そんなもんだろ」

 

 だが。

 

 次の瞬間。

 

 桔梗の顔が、はっと変わる。

 

「……あ」

「ん?」

 

 彼女は震える手で画面を指差した。

 

【交換所】
 限定SSR選択可能
 必要:300ストア石

 

「……天井です」

 

 黒崎が画面を見る。

 

 確かに。

 

 あと一回も回さなくていい。

 

 交換できる。

 

 つまり。

 

「……勝ったのか?」

 

 桔梗は数秒固まり。

 

 次の瞬間。

 

「勝ちましたぁぁぁぁ!!」

 

 ガッツポーズ。

 

 周囲の客がまた見る。

 

 だが桔梗はもう止まらない。

 

「凪波澪ぉぉぉ!!」

 

 交換ボタン連打。

 

 演出。

 

 画面いっぱいに現れる。

 

 SSR 凪波澪
【月下ノ白椿】

 

 蝶が舞う。

 和傘。

 月。

 

 桔梗の目がうるうるしていた。

 

「……綺麗」

 

 その声は、本当に幸せそうだった。

 

 黒崎は思わず笑う。

 

「よかったな」

 

 桔梗は何度も頷く。

 

「はい……!」

 

 その笑顔は。

 

 さっきまで“空”を語っていた時より、ずっと人間らしかった。

 

 

 夕方。

 

 二人は黒崎のアパートへ戻っていた。

 

 築三十年。

 ワンルーム。

 

 桔梗は部屋に入った瞬間、目を丸くする。

 

「……物、少ないですね」

 

 黒崎の部屋は、驚くほど何もなかった。

 

 机。

 布団。

 ノートPC。

 本棚。

 電気ケトル。

 

 それだけ。

 

 テレビもない。

 ゲーム機もない。

 飾りもない。

 

 生活感が薄い。

 

「ミニマリストですか?」

「違う」

 

 黒崎は苦笑する。

 

「増やす理由がなかっただけだ」

 

 誰かを呼ぶこともない。

 趣味もない。

 

 ただ働いて、寝るだけ。

 

 だから部屋も、“生存空間”で止まっていた。

 

 桔梗は静かに部屋を見回す。

 

「……寂しい部屋ですね」

 

 黒崎は少しだけ笑う。

 

「まあな」

 

 否定できなかった。

 

 桔梗は窓際に座る。

 夕日が白い髪……ではなく黒髪を柔らかく照らす。

 

「でも」

 

 彼女はぽつりと言った。

 

「嫌いじゃないです」

 

 黒崎は少し黙る。

 

 それから冷蔵庫を開けた。

 

 中身。

 

 水。

 麦茶。

 卵。

 豆腐。

 

 以上。

 

 桔梗が覗き込む。

 

「修行僧です?」

「違う」

 

 黒崎はため息をつく。

 

「……飯、作るか」

 

 桔梗が固まる。

 

「え」

 

 黒崎自身も驚いていた。

 

 自炊なんて、いつ以来だ。

 

 コンビニ。

 牛丼。

 カップ麺。

 

 そんな生活を十年以上続けてきた。

 

 誰かのために料理するなんて。

 

 人生で、ほとんどなかった。

 

「味噌汁くらいならできる」

 

 そう言って、鍋を取り出す。

 

 桔梗はじっと見ていた。

 

 水を入れる。

 だし。

 豆腐。

 わかめ。

 

 味噌を溶く。

 

 湯気が立つ。

 

 その匂いを嗅いだ瞬間。

 

 桔梗の目が、少しだけ揺れた。

 

「……懐かしい」

 

 小さな声。

 

 黒崎は振り返る。

 

 桔梗は湯気を見つめていた。

 

「実家で、母が作ってました」

 

 黒崎は何も言わない。

 

 ぐつぐつ、と味噌汁が鳴る。

 

 その音だけが部屋に広がる。

 

 静かだった。

 

 だが昨日までの孤独とは違う静けさだった。



 □夕餉、そして

 第九話 おやすみ

 味噌汁。

 卵焼き。

 スーパーで買ってきた鮭。

 

 それだけだった。

 

 豪華ではない。

 むしろ質素だ。

 

 だが。

 

「……美味しい」

 

 桔梗は、本当に嬉しそうに言った。

 

 ちゃぶ台代わりの小さな机。

 向かい合って座る二人。

 

 築三十年のワンルーム。

 

 なのに。

 

 黒崎はなぜか、少しだけ満たされていた。

 

「そんな大したもんじゃない」

「でも、ちゃんとしたご飯です」

 

 桔梗は湯気の立つ味噌汁を見つめる。

 

「最近ずっと、コンビニのパンとかカップ麺だったので」

 

 黒崎は少し眉をひそめる。

 

「身体壊すぞ」

「もうちょっと壊れてました」

 

 さらっと言う。

 

 でも、笑えなかった。

 

 桔梗は静かに続ける。

 

「眠れないんですよ」

 

 その言葉に。

 黒崎の箸が止まる。

 

「寝ようとしても、頭の中ずっと動いてて」

 

 桔梗はこめかみを指で押さえる。

 

「仕事辞めてからも、通知音が聞こえる気がして」

 

 黒崎は黙る。

 

 わかる。

 

 休日なのに会社の夢を見る。

 通知が鳴ってないのにスマホを見る。

 

 身体だけじゃない。

 心まで“勤務状態”になる。

 

「だから」

 桔梗は少し笑う。

 

「こういう普通のご飯、久しぶりです」

 

 黒崎は視線を逸らす。

 

 照れくさかった。

 

「……飯くらいで大げさだな」

「ご飯って、大事ですよ」

 

 桔梗は味噌汁を飲む。

 

「人間、“温かい”だけで少し救われるので」

 

 その言葉が。

 なぜか胸に残った。

 

 

 夜。

 

 問題が発生した。

 

「布団、一つしかないな……」

 

 黒崎は押し入れを見ながら呟く。

 

 来客を想定した人生ではなかった。

 

 桔梗はきょとんとしている。

 

「床で寝れますよ?」

「いや身体壊すだろ」

「もう結構壊れてます」

「その返し便利だな」

 

 黒崎は頭を掻く。

 

 ワンルーム。

 逃げ場なし。

 

 だが。

 

 変な空気にはならなかった。

 

 お互い、疲れすぎていた。

 

「……まあ、端寄るから」

 

 桔梗は少し目を丸くした。

 

「いいんですか?」

「変なことしない」

「期待してません」

「少し傷つくな?」

 

 桔梗はくすっと笑う。

 

 布団を敷く。

 

 並んで横になる。

 

 天井。

 古い照明。

 外を走る車の音。

 

 距離は近い。

 

 でも、不思議と緊張はなかった。

 

 むしろ。

 

 妙に安心する。

 

「……寝るの久しぶりだなぁ」

 

 暗闇の中で、桔梗がぽつりと言う。

 

 黒崎は横を向かずに聞く。

 

「どのくらい」

 

 少し間が空く。

 

「一週間前に、一度ぐっすり寝れたけど」

 

 その答えに。

 黒崎は言葉を失う。

 

 一週間。

 

 まともに眠れていない。

 

 それはもう、不眠症とかいうレベルじゃない。

 

「……病院行ったか?」

「睡眠薬もらいました」

「飲んでないのか」

「怖くて」

 

 静かな声。

 

「寝たまま起きれなかったらどうしようって」

 

 黒崎はゆっくり息を吐く。

 

 それほどまでに、心が削れていたのか。

 

「……今日は寝ろ」

 

 桔梗は小さく頷く。

 

「はい」

 

 しばらく沈黙。

 

 外で猫が鳴いている。

 

 その時。

 

「黒崎さん」

「ん?」

 

 暗闇の中。

 

 桔梗が小さな声で言った。

 

「人って、どうしたら幸せになれると思います?」

 

 難しい問いだった。

 

 昔の自分なら、

 金とか、結婚とか、成功とか、

 そんな答えを言ったかもしれない。

 

 でも今は。

 

 黒崎は天井を見つめながら言う。

 

「……ちゃんと寝れて、温かい飯食えることじゃないか」

 

 桔梗は少し黙って。

 

 それから。

 

「ふふ」

 

 優しく笑った。

 

「それ、たぶん真理です」

 

 その声を最後に。

 

 部屋は静かになった。

 

 黒崎も、いつの間にか眠っていた。

 

 深く。

 

 何年ぶりかわからないほど、穏やかに。

 

 そして。

 

 朝が来た。

6 等覚 働かなくていい世界

 □働かなくていい世界

 朝。

 

 黒崎誠一は、久しぶりに夢を見なかった。

 

 会社の夢も。

 謝罪の夢も。

 終わらない会議の夢もない。

 

 ただ、深く眠っていた。

 

「……」

 

 天井を見る。

 

 身体が軽い。

 

 こんなの、何年ぶりだろう。

 

 その時。

 

 じゅううう……。

 

 何かを焼く音がした。

 

 黒崎はゆっくり起き上がる。

 

 ワンルームの小さなキッチン。

 

 そこに。

 

 エプロン姿の桔梗がいた。

 

「おはようございます」

 

 フライパンを持ったまま、彼女は振り返る。

 

 黒髪を後ろで軽くまとめている。

 

 生活感。

 

 昨日まで“浮世離れした無職女”だった存在が、急に日常の中にいた。

 

 黒崎は数秒固まる。

 

「……何してる」

「卵焼きです」

 

 フライパンを見る。

 

 炭化しかけていた。

 

「焦げてるぞ」

「火って難しいですね」

「原始人かお前」

 

 だが。

 

 悪くない匂いだった。

 

 机には味噌汁と白米も並んでいる。

 

「勝手に冷蔵庫使いました」

「別にいいけど」

 

 黒崎は椅子に座る。

 

 湯気。

 朝日。

 味噌汁。

 

“朝食”だった。

 

 そんなもの、人生から消えて久しかった。

 

「いただきます」

 

 二人で手を合わせる。

 

 卵焼きは少し焦げていた。

 

 でも。

 

「……美味い」

 

 桔梗が少し驚いた顔をする。

 

「本当ですか?」

「ああ」

 

 本当だった。

 

 技術じゃない。

 

 誰かが作った飯。

 それ自体が、もう救いだった。

 

 桔梗は少し嬉しそうに笑う。

 

 その時。

 

 黒崎のスマホが震えた。

 

 画面。

 

 課長。

 

 何十件目かわからない通知。

 

 黒崎の胃が、少しだけ重くなる。

 

 現実が戻ってくる。

 

「……会社、行かなきゃ」

 

 無意識に呟いていた。

 

 すると。

 

 桔梗が箸を止める。

 

「行かなくていいよ」

 

 黒崎は顔を上げる。

 

 桔梗はあまりにも自然に言った。

 

 まるで。

 

「今日雨だから傘いるよ」

 くらいの口調で。

 

「……なんで」

 

 桔梗は少し考えて。

 

「鶴の恩返し的な?」

 

 黒崎は真顔になる。

 

「意味わからん」

「私が何とかする」

 

 さらに意味がわからなかった。

 

「お前無職だろ」

「はい」

「どうやって」

 

 桔梗は味噌汁を飲む。

 

 それから。

 

「世の中、お金を稼ぐ方法って意外といっぱいあります」

 

 妙に達観した口調。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「……犯罪はやめろよ」

「しません」

「身体売るとかもなしだ」

 

 桔梗は吹き出した。

 

「黒崎さん、優しいですね」

「普通だ」

 

 だが。

 

 桔梗は首を横に振る。

 

「普通の人、そこ気にしませんよ」

 

 黒崎は黙る。

 

 少しだけ気まずい。

 

 桔梗は笑ったあと、静かに続ける。

 

「でも、本当に行かなくていいと思います」

 

 その声は、冗談じゃなかった。

 

「あなた、限界超えてました」

 

 黒崎はスマホを見る。

 

 課長の通知。

 

『電話出て』

『社会人としてどうなの?』

『責任感ないの?』

 

 胸が少しざわつく。

 

 昨日までなら、それだけで呼吸が苦しくなっていた。

 

 でも。

 

 今は。

 

 味噌汁の湯気がある。

 

 朝日がある。

 

 向かいには、焦げた卵焼きを作る無職女がいる。

 

 それだけで。

 

 世界が少し遠かった。

 

「……でもな」

 黒崎は低く言う。

「働かないと生きていけない」

 

 桔梗は即答した。

 

「そんなことないですよ」

 

 黒崎は眉をひそめる。

 

 桔梗は静かに笑う。

 

「だって無職の私、今、生きてるじゃないですか」

 

 その言葉に。

 

 黒崎は何も返せなかった。

 □エデン

 第十一話 エデン演説

「だって今、生きてるじゃないですか」

 

 その言葉のあと。

 

 部屋に少しだけ沈黙が落ちた。

 

 味噌汁の湯気が揺れる。

 

 黒崎はスマホを伏せたまま、低く息を吐いた。

 

「……お前、時々すげえこと言うよな」

 

 桔梗は首を傾げる。

 

「そうですか?」

「無職のくせに哲学者みたいだ」

「無職だから哲学する時間があるんですよ」

「説得力あるな……」

 

 黒崎は苦笑する。

 

 だがその時。

 

 桔梗が少し迷うような顔をした。

 

「あの」

「ん?」

 

 彼女はスマホを取り出す。

 

「私、実はこういうものなんです」

 

 画面を差し出してきた。

 

 YouTube。

 

 タイトル。

 

【人類精神衛生に関する提言】
 国際統合会議・エデン特別演説

 

 再生数、一万弱。

 

「……限定公開?」

「はい」

 

 黒崎は眉をひそめる。

 

 限定公開にしては多すぎる。

 

 しかもサムネイル。

 

 海の上。

 

 巨大な白い人工島。

 

 空港みたいな規模の施設群。

 

 中央には、ガラスと白金属で構成された異様な円形議場。

 

 黒崎は思わず呟く。

 

「なんだこれ」

 

 桔梗は静かに言う。

 

「人工島エデン」

 

 再生。

 

 映像が始まる。

 

 青い海。

 

 ヘリの空撮。

 

 そしてテロップ。

 

《国連特別行政海上都市 EDEN》

 

「は?」

 

 黒崎の声が漏れる。

 

 映像は続く。

 

 議場。

 

 各国代表。

 

 同時通訳。

 

 国旗。

 

 明らかに、本物だった。

 

 ニュース映像みたいな質感。

 

 その中央。

 

 演壇に立っている人物を見て。

 

 黒崎は固まる。

 

「……おい」

 

 白いスーツ。

 

 長い黒髪。

 

 静かな目。

 

 そこにいたのは。

 

 間違いなく。

 

 大仏桔梗だった。

 

「え?」

 

 頭が理解を拒否する。

 

 今朝、焦げた卵焼きを作ってた無職女。

 

 昨日、課金で人生崩壊した女。

 

 その女が。

 

 世界の中心みたいな場所で演説していた。

 

 映像の中の桔梗は、今と雰囲気が違う。

 

 もっと冷たい。

 

 もっと、透明だった。

 

 議場が静まり返る。

 

 そして。

 

 映像の桔梗が口を開く。

 

『人類は、豊かになりました』

 

 同時通訳が流れる。

 

『飢餓は減り、技術は進歩し、娯楽は無限に増えた』

 

 静かな声。

 

 なのに、妙に耳に残る。

 

『ですが同時に、人類の精神は崩壊し始めています』

 

 議場の空気が張り詰める。

 

『うつ病。不安障害。依存症。孤独。自殺』

 

 黒崎の背筋に寒気が走る。

 

『現代人は、“生きる理由”を失っています』

 

 映像の桔梗は、そこで少しだけ笑った。

 

 悲しそうに。

 

『それでも人は、働き続ける』

 

 会場は静かだ。

 

 誰も笑わない。

 

『食べるために』

 

『承認されるために』

 

『孤独を誤魔化すために』

 

『自分が空っぽであることを忘れるために』

 

 黒崎の呼吸が止まりそうになる。

 

 昨夜。

 

 彼女が言っていたことと、同じだった。

 

 映像の桔梗は続ける。

 

『ですが、人類は限界です』

 

 その瞬間。

 

 議場の巨大スクリーンに数字が映る。

 

 自殺率。

 

 精神疾患率。

 

 睡眠障害。

 

 依存症。

 

 右肩上がり。

 

 まるで文明そのものが壊れていくグラフだった。

 

『だから私は提言します』

 

 桔梗は静かに両手を組む。

 

『人類は、一度“止まるべき”です』

 

 ざわめき。

 

 各国代表たちが動く。

 

 だが桔梗は止まらない。

 

『働きすぎないこと』

 

『競争しすぎないこと』

 

『孤独を放置しないこと』

 

『そして』

 

 彼女は真っ直ぐ前を見た。

 

『眠ること』

 

 黒崎の胸が、どくん、と鳴る。

 

『温かいご飯を食べること』

 

 昨日の味噌汁が脳裏をよぎる。

 

『愛されなくても、生きていていいと知ること』

 

 その瞬間。

 

 映像の桔梗と。

 

 部屋にいる桔梗の姿が、重なった。

 

 動画が止まる。

 

 部屋は静かだった。

 

 黒崎は数秒、言葉を失う。

 

 それから。

 

「……お前、何者だ?」 

 

 ようやく、それだけを絞り出した。

7 妙覚 とあるSF実話

「私は、未来人のようなものです」

 

 黒崎は沈黙した。

 

 朝。

 

 味噌汁の匂いがまだ部屋に残っている。

 

 築三十年のワンルーム。

 

 そこで今。

 

 無職女が未来人宣言をしていた。

 

「……疲れてるのかな俺」

 

 黒崎は額を押さえる。

 

 桔梗は真顔だった。

 

「未来人?」

「正確には」

 

 彼女は少し考えるように目を細める。

 

「今よりも科学技術の進んだ、“先史文明”の唯一の生き残りです」

 

 黒崎はゆっくり瞬きする。

 

「情報量が多い」

「ですよね」

 

 桔梗は頷いた。

 

 妙に冷静だった。

 

 黒崎は深く息を吐く。

 

 普通なら笑い飛ばす。

 

 陰謀論だ。

 妄想だ。

 

 だが。

 

 昨日から起きていること全部が、普通ではない。

 

 止まった世界。

 

 エデン演説。

 

 そして何より。

 

 彼女の目。

 

 嘘をついている人間の目ではなかった。

 

「……証拠は」

 

 桔梗は少し黙る。

 

 それからスマホを操作した。

 

 新しい動画。

 

 古い映像。

 

 白黒。

 

 ノイズ。

 

 テロップ。

 

《APOLLO 18 CONFIDENTIAL ARCHIVE》

 

 黒崎は眉をひそめる。

 

「アポロ18って、欠番じゃなかったか?」

「表向きは」

 

 動画が再生される。

 

 月面。

 

 荒れた地表。

 

 アメリカ国旗。

 

 そして。

 

 巨大なクレーター。

 

 映像が乱れる。

 

 誰かが叫んでいる。

 英語。

 

《There’s someone here!》

 

“誰かいるぞ!”

 

 黒崎の背筋が凍る。

 

 カメラが向く。

 

 そこに。

 

“白い人影”がいた。

 

 宇宙服ではない。

 

 薄い布みたいな服。

 

 長い黒髪。

 

 月面に、素足で立っていた。

 

「……は?」

 

 黒崎は思わず声を漏らす。

 

 ありえない。

 

 その人物が、ゆっくり振り返る。

 

 若い女。

 

 息を呑むほど綺麗な顔。

 

 そして。

 

 彼女は口を開いた。

 

『こんにちは』

 

 日本語だった。

 

 ノイズ混じり。

 

 でも、はっきり聞こえた。

 

『地球は、まだ生きていますか?』

 

 動画が止まる。

 

 黒崎は動けなかった。

 

 心臓だけが鳴っている。

 

「……これ」

 

 桔梗は静かに言った。

 

「私です」

 

 沈黙。

 

 窓の外でカラスが鳴く。

 

 現実感が崩れていく。

 

「いや……待て」

 

 黒崎は立ち上がる。

 

「待て待て待て」

 

 頭が追いつかない。

 

「月?」

「はい」

「月にいた?」

「いました」

「なんで?」

 

 桔梗は少し困った顔をした。

 

「長い話になります」

「いやもう全部長い」

 

 黒崎は頭を抱える。

 

 だが。

 

 桔梗は静かに続けた。

 

「文明は、一度滅んでるんです」

 

 その声には。

 

 奇妙な重みがあった。

 

「今の人類より前に」

 

 彼女は窓の外を見る。

 

「もっと進んだ文明が存在していました」

 

「……SFか?」

「現実です」

 

 即答。

 

「量子技術。精神接続。人工意識。重力制御」

 

 淡々と語る。

 

「でも、人類は壊れました」

 

 黒崎は息を呑む。

 

「欲望が制御できなかった」

 

 桔梗の声は静かだった。

 

「便利になりすぎたんです」

 

「……」

 

「苦しまなくても生きられるようになった」

 

 彼女は自嘲気味に笑う。

 

「でも、人間は幸福になれなかった」

 

 その言葉は。

 

 どこか現代にも重なっていた。

 

「争いが起きました」

 桔梗は続ける。

 

「思想。快楽。永遠の命」

 

「そして最後に、“現実そのもの”が壊れた」

 

 黒崎は理解できない。

 

 だが。

 

 理解できないのに、怖かった。

 

「私は、その文明の最後の保存個体でした」

 

 保存個体。

 

 人間を、そんな言い方するのか。

 

「月の地下施設で眠っていたんです」

 

 桔梗は自分の胸に手を当てる。

 

「ずっと、一人で」

 

 その瞬間。

 

 黒崎は初めて理解した。

 

 この女の“孤独”の深さを。

 

 ブラック企業とか。

 借金とか。

 

 そんなレベルじゃない。

 

 文明そのものから取り残された存在。

 

「……なんで逃げた」

 

 桔梗は少し笑った。

 

 今までで一番、人間らしく。

 

「実験動物みたいだったので」

 

 黒崎は黙る。

 

 桔梗は続ける。

 

「本当は、施設から逃げ出して来たんです。ブラック企業の話は先史文明の話です」

 

 その目は静かだった。

 

 でも。

 

 どこか怯えていた。



 □少女の願い

 沈黙。

 

 黒崎誠一は、しばらく何も言えなかった。

 

 月の裏側。

 

 先史文明。

 

 文明崩壊。

 

 施設脱走。

 

 情報量が多すぎて脳が焼けそうだった。

 

 だが。

 

 一番気になったのは、そこではない。

 

「……いや待て」

 

 黒崎は真顔で言う。

 

「課金は?」

 

 桔梗がぴたりと止まる。

 

 数秒。

 

 露骨に視線を逸らした。

 

「おい」

 

 桔梗は小さく咳払いする。

 

「唯一の娯楽として」

 

 嫌な予感がした。

 

「ゲーム、本、漫画、映画、アニメが与えられて」

 

 黒崎は黙る。

 

 なんか急に親近感が出てきた。

 

「ランダム性のある麻雀にハマりまして」

 

 あっ。

 

「こっそりカード作って課金してたら」

 

 あっ。

 

「施設の人にバレまして」

 

 あっ。

 

 桔梗は正座していた。

 

 妙に神妙な顔で。

 

「その際に、“娯楽は精神汚染の危険があるので制限します”って言われたんです」

「うん」

「なので」

 

 彼女は静かに言った。

 

「超能力解放して逃げ出しました」

 

 黒崎は天井を見上げた。

 

 情報が、最悪の方向に繋がった。

 

「待て」

 

 黒崎は指を差す。

 

「お前」

「はい」

「ソシャゲのために施設破壊したのか?」

 

 桔梗は少し考える。

 

「……半分くらいは」

「半分!?」

 

 黒崎は立ち上がった。

 

「世界観が壮大なのに動機が俗すぎるだろ!」

「でも凪波澪限定復刻だったんですよ!?」

「知るか!」

 

 桔梗も立ち上がる。

 

「あと映画も見れなくなるところだったんです!」

「お前先史文明の最後の生き残りだよな!?」

「はい!」

「もっとこう……人類の未来とか背負えよ!」

 

 桔梗は真顔になる。

 

「背負ってますよ」

「え?」

「だから逃げたんです」

 

 黒崎が止まる。

 

 桔梗は静かに続ける。

 

「人類、また同じこと繰り返そうとしてたので」

 

 部屋が静かになる。

 

 さっきまでギャグだった空気が、一瞬で変わる。

 

「……どういう意味だ」

 

 桔梗は窓の外を見る。

 

 朝の東京。

 

 ビル。

 電車。

 人。

 

「便利になれば、人は幸福になると思ってる」

 

 静かな声。

 

「でも違う」

 

 黒崎は黙る。

 

「私たちの文明もそうでした」

 

 桔梗は言う。

 

「苦しみを消した」

 

「労働を減らした」

 

「病気も死も克服しかけた」

 

「でも」

 

 彼女は自分の胸を押さえる。

 

「心だけは、満たされなかった」

 

 黒崎は息を呑む。

 

「だから人類は、“刺激”に溺れ始めた」

 

「もっと快楽を」

 

「もっと没入を」

 

「もっと承認を」

 

「もっと運命を」

 

 桔梗は少し笑う。

 

「ソシャゲも、本質は同じです」

 

 黒崎は苦笑する。

 

 否定できない。

 

 ガチャ。

 

 ランダム。

 

 期待。

 

 脳が焼ける瞬間。

 

 人間は、“奇跡”を求めてしまう。

 

「私も結局、人間だったんですよ」

 

 桔梗はぽつりと言う。

 

「どれだけ文明が進んでも」

 

「どれだけ悟った気になっても」

 

「推しが欲しかった」

 

 黒崎は吹き出した。

 

「ははっ……」

 

 もう駄目だった。

 

 未来文明最後の生き残りが、限定SSRで人生を狂わせている。

 

 壮大なのに情けない。

 

 でも。

 

 だからこそ。

 

 妙に信じられた。

 

 桔梗は続ける。

 

「施設の人たち、私を“保存すべき人類資産”みたいに扱うんです」

 

 その声には、少しだけ寂しさがあった。

 

「でも、違う」

 

 彼女は黒崎を見る。

 

「私は、人間なんです」

 

 その目は真っ直ぐだった。

 

「映画見て泣くし」

 

「漫画で興奮するし」

 

「推しが尊いと語りたいし」

 

「美味しいご飯食べたいし」

 

「誰かと一緒に寝ると安心する」

 

 黒崎の胸が、少しだけ熱くなる。

 

 桔梗は笑った。

 

 柔らかく。

 

「だから、ここに来たかったんです」

 

 その言葉に。

 

 黒崎は、何も言えなかった。

最終話 月とさよなら、悟りの先へ

□月の女、配信者になる

「だから」

 

 桔梗は真顔で言った。

 

「YouTubeになりましょう」

 

 黒崎は沈黙した。

 

 数秒後。

 

「……何て?」

 

「YouTubeです」

「職業名みたいに言うな」

 

 桔梗はスマホを取り出す。

 

 検索履歴。

 

 動画編集。

 配信機材。

 収益化条件。

 

 やたら調べていた。

 

「いや待て」

 黒崎は額を押さえる。

「お前、未来文明の生き残りだよな?」

「はい」

「人類救済とかじゃなく?」

「まず生活費です」

 

 現実的だった。

 

 桔梗は続ける。

 

「あと、発信って大事なんですよ」

 

 彼女は真面目な顔になる。

 

「今の人類、疲れすぎてるので」

 

 静かな声。

 

「少しでも、“休んでいい”って伝えたい」

 

 黒崎は黙る。

 

 昨夜。

 

 温かい飯。

 眠り。

 静かな朝。

 

 それだけで、自分は救われていた。

 

「……まあ、言いたいことはわかる」

 

 桔梗はぱっと明るくなる。

 

「ですよね!」

「でもYouTubeって、そんな簡単じゃないぞ」

 

 黒崎は現実的に言う。

 

「今は競争激しいし」

「大丈夫です」

 

 即答。

 

「私、超能力使うんで」

 

 黒崎は真顔になった。

 

「……はい?」

 

 桔梗は当然のように言う。

 

「念動力とか」

 

「待て」

「重力制御とか」

「待て待て」

「あと軽く時間感覚も」

「盛るな」

 

 だが。

 

 桔梗はきょとんとしている。

 

「見ます?」

 

 次の瞬間。

 

 ふわっ。

 

 机の上の湯呑みが浮いた。

 

「…………」

 

 黒崎の脳が停止する。

 

 湯呑み。

 

 浮いている。

 

 ぐるぐる回っている。

 

 しかも。

 

 中の麦茶、こぼれてない。

 

「……CG?」

 

 桔梗が首を傾げる。

 

「しーじー?」

 

 未来文明、CG知らないのかよ。

 

 その瞬間。

 

 今度はスプーンが浮く。

 

 箸が浮く。

 

 冷蔵庫のメモ帳まで浮いた。

 

 部屋の中がポルターガイスト状態になった。

 

「待て待て待て待て!!」

 

 黒崎が慌てる。

 

 桔梗は「あっ」と声を漏らす。

 

 どさどさどさっ。

 

 全部落ちた。

 

「すみません」

「軽く謝るな!」

 

 黒崎の心臓がやばい。

 

 だが。

 

 桔梗は真面目だった。

 

「これ、普通の人類には使えない技術なんです」

「超能力じゃなくて技術なのか?」

「量子場への干渉ですね」

「急にSF用語使うな」

 

 桔梗は少し考える。

 

「でも現代人から見たら超能力です」

「まあそうだろうな!」

 

 黒崎は頭を抱える。

 

 もし本物なら。

 

 世界がひっくり返る。

 

 国家案件だ。

 

 だが。

 

 桔梗はのんびりしていた。

 

「なので配信します」

「軽いな!?」

 

 彼女はスマホを掲げる。

 

「“未来人、現代文明を満喫する”とか」

 

「“超能力でUFOキャッチャー取ってみた”とか」

 

「“月にいた女、初めての牛丼”とか」

 

 黒崎は吹き出した。

 

「なんだその企画」

「伸びそうじゃないですか?」

 

 確かに伸びそうだった。

 

 めちゃくちゃ。

 

「あと」

 

 桔梗は少し真面目な顔になる。

 

「眠れない人のための動画も作りたいです」

 

 黒崎は顔を上げる。

 

「……動画?」

「はい」

 

 桔梗は静かに言う。

 

「頑張りすぎた人が、少し安心できる場所」

 

 その声は優しかった。

 

「“今日は休んでいいよ”って言ってくれる場所、今のネット少ないので」

 

 黒崎は黙る。

 

 炎上。

 対立。

 承認欲求。

 

 ネットはいつからか、戦場みたいになっていた。

 

 でも。

 

 もしこの女が、

 

 静かに、

 

「眠っていい」

 

 と言ってくれるなら。

 

 救われる人は、本当にいる気がした。

 

 桔梗は微笑む。

 

「だから、一緒にやりませんか?」

 

 黒崎は天井を見る。

 

 会社。

 

 課長。

 

 終わらない仕事。

 

 それから。

 

 目の前の未来人無職女。

 

 超能力。

 

 ソシャゲ廃課金。

 

 YouTube。

 

 人生が完全におかしくなっていた。

 

 でも。

 

 昨日までより、少しだけ笑えている。

 

 黒崎は長く息を吐いた。

 

「……収益化できるまで、どれくらいかかると思う」

 

 桔梗の顔がぱっと明るくなる。

 

「やるんですね!?」

 □配信者、そして

 チャンネル名は、

 

【月の裏側から来ました】

 

 になった。

 

 最初は誰も信じなかった。

 

 当然だ。

 

 未来文明。

 超能力。

 月の裏側。

 

 全部、与太話にしか聞こえない。

 

 だが。

 

 動画が一本、バズった。

 

【未来人、初めて回転寿司へ行く】

 

 桔梗が本気で感動しながら、

 

「この文明、魚を回転させる余裕があるんですね……」

 

 と呟いた切り抜きだった。

 

 そこからだった。

 

【超能力で猫と遊んでみた】

 

【眠れない人へ。未来人が語る“休み方”】

 

【未来文明が滅んだ理由】

 

【ブラック企業は古代文明にもありました】

 

 再生数が伸びた。

 

 桔梗の言葉は、不思議と人の心に届いた。

 

「頑張れない日は、頑張らなくていい」

 

「ちゃんと眠ってください」

 

「温かいご飯を食べてください」

 

「あなたは、存在してるだけで十分です」

 

 コメント欄には、

 

《救われました》

《今日会社辞めました》

《泣きながら見てる》

《この人の声、安心する》

 

 そんな言葉が並んだ。

 

 黒崎は動画編集を覚えた。

 

 サムネも作った。

 

 時々、桔梗に振り回された。

 

 超能力でゲームセンターを出禁になりかけたり。

 

「念動力はアーム補助判定になりますか?」

 

 とか店員に真顔で聞いていた。

 

 だが。

 

 楽しかった。

 

 四十二年間で、一番。

 

 

 半年後。

 

 登録者数、三百万人。

 

 企業案件。

 

 テレビ出演。

 

 世界中で話題になった。

 

“月の女”。

 

“眠りを語る未来人”。

 

 そして。

 

 その日が来た。

 

 

 夜。

 

 黒崎のアパート。

 

 最初と同じ部屋。

 

 だが今は、少し物が増えていた。

 

 二人分のマグカップ。

 

 配信用のマイク。

 

 観葉植物。

 

 生活の跡。

 

 桔梗は静かに窓の外を見ていた。

 

「……来ました」

 

 黒崎は振り返る。

 

 外。

 

 夜空。

 

 そこに。

 

 音もなく浮かぶ、黒い飛行体。

 

 三角形。

 

 光もない。

 

 なのに、“いる”とわかる。

 

 黒崎は息を呑む。

 

「施設か」

 

 桔梗は頷く。

 

「たぶん、ずっと探してた」

 

 部屋が静かになる。

 

 黒崎は低く言う。

 

「……逃げるか?」

 

 桔梗は少し笑った。

 

「もう無理です」

 

 その顔は、穏やかだった。

 

「私、目立ちすぎました」

 

 そりゃそうだ。

 

 世界的配信者になって、超能力まで見せていた。

 

 隠れられるわけがない。

 

 黒崎は拳を握る。

 

 嫌だった。

 

 この日常が終わるのが。

 

 朝ご飯。

 

 動画編集。

 

 一緒にコンビニへ行くこと。

 

 くだらない会話。

 

 全部。

 

 ようやく手に入ったのに。

 

 桔梗は静かに振り返る。

 

「黒崎さん」

「……ん?」

 

 彼女は少し迷うように笑った。

 

「最後に」

 

 沈黙。

 

「キス、しませんか?」

 

 黒崎の思考が止まる。

 

 桔梗は照れたように視線を逸らす。

 

「その……」

 

「人類文化として興味が」

「絶対嘘だろ」

 

 桔梗が少し笑う。

 

 そして。

 

 静かに言った。

 

「好きでした」

 

 その言葉に。

 

 黒崎の胸の奥が、痛いほど熱くなる。

 

 桔梗は続ける。

 

「温かいご飯を作ってくれたこと」

 

「一緒に眠ってくれたこと」

 

「私を、“人間”として見てくれたこと」

 

 彼女の目が少し潤む。

 

「嬉しかったです」

 

 黒崎は何も言えない。

 

 ただ。

 

 ゆっくり彼女に近づく。

 

 桔梗も目を閉じた。

 

 窓の外では、黒い飛行体が静かに浮かんでいる。

 

 世界は終わりみたいに静かだった。

 

 その中で。

 

 二人は、そっと口づけた。

 

 温かかった。

 

 ほんの少しだけ、涙の味がした。

 

 唇が離れる。

 

 桔梗は泣きそうな顔で笑った。

 

「……これ、好きな人とするものだったんですね」

 

 黒崎は笑う。

 

「今さら知ったのか」

 

 その時。

 

 部屋の灯りが、一瞬だけ揺れた。

 

 迎えが来た。

 

 桔梗はゆっくり立ち上がる。

 

 白いワンピースが揺れる。

 

 最初に会った日と、同じだった。

 

「黒崎さん」

 

 彼女は最後に言う。

 

「ちゃんと寝てくださいね」

 

 黒崎は、少し泣きながら笑った。

 

「ああ」

 

 桔梗は玄関へ向かう。

 

 扉を開ける。

 

 夜風。

 

 そして。

 

 振り返らずに、小さく手を振った。

 

「おやすみなさい」

 

 扉が閉まる。

 

 静寂。

 

 黒崎は、一人になった部屋で立ち尽くした。

 

 でも、不思議と孤独ではなかった。

 

 机には、二人分のマグカップ。

 

 キッチンには、味噌汁の匂い。

 

 スマホには、今日の動画コメント。

 

《救われました》

 

 黒崎はゆっくり息を吐く。

 

 窓の外。

 

 夜空の向こう。

 

 どこかで彼女も、生きている気がした。

 

 だから。

 

 黒崎誠一は、その夜。

 

 ちゃんと眠った。

 

 深く。

 

 穏やかに。

 

 まるで世界に許されたみたいに。

275 天上天下唯我独身

275 天上天下唯我独身

三大欲求の棄却の末に、その独身は悟りを開く。

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-12

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