百合花が咲いている。【序章】
26/5/9 【序章】ができました!
序章
――……ん……――
……?
――……もん……み……もん……――
何も見えぬ暗闇の中、誰かが私の名前を呼んでいるような気がする。
――海紋、そんなところで寝てないで、こっちに来て――
その声は、突然、はっきりとした。
――そして、辺りの景色とはあまりにも対照的で、鮮烈なまでに、聞き覚えがある声だった。
……日菜子?
――何? 私の名前なんて呼んで……――
……
――……あなたもいなくなっちゃうの?――
……?
――早く来て。 私がこの世から消えてしまう前に――
「……海紋? 急にどうしたの? 大丈夫?」
先ほどの夢と同じ声だ。 しかし今度は、しっかりと現実味を帯びた、 人間の声だった。
うなだれていた頭を、目をゆっくりと開けながら起こした。
「……ここどこ? もしかして、 日菜子なの?」
少しクラクラする頭を我慢しながら、隣の話しかけてきた女性のほうを向いた。
「日菜子なのって……。急に頭を落としたかと思ったら、もしや、記憶を失っている?」
百合の花を逆さにしたような形の、少し茶髪が混じった美しい黒髪の日菜子――大嶋 日菜子は、左手を顎に当てて、私の状態を思案しているようだ。
「もしかして、 ここ、 県立図書館?」
私は周囲を見渡す。そこは幻想の世界でも何でもない、地元のただの図書館だった。
「そんなことも忘れてしまったの? どこかぶつけたわけでもないのに」
少し辛そうな――辛そうな? 『辛そう』、な? なんで? ……でも、そんな苦笑いをしていた彼女の瞳は、少し潤んでいた。
……しかしなぜ?
(……でも、 なんとなく聞かないほうが良さそうだ)
私はそう思って、 好奇心を抑えて、そこはあえて通りすがることにした。
「……ところで、私たちって、ここに何しに来たんだっけ」
私は、彼女の表情への含みを持たせて、そう聞いた。
「……何しにって……? 何しにって……!」
いつもは理性的すぎる彼女が、先ほどの私以上にうなだれて、瞳からは、
「……ちょっと待って。 ちょっと待って分からない……」
私は思わずそう言ってしまった。彼女は泣いていた。 しかし声を荒らげず、まるでそれは夕刻時の引き潮のように。
「……分からない。分からないんだね、みもには。さっきまで、ちゃんと話を聞いてくれていたのに……」
声を出して泣きたいのであろう、しかし彼女は必死に、見るほどに必死に、それを抑えているようだ。
(どうすればいいんだ……私は。 どうすれば今の状況で、いちばん日菜子に寄り添える?)
考えるが、考えれば考えるほど、頭の中に霧が立ち込めるようだった。
「……私、もう帰るね。何だかここにいても、海紋に迷惑をかけるだけだよ、多分」
そう言って彼女は、ガタン、と音を立てて席を立つ。
私はこの期に及んでも、彼女にかけるべき言葉を見つけることができなかった。
「……ごめん、ひな」
ようやく たぐり寄せた言葉は、たったそれだけであった。
「……」
彼女は、こちらを一瞥すらせずに、足早に図書館を後にした――。
帰宅後。 シャワーを浴びた私は、 自分の部屋でベッドで横になりながらスマホをいじっていた。
外では、うっすらと雨が降っているようだ。 それに共鳴する雨蛙の声が、美しくもどこか儚げだった。
ピロン――
不意にスマホのニュースアプリの通知が鳴った。 大抵、クリック数稼ぎのためのどうとでもないニュースばかりだが、私はその中のある記事の一つに、半ば本能的に目を寄せ付けられた。
(なんだ……これ……)
『張田市近衛町で死亡事故。県の象徴、ランドマークタワーで飛び降りか』。
どうやら私の地元の大きなニュースのようだ。ランドマークタワーは県外の人にもそれなりに有名なので、おそらく、いわゆる地方ニュースが全国ニュースになるくらいのレベルの報道だったが、 なぜか私はそれに執着のごとく引きつけられてしまった。
「普段はSNSなんて使わないけれど……」
そうひとりごちつつも、私はほぼ無意識レベルでそのニュースを検索していた。
……するとこのような投稿が、 そこかしこで多く散見された。
『そういえば、 飛び降りた人って 大嶋 日菜子って言うらしいね。 噂では、あそこは医者家庭でエリートだったらしいけど、飛び降りるなんてもったいないことしたよね。 その役職を私に譲ってほしいわ』『ハリタ市の大嶋さん。私は何の関係もない部外者ではありますが、このような悲しいことになってしまったこと、深く悼んでおります。どうか当事者の方が安らかになれるように、心から追悼いたします』『あそこって、自殺者多いって有名 だからな。 どうせ、被害者っていうか、そういう人にも非があったんでしょう。知らねえけどな』……。
大嶋……日菜子……だって……?
私は耳を疑った。 だって、それは唯一無二の親友の名前だったから。
(何か、裏付けは……っ!)
と最後の光を探してさらにSNSの深奥へ進んでいったが、どこもかしこも、ありとあらゆる人がそのようなことをつぶやいている。
今時のSNSは、AIや釣りによる嘘が八割だと思っているが、衆人が皆このように言っているということは、真実と捉えざるを得なかった。
とっさに私は友人同士のみが使えるメッセージアプリを開いた。 そして、無論、彼女『大嶋 日菜子』にこう送る。
『ひなこ、どうしたの、大丈夫、大丈夫なの』
1分経っても10分経っても100分経っても、返事は帰ってこなかった。
「お母さん、ちょっと」
私は玄関で靴を履きながらそう母に言った。
「海紋、急にどうしたの? こんな暗いのにどこに行くつもり? 張田になんて、夜遊びするとこなんかないよ、今さらだけれど」
事情を知らぬ母は私に笑いながらそう言う。
「遊びになんか、行かない。でも今夜はもう帰れないかも」
私は無心で駆け出した。
「ちょっと、みも、どういう意味、それ? 何か、変な気を起こさないでね」
雨はまだ降っている。むしろ、勢いは強くなっていくばかりだ。
私は駆けた。人通りも、この時間でさえまばらな、しかし車だけは異常に多いこの田舎の都市の暗い夜道を。
(ひな……どこにいるの)
本当は日菜子の家に直接聞きに行くべきだろうが、怖かった。怖すぎた。真実を教えられたらそれこそ死んでしまいそうだった。
だから、敢えて私は自分の意志でランドマークタワーに行くことにした。
駆けた。もう既に、途切れたバスも使わず、タクシーも使わず、自転車も使わず、車なんて、もちろん、使えず――。
(なんで、どうして)
私には分からなかった。
命を絶つ人とは、一般的なイメージとして、前日まで耐えきれないほどの苦痛を得て暗い表情をしているイメージがある。
しかし実際はまるで違う。前日まで、ニコニコ としていた人が、突然このような衝動に駆られることは、実を言うと至極自然である。
(ひなはどうだった)
昨日の彼女を思い出そうとする。しかし、なぜかやは、記憶は途切れていた。
(ああ……もうどうして……)
しかし、駆け出した以上、何も情報は得られないかもしれないが、私はランドマークタワーに急ぐ他なかった。
仕事終わりのラッシュに当たる。
雨は滴り、シャドウの跳ねた雨は盛大に私へと降りかかる。
泥が混じった黒いそれは、まるで私の心を反映したかのようか。……フン、しかしとんだ皮肉だ。私にはそういうつもりは、今のところ、毛頭ない。
ランドマークタワーは、町の栄えた土地からはほぼ真逆の位置に当たる。自転車や歩行者の人たちが、少し不思議そうに私の顔を見て 過ぎ去っていく。
ふっと、途切れ途切れの記憶が戻ったのだろうか、昨日彼女と共に高校の昼休みに会話したことを思い出した。
紅茶のことについて。私は将来、酒も飲まず、タバコもせず、どちらかというとコーヒーというより紅茶派だった。そのことに関して少しだけ誇りを持っていた。彼女にネット通販サイトで手に入れた少しお高めの紅茶をほんのちょっぴり自慢して、飲んでみてと誘ったのを鮮明に覚えている。
『あはは。みも、私、どっちかというとコーヒー派だよ? まさか、喧嘩ふっかけてきてるわけじゃないよね」
彼女は少しだけ、本音交じりに笑いながらそう言っていた。
教室には先生の計らいで、一つの百合の花が飾られていた。
太陽光に当てられたそれは、まさに彼女と重なっていたようだ。
百合とははかない花である。少なくとも、私はそう思っている。
少女同士の恋愛の象徴としても語られるが、とかくその美しさは、今、この一瞬にかけられていると感じる。
向日葵のように日中にだけ咲いて、虫や人をずっと引きつけているわけではない。そもそも、色味が薄い白という色である、何も気取っていないその真っ白い花が、そして真っ白い彼女が私は大好きだった。
走り続ける。返ってきた泥水などどうとでもよく。
走り続け。 衆人の奇異の目など全く気にせず。
そして走り続けた。
ようやく、私はその地に着いた。
私は再び、自覚されることとなった。
ランドマークタワーについたきり、私はすぐに閉店間際のその灯下のもとの売店に入った。
すぐに頂上へ登ろうとしたがエレベーターは封鎖され、階段も締め切られていた。
ゾクッとした。やはり、あのニュースは真実だったのか。
そこら辺に佇んであくびをしていた灯台の職員か、雇われた警備員の人か、そんな人に話しかけてみた。
「すみません。何でここは封鎖されてるのですか。詳しく教えていただけませんか」
警備員は、不思議そうな顔をして私に教えてくれた。
「実は、最近ここで人身事故がありましてね。何でも飛び降り事故が発生したようで。本当に悔やまれますが、上には上がれませんよ。まだ現場検証など全ての作業が終わっておりません。申し訳ありませんね」
「――そうですか」
私は、他人から見てても目にわかるほど、肩を落として売店を後にした。
氷のように、凍てついた雨は止んでいた。
温かくも凍てついた涙が、私の両目から流れていた。
私は、ランドマークタワー近くの港の埠頭に立って、月と、それを反射する真っ黒い海を眺めていた。
――ニュースは本当だった。でもまだやり残していることがある。
もう直接聞きに行く他ないのか……? 私は覚悟した。彼女の家のほうへと走って行けるのであれば、両親を呼び出し、ことの真相を確認する 。それを聞いて、たとえどれほど心が壊れようとも。
私は決心した。
行こう。日菜子のもとへ
そう考、 踵を返して彼女の家へ向こうとした。その時、この地がバラバラに引き裂かれんばかりの猛烈な揺れを体験した。いや、これは地面が揺れているのではない。それは私の意識、つまりめまいが起きていた。
(何なの……こんな時に……)
声も出せないほどのめまいに、立つことも難しくなった。そのまま、私は海へ飛び込むかたちで落下した。
ドボン、という低音だけが耳に残り、心臓の鼓動はどんなリズムのビートよりも早く打ち鳴らされ、しかし、意識は即座に昏睡した――。
百合花が咲いている。【序章】