ラ・エスメラルダと東京文化会館
3月7日、東京文化会館で上演された都民音楽フェスティバル主催による、佐久間奈緒さん主演のバレエ「ラ・エスメラルダ」を観に出かけた。昨年、佐久間さんの出演する2本のガラ公演を観た私ではあったが、彼女の踊りをじっくり観ることの出来る全幕物を観るのは、実はこれが初めてのことである。
昨年12月、大阪で野間バレエ団公演にゲスト出演した、「くるみ割り人形」を観ることが叶わなかった私は、直後に告知された「ラ・エスメラルダ」の公演を心待ちにしていた。
白状してしまうと、いつもなら切符代をケチって、いちばん安い席を買い、はるか遠い席から双眼鏡を片手に舞台を観るというせこい私だが、初めて観る佐久間さんの全幕物ということで、大枚叩いて1階3列の席を買った。「白鳥の湖」に代表されるような、盛んに上演されるポピュラーな作品ではないが、上演時間は20分の休憩を2度挟んでも6時から9時過ぎまでという3時間もの大作である。全幕上演は余りないというから、エスメラルダを演じる佐久間さんにとっても、観客である私にとってもおそらくこれが最初で最後かもしれないと考えると、今回観ることが出来たのは幸運だったといえる。
エスメラルダを演じた佐久間さんは、鮮やかな衣装に身を包み、タンバリンを片手に時折、妖艶な表情を見せたり、相手を挑発するような良い意味でふてぶてしい笑みを見せたりしたかと思うと、厚地さん演じるフェブの前では決まりの悪い表情や、切なくも悲しげな表情を見せた。特にラスト、白い衣装に着替え、それまでひっつめていた髪を下ろした姿で登場すると、ジプシーの扮装とはガラリと雰囲気が変わり、絞首台をバックに泣き叫ぶ演技は、ダンサーというよりも女優のようであり、そして何より美しかった。
一人の人間の中には、どんな善良な人間でも必ず長所にもなり得る短所や、華やかさとは反対の泥臭さ、人間の良くありたいと願う善の部分、それと反比例するように付随するずる賢い面、そんな様々なものが混在している。そんな誰もが持っている人間臭さは表現者には必要不可欠である。しかし、そういったものを全ての表現者が演じるキャラクターに投影させられるかというと、それはまた別である。
佐久間さんは10代で単身イギリスに渡り、それから長きに亘って英国バーミンガム・ロイヤルバレエ団でプリンシパルを務めた実力者である。そんな佐久間さんでも、この「ラ・エスメラルダ」を初めて演じるというのだから、その挑戦を見届けないわけにはいかない。
稽古時間は非常にタイトなものであったというが、さすがに元プリンシパルである佐久間さんと厚地さん。公私ともに最高のパートナーと自負する二人は息もぴったりで、それぞれの役を上手く演じるために、共演者や演出家とコミュニケーションを取りながら稽古を続けたという。他の出演者を見ていても思ったが、よくそれだけの短い期間で振りを覚え、舞台の立ち位置や流れを把握し間に合わせることが出来るなと、舞台人として当たり前のことと言われればそれまでだが、感心せずにはいられなかった。出演者全員の力を尽くした甲斐だけあり、熱気と活気に溢れた舞台となったのは言うまでもない。
ラストの真っ白な衣装に身を包んだ佐久間さんを見ていたら、グランプリ女優と呼ばれた今は亡き女優の京マチ子さんを思い出した。バレエと映画では畑も違うし、ダンサーと女優、佐久間さんと京さんは違うと言えば違うが、一つ共通していることがある。それは、その役を演じる時、扮装(衣装)が果たす役割の大きさである。京さんは「徹子の部屋」に出演した時、役を演じるにあたって扮装が殆んどを決めるとおっしゃっていた。その役の姿で鏡の前に立った時、しっくりくると大体の場合上手く行くが、どこかが気に入らなかったり欠けていたりするとダメだという。佐久間さんが演じたエスメラルダの中にも様々な表情があったが、その場その場で身につける衣装が馴染んでいないと、その瞬間を最大限に魅せる踊りは出来ないのかもしれない。バレリーナにとってはトウ・シューズと並んで、衣装の存在が占める役割は大きいのだろうと感じた。
佐久間さんを目当てに鑑賞した舞台だったが、今回、エスメラルダをはじめとするジプシーの踊り子たちの頭であるメゲーラを演じた山田沙織さんも素敵だった。とても難しく、佐久間さんに何度も相談をしながら作り上げたメゲーラだと、自身のインスタグラムでこの公演を振り返って書かれていたが、とてもそんな風には思えない格好いい圧巻のメゲーラだったことも書き記しておきたい。
この公演を迎えるまで知らなかったが、東京文化会館は今年5月の公演を最後に3年間、改修工事のために閉館するという。どこかノスタルジックで、それでいて現代にはないモダンな雰囲気が醸し出されて、これから極上の数時間を過ごすのだと、楽しくも厳かな気持ちにしてくれる、そんな魔法のような空間を持った、どこよりも素敵な劇場である。
日本のみならず、海外からも偉大な芸術家たちが公演を行い、日本の観客に素晴らしい思い出を残していった劇場である。私が大好きで愛してやまないピアニストの原智恵子さんや田中希代子さん、安川加壽子さん、日本人として初めて海外の劇場で専属歌手の契約を結んだ伝説のオペラ歌手・大橋國一さんも歌唱した劇場である。改修工事と知って劇場のあちこちを眺めてみると、ロビーの床でさえこんな凝ったタイル張りの床だったことに遅蒔きながら気づいた始末だが、このロビーを彼らも歩いたかもしれないと思うと、胸が熱くならずにいられないのである。
1961年に開館してから何度か改修工事が行われたというが、彼らがいた数少ない場所を跡形もないような状態にしてしまうような、そんな大掛かりな改修には至らず、何とか面影だけでも残してほしいものである。
3年後の世の中は、一体どうなっているのだろうか。またこの場所で、華やかで美しいバレエを観ることができるよう、その旋律に涙せずにはいられない素晴らしい音楽が聴けるよう、願わずにはいられない。
ラ・エスメラルダと東京文化会館
2026年3月26日 書き下ろし
2026年3月8日 「note」掲載