06 その先の向こうに… ⑨
31章~33章
31
「じゃあ、話を満月に戻すわね」
明日も学校なんだけど……話が面白すぎてしょうがない。
決めた、明日のことは考えない!
切り替えの早さはジンジの得意技のひとつだった。
「狼男の話に繋がるかもしれないけど、満月の光にはパワーがあると古くから考えられていて、祭礼を行う国が多くあるのよ。特に仏教徒の多い国では、満月の日には寺院で〝浄化〟のための経典を奉じるそうよ」
ジンジは黙って聞いている。
「月のエネルギーは、新月から満月に向かうに従って段々と増していくと考えられてる……と言うのはさっき説明したでしょう。つまり、満月の夜はエネルギーが最高に満ち溢れている状態でもあるわけね」
「さっきのおばさんの話で、狼男が満月の夜に変身するのは何となく分かる気がします。だったら普通の人たちも、月の光を浴びたら暴れたくなるかもですネ」
ジンジは冗談っぽく笑った。
「そう、そして逆に、満月から新月に向かう課程でエネルギーが放出されてゆくの」とおばさん。
「見た目でも細くなってゆくんだから、分かり易いし、そうかも知れないですね」
ジンジが返す。
「だからネ、満月の日には〝必要〟なエネルギーを積極的に取り入れておいて、月が欠けるに向けて〝不要〟なエネルギーを手放すいいタイミングでもあるわけ」
「自分が持ってる不要な〝毒素〟を新月に向かう時の月エネルギーに乗っけちゃうってことですよね」
「面白い考え方をするのね。でも合ってるわよ」
ジンジは月を見上げながら、明日学校行ったらカコにも話してやるんだ、そしたらどんな反応するかな……と想像した。
*
「次の質問よ」
「次の質問……満月の次は何なんですか?」
「理科は得意なんでしょう?」とおばさん。
「得意じゃなくて、好きなんです」
ユベールが食べているあの変なモノの説明は何処いっちゃたんだ?と思いながらも、なんでも訊いてください、とジンジは肩に力を入れた。
「飽和溶液って分かるかな?」
ジンジは即答した。
「え~とですね、ビーカーに入れた水に……例えば〝塩〟を入れてどんどん溶かしてゆくと、もうそれ以上溶けないところまできたのが飽和溶液です」
「じゃあ、過飽和溶液は?」
それも分かります、と答えた。
「飽和溶液にもっと……て言うか無理矢理〝塩〟を溶かし込んだ液のことですよね。やり方は色々ありますけど、水の温度を上げればもっと溶かし込むことが出来ます。そしてそれを静かに冷ましてゆくと、塩が結晶化するかしないかのギリギリの点って言うか、線って言うか、そんな分岐点?みたいな所があります。それが過飽和溶液です。でもそれは……」
続きをどう説明すればいいか考えるのに、少し間を取った。
おばさんは黙って待っていてくれていた。
「でもそれはちょっとした刺激に弱くて……例えば鉛筆とかでビーカーの横の部分を叩いて刺激を与えると、塩が結晶として現れます」
「良く知ってるのね」
おばさんは感心しきりである。
「特に実験物が好きで――」
ジンジは照れながら肩をすくめた。
「そこまで分かってれば、説明がとってもしやすいわ」
おばさんは、改めて庭に目を移した。
ユベールは、庭中を動き回りながら、まだモノを貪っている。
「夕方って言ってももう昨日のことだけど、ユベールを治療した〝土〟を庭に撒いておいたのよ」
すると突然、ジンジはあることを思い出していた。
「夕方で思い出しました。三人がユベールのお見舞いに来ませんでしたか?」
「三人が来てくれたときに、丁度土を撒いていたのよ」
そうだったんですね、とジンジ。
「そのユベールを治療した〝土〟が〝飽和溶液〟だと考えてみて。中に溶け込んでいるのは?」
ジンジは土の中に溶け込んでいる男の思念を想像した。
「水が土で、その中に溶けている塩となるのが男の〝思念〟ってことですよね?」
思念……男の意志とでも言えはいいのだろうか?
真っ暗な闇の中で、その闇よりももっと濃くて黒い〝邪気〟。
数え切れない……数えると考えてもいいのだろうか?
その邪気が、何処にも出られずに土の中で蠢(うごめ)いているさまが、頭の中に浮かんだ。
イメージが固まると、ジンジはおばさんに目を向けた。
「その土に、満月から降り注ぐ強いエネルギーを浴びせて、過飽和溶液を作り上げたってことなのよ」
ジンジはまた想像した。
その過飽和溶液の中には、あの男の邪気と月の光が閉じ込められている。
土の中に閉じ込められていた飽和溶液の邪気が、月エネルギーという異物を混入させられて、窮屈そうにもがいている。
それはどこか、怒り、のようでもあった。
「そっか、オレがさっき見たのは、土と邪気と月の光でできた過飽和溶液の前に立っているユベールだったんですね。そこにユベールが〝手(前脚)を振って〟刺激を与えた! それがあのモノ……変な生き物となって現れたってことなんですね。え、あ、いや、でも生き物って表現しちゃっていいんですか?」とジンジは首を捻った。
「それにね、治療した土の中には、おばさんが治療のために注いだおばさんの思念、ユベールがもともと持っている猫又としての妖力も混ざっているのよ」
ジンジは頭の中で指を折った。
男の邪気、おばさんの思念、ユベールの妖力、そして月の光――
それらが全てが混ざり合って、溶け合って、過飽和溶液を作り上げた。
「あれは〝蟲〟なの――」
「虫? なんですか? あれが?」
どう考えても、普通の虫には見えない。
「蟲って言っても、虫っていう字を上に一つ下に二つ、三角形に並べた漢字を書くの」
ジンジは、空中に指でその蟲と言う字を書いてみようとしたが、ムーンが落っこちないように手を組んでいるので、頭の中で書くことにした。
「蟲は〝この世〟と〝あの世〟の間にある〝気〟が具現化したモノって言えはいいのかしら」
「〝気〟っていうのも思念ってことですか?」
「思念も気のひとつだけど、思念というのは人、いわゆる人間だけが持っているもので、気は万物……全ての物がもっているのよ。人、動物、虫、草や木、この世に存在しているモノ全てが〝気〟を持っているの」
「空気にも気があるんですか?」
「大きな意味で言えばそうね」
ジンジは鼻から大きく息を吸い込んだ。
気を体内に吸い込んでいるつもりなのだ。
それを見て、おばさんは笑ってしまった。
「それら全てが混ぜ合わさったモノが蟲となって〝見えるモノ〟として具現化したのよ」
「世の中に存在する目に見えないモノがごっちゃになって、それが何かの切っ掛け……いわゆる刺激で〝蟲〟として現れたってことですね」
「面白いことを考えるのね、まぁそういうことかな。そして蟲は、ムーンとユベールが猫又であるためのエネルギーになるの。つまり猫又の妖力を蓄えるための食べ物ってことね」
「あんなのを毎日食べているんですか?」
ジンジはムーンに向かって、ゲーと舌を出しておちゃらけた。
「毎日じゃないわ、月に一度、多くて二度かな……」
カコがこれを見て知ったとしたらどう思うだろう?
カコのことだから、それは当然のことで、猫又なら当たり前のことだよ……って平気な顔で言うかもしれない。
そして、ムーンとユベールは、なんて凄いんだろう……て思うだろうな。
ジンジはまた庭に顔を向けた。
ユベールはまだ、蟲を追っていた。
*
「でも、さっきから、ユベールばっかり食べているみたいですけど……」
ジンジは膝の上のムーンに目を落とした。
「そうなのよね、ムーンは食が細いのよ。メロンパンや魚肉ソーセージならは良く食べるんだけどね」
なるほどそうですよね、とジンジ。
「だから、乙音の姿を長く維持することができないの」
それで納得できた。
「そっか、ユベールはあれだけの食欲だから、学校でもず~と音也のままでいられるんだ」
カコがムーンにてんやわんやしてるのに、クラスが別れていることもあるが、オレはユベールに何もしてやってないことを――
「でも今は……」
おばさんは、音也の意識がユベールの奥底に潜ってしまっていることを語った。
そして、カコ、ナオ、ユウコの三人は既にその事を知っていることも教えてくれた。
「じゃあ、蟲をたくさん食べて、どんどん妖力を蓄えれば音也になれるってことも考えられますよね」
「そう期待したいところなんだけどね……」
おばさんは言葉を濁したまま、庭で動き回るユベールの姿を追っていた。
ジンジには、庭で食欲旺盛に蟲を貪っているユベールの、どこが悪いのかまったく分からなかった。
分からないまま、おばさんが言っていた〈月の光には万物を清める力がある〉という言葉の意味を考えていた。
きっと帰ってくるさ、と何度目になるのだろう……ジンジは夜空に浮かぶ月を見上げていた。
32
「それじゃあ、目をみせてみて……」
「え、あ、はい? なんですか? すいません」
ジンジは、考えごとをしていました、と謝った。
「目を見せてくれるかしら……」
目の違和感のことを、すっかり忘れていた。
ジンジはお尻をずらしておばさんに身体を向けた。
「左目の奥が、時々変なんです。蟲が見えるようになったのと、関係あるんですか?」
ジンジは、おばさんが見易いように、心持ち顔を上にあげた。
月明かりがジンジの顔を照らす。
おばさんは身を乗り出して、左目を覗き込んだ。
「大きく開いてくれるかしら?」
ジンジは、左手の親指と人差し指をつかって、左目を上下に押し開いた。
右手は、ムーンを支えている。
何処を見ていいのか分からず、ジンジは月を見ることにした。
眩しいほどの光だった。
「今は、違和感はあるの?」
おばさんが訊いてくる。
「今は無いです」とジンジ。
「じゃあ瞑ってみて」
はい、と指を離して目を閉じた。
「触れるわよ」
おばさんは掌の中心を左瞼の上にそっと乗せた。
「そのまま、動かないでね」
ジッとしていると、掌の熱が、瞼を通して奥に降りてくるような感覚があった。
暖かく、それでいてヒンヤリして、なんとも不思議な感覚だった。
手が離れた。
ジンジは目を開け、目の玉をグルグルと何度か回した。
「やっぱり、違和感の原因はユベールを治療した時の影響だと思うわ……」
おばさんは、庭のユベールに視線を移していた。
「おとといの夕方に、ユベールから男の邪気を追い出す施術をやったわよね」
「トコロテン作戦のことですね」
おばさんは一瞬、考えるような表情になり
「ほんとうに面白い表現をするのね」と笑った。
ジンジはそれほどでも……と肩をすくめた。
「でもね、途中でユベールがジンジくんの手を引っ掻かいちゃったから、トコロテン押し器が詰まっちゃったの」
「引っ掻かれたキズが影響したってことですか?」
「キズの影響で、おばさんの思念が真っ直ぐ走らなくなってしまったの」
「ん~と、それって光の屈折みたいなもんですかね」
「でもね、おばさんは初めから、そうなるだろう……と予想はしていたの」
「屈折する事態が発生することがですか?」
「ユベールが暴れて、ジンジくんを傷つけるだろう……て。だから治療を始める前に、痛い思いをするわよって言ったでしょう」
「そっか。そうでしたね」
ジンジは、指を組んでいる手の甲に目を落とした。
キズは薄いカサブタを作っているが、少しでも刺激を与えれば裂けて血がにじみ出てきそうだ。
それも昨日の今日のことだったのだから仕方が無い。
「分かっていたからこそ、屈折でユベールに届かなくなった分を補うために、おばさんはより強い思念を送ったのよ」
思念を使いすぎた。
それでなのだろうか?おばさんの顔があんなになっちゃったのは……
おばさんは、ジンジが今思っていることが分かっているかのように、そう言うこと、と頷いていた。
「結果的にユベールの治療は成功したけれど、屈折して通り抜けられなかったおばさんの思念がオレの中に残ってしまったってことですね」
「残留思念ね。それがジンジくんの左目に影響を与えているんだと思うわ」
おばさんは、ごめんなさいネ、と頭を下げた。
「おばさんが謝ることないですよ。そのお陰で、オレはこんな貴重な体験ができているんですから」
ジンジは照れて、頭を掻きたい衝動の駆られた。
「じゃあ、蟲が見えるのは、おばさんの能力がオレに伝染(うつ)っちゃったってことですね」
「あら、伝染だねんて人聞きの悪いことを言うのね」
おばさんは、げんこつでジンジ肩を、押すように打った。
「でも大丈夫。自然に抜けてしまうから。それにおばさんのだから……邪気は無いわよ」
「え? 無くなっちゃうんですか?」
「ええ、自然に……」
「そうなんですね」とジンジは、背中を丸めてガックリと肩を落とした。
でも直ぐに顔を上げた。
「それじゃあ、自分の力で蟲が見えるようになるには、どれくらい勉強しなければならないんですか?」
「修行のことを訊いてるの」
はい、とジンジ。
「最低でも数年は掛かるわよ、それ以上かも」
「それ以上……て、そんなに」
「でも、生まれつき見える人も居るにはいるみたいよ」
おばさんは? と訊ねると
「さぁ、どっちかしらねぇ~」とおばさんは答えを濁していた。
「でもオレは……今までは全く見えなかったんだから、修行しなきゃならないんですよね」
ジンジはため息とともに、さっきよりも大きく肩を落した。
「あら、修行する気があったの?」
するとジンジは、残像で目が三ッつ四ッつになるほど、勢いよく頭を横に振った。
とんでもない、とジンジ。
それでも……人は修行しだいで、こんなことも出来るようになるんだ、と感心しきりであった。
*
「そうだ、そうだった。さっき気が付いたんですけど、暗いところもよく見えるみたいなんです」
今度はジンジが先に切り出していた。
「夜目も効くようになってるの?」
「そ、そうです。さっきおばさんが窓の前に立ってたじゃないですか。それがハッキリ見えちゃったんです。まるで昼間みたいに……これも思念の影響ですよね」
おばさんは頷いた。
「じゃあ、おばさんも、その……夜目が利くんですよね」
「普通の人以上にはね」
「凄いですね」
おばさんの能力のひとつひとつを知るたびに、ジンジは驚嘆するばかりだった。
「でも……」とおばさんは、首を傾げた。
「でも、なんですか?」
「おばさんの残留思念はそんなに多くないはずなんだけど。蟲が見えて夜目も効くようになるなんて……ジンジくんには元々の素質があるのかもしれないわね」
ジンジは、そんなことないですよ、と照れ笑いを返すが、満更でもない気持ちになっていた。
男から負わされたケガの治療のため、ジンジは暴れるユベールを両手で押さえた。
おばさんは、男の邪気を追い出すために思念を送った。
途中、ジンジの手は暴れるユベールに爪で引っ掻かれる。
ジンジがキズを負うことは、おばさんには予想される事態だった。
その時、キズのために思念が〝屈折〟してしまい、ユベールに届かなかったものがジンジの中に残り左目に影響を及ぼした。
残留思念の影響で、ジンジは蟲が見えるようになり、夜目が効くようになったのだ、とおばさんは言っているのである。
左目の違和感の原因が分かっただけでも、ジンジはホッとしていた。
*
「あら……」
おばさんは、ジンジの組んだ手に目を落としていた。
つられてジンジも目を落とすと、甲のキズのひとつひとつが、皮膚の下から何かが突き上げているかのように波打っていた。
ジンジは自分のことなのに、話に夢中になっていて全然気付いていなかった。
すると……カサブタの一本の端が捲れ上がり、浮き上がった。
カサブタは、手の甲のから離れてゆく部分から姿を変えていった。
蟲へと変化(へんげ)していったのである。
その一本、一匹を切っ掛けに、カサブタは次から次へと蟲に変わってゆく――
これにはジンジも、さすがに驚いた。
膝の上のムーンの事も忘れて、手を振って払り落とそうとする。
それをおばさんが、ジンジの手首を握って止めた。
「落ち着いて」
ムーンが顔を上げた。
騒がしいよ、どうして起こすの?とジンジを睨んだ。
「払っても落ちないわよ。ムーンに頼みましょう」とおばさんは言った。
「え? ムーンにですか……何を?」
「キズのお掃除……」
おばさんはムーンの頭を撫でた。
身体を起こしたムーンは、手の甲で蠢く蟲を見付けた。
その一匹の端を、口で咥えた。
頭を上下左右に揺り動かしながら、蟲を引っ張る。
あまりにもむず痒くて、ジンジは思わず拳を握っていた。
ペリっと蟲が取れた。
その蟲を、ムーンは丸ごと飲み下していた。
「ほら、見て……」とおばさんが指差す。
ムーンが蟲を剥がしたキズは、これまでとは比べものにならないくらいにきれいになっていた。
キズ痕はまだ残ってはいるが、裂けることはないほどに治癒している。
今朝は手袋で隠さなければならなかったほどの裂け目は、薄いが新しいピンク色の皮膚ですっかりと塞がっていた。
ムーンが二匹目三匹目と食べるたびに、その下から生まれ変わった皮膚が姿を現してゆく――
凄ェえじゃん、とジンジはその光景に見入ってしまった。
しかし、ムーンの食事は長く続かなかった。
数匹を剥がして飲み込んでしまうと、ムーンはおばさんを見上げていた。
辛そうな顔をしている。
「お腹が一杯なのは分かるけど、もう少し頑張ってちょうだい」
おばさんは、ムーンに優しく語り掛けた。
蟲はまだ、縦横に走ったキズの数だけ蠢いている。
ムーンは庭に目を向ける。
ユベールの助けを求めているのだ。
「ユベールは庭の片付けで手一杯なんだから、こっちまで手伝ってもらったりした可哀想でしょう? それにあんたは妖力が足りないんだから、もっと食べなきゃ」
嫌いな野菜も残さずきちんと食べるのよ、と母親が子供に言っているようだった。
「カコさんや、ナオさんや、ユウコさんに迷惑をかけたくないでしょう……」
三人の名前に、ムーンの両耳が立ち上がった。
「そうだ、そうだよな。頼むよ」とジンジ。
一声啼いたムーンは、蟲との格闘を再開した。
蟲を剥がして食べるだけの一方的な戦闘なのだが――
「ジンジくん」
ムーンを見ながらおばさんが言った。
ジンジが、手から顔をあげた。
「ほんとうに蟲が怖くないのね」
「さすがに手から生えているのには驚きましたけど、もう別に怖くないです。これまで見たこと無い〝虫〟だなってくらいにしか思ってないです」
ジンジは照れ笑いしながら、組み直していた手を、ムーンが食事をし易いように、そっと離して広げた。
「二匹の兄妹たちと知り合いになってから、それも普通かな?……って思えるようになっちゃいました」と言いながら、興味本意で、自分でも蟲を挟んでみようとやってみた。
だが上手くいかない。
挟めたと思っても、感触が指に伝わってこないのだ。
なんの抵抗もなく、空気を触るように通り抜けてしまう。
目を懲らして慎重に、今度こそと思って挟もうとしても、スルリと指から抜けてしまうのだ。
「ほんとにジンジくんって変な子ね……」
「自分じゃ、いたって普通だと思ってるんですけどね」
ジンジは蟲を捕まえるのを諦めた。
今度はおばさんが手を伸ばしていた。
すると蟲は、おばさんの指にスルっと……いとも簡単に捕らえられていた。
驚いたジンジが、その蟲を観察するように顔を近付ける。
蟲は確かに、おばさんの指に挟まれている。
「これも修行……やってみる?」
今度も大きく、ジンジは横に首を振った。
おばさんは笑いながら、手の蟲をムーンに与えた。
ジンジは、兄妹が蟲と格闘するようすを交互に見ながら、月からのエネルギーを全身に浴びていた。
33
目覚まし時計の音で目が開いた。
いつもなら叩くようにして音を消し、うるさいよこのやろう、と心の中で時計を罵(ののし)るのだが、今朝は違った。
一回鳴ったきりでそっと止め、目を思いっきり開くことができた。
横になったまま、両手を顔の前にゆっくりともってくる。
指を開いて天井に向けてかざすと、安堵の吐息が漏れた。
両手の甲には、薄いピンク色の皮膚が幾重にも走っているだけだった。
こうやって、朝になってからもう一度見てみるまでは、半信半疑だったのは確かである。
昨日の朝は、気の弱い女の子が見れば卒倒しそうなほどのキズだったのに、異常な早さの治り方には自分でも驚いていた。
しかも、その治り方が普通じゃなかったのも確かだ。
新しくなった皮膚を嬉しそうに撫でていると、ふと……手が止まった。
そこはユベールに噛まれた部分で、その歯の痕だけはしっかりと残っていたである。
そう言えば……噛まれた痕からは蟲は湧いてこなかったな、と昨夜のことを思い返す。
何故なんだ? 引っ掻いて付いた傷も噛んで付いたキズも、同じキズのはずなのに……
でもその理由が、ジンジに分かるはずがない。
とにかく引っ掻きキズが直ったことだけで気分が良かった。
第一に、これならシゲボーと一緒に朝礼台で弁当食べられるし、部活も本格的に再会出来そうなのが嬉しかった。
第二は、カコにもう心配かけなくてすむ。
う~んやっぱり、第二の方が第一になるかな? とジンジは訂正した。
色々と考えを巡らせていたら、ベッドの中でグズグズしていて起きるいつもの時間になっていた。
ジンジは、慌てて飛び起きて顔を洗い、朝飯を急いでかっ込み、それから歯を磨き、いってきま~すと家を飛び出した。
*
旭東通りに出て昭和町交差点を渡ってグラウンド、そしてプールを過ぎて橋を渡って左に曲がる。
昨夜と同じコース、いつもの道をジンジは早足で歩いた。
澄み渡った青空が広がっている。
後ろから前へと流れる空気に押し出されるように、ジンジは走り出していた。
*
「おはようごじぇーますだ」
後方のドアを開けて教室に入ると、あちこちから返しがあった。
ジンジは鞄を肩から外して、二三度大きく息をして呼吸を整えながら席に向かった。
ジンジの隣の乙音のところに、カコと乙音が一緒にいた。
「おはよう、ございます!!」
乙音が元気な笑みを見せてくれた。
しかもビックリマークを二つもくっつけている。
ジンジは乙音に、教室に入った時と同じ台詞で返しながら、右手で詰襟の釦を五つ全て外して解放し、その下の白いボタンダウンの釦まで上から二つ外した。
同時に左手で、鞄からノートを取り出して団扇(うちわ)の代わりに使った。
「おはよう」とカコ。
カコはジンジの手を見ていた。
「……大丈夫みたいだね」
ジンジは喉と胸の回りをバタバタと扇ぎながらニヤリと笑うと、右手の甲を出して見せた。
すると乙音も覗き込んできた。
カコの表情が変わった。
下から自分の手を添えて、息がかかるほどに顔を近づけ、もう片方の指を使ってキズ痕を撫でる。
信じられないと呟き……顔を上げた。
そこに、エッヘンと自慢気なジンジの顔があった。
キズはジンジ自身が直したのではないが、とりあえず凄いだろう、と自慢してみたかった。
すると……
「さっきまで乙音ちゃんに、昨夜のことを聞いてたの」
うんうん、と乙音は嬉しそうに身体を揺らした。
え?……とジンジ。
「それじゃあ〝蟲〟のことも聴いちゃったのか?」
うんうん話しました、と乙音。
ジンジの自慢顔は、瞬く間に萎(しぼ)んでしまった。
いずれは話すことになるだろうが、さすがに朝から蟲を食べる話は止めておこう、それまでは自慢できるもんな、と思っていたのだ。
カコは、結果が見えていたかのように笑い、もう片方の手を上から重ねて、ジンジの手を挟み込んでいた。
しょうがないよ、乙音ちゃんがどんどん喋っちゃうんだもの……という顔をジンジに見せている。
ジンジの手の熱をしっかりと感じてから、カコは手を離した。
*
鞄の中身を机の中に入れ終わったジンジは、弁当だけが入った鞄を教室の後ろの棚へ運ぼうと動いた。
カコも動いていた。
そして、さりげなくさり気なくジンジの横に並ぶと
「あとできちんと教えて、乙音ちゃんの話だとどうも要領を得なくて……」と肩をぶつけてきた。
ジンジは小声で、分かった、と返事をした。
カコは続けた
「あと、それから……」
「それから、なに?」
「首に何か掛けてるでしょう。シャツの釦を外したときに見えたよ」
ジンジは、ああこれか、と手を入れて掛けていた紐を引っ張りだした。
「こうしとけば見えないし、いつも肌にくっついているから――」
紐の先のユベールのリングを目にすると、カコは笑いだしていた。
「何笑ってんだよ。そんなにカッコ悪いか?」
「ううん、そうじゃなくて」
カコは嬉しそうな顔で、セーラー服の襟元に手をやって、引っ張り広げた。
「あんまり奥まで覗いちゃ駄目だよ」と前屈みになった。
首に掛かっている紐が見えた。
「ムーンのリングだよ」
背筋を伸ばして、直ぐに襟を整える。
「良く見えなかった」
「嘘ばっかり」
笑い目で睨むカコに、ジンジは照れた。
乙音がキョトンとした顔で、自分の席から二人を見ていた。
⑨へ続く……
06 その先の向こうに… ⑨
次回⑩の掲載は、4月10日(金)を予定しています。
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