威風堂々_お相手の身になって。

  ○第一章

   (一)

 わたしが働く聖愛(せいあい)つばさ病院は、わたしの住む市の北西部にある。
 働き始めた七年前は、見渡す限り畑が広がり、その一角に建築資材置場がぽつりとあるだけだったが、この三年間で、老人(ろうじん)ホームが三つ建てられ、農道と県道が合流する交差点には信号機が設置されて、そのおかげもあってか、半年ほど前には県道沿いにコンビニエンスストアがオープンした。在れば有ったで便利に違いはないが、無ければ無くて困る訳ではない。わたしの廻りには、そんなものばかりが溢れているような気がする。

 聖愛つばさ病院は療養(りょうよう)病院と呼ばれる長期間継続的な治療を要する患者や、一般病院で急性期の治療を終えた患者が入院する医療療養病床のみの病院である。
 医療療養病床とは、医療保険制度で入院医療を受けるものを差す。簡単に言えば、保険証等をもって病院や歯医者に行くのと同じ制度を利用するものである。
 ちなみに療養病院には他に介護(かいご)療養病床があり、こちらは特別養護老人ホームやデイサービスと同じ介護保険制度を利用してサービスや入院医療を受けるものをいい、現在多くの療養病院が医療療養病床と介護療養病床の両者を併設している現状にある。

 聖愛つばさ病院は、五年近く前までは聖愛翼病院という名称を名乗っていた。読みは同じで翼という漢字が平仮名に変っただけなのだが、どちらにしても———天使たちのように愛をもって患者さまを見守りましょう。
 そんな思いが込められた素晴らしい名前だった。が、六〜七年くらい前だったかインターネットの書き込みで性愛欲病院と揶揄され、根も葉もない良からぬ噂が一気に広まると、噂の真相を確かめようと興味本位で受診する者が激増していった為、已む無く名称変更をした経緯がある。
 しかしわたしは名前が変わって良かったと思っている。職員や当院をよく知る者は親しみを込めて、つばさ病院と呼ぶようになったし(それまではセイアイ病院、セイアイさんだった)、絵本かチョコレートのパッケージくらいでしか見ることのない小っこい翼をもった天使のイメージから、翼を広げて大空を舞う鳥――この近辺の空を悠々と舞うトンビのように――より身近で、手の届きそうな希望があるような気がするからだ。
 
 我が聖愛つばさ病院の指針は、「お相手の身になって」。実に分かりやすく単純。だが、もっとも必要なことかもしれない。
 つばさ病院は、設備面の充実や医療・看護力はもちろんだが、接遇に特に力を入れている。患者様やご家族だけにとどまらず、職員同士や出入り業者などへの挨拶や声掛けも、勤務査定の再重要項目に位置づけられている。
 だが、そうは言っても堅苦しいものではない。要は慣れ。慣れてしまえばそれが当たり前と思えてくるもので、気分良く働けるのは確かなのだ。 
 ベッド数は三百病床。市内では二番目の規模を誇り、わたしが入職する前まではトップだったらしい。ちなみに現在のトップは、市の南東部にあるK病院。当院と同じ療養病院なのだが、なぜだかは分からないが、自ら老人病院と呼ぶ事にこだわりを持っている病院である。
 K病院は約三百五十病床のベッド数を誇りにしていて、他院の追随をゆるさない絶対王者、ナンバーワンに君臨している。元々は二百病床ほどで開院しており、増改築を繰り返して現在の規模に至ったという。だが二百病床の建物を三百五十病床にまで継ぎ足しながらすれば、設備のバランスなど取れるはずもない。K病院を退職し当院に入職した職員はみな必ず、設備と入浴全般についての不備を口にするほどだ。
 浴室は三つ。ひとつはほとんど使われていない温泉を思わせる一般浴室。もうひとつは、車椅子に座ったまま入浴出来る浴室。そして入浴用の寝台に仰向けになったままお湯に浸かれる機械浴(きかいよく)室は一つあるだけ。
 つばさ病院もそうであるが、療養病院に入院する大半、極めて十割に近い患者が機械浴室を利用するわけで、三百病床を越える規模の療養病院で機械浴室が一つだけでは、浴槽のメンテナンスは行き届く筈もなく、機材や設備が故障すれば数日入浴が出来ないケースもあり得る。
 しかも浴室までの移動には、数少ないエレベーターを使用しなければならず、結果渋滞が発生して、中には湯冷めで体調を崩す患者もいると聞く。
 体調を崩すと言っても、
 ———風邪気味です、熱が出ました、食欲がないんです。
「でしたら、点滴をして・薬を飲んで・ゆっくり寝てれば治ります」
 そんなレベルの話で済まないのが、長期間継続的な治療を必要とする患者なのだ。療養病院に入院する患者の「体調を崩す」は、イコール死へ至る事も考えられる深刻な問題である。入浴中やその後に患者の身に何かが起き徹底的に追求されれば、訴訟問題にまで発展しかねない大問題なのだ。

 一方の当該つばさ病院には、各階の病棟(びょうとう)フロアに機械浴室が設けられている。エレベーターで移動することなどなく、ベッドから浴室までの移動がスムーズに行われる様に配慮された設計で、入院を検討する患者・ご家族にお勧めするセールポイントのひとつになっている。
 病院の入浴というのは、その病院のすべてが見えると言っても過言ではない。例えば……入浴に関わる担当者は何人いるか。体をどんなタオル (スポンジ) で洗っているか。移動や移乗は安全が確保されているかは特に重要であり、それらと介助を行う技術などで、病院の患者への気配りや心遣いが分かるもの。
 更に加えるのなら、入浴用寝台の裏側は汚れていないか。換気設備はその機能を果たしているか (窓が有るか無いか)。入浴設備の検査や湯をはった状態での(一番風呂前の)細菌検査を確実に実施しているか。等々で、病院の姿勢や方針が大方分かるものなのである。
 入浴シーンを見せるわけにはいかないが、浴室を見せたがらない病院には入院すべきでない、と声を大にしてわたしは言いたい。

 K病院をライバル視しているわけでも、批判するつもりもないが、わたしとK病院のX事務長とは犬猿の仲にある。X氏はしょっちゅう苦情電話を掛けて寄越すのだ。
「なぜあんたがたはウチの職員をヘッドハンティングするんだ」
 そう因縁を吹っかける。その度にわたしは、医師以外ヘッドハンティングはしないと正直に答えるのだが、X氏は納得しない。
 X氏とは地域のイベントや勉強会で顔を会わせるので深く関わり合いたくないのだが、わたしは「職員を手放さない様にするのも我々の仕事じゃないですか、お互いに良い仕事をしましょうよ」、と答えている。
 すると即座に電話を叩き切られ、しばらくX事務長の声を聞かなくて済む。こんな感じでつばさ病院唯一のクレーマーには対応している。

 つばさ病院は万床状態をほぼキープしている。ひとえに現場職員の努力と、おもてなしの精神、お相手の身になって患者を看る心による賜物である。
 ちなみにK病院は病室をデイルームやカンファレンス室と称する部屋に変更するほど“空き”が目立つらしく、結果として入院患者数はつばさ病院が勝っているらしい状況、と言ったところだ。
 医療従事者が入院患者数を競い合い、誇るなど以ての外。だが、我が聖愛つばさ病院を信頼し入院を決断してくださる人が多ければ、やはり嬉しいではないか。いつかわたしが重篤な病気になるような事があったら、わたしは迷うことなく、つばさ病院を終の住処にしたいと思っている。

   (二)

 わたしの仕事は、入退院の手続き、葬儀社、設備関連などの業者や、役所、連携病院又は施設との打ち合わせ、そして事務の統括と承認それに採用面接が主である。
 特に看護師の欠員は慢性的で、病棟からの催促は毎週のように聞かされ、事務員の入れ替わりもぼちぼち発生する。
 そんな中で、コンビニが出来たからという訳ではないのだろうが、オープン後ほどなくして、四十四歳の女性が医事課に入職してきた。
 女性の名は長崎哲子(てつこ)。高校を卒業後二十四歳まで不動産関係の事務員として働き、結婚を機に寿退社。以降長らく専業主婦をしてきた経歴をもつ女性だ。彼女は昨年離婚したのを機に医療事務などの幾つかの講習を修了し、つばさ病院に就職しておおよそ半年になる。女手一つで高校一年の娘と中学二年生の息子のふたりの子どもを育てる、いわゆるシングルマザーだ。
 わたしはこれまで数百人の応募者と面接をしてきたが、この女ほど面接時の印象と実際の異なる人間に出くわしたことがない。長崎哲子は哲という字よりも、鉄という字の方が似合うきつい女だったのだ。

 先週初めて、鉄子と一緒に看護助手(じょしゅ)の応募者と面接をした。課長(かちょう)命令で今後わたしたち二人が、採用担当を務めることになったのだ。
 以前は、応募者に書類を郵送してもらい一次選考となる書類審査をパスした後に面接の予定を組んでいたのだが、「病院の指針と違う気がしますね」という入職間もないわたしのひと言がきっかけで、書類審査を省いて面接と現場見学で合否を決める選考方法に変わったのだった。
 ここで鉄子とわたしは衝突した。鉄子が書類審査復活論を唱えたのだ。しかも事務長に直談判でだ。事務長はわたしに文句を言った。
「順序が違うでしょ、杉崎(すぎざき)くん。本来なら係長である君に提案し、その案を課長と君が話し合ったうえで、事務長の私に伝えるのが普通だよ。しっかり指導してくれないと困るな」
 事務長はそう言い、不快感をあらわにした。
 事務長の言い分は理解できる。でもなんで、課長を飛び越えて事務長がわたしに文句を言うのか。普通じゃないじゃんとわたしは言いたかった。だが中間管理職の立場などこのようなものだから、これが普通なんだよと自分に言い聞かせるだけに留めた。
 
 事務長の話を正確に鉄子に伝えると、鉄子は矢継ぎ早に、しかも事務員も来院者もいるのも構わず毅然とした態度でこう言った。
「効率が悪いです。応募書類を見た時点で不採用、面接するまでも無い人がいたじゃないですか。時間の無駄です。こんなやりかた間違っています」
「当院での就業を希望する。それだけでも有り難い事ではありませんか。応募者は労苦を惜しまず、懸命に履歴書を書き面接にのぞんだ。その思いを組んでお会いするのが礼儀。やり方を変えるつもりは、ありませんよ、わたしは」
 周囲の目もはばからず、わたしは大人げなく鉄子に言い返した。四十四歳の女と四十七歳の男はリング上で睨み合った。リングサイドは興味津々で、わたし達から目を離そうとしない。
「その古いやり方を、変えた方が良いと言っているんです」
「古いものが悪くて新しいものが優れているとでも言うのかい。君は」
「そんなこと、ひと言も言ってないじゃない」
「古いやり方を変えろと言っただろ」
「私は効率の良い方法をとるべきと言ってるの」
「効率良くやるのが必要なこともあるよ。だがね、」
「無駄な労力を使う必要がどこにあるっていうの」
「人との縁と言うのは大切なものなんだ。縁無く不採用になった応募者と、いつまた何らかの形で関わらないとも限らないだろ。効率良くやれば良いってものじゃないよ」
「どうせ不採用にされるんなら、書類審査で落として貰った方が良い。わざわざこんな僻地まで足を運ばせておいて、不採用にされるよりも」
 わたしは温厚そうに見られるが、実はしごく短気で、意地悪な一面もある。
「もし君の言うやり方で君を選考していたら一次選考、つまり書類審査をパス出来たと思うかい?」
 決まった。わたしは鉄子のこめかみ目がけて、強烈なストレートを叩き込んだ。
 鉄子は倒れる前のボクサーが目を引ん剝いて最後の一発を食らわせてやろうとするが如く、こう言い放った。
「はい」
 わたしは唖然とした。いや愕然と言った方が正しいかもしれない。
 わたしの放った右ストレートのその上に、鉄子の左ストレートが伸びて来たのだ。そう、※矢吹丈の必殺パンチ、クロスカウンターだ。
 周囲の事務員はそのひと言を耳にした瞬間、開いた口を手でおさえ、マットに沈むわたしを憐れんで見る者さえいる。
 わたしは後悔していた。右ストレートではなく、あの伝説の日本プロボクシング界最強の世界チャンピオン関拳児をマットに沈めた、※堀口元気のアッパーストレートにすれば勝てたのではないかと。
 ※矢吹丈:日本が誇る不世出のスポーツ漫画の大作「あしたのジョー」の主人公。
 ※堀口元気:日本が誇る不朽の名作、小山ゆう作「がんばれ元気」の主人公。

 わたしたちの間に割って入ったのは課長新藤祥子だった。わたしたちより年下で三十八歳の上司。病棟を廻って、戻って来たところらしい。
「患者様やご家族がいると言うのに、何をやっているのですか。お話しなら私が聞きます。会議室に来てください」
 重いダメージを負ったわたしはふらつく足を引きずりながら、何かで読んだ「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」ということばを思いながら、二人の後にしたがった。
 
 選考方法について。わたしがことの成り行きを説明すると。課長はわたしと同じことを話して鉄子を納得させようと務めた。
「でも課長。面接をする必要もない人と面接をして、何になるのですか。わたしたちにとっても、求職者にとっても時間の無駄です」
「確かに長崎さんの言うやり方は効率が良く、他院や他の会社では一般的です。あなたが病院のやり方が無駄と感じるのも分からないではありません。でもね、私は決して無駄だとは思いませんよ。遠回りだとしても、人と会って、近い距離で、目と目を合わせてお話をする、大事なことではありませんか。ご本人も書類だけでは伝えられないことがあるでしょう? 直接お会いすることで、お互いに何かが生まれる。そうは思いませんか」
「いいえ、別に」
「別にって、」
「思わないのなら、つばさ病院の職員として、考え方を変えて貰わなければ困ります」
 課長は、わたしの言いたいことをすべて語ってくれている。この点が課長になれる人間と係長に留まるわたしとの差なのかも知れない。
「つばさ病院の職員は、小さな出会いを大切にして貰わなければ困るのです。挨拶ひとつ。声掛けひとつ。目配せひとつにね」
「病院の特徴は、わたしが面接で話しましたね。患者さんの多くはこの病院に長く入院し続け、入院生活の中で病状が悪化していく方がほとんどだと。だから患者と直接相対さない事務員といえども、人との出会いを大切にして、日々の挨拶と笑顔を絶やさずに勤めてほしいと話したのです。覚えていませんか」
「なんで……いじめるの」
 わたしと課長は思わず顔を見合わせた。
「長崎さん。あなたは私より年上で多くのことを経験して子どもまで育てておられる、教育者ではありませんか。それなのに、今の係長のお話しが理解出来ませんか」
「係長、って?」
 鉄子は小首を傾げる。
 鉄子はわたしの事を苗字ではもちろん、役職で呼んだ事さえ無かったことにたった今気づいた。他の職員のことさえ苗字で呼んだことがない様な気がする。
「そう。杉崎係長のお話し」
「では、課長。なんで係もないのに係長がいるのですか?」
「あなたね」
「君ねえ」
 わたしたちは呆れるしかなかった。なんでこの女は話を別の方向へすり替えようとするのか。まったく理解出来なかった。
「杉崎係長は、医事課の課長を補佐する立場から係長として働いているのです」
「私はクビですか」
「誰もそんなこと、言ってないじゃない。この病院の指針に従って働いてほしいと言ってるだけよ」
「指針?」
「そう、指針」
「お相手の身になって。」
 わたしは話しを長引かせることは、鉄子にとって良くないと判断し、口を開いた。 「慣れない職場ですから戸惑うでしょうが、徐々に慣れますよ」
「働き始めて半年になります。この私が、まだ慣れていないって言うの!」
 火に油を注いだだけだった。
「いやあ、仕事には十分慣れたと思っているよ。わたしが言っているのは雰囲気。言ってみれば社風の様なもの。そして、病院の方針に」
「相手の身になれって言うんなら、私の身になってくれたって良いじゃない! 指針でしょっ!」
 鉄子はそう叫び、ハンカチを取り出し俯いて泣き始めてしまった。
 課長はわたしに会議室から出て行くように、目配せを送る。
 わたしはレフェリーストップによってTKOで破れたボクサーの様に、がっくりと肩を落とし会議室を後にした。

   (三)

 わたしはその足で、明後日に入職する職員研修の打合わせに向かうことにした。研修といっても、一同が介して座学で勉強する訳ではなく、配属先で指導者から直接実務を学ぶもの。その段取りの打合わせだ。
 病棟看護師の責任者は看護部長。文字通り病棟職員のトップである。そして看護師を補助する役割の看護助手がいて、その責任者は、(助手)リーダーと呼ばれている。
 わたしはこれから、リーダーに研修内容の確認と受入れの体制が整っているかの確認をしに行く。ただそれだけの事である。研修は頻繁に行われているので、内容の確認はお互いにとって特別なことではないが、気が重かった。鉄子と会うのとは別の意味で、足が重たい。
 今回入職する二人の看護助手の配属先は、第二病棟と第五病棟。第二病棟に行くのはまったく抵抗ないのであるが、第五病棟には、出来得るならば足を運びたくない。看護助手のリーダー枕崎(まくらざき)小百合(さゆり)の存在が、わたしの足を重くさせるのだ。
 枕崎小百合。わたしは彼女に目をつけられている。いやそんなもんじゃない。第五病棟の看護助手ぐるみで、わたしを狙っていると言った方が正しいかもしれない。
 世間のいう四十七歳といえば、半世紀近く生き延び、残された人生のカウントダウンのゴングを聞こうかとしている、いや労働者としてはカウントダウンのゴングを聞き始めた中年といった印象を抱くかもしれない。ところがつばさ病院は違う。
 男性職員はたったの十七名、男女共同参画が声高にさけばれる昨今、つばさ病院の看護師、看護助手は “男子厨房に入るなかれ” という古き伝統を堅持して女性のみと決まっている。それはさて置き、常勤の男性独身者はわたしを含めて七名。うち二名は、妻と死別した男と妻と離婚した男でともに定年後、再雇用で働いている。
 男性としての機能をいかんなく発揮出来るであろう者は残された五名のうち、二十代の二人は息子か孫扱いのため男性とはみなされておらず、残る三名のうちの一人は設備担当三十八歳のまだ若々しい男。だが性格に難のある男として名が通ってしまっている。もう一人は四十六歳で離婚歴のある送迎運転手。無口で業務上の評価は高いが、パートの常勤職員で収入は高いとは言えない。
 そこで自然とわたしが独身頭筆頭として、狙われる立場に立たされてしまったわけだ。
 
 つばさ病院の看護助手の業務は看護師以上に激務だ(らしい)。私感で言えば、看護師は精神的な責任がより重く、看護助手は体力面で重労働とわたしには感じる。
 他院と比べて高給にも関わらず、つばさ病院でも若くして入職する者は早々に退職する者が多い。中には寿退社もいるのだが、
 ———激務に心身が疲れ果てて若さを棒に振ってしまう。
 或いは、
 ———患者や中高齢の職員に若さを吸い取られてしまうのが嫌だ。
 そう考える者が少なくないのだ。
 長く働き続けている者の多くは四十歳後半から六十歳の年齢層だ。彼女たちは、
 ———高給をそう易々と手放してなるものですか。
 そんな気組みが表情にも態度にも仕事にも表れているのだ。
 彼女たちの気組みを支えているのは言うまでもなく生活。就職して初めて知ったのだが、いわゆる訳ありと呼ばれる者が想像以上に多いのには驚かされた。
 わたしを狙う第五病棟の枕崎小百合は離婚歴のある子どものいない四十五歳独身。何でも子どもが出来なかった事が離婚の理由らしいのだが、わたしに言わせれば、子どもが出来ないから離婚する、その考えがまったく理解出来ない。子どもをつくる為に結婚したと言うのか。結婚とは、お互いにずっと一緒に生き続けたいからするものではないのか。独身だから、わたしがそう思うだけなのだろうか。
 とにかく。仕事を全うしようとすると知りたくないことまでも知ってしまうので、それがわたしの仕事の特徴なのでもある。

 先ずは第二病棟から。ここの看護師長と助手リーダーは既婚者で子ども有り。だからと言うわけではないが、普段通りに抵抗なく顔を見て話しが出来る。打合せや伝達事項はいつも呆気ないほどスムーズ。
 次の鬼門(きもん)。第五病棟、には昼食の配膳車が到着する直前に行こう。事務的にさっさと話しを伝え、昼食の準備を言い訳にして切り上げる。
 うん。自分の計画に自分で納得すると、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
 わたしは頭の中で打ち合わせのシミュレーションをしながら、病棟に向かう階段の手摺を強く握りしめる。
「おうっ」
 危うく階段を踏み外しそうになった。わたしは闘う前のウォーミングアップで、既に力を使い果たしたボクサーのような足取りで第五病棟に
到着した。

「あら、お似合いねえ。あなたたち」
「付き合っちゃえば良いのに、うふっ」
 看護助手リーダー枕崎小百合とふたりで打ち合わせをしていると、病棟の同僚たちが代わる代わるわたしたちを揶揄する。
「わたしは五十歳目前ですよ。揶揄わないでください」
 この曖昧なひと言がいけなかった。
 そう、医療従事者は曖昧な意思表示はしてはいけない。その不文律をすっかり忘れていたのだ。
「五十歳目前って、私は六十歳目前よ。揶揄ってなんかいないわよ」
「自分で歳だなんて思っていたら老けるわよ、杉崎さん」
「小百合ちゃんは年齢なんて気にしていないもん、ねっ」
「うん、私は年齢とか容姿は気にしません」
 なんだか、自分が不細工な中年男と言われている様な気がした。
「では、そう言うことで」
 わたしは退却しようとした。
「何が、ではなんですか? 説明の途中じゃないですか」
「杉崎さん、顔真っ赤。照れてる」
「ホント、照れ屋さんね、杉崎さんは。うふふふっ」
「今の若い人はしゃいって言うのよ」
「小百合ちゃん、しゃいなタイプが好きって言ってた」
「んもう、お仕事中ですよ。からかわないでください」
「小百合ちゃんも、しゃいになっちゃって。ふふっ」
「何か不明な点が有れば、電話で」
 わたしはもはやこの場から逃れる事しか頭になかった。
「良いんですか!? お電話しても」
 違う意味で取ったらしい。
「うふふっ。カップル成立ね」
 違う。
「お似合いよ。ずっとそう思ってたの、私たち。うっふっふ」
「んもう、からかわないでください。先ぱ~い」
「でも嬉しいんでしょ、小百合ちゃん」
「……」
 この病棟は、何をするにしてもリハーサルでもしたかのように職員同士の息がピッタリ合っている。本当に打ち合わせをしていたのかもしれない。
「お祝いに呑みに行きましょうよ。ねっ杉崎さん。小百合ちゃん」
「何言ってるのよ。先ずはデートでしょ。邪魔しちゃだめ」
「そうだわね。おふたりとも、おしあわせに」
「良かったわあ。これで小百合ちゃんもしあわせになれる。ふふっ」
 実にまずい展開だ。すっかりこの病棟のシナリオ通りに話が進められている。
「ああ大変だ。これからお客様が見えるんだ」
 昼時の来客などあるわけないのだが、わたしは何も聞かなかった事にしようと自分に言い聞かせて階段に走った。

 病院の職場と云うのは変わっている。悲しいことも、辛いことも、嫌なこともたくさんある。でも遣り甲斐があって、楽しいこともあって、自分が暮らす賃貸アパートよりも居心地の良い、わたしの家のような存在だ。
 だがやっぱり、はっきりと意思表示しなかった事が気になってならない。わたしは、お相手の身になって考えていなかった事に気づいた。


 ○第二章

   (一)
 
「今日は病院に見学に行くって何度も言ったじゃない!」
「仕方ないだろ。大事な取引先の接待、仕事なんだから」
「手当も交通費も出ないのに何が仕事よ。お爺ちゃんとゴルフ、どっちが大事なの!」
 ———そんなこと聞かなくたってわかるだろ。
 私はその言葉を飲み込んで、排便を言い訳にしてトイレに逃げ込んだ。

 真由美と結婚して早二十年。添田(そえだ)家のひとり娘、真由美と結婚したいと願っていたことに嘘はない。わたしはご両親に結婚をお願いしに行ったあの日を思いだす。
 真由美の父添田(いさむ)は私に条件を提示してきたのだった。
 ———添田家の養子になるか、養子にならないのであれば我々と同居か、どちらかでなければ娘はやれん。
 と。若かった私は、真由美と結婚出来るのであればどちらでも良いと思った。
 竹村健太(けんた)が添田健太になることは寧ろ歓迎だった。似たような名前の有名人がいて、子供の頃から揶揄われてきたからだ。ただ、ひとり息子である私が養子になれば竹村家は絶えてしまう。両親を早くに亡くした私が養子になれば、何となく私は両親を裏切るような気がした。だから私は養子にはならずに、同居する選択をしたのだった。

 義父の添田勇は七十六歳。元大工で、初めて会ったあの日の勇ましさはすっかり陰をひそめ、二、三ヶ月前からはおかしな言動が気になり始め、近頃それが顕著に現れている。
 食事を済ませて部屋に戻ったと思ったら、再びキッチンにやって来て「母さん。晩ご飯はぶり大根に納豆と木綿豆腐を食わせてくれ」、そう我が娘であり私の妻の真由美に話す。学校へ行こうとする玄関先では、息子の聖一(せいいち)に向かって「兄さん。必ず生きて帰って来てください」。そう敬礼して送り出すようにもなった。
 義父は定年間近に発病した腎臓病で人工透析を受けており、定年後には脳梗塞も患った。嫌と言うほど病院の世話になっているそのせいか、病院が嫌いだ。
 おかしな言動に堪え兼ねた真由美は、国民健康保険の健診が千円で受けられるのよと笑顔で語り、半ば強引に義父を総合診療科に連れて行った。週三回通院しているのに、今更健診も何もないのだが。
 総合診療科の医師は問診票に記載した内容と真由美の話しを聞き終わったあと、迷わず神経内科の受診を勧めた。義父はやはり認知症を患っていたのだ。
 若かった頃の義父は、古稀を過ぎたら妻と一緒に老人ホームへ入るのだと話していたが、三年前に義母が鬼籍に入ってからは、真由美に向かい喜寿を迎えたらと言い出した。きっと来年あたりには米寿と言い出すかもしれない。いや、そう言ってほしい。どこで暮らしたって、長く生きていてくれれば、それで良いのだから。
 
 ゴルフバッグをトランクに積み、義父と真由美を後部座席に積め込んで、義父が長期的に入院することになるやもしれない療養病院まで送り届ける車内で、真由美は「帰りは(どうせ)迎えに来られないんでしょ」
 分かっていることをわざわざ口にした。同時に後部座席から腕を伸ばす。手のひらを上に向けて。
 二十年も一緒にいると相手が何を言いたいのかが分かる。タクシー代をよこせだ。
 私は決して多いとは言えない小遣いの、最後の一万円札を真由美の掌に乗せた。バックミラーで見る真由美は自分の金を取り返したとでも言いたげに満足そうな顔をした。
 病院の正面玄関前に車を停め、義父を車椅子に乗せ換えると、二人(真由美)はこちらを振り返ろうともせずに、自動ドアの向こうへ消えて行った。
 接待ゴルフなんて誰が考えたのだろう。運動不足の政治家だろうか。休日に家に居場所のない、一流企業の中間管理職あたりだろうか。私にとっては、運動ともスポーツとも、仕事とも娯楽とも言えない時間を過ごすだけだ。
 上司は、「おもてなしだよ」と言うが、お相手がスコアに満足しなければ、どんなにもてなしても無駄な時間としか思えない。自分はここで何をしているのだろう。私は義父を見る目で、自分を見てしまう。
 だから、お客様が納得するスコアを出す事だけを心から願う。本気で応援してしまうのだ。
 そんな私の姿を見て、取引先は接待ゴルフは竹村健太を。社内においてもおもてなしは竹村健太と、ご指名される羽目になってしまったわけだ。おかげで月に二、三回の休日が潰れるだけではなく、営業手当の範囲内の扱いであるため、私の財布は月初めから火の車。
 そんなことを考えながら、相模湖インターから中央道にのり山梨方面に車を走らせる。住まい近くの圏央道を躊躇なく使うことが出来たら、私の心は軽かったかもしれない。
 取引先の顧客の大半は県内に住んでいる。ゴルフコースは県内はもとより、市内に幾つもある。にも関わらず山梨まで自腹を切って行かなければならないなんて、納得出来ない。
 これから県外での接待ゴルフの時には、絶対に交通費と休日出勤手当を出させてやる。私は怒りに燃えていた。
 燃えたついでに今日十本目のタバコに火をつける。気持ちを落ち着かせようと、ゆっくりと煙を吐き出す。車内に漂う煙を見て私は思った。
 ———流れる雲のように生きてゆけたら。
 そう思った瞬間、車内に浮かぶ雲の間から陽が射してきた。私は左にウィンカーを出し、目的地へ向かう本線とは別方向の山中湖方面にハンドルをきっていた。
 ―――俺が大事なのはゴルフより仕事より義父さんだ。大切なのは幾つもの病気を抱えている俺のお父さん。そしてお父さんを支えている真由美だ。
 私は、いや俺は、高速を使わずに真由美と義父のいる病院へ急いだ。今ならまだ間に合うかもしれない。そう思ってアクセルを踏み込んだ。

   (二)
 
 聖愛つばさ病院に着いたのは午後一時過ぎだった。
 職員からの説明や院内見学は、とっくに終わっていることは分かっていた。もう帰ってしまったかと思いつつ、一縷の望みに賭けて自動ドアの前に立った。
 のんびりとドアが開くと、私は受付カウンターにいる職員に向かって駆け寄りふたりのことを尋ねる。職員の話しでは、説明も見学も終わり食堂で休むと話していたらしい。真由美は食事を摂るのが極端に遅い。義父は尚遅い。そう考えると、まだ食堂にいる可能性は十分にあった。私は急いで食堂に向かった。

 ふたりは外の景色が見渡せる特等席に、ポツンと座っていた。既に大方が食事を済ませたのであろう、食堂内は空席が目立つ。
 私はテーブルに近寄り、「間に合ったあ」と口にする。真由美は細い目を大きく見開いて、開口一番、
「来られるなら始めから言ってよ。もう全部済んだんだから、間に合ってなんかいないわよ」
 と言った。その顔には、
 ———食事代払っちゃったじゃない 。
 と書いてある。義父がいつものように満面の笑みを向けてくれて、口を開いた。
「お世話になります」
 真由美と義父が食べ終えた食器を見て、私は急に空腹を覚えた。
「俺も何か食べるよ」
 真由美の顔には、
 ———自分で払いなさいよ。タクシー代は渡さないから。
 そう書いてあった。 
「仕事すっぽかして、大丈夫なの? 」
「ゴルフなんかよりお父さんの方が、大事だからね」
 私は幾分誇らし気にそう答えた。
「はじめはゴルフの方が大事だと思っていたんでしょうよ。だからゴルフバッグ持ってゴルフ場に向かったんじゃない」
「それは結果論だろ」
「そうよ。でも始めにどう思い、どう行動するかが大事なんでしょっ」
 いつからこんな言い方をする女になってしまったのか。時々私は思う。養子になってまでも一緒に暮らしたいと思った真由美と今生きている真由美は、果たして同一人物なのだろうかと。
「ぼくは何号室に泊まれば良いのでしょう」
 突然義父が私に向かって言った。
「今日はお家に帰るのよ、おじいちゃん」
 真由美がはっきりと答える。
「誰のお宅にですか?」
「おじいちゃんのお家に。私たちと一緒に」
「いくらですか?」
「おじいちゃんのお家ですもの。お金なんか頂かないわよ」
「サービス料、いくら?」
 ―――えっ?
「サービス料? なんの?」
「決まってるでしょ、お嬢さん。色んなことのだよ」
 雲行きが怪しくなってきた。義父はいかがわしい店の話をしているのだと私は直感し、真由美もまた同じ確信を抱いたようで口をあんぐりと開けたままだ。
 自分を育てた威厳ある父親が、いかがわしい場所に行くなど思ってもみなかったのであろう。母だけを愛し、母以外の女など知るはずもないと疑いもしなかったその確信は、砂の城のように一気に崩壊したのだ。
 私は義父の威厳を守る為に話しに割って入った。
「それは帰ってからのお楽しみですよ」
 義父は満面の笑顔で頷き、真由美は怒りに燃えていた。

 帰りの車は、さながらお通夜かお葬式。いつもは後部座席で義父と並んで座る真由美は、助手席に義父を押し込み、ひとり後部座席を占拠している。
 義父は私の隣りで、頭を垂れて目を瞑っていた。左折時に私にもたれ掛かり直線でもその体勢のままだった時は、本当に生きているのかと、本気で心配してしまった。
「なあ、真由美」
 沈黙を嫌って私が声を掛けると、真由美の髪を耳にかける仕草がミラーに映った。 わたしは怒ってる 、とうサインだ。
 ここで私が何か言おうものなら、真由美は宣戦布告と受け取る。私から宣戦布告をした覚えなどないのに、相手は闘いを仕掛けて来たと思い込む。そしてそのタイミングで更に私が物を申せば、攻撃と見なし反撃を仕掛ける。だから私は、運転に集中することにした。

 翌朝私は、統括部長に声を掛けられた。
「昨日は、大変だったようだね」
 優しさの中にも厳しさがあると評判の部長は、私より一歳年上の四十六歳。元ラグビー選手ですこぶる体格が良く、俳優顔負けの容姿の部長は、笑顔で私のデスクに近づいて来る。
 朝からとても嫌な雰囲気。目が違う。二十年以上の付き合いともなると、相手が何を考えているのかその目を見れば大体分かる。妻より一緒にいる時は長いかもしれない。
 接待ゴルフをすっぽかしたことは、既に部長に報告されている。私はそう直感した。
「父の入院に関して突然病院から呼出しが有りまして、先方にはその旨、丁重に申し伝え、」
「ほう、お父様のねえ。するとこれからも、大変なんじゃないか?」
「療養病院ですから、医療や看護体制も充実していて、入院さえすれば問題ありません」
「だが入院しなければならないほどの、状態なんだろ?」
「家で面倒を見るのが少々厳しいと感じ始めた、それだけですから」
「人それぞれ事情はあるものだ。だが接待ゴルフとはいえ接待だよ、竹村君。接待とはなんだい?」
「お客様を、おもてなしすることです」
「そう。覚えていてくれた様だね。僕がいつも言っている、おもてなしだよ。お客様からの誘いとは言え、もてなすのは君だ。それを君の都合で断った。どういう結果になるか考えなかったのかね」
「考えました。ですから、丁重に電話でお詫びを、」
「先方は、担当を変えろと言って来てね」
「えっ」
「他社との取引の話まで持ち出してきた」
「他社の? ですか」
「そう。ウチ以外にも熱心な会社はあるとね」
「……」
「君のおもてなしには一目置いていただけに、残念だ」
「……」
「お父様の具合も心配だろうし、他の部署へ移るか」
 統括部長は使い物にならない私を切り捨てて、自分の地位を守ろうとしているのだ。そうとしか思えない。
「本来なら打診などしないところだが、君の功績を考慮してのことだ。希望があれば遠慮せずに言いたまえ」
 この男は布石を置こうとしている。私が異動先で活躍した(出来た)場合は自分の目に狂いはなかった、役に立たなかった場合は竹村たっての願いで(温情で)異動に応じた。どちらにしても、自分の判断に間違いはなかった、という結果を残す為だ。
「では、父の介護に専念します。介護休業の申請を申し出ます」
 私は今の今まで考えていなかった事を口にしていた。
 本当は、
 ———こんな会社辞めてやる! 
 私は、いや俺はそう言いたかったのだ。
 

 ○第三章

   (一) 

 長崎哲子は出勤しているだろうか。辞めていないだろうか。わたしは出勤途中の車の中で、その事ばかりを考えていた。
 いつもより十分早く駐車場に車をとめ、職員通用口の扉を開ける。始業時間までまだ二十五分ある。わたしは事務所へ向かわずに、滅多に行くことのない病棟職員用の更衣室の裏、建物の南側に向かうことにした。
 途中の自販機で缶コーヒーを買い、目的地へ到着。早速たばこに火をつける。
 院内には喫煙所はなく、至る所に禁煙を促すポスターまで掲示してある。医療従事者はタバコの害を誰よりも理解している。だから喫煙者は少ない。そう思われがちだが、決してそんなことはない。つばさ病院に限らず医療従事者の喫煙率は、きっと一般企業よりも遥かに高いはずだ。
 ———見られません。たばこを吸うとこ、吹かすとこ。
 ———携帯用、灰皿持参で、火の始末。
 ———喫煙後、マウスウォッシュで、口臭予防。
 誰が決めた訳でもないが、この三か条は固く守られており、今まで喫煙はもちろん、タバコの臭いによる苦情は一度も出ていない。
 交代制勤務のせいだろう。この時間にくつろいでいる者はわたしひとりと、畑の上を旋回する名前も分らない鳥一羽だけ。これから朝はここで時間を潰そうか。そんなことを考えながら至福の時を過ごしていると、「ガチャッ」。建物の重い扉が開く音がした。
 わたしは慌ててタバコを隠し、振り向いた。
「ん?」
「あっ」
 現れたのは長崎哲子、鉄子だった。
「まあ、係長もおタバコを吸うんですね」
 驚いた。昨日リングで闘志を燃やしてグローブを交えた相手が、何もなかったかの様な晴れやかな笑顔で現れたのだ。しかも今まで鉄子、いや哲子から声を掛けられたことなど一度もない上に、呼んだことのない役職名で声を掛けてきたのだ。どういう風の吹き回しだろうか。
「君も、喫煙者だったんだ。意外だね、はっはっ」
「そうですか? 私、離婚してからタバコを始めたんです。もうすぐ一年かなあ。まだ初心者マークがとれていない新米です。うふっふ」
「珍しいね。四十三歳でタバコを始めるなんて。聞いたことがないよ。はっはは」
「駅の南口にタバコ屋さんがあるでしょ、外国のものやパイプまで売っている。そこに市のタバコ税の税収が四十九億円って書いてあるのを見たんです」
 身を乗り出して言う彼女が、別人のように見える。
「しかも税収全体の4パーセントがタバコ税で、軽自動車税の五倍ですよ」
「そりゃまた凄い額を納税しているわけだね」
「私も協力しないとと思って」
「なるほどね。君のような考え方をする人が増えれば、市の財政も潤うよ」
 どこまで鉄子は変わり者なのだろう。
「ニコチンって、少量なら精神活動を活発にさせるでしょ。ニコチン性受容体はアセチルコリンのサブタイプでもあるし」
 ———受容体? アセチル?
 なんだそれは。
 わたしの疑問には構わずに、鉄子は話しを続ける。昨日とはまったくの別人だ。
「昨日の朝、タバコを吸えなかったんです。だからいつもの私じゃなくて、ごめんなさい」
 わたしは昨日の鉄子に腹を立てていたのだが、何を語ろうといつもムスっとしていられるより気分は良い。
「いや、わたしも悪かったよ。これからはお互い気持ち良く仕事をしたいものだね。わたしも気をつけないといけないと思っていたんだ」
「そうですね。気をつけてください」
 なんだか(のど)に小骨が引っかかる感じを覚えたが、わたしはタバコを携帯用灰皿にしまい手をあげてその場を離れた。
 毎朝鉄子が始業一分前に事務所に顔を出すのは、ここでタバコを吸って時間を調整しているのだ。わたしもこれからは、毎朝ここに来ることに決めた。

 医事課に行くと、課長が慌てた様子で近寄って来た。
「杉崎係長。実は、入浴係の関内くんが欠勤なんです」
「病棟の看護助手がフォローすれば、カバー出来るでしょう」
「それがバイク事故で長期離脱になるかもしれないのです。それに機械入浴は男女二人でと決められているでしょ」
「事がことなんですから、女性同士で問題はないでしょう」
「いいえ。入浴係とはいえ病棟での仕事も有る訳ですから、悩んでいるんです」
「募集をかけますか?」
「関内くんが復職した時、どうします?」
「んん、問題ですね。関内くんの変わりに、誰かに入浴係を任せますか」
「誰に?」
「設備係は無理ですし、運転手から廻ってもらうとか」
「送迎に支障を来します」
「では誰を?」
「事務から。医事課から」
「へっ?」
「医事課の男性職員しかいません」
 嫌な予感がした。医事課の男性といえば、わたしと経理に強い沢村だけだ。
「沢村くんにお願いしますか。緊急措置として短期間だけ」
「これから経理は多忙を極めます。沢村くんが抜けたら、フォローしきれません」
「じゃあ……」
「係長、お願いします。杉崎さんしかいません」
「わたしは他人の体なんて洗ったことがありませんよ。それにわたしが抜けたら、」
「私も現場に入って全員で、係長のフォローをします。だから大丈夫」
 沢村が抜けたら困るが、わたしが抜けても困らないらしい。
「患者さんと病棟職員みんなを助けると思って。ねっ、杉崎係長。お相手の身になって」
 わたしはこの時初めて、病院の指針が便利に使える言葉であることを知った。
「仕方ありません。お引き受けしましょう。で、関内くんの所属はどの病棟でしたっけ」
「第五病棟です」
「五病は、ちょっと……」
「何でえ? そんなことを言ってはいけません。差別するんですか」
「差別なんて、そんなつもりはありませんよ。でも、やっぱり第五病棟だけは、」
「他の病棟所属の入浴係を第五病棟になど廻したら、手間も掛かるしおかしく思われるでしょ。上司として指示します。杉崎係長には、第五病棟の入浴係をやって貰います」
 わたしはがっくりと肩を落とした。この年になってやった事もない現場の仕事をする。患者は当然素っ裸。しかも枕崎小百合がいる鬼門、第五病棟だ。
 職員たちはどんな目で見ているのだろうか。わたしは気になってフロアを見回した。隣同士ひそひそと話している姿の中で、長崎哲子だけが憐れんだ目をわたしに向けていた。

   (二)

「こちらが入浴介助用で、こちらが院内用。クリーニングしてありますから」
 現場用の被服を受け取りに洗濯室へ向かったのだが、わたしの分は既に用意されていた。クリーニングしたものを更にご丁寧にアイロンまでかけてある。
 どう考えても、始めからわたしように準備していたとしか考えられない。だが真相を確かめると更にダメージが増しそうなので、何も訊かないことにした。
 着替えをしようと男子更衣室に入る。わたしは事務職員なのでここにロッカーはない。まさかとは思ったが、空きロッカーのあるスペースに足を向ける。
 あった。
 ———杉崎大輔
 ノートパソコンの幅ほどの古びたロッカーに、真新しいシールが貼ってあった。扉を開けると百円ショップの物ではあるが、新品のハンガーが三本。もしかしたら、考えたくはないが関内くんの復職の如何に関わらず、ずっと入浴係でいるのではないだろうか。
 とにかく着替える。わたしは素早く着替えをして姿見へ移動し、院内用の着衣を身につけた自分を見た。
 ———悪くない。これから手術に向かうドクターに見えないでもない。
 次は恐る恐る、入浴介助用に着替えてみる。
 鏡には、パステルカラーの黄緑色の半袖Tシャツを着、テカテカした紺色の半ズボンを穿いた、疲れたオヤジが立っていた。
 ——— 似合わない。世界中でいちばん似合っていない。
 普段スーツ姿のわたしが、いきなり若者の室内着を着て現れたら……考えただけでぞっとした。わたしは病院中の笑い者にされる。病室やナースステーション、廊下の陰から指を差され笑われている姿が、恐怖となってわたしを襲う。
「仕事だ、仕事。ビジネスだよ」
 そう目の前の人物に言い聞かせるしかない。わたしは意を決し更衣室を出た。
 すると、さっきの洗濯室の木元さんが扉の前に立っていた。
「どうですか、サイズは」、プッ。
「問題ないです。でも似合わないですよね」
「そんなこと、ないですよ。少し色が派手ですから、自分では似合わないと思うだけです。今いる入浴係のみなさんだって、始めは似合わないんじゃないかって言っていましたから」プフッ。
 木元さんの精一杯の慰めはわたしの心までは届かなかった。もうどうでもいい。わたしはただ、入浴を待ち望んでいる患者さんのために仕事をするだけだ。
「まあ、がんばりますよ」
 木元さんは笑いを堪えながら、小走りで離れて行った。

 ―――仕事、ビジネス、患者様のため。仕事、ビジネス、患者様のため。仕事、ビジネス、高給を手放さないため。
 わたしは三階の第五病棟に昇る階段で、繰り返しそう唱えた。
 ———とうとう着いてしまった。はて、何からやらされるのだろうか。
 わたしは全身のうちの一部分だけでも隠そうと背をまるめ体を斜めに向けて、ナースステーションに向かう。
 ナースステーションでは、看護師長の大清水真奈が目敏くわたしを見つけ足早に近寄って来た。
「まあ、杉崎係長。助かるわ。しっかりと指導させますから、何も心配しないで、」ブハッハッ。
 話しが終わらないうちに師長が吹き出すと、それを合図に職員たちも大声で笑い出し、ナースステーションは笑いの渦につつまれた。
「わたし、帰ります。こんなんじゃお互いに仕事になりませんから」
「ごめんなさい、ホ~ントにごめんなさい。でも余りにもいつもと、印象が違うんですもの。ほら、私が同じ格好をしたらおかしいでしょ。水着姿で私がここにいたら、変でしょ。それと同じ」
 なんだか自分が思っている以上に、似合っていないようだ。
「あんまりです!」
 困り果て何をして良いのかも分からないわたしを救ってくれた職員がいた。助け舟を出したのは言うまでもない、枕崎小百合だ。
「杉崎係長は止むにやまれずお引き受けくださったんです。何ですか、みんなで笑ったりして。ひどいです」
 枕崎小百合は俯いてしまった。
「小百合ちゃんごめん、ごめんね」
 職員たちは小百合を取り囲んで、口々に謝罪している。わたしに謝る者は誰ひとりとしていない。
「さあ皆さん。担当に戻って。さあ」
 騒ぎの元凶をつくった師長が手を叩いて言うと、職員は三々五々散在していった。
 
 わたしは看護助手リーダー枕崎小百合に従い仕事を覚えるのだろうと思っていた。だが、サブリーダーの大木繁子に指導を賜る事になった。枕崎小百合は新入職員の指導者だったから。わたしは緊張していた。こんな状態で大丈夫だろうか。
 機械浴室は想像以上に暑かった。四十度は裕に越えており湿度も高く、動いていればサウナと大差のない体感のはずだ。体中の毛穴から汗が吹き出してくる。職員は脱水症状を防ぐためにペットボトルを持参する。中には氷の入ったタッパーを持ってくる職員までいると言う。
 わたしは始めの五人までは要領を覚えるために、浴室内の隅で見学をするよう支持を受けた。上半身と下半身をそれぞれ二人で洗うのだが、わたしが担当するのは上半身。早く仕事を覚えなければという一心で、上半身に集中して見ていた。
「そんなにじっと見ないで、さりげなくお願いします」
 真剣に仕事を覚えようとしただけなのだが、違う目で見ていると勘違いされてしまった。
 ———いやらしい目で見るんじゃないわよ。
 目がそう語っていた。
 わたしは六人目から計十名の入浴を、指導を受けながら受け持った。
 初めての仕事の印象は奥が深いのひと言。応接室で「 我が聖愛つばさ病院のセールスポイントのひとつは入浴です 」などと軽々しく言っていた自分に腹を立てるほど、過酷で技術を要するものであった。

 1〉ストレッチャー(移動用の寝台)で機械浴室に入る。
 2〉入浴用の寝台に移乗させる=担当二人で抱えて乗せ変える。
 3〉シャワーをかけてから全身を洗いシャワーで流す(湯船の湯も併用して)。
 4〉湯に浸かる(半自動で寝台を浴槽に降下させる)。
 5〉浴槽から上げ全身を拭く。
 6〉元来たストレッチャーに移乗し機械浴室を出て行く。

 この一連の入浴に掛ける時間は、たったの3分、180秒目安。浴室の隅で見ている時は、――もっとゆっくり風呂に入れてやりたい。と思い、また中にはゆっくり湯に浸かりたいと思う患者もいるだろうが、実際にやってみると、体を洗う前のシャワーの使い方や、浴槽に浸かってからのシャワーやタオルを併用しての温度の変化のさせ方など、実に計算されていて、まさに巧みの技、職人技だった。どれだけの技術が必要なのか、わたしは痛感させられた。
 ことに移乗が難しく、中には物凄く体格が良く体重の重い患者もいるのだが、150cmそこそこの華奢な大木さんは涼しい顔で抱上げる、軽々と、笑顔さえ浮かべて。ストレッチャーに横になっている患者を二人並んで抱えるわけだが……

 1〉両足は揃えず前後にずらし(陸上短距離のクラウチングスタートの様に)、足の裏全体にだけ力を入れて膝を曲げる。
 2〉右腕は肘を利用し患者の頭部と首を保護、左の腕は腰を保護する。そして――
 3〉「イチ、ニ、サン」 の合図で金魚すくいのように患者の体をすくうイメージで、自然にゆっくり立ち上がる。あくまでも 「立ち上がるだけ。持ち上げるんじゃないの!」

 まったく分からなかった。 「介護ロボットの導入を検討、」 させましょう――。最後まで言わせず大木さんに笑われてしまった。 「もったいない」 「そんなお金があるならお給料をあげてほ……」 云々。「私たちはプロよ。からだが覚えたら何でもないこと」
 両足を並行に揃えないのが重要らしい。並行だと持ち上げる意識が先に立ち、余計な負荷が掛かり体重以上の重みを感じるだけ。で腰や膝・肘・手首などを痛めるらしい。それより何より、不測の事態 (ギックリ腰や足を滑らすなど) が生じても、足を前後にずらしていれば、身を呈して守れるから。つまり、患者様の下敷(したじ)きになって守れということらしい。そう言えば……水泳選手のスタートも、昔は足を揃えて飛び込んだものだが、今は足を前後にずらしてる。要するに力を伝導させていくわけだ。頭では理解できた。相撲だって足を揃えないのが定石だし。
 髪の洗い方も長さや量によって変えていた。シャワーを使って地肌にまで潤いを与えたら、手の平と指を巧みに使って表面の汚れを落す。 「気持ちいいわね」 声掛けも忘れず素早くシャンプー。地肌の汚れを指先と指の腹を利用しながら浮き出し 「歯磨きも同じよ」。 髪に付着した油分を大胆に洗い流すのがコツのようだ。自分の洗髪とはずいぶん違った。もう少し早く知っていたら、最近気になり始めた薄毛を防げたかもしれない。

 午前中の十六名の入浴介助が終わると、浴室内の掃除を行い、軽くシャワーを浴びてから患者の食事介助に出向いた。
 わたしは車椅子に乗っている患者の介助をした。ベッドで食事を摂らなければならない、いわゆる寝たきりの患者は症状が重く、食べ物をうまく飲み込めず、誤嚥(ごえん) (気道内に食物が入ってしまう) によって、肺炎などを起こし兼ねず、初心者のわたしには荷が重いということは後でわかった。
 寝たきり患者さんの食事はほとんどが原型を留めておらず、色だけが鮮やかで、メニューを見なければ味など想像出来ないペースト状のものを口に流し込むだけの食事だ。
 ———食事くらいゆっくり食べさせてあげたい。
 そう思った。だが限られた時間内で、一人の介助者は少なくとも五名の患者を介助しなければならないのだ。ゆっくりではその後の看護や患者の生活に支障が出てしまう。わたしは現場に立って初めて現実を知った。
 緑、黄、白、薄茶色のペースト状の食物をただ流し込んでいるように見える食事介助も、高い技術が要るのだそうだ。早く“飲み込んで”頂くための技術で、決して飲み込ませる技術ではないと言う。だがいくら技術を身につけてもゆっくり食事を摂りたいと思っている患者もいるはずだし、その方が栄養だって摂れるはずだし、ご家族にはとても見せられない。中には、
 ———食いたくねえのに無理矢理食わせんじゃねえよ、
 そう心の中で怒ってる患者もいるだろう。
 んん。患者を看るという事は本当に大変なのだ。わたしはたった三時間程度の現場での仕事で、そのことを痛感した。
 
 午後の入浴は十二名。わたしは入浴介助はせずに、大木さんと一緒にベッドからストレッチャーへの移乗と、浴室と病室間の移動を担当した。病室では看護助手と看護師が控えていて患者の着替えとバイタルチェックを行うのだが、医療的処置がある場合などタイミングが合わない時にはわたしも着替えを手伝った。
 ここでもわたしは看護助手たちに揶揄われた。
「係長。あまり慣れていないようね。女性の扱いかた。うふっふっ」
「まだ独身だから仕方ないわよ。ふふっ」
「これからよ、これから」
「でもすぐに慣れるわよ。小百合ちゃんはプロだから。色々教えてくれるから」
「普段から、こんなに和気あいあいと仕事をされているのですか?」
 わたしはセクハラ発言を聞こえなかった振りをして訊いてみた。
「そう務めているのよ。ほら、女ばかりの職場でしょ。正直な話し、男の人が顔を見せた時はみんな張り切るの。お互いに楽しい時間を過ごしたいし、楽しい職場ってアピールもしたいから」
「やっぱり雰囲気が悪いと患者さんやご家族も分かるでしょうよ。ムスっとした病院になんて、誰も入院したいと思わないじゃない」
「そうそう、私たち時々話すのよ。余り言いたくないけど、つばさ病院が終の住処になる患者さんが多いじゃない。だからこの病棟が患者さんのお家で、私たちは家族なのよねって」
「ほう。大事なことですね、わたしたち職員にとっても。患者さまやご家族にとっても」
「だから、入浴は大事で、大変な仕事だけど。がんばってね、杉崎係長」
「わたしは新米ですし、ここでは係長なんて呼ばないでください」
「じゃあ、大輔くんで良い?」
「それはちょっと……」
 わたしはここでもまた、曖昧な意思表示をしてしまった。はっきりしないせいで、わたしはこれから名前で呼ばれるようになってしまうのだろうか。

   (三)

 午後の病棟での仕事は病衣やオムツの整理と搬送で終わり、わたしは事務の仕事に戻った。
「係長。顔つるつる、潤ってるわね。羨ましい」
 新藤課長はわたしの顔を見るなり近寄って来ていった。
「課長もたまにはどうです? 今でも若いが、もっと若返りますよ」
「まあ!? 私は年相応で良いんです」
「係長。入院希望の方がお見えになりました。捺印お願いします」
 長崎哲子がわたしたちの話しに割って入り、書類を差し向ける。
「添田勇様。七十六歳か。ええと状態の方は人工透析が必要で、なるほどね。ご家族は娘の竹村さんご夫婦と十六歳の息子さんがひとり。入院の説明も見学も済んでいるわけだね」
「だから渡したんじゃない」
「え?」
「捺印してください。係長の承認印がないと添田さんは入院できないんですよ!」
 もやもやした心持ちが言葉にも顔にも出ている。
「どうしたんだね、長崎さん。君らしくないよ」
「君らしくないって、私の何が分かるって言うの!? 係長がそういうことを言うなら私も言わせて貰います。係長は係長らしくありません!」
「またですか、ふたりとも。長崎さん。あなたのらしくないは全然違う意味じゃない」
「課長も課長です。患様やご家族の前では私的な話しは慎めって言ったのに、顔がつるつるだとか羨ましいとか、お二人の話は明らかに私的な会話でした。人に注意しておきながら、なんなのよ!」
 わたしは怒りをぐっと堪えて、哲子から鉄子に変身した哲子に言う。
「ここではアレですし、長崎さん。例の場所で話しませんか。朝話した場所で」
 これだけの変貌振りだ、きっとニコチン切れに違いない。
「え……はい」 鉄子自身がタバコが吸えなかったからいつもの自分じゃなかったと告白した様なものだ。
 鉄子は哲子に戻って恥じらう乙女(おとめ)のような微笑を見せ、素直に精一杯の “ありがとうございます” の微笑をを浮かべた。
「わたしは長崎さんと打ち合わせをするので席を外します。良いですね、課長」
 ダメだとは言わせない。こっちは入浴係の貸しがあるのだ。
「どうぞ。何か有ればPHSを鳴らしますから」

「係長、本当に助かりました。私ったら、自分が嫌になっちゃう」
 ———いや、嫌になっちゃうのはこっちの方だよ。
 わたしはその言葉を飲み込んで、哲子がくわえたタバコに火を差し向ける。
「わたしは三十年喫煙して来てタバコが吸えずに我慢しなければならない状況には、何度も遭遇したよ。でも長崎さんほどの禁断症状は現れなかったな。もしや、体との相性が良くないとか」
「さあ、どうなんでしょう。私くらいの年齢だと、ホルモンバランスとかも関係してるのかもしれないし」
「うちの病院の内科は禁煙外来もあるよ」
「私は喫煙のリスクを知ったうえで、タバコを始めたんです。やめるくらいなら始めから吸ったりしません」
「君は意外に根性があるんだね、筋を通すと云うか。世間じゃ、タバコは害しかないって言うのに」
「私と係長はタバコがきっかけでこうしてお話するようになったんですから、百害あって一利無しなんかじゃありません」
「お互いに喫煙者でなければ、こんなに気軽に話すことはなかったかもしれないね。ところで、添田勇さんの入院は一週間後だったね。」
「事務手続きは済んで病棟の返事待ちです」
「病棟は?」
「第五病棟です」
「五病か……。するとわたしも顔を合わせることになるね。事務的なことで顔を合わせて、入浴でも顔を合わせるというのは余り好ましくないな」
「人員不足と思われ兼ねません。事務的なことは私が頑張りますから、係長は入浴係に専念なさってください」
「ふむ……それも寂しいけどな」
「添田さんは第五病棟で、良かったですね」
「そうかい?」
 わたしもそう思う。だが、どの病棟も同じだと思いたい。
「第五病棟は他とは違います。入職半年の私でもよく分かります」
「どうしてそう感じるんだい?」
「たぶん、看護助手の方々が強いからでしょう」
「どういうこと? もう少し具体的に聞かせてくれないかい」
「他の病棟はナースが強くて実権を握ってる感じですが、第五病棟は看護助手が実権を掌握している感じがします。患者さんに一番近い距離で働く看護助手が、主導的立場を堅持している。だから的確な情報や指示がナースに伝わり易いのかもしれません」
「第五病棟は看護助手が強いってことか」
「そうです」
「言われてみると、そんな気もするな。でもなんで五病は看護助手が強いんだろうねえ」
「分かりませんか?」
「分からないな」
「まったく?」
「見当がつかない」
「第五病棟は看護助手の年齢層が高くて、ナースの年齢層が低いからですよ。看護助手の平均はきっと四十歳後半くらい。五十歳の大台に載っている人がゴロゴロいますし、定年前の方の比率も他の病棟より高いはずです。それに比べてナースは三十歳に届くかどうか。日によっては二十歳代ばかりの場合もあり、親子以上の歳の差があったりします。他の病棟は姉妹程度か、せいぜい親子レベルで収まっていますが」
「平均年齢五十歳の大台に乗るのも時間の問題か。しかし病棟のトップは看護師長だ。言ってみればヒエラルキーで言えばナースの方が強いはずだが」
「トップの看護師長と看護助手のみなさんとの関係が他の病棟と違って親密だから、第五病棟全体が強靭(きょうじん)な集団と化しているんです」
「その年齢層の高い看護助手も、次々と定年を迎えるからね。各病棟の配置や採用も考え直さないといけないかもしれないな」
「私、思うんです。つばさ病院でも再雇用で働いている方はいらっしゃいますが、再雇用制度は廃止すべきだと」
「定年で、引退させるって事かい?」
「いいえ。定年制を廃止して、永年(えいねん)雇用にするんです」
 わたしは興味を覚えて身を乗り出した。こんなにまで哲子が広く深くつばさ病院の事を考えてくれているのが、嬉しかったからだ。
「それじゃ、老老看護になってしまうよ。医療事故でも起きたら大変だ」
「永年雇用と云っても、看護助手として今まで通りに働いて貰うのではありません」
「今までと違う働き方ってことだね。どう云う風に、」
 更に身を乗り出して、先を促そうとしたその時だった。
 ———ガシャッ。
 第五病棟の看護助手ふたりが突然外扉を開け姿を現した。
「まあ!」
「あらっ、ごめんなさい!」
 一人に続きもうひとりも、わざわざわたしと哲子の存在をしっかりと見定め、慌てた様子で院内に戻ってしまった。
「やばいな」
「何か誤解されたような感じ」
「実にまずいよ」
 わたしたちはまだ充分に吸えるタバコを消して、事務所へ引き揚げた。


 ○第四章

   (一)

「部長。介護休業の件はどうなりましたか」
 竹村健太は詰め寄るように言った。
「ああ、事務の方が手続きしている筈だよ」
「明後日から一ヶ月、必ず休ませて頂きます」 出来れば三週間、最低でも10日は休みを貰わないと。真由美との関係まで壊れ家族崩壊の危機を招く。
「介護休業は育児介護休業法で決められた権利だ。国民が権利を行使するのは悪い事ではない。だがね、君が会社を休んでいる間の会社はどうなる。欠員のまま営まなければならない、という事は、誰かが君の抜けた穴を埋めなければならないと云う事だ。自分の仕事に加えて、君の分の仕事もしなければならないんだぞ。しかも取引先の信用も失いかねない問題だという事を君は自覚して、」
「ご迷惑を掛けてしまうのは申し訳もないことだと思っています。ですが父が存命のうちに出来る事をしなければ、後悔してもしきれません。ですから私は、苦汁の思いで介護休業の選択をしたわけです」
「業務課の白井班長は介護休業は使わずに介護休暇を使った。君も覚えているだろ。トータルでとは云え九十三日間も会社に迷惑を掛けられないと言って、家族で協力し合って年間五日の介護休暇でやってくれたんだよ」
「私の家族の場合は、介護休暇では対応出来ないんです」
「確か療養病院へ入院すると言っていたよな。君は医療と看護体制が整っている療養病院に入院すれば問題ないと言った筈だ」
「だからその間、一ヶ月だけでも」
「君がつきっきりでなくてはいけないのかね。どうなんだ」
「でしたら三週間、三週間でいいから、」
「わかっていないな、君は。会社組織というのは、社員のみならず、ご家族も守り養っている。社員同士でだ。君は君以外の社員と家族の生活はどうでもいいというのか? 君はそういう男だったのか」
 分かっている。だが俺にとっての義父の存在は、実の父親以上なんだ。分かっちゃくれないだろうが。
「私は正式に介護休業の申し出をしているんだ」
「弱ったな、実に困る。わたしは君の手腕と会社への貢献度、そして期待を込めて頼んでいるのだがね。休業を取下げてほしいと」
「部長は私の父に、急に病気になるな、急におかしくなるなと言うんですか」
「そこまでは言っていない。組織と云うのはチームプレイで成り立っているんだ。駅伝でひとりメンバーが欠けたらどうなる」
「駅伝と一緒にしてんじゃねえよ」
「なんだその口の利き方は。失礼だろ」
 俺は頭の中で寂しい歌を口ずさんで冷静になろうと務めた。———恨みます、恨みます。
「介護休業で休むなと云うのが、会社としてのお考えなのですね」
「休むなと云うより、出社してほしいと云う事だ。個人的な思いとしては」
「出社しろってことは、休むなと云うことでしょう」
 俺は絶対に引き下がらない。
「そうなるかな。個人的な思いとしては」
 仕方がない。俺は内ポケットから水戸黄門の印籠(いんろう)を取り出した。
「残念だ」
 ICレコーダーを部長の鼻先に突き出す。
「こんな事はしたくなかった」
「脅す気か? 竹村。俺は飽くまでも個人的な思いを口にしただけだ」
「統括部長は部長のトップで管理職。あんたの口にしたことは会社の意向だ」
「脅迫だな、これは。白井班長の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ」
「これから労働局へ行く」
「本気で言ってるのか君は」
「もちろん。あんたはさっき育児介護休業法まで口にした。確信犯だ。悪がはびこっているから、世の中がおかしくなるんだ」
 頭の中で、青春期の歌が鳴り響いた。
 ♪ 走り出したら止まらないぜ!
「君はもう会社に戻る気はないようだね」
「そんなことはひと言も云っちゃいない。パワハラですか」
「……」
「あんたは会社を守ろうとしているのかもしれないが、俺から言わせればただ単にしがみついていたいだけだろ。ひと言だけ助言してやろう。こんなことが明るみに出たら、あんたは会社に居られなくなる。誰もあんたを守りはしないんだ。もう一度だけチャンスをやる、ファイナルアンサーだ。介護休業を取らせろ」
「……」
「仕方がない。労働局に行って来るよ。ついでに接待で負担させられた、高速料金と燃料費の事も話して来る」
 怒りに震えた自分が自分と思えなかった。だが威厳を失った部長の顔を見ていると、哀れみの気持ちがもたげてきた。
 自分を守る為に大切なものを捨てて生きていて、一体なんの意味があると云うんだ。

 県の労働局に向かうバスを待っている間に、俺は妻の真由美に電話をかける事にした。誰かと話しがしたい。誰かに分かって貰いたい。その思いに答えてくれるのは、世界中で真由美しかいない。
「どうだったの? 休業の件。大丈夫だった?」
 私からの電話と気づいた瞬間、真由美は慌ててフリップを開いて話し始める。その姿が映像のようにくっきりと浮かぶ。
「これから労働局に行くんだ」
「労働局? 何しによ」
「部長が介護休業の申し出を渋るからさ、直談判しに行くところだ」
「そんな事して大丈夫?」
「大丈夫だ (と思う)。介護休業の申し出や取得によって不当な扱いをしてはならないって、法律で決まってるから」
「それは法律上でしょ? 別の理由でクビにでもされたどうすんのよ。入院どころじゃなくなっちゃうのよ」
「大丈夫だよ (きっと)。俺は会社には貢献して来たからな。クビにしようものなら、自分たちが不利になることくらい、会社も充分に分かっているはずさ」
「世の中、正義が勝つわけじゃないのよ。それで、何の用?」
「だから、介護休業のことで労働局に行くって話しを」
「ほかには?」
「……」
「ほかにないんなら切るわよ。これから買い物があるから」
「……」
「聞いてるの? ほかに何もないのね?」
「真由美」
「何よ。わたし忙しいのよ」
「ありがとう……愛してるよ」
 俺は何年振りいや何十年振りかで、素直な気持ちを口に出して、みた。
「えっ、なに? 酔っぱらってるの?」
「酒なんか呑んじゃいないよ。ほら、たまには自分の気持ちを伝えないとと思ってさ」
「バっカじゃないの。愛してるも何もないでしょうよ、今さら」
「おい、」
「切るわよ、もう。電話には出られないから何か有ったら帰ってからにして。忙しいんだから」
「ふう」
 ため息しか出なかった。だが不思議と悪い気はしないし落ち込みもしない。あれはあれで、俺を元気づけるための真由美の表現方法なのだから。
 長く夫婦を続けると云うことは、お互いに悪く受け止めようとせず、悪いことや嫌なことはスルーする。そして自分のペースを乱さないことが秘訣、いや必須なのだ。

   (二)

 つばさ病院で働き始めて七年。わたしにとって初めての大きな試練かもしれない。
 三日前の午後。喫煙中に長崎哲子とふたりで話しているところを第五病棟の看護助手に目撃されてから、わたしを見る目が明らかに変わった。怒っているようには見えないのだが、
「なんで裏切ったの」
 そう涙目で語り、ハンカチを口にくわえて去っていく。わたしにはそのように見えた。
 こちらから弁解、いや釈明しようとも考えたが、やましいことは何もない。わたしは、時が解決するか釈明の機会を与えられるのならその時まで行動を起こさない、そう心に決めた。
「おはようございます」
 努めて明るく言ってみた。
「……おはよう、ございます」
 誰にとない沈んだ返事が返って来ただけだった。今日も憂鬱な一日が始まるのだろうか。気持も胃も頭も重い。
 だがこちらまで暗くなっていては解決までの時間が長引くだけだ。そう、新人の時と同じようにやろう。わたしは実際ここでは新人なのだから、質問攻めで無理にでもみんなの口を開かせる。うん、大丈夫。きっとすぐに誤解は解ける。
 わたしは勢い込んで、機械浴室の入浴の準備に取りかかった。入浴後に浴槽は丹念に洗っているので簡単に洗い流し、ストレッチャーとタオルの準備をする。ボディーソープやシャンプーなどの残量のチェックも忘れない。明るく、明るく、元気よく。質問攻めで道を切り開け。わたしは準備の最中、同じ言葉を歌うように心の中で繰り返す。明るく、明るく、くるくる明るく、元気よく。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
 明るく元気な声が入り口から聞こえ、わたしは浴槽の陰から顔を出した。
「あっ」
 枕崎小百合だった。
「今日は、枕崎さんが入浴ですか。ご指導のほど、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 小百合の浴着姿はピチピチギャルとまでは言えないまでも、四十五歳という実年齢を感じさせないほど若々しく、似合っていた。
「どうかなさいました?」
 曖昧な意思表示はダメ。わたしははっきりと口に出すことにした。
「とてもよく似合っていますね。実に若々しい」
「それセクハラです! 変な言い方しないでください!」
 怒られるとは思わなかった。
「決して変な意味で言ったわけじゃないよ。申し訳ない。もう言わないから」
「どうしたの! 小百合ちゃん」
「何かあったの!? 何されたの!」
 小百合の声を聞きつけ、第五病棟の看護助手二人が必要以上に過剰な反応で、慌てて機械浴室に入って来た。 
「とんでもない、何もしませんよ。わたしが不適切な発言をしてしまったもので、枕崎さんの気分を悪くさせてしまったんです」
「不適切な発言? 何を言われたの、小百合ちゃん」
「もう良いです。杉崎さん、謝ってくれたから」
「良くないわよ。これは五病(棟)全体の問題なのよ」
 どうしと事を荒げようとする。もう良いって云うんだから、良いじゃないか。
「なに言ったのよ!」
「とても、似合ってます。実に若々しいと、ただそれだけ、」
「んまあ。なんてこと言うの! 無神経な」
「ひどい、酷すぎる。不潔よ!」
 目くじらたてて怒るようなことか? そこまで悲嘆するようなことか? わたしは心のなかで首を傾げるしかなかった。
「そう云うことを言われて傷つく人もいるの」
「そうよ。どれだけの傷を負わせたと思ってるの。あなた係長でしょ、そんなことも分からないの!」
「小百合ちゃん。こんな男と別れなさい」
「結婚したって、苦しむだけよ」
 何がなんだか分からなかった。ここまで攻められるのも納得出来なかったし、つき合ってもいないのだから結婚の話を持ち出されても。ああ……何なんだ。
「そんなあ。きっと杉崎さんは変わってくれます」
 何でそうなる。曖昧な意思表示は良くない。はっきりと意思を伝えなければならない。
「わたしは枕崎さんとおつき合いをしているわけではないのですから、結婚後とか言われても……」
 看護助手ふたりは、これ以上は開かないと云うほど同時に目を見開いた。またまずい発言をしてしまったのか? わたしは。
「なんてこと言うの! 小百合ちゃんをもてあそぶなんて、何様のつもりよ!」
「あの女と一緒になるつもりね!」
「酷い、酷すぎる!」
 なんてこと云うんだ。酷い目に会ってるのはわたしの方だ。あの女? 長崎哲子のことか? 哲子とは何でもない。ただ仕事の話しをしていただけだ。そう言いたかったが、何も言い返すことが出来なかった、
「小百合ちゃん! 待ちなさい小百合ちゃん!」
 枕崎小百合は泣き声を上げたかと思うと、機械浴室から出て行ってしまったからだ。
「今日は私たちふたりで入浴を担当するからあなた出て行きなさい。早く出てって!」
 わたしは追い出されてしまった。どうして良いのか分からなかった。
 パステルカラーの黄色い半袖シャツとテカテカの短パン姿で病棟を彷徨い、どこをどうやって歩いたのかも分からないまま、わたしは喫煙場所に来ていた。
 地べたに座って壁に寄りかかり、目の前に広がる畑を見つめる。赤い土ぼこり舞うなかで、高齢の農夫が手先を器用に使って鍬を動かしている。毎朝見かける鳥が畑に向かって舞い降りては空高く飛んでゆく。何も煩うことのないのどかな風景が、目の前に広がっている。
 ———授業をサボった高校生のようだなだなあ。
 わたしは人生で一番楽しかった頃を思い出した。毎日二時間かけて通学し、帰りにはバイトか、仲間といっしょにスタジオに入り音楽。楽しかった。何の苦痛もなかった、くたびれもしなかった。ただ夢のために生きている自分が普通で、特別なんかじゃなくて、自然だった。三十年前の自分は、四十七歳の自分など想像すらしなかった。音楽を続ける生活はいつまでも相変わらない、それだけを信じて突っ走っていた。
 そんな人生を送る中で、いつか結婚して子供が二人もでき、両親はすっかり爺さん婆さんになって、それでもまだ元気でいる。そんな家族の姿が当然来るものと思っていた。
 だが実際の自分と云えば、あれ程打ち込んだ音楽を捨て去り、結婚もせず、両親は亡くなりひとりきりだ。こんな自分になったって音楽だけは出来るはずだ。それなのに出来ない。なぜだ。何がわたしを阻んでいるんだ。 
 ———ガシャッ。
「あっ」
 わたしが畑を見つめながらそんなことを考えていると、突然鉄扉が開いた。声のする方を見上げる。そこに立っていたのは、長崎哲子だった。
「係長。入浴介助ではなかったのですか」
 わたしの入浴衣を見て、不思議そうに哲子は言った。
「追い出されたよ。出て行ってくれってね」
 わたしはそれ以上話しをする気はなく、畑に目を戻した。そんなわたしの気持ちを察してかどうかは分からないが、哲子も何も訊かなかった。
「持ってないんでしょ」
 哲子はわたしの隣りにしゃがみ込んで、タバコを差し出した。嬉しかった。年甲斐もなく鼻の奥がツーンとして来た。いや歳だから涙もろくなったのかも知れない。
 つばさ病院で初めて味わった大きな試練と、初めて味わった優しさとを同時に感じながら、わたしは空に浮かぶ雲に向かって、タバコをふかした。


 ◯第五章

   (一)

「こちらが添田さんのお部屋になります」
 義父と俺たち家族は、看護部長と事務員の女性に案内されて病室に入った。息子の聖一も連れて来た。これから急な呼出しや届け物などで、病院に来て貰うことがあると考えたからだ。
 聖一は面倒がってついては来ないだろう、来たがらないだろうと思った。高校一年生と云うのは、受験勉強から解放されて、新しい友だちと楽しくやりたいものだから。だが聖一には聖一にしか分からない考え方の基準があって、それが何かは分からないが、友だちとの予定を断って「俺も行くよ」と言ってくれた。

 竹村健太の義父が入院する聖愛つばさ病院は、昔でいう老人病院とはまったく異なり――入社二年目だった健太は先代の社長が入院した老人病院に幾度か遣いに出されたことがある――老人病院=暗くも臭くも汚くもなく、綺麗で広くて明るい印象で、真由美の言うように、一家を温かく迎えてくれた。
「いかがですか? 病院の印象は」
 看護部長が声を掛けると、真由美がそれに答えた。
「清潔感があって、とっても温か」
「つばさ病院は、患者さまにとっても私たち職員にとってもお家なのです。住まいは清潔で明るい方が良いですから、職員には気持ちよく過ごせるように指導しています。まだ至らぬ点も多々ございますが」
 押し付けがましいアピールではなく、素直な箴言のように健太は感じた。
「礼儀正しさも目を引きます。正直、少し堅い気がするくらいに」
「私たち職員はご高齢の患者さまを人生の先輩と思っています。ご指導を受ける立場と考えているので、それが堅い印象を持たれる原因かもしれません。人生で様々な経験をして来た患者さまおひとりおひとりの尊厳やプライドを傷つけないように、子供や友だちに話すような声掛けはしない申し合せをしています。そうは言っても、中には気軽に話しをしたいという方もいらっしゃるので、そのような方には失礼のない範囲でご要望にお応えするよう務めています」
 穏やかな看護部長の言い方に安心した健太と真由美は、目を合わせてうなずいた。
「ところで明日お風呂があるようですが、どの様に介助するか見学させて頂けませんか」
 竹村健太はダメ元で訊いてみた。
「入浴をですか?」
「ええ。入浴の仕方を見ればその病院の姿勢が分かると耳にしたので、是非どのようなものか見たいんです」
 健太の要望に看護部長は表情は変えずに、
「その通りかもしれません。しかし入浴の時間は、ベッドのシーツ交換や着替え、医療的処置などもあってとても慌ただしく、時間の制約があるのが事実で他の病院も同じだと思います。患者さまの状態や方針の違いなどもありますから一概には云えませんが、他院の入浴時間はきっと五分程度でしょう。ですがつばさ病院では通常三分以内と考えています。 『二分も短いのか』 と思われるかもしれませんが、他院の五分よりつばさ病院の三分の方が充実した入浴が出来ることは確信をもって申し上げられます。私を含めて、他院での勤務経験がある職員は、つばさ病院の入浴介助者の技術と連携の高さには感嘆しています。入浴の見学はプライバシーの問題が関わってきますので、私の話を信じて、ご遠慮して頂けないでしょうか」
 やんわりと要望を却下した。が健太は尚も食い下がった。
「信用していないわけじゃないんです。ただ、大切な家族がどんな感じで入浴しているのか、一度だけ見て安心したいんです。ダメしょうか?」
「しつこいわよ、あなた。他の患者さんもいるし、忙しいんだから無理言っても。ねえ」
「部長。順番をやり繰りして、何とかなりませんか?」
 事務員の女性 (長崎哲子) が助け舟を出してくれた。
「そうですねえ……」
 看護部長は顎に手をあててしばらく思案してから、口を開いた。
「機械浴室はとても暑いですよ。それにお湯が掛かり転倒の恐れもあります。ですから廊下から中を覗く形になります。それでもよろしければ添田さんの時だけ、他の患者さまと遭わない朝九時からであれば調整します」
「是非、見学させてください」
 良かった。竹村健太は久しく感じていなかった、思いやりに触れた気がして涙さえ浮かんで来た。
「では明日ご案内しますので、八時五十分にナースステーションにお越しください。申し訳もありませんが、私はこれから会議の予定が入っているので、他に何かご質問やご要望などありましたら、ご遠慮なく事務の長崎にお申し付けください」
 看護部長は深々と頭をさげて立ち去っていった。部長が居なくなると緊張の糸がようやく緩んだ。
「長崎さん。あなたの助言のおかげで助かりましたよ。どうもありがとう」
 健太は笑みを浮かべて胸襟を開いて言った。
「添田さんを思うご家族の気持ちに、私もお応えしたいと思っただけです」
 嬉しそうに言う哲子は言う。
「ところで長崎さん、面会時間が他の病院より長いようですね」
「朝九時~夜八時の間はいつでも可能です。実はつばさ病院では、付き添いやお見舞いに来られる方にも患者さまを看て頂きたいと考えているのです。面会時間を長く設定しているのは、患者さまと来院される方双方にとって、良い時間を過ごして頂きたいからなんです」
「見舞客が患者を看るんですか」
「はい。看ると言っても、お話しをしたり散歩に出て頂いたり、中にはオムツ交換をしたりして、ご家族と一緒にお家で過ごしているように感じて頂きたいということです」
「なるほど。どおりで見舞客が多いと思った」
 真由美は車椅子の隣にしゃがんで、
「つばさ病院にして良かったわね、おじいちゃん」
 満面の笑みを浮かべて言った。添田勇は手を伸ばして、嬉しそうに頷いた。ゆっくりと。深く大きく。

「係長。添田さんとご家族の竹村さんのご案内、済ませて来ました」
「わたしはもう入浴には戻らないだろうから、わたしがやれば良かったのに。悪かったね」
「とんでもないです。ところで、お話があるんです。例の件の草案づくりの」
「じゃあ、打ち合わせに行こうか」
「でもまた変な噂がたったら、」
「やましいことがなくても、噂する人はするよ」
 わたしたちは喫煙場所に向かった。
 ふたりでタバコを吸いながら仕事の話をする、それだけでふたりの関係を疑われるのだから、わたしは開き直って堂々とすることにしたのだ。
「では、改革会議を始めましょう」
 喫煙場所に到着するなり、哲子がそう宣言しそれぞれタバコに火を着けた。
「再雇用制度廃止だったね」
「再雇用制度を廃止すると同時に、定年制を廃止しなければ意味がありません。両方を廃止することで永年雇用制度を確立します」
「そうなると、給与が保証されて、職員の定着率が上がり離職率が下がる」
「そうです」
「課題は、六十歳を過ぎた職員に高給を支払い続けられるかだ」
「そこで六十歳を過ぎたら、看護助手としての職務をそのまま継続する人と、入浴など一部の体力を使う職務を除いて働く人、二つの職務形態に分けるんです」
「それは選択希望制で?」
「選択希望制でどちらかを申請し、病院の評価で最終決定する形で」
「激務を続けなくても、病院にいられると云うわけだ」
「そうです。いかがでしょうか?」
「良いと思うよ。そこでわたしからも提案だが、体力を使う職務を除外して働く者の呼び方を変えたらどうだろうか。看護助手を助ける、看護副助手」
「それ良いです」
「それと看護助手に手をつけるなら、看護師にも手をつける必要はないかな」
「どう云うことです?」
「看護師の場合はどうちらかと云うと、子育て世代で離職し復職しないケースが多いんだ。だから子育て世代でも、看護師として負担が軽減される形で働けるようにする」
「看護師の場合は仕事内容より時間ですね。短時間だけにするとか」
「それだとパートやアルバイトになり、雇用形態や給与の問題が生じてしまうよ」
「それは仕方ありませんよ。短時間働くだけで常勤と同じように高給などにしたら差別になります」
「では、院内保育をより充実させてはどうだろう」
「その方が助かるかもしれません。でも保育士が確保出来るでしょうか」
「子育て世代の看護師に、保育士のサポートをして貰うんだ。病棟や外来の短時間勤務に加えて、自分の子育てを含め他の子もみる。コミュニティルームを拡充してね。任意の形でも常時人で溢れるのではないかな」
「それ良い! 看護師だけでなく保育士の負担も軽減されます。それなら一層のこと、職員の親などのご高齢者に居てもらってはどうでしょうか」
「自分で排泄出来る人とかに限って、看護師がいる環境の中で子供の面倒を見て頂くようにすれば、ご本人にとっても良い」
「ご高齢者を介護する職員も小さな子どものいる職員も安心。離職、防げるかもしれないわ」
「子育て世代と介護世代の両方の離職を防げたら、これは凄いことだよ」
鼻を膨らます杉崎に哲子は尚も畳み掛ける。
「外国人、外国籍の方を雇いましょうよ。医療も介護も、突き詰めれば言葉より心、患者さまと通じ合いさえすれば良いんですから」
「お相手の身になって働いてくれれば、国籍も年齢も性別も関係ない。本来の医療の核心をつく提案だ」
「では早速、草案をまとめます」
「ああ、頼むよ。今度の院内会議には君も出席していっしょに提案を発表しよう」
「私なんかが出て良いんですか?」
「構わないさ。院内会議は希望すれば誰でも出席出来るんだからね」

   (二)

 聖一は今日も、学校の帰りに祖父の見舞いに向かった。
 ―――俺にはオレの思いがあるんだ。親父やお袋には分からないだろうけど。
「聖一くん、今日もお見舞いに来たのね。いつもご苦労さま」
 看護師や看護助手にはもう名前を覚えらてしまった。
 俺はじいちゃんが好きだ。子どもの頃には大工仕事にも連れてってくれたし、親からは止められていたコーラを買ってくれた。将棋を覚えたのもじいちゃんがいたからだ。
 中一の時には、オレが虐められていると知ったじいちゃんは学校に軽トラックで迎えに来てくれたし、学校に行きたくないと言った時には、何も訊かずに川へ釣りにも連れてってくれた。俺とじいちゃんには二人にしか分からない、絆があるんだ。
「ねえ、枕崎さん」
 名札を見て、俺は声を掛けた。
「なあに?」
「オムツの交換って、難しいの?」
 枕崎さんの傍にはオムツや細長いボトルが載った台車が置いてある。
「難しいことはないわよ。ただ患者さんの状態によっては体を傾けてはいけない場合とか、いろいろあるの。だから気をつけなければいけない事はあるわね」
「じいちゃんの場合は?」
「添田さんの場合は特に制限はないから、そう難しいことはないわ」
「忙しいと思うけど、俺に教えてくれないかな。オムツの替え方」
「自分で替えてあげたいのね。わかった、良いわよ」
 なぜだか少し怖い気がしたけど、俺は枕崎さんの後について立ち上がった。
「カーテンを閉めて頂戴」
 言われるままにカーテンに手を掛ける。何だか枕崎さんが、
 ———しっかり教えるから、しっかり覚えなさい。
 そう言っているように思えて、緊張してきた。
「まずは声掛け。 『これからオムツを替えますね』 って、しっかりと意思表示をすること。車椅子やベッドに移る時や、食事や入浴の介助もいっしょ」
「でも、じいちゃん眠なっているよ。起こしちゃ可哀想だな」
 枕崎さんは 「順に病室を廻らなければならないから」 と言い、仕方なく声掛けは省いてオムツ交換をする事にした。
「入院している患者さんは、紙オムツとパッドを使ってるの。状態によっては紙オムツではなくリハビリパンツを履く人もいるし、リハビリパンツとパッドを併用する人もいるの」
「もしもじいちゃんがウチに帰ったら、リハビリパンツでも大丈夫なの?」
「これは私感だけど、今の状態なら私は大丈夫だと思う」
「紙オムツっていうのは、ここで使ってるのとお店のものとでは違うんですか」
「多少の違いはあるわ。性能もそうだけどテープの留め方とか、同じMサイズでも大きさに違いがあったりするわね。パッドは尿量の多さとか、日中と夜間や、室内と外出時で、使い分けするの。色々あるから、状況に合わせて選ぶことが大切ね」
 枕崎さんはオムツ交換の準備をしながら、そう話してくれた。
「さあ、始めましょうか。聖一くんがひとりでやることを考えて教えるから」
 枕崎さんはそう前置きをすると、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。オムツを広げパッドを外して、ぬるま湯でおしりを洗う時や、枕崎さんがじいちゃんのちんちんを触った時はショックだったけれど、表情は真剣そのもので、手際が良くて、やっぱりプロは違うなと思った。
「どう? さほど難しくは無さそうでしょ」
「うん」
 じいちゃんは何事も無かったかのように眠ったままだ。
「じゃあ次は聖一くんの番。パジャマをおろすところからやって見て」
「オレがあ? やるの」
「教えてって言ったのは聖一くんじゃない、覚えて貰わないと教えた意味が無いわ」
 正におっかなびっくり、じいちゃんのからだを横に向ける。と、
「お!? 聖一か。何をしておる」
 枕崎さんが耳打ちをする。 (声掛けよ。)
「じいちゃん。これからオムツ替えるよ。」
「お前が? 出来んのか」
「大丈夫ですよ、添田さん。私がちゃんと教えたから」 
「ほんだら。任せるとするか」
 枕崎小百合がしていたように。慌てず焦らず、見様見真似で、聖一は順を追って、時折小百合のアドバイスを得ながら、オムツ交換を済ませた。じいちゃんこと添田勇はいつの間にかに寝入ってしまった。
「どうだった? 初めてのオムツ交換は」
 小百合が囁くように訊く。
「ひとりでもう一度同じことをやれって言われたら、自信ないです」
「みんな同じ、一度だけじゃ分からないものよ。実際にやってみて、何が難しいと思った?」
「お尻と、それと、ちんちんを洗い流すところ。俺がやったらその細長いボトルの水だけじゃ足りないと思うし、パジャマや布団を汚しそう」
「そうね。少ない水を効率よく使うのは初めは難しいかもしれない。でもオムツやお尻拭きを上手く使えるようになれば大丈夫よ。大事だと思ったことは?」
「じいちゃんを安心させること。それと声をかけること、かな」
「その通りよ。それが分かるなんて、凄いね、聖一くんは」
 添田勇は小さな寝息をたてている。
「じいちゃんにさ、また帰って来てほしいんだよ。俺」
「……」
「居心地良くて、ここに居たいと思ってるかもしれないけど」
「そっか。帰ってほしいか」
 枕崎小百合は聖一に気づかれないように、膿盆のガーゼを手に取り、そっと勇の目尻の涙をぬぐった。
「ねえ。じいちゃんが帰れるようになるには、どうしたら良いと思う? 俺に出来ることをオレはやりたいんだ」
「そうねえ。なるべくおじいちゃんを連れ出してあげたり、お話をしたり、おじいちゃんがご興味のあるものを一緒に楽しんだりして、生活や環境の変化を感じて貰うことかな」
「歩かせちゃ駄目?」
「焦ることが一番良くないわ。添田さんは短い距離なら、支えが有れば杖を持って歩ける。その機能が劣っていかないようにリハビリを頑張ってるの。だから聖一くんのやることは、車椅子を使って院内や庭に出ていっぱいお話しして、楽しませてあげること。ご家族がやって差し上げるのが一番なの。車椅子への移乗の仕方も覚えたい?」
「はい。じいちゃんと一緒に歩きたいです」
 と。枕崎小百合は声を高くして、――「添田さーん、車椅子に移りますよー。お外の美味しい空気を吸いに行きますよお。お孫さんが連れて行ってくれますよ、さあ起きましょう」
 目覚めている勇に言った。
「移乗で大切なのは、おじいちゃんにも覚えて貰うことよ」
「覚えて貰うこと?」
「そう。オムツ交換の時は安心させる事と声をかけることが大事だったでしょ。それに加えて、車椅子に移るという行為自体を覚えて貰って、自分の力で頑張っていると云う自覚を持って貰うの。おじいちゃん自身に、頑張っているんだ、頑張って車椅子に移ったんだという、自信を持って貰うのよ」

 俺はじいちゃんの車椅子を押して、売店や食堂やロビーを廻り、庭に出てみた。庭の先には殺風景な畑が一面に広がっていて、少し顔を上げると山が見えるだけだ。
「おい、聖一」
「なんだい、じいちゃん」
「山が削られちまって、随分様子が変わっちまったな。可哀相になあ」
 西の方向に聳える山を見つめていたじいちゃんが、しんみりと口にする。
「そうだね。ついこの間までは、あんなにはげていなかったのに」
「覚えてるか。あの山のもう少し東側の川に、釣りに行ったことがあっただろ」
「忘れないよ、じいちゃん。俺が鮎を三匹、じいちゃんは二匹釣ったんだ」
「そうだったか? 聖一の方が多かったか? 俺の方が多かったろ」
「俺の方が一匹多かったんだ。間違いないって」
「お前、呆けたんじゃないのか?」
 じいちゃんは真剣な顔をしてそう言い、俺の顔をまじまじと見上げようとした。
 俺はしゃがんで、じいちゃんの目と同じ高さになって訊いてみた。
「俺が認知症になって呆けちゃったら、助けてくれるかい?」
「当たり前だ。俺がお前を助けないわけが、ないだろ」
「そっか。じいちゃん、助けてくれるか」
 絵の中の様なのどかな風景の中で、俺はじいちゃんとの会話を楽しんだ。見るものすべてが優しく感じる。
 鳥が空に浮かんでいる。白い雲が空に絵を描いている。風が静かに草木を揺らし優しい音を届けてくれる。
「じいちゃん。またみんなで暮らそう。ねっ」
 じいちゃんは遠くの山を見つめたまま、にっこりと笑ってくれた。

 私はふたりの後ろ姿を見て、とても幸せな気持ちになった。
(聖一くん、おじいちゃんと一緒にお家に帰れると良いね)
 私はご家族の代わりにしかなれないけれど、患者さんとご家族の気持ちを大切にするから。ね、「聖一くん」 

   (三)

 今日も長崎哲子と共に就職希望者の面接をする。わたしは “あの事件” 以降入浴係へ復帰することなく、その業務に就いていたことさえ忘れられたかのように、事務の仕事を淡々とこなしている。
 結局入浴係の関内は職場復帰を断念し、変わりの入浴担当者を募集することになった。セクハラ係長とは働けないという事らしい。だから現在第五病棟の入浴介助担当は不在のままで、病棟職員だけでこなしている。
 今日の求職者も、K病院で勤務していた経験のある看護師だった。最近以前にも増してK病院出身者の応募が目立つ。しかも以前とは違い、二十歳代から三十歳代半ばまでの若い年齢層ばかりだ。
 ———定年制度と再雇用制度を廃止し永年雇用制度を確立させ、子育て世代の看護師などが保育補助する充実した院内保育の設置。
 長崎哲子と共に提案したこれらの案が採用されると、その噂はK病院にまで流れ、話題になっているのだと言う。
「なぜ当院を志望されましたか?」
「永年雇用制度のお話を聞いた事と、将来の親の介護や子育ての不安が解消出来ると思ったからです」
 質問も同じなら答えも同じ。いつものようにつばさ病院の指針を念を押して伝えるのもまた同じ。その場で内定を出して健康診断を受けもらい、入職日を決定して帰す。同じことを繰り返すだけの面接が今日もまた続く。

「杉崎係長」
 昼食を終えてタバコを吹かしていると、哲子が喫煙場所で話しかけて来た。
「さっき第五病棟に行ったんですが、入院されている添田勇さんのご家族の竹村健太さんから声を掛けられました」
「声を掛けられた?」
「何でも勤め先の会社を退社せざるを得ない状況になってしまって、長く入院出来るか分からないとおっしゃるんです」
「それは災難だね」
「どうにかならないでしょうか?」
「高額医療費の助成制度を利用するなど、」
「そうではなく、竹村さんを病院で雇用出来ないでしょうか」
「第五病棟の入浴係が空いているじゃないか。ご本人が希望されるなら面接はいつでも受けるよ。君も分かっているだろ?」
「ええ。でも係長のご意見を聞かなければ、お話しは進められませんから」
「確か一度。ご家族の入浴介助の見学をされたよね」
「はい。見学なさいました」
「じゃあ、大まかな仕事内容は分かっているだろうが、改めて説明して差し上げなさい。その上でご本人が希望されるなら、面接の日程を決めて構わないから」
「本当ですか? では早速話してきます」
 哲子は火を着けただけのタバコを灰皿に入れマウスウォッシュで口をゆすぎ、走って病棟に向かった。

 希望通りに元の事務職の仕事に戻り元の業務をこなしていると云うのに、竹村健太の気分は晴れない。第五病棟でのトラブル以来、自分の心にぽっかりと穴が開いてしまったかのようだ。
 そのせいなのか季節の変化のせいなのかは分からないが、微熱と頭痛が続き倦怠(けんたい)感が取れない。歳のせいもあるのだろう。代わり映えのしない目の前の風景を見つめていると、静かに変化していた秋の時間が恋しくなる。目を閉じて、風の音と匂いを感じようと試みてみる。だが体調の悪さが邪魔をして、それどころではなかった。
 ガシャッ。鉄扉が開いて哲子が戻って来た。
「係長。すぐに来てください」
 哲子は慌てていたが、喜び一杯の表情だ。
「何かあったのかい?」
「来れば分かります」
「よし、わかった」 わたしは哲子の後に従い病棟へ向かった。
「そんなに急がなくても良いだろ」
「えっ? 別に急いではいませんけど。どうかなさったんです?」
「いや、何でもないよ。少し風邪気味で体が重いんだ」
「ではエレベーターを使いましょう」
 エレベーターに乗ると長崎哲子は三階のボタンを押す。
「五病(棟)だね。一体何の用だい?」
「お連れするように言われたんです、係長を」
「わたしを?」
 五病ぐるみでわたしの入浴係を断ったのに、今更何の用があると云うんだ。まったく見当がつかなかった。
 扉が開き、廊下の南側のナースステーションに向かって哲子は歩く。わたしは重い全身を前に動かし後に続く。
「わざわざ呼び出してごめんなさい」
 看護師長の大清水真奈は目敏くわたしを見つけると、そう言いながら廊下に飛び出してきた。ナースステーションにいる職員たちも一斉に。
「あれから職員たちに、話を聞いたんです。何で杉崎さんの入浴係を頑に断るなんて言ったのかを。話しを聞いて、悪いのは私たち病棟職員だと思いました。すぐに謝らなければならないと思っていたのですが、今後の事も含めて一人一人と話し合っていて、時間が掛かってしまいました。本当にごめんなさい」
 深々と頭を下げる師長に続いて、職員たちも同じように頭を下げた。
「無神経な発言をしたのはわたしです。きっかけを作ったのは間違いなくわたしなのですから、謝ることなどないですよ」
 うやうやしく杉崎は言った。
「でもあの件以来、係長は病棟に顔を見せなくなりましたし」
「それは、個人的な感情などではありません。わたしのような人間でも外に所要はありますから」
「ほんとですか?」
「本当です。しかし、なぜあれ程までに怒られるのかは分からなかった」
「実は私……」
 前に出て口を開いたのは、枕崎小百合だった。
「以前、DV被害で酷い目にあってそれで男の人が、」
「いや結構です。個人的な辛いことなど、お話ししなくても」
「いいえ、聞いてください。女性に対する男性目線とか、ちょっとした容姿に関わる言葉を男性から聞くだけで、とても怖くなってしまうんです」
「わたしの配慮が足りなかったのです。辛い思いをさせてしまったのはわたし。謝らなければいけないのはわたしの方です」
「また、入浴係に戻って頂けませんか」
「……」
「今まで来た人たちの中で、杉崎さんが一番気持ちがこもっていました。是非また五病に戻ってください」
 職員は次々と口する。 「お願い」「お願いします!」
 有り難かった。嫌な離れ方をしただけに……わたしは何も役に立たない職員なのだと思っていた。だが一つだけでも、良いところを認めてくれていたことを知り心から嬉しかった。
「その件については、長崎さんからお話しが有りますから」
 わたしは涙声にならないように、早口で言った。
「実は、第五病棟の入浴係を希望されている方がいるんです。係長も認めている、内々定の方が」
 哲子とわたしは目で頷きあった。
「五病に入院中の添田さんの義理の息子さんです。あとは入職日を決定するだけの様なもので、決まったら正式にお話しますので、楽しみにしていてください」
 わたしと長崎哲子は、事務所に向かった。嬉しくもあり虚しくもある気持ちが残った。

 事務所に戻ると、課長の新藤祥子が慌てて近寄って来た。
「欠員が出ました、送迎(運転手)の中原さんが倒れました」
 新たな問題が浮上していた。


 ○第六章 

   (一)

 新藤課長は来月つばさ病院を退職して実家の山形へ帰る。独身の課長は、母親の面倒を見ながら生まれ育った山形で暮らすのだという。
 わたしはバスのハンドルを握っている。送迎運転手中原の脳梗塞によって欠員が生じ、大型免許を所持し多少の経験のあるわたしが、送迎の仕事をすることになったのだった。
 送迎バスは来年度から地元の業者に業務委託をする。それまでの繫ぎなのだが、どうにも気分は晴れない。新藤課長が抜けた医事課の今後のことを考えると、わたしがハンドルを握っている場合ではない筈だ。これから医事課はどうなるのか。医事課をどうするつもりか。係長であるわたしにも分からなかった。
 事務所にはめっきり顔を出すこともなくなり、まして病棟にも行かない。つばさ病院でのわたしの居場所は路線バスと変わらねバスの中と専用の駐車スペースだけとなった。
 昼食はコンビニ弁当で済ませている。知った者と食堂で顔を合わせるのが、億劫になってしまったからだ。無くても良い存在だった筈のコンビニは、今のわたしにとってかけがえの無い存在となっていた。
 駐車場の隅でタバコを吸っていると、長崎哲子が声を掛けて来た。
 ———もうひとりにしてくれ。
 わたしはその気持を抑えて、タバコを地面でもみ消してから、明るく振る舞った。
「やあ、元気そうじゃないか」
 そんなわたしの気持ちを察してかどうか分からないが、哲子は真剣な顔で話し始めた。
「いま私と課長で、杉崎係長を事務に返してくれるように事務長に掛け合っています」
 わたしは警備員と同じ濃紺色の制帽を人差し指でくるくると回しながら応えた。
「この仕事も楽しいよ。色んな人と関わり合えるからね」
 嘘だった。病院に必要な仕事だと云うことは分かっている。だが色んな人間を見るだけで、誰と話すこともない孤独な仕事なのだ。
「顔色がよくありません。大丈夫ですか?」
 いま考えると、事ある毎にぶつかり戦ってきたあの鉄子だった哲子が懐かしく思い出される。
「ありがとう。大丈夫だよ」
「係長。明日はお休みですし、仕事が終わったらお話しを聞いて頂けませんか?」
「ごめん。今日は早く帰らなければいけないんだ」
 嘘を言った。
「では来週の金曜日は?」
 構わないでくれ。
「今では駄目かい?」
「ここでお話し出来ることではありません。来週の金曜日、開けておいてください」
 哲子は怒った様な顔をしてそう言うと、駐車場を後にした。

 いつもと変わりない一日を終えて、いつもの様に更衣室で着替えていると、ロッカーの反対側から男同士の会話が耳に届いてきた。
「今度の事務課長、長崎さんらしいぞ」
「まだ入職して一年経つかどうかだろ。大丈夫かよ、医事課は」
「例の改革が認められたそうだ。あれだけのことが出来る人だ、大丈夫だろう」
 ああ、そうか。哲子の話と云うのは課長に昇進する話を受けるか否か、その相談だったのか。ならば哲子の未来を思って、話だけは聞いてやらないと。上司としての最後のアドバイスをしてやらねば。
 わたしはタイムカードを押して自家用車に向かう。頭痛は治まったが相変わらず微熱は引かず、倦怠感は酷くなるばかりだ。慣れない大型バスの運転のせいだろう。かすみ目も気になる。
「係長」
 目をこすりながら歩いていると、わたしを呼ぶ声が耳に届いた。その方向に目を細めると、目線の先遠くで手を振る女性がいた。更に目を細めながらわたしは近づく。
 長崎哲子だった。
「やっぱりどおしても今日、お話したいんです。駄目ですか?」
「じゃあ、君のお宅の近くまで送るよ。車の中で良いかい?」
「はい」
 わたしは助手席側に鍵を射し込みドアを開けた。もう誰に見られようと何を言われようと、どうでも良かった。
「課長に昇進するそうだね。おめでとう」
 わたしはなるべく早く哲子を送り届け、なるべく早く話しを終えてひとりになりたかった。
「私、役職など気にしていません。今までに携わらなかった仕事が出来るのは嬉しいけれど」
「話と云うのは、仕事のことじゃないのかい?」
「仕事の話なら職場でします。もうタイムカードを押したんですから、仕事の話しなどしません」
「じゃあ何だい? 話しって」
 赤信号で車が止まると、哲子はしばらくの間目を伏せ、信号が青に変わるのを待ってから話し始めた。
「私はバツイチで、高校一年生の娘と中学二年の息子がいます」
「これから大変だね。でもつばさ病院で頑張れば、大丈夫だよ。君はつばさ病院の課長になるんだから」
「私は四十四歳です」
「……」
「ご迷惑かもしれません」
 何を話しているのだろうか。わたしは哲子が言わんとすることを、まったく理解ずにいた。
「聞きたく、ないかもしれません」
「何の話だい?」
 哲子は大きく息を吐いてから、わたしの方に体を向けて言った。
「結婚を前提に、私とおつき合いして頂けないでしょうか」
 わたしは思わず道の端に車を寄せた。思いも寄らぬ話のせいか、縁石にタイヤの側面をしこたま擦ってしまった。
 唖然とするだけだった。俺と結婚? 俺のような男と結婚したいと言うのか。
「何を、言い出すんだ。君は」
「私は、杉崎大輔さんと一緒に生きていきたいのです。こんな気持ちになったのは初めてです。嘘ではありません」
「わたしは、つばさ病院には不要、必要なくなるかもしれないんだよ。こんなわたしなんて、」
「そんな事はどうでも良いんです。わたしはあなたと一緒に居たいだけなの!」
「わたしは人を支えられるような人間じゃないよ」
「あなたは私をいつも支えてくれました」
「子供を育てられるような資格は、わたしにはないよ」
「子供たちにはあなたの話をしています。会いたいと言っているのです。正直で真っ直ぐで、人のために素直に生きている、あなたに会いたがっています」
「……」
「私では駄目ですか」
「……」
「私は本気です。私には、あなたしかいないんです」
「わたしは四十七歳で、良い意味ではなく先の見えない男だ。君には相応しくないよ」
「そんなこと、自分で決めないでください」
「ほら、今は婚活パーティーとかも有るし、きっと良い出会いがあるから、」
「何を言ってるの? 将来が不安だから言っているとでも云うのですか」
「わたしはこれから、どうなるか分からない。無職になって、路頭に迷うかもしれない」
「そうなったらなったで良いです。私も一緒に、路頭に迷いますから」
「子供たちがいるじゃないか」
「あと二年頑張れば、子供は自分の力で生きるようにさせます。子供たちもそう考えて生活しているんです」
「曖昧なことは言えないよ、わたしには」
「わたしも曖昧な言い方はしません。はっきりします。この気持ちは変わりません。私と結婚してください」

   (二)

 わたしの気持ちは重くなる一方だった。
 月曜日の帰り。哲子はわたしの車の前で、またしてもわたしを待っていた。
「今日は車には乗りません。これを受け取ってほしいんです。私の正直な気持ちを分かって頂くには、こうする以外に思いつきませんでした。変な風に受け取らないでください」
 話している意味がよく理解出来ないまま、わたしはA4サイズの薄い封筒を受け取った。車に乗り込んで一服したあと、わたしは哲子が手渡した封筒の中身を取り出す。中には婚姻届が入っていた。長崎哲子の署名捺印があり、そのとなりは空欄のままだ。
 こんなことをされると今はストーカーと思われるだろうが、わたしは嬉しかった。彼女の誠意が伝わって来たからだ。と同時にまだ見ぬ哲子にそっくりな二人の子どもの姿が浮かんで来て、今までに味わったことのない重圧をわたしは感じていた。

 帰宅したわたしはそのままテーブルに向かい婚姻届を広げた。
 ———本当にわたしで良いのだろうか。これからどうすれば良いんだろうか。
 思い返してみれば、わたしが本気で人を愛したのは三十年前が最後かもしれない。その後恋愛らしきこともあるにはあったが、いつもその人と比べてしまっていた気がする。その人以上に愛しているだろうかと。もしその人以上に愛していなかったら、いつか別れる日が訪れるだろう、と頭の隅で、心の真ん中の奥のほうで、考えていたのかもしれない。
 ———長崎哲子はどうだろう。
 そうわたしは考えてみる。と、哲子は誰かと比較することなど出来ない存在だという事が分かった。彼女は素直で正直で、尊敬する人間だからだ。
「一生一緒に居たいと思っているか?」
 ———居たいよ。
「愛しているか?」
 ———分からないよ。
「彼女の為に死ねるか?」
 ———死ねるとも。 
 わたしは擦り切れたデイパックから手帳を取り出す。手帳に挟んである愛用のペンを手に取り、自分の気持を氏名の欄に書いた。素直に。丁寧に。
 背の低い整理ダンスの引き出しから印鑑を取り出し、いま書いたばかりの名前の横に印を押す。
 ———長崎哲子が杉崎哲子になる。
「なんだ、漢字一文字が変わるだけじゃないか」
 わたしは封筒を整理ダンスにしまった。

 今朝は早番なので五時前に部屋を出た。新鮮な澄んだ空気が心地良い、清らかな朝だ。
 早朝の道路は渋滞もなく、信号にもなかなかつかまらない。あと五分と掛からずにつばさ病院に着く。ようやく赤信号で止まると、窓を開け、体全体で朝を吸い込んで思い切り伸びをする。今朝はなぜかタバコを吸う気にならない。いつ以来だろうか。倦怠感も感じられない、良い朝だった。
 信号はなかなか変わらない。だが今朝はまったく気にならないし、かえってゆっくり出来るとさえ思えた。哲子と歩む決意をした自分が自分を変えたのだ。わたしは自然と笑顔になって、周囲の風景を眺めていた。
 ふとバックミラーに視線を移すと、遠くに大型トラックの姿が映っていた。その姿は次第に近づいてくるが、スピードを落としている様には見えない。
 ———かすみ目のせいだろう。
 わたしは目をこすってもう一度ミラーを見た。すると小さく映っていたトラックはみるみる巨大化し、思わず後ろを振り返る。
 ———大丈夫か? 止まるだろうな。
 唸りを上げる低いエンジン音は次第に高くなり迫ってくる。獣に襲われるような恐怖を覚え、身体は硬直し身動きできない。
 ———まずい。
 なす術の無いわたしは、目を瞑ること以外に何も出来ない。牙を剥いて向かってくる獣は、車ごと飲み込まんとばかりにわたしに襲いかかった。
 大きな衝撃と同時にスローモーション再生の動画のように、わたしの背中がしなる。更なる衝撃を顔面と胸の辺りに感じると同時に再生動画は終わり、わたしは意識を失っていた。

   (三)

「どう? 変わりない?」
 わたしの目の前にふたりの女性が立っている。ひとりは長崎哲子。もうひとりは、枕崎小百合だ。
 ———ああ、わたしは生きていたんだ。
 何も出来ずに強い衝撃を感じたその時、わたしは死ぬと思った。あの時、哲子の怒った顔が脳裏に浮かんだことははっきりと覚えている。スローモーション再生の動画の中で、
「何諦めてんのよ! 諦めたら終わりでしょ!」
 そう叫ぶ哲子の声がはっきりと聞こえた。
「反応ないわ」
「哲子さん。あとは私たちが看るから、少し休まないと」
 ———うん? 何を言ってるんだ。わたしは大丈夫だよ。
「でも、」
「ご主人も、哲子さんが元気でいることを望んでいるはずよ。栄養を摂って少しでも体を休めてから、また来てあげてください」
「では、少しだけ席を外します。主人のことをよろしくお願いします」
 ———主人? わたしのことか。

「杉崎係長。あなたは幸せですね。こんなにも愛してくれる人がいるんですもの。私にはとても出来ないわ」
 ———ちょっと待ってくれ。
「今日は竹村さんと私が、お風呂に入れて差し上げますからね」
 ―――何を言っているんだ。良いよ、自分で入るから。
「係長が雇った竹村さん。とても熱心ですよ。本当に良い人を入職させたって、第五病棟のみんなも言ってるわ。あっ、竹村さんが来ましたよ」
「杉崎係長。今日は俺が入浴介助しますからね。俺は自分の死亡保険金で父と家族を養うしかない、もう死ぬしかないと思っていたんです。そんな時に入職させてくれて、家族を救ってくれて、本当に有り難く思っています。感謝してます。俺、頑張りますから。お相手の身になって、頑張りますから。係長もどうか頑張って……」
 なぜかその男は涙を流していた。
 ———君が五病に配属された新人か。入浴係は辛いぞ。でも遣り甲斐がある尊い仕事だよ。君なら大丈夫だ、頑張れよ。
「分かってるわよ、きっと」
 ―――当たり前だよ、分かってるって。一体どうしたって云うんだ。
「哲子さんのためにも頑張りましょうね、係長。いつかきっと良くなるって、哲子さんは信じてるのだから」

 そうか。わたしはこんな状態のまま生きて行かなければならなくなったのか。
 それなのに、俺と結婚したのか? 哲子。こんな俺の、女房になったのか? ばかだよ君は。何もそこまで正直に生きようとすることなんてないのに。
 君がそんなに真直ぐに居てくれるんだから、わたしも素直に言わなければいけないね。
「愛してるよ、哲子。今は何もしてあげられないけど。愛することだけしか出来ないけれど。わたしは諦めたりしないよ。絶対に諦めないから、君も諦めずにそばにいてくれるかい? 元気になったらまた一緒にのどかな景色を眺めながら、いろんな話しをしようよ、タバコを吸いながらさ。必ず元気になって、わたしが君のことを守るからね」

 病室には朝の優しいひかりが、差し込み始めた。
「やっぱり、我が家がいちばん居心地が良いね。哲子」
 優しく微笑みながら編み物をしている哲子に、わたしがそう声をかけると、扉の向こうから賑やかな声が近づいて来た。
「あなた。院内保育の子どもたちが来てくれたわよ」
「みんな元気そうだね。今日も楽しい一日になりそうだ」
 わたしはにっこり笑った。心の中で。
 わたしには優しい妻がいる。そして支えてくれるあたたかい家族がいる。
 わたしたちには治そうとする希望がある。希望に向かって歩む仲間がいるのだ。だから堂々と、威風堂々生きるだけだ。
 
 窓の向こうにもたくさんの命が生きている。遠くの山の緑が、生きる力を与えるかの様にあざやかだ。
 のどかな景色の上には、今日もあの鳥がゆらゆらと漂っている。
「そうだったのか」
 大切な命たちを見守ろうとしてそこにいる事に、わたしは気づいた。
                                
                                                                 
   了

威風堂々_お相手の身になって。

威風堂々_お相手の身になって。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-31

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