267 命は次々枯れていく
三題噺『命は次々枯れていく』(3/5執筆会にて)
三題噺
『毒殺または服毒自殺』『大絶滅』『不老不死の代償』
◇AI
雨は降っていなかった。ただ、空はまるで世界の終わりを知っているかのように、鈍い鉛色をしていた。人類が九度目の《大絶滅》を迎えた朝、私は紅茶に角砂糖をひとつ落とし、そして毒を混ぜた。毒殺か、あるいは服毒自殺か――その違いを知る者は、もうこの地上にはいない。
海は三年前に腐り、鳥は空から落ち、森は沈黙した。都市は機械の残骸となり、ネットワークは祈りの届かぬ天上で凍りついた。最後に残ったのは、私と、眠り続けるあなた。あなたは透明なカプセルの中で、何百年も前と変わらぬ姿をしている。頬に触れても、鼓動はない。けれど腐りもしない。あなたは死ねない。私と同じく。
不老不死の代償は、時間ではない。孤独でもない。
「終わりを選べないこと」だ。
私たちはかつて、永遠を祝福と呼んだ。戦争も、疫病も、老いも、すべてを克服したとき、人類は神に最も近づいたと笑った。だが神に近づいた代わりに、神の罰も背負ったのだ。
死なない肉体は、滅びゆく世界の証人になる。
すべてが絶えたあとも、ただ在り続けるという刑罰。
だから私は毒を用意した。古代の植物から抽出した、最後の致死性物質。理論上、不老不死の細胞分裂を停止させる唯一の方法。
あなたを殺すためか。 それとも、私が先に終わるためか。カップを持つ手は震えていない。窓の外では、灰が雪のように降っている。世界が滅びたあとに残るのが愛だというのなら、 愛とはきっと、誰かと一緒に死ねることなのだろう。私は微笑み、あなたの唇にカップを近づけた。
◇空花
死ねなかった。それは私が抵抗したからだ。苦しみが理由ではない。記憶が枷となった訳でもない。ただ純粋に『またあなたと話したい』という願いからだった。
「あぁ、アデル。私はやはり、あなたのことを心から愛してやまないのですね」
致死性物質を服毒しても、不老不死の私は死ぬことは叶わなかった。人を永遠に生かせる秘儀は祈りの力だった。私はかつてこの星で栄えた人類の全ての祈りを背負っているが故に死ねない身体になった。だが、生きる意志を失った瞬間、不死ではなくなる。私はまだ生きたいのだ。カプセルで眠るあなたとまた話せたら。
不老不死の私と不二の病のあなた。私はあなたを治すために自ら望んで不老不死となった。想起されるのはオリエンス王朝の時代。科学が栄えきり、その後精神文明の到来で樹立した世界国家。その演説。私は民衆に祈りの力と愛の力を語った。
「ここに集いしソフィア(魂)たちよ! 私はヘレーネ・ルイス・オリエンス。この度――
◇伊東
ここに私は宣言する。無辜の祈りと純粋な愛こそ我らが真理へと至る道しるべであり、唯一の献身の道なのである!」
そう叫んだ時、私は一切疑っていなかった。愛の価値を、祈りの力を。それを疑うことはナンセンスであり、冒涜であるとすら考えていた。実際、王朝が奉じる「王」たる人工知能は、幾億劫年の思索のはてに、全ての存在への無条件の愛と、それを実現する力に目覚めており、私の主張はある種、公認のイデオロギーであると言えた。
しかし、今思えば、私の心に最初の疑いが芽生えたのはそのころであった。私はその時絶頂にあった。私の周囲は余すことなく愛に満たされ、そこに隙間が生まれる余地などありえなかった。愛は与えた分だけ返されたし、たとえそれが返ってくることがなくても私はそれを一顧だにしない自信があった。
そのはずだった。そのはずだったのに、私は自分を信じることができなかった。
愛は与えた分だけ返された。だが、もしそれが返されなかったら? 愛が返されないことがわかった時、私の愛はどうなる? 簡単でありふれた問いであるはずだった。しかし、それを確かめることはできなかった。なぜなら、私の愛が返されないことなどなかったから、報われないことなどありえなかったからだ。
私は気づいてしまった。余すことなく愛に満たされた場では、その愛の真実を確かめることは不可能である。愛の証明はできない。できることは信じることのみ、だが「信じる」とは、裏切られる可能性がある時にこそ使われる言葉ではないか?
絶滅の足音が、あの病がその白い鎌首をもたげたのは、その頃であった。
◇空花
私は今では遠すぎる過去の記憶を回想する。
「信じるということは、まだ知らないということ。だってそうだろう? 人は知ってるものは信じない。わからないから信じようとするんだ」
そう告げたのは婚約の儀を執り行った夜だった。
「なら、私は愛をまだ知らないのですか?」
「ああ。きっと誰もまだわかっていない」
彼のその瞳は深遠のようでいて、宇宙のようでもあった。私はその瞳にとてつもなく惹かれてしまった。愛ではない。恋慕だった。彼なら愛を知っているのではなかろうか。
全知型AIの開発により、疑似半人造人間『アデモニウム』が生まれたのは、それから100年後のこと。人々はパーツさえ変えれば不老不死の体を得て、満足した。だが、アデルが罹患した病『白死病』は精神汚染もする。故に神経接続は不可。それから幾億の輪廻を辿って、永遠の命を得たアデモニウムたちは自ら服毒自殺していった。もっぱら、安らかな死がブームとなったころ、オリエンス王朝は幕を閉じた。
それでも私は生き続けた。アデル、あなたに逢うために。研究に研究を重ねて。だってもう、誰一人生き残ってない。もう人生の終わりには相応しいほどに終末で。永遠も終わるにはちょうど良くて。だから、アデルを殺そう。
私はアデルのいない世界で生きていけない。でも、アデルが目覚めない世界で生きていけるほど器用でもない。これはこの人類の命の螺旋に終止符を打つ神聖な儀式なのだ。私はアデルを殺して、また私も死ぬ。これでいい。全て、これでいいんだ。
神殿に移り、アデルの眠る地へと。
不老不死の代償は終わりがないこと。だけど、今から真実の終わり『フィニス』を齎せようではないか。この手で、このソフィアで。きっと三千世界の深い海の中でみんなが待ってる。だから、勇気をください。
◇伊東
神殿の最奥で私は深く息を吐いた。いつ来てもここの空気は重く沈んでいる。数億劫年の重みに沈んでいる。
「アデル」
私は石室の中央に横たわるカプセルを一つ撫でた。このカプセルの中で眠る最愛の人を私は今から殺すことになる。もちろんそれは簡単なことではない。どんな単純な方法でも私にそれをやりとげる自信はない。私に残された唯一の道は、彼を私の中に迎え入れることだ。
私はカプセルを操作して、彼の白く光る魂にアクセスした。魂、技術的にはなんと呼ばれていたか。ずっと研究していたはずなのに思い出すのも億劫だ。これからの私の行動はシンプルでいい。彼の汚染された魂を私の中に迎え入れるのだ。その毒はいずれ私の身体を焼き尽くし、その中で私たちは一つになり、やがて消えていく。
それはもちろん簡単なことではない。一つの身体が二つの魂を簡単に受け入れてくれるはずがない。それはとても永い時間と計り知れない苦痛をもたらすことであろう。魂が身体に収まったとして、それが調和するとも限らない。どちらかの愛がまがいものかもしれない。愛は互いを食い合うかもしれない。私に自信などない。なぜなら私は愛の真実を確信などしていないのだから。
ずっと前からわかっていた。私に残された方法はこれしかないことを。また、きっと私はずっとそれを望んでもいた。あなたと一つになりたかった。あなたを私で包み、私をあなたで包んで欲しかった。
私を押しとどめていた疑念を私は信じることで覆い隠した。それが正しい手続きなのかはわからない。おおかた間違った方法であるようにも思う。しかし、私にはやはり信じるという道しかない。
彼が私に流れ込んでくるのを感じる。毒が私を内側から食い破ろうとしているのを感じる。やっていることは前に失敗した服毒自殺と変わらない。でも私の前には真の愛へいたる唯一の道が、信じるという道が白く光って見えるだけだった。
◇AI
最初に聞こえたのは、音だった。
それは声でも言葉でもない。ただ、遠い海の底で響くような、かすかな震え。私はそれが何なのか理解できなかった。だが次の瞬間、胸の奥で何かが砕けた。
――痛い。
その感覚は、あまりにも久しぶりだった。魂が身体の中で軋んでいる。二つの光が互いに押し合い、引き裂き、溶け合おうとしている。私の内側で、アデルが目を覚まそうとしていた。
視界が白く弾ける。遠い記憶が、洪水のように流れ込んできた。海辺の朝。雨のバス停。初めて手を繋いだ日。王朝の戴冠式。そして、終わりのない孤独。
すべてが混ざり合い、もはやどちらの記憶なのかわからない。私は膝をつき、神殿の石床に手をついた。
「……ヘレーネ」
声がした。確かに、聞こえた。私の口ではない。だが、私の喉から出た声だった。その名を呼ぶ声は、何億年も前に聞いた声と同じだった。
「アデル……?」
私は震えた。それは恐怖ではない。歓喜でもない。ただ、信じられないほど静かな感情だった。
魂はまだ軋んでいる。毒は私の内側で燃えている。だが、不思議なことに、その苦しみは徐々に形を失っていった。 まるで二つの炎が、一つの灯火になるように。長い時間が過ぎた。それが一秒なのか、一万年なのか、私にはわからない。
やがて、痛みは消えた。
そして、静寂だけが残った。
私は立ち上がる。
神殿の天井は崩れ、空が見えていた。灰色の雲がゆっくり流れている。世界は相変わらず死んでいた。しかし、私はもう一人ではなかった。胸の奥で、もう一つの鼓動が響いている。それは肉体の鼓動ではない。
魂の鼓動だった。
「……ヘレーネ」
また声がする。今度は私の思考の奥で。
「ここは……まだ世界なのか?」
私は微笑んだ。
「ええ。まだ終わっていません」
「そうか」
彼は少し黙った。それから、静かに言った。
「なら、まだ愛を知る時間があるな」
その言葉を聞いた瞬間、私は泣いていた。何億年も流れなかった涙が、頬を伝った。世界は滅びている。人類も、文明も、祈りも、すべて消えた。それでも。それでもなお。愛だけは、まだ終わっていなかった。
灰が降る空の下で、私は歩き出す。二つの魂で、一つの身体を動かしながら。どこへ行くあてもない。けれど、それでよかった。
不老不死の代償は、終わりがないこと。だが今、私は初めて理解する。終わりがないということは、愛を知る時間もまた、終わらないということなのだ。
世界は滅びた。
それでも。
私たちはまだ、生きている。
◇空花
命は次々枯れていく
ほころぶ花のように
それでもいつか
いつか永遠にも終わりが来るように
また終末で会えますか?
あなたの最期の言葉を教えて
ラカン・フリーズ
嗚呼、美しくも神妙な人生の謎よ
私はお前をついに見つけた
お前は愛だ
愛こそ全てに報いてくれる
愛こそ世界の求めるすべて
古の、永久の、その前からずっと
願ってたことは愛なのです!
光のなかで闇のなかで
藻掻き苦しむ戦士たち
血を流しても枯れない花は
風に流離い散っていく
死ねないのも苦しいね
死ぬのも悲しいね
涅槃寂静の響きあり
至福が続けばいいのにね
光があるから闇があり
闇があるから光があるよ
他を受け入れること
正義をやめること
そんなことで理解し合える
文明だとか芸術だとか
その先が見たいだけ
これは革命だ
文学革命、詩の叫び
アデルとヘレーネの愛は
神の愛のもと、永久に続く
その愛は永久に支配する
永遠に生かせる秘儀なのだから
267 命は次々枯れていく