265『雨の日の約束』
雨のバス停・録音された声・約束の日
約束の日、約束の時間の天気は雨だった。そして、約束の場所、僕らが初めて出会ったバス停に彼女は来なかった。その日は土砂降りの雨だった。僕は傘もささずに、びしょ濡れで、そのバス停に辿り着くと、ポケットに入れていた音楽プレーヤーとイヤホンを取り出し、ある録音を聞く。3分間の君が残した音声を。
その音声を聞き終えると、僕は祈る。
『留学中の彼女が無事に帰ってきますように』
と。
今、その彼女は半年間もの間イギリスへ留学中。僕は付き合って1年目のこの記念日に、彼女と会えないことがショックで、ブルーになっていたのだ。
電話も難しい。何故なら向こうは時差で夜だから。
「あなた、びしょ濡れじゃない?」
一人で苦悶していると、声がかかった。誰だ? 顔を上げると、そこには黒のスーツ姿の女性が立っていた。
「えっと、はい。びしょ濡れです」
「あ、ごめんね。急に声かけて。ここのバス停使うんだけど、ビショビショの君を見て心配になって。何かあったの?」
その女性はぴっちりメイクをしていて、社会人といった感じであった。彼女は心配そうにその瞳を揺らす。
「いえ、ちょっとショックなことがあって」
「あら、もしかして失恋?」
「みたいな感じです」
「別れたの? 振られたの?」
「いいえ、その……。実は付き合って1年目の彼女が留学中で」
「あら、それは辛いわね」
「はい……」
「でも、私も夫の海外転勤で二年間離れてたことがあったわよ」
「その時はどうしたんですか?」
「そうねぇ。最初は辛かったけど、慣れたわね。彼女さんはどのくらい留学してるの?」
「今日で三カ月です。合計で半年間ですね」
「あらそっか。学生?」
「はい。大学生です」
「若いわねぇ」
「ありがとうございます」
「それで、何で、一人で雨の中バス停にいるのさ」
「そのー。彼女と出会ったのがこのバス停で。その日も雨で」
「そうなのね。私がいたら邪魔かしら」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
「そう? なら、隣、失礼」
そう言ってそのOLは僕の隣に座った。若干距離を開けて。それは僕がずぶ濡れだからだと思いたい。
「電話は無理なの?」
「留学先はイギリスで、今は夜なんですよ」
「そっかー。じゃあ、今ごろはぐっすり眠ってる時間ね」
彼女は小さく笑った。雨音が強くて、言葉が少しだけ滲む。
「でもさ、離れてる時間って、悪いことばかりじゃないのよ」
「……どういうことですか?」
「距離があるとね、相手の大切さが“想像”で育つの。触れられないぶん、思い出を何度もなぞるでしょう? それって、案外、愛を深くするのよ」
僕はさっきまで聞いていた三分間の録音を思い出した。
『いってきます。半年なんて、きっとあっという間だよ。帰ってきたら、またこのバス停で会おうね』
少し照れた声。最後に小さく笑う音。
「……録音、聞いてたんです。彼女の声」
「あら、ロマンチックじゃない」
「でも、それを聞いたら余計に会いたくなって」
「当たり前よ。好きなんでしょう?」
即答だった。
好き。
そうだ、好きなんだ。だからこんな土砂降りの中、傘もささずにここへ来た。「ねえ」と彼女は言う。「その録音、最後になんて言ってたの?」
帰ってきたら、またこのバス停で会おうねって」
「じゃあ今日は、約束の“途中”なのよ。終わりじゃない」
その言葉は、雨粒よりも静かに、でも確かに胸に落ちた。
「約束は、まだ続いてるの。彼女は来なかったんじゃない。まだ来る途中なのよ」
僕は、はっとした。
来なかった。
裏切られた。
そう思っていた。
でも違う。
まだ途中なんだ。
半年という長い道の、ちょうど半分に立っているだけだ。
気づけば、雨脚が少し弱まっていた。
「ほら」と彼女が空を見上げる。「雨、止みそう」
本当だった。さっきまで世界を打ち付けていた雨音が、細くなっていく。
「あなた、ちゃんと笑ったほうがいいわよ。帰ってきた彼女に、そんな顔見せられないでしょ?」
彼女は立ち上がった。
「あ、バス」
いつの間にか、ヘッドライトが近づいている。
「今日はありがとう、見知らぬ彼氏さん」
「いえ……こちらこそ」
彼女は軽く手を振ってバスに乗り込んだ。
ドアが閉まり、バスが走り去る。
僕は一人、バス停に残された。
そして――
雨は止んだ。
雲の隙間から、淡い光が差し込む。
濡れたアスファルトが、きらきらと光っている。
僕はもう一度、イヤホンを耳に入れた。
再生。
『帰ってきたら、またこのバス停で会おうね』
今度は、少しだけ笑って聞けた。
「うん。待ってるよ」
空を見上げる。
雲の向こうには、きっと同じ空が続いている。
イギリスの空と、この街の空は、どこかで繋がっている。
約束は、まだ終わっていない。
これは別れの日じゃない。
再会へ向かう途中の日だ。
僕はポケットにプレーヤーをしまい、ゆっくり歩き出す。濡れた服は冷たいけれど、心は少しだけ温かい。
半年後。
きっと今日のことを、笑って話せる。
そしてその日は、雨ではなく――
晴れている。
265『雨の日の約束』