06 その先の向こうに… ④
14
火曜日、朝。
カコは早目に家を出た。
いつもの時間に起きてカーテンを開けると、空にどんよりとした厚い雲が広がっていたからだ。
今にも降り出しそうな空模様だったが、早く家を出れば学校へ着くまでは大丈夫だよね、とそう思ったのだ。
だが残念なことに、昭和町交差点を渡ってグラウンドの端まで辿り着いたところで、空はとうとう泣き出してしまった。
もうちょっとだったのに…残念、とカコは準備していた傘を開いた。
最初はポツリポツリだった雨は、グラウンドの幅の半分も歩かないうちに密度を増していった。
カコは両手で傘を支え、少しだけ前屈みになって肩をすぼめながら、グラウンド沿いの道を進んだ。
あと少しで、後田川にぶつかる。
川を超えて、直ぐに左に曲がれば学校だ。
その角を曲がりさえすれば、と思うのである。
あの夢以来、雨にはちょっとした苦手意識がカコには生まれていた。
だからこんな雨でも、学校が守ってくれているような気がするのだ。
何故かホッとするのだ。
急げ、学校はすぐそこよ。
走り出しはしないものの、足を運ぶスピードを上げるカコだった。
*
あれ?
前を確認しようと心持ち傘をあげた時、川を超えた先の宮崎中学校前バス停のベンチに、人が座っているのが目に入った。
一瞬、ユウコかと思った。
真夜中に、雨の中でバスを待っているユウコの姿とダブったのだ。
だがそこに居るのは、どうやら男のようだ。
しかもこの雨の中、傘も持たずにベンチに座っている。
座ってないで立ってればいいのにお尻が濡れちゃうよ、と思いながら見るとは無しに見ていると、不意に、妙な感覚が湧き上がっていた。
あのバス停の男の人、どこかで見たような気がするんだけど?と思いながら歩を進めていると……
男が立ち上がっていた。
男は空を見上げると、羽織っていたパーカーのフードを頭から被った。
それから男は、カコの方へ向かって歩き出したのである。
やだ、こっち来ちゃった。どうしよう? バスを待ってたんじゃないの?
男がそのまま歩いて来れば、カコが学校へ曲がるよりも先に、その角を超えてしまう。
つまり男とすれ違うことになるのだ。
その擦れ違うだけの行為に、カコは妙な嫌悪感、言い換えれば抵抗感を感じていた。
カコは、何気ない素振りを見せながら後ろを振り返った。
そんなに早い時間でもないのに、登校してくる生徒の姿は一人もない。
もう、こんな日に限って、なんで誰も来ないの?
そのまま背中を向けて昭和町交差点の方へ引き返そうとも考えた。
だがかえって、それを男が変に思うかも知れない。
刺激してしまうかも知れない、と妙な勘ぐりが、カコの頭の中を駆け巡っていた。
*
男はパーカーのポケットに両手を突っ込んで、俯いたまま近付いてきた。
雨は木綿のパーカーのフードと肩を濡らし、その領域を染みのように広げてゆく。
カコは、男からなるべく距離を取ろうと、道の左側ギリギリまで寄って進んだ。
端に寄ってよ!
カコは男に、心の中で強く念じた。
しかし、その思い虚しく、男は道の真ん中を歩いてやってくる。
そして、カコの横を通り過ぎようとした時、男が頭を上げた。
動きに反応してしまい、カコは男を見てしまった。
無精髭を生やした、蒼白く血色の悪い顔がそこにあった。
まるで病人のようだと思った。
だが、目だけはそこに、まるで別物のように暗く淀んだ光を発している。
二人の視線が交差した。
カコは足がすくみ、歩みが止まりそうになった。
大声が出そうになった。
それほどの嫌悪感だった。
それでも、カコは踏みとどまった。
大丈夫!学校が守ってくれる。
すぐそこを左に曲がりさえすれば……。
そんな強い思いが〝大声〟より勝(まさ)ったのだ。
だから平静を装って、その場に踏みとどまることが出来た。
前へ進むのよ!と自分を鼓舞した。
その時である。
「未来は……」
男が口を開いた。
「お前が観た通りのことが起こる」と言った。
はっきりとそう言った。
男の顔には、薄ら笑いが貼り付いていた。
カコは足を止め、通り過ぎた男を振り返った。
今の言葉の真意を問い正したい衝動に駆られる。
だが、男は遠ざかってゆく。
カコは男に向かって一歩を踏み出そうとした。
しかしその一歩がどうしても出なかった。
足が完全にすくんでしまっていた。
動けないまま、カコは男の後ろ姿を追うしかなかった。
15
カコは教室の自分の席に腰を下ろした。
机の上に置いた鞄の上に両手を乗せて身体を預ける。
とにかく落ち着こうと思った。
ゆっくりと息を吸って、さらにゆっくりと息を吐く。
それを何度も繰り返した。
繰り返しながら、教室を見回す。
もう既に、かなりのクラスメイトが登校していた。
ざわざわと友人同士の話し声や笑いが、教室の中を駆け巡り、それが空気を温めてゆく。
カコはまたひとつ息を吐き、窓の外に目を向けると、雨はいつの間にか土砂降りになっていた。
嫌な雨、と眺めていたら……
カコは椅子から音を立てて立ち上がった。
ジンジは?と教壇の上の時計を見る。
もうとっくに来ていてもおかしくない時間になっている。
席を離れてドアへ向かう。
その途中で、ガラス越しにジンジの姿を見付けた。
ドアを開けて、ジンジが入って来る。
ジンジは、少し先で立ちすくむカコを見付けると、うぃ~す、と言って横を通り過ぎ、窓際の自分の席へ行ってしまった。
踵を返して、カコはジンジの後を追った。
「ちょっと遅かったね」と背中に声を掛けた。
「あ、うん、ちょっとな」
ジンジは鞄の中身を机の上に出し、それを中に移し替えていた。
「家を出る時は降ってなかったんで、大丈夫だと思って傘を持ってこなかったんだ。そしたら途中で急に降り出したもんだから、慌てて取りに帰った。それでギリギリになったんだ」
「そりゃあ、家を出る時は降ってなかったかも知れないけど、こんな空模様なんだから普通は傘を持ってくるんじゃないの?」
ほっとするやら、あきれるやらで、自分は今どんな顔をしているんだろうと思いながら、カコはジンジの背中を見ていた。
詰襟の肩が、雨で濡れているのが目に留まった。
カコはポケットからハンカチを取り出し、肩の滴を叩く要領で拭き取った。
「大丈夫だと思ったんだ。学校へ行けば置き傘もあるし、こんなんで毎回持ってきてたら置き傘ばかりになっちゃうしさ」
「そのたんびに持って帰ればいいじゃない」
「それがヨダキくってさ」
作業を続けながら頭を搔いた。
もちろんキズを避けてである。
「雨の中を走ると、またこの前みたいに滑って転ぶよ」
「気に掛けてくれてるんだ」
背中を向けたまま、ジンジは冗談っぽく肩をすくめた。
「……」
そんなことないよ…とか、何言ってんの…とか、自信過剰じゃないの…とかの返事が返ってくるとばっかり思っていたジンジは、整理の手を止めて振り返った。
困ったような、怒ったような顔がそこにあった。
ジンジは戸惑った。
「あ、うん。今度からそうするよ」
いつもと勝手が違うな~、と思いながら言葉を返すと
「そうしてね」とカコはそれだけ言うと、席へ戻ってしまった。
ジンジはその背中を目で追うだけだった。
梅雨でもないのに何でこんなに雨が降るのかしら?とカコが何気なく窓に目を向けると、雨はすっかり止んでいるではないか……。
何なのよう、もう。
カコは机の中から教科書とノートを取り出した。
16
いつもなら乙音と一緒なのだが、今日の音也は一人で帰宅の途についていた。
カコさん、ナオさん、ユウコさん達と一緒に帰るから……と乙音が言ってきたからだ。
そう言ってきた乙音は、とても嬉しそうだった。
乙音は、三人の部活が終わるのを待って一緒に帰ることになったのだ。
音也も一緒にと誘われたが、おばさんを手伝わなければならない用事があるので、部活が終わるまで待てないと断った。
用事とは、陰陽師がらみの手伝いである。
それで音也は、一人で帰宅しているのだった。
誰も居ない川沿いの一直線の道をブラブラと、周りの景色を眺めながら歩いていた。
もう少し先の角を曲がれば、家までは目と鼻の先の距離である。
その時だった。
音也は首筋に、氷のような息を感じた。
蒸し暑い真夏の夜に一人墓地に佇んでいたら、ふと感じる二の腕と背筋をゾワっとさせるような冷たい風だった。
それを音也は〝息〟として感じたのだ。
足を止めて振り返った。
学校まで続く一本の道に、動くものは何も無かった。
心持ち首を傾げ、気のせい、と思い直し、前を向いた。
するとまた息を感じた。
瞬時に振り返る。
しかし背後に動くものは無い。
急ごう。
そう思って再び前を向くと、ほんの数メートル先に人の姿があった。
少し先まで横から出てくる道などないはずなのに、目の前にはパーカーのフードを被った男が立っていた。
*
男の呼気と同時に空気が動いていた。
「いつの間に?…って思ったろ」
男の身体を包み込む空気。
触れただけでピリっと痺れるような感覚が、音也の肌を刺していた。
未舗装の道がジャリっと鳴った。
肌を刺す空気が、音也を後ずさりさせたのである。
男はフードを取り、顔を上げた。
唇を歪めて笑った。
「久し振りじゃねぇか」
その一言一言が音也を刺す。
音也のうなじの毛が波立った。
そこだけ、音也本来の姿である獣が現れていた。
限りなく黒に近い鼠色の体毛が、ゾワゾワっと風も無いのに揺れた。
「久し振りだって言ってんだぜ――。懐かしいですね、とか言ってくれてもいいんじゃねぇのか?」
男は足を踏み出した。
ゆっくりと近付いてきた。
音也は前屈みになって背を丸め、威嚇するように喉を鳴らした。
「おいおい、そんな顔すんなよ。昔は仲間だったじゃないか」
男は顔の横に両腕を開いて上げて、降参だという格好を見せた。
それでも音也は、警戒を緩めずに男を睨んでいる。
その男の右手の指が、パチンと音を立てた。
音に反応して、音也の目線が指先に引き寄せらる。
瞬時に、音也は動けなくなっていた。
邪気の縄に絡み取られるように、音也の身体は硬直していた。
「まだまだ甘いな。こんな手に引っかかっちまうなんてな」
音也の意識は捕らえられて、男の右手の指から目が離せなくなっていた。
すると、男の掌が前に動いた。
何気ない流れるような動きだったが、そこからは男の思念が、捻れた圧力が流れ出ていた。
……!
歯を食いしばりながら顔を歪め、音也は首を左右に振った。
「もう、オレのことを仲間じゃないって言うのか?」
男は黄色い歯を見せて笑った。
「それなら」
男の手が、そこにある物を手にするように、音也の額を無造作に摑んでいた。
「お前とオレは敵同士ということになるな……」
次の瞬間、音也の身体は本来の猫の姿になっていた。
中身を失った制服が、地面に崩れ落ちた。
ほっほーと男は、少しばかり驚きの声を上げた。
「お前、こんなに小さかったっけ?」
頭を掴まれたユベールは、四肢をだらんと垂らしたまま宙ぶらりんの状態で微動もしなかった。
それでも、指の間から覗く眼だけは威嚇の光を放っている。
しかし男は、それを全く意に介していない。
「こんなに小さくて可愛くても関係ねぇよな。敵は早めに排除するに限るってか……」
言うなり男は、ユベールを上空高く放り投げていた。
ユベールは、二度三度と回転しながら舞い上がった。
猫本来の身体能力ならば、身体を捻って脚から着地するのは造作もないことなのだが、呪縛されたユベールの身体は、為す術無く地面に音を立てて落ちていた。
ぬいぐるみを放り投げて、それがそのまま落ちるようにだ。
男はユベールの所までやって来ると、しゃがみ込んだ。
ユベールは手足を地面に投げ出した格好で動かない。
胸だけが上下に動いている。
それでもユベールの眼には、まだ相手を威嚇する光が残っていた。
「しぶといねぇ」
男はユベールの尻尾を掴んで持ち上げた。
「じゃあ、もう少し高く投げてみるとするかなぁ~」
前後に大きく振り、これならどうだ、と手を離した。
しかし、舞い上がったユベールを見上げるなり、男の唇から舌打ちが漏れていた。
ユベールは高く投げられたぶん遠くへ飛んでしまい、道端に生い茂っている草むらの中に落ちたのである。
男は歩み寄って、足下のユベールを見下ろした。
「三度目の正直ってやつだな……」
男はまた、ユベールの尻尾を掴んで持ち上げた。
ユベールは壊れたバネ仕掛けのおもちゃのように痙攣しながら、赤い涎(よだれ)を地面に滴らせていた。
17
「そろそろ仕上げのダッシュに入るぞ」
プール監視塔の上に設置してある時計を見て、副将のシゲボーが声をあげた。
うィーす!
部員の、最後のひと踏ん張り、の雄叫びがグランドに響く。
その声には、はひ~やっと終わった、の喜びと安堵の気持ちがにじみ出ていた。
「へい、ダッシュ!」
プール横に一直線に並んだ部員が、号令とともに全速力で走り出す。
グラウンドの端まで走りきって一本目が終わると、主将のヤッチンが「宮中~、ファイ」と声を張り上げる。
全員が「オー!」と応じながら脇まで戻る。
「ラスト一本。気合い入れんぞ」
サッカー部の最後は、いつもこのダッシュで終わるのだ。
何本目かの後、シゲボーが横一列に並んでいる部員に声を掛ける。
最後の一本は、いくらへばっていても、皆の気持ちにも張りがでる。
シゲボーの横に並んでいたジンジも、腰を落として合図を待っていた。
その時、ジンジの頭の中に、イメージが飛び込んできた。
「へい、ダッシュ!」
みんなが、一斉に走り出す。
誰もが、オレが一番先にあそこに辿り着いてやるんだと思っているのだが、ヘトヘトで脚が上手く回っていない。
それでも全力で走る。
だが……、ジンジだけは動かなかった。
遠くを眺めながら、その場に呆然と立ち尽くしていた。
首筋と背中が、妙な感覚に包まれていた。
包まれた言うより、感じたのである。
それはやがて、ある予感に変わっていた。
「脚がツったか?」
シゲボーが戻ってきた。
ジンジはまだ、あらぬ方向を見ている。
「家入センパイ!」
大声を出したのは、後輩のセンカンだった。
我に返ったジンジは、心配そうな顔をしている二人に
「大丈夫、何でも無い」と手を振った。
そうは言ったものの、自分の耳にも気持ちの込もっていない上辺だけの声に聞こえていた。
すると突然、またその感覚に似た予感――。
「わりぃ、オレ、先に帰るわ」
理由も言わずに二人に背を向けると、ジンジは部室へと走っていた。
*
放課後の教室で、乙音は家庭科の教科書を開いている。
三人の部活が終わるのを待っているのだ。
「カコさん、あのう、今日、乙音、一緒、帰りたい」
休み時間に突然、乙音がカコにそう切り出していた。
「それは構わないけど、わたし達部活があるよ」とカコが言った。
聞いた乙音が一瞬、考えるような顔になった。
「え? 今、〝たち〟って、言った、ですか?」
「だって四人で帰るんでしょ」
カコは当然でしょ、といった顔をしている。
「そう、四人、一緒、帰る」
乙音が頷く。
「部活終わるまで待ってるの?」
「うん、部活、終わる、待ってる」
乙音は、モジモジしながら小さく足踏みを始めた。
すると、それに気付いてカコが慌てた。
「どうしたの乙音ちゃん、またムーンに?」
乙音は慌てて、首を大きく横に振った。
「ちがう、です」
「じゃあ、何?」
「嬉しい、一緒、帰る、嬉しい」
乙音は足踏みを続けている。
よっぽど嬉しいのだろう。
カコは笑った。
「それなら、これからは毎日一緒に帰ろうよ」
乙音は驚いた。
「え、え?、い、いい、ですか」
「ぜんぜん構わないよ。ナオとユウコにも言っとくね。それとジンジ達(男子)とも一緒だよ」
「嬉しい、これから、みんな、一緒、帰れる、とても、嬉しい」
乙音は床を踏み鳴らした。
今度は音を出してだ。
カコは慌てて、床の踏みならしを止めさせた。
乙音は、ごめんなさい、と謝る。
「じゃあ、決まりね」
それから乙音に身体を寄せ、耳元で囁いた。
「(ムーンに)戻りたくなったら、なるべく早く言うんだよ」
乙音は頷いた。
分かってます、と何度も頷いた。
「それともうひとつ、図書館に行けば、家庭科の教科書以外に料理の本が沢山あるよ」
え?……と乙音の目は丸くなっていた。
「そうなん、ですね、これから、そうする、……、でも、今日は、教室、待ってる」
「教室で待ってるのね。じゃあ、部活が終わったら迎えにゆくよ」
……ということになり、もう10分くらいで、三人はセーラー服に着替えて教室まで戻ってくるはずだ。
「帰りながら、何、話す、みんなの話、分かる? 乙音、頭、悪い」と自分だけしか居ない教室で、教科書に向かって呟いている乙音の顔は、笑みで一杯だった。
みんなと一緒に帰る。
ただそれだけのことが、乙音には嬉しくてしょうがなかった。
お兄ちゃん、一緒、帰る? カコさん、訊いた、でも、お兄ちゃん、今日、用事、明日から一緒、それも、嬉しい。
頭の中でもこんな調子の乙音だった。
と、その時……、ページを捲ろうとする乙音の指が止まった。
教科書に落としていた目を上げて、窓の外に顔を向ける。
椅子を引く大きな音を立てて、おもむろに立ち上がった。
窓に近付き、ジッと外を見る。
乙音が見ているのは、自分の家がある方向だった。
乙音は教室を飛び出していた。
*
急いで着替えを済ませて部室を飛び出したところで、ジンジはグラウンドと校舎を繋ぐ橋を渡ってくる乙音の姿を見付けた。
乙音は両腕を無茶苦茶に振り回しながら、ジンジに駆け寄ってきた。
そして乙音は、ぶつかるようにしてジンジの首に手を回すと、何やら大声でわめき散らしだした。
周りにいた生徒たちが、何事かと二人に注目している。
あっけに取られて、ポカンと口を開けている生徒たち、冷やかしの目を向けている者も居るし、羨ましそうな顔で傍観している者も居た。
「とにかく落ち着けよ」
暴れる乙音をなだめすかして、やっとのことで話を聞き出したジンジは、最後に何かを言うと走り出していた。
いつも使う南側の旭通りとは逆で、体育館を右に見ながら川沿いを通り、学校の正門がある北側の道へ飛び出していた。
そっちは、おばさんの家がある方向だった。
*
ジンジを見送った乙音が、急いで教室へ戻ろうとしたところへ、部活の終わった三人が体育館の脇から現れた。
「乙音ちゃんじゃない。どうしたの? そんなところで……」
ナオが後ろ姿の乙音に声を掛けていた。
はっとして振り返った乙音の顔は、涙と鼻水でクシャクシャになっていた。
驚いた三人が慌てて駆け寄った。
「お兄ちゃん」
乙音は声をあげて泣き出していた。
18
男が三度目の動作に入ろうとした時、学校の方角から走ってくる人影が見に入った。
「おっと、お客さんだ」
走って来る人影は、右手で学校鞄を抱え、左腕には白いスポーツバッグを持っていた。
左肩から斜めに掛けられた学校鞄のベルトが、所在なくブラブラと揺れている。
宮中の生徒らしい。
少年は、両腕に抱えた鞄で器用にバランスを取りながら、こちらに向かって走って来る。
あいつだ――。
人影の正体を理解した男は、唇の端に歪んだ笑みを浮かべていた。
やがて少年は、数メートルの距離を置いて男の前に立ち止まった。
少年は、男の顔と男が手にしている物を交互に見て言った。
「おじさん、何してんの?」
学校からここまでの距離を、多分?全速力で走って来たのにも関わらず、少年はほとんど息を切らしていなかった。
「その手に持ってるのは何?」
少年は左腕に抱えていた白いスポーツバッグを地面に落とし、ユベールを指さした。
男はニヤついた顔をしながらユベールを持ち上げ、少年に突き出した。
「見えるだろ、猫に決まってるじゃないか」
「そ、その猫、知り合いが飼ってるんだ。だ、だから、か、返してくれない……ですか?」
一種異様な雰囲気に気圧されて、少年の声は震えていた。
その怯えを、男は敏感に感じ取っていた。
「お前、家入……だろ?」
ジンジは思わず詰襟の左胸のポケットに手を置いた。
「ど、どうしてボクの名前を知ってるの?」
名札は付けていない。
いつも部活に出る前に外して机の中に入れているからだ。
「ボクは、おじさんの事を知らないけど……」
「知らない? なるほどな。聞いてないんだ」
「聞いてないって誰に……、ですか?」
男は笑った。
「この猫の飼い主に決まってるじゃないか。まぁ、そんなことはどうでもいいんだけどな――」
男はユベールをブラブラさせながら遊んでいる。
ユベールの血の混じった涎が地面に滴った。
「じゃあ、おじさんは、入間おばさんの知り合いなの?」
入間……と聞き、男は唇を引き攣らせた。
「おばさんの知り合いなら、だったらなおのこと返してくれないですか?」
引き攣りが更に広がった。
「駄目だね。返さない」
「どうしてですか?」
「知り合いって言っても、色々な知り合い方があるだろう」
言うなり、男は腕を大きく振るとユベールを放り投げていた。
「何処に落ちても、今度こそ完全にくたばるな」
舞い上がったユベールを見上げながら、男は吐き捨てた。
男の言葉を耳にしながら、ジンジは動いていた。
右手に抱えた学校鞄を捨て、宙を舞うユベールを追った。
そして、落下地点に向かって脚から滑り込んでいた。
相手のボールを奪うスライディングの要領だった。
ジンジは、ユベールを腹の上で受け止めることに成功した。
高く放り投げられた分、間一髪で間に合ったのである。
代わりに、ジンジの喉からは苦痛の息が漏れた。
ユベールになるたけ衝撃を与えないようにするため、腹の力を抜いていたからである。
無防備なボディに、いきなりパンチを喰らったようなものだ。
息が詰まる。
う…はぁっ
ジンジは呻(うめ)きながら、身体を二つに折った。
肺に空気を取り込もうと喘ぎながら、身体を横にしてユベールを抱え直した。
それからジンジは、ようよう立ち上がった。
「おっとぉ? また失敗しちまった。お前がそんなに動けるとは思わなかったぞ」
男がゆっくりと距離を詰めて来た。
「さぁ、猫を返してもらおうか」
男が手を出す。
「い、い、い、嫌です」
気圧されて震えながらも、ジンジはユベールを両手で抱えたまま後ずさった。
「ほら――」
顎を上げ、見下ろすように睨み、右手を突き出して、男はユベールを奪おうとする。
その手を、ジンジは身体を横にしながら受け流していた。
男の手が空を掴む。
「逆らうってことか……」
言い終わらぬうちに、今度は左手を出す。
同じ動きで躱した。
相手がボールを奪おうと迫ってくるのを、ステップを使って躱す動きだった。
男は、ジンジを観察した。
「お前、妙な動きをするな」
言葉と同時に、男は右足でジンジの左足を払っていた。
しかしそれも、ジンジは足を軽く上げるだけでやり過ごした。
これも、相手のタックルを躱す要領だった。
身体が自然に動いていた。
男が歯を剥く。
「この、チビが――」
「ち、ち、中学生ですから」
びびりながらも、負けずに返していた。
次の瞬間、今度はジンジが男に向かって動いた。
一歩足を出せば、相手にぶつかる距離である。
虚を突いた動きのつもりだった。
だが男も瞬時に反応し、動きに合わせて右肘を真横から繰り出していた。
その肘を、ジンジは腰を落として躱した。
ほとんど地面にしゃがみ込むくらいの低さまで腰を落として流していた。
肘は空を切り、男の身体は背中が見えるほどに回っていた。
ジンジは細かくステップを刻んで、男の背の横を擦り抜けようと動いた。
しかし、男の反応も早かった。
男は一回転し、今度は左の肘を打ち下ろしていた。
バックブローの要領で繰り出された肘を、ジンジは顎を引きながら首を緊張させ、額の一番硬い部分で受けた。
生え際の部分から首に衝撃が走った。
それでも前屈みになっていたのが幸いし、肘は滑って後ろへ流れた。
ジンジはそのまま、男の横を走り抜けた。
後ろを振り返らずに足を回す。
男との距離がどんどんと広がってゆく。
「ちッ……」
男は肘を擦りながら、遠ざかってゆく少年の姿を追った。
やがて男は踵を返し、少年に背を向けた。
「ふん、いいさ、どのみち未来は変わらねぇんだ」
そして一度立ち止まった。
男は音也の学生鞄と制服を拾い上げると、川へ放り投げていた。
その近くには、別の学生鞄とアディダスのスポーツバックが落ちていた。
それも拾い上げようとしたが……
「あの婆ぁと知り合いになったのが――」
今度は鞄に右足の踵を思いっきり打ち下ろしていた。
バキン、という大きな嫌な音があたりに響き渡った。
男の口もとに笑みが浮かんでいた。
いかにも面白くなさそうな笑みだったが、それでも笑みは笑みである。
*
「くたばるんじゃ、ないぞ」
ジンジはユベールを胸に抱いて全力で走っている。
ユベールの閉じた瞼の上に、一粒の滴が垂れていた。
男の肘のせいで、ゴールポストにぶつけたキズがまた開いたのだ。
ユベールは腫れ上がった目を開けて、少年の顔を見上げた。
彼の額からは、いくつもの赤い筋が流れ落ちていた。
⑤へ続く……
06 その先の向こうに… ④
次回⑤の掲載は、3月6日(金)を予定してます。
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