リフト

リフト

山に入って雨が雪になった。
降る雪はいつ止むともしれない。一つの諦念のようだ…… 。櫛田良彦は、リフトの窓から遠い山の白い稜線をぼんやり眺めていた。リフトは微かに揺れながら、谷間にかかる急勾配の架線を登っていた。
広い谷が眼下にあった。百メートル下方、白く光るくねくねとした紐のような流れが、黒い木立の中を縫っていた。
昔、あるパーティーが遭難したのもこんな谷ではあるまいか。良彦は不意に、遠い過去の事故を昨日のことのように思い出した。

一行は、雨で水かさの増した沢を横切らねばならなかった。小さな滝の上で、流れに足を取られた一人が淵に落ちた。つづいて流れに飛び込んだ救助者たちも、次々に溺れていった。雪解け水の低温が体の自由を奪ったためであったという。いったい山歩きで、何人の人間 が命を落としたのか――『旧時代』より

当時、登山がブームだったが、その後、突然行われなくなった。登山もまた廃れた風習だった。今では飢謹のさなかに、食糧を探す目的以外に誰が山に分け入るだろうか。
昔は本当に、さまざまな些事に生命を賭けていたものだ。世の中が平和で豊かだった……。
閃光のように、あの時代の感触が良彦のうちに蘇った。たまらなく懐かしい遥かな昔のことのような気がした。わずか三十年前のことなのに。

リフトは谷を渡り、眼前の峰に向かって登っていた。何という名の山なのか良彦は知らない。その山の尾根の鞍部に向かって、リフトが接近しているのだった。
床の中央部分が開いた。折り畳まれていた梯子が展開し、下へ延びた。良彦はリュックサックを片手で抱え、小さな昇降口から、梯子を伝って最下段まで降りた。雪が下半身にまつわりついた。良彦はリュックを背負い直し、梯子につかまったままリフトの上昇を待った。
タ闇が濃くなっていた。外気は身を切るように冷たい。幸いなことにゴンドラが傘となり、良彦は雪をしのいでいた。
 尾根に向かう斜面が、眼下を流れていた。良彦は素早く考えた。岩場を避けなければならぬ。滑りやすく、足を挫くかもしれない。
 リフトが崖をまたいで峰の上に出た。良彦は石ころの少ない場所を選んだ。梯子から飛び降りる。湿っぽく柔らかい地面だった。何日ぶりだったろう、地上に降り立ったのは。良彦が振り仰ぐと、無人になったリフトが再び宙空へ遠ざかっていくところだった。

 たまたま降りた尾根だった。空は暗い雲で閉ざされ、山は冬枯れて荒涼としていた。北風が良彦の全身を包んだ。湿った雪が 頭から首筋へひっきりなしに降りかかる。が、雨具を取り出すまでもない。本線のリフトが一分後にやってくるのだった。
 谷間は山の暗い影の中に沈んでいた。その闇の中で小さな黄色い光が閃いた。良彦を運んだリフトのケーブルと交差するかのように、斜め下から、本線リフトの識別燈が急角度で上がってきた。
 良彦はリュックから取り出した懐中電灯を点灯した。光の穂先が本線のリフトをとらえたゴンドラ下部から、すでに梯子が降りている。見慣れない型式のゴンドラだった。
 良彦は目標と併走した。梯子をつかみながら走り、下端のステップに、よじ登るようにして右足を掛けた。左足が地面を離れる。
 数秒後、良彦は支線と別れ、山稜をも越え、次の谷間に浮かんでいた。夜の闇の中で下が見えないのが幸いだった。さもなければ自分がぶら下がっている高みに、目がくらんだろう。良彦はリュックを、ゴンドラ底面の開口部から放りこんだ。次にゴンドラ内に頭をそろりと入れた。中は真っ暗だった。床に両手を掛けて這い上がると――

 ――すがすがしい青畳の上にいた。
 どうやら縁の下から這い出たところらしかった。とりあえず、そこにあった四角い床板を根太に貼り、同じ形の畳をはめ込んだ。
 湯がたぎる釜の音を松風にたとえたのは誰だっけ? 英理子が茶をたてていた。
「何してらしたの、ダーリン」
 少しとがめる調子があった。
「縁の下を見ていたのさ」
 英理子は小さくためいきをついた。
「変な人。宝物でも見つかったのかしら」
 良彦は暖味に笑いながら言った。
「白蟻を調べていたんだ。あれは家の寿命を左右するっていうからね」
 この家は英理子の母が残したものだ。英理子が手を入れて、茶室をつくった。
「それで?」
「え?」
「だから白蟻はどうなの。いたの?」
「いなかった。大丈夫だよ、この家」
「ぼーっとしてて、何だかおかしいわ」
 英理子が抹茶を泡立てる。
「どうぞ」
 茶碗が前に置かれた。
 良彦は茶を一息に飲み干した。新緑の精気のような流れが喉を通る。
「おいしい」
 英理子が無邪気にほほえんでいた。良彦は茶碗を戻した。
「今度はいつ来てくださるの」
 英理子はさりげなく言った。しかし内心はそうではあるまい。良彦は口ごもらざるを得なった。
「旅に出ようと思うんだ。しばらく」
 気まずい沈黙がつづいた。英理子はぐずぐずと、茶器を片づけるようなしぐさをしていた。 やがて、
「しばらく、か」
 と小さくつぶやくと、いきなり中座した。

 夜半、良彦は便所に立った。
「どこへいくの」
 夜具の中から英理子がかすれた声で呼んだ。
「トイレだよ」
 用を足して便所から出ようとすると停電である。手探りで戸を開けて廊下に出た時、グラリときた。
 ――明かりがともる。
 ゴンドラの中らしい。また揺れた。風のせいか? どうやら、先刻と同じ時点に戻ったようだ。リュックも無事だった。やれやれ。行く時と同様、帰る時も唐突である。十年来、良彦はこんな調子で時空を行き来しているのだった。
 英理子は二十年前に亡くなった。自分が先に死んでも不思議ではなかった。幾つかの偶然が重なって生き延びただけだと、良彦は信じている。実際、生きることが奇跡のような時代だった。
 気象変動が発端だった。最初に飢謹が来た。英理子と別れるために、良彦が旅に出た三年後である。良彦は南の島で自給自足して飢謹を免れた。
 次に震災があった。苦労して良彦が都会に戻った時、すでに英理子の消息は途絶えていた。
 英理子の家があった一角は瓦諜の山だった。良彦は焼けた土の中から数片の人骨を拾った。時代は変転し、さながら中世の頃のように1ダース余りの勢力によって国土が分割されていた。彼等が内包する狂気によって、テロや破壊活動が全土に吹き荒れ、十六世紀以来の内乱状態となっていた。
 殺裁と破壊の歴史に終止符を打ったのは、ウイルス性の伝染病だった。すべてが終わった時、この国の人口は三分のーに減っていた。皮肉なことだが、民族が絶滅に瀕したこの時期、古くて新しい命題――精神と物質の一元化――を実証する現象が、各地でひんぱんに起き出した。超能力や超常現象と呼ばれる現象である。気の早い識者は、文明が一段高いステージに達しつつある、と吹聴した。新しい世界原理の構築作業が始まった。個人のレベルで、意識の深層が宇宙と通じ合っているというのは本当だった…… 。
 良彦は、気まぐれに開かれる過去への扉を通って、英理子を救い出そうと試みてきた。だが「遠い過去」はもちろん、「近い過去」でさえ、伽藍のように揺るぎなかった。時空を往復する十年の間に、良彦は、定められた筋書き以外に振る舞えないことを、思い知らされていた。

 リフトが下降していた。風が止んだのか、揺れが収まった。良彦は携帯食をゴンドラの電源で加熱した。食い物がずいぶんと良くなったものだ。コーヒーの味もまずまず。思わず良彦の痩せた頬がゆるみ、伝染病の後遺症のひきつれが醜く歪んだ。
 良彦はゴンドラの座席を寝台用に組み立てた。即製のベッドの上にシュラフを広げると、その中にもぐり込んだ。自動的にシュラフ内が適温になる。英理子の肌の温もりを思い出した。覚醒タイマーを四十時間後にセットした。明かりが徐々に落ちていった。
 明後日の昼ごろ、リフトは八百キロ離れた北の地に到達するはずだった。春はまだ遠く、山も野も雪に閉ざされているだろう。百年前に宇宙と交流した詩人が眠る土地だった。熱い温泉が湧いていた。どこかの湯治場で老人の暮らしを始めようと良彦は思っている。
 リフトは山の中腹まで降下した。そして昔は自動車のものだった国境の長いトンネルに入った。
 
 小説作品集「女の都」(文芸社刊)より

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  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-02-20

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