05 想い人 ⑦
38章~50章
38
霧深い通学路?を、二人は手を握り合って無言で歩いた。
カコは、消えてしまったみんなのことを考えていた。
きっとみんなは先に帰っちゃったに違いないよ。
そうに決まってる。
タニとポンタにタカコ、乙音ちゃんたち、ナオとイケピン、シジミとアジ、ユウコとシンコ、次々と居なくなってしまったけど、きっと雨や霧の中で離ればなれになってしまったに違いない。
そうだよ……二人での話に夢中になっているうちに、はぐれてしまったに違いない。
はぐれてしまったことに気付いたあっちも、慌ててわたし達を探してくれてたに違いない。
でも結局見付からなかったから「しょうが無い」って先に帰ったんだよきっと……。
みんなもうお家に帰っちゃてるよ。
ユウコとシンコが目の前で消えてしまったのも、あれもみんなが次々に居なくなったもんだから頭が混乱して、狼狽(うろた)えてちゃって、自分で勝手に消えちゃったって思い違いしたに違いないんだ。
霧の中で透明になってゆく二人を……、勝手に勘違いしたに違いないんだ。
きっと遠ざかって行っちゃったんだよ。
人が目の前で消えてしまうなんて、そんなこと絶対にあるはずないもの。
カコはジンジの手の存在だけを感じながら、あれこれと考えを巡らせていた。
すると……「なぁ」とジンジがカコを呼んだ。
「ん? 何?」とカコは問い返した。
「何考えてんの?」とジンジ。
「別に、何も考えてなかったよ」
カコは曖昧に返していた。
「ジンジこそ黙ってたじゃない。そっちこそ何か考え事してたんじゃないの?」
逆に返されされるとは思ってもいなかったジンジは「え、あ、いやオレも何も考えてなかったよ……」とイガグリ頭を手の平でガジガジっとなぞって誤魔化してた。
「嘘ばっかり、ジンジはほんとに嘘が下手だよね」とカコは、握っていた手に力を込めた。
「さっきまで唇からムニュムニュって漏れてたよ。それって何か考えている時の癖だよね。分かってるんだから」
「そんなこと無いさ」
「ほらまたそんなこと無いって言った。それも口癖だよ。そんなこと無いわけ無いよ。きっとみんなのことを考えてたんでしょう?」
握られていたカコの手に、微かな動きが伝わった。
「そうなんだ。みんなが居なくなっちゃたのは何でだろうって考えてたんだ」
その通りでした、よくご存じで……とジンジは降参した。
「それでみんなはもう、とっくに家に帰ってると思うんだけど……」
「わたしも、そう思いたい」
カコはジンジの目を見ているつもりで話している。
「そうに決まってるさ」
返すジンジの言葉には、根拠も何もないのだが、それでも、絶対だよ、とした口調がうかがえた。
「帰ったら直ぐに、ナオやユウコやタカコに電話してみる」
「オレも、イケピンやらシンコやらタニやらポンタやら、片っ端から架けてみるよ」
「きっと電話の先から元気な声が返ってくるよね……」
「そうに決まってるさ」とジンジ。
「うん」
カコは精一杯の笑みをジンジに返していた。
しかしそれも、ジンジにははっきりと見えていなかった。
39
その異変に気付いたのはジンジだった。
「ほらあそこ……」とジンジは、カコを握っている手で前を指した。
「明るくなってる」とカコ。
目を凝らすと、少し先の景色が、ほんの微かだが見えるようになっていた。
はっきりとはしないが、道のようなものが見える。
「霧が晴れてきたのかな?」
行ってみよう、とジンジはカコの手を引っ張って前へ進んだ。
明るくなっている方向に向かって、二人は自然と足早になっていた。
そして突然に……、霧が晴れていた。
雨も降っていない。
「ここは?」と二人は辺りを見回した。
あれ、とカコが指差す先は……。
「乙音ちゃんの家だよ」
二人は、おばさんの家の前の道に出たのである。
「どうして?」とカコは不思議そうに顔を巡らしている。
とカコは背後の霧に振り返る。
霧は迫ってこようとはせず、動かずにたゆとうている。
ジンジも、何故なんだ、と首を傾げていたところに、カコから手を強く握り返されていた。
なに? どうした? ジンジは慌てて身構えた。
「ムーンとユベールだわ」
見ると、おばさんの家の玄関ドアの前で、ムーンとユベールの二匹が仲良くじゃれ合っているではないか。
カコの声に気付いた二匹は、ミャウ!と啼いて我先にと駆け寄って来た。
カコは膝を屈めて、ムーンとユベールを出迎えた。
ジンジは慌ててカコの手を離していた。
二匹はカコを独占しようと、身体をぶつけ合ったり、押し合ったりしながら手の平に顔をこすり付けている。
一瞬だけ、カコはジンジを見上げて笑った。
40
カチャリと音がして、玄関のドア開いた。
二人はムーンとユベールから顔を上げた。
ドアの間から、おばさんが顔を出していた。
「あらあらカコさんとジンジくん。二人とも来てたのね」
おばさんは空を見上げる。
二人も釣られて空を見上げた。
雲の切れ間から陽の光が差し込んでいる。
それが眩しく、二人は目を細めた。
「以外と早かったわね」とおばさん。
早かった……の言葉に疑問を持ちながらも、ジンジは「こんちは」を下げた。
カコは、ムーンとユベールを両手に抱き抱えて立ち上がり
「おじゃましてます」と頭を下げた。
どういたしまして、とおばさん。
そしておばさんは……
「さぁ、上がって頂戴」とドアを大きく開いて、二人を招き入れようとした。
カコが慌てて
「でも、わたし達、すぐに帰らなければならないので……」と言うと
「そおぉ~、ちょっとだけでもいいから上がっていけないの?」
残念そうな表情を見せながらも、おばさんの口元は何故か笑っているようにも見えた。
「急ぎの用があるんです」とジンジが頭を下げる。
それでもおばさんは、意味ありげに二人を見ながら言った。
「急ぎの用って、ナオさんやユウコさん達のことなんじゃないの?」
……?
二人は言葉に詰まり、思わず顔を見合わせていた。
「そのことで話があるのよ。だから上がってちょうだい」
おばさんが手招きすると、ムーンとユベールはカコの腕から飛び降りていた。
二人を見上げ、それから踵を返すと、家の中に一目散に駆け込んでいた。
二匹は、二人を誘っているかようだった。
「ほらほら入って、乙音と音也も待ってるから」
「え? 乙音ちゃんたちは、もう……」
二人は目を丸くした。
「ええ、とっくに」
おばさんは手で口を隠しながらクスクスと笑った。
二人は訳が分からず、立ちすくんでしまった。
「ささ、入って。全部話してあげるから……」
「ぜ、全部?」
二人は首を傾げる。
「そう、全部よ……」
二人は顔を見合わせ、頷き合い、全部という言葉に惹かれて、おばさんの家にお邪魔することに決めた。
「リビングで待ってますからね」
そう言って、おばさんは家の中に消えた。
41
「ささ、座ってちょうだい」
二人がリビングに入ると、おばさんは紅茶を乗せたトレイを持ってテーブルの前に立っていた。
促された二人は、昨日と同じ椅子に腰を下ろした。
テーブルに向かって左がカコで、右がジンジだ。
カコが腰掛けると、直ぐさまムーンが膝の上に飛び乗ってきた。
そして身体の納まりがいい体制を作っていた。
背中を撫でてやると、ムーンは喉をゴロゴロと鳴らしながら一度だけカコを見上げ、それから目を閉じて丸くなった。
「よっぽどカコさんが気に入ったみたいね」
おばさんはティーセットを二人の前に置いた。
昨日と同じ WEDGEWOOD だった。
おばさんは、二人の正面の席に着くと、ユベールを膝の上に抱き上げた。
「さぁ、召しあがれ」
二人は言われるままに口にした。
蜂蜜入りの紅茶が、身体を芯から暖めてくれる。
口の中に広がる茶葉の香りを楽しみながら……カコは思った。
招かれてリビングに上がったときには、もうわたし達の紅茶が出来上がっていたのはどう言うことなの?
わたし達が来るのが分かってたってことだよね……。
それにさっきおばさんは玄関先で〝以外と早かったわね〟と言っていたし……。
それに昨日は、わたしのことを墨木さんと呼んでいたのに、今日はカコさんになってる。
「落ち着いたかしら?」
暫くして、おばさんが口を開いた。
二人は「はい」と返事をした。
口元に笑みも出ていた。
返事を聞いて、おばさんも紅茶を一口飲んだ。
それから切り出していた。
「まずはナオさんとイケピンくん、ユウコさんとシンコくん、シジミさんとアジくん、あと……えっとそうだ、タカコさんとポンタくん、それとタニくんね。みんな全員無事だから、これはおばさんが保証します!」とはっきりと言った。
二人には訳が分からなかった。
「それをこれから説明してあげようと思ってるのよ……。でもその前にカコさん、うちの電話を使ってナオさんやユウコさんに電話をしてみたら? きっともうお家に買えってますよ」
「え、いいんですか?」
「どうぞ、どうぞ、先に確認した方が、おばさんの話を聞きやすいでしょう」
「そうさせて貰えよ。みんなの無事さえ分かれば、オレもその方が安心するしさ……」とジンジ。
そうするね、とカコは膝の上のムーンを、ごめんね、と椅子の上に置いて立ち上がった。
ムーンは不満そうにカコを見上げた。
「電話は玄関の横に置いてあるから……」
「下駄箱の上ですよね」
お借りします、と頭を下げ、とカコは玄関に向かった。
数分後、カコが戻ってきた。
その顔を見たジンジは、おばさんが言っていた通り、みんなはもう家に帰っているんだ、と分かった。
「安心した?」とおばさん。
「ええ、ありがとうございました」
カコの声音からも、ホッとしたことが分かる。
良かったわね、とおばさんは笑いながら
「ささ、座ってちょうだい。話をはじめますよ」とカコを促した。
カコは席に座り、ムーンをまた膝の上に乗せた。
「それじゃあ何から話をしましょうかね……」
おばさんは、膝の上のユベールに問いかけていた。
するとユベールが顔を上げた。
何かを言いたそうな顔をしている。
「じゃあ、まずおばさんの職業から話をするとしようかな――」
ユベールがミャウと鳴いた。
それからで良いよ、と言っているのだろうか?
「おばさんの職業?」
カコは軽く身を乗り出し、ユベールとおばさんを不思議そうな目で見た。
「そう、おばさんのお仕事」
そう言うおばさんの顔は、いたずら好きでお茶目な女の子のようだった。
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「おばさんの職業は、陰陽師」
「陰陽師?」
聞いたことはある言葉だが、そんな職業の人が本当に居るの?……とカコは首を捻った。
「今風に言えば、占い師ってことかな。厳密に言えば全く違うんだけど、そんな感じで考えてもらえば分かり易いかもね」
陰陽師、占い師、カコはそのふたつの言葉を、頭の中で交互に繰り返していた。
「普段は人の未来や恋愛とか、人の将来を占うことをやったり、土地や家の間取りなどの吉凶を診ることもするのよ。でもたまに、特別な依頼も受けることがあるわ」
「特別な依頼……」
「そうなの、悪いモノに取り憑かれたからお払いしてくださいっていう依頼よ」
「取り憑かれる?」
カコは、今まで手にしていたティーカップをトレイに戻した。
「取り憑くって言うのは、簡単に言えば、霊や物の怪などが人に乗り移るってこと」
ジンジもティーカップをトレイに戻した。
「人に取り憑いている霊魂……、つまり悪い〝気〟ってことね。それを人から追い出すのが(おばさんの)本当の仕事なのよ」
逆におばさんはティーカップを手に取って口に運んだ。
「取り憑かれた人って、ほんとに居るんですか?」
カコの質問におばさんは頷いた。
「(取り憑かれたと思っている)そのほとんどの人たちは、いわゆる気持ちの不具合で変な行動を起こしているんだけど――。でもまれに、本当に悪い気に取り憑かれている人がいるのよ」
ジンジは黙ったまま、おばさんの話に聞き入っている。
「そんな人たちを治療できる専門家ってそんなに多くないの。だからこれでも結構忙しいのよ。でもね……」
おばさんは言葉を切った。
「でも……?」
「そんな仕事ばっかりやってると、退屈して飽きてきちゃって……。あら、こんなこと言ったら患者さんに悪いわね。これは内緒ね」
おばさんは人差し指を縦にして唇にあてた。
「でも、この仕事を20年以上やってるんだもの、さすがにねぇ~」
おばさんは肩をすくめ、また紅茶を口にしていた。
「それで何か新しいことを……と思って心機一転、ここに引っ越して来たの。そしたら偶然あなた達に会ったじゃない」
「わたしが、ムーンとユベールに(ジンジの非常食の)魚肉ソーセージをあげた日ですよね」
カコは膝の上のムーンに目を落とした。
ムーンは気持ち良さそうに眠っている。
「あなたち二人が、あまりに仲が良さそうだったから、つい悪戯心が出ちゃってね……。ちょっとからかってみようかなと思っちゃったの」
ごめんなさいね、とおばさんはコロコロと笑った。
「いたずら、……ですか?」
「ええ、悪戯」とおばさんは、はっきりとそう言っていた。
そう言われても、二人には何のことだかさっぱり分からなかった。
「それでも準備に三週間も掛かっちゃたんだけどね」
「悪戯の準備に三週間」
カコはジンジを見て、それからまたおばさんに顔を向けた。
「その準備っていうのは、何をしたんですか?」
今度はジンジが質問していた。
おばさんは少し得意げに
「まずは学校の周りに〝結界〟を張ったのよ」と言った。
「結界?」とカコ。
するとジンジがおばさんの代わりに答えていた。
「ある特定の領域を外敵から守る目的で、何らかの手段や道具を使って〝空間〟を作ることだよ。例えば神社や寺院のしめ縄とか玄関の塩とか……」
「良く知ってるじゃないの――」
おばさんは目を丸くした。
「そう言うジャンルの本を読むのが好きなんです」
ジンジは照れ隠しに頭を掻いた。
「趣味が偏ってるんじゃないの」とカコ。
「ちゃんと文学作品も読んでるさ」とジンジが慌てて返す。
「ほんとに?」
「ほんとさ!」
…………
咄嗟に、やっちゃったと二人。
「ご、ごめんなさい。話の腰を折ってしまって」
カコが謝るのと同時に、ジンジも頭を下げていた。
「ほんとうにあななたちは不思議ね。謝ったりするのも揃っちゃうんだものね」
謝らないでいいのよ……とおばさんは手を横に振った。
「でもね、今回の結界は、外から中を守るんじゃなくて、おばさん自身の領域を作ったのよ。どこからも邪魔が入らないようにね」
「それって学校ですよね」とジンジ。
おばさんはニコニコしている。
「学校全体をですか?」とカコ。
「そうよ、凄いでしょう」
おばさんは笑い「それでね……」とジンジに問いかけていた。
「結界の材料は雨。雨が結界の壁の役目をしているのよ、分かるかしら?」
「雨が結界の役目? 雨は水ですよね」
おばさんは期待の目でジンジを見ている。
ジンジは頷いた。
「木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の五種類の元素からなる五行ですね」
「何それ、分かんないけど」
カコはジンジを肘で突ついた。
「オレも本を読んだだけで詳しくは知らないんだ。でも要するに、五行は古代の中国で生まれた思想で、その五つが互いに影響しあいながら、天地……う~んと、つまり世界! 宇宙って言えばいいのかなぁ。その全てが変化しながら生まれたり、滅んだり、勢いが盛んになったり、衰退したりしながら循環するっていう考え方なんだ」
……とカコに説明し、どうでしょうか?とおばさんに目を向けた。
「まあ、大体良しとしましょう」
おばさんは親指と人差し指で、パチパチパチと拍手をする真似をした。
「で、おばさんの得意とするものが、水」
「水。そうなんですね」
カコは分かったと顔をほころばせた。
「はい、カコさん言ってみて」とおばさん。
「それで学校の近くになると、いつも雨が強くなるんだ。毎日不思議だなぁ~って思ってたんです。その雨で結界を……、つまりおばさんは水を使って自分の陣地を作ったんですね」
「はい良くできました」とおばさん。
ジンジも、カコが理解してくれたのが嬉しかった。
「この梅雨の時期にしか出来ない悪戯ね。今年は長梅雨になりそうだって予報でも言ってたでしょう」
おばさんはまたコロコロと笑った。
43
おばさんは、ポケットから一枚の紙を取り出してカコに渡した。
それは和紙で出来ており、大きさが5cmくらいで人の形に切り抜かれていた。
それには墨で、音也と書かれていた。
「結界が完成した後は、学校に忍び込んで、男の子の机には乙音、女の子の机には音也、と書いた人形(ひとがた)を貼ったの。そのひとつひとうに〝思念〟を送り込みながらね……」
「これを……、ですか?」
「そう、そのひとつひとつに〝思念〟を送り込みながら、机の裏に貼ったのよ」
「よく言われる〝気〟とは違うものなんですか?」
カコは人形から顔を上げた。
「簡単に言えば〝気〟は、生きてゆくための万物に宿る生命エネルギーそのもので、なんにでもあるの。そして思念はその〝気〟が意思を帯びたものなの。その人の心の動きが気を動かすのよ……」
おばさんは理解出来てる?……と二人をそれぞれに見やった。
二人の顔は、しっかり分かってます、と物語っていた。
おばさんは続けた。
「その机の所有者が、男の子ならば〝乙音〟が自分の理想とする女の子に、女の子ならば〝音也〟が理想とする男の子に見えてしまうように〝思念〟をその人形に込めたの。ほんとうは椅子のほうが良かったんだけどね」
「なぜ机に?」とジンジ。
「椅子はお尻と直接触れているから、思念が身体の中に浸透しやすいんだけど……。でも椅子は掃除の時にひっくり返して机の上に乗せるじゃない。それだとすぐ見付かっちゃうから」
なるほど、と言いながら、ジンジはお尻をモゾモゾと動かしていた。
「(学校の机を)全部やったんですか?」
今度はカコが訊いていた。
「ええ、毎夜学校に忍び込んで、ひとつひとつ全部やったわよ。先生の机もそうよ。だから三週間も掛かったんだけどね」
「先生の机まで……」
「もちろん。でも楽しかったわよ。準備をし終わったあとのことを考えると、ワクワクしちゃって……」
その場面を思い出して想像しているおばさんの顔は、まるで少女のようだった。
「2年生を念入りにやったの。1年生と3年生は、人形を貼って二人が転校して来たってことを認識させる程度だったから」
「先生たちのもですよね」
「先生たちは、あなたたちより大人だから、色々な経験を積んでいるじゃない。変な雑念みたいなものを持ってるの……。だから代って操り易いのよ」
おばさんは言葉を切った。
「そうねぇ、汚(けが)れって言えば分かり易いかしら……。あななたちは汚れが少なく純粋な部分が多いから、かえって操るのが難しいの。思念が入り込む余地が無いのね」
おばさんは紅茶を手に取って喉を潤した。
「思念を送り込むと言うのは、簡単に言えば人を騙(だま)すことに近いかな。たとえば、あなたの病気はもう直っていますよ……と本人を操るってこと。言い方は悪いかもしれないけど、騙すことが出来れば、ほんとうに直ってしまうってこともあるのよね。病は気からって言うでしょう? そうやっておばさんの込めた思念がその人の心に〝きっかけ〟を作るのよ」
「きっかけ……なんですね」とカコ。
「そうきっかけ。それさえあれば、例えばジンジくんの隣の席は空いている! とみんなを思い込ませるのは造作も無いことなのよ」
「オレの席の隣って、もともと空席じゃ無かったんですか?」
「クラスのみんなに、ジンジくんの席の横は空いているって思い込ませただけよ」
「そう言えばそうよね、ジンジの隣がポツンと空いているなんて変だもの」とカコ。
なるほど……とジンジ。
「じゃあ、乙音ちゃんがわざわざわたし達のクラスに転校して来たのも……」
「そう言うこと。先生にそうさせたの」とおばさんはあっさりと答えていた。
「そんなもの……、なんですね」とカコ。
ジンジは感心しきりだ。
「そんなものなのよ」と言いながら、おばさんはカコから目を離さない。
まだあるんでしょ?とカコを見ている。
「でも、わたしには……」
「でも、何かしら?」
期待するような目で、おばさんは次の言葉を待った。
「申し訳ないですけど、わたしには音也くんが理想の男の子には見えませんでした」
カコは、ごめんなさい、と頭を下げた。
「オレもそう! 乙音さんが、いえごめんなさい。決して乙音さんがかわいく無いと言う訳ではないんですけど……」
ジンジは笑いながら頭を掻いた。
いいのよ、とおばさん。
「それはね、おばさんの込めた思念がたったひとつの想いだけだったからなのよ」
「たったひとつの想い?」とジンジ。
「それって、それぞれが想っている異性ってことですか?」とカコ。
「そう、それぞれの人の心に想う人がいれば、おばさんがどんなに強い思念を送ったとしても効かないの……。だからその人たちには、乙音と音也はだたの普通の中学生にしか見えないのよ」
二人の目を交互に見ながら、おばさんは喋っていた。
「そうか、だからか」
ジンジは膝を打った。
「乙音さんが始めて207に現れたときに教室中がざわついたけど、オレは、何故そんなに大騒ぎしなけりゃならないんだって、思ったんだ」
「わたしも……」のジンジは首を回した。
そこにはカコの横顔があった。
カコはまっすぐにおばさんを見ている。
「ユウコに誘われて音也さんを見に行ったけど、そんなに……」
おばさんは微笑んだ……
「それはね、そこにはおばさんの思念が入り込む余地のない〝想い人〟が居たからなのよ」
「想い人?」
カコは俯くと、自分の手に目を落とした。
あの時、霧の中で強く握ってくれていたジンジの手の感覚が、不意に甦ってきたからだ。
「でもジンジくんは、ちょっとだけ乙音に気持ちが傾いたときがあったわよね――」
顔を上げたカコは、おばさんがジンジに茶目っ気たっぷりのウインクを送ったのを見た。
「え、え、?」
ジンジの頭の中は?マークでいっぱいになっていた。
「そうか、あのときだわ……」
カコには思い当たる節があったようだが、ジンジは頭を抱えて考え込んでいる。
分かんねぇ~、と呻(うめ)き声しか出て来なかった。
もう~、とカコは口は尖らせる。
「そんなことは無かったと思うんだけどなぁ」とジンジはまた頭を掻いた。
「乙音ちゃんが靴下を脱いでたときだよ」
カコはジンジの腕を指で突ついた。
「靴下ぁ? ……あっ、あのときか」
ジンジにも、どうやらやっと、合点がいったようだ。
「思い出したでしょう?」
「ああ、思い出した!」
「あの一瞬に、ジンジは乙音ちゃんに心を奪われて、そのちょっとした心の隙に、おばさんの思念が入り込んだんだよ。そしてその後のジンジは、乙音ちゃんを事ある毎にチラ見してたんだよ。分かってるの?」
「ご、ごめん。あの靴下事件の後、乙音さんのことが気になってしまったことは本当だよ。そしたら乙音さんがちょっとだけ可愛く見えたんだ。そんときは自分でもおかしいなぁ~って感じてたんだけど……」
ジンジは頬を紅くしていた。
「もう、エッチなんだからぁ」
「でも、ほんのちょっとの間だけだから、だってほんとうの……」とそこまで言ってジンジの口は、やばっ、と開きっ放しになってしまった。
「ほんとうの?」
今度は耳まで紅くなっていた。
「じゃあ、その人それぞれの心の中に〝想い人〟がいると、乙音ちゃんと音也くんはまったく普通の人に見えているってことですね」
カコは、どこか嬉しそうな顔をしている。
「そう言うことね」
「じゃあ何故?……」
カコが次の質問をしようとするのを、おばさんは手で遮った。
「ちょっとその前に、乙音と音也の秘密をお話しさせてちょうだい」
「秘密? 二人にも秘密があるんですか?」
「ええ、もちろん」
おばさんは椅子から身を乗り出していた。
「実を言うとね……」
釣られて二人も、身を乗り出していた。
44
「ちょっとその前に、紅茶のお代わりはいかがかしら?」とおばさんは、二人の聞くタイミングを完全に外していた。
二人はお願いします、と頭を下げるしかなかった。
するとおばさんは「じゃあ、お願いね」と膝の上のユベールに声を掛けていた。
ユベールは、おばさんの膝から飛び降りると、部屋から一目散に出て行った。
それから、二階に駆け上がってゆく音が聞こえた。
「ちょっと待っててね」
おばさんの言い方は、どこか思わせぶりだった。
1分も待つ必要が無かった。
「ねぇ音也、紅茶のお代わりを持ってきてくれない」とおばさんはユベールの出て行ったドアに向かって、意味ありげな台詞を吐いていた。
やがて、階段を降りる足音とともに、リビングに姿を現したのは音也であった。
おばさんが言っていた通り、乙音ちゃんと音也くんは、どうやら家に居るらしい。
でも何故、最初からリビングに顔を出していないのか? と改めて疑問が沸いてくる。
音也は二人に、こんにちわ、と挨拶すると、そのままキッチンに入り、しばらくして紅茶のポットを持って戻って来た。
「どうですか」
音也はカコにポットを差し出した。
「え、ええ、いただきます」
カコはドギマギしながら音也を見上げ、ソーサーごとカップを差し出していた。
続いてジンジ。
ジンジも、何故今現れたんだよ?という顔をしている。
音也は最後に、おばさんのティーカップにも紅茶を注いだ。
「もういいわよ、ありがとう」とおばさんに言われ、音也は空になったポットを持ってキッチンへ消えた。
すると今度は、キッチンから姿を現したのはユベールだった。
ユベールはおばさんの膝の上は戻らずに、そのまま窓まで行ってうずくまり、丸くなった。
「音也くんは?」
カコはキッチンの方から目を離さない。
それにユベールは、さっきリビングから出て行って二階に上がった筈だ。
「ジンジくん、キッチンに行ってみてくれないかな?」
何故?と思いながら、おばさんのお願いにジンジは立ち上がり、言われるままキッチンに行った。
おばさんは半身だけ振り返り、訊ねた。
「そこに音也は居るかしら?」
「誰も居ません」
戻って来たジンジの手に握られていたのは、さっきまで音也が身に付けていた上下の服だった。
床に落ちていました……、しかも暖かいです、とジンジは言った。
おばさんは音也の服を受け取って畳みながら、あまりにも淡々と……。
「実を言うとね、音也はユベールなよ。乙音と音也はここにいるムーンとユベールなのよ」と言っていた。
二人は、その言葉を頭の中で整理出来ないでいた。
おばさんは、二人が理解できるまで待った。
ほんとうに?
ほんとうに!
ジンジが目を丸くして椅子から立ち上がりそうになるのを、カコが彼の肩に手を置く。
肩を押さえながら、カコは膝の上で丸くなっているムーンに目を落とした。
ムーンは頭を起こしてカコを見上げ、ミャウと鳴いた。
「乙音よ」とおばさん。
「乙音ちゃん、なの?」
「こ、こ、こ、このムーンが……」
ムーンはジンジにも鳴いた。
「そしてこっちが音也」
窓際で丸くなっているユベールを指差した。
するとユベールが顔を上げ、喉を鳴らしてた。
ムーンを見、ユベールを見、おばさんを見、信じられない……と二人の顔は訴えていた。
45
おばさんは続けた。
「それでね、この子たちは、猫は猫でも普通の猫じゃないのよ」
「普通の猫じゃない……て、どういうことですか?」
カコが訊いた。
「猫又なの」
おばさんは、あっけらかんと答えていた。
「猫又ぁ~?」
ジンジの声は完全にひっくり返っていた。
「声が大きいよ」とジンジをたしなめるカコ。
「いいのよ」とおばさん。
「簡単に言えば猫の妖怪」
長生きして年老いた飼い猫が不思議な力を持つようになって化けるか、山に棲む獣が猫又になったという説がある。
「話をすると長くなるけど、わたしが若いころに山で修行していたときに拾ったのよ」
「拾った……んですか?」
「そう、かれこれ三十年以上も前になるかしら」
ち、ちょっと待ってください、とジンジは手を前に出して、おばさんの話と止めた。
「さ、三十年。この二匹の歳は幾つなんですか?」
ジンジは、ムーンとユベールを交互に見やった。
おばさんは首を捻りながら考えた。
「わたしが二匹を拾ったときから、そう……捕まえたときからずっとこの姿のままだからよく分からないけど、たぶんおばさんの倍は生きているんじゃないから」
「ば、倍……ですか」
「見た目はこんなに小さくて可愛いけど、これでもれっきとした生獣なのよ」
ジンジは、今度は椅子から転げ落ちそうになっていた。
大丈夫?……とカコはジンジの腕を掴んだ。
「おばさんが山陰の山の中で修行をしていたころ、人に悪さをする〝物の怪〟が出るからどうにかして欲しい……て依頼があって、そのときの捕まえたの。おばさんも〝猫又〟を見たのがそのとき初めてだったものだから、生態を観察してみようとしばらく飼うことにしたのよ」
カコの膝の上のユベールがもぞもぞと動いた。
「でね、この子たち以外と可愛いじゃない。頭もいいし、悪さしちゃだめヨ、って良お~く言い聞かせてるうちに情が移っちゃって。でね、それ依頼一緒に暮らしているの」
おばさんはユベールに目をやった。
「だからね、ユベールが猫のまま人間の姿になっちゃうと裸だから……。それで先に二階に行ってから、まず服を着てからリビングに降りて来て、キッチンに入ったのよ」
それからお茶を出し、またキッチンに戻ってから猫の姿に戻ったと言うわけである。
だから服はその場に脱ぎ捨てたままだったのだ。
理屈は通っている。
しかし二人は、まだ半信半疑である。
「でもこれって、ムーンとユベールにとっては結構疲れる作業なのよね」
「疲れる?」
ジンジは興味丸出しであった。
「だってこの子たちはあなた達に、本当ではない姿を見せているのよ。人の身体を維持するために使う〝妖力〟は大変なものなの……」
「なるほどね~」とジンジ。
半分は分かって、半分は分からないような……。
「ましてや今、おばさんの今の領域は学校にあるから」
「そうか、今の学校はおばさんの手の中と同じようなものなんだ」
うんうんとジンジ。
「その通り。今の学校はおばさんの身体の一部と同じようなものだからどうとでもなるのよ」
「妖力をあまり使わなくても、人の身体を維持出来るってことですか?」と言ったのはカコだった。
「だからユベールが音也くんになるのも、領域の外だから大変な妖力が必要になるってことですね」
カコは窓際で丸くなっているユベールに目を向けた。
「正解!」
おばさんは人差し指を立てて、カコに微笑んだ。
「だから昨日も……、音也くんは寝ている乙音ちゃんのようすを見に行くと言って二階に上がったんですね。わたし達に人としての姿を長い間見せ続けるのが大変だから」
「そう言うことね。昨日は二人して二階で猫の姿で身体を休めていたのよ。カコさん理解が早いわよ。わたしの弟子になる気はない?」
「で、弟子にですか!?」
言葉に詰まるカコに、冗談よと言いながらおばさんは笑った。
「ちょ、ちょっと、別の質問していいですか?」
調子に乗ったジンジが、元気よく手を上げた。
「はい、ジンジくんどうぞ」
おばさんも調子に合わせてジンジを指名してくれた。
「変な質問しないでね」とカコ。
「しないよ」とジンジ。
「では……」とジンジは居住まいを正した。
「ムーンとユベール……て名前はどうやって付けたんですか?」
「そう、それ、わたしも疑問に思っていたけど、何となく分かっちゃった」
「え、分かっのかよ」
「ほんとうに?」
それにはおばさんも、流石に驚いていた。
カコは、えへんと胸を張った。
「ねぇジンジ」とカコ。
「一ヶ月ほど前だけど『ティファニーで朝食を(1961年作品)』をテレビでやってたよね、観た?」
「ああ観たよ、オレ、オードリー・ヘプバーンのファンだもの……。あッそうか! おばさんもあの映画観たんですね」
「は~い、しっかり観ました。二匹の仔猫ちゃんたちを膝の上に乗せてね。その時ここに引っ越して来たばっかりだったから、世間様向けにこの猫たちの名前を何にしようかなって考えてたのよ」
「それで主題歌のムーン・リバーのムーンって名前を付けたんだ」
ジンジの答えに、カコがうんと頷いた。
「でも音也くんのユベールは? あの映画にそんな名前の人は出てなかったと思ったけど……」
「ジンジは、あの映画の冒頭に出てきたヘプバーンが着ていたドレスを覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。ニューヨークのティファニー宝飾店の前でパンを食べている時に着ていたドレスだろ」
「あの黒いドレスをデザインしたのが、ジバンシィて言うフランスのデザイナーなの。ちなみに食べていたパンはクロワッサンよ」
「デザイナーもパンも、名前だけは聴いたことがある」
「カコさん凄いわ、そこまで分かってたなんて」
おばさんは驚嘆の声をあげて、今度は音を立てて拍手した。
「ねぇカコさぁ、ジバンシィだけじゃ分かんないよ」
ジンジは膨れっ面をしながら、カコに抗議した。
「ジバンシィのフルネームは、ユベール・ド・ジバンシィなのよ」
「またまた大正解。ほんとにあなた、わたしの弟子にならない」
おばさんは嬉しくてしようがなかった。
46
「それじゃあ、カコさんがさっき質問しょうとしていたことに戻りましょうか――」
お願いします、と膝の上のムーンを揺らさないように、今度はカコが居住まいを正した。
「その人それぞれの心の中に〝想い人〟が居れば、乙音ちゃんと音也くんはまったく普通の人に見えてしまう……てことでしたよね」
そうね、とおばさん。
カコは一度ジンジを見て、それからまたおばさんに顔を向けた。
「でもタニはどうなんでしょう?」
「そうかタニだ」
ジンジは左手の平を右拳で叩いた。
「乙音さんが転校して来た朝は、タニは椅子から転げ落ちそうになるほど舞い上がってたと思うんです」
そうだそうだ、とジンジ。
「でもいつの間にか普通に接し始めてるんです……」
「じゃあタニは、気持ちを寄せる人が途中から出来たってことか?」
彼女が出来たなんて、そんなようすは全く伺えなかったような気がする。
ジンジは腕を組んで首を左に捻った。
……待てよ、気が付かなかったオレが鈍感なのか? 捻った首のままとカコを見た。
でもカコは、そんなこと無かったよ、と首を横に振った。
「昨日、乙音が気分を悪くしたでしょう。あれはいつだったか覚えてるかしら?」
「お昼を食べた後だと思います。昼休みの後の掃除の時には変だったから――」とカコが答えた。
「気づいてたのか?」とジンジ。
「一緒に家庭科室の掃除をやったから。その時からどうもようすが変だなぁと思ってたの」
「お昼に悪いものでも食ったのか? 食中りか?」
「ジンジは食べ物のことばっかりだね」
するとおばさんが
「ジンジくん、正解じゃ無いけど近いわよ」と言った。
「食中り……が近い? 乙音さんはタニの弁当を、美味しい美味しいって食べてたんだよなぁ~」と思い出していた。
「そのお弁当が問題だったのよ。タニくんのお弁当のおかずで、キノコと野菜の炒め物があったのを覚えてる?」
「覚えてます。それが一番美味しいって言ってました」
「その炒め物で使われていた野菜がマタタビだったのよ」
「マタタビ? ……ですか」とジンジ。
「マタタビって言うのは、猫をお酒に酔わせたような状態にする効果があるの。麻薬みたいなものかな……。人には効かないんだけどね」
カコが教えてくれた。
「そういえばタニん家(ち)って、猫飼ってるって言ってた」
「マタタビは猫を躾るときにも使うのよ。それでもあまり厳しくすると、人と同じで猫にもストレスが溜まるの。そのストレスを解消させるために使う時があるのよ」とカコ。
「ストレス解消……。親父が毎日晩酌するようなもんか?」
「そうよ、その通り」
おばさんは思わず笑い出していた。
「最初は(お弁当の)オカカに惹かれたんだけど、マタタビの臭いにも敏感なの。それで、その臭いに誘われてタニさんのお弁当を奪っちゃったのかも知れないわね」
おばさんは、あれはどうしようも無かった、と肩をすくめた。
「あの時は気分が悪かったんじゃなくて、酔っぱらってたんだ」
ジンジは、そうかなるほど、と腕を組んで顎を引いた。
「それと、タニが乙音ちゃんに興味を失ったのと、どう関係があるんですか?」とカコ。
「タニさんと乙音は、転校初日は人形の効果で繋がりがあったのだけれど、マタタビのお弁当を食べて酔っぱらってしまって繋がりが切れてしまったの。切ってしまったのは乙音の方だけどね」
「タニの弁当だったから、タニとだけ繋がりが切れてしまった、と言うことなんだ――」とジンジ。
「そういうことね」
「じゃあシゲボーは? 昨日はシゲボーも一緒だったけど、乙音さんに興味があるようなようすは無かったし、シゲボーに彼女はいないはずなんだけど……」
「わたし分かちゃった」
カコが声をあげた。
「また分かっちゃったのかよ。オレって鈍感過ぎんのか、さっぱり分からん」
カコはクスっと笑い、反対にジンジは頭を抱えた。
「降参だ。教えてくれよ」
ジンジは脱力して、椅子の背に身体を預けた。
「シゲボーはね、後輩から告白されていたの。それでちょっと舞い上がってて、気持ちがそっちに向いてたんだと思う」
「告白された? いつ?」
ジンジはすぐさま身体を起こして、カコに詰め寄った。
「先週の土曜日だよ。シゲボーは放課後、その後輩に呼び出されたんだよ」
「何で知ってんだよ」
「告白したの、バレー部の後輩だから」
「カコのか?」
カコは、うん、と返事をしながら、おばさんにどうですか?と伺いを立てた。
おばさんは、正解です、と頷いていた。
47
次の質問は? にカコが声をあげた。
「何故ユウコはわたしたちが見ている前で消えちゃったんですか?」
「やっぱりそれが一番知りたいところよね」
ジンジも興味津々である。
「簡単に言うとね、ユウコさんとシンコさんは、最初から学校の正門には来ていなかったのよ」とおばさんはあっさり……。
「最初から来てなかった?」
ジンジは手の指を頭の後ろで組んで、眉間に皺を寄せた。
カコは信じられないと首を横に振っている。
「でも、確かに来てましたよ。ちゃんと話もしたし――」
「あれはおばさんがあなた達に見せていた偽物で、二人には先に帰ってもらってたの」
「偽物?」
「先に帰ってもらっていた?」
そう言われても、二人にはチンプンカンプンだった。
「最初から説明するわね」
おばさんは音也が注いでくれた紅茶をゆっくりと飲み干し、二匹を交互に見た。
ユベールは窓際で眠っている。
ムーンはカコの膝の上で丸くなっていて、全く動くようすを見せなかった。
カコはムーンの眠りを邪魔しないように、ティーカップを慎重に口に運んだ。
釣られてジンジも、紅茶を飲んだ。
「まず、ユウコさんとシンコくんには、さっさと帰ってもらいました。先に二人で仲良く帰りなさいって思い込ませるのは簡単――」
おばさんは言って、ジンジを見た。
「(学校は)おばさんの結界(領域)の中だからですよね」
そうよ、とおばさんは首を縦に振った。
「その時の乙音と音也のようすはどうだったか分かる?」
ジンジは鼻の頭を指でコリコリと掻きながら……
「乙音さんに限って言えば、担任の満川先生が、帰宅するようにと連絡しに来た時は凄くはしゃいでたけど、いざ正門の玄関に集まってみると、静かで何も喋らなかったような……」
ジンジは、そうだったよな? とカコに首を傾けた。
「そう言えば二人とも一言も喋ってなかったと思います」とカコ。
「その時の乙音たちはね、おばさんがあなたたちに〈ここに居るよ〉って思わせていただけの〈絵〉だったの」
「絵、ですか?」
「そうよ、絵は何も喋らないでしょう」
「おばさんに観せられていた幻の映像……それが〈絵〉ってことなんですね」とカコ。
「そう、その代わりに、乙音と音也にはユウコさんとシンコさんの役を演じてもらってたのよ」
え?! とジンジは驚きを隠せなかった。
「あの二人は、乙音さんと音也くんだったんですか?」
思わず声が大きくなっていた。
「だんだん分かってきました」と言うカコ。
カコは続けた。
「あのとき学校を出た順番は……。ナオとイケピン、ユウコとシンコ、シジミとアジ、乙音ちゃん達、そしてわたし達……」
二人は顔を見合わせた。
「最後にタニとポンタとユウコが学校を出て、全員が雨の壁にぶつかる」とジンジ。
「でも、最後の三人は、初めからあの雨の壁に入らなかったんですね?」とカコ。
おばさんは頷いた。
「あなた達二人が(壁の)中に消えたあとに、三人には別の道を通って帰りなさいって、おばさんが思念で操ったの」
「そうだったんだ」
「で、わたし達の前に雨の(壁の)中に入った〈絵〉の乙音さんたちは、その後ほんとうに消えてしまったってことですね」とカコ。
「そういうこと。それで幻の二人のお仕事は終了したわけ」
「ん~んと」とジンジは指を折りながら
「……それで雨の壁から霧の中に出た時は、タニとポンタと武藤さんと乙音さんたちの五人が居なくなってたってわけだ」
「指を折って数えなくても分かるでしょう」
「これがオレの計算方法なの」
ジンジは、指折りをわざとカコに見せながら抗議した。
「次がナオとイケピン、その次がシジミとアジ。あの霧の中で、頃合いを見計らって、おばさんが帰るように思念を送ったってことですね」
カコは自分を納得させながら喋った。
「そして最後がユウコさんとシンコさん。ムーンとユベールの演技もなかなかのものだったでしょう?」
おばさんは得意気に鼻をピクピクと動かしている。
それはまるで、奥様は魔女のサマンサみたいだった。
「消えたように見えたのは、あの二人が猫又である本来の姿に戻ったからなの。あの時、あなたたちの足下にはムーンとユベールが居たのよ」
気が付くと、ムーンがカコを見上げていた。
カコは膝の上のムーンを見下ろした。
カコはムーンを抱き上げ、頬ずりした。
「オレも……」とジンジが独り言のように呟く。
カコはジンジを睨む。
今度ね……
カコは悪戯っぽい顔に変わっていた。
48
「ムーンとユベールが庭であなた達に会って、二人が転校してくる間に三週間あったでしょう」
「その間におばさんは学校の周りに結果を張ったり、机の裏に人形を貼ったりしてたんですよね」とジンジ。
「その他に、この二匹の教育もしてたのよ」
「教育……ですか?」
「人間のことを色々と教えたつもりだったけど、三週間じゃやっぱり時間が足りなかったみたいね。でももっと教育してたら梅雨が終わっちゃうから」
「そっか、普通女子は男子にトイレに一緒に行こうって言わないものなぁ」
ジンジは転校初日のことを思い出していた。
「脚を広げて靴下を脱ぐのもそうよ。犬と違って猫は身体に物をまとうのを極端に嫌う動物だから。ほんとにあれは偶然だったんだけどね。でもあれはおばさんにとってはチャンスだったわ。ジンジくんの意識が乙音に傾いたんだもの……」
「その時、おばさんの思念がジンジに入り込んだんですね」とカコ。
「乙音に惚れろ!って、かなり強い思念のつもりだったんだけど……。効果があったのはほんの数時間だったわね」
おばさんは、カコに片目を瞑って見せた。
ジンジは全く気付かなかった。
カコは少し俯き、唇で笑みを返していた。
それもジンジは気付かなかった。
「でも人の想いって、別の意味でも凄いと思ったわ」
「別の意味?」
「嫉妬ね」
「嫉妬、……ですか?」
「今朝のカコさんのことよ。おばさんはカコさんを、ちょっとだけ困らせてあげようと考えていただけなんだけど、あんなことになってしまって、ごめんなさい」
おばさんは頭を下げていた。
「いえ、いいんです。大丈夫です」とカコ。
「シジミさんが助けに来たのは想定外だったわ。あれも彼女がカコさんを〈想う〉気持ちのひとつだったのね」
「なにがあったんだよ?」
「あとで話してあげるから」とカコ。
「それとジンジくん。痛い思いをさせてごめんなさいネ」
今度はジンジに謝っていた。
「いやァ、オレ石頭だから。全然大丈夫ですよ」
ジンジは額に手を置いた。
タンコブはほとんど目立たなくなっていた。
気が付くと、窓際で寝ていたユベールが、いつの間にかおばさんの所までやって来ていた。
「どうしたの?」
ユベールは壁の時計に向かって一声鳴いた。
「あらあら、もうこんな時間になっちゃたのね、ご飯の時間ね。もうちょっと待っててね」
「ほんとだ、いつの間にか6時回ってる」
ジンジは立ち上がった。
「わたし達、そろそろ失礼します」
カコはムーンを優しく揺すって起こし、足下の床に置いてから立ち上がった。
そして二人は
「色々とありがとうございました」とおばさんに頭を下げていた。
「いいえェ、わたしもあなた達のお陰で、とっても楽しかったわ」
おばさんも立ち上がり、二人を玄関まで見送った。
玄関で靴を履いて振り返ると、おばさんの足下にムーンとユベールが並んで二人を見上げていた。
カコは思いっきりの笑顔を二匹に送った。
ジンジは、その笑顔をずっと見ていたいと思った。
おばさんと二匹に別れを告げ、二人は見慣れた道をゆっくりと歩いて帰った。
そして二人が、いつも分かれる道の角に差し掛かると、カコが歩みを止めた。
「どうした?」と訊いたが、カコは黙っている。
ジンジはカコが何かを言い出すまで待つことにした。
するとカコが、辺りをキョロキョロと見回し始めた。
ジンジも釣られて辺りを見回すが、人っ子ひとり居ない。
もう一度、どうした?と訊こうとする前に突然、カコはジンジの首に腕を回していた。
そして耳元で……
「ありがとう」と囁いていた。
49
翌日、金曜日、朝。
ジンジは10分ほど早く家を出た。
そして、昭和町バス通りの交差点を渡った所で、前を行くカコとユウコを見付けた。
追い付いて横に並び「おはよ!」と声を掛ける。
「今日は早いんだね」
ユウコが、並んでいたカコの横から顔を出した。
ジンジはユウコの、普段と変わらない笑顔を見て、分かっていたつもりだったけれども、何故がホッとしていた。
「おはよう」とカコ。
ジンジが、何故今日は早いのかの理由が、カコには分かっている。
みんなの顔を、一刻でも早く見たいからだ。
「朝起きたら雨が降ってないから、嬉しくなっちゃってさ」とジンジは笑った。
「ほんとだよね、何日ぶりぐらいかなぁ~、こうやって傘を差さないで学校に行けるの」とユウコも笑っている。
傘……?
カコの足が止まりかけた。
「どうしたの?」とユウコ。
「なんでもない」とカコは返した。
それから三人は、朝の普通の、とりとめの無い話をしながら学校へ向かった。
下駄箱で上履きに履き替えようとしていると、おはよーと声を掛けられた。
タカコがちょうど登校してきたところだった。
タカコもいつもの笑顔である。
タカコはカコのところまでやって来ると
「昨日は、わざわざ電話してくれてありがとう」と礼を言って、ペコっと頭を下げた。
「そんなに何度もいいよもう、昨日も電話の向こうで、ありがとう……て言ってたじゃない」
あの時カコはおばさんの家から
「大雨だったから心配になって、無事に家に帰り着いたのかな?」……という理由を付けて、ナオ、ユウコ、タカコに電話を架けていたのだ。
「そうだよね、途中で別れちゃったんだもんね」
タカコとポンタとタニは、おばさんの思念に操られて、雨の壁に入っていない。
タカコは、あの時一緒に帰っていたみんなに(雨の壁の前で)「じゃあねー」と声を掛けて別れたと思っているのだ。
「でもタニとポンタと一緒だったから、全然大丈夫だったよ」と楽しそうに言いながら、タカコは上履きに履き替えていた。
まずジンジは、207の前の廊下から教室の中を覗いた。
「シジミだ、アジも居る」
すると、遅れて来たカコがジンジの横で嬉しそうに声を上げた。
「ほんとだ。タニとポンタも居る」
カコはまず、ナオのクラスまで行って来たのだった。
カコのその声で、イケピンも大丈夫だったことが分かる。
教室に入り、ジンジは自分の机に鞄を置いた。
教科書を中に移している途中に、ふと思い立ってしゃがみ込み、机の下を覗き込んだ。
そこには何も無かった。
「なにしてんだよう」
変なことやってんなぁ~とタニが声を掛けてきた。
「いや、何でもない」
ジンジは曖昧に答えた。
タニの席はジンジの隣だった。
そこに乙音の席は存在していなかった。
「何か面白れーことねぇかなぁ~」
タニは誰に言うことなく呟いていた。
「面白いことだって?」
鞄を教室の後ろの棚に置いて、戻ってきたジンジが訊いた。
「だってよう。何にも変わったことが無いじゃんかよう。なんかこう……」
タニは、どこか遠くを見るような目つきになっていた。
「なんかこう、って?」
「かわいい転校生でも来てくれたなら、これからの中学校生活がバラ色になるのにな」
「なるほど、そっかー、かわいい転校生か……」とジンジ。
「まぁ、そんなことあるわけねェか!」
タニは立ち上がると、トイレと言って教室を出ていった。
ジンジは苦笑いしながらタニの背中から顔を戻した。
それから何気なく横の壁に目を移すと……。
そこに一個の画鋲が刺さっているのを見付けた。
ジンジは手を伸ばして画鋲を抜いた。
それから教室の後ろの掲示板まで行って、その角に刺していた。
自分の尻を拳で叩きながら壁に刺さった画鋲を眺めた。
席に戻ろうと身体を回すと、カコとシジミの談笑に目が止まった。
何か面白い楽しい話でもしているんだろうな、と二人を見ていたら、カコが彼に気付いた。
カコは笑い、軽く手を上げた。
50
午後から雲行きが怪しくなり、6時限目の授業が終わるころには今にも降りだしそうな空模様になっていた。
それでもかろうじて雨になることは無く、久しぶりにグラウンドで部活をやったジンジは、取りあえず持ってた方がいいかな……と置き傘を取りに教室まで戻っていた。
また誰か居るのではないか……とこっそり教室を覗いてみたが誰の姿も無かった。
そりゃそうだ、と傘立ての中から自分の傘を抜いたところに……
「いたいた、こんな所に居た」と声を掛けられていた。
カコだった。
「探してたんだから……」
「何、どうした? これから行くところだったのに」
行くと言うのは、みんなと一緒に帰るいつもの集合場所のことだ。
「今日は一緒に帰れない、……てみんなに言っといたよ」
「え、どうして?」
「用事があるから」
「用事、なんの?」
あきれた、とカコは両手を腰に当てて
「まだ気付かないの? ジンジ、その手に持ってるのは何?」と訊いた。
「持ってる? 傘だけど……」とジンジはそこまで言って
「あちゃ~、失敗した」と漏らしていた。
「分かった?」
うん、とジンジ。
「壊れた傘、おばさん家に忘れてきた」
「わたしも〝今朝〟までジンジが傘を持ってないことに気付かなかったんだけどね……」
おばさんの家を出た時には雨はもう降っていなかった。
しかもあんな話を聞いた後だったので、カコもジンジが傘を持っていないことに気付かなかったのだ。
「だから、これから行ってみる?」とカコが言う。
ジンジも合点がいった。
だからカコは、はなから行くつもりで、今日は一緒に帰れない、とみんなに言ってきたのだ。
「行けるかな?」とジンジは廊下の窓から空を見上げた。
いつ降り出してもおかしくない空模様だ。
帰り道だし、ちょっと寄るくらいなら、そんなに時間は掛からないだろう。
「ちょっと急ぐか……」
「うん」
二人は正門を出て、入間おばさんの家へ向かった。
おばさんの家の前で、二人は呆然と立ち竦んでしまった。
「どういうこと?」
カコが呟く。
そこには 〈新築! 入居者募集〉 の看板が立っていたのだ。
「分かんねぇ……」とジンジ。
「昨日のことは、ほんとのことだよね」
不安そうなカコの声。
「ああ、本当にあったことだよ」
カコはジンジの腕を掴んで何度も揺すった。
「ちゃんと覚えてるよね?」
「覚えてるさ!」
ジンジは、自分自身を納得させるかのように、何度も頷いていた。
「とにかく入ってみよう」
「うん」
二人は、おばさんとムーンとユベールの痕跡が、どこかに残っているのではないか、と思ったのだ。
看板の横を通って敷地の中へ入る。
カコはジンジの腕を離さずに付いてきた。
「あッ、あれ!」
それに先に気付いたのはカコだった。
「あれ、ジンジの傘だよね」
指差す玄関のドアノブに、1本の傘が掛けられている。
「そうだ、あれオレんだ」
ジンジは駆け寄って、手に取った。
傘はきちんと乾かされ、綺麗に畳まれていた。
「確かにオレんだ。昨日この家に忘れてった傘だ!」
「やっぱり(昨日のことは)本当にあったことなんだよ」
カコは確信し、そして嬉しかった。
するとジンジが「そうだ、思い出した」と大声をだしていた。
ジンジは、持っていた傘をカコに預け、詰襟のポケットを探り始めた。
「何してんの?」
「写真だよ。カコがくれたあの二人の、顔が写ってない写真。あった……」
ジンジは左のポケットから写真の束を取り出した。
二人で並んで写真を覗き込む。
ジンジは一枚一枚ゆっくりと捲った。
しかし……
「写ってない。何も写ってない! どうして?」
カコが声をあげた。
写真の中に乙音と音也の姿は無かった。
二人が存在していたそこだけが、ぽっかりと切り取られたように後ろの風景が写っている。
「何で写ってないんだよ」
ジンジは写真を繰り返し捲ったが、どれを見ても同じだった。
やがてがっくりと肩を落とし、諦めて写真をポケットに仕舞おうとしたとき……
「ちょっと待って」
カコがジンジの手から写真を奪い取っていた。
今度はカコが写真を捲り始めた。
カコの表情が段々と、驚きと笑顔に変わってゆく――。
「ほら見て!」
カコがより一層、ジンジに顔を近付けた。
二人の頬はくっ付きそうになるほど近くなっていた。
「あッ」
ジンジも声をあげていた。
「これも、これも、みんな写ってる!」
頬が触れそうになるのも構わず、カコははしゃいだ。
写真には、乙音と音也が確かに写っていたのである。
どれにも、写真のフレームの端に……
地面の上や廊下の床からカメラのレンズを見詰める二匹の猫、ムーンとユベールの姿があった。
「やっぱり昨日のことは現実(ほんと)だったんだ」
ジンジは小躍りしそうになった。
「そうだよ、ほんとのことだったんだよ!」
カコは写真を胸に抱いて空を仰いだ。
と……その頬にポツリと一粒の雨が当たった。
「雨だ。雨が降ってきた」
二人は慌てて玄関の軒下に避難した。
軒下で、カコはまだ写真を眺めている。
ジンジは空に顔を向けて、雨のようすを見ている。
そのジンジにカコは
「これ、貰っていい」と声を掛けた。
ジンジは雨から顔を戻し
「いいさ、もともとカコが写真部から貰った物だから」と笑った。
「ありがと。じゃあ、ジンジが一枚も持ってないのも可哀想だから、これだけあげる」
カコは写真の束から一枚だけ抜いてジンジに渡した。
そこに笑顔のカコが居た。
ジンジはジッと写真を見詰め、それから大事そうに詰襟の左内ポケットに仕舞い込んだ。
雨は段々と強くなって、軒下にも打ち込んでくるようになった。
ジンジは傘を開いた。
「あれ……?」
傘の内側の骨に、何かが結び付けてあるのを見付けた。
カコが手を伸ばしてそれを取った。
それは、細い糸を幾重にも編み込んで作られた、ムーンとユベールの首輪だった。
白のムーンがピンクで、限りなく黒に近い鼠色のユベールが巻いていたのが黒だ。
「こっち持ってて」とカコは黒い方の首輪をジンジに渡した。
「お守りにするよ。猫又が首に巻いていたものだから、きっと御利益ある」
ジンジは左手首にその首輪を通した。
「わたしも……」
カコはムーンのピンクを、ジンジと同じように左手首に通した。
カコには、ムーンの鳴き声が聞こえたような気がした。
「帰ろうか」とジンジ。
「うん」とカコ。
二人は、おばさんの家だった場所から歩き出た。
「そう言えばジンジの傘って、骨が曲がってしまったんじゃなかったっけ?」
カコはジンジの傘の内側を覗き込みながら、不思議そうな顔で問い掛けてきた。
ジンジは左手に持っている、学校から持ってきた置き傘を眺めた。
そして今差している傘を見る。
今使っている傘は、おばさん家のドアノブに掛けてあったやつだった。
「直ってる」
傘を回しながら骨の部分をひとつひとつ確かめた。
「全然こわれた形跡が無いよ。新品みたいだ」
「昨日、あれだけのことがあったんだもの、こんなの全然不思議じゃないよね」
とカコが言うと
「そうだよな」とジンジ。
「ねぇジンジ」
「ん?」
ジンジは傘を眺めている。
「その、不思議な傘に入れてくれない」
カコはもう、自分の傘を畳んでいた。
そして身を寄せ、ジンジの傘の中に入った。
梅雨が明けるのは、まだもう少し先のことである……。
おしまい
05 想い人 ⑦
次回から、カコとジンジの新しい物語が始まります。掲載は2月6日(金)の予定です。交互期待…?