夜の扉

   1海の知覚

 先刻から私は、海岸の防波堤に両手を突いたまま、ぼんやりと海を眺めていた。海面にゆるやかなうねりがあった。天候の変わりやすい季節で、数日雨の多い日が続いていた。
 柔い霧のような雨が、私の立っているコンクリートの地面を濡らしつづけている。傍に停めた車にも細かい雨が降りかかり、車体の上に細い筋をつくって流れ落ちていた。
 海岸を臨んでその建物はあった。小さな入江の中の、前方を防波堤で仕切られ、後ろは断崖のような険しい山で囲い込まれたポケットのようなテラスの真ん中で、建物は雨に濡れて黒ずんで見えた。テラスは、背後の山すそから防波堤までのなだらかな斜面を、コンクリートの段丘に造成したものであるようだ。一見して海辺の施設であるとわかる。人気はない。 
シーズンにはまだ遠いとしても、人気のないレジャー施設はうすら寒くわびしい。しかも雨が降っている。雨は衣服を透して、徐々に私の体を濡らしていた。
 コンクリートのテラスの上に子供の遊び場があった。円や四角形の池があり、澱んだ水が溜っていた。
建物は、海辺のレストランといった感じが少し出ていた。防波堤のある道路面から階段状のテラスにかけて、積木を重ねたような複雑な建築である。建物全体の形はちょっととらえ所がなかった。何となく粗い未完成な感じは、打ち放しのコンクリート造りのためだった。
 周囲の光景が薄い青色を帯びていた。テラスの背後に迫る山の濃い緑が黒っぽく見え、山あいに湧きはじめた霧が険しい斜面を降り、テラスをたどって海に流れようとしていた。周囲の空間の光が青味を増すにつれて、霧はたちまち薄いもやのように拡がりはじめた。
 いつの間にか山腹が霧に閉ざされ、私と建物の間を白い帯が音もなく流れていた。霧は一層濃くなるようで、視野の中をすべるように横切る薄い流れは、軽いめまいを起こしそうな速力でこの狭い小さな海岸を埋めつくすように思える。
霧が巻き、夕刻の光が一息に失われそうな気配に、私はようやく建物に向って歩きはじめた。

   2カードの誘い

 ある夜、私は一枚のカードを拾った。
 遅い時刻だった。残業が続き、肩を落としてうつ向き加減で夜の街を歩いていた。店仕まいした商店街をゆっくり通り抜けて、アパートのある住宅地への路地を曲った時だった。水銀燈の鉄柱から少し離れた暗いアスファルト道路の側溝の上に、何か奇妙なものがあるのに気づいたのである。それはぼんやりとした青白い光を放っていた。暗然とした思いに把われながらその時歩いていたにしても、それは私の注意を引くのに充分な、不思議な光だった。
 私は立ち止まり、しばらくながめ。そのひんやりした光を帯びた物を拾い上げた。それは薄いプラスチックのカードのようだった。キャッシュ・カード位の大きさで、それよりさらに薄く、たやすく指先でしなった。文字も記号もない無地のままのカードは、私の指の間でにじみ出す青白い光の結晶のように見えた。私はそれをポケットに納め、アパートに帰って机の引出しに入れた。
     
 夜、仕事が終わると、私は真っすぐアパートの自分の部屋に帰り、机の引出しからカードを取り出してはながめた。
 この青白い光を放ち続ける一枚のカードは、私の日常の中に忽然と出現した夢のかけらであった。私は様々な空想にふけった。部屋の電灯を消すと、力ードは青白い一葉の光と化し、部屋の中を漂うように思えた。闇の中で光は浮かび上がり、流れて、部屋中に満ち、遂にははるか彼方の時空へ矢のように飛び去るのだった。

 ある夜のことだった。一条の細い光がカードから洩れた。私は眼を見張った。確かに、絹糸のように細い光が矩形の光の中心から真っすぐ壁の方へ伸びている。一直線にかけられた、蜘蛛の糸のように幽かな、淡い光だった。見る間に一本の光は扇形に開いていき、青白く輝くカードを中心にして円錘の光芒となった。その底面の辺りに、球形の映像が浮かび上っていた。立体映像だった。青色のモノクロの映像は、どこかの海辺を映し出しているようだった。私はカードから投影される光を遮らないようにして、小さな球体の中の海辺を覗き込んだ。精巧なミニチュアのような海岸が青い光に包まれて部屋の片隅に浮かび上っている。夕刻の海岸である。光の乏しくなったちっぽけな海岸に、さざ波のように見える波が沖合から押し寄せている。どうやら海面にはうねりがあるようだ。
 背後に迫る険しい山と海とに囲まれた小さな海岸の中程に、ぽつんと建物があった。建物の前に一台の豆つぶ程の車があり、建物のすぐ横に一人の人間がいた。その人物は建物の中に入ろうとしているように見えるが、山あいから湧き出る霧に隠されてしまった。
 不思議な、魅き込まれそうなミニチュアの映像だった。陶然として私は球体の中に封じ込まれた世界を眺めつづけた。
 ――箱庭の世界が光を失いかけていた。徐々に映像が暗くなり、微かに広がっていた円錘形の光芒が元の細い一本の光に折り畳まれると、不意にぷっつり消えた。と同時に、カードから発する青白い光も消えてしまって、部屋の中は真暗闇となった。
 電灯をともすと、部屋にしらじらとした明かりが戻り、机の上のカードは灰色の、不透明な一枚のプラスチック・カードにすぎなかった。眼の中に一時の幻影がまざまざと残っていた。カードは無力な一片と化したが、思いがけない形で中に秘めた機能をすでに果たし終えたようだった。しかしそれが、私に宛てた一種の通信であるのかどうか、私にはわからなかった。それでも私は、一連の不思議な出来事のとば□に立ったような予感をその時抱いたのだった。
 この時代に奇跡を信じることは出来なくても、少くとも私は、有りそうもない不思議な事柄に関わりたいと願うような気持であったことは間違いない。私は自分がある種の、おとぎばなしの世界を求めていたことを知っている。要するに現実から逃走したかったのだ。
 一週間後、私は会社に休暇届を出して海辺に向った。

    3夢の境界

 霧は刻々と海岸に立ち込めてくる。霧の薄もやを透して、防波堤の向うに灰色の海面が見える。ゆるやかなうねりがあった。
 建物の入口を捜さねばならない。建物の、海に面したガラス戸には鍵がかかっていた。ガラス越しに薄暗い内部が見える。テーブルと、ビニール張りの椅子が並んでいた。周囲の暗さが増していき、それと同時に建物は霧に幾重にも巻かれて、しだいに白い帳りに閉ざされていくようだった。私は生地の荒いコンクリートの、建物の外壁に沿ってそろそろ進んだ。低い階段を上ってテラスに出る。夜の青い闇の中で、私は浅い水溜りを踏みながら建物に沿って歩いた。
 建物のほとんど裏側まで進んだ時には、建物と私は霧によって完全に周囲と切り離された。形のない一色の暗がりが広漠と広がるばかりで、風の音も海岸に打ち寄せる波の音も一面の霧に吸収されるかのようだった。
 思いがけず視野の隅に、赤い光が射し込んでいた。ほんの数歩で建物の外壁が尽きる場所だった。頭の上、手を伸ばすと届く位置の壁面に、「IN」と赤い光がかかっていた。ネオンサインのような文字が闇の中で明か明かと浮かび上っているのだった。その赤い光の下に目立たない一枚の扉があった。灰色の頑丈そうな鉄の扉である。把手のない滑らかな鉄の扉は、そっと端を押してみると軽々と回転した。扉を押す手に体重を預けるとくるりと内側に開き、私はそのまますべり込むように建物の中に入っていた。
 建物の内部は仄暗い赤い光が漂っていた。小さな部屋だった。何も無い空っぽの部屋の先には真っすぐ廊下が続いているようだった。ひんやりした徴臭い空気が溜っている。何となく背後できっちり閉まった扉を押してみる。扉が少し開いて、薄いけむりのような霧が忍び込んだような気がした。
 私は扉を背にして佇んだ。もちろんその場所に留まるつもりはなかった。次のポイントへ進むほかないのだ。
 がらんどうの部屋を通り抜けて、廊下に出た。薄暗い廊下を私はどんどん進んだが、その長い真っすぐの廊下が、不思議なことにいつの間にか下に向って傾斜していた。
 私は地中深く導かれていくようだった。廊下の端がしだいに遠去かり、ついには暗がりの中に溶け込んでしまっても、依然私の前方には廊下が続いているようだった。見えない彼方から地中の遥か先まで貫く秘密の坑道のように思えた。薄暗い斜路を私はどこまで降りていくのだろうと考えるうち、突然廊下は平らになり、岩盤のように揺るぎない壁に突き当った。廊下はそこで右に折れていた。
 その真っすぐ伸びる廊下の右側には、窓のない十個の扉が一定の間隔を置いて並び、その先はやはり壁で終っている。五つ目の扉の上に小さな明かりがともっていた。把手を回すと扉が開いた。

 部屋は柔い照明がされ、どこからか吹き出す乾いた暖い風が、雨に濡れて冷え切った体に心地よい。何となく穴倉のような感じを受けるのは、ひよっとして海にせり出した岩山をくりぬいて造られた部屋であるのかもしれなかった。
 扉口から床まで数段の石造りの階段を下りると、まるで自分がジェームスーボンドになったような気分だった。頑丈で、およそ脱出不可能な穴倉、それでいて天井から壁、床にいたるまで渋い落ち着いた色調のクロスで柔く、巧みにカモフラージュされている感じだ。清潔なシーツの快適そうなべッド、座り心地の良さそうなソファ、すべて申し分なさそうだった。一夜の客に何の不自由も感じさせない用意がしつらえられているようだ。
 ここでゆっくりと眠りさえすればいいのだ。清潔なシーツにくるまって、私は近年にない満足感で眠りにつくことができそうだった。そして事実シーツを体にからめるやいなや、いつの間にか私は眠り込んでしまった。自分の置かれた境遇についてゆっくり考えるいとまもなかったようだ。
 時々私は眠りの深い淵から浮かび上ったようだった。何かが打ちつける音、闇の彼方から押し寄せる波が打ちつける音を聞いたようだ。
 ――夢かもしれない。
 海の沖の方から押し寄せる波を私は感じた。海に突き出た断崖の空洞の柔い光の中で私は横たわっていた。たぶん私は断崖の岩肌に打ちつける海水と同じ位置にいるのだった。強風に吹き流された空には光度の増した星が輝いていて、水平線から一直線に押し寄せる海水のうねりが岩塊と衝突しているのだった。私は岩の中の寝室で眠りながら、私を取り囲み、私の方へ進む海の響きを聞いたのかもしれない。
 夜が続けばいいと思った。夜の果てに朝を迎えなければならない。私は明日への意志を持てないのだ。生への明確な意志を持ち得ない者に、形を成さねばならない時間の始まる朝の到来は嫌なものだ。不分明で行方の定かでない夜こそ好ましい。事物の境界がぼやけた茫漠とした闇のスープの中で、万物が溶け合い結び合う夜こそ私にふさわしいものだ。そして夜の闇の深部で玩具のような夢に浸っていればいい。
 ――私は夢の中で身じろぎした。
 流れ星だった。一つ二つ、暗い夜の空の一角から赤い光を曳いて流れてくる。それはたちまち海を越えてこの海岸へ墜ちてきた。花火のような光芒を散りばめながら、真っすぐ落ちかかり不意に消えた。そして私は眠りの冥暗の方へ漂っていった。

   4脱出
 
私はたっぷり眠った。数年分の中途半端な眠りを清算した気分だった。それだけで満足すべきだったのかもしれない。
 この穴倉のような部屋から這い出して、昨夜下りた長い廊下を上がり、建物の外へ出ることにしよう。部屋の洗面台を使いながら私は今そうするより外ないと考えた。それで前途が開ける希望があるわけでもなかったが、私は新しい寝ぐらを確保したのかもしれないのだ。取りあえず、味気ない日常の生活の場に帰るとしても、週末のためのこの上ない別荘を手に入れたつもりだった。ここでは私は最上の客として扱われるだろうと確信した。どのような理由でかは知る由もないが、私だけの王国、私だけが享受しうるホテルが手に入ったのだと私は考えた。
 さっぱりした気分だったが、空腹感が気になっていた。ひよっとして空腹のために眠りから覚めたのかもしれず、このホテル、私にとって安楽な眠りを保証するホテルでさえも、食事が欠けるとは奇妙なことだと思った。いずれにせよ外に出なければならない。

部屋を出て四つの扉を通り過ぎると、真っすぐ上の方へ伸びる坑道のような廊下に出る。私はその廊下をゆっくりと上っていった。薄暗がりの中で耐え難いほど遠い道のりに見える。彼方の出口は眼を凝らして見ても闇の中に消え、暗黒の無限遠に向けて、私は空しくゆるやかな傾斜をたどっているように思えた。いったい昨夜これ程の距離を下り降りただろうかと不安を覚えた時だった。
 小さな震動に私はよろめいた。それは全く予想外だった。なぜなら私の足元の床が動いたからである。坑道のような廊下の床全体が、今や私を乗せたままベルトコンベヤーのように上方に向けて滑り出していたのである。ゆるやかに上に向かうエスカレーターの上に私は乗っているのだった。床は速度を早めながら地底から地表へ私を送り出そうとしている。私は後へ流れていく壁面に指先を突きながら速度を確かめていた。
 動く廊下の先端に闇の中からようやく出口が見えはしめた時、私は前方の右側の壁に切れ目を見つけた。切れ目の部分から動く床の上に一条の光が射している。それが私の注意を留めた。壁の切れ目が近づいた。昨夜はこんなものはなかったはずだ。動く廊下と直角に別の廊下が開かれている。新しい分岐点である。私は目測あやまたず、正確にもう一つの廊下に飛び移った。
 ちょっと冷や汗が出かかった。へたをすれば壁にぶつかる所だったが、ともかく私は、ここで意外なポイントを拾ったようだ。その廊下は天井からのやけに明るい白っぽい光に照らされて、まぶしい程だった。この光が、動く廊下の暗い床と反対側の壁とを照らしているのだった。ベルトコンベヤーの床は依然音もなく動いていた。

   5完璧なテーブル

 私はまた新たな扉に直面していた。眼が痛くなる程眩しい廊下の先にその扉はあり、その前で私はためらっていた。
 扉の向う側には明らかな人の気配が感じられ、おまけになじみ深いうまそうな匂いも扉の隙間から流れてくるのだった。扉は、廊下に溢れる白光に光り輝いていて、「レストラン」と片カナの黒い文字で記されたプレートがかかっていた。私はしばらくそれを見つめた。まるで他の天体の未知の生物と接触する瞬間のように私は緊張していた。
レストランなんだと気を取り直すべきだった。それでも扉のノブに手を置いたまま数秒ためらい、やはり思い切って扉を開いた。

「いらっしゃいませ」
と呼びかける男女の声がして、部屋の中の柔い光と、食べ物を調理する匂いが人口に立つ私の方へ押し寄せた。部屋の中程で年輩の男と女が私を静かに見守っている。何となく私はひどくぎこちない足どりで部屋の中程まで歩いた。とりあえず何かあいさつすべきだが、言葉がうまく出ないといった具合だった。
「どうぞ、こちらの席におかけください、どうぞさあ」
 如才なくすすめられるまま私は一つのテーブルに着いた。
「お食事の用意を致しましょう。昨夜はよく眠れましたでしょうか」
 男は食卓を準備しながら訊いた。柔い口調だった。私の緊張は幾分か弛んだ。女が調理室で食事を作りはじめた。調理台のガスが盛んに燃える音、フライパンの中でじゅうっと何かが焼ける音、流し台で水が流れる音が聞こえてくる。調理室の小窓から女が立ち働く様子が見えた。
 私は小さな溜息をつき、そうだここはレストランなんだ、自分は当り前の客なのだと思い直して、白い清潔なテーブルクロスの上で指先を組んだ。
「よく眠れましたでしょうか。他にお客もありませんでしたので、当ホテルでも最上の部屋を使用していただきました。――そうですか、くつろげていただけましたか。それはまことにけっこうでございました」
 男はまめまめしく部屋の中を動いていた。一人で何もかも片づけねばならぬと考えているようだった。まるで、長い間休業していた店を開けたばかりで、店内の立たずまいが気にかかるといった感じだった。
 天井の高いだだっ広い部屋だった。私は所在なく部屋の中を見わたしていた。奥行きの広い長方形のその部屋は、一方がモザイクタイルを貼り詰めた壁で、反対側には全面にえんじ色の厚手のカーテンがおろされている。床はベージュ色のじゅうたんが敷かれ、十個のテーブルと各々のテーブルに椅子が四つずつ置かれていた。天井のシャンデリアからは黄色い光が降りそそいでいた。
 男がテーブルを磨き上げる手を休めて私の方に向き直った。
「実を申しますと、朝からずっとお待ちしていたんです。お昼になっても起きていらっしゃらないし、どこかお体の具合でも悪いんじゃないかと家内と心配しておりました。でもまあ、疲れてよく眠ってらっしゃるようだから、そのままお待ちしていたのですが……もうとっくに日が暮れましたよ」
 と言いながら男はテーブルから離れて、カーテンのおろされた部屋の端へ行き、天井の辺りから垂れ下る一本の長いを静かに引いた。すると部屋の片側をすっぽり覆っていたえんじ色の力―テンが一斉に開いて、一面の窓が現われた。
「ほら、ご覧なさい。夜ですよ」
 男は私に微笑みかけた。確かに窓の外は夜たった。私はテーブルから離れて窓際へ行った。そしてぶ厚いガラス窓の下に広がる光景に息をのんだ。見事な大都会の夜景が眼下にあったからである。
 私はガラスに額をくっつけたまま、無言で眼下の都市の夜景を見つめた。晴れわたった夜空には満月が昇り、その宙天の一個の天体の下、眼の届く端から端までびっしりと微細な星屑のような様々な光がふり撤かれていた。それら光の点は均一に散り敷かれているのではなくて、よく見ると所々に光の群れ固まった部分があり、一方の群れから他方の群れにつながる夥しい光点が光の河筋を形づくっていた。太い光の河に流れ込む幾筋もの細い光の流れがあり、それら様々な光の筋が網の目のように眼下に広がっているのだった。
 私はうっとりと夜景を眺めていた。ほとんど自分は今、都会の高層ビルの窓から外を眺めているのだと思い込みつつあった。眼の奥の網膜に結ぶ夜の都市のリアルな映像が、現実感を揺るがせていた。目眩に似た高揚を感じた。私は想い出しかけていた。――ずっと以前これと同じ経験をしたことがある。その時もガラスを透して都市の夜景に見入っていたはずだ。
「美しい眺めでしょう」
 沈黙を破って話しかける男の声を聞いた時にも、私は半ば酔いの感覚に浸っていた。男は窓の外の夜景を見ながら続けて言った。
「これが偽物だとわかっていても、つい見とれてしまうものですよ。私共でさえ、じっと見続けていると、どこかの都会の真只中に放り出されているような気分になるものです。……さびれた海辺の古ぼけた建物の中で、ただの一枚の壁を見つめているとは思えない……」
 男はゆっくりと私の方へ向き直って言った。
「もうおわかりでしょう、幻影を投影しているんですよ。ホログラフィをご存知ですか」
 私は二、三度頷き、再び幻影を見た。都市の夜景そのものがそこにあった。都会の夜が窓ガラスの向うで生きづいていた。人々の夥しい営みが伝わってくるようだった。
「窓を開けてごらんにいれましょうか」
 男は窓枠の止め金を外して一枚のガラスを外に向けて開いた。ひんやりとした夜風が入った。私は開かれた窓から手を差し出し、次に顔を突き出した。風は下から吹き上げてくる。風と共に、都市の喧噪が幾分低められながら下界から伝わってくる。
 ひっきりなしに行き交う車の音、様々な往来の音、その他雑多な音が混じり合った一つのトーンとなって、私の耳に達しているのだった。
 さらに頭を突き出して私は窓とは垂直に下を見た。はるか地上の道路まで、白っぽいタイルの壁が続き、正方形の窓が整然と並んでいるのが見えた。水銀灯に照らされた道の横にうっ蒼と木の繁る公園があり、一組の男女が横断歩道を渡っていた。
 私は窓から頭を引っ込めた。元通り男は窓を閉じ、止め金を掛けた。
「完璧だね」
 私は留息と共にそう洩らさざるを得なかった。
 男は微笑んで言った。
「そう言って頂ければまことに嬉しいです。お客様に御満足いただくのが当ホテルのモットーですから。――さて、お食事の用意も出来ましたようですので、お運び致します」
 女が調理室から食事を運んできた。料理がテーブルの上に並べられた。
「外の景色はこの他にも各種揃えてございますが……」
 と男が言った。
「お客様のお好みに適った風景にセットすることが出来ます」
 私は窓の外の夜景のパノラマを眺めながら食事をしていた。部屋の照明が落とされ、静かな音楽が流れていた。私はこのままでいいと答えた。
 手持ちの用の無くなった男女は、肩を並べて窓から外を眺めている。並んで立つ男女の肩越しに夜空と、都市の地平が見えていた。
「あら、雪だ」
 女がびっくりした声で呟いた。風に吹き上げられた紙片のような雪が窓ガラスに降りかかっていた。男が小声で女に言った。
「こんなのプログラムにあったかね。雪だなんて……」
 男は上着のポケットからカードのようなものを取り出した。
「ナンバー6、二〇世紀末、東京の夜景。晩秋から初冬となっているね。きっとこの年の初雪なんだよ……」
 夜景は不思議な居心地を部屋の中にもたらしていた。

 私か食事を終えると、男女はテーブルの上を片付けた。コーヒーが運ばれ、私はタバコを吸った。窓の外でしきりに雪が舞っていた。
「あれも見事なものだね」
 と私が言うと、男は大きく頷いて
「そうですとも。とてもイリュージョンとは思えません。事実、あなたがお望みなら……本物に変えることさえ……」
と言って男は黙った。
私は男の言う事が十分理解できないでいた。私も失礼して一服しますと言いながら、男はタバコに火を付け、椅子に腰かけた。女も並んで座り、窓の外の雪の降り続く夜景を見ていた。男はうまそうに煙を吐き出しながら話した。
「あなたが望みさえすれば、私共はあなたの希望を適えて差し上げられるということなんです。カードをお持ちですね」
 私は上着の内ポケットの上から、キャッシュ・カードに似た一枚のカードを触った。
 男は軽く頷いて続けた。
「それがあなたのパスポート。いかような世界にでも御案内して差し上げます。いえ本当ですよ、疑わしそうな顔をしてらっしゃる。嘘だとお思いなら、先刻あなたが入ってらした扉から出て行ってごらんなさい。新しい世界が開かれるはずです。あなたが置き忘れた人生、かくあるべきだった人生、もう一つの人生の可能性があなたを待ち受けるはずです」
 男の話し方には切実な響きがあり、まるで私を慰めようとするかのようだった。
 私は窓の外をぼんやりと眺めた。ちらちらと雪が舞い落ちる真っ暗の夜空の下に、都会の美しい光がある。
「ほらご覧なさい。あなたが昔住んでいた街なんです。もう一度やりなおしてみませんか」
 男は私を誘っていた。なぜ男が私の胸の奥深くしまい込まれたささやかな執着を呼び覚まそうとしているのか、私には解らなかった。私の心は動いていた。
 かつがれているのではないかという疑念はなかった。ただ、男の言葉に含まれている一つの可能性に把われていた。
 私は私自身の過去に思いを辿り、中断された時間の接ぎ穂について思いをめぐらせていた。頭の中で何かがグルグル回り出していた。小さな独楽のようなものだ。
 もし男の言う事が真実なら――、私は扉を一歩踏み出すだけで越えられないはずの障壁を飛び越え跳躍し、過去の一時期に舞い戻れるのかもしれなかった。私は扉を見つめた。何か背筋がむずむずするようだった。
 もし男の言う事が本当なら……本当に決っているのだ。今や私は、不思議な一連の出来事を経て、ある種の迷宮に入り込んでいた。予測の適わない偶然性の迷宮だった。途方もない地点にいると、とうに私は察するべきだった。今私は、目くるめく虹のきらめきの中心にいるらしい。それは、他の世界への通路に立だされているような危うく、妖しい感覚だった。
 私はテーブルクロスの上で両手を組み、眼を閉じた。頭の中で発電機のように回転する独楽が、しだいに回転のスピードを落としている。と同時に、部屋の明かりが失われていき、私自身の意識も急速に暗がりの方へ漂い始めているのだった。
 小さな独楽はゆっくり回っていた。回転が尽きかけてふらふら揺れ、その内一まわり、二まわりと数える程なく、転がり停止した。

   6帰還

 男が心配そうな眼で私を覗き込んでいた。 
「お客さん、あなた大丈夫ですか」
 私は首を伸ばし、しこりを揉んだ。けだるい疲労感があった。部屋の中は元通りに明るく、私の横に男女が立っていた。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていたら……奇妙な幻想を見たらしい……夢のような、それにしても不思議な夢だが」
 男が言った。
「もし宜しければ、あなたの見た夢を私共に話してくれませんか」
 それで私は、この二人に話して聞かせることにしたのだった。

   7想起

 闇の中を落ちていくようだった。最初ふわりと浮き上がり、次に闇の底に向って沈んでいった。捉えようのない頼りない空間を跳んでいるようにも思えた。
 微かな身体の重さを感じ始めると、光が射し込んできた。不意に全体重が蘇り、下から固い床に支えられた。
 チンと鳴る音がして眼の前で扉が開いた。私はエレベーターの扉から出るところだった。ふらふらした足取りでロビーを横切り、壁際のソファに座り込んでしまった。そのまましばらく私は放心していた。
 ほんの少しの間、居眠りしていたかもしれない。
「もしもし……」
 青い制服の若い警備員の顔が眼の前にあった。
「もしもし大丈夫ですか。こんな所で眠られちゃ困るんですが」
 いやちょっと目まいがして……と言いながら私が立ち上がるのを見届けると、警備員は去った。ポケットを探るとタバコがあった。タバコに火を付けた。エレベーターから吐き出される人々がロビーを通って玄関から流れ出ていた。私は人の波に混じるとビルの外に出た。十二月の一日は短く、日が暮れ落ちていた。どこかで六時のチャイムが鳴っている。ビルの間から、体の芯まで寒くなる冷たい風が吹きつけてきた。アパートに帰ったらすぐ風呂へ行こうと思った。
 駅に向かって歩きながら、私は今し方済ませてきた用件を思い出していた。思い出すとちょっと苦々しい気持になった。

 名前を呼ばれて面接室に入ると担当者が訊いた。
「あなたは背広を何着持っていますか?」
 私は答えた。
「一着です。今着ているのがそうです」
 担当者は私の全身を上から下まで素早く一瞥すると、用紙に何か記入した。質問者は、いかにも芸能関係者らしく見えるような、要するに派手な格好をしていた。
レコードを何枚持っているかとか、あるいは好きな音楽について訊かれた。およそ二十項目ほどの質問事項で私に関する定型的なデータが用紙に記入されると、フリーの質疑応答に切り替った。
 会社にとってどの程度使えるかという尺度で、就職希望者はふるいにかけられる。私の普段の生活では縁遠い基準だった。リクルート・スーツが身に合わないように、私の売り込みは私の日常感覚にそぐわないものだった。
 依然、職は得られそうになかった。面接のための完璧な演技が必要だと思った。要するにテクニックの問題だと口に出して呟いたが、本気ではなかった。実際、地下鉄への階段を足早に降りながら、私は今日一日の残りの生活費が気にかかっていた。交通費が思いがけない出費だった。電車の定期券が期限切れになってからは、都心へ出ることじたい、生活を圧迫した。
 プラットホームで地下鉄を待ちながら、帰りにコーヒー一杯くらいならどうにか飲めそうだと計算していた。
不意に奇妙な感情が湧き上った。
電車がホームに入ってくるのを待つ、わずかな空白の時間だった。
 私は現在を振り返って見ていた。思い出としての現在がそこにあるのだった。その時、私は未来の眼差しが射し込んだように感じられた。私の周囲には見知らぬ人々があり、それぞれの現在を生きている。紛れもなく一九七五年の十二月のある日の、生活の真只中に深く根ざした人々の群れだった。
 どうやら私は現在をうまく処理し切れていないらしい。私の悩みは、現在に根づけないことである。悩みは深刻で、私の日常の奥深い所で不安と焦燥とがないまぜになっていた。あたかも虫歯の痛みのようなもので、根本的な治療を避けて、慢性の痛みをだましだまししのいでいるのだった。未来の眼とは、現実から逃げ出したがっている私の気休めなのかもしれない……。
 私は地下鉄の扉によりかかっていた。
 ガラスに映し出される私自身に相対していた。むっつりした表情で私を見つめている。その眼は、刻々に過ぎていく現在の時間を支配し切れない私の弱さを詰っていた。
 大学を卒業して以来、一年近く私はこの都会で当てもなく留まっていた。その日暮らしの失業者のような生活だった。定職にもつかず、消極的な就職活動を細々とやりながら、実社会への機会を一日ずつ遠去けていた。
 結局のところこの都会でまともにやっていけるのだろうかと私は思いあぐねる。ごく気楽に稼げる仕事口がないものかと考える自分自身が情けなかった。
 混んでいた車内に空席が目立ち始めた。吊革につかまる乗客はいなかった。私はシートに座り、終点に向って運ばれていた。
 私の斜め前に一人の女子高校生が座っていた。薄っぺらの黒革の学用カバンを膝の上に乗せて頭を傾けている。どこか定かでない一点を見つめる表情には、不思議な程生気がなかった。疲れ切っているようだった。宙を見つめる瞳は、何も映していないように思われる。魂の抜け殼のような少女の横顔に、私はまたもや微妙な感懐を思い出しそうになった。
 明らかに、未来の記憶の断片のようなイメージが胸の底に舞い降りた。

 ――今私は、数年前の日記帳の、たまたま開いたページをたどっているのかもしれぬ。相変わらず、中断された記憶の中の古い夢を蒸し返そうとしているようだ。

 地下鉄は首都の大地の下の暗がりを横切っていた。私はどこへ向っているのだろう?
 数年間、私は確かな拠り所もなく、広大な都会の大海の中で漂流し続けている。果たしてどこかの岸辺に漂着するだろうか。
「なるようになるさ」
 私はごく詰まらない決まり文句を呟いた。電車は右に曲がる緩やかなカーブを過ぎ、終点のターミナルに入っていった。制動が始まり、速度を噛み殺すようなブレーキの軋み。その時、電車が不意に大きく揺れた。ゆらゆらと頼りなく私の眼に映ずる情景が揺れている。私の視覚に異常が起っていた。私の前に座っていた女子高生も、他の乗客もまるで何事もないように電車の出口へ移動している。電車がプラットホームに停止した。その時ぴたりと揺れが止まり、眼の前の情景はモノクロ写真のように色彩が失われた。
 電車の扉が開き、乗客がホームに歩み出そうとする瞬間だった。その場の情景がストップ・モーションのまま、一枚の平板な写真のように凍りついてしまった。そして薄っぺらな一枚の写真と化した場面は闇の中に素早く紛れ込んだ。
 ――一冊の古い日記帳が閉じられて、暗闇の中の本棚の元の場所にひっそりと戻された。

   8旅立ち

 私は、カップの底でとうに冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干すと、テーブルの上の受け皿に置いた。
私が語り終っても、男とその妻は考え込むようにうつむいたままだった。不思議な位似た表情を浮かべていた。
私は窓の方を見た。元通りカーテンでおおわれていた。窓の外を見ることは出来ない。私は窓一杯の大きさの、スクリーンのようなものを想像した。
 部屋には静かな音楽が流れていた。他に一人の客もいない、閑散としたレストランである。黄色の暖い光が部屋の中に充ちていた。
「きっと夢を見ていたんでしようね」
 ゆっくりと顔を上げて男が静かに言った。
「夢なんだろうか? しかし確かに私は、あの街の空気を呼吸し、人混みの中で歩き、地下鉄に乗っていた。――それは、本当に手応えのあるしっかりとした実感なんだ。もしひととき私か経験したものが、ただの錯覚、夢のようなものであるとしても、確かに私は七年前の自分自身に舞い降りたんだ」
 私は、歳末の街の冷たい風を思い出した。駅に向って歩いていた私自身を、つい先刻のように感じている。
 男が小さく頷いて言った。
「――確かに、あなたは七年前のあなた自身に会われたんですよ。でも、あなたは、こうして今、私共の眼の前で座ってらっしゃる。時間を跳び越えた訳ではないのです。言わば、一種のシュミレーションをあなた自身の意識の内部でおやりになった。あなたが私共の眼の前から消えてしまったわけではなくて、ほんの数秒の間に、あの懐しい街の中の、七年前のあなた自身への回想の旅をおやりになったんですね。コーヒーカップの中のコーヒーが、ほんの少し冷める間のことでした」
「コーヒーお替わり致しましようか」
 男の妻が静かに言った。
「いや、もう結構。じゃあ何かい? ぼく自身はここで、この椅子に座り込んだまま、ぼくの意識だけが七年前のあの街に還っていったというわけか……。そして、結局ここへ戻ってきたということなんだね。たぶんぼくは、ぼくの夢の中の玩具の街をさまよっていたんだね。それにしても、ぼくは何か別の、もっと新しい夢を見たかった。出来ることなら、――出来ることなら夢を超えて、七年前のあの時点から、別の新しい現実に踏み出したかったものだ。後悔は今でもあるんだ。あの当時、別の選択をしていればよかった……」
「そうかもしれません。でも仮りにあなたが、別の、もう一つの現実をたどったとしても、やはり夜道で何かのしるしを見つけたでしょうね。今お持ちになっているカードのようなものを。あの都会のどこかで、たまたまあなたの手で拾われるでしょう。結局のところ、――人生に分岐点は無数にあると思われませんか?」
 男の眼が真っすぐ私の眼を見ていた。
やり直しは利かないのだと男は言っている。でも、そもそも初めに私を誘い出したんじゃなかっただろうか。私は勧められたのだ。
「でも、もう少しぼく自身のシミュレーション、意識の旅が続いていればどうなっていたんだろう? 地下鉄でターミナルに着き、それから電車に乗り換えたとする。ぼく自身は厳密に言えば、七年前のぼく自身そのものではないはずなんだ。七年後の、言わば未来の記憶の断片を付与されているぼくは、完結した日記帳の事実通りには行動しないかもしれない。だから、当時郷里に帰ることもなく、こうして夜の海辺に来ることもなかったかもしれないじゃないか。そのままあの街に踏みとどまっていたかもしれない」
 私は、七年前の都会の生活への未練だけではなく、思いがけないこのゲームのからくりを知りたいのだった。
「とにかく、あんな幕切れじゃなくて、そのままぼくがあの街に居つづけたらどうなる? ひょっとして夢の領域を跳び越えられたんじゃないか。君たちの、この途方もなく不可思議なシステムは、夢を超えさせることも出来たんじゃないか?」
 男はしばらく黙り続けた。まばたきを三回した。唇の端に苦笑いが浮かび、申し訳なさそうに言った。
「種をお明かししましょう。私たちが、あなたのシミュレーションを停止しました。あなたのおっしゃるコースをあなた自身が進み、別の人生を生きることは可能だった。地下鉄で予定どおり駅に着き、郊外行きの電車に乗り換えて、あなたはアパートにたどり着いたとします。そしてよく日もその次の日も、同じように平穏な毎日が続いたとします。あなたのおっしゃるように郷里にも帰らず、つまりあの街であなたは真っすぐ一本の枝を伸ばしつづける。追憶の中で新しい枝葉を繁らせるわけです。そうしてあなたは私共の眼の前から実体が失われ、ついに追憶の中へ転身したとします。さて、それからどうなると思われます? 数ヶ月後、あるいは数年後のある夜のことです。あなたは会社からの帰りみち、とある住宅街のはずれで、路上に何かぼんやり光っている奇妙なものを拾得するでしょうね。それからあなたの記憶の中でおなじみの公園、夜のZ公園にさまよい出たあなたは、人気のない深夜の池のほとりのあずま屋で、奇妙な見慣れない一枚の扉を見出すでしょう。そして、やっぱりあなたは私共に会うことになるのです。――再会とでも言うべきでしょうか」
 男は言葉を切った。男の視線は私から外れて、やや斜めに横切り、遠い公園の夜の闇を見つめているように思われた。男は続けて言った。
「変わりばえのしない事になるようです。今あなたに向ってお話している情景、これがもう一回そっくり繰り返されるかもしれませんね。私共は、あなたのためのシミュレーションを停止せざるを得なかった。それは人生の廻り道、あなたと私共にとっての時間の損失を避けるためなんです。一個の夢にも経済性が要求されるのです。もう一つの世界の別の地点で、私がもう一人のあなたにお話している光景を想像できますでしょう……」
 耳を澄ますと、遠い世界の夜の果てから、もう一人の私に話しかける声がこだまのように私の頭蓋の中まで届く気がした。
 この海辺の夜ともう一つの世界の夜との間に、どのような回線が通じているのだろう。

 ――私の夢は封印され、しまい込まれた。さてどこへ行けばいいのだろうか?
「私共はあなたに一つの処方を差し上げようと思うのです」
 男はほほえんで言った。
「こんな夜の海辺にお誘いしたのですから、このままあなたをお帰しするのもお気の毒です。あなたご自身の忌わしい後悔の連鎖を断ち切って差し上げましょう。そして新しい世界へ船出させてあげますとも。あなたが入っていらしたあの扉をもう一度向う側へ通り抜けてごらんなさい」
「――ちょっと待って。いったいぼくをどんな世界へ送り出してくれるのかい?」
 私は、扉の把手に手を乗せたまま振り返って聞いた。
「あなたが心の奥で求める世界ですよ。あなたがしくじったと考えてらっしゃるあの街から離れた七年間に、あなた自身は変容しました。七年後のあなたに似つかわしい、あなたに適ったもう一つの海辺です」
 私は扉を開き、レストランを出る前にもう一度振り返って小さく叫んだ。
「さようなら、ありがとう」
 扉が閉じる直前、男が投げ返した言葉を私は聞いた。
「さようなら、若い怠け者さん」

   9終点に在るもの
 
レストランの扉はきっちりとしまった。
まばゆい白光に輝く廊下を私は進んだ。光の先に、無人の廊下が動いていた。廊下に私は飛び乗った。動く斜面の上に照らされた光はたちまち後に過ぎていった。矩形の光はしだいに下の方へ遠去かっていったが、暗がりの真っすぐな斜路の真ん中で、いつまでもその小さな光が輝いていた。
 不意に動くベルトの終点に私はいた。
 終点に着いたというより、私は元々の出発点に引き上げられたのだった。建物全体が私を外部へ押し出そうとする意思を感じた。私がたった今通過してきた地中の深部へ通じる斜路は、いかなる者の侵入も拒絶するかのように、不吉な塗り込めたような黒い闇で閉ざされていた。
 前方に短い廊下が伸びていた。この廊下を私は来たのだった。その先に小部屋があり、薄暗い赤色の光が漂っている。そして、扉があった。
 一度私はその扉を通った。そして再び通ろうとしている。
 時間が円環を形成し、二回の行為を連結させようとしていた。扉から扉へ。私は建物の深部をさまよっていたのだった。そして建物を今出る。

 扉はなめらかに回転し、私は外へ出た。
 風が吹きつけた。空は晴れわたり、満月が海と海岸とをくっきりと浮かび上がらせていた。快適な夜たった。
 海は潮が満ち、私の足元まで穏やかな波がひたひたと寄せている。振り返ると、小さな古ぼけた木造りの小屋があった。扉はペンキが剥げ落ちて朽ちはてていた。波の舌先にいまにも洗われそうだった。
 私は渚に沿って歩きはじめた。海岸線は、緩い孤を描いて前方の遠い岬まで続いている。砂浜と平行に黒々とした熱帯林が続く岬の付け根の辺りに、親しげな明かりが見えたからである。
 さわやかな貿易風が大洋を渡って吹いている。満月の光に照らされて夜目にも白く見える珊瑚礁の砂に足を取られながら、私はゆっくりと歩きつづけた。夜が明けるまでにはまだ間かある。
 ――夢を拾い上げるのはた易いことだ。これは人生の短絡だろうか。私は一枚の扉を通り抜けて長い晩年に入り込んだのかもしれない。
 私は自問自答した。――これでいいのだな――もちろん。例外だって差し支えはない、途中で廻り道したけれど。

   10散歩の果て

「ホット・バーガーはいかが?」
 赤と青のイルミネーションが明か明かとともった屋台の陰から女の声がした。
 そこは、熱帯林を切り開いた木立の中の、リゾートホテルの前だった。静まり返ったホテルの前庭の、その一角だけが奇妙に明るい。スタンドの裏から女が立ち上って、また私に聞いた。
「ホット・バーガーを召し上りません? お腹が空いたでしょ」
「要らない。コーヒーを貰うよ」
 女はポットから紙コップにコーヒーを注ぐと、私の方へ差し出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 私はスタンドによりかかって熱いコーヒーを啜った。木立の間から夜の海が見える。深夜の海は穏やかだった。
「お散歩でしたの?」
「……まあね」
 女の聞き方はおかしかった。私はそもそもここへ来たばかりなのに。
「長いお散歩でしたわね」
 私は黙ってコーヒーを飲んだ。名の知れない鳥が木立を騒がせて鳴いている。南の海にいることを私はしみじみと味わっていた。
「この海岸のずっと向うから歩いてきたからね」
 私は呟くように言った。
「お疲れでしょう」
「そうでもないさ」
「もうおやすみになったら」
「そうしよう、時刻も遅いし」
「お部屋の鍵をお渡ししますわ」
「ありがとう」
「おやすみなさい」
 女は屋台を閉めた。私は寝静まったホテルに入り、階段を上って部屋までたどり着いた。鍵を開けて部屋に入る。扉を開く時に一瞬奇妙な感懐が湧いた。が、それはごく普通のベッド・ルームだった。私はナイト・テーブルに灯をつけてベッドの端に腰かけた。
 これからの長い時間をどうして過すべきだろう……。先ずホット・バーガーとやらを食べてみようと考え始めていた。(終わり)

 小説集「女の都」(文芸社刊)より

夜の扉

夜の扉

海辺の霧の中に、ひとつの扉がある。 人はそこから入り、 そして、扉から出てくる。 ただし、同じままではない。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-17

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