05 想い人 ⑤
24章~30章
24
木曜日、朝、小雨。
カコは教室に入ってすぐに、乙音の席を数人の女子が取り巻いているのに気付いた。
その女子の中には、別のクラスの子も混じっている。
そして乙音の横には音也の姿があった。
なるほど、女子たちのお目当ては音也だったのだ。
それにしても異様な光景だった。
どうしてそんなに、みんなが音也くんに惹かれるのか? カコには分からなかった。
カコにとって音也は、お友だちの中の一人で、乙音ちゃんのお兄さんとしての位置づけなのである。
蓼(たで)食う虫も好き好き、なのなぁ~。
とそんなことを考えながら、カコは席に移動して鞄を机の上に置いた。
すると乙音がカコに気付いて立ち上がり、女子たちをかき分けて駆け寄って来た。
「カコさん、おはよう、ございます」
カコも、鞄の中身を机の中に移す手を止めて顔をあげた。
「おはよう。もう、大丈夫みたいだね」
「大丈夫、です、昨日、鞄、届けて、くれて、ありがと」
乙音は背筋を伸ばして真面目な顔になり、それから改めてお辞儀をした。
カコは笑った。
「そんなに、しゃちほこばらなくてもいいのに」
すると乙音が首を傾げた。
「しゃち、ほこ、ばる?」
「緊張して身体を強ばらせるって意味だよ。堅くならなくてもいいってこと。返ってこっちが恐縮しちゃうじゃない」とまた笑った。
「しゃち、ほこ、ばる、ですね、また、新しい言葉、覚えました、えへ……」
乙音は手を頭の上に乗せ、舌を出しておどけた。
「ほんとに元気そうだね……、よかった」
「うん、とっても、元気、です」と言い、ニコニコ顔で話を続けた。
「お母さん、朝一番、きちんと、お礼、言いなさい、言われた」
「それならユウコに言った方がいいんじゃない? わたしとジンジは鞄を届けただけで、ユウコは保健室でずっと乙音ちゃんの事を看ていてくれてたんだから――」
なるほど、お乙音。
「そうか、そうですね、そうですよ! ユウコさん、お礼、ゆく」
乙音は自分の席に振り返った。
音也は今も、女子たちに囲まれていた。
「お兄ちゃん、こっち、来て」
顔を上げた音也は、乙音に手をあげた。
「いまいく」と返事をして、取り巻きの女子たちに言葉を掛けたあとに、ゆっくりとやって来た。
音也に取り残された女子たちは、何も言わずにこちらを見ている。
「おはようございます」
音也がカコに挨拶すると、カコも同時に、おはよう、と返していた。
「ユウコさん、お礼、行く、今すぐ」
乙音は音也に言った。
すると音也は乙音を制し、カコの正面に立った。
え? あ、はい? なに?
そして音也は、いきなり頭を下げていた。
「昨日は本当にありがとうございました」とお礼の言葉を口にしていた。
慌てたカコもギクシャクしながら頭を下げていた。
音也は杓子定規なところがあるから、と言っていたおばさんの言葉を思い出していた。
「なに、あれ」
たむろする女子たちの間から声があがった。
同時に、ため息にも似た吐息も聞こえてきた。
それが音也には聞こえているのかいないのか……
頭を上げた音也は、乙音に向き直っていた。
「じゃあ、江本さんにもお礼を言いにいこうか……」
それからまたカコに向き直り
「ユウコさんは学校に来てますか?」と訊ねた。
「(わたしと)一緒に来たから、208に居るよ」と慌てて答えていた。
「ありがとう」
と言ったのは乙音で
「それじゃあ、すぐ、お兄ちゃん、いこう」と音也を急かしだした。
カコを見たり、自分(音也)に振り返ったり、と目まぐるしい乙音に苦笑しながら音也は頷いた。
「……っと、その、前に」とまた乙音はカコに向き直り
「今日こそ、部活、見学、よろしく、お願い、します」と笑った。
「ジンジに言っとく……」
音也と同じように、カコも苦笑していた。
そして、カコが応えてくれたのを確認し終えると、乙音はもう後方の扉に向かって行動を起こしていた。
あれだけ元気なら、ほんとに大丈夫だね、と乙音の姿を追っていると
「お兄ちゃん! 早く」
乙音の声が教室に響いた。
扉の前で足踏みしながら、音也を手招きしている。
音也は
「ああ、解った。いくよ――」と返事をするとカコに目線を戻し
「それじゃあ」と言って乙音を追って教室を後にしていた。
25
教室の後ろの棚に鞄を置こうとしていると、数人の女子が近付いて来た。
乙音の席の周りに居た女子たちである。
カコは女子たちに囲まれた。
「なに、なに、いつの間に入間くんとそんなに仲良くなっちゃったの」
「二人が転校して来たのって、月曜日だったよね」
「今日は木曜日だよ。まだ四日しかたってないのに……」
「実質は三日だよね」
「そう三日、たった三日」
「なんで、なんで?」
「なんで、そんなに親しく話ができるの?」
カコは矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けられた。
しかもその言葉尻に、棘(とげ)を感じた。
「わたしは、彼女と話をしてたんだよ」とカコ。
「そのあと入間くんとも親しく話をしてたじゃない!」
親しく? どこが? 挨拶しただけだよ、と言いたかった。
「それは昨日、彼女が忘れて帰った鞄を、家入くんと一緒に届けたから……」
「鞄を届けたから……、だから何?」
一人が、ズイっと前に出た。
「その時のお礼を……」
カコは慎重に言葉を選んだ。
「その時のお礼を、二人が言いにきただけだよ」
すると……
「なんで墨木さんが鞄を届けるのよ。隣の席の家入くんが一人で届ければよかったんじゃないの」と別の声。
「それは……」
カコは言葉に詰まった。
「そうよ! 家入くんだけが行けばよかったのよ」
そうだそうだ、と周りの女子たちから賛同の声があがった。
「乙音ちゃんの家が、たまたま家入くんとわたしが帰る方向にあったから……」
「ちょっと待って」
「(乙音)ちゃん……てそれ何? もうちゃん付けで呼んでるの?」
「早すぎない」
「取り入ってんじゃないの?」
「妹をちゃん付けで呼んで仲良くなって、それからお兄さんに取り入ろうとしてるのよ」
一同の目線がカコに注がれている。
「そんな……」
カコは言葉に窮した。
「ならなんで入間さんとか入間くん……て呼ばないのよ?」
別の一人がさらに詰め寄って来た。
手を伸ばせば届きそうな距離だ。
「何か言いなさいよ……」
カコは圧に押されて、思わず下がりそうになった。
その時である……
「ねェ、あんたたち!」
語気の強い声が辺りに響いた。
その場の全員が、声の方を見た。
そこにはシジミが居た。
彼女は鞄を肩に掛けたまま、腰に手を当てて立っていた。
登校して来たばかりのようだ。
「カコが嘘を言うわけ無いじゃないヨ。家入くんと一緒に鞄を届けただけだって言ってるでしょ! どうして信じられないの?」
シジミは周りの女子たちを、強く睨み付けていた。
その勢いに、女子たちはたじろいだ。
カコもあっけに取られいる。
すると突然……
パンパン、とシジミが手を叩いた。
「ほら、自習が始まるよ!」
反射的に、みんなの目が黒板の上の時計に向いていた。
もうすぐ予鈴が鳴る時間だった。
女子たちの高飛車な態度は、いつの間にか陰を潜め、毒気を抜かれたように大人しくなっていた。
そして互いに、何かを納得したように頷き合い、無言のまま散らばっていった。
最後は、カコとシジミだけになっていた。
26
「大丈夫だった?」
シジミがカコに声を掛けた。
「う、うん。大丈夫」
カコは笑顔を見せているが、どことなく哀しそうだった。
「ありがと……」
「ううん、どういたしまして。逆にわたしの方こそ、カコにありがとうって言いたいくらいなんだから」
カコを元気付けようと、シジミは大きな笑顔を作っていた。
「どういうこと?」
するとカコは、理由が分からない、と怪訝な顔を見せた。
シジミは今度は屈託の無い笑いを見せていた。
「だって、カコとユウコのお陰で悩みが無くなったんだもん」
「わたしとユウコの?」
「そう、二人のお陰だよ」
シジミは一度大きく息を吸うと、昨日の朝の下駄箱での出来事の話を始めた。
「それで休み時間に、もう一度確かめてみたの。家入くんがわたしに〝大丈夫だから〟って言ってくれたその意味を……」
そしてシジミは言葉を切り
「昨日の朝の大丈夫は、わたし達が思ってたのと同じだったってことが分かったの。でもなかなかね……」
「なかなか……て?」
「家入くんが言った大丈夫は、誰かにアドバイスして貰ったんじゃないのかなぁ?って思ったの」
シジミは肩をすくめた。
「だっておかしいよね。家入くんが大丈夫って言ってくれるほど、わたしとアジのことを以前から知ってた訳じゃ無いもの……。多分家入くんが知ったのは、月曜日のことだよ」と言うシジミは照れくさそうだった。
放課後に二人で教室に居たことを、ジンジに偶然見られたことを言っているのだ。
「わたしたちの仲を、クラスの中で、たぶん家入くんが一番最後に知ったわけじゃない?」
「うん、まぁ、そうだよね」
言われてみればそうだ。
カコはジンジの鈍感さに呆れていた。
「それで、問い詰めてみたってわけね――」とカコ。
「なかなか喋ってくれなかったんだよ。でも結局最後はカコとユウコに色々教わったって、白状しちゃったんだけどね」
シジミは、あははっと大きな口を開けて笑った。
「あいつはほんとに言葉足らずだからね、ごめんね」
カコは苦笑していた。
「でも、家入くん気持ちは、わたし達にちゃんと伝わったよ」
そう言われて、カコは嬉しかった。
「カコとユウコの二人が、わたし達の気持ちをちゃんと分かってくれた上で、それを家入くんに伝えてくれたんだって思った。ほんとにありがとう……ってしか言いようがないよ」
「ううん、とんでもない」
カコは首を振った。
「わたしとユウコは、(シジミとアジを見てて)そうだろうなぁ~って思ったことを伝えただけだよ」
カコは遠慮がちにそう言った。
「でもそうしてくれて、ほんとに良かったんだよ。家入くんってば、その道に関しては鈍感そうだから――。あ、ごめんね」
シジミは慌てて胸の前で手を合わせた。
「ううん、いいだよ」
カコは笑った。
そしてシジミも笑った。
いつもこうやってニコニコ笑って、冗談ばかり言っているシジミが、わたしのことを信じてくれて、みんなにしっかりと、そうじゃ無い、言ってくれるなんて――。
シジミって強いんだなぁ~と、カコは思わずにはいられなかった。
「わたしこそありがと……」
「ううん、わたしこそ……」
お互いが交わすその笑みは、同じ気持ちの笑みだった。
「そろそろ自習が始まるよ」
シジミは、うん、と元気に言って席に戻った。
彼女の後ろ姿を見ながら、誰にも譲れない思いが彼女を強くしたのかも知れない……とカコは思った。
カコが席に戻ると、そこへジンジが教室に走って入ってきた。
同時に、自習開始の予鈴が鳴った。
「みなさん、おはようございます」
教室のみんなに聞こえるように、ジンジが大きな声で挨拶する。
「セーフですよね」とまた大声で言う。
「ぎりぎりセーフ」と誰かの声がする。
ジンジは今日も元気だね……
カコにいつもの笑顔が戻っていた。
ジンジは、急いで鞄を後ろの棚にしまうと、戻って来てそのまま勢いよく席に着地した。
……とジンジは、顔を歪めて跳ね上がるように立ち上がり、反射的に手で尻を払っていた。
床の上にカランと音を立てて何かが落ちた。
突然立ち上がったもんだから、その動きは、教室中が知るところとなった。
するとジンジは
「お騒がせいたしました。何でもありません」と照れ笑いをしながらみんなに謝り、ゆっくりと椅子に座った。
テ~、何だよう……と床に落ちた物を拾い上げてみると、それは画鋲だった。
何でこんな物(もん)が椅子の上に?と訝しみながらも、ジンジは、何食わぬ顔で近くの壁に、その画鋲を刺した。
そこへ、ユウコにお礼の挨拶をし、ついでに雑談を終わらせた乙音が戻ってきた。
「おはよう、ございます」
ニコニコと笑っている。
ジンジは乙音の顔色を伺った。
「おはよう。もう、大丈夫そうだね」
「大丈夫、です、昨日、ありがとう、ございます」
そう言って席に着いた。
自習が始まった。
乙音は相変わらず家庭科の教科書だ。
ジンジも席に着いて、苦手な社会の教科書を開いていた。
27
ナオとユウコと一緒に208でお弁当を済ませて、カコは教室に戻ってきた。
食べながら、昨日出来なかった入間兄妹の部活案内をどうしようか?の話をした。
その後三人は、取り留めのない話で盛り上がりながら食事を終え、教室へ戻ってきたのである。
カコはただ何となく、ジンジの机に目を向けていた。
ジンジは席に居なかった。
またブラブラと学校の中をほっつき歩いているのかな……とも思ったが、今朝の妙な動きも気になっていたし、どうにも気持ちに引っ掛かるものがあって、乙音に訊いてみることにした。
乙音は自分の席で、数人の男子に囲まれて話をしている。
「乙音ちゃん、ジンジ見なかった?」
「見てない、です」
そう言うとまた、男子たちとの話の輪に入っていった。
「ジンジ知らない?」
すると今度は、男子たちがカコに目を向けた。
仲の良いクラスメイトたち……
でも今、カコは誰かに、指先で背骨をなぞられたような感覚を覚えた。
「知らない……」
その中の一人が言うと、みんなが一同に首を横に振った。
「そう、ありがと……」
カコは諦めて席に戻った。
教室中を見回す。
そう言えば、シゲボーとタニの姿も見えない。
言い得ぬ不安がこみ上げてきて、カコは教室の後ろの鞄棚に行った。
ジンジごめんね……悪いとは思いながらジンジの鞄を開けてみた。
中には弁当だけが入っていた。
手に取ってみると、重い――。
食べてないじゃない。
カコは再び乙音の所まで行って、雑談の中に無理矢理割って入った。
「乙音ちゃん、今日は誰と一緒にお昼をしたの?」
「お弁当、ですか?」と首を傾げて考える。
「タニやシゲボーたちと一緒に食べたんじゃないの?」
「今日、他の、人たち、食べました」
「他の人たち?」
「だって、三人、居なかった」
乙音はそれだけ言って、また雑談に戻っていた。
不安が募る。
もう一度、教室の中を見回す。
シジミがこっちを見て立ち上がった。
その顔は、何か言いたそうにしている。
そしてアジの席に目を向ける。
アジの姿も無かった。
みんなはどこに……?
カコが、シジミの席まで行こうとしたとき、シゲボー、タニ、アジの三人が教室に帰って来た。
彼らはまだ体操服を着たままだった。
カコとシジミは、三人に足早に近付いていった。
五人は、教室の後ろに集まった。
カコがジンジは?と訊こうとする前に
「ジンジが怪我をした」とシゲボーの第一声。
「ケガ?」
膝の力が抜ける感覚があった。
「4時限目の体育の授業で……」とタニ。
「どうして?」
「バスケットの試合中に相手とぶつかって壁に跳ね飛ばされた……だと思う」とアジ。
「だと思うって……、何なのよ?」
シジミが詰め寄っていた。
「誰もその場面を見ていないんだ」シゲボーが言う。
「大きな音がして、気付いたらジンジが床に倒れてた」とタニ。
「今何処に?」
「保健室で横になってる」とシゲボー。
今日の4時限目は、男子は体育館で体育。
本当なら女子も一緒に体育館で授業を受けるはずだったのだが、女子担任の先生が急用で不在となり、急遽教室で保健体育の自習に変更になっていたのだ。
カコは、教室を飛び出していた。
廊下を急ぎながらカコは思った。
乙音と雑談していた男子たちが、誰も何も教えてくれなかったのは何故(どうして)なの?
28
保健室に駆け込むと、保健医の先生と二人の女子生徒がテーブルを囲んでお茶を飲んでいた。
「先生、ジンジは?」
「ジンジ……?」
カコは慌てて言い直した。
「ご、ごめんなさい。家入くんは?」
「ああ、彼ならベッドで横になってるわよ」
先生は窓際のベッドだと教えてくれた。
「頭を打ったみたいだから、寝かせてあるけど、わたしの見立てでは、大丈夫だと思うよ。彼相当な石頭みたいね――」
カコは先生に頭を下げるとベッドに移動し、カーテンを割って顔だけで中を覗き込んだ。
ジンジは額にタオルを乗せ、仰向けになって眠っていた。
顔色は?……悪くないようだ。
カコは胸を撫で下ろした。
そしてそのまま、身体を横にして中に滑り込んだ。
カーテンを引いたらレールを滑る音で気が付いてしまうかも知れないと思ったからだ。
椅子を静かに引き寄せ、枕元に腰掛ける。
額の上に乗せられたタオルに触ってみた。
冷たかった。
そお~と捲ってみると、額の右上にタンコブがあった。
うわっ、痛そう……、カコはゆっくりとタオルを戻した。
それから改めて、ジンジの顔を覗き込んだ。
ジンジは、薄く口を開いて寝息を立てている。
カコがこうやってマジマジとジンジの寝顔を見るのは、ジンジを家入くんと呼んでいたころ、あの図書館で蜂蜜入り紅茶を二人で飲んだとき以来だった。
その時ジンジは、閲覧室の椅子に座ってうつむき加減で居眠りしていたので、こうやってまっすぐに寝顔を見るのは、初めてなのかも知れない――。
何て表現すればいいのだろう。
小学校5年生の時から同じクラスで、ほとんど毎日、ずっと顔を付き合わせているのに、こうやって改めて見てみると、そのころから何かが変わっているような気がするのだ。
ジンジはジンジなのだけれど、昔とはどことなく違っているように見えるし、そう思う。
でも……、色白で頬や鼻の周りにそばかすがあるのは相変わらずだ。
あッ、喉仏だ。
胸の上下に併せて、喉仏が緩く動いている。
カコは去年、変声期に差し掛かったジンジを「高い声を出してみて」とか「ドレミファって唄ってみてよ」とからかったことを思い出していた。
その喉の動きを観察しながら、黙ってその寝顔を見ていると昼休み終了前のチャイムが鳴った。
音に反応してジンジが身じろぎした。
カコは、慌てて身体を起こした。
ジンジが薄く目を開けた。
まだ目の焦点が定まっていない。
ぼんやりと天井を見ている。
そしてまた目を閉じ、また開いた。
ジンジは、横に座る影に気付き、ゆっくりと顔を動かした。
カコが顔を近付けてきた。
「気が付いた?」
ジンジは曖昧に頷き、カコの顔に焦点を合わせる。
段々と意識がはっきりしてくるようすがカコにも分かった。
「大丈夫?」
「うん」
「何があったの?」
ジンジはカコの瞳を見詰めたまま、一言一言ゆっくりと喋った。
「……? バスケットの試合をやってて、パスをもらってドリブルしながら走ってて、何人かに囲まれて、え~と」
「それから?」
「それから、う~んと」
天井を見上げた。
思い出そうとしているのだ。
「気が付いたらカコがそこに居た――」
ジンジはまだカコの瞳を覗き込んでいる。
「シゲボーとタニと、アジが三人で運んでくれたみたいだよ」
その視線に対して、カコは二度三度と、瞬きで返していた。
「全然覚えてない……」
「三人もそうだけど、ジンジに何が起こったか?って見てなかったんだって」
「そっか」
ジンジは、額の上に乗せられた濡れタオルに手を伸ばした。
「いいの?」
「起きる。もう要らない」
そう言ってタオルをカコに渡した。
ジンジはベッドの上で上半身を起こそうとする。
カコはジンジの背に手を添えてやった。
それから、額のタンコブを触ろうとするジンジを……
「駄目だよ、触らないほうがいいよ」と手を握って押し留めた。
「どうなってる?」
「タンコブになってるだけ。先生も大丈夫だって言ってた」
「そっか……」と言いながら、今度はお腹を擦っていた。
「どうしたの?」と訊くカコに「お腹が空いた」と一言。
一瞬にしてカコの心配顔が笑顔に変わった。
「はい、はい、分かってるよ」
カコは立ち上がり、カーテンを開いて外に出て、すぐに戻って来た。
カコの手の上には、ジンジのお弁当が乗っていた。
「はい、どうぞ」とジンジに渡す。
「え、あ、あ、ありがとう」
ジンジはドギマギしながら弁当箱を受け取った。
カコの気の使い方には、いつもながら驚かせられる。
カコは教室を飛び出した後、いったん直ぐに教室に戻り、ジンジの鞄から弁当を取り出して再び駆け出して行ったのだった。
ジンジのことだから、気が付いたら絶対お腹が空いたって言うに決まってると確信していたのである。
その驚いた顔を見て、カコもしてやったりと……それが何故か嬉しかった。
「コンコン」「もしもし」「おじゃまかなァ~」と突然、カーテンの向こうから三つの違った声がした。
カコがカーテンを開けるとそこに、シゲボー、アジ、タニの三人が立っていた。
「お、おう」と三人に向かってジンジが言うと「元気そうじゃねェか」とタニ。
他の二人も笑っていた。
「二人とも、大丈夫そうだな」とシゲボー。
「二人……」「とも…?」
「オレ、何か変なこと言ったか?」
シゲボーはタニとアジに顔を向けた。
「うんにゃ、全然」
アジは胸を張って、大きく首を横に振った。
カコは三人に対し、笑顔で応戦した。
「いつからそこにいたんだよ」
ジンジは照れ臭さを誤魔化すように、突っけんどんに言った。
「お前の弁当を持ってこの中に入る墨木をちょうど見掛けた」
見ると三人は体操服から制服に着替えていた。
ジンジはカコに任せておけば大丈夫だろう……と考えて着替えてから保健室に戻ったのだ。
アジがそう言ったとき、昼休み終了のチャイムが聞こえてきた。
「掃除が始まっちゃったね」
カコは少し残念そうだ。
これから20分間は掃除の時間である。
「じゃあ、俺たち帰るわ」とシゲボー。
カコも立ち上がった。
「保険の先生には言っとくからね」
「ああ、ありがとう。弁当食ってから教室に戻るよ」
ジンジは毛布を捲ってベッドから降りた。
彼はまだ体操着のままだった。
床に立ったジンジのその太股を見て、こんなに太かったんだ……とカコは思った。
29
掃除が終わるころ、ジンジが教室に戻って来た。
きっちりと詰め襟に着替えていた。
彼はカコの側までやって来て、無言のまま顎を引いた。
カコはジンジの額に目を向けた。
少し赤くなっているだけで、大丈夫そうだ。
カコは顎を引き、眼で返事をした。
そしてジンジは、空の弁当箱を鞄に入れてから席に戻った。
座る前に、椅子の座面を一度だけ手で払った。
「家入くん、今まで、どこ行ってた、ですか?」
乙音が訊ねてきた。
「先生から頼まれ事されててさ、それを片付けてたんだ」
会話を聞いていたタニが振り返った。
「タニさん、なんですか?」と乙音。
「いや、何でもない」とタニは答え、そのまま前を向いた。
「ところで、次の授業は何だっけ?」とジンジ。
訊かれた乙音は机の中に手を入れ、ごそごそとかき回した後に一枚の紙切れを取り出した。
紙には、一週間分の時間割が書いてあった。
それを指でなぞりながら「理科、ですね」と教えてくれた。
「その次、数学、わたし、両方、苦手」とジンジを見る。
「数学は得意だから、教えてあげるよ」
「じゃあ、分からない、とこ、あったら」
「お安い御用さ」
「御用? なんですか? わたし、今、用事ない……」
ジンジは苦笑しながら
「気軽に何でも訊いてくれていいってことさ」と言った。
「そうですか、絶対、ですよ」
「ああ、絶対さ」
すると乙音は嬉しそうな顔で
「早く、6時限目、ならない、かな……」と独り言を言いながら、5時限目の理科の教科書を取り出していた。
30
5時限目の理科の授業が終わり、6時限目の途中から、空のようすが怪しくなってきた。
今日も相変わらず、雨は朝から静かに降っているのだが、次第に強くなってきているのだ。
208の担任で数学を教えてくれている西先生も、授業中何度も、外のようすを伺っていた。
そして授業が終わりに近付いたころ、校内放送で先生たちは職員室へ戻るようにとアナウンスが流れた。
先生が姿を消すやいなや、教室中がざわついた。
そこかしこで話が始まる。
この雨で、後田川が氾濫するのは時間の問題だと――。
「すぐ帰れってことかな」
振り返ったタニが、身体を乗り出した。
「だな、多分」とジンジ。
「帰れ、どういう、こと、ですか?」
乙音には訳が分かっていない。
「雨でそこの川が氾濫するから、その前に家へ帰れってことさ」
タニが答えていた。
「グラウンド、校舎、間、流れてる、川?」
「後田川って言うんだけどな。あれが氾濫すると、校舎の方に水が押し寄せてくるんだ」
「校舎の方がグラウンドより低い場所にあるんだよ」とジンジ。
「すると、どうなる、ですか?」
「どうなるも何も、中庭とか渡り廊下とかが水に浸かってしまうんだ。そうなったら水の中を歩いて学校から出なきゃならないのさ」とジンジが教えてくれた。
「しかも裸足で……」とタニ。
「裸足、ですか?」
「そう裸足、靴を濡らしたくないだろ。この激しい雨の中、鞄持って靴持って、傘差して帰るの出来るか?」
タニの声は、妙に弾んでいた。
すると乙音は、いきなり立ち上がって首を大きく振っていた。
「じゃあ、すぐ、帰るです」
「おいおい、まだ大丈夫だから」
タニは笑いながら、落ち着け、と乙音に声を掛けた。
「ほんと、ですか?」
乙音は疑わしそうにタニを見下ろしている。
その、タニと乙音の会話を聞きながら、ジンジは、あれ? と首を傾げていた。
タニは昨日まで乙音にぞっこんで、言葉を交わすにも何度も詰まりながら喋っていたはずなのに……。
それが今は、普通に女子と話をしているような調子なのである。
「でも、帰る準備だけはしといた方がいいかもな」
教室を見回しながら、今度はタニが腰を上げた。
「そうだな」
考えるのを止め、ジンジも立ち上がった。
他のクラスメイトたちも、教室の後ろに置いてあるそれぞれの自分の鞄を取りに立ち上がっていた。
年に何度かの行事で、みんな手慣れたものである。
そこへ担任の満川先生が現れた。
先生は入って来るなり
「立ち上がっている者もそのまま聴きなさい――」と教室中に通る声で言った。
そして教壇まで来て話を始めた。
「もう分かっていると思うが」先生は生徒たちを見回した。
このまますぐに家に帰ること。
帰る方向が同じ者同士、出来るだけ二人以上のグループになって帰ること。
もちろん部活は全て中止。
どんな事情があっても学校に残ることは許されない。
と、それだけ伝えると、先生は急ぎ足で職員室へ戻っていった。
「……と言うことで、帰るとするか」
立ち上がったまま話を聴いていたタニは鞄を取りに動いた。
「わたし、も」と乙音も動いた。
じゃあ、とジンジも鞄を取りにゆく。
と傍らにカコがやって来た。
「一緒に帰ろう」
ジンジは身体ごとカコに向き直り
「あたりまえじゃん」といつものさりげない口調で答えていた。
⑥へ続く……
05 想い人 ⑤