05 想い人 ④
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ジンジは、乙音の鞄を右肩から掛けている。
左肩からは自分の鞄だ。
アディダスのバッグは、部活が中止になったので教室に置きっ放しにした。
止みそうもない雨が降り続いている。
静かに降っている。
「いつまで降るのかなぁ~」
ジンジは空を見上げた。
どんよりとした雲が空を覆っていた。
「ここまで降り続くと異常だね」とカコ。
「早く(梅雨が)明けてくんねぇかなぁ。思いっきりサッカーしてぇ~」
「鼻血ださないでね」
カコが冗談っぽく言うと
「今朝出たから、今日はもう大丈夫だと思う。明日は分かんねぇけど……」
ジンジの返しは本気だった。
「毎日大変だね」
「慣れてる」とまた空を見上げていた。
そんなこんなの他愛の無い話をしながら、二人はおばさんの家へ向かっていたのである。
玄関の前に立ち、カコが呼び鈴を押した。
ドアの向こう側から、は~い、と女性の声が聞こえ、しばらくして鍵の外れる音がした。
ドアが外側に開く寸前に、カコはジンジの肘を掴み、ぶつからないように引き戻していた。
開かれたドアの向こうには音也が立っていた。
音也は両腕に、白い仔猫を抱いていた。
ムーンである。
「どうもいらっしゃい」
音也は、二人を中に招き入れた。
「乙音ちゃんの鞄を届けに来たんです」
カコがここに来た用件を伝えた。
そしてジンジは乙音の鞄を外した。
「わざわざありがとう」
音也は礼を言うと、抱いててくれる? とムーンを差し出した。
いいの? とカコは嬉しそうに、ムーンを両腕で抱きあげた。
音也はムーンの頭を優しく撫でた。
するとムーンは薄目を開けてカコを見上げた。
そして安心したように目を閉じて丸くなってしまった。
暖かな日差しの中で、お昼寝をしてるような表情だった。
「気持ち良さそうだね」
「ご飯を食べたばかりなんだ。ムーンは、お腹が一杯になるといつもそうやって寝ちゃうんだ。ちょっとそのまま抱いててくれるかな」
もちろん、とカコは嬉しそうだ。
音也は、それじゃあ、とジンジに向き直り、乙音の鞄を受け取った。
「乙音さん、大丈夫?」
「今、二階の部屋でユベールと一緒に寝てる。大丈夫だと思うよ」
「ねぇ音也」
声がして、あの小太りのおばさんが玄関に現れた。
二人は、こんにちは、と挨拶をした。
「そんな所で立ち話なんかしてないで、上がってもらいなさい」
「そうか、そうだよ。さぁ二人とも上がってよ」
音也は慌てて、来客用スリッパを二人の前に並べた。
「あ、でも鞄を届けに寄っただけだから……」
ジンジは困ったなぁ~と、いがぐり頭を掻いた。
「そうなんです。本当にそれだけなんです」とカコ。
「でも、せっかく来てくれたんだから、ちょっとだけでも上がってらっしゃい」
「そうだよ、雨も強くなってるし、ここで雨宿りするつもりで上がっていってくれよ――」
そうなの? と二人が玄関のドアを開けて外を見ると、さっきとは打って変わってバケツをひっくり返したような大雨になっていた。
げっ……とジンジは仰け反った。
「ほんとだ」
カコも雨の激しさに驚いている。
「だから小降りになるまでの間だから、とにかく上がってよ」と音也。
「そうよ、そうしてくださいな」とおばさん。
二人は顔を見合わせ、そこまで言うのなら……
「それじゃあ、少しの間だけ」とカコ。
ジンジはおばさんと音也に頭を下げ、自分の鞄を肩から外した。
ここに置いていいよ、と音也に言われて、玄関の横に置いた。
それからカコが掛けている鞄のベルトを、抱いているムーンに触れないように注意して外してやった。
そして自分の鞄の横に並べて置いた。
「さあ、上がって上がって」
おばさんは満面の笑みで二人を招き入れた。
「お邪魔します」
二人はおばさんと音也に案内されてリビングに通されたのである。
23
二人は目を見張った。
そこはまるで、映画でしか観たことのない、外国の家の中のような眺めだったからである。
15畳ほどのリビングの中央には、木の素材を生かした一枚物の低いテーブルとそれに併せた二人掛けの椅子があり、その反対に一人用の椅子が二脚置いてあった。
壁は無地の白一色となっており、外国の風景を切り取ったモノクロの写真が、大小さまざまな大きさの額縁に納められて飾られている。
その壁側には、これも木の素材を生かした腰くらいの高さの飾り棚(サイドボード)が設置されていた。
ボードの上には、植物の鉢が所々にあり、その間にディスプレイとしての食器や人形などの小物が置いてあった。
庭に面する大きな窓には、アースカラーをベースとした綿のベージュのカーテンが窓の左右にきちんをまとめられている。
部屋全体にぬくもりと居心地の良さがあり、そこで過ごす時間が楽しくてしょうがないと思える空間となっていた。
「家ん中にこんなのが置いてある」
ジンジは棚の上の植木鉢に近寄った。
「観葉植物って言ってね、室内装飾のひとつで、葉の形や色などを楽しむために置いてあるの」とカコが教えてくれた。
その鉢のひとつに、ジンジは興味を惹かれた。
それは、葉、茎全体が細かな毛で覆われていて、小さな花が穂のようにまとまっていた。
その花の上にウサギの耳のような小さな葉がついている。
色は青紫色で、独特の甘い香りを放っていた。
「ラベンダーだよ」
花を覗き込んでいたジンジの耳元でカコが小さな声で言った。
腕に抱いているムーンを驚かせないためだ……。
「これがラベンダー、初めて見た。あのテレビでやってたタイムトラベラーの……」
ジンジも小声だ。
「そうだよ。初夏から夏にかけて青紫色の花を咲かせるんだけど、育てるのは大変なんだって」
「匂いを嗅いでたら、時間旅行が出来るかな?」
首を向けると、思ったよりも近い場所にカコが居た。
そういえば「時をかける少女」の主人公の名前が芳山和子で、カコと同じ名前だったんだ……と今更ながらに気付いたジンジだった。
「もしかしたら、出来るかも……」
カコはクスっと笑った。
「さあ、こちらに座ってちょうだい」
振り返ると、おばさんがテーブルの横に立っていた。
カコとジンジは、二人掛けの椅子を勧められた。
「おじゃまします」
「しつれいします」
ジンジは先にカコを座らせる。
カコは、眠っているムーンを起こさないように注意しながらゆっくりと腰掛け、膝の上に乗せた。
少しだけ身じろぎしたムーンだったが、納まりがつくと、すぐに丸くなった。
「あなたの膝の上がよっぽど気持ちいいのね」
彼女の正面の椅子に腰を下ろしたおばさんは、ムーンを覗き込んでいる。
「重くないかしら?」
カコを見上げる。
「いいえぜんぜん、大丈夫です」
カコは笑って首を横に振った。
「じゃあ、もうしばらくの間、膝の上を貸してあげてね……」
もちろんです、とカコ。
ジンジは眠っているムーンを、羨ましそうに眺めていた。
「お待たせしました」
そこへ音也が、トレイを手にしてやって来た。
テーブルの上に置かれたトレイには、三客のティーセットが乗せられていた。
音也はそのふたつをカコとジンジに、残りをおばさんの前に置いた。
「音也くんは……」
立ったままで座ろうとしない音也を不思議に思って、カコが声を掛けていた。
「ボクは乙音のようすが気になるので、このまま二階に上がります」
「そうね、そうしてくれる……」
おばさんも、音也に席を勧めることはしなかった。
「乙音さんの具合、よくないんですか?」とジンジが訊く。
おばさんは、違う違う、と手を横に振った。
「ほんとうに大丈夫だから、安心して。寝心地がいい、暖かなベッドの上で眠っているはずだから」
「そうですか……」
二人は、妙な言い方だなぁと思いながらも、それ以上のことは訊かなかった。
「それじゃあ、ごゆっくり」という言葉を残して、音也は部屋を後にした。
音也が出て行ったドアを眺めていると……
「さあ、召し上がって――」
おばさんの声が、二人の意識をテーブルに置かれたカップに戻させていた。
「素敵なティーセットですね」
カコはムーンに注意しながら、ソーサーごと手に取った。
カップもソーサーも、装飾の一切無い真っ白な陶磁器であった。
「素敵な香り……」
手を添えて、反対の手でカップを持ち、カコは顔の前まで持ち上げて、まずは香りを楽しんだ。
それからゆっくりと一口……
そして、カップを覗き込んだ。
紅茶を透かして、野苺をあしらった絵がカップの底に描かれているのが見えた。
ジンジは無頓着に、カップだけを手に取ってすぐに一口飲んでいた。
蜂蜜入ってるよ……とカコに身体を傾ける。
ジンジは、図書館でカコが持参してくれた紅茶の味を思い出していた。
「紅茶と蜂蜜がとても良く合いますね」
カコはおばさんに一口目の感想を述べた。
「それに素敵なティーセット」
ソーサーごと持ち上げたティーセットを眺めているカコに……
「バックスタンプ見てみて」とおばさんが言った。
「バックスタンプ? なにそれ」
ジンジはカコに囁いた。
「そのソーサー取ってみて」とカコが言う。
「ソーサーぁ? なにそれ」
「お皿のことよ」
クスっと笑う。
「ソーサーって言うのか、ディッシュじゃねぇのか、カコって物知りだな」
ジンジは言われるままに、ソーサーを手に取った。
おばさんは、そんな二人の遣り取りを眺めて楽しんでいるみたいだ。
「裏を見てみて、WEDGWOOD って書いてない?」
カコの言葉に、おばさんは少々驚いたようだ。
ジンジはソーサーの裏を覗き込んだ。
「英語でウエッジウッドって書いてある」
「あらあら、どうしてそこまで分かったのかしら?」
「カップの底に描いてある絵が、野苺の柄だったんで、そうじゃないのかなぁ~と思ったんです」と遠慮がちにカコが言うと
「それでも凄いわよ。ワイルドストロベリーは、WEDGWOOD を代表するデザインですものね……」とカコを褒めた。
「な、な、な、なんで知ってんだよ」
カコは「なに言葉に詰まってんのよ」と笑いながら
「図書館で読んだ本に書いてあったのを思い出したんです。それで当てずっぽうで言ってみたのがたまたま……」
「で、ウエッジウッドって?」
「イギリスの陶磁器メーカーの名前だよ」
「ほんとうに良く知っているのね」
おばさんは、感心しきりであった。
ジンジは羨望の眼差しでカコを見ていた。
そんなカコと一緒に居られるのが、ジンジは嬉しかった。
「ところで、乙音は学校ではどう? みんなと仲良くやっていけてるのかしら?」
「ええ、クラス中の人気者ですよ」
うんうんと相づちを打ちながら、ジンジは二口目を口に運んでいた。
「休み時間とか、みんなに囲まれてますから、特に男子に……」
「そうなのね、特に男子になのね……」
おばさんは、何かを訊ねるかのような表情でジンジを見ている。
ジンジはカップの底の絵柄を興味深そうに覗き込んでいるので、その視線に気付いていなかった。
「夕ご飯のとき、乙音がよくクラスの話をしてくれるのよ。そうだったのね、みんなと仲良くしてくれているのね、安心したわ」
ええ、とカコは返事をした。
「でも、乙音はちょっと変なところがあるでしょう?」
「変なところ……ですか?」
ジンジは飲み終わった紅茶をソーサーに戻していた。
「例えばね、靴下を穿きたがらないとか、お弁当は毎日同じものとか」と意味深な言葉を投げてきた。
「メロンパンと魚肉ソーセージが好きみたいですね」
靴下のことに触れてもらいたくなかったので、ジンジは弁当の事を口にして、横目でカコのようすを伺った。
「そう、そうなのよ」
おばさんは手招きするような身振りで手を上下に振った。
「家入くんから貰ったメロンパンと魚肉ソーセージがえらく気に入ったみたいでね。帰ってくるなり、お弁当はずっとそれでいいって言い出しちゃったの」
「そうだったんですね」とジンジ。
「前の学校では給食だったものだから、わたしもお昼のことは頭に無かったの。作ろうか?と言ったんだけど、乙音がそれでいいの一点張りでね、逆に音也は購買でパンを買うって言い出すし……」
「転校初日の音也くんは、クラスの女子に分けて貰ったって言ってましたけど」
「え、そうなの? 音也はそんなこと何も言ってなかったわ。お昼はどうしたの?って訊いたら、だだ何とかしたとしか言わなかったものだから。そうなのね、じゃあちゃんとみんなにお礼を言ったのかしら……」
「彼はしっかりしてますよ。だから、お礼もちゃんと言っていると思います」とジンジ。
「それなら良いんだけど……、後で訊いておくわね。教えてくれてありがとうね」
いいえとんでもないです、とジンジは恐縮した。
「で音也は、クラスではどうなのかしら?」
「音也くんと同じクラスの友だちの話だと、すっかり打ち解けているみたいですよ」とカコ。
「人気者です。特に女子に……」
ジンジは苦笑いしながら付け加えた。
「音也は少し杓子定規なところがあるから、そこが心配だったの。打ち解けてくれているのなら安心だわ。良かった」
おばさんはホ~と長い息を吐いた。
「大丈夫だと思います……」とそこまで言って、カコは膝の上に目を落としていた。
ムーンがカコを見上げていた。
目が合うと、ミァウと鳴いた。
「あらあら、ようやくお目覚めのようね」
おばさんは、椅子から腰を上げてムーンを覗き込んだ。
ムーンは膝の上で伸びをすると、またカコを見上げた。
カコはムーンを抱き上げた。
ムーンは、カコの腕の中で気持ちよさそうに身体をすり寄せた。
「余程あなたのことが、好きみたいね」
するとムーンは、ミャウミャアと二度も鳴いた。
そこへ、リビングのドアが開いて音也が現れた。
「乙音、起きたよ」
「あら、そうなの」とおばさん。
「もう、すっかり元気だよ」
音也はおばさんの座っている椅子の横に立った。
「じゃあ、もう安心ね」
おばさんは音也を見上げた。
「よかったですね」とカコ。
ジンジもよかったと頷いた。
それから窓の外に目をやり
「じゃあ、ボクらはそろそろ……」と立ち上がる動きを見せた。
いつの間にか、雨は小雨に変わっていた。
いつ小雨に?と不思議に思いながら、カコはムーンを抱いたまま立ち上がった。
ムーンを音也に返そうとすると
「そのまま床に下ろしてやってください」と音也は言った。
「じゃあ、さよならだね」
カコは床の上に、ムーンをそっと下ろした。
すると、まだ抱いていて欲しかったのか、ムーンはカコの足に前足を乗せて身体をすり寄せてきた。
「また今度ね……」
カコは屈んで、ムーンの背中を撫でてやった。
「それじゃあ、おじゃましました」
ジンジはおばさんと音也とムーンに言った。
カコも、おじゃました、と頭を下げた。
音也が玄関まで見送ってくれた。
ジンジは先に自分の鞄を肩に掛けると、カコの鞄を彼女に渡した。
カコは鞄を受け取り肩に掛けた。
二人が靴を履いている間に、音也が玄関のドアを開けてくれた。
帰り支度が整ったところで
「おじゃましました」
大きな声でジンジが言うと、リビングの方から「は~い」とおばさんの返事があった。
「それじゃあ……」
カコは音也にお辞儀をした。
ジンジが先に玄関を出て、まずはカコの傘を広げた。
カコは傘を受け取るとジンジに身体を寄せて中に入れた。
ジンジは素早く自分の傘を開いた。
そして二人は音也に向きなおり、最後にもう一度だけ挨拶をして帰路についた。
おばさんはリビングの窓から、二人が傘を差して家の前の道を歩いて帰ってゆくのを眺めていた。
おばさんの足下では、白いムーンと限りなく鼠色に近いユベールがじゃれあっていた。
⑤へ続く……
05 想い人 ④
⑤の掲載は1月16日金曜日の予定です!