263『処女雪(おとめゆき)』
彼女は北の国から来た。
白夜の名残を瞳に宿し、髪は氷河のように淡く、歩くたびに空気が少しだけ澄む人だった。
「私、美しくなったでしょう?」
不意にそう言われて、僕は言葉に詰まった。
美しい、という言葉は足りない。彼女はただ美しくなったのではない。**巧く**なったのだ。人の視線の受け止め方も、沈黙の置きどころも、欲望の差し出し方も。
彼女は笑った。
北欧の女性特有の、遠慮のない率直さで。
「あなたと、寝たい」
その言葉は雪の上に落ちた焚き火のようで、静かなのに熱を持っていた。
僕は一歩、距離を取った。逃げたわけじゃない。ただ、確かめるために。
「ごめん。僕は……初めては、処女としかしない」
彼女は驚かなかった。怒りもしなかった。
ただ、少しだけ首を傾げた。
「どうして?」
「それが、僕の信じてる愛のかたちだから」
彼女はしばらく黙って、窓の外を見た。北の国では、沈黙は拒絶ではなく、思索だ。
「私は、もう処女じゃないわ」
「知ってる」
「それでも?」
「それでもだよ」
彼女は、ふっと息を吐いた。
それは失望ではなく、**理解されなかったことへの安堵**に近かった。
「あなた、不器用ね」
「そうだね」
「でも……嫌いじゃない」
その夜、僕たちは抱き合わなかった。
ただ、同じ毛布にくるまり、互いの体温が混ざらないぎりぎりの距離で眠った。
彼女の指が、僕の手に触れた。
触れるだけ。求めない。奪わない。
「ねえ」
「なに?」
「もし、私がもう一度、生まれ直したら」
「うん」
「そのときは、あなたの“初めて”になれる?」
僕は少し考えて、答えた。
「そのときは、僕も生まれ直してるよ」
彼女は笑った。
雪が降るみたいに、静かで、やさしく。
恋とは、すべてを得ることじゃない。
**欲望を差し出して、なお大切にされること**なのだと、僕はその夜、北の国の女性から教わった。
263『処女雪(おとめゆき)』