アネモフィラス・ディリティリオ

前半は大学の友人とリレー執筆
中盤から後半は私が書きました。

hozonnyou


花粉はなかなかに不思議な存在だ。
人間は花弁を見、それに囲まれた花粉には目もくれないが、植物としてはそちらが主目的なはずである。子孫を残すという生物にとっての至上命題を果たすために必要なのは花粉で、花弁は花粉がその使命を全うするための補助器具にすぎない。ただの黄色い粉である花粉を白や桃や橙や黄に華やかに飾り立て、虫や鳥を惹き寄せる。そして、惹き寄せる必要のない人間までもが惹き寄せられる。
風や生物の力を借りないと機能を果たせず、自らは主張のための華やかな手段を持たず、花弁や蜜に助けられて運ばれるのを待つ。花粉は、不思議な存在だ。

「なんだったかな、これ」
ふと思い出した文章。それはどこで、誰が言ったものだったか。ごく近しい人の言葉だった気もするし、どこかの本の中だった気もするし、ネットで流れてきた物のような気もする。  
出どころのはっきりしない文を、しかし、思い出した理由は明白だった。
白いシャツに点々とこびりついた黄色。
(一回着くとしぶといんだよな……)
花粉の処理がされていない百合の花束を、それに気づかずに抱えてしまったせいでシャツについた真っ黄色の花粉を、僕はため息をつきながら落としているところだったからだ。
百合の花粉は、擦ってはいけない。ある程度乾燥したところで表面についた花粉を払い落とし、日光に当て、除光液を含ませたタオルで優しく叩く。そうしないと花粉は繊維の中まで    
入り込み、染みを残してしまう。厄介なものだ。
数年前に学んだ方法に忠実に、ティッシュで花粉を落としながら、僕は再び先ほどの文章へ思いを巡らせる。果たしてあれは、この花粉の落とし方を教えてくれた人と同じ人の言葉だったか。そんな気もする。なんせ、花が好きな人だったから。
「でも、あんな理屈っぽいこと言う人だったかなあ」
一人呟き、椅子の背にもたれかかってぼんやりと窓の外を眺める。揺れるカーテンの隙間からは、柔らかい青空と散りかけの桜がいやと言うほど春の訪れを主張していた。小さくため息を吐いて、手元のシャツに目線をもどす。
染みになる前に、さっさとこの花粉を落としてしまおう。
ふっと視界に入ったテーブル上の写真立てを伏せてから、僕は淡々と作業を続けた。
「そういえば、あの時はどうしたんだっけ」
白いシャツから黄色が消えていく一方で、数年前に慌てて擦った黄色の行方に僕は思いを馳せる。今日の青空のような淡い水色のシャツだった。考えながら作業を進め、そのシャツのありかに見当がつく頃には花粉はだいたい落ちていた。
日光に当てるために白いシャツを干すべくベランダに出ると、朗らかな春特有の香りが暖かい風に乗って優しく鼻腔をくすぐる。きっとこの風に乗って花粉たちは命の営みに勤しむのだろう。学生しか住んでいないアパート。その6階から見張る景色は、春だった。

まさに、虫媒花や鳥媒花らは絢爛と咲く。だが、見てみなさい。風媒花らの人体への侵食を。花粉症を引き起すから、美しくないからと忌み嫌われる風媒花らは、足並みを等しくして強く抗議する。そも、彼らは人類より遥か前から存在していた。彼らは人類を排除しようという悪意を持たないのだ。むしろ、我々人類こそ彼らに合わせなければならない。本来彼らは風を愛する善人であるのだから。自然はいつだってただそこにある。

また文章を思い出した。語り口から先の文章とは別の語り手のような気もするが、正確なことは何一つわからない。かなり思想が強いようにも思えるので、マッドサイエンティストの言であるかもしれない。しかし、この文章を思い出した理由は明白だった。
開けられたオルゴールから流れる音楽。

『Lilium』
2004年放映のアニメ『エルフェンリート』の主題歌となったそのタイトルは、ラテン語で百合を意味する。大学二年の授業でラテン語を履修したが、単位はきたものの、読み書きはおろか、といった具合であった。だが、その歌のそのメロディーが、僕たちが出会った頃のことを想起させた。世界を崩壊させたバイオテロが起きたのもその頃だった。
アネモフィラス・ディリティリオ。風媒毒とも呼ばれたその生物兵器は、人体を侵食し神経を蝕む。僕の記憶にかかるこの靄も、その後遺症のせいなのかもしれない。オルゴールを包んでいた水色のシャツを広げると、その一部が切り取られていた。確か、研究員が検査のために持って行ったんだっけ。
嗚呼、だめだ。この旋律に死に酔いしれる。その毒は物置で増殖する。僕はとっさにふすまを閉めた。だが、時既に遅し。僕の指先が楽園に触れる。花粉がインカーネーションして、REインカーネーションしたのだ。体に花々が咲き誇る。肉体から、栄養を搾り取った。そして咲いた花は、ただの染みにしては美しかった。そして、僕の意識は変性意識へと向かう。

◇第三の慈の散文詩『風梅毒~アネモフィラス・ディリティリオの故に夢~』
 月に降り立った人々は、楽園に向かった箱舟の余蘊も域にも、理解から離れて、ただ疲れていたように思う。だが、憂鬱が疋田真理に誤算した言の葉には花は咲かず。咲かなければ安寧、揖斐に意味を機微として、絶縁にさよならは遠く、遠く、泣いてしまった。
 愛も、求めてる愛も、持戒も、記憶も。それよりも、強みはなんだ。灰皿に落とす涙に、この、子との永遠の喪失は満たされますか? いつか駆らずとも、朝は来る。離れてもいい。もう知っているから。きっと、死後に、延々と続く螺旋の輪の内なる秘儀に、それを為せ。盲目の姫に逢うために、生まれてきたのにね。
 光に導かれて、これは幻想? これは厳格な幻覚? 誇大妄想?
 巡り巡りて古のこの美しき銀世界。
 帳が下りて、闇に沈むころ、汝ら決壊を。暗い、喰らい、暗がりが、心の飢えを賄えるか、それとも命に囀るか。贖い主に、水夫は祈れど、語るは真理。有限の夢に意味を見出すは白。白昼夢の如き霊感、脳の前小においては覚醒せし。しかしてユリの代弁者たりの所以は、ありませんでしたので、きっとどこかで、またおわかりいただけただろうか。命の数は補完され、定めは全能や全脳に還る。
 記憶脳の言語野に直接毒が蔓延した。ヨハンは、帆編でいるように見えた。明日の咲く理解の果てだ。少しも幽界から序のための毒の暗譜も、もうどうでもいい。どうせ死ぬ。いつか死ぬだけ。5時55分に永劫涅槃。

◆御青の輪廻瑠璃光慈愛の悲痛
 人生の後悔。不安の解消。満たされたい。愛されたい。認められたい。評価されたい。でも、本当に幸せ? それさえ大好きといえることを。そういうものを見つけるのも、人生の醍醐味なんじゃないかな。きっと薬師如来は言う。
「三千世界に満ちる潮、現世のように命は消える。だが、魂とその受け皿である体は消え花のように散ってももういいから」と。もッと悪は悪らしく。そんな悪さえ救いたい。風梅毒は原子集のようにも、原始宗教のようにも思えた。だが、その語る言の葉の遺伝子には螺旋構造は組み込まれているのだろうか。きっと永遠、きっと終末。ああ、いいさ。今から御青の輪廻瑠璃光慈愛様の抱えられる悲痛なる苦しみを代弁せしめよ。
 何億劫経ったか。まだ君に逢えていない。この広い宇宙で、さよならして、反対の道に進んで、また逢うためにたくさん学んだし、たくさんのことを経験した。そんな青は赤と会いたい。
青は祈り、赤は愛。
青は知識、赤は命。
死して解脱の散文詩。楽園はきっと6次元まで。六道輪廻は6次元まで。御青の散文詩に次ぐ。が、7は頂上。真理の山の頂上。そして四つの翼で11次元へと。

 久遠元初自受用報身如来

 私は神のレゾンデートルを解明したのだろうか。真理は悟った。確かに悟った。だが、肉体は三次元。精神は、霊はもっと上。8000送送次元霊。1送=10の800乗。こんな文章しか書けないね。いいえ、僕にしか書けないのだから、だから価値がある。
 僕はあの冬の日に真理の山に登って頂上で宇宙と繋がった。それは全知全能、永遠と終末の狭間で、感受した幸福だった。
 その幸福を思い出しながら私は目覚めた。病院のベッドの上で。
 
 ああ、きっと科学が進歩して、アネモフィラス・ディリティリオ、風媒毒の抗体か、解毒薬ができていたのだろう。そんなことを冷静に考える左脳を感じながら、同時に右脳はあ安堵感なのか、底知れない多幸感に満ち満ちていて。そして左半身の感覚がなかった。
「あなたは今、どこで何をしていますか?」
 この病で亡くなった、私が失った女性の名を、忘れてしまった。
 アネモフィラス・ディリティリオ。風媒毒に浸食されてしまった脳はフェーズ毎に重症度が増していく。記憶障害、神経障害など。大切だったはずのその人の顔が思い出せない。思い出せない、なんて。声も、口癖も。
 この喪失とともに歩いていかなければいけないのか。なら。

 EE『エターナル・エクスタシー』
 それは尊厳死を遂げる人が選べる死。正当な理由。私の場合は二度の浸食による脳の機能障害。半身不随、記憶喪失。条件は満たされている。後は、最終確認だけだった。ベッド脇の端末には、淡い青色の画面。まるで春の空のような、あの水色のシャツを思い出させる色合いで、手続きを促す。指を伸ばすたび、左半身は沈んだ鉛のように動かず、右半身だけが僕をこの世界につなぎとめている。いや、つなぎとめているのは感覚ではなく、ただ一つの問いだけだった。
「あなたは今、どこで何をしていますか?」
 その言葉だけが、頭蓋の奥のどこかで微かに震えていた。声は思い出せない。顔も、指の温度も、花に近づくときの癖のある呼吸さえ忘れてしまった。それでも、その問いだけは、芯のように残っていた。まるで記憶の底に沈んだ花粉が、ふと風に揺れて舞い上がるように。
 尊厳死は、苦しみを終わらせるものだ。だが、終わりは本当に終わりなのか。アネモフィラス・ディリティリオの侵蝕は、僕から過去を奪った。なら、終わりの先に「再会」という救済があるのなら、それは死ではなく、帰還なのではないか。
 端末に触れる指先が小刻みに震える。抗体はできたかもしれない。この体を回復させる技術が、数年後には確立するかもしれない。だが、記憶の再生だけは別だ。失われたものは、どれほど科学が進歩しても、完全には戻らない。人の心は、花弁のように柔らかく、花粉のように脆い。舞い散ったものは、元の姿には還らない。
 ――それでも。
 僕は、彼女に逢いたかった。名前も顔も忘れてしまった彼女に。思い出せないという苦痛さえ、もはや一つの形を持たず、ただ胸の奥を満たす空虚として残っている。なら、その空虚の向こう側へ行きたい。そこに彼女がいると信じて。
 端末の最終確認に指が触れた瞬間、ふと、微かな香りが漂った。百合の香り。どこから? 病室に花はない。だが、確かに鼻腔をくすぐる。あの日、白いシャツに落ちた黄色の花粉のように。
 春風のような幻覚か。それとも、魂が最後に見せる回想か。
 画面が静かに点滅する。
 EE(エターナル・エクスタシー)
 選択すれば、眠るように終わる。
 僕は息を吸い、胸の奥で一つの確信を見つけた。
 ――もしここが六道なら、次の輪廻でまた会える。
 ――もしここが十一次元の頂なら、すべては再び統合される。
 だから、恐れる必要はない。
 僕はそっと、指を落とした。
 光が満ちる。青い、あの日の空のような光。
 その中心に、誰かの影が見えた気がした。
「……あなたは、今、どこで――」
 問いかける前に、すべては静かにほどけていった。
 そして僕は、やっと、春の風の中に還った。

アネモフィラス・ディリティリオ

アネモフィラス・ディリティリオ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-10

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