06 その先の向こうに…
01 お弁当
木曜日のお昼。
カコ、ナオ、ユウコの三人は、四つの机をくっ付けて作ったテーブルの上に、お弁当を広げていた。
今日は、カコのクラスである207の教室が集会場となっていた。
暖かな日差しの中、三人は楽しそうに笑いながら、尽きることの無い話に夢中になっていた。
そのとき、なにか切っ掛けがあったのだろうか?
カコの頭の中に、ジンジがある質問をしてきた光景が浮かんできた。
それは、仲間と一緒に学校から帰っているときのことだった。
*
「どうしてこうも毎日話すことがあるんだ?」
あのとき、わたしはジンジの横で
「そうだよね、何でなんだろうね……」と返していた。
ジンジは次の言葉を待っていたようだったが、わたしは何も言わずにそのまま歩いていた。
するとジンジは仕方なさそうに、そのままわたしの横を歩ていたのだと思う。
それからしばらくして、今度はわたしの方からジンジに声を掛けていた。
「苦しくない?」
ジンジはわたしに顔を向けると、何が?と訊いてきた。
不思議そうな顔をしている。
「このまま何も喋らなくて、ずっとこうして歩いていることだよ」とわたしは訊き返した。
するとジンジは
「いいや全然」と今度はこっちを見ずに、前を向いたまま返事をくれた。
それでわたしは、わたしも、と投げ返したんだった。
それからまた無言の時間が続き
「で……?」とジンジが言った。
「でって?」
「なんでそんなに話すことがあるんだ、って訊いたじゃんかよ」
わたしは首を傾げ
「そうだったね……なんでだろうね」と一度言って
「三人と居るとそれが自然なの。自然に言葉が出てくるの、だから何故(なんで)そんなに話すことがあるんだって訊かれても、ほんとは分からないんだよね」と返したんだった。
ジンジはそれ以上訊こうとはしなかった。
そしてそのまま、仲間たちと一緒に二人で歩いた。
……と我に帰り、何故、今、そんなことを思い出したのだろう?と、何気に配られた牛乳に手を伸ばすと次は
「牛乳とご飯は合わないよね」とジンジに訊いてみたことを思い出していた。
「合わないとは思うけど飲むと腹が膨れるから、それと牛乳飲むと背が伸びるって言うじゃん」
そんな答えが返ってきたような気がする。
で……わたしは今、何故急にそんなことを考えているんだろうと思っていると
「ねぇ」とユウコの声が耳に飛び込んできた。
*
「なにボ~としてんの?」
ナオの声もする。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」とカコは、少しうろたえた。
「何かちょっと今、夢見がちな顔してたよ」とユウコが言う。
夢、夢ねぇ……?
実際、夢を観ている時の顔ってどんな顔なんだろう?と考えていたら、急にあることを思い出していた。
ユウコに〝夢〟って言われるまですっかり忘れていて、それが今頭の中にはっきりと浮かんできたのである。
「そうだ、ねぇ聞いて、昨夜(ゆうべ)さぁ変な夢を観たんだよ」
「変な夢?」
インゲンを摘んでいたナオの箸が止まった。
「ジンジの夢じゃないの、何かちょっと恥ずかしいような……」
ユウコが茶化しながら卵焼きを頬張った。
「そんなんじゃ無いよ。夢に出て来たのはジンジじゃ無くてユウコだったんだから」
「えっ、わたし?」
自分の名前が出てきたものだから、ユウコは驚いていた。
「うん、ユウコなの」
そう言ったカコは、ジンジとのご飯と牛乳の会話を思い出しながら、牛乳を口に運んだ。
「で、どんな夢だったの?」
ナオは摘まんだままだったインゲンを、やっと口に運んだ。
「それがさぁ、とっても変な夢だったんだ……」と言った後、カコはしばらく間を置いた。
「もったいなぶらずに話しなさいよ」とユウコが急かす。
自分が夢に出てきたものだから、早くその中身が聞きたくてしょうがないのだ。
そしてナオも、口を動かしながら身を乗り出していた。
02 夢
深夜……
霧のように細かい雨が降っている。
じめじめとした陰鬱な雨である。
そんな雨の中、宮崎中学校前バス停のベンチの横に、ユウコが右手に傘を差して立っていた。
旭東通りを行き交う車は皆無で、ましてやこんな夜更けの雨の中、出歩く者など居るはずも無く、辺りは静まりかえっていた。
ユウコは、誰かとの待ち合わせをしているのでは無いし、迎えの人や車を待っている訳でも無い。
ただ、バスを待っているのだった。
運行時間はとうに終わっているはずなのに、それでもユウコはバスを待っているのである。
しかも、ユウコのいるバス停から、右方向となる東側に位置する、今夜の昭和町交差点は、墨を流したような漆黒の闇に覆われていた。
それはまるで、一切の光を拒絶しているかのようだった。
そんなところから、バスは本当に現れるのだろうか?
しかしそれでも、ユウコはバスを待っていたのである。
*
どれほどの時間が過ぎていったのだろう?
傘を打つ雨音に混じって、ブルルっという機械音が、交差点の方から響いてきたのである。
それは、重く不器用なディーゼルエンジンの音だった。
ユウコが顔を上げる。
見つめる交差点が、微かに明るくなっていた。
やがて、女子校がある北の方向から右折してきたバスが姿を現し、二つの光点であるヘッドライトの灯りが、ユウコに向かってやってきた。
不思議なバスだった。
バスは運転席だけが明るく、運転手の姿だけを浮き上がらせている。
反対に、社内は真っ暗なのである。
やがて……
バスはユウコの待つ、宮崎中学校前バス停で停車した。
ユウコは、運転席横の乗降口へ歩み寄った。
しかし、乗降扉は一向に開く気配を見せなかった。
ユウコは、ドア向こうの運転席に視線をやった。
帽子を目深に被った伏し目がちの運転手は、前を向いたままジッとしている。
わたしに気付いてないのかしら?
ユウコは、さらに一歩前に出て、ドアを叩いてみようと手を上げた。
すると突然、バスが動き出したのである。
危ない、とユウコは慌てて飛びすさった。
何このバス、回送なの?
運転手を、窓越しに睨むユウコ……
しかし、バスはユウコを無視して、ゆっくりと動き初めている。
もう乗れない。
諦めたユウコは、仕方なく次のバスを待とうと思った。
そして、ゆっくりと流れてゆくバスの車内に、何気なく目を向けると、暗いその中に人影を見付けていた。
もう何? お客さん乗ってるじゃない!
乗車拒否バス! と一人で毒突いていると、中の人影が窓に寄って来たではないか……
そして、ユウコはその人影を見て目を疑った。
*
「そのバスに乗っていたのが、わたしだったの」
「カコが乗ってたの?」
驚いたユウコは、半分裏返った声を上げていた。
「うん、わたし」
「それでカコは、どうしてそんな薄気味悪いバスに乗ってたの?」とナオ。
カコは首を振りながら
「わたしね、窓からユウコを見てるの。そしてその自分の顔がとっても哀しそうで……」
「哀しそうな顔で?」
「わたし、ユウコに何かを伝えようとしてたのかも……」と言ってはみたものの、それは自分でもはっきり分からなかった。
ただそう感じた思いを、素直に口にしたのだけなのだ。
「何かとっても哀しいことがあって、それをユウコに伝えたかったのかもしれないね……」とナオが言うと
「そんなの嫌(や)だよ」とカコは身体を震わせた。
「でもよく聞いて。その哀しいことが誰に起こったの? カコ?それともわたし?」とユウコ。
「考えてもみなかった……」
「逆夢(さかゆめ)ってこともあるんじゃない」とナオ。
「そうか、そうだよね。逆夢なら大歓迎だよね。カコとわたしのどちらか、それとも両方にいいことが起こるってことよだね」
何でも良い方向に持ってゆこうとするのが、ユウコである。
そんなユウコを眺めていたら、何故かちょっとだけ可笑しくなってしまった。
そうだよね、くよくよしてもしようが無い、夢なんだもの……とカコも気持ちを切り替えることにした。
カコ自身も、暗い方に物事を考えるのは苦手な方なのだ。
「それだったらシンコとデート出来るかもしれないね」
「それじゃあカコだって……」とユウコが返す。
「はいはい、分かりました。二人ともよごさんしたね」
呆れたナオが、親指と人差し指で、パチパチと拍手を送った。
そう、逆夢。きっとそうだよ……
そうに違いない、と三人は、勝手に決めつけていた。
03 乙音からの招待
翌日の金曜日、昼食時間。
今日の三人は、ナオの教室に集まっていた。
明日は祝日で、土曜日曜と久しぶりの二連休だ。
三人は、何をしようかなぁ?と、それぞれがそれぞれの予定を言い合いながら、あーでもないこーでもない、と楽しい取り留めのない会話を続けていた。
*
そして、お弁当の時間も、そろそろ終わるころであった。
教室の扉を開けて、乙音が入って来たのである。
乙音は、どこかギクシャクとした動きをしながら、三人の机テーブルまでやって来た。
乙音は、カコと同じクラスで、二月ほど前に福岡から転校して来た女の子で、ユウコのクラスに、双子の兄の音也がいる。
……と回りでは、一応そう言うことになっている。
学校の中で、入間兄妹の本当の姿を知っているのは、カコとジンジだけなのだ。
カコは、表情が強張っている乙音を見上げ
「乙音ちゃん、なぁに?」と優しくゆっくりと声を掛けた。
「三人、お話し、ある、違う、お話し、じゃなくて、お願い、ある」
乙音が言葉を区切って話すのは、いつものことだ。
「お願いがあるの?」
うん、と乙音は身体をくねらせた。
「今日、放課後、三人、お時間、あるか?」
「部活が終わったら帰るだけだから、その後だったら大丈夫だと思うけど……」
水泳部のユウコが、バレー部のカコとナオを順番に見ながら言った。
「わたしは大丈夫だよ。放課後は特に用事はないよ」とカコ。
わたしも、とナオ。
聞いた乙音の表情は、良かった、ホッとしたものになっていた。
「じゃあ、今日、放課後、わたしの、お家、来て」
「乙音ちゃんの家へ?」と少し驚いた表情で、ナオが訊き返していた。
「お母さん、三人、会いたい、言ってる」
「乙音ちゃんのお母さんが?」とユウコ。
「お母さん、どうしても、会いたい、言ってる、三人、招待、お茶でも、どう?」と今度は不安そうな声……
緊張の度合いが、また少しだけ上がってきたようである。
「大丈夫だよ。しっかり招待されちゃうよ!」とユウコは笑った。
「決まりだね! 部活が終わったら乙音ちゃんのお家に、三人で伺うことにするから」とナオ。
「じゃあ、よろしく、お願い」
ニッコリと、乙音は大きく頷いた。
おばさんが、ナオとユウコに会いたいなんて、何か特別な話でもあるのかな?
と思いながら、カコは乙音の笑顔のを眺めていた。
「わたし、いつも、お母さん、三人、話、する、だから、一度、会いたい、言ってる」
「嬉しい、あの洋風のオシャレなお家だよね」とユウコは、はしゃいだ。
今から期待で胸が膨らんでいるようだ。
「わたしもユウコも初めてだよ。カコとジンジだけ行ったことがあるって、ちょっと羨ましかったんだ」とナオも笑っている。
乙音はペコリと頭を下げ
「じゃあ、放課後、お家、待ってる」と言って、そそくさと教室から出て行ってしまった。
04 おばさんの家
入間おばさんは、玄関口を掃除していた手を止めると、三人に笑顔を送った。
「いらっしゃい、待ってたわよ」と言って、一度空を見上げたあと「もう、こんばんわ……かな?」と笑った。
カコも空を見上げ、逆に
〝こんにちわ〟とおばさんに返した。
おばさんの家に、ゆくことが決まったあと三人は、いつも一緒に帰る仲間たちに、今日は先に帰るから……と断りを入れて、急いでやって来たのだった。
カコは二人を、おばさんに紹介した。
ナオとユウコは、緊張した面持ちで少しばかりぎこちなかったが、それでもきちんと自己紹介を済ますことが出来た。
「あなた達のことは、乙音から何度もたくさん聞かされているのよ。会うのが今回がが初めてじゃないみたいにネ」と二人の丁寧な挨拶に、改めて笑いを返していた。
さぁどうぞ、とおばさんは、箒と塵取りを玄関の横に片付けると、そのままドアを開けて
「乙音ぇ~、カコさんたちが来たわよ」と家の中に声を掛けていた。
でも返事が無い。
おばさんは、もう一度声を掛けた。
すると
「は~い」と元気な返事がきた。
それから、ドタドタを掛け降りる足音が、外の三人にも聞こえて来た。
乙音が、玄関から顔を出して、三人に挨拶した。
そしてすぐに、リビングに入って行った。
おばさんは振り返り
「さあ、上がってちょうだい。鞄は上がり框(かまち)の、スペースに置いてもらってかまわないから」と言って、中に三人を先に招き入れた。
三人は、鞄を玄関横に並べて置き、用意されてたスリッパを履いた。
「案内してあげて」と言われたカコは、二人を連れて、おばさんよりも先にリビングに入った。
*
「わぁ、素敵……」
ナオとユウコは、部屋の中を見回しながら驚きの声を上げていた。
15畳ほどの広さのリビングの中央には、木の素材を生かした一枚板の低いテーブルと、それに併せた二人掛けの椅子が一脚あり、その反対と横に一人用の椅子が三脚置いてあった。
計五人分の席が用意されている。
ナオとユウコは、部屋中を見回している。
壁は無地の白一色となっており、外国の風景を切り取ったモノクロの写真が、さまざまな大きさの額縁に納められて飾られている。
その壁側には、これも木の素材を生かした腰くらいの高さの飾り棚(サイドボード)が設置されていた。
ボードの上には、さまざまな大きさの植物の鉢が所々にあり、その間にディスプレイとしての食器や、人形などの小物が置いてあった。
庭に面する大きな窓には、アースカラーをベースとした綿の、ベージュのカーテンが窓の左右にきちんをまとめられている。
部屋全体にぬくもりと居心地の良さがあり、そこで過ごす時間が楽しくてしょうがないと思える空間となっていた。
カコも最初は、洋風で素敵なリビングだと思っていたのだが、おばさんの職業が陰陽師だと知った今では、和と洋のアンバランスさが、落ち着いた調和を醸(かも)し出しているのではなかと思うようになっていた。
カコは二人に囁いた。
「ね、素敵なリビングでしょう?」
「まるで雑誌や映画で観るようなお部屋みたい……」
ユウコの呟きに、ナオも頷いていた。
三人が動かずに部屋の中を眺めていると
「さぁ、そんな入り口の所にボ~と立ってないで、座って、座って」とおばさんに促されてしまった。
三人は薦められるまま、中央の椅子に腰掛けた。
二人掛けにはナオとユウコ。
テーブルに向かって右がナオ、左がユウコだ。
ナオの右の、種類の違う椅子にはカコが座った。
右におばさん、左にナオとユウコを見る場所だ。
座ってからもしばらくの間、ナオとユウコが珍しそうに部屋を見回しているさまを、おばさんとカコは楽しそうに見ていた。
そして頃合いを見計らって、おばさんから声が掛かった。
「三人とも良く来てくれたわね。急に呼んじゃって大丈夫だったかしら?」
「いいえ、大丈夫です」とカコ。
「とんでもないです。こんな素敵なお家に招待されて、こちらこそお礼を言いたいくらいです」とナオが言うと
「そうですよ。ほんとに嬉しいです。ありがとうございます」とユウコ。
ユウコの声は、緊張で擦れてしまっていた。
「そう言ってくれると、おばさんも嬉しいわ、ありがとうネ」
二人は「とんでもないです」とまた頭を下げた。
*
そんなやり取りの繰り返しをしているところに
「いらっしゃい、紅茶、お持ち、しました」と乙音がやって来た。
乙音は、四組の紅茶セットをトレイの上に乗せて、リビングの奥のキッチンから現れた。
そのかしこまった言い方と、トレイを運ぶ危なっかしさに、三人から笑いが漏れていた。
「みなさん、どうぞ、わたし、淹れた、紅茶、ゆっくり、召し上がれ、ください」
乙音はニッコリと、そしてゆっくりと四人の前に紅茶を並べ終わると、おばさんの横に座った。
「今日はどうしてもわたしが淹れるってきかなくてね……」と言うおばさんに
とってもいい香りがします、と三人は返した。
それでも
「でもね、乙音はちょっと不器用な所があるから、失敗してるかもよ。最初の一口はちょっと用心して召し上がってちょうだい」とおばさんは、冗談っぽい口調で薦めると
「そんなこと、無い、です」と乙音が、口を尖らせて抗議した。
三人は
「そんなこと、無い、です、いただきま~す」と乙音の口調を真似ながら、カップを口に運んだ。
*
最初の一口で、ユウコから自然に言葉が紡がれていた。
「おいしい」
「ほんとだ。乙音ちゃん、とってもおいしく淹れてあるわよ。ありがとう」
ナオも、おいしさに驚いている。
「ほんと、ですか、嬉しい」と乙音は、わざわざ椅子から立ち上がって、おばさんに向けて胸を張った。
「うん、とってもおいしい。おばさんが淹れたのに負けないくらいおいしいよ」
カコも、そのおいしさに頬を緩めていた。
えへへ、えへへ、と乙音は何度も何度も頭を掻いて喜んだ。
「でも……あれ?」とナオが首を傾げていた。
自分でも飲んでみなさいよ、と言おうとして、乙音の前に紅茶が置いてないことに気付いたのだ。
「ポット、四人分、だから、わたし、後で、飲む」
そこにカコが
「乙音ちゃんは〝猫舌〟なんだよね」と声を掛けていた。
乙音は
「そう、猫舌、だから、熱い、苦手」とわざわざみんなに、舌を出して見せた。
「紅茶は冷めてもおいしい飲み物なんだよね、だつたら猫舌の乙音ちゃんにピッタリだネ」とユウコ。
「そう、だからコーヒーと違ってカップが薄くても良いんだよね」とナオが補足していた。
コーヒーカップは保温重視のため、分厚く縦長で飲み口が狭くなっている。
逆にティーカップは香りや色を楽しめるために、薄くて飲み口が広い形状をしているのだ。
おばさんは
「二人とも良く知ってるわね」と二人に感心してしまった。
すぐに、こんなこと無いです、でもありがとうございます、と恐縮する二人だった。
「だから、わたし、後で、冷めた、紅茶、いただく」と乙音は舌を出して、惚(とぼ)けた表情を作っていた。
その表情を受けたカコが、意味ありげに
「そうだ。そういえばユベールの姿が見えないですね」と唐突に、おばさんと乙音に訪いていた。
ナオが
「ユベールって?」と眺めていたカップから目を上げて反応していた。
「ユベールはこの家で飼ってる猫ちゃんだよ」とカコは、リビングを見回し始めた。
「そう、猫」と乙音が、惚けながら頷いている。
「何処にいるの。見たい、会いたい」とユウコがはしゃいだ声をあげた。
「何処に居るんですか?」
ナオは、おばさんに訊ねていた。
おばさんは
「どこか、その辺に居るんじゃないかしらねぇ」とニコニコしながら、半分は乙音のように惚けている。
ナオとユウコは
「何処なの?」「猫ちゃん何処に隠れているのぉ~」と辺りに呼び掛けながら、探し始めた。
すると、二人が腰掛けている椅子の下から、ミャウっと鳴く声が聞こえてきた。
ユウコが床に膝を突いて、椅子の下を覗き込むと、限りなく鼠色に近い黒猫の瞳が光っているのを、発見した。
まるで、影に同化しているかのような黒い猫だった。
「かわい~い」
ユウコが、そお~と手を伸ばした。
するとユベールは、一瞬の動きでユウコの手をすり抜けると、カコの足下へ一目散に駆け寄っていた。
足首に身体を乗せ、擦り付けていた。
「カコには甘えるんだね」とユウコは、ユベールを睨んでいる。
「お友だちだからネ」とカコは、くすぐったそうに、足先をモジモジさせている。
「ねぇ、どうやったらこっちに来てくれるの」
「簡単だよ。膝を叩いて名前を呼んであげるだけで跳んでくるから」
そうなの?それだけでいいの? とユウコが、どうしようかと躊躇っていると
「ユベール。こっちおいで……」とナオが、ユウコより先に、自分の膝を叩いていた。
すると、呼びかけに反応したユベールは、身体を起こしてナオを見上げ、背中を丸めて狙いをつけて、カコの足下から一気に跳び上がっていた。
狙い違わず、ユベールはナオの膝の上に優雅に着地していた。
音を立てずに、その様はまるで重さの無い羽毛のようだった。
着地するや否や、ユベールはナオの膝の上で丸くなっていた。
「あっ、ナオずるい」
ユウコは、ナオの膝に乗ったユベールに手を伸ばした。
ユベールは、ユウコの手にも、身体を預けた。
背中の柔らかな毛並みが、ユウコの指の間でサワサワと踊った。
ナオは人差し指を曲げて、ユベールの喉に這わせた。
ナオの指の先に、ゴロゴロと小さな雷のような振動が伝わってきた。
「生まれたばっかりみたいに小さいのね」とナオ。
「それでも、れっきとした成獣なんだよ」
カコは、二人にあやされているユベールの気持よさそうな表情を見ている。
人の姿をしているときは杓子定規なのに、猫だと甘えん坊になるんだから……とそのギャップが可笑しかった。
「え、これでもう大人なの?」
「そうだよ。ね、ユベール」
カコの言葉を理解したかのように、ユベールはミャと短く鳴いた。
*
それから三人は、学校のことや、クラスメイトのことや、部活のこと、そして乙音の学校での失敗のこと……など色々なことを、わいわいガヤガヤとおばさんに話して聞かせた。
乙音は何故メロンパンと魚肉ソーセージのお弁当ばかりなのかと、二人が訊く場面もあった。
おばさんは笑いながら、さぁねぇ~どうしてかしらねぇ~、としか言わなかったし、乙音もしどろもどろになってしまって、結局その答えに行き着くことは無かった。
その日、五人の楽しい会話は、いつまでも尽きることが無かった。
05 事故
部活が終わるころから雲行きが怪しくなり、一度空が泣き出すと、それからは一気に本降りの雨となっていた。
いつもの仲間たちは、帰宅の途に付いていた。
イケピン、ポンタ、シンコ、ジンジ、の男子たちがかたまって先を歩いている。
ジンジは男子たちの最後尾だった。
その後ろを、カコ、ナオ、ユウコ、タカコ、そして後輩のヒカリが続いている。
*
「ちっ、降り出しやがった」
男は運転していた営業用軽自動車の中で独りごちると、ワイパーのスイッチを入れた。
それでも視界は良くならなかった。
雨脚が強すぎるからだ。
男はワイパーレバーを最速まで上げた。
「早く帰って、報告書を書かないと」
昨日までに出さなければならない報告書を、まだ提出していないからだ。
いくら何でも、上司は明日までは待ってはくれないだろう。
早く会社に戻って、上司が帰宅する前に提出しなければならない。
上司は、定時になると、後は頼むと部下に任せてすぐに帰ってしまう男だからだ。
男は、左の手首に巻いてある腕時計を流し見た。
「書く時間がねぇ」
男はアクセルを強く踏み込んでいた。
降りしきる大粒の雨の中、車のタイヤは水飛沫を派手に跳ね上げながら、旭東通りを橘通り一丁目にある会社へと向かっていた。
*
昭和町交差点で、みんなが信号待ちをしている。
この時期ならまだ明るい時間帯なのだが、雨のせいで今日はいつもより極端に暗かった。
本降りの雨になるや否や、まるで電灯のスイッチを切ったかのように、黄昏時を飛び越え、日中から一気に夜に変わってしまったかのような暗さになっていた。
雨水がアスファルト道路の所々に大小さまざまな水溜まりを作り、それが川となっていた。
この時間帯の旭東通りの車の量は多い。
水飛沫を上げながら、何台ものトラックや常用車がみんなの目の前を行き交っている。
「こんな雨の中、スピードの出し過ぎなんだよ」と男子の誰かが吐き捨てた。
他のみんなも、そうだよな、危ねぇよ!と思いながら、猛スピードで通り過ぎる車を眺めている間に、信号は赤から青に変わっていた。
先頭に立っていたイケピンが「信号、変わったよ」と後ろで喋っている女子たちに聞こえるように振り返って、傘を持ち上げた。
それが合図であったかのように、みんなが横断歩道を渡り始める。
男子たちの最後尾であるジンジのすぐ後ろは、女子たちの先頭のカコだった。
カコは背中を見せている。
信号待ちをしている間に、ナオたちに振り返ったのだ。
カコは後ろ向きのまま、横断歩道に一歩を踏み出していた。
「転ぶなよ」
ジンジの声に、カコは前に向き直った。
ナオ、ユウコ、タカコ、そして一番後ろのヒカリにも、ジンジの声は聞こえたようだ。
それぞれ、は~い、と返事があった。
ジンジは「車から水を掛けられんなよ」の台詞を追加して前を向いた。
*
一台の大型トラックが、橘通りの方からスピードを緩めることなく昭和町交差点へ進入し、横断歩道を渡っているみんなの横を、後ろから抜き去ろうとしている。
同時に、一ッ葉方面から来た軽自動車が、これもスピードを緩ることなく交差点に進入してきた。
前方からの軽自動車と後方からの大型トラックの両方は、交差点のほぼ真ん中で擦れ違った。
擦れ違いざま、トラックの前輪が、アスファルトの窪みに貯まった雨水を高く跳ね上げていた。
その雨水が、軽自動車に降り注いでいた。
*
軽自動車を運転していた男は、フロントガラスに浴びせられた大量の雨水で、前方が全く見えなくなってしまったことに毒突いた。
「何だよ、この糞トラック、ちったぁ周りのことにも気きぃ使ってゆっくり運転しろや」
文句を言いながらも、男は自分が運転する車のスピードを緩めなかった。
ただ、握っていたハンドルに、少しばかり力を込めただけだった。
そして……
前方の視界が開けた瞬間、男は目の前に人の姿を捉えていた。
「やばい!」
悲鳴に近い叫びが、男の口から漏れていた。
男は瞬時に、人とは反対の方向へハンドルを切り、ブレーキペダルを蹴っていた。
同時に、男の手に後輪が流れる感覚が伝わってきた。
*
トラックの跳ね上げた雨水が、対向車の軽自動車に降り注ぐ光景を、ジンジは目の当たりにしていた。
すると急に、車の動きがおかしくなってしまったのに気付いた。
タイヤが妙な方向へ動いたかと思うと車体がブレ、フロントがジンジたちの方へ向きを変えていたのである。
先を歩くイケピンやシンコ、ポンタたちもその状況に直ぐに気付き、車を避けるように前へダッシュしていた。
逆にジンジは後方を振り返り、カコたちの方へ走っていた。
彼女たちは話に夢中で、前方の異変に気付いていなかった。
ジンジの大きな動きで、彼女たちにも〝何かが〟起こっていることに気付いた。
ジンジは、カコの胸を両手で突き飛ばした。
カコは後ろへ飛ばされた。
両足が宙に浮くほどの強さだった。
カコは、ナオとユウコに抱きかかえられるように受け止められていた。
さらによろけた三人を、タカコと最後尾のヒカリが踏ん張って支えていた。
次の瞬間……
ドンという音に四人が見たのは、ジンジが宙に舞っている姿だった。
*
ジンジは振り返るなり走った。
傘を投げ捨てて走った。
次の瞬間……
ユウコが口を開けて、言葉にならない声をあげていた。
声よりも早く、ジンジはカコの目の前にいた。
両手を伸ばして、カコの胸を強く、殴るように押していた。
カコはバランスを崩し、後ろへ飛ばされてナオとユウコにぶつかった。
ブレーキの音……
次に響いた衝撃音とともに、女子たちの目に映ったのは、ジンジが宙に舞う姿だった。
跳ね上げられたジンジの身体は、車のボンネットの上へ落ちた。
そしてまた跳ね上がると、アスファルトへ頭から落ちていた。
仲間たち全員の、言葉とは言えない声が響いた。
*
ジンジが車に跳ねられた。
誰か救急車を呼んで。
男子たちのいくつもの叫び声が交差点内に響き渡った。
反対側の角の交番から、二人の警察官が笛を鳴らしながら飛び出し、交差点に進入してこようとする車を制止しながら走ってきた。
*
カコは、仰向けに倒れているジンジの側へ駆け寄った。
ジンジの額は大きく割れ、紅く染まっていた。
それはこめかみを通って地面に流れ落ち、水溜りを紅く染め、そして広がってゆく……
カコはジンジの頭を、ガラスの割れ物でも扱うかのように、膝の上に抱え込んだ。
ジンジが薄目を開けた。
カコが目の前にいて、無事であったことが分かると、唇の端を引き攣らせるようにして微笑んでいた。
そして、何かを言おうとして口を開く。
しかしそれは、言葉になることは無く、そのままの形で動かなくなっていた。
大ぶつの雨がジンジの顔を打ち、流れ出る鮮血を、その場で瞬時に洗い流してゆく。
「だめ、だめ、だめ、だめだよう……」
カコは身体を折り曲げ、ジンジの頭を大粒の雨から守るように包み込んでいた。
06 集まった三人
始めは何が起きたのかも分からなかった。
最初に目に入ってきたのは、自分の部屋の天井の模様だった。
眠ってたんだ……と身体を起こそうとしたが、腕が痺れて力が入らない。
腕を強張らせていたのだろうか?
しかたなく身体を横にして膝を折り、更にうつ伏せになってからようやく起き上がった。
ベッドの上に正座をして、夢のことを考えた。
こんなにもリアルな夢を観たのは初めてだった。
今も、微かに身体が震えている。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせるよう努めた。
何度目かののち、ようやく時計に目をやる余裕が出来た。
朝の7時を回っていた。
*
土曜日の朝。
カコはおばさんの家の前に立ち、こんなに早い時間に伺っても大丈夫なのだろうか?と迷っていた。
しかしどうしても、夢のことを確かめたくてしようが無かった。
では何故、カコはおばさんの家にまでやって来たのだろうか?
カコは昨日のことを思い返していた。
帰り際に玄関口で、おばさんが言った言葉が耳に残っていた。
あの時おばさんは
「今日はとっても楽しかったわ。来てくれてありがとう。今夜は楽しい夢が観れそうだわ。あなた達も、きっといい夢が観れると思うわよ」と言って、わたし達を見送ってくれたのだった。
三人は帰りの道すがら……
おばさん、最後に変なこと言ってたよね?
今日の訪問が、今夜の楽しい夢と何の関係があるんだろうね?
そうだよね、変なの……
と話をしながら帰ったのだが、家に帰り着くころには、そんな事もすっかり忘れてしまっていた。
でも、あの夢を観てしまって、何故あんな夢を……と考えていると、おばさんのあの言葉が妙に引っかかり、その後は何かに突き動かされるようにして、ここまでやって来てしまっていたのである。
もしかしたらおばさんの悪戯(いたずら)? おばさんなら、出来るかもしれないけど……
でも、もしそうだとしたら、あまりにも非道くない?
自転車を漕ぎながらおばさんの家に向かう道すがら、カコはそんなことを考えていた。
それでもいざ家の前まで来ると、呼び鈴を押すのを躊躇ってしまい、家の前をウロウロしていたのである。
するとそこに、自転車のブレーキの音が響いた。
「やっぱりここだと思った」の声。
振り返ると、自転車から降り立つナオとユウコの姿があった。
どうして? と訊くよりも前に
「やっぱり観たんだ。あれ……」とユウコ。
……?!
その言葉に、カコは言葉を飲み込んでいた。
「カコん家(ち)へ電話したんだよ」とナオ。
よっぽど急いで来たのだろう、二人は肩を大きく上下させていた。
*
わたしだけが観た夢ならば、休み明けの月曜日にそれとなく冗談っぽく言ってもいいかな?と、一度は考えたユウコだった。
しかし、何故(どうして)わたしがジンジの夢を観るの?ちょっとおかしくない?と疑問が湧いたのである。
同時に、木曜日のお弁当の時に、カコがわたしの夢を観た、と話してくれたことが頭にあった。
更に昨日の帰り際の、あのおばさんの意味ありげな言葉……
うまく言えないけど、ユウコはその三つが、何処かで繋がっているのかもしれないと考えたのである。
それで、取り越し苦労ならばそれはそれでいいと思い、早い時間ではあったけれども電話をしてみたのである。
カコは不在だった。
カコの母親は、娘は何か急いでいたようすで、自転車に乗って慌てて出掛けてしまったと言うではないか。
*
同じ時刻、ナオもカコの家へ連絡を入れていた。
ユウコと同じ理由だ。
電話は話し中だった。
もしやと思いユウコにダイヤルすると、呼び出し音が一回も鳴り終わらないうちに本人が出た。
カコの家への電話が終わり、丁度受話器を置いたところだったのだ。
電話で話しているうちに、カコはおばさんの家に向かったに違いない、と考えが一致した。
だから、二人で待ち合わせして、自転車を跳ばしてきたというわけである。
カコも観たに違いない。
しかもカコだけじゃなく、わたし達二人も同じ夢を観るなんて……それって絶対おかしいし、絶対何かあるに違いない。
ただの夢じゃない。
二人は自転車でおばさんの家に向かいながら、そんな会話を交わしていたのである。
*
ナオとユウコも同じ夢を観たって言うの?
悪戯なら度が過ぎてる。
おばさんがそんなことする訳がない。
そんなの悪戯じゃない。
じゃあ、何なの?
「どうしたの、黙りこくっちゃって」
ユウコが心配そうに、カコの腕に触れてさすった。
「ううん、何でもない」とカコは笑って誤魔化した。
「でも不思議だよね。三人とも同じ夢を観るなんて。やっぱりあの、きっといい夢が観れそう、に関係があるのかなぁ?」
「何かあるんだよね、きっと」とユウコ。
「ねぇカコ。おばさん……て何者?」とナオから素直(そっちょく)な疑問が出ていた。
そ、それは……とカコは口籠もった。
陰陽師だって言っても、二人に分かってもらえるだろうか? 信じてもらえるだろうか? と迷っているそこに……
玄関のドアが開く音がして、おばさんが姿を現していた。
「おはよう、いらっしゃい、そろそろ来るころじゃないかと思っていたのよ」
来るころ? 来るのが分かっていたの? と三人は首を傾げた。
「三人とも、その服とっても似合ってるわよ。制服の時とはまた違う雰囲気があって素敵……」とおばさんは三人に微笑んでいた。
カコは、深緑にエンジ柄チェックのフランネルシャツに、洗いざらして少し色のあせたジーンズに白いスニーカーを履いていた。
ナオは、淡いピンクのオックスフォード地のボタンダウンに、カーキ色の綿パンに淡色の赤いスニーカー。
ユウコは、オレンジ色の薄手のパーカーに真新しいのジーンズにグレーのスニーカーだった。
三人の普段着は、いつもそんな感じで、動き易い服装であることが多い。
「三人とも、とっても素敵ですよ」
深刻な顔をしている三人に対して、あまりにもあっけらかんとしたおばさんの笑顔に、三人は拍子抜けしてしまった。
*
三人は、朝の挨拶と一緒にコーディネートのお礼を言った。
おばさんは、いえいえどういたしまして、と返す。
そのあまりにも呑気な言い方に、わたし達は見当外れのことをしているんじゃないかしら?と思ってしまう三人だった。
とそこへ……
おばさんの後ろから、乙音がひょっこりと顔を出した。
「おはよう、ございます、お待ち、してた」
乙音は、ちょっと厚手で伸縮性のある綿素材のヨレヨレ襟なしシャツに、下も同じ素材の膝下までのパンツ姿であった。
パジャマだと言ってもおかしくない格好である。
しかも頭はボサボサのままだ。
「乙音ちゃんおはよー。わたし達が来ることが分かってたの?」とユウコが訊いていた。
すると乙音からは
「うん、分かってた、お母さん、来る、言ってた」と返ってきた。
三人は顔を見合わせた。
「来るのが分かってたんですか?」
ユウコは、さっき言っていたおばさんの台詞に対する疑問を口にした。
「分かってましたよ。夢のことで来たんでしょう」
三人はまた顔を見合わせた。
「じゃあ、わたし達があの夢を観たのは、おばさんの仕業だったてことですか?」とカコ。
問い詰めるような口調だった。
「ごめんなさい。でもその理由をきちんと説明してあげるから、ささ、上がってちょうだい」
「上がって、ください、です」
乙音は玄関ドアを大きく開けて、三人を手招きした。
夢の話、説明……という言葉に惹かれ、三人はおばさんの家に入ることにした。
玄関口で、おばさんはカコの傍へ寄り、二人に気付かれないように手を握った。
カコがおばさんの方を向いた。
でもおばさんは、カコには振り向かずに、前を向いたままだった。
07 夢占い
三人はリビングルームに通され、それぞれ昨日と同じ椅子に腰掛けた。
二人掛けにはナオとユウコ。
ナオの右横に、カコは種類の違う椅子に座った。
三人が座ると、奥のキッチンから乙音が現れた。
ゆっくりとした足取りで、テーブルまで恐るおそる運んで来たのは珈琲だった。
「豆、挽いて、淹れた、苦くない、豆、使った、召しあがれ」
乙音はカップを三人の前に並べた。
昨日のティーカップに比べて、今朝のカップは厚手で口が狭くなっている。
厚口なのは、紅茶に比べて低い温度で淹れるために中の珈琲が冷えにくくするためである。
そしてその分の容量を増やすため、ティーカップよりも背が高くなっている。
ナオとユウコが昨日そんな話をしていたと思うが、乙音はさも自分の知識だと言わんばかりに、自慢げに講釈してお茶目に笑っている。
そんな乙音の無邪気さが、場の空気を和ませる。
「まず、そのまま、飲む、駄目なら、砂糖、ミルク、ある」
三人は、いただきます、とそれぞれのカップを手に取った。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
三人はうっとりとした表情で珈琲を口に運んだ。
「おいしい、砂糖とミルクなんか全然必要ないよね」
ユウコが、ほぼ断定的に二人に同意を求める。
「ほんとだね、家ではインスタントばっかりだから、やっぱり豆から煎れると違うんだね」とナオ。
「お店の珈琲みたいに美味しいよね」
そう言ってカコは、今一度香りを楽しんだ。
「ありがと」と乙音は、ボサボサ頭を振りながら喜んだ。
「どんどん、飲んで、どんどん」と乙音は珈琲を勧めた。
三人は、何故どんどんなの?……と思いながら、珈琲の味を楽しんだ。
*
やがて
「落ち着いたかしら?」とおばさんが声を掛けてきた。
はい、と三人は、カップを両手で包みながら、おばさんに注目した。
「それじゃあ、何からお話しすれば良いかしらねぇ」
おばさんは、三人それぞれの表情を伺いながら、自分も一口飲んでから、テーブルの受け皿にカップを戻した。
「まずはカコさんが観た、ユウコさんの夢のことから始めようかしら……」と始めた。
カコの観た夢、で三人は目を丸くした。
「わたしの夢からなんですか?」とカコ。
ええ、とおばさん。
「カコさんが夢の話をしていたとき、お弁当はカコさんの教室で食べていたんでしょう?」
そうでした、と三人。
「ごめんなさいね、そこで乙音が話を聞いてしまったらしいのよ」
乙音ちゃんがわたし達の話を聞いていた?
三人は、首を傾げた。
「乙音ちゃん、近くに居たの?」
ユウコはびっくりしていた。
「近く、じゃない、けど、教室、居た、わたし、耳、いい」と乙音。
それでも、ナオとユウコは、納得がいかずに、まだ首を捻っている。
あのとき、乙音の姿は二人の視界にまったく入っていなかったからだ。
でも反対に、カコはなるほど、と納得するものがあった。
乙音は、時々姿が見えなくなってしまうとクラスの間で話題になったことがある。
何処に行ったのか、まったく見付からないことがあるのだ。
そしてその後、どこからともなく現れた乙音に、何処に行ってたの?と訊ねても、トイレに行っていたとか、他のクラスに行っていたとか、兄の音也と話しをしていたとか……いつものあの口調で返事が返ってくるだけなのである。
あのとき乙音ちゃんは、ムーンに戻ってたんだ……とカコは確信した。
乙音と音也は、おばさんよりも遙かに年齢を重ねた〝猫又〟である。
おばさんが若いころ、ある村で悪さをする祟り神がいると言う噂があり、捕まえてみると二匹の猫又だったのだ。
その二匹がムーンとユベールであり、乙音と音也なのである。
カコとジンジが、おばさんから聞いた話では、身体に蓄えている妖力エネルギーが少なくなってしまうと、本人にはどうすることも出来ずに、猫の姿に戻ってしまうとのことだった。
つまり二人、いや二匹は、妖力で人の姿を維持しているのだ。
幸いにも二匹は、大人の掌ほどの大きさで、学校の中でも見付かることなく隠れるのは造作もないことだった。
それであの時……近くで話を盗み聞きしてたのね。
カコは、二人に気付かれないように乙音を睨んだ。
おばさんの横に座っている乙音は、素知らぬ顔をしてあらぬ方向を見ていた。
あのとき乙音は、ムーンの姿になって自分の机の中に潜り込んで、妖力を蓄えながら三人の話を聞いていたのだろう。
*
「その夢がちょっと気になったもんだから調べさせてもらったのよ」
「調べた……んですか?」
「どうやってですか?」と訊いてきたのは、ナオとユウコの二人だった。
するとおばさんは
「そうだった、ごめんなさい」と二人に慌てて謝った。
「うっかりしてたわ。まずナオさんとユウコさんには、おばさんの仕事から説明しなければならないわよネ」
謝られて、逆に驚いた二人は
「おばさんの、お仕事……ですか?」と訊き返していた。
そうよ、とおばさんはカコを見て、それから正面の二人に顔を向けた。
「おばさんは占い師なの」
占い師?
二人は、おばさんの言っている言葉を、すぐには理解することが出来なかった。
その後にピンと来るものがあり、へぇ~そうなんだ、と感心していた。
「それでカコさんが観た夢に、仕事柄ちょっと興味が沸いちゃってね」とおばさんは三人に、意味ありげな笑みを見せた。
「それで夢占いをしたんですね?」とナオ。
おばさんは珈琲を口に運んだ。
「カコさんが観たユウコさんの夢。あの夢では、ユウコさんは真夜中に雨の中でバスを待っていたのに、やって来たバスに結局乗れなかったのよね?」
はい、と三人。
「それは何故なの? それにユウコさんがバスに乗ろうとしていた理由は何なの? と、その視点から占ってみたのだけれど……何度やってみても、何も観えてこなかったの」
三人は黙って、おばさんの話を聞いている。
「こう見えてもおばさんは、占い仲間では実力者で通ってるのよ。良く当たるって」
それでね……とおばさんはもったいぶったように、テーブルに向かって身を乗り出していた。
ナオとユウコも、なになに何なの? と惹かれるように身を乗り出していた。
「逆に考えてみたの。つまり、バスに一人で乗っていたカコさんは、何かを伝えようとしてユウコさんをバス停まで呼んだのではないか?って……そう考えて視点を変えて占ってみたら、あるものが観えてきたわけ」
「あるもの、ですか?」とおそる恐る訊いてきたのはカコだった。
おばさんは沈黙した。
三人は、おばさんが口を開くまで待った。
そして……
「そのあるものが、あなた達に観せた夢なのよ」と語った。
膝の上に乗せていたカコの手が、小さく震えた。
カコは、震える拳を握り締め、それから絞り出すように言った。
「それはジンジが事故に遭うかもしれない……ってことなんですか?」
「おばさんの占いが、良く当たるってことなら……」と震えるユウコ。
「それは絶対なんですか?」
ナオの声も震えてた。
「確率は高いと思うの」とおばさん。
「何とか出来ないんですか?」とユウコ。
「それであなた達を呼んだの」
「それでわたし達を呼んだ?」
三人は、おばさんに呼ばれた、その意図が、分からなかった。
「これはあくまで未来の話。一度起きてしまった過去を変えることは出来ないけれど、未来はまだ現実に起こっていないことだから……でしょ?」とおばさん。
おばさんは、三人から視線を外さない。
「それをこれから一緒に考えようと思ってるの」と言った。
08 観せられていた夢
カコが訊ねた。
「でも何故、昨日のうちにその話をしてくれなかったんですか?」
「昨日、あたたたちを招待したのは、今日のための準備だったの」とおばさんは答えた。
ユウコが口を開いた。
「今日のための準備……ですか?」
「あなた達に理解してもらうには、言葉だけではどうしても伝えにくい部分があったの。だからテレビや映画のように映像で観せるのが一番だと思って夢を観せることにしたわけ。そのための準備だったの」
「映像でだなんて、そんなことが出来るんですか? しかもわたし達三人一瞬に……どうやって観せたんですか?」
三人の疑問を、ナオが代表するようなかたちで口を開いた。
おばさんは、カコを目ながら
「占いの技術の中に、相手に自分の意思を伝える技法があるのよ」と言った。
「まだ分からないですけど、その、ぎほう……を使って、おばさんが占ったジンジの未来を夢としてわたし達に観せた、ってことですか?」とユウコ。
「そうよ」
「占いって、そんなことも出来るんですか?」とナオは、まだ半信半疑である。
「それじゃあ試してみるからネ……」と言いながら、おばさんは立ち上がった。
「これからあなた達に、ある〝思念〟を送ります」
「しねん、ですか……?」とユウコ。
「思い念じると書いて、思念って言うのよ。話すと長くなるから簡単に説明するけど、思念は言い換えればその人の強い思いってことよ。例えば、とても好きな男の子がいるとするじゃない。その彼に会いたいとか、話がしたいって願っていたら街中で偶然に出会ったり、突然彼が話し掛けてきたってことない? それは思念が相手を動かしたってことなの」
「そう言えば、小学校のころ……」
そこまで言って、ユウコは手で慌てて口を塞いでしまった。
「そうそれ、それも思念なのよ。その強い思いっていうのは相手に必ず伝わるものなんだから」
おばさんはテーブルの横に回って、ユウコのところまで移動した。
「それじゃあまず、ユウコさんからやるわね……」
そう言うと、おばさんはユウコの額の前に右の手の内をかざした。
「こわがらなくても大丈夫よ。目を瞑って」
ユウコは何が起きるのだろうと、硬い表情のまま目を瞑った。
すると……
「え、ええ、何?」
ユウコは驚いた声を上げて、両手を頬にやっていた。
「じゃあ次は、ナオさんね」
ナオはどんなことが起こるのだろうと、右手で前髪を掻き上げて、おでこを突き出した。
そしてナオも、驚きの声を漏らしていた。
「最後は、カコさん」
カコも同じように、前髪を手で掻き上げた。
おばさんの手の内が近付いてきたのを額に感じた瞬間、いつものあの屈託の無い彼の笑った顔が頭の中に広がっていた。
それはカコが、いつも思い描いている彼の笑顔だった。
ユウコにも、ナオにも、それぞれの〝想い人〟の笑顔が観えたに違いない。
しばらくの間、三人はそれぞれが観た映像に思い耽っていた。
その間、おばさんは何も言わずに、三人を眺めている。
やがて、最初に口を開いたのはナオだった。
「そうやってわたし達に夢を観せたってわけですね、でも……」と首を傾げる。
「夢は、昨日の夜から今朝にかけて観たってことを言いたんでしょう」とおばさん。
三人が頷く。
「あなた達が昨日おばさんの家に来て、乙音の紅茶を口にしたとき、とっても美味しいって言ってくれたわよね」
そうでした、と三人。
「そのときにおばさんは、紅茶の美味しさに気を取られているあなた達に思念を送ったの」
「なんですかそれ?」とユウコが首を傾げる。
「おばさんと、カコさん、ナオさん、ユウコさんとそれぞれ気持ちが通じ易くなるための道を作る思念よ。そのきっかけとなる道を、まずは造らなければならないから……だからあなた達を招待したの」
おばさんは、一息入れるかのようにカップを手に取った。
三人も同じようにカップを手に取り、これまでのおばさんの話を整理するように、ゆっくりと口に含んでいた。
「そして最後のきっかけ作りが、いい夢観てねの言葉なの」
「その言葉で、今夜は夢を観るんだ。という暗示をわたし達に掛けたんですね」とカコ。
「その通りよ。おばさんが帰り際にいい夢観てねって言ったのは、今日は夢を観るんだっていう思いをあなたたちの中に植え付ける言葉(思念)だったの。そしてあなた達が眠っている夜中に、おばさんが占ったジンジくんの映像を送ったのよ」
たった今、おばさんの思念で想い人を観ていなければ、とうてい信じられる話ではなかった。
「それじゃあ今日も、その思念で?わたし達に集まるように仕向けたんですか?」とユウコ。
「いいえ違うわ。今日、来る来ないはあなたたち次第。それぞれが、何故あんな夢を観てしまったのだろう?って考えた時、カコさんが観たユウコさんの夢、そしておばさんの言葉のヒントに気付いてくれたのなら……」
三人はそれぞれ、お互いの顔を見合わせた。
「そう、あなた達なら絶対来てくれると思っていたわ。そしておばさんの期待通りに集まってくれたってわけ」
おばさんは、三人のそれぞれの目を覗き込むように話している。
「そして、このまま何もしなければ、ジンジくんは、占いの通りになるかもしれないの……」
淡々と紡ぐおばさんの言葉に、三人は何も言えなかった。
しかし、おばさんの次の台詞は、以外にもあっけらかんとしていた。
「心配しないで、未来は変えられるんだから」
占いの通りになると言われて、震えるほどだったカコが〝変えられる〟という言葉に強く反応していた。
「一度知ってしまった未来を変えるのは相当に難しいけど、けっして不可能じゃないのよ」
その言葉に三人は大きく頷いていた。
09 伝えられない
月曜日の朝。
昭和町交差点で信号待ちをしているジンジの背中を、カコは「おっはよ!」と勢いよく叩いていた。
前のめりになって振り返ったジンジは、背中に手を回しながら
「今日は遅ぇじゃん。いつもならオレより先に教室に居て、すまし顔で席に座ってるのに……」とまず言った後に「おはよー」を返した。
「ちょっと、寝坊しちゃって」とカコは照れながら肩を揺らした。
「珍しいこともあるもんだ」とジンジは、ふ~んと顎を突き出した。
「図書館で借りた本がとっても面白くって、結局最後まで読んじゃったんだ。それで今朝は、なかなか起きれなくて」
「そっか……」とジンジは、青に変わった横断歩道へ足を踏み出した。
しかし、すぐに足を止めると
「何してんだよ。信号変わったぞ」と振り返った。
カコは慌てて、交叉点に、一歩を踏み出していた。
まだ寝ぼけてんのか?と思いながら、ジンジはカコが来るのを待った。
ジンジの左横に、カコは並んだ。
左手に持っていたアディダスのバッグを右腕に抱え直すのを待って、カコはジンジの肩に触れそうなほど近くに寄った。
そして、二人は一緒に横断歩道を渡りきっていた。
その短い間も、カコは横のジンジに、首を振る仕草で、何度も目を向けていた。
それを知ってか知らずか、ジンジは前を向いたまま、何の反応も示さない。
静かだ。
今日はどちらからも、話題が無いようだ。
話をすることが無ければ、それはそれでいい。
二人は肩を並べて、学校に向かった。
……と不意に、グラウンド沿いの所まで来たとき、ジンジがカコの前に回り込んだ。
そのまま後ろ向きに歩きながら、カコの顔を覗き込んでいた。
「なに? どうしたの? わたしの顔に何か付いてる?」
カコが戸惑いながら顔に手をやると、ジンジは一瞬、考えているような、頭を傾げる素振りを見せ
「うんにゃ」と頭を横に振り
「いつもの? カコだけど」と……だたそれだけ言った。
「だったら何なのよ?」
まったく理解出来ないジンジの行動に、カコは頬を膨らませて抗議した。
するとジンジは、また少し首を傾けて
「授業中、居眠りすんなよ」と言った。
するとまた、身体を半回転させて、カコの右横に並んだ。
このやろ、とカコは、ジンジの肩に自分の肩をぶつけながら
「それはそっちでしょ」と笑った。
「そうだな。オレだな……」
そう言ってジンジは、いつもの癖で頭を掻くつもりで手を上げていた。
しかしその手は途中で止まり、その後何事も無かったかのように、ゆっくりと下りていた。
*
カコが夜更かしして寝過ごしたというのは嘘だった。
今朝もいつも通りに起きて、いつも通りの時間に家を出たところまでは、いつも通りの時間に学校へ行けると思っていた。
しかし、不意に思い立つやいなや、旭東通りに姿を現すジンジを待つことに決めてしまっていたのだ。
ジンジがいつもの角から、通りに出て来たのを見付けると、カコは後を追った。
そして、昭和町の横断歩道のところで、確かめるように、ジンジの背中を叩いていたのである。
手が触れた瞬間……
それがそこに在(あ)るということを、カコは理解することが出来た。
何故かホッとした。
*
でも、こうやって肩が触れあうほどに、こんなに近くに居ることが分かっているのに、いつものジンジとは何かが違うような気がしてならなかった。
未来にそうなるかもしれない〝横断歩道〟を、今日は無事に渡りきっても、その不安は消えてくれなかった。
だから、確かめずにはいられないのである。
しかし、カコの気持ちが伝わることは無く、ジンジは前を向いたまま、鼻歌であしたのジョーを口ずさんでいる。
その呑気さにカチンときたカコは
「いい天気だね!」とジンジの横顔に向かって声を張り上げてしまった。
ビクンと跳ね上がるジンジ。
「ど、どうしたんだよ」
「どうしたかって? いい天気だねって言っただけだよ」
その顔に向かってフンと鼻を鳴らした。
「今日のカコは、ちょと変だよ。交差点でおっはよーって出現してからずっとだよ。何か隠しごとしてない?」
「出現? わたしが……」
「そうだよ。突然後ろから現れて、オレの背中を思いっきり叩くしよ」
「そんなことないよ。いつものわたしだよ。それに思いっきりじゃないし」
「そうかなぁ~、何かなぁ~、ちょっとなぁ~」
首を捻りながら、納得のいかないまま叩かれた背中に手を回そうとすると、それよりも先にカコの手が動いていた。
カコはジンジの背中に手を添えた。
カコの手は、ジンジの鼓動を捕らえていた。
10 どうしたんだよ
教室に入ると、窓際のジンジの席に、ナオとユウコと乙音の姿があった。
「どうしたんだよ」
ジンジは鞄のベルトを肩から外しながら、三人のところまでやって来た。
カコも直接、鞄をそのまま両手に抱えてやって来た。
「う、うん、ちょっとね。カコに急ぎの用があったんで待ってたの」とナオ。
「いつもなら来てる時間なのに来てないじゃない。だから来るまで乙音ちゃんと話をしてたんだ」とユウコ。
「はなし、してた、です」と乙音。
その三人に、カコはおはよー、と小さく手を振った。
ジンジは、そうなんだ、と鞄を机の上に置いて開き、弁当だけを中に残して他の教科書やノートを、机の上に無造作に置き始めた。
そのようすを見ていたカコは、鞄に残されたお弁当が、いつもより大きいのに気付いていた。
それからジンジは、鞄とアディダスバッグを、教室の後ろの自分の棚に置きに動いた。
カコはその隙に、どうしたのよ? と二人に口パクで訊ねていた。
心配だったから、とナオとユウコも口パクで返事をした。
ありがとう、とカコは微笑んだ。
三人の様子を、乙音は不思議そうに眺めている。
戻ったジンジは、椅子を引いて席に座り、机の上に置いたままの教科書とノートを、まとめて机の中に押し込み始めた。
そして片付け終わると、不思議そうに顔を上げた。
「二人とも、カコに用事があったんだろ? だったらどうしてオレの席で待ってんだよ」
すぐにナオが答えた。
「ジンジの席からだと、中庭が良く見えるからに決まってるじゃない」
ふ~ん、とジンジ。
ジンジの窓際の席からだと、登校してくる生徒たちが、良く見える。
「でも早くしないと自習が始まっちゃうぞ」と言いながら、その話はもうこれで終わり、と机の中から、改めて教科書とノートを取り出していた。
教科書は当然、一番苦手な社会である。
すると、そのようすを見ていたカコの目が大きく開かれていた。
今にも飛び出しそうになる悲鳴を無理矢理飲み込み
「そ、その頭……」と言葉を詰まらせていた。
ジンジの、右の額のイガグリ頭の中に、3センチほどのキズを発見したのだ。
しかもまだ新しい。
髪の毛の中のキズだったので、上からでも、注意して見るまで気付かなかったのだ。
「あ、これか?」
ジンジは、右の人差し指で、そのキズにそっと触れ
「昨日一人で練習しててさ、滑ってゴールポストにぶつけたんだ」とカコを見上た。
「昨日って……」
カコは一瞬言葉を切り
「もしかしたらお昼ごろ?」と何かに閃いたように言葉を出していた。
「お昼ごろだった。よく分かったな。さてはオレの練習を木の陰から覗いてたんじゃねぇの?」と茶化すジンジ。
「お昼ごろって言えば〝雨〟が降ったでしょう。それも急に凄く……」
ユウコだった。
ユウコは、その〝雨〟と言う言葉を、ことさら強調していた。
「30分くらいで止んだと思ったけど……」と言ったナオのトーンは重かった。
「そう、その時。急に降ってきたもんだから、もう上がろうと思ってさ、最後の一回ってことでゴール前にドリブルで走り込んだんだ。そしたら、ぬかるんだグラウンドで滑っちゃってさ……」
ケガなんていつものことさ、と平然とした顔で話をするジンジだった。
「それで?」
「それでって、ゴールポストにごっつんこだよ」
ジンジは、どうってことないじゃん、という顔で、立ったままの三人を見上げていた。
「それで?」
「それでって?」
ジンジは不思議そうな顔で、三人を見上げたままだ。
二度目の、それで?の意味が理解出来ないのだ。
「それでその後どうしたの?って訊いてるの」とカコ。
表情の中に、分からないものが見え隠れしている。
「そんな顔すんなよ。別に大したことじゃ無かったんだからさ」
ジンジは肩をすくめながら机に目を落とし、所在なく教科書をパラパラと捲った。
その捲る手を、カコは握って抑えた。
見上げるジンジ。
「言って!」と言って、次には慌てて手を離していた。
ジンジは、カコ、そしてナオとユウコ、最後に乙音へと首を巡らした。
乙音以外の三人が、普段とはまったく違う顔付きになっていた。
ジンジは仕方ないという風に
「そのまましばらくひっくり返ってた」
何でそんなこと聴きたがる?
大したケガじゃないんだからさ。
大ケガだったら、今ここに居ないぞ。
入院してるぞ。
どうだっていいだろう、と言外で三人に訴えた。
「気絶してたってこと?」
そう、おそる恐る訊いてきたのはナオだった。
「うん、まぁ、そう言うこと……」
ジンジはあくまで、あっけらかんとした表情と口調を崩さない。
……とユウコが、横の席の空いていた椅子に座り込んでいた。
ナオが慌てて、ユウコの背に手を回し支えた。
「大丈夫か?貧血か? 朝飯食ったのか?」
ジンジは、これも半分は冗談っぽく声を掛けていた。
「う、うん、大丈夫。ちょっとダイエットしてるの」
ユウコはカコに顔を向けると、話を続けて、と促した。
カコは質問を続けた。
「どれくらい気絶してたの? 一人だったの?」
一人で練習してた、って言ったはずだよな……
「うん、一人」とジンジは諦め顔だ。
「気付いたら雨は止んでた」と言葉を切り「ちょうどあんな空」と教室の窓から青空を見上げた。
「30分も降らなかったと思うけど」とナオはまだ、ユウコの背中に手を置いたままだ。
「降り出してすぐに、滑ってポストにぶつかったから……だったら気絶してたのは30分くらいだな」
頭を搔こうとした手はいったん止まり、キズを避けた場所に移動した。
何かにつけて頭に手をやるのはジンジの癖だ。
そう言えば……
今朝も一緒に歩いている時に、頭を掻く仕草をして、途中で手を止めてたんだった、とカコは思い出していた。
「キズの具合は?」
ユウコだった。
貧血?も、落ち着いたようだ。
ジンジは、そこまで言わなきゃいけないの?という顔をしながら
「頭からドバーって血が出てた……んじゃないかな?と思う。でも気が付いたらそんなんでも無かった。雨で流されたんだよきっと」
突然、ドスンという音がした。
カコの手から鞄が滑り落ちて、床を鳴らす音だった。
立ち上がったジンジは、鞄を拾い上げて埃をはたき、そしてそのまま抱え込んだ。
「おい、なんだよ。大丈夫かよ」
「ずっと持ってて手が疲れちゃって……滑っただけだよ」
「顔色悪(わり)ぃぞ」
カコは、覗き込もうとするジンジの目を、顔を横に流すように避けた。
今のこの、何とも言い難い〝怯え〟を気付かれそうで、目が合わせられなかった。
「座れよ」
ジンジは自分の席を顎で示した。
「大丈夫だよ」
「いいから座れよ」
首を横に振るカコを、ジンジは半ば強引に座らせた。
それからナオとユウコに向かって
「お前たちおかしいよ。ユウコだってそうだし、ナオだって突っ張った顔してるし、カコだって……」と睨むような目線を送った。
「そんなことないよ。わたしは寝不足なだけだよ」
「わたしは、ダイエットで貧血……」
ナオは、何て言えばいいのか分からず黙ったままだ。
「じゃない、絶対何か隠してる!」
ジンジは鞄を胸に抱いて仁王立ちになっていた。
そこに、乙音がいつもの口調で割り込んできた。
「みなさん、そろそろ、自習、始まる」
黒板の上に掛けてある時計を指差す。
すると、乙音の割り込みを待っていたかのように、自習開始5分前の予鈴が鳴っていた。
「ふ~ん」
予鈴を聴きながら、ジンジは呟きとも取れる息を吐いていた。
そして
「自習、始まるぞ」と突き放すようにそう言うと、抱えていた鞄を持ってカコの席まで行ってしまった。
机の上に鞄を置いて戻ってくる。
「ほら、何してんだよ。この話はもう終わり!」
所在ない三人を追い払うように、ジンジは手首を下から上へ、シッシッと振った。
カコがジンジの席から立ち上がる。
ユウコも、隣の席から立ち上がった。
「そうね、自習だね。わたしも教室へ戻らなきゃ」
「じゃあね、カコ。話はお弁当の時にね……」
ナオが胸の前で小さく手を振る。
「ほら、さっさと行った行った」とジンジが二人を急かす。
「じゃあね」
半ば追い払われるように、ナオとユウコは教室を後にしていた。
ジンジは唇をきつく結んだまま、二人が教室から出て行くのを見送った。
乙音は、もう終わったというように、家庭科の教科書を机の上に広げて覗き込んでいた。
カコはまだそこに立っていた。
「ほんとに大丈夫だったの?」
聞く耳持たず、と言うように、ジンジは硬い表情のままだ。
諦めたカコは、席に戻ろうと身体を回した。
その背に、ボソっと言葉がぶつかった。
「その後家でずっと寝てたんだ」
カコは足を止めて振り返った。
「気絶してたんじゃないんだ。ぶつかった直後は血がなかなか止まんなくてさ。あんまり動かない方がいいと思って、雨の中しばらくグラウンドに横になってたんだ」
「どれくらい?」
「怒んなよ」
「教えて」
「一時間くらいかな」
「そんなに……」
「それでようやく止まったんで、頭にタオル巻いて帰ったんだ」
「…………」
「それから風呂入って、自分で鏡見て赤チン塗って、朝まで寝てた」
「キズは?」
「もう大丈夫さ」
ジンジはお辞儀をして、カコにキズが見えやすいようにしてやった。
額のすぐ上のイガグリ頭の中に、3センチほどの薄いカサブタがあった。
「朝まで寝てたって……お昼とか夕ご飯は?」
ジンジは顔を起こして、うんにゃ、と首を横に振った。
「雨に打たれて、ちょっと寒気がするからって嘘ついて、起こさないでくれって言って寝てたから」
「今朝は?」
「ギリギリに起きて、食欲無いって言ったんだけど、母ちゃんに無理矢理食パン1枚押しつけられた」
「食べたの?」
ジンジは頷いた。
「お腹すいてないの?」
空いてない、とジンジ。
それで今日のお弁当は特別大きいんだ、とカコはジンジを見ている。
すると唐突に
「それでさ、カコにお願いがあるんだけど」と言い出していた。
「え、何? 何でも言ってみて」
カコは思わず言葉を返していた。
聞いたジンジの唇の右端が、ニヤリと釣り上がった。
「今、何でもって言ったよな」
「え、ええ、そうだけど」
どう言うこと?とカコは首を傾げた。
「先週出された社会の課題、ぜんぜんやってないんだ。だからノート貸してくんないか?」
どうやらその課題を、自習時間の間に何とかしたいらしい。
「社会の課題? ああ、あの簡単なやつね。そんなのわたしのノートを見なくても出来るでしょう」と眉だけ動かした。
「そんなこと言わずに貸してくれよ」
ジンジは拝むように、胸の前で両手を合わせた。
「今日は、何故か先生に指名されるような悪寒がするんだ。それにさっき何でもって言ったじゃんかよ」
今、ジンジのペースに巻き込まれてゆく感覚の自分がいた。
そうじゃ無くて反対に、自分から巻き込まれようとしているのかもしれない、と思った。
「悪寒じゃなくて予感でしょ」
呆れ顔で腕を組み、唇を尖らせた。
「でもまぁしょうが無いか。具合悪くて寝てたんだもんね」
カコは、よいしょ、と自分に声を掛け、席まで行った。
そして、鞄の中から出したノートを手にして戻って来た。
「まる写しは駄目だからね」
両手でしっかりと差し出す。
「分かってます。あくまで参考にさせていただきます」と言いながら
畏れ多いといった態度で背筋を伸ばし、ははーかたじけない、とお辞儀をしながら両手でノートを受け取った。
また頭のキズが見えた。
大事なくて良かった、とカコは、心からそう思った。
そして、早く準備をすすめなきゃ、と〝ある考え〟を巡らせていた。
11 もう一度
休み時間になると、カコはユウコを呼び出し、二人でナオの教室まで行った。
三人が揃ったところで、カコは口を開いた。
「出来るなら、もう一度あの夢を観てみようと思うの」
「も、もう一度……なの?」
ナオは戸惑っている。
カコは強く頷いた。
「でも、どうして?」
ユウコは、苦手な食べ物を無理矢理食べているような?顔になっていた。
「ほんとは観たくないよ。でもどうしても確かめたいことがあるの」
「何を確かめたいの?」とユウコ。
「くるま……」
「くるま?」
「ジンジを撥ねた車を覚えてる?」
「ちいさな白い車……」
そうだったよね、とユウコがナオに顔を向けると
「ドアの横に何か書いてあった。だから営業車じゃないかしら」とナオ。
そうだった書いてあった、とユウコ。
カコが二人に訊いた。
「じゃあ、そこに何て書いてあったか、分かる?」
すると二人は、お互いの顔を見ながら首を捻ってしまった。
「えっと……」
はっきりと思い出せない。
「わたしも思い出せないの。でももしそれが分かったら、ジンジを撥ねる車を絞り込めるかも……」
カコは、撥ねたではなく、撥ねる、と言った。
「そっか、そういうことか?!」とユウコ。
「車が分かれば、注意することも出来るわよね」とナオ。
「そしたら、事故を避けることが出来るかも」とユウコ。
「おばさんに頼んでみる価値があるかもね」
カコは二人に強く頷いた。
「でも、おばさんもそんなこと出来るのかしら?」とナオ。
「頼んでみなきゃ分からないじゃない。きっと出来ると思うな」
ユウコが強く言うとナオも
「そうだよね」と言った。
それを聞いたカコが慌てた。
「ち、ちょっと待って、ナオとユウコも観るつもり?」
「あたり前じゃない!」
ユウコが声を上げる。
「三人で観た方が、それぞれに気付くことがあると思うけど……」
そんなの当然じゃない、何故そんなこと訊くの? とナオは首を傾げている。
「そう言うこと。善は急げよね。今日いこう」
ユウコは二人を抱えて、それぞれの肩を勢いよく叩いていた。
「じゃあ、部活の後に」
ナオはユウコに叩かれた背中に手を回し
ユウコ強すぎー、いつもそうなんだから、とカコに目線を送った。
ありがとう、とカコは笑顔を返していた。
12 四人でお昼
昼休み。
シゲボーとジンジが外に出たのを目で追った後に、カコは隣の席の乙音に、声を掛けた。
「乙音ちゃん」
「はい、なんです?」
乙音は既に、紙袋の中に手を入れて、メロンパンと魚肉ソーセージを出そうとしていた。
「よかったらお昼、わたし達と一緒に食べない?」
今日はカコのクラスで〝お弁当する〟番になっている。
「え、え、い、い、いいん、ですか?」
思いもよらない誘いに、乙音は調子っぱずれな声をあげてしまった。
「ええ、もちろん」
カコは、持っていたお弁当箱を、乙音の前に持ち上げた。
すると乙音も、メロンパンと魚肉ソーセージが入った紙袋を持ち上げて、ガサゴソと揺すった。
「う、嬉しい、です」
「じゃあね、乙音ちゃんの机をわたしのにくっ付けちゃおうよ」
「はい、わかった」
乙音は立ち上がると、ガタゴトと机を揺らしてカコの机に寄せてくっ付けた。
「丁度いいから、こっちも借りちゃうおうよ」
カコは、自分の前の席の机を半回転させて寄せた。
乙音は、自分の前の机も同じようにやった。
乙音の前とカコの前クラスメイトは、カコたち三人が、三日に一度は集まって食事をするのを知ってるので、気を利かせて、いつも空けておいてくれるのだ。
「カコさんの、牛乳、持ってくる」
乙音は、当番が配膳室から運んできた牛乳を持って戻ってきた。
そこにナオとユウコが現れた。
手にはそれぞれ、お弁当と牛乳を持っている。
「ナオさん、ユウコさん、こっち、こっちです」
乙音は、飛び上がるようにして、二人に手を振った。
「ごめんね、待たせちゃって」
言いながらユウコは、カコの前の席に陣取った。
そして乙音の席の前に、ナオが座った。
乙音のわくわくが止まらない。
身体を揺すって、いつも以上に嬉しそうだ。
「みなさん、準備、いい、ですか?」
三人はもう、それぞれのお弁当と牛乳を机の上に置いて待っている。
当の乙音は、すでに右手にメロンパンを持ち、左手には牛乳を手にしている。
三人が、いいよ、と合図すると
「いただき、ます」と当時に、乙音はメロンパンにかぶりついていた。
すると乙音は、驚いたように目を丸くしていた。
「おいしい、です」
歯形の付いたメロンパンをしげしげと眺め、それからおもむろに二口目を口に運んだ。
三人はまだ、お弁当の蓋を開けたばかりだ。
「乙音ちゃん。そんなに慌てて食べなくても大丈夫だよ。時間はたっぷりとあるんだから」と言って、ユウコは笑いながら、一口目のご飯を口に運んだ。
乙音は、不思議そうに
「慌ててる、違う、分からない、今日、メロンパン、とっても、美味しい」と三口目を食べた。
「みんなで食べるから美味しく感じるんじゃないの?」
ナオはやっと、最初のご飯を箸で口に運ぼうとしている。
「遠足で食べるお弁当みたいなもんだと思うよ」とユウコ。
「遠足、お弁当?」
「うん、そう。お弁当の中身はそんなに変わるわけじゃないけど、外でみんなと一緒に食べるお弁当ってさ、いつもと違って美味しく感じるじゃない。それと同じなんじゃないかな?」
乙音は、メロンパンと魚肉ソーセージを食い入るように見詰めながら首を傾げた。
「わたし、遠足……」
「気の合った仲間たちと食事をすると、特別美味しく感じるもんね」
カコは、自分のタコさんウインナーを箸で摘まんで乙音の前に差し出した。
乙音がかぶり付く。
うんうん、頭を上下に振りながら、口を動かす。
「これも、おいひい、です」
乙音はブルっと全身を震わせた。
乙音は、遠足?のことなど、すっかり忘れていた。
遠足を知らない乙音に、どうして?と二人から質問が飛べば、話がややこしくなってしまうのを、カコはすんでの所で誤魔化すことが出来た。
「じゃあこれは」
面白がって、ナオが卵焼きを差し出した。
乙音は身を乗り出してかぶり付くと、また震えた。
震わせながら身を乗り出して、ユウコのお弁当を覗き込んでいた。
「この唐揚げをどうぞ」
ユウコが唐揚げを差し出すと、乙音は嬉しそうに頷いていた。
そうやって四人でワイワイと、時間を掛けた食事が終わろうとするころ
「それでね……」とカコが話を切り出していた。
13 未知と道
おばさんは、乙音が用意してくれた紅茶に目を落としながら口を開いた。
「それは薦められないわ」
カコたち三人は、おばさんの家のリビングでテーブルを囲んでいた。
おばさんの横に座っている猫舌の乙音は、紅茶が冷めるのを待っている。
ユベールは、今日もナオの膝の上でうたた寝をしている。
ユウコにはそれが、ちょっとだけ不満そうだ。
「どうして駄目なんですか?」
カコは、おばさんに食い下がった。
頼めば当然観せて貰えると思っていたからだ。
それが簡単に断られてしまって、どうしても諦めきれない。
ナオとユウコも同じ気持ちだった。
「同じ夢をまた観るってことは、とても危険なことなのよ」
おばさんの言葉に、カコは身を乗り出した。
「じゃあ、わたしだけでも」
思念で映像(夢)を観るのは、観せられた本人の身体や精神に何らかの影響を及ぼしてしまうのではないだろうか?……だったらわたしだけでも、と思っての提案だった。
「落ち着いて」
おばさんは、ゆっくり、そして優しく言った。
「あなた達が危険じゃないの。危険なのはジンジくんなの」
ジンジが危険?どうして、と三人は首を捻った。
「おばさんは言ったわよね。未来は変えられるって」
三人は頷く。
「だからもう一度観せてもらって、もっと細かなことを知ることが出来れば、事故を回避する方法が見付かるかも知れないと思ったんです」とカコ。
おばさんは、そうじゃないの、と一度だけ首を横に振った。
「それが危険なのよ」
三人は、言葉の意味を測りかねた。
「同じ未来を繰り返し観てしまうと、それが〝現実〟となってしまうの」
そう言って、手にしていたままのカップを口に運んだ。
「何度も観ることによって、未来への〝道〟が出来てしまうの。言い換えれば、無限にある未来の中の、夢で観たその未知(道)だけが太くなってしまうのよ」
そしてようやく、カップをテーブルに戻した。
「未来が……その太くなってしまった道に進むようになってしまうんですか?」とカコ。
「そうよ」とおばさん。
「無限に広がっているはずの未来が、狭まってしまうんですね」とナオ。
「決まってしまう、ってことですね」ユウコだった。
「言い換えれば、観えてしまったことで、未来が観えた方向に動いてしまうの」
「どう言うことですか?」と二人。
「ひとつへの未来へ〝方向〟が決まってしまうってことなの」とおばさん。
おばさんは〝占い〟と口にしてはいるが、おばさんが陰陽師であることを知っているはカコだけだ。
別の次元で、三人に注意してくれていることに、カコはようやく気付いていた。
「あなた達にもう一度観せるってことは、ジンジくんにとってはとても危険なのよ。そうなると事故が起こる確率が上がる。観たとおりの事故がね……二度目を観たとして、そこでジンジくんを撥ねた車の文字が分かったとして、そしてそれから、あなた達三人が何らかの手を打ったとしても、二度観てしまったことで、事故が起きてしまう確率が、一度目よりもグンと上がってしまうの。それはどうしても避けたいの。分かってくれるかしら」
三人は、おばさんの思念の力を、自分の身で知っているからこそ、その言葉には重い意味を感じていた。
説得力があった。
「未来を決めたくないの。おばさんは、それが言いたいのよ」
とても良いアイデアだと思っていたのに、こうもあっさりと否定さえるとは思ってもいなかった。
三人は肩を落とした。
でも……とカコは顔を上げた。
おばさんは、頷いた。
「おばさんは何度も観たんじゃないのか?と言いたいんでしょ」
はい、とカコ。
「おばさんはジンジくんの夢を何度も観てます。だからおばさんはジンジくんを危険にさらさないためにも、あえておなた達には何も言わない、アドバイス(助言)はするけどヒント(手掛かり)を与えるつもりはありません」
そうきっぱりと断言していた。
悪い意味では無く、知っていても行動を起こさなければ、それは全く関係の無いことになるのだ。
おばさんの関係しない未来は、カコたちにとって、いくらでも変化する可能性があるのだ。
それが分かっていても
「でも、このままだとあまりにも手掛かりが少なすぎるんです」と言うユウコに対し
「起こる可能性があると予想しながら、事故を回避するように行動するしか、今はその方法しか無いのかも知れない」とカコは、力なく呟いていた。
するとそこに
でも……ちょっと待って、と言ったのはナオだった。
「〝かも知れない〟て分かっていることは、何も知らないよりは有利なのよね」
「そう、そうなのよ、よく気付いてくれたわね」とおばさんは指を立てた。
「今はまだ、あなたたちの行動ひとつひとつで、未来はいくらでも変えることが出来るのよ。夢で観た〝事〟を決定付けさせないようにするためにもね」
おばさんの言葉に、三人は力を感じた。
すると突然、乙音が口を開いていた。
「カコさん、何故、ユウコさん、夢、観た? ジンジくん、どうして、事故に、遭う? ふたつ、夢、繋がり、ある、ですか?」
カコは立ち上がった。
「もう一度初めから、これまでの流れを整理してみようよ」
言うなり玄関へ向かっていた。
戻って来ると、手にはノートと筆箱が握られていた。
テーブルの上に開かれたノートに向かって、ナオは椅子から身を乗り出した。
放り出させるようなかたちで、ユベールは慌てて、床に飛び降りた。
「じゃあ、カコが観た夢から整理しようよ……詳しく思い出してみてね」とナオ。
近い将来、ジンジに〝何か?〟が起こる。
それだけは分かっている。
ナオの膝から追い出されたユベールは、床の上から不満そうな顔で、三人を見上げていた。
14 見知らぬ男
火曜日、朝。
カコは早めに家を出た。
いつもの時間に起きてカーテンを開けると、空にどんよりとした厚い雲が広がっていたからだ。
今にも降り出しそうな空模様だったが、早く家を出れば学校へ着くまでは大丈夫だよね、とそう思ったのだ。
だが残念なことに、昭和町交差点を渡ってグラウンドの端まで辿り着いたところで、空はとうとう泣き出してしまった。
もうちょっとだったのに…残念、とカコは準備していた傘を開いた。
やがて、最初はポツリポツリだった雨は、グラウンドの幅の半分も歩かないうちに、大きく密度を増していった。
カコは両手で傘を支え、少しだけ前屈みになって肩をすぼめながら、グラウンド沿いの道を進んだ。
あと少しで、後田川にぶつかる。
川を超えて、直ぐに左に曲がれば学校だ。
その角を曲がりさえすれば、と思うのである。
あの夢を観て以来、雨にはちょっとした苦手意識が生まれていた。
だからこんな雨でも、学校が守ってくれているような気がするし、何故かホッとするのだ。
急げ、学校はすぐそこよ。
走り出しはしないものの、足を運ぶスピードを上げるカコだった。
*
あれ?
前を確認しようと、心持ち傘をあげたとき、川を超えた先の宮崎中学校前バス停のベンチに、人が座っているのが目に入った。
一瞬、ユウコかと思った。
真夜中に、雨の中でバスを待っているユウコの姿とダブったのだ。
だがそこに居るのは、男のようだ。
しかもこの雨の中、傘も持たずにベンチに座っている。
座ってないで立ってればいいのにお尻が濡れちゃうよ、と思いながら、見るとは無しに眺めていると、不意に、妙な感覚が湧き上がってきた。
あのバス停の男の人、どこかで見たような気がするんだけど?
誰だったかなぁ、と考えていると……
男が立ち上がっていた。
男は空を見上げると、羽織っていたパーカーのフードを頭から被った。
それから男は、カコの方へ向かって歩き出したのである。
やだ、こっち来た。どうしよう? バスを待ってたんじゃないの?
男がそのまま歩いて来れば、カコが学校へ曲がるよりも先に、その角を超えてしまう。
つまり、男とすれ違うことになる。
その擦れ違うだけの行為に、カコは妙な嫌悪感、言い換えれば抵抗を感じていた。
カコは、何気ない素振りを見せながら後ろを振り返った。
そんなに早い時間でもないのに、登校してくる生徒の姿は一人もない。
もう、こんな日に限って、なんで誰も来ないの?
そのまま背中を向けて、昭和町交差点の方へ引き返そうとも考えた。
だがかえって、それを男が変に思うかも知れない。
刺激してしまうかも知れない、と妙な勘ぐりが、カコの頭の中を駆け巡っていた。
*
男はパーカーのポケットに両手を突っ込んで、俯いたまま近付いてきた。
雨は木綿のパーカーのフードと肩を濡らし、その領域を染みのように広げてゆく。
カコは、男からなるべく距離を取ろうと、道の左側ギリギリまで寄って進んだ。
端に寄ってよ!
カコは男に、心の中で強く念じた。
しかし、その思いは虚しく、男は道の真ん中を歩いてやってくる。
そして、カコの横を通り過ぎようとしたとき、男が頭を上げた。
男の動きに反応してしまい、カコは男を見てしまった。
無精髭を生やした、蒼白く血色の悪い顔がそこにあった。
まるで病人のようだ、と思った。
だが、目だけはそこに、まるで別物のように暗く淀んだ光を発している。
二人の視線が交差した。
カコは足がすくみ、歩みが止まりそうになった。
声が出そうになった。
それほどの嫌悪感だった。
それでもカコは、叫ぶのを踏みとどまった。
大丈夫!学校が守ってくれる。
すぐそこを左に曲がりさえすれば……
そんな強い思いが〝大声〟より勝(まさ)ったのだ。
だから平静を装って、その場に踏みとどまることが出来た。
前へ進むのよ!と自分を鼓舞することが出来た。
その時である。
「未来は……」
男が口を開いた。
「お前が観た通りのことが起こる」と言った。
はっきりと、そう言った。
男の顔には、薄ら笑いが貼り付いていた。
カコは足を止め、通り過ぎた男を振り返った。
今の言葉を問い正したい衝動に駆られる。
だが、男は遠ざかってゆく。
カコは男に向かって一歩を踏み出そうとした。
しかし、その一歩がどうしても出なかった。
足が完全にすくんでしまっている。
動けないまま、カコは男の後ろ姿を追っていた。
15 落ち着いて……
カコは教室の自分の席に腰を下ろした。
机の上に置いた鞄の上に両手を乗せて、身体を預ける。
とにかく落ち着こうと思った。
ゆっくりと息を吸って、さらにゆっくりと息を吐く。
それを何度も繰り返した。
繰り返しながら、教室を見回す。
もうすでに、かなりのクラスメイトが登校して来ていた。
ざわざわと、友人同士の話しや笑い声が、教室の中を駆け巡り、それが空気を温めてゆく。
カコはまたひとつ息を吐き、窓の外に目を向けると、雨はいつの間にか土砂降りになっていた。
嫌な雨……と窓に当たって流れる雨粒を見ていて、突然
あっ、とカコは、椅子から音を立てて立ち上がった。
ジンジは?と教壇の上の時計を見る。
もうとっくに来ていてもおかしくない時間になっている。
慌てて席を離れ、ドアへ向かう。
その途中で、ガラス越しにジンジの姿を見付けた。
ドアを開けて、ジンジが入って来る。
ジンジは、少し先で立ちすくむカコを見付けると、おはようぃ~す、と言って横を通り過ぎ、窓際の自分の席へ行ってしまった。
踵を返して、カコはジンジの後を追った。
「ちょっと遅かったね」と背中に声を掛けた。
「あ、うん、ちょっとな」
ジンジは鞄の中身を机の上に出し、それを中に移し替えていた。
「家を出るときは降ってなかったんで、大丈夫だと思って傘を持ってこなかったんだ。そしたら途中で急に降り出したもんだから、慌てて取りに帰った。それでギリギリになったんだ」
「そりゃあ、家を出るときは降ってなかったかも知れないけど、こんな空模様なんだから普通は傘を持ってくるんじゃないの?」
ほっとするやら、あきれるやらで、自分は今どんな顔をしているんだろう、と思いながら、カコはジンジの背中を見ていた。
詰襟の肩が濡れているのが目に留まった。
カコはポケットからハンカチを取り出し、肩の滴を叩く要領で拭き取った。
「大丈夫だと思ったんだ。学校へ行けば置き傘もあるし、こんなんで毎回持ってきてたら置き傘ばかりになっちゃうしさ」
「そのたんびに持って帰ればいいじゃない」
「それがヨダキくってさ」と作業を続けながら頭を搔いた。
もちろんキズを避けてである。
「雨の中を走ると、またこの前みたいに滑って転ぶよ」
「気に掛けてくれてるんだ」
背中を向けたまま、ジンジは冗談っぽく肩をすくめた。
「…………」
そんなことないよ…とか、何言ってんの…とか、自信過剰じゃないの…とかの返事が返ってくるとばっかり思っていたジンジは、整理の手を止めて振り返った。
困ったような、怒ったような顔がそこにあった。
ジンジは戸惑った。
「あ、うん。今度からそうするよ」
いつもと勝手が違うな~、と思いながら言葉を返すと
「そうしてね」とカコはそれだけ言うと、席へ戻ってしまった。
ジンジは、その背中を目で追うだけだった。
梅雨でもないのに、何でこんなに雨が降るのかしら?とカコが、また何気なく窓に目を向けると、雨はすっかり止んでいるではないか……
何なのよう、もう。
カコは机の中から、自習のための教科書とノートを取り出した。
16 音也一人
いつもなら乙音と一緒なのだが、今日の音也は一人で帰宅の途についていた。
カコさん、ナオさん、ユウコさん達と一緒に帰るから……と乙音が言ってきたからだ。
そう言ってきた乙音は、とても嬉しそうだった。
だから乙音は、三人の部活が終わるのを待って一緒に帰ることになったのだ。
音也も一緒に、と誘われたが、母?であるおばさんを手伝わなければならない用事があるので、部活が終わるまで待てないと断った。
用事とは、もちろん陰陽師がらみの手伝いである。
それで音也は、今日は一人で帰宅しているのだった。
*
誰も居ない川沿いの一直線の道をブラブラと、周りの景色を眺めながら歩いていた。
もう少し先の角を曲がれば、家までは目と鼻の先の距離である。
その時だった。
音也は首筋に、氷のような息を感じた。
蒸し暑い真夏の夜に、一人で墓地に佇んでいたら、ふと感じる二の腕と背筋をゾワっとさせるような冷たい風だった。
それを音也は〝息〟として感じたのだった。
足を止めて振り返った。
学校まで続く一本の道に、動くものは何も無かった。
心持ち首を傾げ、やがて、気のせい、と思い直して前を向いて歩き出した。
するとまた息を感じた。
今度は瞬時に振り返っていた。
しかし、背後に動くものを見付けることは無い。
急ごう。
そう思って再び前を向くと、ほんの数メートル先に人の姿があった。
少し先まで、横から出てくる道などないはずなのに、目の前にはパーカーのフードを被った男が立っていた。
*
男の呼気と同時に、空気が動いていた。
「いつの間に?…って思ったろ」
男の身体を包み込む空気。
触れただけでピリっと痺れるような感覚が、音也の肌を刺していた。
未舗装の道が、ジャリっと鳴った。
肌を刺す空気が、音也を後ずさりさせたのである。
男はフードを取り、顔を上げた。
唇を歪めて笑った。
「久し振りじゃねぇか」
その一言一言が音也を刺す。
音也のうなじの毛が波立った。
そこだけ、音也本来の姿である獣が現れていた。
限りなく黒に近い鼠色の体毛が、ゾワゾワっと風も無いのに揺れた。
「久し振りだって言ってんだぜ――。懐かしいですね、とか言ってくれてもいいんじゃねぇのか?」
男は足を踏み出した。
ゆっくりと近付いてきた。
音也は前屈みになって背を丸め、威嚇するように喉を鳴らした。
「おいおい、そんな顔すんなよ。昔は仲間だったじゃないか」
男は顔の横に両腕を開いて上げて、降参だという格好を見せた。
それでも音也は、警戒を緩めずに男を睨んでいる。
そこに
その男の右手の指が、パチンと音を立てた。
音に反応して、音也の目線が指先に引き寄せらる。
瞬時に、音也は動けなくなっていた。
邪気の縄に絡み取られるように、音也の身体は硬直していた。
「まだまだ甘いな。こんな手に引っかかっちまうなんてな」
音也の意識は捕らえられて、男の右手の指から目が離せなくなっていた。
すると、男の掌が前に動いた。
何気ない流れるような動きだったが、そこからは男の思念が、捻れた圧力が流れ出ていた。
……!
歯を食いしばりながら顔を歪め、音也は首を左右に振った。
「もう、オレのことを仲間じゃないって言うのか?」
男は黄色い歯を見せて笑った。
「それなら」
男の手が、そこにある物を手にするように、音也の額を無造作に掴んでいた。
「お前とオレは敵同士ということになるな……」
次の瞬間、音也の身体は、本来の猫の姿に戻っていた。
中身を失った制服が、地面に崩れ落ちた。
ほっほーと男は、少しばかり驚きの声を上げた。
「お前、こんなに小さかったっけ?」
頭を掴まれたユベールは、四肢をだらんと垂らしたまま!宙ぶらりんの状態で微動もしなかった。
それでも、指の間から覗く眼だけは、威嚇の光を放っている。
しかし男は、それを全く意に介していない。
「こんなに小さくて可愛くても関係ねぇよな。敵は早めに排除するに限るってか……」
言うなり男は、ユベールを上空高く放り投げていた。
ユベールの小さな身体は、二度三度と回転しながら舞い上がった。
猫本来の身体能力ならば、身体を捻って脚から着地するのは造作もないことなのだが、呪縛されたユベールの身体は、為す術無く地面に音を立てて落ちていた。
ぬいぐるみを放り投げて、それがそのまま落ちるようにだ。
男はユベールの所までやって来ると、しゃがみ込んだ。
ユベールは手足を地面に投げ出した格好で動かない。
胸だけが上下に動いている。
それでもユベールの眼には、まだ相手を威嚇する光が残っていた。
「しぶといねぇ」
男はユベールの尻尾を掴んで持ち上げた。
「じゃあ、もう少し高く投げてみるとするかなぁ~」
前後に大きく振り、これならどうだ、と手を離した。
しかし、舞い上がったユベールを見上げるなり、男の唇から舌打ちが漏れていた。
ユベールは高く投げられたぶん遠くへ飛んでしまい、道端に生い茂っている草むらの中に落ちたのである。
男は歩み寄って、足下のユベールを見下ろした。
「三度目の正直ってやつだな……」
男はまた、ユベールの尻尾を掴んで持ち上げた。
ユベールは壊れたバネ仕掛けのおもちゃのように痙攣しながら、赤い涎(よだれ)を滴らせていた。
17 イメージと予感
「そろそろ仕上げのダッシュに入るぞ」
プール監視塔の上に設置してある時計を見て、副将のシゲボーが声をあげた。
うィーす!
部員の、最後のひと踏ん張り、の雄叫びがグラウンドに響く。
その声には、はひ~やっと終わった、の喜びと安堵の気持ちがにじみ出ていた。
へい、ダッシュ!
プール横に一直線に並んだ部員が、号令とともに全速力で走り出す。
グラウンドの端まで走りきって一本目が終わると、主将のヤッチンが「宮中~、ファイ」と声を張り上げる。
全員が「オォー!」と応じながら脇まで戻る。
「ラスト一本。気合い入れんぞ」
サッカー部の最後は、いつもこのダッシュで終わるのだ。
何本目かの後、シゲボーが横一列に並んでいる部員に声を掛ける。
最後の一本は、いくらへばっていても、皆の気持ちにも張りがでる。
シゲボーの横に並んでいたジンジも、腰を落として合図を待っていた。
そのときである。
ジンジの頭の中に、あるイメージが飛び込んできた。
ダッシュ!
みんなが、一斉に走り出す。
誰もが、オレが一番先にあそこに辿り着いてやるんだ、と思っているのだが、ヘトヘトで脚が上手く回ってくれない。
それでも、全員が、今ある力の全てで走る。
だが……
ジンジだけが動かなかった。
遠くの空を眺めながら、その場に呆然と立ち尽くしていた。
ジンジの首筋と背中は、妙な感覚に包まれていた。
包まれたと言うより、感じたのである。
そしてそれは、やがて……ある予感に変わっていた。
「脚がツったか?」
シゲボーが戻ってきた。
ジンジはまだ、ある方向を見ている。
入間おばさんの家がある方向だった。
「家入センパイ!」
呼んだのは、後輩のセンカンだった。
声に叩かれたように我に返ったジンジは、心配そうな顔をしている二人に
「大丈夫、何でも無い」と手を振った。
そうは言ったものの、自分の耳にも、気持ちの込もっていない上辺だけの返事に聞こえていた。
すると突然、またその感覚に似た予感――
「わりぃ、オレ、先に帰るわ」
理由も告げずに二人に背を向けると、ジンジは部室へと走っていた。
*
放課後の教室で、乙音は家庭科の教科書を開いている。
三人の部活が終わるのを待っているのだ。
「カコさん、あのう、今日、乙音、一緒、帰りたい」
休み時間に突然、乙音がカコにそう切り出したのだ。
「それは構わないけど、わたし達部活があるよ」とカコが言った。
聞いた乙音が一瞬だけ、考えるような顔に変わっていた。
「え? 今、〝たち〟って、言った、ですか?」
「だって四人で帰るんでしょ」
カコは、当然でしょ、といった顔をしている。
乙音は、我に返ったように
「そう、四人、一緒、帰る」と頷く。
「部活終わるまで待ってるの?」
「うん、部活、終わる、待ってる」
乙音は、モジモジしながら小さく足踏みを始めた。
すると、カコが慌てた。
「どうしたの乙音ちゃん、またムーンに?」
乙音は慌てて、首を大きく横に振った。
「ちがう、です」
「ちがう。じゃあ、何?」
「嬉しい、一緒、帰る、嬉しい」
乙音は足踏みを続けている。
カコは笑った。
「それなら、これからは毎日一緒に帰ろうよ」
乙音は驚いた。
「え、え?、い、いい、ですか」
「ぜんぜん構わないよ。ナオとユウコにも言っとくね。それとジンジ達(男子)とも一緒だよ」
「嬉しい、これから、みんな、一緒、帰れる、とても、嬉しい」
乙音は床を踏み鳴らした。
今度は音を立ててだ。
カコは慌てて、床の踏み鳴らしを止めさせた。
乙音は、ごめんなさい、と謝る。
「じゃあ、決まりね」と言って
カコは乙音に身体を寄せ、耳元で囁いた。
「(ムーンに)戻りたくなったら、なるべく早く言うんだよ」
乙音は頷いた。
分かってます、と何度も頷いた。
「それともうひとつ、図書館に行けば、家庭科の教科書以外に料理の本が沢山あるよ」
え?……と乙音の目は丸くなっていた。
「そうなん、ですね、これから、そうする、……でも、今日は、教室、待ってる」
「教室で待ってるのね。分かった。じゃあ、部活が終わったら迎えにゆくよ」
*
……ということになり、もう10分くらいで、三人はセーラー服に着替えて教室まで戻ってくるはずだ。
「帰りながら、何、話す、みんなの話、分かる? 乙音、頭、悪い」と自分だけしか居ない教室で、教科書に向かって呟いている乙音の顔は、笑みで一杯だった。
みんなと一緒に帰る。
ただそれだけのことが、乙音には嬉しくてしょうがなかった。
お兄ちゃん、一緒、帰る? カコさん、乙音に、訊いた、でも、お兄ちゃん、今日、用事、明日から一緒、それも、嬉しい。
頭の中でもこんな調子の乙音だった。
と、その時……
ページを捲ろうとする乙音の指が止まった。
教科書に落としていた目を上げて、窓の外に顔を向ける。
椅子を引く大きな音を立てて、おもむろに立ち上がった。
窓に近付き、ジッと外を見る。
乙音が見ているのは、自分の家がある方向だった。
乙音は教室を飛び出していた。
*
急いで着替えを済ませて部室を飛び出したところで、ジンジはグラウンドと校舎を繋ぐ橋を渡ってくる乙音の姿を見付けた。
乙音は両腕を無茶苦茶に振り回しながら、ジンジに駆け寄ってきた。
そして乙音は、ぶつかるようにしてジンジの首に手を回すと、何やら大声でわめき散らしだした。
周りにいた生徒たちが、何事かと二人に注目していた。
あっけに取られて、ポカンと口を開けている生徒たち、冷やかしの目を向けている者も居るし、羨ましそうな顔で傍観している者も居た。
「とにかく落ち着けよ」
暴れる乙音をなだめすかして、やっとのことで話を聞き出したジンジは、最後に何かを言うと走り出していた。
いつも使う南側の旭通りとは逆で、体育館を右に見ながら川沿いを通り、学校の正門がある南側の道へ飛び出していた。
そっちは、おばさんの家がある方向だった。
*
ジンジを見送った乙音が、急いで教室へ戻ろうとしたところへ、部活の終わった三人が体育館の脇から現れた。
「乙音ちゃんじゃない。どうしたの?そんなところで……」
ナオが後ろ姿の乙音を見付けて、声を掛けていた。
はっとして振り返った乙音の顔は、涙と鼻水でクシャクシャになっていた。
驚いた三人が慌てて駆け寄った。
「お兄ちゃん」
乙音は声をあげて泣き出していた。
18 男と少年
三度目の動作に入ろうとしたとき、男は学校の方角から走ってくる人影に気付いた。
「おっと、お客さんだ」
走って来る人影は、右手で学校鞄を抱え、左腕には白いスポーツバッグを持っていた。
左肩から斜めに掛けられた学校鞄のベルトが、所在なくブラブラと揺れている。
宮中の生徒らしい。
少年は、両腕に抱えた鞄で器用にバランスを取りながら、こちらに向かって走って来る。
あいつだ――
人影の正体を理解した男は、唇の端に歪んだ笑みを浮かべていた。
やがて少年は、数メートルの距離を置いて男の前で立ち止まった。
少年は、男の顔と男が手にしている物を交互に見て言った。
「おじさん、何してんの?」
学校からここまでの距離を、多分?全速力で走って来たのにも関わらず、少年はほとんど息を切らしていなかった。
「その手に持ってるのは何?」
少年は左腕に抱えていた白いスポーツバッグを地面に落とし、ユベールを指さした。
男はニヤついた顔をしながらユベールを持ち上げ、少年に突き出した。
「見えるだろ、猫に決まってるじゃないか」
「そ、その猫、知り合いが飼ってるんだ。だ、だから、か、返してくれない……ですか?」
一種異様な雰囲気に気圧されて、少年の声は震えていた。
その怯えを、男は敏感に感じ取っていた。
「お前、家入……だろ?」
ジンジは思わず詰襟の左胸のポケットに手を置いた。
「ど、どうしてボクの名前を知ってるの?」
名札は付けていない。
いつも部活に出る前に外して、机の中に放り込んでいるからだ。
「ボクは、おじさんの事を知らないけど……」
「知らない? なるほどな。聞いてないんだ」
「聞いてないって誰に……ですか?」
男は笑った。
「この猫の飼い主に決まってるじゃないか。まぁ、そんなことはどうでもいいんだけどな――」
男はユベールを、少年の前でブラブラさせながら遊んでいる。
ユベールの血の混じった涎が地面に滴った。
「じゃあ、おじさんは、入間おばさんの知り合いなの?」
入間……と聞き、男は唇を引き攣らせた。
「おばさんの知り合いなら、だったらなおのこと返してくれないですか?」
引き攣りが更に広がった。
「駄目だね。返さない」
「どうしてですか?」
「知り合いって言っても、色々な知り合い方があるだろう」
言うなり、男は腕を大きく振るとユベールを放り投げていた。
「何処に落ちても、今度こそ完全にくたばるな」
舞い上がったユベールを見上げながら、男は吐き捨てた。
男の言葉を耳にしながら、少年は動いていた。
右手に抱えた学校鞄を捨て、宙を舞うユベールを追った。
そして、落下地点に向かって脚から滑り込んでいた。
相手のボールを奪うスライディングの要領だった。
少年は、ユベールを腹の上で受け止めることに成功した。
高く放り投げられた分、間一髪で間に合ったのである。
代わりに、少年の喉からは苦痛の息が漏れた。
ユベールになるたけ衝撃を与えないようにするため、腹の力を抜いていたからである。
無防備なボディに、いきなりパンチを喰らったようなものだ。
息が詰まる。
う…はぁっ
少年は呻(うめ)きながら、身体を二つに折った。
肺に空気を取り込もうと喘ぎながら、身体を横にしてユベールを抱え直した。
それから少年は、ようよう立ち上がった。
「おっとぉ? また失敗しちまった。お前がそんなに動けるとは思わなかったぞ」
男がゆっくりと距離を詰めて来た。
「さぁ、猫を返してもらおうか」
男が手を出す。
「い、い、い、嫌です」
気圧されて震えながらも、少年はユベールを両手で抱えたまま後ずさった。
「ほら――」
顎を上げ、見下ろすように睨み、右手を突き出して、男はユベールを奪おうとする。
その手を、少年は身体を横にしながら受け流していた。
男の手が空を掴む。
「逆らうってことか……」
言い終わらぬうちに、今度は左手を出す。
同じ動きで躱した。
相手がボールを奪おうと迫ってくるのを、ステップを使って躱す動きだった。
男は、少年を観察した。
「お前、妙な動きをするじゃねぇか」
言葉と同時に、男は右足で少年の左足を払っていた。
しかしそれも、少年は足を軽く上げるだけでやり過ごした。
これも、相手のタックルを躱す要領だった。
身体が自然に動いていた。
男が歯を剥く。
「この、チビが――」
「ち、ち、中学生ですから」
びびりながらも、負けずに返していた。
次の瞬間、今度は少年が男に向かって動いた。
一歩足を出せば、相手にぶつかる距離である。
虚を突いた動きのつもりだった。
だが男も瞬時に反応し、動きに合わせて右肘を真横から繰り出していた。
その肘を、少年は腰を落として躱した。
ほとんど地面にしゃがみ込むくらいの低さまで腰を落として流していた。
肘は空を切り、男の身体は背中が見えるほどに回っていた。
少年は細かくステップを刻んで、男の背の横を擦り抜けようと動いた。
しかし、男の反応も早かった。
男は一回転し、今度は左の肘を打ち下ろしていた。
バックブローの要領で繰り出された肘を、少年は顎を引きながら首を緊張させ、額の一番硬い部分で受けた。
生え際の部分から首に衝撃が走った。
それでも前屈みになっていたのが幸いし、肘は滑って後ろへ流れた。
少年はそのまま、男の横を走り抜けた。
後ろを振り返らずに足を回す。
男との距離がどんどんと広がってゆく。
「ちッ……」
男は肘を擦りながら、遠ざかってゆく少年の姿を追った。
やがて男は踵を返し、少年に背を向けた。
「ふん、いいさ、どのみち未来は変わらねぇんだ」
そして一度立ち止まった。
男は音也の学生鞄と制服を拾い上げると、川へ放り投げていた。
その近くには、別の学生鞄とアディダスのスポーツバックが落ちていた。
それも拾い上げようとしたが……
「あの婆ぁと知り合いになったのが――」
今度は鞄に右足の踵を思いっきり打ち下ろしていた。
バキン、という大きな嫌な音があたりに響き渡った。
男の口もとに笑みが浮かんでいた。
いかにも面白くなさそうな笑みだったが、それでも笑みは笑みである。
*
「くたばるんじゃ、ないぞ」
ジンジはユベールを胸に抱いて全力で走っている。
ユベールの閉じた瞼の上に、一粒の滴が垂れていた。
男の肘のせいで、ゴールポストにぶつけたキズがまた開いたのだ。
ユベールは腫れ上がった目を開けて、少年の顔を見上げた。
ジンジの額からは、いくつもの赤い筋が流れ落ちていた。
19 消えた乙音
四人は、おばさんの家へ向かって走っていた。
三人は鞄を肩に掛けているが、乙音は教室に戻らず、何も持たずに走っている。
それでも三人に離されていた。
「乙音ちゃん、大丈夫?」
ナオが振り返りながら声を掛ける。
「だ、大丈夫、です、先、行って、ください」
喉をゴロゴロと鳴らしながら、懸命についてゆこうとしている。
しかし、足が思うように動いていない。
仕方なく三人は、乙音を待つために足を止めた。
「おばさんには連絡してあるのよね」とカコが声を掛けると、ようやく追いついて来た乙音は、両手を膝の上に置いて肩で息をしながら頷いていた。
「そうなの?乙音ちゃん、いつおばさんに連絡したの?」
ユウコが不思議顔で訊いてくる。
電話を掛ける余裕など無かったと思うのである。
しまった、やっちゃった。
カコは心の中で、自分にゲンコツした。
「え、え、それは、です、ね……」と言い淀む乙音の声に被せて
「ジンジが先に行って、おばさんには事情を伝えているはずだから……とにかく急ごう」とカコはそう言って、質問を誤魔化していた。
急いでいることもあり
「そうだよね、ジンジが先に行ってるからだよね」とユウコは納得していた。
「じゃあ行こうよ。乙音ちゃん、あと少しだから、頑張って」とナオが励ます。
たが……
「だ、駄目、です」
乙音は、泣きそうな声をあげていた。
「もう少しじゃない」
ユウコも声を掛ける。
「そ、そう、じゃない、です」
乙音は、髪の毛がボサボサになるくらい、頭を大きく横に振った。
カコは屈み込み、乙音の顔を下から覗き込んだ。
「駄目って、ほんとに駄目なの? 我慢できないの?」
乙音は哀しそうな目で、覗き込んできたカコを見ている。
ナオとユウコは、駄目って何のことなの、と思っている。
カコは決断した。
急ぐためには仕方が無い。
「分かったわ乙音ちゃん、もう我慢しなくてもいいわ」
カコは俯く乙音を抱き起こし、優しく背中を撫でてやった。
乙音は、大きく息を吐いて頷いた。
「しょうが無いよね」
そう言ってカコは、乙音の耳元で小さく囁いた。
そして乙音は、その場にしゃがみ込んでいた。
ナオが慌てた。
「乙音ちゃん、ほんとに大丈夫なの? どこが具合でも悪いんじゃないの?」
「無理矢理走らせたのが悪かったの?」とユウコ。
「大丈夫。それよりちょっと、乙音ちゃんの方を見ないでやってくれる」
カコは振り返り、二人に背を向けてくれるよう頼んだ。
「どう言う意味?」とユウコ。
「あっち向いてて、お願い。直ぐ済むから」
カコは二人の腕を取って、半ば無理矢理に、乙音から背を向けさせた。
「何なのよもう、後でちゃんと説明してね」
文句を言いながらも、ナオとユウコは、カコのお願いに従った。
*
すると……
「終わったわ。二人とももういいわよ」
一呼吸する間もなく、カコの声がした。
二人が振り返ると、カコはその場にしゃがみ込んで何かゴソゴソとやっている。
「あれ?」「乙音ちゃんは?」
二人の前に乙音の姿は無かった。
不思議に思いながら回り込むと、カコの膝の上にはセーラー服があった。
「訳は後で話すから、今はとにかく急がなくっちゃ」
そう言うとカコは、下着とスカートをセーラー服の上着で包み込んでいた。
「ナオ、靴下と靴をお願い」
訳が分からぬまま、ナオは地面の上にある一組の靴を目にしていた。
今まで乙音が履いていた左右の靴である。
それもまるで、一瞬で足が消えたかのように、中に靴下が収まっている。
「乙音ちゃんはどこ行っちゃったの?」
二人が手にしている乙音の服と靴を交互に見ながら、ユウコは首を傾げた。
ナオもポカンと、手にした靴を眺めている。
しかしカコは、それには答えずに走り出していた。
20 治療
ユベールを抱えて庭に飛び込んで来たときには、すでにおばさんの姿があった。
肩を大きく上下させながら、どうして……?とジンジは、切れ切れの声を出すのが精一杯だった。
さすがにここまでの全力疾走はキツかったらしい。
「ユベールをここに」
おばさんは、手に持っていた木箱を庭の樹の根元に置いた。
木箱の中には土が敷き詰められていた。
「さ、早く」
おばさんに促され、ジンジは宝物のように胸に抱いていたユベールを、木箱の中に横たえた。
おばさんは木箱の前に跪くと、両方の手の内でユベールの全身に触れた。
「骨はどこも折れていないわ。身体が小さくて軽かったぶん、落ちたときの衝撃がそれほどでも無かったみたい」と言った。
「そうですか、良かった。じゃあ、助かりますね?」
おばさんは、ユベールが投げられたことを何故知ってるんだ?
「ケガは大丈夫。でも意識が捕まってる」
「意識……ですか?」
何のことか分からない。
「簡単に言えば、男の思念、いわゆる邪気がユベールの心を蝕もうとしているの」
やっぱりおばさんは、男のことを知ってるんだ。
「それって、どう言うことなんですか?」
「男の邪気が、ユベールの心を消そうとしているのよ」
「それじゃあ、消されたらユベールがユベールじゃなくなってしまうってことじゃないですか」
「ユベールが普通の猫になってしまうってことね」
「普通の猫? そうなったらどうなるんですか?」
「ユベールは、わたしたちよりずっと長く生きている猫又よ」
「おばさんよりもですよね」
そうよ、とおばさんはユベールの身体に手を添えたまま、まだ何かを探っている。
「てことは、普通の猫に戻ったら……普通の猫の寿命ってどれくらいなんですか?」
「人間より短いことは確かね」
「ユベールがユベールじゃなくなって普通の猫に戻ったら……」
ジンジは言葉を切った。
頭の中は?マークで一杯になった。
「そしたらそのまま死んじゃうってことじゃないですか」
「だから男の邪気をユベールから追い出すのよ」
「そ、そんなことが出来るんですか?」
おばさんは、出来る、と無言で顎を引いていた。
「じゃあ、さっそくやってください」
声がひっくり返っていた。
おばさんは、ユベールから顔を起こしてジンジを見上げた。
「手伝ってくれる?」
「もちろんじゃないですか。何でも手伝いますよ。さっそくやりましょう」
ジンジは大きく頷いた。
「痛い思いをするけど、大丈夫かしら?」
「痛い思い?」
どんなことをされるのだろう?
「痛いって、どんくらい……」
一瞬言葉を濁した。
「や、やります、手伝います。大丈夫です」
躊躇(ためら)いは一瞬で消えていた。
「オレって、我慢強い方ですから。さぁ、何をやればいいのか言ってください」
覚悟はいい?出来てる?……とおばさんは念を押した。
ジンジは、噛み締めた歯を見せて笑った。
「ビビりますから、早くやりましょう」
おばさんはニコっと笑い、それから深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「やってくれることは簡単。ユベールを押さえておいてくれくこと。それだけ――」
「簡単じゃないですか。どうやって押さえてればいいんですか?」
おばさんはユベールを、お腹が見えるように仰向けにした。
「両手でお腹を押さえておいて」
ジンジは詰襟を脱いで放り投げた。
そしてシャツの袖を捲り上げと、両手でユベールの腹を上からそっと押さえた。
とても冷たい。
抱えて走っているときは、あんなに暖かかったのに……
「それじゃあ、始めるわよ」
おばさんは、ユベールを押さえているジンジ手の上に両手をかざした。
「これから、おばさんが送る思念で、男の邪気を追い出すから――」
そして目を瞑り、ブツブツと何かを唱え始めた。
思念で邪気を追い出す、それってトコロテンみたいになんだろうか?
おいおい何を考えてんだよオレは、とジンジは頭を振った。
やがて……
おばさんの手が触れてもいないのに、手の甲が熱を帯びてきた。
「手が暖かくなってきました」
真冬の寒空の下で、たき火にあたっているような感じだ。
おばさんはジンジの言葉を無視しているのか? それとも聞こえていなかったのか? 理解出来ない言葉を唱え続けている。
次第に、おばさんから伝わってきた手の甲の熱が、掌の方まで広がっていった。
それがユベールを暖めてゆく感覚があった。
きっとこの熱?が男の邪気を追い出すんだ。
とそんなことを考えていると……
ユベールが身じろぎを始めた。
慌てておばさんを見る。
「これからユベールは暴れるから、絶対手を離さないで。箱から飛び出さないようにお願い」
「はい」
そして、だんだんと……ユベールの動きが激しくなってきた。
この小さな身体の中のどこにそんな力が潜んでいるのか、ジンジは懸命にユベールを押さえつけなければならなかった。
突然、ユベールの喉の奥から獣の声がひしりあがった。
うるるるるるるるる~~~~~~~~
と同時に、ユベールはジンジの手に爪を立てていた。
四本の手足の全ての爪が、手の甲に潜り込んでいた。
あまり痛さに、手を引っ込めそうになってしまった。
「んぎ、ぎぎ、、、」
ジンジは、手を離す代わりに意味不明の言葉を口走っていた。
「もう少し……」
おばさんは、額に玉の汗を浮かべて、思念を送り続けていた。
ジンジの手が、尋常でなく熱くなっている。
その熱がユベールに伝わる。
その感覚が、はっきりとあった。
ユベールの動きが激しくなる。
全身を使って、ジンジの手に抗(あらが)っている。
猫が壁や柱で爪を研ぐように、それこそガリガリとジンジの手を掻きむしった。
それでも、ジンジは手を離さなかった。
甲の皮が剥け、皮膚がスダレのようになってゆく自分の手を、歯をむき出して見ていた。
元気になったら、今度はオレが引っ掻いてやっかんな。
うぅるるるるる~~~~~~~~~~
あああああああ~~~~~~~~~~
ユベールの見開かれた瞳がジンジを捕らえていた。
あの男の目にそっくりだ。
この手をどけろと言っている。
オレもユベールも、よくあの男から逃げられたもんだ――
突然、ユベールがジンジの手に牙を立てていた。
これは流石に痛い。
手を離しそうになり、肘が動いた。
そのとき、カコの膝の上で気持ちよさそうに眠っているムーンの姿が、頭の中に浮かんだ。
こんなの大したことない、大したことない。
そう自分に言い聞かせながら、ユベールが箱から飛び出さないように……強く優しく力を込めた。
*
どれくらいの時間が流れたのだろう、ユベールの身体から力が抜けていた。
ユベールの手足がジンジの手を離れ、次には口が開き、食い込んでいた牙が抜けた。
ゆるく開いたユベールの目から、男の気配が抜けてゆくのが見えた。
見えた、と言うより感じたし、分かった。
すると……ユベールは、規則正しい呼吸を取り戻していた。
そしてやっと、おばさんの長い吐息が聞こえた。
「お、おばさん」
ジンジは顔を上げた。
「終わったわよ。ありがとう。ご苦労さま。ユベールはそのまま箱の中で寝かせておいてあげて……」
おばさんは、かざしていた手を引いてようやく顔を上げた。
「お、おばさん」
今度のは、驚きの声である。
「しょうがないわよね」
ほっとした笑みが、浮かんでいる。
おばさんの髪は輝く銀のように白くなり、顔には無数の皺が浮き出ていた。
一気に20も歳を取ってしまったようになっていた。
よっこいしょっと、おばさんは腰を上げたが、膝が身体を支えきれずによろけてしまった。
ジンジは慌てておばさんの腕を取って支えた。
「ちょっと疲れちゃったみたい」
そう言って二度三度と頭を振り、もう大丈夫よ、と立ち上がった。
「ほんとですか?」
それでもジンジは、支えた手を離さなかった。
「それよりもジンジくんの手のキズの手当をしなくちゃね。それと頭からも血が流れてたみたいだしね」
おばさんはジンジの手を取った。
手の甲には、無数の引っ掻きキズと噛み痕があった。
赤い絵の具を、何本もの細い針金で無造作に塗りたくったような有様になっていた。
額から流れ出た血は、すでに乾いており、頬にかけてスジだけを残していた。
「まずは、そこで手と顔を洗って」
目を向けた庭の端には、古いレンガで作られたアンティークな立水栓があった。
分かりました、とジンジは立水栓に向かった。
「タオルかハンカチ、持ってる?」と背中に声が掛かる。
「あります」
ズボンの右後のポケットから、指先だけを使ってハンカチを取り出して、おばさんに見せた。
痛くて、あまり手を動かしたくなかった。
納得したおばさんは、家に入っていった。
ハンカチを立水栓の上に置き、まずはゆっくりと手に水を掛けた。
ゆるく擦ってみる。
血が流れてしまうと、甲の皮はスダレのようになっていることが改めて分かった。
完全に捲れ上がってしまった皮は、邪魔なので指で千切って捨てた。
次は蛇口の下に頭を入れた。
さらに蛇口を捻り、強く水を流した。
*
頭から雫を垂らしながら立ち上がり、ジンジは木箱まで行ってしゃがみ込んだ。
「貸しだかんな」
右手の人差し指を曲げて、フサフサとした柔らかな喉にそっと触れてみた。
ゴロゴロとした振動が伝わってくると、安堵の笑みがこぼれた。
「よく眠っているわね」
振り返ると、おばさんがそこに立っていた。
手に薬箱を持っている。
???
ジンジは、またも驚きの声を上げそうになった。
おばさんの顔が、いつもの顔に戻っていたからである。
さっきはあれだけあった顔の皺も、すっかり消えて無くなっている。
しかし、白く銀色になった髪だけは、そのままだった。
「驚かせちゃったわね」
「え、ええ。ちょっと……」
でもおばさんなら……と何故か納得してしまった。
「キズの手当をしましょう。窓を開けといたから、そこに座ってちょうだい」
二人は、庭に面しているリビングの床に、並んで腰を下ろした。
「手を出して」
おばさんは、薬箱から取り出した消毒液を脱脂綿に浸した。
「ちょっと染みるわよ」とジンジに念を押した。
「だ、だ、だ、大丈夫です……」
緊張で手に力が入る。
緊張は、おばさんにも伝わったに違いない。
不意に、おばさんの手が止まった。
「どうしたんですか?」
不思議に思ったジンジは、おばさんを見る。
「ううん、何でもないわ」
おばさんは小さく首を振った。
消毒液は、想像以上にキズに染みた。
21 乙音とムーン
ジンジは、埃を払った詰襟に袖を通してボタンを留めた。
襟ホックは止(や)めた。
指が上手く動いてくれないし、もう家に帰るだけだからだ。
「ほんとうに、包帯は要らないの?」
ジンジは、手の甲のキズに目を落とした。
「あんまり大袈裟にしたくないんです」
消毒の後、おばさんが調合した軟膏を塗ってもらって、包帯を巻こうと提案したのだが、目立ってしまうから、と断った。
何かあったのか?と、絶対訊かれるからだ。
誰に?とおばさんが、半分からかうように訊くと、ジンジはエヘヘと笑うだけだった。
おばさんはそれ以上は何も言わずに、優しく、そうね、と微笑むだけだった。
「じゃあ、オレ、帰ります」
ありがとう御座いました、と礼を言って、さぁ帰ろうとしたジンジは、やっちまった、と頭に手を置いていた。
どうしたの? とおばさん。
「鞄を、あそこに置いてきてしまいました」
ジンジは、学校がある方を見ている。
「あそこ……て、あそこ?」
「はい」
ユベールを抱えて全速力で走るには、そもそも鞄は邪魔だった。
しかもあの時は、男から何をされるか分からなかったから、動きやすいようにと捨てたのも事実である。
あるかなぁ?
通り掛かった人が鞄を見付けてどうにかしてくれてるだろうか?
宮中の鞄だって分かるから、見付けた人が学校に連絡してくれるかも?
そんな虫の良い話があるわけねぇか。
汚ねぇ鞄だから、そのまま道端にほっぽってある可能性の方が高いな。
などと、色々と考えを巡らせて、結局は一度戻ってみることに決めた。
*
そう決めて、もう一度おばさんに挨拶しようとしたとき、カコたち三人がやって来た。
三人とも肩で息をしている。
ジンジは、ナオがアディダスバッグ、ユウコがジンジの学校鞄を持っているのに気付いた。
カコが駆け寄って来た。
「ユベールは大丈夫なの?」
ジンジは慌てて、両手を身体の後ろに組んだ。
「大丈夫。おばさんが治療してくれた」
「ジンジくんが手伝ってくれたのよ」
ユベールは木箱の中で眠っている、とおばさんは三人に教えた。
三人は、樹の根元に置いてある木箱に駆け寄って、中を覗き込んだ。
ユベールが、かわいい顔をして眠っていた。
小さないびきが聞こえる。
どうやら、大事なさそうだ。
「どうしたの? 何があったの?」
安心したところで、カコが顔を上げた。
「まぁ、色々と……」
ジンジは言葉を濁した。
カコは、ジンジのその妙な姿勢に目を止め
「後ろに何を隠しているの?」と詰め寄った。
「何も隠してないよ」
ジンジはおばさんに助けを求めるが、おばさんはあらぬ方向を見ている。
正直に話した方がいいんじゃないの……と態度で教えてくれているのだろう。
ジンジは仕方なく、背中で組んでいた手を前に回した。
見せたのは手の平の方だった。
「ひっくり返してみて」
何で分かるんだよ、と思いながら、ジンジは渋々手の甲を上に向けた。
見るなり、抱えていた乙音のセーラー服を落としそうになってしまった。
寄ってきたナオとユウコも、言葉を飲み込んでいた。
「おばさんからもお願いするわ、三人ともそんなに怖い顔をしないでちょうだい」
「でも、これって……」
「三人には、おばさんから何もかも説明してあげるから。とにかくジンジくんはお家に帰ってゆっくり休みなさい」
ジンジは言われるまま頷いた。
「鞄……落ちてたから、持ってきてあげたよ」と声を掛けたのはユウコだった。
ジンジの肩掛けの学校鞄を持っている。
ナオはアディダスのスポーツバッグを抱えていた。
「サンキュ。助かったよ」
ユウコは、鞄のベルトを、ジンジの手に触れないように注意しながら、ゆっくりと左肩から右へかけてやった。
ナオはアディダスのバッグを左腕に通してやった。
「ありがと。じゃあ、オレ。帰るわ」
ジンジはユベールの眠る木箱に行って、中を覗き込んだ。
それから踵を返し、誰とも目を合わせずに、木戸を抜けた。
おばさんは、ジンジの姿が見えなくなるのを待って口を開いた。
「三人には全部話してあげるから……とにかく中へ入ってちょうだい」
カコがおばさんを見る。
おばさんは、カコの抱えているセーラー服を目にして、肩をすくめた。
「そうだ。そう言えば、乙音ちゃんは? 帰ってきてないの?」
ナオが思い出したように、唐突に言い出した。
「いつかはそうなるとは思っていたけど。しょうがないわよね……」
おばさんは呟いた。
済まなそうな顔をしているカコに、いいのよ大丈夫、とカコの肩掛け鞄を軽く叩いていた。
すると――
「カコ。か、鞄が動いてるよ」
カコの鞄の、ちょうど横に立っていたユウコが驚いた声をあげていた。
カコの鞄が、ゴソゴソと動いている。
おばさんは、カコを促すように目配せした。
分かりました、とカコが鞄を開けると、そこには教科書とノートと一緒に、ムーンの姿があったのである。
「ユベールは大丈夫みたいだから」
カコが優しく声を掛ける。
するとムーンは鞄から飛び出し、一目散に木箱へと走った。
そしてそっと中に入り、後ろからユベールを抱くようにして身体をくっ付けていた。
「どう言うことなの?」とユウコ。
「それも全部話してあげるから。さぁ中に入りましょう」
と言いながら、おばさんは玄関へ向かおうとした。
でも途中で足を止めていた。
「ちょうど窓が開いているから、みんなでそこに座りましょう。鞄はその奥にいてちょうだい」
そう言うと、ジンジの手を治療したリビングの窓の方へ向きを変えていた。
「ここなら〝二人〟の姿も見えるし、そうしましょう」
三人はそれぞれの鞄を、開かれた窓の奥に置き、その前に座った。
そこからだと庭が一望出来る。
「あの二匹はほんとに仲が良いんですね……」
ナオが木箱に入った二匹を、優しそうに眺めている。
「カコさん、木箱を持ってきてくれるかしら」とおばさん。
カコは、木箱を大事そうに運んでくるとおばさんに渡した。
おばさんは木箱を膝の上へ置いた。
「それじゃあ、ムーンとユベールの話からしましょうね」
二匹は箱の中で、仲良く寝息を立てていた。
22 朝の二人
翌日、水曜日の朝。
カコが鞄の中身を机の中に移し終わったころ、ジンジが教室に姿を現した。
普段なら自習開始ギリギリに教室へ飛び込んで来るのに……と思いながら
どうしちゃったの?こんなに早く、と足早に寄っていくと
ジンジからは、まず最初に「おはよー」とあった。
次に「キズの手当が以外と早く終わってさ」と言いながら
身体をくねらせながら肘を使って、肩から掛かっている学校鞄のベルトを内側から持ち上げて外して、机の上に置いた。
ジンジの両手には、指先を切った軍手がはめられていた。
「おはよ」
カコの手が、ジンジよりも先に鞄を開けていた。
中は、無造作に放り込まれた教科書とノートと筆記具、さらにその上にお弁当が押し込まれていて無法地帯と化していた。
「早起きして、キズの手当をしたんだ。そしたらそれが以外と早く終わっだんだ」
カコは、お弁当だけを鞄の中に残し、他のすべてを、まずは机の上に置き、それから中にしまった。
「サンキュ」にカコは、どういたしまして、と微笑んだ。
鞄を教室の後ろの棚に運び、そしてまた戻って来るとカコは
「部活は?」と訊いた。
アディダスのバッグが見当たらなかったからだ。
「今日は見学にする」とジンジは答えた。
そうだね、とカコはジンジの手に注意を向けた。
「どうなの?」
「カッチョいいだろう」とジンジは、指の部分を切り落とした、真新しい軍手を自慢した。
「この方が指先が使えて勝手がいいんだ」
言いながら左の軍手だけを外して見せた。
手の甲に走っている縦横無尽の引っ掻きキズは、薄いピンクのカサブタを作っていた。
「ほんとなら包帯の方がいいんだろうけど、それだとみんなからどうしたんだ?って訊いてくるだろ。軍手だったらちょっとケガしたって誤魔化せると思ってさ」
ジンジは、どうだ、と言わんばかりにフンと鼻を鳴らした。
包帯でも軍手でも、どうしたの?……て訊かれると思うけど、その発想がジンジらしくて、妙に可笑しかった。
「痛くないの?」
「触らなければ全然痛くない。でもほら、指を曲げると皮が突っ張っぱらかっちゃって割れるんだ」
ゆっくりと指を握って見せると、所々に亀裂が生まれた。
止めなよ、とカコが手を伸ばす。
反射的にジンジも手を動かしたものだから、カコの指先がジンジの手の甲に触れてしまった。
二人は慌てて手を引っ込める。
その後ジンジは、何事も無かったかのように、大丈夫さ、と笑った。
ジンジは軍手をしたままの右手で、詰襟の右ポケットから、銘柄も何も書かれていない5㎝くらいの長さのチューブを取り出した。
「おばさんがくれたんだ」
歯を使って蓋を捻って外し、チューブから直接キズの裂け目に塗り込んだ。
「数種類の薬草を混ぜ合わせて作ったって言ってた」
塗り終わるとジンジは、上手(じょうず)に塗れたろう、と自慢気だ。
カコはあきれて、はいはい上手です、とジンジの顎の下に手を持っていった。
キョトンとした顔のジンジは、「ほら」と言われて、なるほどと口を開いた。
咥えていたチューブの蓋が、掌の上に落ちた。
カコはジンジが手にしていたチューブを受け取って蓋を絞めると
「ここに入れとくからね」と詰襟のポケットに入れてやった。
同じ場所だ。
「何から何まで、すんませんね」とジンジ。
「どういたしまして」とカコ。
するとジンジは、その顔を探るように
「何から何まで……」と繰り返した。
「鉛筆が上手く握れないんでしょう」
分かってるよ、と頷きながら、しょうが無いというため息と一緒に
「しばらくは、わたしが代わりにノート取ってあげるから」と言った。
あんがと、とジンジ。
何を言いたいのかはすぐ分かっちゃうよ、と息を吐いた。
そしてカコは、そっぽを向くように、自分の席に目を向けた。
実際はカコの右隣の席だ。
ジンジも、空席のままの乙音の机に目を向けた。
「ユベールに付き添ってるんだと思うよ」
カコは机の中から社会科の教科書を取り出して、机の上に置いてやると、ジンジに向き直った。
「そうだ昨日、あの後ちょっとだけ嬉しいことがあったんだよ」
「ちょっとだけなのか?」とジンジは反応した。
「だってユベールは大変だったし、ジンジの手は悲惨なことになってるし」
「オレのことならそんなに気にすること無いのに……」
するとカコは、頬を膨らまして、表情で抗議した。
ジンジは慌てた。
「で、その、ちょっとだけ、嬉しかったことって何だよ」
「聞く気ある?」と睨むようなカコの目。
「あるに決まってんだろ」
胸を張って背筋を伸ばし、カコを見下ろすジンジ。
と言っても、二人の身長はほとんど変わらないのだが……
「あの後おばさんがね、ナオとユウコにも、乙音ちゃんと音也くんの秘密を教えたんだよ」
「ムーンとユベールのことをか?」
「だからこれからは、ナオとユウコも助けてくれるんだよ」
「助ける? 何を?」
ジンジは意味が分からない、と首を傾けた。
「なんでピンときてくれないのかなぁ。乙音ちゃんが学校でムーンになったときの手伝いだよ」
カコはまた頬を膨らませた。
「そっか、そのことか」
やっと納得がいったと、ジンジは大きく頷いていた。
*
ムーンが乙音の姿でいられるのは、妖力によるものだ。
身体の中に蓄えている妖力で乙音の姿を維持できるのだ。
従って、その妖力が無くなってしまえば、乙音は猫のムーンに戻ってしまう。
戻ってしまったら、しばらくはムーンのままで、身体の中に妖力を蓄える必要があるのだ。
しかも、妖力切れは突然やってきてしまう。
いつやってくるのか、乙音自身にも分からないのである。
学校でムーンに変わってしまっても、幸いにも仔猫ほどの大きさだから隠れる場所はいくらでもある。
机の中でも潜んでいられる。
だからあのとき、ムーンは机の中で、カコが観たユウコの夢の話を聞いていたのだ。
だが問題は、それまで着ていた制服である。
「な、なっちゃう、です」
いつも突然、泣きそうな顔でカコに訴えてきて、二人して急いで人目のつかない場所に移動するのである。
こればっかりは、ジンジも一緒に、と言う訳にはいかない。
二人が慌てているようすを、おいおい大丈夫かよ、と心配しながら目で追うしかないのである。
二人はだいたい、グラウンドへ渡る橋の手前にある中庭の古いトイレを使うことが多い。
たまにバレー部の部室を使うこともあった。
そしてカコが乙音の制服を、隠したり、見付からないように袋に入れて持ち帰ったりするのである。
これまでは何とか、カコ一人で取り繕うことが出来ていたが、これから先も上手くゆくとは限らない。
そんな折、昨日の事件があり、おばさんは、ナオとユウコに乙音と音也の秘密を打ち明けたのである。
*
これからは三人で乙音の面倒をみてやることが出来る。
カコにとって、これほど心強いことはなかった。
「そうか、そりゃあ良かった」とジンジは、曖昧に返事をしていた。
不思議に思ったカコが、どうしたの?と声を掛ける。
「あ、いやさぁ、そう言えば……オレは音也くんの(猫化の)面倒を見たことがないんだよな。どうしてなんだろう?」
「そっか、そう言えばそうだよね。乙音くんは、これまでどうしてたんだろね?」
「今度会ったら、おばさんに訊いてみよう……」
ジンジは、カコが出してくれた社会の教科書の表紙を手で撫でていた。
カコはジンジの手に目を落とすと
「困ったことがあったら言ってね」と囁くように言った。
「ありがと。しばらくは甘えることにするよ」
「でも甘え過ぎるのは駄目だよ」
「分かってるよ」と言うジンジの顔は、どこか嬉しそうだ。
「さぁ、それなら静かに読書に耽ってちょうだい」
言われるまま、ジンジは椅子に腰を下ろした。
もうすぐ、自習開始の予鈴チャイムが鳴るはずだ。
23 一人昼食
お弁当を持ってナオの教室へ行こうとしたとき、まだ席に座っているジンジの姿が目に入った。
チャイムが鳴るなり、外に飛び出して行ったとばっかり思っていた。
カコは後ろからそっと近付き、何してるの?と背中から覗き込むと、ジンジは軍手を外すのに悪戦苦闘していた。
「シゲボーと外で食べないの? それともこれから行くの?」
「このまま席で食べる。朝礼台だと弁当箱を持って食べなきゃならないだろ。この手じゃ無理だし」
左の、それもまだ半分しか脱げていない手を振って見せた。
「だから今日はシゲボーにゴメンした。昼休みのサッカーもオレは今日キャンセル」
「痛いの?」
「キズが軍手に貼り付いちゃってさ」
言うとまた、背中を丸めて外す作業を再開した。
「朝は何ともなかったじゃない」
「家ではずっと軍手なんかしてないさ。学校に入る直前にしたんだ。だから朝見せたときはくっ付いてなかったんだ。いいアイデアだと思ったんだけどなぁ」とジンジは嘆いた。
カコはジンジの前に回り込んだ。
「うまく外せそう?」
「なんとか……」
ゆっくりと捲っては休み、そしてまた再開……を繰り返す。
ときたま顔が歪む。
かなり痛いのであろう。
「そう言えばその手のこと、お母さんには言ったの?」
ジンジは手を止めて、カコを見上げた。
「頭の中のキズなら誤魔化せるけどさ。さすがに手だと隠せないし、言わない訳にはいかなくてさ。友だちん家の猫とケンカして引っ掻かれたって言った」
それはまぁ、友だちの家の猫だけど……
「普通、そんなになるまで猫とケンカする?」
「まぁ、色々と誇張してさ」
いつものジンジなら、今きっと頭を掻いているに違いない。
「お母さん、それで納得してくれたと思うの?」
いいや、とジンジは首を横に振った。
「それ以上は何も訊いてこなかった。オレ、ケガばっかりしてるからさ。母ちゃんも慣れっこなんだよ。呆れてんじゃね。だけど破傷風だけには気を付けろってさ」
歯を見せてカコに苦笑いし、軍手外しの作業を再会した。
ようやっと、軍手が両手から外れた。
カサブタがところどころ剥がれて、そこから血が滲んでいた。
そんな無残な自分の両手を眺めながら……
「こんな手ぇ見たら、誰でも食欲なくすわな」と小さく自分自身に言ったつもりだったが、カコにはしっかりと聞こえていた。
「ちょっと手ぇ洗ってくる」
立ち上がるとジンジは、手の甲をできるだけ身体の方に向けて誤魔化しながら、教室を出ていった。
*
席に戻って来るとカコの姿は無く、机の上には弁当の包みが広げられていた。
包みの真ん中に弁当が置かれ、その両側には、左にスプーン右にフォークが並べてある。
スプーンとフォークは、この手で箸を持つのは無理だからと、母ちゃんが用意してくれたものだ。
牛乳も置かれ、蓋が半分開いた状態になっている。
ジンジは席に着いて、早々にいただきますをして弁当の蓋に手を掛けた。
よく見ると、蓋が少し浮いた状態になっている。
不思議に思って蓋を取ると、ご飯エリアの上にインゲンのベーコン巻きがひとつだけ乗せられていた。
「うひょ~、旨そう」
ジンジはそれを、危なっかしく握ったフォークで突き刺した。
24 午後の授業
「あったま痛ぇ」と言う自分の声が、しっかりと耳に届いた。
やばッ、と慌てて辺りを見回すが、その声に気付いた者は誰もいなかった。
何故なら、クラスのみんなは、午後の最初の授業を、眠気と格闘しながら受けているからだ。
ジンジもさっきまでは、みんなと同じように半分うつらうつらしながら、教科書に目を落としていたのだが、窓からの光を急に眩しく感じたかと思うと、次の瞬間には左目の奥底を、針で刺されたような痛みに見舞われたのだった。
どうなっちまったんだ、と慌てて手の平で左目を押さえる。
手には軍手をしていなかった。
結局、軍手をしない方がいいと分かったからだ。
理由の一度はトイレだった。
軍手をしたままで教室を出るわけはいかないので、外して行くことになる。
そして、教室に戻ったらまた軍手をする。
そんな手前が、何回も掛かるのであれば、甲のキズの部分を見られないように注意すればいいことに、今更ながらに気付いたのだ。
だから、お弁当を食べた後は、ずっと外したままだったのだ。
*
このまま痛みが引かなければ、休み時間になったら、保健室に行ってみよう……とまで考えていた。
どうしょうか、と黒板の上の時計に目を向ける。
あと5分もしないうちに、授業が終わるところまで来ていた。
あと5分……
しかし不思議なことに、授業が終わるチャイムが鳴ったときには、あれだけひどかった痛みが、嘘のように消えていたのである。
軽く頭を捻ってみる。
痛く無い。
今度は少し強く回してみる。
何とも無い。
どうしちまったんだ、と思いながら、少し時間を置いてトイレに立った。
トイレは、おわったら注意して手を洗わなければならいので、人目を避けるために時間をずらしたのだ。
後ろから急かされることもなく、余裕で用を終わらせ、手を洗っているときに、ふと気になって……
目はどうなってる?と正面の鏡に顔を近付けてみた。
マジマジと覗き込むが、左目には何ら異常を発見することは出来なかった。
ついでに右も確認してみたが、普段と変わったところは無い。
あの痛みは、何だったのか?と目線を鏡から手元に移したそのとき
左目に、授業のときよりも強い違和感を覚えていた。
違和感だけで、痛みは無かった。
無意識か、それとも反射的か、手のキズが裂けるのも構わずに、濡れた手の甲で左目を擦っていた。
すると直ぐに、違和感はどこかへ消えてしまっていたのである。
どうしちまったんだ?
顔を上げ、正面の鏡を睨んだ。
ギュっと力を入れて瞑った後に、パっと開いてみた。
顔を少し横にして、横目で見てみたりもした。
すると違和感は、あっという間に消えていた。
今まで自分の目の色を意識したことはなかったが、両目とも濃い茶色で何ら異常は見当たらないようである。
何だったんだ? とキズを刺激しないように、ハンカチで軽く叩くようにして手を拭い、そのハンカチを苦労してズボンの右後ろのポケットに納めると、ジンジは頭を捻りながらトイレを出ていた。
*
教室の入口のドアに、したたかに頭をぶつけてしまった。
ドアのしなる大きな音に、教室中のみんなが振り返る。
そして笑いが起こった。
「どうしたんだよ」「また寝ぼけてんのか」「変なこと考えてたんだろ」とドアの近くで雑談していた男子たちから冷やかしの声が飛んできた。
「そんなんじゃねぇよ」と何がそんなんじゃ無いのか?
ヤジに対してまったく意味不明な返しをするジンジだった。
それにしても痛ぇなぁ~。
自分でも、何故ドアにぶつかってしまったのかが分からなかった。
ドアが開いていたので、そのまま気にすることもなく中に入ろうとしたら、頭の左側を思いっきりぶつけていたである。
振り返って見てみると、ドアは半分も開いていなかった。
確かに、そのまま通り抜けるにはちょっとばかり無理がある。
おっかしいなぁ~、とまた頭を捻りながら、ジンジは席に戻っていた。
*
頭の中で声が響く。
最初は何のことか分からなかった。
やがてその響きは、自分のことを呼んでいるんだと気付き、顔を上げた。
隣の席に、カコが横座りしていた。
「え? あ、授業は?」
「まだ休み時間だよ」
休み時間……どうやらうたた寝をしていたらしい。
よだれが垂れていないか?と口元をぬぐおうと机の上に乗せていた肘を立てた。
しかし腕は途中で止まり、もとの位置に戻ってしまった。
「教室へ入ってくるとき頭をぶつけて」とカコは
教室の後ろのドアを、たぶん寝ぼけているであろうジンジにハッキリ分かるように指で示してやった。
今はきっちりと全開になっている。
「みんなのヤジを無視して、そのまま席に着いちゃったんじゃない」
「そうだったっけか?」
ドアにぶつかったことまでは覚えているが、その後席に着くいて、カコに声を掛けられるまでの記憶が無かった。
いつまでも首を捻り続けるジンジに
「もしかして、頭をぶつけて記憶喪失にでもなったの?」
ぶつけた頭を触ってみたくて手が出そうなのを、カコはグっとこらえた。
「そうか、休み時間か。で、オレになんか用なの?」
「用なんか無いけど、これ以上頭が悪くなるといけないと思って。だって……」
「だって?」
「席に着くなり動かなくなっちゃったから」
「そっか、動かなくなったか。何でだと思う?」
「そんなこと、わたしが分かるわけ無いじゃない。何トンチンカンなこと言ってんのよ。ねぇ、ほんとに大丈夫?」
真顔になったカコが、身を乗り出してきた。
乗り出された分、ジンジは身体を反らした。
「その目」
「左目がなんだって?」
隠そうとして手を上げると、手首が掴まれていた。
朝とは違って、手の甲に当たらずに、今度は上手にできた。
「やめなよ。バイ菌入っちゃうよ。それと……」
掴まれた手は、机の上に押し戻された。
「わたし、目って言っただけだよ。〝左目〟ってなんか言ってないよ」
「そうだっけか?」とジンジは誤魔化した。
今も、裏庭を照らす午後の日差しを、少し眩しく感じる。
本当に眩しいのか、確かめようと身体を回して、正面から窓の外を見てみる。
右目は何とも無く、やはり左目だけに違和感が残っている。
するとカコは、何か気付くことがあったのだろうか……立ち上がってジンジの前に周り込んだ。
そして、ジンジの顔を覗き込むように顔を寄せていた。
無頓着?に顔を近付けてくるのを、ジンジは意識せずにはいられなかった。
やがてカコは、首を横に振った。
どうした?とジンジ。
「光の加減だったのかも……ジンジの左目が、光ったように見えたんだ」
近いカコの顔なんか何するものぞと、今度はこっちから顔を寄せ、目をいっぱいに開いて見せてやった。
「そうだろう。何とも無いだろう」
……に対して、カコが更に覗き込む。
ジンジは一瞬身体を引きそうになったが、耐えた。
「そうだね。と~っても濃いブラウンだね」
新しい発見をした、とでも言うような、カコはちょっと嬉しそうな表情になっていた。
サラっと言ってくるカコに、何か言い返せてやろうと
「濃いブラウンだぁ、日本人なんだからさブラウンじゃねぇだろ、茶色だろ!」とまたトンチンカンなことを言ってしまった。
「みんな同じだろ。そっちだったそうさ」
「じゃあ、見てみて」
カコは平気な顔で距離を詰めてきた。
頭から湯気が出そうだった。
でもこんなチャンスめったに無いぞ、とジンジはカコの瞳を覗き込んだ。
「ち、ち、ち、茶色だぜ。そんなに濃くはないのかなぁ。でもオレのがどれくらいの濃さか分かんないし……」
「そうだよね」とカコは、鼻に皺を作りながら微笑んでいた。
25 お見舞い
その日の夕方、カコ、ナオ、ユウコの三人は、ユベールのお見舞いを兼ねて、昨日乙音が置いて帰ったままの鞄を届けることにした。
入間家の木戸の前から庭を覗くと、おばさんが木箱を抱えて、庭に何かを撒いているところだった。
木箱は、昨日ユベールを治療したものである。
庭の中では、ムーンとユベールが追い駆けっこをしながら走り回っていた。
「こんにちは~」
ユウコが元気な声でおばさんに声を掛けた。
こういった場合は、たいがいユウコが第一声だ。
「あら、いらっしゃい。そろそろ来るころじゃないかと思っていたのよ」
おばさんは、三人を招き入れた。
いつもそうなのだが、おばさんはわたし達が来ることが何故分かるのだろう?とカコは思う。
「何をしてるんですか?」
訊いたのは、またユウコだった。
「これね」
おばさんは三人にも見えるように木箱を傾けた。
中には土が入っていた。
でももう、ほんの一握りくらいしか残っていない。
「土、ですよね……」のユウコの言葉におばさんは
「ユベールの治療で、あの男の〝邪気〟を追い出したときに染み込ませた土よ」と教えてくれた。
邪気と訊いて、三人はたじろだ。
おばさんは
「大丈夫よ」と笑った。
そして、最後の一握りを庭に撒いた。
「あとは、月の光にあてて浄化するの……」
木箱を逆さまにして、底を軽く叩きながら、残った土を地面にきれいに払い落としていた。
「月の光……ですか?」
「そう、月の光。難しいから、説明は訊かないほうがいいと思うけど、どうしてもって言うのなら……」とユウコに身を乗りだすおばさんだった。
ユウコは二人に振り返った。
二人は首を横に振っている。
ユウコは改まって向き直ると「遠慮しときます」と丁寧に頭を下げて断ってた。
*
知らぬ間に、ムーンとユベールが三人の足下へやってきていた。
二匹並んで仲良く三人を見上げている。
ユベールがナオを見上げれば、同時にムーンも目を向ける。
ユウコを見れば、揃ってユウコに顔を向ける。
まるで二匹は、心が繋がっているようだった。
「元気そうだね」とナオが二匹に声を掛ける。
さっきまで庭を走り回っていたのを見ていたので、ユベールのケガは大したこと無いように思えてしまう三人だった。
ユウコが、乙音の鞄を掲げてムーンに見せた。
「ほ~ら鞄、持って帰ってあげたわよ」
ユウコが乙音の鞄を持っていた理由は、ただジャンケンに負けたからである。
するとムーンは、狙い澄ましたように鞄に飛び乗った。
お礼のつもりなのだろう。
「わざわざどうもありがとうね」とおばさん。
そして、そうねぇ~じゃあ
「鍵は掛かってないから、窓を開けて、鞄はそこに置いてもらえるかしら」と庭を見渡せるリビングの窓を示した。
昨日、ナオとユウコがムーンとユベールの秘密を打ち明けられた場所だ。
ユウコはムーンが乗ったままの鞄を、窓を開けてリビングの床の上に置いた。
するとムーンは、もう興味が無い!っといったようすで、今度はカコのところに一目散に駆け寄っていた。
そのまま鞄に飛び乗ると、そこから一気に肩の上へ駆け登り、頬ずりを始めた。
ユベールはというと、さっきからずっとナオを見上げている。
ナオはユベールの前に両手を広げた。
ナウッ、と喉を鳴らし、ユベールはナオの手に飛び乗った。
見ていたユウコが不満を漏らした。
「ねぇちょっとぉ、どうしてユベールはいつもナオなの? ほんとは音也くんなんだよ」
「いいの! 今はユベールなんだから」
ナオはユウコに見せつけるように、ユベールを両腕で抱いた。
「ふん、いいもん。わたしにはムーンがいるから」
ユウコはカコの肩の上のムーンに、いらっしゃいと両手を広げた。
だがムーンは動かない。
ジッとしたまま、ユウコを視界に入れようともしない。
「あんたの鞄を持ってきてやったのはわたしよ」
ユウコは不満そうに唇を尖らせていたが、ハタと何かを思いつき、ニヤリと唇の端をつり上げていた。
「あのねムーン、明日のわたしのお弁当の〝おかず〟はね……」
おかず、と言う言葉を強調するユウコ。
言い終わらぬうちにムーンの両耳が立ち上がり、ユウコ目掛けて飛んでいた。
ユウコは慌ててムーンを抱き受けた。
「危ないよう。ビックリするじゃない。もう少し優しく飛んできてくれないかなぁ~」
ムーンはお構いなしってようすで、ユウコの腕の中で、嬉しそうに、身体をグリグリと動かしている。
「ユベールも元気そうだし、明日から二人とも学校へ来れそうですね」とナオ。
ナオはユベールを胸に抱え直して、正面から顔を覗き込んだ。
するとおばさんからは、以外な言葉が返ってきた。
「それがねぇ」
おばさんは窓まで行くと、木箱を乙音の鞄の横に置いた。
「音也はしばらく学校へは行けそうもないのよ」
「そうなんですか?」
ユウコはムーンの背中を撫でながら、ナオが抱くユベールを覗き込んだ。
いたって元気そうに見える。
「まだ、悪いところがあるんですか?」とカコ。
人間ならそう簡単にケガが直る訳ではないが、猫又なら?と思ってしまったところもある。
しかもさっき、庭を元気に走り回っている姿を見たばっかりである。
「ケガの方はもう大丈夫なのよ……」
おばさんは言葉を濁し、次に何と言えばいいのかを探しながら庭を眺めた。
そして、実はね、とため息をついた。
「ユベールはね、自分が〝音也〟だという記憶を忘れてしまったみたいなの……」
「それってどう言うことなんですか?」とカコ。
おばさんはナオとユウコに顔を向けた。
「昨日、ジンジくんが帰った後に、ムーンとユベールの秘密を話をしたでしょう」
二人が頷く。
「それから治療しなければならなかった理由も……」
「治療が失敗したらユベールがユベールじゃなくなって、え~と、猫又じゃなくなって普通の猫になってしまう。そしたら直ぐに寿命が尽きてしまうってことでしたよね」とユウコ。
「猫又と猫の寿命は雲泥の差があって、もしかしたら二人は、おばさんよりも年上かもっておっしゃってましたよね」
ナオの言葉に、おばさんは頷いていた。
「でも、治療は成功したんですよね」とカコ。
「もちろんよ。だからユベールは元気なんだから」
ナオの腕の中で、ユベールは小さないびきをかいていた。
おばさんはユベールの寝顔を覗き込んだ。
「正確には忘れてしまったんじゃなくて、音也が隠れてしまったのよ」
隠れてしまった?
三人は、きょとんとしている。
「どうやら音也だった部分が、意識の底に沈んでしまったらしいの」
「意識の底……ってどういうことですか?」
訊いたのはナオだった。
「おばさんがあの男の邪気を追い出す作業をジンジくんと行ったとき、ユベールはユベールで音也を守ろうとしてたんだと思うの」
おばさんはまた言葉を探した。
「なかなか追い出せなくてね……結構時間が掛かってしまったのよ」
思念を送り続けた結果、その後のおばさんの顔が、20も歳を取ったように見えたことを三人は知らない。
「そこでユベールは、男の邪気とおばさんの思念がぶつかり合っている間に、音也という自我を、自分の意識の奥へ避難させたんじゃないかと思うの」
「ユベールが自分自身の音也くんを守るために、自衛本能を働かせたってことですか?」とナオ。
「そう言うことになるわね。身の危険を感じ、自分の自我を意識的に潜らせたってことね」
三人は頷いた。
「そこまでは良かったのだけれど、今度はが出られなくなってしまったの」
「どう言うことですか?」とユウコ。
「浮き上がってくる方法が分からなくなってしまったみたいなのよ」
「つまり今のユベールは、自分は〝猫〟だ……ってことしか理解できてないってことなんですか?」とカコ。
「〝猫又〟じゃない普通の猫ってことですか?」とナオ。
「いいえ猫又よ。自分はユベールだってことも理解してるの。ただ音也を知らないだけなの」
「おばさんの力で出てこさせることはできないんですか?」
訊いたのカコだった。
おばさんは、残念そうに、首を横に振った。
「ユベールの意識を探ってみたんだけれど、何処に潜ってしまったかが分からないの。だから音也自身が出たいと思わない限りは……」
「でも、いつかは戻ってくるんですよね」とユウコ。
「ええ、たぶん、きっと……」
おばさんの口からは、曖昧な言葉しか出てこなかった。
三人は黙りこくってしまった。
すると……ムーンが鳴いていた。
今までの会話を聞いていたかのような、少し淋しそうな鳴き方だった。
ムーンはユウコの腕の中から、地面に飛び降り、ナオの足下に駆け寄った。
ムーンはユベールを見上げて、また鳴いた。
ユベールが目を開けた。
ナオを見上げる。
うん、とナオは、ムーンの横にユベールをそっと下ろしてやった。
すると二匹は、嬉しそうに身体を擦り合わせながら庭を駆け回り始めた。
二匹が元気に戯れる姿を眺めながら
音也くんが自分から帰ってくるまで待つしかないみたい。
……と三人はそう思った。
26 ある疑問
庭を元気に駆け回るムーンとユベールを眺めていて、カコはある疑問を思い出していた。
カコはおばさんに質問した。
「ジンジはどうやって音也くんの危険に気付いたんでしょうか?」
「そう、まったくそうだよね」とナオが相づちを打つ。
ユウコもその通りだ、と言っている。
カコは続けた。
「ムーンとユベールは兄妹で猫又だから、お互いの状態を感じることが出来るのは? 何となく分かるような気がするんです。でもジンジは……」
「おばさんは分かってたんですか?」とユウコ。
「それはまぁ、二人の親ですからね」と言って、一呼吸置いた。
「音也の危険を知って助けに行こうとしていたら、もうジンジくんが、助けに走っているのを知ったの」
カコは首を傾げた。
「ジンジが助けに行ったのを、おばさんには分かったんですか?」
「それを教えてくれたのは乙音よ」
ユベールを追いかけていたムーンは立ち止まり、おばさんに向かってミャウと鳴いた。
困ったことがあった場合、乙音から〝信号〟が送られてくる。
音也の場合も同じである。
その信号は、例えれば部屋に入っても良いかと問う、ノックみたいなものである。
「思念ですね……」とカコ。
あの時、男と対峙したときに、音也が発信した思念は、乙音とおばさんは、ノックとして感じることができた。
そこで始めて、おばさんは二人に意識を開いた。
三人が同時に繋がり、おばさんと乙音は、男の存在を知った。
そうか、そうだったんだ、と三人。
「乙音ちゃんとも繋がっていたから、おばさんはジンジが助けに行ったのを知ったんですね」
おばさんは、そうよ、と頷いた。
*
三人は部活のあと、乙音に「帰るよ~」と知らせるために教室へ戻ろうとして、中庭を走っている乙音を発見した。
泣きじゃくる乙音を落ち着かせて話を聴いてみると……
乙音は教室で待っているときに音也の危険を知って、何とかしなければ、と部活中のジンジのところに走ったのだそうだ。
だがジンジは、ユベールが危ない目に遭っていることを既に感じていて、早々に部活を切り上げていた。
だからジンジは、直ぐにユベールを助けに行くことができた。
その後に三人は、これからどうしていいか分からなくなっている乙音を中庭で発見したのだ。
「そこなんです。ジンジは何故、乙音ちゃんから言われる前に、(音也くんの危険を)知ることができたか?って……」
「あの時、乙音ちゃんもパニくってたから、うまく説明できなかったのかしら? 本当は乙音ちゃんから聞いて、それから行ったのかも……」とユウコ
「それならまだ部活中だったはずだよ。乙音ちゃんは、切り上げたジンジと橋のところで会ったって言ってたじゃない」とナオ。
そもそも音也とジンジは、音也自身が寡黙な性格もあるが、頻繁に話をする仲でもない。
クラスも違うし、音也は部活に入っていないから帰る時間もまったく違う。
乙音の兄だというだけの友だち……みたいなものだと、カコ、ナオ、ユウコは思っていた。
三人はおばさんに注目した。
「その訳をこれから、順を追って話してあげるわね」とおばさんは言った。
*
「ユベールの意識(思念)から、おばさんはジンジくんがユベールを助けに走っていることが分かったの」
おばさんとユベールが繋がっているのは分かる。
でも何故、おばさんはジンジのことが分かるのか?
「そこでおばさんはね、ジンジくんがユベールを助け出してくれることに期待したの。もしあの時、おばさんが駆けつけてユベールを救い出したとしても、それから家まで引き返して治療を行っていたら間に合わなかったかもしれない――」
おばさんは、乙音の鞄の横に置いてある木箱に手を触れていた。
「本当にあのときはギリギリだったわ。ユベールが助かったのはジンジくんのお陰だと思う……」
そしておばさんは、カコを見やった。
カコは複雑な笑みを浮かべていた。
おばさんは、カコの手を取った。
「ジンジくんを危険な目に会わせちゃって、ごめんなさいね」
暖かな気流が、手を伝わって身体の中に流れ込んでくるのを、カコは感じた。
「そんなぁ、おばさんが謝る必要なんてないですよ……」
おばさんは、そんなことない、と首を横に振った。
「でもジンジくんならきっとやってくれる。とおばさんは信じてたわよ。だってあの〝雨の壁〟の中で、カコちゃんを最後まで守ってくれたのは彼だったじゃない」
ナオとユウコは、カコの戸惑った顔を目線で捕らえてはいるものの、黙っている。
すると、おばさんは窓の下から腰をあげ
「少し時間あるかしら?」と三人に向き直った。
「もちろん、大丈夫です……」
ユウコの反応は素早く元気よく、トーンが少しだけ高くなっていた。
言ったあとに、舌を出して二人を見やる。
ナオは頷き、カコは肩をすくめた。
もともとおばさんに、何故?と疑問を投げたのはカコ自身である。
その答えをまだ聞いていない。
「それじゃあ、お家に入りましょう」
おばさんは玄関へ向かった。
「ジンジくんが音也の危険を知ることになった理由を、リビングで話してあげるから」
そう言った後に、おばさんは足を止めて振り返り、ムーンに向かって
「乙音、飲み物の用意をお願い」と声を掛けた。
それから
「紅茶かしら? それとも珈琲にする?」と三人に問いかけた。
「珈琲がいいです」
立ち上がって即答したのは、またもやユウコだった。
「ユウコ、また勝手なこと言って……」
ナオが慌ててたしなめる。
「だって、家で飲むのはインスタントなんだもん。ね、ね、二人もそうでしょう?」
ユウコの強引な押しの発言に、二人は顔を見合わせ、渋々ながらも同意するしかなかった。
おばさんは玄関のドアを開けた。
「じゃあ乙音、珈琲をお願い」
ユベールが真っ先に駆け込み、ムーンが追うように飛び込んでいった。
27 珈琲とリング
おばさんの後に三人が玄関に入り、鞄を置いて靴を脱いでいると、階段を踏み鳴らす音を立てながら、2階から乙音が駆け下りてきた。
乙音は、薄いグレーのスエットの上下に身を包んでいた。
しかしどう見ても、着ているスエットがダブついている。
2サイズは大きい。
手は袖口から見えないし、パンツの裾も床に垂れ、かなり余っている。
急いで目にとまったヤツを着込んだはいいが、どうらや音也のスエットだったらしい。
そんな事には頓着していない乙音の慌ただしさを見ながら、もともとムーンは猫だから、この場合着替えると言う表現が当たっているのかしら? と三人は、そんなことを考えていた。
「コーヒー、すぐ、煎れる、待ってて」
ボサボサ頭のままの笑顔で、乙音はリビングに飛び込んでいった。
「乙音ちゃんの髪、注意して見てやんなきゃね」とナオが二人に呟くと「そうだね、毛繕いを教えてやんなきゃね」とユウコ。
「レディだから」とカコも笑った。
*
乙音に続いてリビングに入った三人は、ユベールが窓際で横になっているのを見付けた。
すでに太陽は西に傾き、日の光が直接入って来ない窓辺だが、その中でも一番明るく暖かそうな場所を陣取っているようだ。
特等床(席)で丸くなり、早々に眠りに入っていた。
*
おばさんと三人は、テーブルの椅子に腰掛けて珈琲を待った。
おばさんの左にカコ、カコの正面にユウコ、その隣にナオが座った。
おばさんに言われて席を決めたわけでも無く、自然に〝ここはわたしの席〟になっていた。
「あわてなくていいよ。大丈夫だよ」とナオが乙音に声を掛けた。
「あわてて、ません」と奥のキッチンから、乙音が顔を覗かせた。
ケトルのお湯が沸く間に、豆を入れたミルをガリガリと手回ししている音が聞こえる。
やがて……珈琲の香りが彼女たちの所にもやってきた。
「もうすぐ、できる」
そして4個のカップが、テーブルに運ばれてきたのである。
「乙音ちゃん、ありがとう」
三人は口を揃えてそう言った。
「めしあがれ」
乙音は照れたようにそれだけ言うと、リビングから出て行ってしまった。
どうしたの? と不思議がる三人だったが、1分もしないうちにムーンが現れ、窓際で眠っているユベールの横で丸くなっていた。
なるほどね……と三人。
そして、いただきます、と三人はそれぞれのカップを手に取った。
おばさんはカップから最初の一口を含むと、そのままテーブルに置いた。
カチャリとも音がしなかった。
三人の中で、最後まで香りを楽しんでいたのはユウコだった。
立ち上がる香りを鼻を膨らましながら、湯気を何度も吸い込んでいた。
「ところでカコちゃん」
三人が最初の一口を楽しんだのを見届けてから、おばさんは口を開いた。
「カコちゃんは、ムーンが首に巻いていたリングを持ってるかしら?」
即座にナオが反応した。
「何?そのリングって、わたし知らないよ」
「え、ええ。お守りとして……」
唐突に振られてドギマギしたカコだったが、持ってくる、とカップを置き、席を立って玄関へ姿を消した。
戻って来たカコは、手にしていたピンク色のリングをナオに渡した。
リングの糸は濃いモノもあり薄いモノもあり、そしてそれぞれに太いのもあり細いのもあり、それらの糸を織り交ぜて丁寧に編み込まれていた。
「すご~い。とっても細かく編んである」
隣からリングを覗き込んでいたユウコが言った。
そして二人は、感心しながら長いことリングを眺めていた。
「今度編み方を教えてあげようかしら……」
今度も、最初に反応したのはユウコだった。
「おばさん言いましたよね。絶対ですよ。今度絶対教えてくださいね」と半ば強引に詰め寄るユウコだった。
おばさんは「はい、はい。今度必ずね――」と笑いながら、再びカップを手にしていた。
「これってムーンがしてたリングなんでしょう」とナオ。
そうだよ、とカコ。
「じゃあユベールのは?」
「ユベールのは、限りなく黒に近い鼠色で……」
違う違う、とナオは、カコが言おうとしていることを途中で遮った。
「あのねぇカコ。色のことも大事だけど、それよりもっと訊きたいのは、ユベールのリングはジンジが持ってるの?ってこと。ユウコ、そうだよね」
そうです、とユウコ。
「ジンジが持ってる」とカコは言った。
「二人そろってこんなの持ってたの」
羨ましそうに、わざと上目遣いになって伺うユウコの言葉に、カコは頬を赤らめた。
「いつも持ってんの?」とナオ。
え、うん?……と動揺しているカコに
「言っちゃいなさいよ。誰にも言わないから」とユウコ。
その強引さに押し切られて
「学校がある日は鞄の中に入れてるし、休みの日は手首に巻いてる。どうしても身近に置いておきたくなるんだ。ジンジはどうしてるか知らないけど……」
「だったらジンジも、同じようなことやってるよね。きっとそうだよね」
今度はユウコにナオが同意した。
「ずっと手首に巻いとけばいいのに」
またナオだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。学校で手首に巻いてたら目立っちゃうし。ジンジも同じようにしてたらみんなから変な勘ぐりされるかも知れないじゃない」
「何言葉に詰まってんのよ。ジンジが学校で手首に巻くかどうかは分からないじゃない」とユウコ。
「ま、カコが巻いていたら、ジンジも絶対巻くね!」
可笑しさが込み上げてきて止まらないナオとユウコだった。
「勘ぐられたっていいじゃないの。実際そうなんだから……」
「まわりはやっぱりそうなんだって、思うだけだよ」
「そ、そんなぁ~」とカコの頬は、二人が気付くほどに紅くなっていた。
それでも、心なしか唇が綻んでいるようにも見える。
「そんなもこんなも……」と二人。
ついに三人は、顔を見合わせながらクスクスと笑いだしてしまった。
おばさんは笑いをこらえ
「まぁ、まぁ。その話はあとでじっくりしてちょうだい。おばさんは話の続きがしたいんだけどなぁ……」と咳払いをした。
そうでした、とナオは慌ててカコにリングを返した。
そして居住まいを正した。
カコはリングをしばらく手にしていたが、結局は左手首に巻いた。
ナオとユウコは目を合わせると肩をすくめていた。
*
「昨日の部活のとき、ジンジくんはリングをソックスの中に押し込んでたのよ」とおばさんは言った。
「ソックスに押し込んでた?んですか」
何でまた?とカコは怪訝そうに言葉を返していた。
二人もそうだ。
理由や状況が飲み込めない。
「おばさんも、ジンジくんがどうやってユベールの危機を知ったのかが分からなくて、治療のあとに訊いてみたの。何かユベールの物で持っている物はないか?……て。そしたら思い出したようにソックスの中からリングを取り出したってわけなの」
「どうしてソックスの中なんかに?」とナオ。
「部室で着替えて練習に出ようとしたときに、鞄から落ちたって言ってたわ」
「でも、普通鞄から落ちるかしら?」
ユウコが首を捻っていると
「ジンジのことだから、無造作に鞄を部室の棚に投げ入れたんだと思う。そのときにリング落ちたんだよ、きっと……」
ジンジの代わりに、カコが答えているんだ、と二人は思った。
「わざわざまた鞄に仕舞うのも面倒臭いからって、ソックスの間に押し込んだそうよ」
「どうしてまたソックスの中なんかに?」
ユウコだった。
「練習用ハーフパンツのお尻のポケットだと落としてしまうって思ったんだよ、きっと」とカコ。
「それでソックスの中に押し込んだってわけね」
「そしてそのリングがアンテナみたいな役割をして、ジンジはユベールの危険を知ったってことですね」
「そうなのよカコちゃん。直接肌に触れていたのが良かったみたい」
おばさんは微笑んでいた。
な~るほどねぇ、とナオとユウコ。
そんな不思議なことが起こるのかな?と思いながら、やっぱり起こるんだ。
と今の二人は、何故か自然に納得できていたのであった。
そしてカコは気付いた。
あの時、ジンジとの間が普段より敏感に繋がっていることを……
危険を察知した乙音は無意識のうちに、わたし達ではなく、ジンジに助けを求めたのだと……
28 月灯りの庭
真夜中。
おばさんは、真っ暗なリビングの窓の前に立って、庭に目を向けていた。
月明かりが庭一面を照らしている。
満月の夜だ。
おばさんの足もとには、二匹の猫が身体を寄せ合うようにしてうずくまっている。
おばさんは動かない。
二匹の猫も動かない。
庭の草木も、成長を止めて眠っているかのように動かない。
何も動かない。
風も無く、音も無く、その空間はまったくの〝無〟の世界で、まるで一枚の絵か写真を見ているかのようだった。
おばさんは、その〝無〟の空間で何かを待っていた。
そして、もうそろそろ……という予感があった。
*
二匹の猫のうちの一匹が、モゾっと顔を上げた。
庭を見やる。
顔を上げたのは、闇に溶け込みそうなほど限りなく黒に近い鼠色のユベールだった。
ユベールの〝モゾ〟が、〝無〟の空間の最初の〝動〟となっていた。
ユベールは唇を捲って牙を剥き
シャ~~~~ウ、と喉を啼(な)らした。
空気が震えると同時に、庭の草花が揺れるようにざわついた。
風が吹いたのか?
違う。
何故なら、樹々の葉がそよとも動いていないからだ。
地表の花や草だけが〝ざわつき〟揺れているのである。
目を懲らしてみると、草の生えていない土だけの場所も揺れている。
強い太陽の日差しが無いのに、まるで逃げ水のようにユラユラと揺れている。
ユベールは窓に歩み寄ると後ろ足で立ち、ガラスに爪を立てた。
ガリガリ、キー、ガリガリ、キー
しかしその行為が、何も生まないことを知ると、今度はおばさんを見上げた。
おばさんは、リビングの壁にある時計に目をやった。
2時を、ほんの少し回っていた。
おばさんは、無言のまま窓に手を掛け、薄く開いた。
ユベールは、開かれた隙間を抜けて庭に降りていた。
そのまま流れるように庭の奥まで移動し、生い茂る草の中で脚を止めた。
艶やかな体毛が、月灯りを反射して輝いている。
地表の植物は、サラサラからザワザワへと、動きを大きくしていった。
唐突に……
ユベールは、右の前脚を左へ向けて払っていた。
草を刈るような動きだった。
弾かれたように何かが飛び、それはむき出しの土の上に落ちた。
ユベールが素早く移動する。
弾かれたそれは蠢(うごめ)いていた。
その地面の上で蠢く何かを、ユベールは前脚で押さえ込んだ。
膝を折って前屈みになり、その何かを口に含んだ。
モシャモシャと食べた。
その〝何か〟が、庭のあちこちで姿を現し始めていた。
*
それは……
花や草の影から、湧くように姿を顕すモノもあれば、土の中から湧き出るように出現するモノもあった。
百足のようにも見えた。
ヘビのようにも、トカゲのようにも、芋虫のようにも、毛虫のようにも、カブト虫やクワガタの成虫や幼虫のようにも見えた。
ナメクジ、ダンゴムシ、カタツムリのようにも見えた。
羽根のあるモノは、揺れるように宙を漂っていた。
一見すれば、見知った虫のようにも思える。
だが、凝視してみれば明らかに違うモノであり、人の知るモノでは無かった。
そしてひとつとして……
一匹として同じ姿をしているモノは無かった。
人知れぬ何かが〝モノ〟として具現化していたのである。
そのモノを、ユベールは次々と喰らっていった。
あの小さな身体の何処に、それが納まってゆくのだろうか。
満足するようすを見せずに、ユベールは口を動かし続けていた。
*
ユベールの身体に変化が起きていた。
見ると……長い尾が垂直に、天を突くように伸びているではないか。
そして、ユベールの姿が、ピントの合っていないカメラから覗いたようにボケていた。
熱く立ちのぼる水蒸気の中にいるかのように、ユラユラと……
説明のつかない異様な〝力場〟がユベールを包み込んでいた。
すると……
ミジッ
牙を剝き、身体をひしりあげるユベール。
ウ~ルルルルルルルル~~~~
喉の奥を震わせるような唸(うな)り声が、全身から漏れた。
苦痛の声に聞こえなくもない。
その、ユベールの唸りに呼応するかのように、リビングのムーンが身じろぎしている。
天を突き上げていたユベールの尾が蠢く。
ミジッ、ミリッ――
突然、先端がふたつに別れた。
近くにいれば、音が聞こえたかもしれない。
ミジッ……
ゆっくりと裂けてゆく。
やがて……
ユベールの尾は根元まで割れていた。
尾が〝二又〟に割れる。
これが〝猫又〟本来の姿であり、その名の由来とも言われている。
*
ムーンがおばさんを見上げていた。
おばさんは優しく微笑みながら、ムーンを促した。
ムーンは庭に降りた。
そしてユベールと一緒に、うごめくモノを貪り始めた。
しかし、ムーンの尻尾が二つに割れることは無かった。
天を衝いてはいるのだが、割れなかった。
そして、いくらもしないうちに、ムーンは窓の下まで戻って来てしまっていた。
困ったような顔でおばさんを見上げている。
にャう~
おばさんは、ため息をひとつして、ムーンをリビングに迎え入れた。
こうやって〝モノ〟を喰らうことによって、猫又は妖力を蓄えることができるのである。
この食の量が、ムーンとユベールが人の姿であり続けられることの差を表していた。
29 真夜中のランニング
違和感で目が覚めた。
痛みでは無く、ただ左目に違和感があるだけなのである。
ジンジは身体を起こして、カーテンの隙間から漏れ入ってくる月明かりで時計を確認した。
夜中の1時半を少し回ったところだった。
昨日の部活は、手のケガのためボール出しなどのサポートに従事した。
家に帰ってすぐに風呂に入り、夕ご飯を食べながらテレビを見た後は、自分の部屋に入った。
ベッドに寝っ転がりながら、重要な太字を紙帯で隠した社会科の教科書を眺めていたら、知らないうちに眠ってしまっていた。
電気は消えていて、ブランケットが身体に掛けられていた。
ようすを見にきた母親がやってくれたのだろう。
ジンジはベッドから降りると、電気を点けて部屋を出た。
トイレに行って用を済ませ、洗面所の鏡で左目を覗きこんだ。
見た限りでは、妙なところは見当たらない。
どうしちまったんだろう?
部屋に戻ってベッドの上に横になり、天井の模様をただボンヤリと眺めながら、左目の違和感のことを考えた。
ばい菌でも入ったのだろうか?
そうだったら、それはいつ?
何をしていたとき?
知らずに汚れた手で擦ってしまったのか?
汗を拭う時にか……
考えていたら、まったく眠れなくなってしまった。
しょうがねぇか、と身体を起こして部屋着を脱いだ。
ジンジの首には、紐に通されたユベールのリングが掛かっていた。
一昨日の事件以来、リングを肌身離さず身に着けておくことにしたのだ。
こうしておけば、リングはシャツの中だから、学校でも誰かに見付かることは無いと考えたのだ。
肌から離れるのは、風呂に入っている時だけだ。
ジンジはTシャツとジャージに着替えると、忍び足で廊下を渡り、玄関でランニングシューズを履いて外に出た。
眠れないのなら、家の回りをひとっ走り……と考えたのだ。
玄関前で二三度屈伸をして、すぐに走り出した。
昼間とはうって変わって、ひんやりとした空気が頬を撫でながら後ろへ流れてゆく。
特に、Tシャツの襟から上半身へ流れ込む空気が気持ち良かった。
左目の違和感のことは、とうに忘れていた。
ジンジは走るスピードを上げた。
*
最初は家の回りを、と考えていたが、あまりにも気持ちがいいので、学校の方まで行ってみることにした。
旭東通りに出て昭和町交差点を渡り、それから宮中の校舎とグラウンドの間を横切っている道を使って、南の反対側に出て、後田川沿いを走って帰る計画を立てた。
昭和町交差点で、赤信号に捕まった。
その場で立ち走りしをながら、道の反対側にある交番には顔を向けないようにして、平静を装った。
こんな夜更けに何してんだ?と交番からおまわりさんが出てくるのではないかとヒヤヒヤものだったが、そんな事も無く無事に横断歩道を渡りきることができた。
おまわりさんも夢の中だったに違いない。
サッカーゴールを左に見て走り、プールの先の道を、学校側に向かって左折した。
そこからグラウンドと校舎を横切る道を抜け、正門のある南側の道に出た。
人影は無い。
こんな時間だから当たり前ではあるのだが……
北側の旭東通りから覗いたときも、当たり前だかグランドに人影が無いことは分かっていた。
それでも、時折道路を行き交う車の音で、強い静けさを感じることは無かった。
しかし、南側から見るグラウンドの静けさには、また違った感じを受ける。
静か過ぎるのである。
野球部のバックネットや、試合のときにしか前に出さないため隅に追いやられた、いつも使うサッカー部のゴールとは反対側のもうひとつのゴール、そして鉄棒、放置してあるのか片付けてあるのか分からない、捨て置くようにしてあるバスケットボールのゴール……などが月明かりに照らされて、一種奇妙な薄気味悪さを漂わせている……
そんな静けさの中を、ジンジはただ黙々と走った。
*
学校を通り過ぎ、ユベールが襲われた場所の近くまで来ていた。
あの男が現れるわけはない――
そう思いながらも、早く通り過ぎてしまおう、と走るギアを上げるジンジだった。
やがて、おばさんの家が視界に入ってきた。
ああ、おばさんの家だ。
そのまま通り過ぎるつもりだったが、暗いリビングの中に立つ人影が目に映ってしまった。
灯りも点けずに、リビングの窓の前に立つおばさんの姿がハッキリと見えたのである。
まだ起きてるんだ、と足が止まった。
ジンジは、導かれるように門の前まで歩み寄っていた。
月灯りが庭を浮き上がらせている。
魅入られるように庭を眺めるジンジだった。
すると、リビングの窓が開き……その隙間からユベールが飛び出してきた。
そして庭の中央までゆくと、そこで止まった。
ジッと佇むユベール。
不意に……
前脚を大きく振るユベール。
ジンジには、何かが飛んだのが見えた。
その飛んだ何かに向かって走るユベール。
その瞬間、左目の違和感がきた。
これまでで一番強い違和感だった。
反射的に、左目を手で押さえていた。
左目を押さえながら、右目だけでユベールを見る。
ユベールが口を動かしている。
何してんだ?
何かを食べているように見えるが、その食べているモノが見えない。
やがて……
違和感が落ちついたので、手を離した。
……?
そのモノが見えた。
虫?喰ってんのか?
目を懲らして見ようとすると、また違和感がきた。
慌てて手で押さえた。
すると……モノが見えなくなった。
口をモシャモシャと動かしているユベールの姿だけが見えている。
何だ?
しっかり見ようと、違和感を気にせずに手を離す。
見えた。
何かを喰っている。
口の先からその一部が覗いている。
手で左目を隠す。
見えない。
手を離す、見える。
左目だけ見えるんだ。
見回すと、そのモノが、庭のあちこちにいるではないか……
最初のモノを食べ終わったユベールは、今度は別の場所に現れたモノを捕まえて食べた。
それからは、庭を忙しく駆け回り、モノを貪りはじめた。
ジンジは、その光景に見入ってしまっていた。
……と、ユベールのある変化に気付いた。
最初は、うなじの部分だった。
うなじの毛が、息を吹きかけたように震えて揺れているのである。
それがやがて、全身に広がっていった。
最後は天を突く尾の先まで――
*
ミジッ……
ジンジには、その音が聞こえた。
間違いなくハッキリとだ。
そして見てしまった。
ミジッ、ミリ――
ユベールの尻尾がふたつに裂けてゆく。
根元までゆっくりと裂けてゆくのを――
そんなことがあんのか?
という光景を目の当たりにしているのだが、今それは当たり前の事なんだ、と思っている自分の存在があった。
ユベールに気を取られていると、ムーンがいつの間にか現れていた。
ユベールと肩を並べ、ムーンもそのモノを食べ始めた。
ムーンの尻尾も割れるのだろうか? と注意深く見ていたが、そんな変化を表せること無く、食べるのを止めてしまっていた。
やがて……
ムーンはリビングへ戻ってしまった。
30 人狼
気配を感じて顔を上げると、おばさんがこちらを見ていた。
ニッコリと微笑んでいる。
ジンジは慌てて、上目遣いに頭を下げた。
するとおばさんは、入って来なさい、とジンジを手招きした。
はい、と頷いて、ジンジは門の閂を外し、音を立てないように注意しながら開けて庭に踏み込んだ。
すると……
数歩進んだところで足が止まってしまった。
後ろを振り返り、首を傾げた。
それからまた前に向き直り、何かを確かめるように、ゆっくりと歩を進めた。
ユベールの食事?を邪魔しないように、なるべく距離を置くようにして回り込みながら、リビング下の縁側に辿り着いていた。
おばさんはその場に腰を下ろして待っていた。
ここに座って……と手で軽く床を叩く。
「こんばんは」
「はい、こんばんは……」おばさんは少し間を置いて「門を入った時、押し戻されるような感覚があったんじゃない?」と訊いてきた。
予想しなかった言葉に、ジンジは目を丸くした。
「入って直ぐ、お押し戻されるような感覚がありました……」
勘違いじゃなかったんだ。
ジンジはおばさんの右側に座った。
するとムーンが、待ち構えていたかのように膝の上に飛び乗ってきた。
乙音の姿であれば、こんばんは、と言い出しそうな顔をしている。
優しく撫でてやると、喉を鳴らしながら身体を揺すり、直ぐに一番安定する場所を探り当てていた。
そして静かになった。
ジンジは、ムーンが寝ぼけて落っこちないように、囲むようにして指を組んだ。
*
「どうしたの? こんな時間に……」
「眠れなくて、走ってました」
ジンジは、走ってきたコースを説明した。
「おばさんがリビングの中に見えたんで立ち止まったら、ユベールが庭に降りてきて……」
言ってもいいのだろうか?と言葉を切った。
「変なモノを食べだしちゃうし……」と口籠もった。
「食べてるモノが見えたの?」
ジンジはコクリと頷いた。
「左目だけが……見えるんです」と庭に目を向ける。
ユベールは庭の中をあちこち移動しながら、モノを捕まえては口に入れている。
「それからたまに、違和感が起こるんです」
ジンジは左目の違和感を説明した。
「左目だけモノが見える。その違和感が、最初に起こったのはいつごろだったのかしら?」
「え~とですね、ユベールの治療をした翌日だから昨日です。最初は午後の授業の時でした。窓からの光がとても眩しくて……」
「そう……」
「違和感と変なモノが見えるってのは、やっぱりあの治療が関係してるんでしょうか?」
「そうだと思うわ……」
おばさんからは、それっきり詳しい説明は無かった。
それなら、とジンジは話題を変えて訊いてみた。
「それで、オレが見えているモノって何なんですか?」
「モノねぇ、そうよねぇ、見えるのなら説明してあげないわけにはいかないわよね――」
「是非……お願いします」
「でもジンジくんは、あのモノが見えて気持ち悪くないの?」
「いえ、全然」
首を大きく横に振る。
「違和感は?」
「今は無いです」
「両方説明してあげるけど……違和感とモノ、どっちが気になる?」
「モノです」と即答した。
分かったわそれじゃあ、とおばさんは月を見上げた。
「今日は満月よね。とても綺麗……」
おばさんは、傍で眠っている子供を起こさないような口調で、囁くように言った。
ジンジも月を見上げた。
声に出して相づちを打つのを躊躇うかのように、ジンジは無言で頷いていた。
*
「ところでジンジくんは、理科は得意?」
モノの説明じゃないの? 理科が関係あんの? と変な質問に戸惑いながらも
「得意っていうか数学と同じくらいに好きです。国語と社会はからっきしですけど」と苦笑いをした。
好きなら話が早いわね……とおばさんは納得した。
「それなら、満月は何故〝まん丸く〟見えるのかは分かるわよね」
ジンジは、え~とですね、と一瞬だけ考えた。
その後は淡々と答えていた。
「まず月が光って見えるのは、月に太陽の光が当たって、それが地球にはね返って見えるからです。丸(まぁ)るく見えるのは、月と太陽の間に地球が入って、ほぼ一直線で結ばれる位置になったときにそうなります」
「そうね。だから地球が月と太陽に挟まれているとき、地球は月からも太陽からもエネルギーを受けていることになるわよね」
「エネルギー〝光〟がエネルギーってことですか?」
そうよ、とおばさん。
「満月の日は引力の影響で、満潮と干潮の差が一番大きくなる〝大潮現象〟が起きるのは知ってるわよね」
授業で習いました、とジンジ。
「でもね、それ以外にね。証明はされていないんだけれど、満月の日は事故や事件が多くなるという説があるのよ」
「知りませんでした」
「例えば、人狼がそうね」
「人狼……狼男のことですか?」
話の飛び方に戸惑っていると、おばさんが首を傾げながら、ジンジの方を見ていた。
「聞きたい?」
「ええ、もちろん。ボクの興味のど真ん中ですから」
ジンジは二度三度と、頭を強く上下させた。
それじゃあ、とおばさんは身体を左右に揺らした。
座りごごちを調整したのである。
「つまりね、月の満ち欠けが人に精神の異常をもたらしている、と言うの。いい? これはあくまで説よ」
おばさんは念を押した。
「その精神の異常ってのは、どういうことなんですか?」
「それはネ、月の満ち欠けが人の性格を表していることからきているのよ」
「満ち欠けが人の性格ですか?」
「月は満月からだんだんと痩せ細って、最後にはなくなるでしょう」
「新月になるってことですね」
「人の気持ちもね。明るく光り輝いている時もあれば、月が細くなってゆくように暗くなってしまったりと、様々に変化するものなの。分かるわよね?」
半分は自信なさそうに、首を縦に振るジンジだった。
「常に丸く変わらない太陽からすると、その時々で形を変えてゆく月というのが……あるいは変わったように見えるというのが……人の性格を表している、と昔の人は考えたのよ」
なるほど、そうか、とジンジは眉根にシワを寄せて思い出していた。
カコが、いつもと微妙に違っているんじゃないか、と感じるときがあるのもそうなんだろうか?
たまに無茶苦茶ツッケンドンされるときがあるもんなぁ~。
そんなときは、オレが何かやっちまったんだろうか?って考えるんだけど、結局何も思い当たることが無くて――
だけど次の日には、いつものカコで……昨日の〝お前〟は何(なん)だったんだよぅ、と訊きたくなるときがある。
もしまたそんなときに出くわしたら、その日の月の形を調べてみるか?
「これを信じた中世のキリスト教を信仰する地域では、特に墓荒らしや大逆罪を犯した者や、あと魔術を使った者については……」
「だ、大逆罪ってなんですか?」
中世の人は、魔法や魔女の存在を信じていたのは知っている。
何かの本で読んだ。
マンガだったかも知れない。
「大逆罪と言うのはね、王に対する反逆罪みたいなものよ。今はそんな罪は廃止されているけどね」
「話してる途中で質問しちゃってすいませんでした」
申し訳なく頭を掻きたかったが、ムーンが落っこちないように指を組んでいるので止めた。
「大丈夫よ。分からないことや言葉があったら直ぐに訊いてくれていいのよ」
はい、とジンジは無言で顎を引いた。
「罪を犯した者は、罰として〝月明かりの夜〟に、獣の耳を着けられたうえに毛皮をまとわされ、狼のような雄叫びをあげなければならなかったの」
「王に刃向かったのに、そんな罰でいいの?って思っちゃいますけど、格好だけ見ればほとんど狼男ですね」
「そうね、罪の重さにも関係するんじゃないかしら。その場で処刑されたり、裁判で魔女だと判決が出れば火炙りにされたりとかは、実際に史実として残されているんだから」
……?
「〝史実〟は、歴史上の事実ってことよ」
ジンジは納得した。
「そのあと罪人たちは〝人狼〟と呼ばれ、人里離れた森の中へ追放されたそうよ」
「追放だから、街には戻って来んな!……てことですよね」
「でもね。時折人里に現れては、略奪を繰り返していたみたいよ」
「食べなきゃ生きていけない……てことですよね」
「人殺しをすることもあったみたいだから、生きるためにはなりふり構っていられない、ってことね。そこに〝罰と月明かり〟というキーワードが生まれ〝狼男と満月(月灯り)の夜〟との関係ができたとされているのよ」
「そんじゃあ、おばさんの言葉を借りれば、月は満月から痩せ細っていく。人の気持ちも同じように、明るい時もあれば暗くなったりするときもあり、様々に変化する……てことでね」
「そうネ」
「え~とですね、月の満ち欠けは、ん~と、人の心の裏に隠された本当(ほんと)の性格を表しているって、みたいなことを、その時代の人たちは信じていたってことですか?」
「そうみたいね。夜に輝く月という存在が、人の心の奥底を照らしていると信じるようになったことから〈人の裏に隠された狂気のような性格〉を月が表すようになったの。やがて〝太陽は表の姿〟〝月は裏の姿〟として考えられるようになったのね」
「つまり〈月の光を浴びると気がおかしくなる〉というような変な言い伝えが広がって……違うな、え~と何て言えはいいのかな?」
伝承、かな……とおばさん。
「そ、そうです伝承です。そのおかしくなるということが伝承として受け継がれて、狼男の伝説が生まれたってことですね」
「そういうこと」
なるほどねぇ~、とジンジは大きく頷いた。
「これが狼男伝説のひとつと言われているわ」
「ひとつ……まだあるんですか?」
庭で見えるモノの話はどこ行っちゃったんだろう?
でもこの話も面白い、早く続きを、とわくわくしているジンジだった。
「そしてもうひとつの説は、狂犬病」
「狂犬病? こんどはまたえらく現実的な話ですね」
「狂犬病に感染した人間は、感覚器官が過敏になり、精神錯乱、うなり声をあげるなどの症状が見られるの。そして感染した者は、刺激の少ない夜に活動するようになるの。それでも満月の夜は、普段の夜より光が強くて刺激が強いから、満月の夜に狼の行動と間違えるような症状が出てしまい、狼男と満月の繋がりができたと言われているのよ」
「…………」
「ジンジくんはどっちが本当だと思う? どっちを信じる? 信じたい? それとも信じない?」
「今のおばさんの話だと、狼男は罪人や狂犬病とかで実在しないことになるじゃないですか。逆におばさんは〝実在する〟って思ってるんですか?」
「さぁ、どうかしら?」とおばさんは、微妙に首を傾げた。
「でも、人って自分たちの基準によって現実を規定しようとするでしょう? 本当はあるべき姿ってのがあって、それに気付いてないだけなのかも知れないわよ」
「う~ん。ここにも実際に二匹の猫又がいるんだから、狼男が実在してもおかしくないですね」
ジンジは、庭で食事?をしているユベールを、かわいいなぁ~と思ってしまった。
「ユベールとムーンのこと? そう言えばそうね……」とおばさんは笑った。
おばさんの笑い声は、静かな闇に溶け込んでいった。
31 月のエネルギー
「じゃあ、話を満月に戻すわね」
明日も学校なんだけど……話が面白すぎてしょうがない。
決めた、明日のことは考えない!
切り替えの早さは、ジンジの得意技のひとつだった。
「狼男の話に繋がるかもしれないけど、満月の光にはパワーがあると古くから考えられていて、祭礼を行う国が多くあるのよ。特に仏教徒の多い国では、満月の日には寺院で〝浄化〟のための経典を奉(ほう)じるそうよ」
教典?……奉じる?
「仏教の教えが記された書物が教典で、奉じるというのは、信仰のよりどころとして大切に守り従うことなの……」
なるほど、理解しました。
「月のエネルギーは、新月から満月に向かうに従って段々と増していくと考えられてる……と言うのはさっき説明したでしょう。つまり、満月の夜はエネルギーが最高に満ち溢れている状態でもあるわけね」
「さっきのおばさんの話で、狼男が満月の夜に変身するのは何となく分かる気がします。だったら普通の人たちも、月の光を浴びたら暴れたくなるかもですネ」
ジンジは冗談っぽく笑った。
おばさんが言う。
「逆に満月から新月に向かう課程でエネルギーが放出されてゆく」
ジンジが返す。
「見た目でも細くなってゆくんだから、そうかも知れないですね」
「だから満月の日には〝必要〟なエネルギーを積極的に取り入れておいて、月が欠けるに向けて〝不要〟なエネルギーを手放すいいタイミングでもあるわけ。ここまでは理解できた?」
「自分が持ってる不要な〝毒素〟を新月に向かうときの月エネルギーに乗っけちゃうってことですよね」
「面白い考え方をするのね。でも合ってるわよ」
ジンジは月を見上げながら、明日学校行ったらカコにも話してやるんだ、どんな反応するかな……と想像していた。
*
「次の質問よ」
「次の質問……満月の次は何なんですか?」
「理科は得意なんでしょう?」とおばさん。
「得意じゃなくて、好きなんです」
ユベールが食べているあの変なモノの説明は何処いっちゃたんだ?と思いながらも、なんでも訊いてください、とジンジは肩に力を入れた。
「飽和溶液って分かるかな?」
ジンジは即答した。
「え~とですね、ビーカーに入れた水に……例えば〝塩〟を入れてどんどん溶かしてゆくと、もうそれ以上溶けないところまできたのが飽和溶液です」
「じゃあ、過飽和溶液は?」
それも分かります、と答えた。
「飽和溶液にもっと……て言うか無理矢理〝塩〟を溶かし込んだ液のことですよね。やり方は色々ありますけど、水の温度を上げればもっと塩を溶かし込むことが出来ます。そしてそれを静かに冷ましてゆくと、塩が結晶化するかしないかのギリギリの点って言うか、線って言うか、そんな所?があります。それが過飽和溶液です。でもそれは……」
続きをどう説明すればいいか考えるのに、少しの間があった。
おばさんは黙って待っていてくれていた。
「でもそれはちょっとした刺激に弱くて……例えば鉛筆とかでビーカーの横の部分を叩いて刺激を与えると、塩が結晶として現れます」
「良く知ってるのね」
おばさんは感心しきりである。
「特に実験物が好きで――」
ジンジは照れながら肩をすくめた。
「そこまで分かってれば、説明がとってもしやすいわ」
おばさんは、改めて庭に目を移した。
ユベールは、庭中を動き回りながら、まだモノを貪っている。
「夕方って言ってももう昨日のことだけど、ユベールを治療した〝土〟を庭に撒いておいたのよ」
今度は満月を見上げた。
「そうだ、夕方で思い出しました。三人がユベールのお見舞いに来ませんでしたか?」
ジンジは唐突に言いだした。
「三人が来てくれたときに、丁度土を撒いていたのよ。そのユベールを治療した〝土〟が〝飽和溶液〟だと考えてみて。中に溶け込んでいるのは?」
ジンジは、土の中に溶け込んでいる男の思念を想像した。
「水が土で、その中に溶けている塩となるのが男の〝思念〟ってことですよね?」
思念……男の意志とでも言えはいいのだろうか?
真っ暗な闇の中で、その闇よりももっと濃くて黒い〝邪気〟。
数え切れない……数えると考えてもいいのだろうか?
その邪気が、何処にも出られずに土の中で蠢(うごめ)いているさまが、頭の中に浮かんだ。
イメージが固まると、ジンジはおばさんに目を向けた。
「その土に、満月から降り注ぐ強いエネルギーを浴びせて、過飽和溶液を作り上げたってことなのよ」
ジンジはまた想像した。
その過飽和溶液の中には、男の邪気と、月の光が閉じ込められている。
土の中に閉じ込められていた飽和溶液の邪気が、月エネルギーという異物を混入させられて、窮屈そうにもがいている。
それはどこか、怒り、のようでもあった。
「そっか、オレがさっき見たのは、邪気と月の光でできた過飽和溶液である、庭に撒かれた土の前に立っているユベールだったんですね。そこにユベールが〝手(前脚)を振って〟刺激を与えた! それがあのモノ……変な生き物となって現れたってことなんですね。え、あ、いや、でも生き物って表現しちゃっていいんですか?」とジンジは首を捻った。
「それにね、おばさんが治療のために注いだおばさんの思念、ユベールがもともと持っている猫又としての妖力も混ざっているのよ」
ジンジは頭の中で指を折った。
男の邪気、おばさんの思念、ユベールの妖力、そして月の光――
それが全て混ざり合って過飽和溶液を作り上げた。
「あれは〝蟲〟なの――」
「虫? なんですか? あれが?」
どう考えても、普通の虫には見えない。
「蟲って言っても、虫っていう字を上に一つ下に二つ、三角形に並べた漢字を書くの」
ジンジは、空中に指でその蟲と言う字を書いてみようとしたが、ムーンが落っこちないように手を組んでいるので、頭の中で書くことにした。
「蟲は〝この世〟と〝あの世〟の間にある〝気〟が具現化したモノって言えはいいのかしら」
「〝気〟っていうのも思念ってことですか?」
「思念も気のひとつだけど、思念というのは人、いわゆる人間だけが持っているもので、気は万物……全ての物がもっているのよ。人、動物、虫、草や木、この世に存在しているモノ全てが〝気〟を持っているの」
「空気にも気があるんですか?」
「大きな意味で言えばそうね」
ジンジは鼻から大きく息を吸い込んだ。
気、を吸い込んでいるつもりなのだ。
それを見て、おばさんは笑ってしまった。
「それら全てが混ぜ合わさったモノが蟲となって〝見えるモノ〟として具現化したのよ」
「あまり良く分からないですけど、世の中に存在する目に見えないモノがごっちゃになって、それが何かの切っ掛け……いわゆる刺激で〝蟲〟として現れたってことですね」
「面白いことを考えるのね、まぁそういうことかな。そして蟲は、ムーンとユベールが猫又であるためのエネルギーになるの。つまり猫又の妖力を蓄えるための食べ物ってことね」
「あんなのを毎日食べているんですか?」
ジンジはムーンに向かって、ゲーと舌を出しておちゃらけた。
「毎日じゃないわ、月に一度、多くて二度かな……」
カコがこれを見て知ったとしたらどう思うだろう?
カコのことだから、それは当然のことで、猫又なら当たり前のことだって言うかもしれない。
そして、ムーンとユベールは、なんて凄いんだろう……て思うだろうな。
ジンジはまた庭に顔を向けた。
ユベールはまだ、蟲を追っていた。
*
「でも、さっきから、ユベールばっかり食べているみたいですけど……」
ジンジは膝の上のムーンに目を落とした。
「そうなのよね、ムーンは食が細いのよ。メロンパンや魚肉ソーセージなら良く食べるんだけどね」
なるほどそうですよね、とジンジ。
「だから、乙音の姿を長く維持することができないの」
「そっか、ユベールはあれだけの食欲だから、学校でもず~と音也のままでいられるんだ」
それで納得できた。
カコがムーンにてんやわんやしてるのに、クラスが別れているからかもしれないが、オレはユベールに何もしてやってないことを――
「でも今は……」
おばさんは、音也の意識がユベールの奥底に潜ってしまっていることを語った。
そして、カコ、ナオ、ユウコの三人は既にその事を知っていることも教えてくれた。
「じゃあ、蟲をたくさん食べて、どんどん妖力を蓄えれば、音也になれるってことも考えられますよね」
「そう期待したいところなんだけどね……」
おばさんは言葉を濁したまま、庭で動き回るユベールを追っていた。
ジンジには、庭で食欲旺盛に蟲を貪っているユベールの、どこが悪いのかまったく分からなかった。
分からないまま、おばさんが言っていた〈月の光には昔から万物を清める力がある〉というのを考えていた。
きっと音也くんは帰ってくるさ、と何度目になるのだろう……ジンジは夜空に浮かぶ月を見上げていた。
32 診断
「それじゃあ、目をみせて……」
「え、あ、はい? なんですか? すいません」
ジンジは、考えごとをしていました、と謝った。
「目を見せてくれるかしら……」
言われるまで、目の違和感のことは、すっかり忘れてしまっていた。
ジンジはお尻をずらして、おばさんに身体を向けた。
「左目の奥が、時々変なんです。これは蟲が見えるようになったのと、関係あるんですか?」
ジンジは、おばさんが見易いように、心持ち顔を上にあげた。
月灯りがジンジの顔を照らす。
おばさんは身を乗り出して、左目を覗き込んだ。
「大きく開いてくれるかしら?」
ジンジは、左手の親指と人差し指で、左目を上下に押し開いた。
右手はまだ、ムーンを支えている。
何処を見てればいいのか分からず、月を見上げることにした。
月は、眩しいほどの光……エネルギーを放っていた。
「今は、違和感はあるの?」
おばさんが訊いてくる。
「今は無いです」とジンジ。
「じゃあ瞑ってみて」
はい、と指を離して目を閉じる。
「触るわよ」
おばさんは手の平の中心を左瞼の上にそっと乗せた。
「そのまま、動かないでね」
ジンジは、ジッとしていた。
手の平からの熱が、瞼を通して奥に降りてくるような感覚があった。
暖かく、それでいてヒンヤリして、なんとも不思議な感覚だった。
手が離れた。
ジンジは目を開け、目の玉をグルグルと何度か回した。
「やっぱり、違和感の原因はユベールを治療したときの影響だと思うわ……」
おばさんは、庭のユベールに視線を移していた。
「おとといの夕方に、ユベールから男の邪気を追い出す施術をやったわよね」
「トコロテン作戦のことですね」
おばさんは一瞬、考えるような間を取り
「ほんとうに面白い表現をするのね」と笑った。
ジンジはそれほどでも……と肩をすくめた。
「でもね、途中でユベールがジンジくんの手を引っ掻かいちゃったから、トコロテン押し器が詰まっちゃったの」
「引っ掻かれたキズが影響したってことですか?」
「キズの影響で、おばさんの思念が真っ直ぐ走らなくなってしまったの」
「ん~と、それって光の屈折みたいなもんですかね」
「おばさんは初めから、そうなるだろう……と予想はしていたの」
「屈折する事態が発生することがですか?」
「ユベールが暴れて、ジンジくんを傷つけるだろう……て。だから治療を始める前に、痛い思いをするわよって言ったでしょう」
「そっか、そう言ってましたね」
ジンジは、指を組んでいる手の甲に目を落とした。
キズは薄いカサブタを作っているが、少しでも刺激を与えれば裂けて血がにじみだしてきそうだ。
昨日の今日だから仕方が無い。
「分かっていたからこそ、屈折でユベールに届かなくなった分を補うために、おばさんはより強い思念を送ったのよ」
思念を使いすぎた。
それでなのだろうか?おばさんの顔があんなになっちゃったのは……
おばさんはジンジが言わんとしていることが分かっているかのように、そう言うこと、と頷いていた。
「結果的にユベールの治療は成功したけれど、屈折して通り抜けられなかったおばさんの思念が、オレの中に残ってしまったってことですね」
「残留思念ね。それがジンジくんの左目に影響を与えているんだと思うわ」
おばさんは、ごめんなさいネ、と頭を下げた。
「おばさんが謝ることないですよ。そのお陰で、オレはこんな貴重な体験ができているんですから」
ジンジは頭を掻きたい衝動に駆られた。
「じゃあ、蟲が見えるのは、おばさんの能力がオレに伝染(うつ)っちゃったってことですね」
「あら、伝染(でんせん)だなんて人聞きの悪いことを言うのね」とおばさんは、ジンジに肩をぶつけた。
「でも大丈夫。自然に抜けてしまうから。それにおばさんのだから……邪気は無いわよ」
「えっ、無くなっちゃうんですか?」
「ええ、自然に……」
「そうなんですね」とジンジは、背中を丸めてガックリと肩を落とした。
でも直ぐに顔を上げた。
「それじゃあ、自分の力で蟲が見えるようになるには、どれくらい勉強しなければならないんですか?」
「修行のことを訊いてるの」
はい、とジンジ。
「最低でも7.8年は掛かるわよ、それ以上かも」
「それ以上……て、そんなに」
「でも、生まれつき見える人も居るにはいるみたいよ」
おばさんは? と訊くと
「さぁ、どっちかしらねぇ~」と答えを濁していた。
「でもオレは……今までは全く見えなかったんだから、修行しなきゃならないんですよね」
ジンジはため息とともに、さっきよりも大きく肩を落した。
「あらぁ、修行する気があったの?」
するとジンジは、残像で目が三ッつ四ッつに見えるほど、勢いよく頭を横に振った。
とんでもない、とジンジ。
それでも……人は修行しだいで、こんなことも出来るようになるんだ、と感心しきりだった。
*
「そうだ、そうだった。さっき気が付いたんですけど、暗いところがよく見えるみたいなんです」
今度はジンジが先に切り出していた。
「夜目も効くようになってるの?」
「そ、そうです。さっきおばさんが窓の前に立ってたじゃないですか。それがハッキリ見えちゃったんです。まるで昼間みたいに……これも思念の影響ですよね」
おばさんは頷いた。
「じゃあ、おばさんも、その……夜目が利くんですよね」
「普通の人以上にはね」
「凄いですね」
おばさんの能力の、ひとつひとつを知るたびに、ジンジは驚嘆するばかりだった。
「でも……」とおばさんは、首を傾げた。
「でも、なんですか?」
「おばさんの残留思念は、そんなに多くないはずなんだけど。蟲が見えて夜目も効くようになるなんて……ジンジくんには元々の素質があるのかもしれないわね」
ジンジは、そんなことないですよ、と照れ笑いを返すが、満更でもない表情をしていた。
男から負わされたケガを治療するため、ジンジは暴れるユベールを両手で押さえていた。
おばさんは、男の邪気を追い出すために思念を送った。
途中、ジンジの手は暴れるユベールに爪で引っ掻かれ、噛み付かれた。
ジンジがキズを負うことは、おばさんには予想される事態だった。
ユベールの治療を優先させるため、おばさんは思念を送り続けた。
そのとき、キズのために思念が〝屈折〟してしまい、ユベールに届かなかったものがジンジの中に残り、左目に影響を及ぼした。
残留思念の影響で、ジンジは蟲が見えるようになり、夜目が効くようになったのだ、とおばさんは言っているのである。
左目の違和感の原因が分かっただけでもジンジは、よかった、と心の中で胸をなで下ろしていた。
*
「あら……」
おばさんは、ジンジの組んだ手に目を落としていた。
つられてジンジも目を落とすと、甲のキズのひとつひとつが、皮膚の下から何かが突き上げているかのように波打っていた。
ジンジは、話に夢中になっていて、自分の手のことなのに全く気付かったのである。
カサブタの一本の端が捲れ上がり、浮き上がっている。
そして、カサブタは手の甲のから離れてゆく部分から姿を変えていった。
蟲へと変化していった。
その一本、一匹を切っ掛けに、カサブタは次から次へと蟲に変化してゆく――
これにはジンジも、さすがに驚いた。
膝の上のムーンのことも忘れて、手を振って払り落とそうとする。
それをおばさんが、手首を握って止めていた。
「落ち着いて」
ムーンが顔を上げた。
騒がしいよ、どうして起こすの?とジンジを睨む。
「払っても落ちないわよ。ムーンに頼みましょう」
「ムーンに……何を?」
「キズのお掃除……」
おばさんはムーンの頭を撫でた。
身体を起こしたムーンは、ジンジの手の甲で蠢く蟲を見付けた。
その一匹の端を、口で咥えた。
頭を上下左右に揺り動かしながら、蟲を引っ張る。
蟲が剥がされるときジンジは、むず痒くて思わず拳を握ってしまっていた。
ペリっと蟲が取れた。
その蟲を、ムーンは丸ごと飲み下していた。
「ほら、見て……」
ムーンが蟲を剥がしたキズは、これまでとは比べものにならないくらいにきれいになっていた。
キズ痕はまだ残ってはいるが、もう裂けることがないほどに治癒している。
今朝は手袋で隠さなければならなかったほどの裂け目は、薄いが新しいピンク色の皮膚ですっかりと塞がっていた。
ムーンが二匹目三匹目と食べるたびに、その下から生まれ変わった皮膚が姿を現してゆく――
凄ェえじゃん。
しかし、ムーンの食事は長く続かなかった。
数匹を剥がして飲み込んでしまうと、ムーンはおばさんを見上げた。
ちょっと辛そうな顔をしている。
「おなか一杯なのは分かるけど、もう少し頑張ってちょうだい」
おばさんは、ムーンに優しく語り掛けた。
蟲はまだ、縦横に走ったキズの数だけ蠢いている。
ムーンは庭に目を向ける。
ユベールの助けを求めているのだ。
「ユベールは庭の片付けで手一杯なんだから、こっちまで手伝ってもらったりした可哀想でしょう? それにあんたは妖力が足りないんだから、もっと食べなきゃ」
嫌いな野菜も残さずきちんと食べるのよ、と母親が子供に言っているようだ。
「カコさんや、ナオさんや、ユウコさんに迷惑をかけたくないでしょう……」
その言葉に、ピクン、とムーンの両耳が立ち上がった。
「そうだ、そうだよな。頼むよ」とジンジ。
一声鳴いたムーンは、蟲との格闘を再開した。
蟲を剥がして食べるだけの一方的な戦闘なのだが――
「ジンジくん」
ムーンを見ながらおばさんが言った。
ジンジが、手から顔をあげた。
「ほんとうに蟲が怖くないのね」
「さすがに手から生えているのには驚きましたけど、もう別に怖くないです。これまで見たこと無い〝虫〟だなってくらいにしか思ってないです」
ジンジは笑っていた。
組み直していた手を、ムーンが食事をし易いように、そっと離して広げた。
「二匹の兄妹たちと知り合いになってから、それも普通かな?……って思えるようになっちゃいました」と言いながら、興味本意で、自分でも蟲を挟んでみようとやってみた。
だが上手くいかない。
挟めたと思っても、感触が指に伝わってこないのだ。
なんの抵抗もなく、空気を触るように通り抜けてしまう。
目を懲らして慎重に、今度こそと思って挟もうとしても、スルリと指から抜けてしまうのだ。
「ほんとにジンジくんって変な子ね……」
「そうですかぁ、自分じゃいたって普通だと思ってるんですけどね」
ジンジは蟲を捕まえるのを諦めた。
今度はおばさんが手を伸ばす。
すると蟲は、おばさんの指にスルっと……いとも簡単に捕らえられていた。
驚いたジンジが、その蟲を観察するように顔を近付ける。
蟲は確かに、おばさんの指に挟まれている。
「これも修行……やってみる?」
今度も大きく、ジンジは横に首を振った。
おばさんは笑いながら、手の蟲をムーンに与えた。
ジンジは、兄妹が蟲と格闘するようすを交互に見ながら、月からのエネルギーを全身に浴びていた。
33 同じこと考えてる
目覚まし時計の音で目が開いた。
いつもなら叩くようにして音を消し、うるさいよこのやろう、と心の中で時計を罵るのだが、今朝は違った。
一回鳴ったきりでそっと止め、目を思いっきり開くことができた。
横になったまま、ゆっくりと顔の前に両手をもってくる。
指を開いて天井に向けてかざすと、安堵の吐息が漏れた。
両手の甲には、薄いピンク色の皮膚が幾重にも走っているだけだった。
こうやって、朝になってからもう一度見てみるまでは、半信半疑だったのは確かである。
昨日の朝は、気の弱い女子が見れば卒倒しそうなほどのキズだったのに、この異常な早さの治り方には、自分でも驚いていた。
しかも、その治り方が異常だったのも確かだ。
新しくなった皮膚を嬉しそうに撫でていると、ふと……手が止まっていた。
そこはユベールに噛まれた場所だった。
その歯の痕だけは、まだしっかりと残っていたである。
そう言えば……噛まれた痕からは蟲は湧いてこなかったな、と昨夜のことを思い返す。
何故なんだ? 引っ掻いて付いた傷も噛んで付いたキズも、同じキズのはずなのに……
でもその理由が、ジンジには分かるはずがない。
とにかく、引っ掻きキズが直ったことだけで気分が良かった。
第一に、これならシゲボーと一緒に朝礼台で弁当食べられるし、部活も本格的に再会出来そうなのが嬉しかった。
第二は、カコにもう心配かけなくてすむ?
う~んやっぱり、第二の方が第一かな? と思い直していた。
色々と考えを巡らせていたら、ベッドの中でグズグズしていて起きる、いつもの時間になっていた。
慌てて飛び起きて、顔を洗い、朝飯を急いでかっ込み、それから歯を磨き、ジンジは……いってきま~す、と家を飛び出していた。
*
旭東通りに出て、昭和町交差点を渡ってグラウンド、そしてプールを過ぎて橋を渡ってそのまま左に曲がる。
昨夜のランニングと同じコース、いつもの道を早足で歩いた。
澄み渡った青空が広がっている。
後ろから前へと流れる空気に押し出されるように、ジンジは走り出していた。
*
「おはようごじぇーますだ」
後方のドアを開けて教室に入ると、あちこちから返事が返ってくる。
カコがジンジの席の横に、乙音と一緒にいた。
ジンジは鞄を肩から外して、二三度大きく息をしながら席に向かう。
途中から走って来たので、呼吸を整えるためだった。
「おはよう、ございます!!」
ジンジに向かって、乙音が元気な笑いを見せてくれた。
しかも、ビックリマークを二つもくっつけている。
ジンジは乙音に、教室に入ったときと同じ台詞を返しながら、右手で詰襟の釦を五つ全て外して解放し、ボタンダウンの釦まで上から二つ外した。
同時に左手で、鞄からノートを取り出して団扇(うちわ)の代わりに使った。
「手……大丈夫みたいだね」
ジンジは、喉と胸の回りをバタバタと扇ぎながらニヤリと笑うと、右手の甲を出して見せた。
乙音も一緒に覗き込んできた。
カコの表情が変わった。
下から手を添えて、息がかかるほどに顔を近づけ、もう片方の指を使ってキズ痕を撫でる。
信じられないと呟き……顔を上げる。
そこに、エッヘンと自慢気なジンジの顔があった。
キズ自体は、ジンジ自身が直したのではないが、とりあえず凄いだろう、と自慢してみたかった。
「さっきまで乙音ちゃんに、昨夜のことを聞いてたんだ」
うんうん、と乙音は嬉しそうに身体を揺らした。
「それじゃあ〝蟲〟のことも聴いちゃったのか?」
うんうん、と乙音。
ジンジの自慢顔は、瞬く間に萎(しぼ)んでしまった。
クスっ、とカコの肩が動いた。
ジンジは、いずれは話すことにはなるだろうが……
さすがに朝から蟲を食べる話は止めておこう、それまでは自慢できるもんな、と思っていたのだ。
カコはもう片方の手を上から重ねて、ジンジの手を挟み込んだ。
それから、ジンジの手の熱をしっかりと感じてから離していた。
*
鞄の中身を机の中に入れ終わったジンジは、弁当だけ残した鞄を教室の後ろの棚へ運ぼうと動いた。
カコは用も無いのに一緒に来ると……さり気なくジンジの横に並んだ。
何?と思ってカコに顔を向けた。
「あとできちんと教えて、乙音ちゃんの話だとどうも要領を得なくて……」
肩をすぼめながら、囁いた。
ジンジは分かったと頷いた。
「あと、それから……」
「それから、なに?」
「首に何か掛けてるでしょう。シャツの釦を外した時に見えたよ」
ああこれか、とジンジは首に掛けていた紐を引っ張りだして見せた。
「こうしとけば見えないし、いつも肌にくっついているから――」
紐の先のユベールのリングを見ながら、カコは笑った。
「何笑ってんだよ。そんなにカッコ悪いか?」
「ううん、そうじゃなくて」
嬉しそうな顔で、カコはセーラー服の襟元に手をやり、引っ張って広げた。
「あんまり奥まで覗いちゃ駄目だよ」と前屈みになった。
首に掛かっている紐が見えた。
「ムーンのリングだよ」
背筋を伸ばして、直ぐに襟を整える。
「良く見えなかった」
「嘘ばっかり」
笑い目で睨むカコに、ジンジは照れた。
乙音がキョトンとした顔で、自分の席から二人を見ていた。
34 これからどうする?
木曜日。
カコ、ナオ、ユウコ、そして乙音の四人は、ユウコの教室でお弁当を広げていた。
カコが〝バスを待つユウコ〟の夢の話をしてから八日が過ぎていた。
乙音がお弁当のメンバーに加わるようになったのは月曜日からで、カコが〝事故の夢をもう一度観ることが出来れば〟とおばさんに頼んで欲しいと相談してからだった。
それに、ナオとユウコも乙音の秘密を知ったのだから、一緒にいる方が何かと都合がいい。
何しろ乙音の〝それ〟は、時間なんてお構いなしだからだ。
「ねぇ、これからどうする?」とナオが箸を止めた。
思い切って切り出した、という感が強い。
いただきます、をしての、最初、の台詞がこれで、それまでの四人はだた黙って口を動かしているだけだったのだ。
カコの箸も止まった。
ユウコは、箸でおかずをひとつ摘まむと、乙音の前にひっくり返して置いてあるお弁当の上蓋の上に置いた。
乙音は手を伸ばすと、それを摘まみ上げて口の中に放り込んだ。
「とにかく、わたしたちが観た夢の通りに……」
ナオの言葉がそこで止まった。
「近い将来ジンジは事故に遭遇する。それを頭に置いて行動を起こすしかないと思うんだ」
ナオの言いたいことを引き継いだのはカコだった。
その言葉は、ある意味単刀直入であった。
「わ、わたしもそう思ってる」
ナオは目を丸くしていた。
「やっぱりそうだよね、もしかしたら事故に遭わないかも……じゃ駄目なんだよね」
ユウコも強く頷いていた。
事故のことは考えたくない、でもそこが一番肝心なところなのだ。
「じゃあやっぱり、今できることは、ジンジを撥ねる車を見付けることだよね」とナオ。
思っていることを言わなきゃ、何も進まない。
「それしかないと思う。それも雨が降る前にね」
ナオの言葉を確かめるように、ユウコが返して続けた。
「逆に言えば、雨が降るまでは、わたし達に時間があるってことだよね。その前に(車を)見付けようよ」
「天気予報だと、しばらく雨にはならないみたいだよ」とカコ。
「わたしもそれ確かめた。テレビの天気予報だけどね……」
ナオの言葉に、ユウコも見たと言った。
どうやら三人とも、これから先の天気をしっかりと確認しているようだ。
「じゃあ。とにかく」とユウコが大きな声を上げた。
教室の生徒たちが、何事かと振り向いていた。
ユウコは慌てて、何でもないよ、と手を横に大きく振った。
もちろん、箸を持っていない方の手である。
それから机に前屈みになると
「雨が降る前に車を見付け出そうよ」と急に囁き声になっていた。
ナオも身を乗り出すと、同じように小声になっていた。
「あと、この件が解決するまで、ジンジを絶対一人にしないこと。帰りは特に注意だよ。見張りながらみんなで一緒に行動するようにしないとネ」
うん、と返事をするカコとユウコの声は、更に小さくなっていた。
「カコさん、ナオさん、ユウコさん、元気出して、いく、ぜったい、なんとか、できる」と声をあげたのは、三人の会話をすべて頷きで返していた乙音だった。
三人の声が小さくなってしまったので、元気が抜けてしまったと勘違いしたのだ。
「そうだよね、元気出さないといけないよね」
ユウコが笑顔を作った。
「そうだよ。危ない未来がやって来るかもしれないって分かってるなら、みんなで何とかしようって思うのは当たり前じゃない。さぁ、元気だしていこうよ」とナオ。
「動かないと、何も解決しないもんね」
カコも元気良く声をあげた。
もちろん、教室のみんなが驚かない程度の大きさである。
*
「それじゃあ、どうやって車を見付ける?」
ユウコがまた、おかずのひとつを蓋の上に乗せた。
乙音はすぐに拾い上げて口に入れた。
ナオもおかずを置いた。
「どこの、何ていう車かまったく分からないよね」
中学生の女の子にとっての車とは〝便利な乗り物〟くらいの認識しかない。
車種が分からないのは仕方のないことだ。
「白い車で、ドアの所にカタカナで大きく字が書いてあったよね。確か緑色で……あれは多分会社の名前だったと思う」
カコもおかずを置いた。
ナオがさっき置いたおかずは、とうに無くなっていた。
緑色で、太くて角張ってて……
三人は今も、話をしながら思い出そうとしている。
これまで何度も、思い出そうと試みてはいるが、どうしても浮かび上がってこない。
色々な場所で、心が一番落ち着くであろう、湯船に浸かっているときとか、寝る前とかも試しているが、集中すればするほど、その部分に霞が掛かったようにぼやけしまうのである。
「やっぱり、どっかで捜すしかないよね」とユウコ。
「仕事で使ってる車だったから、会社の名前が直ぐに目に入らないと駄目じゃない。だから今度、一回でも目にすれば、それだ!って絶対に分かると思うんだ」とナオ。
「わたしもそう思ってた」
ユウコは言葉を切り、喉を潤すために牛乳を飲んで
「だからそう、それでね、考えたんだけど、別々にじゃなくて〝4人〟で一緒に捜した方がいいと思うんだ」と続けた。
「そうだよね。わたしもそれがいいと思ってた」とカコ。
わたしも、とナオ。
「なぁ~んだ、みんなそう思ってたんだ。それならさっそく始めちゃおうよ」
ユウコの声がまた大きくなってきた。
「じゃあ、どこにするユウコ、そこまで考えてたんだから、もう決めてんでしょ?」
ナオが訊いた。
ユウコは、えっへん、と鼻を膨らました。
「車の量が多い方がいいから、橘通りだと思ってるんだけど、どうかな?」
「それいいね、そうしよう」
カコとユウコは、即座に賛成した。
「それじゃあ、しあさっての日曜日に集まろうよ。いい?」
一番早く集まれるのがその日なのである。
二人に異存はなかった。
「乙音ちゃんも手伝ってくれるかな?」
カコは首を傾ながら、左隣の乙音に声をかけていた。
「え、え? わたしも、いい、ですか?」
乙音は、メロンパンが口から飛び出さんばかりに驚いていた。
「いいに決まってるじゃない」
ユウコが何度目かのおかずを置いた。
口の中には、まだメロンパンが残っているのに、乙音はすぐに摘まんで放り込んだ。
そして今度は、カコがおかずを置いた。
「乙音ちゃんが食べると思って、少し多めに作ってきたんだ」
「ぜ、ぜ、是非、します、うんにゃ、させて、いただく、です」
乙音の慌てぶりに、三人はクスクスと笑った。
「じゃあやっぱり、綺麗なトイレがある所がいいよね」とカコが提案すると
「そうだよね。それ大事だよね」と二人。
遅れて乙音も、首を縦に大きく振っていた。
「デパートの前にしようよ。車も多いし、中のトイレは綺麗だしね」とナオ。
「トイレは大事だよね」と二人。
「信号もあるから、車が止まって見付けやすいかもね」とカコ。
「それ絶対大事、メモ取りやすい」とユウコ。
「車に電話番号とか書いてあるよねきっと……」とカコ。
「絶対だよ」とナオ。
そうだよ、うん、うん、うん、と三つの顔が同時に頷き、少しだけ遅れて乙音が首を縦に振った。
「少し希望が見えてきたんじゃない?」とナオ。
「上手くいくかもしれないね」
ユウコは嬉しそうだった。
ナオとユウコの明るい元気な声を聴きながら……
きっと上手くゆく、絶対にあきらめない、ジンジの顔がカコの頭の中に浮かんでいた。
するとユウコが、こんなことを言い出した。
「なんかさぁ、ちょっと不謹慎かもしんないけど、わたし……少しだけワクワクしてるんだけど」
カコは、はっ、としてユウコを見た。
ユウコはどんなことでも良い方向に考える性格(たち)で、車探しも絶対に上手くゆくと考えている。
やれば出来る……
叶う……
その気持ちが、今回に限らず、どんなときもみんなの強い支えになっているのだ。
「そう、わたしもそう」
カコは、自分でも確かめるように声に出した。
「絶対、見付けようね」とナオ。
「ぜったい、です、母、言った、精一杯、やれば、不器用、でも、いつか、必ず、できる、なる、心で、思う、一番、大事、必ず、通じる、……?、通じる、どう言う、意味、……?」
乙音は自分の言っていることに首を傾げているのに、三人はしっかりと理解していた。
*
それからは、いつもの楽しいお弁当の時間が過ぎていった。
友だち、部活、男子のこと、取るに足らない小さな悩み、それと乙音のご飯の食べ方だった。
ナオとユウコは、こんど絶対乙音に箸の使い方を教えると言い張った。
あとおばさんの不思議な力のことなど……
特に、おばさんの不思議な力については、盛りだくさんの話題だった。
乙音に訊いても、乙音が全てに答えられるわけもなく、それでも一生懸命に考えて、それでいてしどろもどろの答え方が可笑しくて面白くて、そして楽しくてしょうがなかった。
35 夕暮れの庭
夕暮れの日差しの中、おばさんは立水栓に繋いだホースを使って、庭に水を撒いていた。
その中を、ユベールが所狭しと駆け回っている。
おばさんは目尻にシワを寄せて、音也、を濡らさないように注意しているのだが、ユベールにとってはどうでもいいことだった。
今は庭を飛び回って遊ぶことが大事で、身体が濡れることなど関係ないのだ。
たっぷりと水を浴びた草木は、夕暮れの日差しを浴びてキラキラと輝いている。
その草木の間を、ユベールは何か新しい物が発見できるかもしれないと期待しながら走り回り、ときおり立ち止まってはそこかしこを覗き込んでいた。
驚いた虫たちが、草むらから何事かと飛び出してくる。
見付けた、とユベールが飛び掛かる。
捕まってはたまらない、と逃げる虫たち、それを追うユベール。
まだ学校から帰ってこないムーンを待ちながら、ユベールは一人で遊んでいるのだった。
*
入間家は、木板を縦格子にした塀で囲まれている。
門も同じように、縦板を繋ぎあわせた開き戸だ。
いわゆる木戸である。
庭を囲む塀の高さは大人の肩ほどだが、すぐ内側を木で覆ってあり、中のようすはその間からしか見ることが出来ない。
そこから先は草花が生い茂っている。
しかし、庭の全てが草花で覆われているわけではない。
リビングの窓の前は、剥き出しの土となっていて、三人が身体を動かせるくらいの広さがあった。
それと、木戸へと続く肩幅ほどの道も、剥き出しの土となっていた。
しかも不思議なことに、草花は、ある境から突然に生い茂り、塀まで広がって緑の領域を作っているのである。
だんだんとでは無い、ある場所から突然に生い茂っているのである。
土を盛って段差を作っているわけでもないし、レンガやブロックを使って区切っている訳でもない。
まるで線を引いて区切りをつけているかのように、そこから群れているのだ。
もっと観察してみると、茂っている所にも、手入れがされている場所と、されていない場所があることに気付かされる。
されていない場所は、まだ手を入れていないだけで、これからやろうと考えているのか?
それが意識的なのか?無造作なのか?は、傍目から見ても判断に苦しむところだ。
しかし、手入れのされていない(ように思える)場所には、ハッカ、カタバミ、タンポポ、アロエの他に、普段見慣れない草花が数多く茂っていた。
カコたちが聞いた話によると、その中にチドメグサも生えているとのことだ。
チドメグサを主流として作った軟膏を、手のキズに塗るようにと、おばさんはジンジに渡していたのだ。
そう考えると、手入れのされていないように見える場所も、意識してそうしているとしか思えない。
雑然としているようで、整然としている。
入間家の庭は、まるで小さな植物園のようであった。
*
庭の水撒きは午前中に一度、ムーンとユベールを学校に送り出した後に行う。
朝はほぼ必ずだが、午後は庭の乾き具合を見ながら判断する。
今日は晴れて日差しが強かったので、暑さを和らげるために、打ち水を兼ねた水撒きをすることにしたのだった。
水気を帯びた庭の上を風が渡ると、空気がヒンヤリとしてきた。
頬を撫でる風に、おばさんは満足そうに、うん、と呟くと、立水栓の横にホースを片付けながら
「お家に入るわよ」と声をあげた。
少し間を置いて、ユベール……とまた声を掛けたが、二度とも返事が返ってこなかった。
いつもなら、まずは鳴き声で返してくるのだが、今日に限ってそれがなかった。
どうしたの?と顔を上げて庭を見回してみるが、姿が見えない。
ホースを片付けるところまでは確かにいたはずだったのだが……
また呼んでみた。
するとやっと、木戸の近くから気配が返ってきた。
木戸の右側で、塀と塀が交差する角だった。
草木がそこだけ、大きく、忙しそうに揺れていて、ユベールの背中がその間から見え隠れしている。
「何してるの?」
また何か、見慣れない虫でも見つけてチョッカイを出しているのだろう、と声を掛けながら近寄っていった。
しかし……
ユベールは虫を相手にしているのではなかった。
ユベールは一心不乱に、土を掘り返していたのである。
作業を邪魔をしないように、上からそっと覗き込んでみると、土の中から何かが姿を現そうとしていた。
するとユベールが、ナゥ、と短く鳴いた。
音也だったら、見付けた、と言ったに違いない。
横に並んで屈み込むと、動きを止めたユベールがおばさんを見上げた。
それっきり動かない。
これを取れ、と言っているのだ。
おばさんは、それを手に取った。
それは……大人の親指くらいの大きさに丸められた紙であった。
紙は和紙で出来ていた。
まだ新しく、地中の虫に食べられたようすはない。
埋められてから、それほど日数が経っていないようだ。
和紙は、中央部分を黒い紐で結んで綴じられていた。
顔を近付けて、細かな所まで観察してみる。
黒い紐は、丹念に編み込まれたものでムーンやユベールが首に巻いていたリングの編み方に似ていた。
和紙の片方の端から鉛筆の先が覗いていた。
おばさんは鉛筆を抜き取った。
鉛筆は短く使い古されたもので、ハンドル付き手回しや電動の鉛筆削りでは、削り部分の穴の中に潜ってしまい、取り出せなくなるほど短かった。
おばさんは紐を抜き取り、丸められた和紙を広げた。
和紙は人の形をしていた。
そして、人形(ひとがた)のちょうど胴体にあたる部分には、カコの名が筆で書き込まれていたのである。
ここは?とおばさんは、埋められていた場所を確認する。
木戸の右側、南側の格子塀と西側の格子塀がぶつかる角、人形の紙が埋められていたそこは、家の中心となるリビングから庭を向いて正確に〝南西〟の位置であった。
*
「他にもあるの?」
おばさんは呟くように、まるで独り言のように声を出していた。
心なしか声が震えているのが、自分でも分かる。
ユベールは駆けだした。
その先は、おばさんが予想していた方角のひとつだった。
ユベールは、南側の格子塀と東側の格子塀が接する位置に向かった。
リビングから(庭を)見て、左端の角となる〝南東〟の場所だった。
行ってみて気が付いた。
そこは普段はあまり踏み込まない場所であり、草で覆われているはずなのに、そこだけ地面が見えている。
最近誰かが踏み込んで、邪魔な草を抜き、土をいじったに違いない。
カコの人形が埋められていた〝南西〟の場所のすぐ左横には木戸があり、人が通る場所だ。
だから無造作に掘り返したままにしていたら、直ぐに誰かに気付かれる。
しかし今回の左奥は、普段人が近付かない場所である。
埋めた本人も、気付かれないだろう、とそのままにしておいたに違いない。
そこには、髪留め用のピンを包(くる)んだ人形が埋められていて、和紙の人形にはナオの名前が書かれていた。
*
ユベールが次に移動した場所は、リビングの窓の前に立ってから庭を見て、右後方の角だった。
西側の縦格子と、家の裏側となる北側の縦格子の角である〝北西〟の場所に、ユベールはユウコの人形を掘り当てていた。
ユウコの人形には、チビた消しゴムが包まれていた。
鉛筆、ヘアピン、消しゴム、それぞれがその人物を特定づけられる、その人がこれまで使っていた〝物〟が、和紙を切り取って作られた人形に包まれていたのである。
あの男が、何かを意図して埋めたことは疑いようがなかった。
そして三人のそれらの物を、どうやって手に入れたのか?も、おばさんは容易に想像できた。
男は、生徒たちが教室にいない時間を見計らって潜り込んだのだろう。
体育や、技術・家庭の時間で、教室を離れなければならない授業の時だ。
その時間を見計らって、カコ、ナオ、ユウコの持ち物を盗み出したに違いない。
また、学校に侵入するのも、あの男にとっては造作もないことだ。
かりに、学校の教師や職員に声を掛けられたとしても、相手の意識を一時的に操ることが可能だからだ。
相手は男を、同じ教員か職員、または存在していない人として認識させられていたに違いない。
36 思う方法と誤算
おばさんは、この〝方法〟に思うところがあった。
三体の人形を眺めながら、最後は北東ね、と声を掛けると、ユベールは家の真裏となる北側の格子塀と東側の格子塀の角へと走っていた。
〝北東〟は陰陽道でいう、いわゆる鬼門である。
逆にカコの人形が埋められていた南西は〝裏鬼門〟と言われている。
*
入間家の鬼門の角には柊(ヒイラギ)が植えてあった。
柊は、冬に白い小花が集まって咲いて甘い芳香を放つ、モクセイ科モクセイ属に分類される常緑小高木の一種である。
棘状の鋸歯をもつ葉が特徴で、邪気を払う縁起木とされているのだ。
その柊の根元にも、丸められた和紙が埋められていた。
和紙の両端からは、黒い髪の毛が覗いている。
しかしおばさんは、それを手にするなり
「違う、何故?」と漏らしていた。
束ねられた髪の毛は、彼女自身のものでは無かったからだ。
おばさんは紐を抜き、和紙を開く。
今度の和紙は人形ではなく、ただの長方形で、そこには何も書かれていなかった。
三つ目を掘り出したところまでは、最後の鬼門に埋められているのは自分の〝何か〟だと思っていたのだが……
おばさんは、埋められていた四つの〝それ〟の意味をハッキリと理解していた。
「だまされた」
考えられるのは、これしか無い。
それは、男の髪の毛だったのだ。
ユベールが彼女を見上げて鳴いていた。
*
結界とは……
ある領域内を守る目的で、何らかの手段や道具を用いて、霊的もしくは魔術的な〝防御〟を施すことをいう。
例えば、修行者(あるいは霊的な能力を持つ者)が、その力を用いて外からの悪霊を〝中に進入させない〟壁を作り上げるのも結界のひとつである。
今回の場合は、入間家の……つまりおばさんの張った結界(塀)の内側に、もうひとつ別の結界が作られていたということだ。
その道具となるのが、カコ、ナオ、ユウコの三人の人形と、それぞれの身近な持ち物だ。
そして、男の髪の毛である。
「やってくれたわね」
おばさんは、自分自身に毒突きながら駆けだしていた。
男は、結界の中にもうひとつの自分の結界を作り上げることで、おばさんとカコ、ナオ、ユウコに〝間違った考え〟を植え付けていたのだ。
*
おばさんは玄関へ飛び込み、そして直ぐに出てきた。
手には木箱を持っていた。
ユベールを治療したあの木箱である。
おばさんは庭の中央に木箱を置き、四つの辺がしっかりと東西南北を差すように調整した。
そしてその中に、四つを丁寧に、掘り出した方角に合わせて並べた。
すると再び、おばさんは慌てて家の中に入っていき、戻ってきた時には手にマッチ箱を持っていた。
箱の前に両膝をつき、マッチを擦り、火が安定するのを待って、箱の中の四つの和紙に移した。
和紙は、土の中に埋められてたために湿気ってはいたが、やがて炎をあげた。
同時にカコの鉛筆、ナオのヘアピン、ユウコの消しゴム、男の髪の毛が炎に包まれた。
おばさんは炎を見詰めながら箱の前に正座をし、両手の指を組んだ。
複雑に絡んだ、見たこともない奇妙な組み方だった。
炎を凝視する――
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前、ゆっくりと一語一語はっきりと、九つの言葉が口から流れでた。
ひとつの言葉を放つと同時に、指を組み替える。
言葉とともに、九つの印を結んだのである。
それはいわゆる九字護身法(くじごしんほう)と言われるもので、九字の呪文と九種類の印によって邪気を払う作法だった。
そしておばさんは、最後の〝前〟の印を解くと、両手を炎の上にかざした。
掌を、炎が舐めるように炙った。
おばさんは歯を剥き出して食いしばり、再び九字の言葉を唱えた。
すると……
言葉とともに、炎がおばさんの手から離れていった。
それはまるで、透明なガラス板を炎の上から押さえつけたかようだった。
炎は潰れ、前後左右に流れていったのである。
おばさんは続けた。
全てが燃え尽き、炎が消えるまで言葉を続けた。
やがて箱の中は、鉛筆の芯、焦げて縮んだ消しゴム、すすけたヘアピン……そして灰だけとなっていた。
*
大きく、ひとつの呼気が、おばさんの身体から漏れるように流れ出た。
息が、灰にかかる。
灰は静かに舞い上がり、ユラユラと揺れて彷徨った。
そして、灰の中から四匹の蟲が姿を現していた。
直後に、ユベールが箱の中に飛び込み、次々と蟲を貪った。
蟲は、よほど強烈な力を持っていたのだろう――
貪るそばから、ユベールの尾は天を衝き、先端から根元まで一気に二つに別れていた。
ニャウ
もっと食べさせろ、とおばさんを見上げるユベールの右目だけが……金色に輝いていた。
ポツリ
一滴の雨粒がユベールの額を叩いていた。
それが、二つ三つと数を増やしていった。
37 雨
それは突然だった。
ポツ、ポツ、やがてパラパラと……雨はグラウンドで部活に打ち込んでいた生徒たちの頭や肩を打った。
いっせいに近いタイミングで、なんで?どうして?とみんなが空を見上る。
ここ数日は天気がよく、雨のことなど誰の頭の中にも無かったのだ。
今日も朝から快晴で、授業が終わって外に飛び出したときも、しっかりと青空だったのである。
だが今は、灰色の雲が見ていても分かるほどの早さで、東の海の方から西へと流れている。
「おーい。今日はこれまでにしようや」
サッカー部キャプテンのヤッチンが両手で拡声器の形を作って、声を張り上げた。
「こりゃ、やべぇかも――」
誰かが半分楽しそうに、傍らの部員に声を掛けている。
「終わり、やめよう」
シゲボーが、手を前に出して突っぱねるようにジンジを制止しながら、ボールを足で押さえた。
二人はゴール前で攻守を入れ替えながら、ボールを奪い合う練習をしていたところだった。
シゲボーは、ボールを奪おうとチェックを入れるジンジの動きを止めたのである。
ジンジはボールから目を離して距離を取った。
プール監視塔の時計を振り仰ぐ。
部活が終わる最終下校時間まで、まだ一時間近くあった。
「ほらッ」
シゲボーがボールを、つま先で軽く打って撥ね上げた。
ジンジは手を使わずに胸でボールを受け、そのまま足下に落ちるに任せた。
「昨日の分を取り戻そうと思ったのに――」とジンジは独りごちながら、手の甲を撫でていた。
「しょうがないさ」
シゲボーは、雨の量を推し量るかのように空を見上げた。
「明日も雨だったら?」
「そんときは渡り廊下か体育館」
「狭くてもいいから、体育館」とジンジの声の調子を上げた。
常時グランドを使うクラブの雨の日は、新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下や体育館2階の観覧台を走ったりと、小さな場所を間借りしてストレッチをやったりする。
その時サッカー部や野球部などの、ほとんど男子だけの連中は決まって女子の近くでやりたがるのである。
いわゆる、一生懸命部活に励んでいるところを見せたいのだ。
イイカッコしー、なのである。
そうなると、誰も見ていない渡り廊下での部活は論外で、何が何でも体育館の隅でもいいからやりたい、と願うのである。
「運次第だな」
当日、部活が始まる前に、ヤッチンがジャンケンで勝てば、体育館の隅を使えるのである。
「たまには、シゲボーがやってみたら、副キャプテンなんだからさ」
「よだきーからいい」とシゲボー。
面倒なのだ。
「そう……」
ジンジはシャツの裾を引き上げて、濡れた頭を拭こうとした……でも手を止めた。
雨で塗れた頭を拭いたら、母ちゃんが洗濯のとき、変な臭いがする、って言うかも……
だから濡れるに任せちゃえ、と考え直していた。
「それにしても、こんな急に雲行きが怪しくなるなんてなぁ~」
シゲボーの声に、今度はジンジが空を見上げた。
灰色の雲が、勢いよく流れならが雨を落としている。
顎を反らして見上げたその顔にも、雨粒が数を増やしていた。
*
後輩たちは、ボールの片付けに奔走していた。
ジンジは足下のボールを、後輩たちが集めているカゴを狙って山なりに蹴った。
ボールはバウンドした後にカゴの側面に当たり、外側に落ちた。
んが……ジンジは声には出さずに大口を開けて残念がった。
カゴに入れなきゃ、と動こうとすると、後輩のセンカンが、外れたボールをカゴの中に投げ入れてくれた。
「わりィ、サンキュ」とジンジ。
センカンは振り返って頭を下げた。
高さが全然足りねぇじゃん、とジンジは頭を捻りながら、こうかな?みたいに蹴る動作を繰り返した。
野球部とバスケットボール部の連中も、道具の片付けを急いでいた。
グラウンドのところどころに、小さな水溜まりができ始めていた。
38 置き傘
部室に走りながら、ジンジがシゲボーに訊いた。
「傘持ってんの?」
「置き傘がある」とシゲボー。
そっちは?と顔を上げる。
ある、とジンジは前を向いたまま短く返した。
「バッグ、どうする?」
今度は部室で訊いた。
そっちは?とシゲボーが返す。
「シャツもそんなに濡れてないから、置いて帰る」
そうだな、そうだよな、とシゲボーも即決していた。
他の部員たちのほとんども、二人の行動(会話)に倣(なら)うように、バックを置いて帰ることにしたようだ。
二人は、混み合う部室で自分のスペースを上手に確保しながら着替え終えると、おさきー、おつかれー、と教室へ向かった。
*
教室前の下駄箱の横にある傘立ては、混み合っていた。
同じように、早めに部活を切り上げた生徒たちが、置き傘を取りに戻ってきているのだ。
しかも、傘立て自体がそれほど大きなものではなく、数人も集まれば密集地帯となってしまうのだ。
最初にシゲボーが取りに向かった。
教室に戻って来たとき、ただ単にシゲボーが少し先を歩いていたからだ。
ジンジは、少し離れて待つことにした。
待つ間、左目を手でこねていた。
意識しないままこねながら、傘立てに集まっている生徒たちの中に、カコの背中を見付けていた。
*
シゲボーは、自分の傘を引き抜きながらカコに訊いた。
「今日(バレー部)は体育館だったよな」
雨でも関係ないんじゃねぇの?と訊いているのだ。
「それがね、今日は終わり!……って先生が言いだしちゃったの。それも急にだよ」
カコも、これだ、と傘を引き抜いた。
でも、引き抜いた傘は男物だった。
カコはそのまま後ろを振り返った。
ジンジは目をこねながら、所在なさげにあっちを見たりこっちを見たりしている。
授業中に、突然何かを思い立ってキョロキョロしだすのに似てなくもないよね、と思いならがカコは続けた。
「先生がさ、試合が近くてここんとこずっとハードな練習してたから、今日は身体を休めろって言うんだよ」
「休むのも練習のうちだ、って言ってなかったか?」
「言ってた」
ありきたりな台詞だよね、とカコはシゲボーに笑いを返した。
「言うことは同じだな」とシゲボーは肩をすくめた。
「(それ)じゃあ、ってことで片付け片を始めたの。そしたら急に降りだしちゃって、焦っちゃった――」
「焦る必要があんの?」と訊くシゲボーに、カコの返事には、少し時間が掛かっていた。
「(練習)やってる時は、(体育館の)ドアや窓は開けっ放しだからだよ。その方が(風)が気持ちいいから」
「ボール、流されないか?」
「強いときは閉めるけど、今日はそうじゃなかったでしょ?」
カコは自分の傘を見付けて引き抜いた。
「だな。グラウンドも風が無くて、今日はぜんぜん練習しやすかった。なのに急に降りだしやがんの……」
シゲボーごめん、焦ったのは窓のことじゃないんだ、とカコは二本の傘を胸に抱えた。
「あ? なんか言ったか」
「ううん、何も言ってないよ」
ユウコみたいに声が出ちゃったのかしら?とカコは、慌てて首を横に振っていた。
*
カコは何で早いんだ? 今日は体育館だろ? だから雨は関係ないのに……
そんなことを考えながらあちこちをキョロキョロと眺めていると、二人が戻ってきた。
よしきた、とジンジは前に出た。
すれ違いざま、すぐ戻るから、と傘立てに向かった。
さっさと行ってしまったジンジの後ろ姿を追いながら、どうして?とカコは口を尖らせていた。
「それって、ジンジのじゃねぇの?」
シゲボーは、カコの持つ黒い方の傘を見て言った。
「そうなんだけどね……」
二本の傘を手にしたまま、カコは何て答えていいのか分からなかった。
「あいつ、見えてなかったのか?」
「う、うん。あわてんぼう、だから……」
そう返しながらも、心の中では首を傾げていた。
カコ自身も、?だと思っているのだ。
「あわてんぼう……ねぇ~?」と一応は納得の言葉を言っているシゲボーも
ほんとかよ?と問いたげな表情だ。
「〝こうだ!〟〝こうする!〟って決めちゃうとそればっかりになっちゃって、回りがまったく見えなくなっちゃう事があるから――それに今も、自分の傘は絶対(傘立てに)あるって思っちゃってるからじゃない?」
「うん、まぁ。そういうとこは、あるかもな」
「それかわたしが一緒にして束ねて持ってたから、ほんとに〝見えなかった〟のかも……」
「気付かなかった……てか?」
シゲボーは疑わしげに片方の眉をつり上げ、ふ~んと鼻で息を出して笑った。
「しばらく黙って見てようぜ。(傘が)無いって判れば諦めて戻ってくるだろうしさ――」
「そうしようかな……」
傘〝持ってるよ〟って、ちゃんと分かるように見せてるのに、完全に無視しちゃってなんなの? ちょっとカチンと来ちゃったよ!
でも……
今は、とっても意地悪する気にはなれない〝はず〟なんだけど、ちょっとだけなら大丈夫だよね?と、耳元で囁いている別のカコがいる。
でももう一人のカコは、違う違う!早く帰らなきゃ、と大声で叫びながら手を大きく振っていた。
*
「オ~レの傘は、どこかしらん」とのんきな声を上げながら、ジンジはボックスを覗き込んでいた。
傘立てには、特に自分の場所があるわけではない。
ジンジはいつも、その時空いている場所に、傘を適当に投げ入れていた。
だから何処に入れたか? など覚えているはずはないのである。
多分この辺だったような気がする、と当たりを付けて残っている傘を眺めているが、カコが持っているので、見付けられるはずは無かった。
じゃあ、と言うことで端から順番に追ってみたが、また発見できなかった。
何故無いんだ? 目だけはキョロキョロと動かしながら、ランダムに傘を追いながら頭で考えてみる。
まてよ、そう言えばこないだ……
「置き傘ばっかりしてちゃ駄目だよ。ジンジばっかり何本も傘を入れてたら、他の人たちが入れられなくなっちゃうでしょ。ここはみんなで共有する場所なんだから」とカコから注意されて、それはそうだ、て反省したのを思い出した。
だからその日は、傘立てに一本だけ残して持って帰った記憶がある。
その日はえらい良い天気で、鞄・アディダスのバッグ・傘を何本か持ちながら……カコからは「ほら見たことか」って笑われたのを覚えている。
それでも、またあしたって別れるまで、アディダスのバッグを持ってくれてたんだった。
一本は残したはずなのになぁ? 部室か? うんにゃ、そんなわけ無い!
だいたい、部活が終わったらそのまま帰るから、降るかも?……て思っても絶対じゃなきゃあ荷物になるような傘なんて部室に持ってゆくはずは無いのである。
また最初から、ジンジは傘立ての傘を一本ずつ順番に抜き、また戻す作業を繰り返していった。
そのようすを、カコはシゲボーの横に立って見ていた。
どうしよう? これといった手立てを何ひとつ打つことができないまま、夢を見てから初めての雨が降りだしている。
事故の光景が浮かんできた。
カコは慌てて……
意識の中で頭を横に強く振りながら……今日じゃないよね、まだ先だよね、きっとそうだよね、もうちょっと待って! と強く願うように自分に言い聞かせていた。
*
「お~い、あったか?」
見付かりっこない傘を捜しているジンジの後ろ姿を見ているのも、何だかバカらしくなってきたと、シゲボーが声を掛けていた。
すると、その声が合図だったかのように、カコが前へ動いていた。
横に並んで、あったの?と訊くと、ジンジはうんにゃと首を振って即答した。
今も一本の傘を手にしているが、それはどう見ても女子の傘だった。
「わたしの貸したげるよ」
カコはジンジに、呟くように言った。
いいのか? と目はまだ傘を捜している。
「もう一本持ってるから」
ジンジの顔の前に、傘が差し出された。
「わりィ……」
ジンジは手にしていた傘を戻し、カコからの傘を手に取った。
当然カコの傘だったら女子用の傘だと思っていた。
あれ?っと受け取った傘を見るなり……て、これ、オレのじゃねぇ? ともう一度しっかり見直してみた。
確かにオレのだ。
何だよう~と顔を上げると、そういえばそうだね、とカコが悪びれることなく笑っていた。
なるほどね……
カコが先に見付けといてくれたんだ、それならそれでいい。
もう、傘について文句を言うつもりはない。
でもちょっと変だな。
何か変……?とジンジが目を瞬(しばた)かせていると
「雨が激しくなると嫌だから、早く帰ろうよ。みんな待ってるよ」とカコがせわしなく言った。
言うなり背を向けて、歩きだしていた。
「あ、うん、わかった」と返事をしたのが聞こえたのかどうか分からないまま……
ジンジは慌ててカコの後を追っていた。
39
帰宅する方向が違うシゲボーと別れた二人が体育館の横までゆくと、カコはナオとユウコとタカコを見付け、そのまま三人に向かって駆け出していた。
「ごめん。みんなもう集まってる?」
「ヒカリちゃんが来てないんだよ。なにしてんだか、もう」
ナオが早口で答えていた。
いつも一緒に帰宅するメンバーで欠けているのは、バレー部後輩のヒカリだけとなっていた。
ナオはイケピンの横に立って、新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下を、背伸びしながらじれったそうに見ている。
ヒカリはそこからやって来るはずなのだが、まだ姿を見せていない。
「(部活を)せっかく早く切り上げてるんだから時間あるし、そんなに急いで帰る必要もないんじゃねェの?」
イケピンがのんきな声で言うと、シンコ、ポンタ、そしてジンジも
「ゆっくり帰ろうぜ」と口を揃えた。
「彼女はさぁ、センカンとコンジョウの別れでも惜しんでるんだな、きっと……」
ジンジはコンジョウと言う言葉に力を入れながら、ボディビルダーが筋肉を誇示するポーズを取って気張った。
するとユウコが唇を突き出して抗議した。
「それ、根性と今生を引っかけてるの? ちっとも面白くない!」
少しはみんなに考える時間を与えてやってもいいようなものなのに、音速なみの反応だった。
ユウコの語気の強さに、横に立っていたシンコが、え? と驚いていた。
「気張った格好しても、誰にも伝わらないよ!」とユウコは続けた。
ジンジは、口を尖らせて反論した。
「根性も今生も、ひらがなにすれば同じじゃん。言葉は漢字じゃねぇし」
するとポンタが、一人だけ笑いを堪(こら)えるように震えながら、ひ~ッ、と腹を抱えている。
「ぜんぜん面白くない。ボツ!」
ナオが追い打ちを掛けた。
彼女の表情も硬い。
「そうかなぁ~、ギリギリで予選通過にしてやってもいいんじゃねぇ?」
イケピンがボソっと言うと、ナオは強(こわ)い顔で彼を見上げた。
おいおい、たかがダジャレに何をそんなに目くじら立てる必要があんだよ。
瞬間、ビビって後ずさりしそうになったイケピンだった。
*
なんか変だ……
ナオはともかく、普段のユウコなら(この程度で)地べたを転げ回るほど笑うはずなのに――
ナオかユウコのどちらか一方なら、イライラする日、なのかもしれないけど、二人一緒なんてのもあり得るんだろうか? まぁ確率的には低いと思うが……
シンコとイケピンも、なんか変? を微妙に感じているようだ。
まさかな?……と思いながら、ジンジはそお~と、カコに気配を向けてみた。
ん、何? とカコはジンジを見ていた。
何故気付く? そこまで瞬時に反応するか? とジンジはビビった。
「あ、いや。な、何も」と慌てて取り繕ろうしかなかった。
するとカコは、変なの、と言いながら前を向いてしまった。
傘置き場で感じたのと同じようにぎこちない。
……やっぱりどっか変だ。
昼間はいつものカコだった。
放課後になり、部活に出る前もいつものカコ?だったと思う!
しかも考えてみるに、昼休みが終わって午後の授業が始まるころのカコは、いつもどおりに明るかった。
その後に何かがあったんだ……多分。
何となく、言葉と表情が噛み合っていないような気がする。
笑顔と言うか、大基(おおもと)の元気が抜けているような感じがする。
穴でも空いてるんだろうか?
ちょっとおかしくねぇか?って訊いても
そんなことないよ……って返事が返ってくるに決まっている。
ナオとユウコも同じだろう。
三人とも、今は同じ雰囲気の臭いがする。
ああ、くそ、何なんだよ、わかんねェよ、ほんとに三人ともどうしちまったんだ?
頭がこんがらがって……どうしようも無くなって、ジンジは傘を外して空を見上げた。
*
空を見上げているジンジの顔が、雨粒を跳ね返している。
今度はほら、大口を開けて舌を出してる。
きっと雨を舐めようとしてるんだ。
男子ってば……なんであんな子供みたいなことするの?
それとも、そんなことするのはジンジだけなの?
あれだけ外で遊んでいるのに(部活もそうだけど)、ジンジは結構色白なんだよね。
そりゃあまぁ、少しは(焼けてる?)とは思うんだけど……
プールの授業のときだったかな? それともみんなで青島に行ったときだったかな? 黒くなりたいけど日に焼けない体質だって言ってたっけ? わたしとしては、ちょっと羨ましいんだけどさ――
あれ? 何で今そこんなこと考えてんの? そうじゃないでしょ。
カコは唇に力を込めて、雨、止め! お願いだから止んで……と願い、それ以外のことを頭の中から追い出そうとした。
念じながら、傘の柄を肩に置くようにして空を仰いだ。
空は雲で覆われていた。
制服に着替えて教室へ向かう途中の渡り廊下で見上げたときは、すごい勢いで街の方へ流れていたはずだった……
でも今は、学校の真上で完全に動きを止めている。
しかも、予想もしなかったほどの厚さで、上空は夜と言えるほどに暗かった。
それでも……辺りは思っていたよりも明るい。
雲が群れているのは学校の上空だけで、西に傾いた太陽が光をここまで届けてくれているからだった。
明と暗のコントラスト
不思議……
カコはブルっと身震いして、見上げていた目線をナオとユウコに落とした。
二人とも、戸惑いと不安の入り交じった表情をしていた。
*
ヒカリとセンカンを最初に見付けたのはタカコだった。
「来たよ」
ヒカリが、新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下から、センカンと一緒に小走りでやって来た。
「待ちくたびれちゃったじゃない」とタカコは文句を口にしているが、顔は笑っている。
「遅れてすんません」
ヒカリと一緒に頭を下げるセンカンだが、顔の筋肉はゆるゆるで、恐縮しているようにはぜんぜん見えない。
二人がお互いを意識するようになって、まだひと月もたっていないのだから無理もない。
ヒカリはタカコの横までやって来ると、ごめんなさい、とまた頭を下げた。
大丈夫だよ、とタカコ。
タカコとヒカリは妙に仲が良い。
みんなと帰るときは、いつも二人で並んで話しながら帰っている。
「そんじゃあ帰ろう」
イケピンが傘を突き上げると、シンコ、ポンタ、旭東通りに出たらそこで別れてしまうセンカンの四人は、プールを右に見ながら後田川沿いの道を通りに向かって歩き初めていた。
こうやって全員が揃うまでは、それぞれに(二人で)並んで待っているのに、いざ帰る段になると、男子と女子のグループに別れてしまうのである。
ジンジも、帰るべぇ~、と自分に言った。
三人が〝変〟なのは分かるが、そこにチョッカイを出していいものかどうかが分からなくなっていた。
多分、イケピンとシンコもそう思っているのだ。
だからとにかく今日は放っておくのが一番だと思い、さっさと歩き始めているのだ。
部活を早く切り上げたのだから、みんなとくっちゃべりながら、ダラダラと帰ればいいや、とせっかく考えていたのに、である。
そして、なんとなく勿体ないと思いながら……
まぁそんな日もあるんだろうけど――
*
その時、カコがジンジの背中に呼び掛けていた。
「待って」
ジンジは頭の中で、は、は、は、はい……と背筋を伸ばし、振り返っていた。
その顔は、なんで呼ぶの? なんか悪いことした……の顔になってた。
そこには、三つの傘が窮屈なほどにひと塊となっていた。
どうやらジンジを呼び止めようとしたのはカコだけじゃないようだ。
最後尾のヒカリが、横のタカコに小声で、どうしたんですかね、と訊ねていた。
タカコは、よく分からない、と首を横に振った。
でも、あんまり興味を示さない方がいいかも……とヒカリに耳打ちしていた。
タカコはタカコで、三人とジンジの間に何かある、と敏感に感じ取ったのだ。
男子の最後尾を歩いていたセンカンも振り返って立ち止まったが、イケピンとシンコから、構うな行くぞ、と無理矢理前を向かされてしまった。
なに? とジンジは短く訊いていた。
しかし三人からは何も返ってこない。
沈黙したままだった。
ジンジがもう一度声を掛けようとしたとき
「え、あ、うん……」と返事とは思えないカコから声が返ってきた。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
すると今度は……最初よりは短い時間で、え、あ、うん、と返ってきた。
ああもう、らちがあかねぇ、え、あ、うん……は返事じゃないだろう?
ほんとに、今日はどうしちまったんだよ?とジンジはカコの正面に立った。
「なに?」とこっちも同じ台詞を繰り返して訊いた。
カコは目を伏せている。
こっちを見ようともしないカコを、ジンジは膝を曲げて覗き込んだ。
するとやっと、カコは
「〝雨だから〟気をつけてね」とだけ言ってきた。
それだけ? それを言うためにだけオレを呼び止めたの? とジンジは顔を上げてナオとユウコを見た。
ジンジの目線に気付くと、二人は一緒にそっぽを向いてしまった。
ジンジは背を伸ばして一歩下がり
「ん、あ、ああ分かった気を付ける」と言うしかなかった。
でも、何を今更って感じで、気をつければいいんだと思う。
ほんとは何が言いたいんだよ?と三人を問い詰めてみたかった。
すると
「一緒に帰ろうよ」と言ってきたのはユウコだった。
なにそれ……と思いながら、ジンジは即答した。
「いつも一緒に帰ってるじゃん」
「今日は、並んで帰りたいんだって」
今度はナオだった。
「ならんで帰りたいわけ?」
ジンジは三人に向かって訊いた。
「そう、一緒に並んで帰りたいって、カコが言ってた」
今度はユウコだ。
そうなのか?と首を捻り、なんで?……とユウコを見る。
訊かないでよ、そんな時もあるんだからさ、と二人は言葉にしないが言っている。
ジンジは、もうこれ以上何かを言うのを、質問するのを止めた。
ジンジは……
「わかった、じゃあ、行こうぜ――」と三人に背を向ける。
するとカコが、すかさずジンジの横に並んだ。
ジンジはカコの歩調に合わせて歩き始めた。
その直ぐ後ろを、ナオとユウコが並んでついてきていた。
最後をタカコとヒカリが後を追った。
*
旭東通りに出たところで、男子たちが待っていてくれた。
男子たちは互いに話し込んでいて、三人を気に掛けているようすは無い。
イケピンもシンコも、互いの相手がちょっと変だとは感じてはいるが、それはそれで大したことは無いだろう、いつものありふれた下校だと考えているようだ。
道を打つ雨の音が……降り続く雨が、小さかった水たまりを大きくしている。
本降りの雨がそこまで迫ってきている。
三人が夢で見た時と同じような雨模様だ。
未来に〝起こるかもしれない〟ことが、そこまで迫ってきているのかもしれない。
カコ、ナオ、ユウコの三人は、そのことを強く感じていた。
40
イケピン、シンコ、ポンタ、少し距離をおいてカコとジンジ、その後ろをナオとユウコ、そして最後尾をタカコとヒカリの九人が歩いている。
先頭をゆく男子たちは、傘をさして道幅一杯に広がって、ゆっくりとのんびり歩いている。
水溜まりを避けながら右へ行ったり左へ寄ったりしながらの話し声に、ときおり笑いが混じっている。
部活が早く切り上げとなってしまって、体力を発散する場を失ってしまい、少しでも動いていないとどうしようもないのだ。
しかし……
そんな男子たちとは対照的に、距離を置いて歩く後続は、誰も口を開こうとしない。
カコとジンジ、その後ろのナオとユウコも無言で歩いている。
そして最後に、今日はどういう訳か、仲間に入れないタカコとヒカリが、前を窺(うかが)いながら寄り添って歩いている。
*
嗚呼(ああ)もう、とどうにも居たたまれなくなったヒカリが口を開いていた。
「今日の三人は、どっか変ですよね。どうかしちゃったんですかね。タカコ先輩は知ってます」
すると、タカコは肩をすくめながら
「変だとは思うんだけど、何が変なのかがわたしにも分からないんだよね……」
いつもなら、三人とタカコとヒカリの五人で、窮屈なくらいに固まってお喋りしながら帰るのに、今日に限ってなんでこんな隊列なの? とタカコは首を捻っていた。
「カコとジンジも、妙だと思わない?」
ほら、とタカコは顎を反らした。
「そうですよね。ジンジ先輩の、今日はぜんぜん駄目だな……みたいな雰囲気がダダ漏れしてこっちまで流れてきてますよね」とヒカリはタカコに相づちを打った。
ダダ漏れと言う言葉に、そうだよねその通りだよね、とタカコは笑った。
「それって、カコさんに対してですかね?」とヒカリ。
決まってるじゃない、と返すタカコに
そうですよね、やっぱり……とヒカリは頷いていた。
41
誰もいなくなってしまった夕暮れのグラウンドに、無数の雨が降っている。
こうやって見ている間にも、そこかしこに新しい水溜まりができてゆく。
やがて、そのひとつひとつがお互いに繋がり、大きな水溜まりへと形を変えてゆく。
雨が止んで晴れてくれれば、水(水溜まり)は何処かに行ってくれるかな?
そんなことを考えながら、カコはグラウンドの奥を見ていた。
南側(向こう)の、隅に寄せられているサッカーのゴールが、霞んでいる。
バックネットも、鉄棒も、バスケットゴールも……その全てが同じようにボヤけていた。
グラウンド全体が、息で曇らせたガラスを通して見ているかのように、白色の透明に見えていた。
そして気付いた。
不思議……なにこの感覚?
カコには、その雨粒のひとつひとつがはっきりと見えていた。
こんな感覚は初めてであった。
見えた? のでは無く、見える! と感じていた。
そして……周囲の〝音〟の全てが聞こえていた。
音が見えるのである。
どうして? と周りに目を向けた。
そこには、グラウンドを打つ雨音があった。
その中には、地面を打つ雨音があり、そして全ての、それぞれの物に当たる音があった。
今歩いている歩道のアスファルトを打つ雨音、アスファルトに出来た水溜まりを打つ音だってそうだ。
色んな音がある。
全てがそうだ。
目の前のアスファルトの水溜まりを打つ音は、グラウンドの水溜まりを叩く音とははっきりと違って見えた。
あっ、これも……
木や草の、葉を打つ雨音も聞こえる、見える。
それも、歩いているこちら側の木や草とグラウンドの周囲に植えられている木々の音とは、また違っている。
それに混じって、雫が葉っぱから落ちる音、風に揺らぐ木々の幹がきしむ音、草の葉が擦れる音――
前をゆく男子たちの話し声。
旭東通りを行き交う車の音。
わたしの足音。
ジンジの足音。
ナオとユウコの足音と、二人のヒソヒソ声。
タカコとヒカリの、囁き声と足音まで聞こえた。
聞こえだしたら切りが無い。
そんな無限の音が混ざり合う中で……それでいて雨は、全てを包み込んで、自己を〝強く〟主張している。
でも? 何故音が見えるの? どうして? と考えているカコ自身がいた。
それを意識して不意に……
自分が、あること、に感じるていることに気付いた。
なに? とカコは胸に手を当てていた。
え?
ムーンのリングが、熱を持っていた。
*
そんな不思議そうな顔をして歩いているカコに、何か面白いモノでもあるのか? とジンジは、同じようにグラウンドに目を向けていた。
すると……
なんだこれ? とジンジは目を凝らしながら、手の甲で鼻を擦っていた。
ジンジが感じたのは、音ではなく〝匂い〟だった。
しかし、でも……と思う。
雨ってこんな匂いだったけ? と疑問が沸いてきたのだ。
視線がその先へと動いた。
向こうの、南側のサッカーゴールが霞(かす)んでいた。
バックネット、鉄棒、バスケットゴール、その全てが雨で霞んでいる。
そしてその匂い……
雨には、雨独特の匂いがある。
しかしこれが、今のこの匂いが、雨が降った時の匂いだった(け)か? とジンジは思ったのだ。
雨は、全てを包み込む。
その雨が包み込んだ、心が落ち着く〝匂い〟が、ジンジは好きなのだ。
学校に向かって歩きながら眺める雨――
朝、自習が始まる前に眺める雨――
授業を聞きながら、先生に気付かれないように、みんなにも黙って窓から眺める雨――
教室を移動しながら渡り廊下で眺める雨――
突然に降り出した雨――
グラウンドに出れなくて、仕方なく教室でシゲボーと弁当を食べるながら眺める雨――
夜、自分の部屋に寝っ転がって、窓から眺める雨――
色んなときに、いろんな場所で雨を眺める。
そのときどきに感じる雨の匂いなんだ、と今回も最初は思っていた。
でも……
今日の雨は、少し違うような気がする。
雨の匂いなのは確かなんだけれど、いつも思っているような、感じているような雨の匂いじゃない。
じゃあその違いは何(なん)なんだ? この雨は何なんだ? とジンジは首を傾げていた。
42
傘を持つ手に震えが伝わってきて、なに? と顔を上げると、横から覗き込んでいるカコの顔があった。
「何度も首を捻ってたよ」
カコは傘の親骨の先で、ジンジの傘の生地を突ついたのだ。
そうだったのか? とジンジは、考えごとしてたんだ、と曖昧に答えていた。
考えごとをしていたなんて、自分では全くそう思っていなかった。
すると
なにを考えてたの? と訊かれた。
ジンジは間を置いて、分からない、と今度は意識して頭を横に振った。
そして今度は、なにが? と訊かれた。
どうやれば上手く伝えられるかなぁ、と思いながら、ジンジは傘を肩に担ぐようにして空を見上げた。
雨は学校を出たときと変わりなく、ゆっくりと降り続いている。
ジンジは、このさぁ、と一旦間を置いて
「この雨の匂いなんだ」と言った。
「雨の……匂い?」
「いつもの雨の匂いとは違うような気がするんだ」
「雨に匂いがあるの?」
カコはそう訊きながら、ムーンのリングに意識を向けていた。
ジンジが首に掛けているユベールのリングが影響を与えているのかしら? と考えていると
ジンジは強く、ある、言った。
そんなにムキにならなくてもいいのに、と思いながら
「じゃあ、晴れの日とか、曇りの日とかもあるの?」
するとジンジは、ある! とまた言い切っていた。
カコは続けて、季節が変わるときの匂いとかも? と訊いたあとに
季節ならわたしもそうだ、匂い(音)を感じる、と思いだしていた。
ジンジは、ある! を繰り返した。
「じゃあ分からないって言うのはなに? 雨は雨の匂いなんだけど、いつもの雨の匂いと違うってことななの?」
確かに、季節の音はある、と思う。
突然に、肌に感じる感覚が「あ、変わった」と知ることがあるからだ。
多分それが季節が変わったときの音なのだろう、とカコは自分の中で納得していた。
それは確信に近いものだ。
「どこが違うの?」とカコは訊いた。
「それが分かれば苦労しないさ」とジンジ。
だったら今見えている雨の音は、前にわたしが見たことのある音なのかしら?
カコは言い方を変えた。
「それもそうね。じゃあ、もしかしたら(今の匂いは)前に嗅いだことがある匂いだから、違っていると感じたとか?」
ジンジの目が丸くなっていた。
当たってたらしい。
「そっか、そう言うことだ! 前に嗅いだことがあるんだ。だから変だと思ったんだ」
ジンジは、ナイス、と親指を立てた。
「じゃあ、その前っていつだ?」
わたしが知ってるわけないでしょ、と肩をぶつけてやろうとしたが、傘が邪魔だった。
「そうだよな、カコが知ってるわけないよな」
すると今度は、ため息と一緒に言葉を繰り出した。
「その前がいつだったか?」
雨の匂いなんだから
「雨の時だったのは間違いないんだけど……」
ジンジは大量の匂いを身体に溜め込むべく、深呼吸を繰り返した。
変な思い出し方をするんだネ、とカコも目と耳をすましていた。
すると、カコには更にも増して雨の音が見えた。
言われて意識してみると、やっぱりいつも感じているのとは違うような気がする。
不思議……と思いながら、ジンジが言っている〝匂い〟とはそう言うことなんだと理解した。
街の匂い(臭い)、グラウンドの臭い、渡り廊下の臭い、学校の校舎の臭い、教室の臭い、机の臭い……
臭いはそれ自体が持っているもので、それ自体が放ち、包み込む雰囲気の臭いであり〝見える音〟なんだと思いながら、無意識のまま、カコは足下に目を向けていた。
歩道は、そこかしこに小さな川を作っていて、それがあっちとくっ付き、こっちとくっ付きしながら、少しずつ大きくなってゆく。
大きくなった流れの音が、今にもゴーゴーと聞こえるようだった。
「このまま雨が降り続いたら、(後田川が)氾濫しちゃうかも……」と独り言のように言葉が出ていた。
「だな。今回は溢れる前に帰れてよかったよな」とジンジも、独り言のように返していた。
それを聞いて、カコはジンジに問いかけていた。
「ほんとにそう思ってるの?」
するとジンジは、思ってないのが分かっちゃったか? と笑った。
カコは、分かるよ、と返事をした。
ジンジはへへッと返した。
「そうだよなぁ。大雨になってくると、それが楽しみなんだよなぁ」
雨で川が氾濫しそうになると、先生たちは職員室に集まって会議を始める。
その間、当然授業は自習に切り替わる。
しかし生徒たちは、特に男子は自習どころではなくなるのである。
「でも匂いがなぁ」
後田川が氾濫して溢れた水が、グラウンドより低い土地の校舎の方に流れてしまうと、下水道の汚水と混ざり合って悪臭を放つのである。
「この前は確か……」
「おばさんのときだったよ」とカコがポツリと言った。
「そうか、あん時か――」
ジンジはさっきと同じように心持ち顔を上げて喉を開くと、また大きく息を吸った。
すると「!」と気付くことがあり、カコの正面に向き直っていた。
「そうか。あん時の匂いに似てんだ」
「あの時って、川が氾濫しそうになったときのこと?」
うん、とジンジ。
「でも今日も、氾濫してないよ」
結局、おばさんの悪戯の前回も、後田川は氾濫しなかったのである。
「そうじゃ無いよ。あの時、みんなが消えてしまったときの、雨と霧の中にいたときの匂いに似てるんだ」
「おばさんが降らせた雨と霧の匂いが似てる……って言うことなの?」
そう、とジンジ。
カコは小鼻を膨らませ、意識して音を吸ってみた。
でも……
「分んない。あのときわたしはパニクッてたから良く覚えてないよ」
カコは首を傾げた。
「あんときはオレもそうだったけど、でも分かるんだ。確かにあんときの匂いに似てる」
じゃあ、とカコは、気持ちの中で胸に手を置いて、ムーンのリングを意識した。
すると……
確かに、普通の雨の匂い(実際はカコにとって音なのだが)とは、ほんの少しだが、どこか違うような気がしないでもない。
それが多分、あのときの匂いなのだろう。
カコは「そう言えば……そうかもネ」と呟いたが、まだ半信半疑でもある。
「はっきりとは分らないけど、いつもの〝音〟とは違うような気がしないでもない……」
カコが音を感じるようすを黙って見ていたジンジは、ウンウンと二度も頭を縦に振った。
「そうか。ならやっぱそうなんだ。違うんだ」
「でもネ。違いは分かっても、いつもの雨の匂いは何(なん)なの?って訊かれたら、何て言えばいいのか分からないよ」
「そうなんだ。でも普通じゃないんだ。オレにも、そこの違いははっきりと言えないんだけど、でもこの匂いは確かにあのときの匂いに近いと思うんだ」
「似ているって言うのね――」
「そう、似てる。似てるけど……でもそれとは違うと思う」
ジンジは、何が違うんだ? と頭を、今度は横に振った。
「ちょっとしたことでもいいから、なんでも思うことを言葉にしてみてくれよ」とジンジはカコにお願いした。
「しいて言えば、あん時より少し臭(くさ)い匂いが混じってる……て言えばいいのかなぁ?」
「臭い匂い」とカコは、首を傾げながら自分に念を押した。
「そうなんだよ。氾濫してないんだけど臭いんだ。氾濫。ドブの匂い。臭い。何て言えばいいのかなぁ~。匂いだろ、悪い匂い。汚れた空気。悪い空気。ああ~言葉が出てこねぇ」
ジンジは、傘を放り出して頭を掻きむしりたい衝動に駆られていた。
よっぽどそこの所が気になるんだね、とカコは再度、水の臭いの音に意識を集中した。
すると、ある言葉が浮かび上がってきた。
「ねぇ、その悪い空気って〝瘴気〟って言うんじゃない」
掻きむしり衝動が爆発する寸前で、ジンジはギョっと顔を上げた。
「今、なんつった」
「悪い空気は瘴気」
カコはゆっくりと言った。
「そうかそれだ! 瘴気だ!」
カコには、ジンジの頭からビックリマークが飛び出してきたのかと思った。
「え? でも何でそんな言葉が出てくんだよ」
カコは、フンと鼻を鳴らした。
「わたしも色々と勉強してるんだよ」
ジンジが答えを見付けられたことが嬉しかった。
「おばさんやムーンやユベールと、お知り合いなんだよ。自分も勉強しとかなきゃあと思ってね……」
図書館か? の問いに、カコは笑って頷いた。
なるほどそりゃそうだ、とジンジも頷きながら
「あんときと違って、今日のヤツ(匂い)には瘴気が混じってるんだ。ほら、もっかい(もう一回)意識しながら嗅いでみろよ」とカコをせき立てた。
カコは深呼吸をした。
すると、何か混じっている……と意識して初めて、そこに微かな異物を捕らえる音として見付けることができた。
それが瘴気なのだろう。
しかもそれは、グラウンドだけでは無かった。
雨が降っているこのあたり一帯、町全体が瘴気に包まれているのが分かった。
「じゃあ、誰がこんなことを?」とカコはジンジに訊いていた。
返ってくる答えはとうに分かっていた。
「決まってるさ、きっとあの男だ」
やっぱりそうだよね、とカコはジンジを見た。
「瘴気の雨を振らせてるんだ。今日は何かある、かもな?」
今日と聞いて、カコはギョっとなった。
これだけ大がかりに、瘴気の雨を振らせているのだ、当然と言えば当然だ。
「気を付けなきゃあ、な?!」
視線を受けて、ジンジもカコを見返していた。
音が見えたとき、いつもの雨音とは……何となく? と感じたのは正解であって、瘴気のせいだったのだと――
そしてふいに〈夢は現実になる。未来は観たとおりのことが起こる〉と登校中に男にすれ違いざまに言われた言葉が蘇ってきた。
あのとき突然降り始めた雨も、きっと同じ匂いだったのだと――
カコはジンジに、全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。
でもそれをしてしまうと、カコたちが観た未来と、また違った結末に流れてしまうかもしれない。
そうなると、三人が知らない未来が起こるかもしれない。
それが怖い……
そのとき、後ろから声がした。
43
最初は誰が、何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ見て!」
しかし、次の声ははっきりと聞こえたし、誰が言ったかも分かった。
先頭の三人の男子が足を止め、振り返った。
カコとジンジも振り返っていた。
振り返った先で、興奮したナオが、傘を持つ手を揺らしながら旭東通りを差していた。
最後尾のタカコとヒカリが、何事か? とその先に目をやった。
あっ、と次に声をあげたのはカコだった。
「あ、あれ」とユウコは大声をあげていた。
「なんなの、どうしたの?」
タカコが声をあげる。
何だ? どうしたんだ? と男子たちが慌てて引き返してきた。
ナオは、タカコやイケピンたちの呼びかけを無視したまま、車道に目を向けたまま動かない。
そして……
みんなが目を向けたその先の旭東通りには、一ツ葉の方に向かっている1台の白い車があった。
*
全員が注視する白い車は、ドアの横に、緑色でデカデカと文字が書いてあるだけの、どこででも見かける営業用の軽自動車だった。
車はノロノロと、一ッ葉の方へ向かって流れてゆく。
何故ならその前を、廃車寸前の軽トラックがゆっくりと走っているからだ。
営業車は、前のボロ車を追い越すことが叶わず、しかたなく後に続いていたのだ。
「○○商事株式会社」
カコが叫ぶ。
「ニィ、キュウ、の、ハチ……」
ユウコが電話番号を読み上げようとする。
車はゆっくりと移動しているが、雨に邪魔され、反対側となるこちら側の歩道からは確認が難しかった。
やがて車は、昭和町交差点を超えて行ってしまった。
「住所も良く見えなかった」
ナオが肩を落として、残念そうに呟いていた。
「でも、絶対あれだったよね」
自分で確信の頷きをしながら、ユウコは興奮していた。
「間違いないよ」とナオ。
二人の興奮して話ようすに
「何なの? あの車がどうかしたの」とタカコ。
イケピンとシンコ、そしてポンタまでも二人を取り囲んでいた。
二人は互いに顔を見合わせて、しまった、という表情になっていた。
「ううん、なんでもない。ごめん。何でもなかった」
ユウコは、首を横に振りながらタカコに返事をして、男子たちにも笑ってみせた。
「見間違いだったの。三人が知ってる人の車かと思ったんだ」
ナオはわざとらしく、肩をすくめていた。
「ほんとかよ? それにしちゃあスゲぇ大声だったぞ」とシンコ。
「会社の名前も叫んでたじゃんかよ」とイケピンが詰め寄ると
「ほんとに何でも無いんだってば……」
ナオは、最後の言葉の〈ば〉を強調してイケピンを見上げた。
イケピンは、ナオの言葉と目に押され、そのあとは無言で顎を引いていた。
ナオの、それ以上は質問しないで……を理解したのである。
「そ、そうなの。知り合いのおじさんの車が時々この道を通るって、ちょうど今、三人で話してたばっかりだったの。そしたら偶然にも、その車が現れちゃったもんだから驚いちゃって」と今度言ったのはカコだった。
まるで、結果ありきの理由を後付けしているようだ。
そうそう、とナオとユウコが傘を揺らした。
そんな、下手なお芝居のような笑い? を受けながら、うンにゃ、こいつら絶対何か隠してる!……とイケピンとシンコには確信に近いものがあった。
体育館の横に集合して来たときの、微妙な不機嫌さ?、とは違う表情を三人がしているからだ。
どうしてかは分からないが、今の笑いは、もういいのかな? 機嫌は治ったのかな? と思えなくはない。
だったらもっと、詳しく訊いてみてもいいのではないか? と二人は思うのだが、考えるだけで行動には起こさない。
女心と秋の空で、いつまた(別の方向に)機嫌が悪くなるか分からないからだ。
もしそうなったら堪ったもんじゃない。
それは二人にも、よ~く分かっている。
しかもこの雨だし……と、結局二人は沈黙することに決めてしまった。
と……そこに、痺れを切らしたポンタが口を開いていた。
「ねぇ、もう帰ろうよう」
ただ突っ立っていてみんなを眺めることしか出来ないポンタは、何もすることがないのである。
反対にタカコとヒカリは、もっと訊きたい、ほんとのことを教えて、と三人の女子たちに不満そうな顔を向けている。
それを無視してか、それとも気付かなかったのか
「そだな。帰ろう」とシンコが真っ先に、身体の向きを交差点の方に変えていた。
やっぱり無視なのだろう。
声に促されて、イケピンも踵を返し、やがてゆっくりと歩き初めていた。
ポンタは二人を追いながら、イケピンはナオに、シンコはユウコに、多分明日にでも今のことを訊くんだろうなぁと思った。
じゃあオレは誰に訊けばいいんだ?
しばらく思案したのち、後で二人に訊けばいいか、と気持ちを切り替えていた。
俺も彼女欲しいよぅ~、とポンタは、強く願っていた。
逆に、諦めきれないタカコとヒカリは、いつの間にかジンジの傍まで来ていた。
タカコが、何か知ってるの? と訊いた。
しかしジンジは、全然、と首を横に振るだけだった。
何? とポンタが振り返る。
ジンジも分からなんだって、とタカコはポンタに返していた。
そしてタカコとヒカリは、先頭の男子たちに合流した。
*
タカコには分からないと言ったが、ジンジは……
おい、ちょっと待ってくれよ、ナオとユウコは何を言ってんだよ。
カコは何を言ってんだよ。
知り合いの車の話をしてたって? 何の話だよ。
オレは今までカコと二人で、この雨の臭い、瘴気の話をしてたんだぞ。
そしたら突然、ナオが車を見付けたって叫んだんじゃないかよ。
今日、今まさに何かが起こりそうなんだぞ……
ジンジは後方の三人に振り返った。
女子たちは、お互いの傘が重なり合っているのも構わずに、窮屈に固まっている。
ちぇ、何だよ。
問いただそうと割り込む余地なんて、何処にも無い。
どうすんだよ……
ジンジは前を歩く三人の男子とタカコとヒカリ、後ろの三人の女子の間に挟まれるかたちで、一人で昭和町交差点に目を向けていた。
44
「行っちゃったね」とナオが言う。
そだね、とユウコはナオに返し、カコを伺っていた。
カコは、何も言わずに、ジンジと同じように昭和町交差点の方に顔を向けていた。
するとナオは、カコの視界に割って入っていた。
カコが、なに? と目線を戻すと
「何か引っかかってるんでしょう」と訊いていたのはユウコだった。
カコは、戸惑いながら、交互に何度も二人を見た。
その顔は、今の事に、どこか納得がいかない思いを隠しているようだった。
それに二人は気付いたのだ。
ユウコが、言いなさいよ、とカコを押した。
ナオも、さぁ言って、とカコを促した。
するとカコは、半分無理矢理に笑みを作り、口を開いていた。
「たしか……あのとき、夢の中の車は一ツ葉の方から走ってきたんだよね」
逆にトラックは一ッ葉に向かって走っていて、交差点の中で営業車とすれ違った。
トラックが跳ね上げた雨水は営業車の視界を奪い、運転を謝ってジンジを撥ねたのである。
え?……とユウコは額にシワを寄せていた。
「そうか、確かにそうだった」
「今の車は逆から来たよね」と言うナオに
カコは、うん、と言った。
「だとしても、車はもう行っちゃったんだから、今日は事故は起こらない……てことになるんじゃないの?」とユウコが返すと
「トラックも見てないし、夢のとおりなら、そうなるよね」とナオ。
二人はジンジの姿を探した。
ジンジは三人に背を向けて、少し先で立ち止まっていた。
ボンヤリとした後ろ姿だった。
「そうだよ! きっと」
今日は事故は起こらないんだ、とユウコは、そうだよきっと、を繰り返した。
「そう言うことに、なっちゃうのかなぁ~。でもなっちゃうんだね」とナオも半分頷いていた。
疑問が残っているカコも、二人の言っていることは理解できるし、夢の通りに事が起こるなら、理屈ではそうなる、今日ではない……
しかしそれでも、どうにも分からないという表情を、カコは二人に残したままだった。
「でも何かが引っかかってるんでしょう?」と言ったのはナオだった。
ユウコがナオを見る。
カコがナオを見る。
「納得できない事があるなら、どんなちっちゃなことでも言っとかないと、後で後悔するかもしれないよ」
ただなんとなくそう思ったんだ……とナオはカコに微笑んでいた。
「そうなんだよね、カコが思うんだから、その疑問はとっても大事だと思うよ」
ユウコもナオと同じことを考えていたようだ。
カコは、ようよう口を開いた。
「さっきジンジと話をしてたんだけど、この雨って、あの男が降らせているんじゃないかって……思ったの」
あの男が? どうして? と二人は表情で訊き返していた。
「前に、おばさんの悪戯で、二人が霧の中でが消えちゃったことがあったでしょう」
「あの時は……おばさんが学校の回りに〝結界〟を張って雨を降らしたんだよね」とナオ。
結界の雨の中で、みんなはおばさんの悪戯に付き合わされることになった出来事だ。
「あの時に降ってた雨の感じに似てる……ってジンジが言ってた」
カコあえて、匂いや瘴気という言葉は使わなかった。
「カコもそう思うの?」と訊くユウコに
「似てると思う。そう思ったら、わたしが始めて男に会ったときに振っていた雨もそうじゃなかったのかな?って」と答えていた。
「あの時もだったの?」
「多分、だったと思う」
カコはまた、ジンジの方に目を向けた。
ジンジは男子たちとタカコとヒカリから、少しだけ距離と取って立っている。
「だったらやばいじゃん。あの男が結界を張ってるんだったら、こんなもんじゃ終わんないよね。この後もぜったい何か仕掛けてくるよネ」
ユウコが声をあげた。
その声に、またみんながこっちを見た。
それでも見ているだけで、なに? と寄ってくることは無かった。
ユウコは、二っと歯を見せて、シンコに笑いかけていた。
シンコは、苦笑いを半分だけ送ってきた。
その苦笑いで、まだなのかよぉ? と催促しているのが分かる。
ユウコは、もう少し、と親指と人差し指で5ミリほどの隙間を作って見せていた。
するとシンコは、そっか……と大袈裟に肩を落として見せた。
それから、周りのみんなに何か言った。
もう少し待ってやろうぜ、と言っているのだろう。
不思議なことに、誰も先に帰ろうとしないのである。
*
「おばさんの時の結界も、あれだけの準備をして作ったんだから、あの男だってそれなりの準備をしてるわけでしょう? だったらそんなに何回も、こんな大掛かりな結界が張れるわけないよね。今日はこれで終わりってわけは無いよね」とナオ。
車を見付けられたのも、偶然ではないのかもしれない、仕組まれているのかもしれない。
そうだよね、よく考えてみればそうだよね、とユウコは、シンコを真似しながら肩を落とした。
そして空を見上げた。
カコとナオも傘を担ぐようにして顔を上げた。
「だったら準備も何も出来てないじゃん。せっかく車を見付けたと思ったのに、調べようもないし、どうしたらいいの?」
ユウコは、 いっそ男子たちに全部打ち明けて協力してもらおうか? それとも今から帰る道を変えてみよっか? とも言い出していた。
「男子に手伝って貰うって言っても、何て説明すればいいの? 乙音ちゃんや音也くんの秘密まで説明しなくちゃならなくなっちゃうかもしれないよ。それから今日は、これから道を変えたとしても、今度はそこでは何が起きるか分からないんだよ。わたし達が持ってる、たったひとつの〝切り札〟は、無限にある未来の〝そのひとつ〟を知っているってことだけってことなんじゃないの?!」
ナオが一気にまくし立てていた。
ユウコは唸りながら
「やっぱそうだよネ。唯一〝知ってる未来〟を利用しない手は無いよね」
今言ったことは忘れて、とうなだれた。
するとカコが言った。
「ナオの言う通り、ひとつの事故を知ってるってことは、これが逆にチャンスになるんじゃないかって思うんだ」
「そう、今は何もしないのが、ベストになるってことだよね」とナオ。
「うん……だからそれを〝崩さないように〟しないといけないんだと思うの。そして、仮に何かが起こったとしても、外に広がる〝波紋〟を最小限に抑えながら、わたし達だけでジンジを助ける方法を考えるしか無いと思うよ」とカコ。
「そう言うことになるんだよね。やっぱり……でも何とかするって、どうしたらいいのよ?」
ユウコは、また空を睨み上げた。
男が、意図的に降らせている雨は、いつ止むとも知れず、ゆるくゆっくりと降り続いている。
そう思うだけで、出口の無い迷路に迷い込んでいるような気分だった。
45
「ちっくしょう」
男は運転していた営業用軽自動車の中で独り言を呟くと、ワイパーのスイッチを強に変えた。
「早く帰って、報告書を書かないと」
昨日までにやっつけなければならない報告書をまだ提出していない。
いくら何でも、上司は明日まで待ってはくれないだろう。
早く会社に戻って、上司が帰宅する前に提出しなければならない。
上司は、定時になると後は任せたと部下に言ってすぐに帰ってしまうからだ。
男は左腕の時計に目を走らせた。
「書く時間が無くなっちまう」
焦った男はアクセルを強く踏み込んでいた。
降りしきる雨の中、車のタイヤは水飛沫を派手に跳ね上げながら旭東通りを橘通り一丁目にある会社へと向かっていた。
しかし男は、一度はアクセルに力を加えたものの、慌ててスピードを緩めていた。
そして「危ない、あぶない」と独りごちながら、車内に掛けてある絵に触れていた。
子供が描いた絵である。
男が営業車を使う時には必ず、娘が描いてくれた絵を、紐つき透明ケースに入れてラジオのスイッチに掛けているのだった。
何故なら、そこが一番目に止まる場所だからだ。
絵の中の娘の笑った顔が見える。
画用紙にクレヨンで描かれた絵は、黄色い太陽の下で、母と娘と自分が仲良く手を繋いで笑っている絵だった。
それを畳んで、娘の顔が見えるようにして、プラスティックのケースに入れ、紐を通してぶら下げるようにしているのだ。
目の前の、昭和町交差点の信号が赤になった。
車はゆっくりと止まった。
*
「もう、そろそろ行くぞ」とイケピンが声を上げた。
何度目かの信号を待っていた男子たちは痺れを切らしていた。
「信号、変わったよ」とシンコがみんなに見えるように傘を持ち上げた。
すると、ナオが突然足を止め、ユウコの腕を摑んでいた。
どうしたの? とユウコはナオを見る。
ナオの目は大きく開かれ、交差点の先を見ていた。
交差点の先で信号待ちをしている車に、カコも気付いていた。
三人はその車のドア横に、緑色で文字が書かれているのを見た。
さっき走って行った営業車と同じ会社の車で、今度の営業車は、一ツ葉の方からやって来ていた。
まさか……と三人は振り返った。
背後から、大型のトラックがそこまで迫ってきていた。
46
「待って」
「待ってみんな」
「渡っちゃ駄目!」
三人が同時に声をあげていた。
今まさに、横断歩道を渡ろうとしていた男子たちとタカコとヒカリ、そしてジンジが足を止めて振り返っていた。
「何なんだよう~」と誰かの気のない返事が返ってきた。
それでも、三人は交差点を指差しながら、もの凄い勢いでみんなの所まで駆け寄ってくると
「見て」と声を上げていた。
そして今まさに、交差点の中では、大型トラックと営業車が擦れ違っている瞬間だった。
全員が見ている目の前で、トラックのタイアがアスファルトに溜まっている水を跳ね上げていた。
飛沫はモロに、営業車に被っていた。
直後にブレーキ音が響いた。
視界を失った営業車のドライバーが慌ててブレーキを踏んだからだ。
営業車は、ドライバーのパニックブレーキによりタイアがロックされ制御不能となっていた。
車は路面の水溜まりの上で横滑りし、みんなが渡ろうとしていた横断歩道に突っ込んでいた。
そこでガックンと揺れると、エンジンが停止した。
その光景を目の当たりにし、みんなは言葉を失った。
もし三人の声が止めてくれなかったら、誰かが確実に撥ね飛ばされていたところである。
誰かどころではない、数人が巻き込まれていたかもしれなかった。
運転席のドアが開き、男が慌てて飛び出してきた。
男は、横断歩道の手前で立ち尽くしているみんなに向かって
「大丈夫だったか?」と怒鳴るような声を上げていた。
一瞬で我に返ったみんなは、大丈夫です、と口々に返事をしていた。
運転手は、みんなのところまでやって来ると、一人ひとりの顔を見て
悪かったな、と頭を下げた。
その後に、とうに走り去ってしまったトラックに向かって罵声を浴びせていた。
そしてそこに、はす向かいの交番から二人の制服警察官が走ってきた。
年配の方が運転手に声をかける。
もう一人は、交差点の真ん中で交通整理を始めていた。
年配の警察官は、まずは中学生たちの無事を確認し、それから運転手に向かって二言三言の質問をした。
警察官たちも、今のを目撃していたのだ。
営業車の運転手に非が無いことは分かっていた。
多分、これからも運転には充分注意するようにと、でも言ったのだろう……運転手は、警察官に何度も頭を下げたあとに、車に乗り込んだ。
それから、若い警察官に誘導されながら、車をゆっくりと発進させ、西の橘通りへと走り去って行った。
47
「危なかったぁ~」
ぁ~、とポンタの吐息が、他のみんなにも聞こえた。
「危っぶねぇ」「びびったぁ」
イケピンとシンコのそれぞれが、自分の驚きレベルを誇示しながら、行ってしまった営業車の後ろ姿を追っていた。
「どうなるかと思った」
タカコはヒカリの手を握り締めていた。
ヒカリに、先輩痛いです、と言われて初めて慌てて手を離していた。
「ほんとに危なかったね」
立ちすくむユウコは、声を震わせていた。
それでも、表情は明るい。
「これで終わった……ってことでいいんだよね?」
そのユウコの言葉に、カコは戸惑った。
え?
するとナオも
「そうだよね、これで事故を回避できたって考えてもいいんだよね?」とユウコに倣(なら)っていた。
ナオもそう思うの? とカコは、二人に何と返せばいいのか分からなくなっていた。
二人は、その怪訝そうな顔に気付き、どうしたの? と訊いてきた。
カコは浮かない顔をしながらやっと
「なにかが違っているような気がしてるんだけど……」と自信なげに呟いたのである。
*
最初に発見した営業車は、夢とは逆の方から来ていた。
だから、まだ何かあるに違いないと思った三人は「唯一〝知ってる未来〟を利用しない手は無い」と気を緩めることはなかった。
しかし、今回の二度目は、東の一ツ葉の方から車が来て、反対側からのトラックが交差点の中で擦れ違い――
まさに夢の通りのことが現実となったのだった。
三人が知る、唯一の未来だった。
そして三人の行動のおかげで、みんなが事故に巻き込まれずに済んだ。
これの何処に、疑問視する要素があるのだろう……と二人は首を捻った。
みんなが助かったのは確かなのである。
そのみんなの中に、ジンジも含まれているのだ。
「なにが、違うの?」とナオが訊くと
カコは少し考え……
「あまりにもあっけない、と思って」と答えていた。
自分でも、なにが違うのかがはっきりと説明出来ないのである。
でも、それでも……の気持ちが、何処かにあるのだ。
「あっけないって、今のが?」
今度はユウコが、訊き返していた。
カコは頷いた。
「でも今のは、夢の通りにことが起きそうになって、わたし達がみんなに声をかけたから事故を回避できたんだよ――」とユウコ。
どうしてそこまで、ユウコはそうはっきり言えるの? と思いながら、そして自分の疑問を上手く伝えられないもどかしさに
「それはそうなんだけど……」とカコは、歯切れの悪い返事をかえすだけになってしまっていた。
するとまた、ユウコがすぐに言い返してきた。
「そうなんだけど……じゃなくて、それって、事故が起こるかもしれないからって、三人で注意してたからなんじゃないの? だから車とトラックに気付けたんじゃないの?」と声をあげていた。
怒っているように聞こえる。
慌てたナオが、落ち着きなよ、とユウコをなだめようとした。
しかしユウコは、聞く耳を持たずに
「どうなの?」とカコに詰め寄っていた。
カコは、いつもの〝ユウコらしさ〟ではないのを感じながら
「それはそうなんだけど……」と二度目も言い淀みながら、助け船を求めるように、ジンジの姿を追っていた。
ジンジはタカコとヒカリと男子たちと、カコたち三人の間に一人で立っていた。
傘の柄を肩に乗せて、交差点の方向に目をやっている。
そう言えば、さっきの騒動の時も、そしてその後も、ジンジは何をしていたの?
いつものジンジなら、男子たちと一緒になって、今のことで騒いでいてもおかしく無いのに……
事故を免(まぬが)れる?ことができてから、カコはジンジの声をまったく聞いていないことに気付いた。
ジンジはほんとうにそこに居るの? と思いながら
「ねえ、ジンジ」とカコはその背中に呼びかけていた。
ジンジからの反応は無かった。
聞こえなかったのかしら?
カコは二人に、ちょっと待ってて、と声をかけた。
「早くしてよね」とつっけんどんな、今度も普段のユウコからは絶対聞けない言葉が返ってきていた。
目を丸くして、ナオもユウコを眺めていた。
カコは、ごめん、と謝りながらジンジの傍らに寄って行き、もう一度呼んだ。
しかし、意識がそこに無いかのように、ジンジは動かない。
こんなに近くで声をかけているのに……とカコは手を伸ばした。
すると逆に、ジンジの方からカコの手を取っていた。
瞬間……
カコは、全身に衝撃と感覚を覚えていた。
*
反射的に離れようとしたが、ジンジの手はカコをは離さなかった。
カコの意識の中に、周囲の〝音〟が(どっと)流れ込んできた。
それこそ全ての音だった。
グラウンドを打つ雨の音、サッカーゴールや、バックネットや鉄棒など、今立っている足下のアスファルトを打つ雨の音、その雨が作った水溜まりが流れる音、そしてそれを打つ雨の音――
木々の葉を打つ音や、雫が葉から葉へ落ちる音、地面に落ちる音、風に揺らぐ木々の幹がきしむ音や葉が擦れる音。
交差点で待ってくれている男子たちとタカコとヒカリの話し声。
交差点に向かって、並んで歩いているナオとユウコの話し声。
旭東通りを行き交う車の音。
それこそ雨粒のひとつひとつがはっきりと見え、周囲の〝音〟の全てが見えた。
*
「危なかったぁ~」
ぁ~と息を吐くポンタの吐息がみんなに聞こえた。
「危っぶねぇ」「びびったぁ」
それぞれが自分の驚き具合を口にしながら、イケピンとシンコは、行ってしまった営業車の後ろ姿を追っていた。
「どうなるかと思った」
タカコとヒカリは、抱き合うほどに驚いていた。
そして
「ほんとに危なかったね」の声に……カコは我に返っていた。
ユウコが笑って、二人の方にやって来た。
「これで〝終わった〟ってことだよね」
なに、どうして?
「ほんとによかったぁ」
ナオも安堵の表情を見せている。
すると男子たちから声が上がった。
「何が良かったんだよ?」
「こっちは危なかったンだぞ」
イケピンとシンコから、笑いの文句が飛んできた。
「だからぁ、みんなが事故に巻き込まれなくて良かったってことなんだよ」とナオが、男勝りの言い回しで返事をしていた。
イケピンは、そんな言い方をするときもあるンだ、と不思議そうな顔でナオに目を凝らし、ふ~ん、と顎を反らした。
シンコがユウコに、帰ろう、と優しく声をかけていた。
ユウコは、うん、と小さく素直に返していた。
ほら行くぞ、とイケピンはナオに、どことなく突っけんどんに言って背中を向けた。
もちろんそれは、気持ちの裏返しで、恥ずかしさの裏返しでもあるのだとナオには分かっている。
ナオは、イケピンを追った。
そんな二人の背中を見ながら、ユウコはカコに
「ジンジが助かって良かったね」と囁いていた。
その笑顔は、心の底から嬉しそうだった。
そのユウコに、ねぇ帰ろうよ、と振り返ったナオから声をかけられていた。
分かってるよ、とシンコの横に並んだユウコは空を見上げた。
「この雨、あしたには止んでるかなぁ?」
「そうだったらいいけどな……」
二人はナオとイケピンの後を、追っていた。
*
どうなってるの? とカコは慌てて四人を追った。
ジンジから手が離れた。
すると突然に、音が止んでいた。
見えていたのに……カコは足を止めてジンジに振り返った。
ジンジが傍らにやって来て、カコの手に触れた。
音が甦っていた。
ジンジは、交差点の上空を覆う雲間から漏れている光に目を向けていた。
どうしてこっちを見ないの? と声をかけようとしていたら、ジンジがカコを見た。
「手を離すよ」
ジンジが声をかけてきた。
事故を目撃し、避けて以来の初めての声だった。
ジンジはカコの手を離した。
すると――今まで鮮明に見えていた音が、再び見えなくなっていた。
カコは困惑した。
ジンジが手を握った。
全ての音が、息を吹き返すように戻ってきていた。
音が見える。
48
辺りに目を凝らしながら、どうして? とジンジに訊ねていた。
何故ジンジから手を離すと音が見えなくなるの?
今度は自分から手を離してみた。
そのとたん、音が見えなくなっていた。
見える音が、まったく聞こえてこなくなったのである。
状況が理解できなかった。
学校を出たときは、一人でも見えていたじゃない……
でも今は、手を繋いでいないと見えない。
頭の中がこんがらがっていた。
カコはジンジの正面に回り込んだ。
目が逢った。
するとジンジはどう言うわけか、カコから目を離し、交差点の空を見上げていた。
カコもつられて空を見上げた。
雲は空を覆っている。
しかしところどころに、淡い光が差し込んでいる場所があった。
ジンジが口を開いた。
「カコは、瘴気に囚われていたんだ」
囚われていた……どういうこと?
「ムーンのリングだよ」とジンジは言った。
言われてカコは、胸のリングを意識した。
暖かさを感じられなかった。
嘘、と胸に手を置く。
でも実際に、リングの存在を感じることができなかった。
「ムーンの力が弱まって、そこに瘴気が付け込んきて嘘を観せられたんだ」
ムーンとユベールのそれぞれが持っている妖力の差だと、ジンジは言っているのだ。
「ユベールが音也くんでいられる時間の長さと、ムーンが乙音ちゃんでいられる時間の長さの差……ってことね」
ジンジが頷く。
「ムーンの力が弱まってしまって、そこに(男の)瘴気が流れ込んできたんだ」
「じゃあわたしは、その瘴気で違う現実を観せられたってことなの?」
「そうだよ」
「どうしてそんなことするの?」
それは……とジンジは言い淀んだ。
「カコを孤立させるためだよ」
「孤立させる……なぜなの?」
「男の標的はジンジくんじゃなくて、本当はカコさんなんだ」
くん? さん?
ジンジの左目が金色になっていた。
カコは、その金色の目に注意を向けた。
その中に、カコは違う何かを見付けていた。
思わず、だれ? と訊いていた。
ジンジは歯を見せて、苦い表情をカコに返した。
「音也くんね」
「そうです。音也です」
ジンジの口がそう言った。
「ジンジは?」
「ここにいますよ」
ジンジは、右目がカコの正面になるように、心持ち顔を左に向けた。
カコは、ジンジの右の目を覗き込んだ。
それは確かに、ジンジの瞳だった。
その奥に、カコはジンジを発見した。
「一時的にですが、ボクがジンジくんの身体を借りてるんです」
見た目はジンジでも、その言い回しは音也のものだった。
「そうなの?」
「学校の帰りに待ち伏せされたとき、男はボクの頭の中に思念を送って自由を奪いました。ボクも最初は抵抗しようと思ったのですが、男との力の差は歴然としていました。だったら逆に、男の思念と繋がって、ボクは男が何をやろうとしているのか探ってみようと思ったんです」
「そんな危ないことやったの?」
「でも上手くいきました」
ジンジは笑ってカコの手を離した。
手が離れても、音ははっきりと見えていた。
意識を胸のリングに向けると、熱を持っているのが分かった。
ムーンの妖力が回復したのかしら?
「ボクの方から妖力を与えました」と答えがあった。
そんなことができるの? と半信半疑なカコに、ジンジは顎を引いて笑った。
「九字護身法(くじごしんほう)で食べた蟲がとても強烈だったので、母の力を借りてボクの方からムーンに妖力を分け与えました」
「くじ……?」
言っていることが分からず、カコは首を傾げた。
「それについては落ちついたら、と言うことで」とユベールは話を続けた。
「男に頭を掴まれたとき、ボクの中に、カコさんの姿が見えました。カコさんは、バスの中に閉じ込められていました。そのまわりで、ジンジくんやイケピンくん、シンコくん、ポンタくん、ナオさんユウコさん、タカコさんヒカリさんが、カコさんを助けようとしています。でもバスは、カコさんだけを乗せたまま、そのまま走って雨の中に消えてゆきました」
「そうだったんだ。あの夢の中には、ユウコの他に、みんなもいたんだ」
「それで男の本当の目的を知ることができました。理由は分かりませんが、男の目的はカコさんなんだと……そしてそこに、ジンジくんが来てくれて、ボクを助けてくれたのです」
「音也くんがジンジを呼んだんでしょう?」
「これも賭けでした。ジンジくんが、もし、リングを身につけていなかったら、ボクは助かってなかったかもしれません」
「ジンジはズボラなところがあるから」と言って、カコは心の中で笑ってしまった。
するとジンジの方からは、妙にチグハグは笑いが返ってきた。
「助かったところまでは良かったのですが、逆に男の思念の取り込みすぎで、ボクの音也としての意識がまったく言うことを効かなくなってしまったのです」
「音也くんになることが出来なくなるってこと?」
「そんなことはありません。身体と意識が完治さえすれば、音也になることができます」
ジンジは首を横に振った。
「でも、それでは遅すぎると思ったんです。事は急を要します。なるべく早く、男の目的を誰かに伝えなければなりませんでした。そこでジンジくんの身体(と意識)をしばらくの間借りようと思い、ジンジくんの手を噛んで、音也としての意識の〝一部〟を移したのです」
カコはジンジの手を取った。
「ひっかき傷は治ったけど、噛み痕が鮮明に残っているのはそのせいなの? 何か関係があるの?」
その噛み痕だけは、つい今しがた付けられたかのように鮮やかだった。
「同じ道を使って戻るのが、安全で確実なんです」
「そうなのね、意識の通路なのね。だから残してるんだ」
ジンジは頷いた。
この頷きかたも、どこかジンジらしくなかった。
「(ジンジが)音也くんが中にいることを知ったのはいつ?」
今話をしているのは音也だが、その間ジンジはどうしているのだろう? とカコは右の瞳に向かって訊いてみた。
「難しい質問ですね……」
応えたのは左の、金色の目だった。
「分かっていたのか、分かっていなかったのかはボクにも分からないんです。でも夜目が効いたり、蟲が見えたりと、普段出来ないことが出来るようになったのは、治療を手伝って思念を浴びたせいだと、母の説明でジンジくんも一応は納得したようなんですが……」
「でも、後でよくよく考えて、そんなことないな、と思ったのね。〝思念の力〟ではなく、それは〝ユベールの力〟なんだと気付いたのね……」
そうです、とジンジは頭を掻いた。
「ことは何度もやんなきゃ、ぜったいに自分の物にならないって、いつも言ってる」
ユベールの意識が、ジンジの身体を借りてその力を使っているんだ、とカコは理解した。
ジンジは苦笑いした。
今の半分は、ジンジだった。
「それじゃあやっぱり、あのときから身体の中にボクが存在するのを、感じていてたのかも知れません……」
あのときとは、治療の翌日の午後に感じた目の違和感からを言っているのだ。
「なるほど、そうだったのね」
カコの言葉に、ジンジは微笑んでいた。
そして言葉を継いだ。
「何とかする」
「ジンジなの? 音也くんなの?」とカコが訊ねる。
「さぁ~」と苦笑いが返ってくる。
今度はどっちなのか?
カコにも測りかねた。
するとジンジがまた言った。
「まだ終わってない。避けられないなら、こっちからゆく」
今のは絶対ジンジだと、見える〝音〟じゃなく、カコ自身が自分に教えてくれていた。
49
平和台方面に向かう8番バスは、昭和町交差点の北側手前にある〝昭和町バス亭〟に停車した。
男が一人、そこでバスを待っていたからだ。
男は傘を持たずに、パーカーのフードを目深に被って雨を凌いでいた。
運転手にとって、今回の巡回では、その男が初めての乗客になる。
始発からここまで、誰も乗ってこなかったからだ。
ここに来るまで、こんなに誰も乗ってこないなんて珍しいこともあるもんだ、と運転手は思っていた。
10年以上この仕事をやっているが、彼にとって初めての経験だった。
どこまで無乗客の記録が伸ばせるか、どこまで誰も乗ってこないのか、後で同僚との話のネタにでもするか、と考えていたところだった。
「ここまで……だな」
運転手は大きな声で独り言を言った。
たまにこうやって声を出すことがある。
マイクのスイッチを切ってさえいれば、乗客は居ないのだから、どんなに大声を出しても恥ずかしくないし、誰かに聞かれることもない。
それが分かっているから、ストレスを発散する意味でも、大きな声を出したのだ。
「これって記録になるかもな――」
運転手はゆっくりとバスを停め、座席横のレバーを操作して、後方にある乗り口のドアを開けた。
*
男は整理券を抜き取り、後部座席へ向かって移動した。
身体から雨水が滴っている。
運転手は、頼むから座席を濡らしてくれるなよ、と思いながら、車内ミラーを使ってその男のようすを追っていた。
乗客が座席に座るなり、手すりに捕まるなりして、車内での安全が確認できてから、バスを発進させる。
それが基本中の基本だからだ。
男は、手すりに捕まって立った。
運転手は心の中で、座ってくれなくてありがとな、と礼を言った。
それじゃあ発車しますかね、と運転手は前方を確認した。
先の昭和町交差点の信号が、青から黄色に変わったところだった。
右ウィンカーを点滅させ、運転手はサイドミラーと目視で右後方の安全を確認したのちに、バスを発進させる動作に入っていた。
直後、運転手はギョっとなった。
今一度、ミラーを使って車内を確認したところ、男の姿が消えていたのだ。
移動したのか? そんな筈は無い。
運転中でも誰かが動けば気配で分かるし、車内全体を確認出来るだけの経験は積んでいるつもりだ。
どこへ行った?
そして再び、ギョっとなった。
男は、運転席の横に立っていた。
危ないですので手すりや吊り輪に捕まってください、と注意を促そうと口を開いたところで、首の後ろに違和感を感じた。
身体が、強張った。
バスがガタっと揺れた。
運転手は席から落ち、通路に横倒しになっていた。
運転手は白目を剝いていた。
男は、運転手が転げ落ちたちときに脱げた帽子を拾って被った。
それから、床の運転手を乗り越え、代わりに運転席に座った。
前を見た。
「いるいる……」
男は独りごちた。
前方の交差点には、信号を渡ろうと数名の男女の中学生がたむろしていた。
男は、帽子を目深に被り直し、ギアを操作し、アクセルを踏み込み、バスをゆっくりと、交差点に向かって押し出していた。
50
カコとジンジを残したみんなが、信号が変わるのを待っている。
男子たちは、営業車とトラックのスリップトラブルの後、何度目の信号待ちだったのだろう。
それでも、文句を言わずに待っていてくれていた。
考えてみれば、それもおかしな話である。
あれだけ待たされているのだ、早くしろと急かすなり、待ちきれないから先に帰る、と言い出してもおかしくない状況だった。
それと、最初の、あのユウコの怒ったような態度……
でも結局、ナオとユウコは、事故は回避された、と思っていて、もうこれっぽっちの疑問も持っていない。
これも、男が降らせている雨の瘴気が関係しているのに違いないのだろう。
信号が青に変わった。
イケピンとシンコとポンタが、改めてみんなを見回し、すこし離れているカコとジンジにも、行くぞ、と合図を送った。
これでやっと帰れるぞ……と男子たちは、交差点の中に足を踏み入れていた。
直後、誰かがまた叫んでいた。
「危ない!」
さっきの営業車が突っ込んできたときの声と同じだった。
次に
「にげろ!」と怒りにも似た大声が発せられていた。
ジンジはカコの手を握り締め、交差点に向かって走っていた。
*
昭和町バス停を出発したバスが、信号を無視して交差点に侵入してきていた。
バスの存在は分かっていたが、反対側の信号は赤で、バスは当然止まるもんだと、全員が思っていた。
しかもバスは、交差点の手前まではゆっくりとやって来ていたのだ。
そのバスが、急に加速して、信号を無視して交差点に入ってきたのだ。
それにいち早く気付いた男子の誰かが声を上げたのである。
ディーゼルエンジンの音を低く響かせ、バスがそこまで迫っていた。
*
二人を残した全員が、横断歩道を、向こう側へと走っていた。
渡った方が引き返すよりも早いと、誰かの一瞬の判断だった。
イケピンがナオ、シンコがユウコの手を引っ張って走った。
タカコはヒカリの手をひっ掴むと、引きずるように引っ張って走った。
そのタカコの手を掴んで、ポンタも走った。
投げ捨てられた傘が、交差点の中でクルクルと舞っていた。
*
カコはバスの運転席に座っている男を見た。
あの男だった。
そして……やっと分かった、と言えばいいのか、思い出していた。
夢の中で、深夜の雨の中でユウコを乗せなかったバスの運転手もあの男だったのだと……
わたしはバスの中に閉じ込められていた。
バスの回りで、ジンジやイケピンやシンコにポンタ、ナオとユウコ、タカコやヒカリが、バスを叩いて騒いでいる。
わたしを助けだそうとしている。
でもバスは、わたしだけを乗せたまま、動き出してしまった。
みんなが後を追う。
でも追いつけない。
そしてバスは消えてゆく――
51
一台の大型トラックが、一ツ葉方面に向けて、スピードを緩めることなく交差点の中へ進入して来た。
営業車の男は、前に向き直り、前から迫るトラックを認識していた。
トラックは交差点の真ん中で、営業車とすれ違った。
すれ違いざま、トラックの前輪が、アスファルトの窪みに貯まった雨水を横に高く跳ね上げた。
その雨水が、営業車に降り注いだ。
営業車を運転していた男は、トラックからフロントガラスに浴びせられた大量の雨水で、前方が全く見えなくなったことに毒突いた。
「周りのことにも気きィ配ってゆっくり運転しろや――」
運転手は、毒突きながらもアクセルを緩め、いつでもブレーキを踏めるように構えていた。
フロントガラスに浴びせられた雨水が流れ落ち、前方の視界がはっきりすると……
「このやろうー!」
雄叫びに近い叫びが、男の口から漏れていた。
トラックをやり過ごしたと思ったのに、目の前に、右方向からバスが出現していたのだ。
完全に、バスの信号無視だ!
ぶつかる!
男はバスを避けようと、左にハンドルを切った。
瞬間、タイアが滑った。
車が流れる。
流れるその先に、横断歩道の手前に、男女の中学生を見た。
ブレーキを蹴ったが、勢いで滑るタイアに効果は伝わらなかった。
間に合わなかった。
そして……
渡りきった横断歩道の先で、全員が目撃した。
最悪の事態が起こってしまった。
避けることが出来なかった……
52
過ぎ去ってしまえば、それはもう過去の所有物となる。
時間を遡って取り返すことは出来ない。
*
その一瞬に、思いと振る舞いによる働きが、それぞれに、そしてさまざまに、複雑に絡み合った。
*
バスの男は、マジかよ、あいつ逃げやがった、と自分の目を疑った。
制御を失った営業車が二人に迫ろうとしているなか、男からムーンを取り返した気骨ある奴だと思っていた少年が、並んで立っていた女子中学生の後ろに回り込んだかと思うと、彼女を盾にするようにしゃがみ込んで身を隠してしまったのである。
そうすれば自分は助かる、と思っているのだろうか。
どうしてそう思えるんだ。
このままの勢いで車がぶつかれば、二人一緒に跳ね飛ばされるに決まってるじゃねぇか。
そんなことも分からないのか。
頭が空っぽなのかよ、と笑いがこみ上げてきた。
*
しかし、少年のその行動は、男が考えていたものとは違っていた。
カコの後ろで屈みこんだジンジは、右肩を彼女の左のお尻の下に当て、右手を右のお尻に添えていた。
そして次の瞬間には、カコの身体を空に向けて、思いっきり押し上げていたのである。
*
ジンジがカコの背後に向かって動いた。
そのとき、カコはジンジの金色の左目が、残像を残して線を引くように流れてゆくのを見た。
お尻を支えられた。
直後に、支えられたお尻から、尋常でない熱が身体に流れ込んできたのを知った。
知った瞬間に、足が地面から離れて、身体が浮いていた。
そして宙に舞った。
*
カコは、ジンジから受けた熱が、ムーンのリングを活性化し、自分の感覚が研ぎ澄まされたのを知った。
そして覚えた直後に、今まさに、見えていた音がゆっくりと……
その一瞬が、ゆっくりと流れるのが見えたのである。
カコの足下を、今まさに、車が通り過ぎようとしている。
ナオの顔が浮かんだ。
ユウコの顔が浮かんだ。
タカコの顔が浮かんだ。
ヒカリの顔が浮かんだ。
イケピンの顔が浮かんだ。
シンコの顔が浮かんだ。
ポンタの顔が浮かんだ。
ユベールの顔が浮かんだ。
ムーンの顔が浮かんだ。
みんなが大声をだして、叫んでいる。
カコは、そのみんなの声に、はっきりと頷いていた。
そして、ジンジの顔が浮かんだ。
*
ドン、とカコは、自分から意識して車の屋根の上にお尻から落ちた。
それから流れるように屋根を滑り、次の瞬間には、車の後方に降り立っていた。
振り返る。
振り返る途中に、男の顔が、バスの窓越しに見えた。
目を見張ってカコを見ていた。
*
そんなことよりも……
ジンジは? 何処にいるの?
車は少し先で停まっていた。
ジンジはその向こうにいるに違いない。
走って車の前に回り込んだ。
ジンジは、信号機の柱の横に、仰向けに倒れていた。
顔が赤く染まっている。
あの夢がフラッシュバックしていた。
名前を呼びながら駆け寄った。
アスファルトに座り込み、膝の上にジンジの頭を抱えた。
夢で観たとおりのことを自分が演じている。
その光景を、俯瞰(ふかん)している自分がいる。
しかも、夢はそこで終わっていたのだが、現実は続いていた……
*
すると、ジンジが急に咳き込んでいた。
その拍子に、鼻から血が吹き出していた。
顔を赤く染めていたのは、鼻血だったのである。
後方にひっくり返った拍子に、何処かで鼻をぶつけたのだろうか?
長い息が漏れ、ジンジは鼻をすすった。
ゆっくりと目を開けた。
「大丈夫……だよな」とジンジは、カコを見上げて笑った。
鼻血と泥にまみれてひっくり返っているジンジの顔は、無茶苦茶カッコ悪かった。
カコは「うん」と頷き、ポケットからハンカチを取り出して、ジンジの顔を拭ってやった。
雨は止んでいた。
カコの肩を借りて、ジンジはようよう立ち上がった。
*
あの瞬間、肩に乗せたカコを、宙に押し飛ばしたジンジは、その反動を利用して後ろに転がり、目の前に迫る車をギリギリで避けたのであった。
53
バスは、交差点の真ん中で停まっていた。
男は、何かに感心したかのように笑っていた。
笑いながら頷き、バスのハンドルを、大きく回していた。
バスが向きを変える。
向きを変えたバスは、西の橘方面に頭を向けて動いていた。
ディーゼルエンジンを唸らせ、二人の横を通って、走り去ってしまった。
*
営業車の男は、何があったんだ? と車から降りて、その場に立ちすくんでいた。
はす向かいの交番から、二人の警察官が笛を鳴らしながら走ってくる。
年上の方が、カコとジンジに大丈夫か? 怪我がしてないか? と声を掛けていた。
警察官の二人は、カコが宙に浮んで、営業車を飛び越えたのを見ていない。
バスが視界を邪魔していたからだ。
カコが跳んだのを見たのは、バスの男、営業車の男、そしてナオとユウコの仲間たちだけであった。
警察官がやって来たときにはもう、二人は何事も無かったかのように立ち上がっていた。
二人は、大丈夫です、と言った。
若い方は、交通整理を始めていた。
やりながら、こちらをチラチラと見ている。
営業車の運転手は、年上の警察官の指示に従って、車を道路の端に移動させてハザードを点けた。
みんなが駆け寄って来て、二人を取り囲んだ。
ナオとユウコは、半泣き顔でカコに抱きついていた。
大丈夫、大丈夫だったよ……とカコは二人に声をかけていた。
54
バスの運転手は我に返った。
運転席に座っている。
何か起こったのか? と無意識に両手で身体をなで回していた。
そしてはっとして、慌てて振り返って車内を見回した。
乗客はいない、誰も乗っていない。
それから、ここは何処なんだ、と外を見る。
見慣れた景色が目に入った。
一瞬で分かった。
宮崎中学校バス亭の少し手前のところだった。
バスはそこで停まっている。
なんでこんな所に、どうしてなんだ? と運転手は記憶を呼び起こそうとした。
しかし、ひとつ前の昭和町バス亭に到着する少し前からの記憶が、うまく思い出せないでいた。
昭和町バス停でお客を乗せたんだったったけか? と頭を捻る。
いや違う、乗せてない。
オレは今日、どこまで無乗客の記録が伸ばせるかをやってたんだった。
今度はミラーでバスの中を確認する。
誰もいない、まだ継続中だったんだ……と思い出していた。
運転手は、エンジンをかけてゆっくりとバスを動かした。
前方の、宮崎中学校前バス停にも、待っている人がいないのが分かる。
無乗客の運行は、まだ続きそうだ。
運転手は、帽子を被っていないことに、まったく気付いていなかった。
*
この騒動は、その日(木曜日)の夜のニュースにも、翌日の朝刊にも取り上げられなかった。
事に巻き込まれた、イケピン、シンコ、ポンタ、それにタカコとヒカリでさえも、騒動のことをはっきりと覚えていなかった。
昨日は、突然の雨で部活が中止となり、早く帰るように言われたけど、それ以外はいつもの帰宅だったと思っているのである。
だから、昨日のあの話は誰からも出てこなかった。
そしてそれを、カコ、ナオ、ユウコは、まったく不思議に思っていなかった。
多分そうなるであろう……ということを予想していたからである。
男の降らせていた瘴気の雨が、それに関わった者たちの記憶を霧が掛かったかのように見しかえなくしたのを知っているからだった。
入間おばさんの、雨と霧の悪戯のときと同じである、と言うことを知っていたからだ。
営業車とバスの運転手、交番の二人の警察官にとっても、別段大きな事も無かった普段と変わらない一日だったのである。
55
部活を終えた三人とジンジは、おばさんの家に集まっていた。
開け放たれたリビングの窓の下に、乙音がちょこんと腰掛けている。
乙音の膝の上にはユベールが乗っていた。
その右隣にはカコが座っていて、庭の樹が風に揺れるのを眺めている。
カコが見ている樹の根元には、おばさんがしゃがみ込んで、背中を見せている。
ジンジがその傍(かたわ)らに立って、おばさんの手元を覗き込んでいた。
おばさんは、手を動かしていた。
そのようすを、ナオとユウコが、少し離れたところから見ている。
「準備、できた、ですか……」
乙音が、おばさんの背中に向かって言った。
おばさんの代わりに振り返ったジンジが、ああ、と返していた。
それはどこか、曖昧な返事だった。
するとユウコが
「緊張してるんでしょう?」と声を掛けてきた。
慌てたジンジは、そんなことないさ、と言ったが、当惑してまごまごしてしまった。
すると今度は
「そうには見えないけど」とナオが、誤魔化さないでもいいじゃない、と笑った。
ジンジはむきになって、絶対そうじゃない、と首を横に振って否定した。
そこに、いつの間にやって来ていたのだろう
「もう、覚悟しなさいよ」とカコがジンジの背中を押した。
そしてそのまま、膝に手を置いて前屈みになると、おばさんの手元を覗き込んでいた。
おばさんの前には、箱が置いてあった。
ユベールを治療した箱だった。
中には土が敷き詰められていた。
おばさんは、箱に向かって手を組んで、印を結び、九文字の言葉を唱えていた。
九字護身法だ。
おばさんは、その儀礼を九回繰りかえしていた。
男がおばさんの家に向かって張っていた結界、つまりおばさんに間違った情報を植え付けるようにしていた結界を、押し返すためにやったのもこの技法だ。
押し返されたことにより、男の結界は破られ、宮崎中学校周辺を覆っていた瘴気の雨に綻びが生まれた。
それにより
瘴気の雨で邪魔されていたユベールとジンジの間にあった、つまりおばさんの家にいたユベールと、ジンジが首に掛けているユベールのリングとの思念、つまり〝気道〟が繋がったのである。
あのとき、カコの後ろに逃げるように?回り込もうとしているジンジの目が、見たことも無いほどに強い金色を放っていたのは、そのためだったのだ。
そしてジンジは、繋がった気道から送られてきたユベールの妖力をカコに転送した。
ジンジはカコに妖力を注ぎ、実際は音也がジンジを動かしていたのだが……ジンジ自身も力を使って、カコを宙に跳ばしたのである。
*
ユベールがジンジに送った妖力は、庭の四隅で掘り出したカコたち〝三人の物〟と〝男の物〟を箱の中で燃やしたときに生まれた〝四体の蟲〟を食べて得たものによるものだった。
しかも、たった四体でユベールの尻尾を裂けさせるほどの力を持った蟲だったのである。
ユベールから送られてきた妖力は、ジンジ自身が持っている〝気の器〟の容量を遙かに超えるものだった。
その力をいったん無理矢理に身体の中に取り込み、カコに向けて一気に放出したことで、身体が〝上気〟して悲鳴を上げたのだった。
鼻血は、その反動によるものだったのだ。
もし、気道が繋がらずに、この強烈な妖力の助けが無ければ……ジンジの中に残っていた音也の妖力だけでは、カコを救えなかったかもしれなかった。
*
やがておばさんが
「用意できたわよ」と顔をあげた。
乙音がやってきて、抱いていたユベールを、ゆっくりと箱の中に入れた。
箱の中から、ユベールが見上げたのはジンジだった。
ジンジは、おう、とユベールに挨拶し、箱を挟んでおばさんの向かいにしゃがんだ。
それからジンジは、不安げな顔をおばさんに向けて言った。
「痛いですかね」
おばさんは、そうねぇ~と意味深な表情をジンジにつくって見せ
「治療したときと同じくらいかな。同じ道を通って音也が帰ってくるんだから」と言った。
そんなに?……ですか、とジンジは怖じ気付いてしまった。
あのときは
ユベールを助けたい一心で、何でもやってやる、という覚悟があった。
だからどんな痛みにも耐えられた。
でも、あの痛みをもういっかい体験するの……と思うと、急に怖くなってしまった。
いかん、いかん。
それでもジンジは、怯(ひる)みながらも、気持ちを落ち着かせるように長い息を吐いて、箱の中のユベールを見下ろした。
ユベールは、おばさんの指を甘噛みしていた。
なるほど、お前はもう準備は出来てるってことだな……と理解した。
そこに、カコが、ジンジの横にしゃがんで手を取った。
指が、歯形の痕をなぞった。
すると何故か、音也が戻ってきてくれて、これまでと同じように学校に来てくれればれそれでいい、と腹をくくれた。
ジンジは大きく息を吸った。
カコがその手をユベールに持ってゆく。
ユベールが大きく口を開ける。
獣の牙が見えた。
ジンジは、南無三、と牙と手に注目した。
直後に、情けないほどの悲鳴が、ジンジの口から漏れていた。
*
ユベールをおばさんが抱き上げる。
ナオとユウコがユベールを覗き込む。
ユベールは、ミャウ、と啼いて二人に笑顔?を振りまいた。
二人は、その瞳の中に、ユベールとしての音也の、確かな〝個〟を発見していた。
おばさんは
「来週には学校にいけるわね」と赤ん坊をあやすように優しく揺らした。
ユベールがまた啼いた。
啼いて身体を起こし、乙音に飛びついていた。
「おかえり」
乙音はユベールを、優しく、そしてしっかりと抱きしめて頬擦りしていた。
56
入間家を出たカコとジンジは、二人だけで歩いている。
一緒に家を出たナオとユウコは、ちょっと寄り道するところがあるからと途中で別れていた。
気を利かしてくれたのであろう。
たまにそういうことをしてくれる二人だった。
「ねえ」
カコが並んで歩くジンジに声を掛けた。
「なに」とジンジ。
「あのとき……」
「あのとき……ていつ?」と首を傾げながら、ジンジはカコに顔を向けた。
「あのとき、わたしを肩に乗せて跳ばしてくれたとき」
投げたんじゃなくて、跳ばしてくれた……とカコはそう思っていた。
「ああ、あのときね」
「そう、わたしはあのとき、宙に舞ってて、ゆっくりと流れてて……」
「流れてってなに?」
カコは〝ある一瞬〟がゆっくりと流れていたの……と言おうとした。
でも実際に、そんなことが起こるはずは無い。
それは多分……
ジンジを通してユベールから送られてきた妖力で得た、まばたきする間の濃密な感覚だったのだろう。
カコは首を横に振った。
「でもね、その流れの、その先の向こうに…、何かが見えたような気がしたの」
「え? なにが見えたんだよ」
ジンジは首を捻った。
そしてカコも、それも分からないと首を横に振った。
実際、二人には何も分かっていなかったからだ。
「結局なにも分からないんじゃなかよ」とジンジは笑った。
笑いながら肩をぶつけてやった。
カコはよろめいて、もう……とジンジにむくれ顔で返した。
そのむくれ顔を、ジンジは笑って見ていた。
その笑顔を見て、カコは答えを見付けていた。
〝その先の向こうに…〟見えたのはこれだったのだと――
*
「あのとき……あのときわたしを肩に乗せたとき」
カコは、さっきと同じ台詞を繰り返し、ジンジに詰め寄るように身体を寄せた。
何を言い出すんだ? とジンジはビビってしまった。
カコは上目遣いに、下からジンジの顔を覗き込むようして、あることを思い隠しているように、唇の端を釣り上げていた。
意味深な表情を作っていた。
「わたしのお尻に触ったでしょう」
ジンジはのけ反った。
あのとき……確かにジンジは、右の肩にカコを座らせるように乗せ、右手でカコの右のお尻を支えた。
それはバランスを取るためであったし、ユベールの妖力をカコに移すための、最良の方法でもあったからだ。
「あれはどうしようもなく……」
言い訳しようとするジンジに、カコがさらに詰め寄った。
気圧されながら、ジンジは自分の右の手の平に目を落とした。
あのときは夢中だったので、後先のことなど何も考えていなかった。
でも今思い出すと、確かに、この右手がカコのお尻を下から持ち上げたのだ。
その上げた感触が、今初めて、この手に甦っていた。
顔がほころんでしまった。
「頬がゆるんでるよ」
カコがその手を叩いた。
パチン、と小気味よい音が辺りに響いた。
「あ、あれは実際、ユベールの意思でやったことだから……」
それでもカコは、疑いの目でジンジを見ている。
ジンジは目を逢わせられなかった。
でもカコは、文句を言っているのではない、怒っているのでもない。
笑っていた。
「ありがと」とカコ。
へ? とジンジ。
「あしたも天気いいといいね」
カコは、夕暮れの晴れ渡った空を見上げた。
西のオレンジ色の光が、カコの顔を照らしていた。
晴れるにきまってるよ、とジンジ。
言いながら、別の自分はあのときの手の平の感触をまだ思っていた。
すると突然、鼻の奥がムズ痒くなってきてしまった。
やば、鼻血かも……
おしまい
06 その先の向こうに…
ご意見、ご感想、お待ちしています。
質問も、歓迎いたします。
[email protected]