疑いの底から連れ出して
第一話「青空を、疑って」
いつもより五本も遅い電車。駅が近づくにつれて、だんだんと動悸が激しくなっていた。
改札を出ると、待合所で座っていた友達が気付いてくれる。
「真矢、おはよう」
向こうから声を掛けてくれて助かった。この時間は同じセーラー服の人がこんなに多いなんて知らなかった。自分からは、人違いが怖くて声を掛けられない。
長門明日香さん。隣のクラスの文芸部員で、私の思い込みでなければ昨日から友達。
「おは、よう」
でも、ぎこちない挨拶しかできなかった。挨拶は元気よく返さないと、嫌われてしまうかもしれない。
「ごめんなさい!」
その場で頭を下げて、精一杯声を引き絞って謝った。
「どうして謝るの?」
「せっかく、駅から一緒に行こうって待ち合わせしたのに、ちゃんと挨拶できなかったから……」
「できてたよ」
長門さんはふわっと笑った。確かに怒らせてはいないようだ。そもそも待たせたのに気にする様子もない。
「というか、今日も傘持ってきたの?」
そのまま、笑い混じりに質問された。私が持った傘を指して。
「それは……こんな青空なんて、信じられないから」
駅から出ても、今日は雲一つない。天気予報でも、降水確率はゼロだと言っているところがほとんどだった。それでも、帰りまでに覆らない保証なんてない。
そうしたら、長門さんはまた少し笑った。
「真矢、もしかして雨女だったりする?」
「そうかもしれないけど……そうじゃなくても、周りのどこかにそういう人がいるかもしれない」
「よっぽどだね。お天気に、ひどい裏切られ方をしたのかな」
私はただ頷いた。声が出なかったのは、少しびっくりしたから。
こんなふうに疑って、心配してばかりの私をちゃんと理解しようとしてくれた人は、本当に久しぶりだった。
「小学生の頃……こんな風に朝は晴れてたのに、学校帰りには雷の鳴るような大雨だったことがあって。それでずぶ濡れになって風邪を引いてから、毎日傘を持っていくようになった。晴れていたって雨が降ることもあるし、油断できない」
「かわいそうに……」
こんな話をしたら、笑う人が大半だった。でも、今の長門さんは笑っていない。
「本当に、そう思ってる?」
「思ってるよ。真矢がひどい目に遭ったのは本当だから」
「長門さん……」
やっぱり、この人なら信じられる。
昨日、図書室で初めて会ったところだというのに、いきなり今日、待ち合わせして一緒に登校しようなんて、嘘だとしか思えなかった。
だから、わざと長門さんが来ると言った時間より後に着く電車に乗った。
本当は電車だって、いつ先が詰まったり止められたりして遅れるかわからないから、こんなに遅い時間に乗ったことはなかった。
「さっきは、遅れて来てごめんなさい!」
最初に謝るべきだったのは、こっちかもしれなかった。
それでも、長門さんはにべもなく笑う。
「えっ? そんなこと全然気にしてなかったよ」
「でも、来る時間教えてくれたのに、本当はいつももっと早く来てるのに、わざと待たせたし……」
「待ち合わせなんて、どっちかが先に着いて待つものだよ。もしかして……待ち合わせでも、つらい思いをしたのかな?」
私はまた、声も出せずに頷いた。
そう。私の人生はそんなことばかり。
どれだけ懲りて、どれだけ対策しても、次から次に嫌なことは起こる。
そのうち、どんなことも疑わしく感じるようになってしまった。
そんな中で、長門さんは本当に久しぶりの信じられる人だった。
「今度、聞いてほしい」
「わかった」
その優しい笑顔が、とても頼もしかった。
「ちなみにいつも、どのくらい早く来てるの?」
「一時間くらい前……」
「早いよ、朝練とかする人の時間だよ!」
優しいけれど思ったことをちゃんと言ってくれるところが、信じられる決め手だったと思う。
第二話「語り手を、疑って」
本が好きだったから、小学校では図書室に入り浸って、中学校では図書委員をやっていたし、高校でも図書委員になった。
「本に書いてあることでも、全部が本当というわけではないかもしれない。だから、疑ってもいいんだよ。疑って、何が本当なのかを考えるの。また困ったら、先生のところにおいで」
小学生だった私に、そう教えてくれた先生がいた。
そのとき私は三年生で、背伸びをして高学年向けの推理小説を読んでいた。そこに、本は全部が信じられる安全地帯だと思っていた私を陥れるための落とし穴が現れる。
語り手が本当は犯人で、それまで本当だと思っていた描写にいくつもの嘘があった。
当時、私はそのことが本当にショックで、そうとわかった瞬間に泣いてしまった。そのとき慰めてくれた図書室の先生に、本の読み方を教えてもらった。それからはまた安心して本を読めるようになって、一層本が好きになった。
「……それは、『信頼できない語り手』ってやつだね」
「そんな、そのままの名前がついてたの」
文芸部員の長門さんは、放課後になると執筆のために図書室に来る。私も放課後には、当番がなくても図書室に来て、本を読んだり宿題をしたりする。
この高校には自習室もあるし、なかなか図書室に長くとどまる人はいない。人がいないときは、ちょっとお喋りもする。今は、長門さんに私が本を好きになったきっかけを話した。
「ミステリに限らず、疑って読むのは大事だよね。書き手は嘘つきだから」
「それって……」
長門さんが小悪魔のように笑って、私はにわかに不安になる。語り手が嘘つきということは、書き手も嘘つきになるのだろうか。そして、他ならない書き手である長門さんも、嘘つきなのだろうか。でも、もし長門さんが嘘つきだとしたら、書き手が嘘つきだと言ったのは嘘で……。
「あ……う……」
熱を持って爆発しそうになった頭を抱えて、私は机に伏せこんだ。
「おおっと、混乱させちゃったかな。ごめんね。わからないところがあった?」
長門さんが背中をさすってくれたので、私も深呼吸して気持ちを落ち着かせる。でも、まだ顔は上げられなかった。
「えっと……長門さんが書き手は嘘つきだって言ったら、長門さんも嘘つきってことになって、でも……」
「なるほど、それは難しいね」
このままだと、長門さんも信じていいかどうかわからない。
せっかく友達になれたのに。
だけど、こんなことで友達を疑ってしまう私自身が一番信じられなかった。
「真矢……大丈夫?」
心配させてしまう。私は飛び上がるように体を起こした。一瞬顔を背けて、目に溜まってしまった涙を手で拭った。
「ご、ごめんなさい。私は、大丈夫」
「お、おう……こちらこそごめんよ、ちょっとした冗談だったんだよう」
「冗談?」
どこまでがそうだったのか、私には全然わからなかった。
「うちは書き手だけど、書き手が嘘つきだと言ったら、そこに真矢が言ったような矛盾が生じてしまう。これは有名なパラドックスで、ゼロかイチかで考えると解決できないんだよね。そもそも、自分のことを嘘つきだって言うことがルール違反だったんだよ」
「そうだったの……」
パラドックス。矛盾。推理小説に出てきたのを少しは読んだことがある。一見もっともらしいけど、どこかに変な論理があって、ゼロとイチが同じになってしまうような結論を導いてしまう。
「あとは、書き手が全部嘘つきみたいに言うのも、本当は違うよね。何か重要なことを知らなくて、嘘が入ってしまうこともある。本当のことが混ざってるから難しくて、小説だとそれが面白さになるなるんだよね」
そういうものも知っていないと、本当のことを見極めるのは難しいと思った。長門さんはそのことを教えてくれたのだろうか。
「長門さんは物知りだね。ありがとう、勉強になったよ」
私は少し椅子を引いて、膝に両手を置いてお辞儀をした。
「そんな、感謝されちゃうと困っちゃうよ……」
照れくさそうに苦笑いする長門さんを見て、私も自然に笑みがこぼれた。
これからも、信じて大丈夫だよね。
今日の放課後も、雨は降らなかった。
第三話「ボールペンを、疑って」
今日は、図書委員の放課後の当番に入っている。本棚の点検や返却状況の確認といった定例の作業はあるけれど、半分はカウンターで来ないお客さんを待つ仕事だ。
長門さんは来ている。いつも通り、窓を背にした席で原稿を書いている。距離はあるけれど向かい合っているから、時折目が合った。そんなとき私は目を逸らしてしまうけれど、長門さんはちょっと手を振ってくれるから、申し訳なくなる。
手元の作業を終えて、私はバッグから文庫本とペンケースを取り出した。学校の定めた「必読図書」の一冊目。三年間で三十冊を読破すると、賞状と粗品が贈られると聞いている。この本はもう読み終わっていて、今は読んだ証拠として提出する感想カードを書こうとしていた。
本をめくりながら、ボールペンで感想を書き始める。そうしていると、私の図書委員としての仕事が一段落したことを察してか、長門さんが席を立って歩み寄ってきた。
「真矢。そのペンケース、パンパンだけど何入ってるの?」
好奇の目を向けられたのは、私のペンケース。黒い布製でポーチのような形の、特に珍しくもないものだった。ただ、その中には確かに、ペンがいっぱい詰まっている。
「ボールペンとか、シャーペンとか……変なものは入ってないよ」
私はその中から何本か取り出して見せた。長門さんはそれを面白そうに見ている。ペンはどこででも買えるようなものばかりだし、何が面白いのかわからない。
「すごい数だね。それにこのボールペン、新品じゃん」
そう言って、長門さんはペン先に赤い玉が付いたままのボールペンをつまんだ。
「わかった。予備をたくさん持ち歩いてるんだね」
「うん、そう……」
それが、長門さんにとって面白いことだったとは。私にはもう当たり前になっていて気づかなかった。
「すぐかすれたり、壊れたりして信じられないから?」
「それもあるけど、急に使えなくなったときに、誰かに借りるのも悪いし、怖いし……」
「怖い? ああ、そういうことか……」
意味深につぶやいて、長門さんは不意に踵を返す。それから自分のリュックを探って取り出したのは、透明なプラスチックの包装に入ったボールペンだった。
「真矢は、悪いボールペンに引っかかったことがあるんだね?」
「それって……」
長門さんの言ったことは本当だった。包装のまま渡されたボールペンを見ると、嫌な感覚がフラッシュバックする。
「いやっ」
全身が震えて、ボールペンを取り落とした。
「えっ、大丈夫? まさか漏電した? ごめんよ、そんなつもりじゃ……」
長門さんは床に落ちたペンを拾わずに、私を心配してカウンターの中に入ってきてくれた。
「違うの、ちょっと昔のことを、思い出しただけ」
あまり心配させたくなくて、泣きそうなのをぐっとこらえながら答える。
「ああ……やっぱりトラウマだったんだ。ちょっとびっくりさせてみようと思っただけなんだ。本当にごめん」
「うん。大丈夫だよ」
中学生の頃。ホームルームで書類を書くときに、持ってきたボールペンのインクが出なくなって、隣の席の男子に借りなければいけなくなった。そのときにノックすると電流が流れるペンを渡されて、悲しい思いをしたことがある。
「真矢の周りには……地雷が本当にたくさん、埋まってるんだね」
床に落ちたペンを片付けながら、長門さんが真面目なトーンで言った。
自分の置かれた状況を、ちゃんと言葉にしてくれた人は初めてだ。
「そう思う。だから、安全な場所に閉じこもって、全部を疑わなきゃいけなくて……思うように身動きが取れないの」
疑いばかりの世界で、井戸のように深い「隠れ穴」に逃げ込んだ。
「でも、大切なことではあるよね。身近に潜む危険や悪意を注意深く避けるのは。真矢も、それが得意だって自信を持っていいと思う」
長門さんは、その底から私を連れ出してくれるのだろうか。
「……ありがとう」
私から手を差し出した。長門さんは、笑顔でその手を握ってくれた。
第四話「友情を、疑って」
長門さんと放課後の図書室で会うようになって、一か月が経った。図書室には冷房が入るようになって、窓から見えるグラウンドでは、いろいろな部活の人が暑い中でも走り込んでいる。
ある当番の日、私はカウンターの中から誰も座っていないテーブルの角を見つめて過ごしていた。
長門さんが来ない。
昼休みに話したときは、「またあとで」とお互い言って別れたはずなのに。
文芸部の活動も今日はないと言っていたし、掃除などの当番も終わっているはずの時間だし、どの教科でも居残りさせるような話は聞かない。
もしかして、長門さんに何かあったのか。確かめに行きたかったけれど、図書室からは離れられない。
それよりも、心のどこかで常に長門さんを疑っていて、「本当は嫌われているんだ」という考えが頭の中を巡るのを、私は掻き消すことができなかった。
鳥肌が立つほど冷えた図書室で一人、私は悶々としているだけだった。
翌日の放課後は、図書室で長門さんに会えた。制服の上に、上半身を覆うポンチョを羽織っている。
「真矢。昨日はごめんよ、ちょっとお腹痛くってさ。図書室だと冷えちゃうから……」
出会い頭に、長門さんはそのポンチョで私を包み込んでくれた。確かに、涼しい図書室の中では心地良い暖かさだ。
その言葉も本当だと思う。本当であってほしかった。そうであれば、悪いのは友達を信じられない私だけ。
「今日は、もう大丈夫なの?」
「これを持ってきたから平気」
ポンチョの袖をひらひらさせて笑う長門さんに、私も笑って返すべきだった。でも、暗い表情のまま固まって動かせない。
「そんなに寂しかった?」
「ううん、えっと……ごめんなさい!」
ああ、逃げてしまった。とっさに閉じこもったのは、一階の誰もいないお手洗いの個室。電気も点いていなくて、換気扇の音だけが響いていた。
思い出すのは小学生の頃のこと。三年生で初めてのクラス替えがあったとき、初めて同じクラスになって少し仲良くなった女子がいた。
ある日の休み時間、その子に誘われて外の遊具で二人で遊んでいたら、急にその子が「ちょっとここで待ってて」と言って、一人で校舎に戻ってしまった。
私は何か忘れ物でもしたのかと思って待っていたけれど、その子は結局戻らなくて、チャイムが鳴るまでその場を動けなかった私は、授業に遅れて先生に叱られてしまった。
そのとき、その子も同じように教室にいなかったけれど、先生は何も言わなかった。私はわけがわからないまま、「意地悪された」という気持ちだけを抱えてしまう。そして、一方的にその子を避けて、口を利かないようにした。
「真矢ちゃん。あのときはごめんね」
「急にお腹が痛くなっちゃって、早退したの」
聞こえていた彼女の言葉にも取り合わずに。
疑いなんてくだらない。疑わなくてもいいことまで、私は疑ってばかり。だから一番、本当に疑わしいのは、自分自身だと思う。自分すら信じられない私だから、何も信じることができないのか。
そして今日、全く同じようなことを繰り返してしまった。これで、長門さんとももう終わりか。
せっかく、久しぶりの友達だったのに。前までとは違って、ちゃんと信じられる人だと思っていたはずなのに。
私がダメすぎるから。
「真矢、いる? 大丈夫?」
便器のふたに座ってうずくまっていると、遠くから声が聞こえた。電気が点いている。
長門さんだ。こんな私を、探しに来てくれたのか。
最初は、見つかりたくないと思った。
でも、すぐに思い至った。このまま私が出ていかなかったら、長門さんはいつまでも私を探して、帰れなくなってしまう。それは誤解でもなんでもない「意地悪」だ。
叫ぼうとしたけど上手に声が出せなかったので、ドアをノックして居場所を知らせようとした。でも。
「いないのかな……」
ダメだ。音が届いていない。私はバッグを置いたまま、個室から飛び出した。廊下まで出て、遠ざかる長門さんの姿を見つける。
「長門さんっ」
今度は辛うじて声が出た。そして、静かな廊下ではちゃんと長門さんにも届いた。
「おお、真矢! 探したんだからね」
「ごめんなさい、本当に……」
長門さんは、深々と頭を下げた私の前まで来て。
「頭を上げてよ。なんともなくて良かった」
今からまた、やり直していけるのだろうか。顔を上げた私を、長門さんはまたポンチョで包み込んでくれた。
第五話「小説のモデルを、疑って」
中間試験が終わり、学校祭への取り組みが始まりつつある。私のクラスでは原宿ドッグの屋台をすることに決まった。図書委員でも古本市を開くと聞いている。
中学校でも学校祭はあったけれど、私は中心メンバーになんてなれないから、隅っこで隙間を埋めるように手伝っていた。これは今年も変わらないと思う。でも、今年は当日には楽しみがある。
「学校祭、長門さんは文芸部で何かするの?」
「部誌を出すよ。無料だから見に来てね」
「長門さんの作品も載ってる?」
「もちろん」
いつもここで書いていた小説も、最近は部員同士で読みあって手直ししているところらしい。だから、長門さんもほかの人の作品を読んでいることが増えてきた。
本になる前の作品は、正直ちょっと気になる。
文芸部に入れば良かったと思われるかもしれないけれど、私は書いたことなんてなかったし、見学に行ったときにも先輩方と大した会話もできなくて、それで懲りてしまった。議論をする場面も結構あると聞いているし、もう近づけない。
それでも、私が普段読むような小説や詩が、どのように作られているのかはやっぱり気になる。
そこで少し、勇気を出して。
「長門さんが書いてる小説、その、読んで、みたい……」
「ありがとう。うちのはまだまだだけど、頑張って書いたから」
ああ。長門さんは喜んでくれたけれど、微妙に違う伝わり方をしてしまった。もっと頑張って。
「で、できたら、今、できる前に……」
「おおっと、真矢ってば大胆だねえ」
しどろもどろになっている私を見て、長門さんは笑い交じりに言った。
「でもやっぱり当日のお楽しみにしておいてほしいよ」
頑張ったけど、ダメだった。
長門さんの小説が気になる理由は、実はもう一つあった。それは、その内容のこと。
作家には、自分の身の回りに起きたことをネタにする人がいる。もしそれで、長門さんの小説に私がモデルになったような人物が出てきていたら、恥ずかしくてたまらない。
でもそれを直接言うのは、また長門さんを疑っているみたいで気が引けた。
「どんな小説なのかな」
遠巻きなところから探ってみる。
「うちの? ちょっとしたミステリだよ」
「舞台とか、人物とか……」
「そんなに気になる? 中学校の図書室が舞台で、図書委員の……」
「ええっ」
長門さんの話を遮って、思わず声が出てしまった。やっぱりいつの間にか私はモデルになっていたのか。
ところが、長門さんは一瞬話を止めただけで、表情も変えずに続けた。
「ははん、何か気になってるね。主人公は二人の男子だって言ったら、安心する?」
「安心……する」
「例えば、図書委員って聞いて、自分がモデルになってたらどうしよう、とか考えてた?」
「……その通りです」
私の考えなんかはお見通しだった。でも、こうして難なく言い当ててもらえるのは嬉しい。ミステリの真相が自力でわかったときくらいには。
「黙ってそんなことはしないから安心してよ」
ちょっと含みのある言い方だ。
「うん……でも、黙ってじゃなかったら?」
「真矢と同じような悩みを持っている人に、希望を与えられるような話は書けるかもしれない。どっちにしても、もっと真矢のことを知ってからかな」
それは、私のことをもっと知りたいということ?
確かにこれまでも、長門さんは疑い深い私の考えを解きほぐして、優しく受け入れてくれた。そして、私が大切なことに気づけるように導いてくれた。だから、言うとおりに希望を与えてくれる話を書けるのかもしれない。
もし、長門さんが私をもっと知ったのなら。私がそれを許したのなら。
「それ、いつか書いてほしい。協力するから」
「ふふ、ありがと。気が向いたらね」
曖昧な言い方をしながら、長門さんは笑って、私の頭をしばらく撫でた。
それはもしかしたら照れ隠しではないかと、ちょっと楽しい想像もして。
楽しみが増えていく。今年は、過去の何倍も。
図書室に差し込む放課後の陽射しも日に日に熱くなって、夏が近づくのを感じさせた。
第六話「自分の名前を、疑って」
学校祭まで二週間を切って、準備が本格的になってきた。シフトを決めたり、屋台の飾りを作ったり。放課後にもクラスで作業をするようになって、当番のとき以外は図書室に行けなくなった。
私が当番で図書室にいても、長門さんは来られない。こうなると図書室は本当に誰もいなくて寂しかった。仕事をして、終わったら本を読んで気を紛らわせた。
必読図書の二冊目を読み終わって、感想カードを書く。書き終わってから、私は自分の名前に目を留めた。
疋田真矢。なんてことのない名前だけど、私はあまり好きではない。なんだか、自分の疑い深さを象徴するような字面だと思う。苗字の「疋」という字と、名前の「矢」という字の組み合わせが最悪だった。これだけで「疑」の字の下半分が完成する。その上にフリガナを振ろうものなら、上半分も完成だ。
だけど、両親にこの話をしても「賢いね」なんて受け流されるし、「真矢」という名前は的の真ん中を射抜く矢をイメージしてつけたのだと説明されるだけだ。名前の由来のほうはいいとしても、「疑」の字が完成するという発想が名付けのときに出なかったのかは疑っている。特に、父方の親戚から。
そうは言っても名前を変えることは難しい。私の完全なわがままで改名なんてできるものではない。苗字が変わるほうが現実的かもしれないけれど、私にはとてもそんなことは考えられなかった。
どちらかと言えば名前は悪くないと思っていたから、長門さんが私を名前で呼んでくれるのは嬉しかった。
そして、ずっと気にしていることがある。私は長門さんを名前で呼んでいいのだろうか。むしろ私が名前で呼んでもらっているのに、「長門さん」では不釣り合いだと思う。
「真矢。やっほ」
考え込んでいたところから、聞き慣れた声で呼び戻された。
「な、長門さん。どうして」
椅子に座ったままちょっと後ずさりする。
「文芸部の休憩時間なんだ。今日、真矢も当番だったなと思って」
「ああ、それで……」
そうだとしても、わざわざ私に会いに来てくれたということか。
「そう言えば、そっちは学校祭のシフト決まったりしてる? どこかで一緒に回ろうよ」
「えっ、は、はい……」
突然のお誘いに、頭の処理が追い付かなくなる。確かに、本来の学校祭は友達同士で見て回るものだ。私はそんなことも忘れていて、一人でその時間をどう過ごすかばかり考えていた。例えば、ほとんどの時間をシフトで埋めてしまったり。実際にはクラスでも図書委員でもシフトは均等に割り当てられたから、そんなことにはなっていない。
「よろしく、お願いします」
「なんか改まっちゃって。今、空いてる時間出せる?」
「うん」
お互いに手帳を開いて、シフトのメモを見比べる。二日間あるうちのそれぞれに都合の合う時間があった。
「じゃあ、こことここね。あと、うちはこの時間がクラス、この時間が文芸部のシフトだから、会いに来てもいいよ」
「ありがとう」
「真矢のところにも行くからね」
「そんな、そこまで……」
メモをよく見ると、長門さんは自分の時間の半分以上を私のために使おうとしてくれている。さすがに申し訳ない気がした。
そうして遠慮する気持ちを見せた私に、長門さんは不満そうな顔をずいっと近づけてきた。
「真矢、察してくれよう。うち、クラスにあんまり仲良い人いなくて、ぼっちなんだから」
「そんな……」
長門さんはクラスで友達がいない。そんなことは本当にないと思った。のけ反って言葉を続けられずにいると、長門さんはまた離れてくれた。
「信じた?」
私はぶんぶんと首を横に振る。すると、長門さんはにやりと笑って。
「本気で疑ってるね。ありがと。ともかく今回は真矢と遊び尽くすって決めたんだから、遠慮はなしよ」
「うん」
「じゃあ、そろそろ休憩終わるから。またね」
「お疲れ様」
戻っていく長門さんに手を振る。結局、友達がいないのが本当なのかはわからなかった。こればっかりは、最後まで疑っていてもいいと思う。
それよりも、当日の楽しみに期待したい。そのときにやっぱりお互い名前で呼び合って、いつも以上に楽しく話したりもできたら最高だと思った。
第七話「無人の展示を、疑って」
まだ、昨日の体育館での地鳴りのような歓声が頭に響いている。
いよいよ開幕した学校祭。だけど私は、前夜祭の時点で周囲の狂気的な勢いに圧倒されてしまって、今日も楽しめる気がしていなかった。
とりあえず長門さんに会う時間まで休憩できる場所を探して歩いた。今日は図書室も閉めているし、食事のために開放される教室もまだ開いていない。そんなとき行きついたのは、文芸部が展示をしている教室だった。
中には机と椅子を四つずつ集めた島が点々と作られていて、中央に部誌の山が置かれた長机がある。ところが人はいない。
表には「ご自由にどうぞ」という張り紙もあるけれど、やっぱり部の人がいないところに入るのはいけないと思う。長門さんは今、自分のクラスのシフトに入っている時間だ。外の校門の近くで焼きそばの屋台をやっているらしい。
「すみません! 入って大丈夫ですよ!」
そこに、文芸部員と思われる女子が片手にハンカチを持ったまま駆け寄ってきた。二つ隣のクラスのTシャツを着ている。
「あっ、失礼します……」
彼女は私の後から入って、入口の傍に据えられた受付の席に座った。そして、なんとなく私を見ている。
「あの、部誌……頂いてもいいですか」
「どうぞ。たくさん積んである黄色い表紙のが、最新号です」
「ありがとうございます」
どことなくぶっきらぼうな案内。表情からは悪意は感じないけれど、少し気まずそうだ。私も気まずい。
とりあえず最新の部誌を一冊頂いて、受付の彼女に対して横向きになるような席に座った。外に出るよりは、こっちのほうがまだ落ち着けそうだった。それに、部誌を開いて読書に入り込んでしまえばこっちのものだ。
黄色い表紙で和綴じの外装にもはや感心しながら、まずは長門さんの作品を読もうと思った。ところが、目次では長門さんの作品を見つけることができない。作者名がペンネームになっていて、どれが長門さんなのかわからなかった。
事前に教えてもらえなかったことを少し残念に思ったけれど、ここは考え方を変えてみることにした。作品の内容は聞いているのだから、最初から読んでいけばいつかは出会える。むしろそうして、他の人の作品も読むのが最も礼儀正しいのだと。
最初に載っていた小説は、長門さんの作品ではなさそうだったけれど、進路に悩んで精神的に不安定になる大学生の姿を見事に描写したものだった。お酒に溺れるところなんかは、とても高校生が書いたとは思えない。あるいは自分で飲んで体験したのではないかと疑うほどだった。でも、別の例を挙げれば銃を触ったことがない人でも銃撃戦の描写はできるわけだし、魔法が使えなくても魔法の描写はできる。それは人が持つ無限のイマジネーションだ。
「面白いですか?」
最初の小説を読み終えたところで、受付の彼女が声を掛けてきた。相変わらず教室には私たちだけ。
「はい。まだ、最初の小説だけですけど……高校生のうちに、こんな小説が書けるようになるのか、なんて……」
自分でも、ちゃんと答えを返せたのは意外だった。普段、長門さんと喋っていたのが多少は練習になっていたのだろうか。
「最初の小説は三年生の先輩の作品なんです。すごいですよね」
ちゃんと会話ができた。それでお互い、少し笑顔になる。
「一年生ですよね。何組ですか?」
「二組です」
「そっか。部活には入ってる?」
同じ学年と知るなり、彼女は砕けた口調になった。この距離の詰め方は、コミュニケーションに慣れた人のそれだ。
「いいえ。でも、図書委員をしています」
「ああ……もしかして、ナスカちゃんの?」
聞いたことがありそうでない名前が出てきた。でも、文芸部員の彼女が図書委員と聞いて連想するかもしれない人は、そう何人もいないと思う。
「長門さんですか」
「そう。よく図書室で執筆してて、図書委員の友達がいるって言ってたから」
思わぬところで長門さんのニックネームを聞いてしまった。ナスカちゃん。たぶん、フルネームを縮めて呼んでいる。親しみを込めたニックネームで呼ぶのは、名前で呼び合うよりもドキドキすることだろう。でもやっぱり、勝手に知ったニックネームで呼ぶのは悪いと思う。
「ナスカちゃんのペンネーム聞いてる?」
「いいえ……」
「そうなの。教えてないんだ」
彼女は少し意外そうに、残念そうに首を傾げていた。
「教えてあげよっか?」
「だ、大丈夫です」
咄嗟に断る。大丈夫、間違っていない。それにしてもこの人は、だんだんと圧力を増してきているような気がする。それは私への興味で説明できるのか。そもそもお互いまだ名乗ってもいない。一年生同士なのは上靴のラインの色から明らかだけど、それより深い情報がない。
でも、自分から質問するのはなんだか怖くて、私は隠れるような気持ちでこっそりと手元の部誌に目線を下ろした。
このまま待っていれば、もう少しで長門さんもここに来るはず。それまではやり過ごしていようと思った。
第八話「友達の友達を、疑って」
教室のエアコンからはじんわりと冷風が出ていて、安心できる涼しさを作っている。二番目の小説を読み終わった頃、そこに長門さんが入ってきた。
「お疲れ。おお、全然人いない……」
「まだあの子だけね。それじゃあ、交代で」
「はいよ」
受付の人は長門さんと軽く会話をして、すぐに外へ出ていった。
「真矢、来てくれてたんだね。ありがとう」
受付の机に濡れた紅茶のペットボトルを置いて、長門さんが近づいてきた。クラスTシャツの襟元をぱたぱたさせて、「涼しい……」なんて呟いている。外で焼きそばを売っていて、火の近くにいたらとても暑かったはずだ。
「熱中症、ならなかった?」
「大丈夫。麦茶のタンクが置いてあってね。うちは会計だったんだけど、がぶ飲みしてたよ。もう汗だくだし」
私の横を通ってから、長門さんは積まれた部誌を点検した。私が一冊取っただけなので、六つの山がほとんど同じ高さできれいに並んでいる。
そんな長門さんのTシャツの背中には、「ナスカの小説家」という文言がプリントされていた。多くのクラスTシャツはこんな風に、自分で決めた文言をプリントできるらしい。私のクラスがそうでないタイプのもので、密かに良かったと思っている。延々と悩んでしまうに決まっているから。
それにしても思い出すのは、さっきまで受付にいた人のことだった。
「長門さん。さっきの受付の人って、どこのクラスの人?」
「四組だよ。あっ、もしかして何も教えてもらえなかったな?」
それがなんだか普通のことのように。
「うん……そういう人なの?」
「井出さんっていうんだけど、秘密主義でさ、自分のことを自分からはほとんど話そうとしないんだ。その割に相手のことにはどんどん踏み込んでいくから、最初はちょっとびっくりするよね。まあ、あの子なりのコミュニケーションだよ」
「怪しい人……」
思わず、疑う気持ちが出てしまう。友達の友達ではあるし、いけないと思いながらも。
「怪しくはないよ。聞けば結構答えてくれるし。何を考えてるかはわかりにくいけど、意外と単純だったりするし」
あまり想像できなかったけれど、長門さんが言うのだからそうなのかもしれない。
「そう……長門さんとは、仲良いの?」
「まあね」
「井出さん、長門さんのことニックネームで呼んでた」
「あは、聞かれちゃったか。井出さんしかそう呼んでないから、あんまり気にしないで」
長門さんは気恥ずかしそうに人差し指で頬を掻いた。その様子を見て、私の中である感情が動くのを感じる。
今、私は長門さんを名前で呼ぶこともできずにいるのに、井出さんは独自のニックネームで呼んでいるなんて。俄然、長門さんを名前で呼びたいという気持ちが強くなる。
「長門さん。その、私も……名前で呼んでいい?」
勢いでお願いしたら、後から全身が熱くなった。
「おっ、思い切ったねえ。もちろんいいよ」
長門さんは笑顔でこともなげに答えてくれる。しかし、そこからが無策だった。名前呼びにもいろいろある。やっぱりさん付け? ちゃん付け? それとも……呼び捨て?
「えっと……」
緊張している素振りで、実際緊張もしているけれど、考える時間を稼いだ。そして、井出さんと同じようにちゃん付けにしようと決めた。
「あっ、ナスカちゃん」
「なんでやねん!」
瞬間的に、長門さんの鋭い言葉のツッコミが入った。
「ごめんなさい! 舌がもつれちゃって……」
「ふふふ、真矢は本当に面白いね」
やっぱりそう呼ばれるのは恥ずかしくて、長門さんも怒っているのかと思ったけれど、声は穏やかに戻っていたし、顔を見ると笑っていた。
「怒ってない?」
「全然。なんか、真矢にそうやって呼ばれるのはくすぐったい気がしてたんだけど……実際に呼ばれてみると悪くないかも」
「そう……なんだ」
私がその言葉の意味を測りかねていると、長門さんは少し目を逸らして、舌先を横にちょっと出した。
「実はね、井出さんしかそう呼んでないのは嘘なんだ。クラスでも結構呼ばれてる。だから『ナスカの小説家』で通るんだよ」
背中の文字をちらっと見せて。確かに、井出さんとの間だけの話だったら、こんなに大っぴらにするはずもない。
「確かに……」
その嘘を疑うことを忘れて、前のめりになっていた私がなんだかおかしかった。でも、やっぱりいきなりニックネームで呼ぶのは飛躍しすぎだし、身体がぞわぞわしてしまうので、これからは普通にちゃん付けで呼ぼうと思った。
「じゃあ、改めて……明日香ちゃん。よろしくね」
「うん。真矢もね」
それから明日香ちゃんの当番が終わるまでの間に、私はとうとう明日香ちゃんが書いた小説を見つけた。明日香ちゃんのペンネームは「長栖赤菟」というらしい。よく見ると読みが本名のアナグラムになっていて、それに気づけなかったのが悔しかった。
いくつか悔しいことも空回りしたこともあったけれど、普段と違うことが起きて楽しいと思い始めていた。この後は私も自分のクラスの当番だけど、その後には明日香ちゃんと見て回る時間がある。
「じゃあ、そろそろ行くね。また後で」
「はいよ。クラスまで迎えに行くから待ってて」
「ありがとう」
居心地の良かった教室と明日香ちゃんに別れを告げて、賑やかな熱気の籠る廊下へ出た。
第九話「疑う自分を、疑って」
玄関から出ると日が沈んでいて、昼間の焼けるような熱気も冷めてきていた。人が続々と校舎から出ていく。辺りに色とりどりのTシャツが見えるのは、とても下校風景とは思えない。泣きながら出てくる人もいる。三年生だろうか。この空気の中で感傷的になる気持ちも、今なら多少は理解できる。
終わるのが惜しくなるほど、全力で楽しんだから。
私もそういう気持ちを、かけらほどではあるけれど抱えていた。前までは一緒に楽しむような人もいなくて、一人で楽しんでも周りから変な目で見られるだけだし、そうまでして楽しんで何になるだろうと疑っていた。でも、今年の私には一緒に楽しむ人がいて、初めて本当に学校祭を楽しむことができた。
柱に寄り掛かって、初めての親友の顔を思い浮かべる。
「隣のクラスだったよね。体育で一緒の。図書委員だったんだ」
私が初めて図書委員の当番に入ったとき、明日香ちゃんが本を借りに来た。私はその手続きを散々一人で練習して、頭の中で何度もシミュレーションしていたのに、いざ本番になると全然声が出なくなって、画面の操作も間違って、迷惑を掛けてしまった。
それでも、明日香ちゃんは穏やかな笑顔のままで待ってくれた。謝ったけど、何も気にしていない様子だった。本当は心の中でイライラしているわけでもないらしい。
「うち、一組の長門明日香。文芸部で小説を書いてるんだけど、ここで執筆しても大丈夫かな?」
「だ、大丈夫、です。えっと、私は二組の、疋田真矢です」
私は半分パニック状態で、その言葉も自分で思っていたほど上手く発音できなかったのだと思う。明日香ちゃんも最初ちょっと首を傾げたけれど、すぐにまた微笑んだ。
「ありがと、真矢。じゃあ、場所借りるね」
それから、明日香ちゃんは図書室を閉める時間までいて、一緒に帰ることになった。私は駅で別れる直前まで、一言も喋れなかった。どうしてこんなひどい応対しかできなかったのに、隣のクラスというだけで親しげにしているのか。何か裏があるのか。そんな疑いが尽きなかった。
でも、そんな私にも明日香ちゃんはめげずに話しかけてくれる。授業のこと、気になるニュースのこと、面白かった動画のこと。私は相槌だけはして、聞いているだけで精いっぱいだった。
そうしているうちに、私は一つの可能性に思い至った。
私は自分がひどい応対をしたと思っていたけれど、実はそれほどではなかったのではないか。逆に今、会話できずにいることのほうがひどいのではないか。
「長門さん」
改札の直前で、ようやく私から名前を呼んだ。
「どうした?」
「あの、今日は全然喋れなくて、ごめんなさい」
「いいよ。具合が悪いとかじゃなくて良かった。そうだ、明日の朝、ここで待ち合わせして一緒に学校まで行かない?」
「そ、それって……友達、みたいに?」
「うん。うちはいつも、このくらいの時間なんだけど……」
そうして、明日香ちゃんがリードしてくれるままに、待ち合わせまですることになった。私にとっては、それがすべての始まりだった。
あれから、私も少しは変われたと思う。明日香ちゃんと一緒にいないときでも、自分の中にある疑いを少しずつ自分で解きほぐすことができるようになってきた。
玄関にはまだまだ人が多い。だけどその中から、私のほうにまっすぐ向かってくる人がいた。
「真矢、お待たせ。お疲れ様」
「明日香ちゃん。お疲れ様」
二人でいつものように、駅へ向けて歩き出す。そこで、明日香ちゃんが私の手元に目を留めた。
「あれ、真矢。傘忘れてない?」
それは、私がどんな日にも丈夫な傘を持ち歩いていたから。でも、今日は違う。
「忘れてないの。今日は、雨なんて降ってほしくなかったから……」
「へえ、いい理由だね。その願いはきっと、空に届いたよ」
行く先の空には、一番星が見えた。
疑いの底から連れ出して