03 触れる…
01章~13章
01
1月の火曜日。
ジンジは机に片肘をついて身体を捻り、教室の後方の扉を見ている。
……と思えば、黒板の上に掛かっている時計に視線を移す。
そして今度は前の扉を……そしてまた時計を見て、窓の外……を繰り返していた。
朝自習開始の8時まで、もう5分もない。
すると突然、105(1年5組)のナオが教室に入って来た。
続いてユウコ、そしてカコが姿を見せた。
おっかない顔で、ナオがジンジに近付いて来た。
何か悪いことでもしたか?……家入は反射的に身構えていた。
「昨日ね、カコがね、部活中にね、汗でね、濡れたね、コートにね、足を滑らせたの」と早口で捲し立てていた。
「たいしたことないよ」とやって来たカコは笑っていた。
「そんなことないよ!」
ユウコは抱えていたカコの鞄を机の上に置いた。
ジンジの前の席がカコの席だ。
ナオとユウコは、まだ鞄を肩から掛けたままである。
「でも……」と何か言おうとするカコを制して、
「いいから、とりあえず席に座るの。さッ早く!」とユウコ。
う、うん……とカコは机に手を置き、身体を支えながらゆっくりと腰掛けていた。
「なんか凄く大変そうだけど」とジンジ。
「そう、それでね、家入くんにお願いがあるの」とナオ。
「今日の帰りは、じ、じ、じ、ジンジがカコの鞄を持ってやってくれない?」と言ったユウコは、小さくガッツポーズをしていた。
ナオはユウコを横目で見た。①
「やっぱりいいよ。そんなの頼めないよ」とカコ。
「よくない。その足で鞄を持って帰るのは大変なんだから!」今度はナオだった。
「ほんとにいいよ。大したケガじゃないし、大丈夫だよ。ひとりで帰れるよ」
「駄目、大したケガじゃないわけないよ、捻挫だよ。今朝だってわたしとナオが交代で鞄持ってあげなきゃほとんど歩けなかったじゃない。夕方も絶対ひとりで帰れるわけないよ!」
「はいはい」
こりゃあ長くなるなと感じたジンジは、三人の会話に割って入った。
「要するにオレがカコの鞄持ちをやればいいってことですね。了解しました、やりましょう」
ナオはジンジを横目で見た。②
ユウコが机の上に置かれたカコの鞄をポンと叩く。
「ジンジなら絶対引き受けてくれるって言ったでしょ」フンと鼻を鳴らした。
「ジンジだって部活があるんだよ」
ナオはカコを横目で見た。③
「わたしたちだって部活があるもん」
ね~、とユウコがナオに同意を求める。
ナオはぎこちなく頷いた。
「部活のことなら何とかするから――」とジンジはあっさりと応えていた。
「ほらね、これで決まりだね」とユウコ。
「じゃあ、ジンジお願い。さ、自習時間がはじまるよ。ナオも教室に戻るンでしょう」
ナオは渋いで、三人を順番に眺めていた。
「……どうしたの?」
「ひとつ訊きたいことがあるんだけど!!」とユウコを半睨みした。
「なに?」
「今のなに?」
「何……て?」ジンジが不思議そうにナオを見ている。
「あなたたち二人は……。二人はいつから家入くんのことを〝ジンジ〟って呼ぶようになったの? それに家入くんは家入くんでカコのことを〝カコ〟って呼んでるし――」
「そ、それは……」
ユウコがカコを伺うように目線を向けた。
「その話は今度……」
ナオは首を大きく横に振っている。
「駄目……だよね」
「わたしだってまだ池くんのことをイケピンって呼べてないンだよ」
ナオはムキになっていた。
ジンジは驚いた。
「そ、そうなン? 菅野さんって……」
机が小さく揺れた。
何だ?と顔を上げると、カコが口を真一文字に結んで、素早く小さく首を2度振った。
「ね、ね、いつからなの? どうして? 何があって家入くんをジンジって呼ぶようになったの?」
ユウコではなく、今度はジンジに詰め寄っていた。
気持ちが口に出たことを、ナオ自身は気づいていないようだ。
「え? そ、それは……」
ジンジはユウコを見る。
「ナオってばさァ、落ち着きなよ。今はカコのことを一番に考えなきゃならないンじゃないの?」
「それはもう解決済み。家入くんがやってくれることになったじゃない」
「あ、そうだった」
「じゃあさ、菅野さんもオレのことを好きに呼べいいよ。それでこの件は終わりにしようよ――」
「え? ほんと、いいの?!」
ナオはユウコから瞬時に振り返り、ジンジに迫ってきた。
ジンジは反り返りながら「いいよ」とカコに目線を送った。
「で、その詳しいいきさつは、休み時間かお昼の時にでも二人に訊けばいいさ」
「そうだね、そうしよう。話せば長いから……」へへっ……とユウコが慌てて口添えした。
8時5分前の予鈴が鳴った。
ナオは渋々了解した。
「ユウコ、それにカコ、お昼にちゃんと教えてネ」
「解ったわよ、ちゃんと教えるよ」とユウコ。
「イエイリ君……ってちょっと呼びにくかったのよね」
ナオは掛けっぱなしだった鞄のベルトの位置を調整した。
「ナオ、よかったね」とユウコは指を三本立てた。
「何それ?」とナオ。
すかさず調査を入れてきた。
「それもお昼にね……」
「あのう……」とジンジ。
「な~に……、じ、じ、ジンジ」ナオはさすがに照れくさそうだ。
「自習が始まりそうなんですが……、でお二方のご用件は? これでお済みなンですよね……」と壁の時計を指さす。
「そうだった」とユウコ。
ユウコは席に戻り、ナオは教室を飛び出していった。
「なんか、騒がしい朝だった~」ジンジは長い息をついた。
「こんなことになっちゃて、ごめんネ」
「そンなのはいいから……」
ジンジは改めてカコに向き直った。
「それでケガしたのは足だけなのか? ほかにぶつけたりした所とかは無いのか?」
屈んで足を覗き込んだ。
「足だけ……」
「どっち?」
「左」
良く見えるように、椅子から身体を4分の1回した。
白いソックスが、右より膨らんでいる。
微かにメンソールの香りがする。
「気をつけろよ。学校休まれると(カコの分まで)オレがノートを取らなきゃならないンだからな」
こいつゥ~ と拳を振り上げるふりをする。
「わたしが休んだほうが、ジンジは真面目にノート取ることになるンじゃない」
カコが逆襲に出た。
「うん、まあ、それは……」
「そしたら凄く勉強になるでしょ」と更に突っ込まれた。
ジンジの完敗だった。
02
放課後。
ジンジはカコのスピードに合わせてゆっくりと歩いている。
左肩から自分の鞄、右肩からカコの鞄を、それぞれの肩ベルトを交差させて掛けていた。
そして右手には、アディダスのスポーツバッグを持っている。
最初にカコの鞄を持ったとき――、
「重てェ~、何が入ってるんだよ」とジンジは思わず口にしていた。
「教科書とノートと辞書と筆箱と他にはえ~と……」
「辞書?!」
「うん、国語と英語」
「二冊も入れてんの?」
「だって今日、国語と英語の授業あったでしょ」
「そ、それはそうだけど……」
「ジンジの鞄が軽すぎるんだよ。教科書でしょ、ノートが二冊、一冊は勉強用ノートで、もう一冊が何でもノート、あと大きなお弁当。お弁当はお昼食べちゃったら空だものね。それから……」
「筆箱。それで最後だよ」
「でもね、女の子は他にも色々と持って行かなくちゃならない物がたくさんあるの。だから重くなっちゃうんだよ」
「色々って何?」急に変な興味を示してきたジンジに「何でもいいでしょ」とピシャリ。
「それで女子の鞄っていつも膨らんでるんだ。こんなの毎日持たされたら堪んねェな。足、早く直してくれよな」
「りょ~かい・です」と明るく返していた。
03
翌朝水曜日。
「いってきま~す」
カコは普段より30分早く家を出た。
家を出て、最初の角まで来ると――、
「!?」
ジンジが身体を震わせて立っていた。
「お、おバよう~」
寒さで口が回っていない。
「おはよう、どうして?」
鞄を持ってくれるのは夕方だけかと思っていたのだ。
「道に迷っちゃてさ」
寒さに耐えきれずに、ジンジはスクワットを始めた。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ、ほんとさ――」
ふ~ん……と口を尖らせながらの疑いの目でジンジを上から下まで見回した。
「学校までの道、教えてくんないかなぁ~?」スクワットをしながら両手を合わせて拝んでいる。
「その代わり、鞄持ってやるからさ」ジンジが両手を差し出す。
「でも、途中で友達とかに見られたら恥ずかしいんじゃないの?」
カコは急に、鞄を出すのを躊躇った。
「昨日だって持ったじゃないか」
「昨日は夕方で、もう薄暗かったから……」
「誰かに見られて何か言われたら、その時は罰ゲームだって言うから大丈夫さ。ほら早くよこせよ。遅刻すンぞ」
鞄を無理矢理に奪い取っていた。
「ほら、何してんだよ、行くぞ」と背を向けていた。
「道……解るの?」
「そうだったどっちだっけ」と言いながら背を向けたまま学校があるの方角へ歩んでゆく。
「ジンジ、早いよ……」
ジンジは慌てて立ち止まり……、振り返った。
「ごめん」
「ゆっくりね」
「ああ」
今度は並んで、二人はゆっくりと歩いた。
04
放課後。
ジンジがカコを待っていた角まで、二人は帰って来ていた。
「鞄、昨日より軽かったな」ジンジはカコに鞄を返した。
「辞書が入ってないから」
「そっか」
ジンジは自分の鞄のベルトの位置を直した。
「部活行くの?」
「これから行く」
「わかった。じゃあ、頑張ってね」
「うん、またあした」
「またあした」
言葉を交わし、二人はお互いに背を向けていた。
カコは家への角を曲がった。
……と、何かを思いだしたように、すぐに別れた場所まで引き返していた。
でももう、彼の姿はそこには無かった。
05
木曜日、朝。
ジンジは今日も、カコを待っていた。
お互いにしっかりとおはようの挨拶を交わす。
「あしたから部活出れそう」とジンジに鞄を渡す。
「そうか、良かったな」
受け取った鞄を右肩から掛け、自分の鞄とのバランスを調整し、準備オッケーと顔を上げた。
「じゃあ行こう」
「うん」
ジンジはカコの歩く様子を注意深く観察した。
具合は、随分良くなっているようだ。
歩く早さが、普段と変わらなくなってきている。
これなら、今日は以外と早く学校に着けそうだ。
「でネ。いいこと思いついたんだ」とジンジが突然言い出していた。
「カコの鞄を持ってるのを誰かに何か言われたらさ、四つ足動物やってるってことにしょうぜ」
四つ足動物とは? ジャンケンで負けた者がみんなの荷物を、犬や猫などの四本足の動物を見つけるまで担ぎ続けるゲームだ。
動物は担ぎ手本人が見つけて申告しなければならない。
他の者が見つけても決して教えたりはしない。
「ほら、あそこの電信柱で犬がおしっこしてる……」
などと、他の者同士で担ぎ手に聞こえないように、こそこそと言葉を交わす。
担ぎ手もあやしいと思いながら、みんなと同じ方向を見ているのだが、以外と見付けられないものである。
担ぎ手が見付けたら、そこからまた全員でジャンケンをする。
担ぎ手がまた負けることもある。
そこがゲームの面白いところでもあるのだ。
「それはそうと、ジンジは昨日とおとといは部活行ったんだよね」
「行ったけど……」
「遅刻したでしょ?」
「した」
「先輩に何か言われなかったの?」
「別に、何も言われなかった」
「そう、ならいいんだけど……」と首をかしげる。
「それがどうかしたのか?」とジンジ。
(遅刻は自分の中の問題として解決している。だからわたしに〈それがどうかしたのか?〉……て訊いてるんだね)
「どうもしない……」
(部活が終わった後も、一人でダッシュを繰り返していたってナオとユウコが教えてくれた。それって遅刻の罰なんじゃないの?)
何故か、自分だけが……、気持ちが空回りする。
カコだけのちぐはぐな時間が過ぎてゆく――。
旭東通りから学校へ曲がった。
「足の調子もだいぶいいし、夕方はもういいよ、大丈夫だよ。鞄、ちょうだい」とカコは切り出していた。
「でも部活は今日まで休むつもりなんだろ?」
「そうだけど……」
「でも送るよ」
「いいよ」
「いや送る。絶対送る」
ジンジの、絶対というの言葉だけが強く気持ちに残った。
「……」
「なら決まり、な!」
カコは反対する理由を見つけることが出来なかった。
結局鞄も、ジンジは教室まで持っていってしまった。
06
夕方――。
「三日間(ほんとうに)ありがとう」カコはジンジから鞄を受け取った。
「じゃあオレ、部活行くわ」
「うん」
ジンジは足首をぐるぐると回した後に屈伸を始めた。
「ねぇ、またあした、の挨拶がまだだよ」
「そうだっけか? ごめん。じゃあまたあした」と手を上げる。
ジンジは左肩から掛けている鞄のベルトは外さずそのまま右腕に抱えあげ、手に下げていたアディダスのバッグを左腕で抱え直した。
「走るの見てていい?」
「何で?」
「何で……て、見たいから」
「そんなの見せるもんじゃないと思うけど……」ジンジが振り返る。
「見たいから見たいの。〝絶対〟見せて――」
「わかったよ」
「いいの?」
「ああ」靴と地面の感触を確かめ、こころもち腰を落とす。
ジンジは飛び出していった。
その姿はすぐに角を曲がって消えた。
(そう言えば、運動会ではいつもリレーに出てたっけ……)
きびすを返したカコは、急いで家に向かった。
足の痛みはほとんど無い。
鞄を玄関に置き「ちょっと行ってくる」と言い残して、カコは自転車に飛び乗っていた。
07
カコは、旭東通りの道の途中で自転車を降りた。
その道は宮中のグラウンド脇を通る道で、自転車を止めた目の前にサッカーのゴールがあった。
グラウンドの大体3分の1をサッカー部が使って、20名ほどの部員が練習を行っていた。
1、2年合同で攻撃側と守備側に分かれ、ミニゲームをやっている真っ最中だった。
高い金網のフェンスを通してジンジの背中が見えた。
彼は守備側だった。
ジンジはボールを持った攻撃側の先輩に迫っていた。
だが、軽くあしらわれて抜かれてしまう。
「家入、何やってる。回り込め!」守備側の先輩から指示が飛ぶ。
追うジンジ。
足が早いからすぐ追いつける。
先輩とゴールの間に割って入り、シュートをさせないようにしながら、チェックを掛ける。
「あっ」カコは両手で口を押さえていた。
小柄な彼は、先輩のぶつかりで簡単に弾き飛ばされていた。
もんどり打って、顔から地面に倒れ込んでいた。
「立て……」という次の言葉が聞こえる前に立ち上がり、そしてまたボールを持つ相手を追った。
また弾かれ、また転んだ。
立ち上がり、また相手を追う。
その繰り返しであった。
10分ほどでゲームが終わった。
終わった瞬間、地べたに座り込みそうになる1年生たち。
2年生も苦しそうだが、体力の差だろう、1年生の方が激しく息をしている。
「手を膝に乗せるなよ、ちゃんと立て」先輩の命令は絶対だ。
腰に手を置き、肩でぜーぜーと息をしながら踏ん張っている。
そして今のゲームについて、先輩から個々に指示が出た。
良かった点と悪かった点、ジンジも何か言われている。
ジンジは、苦しそうはにしながらも大声で返事をしていた。
カコは自転車をUターンさせて帰路についた。
一度だけ止まってグラウンドを振り返る。
彼等の練習着は泥だらけだった。
08
金曜日の朝。
カコは8時10分前には学校に到着し、上履きに履き替えてから教室に入った。
ジンジはもう席にいた。
(寝てる……)
彼は両腕を太股の内側に挟み込み、背中を丸めて眠っていた。
椅子を目一杯机の下に押し入れ、胸と机を挟み込んで前屈みになっている。
額と机が、くっついていまうほどに近かった。
起こさないように、彼の前の席の、自分の机に鞄を静かに置いた。
横から彼の顔を覗き込む。
(やっぱり……)
右の額の生え際の部分がキズになっている。
指を2本並べた幅のキズが眉に向かって走っていた。
(うわ、痛そう。練習で転んだ時のキズだよね……きっと)
見ていると何故か無性に触れてみたくなり、指を近付けてしまっていた。
「う~、寒(さぶ)ぃい」
と言いながら突然、ジンジは背中を震わせた。
慌てて指を引っ込めてる。
「うわ? あっ」
目の前に、しかも結構近い場所にカコの顔があってジンジは驚いた。
「お、おはよう」
「う、うん。おはよう」
身体を起こしてジンジから距離を取った。
「あ、足の具合は?」
「も、もう平気。大丈夫だよ」と言いながら、額のキズを見ている。
ジンジは「見るなよ」と詰襟の袖で額を隠そうと左腕を持ち上げた。
カコが(駄目!)と声を上げようとした。
しかしその前には、彼の腕が途中で止まっていた。
ジンジは顔を歪め「(い)てて……」と上げた状態の形で、ゆっくりと腕を下ろした。
「どうしたの?」
「肩が上がらないンだ」
「どうして?」(昨日の練習でころんだ時?)
「部活で吹っ飛ばされた」(やっぱり)
ジンジははっは~と笑っていた。
「その額のキズも……」とまた指を出しそうになった。
「ああ」
「消毒は、ちゃんとしたの?」
カコはやっと自分の椅子に座った。
そして、鞄の中身を机の中に移す作業を始めた。
とにかく何かをしていないと、額のキズに触れてしまいそうになる自分がいた。
「風呂でちゃんと洗って、オキシドールで拭いた」
「それだけ?」
「ヨードチンキ塗ると、色が付いちゃってカッコ悪ィじゃん」
「ほかには?」
「他?」
「ほかにケガをした所はないの?」
「う~ん、あと膝がズル剥(む)け、風呂で洗って……スゲー痛かった。ここはヨードチンキ塗ってある。うんにゃ、ヨードチンキ塗ったときの方が痛かったなぁ~」
まるで他人事のようだ。
「大丈夫なの?」
「平気さ」
8時5分前の予鈴が鳴る。
「ほっときゃ直る」
自習時間が始まった。
09
「外さみ~から、昼休みは馬乗りやろうぜ」弁当をかっ込みながら、ツカサが突然言い出した。
「いいね~」
「それ、いいね~」
「やろう」
「やろうぜ!」
教室の男子のほとんどが声を上げていた。
ごちそうさまをするや否や、男子たちは女子たちを押しのけ、机と椅子を、教室の中央を開けて左右に運び始めた。
机と椅子をセットにして運んでいるジンジに、カコが寄ってきて「今日は止めといた方がいいよ」と耳打ちした。
「平気さ」
「右肩上がんなかったじゃないの。膝もケガしてるって言ってたじゃない。またぶつけたりしてこれ以上悪くなると大変だよ。大好きなサッカーも出来なくなるかも知れないンだよ」
「平気だってば」ジンジはやると言い張った。
「ジンジ、早よ来いよ。(チーム分けの)ジャンケンすっぞ」ツカサが怒鳴っている。
「待っちくりぃー」机を運び終えたジンジは、仲間たちの中に飛び込んでいった。
それぞれ二人組となり、ジャンケンして勝ちチームと負けチームが、あっと言う間に出来上がった。
もちろん勝ちチームが先攻で乗り手となる。
女子たちもかなり教室に残っていて、見物を決め込んでいる。
廊下側と窓側、好きな場所を選んで始まるのを待っていた。
ジンジは先攻チームと一緒に黒板の方へ移動……。
と彼はチームから離れ、窓際に立つカコとユウコの所までやって来た。
「……」
ジンジはカコの横まで来ると、そのまま尻を落として床に座り込んだ。
「ズボンが汚れちゃうよ」
カコがジンジを見下ろす。
額のキズが見える。
彼は何も言わない。
「肩、痛いの?」
「もう痛くない」
彼は、そう呟いていた。
10
馬乗り。
数人が敵味方に分かれて馬と乗り手になり、ジャンケンで勝ったほうが先に乗り手になる。
まず馬方の親が壁に背をつけて立つ。
最初の馬は親馬の股に腰を折って頭を入れる。
次からは順に、前の馬の足の間に頭を入れその足を両手で掴む。
それを繰り返すと長い背をした馬が出来上がる。
乗り手はその馬に後ろから跳び箱の要領で跳び乗り、全員が乗り終わったなら先頭の乗り手と馬方の親がジャンケンをして勝敗を決めるゲームだ。
また、馬方は乗り手の衝撃や重さで膝が地面に着いたり、床に手を着いたりしても負けとなる。
逆に乗り手は馬から一人でも落ちたら負けで、その時点で攻守交代となる。
乗り手は馬の一番弱そうな部分を集中攻撃する。
つまり身体が小さく力の弱そうな馬を狙うのだ。
一人、二人、三人とその馬に重なり合うように跳び乗り、重さと衝撃で潰すのだ。
まず一人目は、出来るだけ遠くに跳ぶ。
親馬とジャンケンするためだ。
「うりゃ~」二人目からは、打ち合わせ通りに狙った馬の背に跳び乗る。
その乗り方が凄まじい。
乗り手は出来るだけ高く跳び上がり、目標に向かって垂直に尻から落下する。
やられた者にしか解らない。
その衝撃たるやハンパ無い――。
そして乗り手は馬にしがみつくように伏せる。
その乗り手の背に次の乗り手が乗る。
重さで馬を潰すのである。
最後から二番目がツカサだった。
ツカサも作戦通りに、一人の馬に何人もが重なった乗り手の背に跳び乗ることが出来た。
身体を伏せて必死で捕まっている。
今にも崩れ落ちそうだ。
「早く乗れー!」ツカサが叫ぶ。
最後の一人がスタートし、ジャンプした。
最後の乗り手は、「ドン」っとツカサの背に衝撃を加えたその瞬間――
パンッ!
小気味よい音をたてて、ツカサの学生ズボンは尻の縫い目から見事に二つに裂けていた。
ツカサの白いパンツが見物人全員の前に「こんにちわ」したのである。
馬乗りどころでは無かった。
教室内は大爆笑となっていた。
11
「きつかった~」
独り言を言いながら、ゆっくりとした足取りで、ジンジは校舎へのを橋を渡った。
すると……「ねェ、ジンジ」中庭にたむろする数人の人影の中から呼びかけられた。
「う~んと、あ~、え~と……」
「菅野です」と声が返ってきた。
「あ、はい。存じております」
「暗くて見えなかったなんて言わないでネ」
「ええ、そりゃあ見えてたさ……」
「うそばっか」ユウコだった。
「おつかれ~」カコだと解った。
人影の中から笑い声があがった。
そこには同じ小学校出身の1年生ばかりが集まっていた。
「さぁ、帰ろうぜェ~」
野球部のイケピン、バレー部のポンタ、陸上部のシンコ、(女子)テニス部のタカコもいた。
タカコは集まったみんなの中で一番背が低い。
でも女子たちの中では一番足が早い。
その足を生かしてコートを駆け回ってボールを拾いまくるのがタカコのテニスだ。
わいわいがやがや、みんなで一緒に帰宅の途であった。
今日の先頭グループは女子だった。
ナオとユウコ、カコとタカコが並んで歩いているすぐ後ろを、男子グループがついてゆく。
ナオとユウコが、タカコに指を見せながら、何かを話している。
するとタカコが、後ろを歩く男子グループに振り返った。
タカコはニッコリを笑い、指を4本立てて男子たちに見せていた。
「何それ?」とポンタがめざとく訊いてきた。
ジンジは「さぁ……」と首を捻った。
ふ~ん、とポンタは訳も分からず指4をタカコに返していた。
もう少しで昭和町交差点というところで「あッ」とジンジが声を上げた。
アディダスバッグを抱えて中に手を入れる。
「どうした?」イケピンが振り返った。
「部室に忘れ物してきた。取りに行ってくる」
「待ってよか?」
「先帰ってていいよ」
「そうか、大丈夫か?」
「大丈夫か?……て子供じゃねぇし」と笑った。
「そだな。じゃあ、またあしたな」ポンタとシンコが声を掛ける。
「うん、またあした」
ジンジはゆっくりと手を上げて、学校へ戻っていった。
旭東通りを引き返し、学校側に曲り、グラウンドをつなぐ橋のところまでジンジは戻って来た。
そこで立ち止まり、アディダスバッグを地面に置き、膝に手を置き、欄干にゆっくりと腰を下ろした。
生徒の帰宅時間はとうに過ぎており、そこには彼の姿しかない。
5分ほどして、ジンジはようやく立ち上がった。
「帰ろ……」ジンジは自分に言った。
ゆっくりと歩いて旭東通りに出た。
足が重い。
特に左だ。
前屈みになって、地面に目を落とし、ゆっくりと歩を進めた。
すると……、
「忘れ物を取りに帰ったンじゃなかったの?」と声がした。
すぐに誰か解った。
「あ、いや、そうじゃなくって……」
ジンジは慌てた。
「また別のとこケガしたンでしょ」
左肩の痛みで歩きがしんどくなるわけじゃない。
カコは、ジンジがいつもは左肩から右に学生鞄のベルトを掛けているのに、今日は右肩から掛けているのに気付いていた。
アディダスバッグも逆に右手に持っている。
そして、ケガをしている左肩の手は鞄の上に乗せている。
「言いなさいよ」カコは強く訊いた。
「そんなにムキになるなよ」
「言って」
ジンジは観念した。
「今日も、吹っ飛ばされた」はは――と笑った。
「うそ……」
また飛ばされたなんて、冗談だと思った。
「転んで左膝をまた擦った」
「折れてたりしてないよね……」
「折れてたら今ごろ救急車に乗ってるよ」
「……」
「だからゆっくり歩きたくてさ」
冗談っぽく首をすくめて見せようにも、肩が痛くて出来なかった。
12
「大丈夫?」
「とにかく帰らなきゃ。腹減ってるし。腹減って動けなくなる方が先かも……」と冗談を言う。
まだ余裕はあるようだ。
「鞄持とうか?」
いや、この方がいいんだ……と断った。
ジンジは学生鞄の上に左腕をのせている。
じゃあ、とカコはアディダスのスポーツバッグを持ってやった。
「サンキュー」と歩き始めた。
今のジンジは、膝を上げられる状態ではなかった。
曲げられない膝を引きずるように、ヒョコ、またヒョコ、とゆっくり前へ運んだ。
「あしたは?」
「部活には顔を出すけど、肩と膝のようすを見てどうするか決める」
絶対無理だよ、とカコは首を横に振っている。
「なんで頭を振ってンの?」
――とカコに顔を向けたとき、左足の爪先が道路の起伏に引っ掛かり、バランスを崩していた。
膝を折りそうになるジンジを助けようと、カコは思わず彼の左肘を後ろから手を回して持ち上げていた。
前屈みぎみの肩が後ろに引っ張られた。
「む、ぎっ」ジンジの口から音が漏れていた。
「ご、ごめんなさい」カコは慌てて手を離した。
ジンジは転ぶのをかろうじて堪(こら)えた。
肩で息をしながら身体を起こし、何でもないと笑って見せた。
「……か」
「え? か?……なに?」
「母ちゃんが」
「え?」
「母ちゃんが、今日は〈む、ぎっ〉ご飯だって言ってた」
言葉が止まった。
(こいつう)カコも笑顔で応えた。
ジンジは「うん」と声を出し、「はっ、はっ」と細かく息を吐きながら背筋を伸ばした。
カコに向き直る。
「歩ける?」カコが訊く。
「歩ける。でももう少しゆっくり」親指と人差し指で数ミリの隙間をつくって見せる。
「わかった」と肩を並べて二人は歩いた。
急ぐことなくゆっくり、ゆっくり。
歩きながら……、
カコは鞄の上に乗せられたジンジの左手をジッと見ていた。
「なに見てんの?」
「別に、手を見てるだけ」とカコ。
「手?」
「そう、その手。だだ鞄の上に乗せられているだけだなんて、なんだか独りぼっちでかわいそうに思えてきちゃって……」
カコは指を伸ばして彼の左手の甲に「ふれる…」。
指が小さく動いた。
ジンジが、カコが触れた手を見る。
「ごめん……」
「謝ることない」と言ってまた前を向く。
カコは自分の手を、その独りぼっちの手の上に重ねた。
「冷たいね」とカコ。
「冬だから……」
カコは、その手を優しく包み込んでいた。
13
翌朝、金曜日、7時20分。
「行ってきま~す」
ジンジはいつもより早く家を出た。
普段の足ならば家から学校まで、走れば5分の距離なのだが、今のこの足では30分は掛かるだろうと思っている。
この時間に家を出れば、8時始業の10分前には着くもくろみなのだ。
今日も、右肩から学生鞄のベルトを掛け、アディダスバッグは右手に持っている。
左手は鞄の上だ。
左膝も、昨日よりは少しだけだが上がるようになっていた。
家を出て最初の角を右に曲がってまっすぐ30メートルも行けば旭東通りであるバス通りに出る。
その通りにまで出れば、学校まで一直線だ。
だが、家を出て最初の角まで歩くのに以外と時間を食ってしまっていた。
アディダスバッグが重く、うまくバランスを取れないのだ。
このままだと自習開始に間に合わないかもしれない。
「急がなきゃ」と独りごちながら、やっと角までたどり着くことができた。
「おはよう」そこにカコが立っていた。
「どうして?」
えへへ……、カコは笑いながらジンジの右に回ると、アディダスバッグを取っていた。
「今日は、部活、見学するつもりなんでしょ。だったら何でこんなの持ってんの」と言いながら、大事そうに両手で抱え込んでいた。
「あ、いや、午後になれば膝も直るかなっと思って……」
「そんなわけないでしょ。膝も肩も無理だよ。完全に直るまで部活しちゃ駄目だよ。無理すると一生サッカー出来なくなっちゃうよ」
昨日と同じことを言われた。
「う、うん、まあ……」
「ほら行こう、遅刻しちゃうよ」
カコは、抱き上げたバッグを左手に持ち替えて先をゆく。
「もう少しゆっくり……」
「あ、ごめん」
カコが立ち止まる。
慌てて戻ってジンジの左側に並んだ。
ジンジは、……左手でカコの右手を握った。
歩きながらカコが言う。
「手……、冷たいね」
ジンジが応える。
「冬だから。でもこのままずっとこうしてれば……、少しずつつでも暖かくなってくる」
「うん」
カコもジンジの手を握り返していた。
おしまい
03 触れる…