02 言葉にできない

01章~12章

        01

 中学1年、7月最初の土曜日。
 梅雨真っ盛りで、朝からジメジメとした雨が降り続いていた。
 チャイムが鳴り、朝の自習が始まり、20分の自習が終わるころ、ガラガラと教室の後ろのドアが開いた。
 みんなが注目する中を入って来たのは、家入シンジだった。
「おお~、やっと来た」男子の声だ。
 家入はうんうんと頷き、墨木カズコの後ろの机に鞄を置いた。
 彼女のすぐ後ろが彼の席なのである。
「おはよ……」家入の声には力が無かった。
「大丈夫?」
 墨木が身体を回して振り返る。
「大丈夫」
 家入は年に1、2度は体調を崩す。
 決して身体が弱い訳ではないが、一度具合が悪くなると、すぐに高が出る体質なのだ。
 今回も、普段なら何でもないちょっとした軽い夏風邪だったのだが、小学生とは違う慣れない部活や生活習慣による疲れがこの2ヶ月で溜まり、大きく体調を崩してしまったのである。
(顔色わる~)
「来週から期末テストだから……」
 鞄から教科書とノートと筆記用具を出して机の中に入れ、空となった鞄を教室の後ろにある自分用の棚に投げ入れた。
(お~い。足がもつれてるよ――)
 支えてやりたくなるほどヨロヨロしている。

 家入が席に着いてしばらくすると自習終了のチャイムが鳴った。
 108(1年8組)担任の畑先生が教室へ入って来た。
 ショートホームルームが始まる。
 開口一番、先生は言った。
「家入、もう大丈夫なのか?」
 彼は一週間学校を休んでいたのだ。
「大丈夫です」家入は応えた。
「無理するなよ」
「解りました」と手を上げ、そのままペタンと頭の上に置いた。
 手を上げるだけでも怠(だる)いらしい。
「じゃあ出席を取るぞ」と先生は帳簿を開いた。
 出欠の確認が終わると、学校からの注意事項が伝えられる。
 これは毎日のことだから、いつも似たり寄ったりの内容だ。
「……それから、来週から期末テストが始まる」
 教室中がざわついた。
「1年生のおまえたちにとっては、初めての期末テストになるが、授業をちゃんと聴いてさえいれば、何と言うことはない。普段通りにやれば大丈夫だ。(テスト期間は部活も休み)午後になったら寄り道せずに家に帰って(土曜日は午前中授業)、明日の日曜日も使ってこれまでやったことを、教科書とノートを読み返しながら復習すれば大丈夫だ。頑張れ……」
 畑先生は、そう言い終わると教室を後にした。
 墨木は身体を90度回して椅子に横座りになり、入家の机に肘を乗せる格好で振り返った。
「ほんとに大丈夫なの?」
 うつむき加減の家入を覗き込もうとすると、彼は身体を反らして距離を取った。
「伝染るから、あんまり近づかないほうがいいぞ」
「風邪?」
「ああ、熱が出ちゃってさ」
 仰け反った身体が、まただんだんと前に傾いてくる。
 7月なのに、彼は長袖の白いYシャツを着ていた。
「今日まで休めば良かったのに……」
 そうは言ったが、墨木は家入の顔が見れて少しホッとしていた。
「来週から期末テストだから、少しでも勉強しとかなきゃと思ってさ」
「でも、テスト範囲の授業はもう終わってるよ」
 家入は、うつむき加減からシャンと一瞬で背筋を伸ばしていた。
「え? え~? そうなのか?」上げた顔には訳が分からないと書いてあった。
「うん」墨木の返事はしごく冷静だった。
「やっば~、で、テスト範囲は?」
「それも、家入くんが休む前の週に、各授業の先生から言われたよ」
「げッ。どうしよう」言葉は発した後の家入の口は、さっきから開きっぱなしになっている。
 墨木は肩を落とし「……んもう、なにやってんのよ」前に向き直ると机の中からノートを取り出すと、また90度回転して家入にそれを渡した。
「これ」
 開かれたノートには各教科ごとの出題範囲が箇条書きに書かれていた。
「あ、あンがと」
 家入が頭を下げる。
 イガグリ頭のてっぺんが墨木の目の前にあった。

        02

「駄目だ、解ンねぇ~」
 家入は鉛筆を放り投げると、今度は机の上に開かれた教科書をのぞき込んだ。
 社会の教科書だ。
 それもテスト出題範囲の地理の部分だ。
 家入はページの中の大小さまざまな大きさの文字に集中しながら、左上から右下まで追いかける。
 何故そうなるンだ?
 こうなる理屈が頭に入らない。
 待てよ、地理に理屈があるのか?
 それも解らない。
 だから〝理屈?〟が頭に入らないから覚えようとしても覚えられない。
「う~」
 首が痛くなってきたので、窓の外に目をやる。
 朝から窓を叩いていた雨は、もうすっかり消えてしまっていた。

        03

 墨木は、借りた本を返すために図書館に来た。
 図書館は、昭和町から橘通りに続くバス路線沿いにあり、橘通り2丁目から東側にある宮崎県庁の南側に建っている。
 宮中の校区内にあり、家からも自転車を使えばそう遠くない場所にある。
 午後2時過ぎ、墨木は係りに本を返し終えた。
 せっかく来たのだから、そのまま帰るのも何かもったいない気がして、墨木はちょっとだけ閲覧室を覗いていくことにした。
 閲覧室を使っているのは、中学生や高校生がほとんどだった。
 どこの学校も、今はテスト前だからだろう。
 ふと……、奥の左端に、丸い背中に乗っかったイガグリ頭が目に留まった。
 墨木は、その背中に静かに近づいていき、空いている右隣の席に座った。
 家入だった。
 彼は厚手の紺色のトレーナーに紺の綿パン姿で、両手を両太股の間に入れ、背中を丸めて机の上の教科書に目を落としている。
 しかし、その目に精気はなくボ~ッとしていた。
「家入くん……」
 家入は声のした方に顔を上げた。
 直後にびっくりしたように目が見開かれる。
「墨木……さん」素っ頓狂な声が出ていた。
 周囲から五月蠅いよと咳払いが聞こえて来た。
「ち、ちょっと出よう」
 家入は落ち着きなく立ち上がっていた。
「うん」……と墨木が先に出口に向かった。
 墨木は淡いピンクのワンピース姿で、素足に洗いざらしの白いスニーカーを穿いていた。
 家入は、その後ろ姿を追いながら後に続いた。
 閲覧室を出て直ぐのところにビニール製の三人掛けソファーがあった。
 ここなら自由に話が出来る。
 二人はそこに座ることにした。
「どうしたんだよ、こんな所に?」
「借りていた本を返しに来ただけだよ。家入くんこそどうしたのよ? まだ風邪が直ってないンでしょう」
「うん、まあ、そうなンだけど。家にいるとテレビ観たくなったり、ラジオ聴きたくなったり、マンガ読みたくなったり、誘惑が多くてさ――」
「ふ~ん、それでなのね」
「あと、(家にいると)寝ちゃうし……」
「ここ、よく使うの?」
 家入は首を横に振った。
「勉強するなら図書館がいいよって姉ちゃんに教えてもらったんだ。回りも勉強してるから自分もやんなきゃ……て気持ちになるって言われたンだ。それで休んだ分取り返そうと思ってさ――」
「で……、勉強は進んでるの? はかどっているようには見えなかったけど」横目で見上げるように家入は見られてしまった。
「駄目、さっぱり頭に入ってこない」
 がっくりと頭を落す。
「開いてた教科書、社会だよね」
「社会が一番苦手なんだ、あと国語……」
「でも、家入くんって数学は得意なンだよね」
 すると家入は驚いて顔を上げた。
「え? 何で?」
「クラスのみんなが知ってるよ。この前、畑先生が小テストを返しているとき言ってたじゃない……」
「何て?」
「あきれた、自分のことだよ。あのね、おっちょこちょいなところを直して、計算間違いをしなかったら、もっと点数取れるって言ってたじゃない。ほんとに覚えてないの?」
「そう言えば、そんなこと言ってたかなぁ~」と家入は頭を掻いた。
「自分のこと誉められてんだよ、ほんとにもう」
 墨木はクスクスと笑った。
「〝オッチョコチョイ〟っていう言葉の前後はすべて忘れることにしてるんだ」
 家入もつられて笑っていた。

 取り留めのない話が続いた。
 曇り空のゆるい光が窓から射し込み、二人の背中の輪郭をぼかしていた。
「いけない、もうこんな時間――」と墨木は慌てて立ち上がった。
 壁の時計を見ると、2時半を回っていた。
「勉強の邪魔しちゃったね、ごめんネ」
「いいよ、休憩しようと思っていたところだから」家入も立ち上がった。
「何時まで勉強するの?」
「確か閉館は6時だから、ギリギリまでここで頑張ってみるつもり」
「そう」
 墨木はまた壁の時計に目をやった。
「頑張ってね……、じゃあ帰るネ」
「バイバイ、そっちも勉強頑張れよ」
 墨木は家入に手を振りながら、一階に続く階段を降りていった。
 ワンピースの裾が、足の動きに合わせてひるがえる。
 家入は、恥ずかしそうに目を伏せた。

        04

 家入は、身体のだるさに耐えながら、社会の教科書と闘っていた。
 重要だと表記されている太字を何度もノートに書いて覚えようとする。
 しかし、病み上がりのため、肝心の頭が半分も機能しておらず、なかなか頭に入ってこない。
 何度目だろう……鉛筆を放り投げ、両手を太股の間に挟み、猫背になって教科書を睨みつける。
 やがて、家入の意識を白い靄(もや)が包み込んでいた。

(いけね、寝ちゃった)
 どれくらい眠っていたのだろう。
 慌てて時計を見る。
 3時半を過ぎていた。
「やべ、やんなきゃぁ」
 家入は、教科書との格闘を再開しようと投げ出した鉛筆に手を伸ばした。
 と……、視線の先に今まで空席だった正面の席に誰かが座っているのに気がついた。
 どんな人かと思い、ゆっくりと顔を上げる。
 墨木が微笑んでいた。
 墨木は生成りのコットンの鞄を両手で胸に抱えておもむろに立ち上がった。
(行こ……)と口の動きで家入を誘う。
 家入も立ち上がる。
 見ると、墨木の席の前には、理科の教科書とノートが開かれていた。

        05

「えへへ、わたしも勉強しようと思って……。家にいると色々と誘惑が多くて集中出来ないンだよね」
 閲覧室を出た先にあるソファー腰掛け、家入を見上げる。
「いつ来たンだよ?」
「5分くらい前かな……」と舌を出す。
「起こしてくれれば良かったのに」家入は墨木の左側に座った。
「ごめんネ、もう少ししても起きなかったら声を掛けようと思ってたンだ」と言いながら持ってきた鞄の中に手を入れた。
「じゃあ、すぐ起こさなかったお詫びに……」
 墨木は、中から水筒を取り出した。
 かなり使い古している。
 小学生が遠足で使うような肩掛け水筒で、胴回りは赤い花ガラがデザインされていた。
 右手でキャップを回して開けた。
「いけない、コップが無い」
 キャップの下にはプラスティックの白いコップがあるはずなのだが、どうやら忘れてしまったらしい。
「大丈夫。キャップをそのまま使えはいいよね」と独り言を言いながら、自分で自分を納得させていた。
「はい、持って」キャップを家入に渡す。
「お詫びその1」
「その1?」
「そ、起こさなかったお詫び」
「じゃあ2は?」
「あとでね」
 墨木は水筒を傾けて、キャップに中身を注いだ。
 湯気の立つ淡く透明な茶色の液体がキャップを満たす。
「冷たいのはまだ身体に良くないと思って暖かいのにしたんだ」
 紅茶だった。
「はい、飲んで。こぼさないでね」
 かわってるよ……とでも言うようにちょっと墨木を睨み、家入はキャップを口に運んだ。
「うまい」
 一口目から声が出ていた。
「おいしいでしょう」
 墨木はエヘンと胸を張った。
「紅茶ってこんなにうまい飲み物だったなんて知らなかった。こんなの初めてだ」
「そうなの?」
「家で姉ちゃんが飲んでいるやつを飲んだことがあるけど、苦くて全然うまいと思わなかったから」
「蜂蜜が入れてあるの――」
「そうなんだ」
「蜂蜜入れると渋みが和らぐンだよ。入れて正解だったネ」
 家入は時間をかけて飲んだ。
 段々とお腹が暖まってきた。
「ごちそうさま」飲み終わってキャップを返そうとすると「まだあるよ……」と水筒をゆるく回してみせる墨木だった。
「じ、じゃあ、もう少し」
「はい、了解」
 墨木は、差し出されたキャップになみなみと注いだ。
「多すぎるよ」
「残ったらわたしも飲むの」にっこりと言う。
「コップそれしか無いんだよ。仕方ないじゃん。ほら飲んで、わたしも早く飲みたいんだからさぁ」
「あ、ああ」
 飲みながら横目で右に並ぶ墨木を眺める家入だった。
 二口飲んで墨木に渡した。
 墨木は両手でキャップを受け取った。
 鼻を近づけて香りを楽しむ。
「いい香り……」
「風邪、伝染るぞ」
「平気だよ」
 墨木は両手で包んだキャップを口に運んだ。
「おいしい、われながらとても上手に淹れられてると思う」
 家入は、その様子をジッと見ていた。
「ぜんぶ飲ンじゃっていい」
「……」
「ん……?」
「あ、あと一口だけ……」
「もちろん、はい」
 家入はキャップを受け取る。
 まだ3分の1ほど残っていた。
 一口だけ飲んで返す。
 墨木は残りを全部飲み干していた。
「はい、お終い。おいしかった」
 言うなりキャップを水筒に戻し、鞄に仕舞って立ち上がる。
「さ、勉強しよ!」
「あ、ああ……」閲覧室に戻ろうとさっさと先を行く墨木の横に並び「ありがとう」と言った。
「どういたしまして」墨木は家入に、軽く肩をぶつけた。

        06

「こっちに座れよ」
 家入は自分の右の席を示した。
 正面に座られると、どうしても墨木の存在が気になってしまうからだ。
 墨木は、真向かいに広げてあった教科書とノート、筆箱を引き寄せ、家入の隣に移った。
 その時、墨木のノートが目に入った。
(凄ェな……)
 記号、手描きの図、そして文字、先生が板書したものを、マーカーや色鉛筆を使って自分なりに解りやすくアレンジしていた。
 それに対して自分のはモノクロ一辺倒で、黒板に書かれたものをそのままを写し取っただけのモノだ。
「はじめましょ」
「ああ」

 家入は、相変わらず地理をやった。
 勉強と言っても、ノートの空白ページに教科書の太文字を、鉛筆で何度も何度も殴り書きをして覚える方法だ。
 他のページには、英語の単語、国語の漢字などが同じように書かれている。
 いわゆる何でもノートだった。
 一時間ほど勉強した後に休憩に入り、残り紅茶を同じソファーで飲んだ。

 やがて――、6時10分前となり、閉館のアナウンスが流れ始めた。
 同時に閲覧室の静寂が一変し、ざわつき始めた。
 みんなが帰り支度を始めたのである。
「そろそろ帰ろう」と墨木に声をかける。
 墨木はう~んと両手を突き上げて背筋を伸ばす。
 家入は教科書とノートを鞄に仕舞った。
 立ち上がろうとした家入に「ちょっと待って」
 墨木は、鞄の中から1冊のノートを取り出していた。
「はい、これ。貸したげる」
 渡されたノートの表紙には〝社会〟と書いてあった。
「なにこれ?」
「見れば解るでしょう、社会のノートだよ。字ぃ、読めないの?」
「そりゃあわかるさ、でも……」
「わたし、明日(の日曜)は社会やらないから貸したげる。それに(社会の)テストは木曜日だし。大丈夫だから、持ってって。でも月曜日には返してね」
「いいのか?」
「お詫びその2だよ……」(ほんとはさっき、起こさずに10分くらい寝顔を見てたんです)
「ほんとか!、ほんとにいいんだな?」2の意味を訪ねようともせず、入家ははしゃいでいる。
「うん」
「あ、ありがとう墨木さん。ほんとにありがとう」
 家入は、そのノートに思わず頬ずりしそうになってしまった。
「出題範囲、間違えないでネ……」
「そこまで抜けてないさ」
 家入は、ノートを鞄に仕舞った。
 家に帰る間に、角が折れたりしないように、自分のノートと教科書の真ん中に、大事に挟み込んでいた。

 図書館の駐輪場で一悶着あった。
 自転車で並んで走るのは危ないので、どちらが先でどちらが後を走るかで揉めたのだ。
 どちらも後ろがいいと譲らなかった。
 ジャンケンで決めることになり、家入がチョキで勝った。
 墨木は三回勝負にしようと言ってきた。
 そして次も、家入はチョキを出して連勝した。
 ひるがえるスカート、伸びる白い足、家入はニヤけながら自転車のペダルを漕いでいた。

        07

 期末テストが終わった。
 そして翌週の社会の時間、テストが帰ってきた。
 出席番号の順番に名前が呼ばれる。
「家入」が呼ばれて取りに行く。
 返されたテストを見て、家入の顔はほころんだ。
 墨木を見る。
 墨木は、当然でしょ……と頷いていた。

        08

 翌週の火曜日、墨木が学校を休んだ。
 江本ユウコが言うには、腹痛らしいとのことだ。
 昨日の部活の後、一緒に帰っている時から調子が悪かったらしい。
「何かへんなもの食ったのか?」
 江本は家入の腕を拳で小突くだけで何も教えてくれなかった。

 翌水曜日、家入が教室に入ると、墨木はすでに席に着いていた。
「おはよう、大丈夫か?」
 家入は鞄を自分の机の上に置いた。
「うん」
 すこぶる元気そうである。
 そこに江本がやって来た。
 墨木と江本は、そのまま廊下に出て行ってしまった。
 隣のクラスの菅野ナオコも加わり、話を初めていた。
 彼女たちの背中を目で追いながら、家入は急いで鞄を開いて何でも用のノートを取り出した。
 そして、ノートに挟んであった紙を取り出し、墨田の机の中に投げ込んだ。
 5分もしないうちに、自習開始のチャイムが鳴った。
 墨木と江本が教室に入って来た。
 墨木は自分の席に腰を下ろして自習の準備を始めた。
 机の中からノートを取り出そうと、机の中に手を入れて……?と覗き込んだ。
 そこに見慣れぬ紙が入っているのに気付いたからだ。
 墨木には、紙に書かれている字が家入のだとすぐに解った。
「これ……?」身体をそらしながら半分振り返り、家入に小声で訊いてきた。
 身を乗り出して、家入は囁いた。
「昨日の授業のノートを取っといた。やる……」
 ほんの少しだけ間があり……「うそ」墨木はしっかりと振り返っていた。
「ほんと」と返した。
「家入くんがやってくれたの?」
「ああ」
「あ、ありがと……」

・1時間め 国語 戸川幸夫の「爪王」を清水くんと上山くんと赤沢さんと甲斐さんが順番にろう読させられた。
(爪王→年老いた鷹匠が、残り少ない歳月を打ち込んで育て上げた鷹の吹雪と、巨大な老赤狐との死闘を描いた物語)
 その後先生が、なぜ「爪王」という題名なのか? とみんなに質問した。
 誰も手を上げなかったので、何故かオレが指名された。
 本当は鷹だから「クチバシ王」としたかったけど「爪王」の方がゴロがいいからと答えた。
・2時間め 数学 解らないところがあったら、後で教える。
・3時間め 英語 墨木なら、一回授業を受けられなかったからって心配しなくても大丈夫だと思う!
・4時間目 社会 新校舎の屋上へ上がって、学校を中心に東に何、西に何、南に何、北に何があると先生が言っていた。くわしい事は江本に聞いてくれ!
 その時、屋上からなけなしのこづかいで買った500円もするパイロットのシャープペンシルを落としてこわしてしまった。
・昼、弁当食った。おかずは、きのうの晩ご飯の残りで母ちゃんの手ずくりコロッケ。
・昼休みは外でサッカーした。
・そうじ時間になったのでそうじした。
・5時間めと6時間め 技術と家庭。
 男子は技術室でマイナスドライバーを作った。ツカサが、ネジの先をグラインダーでナイフみたいにけずり過ぎて指を切った。保健室へつれていかれた。
 女子は裁ほう、ミシンを使って何か作った。……と江本に聞いた。

「これってノートじゃなくて日記なンじゃないの? しかも手ずくりは(ず)じゃなくて(づ)だし」
 内容は解らなかったが、とにかくノートを読んで何かを言っているのは解った。
「解りにくかったか?」
 反射的に声が出ていた。
「ん?、え?、あ、そうじゃないよ。ありがと」
「さっきもありがと、……て言ったぞ」
「そうだったっけ?」
 墨木はスカートのポケットからハンカチを出していた。

        09

 1時限目の授業がおわり、家入がトイレから帰ってくると、墨木が声を掛けてきた。
「今日、一緒に帰れるかなぁ~?」
「へ……?」
「一緒に…」
(いつもみんなと一緒に帰ってンじゃん)と思いながら、家入は安直に「いいよ」と返事をしていた。
「じゃあ、部活が終わったら、ちょっと時間を置いてから来てくれる?」
「時間を置いて……体育館に?」
(ふたりだけで帰ンの?)
 入家は首をかしげた。
 墨木は「そうだよ」と言った。

 約束通りに時間をずらして体育館の角にゆくと、すでに墨木の姿があった。
「ごめん、遅くなった」家入はスポーツバックを抱え直して走り寄った。
「大丈夫だよ」
 そこに、いつも一緒に帰る仲間たちの姿は無い。
「みんなには先に帰ったよ――」
「そっか……、そうだったな」
 二人は並んで学校を出ていた。

        10

 旭東通り。
 西の橘通り1丁目から続く道路を、東のへ一つ葉の方へゆっくりと歩いてゆく。
「そう言えば、ふたりだけで帰ることなんて、これまでなかったネ」
「うん、初めてだ……と思う」家入の返事には少しだけ時間がかかった。
「いつもみんなと一緒にワイワイ騒ぎながら帰っていたからさ――」
「ほんとだネ」
 友達のこと、部活のこと、勉強のこと……、二人は取り留めのない話を続けながら歩いた。
「そうだ、そう言えば今日、授業のあと畑先生に職員室に呼ばれてたよネ。あれ何だったの?」
「ああ、あれね。数学のテストの時、終わったら解答用紙の裏にマンガなんか描いてないでちゃんと見直せって言われたンだ」
「それから?」
「それからッて?」
「そんなことだけで職員室に呼ばれないでしょ。マンガのことはクラスのみんなが知ってるんだから……。ほかに何かあったンじゃないの?」
 家入はのけ反った。
「墨木さんは超能力者かなんかか?」
 家入は空を見上げた。
「何ごまかしてンの?」
「いや、何でもない」
「で……」
「で…?」
「それから……だよ。さっきの続きだよ」
「続き、そっか。実は先生に呼ばれたのは昨日の掃除のことなんだ」
「家入くんは家庭科室の掃除だったよネ」
 掃除は自分たちのクラスの掃除だけではない。
 各学級学年で、理科室などの実習室の掃除も割り当てられているのだ。
「そこまで知ってる!?」
「教室の掲示板に貼ってあるじゃない」
「知らなかった」
「知らなかった? じゃあどうして家庭科室の掃除やってるのよ?」
「ああ、誘われて」
「誘われて?」
「月曜日に江本さんに行くよって言われたから。どうやらオレは、今週は家庭科室の当番らしい」
「ユウコに?」
「そう」
「あきれた……」今度は墨木が空を見上げた。
「でさ、家庭科室にマネキンっていうか、ほら布でできた身体みたいなやつで、作った服とかを着せるやつがあるじゃないかよ――」
「トルソーだね」
「トルソーって言うんだ。知らなかった」
「それで?」
「オレさぁ、遊んでて、トルソーの胸を凹ましちゃったんだよネ」
「そうなの?」
「ちゃうちゃう、もともと前からペコペコだったんだよ! たまたま昨日オレが指で押してたら戻らなくなっちゃってさ」いや~あ、と手を頭の後ろにやって家入は苦笑した。
「たまたま?」
「そう、たまたま……」
「じゃあ、ペコペコだったって何で知ってンの?」
 家入がまた空を見上げた。
「わたし超能力者だよ。嘘言っても解るンだから……」
 いたずらっぽく家入を睨んだ。
 家入は、墨木の前で直立不動になった。
「はい、オレです。もともとペコペコだったンだけど、掃除のたんびに突いてたら、昨日ついに戻らなくなってしまいました」
「正直でよろしい。で、怒られた?」
「怒られました。職員室の先生たちみんなに笑われながら怒られ……」
 ……と不意に、墨木がお腹を押さえて身体を折っていた。
「え、どうした。お腹が痛くなったのか?」
 うん、うん、と墨木は苦しそうに唸るだけだった。
「ど、どうしよう」
 背中にそっと手を置くと震えが伝わってきた。
 やばいのか? 家入は地面に膝を付き墨木を覗き込む。
 でもそれは……、
 どう見ても苦痛に苦しむ表情ではなかった。
「く、く、く~~」震えているのは背中ではなく肩だった。
 墨木が身体を起こす。
 家入も慌てて立ち上がった。
「な、何だよ、脅かすなよ」
「あはは~、ごめんなさい。笑いをこらえてたら、お腹が痛くなっちゃて――」
 笑いが先行してしまって、それだけのことを言うのがやっとだった。
「ほ、ほんとに心配したンだぞ」
「ごめん、ごめん、ごめんなさい、ほんとにごめんなさい。でも可笑しくって……」
 墨木の笑い顔を見ていたら、家入は怒る気をなくしてしまっていた。
「心配してくれて……、ありがと」
 やっと落ち着いた墨木がポツリと言った。
「帰るぞ」
 家入は墨木に背を向けて歩きだしていた。
 墨木が慌てて追いかける。
 ふたりは黙ったまま……、並んで歩いた。

        11

 昭和町交差点。
 そこは五差路となったバス通りだ。
 二人の前を、何台もの車が通り過ぎてゆく。
 二人は信号待ちをしている。
「ノート、ありがとう」
 墨木がポツリと言った。
「どうってことないさ。また休んだときがあったら、取ってやるし――」
「……………」
「どうした?」
「ほんとに? ありがと」
「あのさぁ、こっちが恥ずかしくなるから『ありがとう』ばっかり言うなよ」
「でもほんとなんだから、しょうがないよ。わたしの正直な気持ちだもの」
「え? 正直な気持ち?」家入は聞き返していた。
「そう、正直な気持ち」墨木は頷いた。
「そうか。そうなンだ」家入は呟いていた。
「ねぇ、何がそうなの?」
「え? それはさっき……」
「…………」
「それはさっき、墨木さんが言ったことだよ。今オレが〝こうしたい〟て考えていることがはっきりと言えたら……てね」
 一瞬、入家はビックリして横に並ぶ墨木に顔を向けていた。
 言った家入自身が驚いていた。
 自分からそんな言葉が出てくるとは、思いもよらなかった。
「――」
「え? あ? う~ん。気持ちに正直になりたいってことさ――」
 間があって、墨木が口を開いていた。
「そうだね、わたしもそう思う」
 信号が青に変わった。
 二人とも動こうとしない。
「あのさ……」と家入。
「なに……?」と墨木。
 お互いに何かを言おうとしているのが、お互いに解った。
 最初に口を開いたのは家入だった。
 最初に言葉を口にしたのは墨木だった。
「ジンジ」
「な、なんだよ……カコ」
「ううん。何でもない」
「し、信号青だぞ」
「そ……だね」
 そして二人は、また黙りこくってしまった。

        12

 翌朝、家入は前を歩くカコと江本の後ろ姿を追いかけていた。
 足早に近づき、江本の横に並んだところで声をかけた。
「おはよう」
「あ、家入くんだ、おはよう」と江本が家入に手を上げた。
「ジンジ、おはよう」カコが江本越しにジンジを見る。
 江本が慌てたようにカコに振り向いていた。
 なに? とカコは、江本に笑っている。
「じゃあオレ、先生に呼ばれているから先にいくわ」
「それって、昨日のこと?」
 カコが訊いた。
「そう……」
 ジンジが走りだそうとすると「ねェ、ちょっと待って家入くん」と呼び止めたのは江本だった。
 ジンジは足を止めて振り返り、後ろ向きに歩きながら距離を取った。
「なんだよ?」
「ね、ね、わたしも呼んでいい?」
「なにを?」
「家入くんを〝ジンジ〟って呼んでいいかってことだよ」
 ジンジはおもむろに指を二本立てて、じゃんけんでいうチョキを作って見せた。
「え、何それ。ピースサイン、それとも勝利のVサインのこと?」
 ジンジは首を横に振る。
「意味分かんないよう~。そのチョキの意味は何なの?」
「ジンジ後ろ!」とカコ。
 ジンジは素早く前に向き直り、やって来た人を身体を捻って慌てて躱した。
「すみません」ジンジが謝る。
「ごめんなさい」カコも謝る。
 ジンジはそのまま学校へ向かって走って行った。
「あ~あ、行っちゃった」
「そだね」
「ねェカコ、これ何の意味」
 ユウコはチョキを作ってカコに示した。
「これ、これはネ……に」カコもチョキを作った。
「に……?」
「二番の〈に〉」
「二番の二…?」
「そう、二」
「なんで解るの超能力者?」
「そうじゃないけど……」
「そうか解った! ジンジって呼ぶのはわたしは二番で、カコに次いで(女子で)二人目になるってことなンだ。そうでしょう!?」
 梅雨が開けた。
 夏空が広がっている。
 中学最初の夏休みは、もう目の前である。

 おしまい

02 言葉にできない

02 言葉にできない

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-11-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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