01 先輩

        01

「ラスト1本!」
 サッカー部主将のヤッチンの声が響いた。
「おっしゃー/だァりゃ~/うりゃー/おっらーッ」
 部員たちは怒りの声をあげながら、最後のダッシュをやり終えると、ゼイゼイと喉を鳴らしながらゴール前に集合し、円陣を組んだ。
「宮中~ウ」
「ファイ(ト)」「おー!」「ファイ」「おー!」「ファイ」「おー!」
「オール、ファイ!」
「おー!」のかけ声と同時に、全員が顔をあげた。
「解散!」
 同時に円陣が割れ、片付けが始まる。
 それぞれが散らばったボールを大きなネットに集めると、ひとりがその網を抱えあげてグラウンドを出ていった。
 ほかの部員たちは部室へと向かった。
 部室はグラウンドの北西の角にある25メートル8レーンのプールの下にある更衣室だ。
 したがって部活に使う道具を置く余裕は一切無い。
 道具類は全て体育館の倉庫に入れることになっている。
 それで今日の当番がボールを片付けに行ったのである。
 部室は着替えるためだけの部屋なのである。
 仲間たちと同じで、ジンジも足を引き摺るようにして部室へ向かった。
 ちなみに、右隣の更衣室は野球部、左隣は男子陸上部が使用している。

 着替えを済ませて部室を出る。
 キャンバス生地の肩掛け通学鞄を左側から斜め右に掛ける。
 部活で使った着替えは畳みもせずに丸めて白いアディダスのスポーツバックに投げ込んだ。
 練習用シューズもシューズケースに入れてそのままバックに押し込んだ。
 荷物をなるべく減らしたいからだ。
「おさきー」
「お疲れー」
 ジンジは校舎へ向かった。
 校舎とグラウンドの間には、幅5メートル長さ10メートルほどの橋が掛かっている。
 宮中は校舎とグラウンドの間に川が流れているのだ。
 橋を渡った先には中庭が広がっており、右の北側奥は1年生の旧木造校舎、左の南側が体育館となっている。
 体育館のさらに奥に、2年生と3年生の鉄筋新校舎が建っている。
 その体育館の角に人だかりがあった。
「お疲れ~」
 カコの声だ。
 カコとは不思議な縁で、小学校5年生の時からずっと同じクラスで、5年目の腐れ縁に突入していた。
 しかも3年になる時のクラス替えは無かったので、2年生の時から3年も同じクラスになるのが〝決定〟していたわけである。
「お疲れ、(部活)終わったのか……」とジンジ。
「うん」
 カコはバレー部である。
 カコのかたわらには同じバレー部のナオや水泳部のユウコ、テニス部のタカコもいた。
 今は四人ともクラスが別々となっているが、それでも一緒に行動しているをよく見かける。
 そう言えば、2年2学期の期末試験の最終日の後に映画館に駆け込んだ『小さな恋のメロディ』の時も並んで観ていたのをジンジは覚えている。
 しばらくすると、野球部のイケピン、バレー部のポンタ、陸上部のシンコ(男子です)もやって来た。
 今集まっている連中は皆、小学校からの腐れ縁で、帰る方向が同じなのである。
 そして今日は、カコたちの後ろに見慣れぬ二人の姿があった。
 どうも3年生ではないようだ。
 とにかくその二人にも「お疲れ~~」と男子たちがだらけた挨拶を送ると「おつかれさまでした」ときっちり返事が返ってきた。
 誰かと同じ部活の後輩らしい。
 右の後輩の声の方が良く聞こえた。
 左の後輩の声は小さく、挨拶したっきり下を向いたままだった。
「さぁ、帰るよ」ユウコの元気な声にみんなが応えていた。

        02

 ジンジは今日もへとへとだった。
 間近に迫る春期大会に向けてハードな練習が続いているからだ。
「あ~疲れた、腹減った、ひんだれた~」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、イケピンとポンタとシンコの後をついてゆく。
 その後ろをカコとナオとユウコ、タカコが固まって歩いている。
「うん。そうだね。今日も頑張ったね」
 ジンジの独り言に、カコがひとつひとつ言葉を返している。
 ナオとユウコとタカコは笑いをこらえていた。
 その後を後輩の二人がついて来ていた。

「そんじゃ」
「それじゃあネ、また明日」
「さようなら……」
 それぞれの角で、一人、また一人と分かれてゆく。
 ジンジは、昭和町交差点を渡った二つ目の角を右に曲がって、一人トボトボと歩いていた。
 次の角をまた曲がろうとした時、背中がむず痒くなって何気なく振り返っていた。
 あれ?……と足を止めた。
 道の、ちょうど真ん中あたりの街灯の下に、小さな声の後輩がいた。
 後輩は、彼が振り返ったことに驚いたようだった。
 足を止めると所在なく〝戸惑いながら〟たたずんでこっちを見ている。
(角を曲がった時、さようなら……て小さく聞こえたような気がしたんだけどなぁ~)
 頭をボリボリと掻いても、答えが出てくるわけじゃない。
 ジンジは後輩に向かってアディダスのバッグを持ち上げた。
 部活用のバッグを両手で前に抱えていた後輩は、慌てて頭を下げていた。

        03

 翌日。
 午後の5時限目の授業が終わった休み時間。
 ジンジは机の上に肘を乗せ、頬杖をついて眠っていた。
 その右手には鉛筆が握られたままだった。
 机の上には、前の授業の教科書とノートが開きっ放しのまま置かれていた。
 授業中から眠っていたに違いない。
 そのジンジに、カコがそっと近付いてきた。
 休み時間の教室は女子たちのお喋べりと、男子がドタバタと走り回る騒音で五月蠅いはずなのだが、それでも彼が目を覚ますようなことは無かった。
 よほど疲れているのだろう、静かに近付く必要もなかったようだ。 
 カコは、机の上の開かれたままのノートを手に取った。
 さっきの授業で「重要だ」と先生が黒板に書いたことが何ひとつ写されていなかった。
(こいつは完全に死んでいる――)
 カコは笑いたくなるのをこらえた。
 ジンジは、一冊のノートを全教科で使っていた。
 教科ごとにノートを代えると鞄が重くなってしまう、という理由からだった。
 しかも、中身はほとんどが殴り書きで、解読出来ない暗号がのたくっている。
 だが、パラパラと捲るうち――、下手くそな字ではあるが、所々に、一所懸命に、丁寧に書かれているページや箇所があるのを見付けた。
「これって」
 そこは……、ジンジがカコに、写させてくれと頼んできた部分だった。
 教科書を開きながら「ここンとこ先生何か言ってなかったか?」と訊いてくるジンジに「此処と此処に書いてあるから」とノートを開いて見せながら貸してやった部分だった。
「……ったく」

        04

 以前、カコはジンジに訊いてみたことがあった。
「どうしてわたしのノートなの? 他にも勉強が出来る子なんてたくさんいるのに……。ジンジなら頼めば誰でも写させてくれると思うよ」
 その時ジンジは、少し困ったような顔をした。
 それとも哀しそうな目だったのだろうか?
「おまえのノートが一番解り易いからだよ」
 そう言ったのは、多分無意識だったに違いない。
 いつもなら〝カコ〟なのに、その時ジンジは〝おまえ〟と言ったのである。
「カコのまとめ方がオレには一番解り易いんだ。それに……」
 ジンジはカコを見ていた。
「それに……何?」
 カコは目が離せなかった。
「オレはカコの字が好きなんだ」
「字、わたしの字?」
「うん、字!」
(わたしの字が好き……)
 字が好きだと言われても……、でも悪い気はしなかったのを覚えている。

        05

 カコは教科書とノートを重ねて、机の左端にそっと寄せた。
 それから右手に握られたままの鉛筆の先を指で摘んだ。
(芯が折れてるじゃない。これじゃあ何も書けないじゃないの――、このバカ)
 少しだけ左右に動かしてみる。
 頬杖を付いているせいで、鉛筆は指の間に強く固定されていた。
 それでもゆっくりと動かしていくうちに、次第に揺れるようになっていった。
 指からジワジワと抜けていく。
 それでもジンジは眠っている。
「く、く、く……」
 カコの口から笑みが漏れる。
 しかし、あと少しで抜けるというところで、不意にジンジが身じろぎしていた。
 瞬時に手を引っ込める。
 その拍子に鉛筆が滑り落ちていた。
 カタン――。
 垂直に落ちた鉛筆が机の上を叩いて転がる。
 カコは慌てて転がる鉛筆を拾い上げた。
 ジンジがゆっくりと目を開けた。
「カコか……」
 目だけを動かしてカコを見て呟く。
 また目を閉じる。
 カコは、鉛筆をそっと置きながら……「ねえ」と声を掛けた。
「ああ」とだけ返事があった。
「ねえってば」
「うん?」
「ちょっと話を聞いて欲しいンだけど――」
「後じゃ駄目か……」
「後って言ったら何時(いつ)になるか解らないじゃない。授業が終わったらトイレに行って帰って直ぐ寝ちゃうし、放課後になったら部活に飛んで行ってしまうくせに――」
「ああ、ああそうだな」
「ねえ」
「ああ?」
 ジンジは呼び掛けに反応しているだけで、本当は何も聞こえていないのをカコは良く知っていた。
(こうなったら――)と耳元でそっと囁いた。
「ノート貸してあげないよ!」(パブロフの犬作戦!)
 ジンジは〝ノート〟と言う言葉に反応した。
「そ、それはマズい――」
 またほんの少しだけ目を開けた。
 だが、今にも瞑りそうである。
「貸したげるから話を聴いて」
「聴くよ」
 そう言いながらも、右手は頬に添えられたままだった。
(こいつぅ~、聴く態度じゃないな)と思いながらも、カコは話を切り出していた。
「昨日、後輩たちと一緒に帰ったじゃない」
「……」
「ねェ、聴いてる!?」
「聴いてる」
「じゃあ、あの後輩の一人で、髪がショートだった娘を覚えてる?」
「覚えてないよ、第一暗くて良く見えなかった」
「お疲れ様でした……て下向いちゃった娘だよ」
「下向いちゃった方? ああ、昨日最後までついてきた後輩だ」
「あの娘ジンジの家までついてきたの?」
「ついて来たって言えるのかなぁ? 凄っげェ後ろに立ってたから……。帰る方向がたまたま一緒だったんじゃないの?」
(あの娘、潮見小出身じゃないのに……。やるじゃない)
「でね?」
「で…?」
「その娘がさァ、ジンジのことが好きなんだってさ――」
 頭を支えていた肘が、勢い良く横に滑っていた。
 ガクンと頭が下がり、危うく机に額をぶつけるところだった。
(良かった、鉛筆抜いといて)
 ジンジはやっと顔を上げた。
 目をパチクリさせている。
 今度こそ、目が覚めたようだ。
「す、好きイィ……?」声が裏返っていた。
「あのね、良く聞いて。好きって言うのとはちょっと違うと思うんだけど、その娘ジンジに憧れてるんだって……」
「好きって言ったのはカコの方だぞ」
「ごめん間違った」
「あのな、憧れてるって言われても、オレはその娘のことまったく知らないンだぞ」
「だから『憧れ』って言うンじゃないの?」
 う~ん、でもやっぱり好きってことなのかなぁ~ほんとにそうなのかなぁ? みたいにカコは首をかしげている。
(おいおい、勝手に決めつけンなよ)
「冗談きついよ、何でこんなオレが好かれなきゃならないんだ」
「好みは人それぞれってことなンじゃないの?」
 まんざらでもないような顔で、カコはジンジを見ていた。
「お願いだから会って話をしてやってくれない? 一度だけでいいからさぁ~」
 カコは両手を顔の前で合わせて拝んだ。
「へ……?」
 一瞬、以外そうな表情になったジンジだった。
「さっきの授業のノート写させてあげるから――」
「条件付けンのかよ。今までそんなことしなかったじゃンか」
「今回だけ特別。ノート見せてあげるから会ってあげて……」
「……」
「ねぇ……?」
「一回だけだぞ」
 とジンジがカコを見上げた。
(あの時の……)
 ほかの人にノート借りれば? ……のジンジの困ったような、哀しさの入り交じったような目?
 そしてジンジの方から目線を外していた。
「じ、条件が、ある」しどろもどろだ。
「条件?」
「会うのは一度、昼休み、それも雨の日」
「雨の日……」
 雨の日はグラウンドが使えないので、ジンジは昼休みは寝ているのだ。
「了解、解った――」
 カコは窓から外を見た。
 厚い雲が立ち込めていて、空はどんよりとしている。
(明日はきっと雨だわ、今日の部活で言っとかなきゃ……)
「曇ってるね――」
「曇ってるな……」
 連られてジンジも窓の外に目を向けた。

        06

 翌日は(きっちりと)雨だった。
 昨日の夜半から降り出した雨が今も続いている。
 予報では、明日朝にはあがるとのことだ。
「おはよう」
 校舎の三階まで続く階段を二階まで上がったところで、カコは前を歩く背中に声を掛けた。
「その声はカコ様でごじャりまするな。おはようごぜェますだ」
 ジンジは振り返らずに階段をズンズンと上って行く。
 そして三階まで上りきったところで立ち止まった。
 カコが横に並ぶ。
 ジンジはそれを待って教室へ歩き始めた。
「雨だな」
「うん、降ってる……」
「で……、場所は何処(いずこ)でござろう」
 ジンジは前を向いたままだ。
「グラウンドに出る橋の袂の体育館の裏でござる」
 カコも前を向いたまま、ジンジの口調を真似ねる。
「御意にござりまする」
 307(3年7組)教室の前で、二人は立ち止った。
 先に入るよう、カコを促す。
(ありがと……)
 ジンジが後に続いた。

        07

 気付いたらジンジが消えていた。
 午前中の授業が終わり、(ご飯前にトイレにでも行ったのかな?)と思っていたが、そのままずっと帰って来ない。
(雨だから朝礼台の上でお弁当を食べてるわけでもないし……)
 雨の日以外はグラウンドの入り口に置いてある朝礼台を陣取り、同じサッカー部のシゲボーと一緒に弁当を広げ、食べ終わってすぐにサッカーを始めるジンジだった。
 その相方のシゲボーは、今日はほかのクラスメイトと一緒に弁当を食べている。
 カコは、ナオとユウコとタカコと一緒にお弁当しているが、お喋りが上の空になっていた。
 結局ジンジは、昼休みが終わって掃除が始まる直前に弁当箱を持って教室に滑り込んで来たのだった。

        08

 休み時間になると、カコは矢も盾もたまらずジンジに訊ねた。
 いつも通り、ジンジは教科書とノートを開いたまま頬杖をついて寝ている。
 まずカコは、教科書とノートを閉じて重ねて机の端に置いた。
 それから……、
「ジンジ」と驚かせないように気を付けながら言葉をかける。
「ああ」ジンジが顔を上げた。
「行ったの?」とカコ。
「行った」とジンジ、寝ぼけ眼である。
「ほんとに?」
「授業終わってすぐ行って、そこで弁当食いながら待ってた」
「そうだったンだね。……で来たの?」
「来なかった」
「え、ええ? 来なかった? 彼女来なかったの?」
「ああ、昼休み中ずっと待ってたけど来なかった」
(来なかった……何故? 昨日伝えた時はとても嬉しそうにしてたのに。絶対行きますって言ってたのに……)
「どうして?」
「解ンねぇよ」
 休み時間終了のチャイムが鳴る……、頭の中を〝?〟マークで一杯にしながらカコは席へ戻っていった。
 次の6時限目は、先生の声が全く頭に入ってこなかった。
 だた事務的にノートを取るだけの授業になってしまった。

        09

 放課後、体育館は混み合っていた。
 雨でグランドを使えない運動部が集まっているからだ。
 この場合、グラウンド運動部は使用する場所が制限される。
 サッカー部や野球部は体育館上部をぐるっと囲んでいる回廊(ギャラリー)を使用し、ストレッチ、筋トレ、ランニングの三つを繰り返す。
 プールを使えない時期の水泳部と同じようなメニューだ。
 テニス部はステージ上で素振りを繰り返している。
 混雑を避け、体育館を使わずに旧校舎と新校舎を結ぶ長い渡り廊下を利用する部もある。
 各部がそれぞれ工夫しながら雨の日の部活を行っていた。

 バレー部は、約40分の練習の後休憩に入った。
 カコが後輩たちの方へゆこうとすると、逆にその娘が気付いてくれた。
 仲間達に二言三言何か言い、直ぐにカコの基へ走って来た。
 そして二人は、体育館の隅に移動した。
「行かなかったの?」
「……」
 後輩は下を向いてしまった。
「どうしてなの? 楽しみにしてたんじゃないの?」
「……です」
「え、何? 何て言ったの?」
「行ったんです……」
「え、行ったの?」
 カコは目を丸くした。
「はい」と返事があった。
「ほんとに?」
「はい」その娘はしっかりと頷いていた。
 訳が解らなかった。
(ジンジは来なかったと言っていたのに……。嘘だったの? いいやそんなこと無い。ジンジが嘘をつく理由が無い。だったらジンジが場所を間違えたの?)
「座ろう」
 二人は体育館の壁に背を預けて座った。
 その娘はカコの右側に座った。
「説明してもらえる?」
 カコは後輩の顔を覗き込みながら優しく言った。
「昼食時間が終わって、昼休みに入る前には行きました。先に行って先輩を待ってようと思ったんです……」
 顔を上げてカコを見る。
「ジンジはそこでお弁当食べて待ってたって言ってたけど……」
「ええ、確かに先輩はいました」
「いたのね。じゃあ話をしたのね……。でもおかしいなぁ~、ジンジは来なかったってわたしに言ってたけど、どういうこと?」
「いたんですけど……」後輩は言い淀んだ。
「先輩は眠ってました」
「眠ってた?」
「はい」後輩は小さく頷いた。
「あいつぅ、今日の帰りに……」
「先輩を怒らないでください。お願いします」
 後輩は両手でカコの腕を掴んでいた。
「でもねぇ、話が出来なかったんでしょ? それで良かったの?」
「先輩は、お弁当を胸に抱えて眠ってました。……あの時も凄く疲れたって言ってましたよね」
 二日前に一緒に帰った時のことだ。
「晴れてたら、昼休みも練習を兼ねたゲームをやってるんですよね。たまたま今日は雨でゲームが出来ないから、わたし……そのまま寝かしておいてあげようと思ったんです」
(昼休みに何もすることがない時はいつも寝てるけどね――)
「お昼のゲームはほとんど遊びだけど……で、そのまま帰っちゃたわけ?」
「いえ、わたしも先輩の横に座りました」
「座ったって……どういうこと?」
「こんな風にカコ先輩と並んで座っているみたいに体育座りしてました。そして横にずっと一緒にいました」
「昼休みが終わるまでずっと?」
「予鈴が鳴る直前までです。予鈴が鳴ると起きちゃうかも知れないじゃないですか、だから鳴るちょっと前に帰りました」
(それでジンジはギリギリで教室に戻って来たんだ――)
「でも、途中で起きちゃうかも知れないって思わなかったの?」
「その時はその時です。もし起きたら〈ごめんなさい〉するつもりでした。でも全然起きませんでしたよ――」
 話をしている後輩は楽しそうだった。
「ふ~ん、そうだったんだ……」
「はい」
「じゃあ、一言も言葉を交わさなかった……」
「はい」
「解ったわ、あいつが寝ちゃってたのが悪いンだから、もう一度セッティングし直してあげる……」
「あ、もういいンです。大丈夫です」
「え、どうして?」
「実はわたし……」後輩は口ごもった。
「実はわたし、眠っている先輩に話し掛けてたんです。起こさないように小声でですけど……。部活のことや、友達のことや、色々一人でお喋りしました。返事は帰って来ませんでしたけど、とても〝嬉しい〟時間でした。それで、何て言えばいいのか……、先輩のことが、ほんの少しだけ解ったような気がするんです。だから、もう充分なんです」
 はにかみながらも、後輩は微笑んでいた。
「そう、そうなの。それでいいって言うンだったら……」
 後輩の笑顔に、カコは何も言えなくなってしまった。
 カコもなんとなく……、後輩の気持ちが解ったような気がしていた。
「でも……」
「でも、何?」
「……」
「言ってみて――」
「わたしも、カコ先輩と同じように〝ジンジ先輩〟って言ってもいいでしょうか? いえ決して直接言うつもりは無いですけど、わたしの中では家入先輩はもうジンジ先輩なんです。何て言うか、こう……」
 カコは立ち上がった。
「もう何も言わなくていいよ――」
 促されるまま後輩も立ち上がった。
「さ、練習」
「はい」
 見上げると、サッカー部が大声を出しながら回廊をランニングをしていた。
(ジンジだ……)
「ジンジ先輩だ」と後輩は呟いていた。

        10

 翌朝、ジンジは自分の席にドカっと腰を下ろした。
 膝の上に乗せた鞄を開き、教科書、ノート、筆記用具を机の上に出す。
(あれ、ノートが無い?)
 もう一度鞄の中を探すが、やはり無い。
(やべ、忘れた? でも昨日鞄開けたのは母ちゃんに弁当箱渡した時だけだよなぁ)
 もしかしたらと思いながら、机の中を覗き込む……、あった。
 ノートだけが机の中に入っていた。
(昨日、置き忘れたんだ)と思いながらノートを取り出す。
(何だこれ……)
 見ると、ノートの端からオレンジ色の付箋が覗いていた。
 その部分を開いてみる。
「あいつぅ……」
 思わず声が出ていた。
 そこには、ジンジの好きなカコの字で、先日の5時限目の授業内容が書き込まれていた。
 顔を上げてカコを探す。
 カコは女子グループの中で、ワイワイ会話の真っ最中だった。

 おわり

01 先輩

01 先輩

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-11-15

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