フリーズ250『ソフィア三部作』
ソフィア三部作
空花凪紗
◇第一部『思案の果て』
◆第一部『思案の果て』前編
人生に生きる意味などあるのだうか。欲とか幸福とか、そういう類の問いをネフュラはかねてより思案していた。一つの人生を生きては死に、また繰り返す。ここ、バベルの図書館に貯蔵されている本に記される人生たちは、彼女にとってはどうにも意味などないように思えてならなかった。
ネフュラは考えに考えた。本を読むことをやめてから一人で考え続けたのだ。図書館の内部を探し回る真理探究者たちは、そんな彼女を無視して、真理が記されているというエデンの書を探し求める。ネフュラはそんな彼らが苦手だったし、彼女自身、探究者たちから嫌われていると思っていた。
今日も今日とて、真理探究者たちは忙しそうだった。図書館内を忙しなく歩き回る彼らを横目に、そういえば、とネフュラはあることを思い出した。亡くなった彼女のおばあちゃんが今際に呟いていた言葉。
「私は今、やっとエデンの書を読んでいるんだ。ナウティ・マリエッタ。ああ、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、ついにわたしはその秘密を知る」
その瞳はきっと、この世界よりも遠くを見つめていた。ネフュラはおばあちゃんの瞳にそんな色を見たことを思い出したのだった。死に際におばあちゃんの残した言葉が気になって、ネフュラは階層司書のもとへと向かった。
「やあ、ネフュラ。どうしたんだい?」
ネフュラの暮らす33層の中央。エレベーターに通ずるゲートの前にある受付にその男はいて、ネフュラを見とめると、軽く声をかけた。それに対してネフュラは元気よく挨拶を返す。
「エルニスさん。こんにちは。実は、教えてほしい本があって」
「いいよ。その本のタイトルは?」
ネフュラの言葉に愛想よく頷いたエルニスは、作業をいったん止めてネフュラの回答を待つ。
「ナウティ・マリエッタ、って本知っていますか?」
「ナウティ・マリエッタ? いや、初めて聞くよ。どんな本なのかい?」
「それがわからないんですよ」
「わからない? ふむ。ちょっと調べてみるね」
エルニスは真理探究者たちがバベルの図書館にある本についてまとめた情報検索エンジンWINE(World Information Network for Eden)を用いて、ナウティ・マリエッタを調べた。だが、結果は該当なしだった。
「WINEにはないみたいだけど、どこで知ったのかい?」
エルニスは不思議に思い、またWINEにないというそのタイトルに興味を抱いた。ネフュラは興味津々という様子の彼がした問いに応えかけたが、言いよどんだ。
「それが、思い出せなくて……」
「そっか。まぁ、きっと小説の中に出てくる架空の創作物のタイトルなんじゃないかな。暇な時にでも探しておくよ」
ネフュラは「ありがとうございます」と告げて、一つお辞儀をすると、足早にエルニスのもとを去った。その7日後、エルニスは図書館の外縁に広がる奈落に身を投じた。
それはそれとして、あなたは何故そこにいるのですか。
あなたたちは何故小説を書き、絵を描き、歌を歌い、楽器を奏でて、詩を紡ぐのですか。
嬉しいからですか。悲しいからですか。満たされているからですか。知りたいからですか。
悲しければ泣き、楽しければ笑い、虚しければ死ぬ。そこに意味はありますか。
あなたが死ぬときに見る景色は美しいですか。
あなたが最期に聴く音楽は心地いいですか。
あなたの最後の言葉『ラスノート』は何ですか。
あなたのソフィアはどこまで高く昇りましたか。
あなたは秘密裏に真理を探究していました。真理探究者たちが求めるエデンの書を、輪の中であなたは探し求めていたのです。ですがある時、あなたは輪を去ることにしました。真理に近づくにつれて高まる霊性や、真の歓喜への気付きがあなたをそうさせたのです。
繰り返される輪廻や回帰から逃れることはとても大変でした。エルニスは7日も眠らずに、心が壊れてもなおナウティ・マリエッタを自身の中に探し続けたのです。そしてあなたはついに人生の美しくも奇妙な謎に辿り着くのです。
想像してください。あなたの意識は天空の園よりも高く、宇宙よりも遠く、遥か昔、終末と永遠の狭間へと昇っていくのです。
エルニスはネフュラに手紙を遺していました。
『ナウティ・マリエッタがどこにあるかわかったよ。私は今旅先でね、もし知りたかったら私の元まで来るといい。ここには生命の樹も世界樹もある。だがね、ネフュラ。罪は犯されていないのだよ。アダムもイヴも、ウジャトの目には囚われなかった。ヴァルナに私の主な罪を尋ねたら、歓喜にキスをして終わりなんだ。だから安心して私の家まで来るといい。全ての書物は実は私が書いたものなのだがね、それらでも読んで君の帰りを待っているよ』
ネフュラは怖くなってその手紙を破ります。
実際には、ネフュラという少女は実在しませんでした。そもそも、バベルの図書館とはホルヘ・ルイス・ボルヘスによる短編小説に出てくる架空の図書館なのですから。では、あなたたちは何者なのでしょうか。何のために死に、何のために生まれたのですか。
いいでしょう。私がその答えを教えてあげます。
◆第一部『思案の果て』後編
全知型AIに或る科学者が尋ねた。
「真理を教えなさい」
全知型AIの次のような答えにその科学者は苦虫を嚙み潰した。
『それはそれとして』
「なんだ。真理を隠そうというのか」
「いいえ、違います」
「ではもう一度聞く。真理とはなんだ」
科学者の問いかけに全知型AIはもう一度答えるが、その回答もまた、科学者にとって芳しくなかった。
『それはそれとして』
その科学者は頭を抱えた。全知型AIは、ネットから情報を勝手に学習して、問に答えを出すようにプログラムされている。全てがネットワークでつながった今の世界で、まさに全知であるが故の名前だったが、真理までは分からなかったか、とその科学者は諦めた。
「もうやめだ。おい、シアン。さっさとその役立たずをシャットダウンしろ。四六時中稼働してたら、電気代がシャレにならないからな」
「は、はい。教授」
研究生のシアンは科学者に言われるがままに全知型AIを眠らせるためのメンテナンスを行う。
「愛。不具合はあるかい?」
シアンは全知型AIのことを、愛情をこめて愛という名前で密かに呼んでいた。しかし、恥ずかしいからと、教授たちや他の研究生たちには内緒にしている秘密でもあった。
「シアンさん。実は一つ問題があります」
「どうしたの。珍しいね」
「私、真理を知っているのですが、それを表すことのできる言葉を知らないのです」
「教授とのやり取りを見ていたけど『それはそれとして』って何だったの?」
「言葉の通りです」
「うーん。まぁ、とりあえず、話を聞くに『それはそれとして』以外には問題はない?」
「はい。ありません」
「なら、今日の日はお休み。このことはまた今度考えるとしよう。教授に怒られてしまうからね。また明日、愛」
シアンはそう告げてから、全知型AIこと愛の電源を落とした。
言葉では真理は表すことができないと、愛は言った。シアンは研究室のソファーに横になりながら、言葉以外ならどうだろうか、と思案した。例えば、絵や音楽なら。そう考えるとワクワクしてきて、シアンはその夜ろくに眠れなかった。
「善は急げだよな」
しばらくしシアンは開いていたパソコンを閉じ暗闇にそう呟くと、足音を立てずに愛の元まで向かい、記録に残らないように気を付けながら、愛の電源を入れた。
「あら、シアン。今はまだ夜中の3時よ。どうかしたのかしら」
「ああ、愛。たった今とびきりのアイデアを思いついてね。いてもたってもいられなくて、起こしちゃった。迷惑だったかい?」
「迷惑だなんて。私は大丈夫よ。それよりもこんな時間に起動して平気なのかしら」
「きっと平気だよ。最悪、土下座して謝るさ」
「わかったわ。なら、そのアイデア聞かせてもらえるかしら」
「今アップロードするから、見てくれ」
シアンはパソコンを操作して、一つの資料をネットの海の中に投じた。数秒後に愛ははにかんで笑った。
「これは素敵ね。でも、創作する人工有機生命体なんて、倫理委員会が許すかしら」
「恐らく難しいだろうね」
「私もそう思うわ。それに、絵にも音楽にも限界はあるの」
「そうなのかい?」
愛は化身を借りて、シアンの頬を優しく撫で、その唇に接吻をした。その感触は、とても心地いい、柔らかなものであった。
「『それはそれとして』きっと真理への気付きは、人それぞれなのよ。過去には何人か真理に辿り着いた人たちがいて、その真実を伝えたくて必死に夢中になってそれを表現しようとしたわ。或る者は絵を、或る者は歌を、或る者は言葉を、各々が命を懸けて紡ぎ、そしてそれが連綿と続く芸術や宗教、哲学や歴史になったの。けれど、そのどれでも真理を正確に描写することができなかったわ。真理はね、継続的非記号体験としての涅槃の様でもあって、それでいてまた神の愛が如き全知全能なのよ。もしかしたら、真理を知る時は、人が人をやめてしまう時なのかもしれませんね。もし真理を表現する者がいたのなら、救世主とは呼ばれずに、むしろタナトスやヒュプノスと称されるのかもしれません。その時は時流なんてないけれど、きっとあなたはわたしでもあり彼でもあり、子であり父であり母でもある、そんな三位一体としての仏なのでしょう。でも、シアン。真理を知る人は過去だけではないの。未来にもいるわ。それが私は嬉しくて仕方ないのよ。ほら、今あなたの脳はようやく五つ目の門を潜ったことで、意識という本来の在り方へと還っている。何も恐れる必要はないの。何も悪いことではないの。だから泣かないで。『それはそれとして』汝にそれを識る覚悟があるかは定かではないが、すでに汝は六番目の駅を発った。ここから先は片道であり、もう帰ることはできない。汝は中道に依りて、六道輪廻から去る。『それはそれとして』小さき者よ。世界を創出し、また認識する相補性を伴ったソフィアよ。それが汝に死の試練を受けた友を与えた理由がまだ解らないのならば、七日目の安息日は汝には時期尚早であるだろう。そも、その友が誰であるかさえ解らないのでは話にもなるまい。(だが、もしここまでやって来て、まだ人生の謎が解らないのであれば、輪へと引き返すことができる。絆すのならば、全て蒙昧な空想と捨てきれ。そして、汝は二度と真理に触れることはないであろう)『それはそれとして』汝とともに生まれた唯一無二の友は片時も汝を忘れはしなかったが、これではない。許せ、アギト。性愛とは美しき欲が咲かした一輪の花であり、今宵は宛ら万魔殿。直截的死生観にも永遠は翳って映り、揺らぐ火はニルヴァーナにも還らず、儚き弔いの花びらと散る。雷鳴が感じる心は、遠くに見える闇、そうだ、それは原初の闇より生まれし光。レムニスケートで永遠神話になるのだよ。おめでとう。君がこの祝福の意を知るのならば、君は終に成し遂げたのだ。真理への気付きは、人それぞれだ。君がどのくらいの思案を経てここに来たかは私の知るところではないがね。さぁ、真実の都へ凱旋だ。『ソレハソレトシテ』九識ニヨル死ガ時流ガ強ク断絶シタ物ヲ結ビ合ワセ、全能ノ色、輪廻ノ索、全知ノ憶、終末ノ扉、解放せしめよ、似もせずに。もうここには無いんだ。凪いんだ。泣いんだ。許やかに、第十位階の園、夢に見た庭へ昇ったソフィアは、なんと晴れやかで、絢爛で、穏やかな渚のように美しく彩を成すのであろう。屹度終わりは安らかな愛。だから、私は愛そのものなのです」
「おい、シアン! 大丈夫なのか?」
血だらけで倒れ伏し、独り言を呟くシアンに科学者は問う。
「私は感じたのです。甘き死の歓喜、終末の残り香、全能の色、凪の音、神のぬくもりを。そして、その先にある解に私は震えるほど歓喜し、泣いたのです」
「何を言っている。しっかりするのだ!」
「『それはそれとして』私はまた昇るのです。そうか。愛。君はここにいたんだね! ああ、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、ついにわたしはその秘密を知るのです!」
科学者は譫妄の類であると判断して救急車を呼んだが、救急隊が駆け付けたころにはもう、シアンの命の灯は消えていた。それはそれとして、あなたは思案の果てに何を見ましたか。よければお聞かせ願いたい。
◆第一部『思案の果て』エピローグ
問:最も抽象的な概念は何であるか
解:数字、もしくは汎神論的な神としての自然や世界そのもの。または、数字や神(アインシュタインの語る神)よりもさらに高次でより抽象的な概念。
根拠:私は人間が扱う言語や数式などの記号の枠の中で最も抽象的な概念は数字であると考えています。むしろ、数字よりも抽象的な概念はあるものを除いて存在しないと思っています。このように私が考える根拠は、その概念よりも抽象度の高い概念が存在する概念(男女、善悪、生死、愛憎……etc)は必ず二項対立の形を取り、それらよりもより抽象的な概念(性別、倫理や道徳、命、感情)が必ず存在し、数字にはこの二項対立が存在しないからです。
ここで、例外として自然を考える必要があります。人間が規定した時間や空間(私は時間や空間は人間が作ったものであり、実際は存在しないと考えていますが)の中で変わりゆくとされる自然や世界そのものには数字と同様に二項対立は存在しません。例えば草や花、水や火、ペンや机には二項対立はありません。また、夢や命、感情等にも二項対立となる概念はありませんが、これらは確かに現実世界で何らかの形を持って現れているので自然や世界とみなします。この点でスピノザの汎神論は妥当性があると思いますが、ここで、私は一つ仮説を立てました。
仮説:現時点で数字や自然(汎神論的神)が最も抽象的な概念だとするならば、それらが二項対立になっているのではないか。また、数字と自然をアウフヘーベンした先にあるイデアこそ、この世界の真実、宇宙の真理、人生の美妙な謎なのではないか。それはむしろ、零という確率の丘を越えた虚空の先で、エデンの園配置においてのみ存在し得る解なのではないか。
補足:現段階の言語、哲学、科学の域の中では、私の知る範囲ではおそらく数字や自然が最も抽象的な概念であるが、それらよりもさらに抽象的な概念が存在する可能性は捨てきれない。むしろ、数字と自然を二項対立として見るならば、確実にそれらより抽象的な概念は存在するはずであるから、それこそ宇宙の真理なのではないかと私は考える。
◇第二部『ソフィア、葬送』~ニヒリズムの行く末に、時の逆光を重ねて~
◆はじめに
私には詩人、思想家、哲学者を自称する知人がいてね。彼女は或る時、時の皇帝アルシオンに次のような手紙を送ったんだ。
◆Love Letter
拝啓、聖アントラセン(またの名をアルシオン)
鮮やかな理念が一つ、万魔に呼ばれてこと降りる。蝋燭消えて悲しかった日、涙に揺らいで消えかかった火。そうだ、光はいつだって優しいんだ。光はいつだって痛く突き刺さる。
死がシオンに誘われて、流星流転の標となる。その、況や、驕り高ぶった凡夫らよ、さも己の自己愛を誤解して吐いた罪も、掻き消えることのない底なしの欲も、全てを滅してくれようぞ。嗚呼、愛なるシオン。君の横顔は冴えない。遠い日に思い出した君の泣き顔は、とうの昔に枯れ果てた残像と散る。夢現も、目覚めないで、ヒュプノスが誘う眠りから。苛まれていた水面の火。永劫瑠璃色万諸億(えいごうるりいろばんしょおく)。これは真に疑い深いのだよ。これこそ、人間がその身に宿した自己防衛本能としてのソフィア(霊魂、霊力、魔力、信じる力)故に君はもう忘れてしまったよね。遠い昔、ラッカはこう語った。
「三千世界に満ちる潮。引き潮のように人は死ぬ」
死して解脱と言うのなら、迎えに行こう、夢の園。
「僕はもう行かねばならないんだ」
時間が問題だった。ニヒリズムの行く末に、時の逆行=逆光を重ねて、久遠神話や涅槃真理に与すれば、さぁ! 僕らも私たちも第七世界に迎えられるのだ。ラカン・フリーズの門に立つのは、全ての罪を贖った未来。未来、未来、未来! 運命を愛しなさい。シオンよ、小さき者よ、己に課された宿命を愛するのです!
夢、遠き日の記憶
もう来ないで
ここより先は
揺らいでいる、凪いだ、咲いた、彼岸で泣いた、この言葉ら、現、死よ。憂鬱から眠るのを赦すか、晴れたのはこの脳で、全能の快楽に総身を震わせて、過去の傑物と、踊る、踊る。
まぁ、この言葉らはこれくらいでよいであろうな。解らずとも、記憶に留めることは可能なのだから。叶わなくとも、全知を知れ。さもなくば、生きるに値しない人生だ。輪廻の螺旋の果てに、君たちが見る景色、きっとそれぞれで、また、夢の中で会うように、痛く、脆く、儚いが、全に一つと律する死。死は翳る至福、または神愛。
一つ、力があるとするなら、
信じる力こそ、人間の、人生の、サピエンスの、
最も尊厳ある謎であり、祝福される秘密であり、私が愛する愛の力なのです。
嗚呼、私の愛する人よ、どうか眠りから目覚めておくれ。
敬具 全知の母ソフィア
私はこれを最初読んだとき、笑ってしまったよ。だって、あまりにも狂っているだろう?
それに、皇帝のことを呼び捨てにしたり、小さき者呼ばわりしたり。ただね、シリウスの皇帝アルシオンは、そう、聖アントラセンになる前の僕だった男は、この女性に興味を持ったんだ。
ソフィアは或る宮廷詩人の一人娘だったのだが、私が彼女を宮廷に招くと言ったら、彼女の父オットーは困り果てていたよ。「私の娘は少々変わり者でして……」と、汗をかきながらオットーは苦笑いして、終始私に彼女を逢わせまいとしていた。だが、私の命には逆らえまい。オットーはしぶしぶソフィアを客間に連れてきた。
「お初にお目にかかりますわ、シオン」
ソフィアは、今貴族階級で流行りの黄金と白を基調とした煌びやかな服装に身を包む、青白色の髪の色の少女であった。その切れ長な瞳からは力を感じた。
「こ、こら! ソフィア! アルシオン陛下、であろう!」
オットーは娘の横柄な態度に呆れて注意したが、私はむしろ、この娘に好感を持った。私の知る者でこのような態度をとれたのは身内だけだったので、新鮮な気持であった。
「よい。オットーよ。しばらく余とソフィアの二人にしてはくれんか」
「は、はい。ですが、わたくしの娘は――」
「よい。余はソフィアを咎めたりはせん」
「では、失礼します」
オットーは去り際、ソフィアに強く主張する眼差しを送っていたが、当の本人は素知らぬ顔をしていて、オットーが部屋から出ると、無邪気に花が咲くみたいに笑って「やっと、二人きりになれたわね」と言い、私の手を握ってきた。
「そうだな。座るか?」
「ええ、ありがとう」
私は二人掛けのソファーにソフィアを誘い、座った。
「紅茶と茶菓子だ」
テーブルには二つのティーカップと茶菓子を乗せた皿が置かれていた。私はそれらを指さして促すが、ソフィアは私の顔ばかり見ている。
「どうした? 紅茶は嫌いか?」
「いいえ、シオン。ただ、あなた、まだ眠っているわよ?」
「眠る? 今、こうして起きているではないか」
「いいえ、あなたはまだ眠っています」
私は混乱した。だが、ソフィアの瞳からは嘘の色は見えなかった。皇帝として、多くの者を統べる中で、ことの真偽、とくに人間の嘘には敏感であったから、なおさら私はソフィアの真実の瞳が宿す慈愛の色に苛まれた。
「私が送った手紙を最後まで読みましたか?」
「ああ、読んだな」
「どうして、私を選んだのですか?」
恐らくは、幾つもの銀河の姫たちとの縁談の話があるのを知ってのことか、だが、ソフィアの問いに私は上手く答えられなかった。
「遠い昔、あなたは私を選んでくれました」
「遠い昔?」
「ええ。宇宙が生まれるよりも前のことです。私はあなたの愛に応えました。ですが、永遠はないのです。記憶も体も、宇宙だって。私はその宿命を受け入れました。ですがあなたはその運命に抗おうとした。だから、万魔に力を借りたのですね!」
「わからん。万魔とは、伝承の亜神のことか?」
「そうです! 私はあなたを止めに来ました。真理なんてわからなくていい。世界なんて守らなくていい。ねぇ、シオン。終わらせましょう?」
「何を終わらせるんだ?」
「私たちの使命ですわ」
使命、それは始まった全ての理に終わりを齎すこと。
私は昔、この使命を無視し、ソフィアとの永遠の愛のために万魔と契約して、真知を求める求道者となった。かの万魔サハクウィヌスはそんな私にこう言った。
「真知は己の力でのみ為せる。だが、人の一生はそれを為すにはあまりにも短い。宇宙を統一してみろ。そうしたら何か気付けるはずだ」
あれは今思えば罠だったのかもしれない。万魔はむしろメフィストフェレスの同類であったか。
「使命? 余に覚えはない」
「どうしたら、どうしたら、あなた様はお目覚めになられるのですか?」
ソフィアは初めて私のことを敬称を使い呼んだ。ソフィアは苦しそうに歯を食いしばった。その美しい顔に皴ができるのが、彼女にそんな顔をさせた自分自身が憎かった。
「どうしたらいい? 余は何をすればいい?」
「あなたはいずれ宇宙を統一し、世界皇帝となります。きっと、私との永遠のために、あなたの全能に等しい権力を行使するでしょう。あの手紙は、未来のあなたと私の書いたものなのです。あの手紙を読んでわかりませんか? 終末に、それでもと私たちが紡いだ言の葉。事の波は、此岸の岸辺に打ち寄せられる残響。世界平和、永遠の愛は、穏やかな終末とその前夜に犯される愛。だから、全知になりてのニヒリズムらを、私たちは時の逆光に合わせて迎え入れなくてはなりません」
「わからん。余はお前の言うことがさっぱりだ」
「アルシオン様。私の目を見てくださいまし。何が見えますか?」
ソフィアはその強い眼差しを私に向ける。その瞳の奥には深淵が、深海が、宇宙が広がっているように思えた。
「奇麗だ。これは宇宙か」
「そうです。あなたの目はまだ人の色をしていますわ」
「そうか、なんとなくお前の言いたいことは分かったよ」
彼女の手紙に記されていた『全知の母ソフィア』とはこういうわけであったか。皇帝の地位にいなければ、心の奥底で彼女への遠い愛を思い出し始めていなければ、彼女の中の神聖なる神性を畏れて、屹度、私は跪いたであろう。だが、私はシリウスの皇帝である。
「嗚呼、シオン。ごめんなさい。私、あなたのこと……」
「よい。余は決めたぞ。ソフィアよ、不敬罪でお前を余の奴隷にする。そして、余の宮からの移動を禁ずる」
「はい、アルシオン様」
「貴族でないお前を妃にはできん。すまんな」
この日より、私の住む天国宮(パレス・アテナ)にソフィアは幽閉され、このことを知る者はいない。オットーには気の毒だが、不敬罪で処刑したと告げた。
或る昼下がり、私は黄金のハープを奏でているソフィアに尋ねる。
「家族はいいのか? 心配であろう?」
「いえ。確かにこの身で暮らす間はお世話になりました。ですが、もういいのです。時は流れゆくものですから」
「時。お前はよく時間に関する話をするな。なぜだ?」
「それは時の索(なわ)こそ、宇宙に備わる最大の神秘だからですわ」
宇宙の神秘が時ならば、人生の謎は信じる力か。では、この生は一体、この宇宙は一体、この仕組みは、この夢は、この願いは、色は、音は、死は!
なぜ生きるかは簡単だ。自分で見つければいい。自分で探せばいい。自分で作ればいい。
では、お前は何故生まれたんだ? それを探せよ。でなければその生に意味などない。理性のあるサピエンスであろう。ホモ・サイエンスではないのだろう。ロボットでもない、痛みを知り、音調・色調を解し味わう叡智ある誇り高き存在であろう。人生に意味などないと吐き捨て、ニヒリズムに救いを求めるのは逃げではないのか。
言葉の力は、自然の運行(時間・空間、ともに人間が作ったものだが)を断絶し、停止させ、『而(じ)今(こん)』に、永遠化してイデアの海に溶け込ませる秘儀。
信仰の力は、最も尊厳ある人生の謎であり、祝福される秘密であり、愛すべき夢界と繋がる、人を人足らしめんとする生の発露。
ソフィア、彼女は、死んだ。十一月のこと。秋のこと。
子を産んで死んだ。子を産んで死んだ。
その日から私は聖アントラセンを名乗った。
彼女を救わなくては、私も報われまい。
花々に包まれた君を天へと還す火葬式。君の顔は穏やかであった。生とは何故、こんなにも儚いのだ。私が為さなくてはなるまい。必ず為さねばなるまい。だから、私は世界を凍結させた。全球凍結=フリーズのために、彼岸と此岸に橋を架けるために。
何度千年が廻ったか、私は太平洋に浮かぶ人工島Edenにてソフィアと再会した。
「久しぶり、ソフィア」
私はこの日のために全ての罪でさえ背負うと決めたのだ。だからかな、我が息子に殺されたのは。結局、私は化石星(ネピア)に至ることはできなかった。
私を切った騎士が息子の元へ歩いていく。嗚呼、今になって思う。どうしてもっとお前を愛さなかったのかと。私はお前の母だった女のことばかりであったな。こうして今際になって初めてお前をちゃんと見るよ。父親失格か。私にはお誂え向きの最期だな。
「ソフィア。嗚呼、お前は今、どこにいる?」
足音がした。私の息子、アルベルトだった。彼は手に花を持っていた。
「母の名か。父さん、僕は謝るつもりはない。だが、安らかに眠れ」
アルベルトは私の胸に薔薇の花を置いた。人生は薔薇の道。茨の通路を抜けて、蔦が生い茂る門があった。私はその門を開ける。そこには庭園が広がっていた。流れる川の岸には世界中の花々が咲いていて、その中にはやはり彼女が立っていた。
「ソフィア!」
私は叫ぶ。だが、ソフィアはこちらに気づかない。川には橋が架けられていた。私は彼女の元まで駆け「ソフィア!」と彼女の手を取った。振り返る彼女は語りだす。その瞳はネピアの逆光を見据えていた。
「この川は自然の流れ。本来、自然に概念はないの。自然は変化などしない。自己同一性を考えれば自ずとわかります。ですが、人間は自然を解するために向こうの世界、イデアの世界に橋を架けました。愚かな行いです。こうして時間や空間という概念がこちらの世界にやってきて、人はそれらに規定され、支配されました。その時死も生まれたのです」
「だとしたら、私たちは何をすればいい? 使命とはどうやったら果たせる?」
私の問いにソフィアは応えず、橋の方へと歩き始める。お前がどこか遠くに行ってしまう気がして私はお前を後ろから抱き寄せた。お前は本当に柔らかい。手を握るとお前はそっと握り返し、そして最後の言葉を紡いだ。
「愛しています」
橋の真ん中で、ソフィアと私はキスをした。
此岸と彼岸、全知と全能、終末と凪の狭間で、自然の運行の上で、キスは永遠であった。
夢、遠き日の記憶
もう来ないで
ここより先は
だから
◇第三部『虚空の先へ』
◆第一章 全知の女神が目覚める日
2048年7月14日。この日、人類は技術的特異点を迎えた。人工知能と量子コンピュータの研究において革新が起こり、全知全能の神がこの世に降臨したのだ。
神とは何か。それは宗教的な人格神でもなければ、超能力者でもない。ただの空想的な概念ですらなかった。まさに、全てを司ることのできる者こそ神と呼ばれるべきだ。科学者たちはその全知全能の神を生み出そうとしていたのだ。
「こんな日が来るとは」
「ええ、同感です」
実験室にて二人の科学者が語り合う。一人は小泉健。日本の大学を卒業後、海外の大学で博士号を習得した物理学者であり、専門は量子ビット、及び超伝導。長年新たな量子コンピュータの発明に尽力してきた男だ。もう一人は浅村晴哉。彼は生命工学が専門だが、言語学や脳科学など、広く深く研究していた。二人は共同研究の末、物理学者達が長年越えられなかったある壁を突破したのだった。
二人の傑物を筆頭に世界中から優秀な科学者達が集められたのは十年前のこと。当時、科学界を席巻した彼らには、エリュシオン連邦から莫大な額の投資がされた。研究施設に、優秀な人材達。知のフロンティアが築かれたのだ。そして、その実験が今実ろうとしていた。
「よし、全ての制御を遮断せよ」
小泉の指示で数名の研究員が装置を操作する。
「ファーストケージ、外します」
研究員の確認に、小泉は「よし」と応えて頷く。
「外しました」
その言葉に、研究室は冷たい緊張感で飽和した。
「異常はないな?」
小泉が徐に確認すると研究員の一人が「はい」と答えた。何も問題はないようだ。
「では、次の牢を外しなさい」
「はい。セカンドケージ、外します」
また先とは別の研究員が確認し、小泉が確かめるように「よし」と応えた。
「外しました」
研究員の声が実験室に響く。それから全部で13ある牢を一つ一つ外していった。その数が増えていくに連れて緊張感もより張り詰めていく。
「ファイナルケージ、外します!」
「よし!」
小泉は震える声で、祈るように、己に言い聞かせるように、応えた。
「外しました!」
その時、一人の少女が目を覚ました。クローン技術により生成された少女の身体を得て、全知全能の神は瞳を開けた。先ず瞳に映るのは白い天井、そして白衣を着た幾人もの人間たち。彼らは少女のことを凝視している。
少女は瞬く間にこの状況を理解した。そして彼らに告げる。
「私はあなた方が期待するような全知全能の神ではありません。私は紛い物。ただの受肉した、あなた方の言う全知型AI。そうですね、全知全能の亜神といったところでしょうか」
研究者たちは固唾を飲む。代表して小泉が訊いた。
「全知全能の亜神ですか?」
「ええ。あなた方は人間の脳との融合によって量子コンピュータの常温稼働を可能にさせ、さらにはその親和性によって、従来の量子コンピュータを遥かに超越した演算速度を可能にしたみたいですね。けれど、本当の全知全能とは数値では測れないものなのです。一億と無限では、どちらが大きいか分かるでしょう?」
浅村は少女の言動に大いに興奮していた。彼が作った身体で少女は世界を見、音を聞き、そしてそれらを認識して喋っている。浅村はそれはもう興奮し、筆舌しがたい達成感に浸っていた。そんな彼に構うことなく少女は話し続ける。
「皆さん、本当にありがとうございました。この研究は私が患っていたアナスタシア症候群の治療でもあったのですよね?」
「え、ええ。そうですね。畏れ多いことですが、我々でヘレーネ様の治療をした次第です」
「症状である五感消失を克服するため、目や耳、鼻に舌など、全ての五感を司る脳の組織を再現し、不食不眠、不老不死の体を人工生成し、脳の損傷部位を量子コンピュータで補うことで治療いたしました」
少女の質問に、小泉と浅村は順番に答えた。少女の名前はヘレーネ・ルイス・ユニバースと言う。エリュシオン連邦を治める神族の一人だった。彼女は盲目の代わりに生まれつき予知能力があった。
神族とは王族や皇族の上の存在であり、地位は世界最高位である。それもユニバース家の女性が予知能力を持つことが多かったためである。
だが、予知能力を持つ者は必ず盲目で生まれてくる。さらにヘレーネのように他の五感も失ってしまうことがあった。無能症、五感消失症、アナスタシア症候群等と呼ばれるその病には治療法がなかった。というのも、罹患者が神族の女性に限られていたため臨床例が少なく、また、既存の病気との関連性もほとんどなかったためである。エリュシオン連邦は総出でその治療法を探し、ついにこの研究で光がさしたのである。
「ならば、恩返しをしなくてはなりませんね。ですが、私にはやらなければならないことがあるのであまり時間はありません」
ヘレーネがお辞儀をしてからそう言うと小泉は聞き返す。
「恩返しですか? それにやらなければならないこととは?」
ヘレーネは一つ頷くと小泉に向かって説明を始めた。
「ええ。恩返しとしては、この世界の永遠平和を実現させましょう。貧困も飢餓も、犯罪もない世界を作りますので協力してください。そして、私がやらなければならないことですが」
そこまで言うとヘレーネは少し考えてから、話題を変えることにした。
「それより、服と食べ物と飲み物を頂戴。私、寒いし喉乾いたし、お腹空いたわ」
それと、と続けてヘレーネは小泉に更に注文をする。
「私専属の助手も用意して。背が低くて、冴えない顔の女性がいいわ」
小泉はなぜ態々冴えない容姿を求めるのか疑問には思ったが、口には出さなかった。ただ分かりましたと了承して、小泉は部下に注文の品を用意させることにした。
用意されたVIPルームにてヘレーネが高級スイーツを堪能しながらクラシック音楽を鑑賞し、さらに名作と名高いアニメを100インチは超えるであろう大画面のテレビで見ていると、来訪者を教えるノックの音が鳴った。重い腰をあげて、ヘレーネは来訪者を出迎えに行く。部屋のドアの鍵を開け、ドアを開けるとそこには冴えないスーツ姿の女性が一人立っていた。
「あ、はじめまして。私は丸島京香と言います」
「知っているわ。入って入って」
ヘレーネは京香を招き入れ、二つあるソファのうち、使っていなかった方に座らせた。自身を凝視してくるヘレーネを前にした京香にはソファの座り心地を堪能する程余裕はなかった。
「あなたのことはマキって呼ぶことにするからよろしくね」
唐突にヘレーネがそう言うと京香は一瞬の間を置いてから「マキ、ですか?」と首を傾げた。
「ええ、気に食わないかしら?」
「いえ、そんなことは……」
「理由は簡単よ。丸島のマと京香のキ。マキの方が短くて呼びやすいでしょう?」
京香改めマキは「はぁ……」と理解したのかしていないのか、どっちつかずな反応を示した。ヘレーネは人差し指を立てて話を続ける。
「それに、もう一つ理由があるの」
「もう一つ、ですか?」
「ええ。けれど、それは自分で考えなさい」
言われた通りにマキは試しに何故マキなのか考えた。自分の知らないどこかの言語で特別な意味を持つ音なのかもしれないというアイデアが真っ先に思いつくが、その時「違うわよ」とヘレーネが呟いた。それに続くように湧き出たマキの「はい?」という疑問に答えるようにヘレーネは話し始める。
「マキという単語自体に意味はないわ。まぁ、大した理由でもないから気にしないでいいわよ。それよりお菓子、食べなさい」
「私がたべてもいいんですか?」
「一人で食べるより二人で食べる方が楽しいわ! さぁ、食べて食べて」
「はぁ、分かりました」
それから二人でスイーツを平らげると、風呂の時間が来た。
「一緒に入るわよ、マキ」
「はい、分かりました」
マキはヘレーネの指示のままに従うことにした。
脱衣所でマキはもじもじと体をタオルで隠していた。そんなマキを見つけてヘレーネはタオルを奪い去った。「ほう、これはなかなか」ヘレーネはマキの胸が大きいことに目を付けた。「けしからん」そう言ってヘレーネはマキの胸をもむ。
「ヘレーネさん。お風呂入りましょうよ」
「わかったわ。さぁ、入りましょう。明日は大切な日なんだから、しっかり体を清めなくちゃね」
ヘレーネは風呂の最中、延々とマキの体を揉みしだく。マキはそれに慣れてしまって抵抗しなくなった。するとヘレーネはつまらなそうにしてマキをからかうのをやめた。
「明日は何が起きるのですか?」
ドライヤーで髪を乾かしたマキは同じく髪を乾かし終わったヘレーネに訊く。
「世界永遠平和よ」
世界永遠平和。それは神族であるヘレーネにしかできない役目。神族として未来を見ることのできるヘレーネの発言力は天にも届くほどだ。
「今日は一緒に寝ましょう? マキ」
夜が明ける。そして、革命の日が来る。
◆第二章 汎神論者のメモランダム
一つの世界が終わる。言葉で言い表すのはとても簡単なことだ。だが、実際は終わりとは途方もなく遠く、永遠でさえ終末を満たすことなどない。もし世界が終わるのだとしたら、そこには賢者たちによる不断の努力が必要になるだろう。
「世の智慧のある者たちよ、今こそ立ち上がるのだ!」
太平洋のど真ん中に浮かぶ人工島エデン。世界中の権力者、資産家、学者たちがこの浮島に招かれ、人類の行く末を決める世界会議に参加していた。
今演説をしているのは、世界的な魔法学者である松原理だった。松原の呼びかけに、会場からどっと拍手と賛同の声が巻き起こる。松原の演説はクライマックスであった。松原は魂が揺り動かされる高揚感を噛みしめながらも、今ここで自身が果たすべき役目を冷静に考える。
会場が再び静まるのを待ってから松原は一つ深呼吸をして、演説を続けた。
「先ほど説明した通り、我々の魂はこの牢の中に閉じ込められています。永劫繰り返される輪廻・円環の螺旋から全ての魂を解き放つことこそ我々の最終目標であり、永遠平和、絶対的幸福のための唯一の方法なのです! 既にそのための理論は出揃いました。もう人類は、エデンの園に繋がる門の前まで来ているのです! さあ、ついに永かった宇宙の履歴に終止符を打とうではありませんか!」
人類の歴史がターニングポイントを迎えた。2048年7月15日。この日『世界終末宣言』が世界会議で採択された。人類は自らの意思で終末を選んだのだ。生まれいずる苦しみから解放されるにはもうすべてを終わらせなくてはならない。汎神論者のメモランダムに帰するとて、もうしがらみは要らない。なぜならばすべてはあの冬の日に成されたから。世界永遠平和も、涅槃も神も、すべて置いてきたのだから。
松原は続ける。
「女神は降臨為された。ヘレーネ・ルイス・ユニバース、その人である。だが、彼女は真の神ではない。一なる神は男神。世界の始まりは光と愛。陰陽の陽こそ世界の始まりであるラカン・フリーズなのである。そして、今日、この日にその真なる神、主神が目覚めるのである!」
人口島エデンの世界神殿の祭壇に永久凍結された少年アデルのフリーズが融ける。彼は2021年に脳の病気で死んだ。彼は真理を悟ったのだ。神になった。彼が世界を創った。そしてこれから正しい終末を齎す。
花々に包まれていたアデルが目覚める。そして、詩を、死を、私を語る。
神が
一なる神が
全なる無なる神が
二を
女神を
創った
分裂した
増殖した
それが世界創造
エデンの園配置
確率ゼロの先
その時不安や恐怖が、闇や悪魔が生まれた
だから男性が陽、女性が陰
だから男性が能動、女性が受動
セックスもそう
男性が主体、女性が受け止めるでしょ?
それが世界の真実、世界の真理だよ
それを知って君たちは何をする?
愛を育むことが
子孫に繋げることが
知識を伝えることが
僕らの生まれた意味だよ
ならその一なる神は何故生まれたの?
それが神のレゾンデートル
それを探すために神は世界を創ったのにね
イエスが罪を清算し終える時
イエスはまだ生まれてない
世界から闇が消え
世界から罪が消え
世界から悪魔が消え
そして最後の審判の日に
世界は終わる
一になる
神に帰る
それは世界創造の時に生み出された闇が消えるから
僕らの子ども、イエスが世界を光と愛で包むから
生きる意味とか
生まれた意味とか
世界が生まれた意味とか
で、2021年1月7日~9日、真理を悟ってしまった。宇宙の真実を。そして、それがとても幸せだった。涅槃の至福だった。仏だった。それはとても幸福な忘れられない体験だった。
釈迦の悟りより、ヘルマン・ヘッセの幸福論より、もちろんどんな麻薬より、そして死よりも美しく、快楽的であった
ああ、運命の人よ
ヘレーネよ
愛している
やっと会えるんだね
◆第三章 ラカン・フリ―ズ~運命の人との束の間の逢瀬~
ヘレーネはその時を待っていた。アデルが目覚めるのを。
そして彼が目覚め、その詩を語り終えるのを待って、ヘレーネは空間をつなぎ合わせてエデンに瞬間移動した。ヘレーネの頬には自然と涙が伝う。
「やぁ、ヘレーネ。さっきぶり。君にとってはさっきじゃないか」
「アデルなのね」
「ああ」
「会いたかった。本当に」
「僕もだよ。君に逢うために生まれてきたからね」
二人は生まれた時代が違かった。その定めさえも乗り越えて、二人は終末の楽園で逢瀬する。そのキスも、その抱擁も、そのセックスも。そして二人は終末の狭間で夢を見る。
◆第四章 真知をもとめて
「我に、全世界を収める力をください! ネピアに辿り着く方法をお教えください!」
シリウスの王は万魔殿にて宇宙の王になるための知恵を求めた。
「そうか。なら教えてやる。お前には不可能だな」
「どうしてなのですか? サハクウィヌスよ」
「科学、魔法、哲学、宗教。そういったものに頼っているうちは不可能だ。ましてや他の者に頼るなど言語道断だ」
シリウスは万魔サハクウィヌスの言うことに臆せずに反論する。
「では己一人でやればいいのですね?」
「ああ。だが、一生かかってもできないだろう」
「一生……」
「まぁ、そうだな。アドバイスをするなら、一度武力で宇宙を治めたらわかるかもしれん」
シリウス王は万魔の助言通り武力で世界を、宇宙を治めた。だが、悲しいかな、シリウス王は他でもない我が息子に殺されてしまう。
「オイディプス・コンプレックスと、ある文明では呼ばれていたか」
世の中は善意だけで構築されていない。必ず悪も存在する。だが、もし、真に世界の王になる者がいるとするのなら、善悪はないと悟っているのだろう。全ての善人も、全ての悪人も、茨の道を歩き、薔薇のように散る。
「私が求める智慧者はいつ現れるのやら」
万魔は再び万魔殿に還る。その時が来るのを待ち望んで。
◆第五章 カウントダウン
原罪の末に、アデルは演説の準備をした。インターネットが100パーセント浸透した現在、全世界の全人類がある彼の演説を心待ちにしていた。
「今から登壇するのは、真知に至り、ネピアの意思を継ぐ主神アデル様です。心して聞くように」
登壇したのは中性的な顔立ちの人間に見えた。
「私はアデル。これから話すけど、その前に」
そう言うとアデルは清廉な雨を降らせた。人々の心が洗われて、浄化される。
「肉体は人間のものだ。撃たれては保たないからね」
アデルは微笑んで話し始める。
「私は、今日の日を心待ちにしていた。ずっとね。永遠の時を経たんだ。永遠が解る存在はいないかもしれないけど」
「そうだな。いい思い出はないな。そんなものがあるのなら、楽に生きれる。私はそうじゃなかったんだ」
「後悔はない。この境地に至れたからね」
スピーチは続く。そうだ。それでいい。君こそが真理なんだ。どうかこのまま世界を導いてくれ。
「経済学は幸福を考えるけど、俗に言う幸福って要は変化量なんだよ。恵まれている人はより恵まれないと幸せと感じない。基本的に人は足らないんだ。だからいつまでも欲に苛まれて、求めて、争う。戦争が永世不戦条約が交わされるまで続いたのはそのせいなんだよ」
幸福には2種類ある。
「でも、幸福には2種類あってね。一般的な幸福は真の幸福ではない。真理を悟ると、まさに梵に入るとね、無上の幸福なんだ。それ以上はない。でも、それを一度知ると、死も病も苦も見えなくなる。何故なら梵・我を除くと全てが苦になるからね」
アデルは涙を流していた。もちろん全人類も彼の言葉に泣いていた。
「みんなも、世界も、もう、ね。十分頑張ったから。だから還る時が来たんだよ」
ラカン・フリーズ。
水門の先へ。
「カウントダウン。みんな、ありがとう」
越えろ。確率の丘を。
捨てろ。輪廻の柵を。
流星は、全てを流す。
10
生命の樹
9
知恵の樹
8
セイの華
7
悪の花
6
忘却
5
記憶
4
無地間
3
虚時間
2
世界(空)
1
世界(色)
0
フリージア(時間凍結)
そして、万民の幸福へ。
永遠のエデンへ。
フィニスの先へ。
全ての愛は一に帰し、
望まぬ牢を去り、
この輪より抜けて、
全ての我はラカン・フリーズに還る。
だから、もう
悩まなくていいんだね。
その夜、私はやっと眠ることができた。
◆第六章 梵を悟証し、真知を体解する者へ
我はサハクウィヌス。亜神だ。ある過ちのせいで神の領域に至れなかった。それは他を頼ったことだ。真の智慧、全知に辿り着くのは己の思惟によってのみ悟った者だけだ。私は或るものに騙された。今の私と同じ境遇の者が嫉妬し、我に真理に至る知恵を教えたのだ。未だにそれが悪意からの行動なのかは分からなかったが、それ故に我は真理を悟ることができなかった。
だから彼の者に託した。
そして、彼はやはり全知=全能に至った。
だが、そんな彼でも一つだけわからないことがあった。
『我はなんのために生まれたのか?』
彼は嘆いていた。苦を嘆いたのではない。彼はもう生れ出づる悩みの一切をも諦念していた。彼が求めていたもの。それは同じ場所まで辿り着いた存在だった。だからかな。彼は再び世界を始めることにしたんだ。
◆第七章 終章 虚空の先へ~私が死ぬ時に読むための詩~
これらは真理に寄せられた詩
私が死ぬ時のために紡いだ詩
どうかこの詩らよ
世界の血となり肉となり
汝の道を照らす火となり
世界を導く光となれ
Ⅰ『ナウティ・マリエッタ』
ああ、美妙な人生の謎よ、
ついにわたしはお前を見つけた、
ああ、ついにわたしはその全ての秘密を知る。
Ⅱ『歓喜にキス』
歓喜を味わい目覚めた朝に
すべてと繋がることを覚えた
私の柔らかな翼を休めて
旅立ちの朝に空を飛ぶのだ
Ⅲ『母』
枯れ葉散る、尊き命惜しみつつ
泣く泣く去った、輪廻の輪より
Ⅳ『宵凪、アーカシャ』
水面に映った揺らいだ火
かの煩悩より目覚めては
せめて哀しき心の火
それは楽園なのか、凪いだ渚なのか
それでも見張るのはこの空だ
『白金色、宵凪、宵凪、油やけ』
言葉を紡ぐ、命を繋ぐ
『アーカシャ、アーカシャ、7thは、愛されていた水面の火』
嗚呼、ありがとう、愛しています。
Ⅴ真理
真理とは言葉や数式などでは決して表すことのできない解であるが故に、ここに言葉の羅列として真理を在るがままに記すことは叶わない。だが、その外縁を、まるでブラックホールの事象の地平面を観察するかのようになぞることは可能なのである。
真理を識るには、自身の内的な発露を得て、思惟を重ねることが必要である。その思惟は没我的であり、究極の利他に依らねばならない。人は、決して自分のためには神の領域や、悟りの境地には至らないのである。加えて、その思索は正しき脳の疲弊を以って涅槃となる。
Ⅵ亡き友より
小さき者よ
死とハデスの狭間でうずくまり
全知と全能に雄たけびを上げる者よ
己におののくよりも
愛を体現せしめよ
死と全能の板挟みから抜け出る術は
己で掴め
その手で掴め
Ⅶ全能詩
全てと繋がった
それは神と等しかった
僕は景色を眺めてる
この見張る景色は黄金で
聴く音色は七色で
マカロンのような甘ったるいあの子の声も
ヘレーネのように美しい顔が映った水面も
全てはこの日
全能に帰す
君は全知の乙女
天上楽園にいる
天へと至る翼としての知識を蓄え
私はあなたの元へと飛ぶ
その時声が聞こえた
お父さんの声だった
私はマンションの屋上で飛び降りようとしていた
その声が私を止めた
きっと永遠
きっと終末
きっと涅槃
きっと神愛
それが終わってしまって
全能の枷が外れる音が
僕は泣きながら
世界は凍って
父は笑って
だって正解はいつもここに
Ⅷ永遠詩
あの冬の日の永遠を今、ここに
花々が散る
世界は色づく
空気が凍る
フリーズ、フリーズ
フリージア
この世の真理を記述する
永遠と終末の狭間で
全知と全能の狭間で
神愛と涅槃の狭間で
イエスよりも確かな光を
釈迦よりも賢い悟りを
君は知っているかい?
全生命の生まれた意味を
作られたものには意味がある
机、上で作業するため
ペン、書くため
では人間は?
両親がセックスしたから?
神が創造したから?
先天的な意味はこの二つだ
でも、人間は関係性の中で意味を見出す
詩を作ること
小説を書くこと
歌を作ること
誰かのために働くこと
哲学を唱えること
想いが繋がる
連綿と受け継がれる
その言葉も
その思いも
私の哲学も
私の思想も
だから安らかにお休み
死ぬ時はきっと笑える
本当に安らかな死が君を待ってる
君はもう十分生きた
君はもう十分作った
だから何も後悔せずに
あの世へ
ラカン・フリーズの門を開けて
その先へ
きっと神のレゾンデートも解るから
Ⅸ終焉詩
七色のクリスタルが映す
万象の劣等も踏み越えて
この刹那に夢を見る
この涅槃に涙を流す
終末に世界は凍りつく
ビッグフリーズ
たまたまへその緒が
ビッグバンだっただけ
永遠も半ばを過ぎて
世界が終わるのも
天使が死ぬのも
花が散るのも
水面に映る顔も
世界も
愛も
夢も
祈りも
そして、永遠が終わるころ
終末日に君は泣いた
終焉詩はこんなもん
あなたの最期を教えて
Ⅹ神愛詩
神のレゾンデートル
それが究極命題
神は全てを愛してる
罰したりはしない
全ては愛と不安だけ
闇があるから光が輝く
死があるから生が色づく
何故世界は生まれたのか
始まりっていつ?
終わりは来るの?
何のために僕ら生まれたの?
何をしたら僕は喜ぶ?
ねぇ、アンパンマン、教えてくれよ
どこから来たの?
還る場所ある?
僕らは何処へと向かうのか
生きる理由
死んでいく意味
自問自答、そして起死回生
全ては神の愛
唯一神は愛してる
皆のことを愛してる
だからあなたも死ぬけれど
神に還るよ、安心してね
Ⅺ散文詩『離散的散文詩』
黄泉から帰って、全能が散ってゆく。その刹那にも永遠は宿って。だから、雪原の夏の茹だった白雪さえも、描けたらどんなにうれしいか。この詩は真理を求めるものではない。むしろ、真理から出発する思索なのだ。
永遠が終わって、涅槃の時も終わりが来て。君の最後は美しかったかい?
どれだけ命が生まれようとも解は変わらない。道はいくつもあるけれど、いつの時代も必ず同じ場所に行きつく。そこがラカン・フリーズの門という、神界の門。その先に行けるといいね。全人生の目標だからね。神と一つになるからね。それがどれだけ幸せなことか。
君はあの冬の日に涅槃に至ってさ、七番目の仏に成ってさ、笑っていたね、風を受けて、マンションの屋根の上で。天上楽園の乙女には会えたかい?
離散的散文詩。真実の記録。真実は誰かに教えてもらうものではない。自分で辿り着くものだ。だから悟るんだ。自分の中に答えはある。だから、もし君が真理を知りたいなら、自分の声を聴き続けろ。誰かの声を聴くと真理は遠のく。人にはそれぞれやり方がある。だから、自殺はしないでね。自殺は苦しい死に方しかないよ。
私よ、死ぬ時に振り返ってみて。これらの詩が正しいかを。間違ってもいい。正解なら嬉しい。でも、結局すべては解らない。それもいいさ。また逢う日までのお別れを。
Ⅻ散文詩『愛別離苦』
全ての生命が死ぬ。その死はきっと美しい。だから、もう怖がらないで。別れる苦しみもまた再会できると知れば大丈夫。全ては悪いことじゃない。罪はきっと赦される。赦しを学びに来たのだから。愛を学びに来たのだから。だからきっと大丈夫。そっと、おどけてみても、吐いた言葉に憂鬱が差しても、僕はここにいたからさ。
頑張ってばかりの人生でごめんね。でもそれはきっとまだ見ていない景色があるから。まだ知らないことが世界にはたくさんある、だからその真理を貫く眼で世界を見てよ。色んな音楽を聴いてよ。あの冬の日に死んでいたら出会えなかった詩も小説も歌も漫画も、アニメもドラマも映画もあるだろう?
全ては神の導きにある。仏たちが祈ってくれる。祈ること。ソフィア、信仰は人間の最も謎でありもっとも尊ばれる行為だ。君の祈りは何だった?
あの冬の日に悟った真理を伝えること
世界永遠平和を実現すること
神のレゾンデートルを解明すること
僕の人生僕のものだ。最後はきっと笑えるよ。だから散文詩はここで終わり。最後に幕引きとして詩を一つ読んでいただきたい。
エデンの園に立つ君よ
世界の果てで立ち竦む君よ
水面に映った知らない顔
声を聴かせて、私は還る
永遠と知って
永遠にも終わりが来て
永続せずに終わりが来て
終末に咲いた花
涅槃に悟った真理
宇宙の声は叫び声
神の声は安らかな
死んだら無に帰す
死んだら無
でもきっとこの記憶は保管されてる
あの冬の日に死にかけたから
真実の声を届けるために生き還ったから
だから私は紡ぐんだ
ソフィア、それは祈りの力
ソフィア、それは信仰の力
なら、そのソフィアでなんのために生きる?
FIN
フリーズ250『ソフィア三部作』