
曲がり角の杏
その図書館には、奇妙なうわさがあった。本に書かれた文章が、少しずつ変化しているというのだ。
それは片田舎の中学校の図書館で、誰が最初に気づいたのか、杏(アン)が入学したときにはあたりまえのように囁かれている話だった。二年と半年のあいだ足しげく図書館に通っていた杏は、そんなのはただのうわさだと思っていた。それが本当だと知ったのは、中学三年の夏休みのことだ。
夏休み前、杏は高校受験に必要な参考書を五冊、小説を三冊まとめて借りた。ふだんなら五冊が限度だが、夏休みだからいつもより多く借りられたのだ。そのうちの一冊が『赤毛のアン』。小学五年生のときに初めて読んでから夏休みになるたびにむしょうに読みたくなり、読み返すのは五度目。
受験勉強のあいまに毎日一章ずつ、ゆっくり噛み締めるように読み進めた。夏休みも終わりになると残りのページが薄くなり、話の先を知っている杏にとってはその厚さがマシュウの命の灯火のように思えた。
杏はマシュウの死が描かれた第三十七章でいつも泣いてしまうから、その日はすべての勉強を終えてから読むことにした。
寝支度まですませて本を開いた杏は、最初しおりをはさむ場所を間違えたのかと思った。そのあと落丁本を疑った。でも、どちらも違って、第三十七章が『死のおとずれ』ではなく『道の曲り角』になっていたのだ。
『道の曲り角』は本来なら第三十八章に書かれる内容で、『死のおとずれ』一章分がごっそりなくなっている。終わりのほうに描かれていた墓参りの場面も消え、アンは入院したマシュウのお見舞いに行ったことになっていた。
翌日、杏は勉強もそっちのけで町の本屋をまわって『赤毛のアン』の第三十七章を確かめた。どれもマシュウは死んでいたが、家に帰ってもう一度借りた本を開くとやはり死んでいなかった。
杏はその足で学校に向かった。夏休みもあと数日だから、先生たちは学校に来ているかもしれない。
杏の担任の国語教諭である緑屋先生は『赤毛のアン』を読んだことがあるだろうし、先生は杏が所属している読書クラブの顧問だ。それに、もう十年近くこの中学校で勤務していると聞いたから図書館の奇妙なうわさのことも知っているに違いなかった。
「杏さん、その話は他の子にはしないでね。怖がって本を嫌いになってはいけないから」
緑屋先生は潜めた声で言うと、杏を図書館の地下にある保管庫に連れて行った。そして、黒いケースを開けて、何冊もの古びた本の中からひどいシミのついた『赤毛のアン』を取り出した。
「見て。この2020年以前に刷られた本ではマシュウが死んでるの。でも、あなたが借りた、2029年に刷られたものは死亡していないことになってるわ。『赤毛のアン』だけじゃない。ハリー・ポッターの両親は死んだのではなく魔法で永久に眠らされたことになっているし、モリアーティ教授はライヘンバッハの滝に落ちたあと逃亡する姿を目撃されてる。
他にもたくさんの本の内容が変わってるわ。その共通点は『死』がなくなっていること。病死も事故死も戦士も自殺も。
それに、この夏休みにもっと大きな変化が見つかったの。社会の園田先生が見つけたんだけどね、歴史書が書き換えられてた。
ケネディ大統領の暗殺は失踪に、ホロコーストは迫害だけで大量虐殺の記述が消えて、戦争は捕虜と行方不明者のことばかり書かれてる。パンデミックについては重症者の増加と医療崩壊。まるで一人も死ななかったみたいに」
「それ……、図書館の本だけですか?」
杏が問うと、緑屋先生は沈鬱な表情で首を振った。
「夏休みの開放日にね、図書館で勉強してた三年生の教科書も書き換わったみたいなの。図書館に持ち込んだものがそうなるみたい。だから、図書館はしばらく封鎖にしようって話が出てるのよ」
緑屋先生の言葉どおり、夏休みが終わって学校に行くと図書館には鍵がかかっており、蔵書整理のため当面使用できないと張り紙がされていた。
そして、生徒のあいだではまた別のうわさが流れはじめた。図書館で勉強をしていた生徒の歴史教科書に、まだ起きていない未来のことが書かれていたというのだ。
杏はその教科書の持ち主が隣のクラスの茉莉(マリ)だとつきとめ、彼女に『赤毛のアン』のことを話した。
「そう、杏もあれがうわさじゃないって知ってるのね。だったら、園田先生に口止めされたけど教えてあげる。今でも見間違いだったんじゃないかと思うけど、近代史のページにこう書かれていたのよ。『2045年、人類永世計画開始』って」
「人類永世計画?」
「うん。2084年に第一号の永世人類が誕生するの。その人間は物理的な肉体から解放されて、時間の制約から解き放たれ、過去への行来が可能になったって書かれてたわ。タイムトラベラー第一号だって」
「ねえ、茉莉。その教科書見せてくれない?」
「持ってないわ。ちゃんとした教科書を渡されて、書き換わったほうは園田先生が持っていっちゃったの」
園田先生が苦手だった杏は、帰りのホームルームのあと、緑屋先生のところに行って茉莉の教科書を見せてほしいと頼んだ。すると、先生はあたりをうかがって杏を人けのない廊下へ連れ出した。
「杏さん、他の先生には内緒よ。校長先生も教頭先生も、問題を起こしたくなくてこのことをもみ消そうとしてるの。でも、そんなのおかしいでしょ。だから、先生一人で調べてるの。茉莉さんの教科書は園田先生が職員室に保管してるけど、歴史教科書を買ってきて図書館に置いておいた。そうしたらね、毎日内容が書き変わってるのよ。これを見て」
緑屋先生はプライベート用の携帯端末をポケットから取り出し、歴史教科書を写した写真を杏に見せた。
「見て、ここの記述。『2092年、有限人種による大規模テロが発生し、永世人種は大量に■の概念に感染した。■の概念は多様なため症状は個人差が大きく、物理回帰を求めて有限人種になったり、場合によっては永世を放棄して消滅することもあった。』とあるでしょう?
これが、翌日になると■の部分に文字が入っているの。『死』の文字よ」
杏は見慣れた『死』の文字に異様な恐怖感をおぼえた。しかし、教科書の変化はそれだけでは終わらなかった。まるで『死』を消そうとする者と、それを阻止しようとする者がせめぎ合うように、日々文章が書き換えられているのだ。
「杏さん。じつは先生、昨日この教科書にメッセージを書いたの。『人類は死を知るからこそ生を愛しく感じるのだと思う』って。『タイムトラベラーのあなたは幸せですか?』って。その返事、いまから一緒に見に行かない?」
杏は先生とふたりでひっそりと静まった図書館へ足を踏み入れた。地下保管庫へ降りて行くと、黒いケースの上に歴史教科書が置かれている。
緑屋先生は巻末の年表のページを広げると、隅に書かれた短いメッセージを読み上げた。
「『死を知る誰かへ。有限回帰計画は棄却され、政府による思想浄化が強まっています。消されていく死をどうか死守してください』ですって。私の書いた文字は消えてるわ」
先生はまだなにか言おうとしていたけれど、目の前で起こったことに驚いてハッと息をのんだ。文中にあったふたつの『死』の文字がにじむように消え、他の文字はミミズのようにうねりながら形を変えて新たな文章が現れたのだ。
『死を知る先人よ。未来では人は肉体を脱ぎ捨て、時間をも超越した。永世人類となった我々にとって死の概念は消滅を意味し、その思想の蔓延は人類滅亡に直結する。我々の目的は人類滅亡を阻止することであり、そのための歴史浄化と思想浄化である。未来のために、死の概念の撲滅に協力いただけると信じている。』
「イヤよ!」杏は教科書に向かって叫んだ。恐怖心を払いたい一心だった。
「絶対、イヤ! 未来の価値観で歴史をねじ曲げるなんて傲慢だわ!」
すると、キィンと耳鳴りのような音のあと「名前は?」と聞き慣れない声がした。
「……誰?」
杏は周囲を見まわしたが先生しかいない。それに、先生には声が聞こえなかったらしく「誰もいないわよ」と不思議そうに首をかしげた。だが、別の声がふたたび杏の鼓膜を振動させた。
「名前を言ってはいけません。政府はあなたの情報を書き換えようとしているのです。この図書館にはもう来ないほうがいい。政府は優先的に少年少女の思想浄化を強化し、その対象を2020年代まで拡大しようとしている。変化を見逃さないでください。未来に真実を伝え続けられるかどうかは、2045年までの人類にかかっ……ガッ……」
「……君の名前は?」
割り込むようにもう一人の声が聞こえてきた。
「言わないわ! もう、ここには来ない!」
杏は、困惑する緑屋先生の手を引いて階段を駆けのぼった。図書館を出て教室まで戻ってもぼうっとしている杏を先生は心配したが、杏はどう説明していいかわからず、「大丈夫です」と言って学校を出た。
しかし、奇妙な耳鳴りの感覚と不安は家に着いても消えることはなく、むやみやたらに棚から本を引っ張り出しては内容を確認した。地下保管庫に行ったとき、制服のポケットに学生証を入れていたことに気づいたからだ。
もし、あの声が自分の名前と住所を知ったら――そう考えると受験勉強どころではなかった。反面、杏は自分がなにを恐れているのかよくわからないままだった。
歴史や過去の改竄は今に始まったことではないし、茉莉も杏も、先生たちも洗脳されたわけではなく、歴史教科書が書き換えられたことに気づくことができた。むしろ気づかないほうがどうかしている。
「そうよ。いくら教科書を書き換えたり小説から死を消し去っても、肉体のない未来人にできることなんて限られてるわ。未来人は私を殺せない。私を傷つけることもできない」
そのとき、杏の携帯端末にニュース速報が届いた。
『速報/人気子役の町田桃が急逝』
「えっ」
杏が驚きの声をあげたとき画面が白く光り、耳鳴りがした。そして、改めて速報記事を読もうとして絶句した。
『速報/人気子役の町田桃が失踪』
ケネディ大統領の暗殺が失踪に変わっていたという、緑屋先生の話を思い出して杏はぞっとした。
速報見出しの変化は杏の携帯端末だけのことではなく、どのネットニュースを見ても失踪になっていて、SNSでは町田桃の死亡に言及した投稿が数秒で削除されていくという怪現象が起こった。
そして、『町田桃タヒんだ?』『桃ちゃん本当に天国行っちゃったの?』というような『死』の文字が含まれない投稿だけが残った。
翌日には所属事務所が記者会見で町田桃の死を伝える映像がテレビで流れたが、オンデマンド放送では失踪を伝える記者会見にすり替わるという事態が起こった。
杏はテレビ画面を見つめながら、胸の奥に冷たい恐怖が広がるのを感じていた。
あの声が言っていた『政府』は、文字情報だけでなく映像まで書き換えることができる。それも、片田舎の中学校の図書館でこっそり改竄するのではなく、メディアに載った情報をほんの短い時間で書き換えた。
テレビの前の視聴者にわかるのは、どちらかが真実で、どちらかがフェイクニュースだということだけ。
『何十年も先の政府は私たちの政府じゃないわ。いったいなんの権利があって死者を悼む心を冒涜するの?』
杏がSNSにあげた投稿は一瞬で消えた。何度か試したが、『死』の文字を含む投稿はすべて未来の政府に削除されるようだった。
「未来の価値観で、勝手なことしないでよ」
杏がぽつりとつぶやいたとき、背後でドアの開く音がした。リビングに入ってきた大学生の兄。彼はヒョイと妹のスマホをのぞき込む。
「ああ、さっき速報で入った町田桃の失踪? この子の父親って、エコゾンビだって叩かれてたよね。そのせいで娘の桃まで嫌がらせされてたって」
杏が「エコゾンビ?」と問うと、兄は呆れ顔を向ける。
「町田桃の父親は高い税金払ってまでガソリン車に乗って毒ガス撒き散らしてた。そういう環境負荷を考えないバカなやつがエコロジーゾンビ、略してエコゾンビって言われてSNSで叩かれてるの知らないのか?
マイボトル持参せずに使い捨てペットボトルばかり買うやつとか、この水不足の時代にシャワー出しっぱなしにしてるウォーターバカとか。あとは、カーボン撒き散らして飯食ってるAI企業とその手のひらの上で踊らされてる杏みたいなやつも」
「私?」
「たまにはその手に持ってるやつの電源切れってこと。いくら受験生でも、文字ばっかり眺めてないで散歩でもしたほうが健全だぞ。今年は夏祭りも行かなかったみたいだし、青春はちゃんと謳歌しておかないとあとで後悔するからな」
彼は杏の手から携帯端末を取りあげ、勝手に電源を切ってしまった。
杏は兄の日焼けした顔をながめる。8月はほぼ毎日海に通ってサーフィン三昧で、9月になってもまだ夏休みだという兄は来週登山旅行に行くと言っていた。
「お兄ちゃん、旅行で長距離移動するのはエコロジーゾンビじゃないの?」
「たまにだからいいんだよ。まあ、SNSに投稿したら旅行警察が叩きに来るだろうけど、別に旅行は犯罪じゃない」
「未来の価値観ではどうかわからないよ」
兄は少し考え、「まあ、そのときはそのときだ」と笑いながら部屋を出ていった。
自分が日常的にしている行動が、未来ではどう判断されるのか。杏は兄とのやりとりでさらに困惑した。
「なにを信じて生きればいいの?」
『死』を消すことで人類を救おうとしている未来人の言い分も、杏は理解できないわけではなかった。
世間の人々が違和感を覚えるほど強引に『死』を消そうとしているのは、彼らがかなり切羽詰まった状況にあるからだろう。例えば、『死』を知った人がどんどん『死』を選んで、ものすごい勢いで人口が減少しているとか。
未来人が文字にした『人類滅亡』というのは彼らにとっての『死』であり、彼らは必至にそれを避けようとしている――?
杏だって目の前に死を突きつけられたら怖い。でも、ずっと死ねないのも想像すると恐ろしい。
いずれにせよ、死なない永世人類に今を生きる私たちの価値観が理解できるはずがないと強く思った。なぜなら、彼らはきっと本物の海に潜ったことはないし本物の山に登ったこともない。だって、彼らは肉体を捨てた存在だから。そして、物理的肉体を持たないまま時間を行き来する。
正直なところ、杏はそれが人類と呼べるものなのか疑問だった。肉体のない人間だというなら、それは『魂』と呼ぶべきものなのだろうか?
彼らはどこでどんなふうに生きているのだろう?
杏は夏休みのはじめに目にした、サイバー政令市に関するニュースを思い出した。
サイバー政令市自体は杏が小さいころから存在したが、そこの住人であるアバターを、本人が死んだあとも永住者として登録できるようにしようという案が出ているらしい。
もしかしたら、未来人はこの『永住者』のようなものではないだろうか。未来ではコンピューターの中の疑似人類が世界を牛耳っていて、その疑似人類が過去に干渉して歴史を変えようとしている?
「わけわかんない」
考えることに疲れ果てた杏は、兄の助言を思い出して散歩に出た。夕暮れの風を受けながら、近くの川沿いの道を歩いていくと、水面に揺れる光がまるで舞う蝶のようにきらめいている。
ふと、杏の心に『赤毛のアン』のある情景が浮かんだ。本来ならマシュウの墓参りのあと、書き換えられた『赤毛のアン』ではマシュウのお見舞いのあとに描かれるシーンだ。
『湖水の水面はその夕空を淡く映し出していた。この美しい情景にアンの心は打ち震え、魂の扉を喜んで開け放った。
「愛すべきなつかしき世界よ」アンはつぶやいた。「あなたはなんて美しいのでしょう。ここで暮らすことができて、この上なくうれしいわ」』※
杏は草むらの小道に足を踏み入れ、少しだけ冒険をしてみようという気になった。
小さいころ友達と秘密基地を作って遊んだ公園を目指しながら、昔と変わらない景色を探した。そしてたどり着いた公園は、杏の知るものとはまったく様変わりしていた。
緑にあふれ、水飛沫をあげる噴水のここちよい水音、小屋のなかで草をはむウサギやリス――それらはすべてホログラフィックに変わっていた。かすかに聞こえる電気の駆動音が、この光景が偽物だという証拠だ。
いつだったか、噴水で小さな女の子が溺れて死んだ。小動物を見世物にすることが非道徳的だと言われるようになったのは杏が小学校高学年頃。
なんとも言えない喪失感をおぼえ、杏はうつろな表情で帰途についた。そして、ふたたび川沿いの景色に目を向けた。水面は穏やかで、さっききらめいていた光は日没とともに消えている。そう言えば、あの公園は昼間のような明るさだった。
いまの子どもたちはあんなふうに緑を知り、水の音を知り、自分とは違う小さな生命の存在を学んでいくのだろうか。
「きっと、ぜんぶ偽物だったんだ。おかしな本も、図書館の声も、町田桃の事件も、ぜんぶ誰かが仕組んだイタズラだったのよ。今の技術ならあれくらいできるだろうし、タイムトラベルなんてバカバカしい」
あれこれ悩んだ杏だったが、すべて幻だったように思えてきた。本屋で買った『赤毛のアン』のマシュウは死んでしまったし、歴史の教科書には2020年のパンデミックで多くの死者が出たと書かれている。
夏休みが明け、学校の図書館は不審火で蔵書が燃えて別の場所に新築することが決まり、緑屋先生は急な異動でいなくなった。
あの地下保管庫に行った日から、杏は図書館のことを誰にも話していない。夏の終わりの不可解な日々を思い出させるものと言えば、茉莉がたまに杏に向ける意味深な視線くらいだった。
そうして以前と変わらない日常に戻った9月の半ば。学校から戻ると母親が台所で携帯端末を見ていて、杏に気づくと青ざめた顔を向けた。
「杏、お兄ちゃんが登山中に滑落して行方不明になったって」
杏は、キィンと耳鳴りのような音を聞いた気がした。
※引用部分は、L・M・モンゴメリ著、村岡花子訳による『赤毛のアン』(出版:新潮社)より。
曲がり角の杏
⚠二次利用の際は『この作品は日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト第5回の共通文章に着想を得て創作したもの』であることと、以下のリンクを併せて表記してください。
https://www.pixiv.net/novel/contest/sanacon2025