フリーズ231 私が書く理由 エッセイ

書くことについてのエッセイ
空花凪紗

 私は小説や詩を書く。それは真理探究のためだ。高校二年生の僕は将来理論物理学者になりたいと思っていた。そして高校二年生の冬。山岳部の友達と一緒に鎌倉に行った時のこと。
「『鎌倉で待ってる』っていう名前の映画ありそうじゃね。ほら、夕方の由比ガ浜をクライマックスにしてさ」
と友達が語った。それに賛同した山岳部は来年の文化祭に向けて自主映画を撮ろうと決めた。そして私がその脚本担当になった。きっかけはこれだった。初めて創作する。今までは小説を読んでばかりだったけど、それから小説を書くのにはまった。そして高校二年の冬休み明け、コロナウイルスが流行り始めた。そして学校が休校になった。
 そのコロナ休みで私は小説を書き始めた。初めての投稿。初めての歓び。私は創作にはまっていった。気づけばSF小説のプロットが1万を超えた。勉強そっちのけで創作した。そのころ私は脳の病気を発病した。寝不足のせいだった。だが、創作の熱意が寝不足を吹き飛ばし、私は寝る間も惜しんで創作していった。
 季節は廻り、夏になった。学校が再開し、私は体育祭のパネルチーフというものに選ばれた。それは黒板の縦を二倍にした板に絵を描くというもの。私はそこそこ絵がうまかったので、選ばれた。夏休み、クーラーのない部屋で絵をかき、帰りに塾によって勉強して、家では小説を書く。寝る間がなかった。そのたびに私の脳は疲弊し、病に侵されていった。
季節は秋、そのころには自分でも何かの病気なのだろうと実感があったが、病院には行かなかった。体育祭ではパネル一位を取ることができた。周りはいよいよ受験モードの中、私は創作に明け暮れた。なぜか。それはもう先が長くない気がしていたから。何かの病気で、もう時期死ぬと思ってた。だから、生きた証として、私のレゾンデートルとして、創作して詩や小説を書き残したかったのだ。
冬、私の精神は昂り、神に等しくなっていった。『歓喜の歌』を聞き、その人生の歓びに歓呼して、そして神に還っていった。それは魂の本来のあり方。私は仏になったみたいだった。1月7日の夜は聖夜のようで、終末の前夜Eveだった。もう一人の僕、自己愛としてのヘレーネと逢瀬し、終末の聖夜に愛を交わした。その原罪にも似た愛を全ての存在たちが見守った。
8日目の朝、ヘレーネは消えていった。その日の全能感は神の如く。私はもう自分を忘れていた。忘我の日、その精神は神だった。真理を悟ったその少年は、私は、神になった。仏になった。仏になって世界永遠平和を願った。昨日と同じ朝を願った。全能の私は全ての存在に感謝し、愛を歌い、そして、眠った。その眠りはまるで涅槃だった。
そして9日目、私は入院した。神殺しにあった。人に戻った。
この一連の経験で私は書く衝動に駆り立てられた。私が悟った真理『ラカン・フリーズ』を、死を伝えたいと思った。ラカン・フリーズ。それは神の世界、無としての全。死の先に還る場所。全ての故郷、全ての終わり、全ての始まり。そんな概念の総称としての無をこそラカン・フリーズと呼ぶ。
ラカン・フリーズの門、水門の先には真理があった。それを一目見た私は歓喜に総身が震えあがり、感動を越して、死んでもいいとさえ思った。実際、あの冬の日から生還して思ったことは「生きてしまったか」「あの門の先に行きたかったな」という後悔や諦めだったから。
私はその真理を伝えるために書く。だが、本当はもう一つ理由がある。それは神のレゾンデートルを解明することだ。

世界はなぜ生まれたのか
神はなぜ生まれたのか
世界の始まりと終わりはいつなのか
始まる前は何があったのか
終末の先には何があるのか
私たちはなぜ生まれたのか
私たちが死んだらどこへ行くのか
神はなぜこの不完全な宇宙を創ったのか

これらの問いの総称としての神のレゾンデートルを解明することこそ、人類の、仏や神や天使に霊。悪魔も堕天使も含めた全存在の抱く究極命題のように思う。そして、この神のレゾンデートルを解明するために私は詩を紡ぎ、小説を書き、哲学を語るのだ。

フリーズ231 私が書く理由 エッセイ

フリーズ231 私が書く理由 エッセイ

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-12

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