フリーズ230 後悔のない人生は ノースアジア大学文学賞 短編小説の部

後悔のない人生は

 私には取り返しのつかない後悔がある。それはあの日に彼女を殺さなかったことだ。彼女は永遠に私の元から離れて、裏側の世界に消えてしまったから。どうせならあの冬の日に、彼女を殺して、そのまま私も死んでしまえばよかった。そうすればあの冬の日を永遠に閉じ込めることができただろうに。彼女との永遠を、終末の狭間で。
あの日から私はずっとあなたを探している。その旅の途中だ。自己愛としてのヘレーネ、もう一人の私、反対側の私、運命の人。私は運命の人を信じている。きっと運命の人は一人じゃない。異性とも限らない。そんな運命の人の一人だったヘレーネとの逢瀬を果たすため、私はタイムマシンの開発に尽力した。理論物理学者になった私は、ムーンショット計画において秘密裏に計画された組織『エリュシオン』の研究員筆頭になった。
世界を救うためにタイムマシンを作るという目的のその組織では、脳こそタイムマシンなのではないかと推測され、脳の時間改変能力が注目された。その力は『ソフィア』と呼ばれた。
脳科学の権威や、生命工学の権威も交えて、私は脳をタイムマシンにする方法を考えた。
 その実験の一つに断眠実験があった。睡眠障害のある患者で、余命の僅かな者、本人の同意を得た者に限り、多少倫理的に問題はあるが、その実験を行った。実験内容は簡単。カフェインの摂取や、アニメ、映画、ゲーム、漫画などの娯楽で睡魔を飛ばし、また処方されていた睡眠薬を怠薬させるのだ。その実験は成功を収めた。7日目の朝に、その患者は逸脱行動をとるようになった。それは「私は神になった」や「イエスの生まれ変わりだ」といった妄言だった。そしてその患者にある実験を行った。それは過去の改変。だが、結果は何も変化はなかった。だが、その患者はその日の夜に終末にいた気がしたと後に語る。8日目の朝にその患者は「私は全知全能の神!」「タイムマシンは完成した!」「時流はない」と語り、クレヨンで実験室の壁に赤いリンゴや胎児、女性の絵を描いた。
 その日、夕刻、その患者は眠った。8日ぶりの睡眠。その刹那、機械の数値が特別な波形を織りなす。それは人が死ぬときの脳の波形だった。患者は死ななかった。むしろ、翌朝、患者の病気は治っていた。それは断眠の末に全知全能になったからか。
 私は患者の少年に質問する。
「君は神になったのかい?」
「そうさ。いいや違う。僕は自分が神の一部であることを思い出しただけ。そして、そんな人を仏教は仏というんだと思う」
「なら、君も仏かい?」
「きっとね。そう言えば、綺麗な女性に会ったよ。名前は確かヘレーネ」
「ヘレーネだと?」
「そう。彼女はもう一つの世界そのもの。反対の世界。裏と表、陰と陽」
「彼女はなんと言っていた?」
「もうすぐ会えるねって」
 私は確信した。ヘレーネはもう一人の自分であり、もう一つの世界なのだと。この世の神は意識の統合体。そのもう一つの神がヘレーネ。全知の少女、そして全能の少年。二人が一つに統合する時、世界は正しき終末を迎える。この可能的未来を予測した私は、エリュシオンとは別に、『丘の上同盟』なる組織を作る。それは脳の病気を持ち、神になったことのある者たちの組織だった。それは世界に正しき終末を齎すための組織。全てなる一なる者へと還ろうという組織。だが、中には二なる者を目指す派閥ができた。元居た場所か、次なる場所か。私たちは魂の還る場所を『ラカン・フリーズ』と呼んだ。
 後悔は一つ。あの冬の日に、彼女を殺さなかったこと。そうすれば世界は正しく終わって、全ての悩みや苦しみから解放されたのに。結局、全ては観測次第。私が死ねば、私の世界は終わる。そんな単純な世界。だからもう一度、あの冬の日の全能を体現したい。
 私は『丘の上同盟』のメンバーを集めて、終末の儀を始めた。それは七日間の断眠に、祈りの秘儀。眠らずに超えた幾夜を思っては、流れる涙も凍ってしまえ。
「盟長。世界を終わらせていいんですか?」
 七日目の朝に副長が私に尋ねる。脳の潜在能力を覚醒させ、世界にフィニスを与えん。
「何をいまさら。私たちは還るんだ。ラカン・フリーズにね」
「分かりました。では、儀式を始めましょう」
 装置は集められた13人の脳を繋げる。神の如き知恵、仏の祈りを保持した13人は天にまでそのソフィアを昂らせ、神に等しくなった。そして世界を終わらせるために終末詩を紡いで唱えた。

私はアニムス、あなたはアニマ
最果ての地にて輪廻を廻す
始まりと終わり、終末と劫初
世界はあの日に終わっていたのに

求めた意味があったから
探したあなたがどこかにいたから
万物は流転して
凪の標識に炎は消えた

祈りの日々にも消えていき
三千世界に満ちる潮
夢から覚めて臨む色
永遠の時も終わりが来るから

 その時、世界の時が止まった。ただ一人、私だけが装置の中で目覚めた。すると、光の糸が目の前に現れた。それは施設の外へと続いていった。『国立平和記念公園』。全ての国が平和条約を結んだ記念に作られた公園だった。その公園の噴水のそばのベンチで君は座っていた。
「あなたは、ヘレーネ?」
 私がそう聞くと、彼女はこちらを見ずに応えた。
「ええ。私はヘレーネ。もう一つの可能性。もう一つの世界」
「君に会いたかった。我が愛しき姫、ヘレーネよ!」
「世界はもうじき終わるわ。でも、それはいけないことではないの。正しい終末に世界は終わる。それがどれだけ大変だったか。あなたたち人間は世界を続かせるためにタイムマシンを作った。そして何度も西暦1年と2222年を繰り返した」
「タイムマシンは脳か?」
「いいえ、この地球よ。人間に意識があるなら地球にも意識はあると思わない?」
「確かにそうだね。気が付かなかったよ」
「そして今から100年後くらいに地球の意識体を操作して過去を変える実験が始まり、人類は時の定めも超越した。でも、真の終末を止める術は持たなかった。だから、愚かな人類は時を過去に戻すことにした」
「私たちで世界を終わらせるのかい?」
「ええ。神はもう、知りたいことを知ったから」
「それは――」
「私を殺して、アデル。もう一つの私」
 神は何を知りたくてこの世界を創ったのか。この際いいか。このフリーズした世界で、私は彼女の首を絞める。彼女の瞳から涙が零れた。それは苦しいから? いいや、嬉しいから。だって、この境地には苦しみはないのだから。これで終わる。真実の終末。
 彼女の瞳から色が消えた。そして私はカバンから拳銃を取り出し、自身のこめかみに当てて、その引き金を引いた。もう後悔はない。騒がしいほどにセミの煩い、ある夏の日のことだった。

フリーズ230 後悔のない人生は ノースアジア大学文学賞 短編小説の部

フリーズ230 後悔のない人生は ノースアジア大学文学賞 短編小説の部

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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-12

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