フリーズ229 酒癖の悪い神のレゾンデートル 〈愁×ペン〉〈織田作之助青春賞〉

酒癖の悪い神のレゾンデートル

神にも肝臓はあるのか。(太字)
この問いがとても忘れることができなくて、脳裏に焼き付く。神も酒を飲むのか。私はとても気になった。そして、神にも肝臓があるのか。
私は酒が好きだし、ウィスキーもジンも、ウォッカもリキュールも、ワインも日本酒も、色々と飲む。中でも甘くて面白いリキュールやカクテルが好きだ。
例えばアドヴォカート。卵のお酒。プリンのような甘さと仄かな酒の香りがする。一番好きなリキュールだ。例えばノチェロ。クルミのお酒。クルミの香りが甘さとマッチする。例えばフランジェリコ。ヘーゼルナッツのお酒。ヘーゼルナッツの甘い香りが仄かな酒の香りと合わさっていい。
そして、この三つのリキュールをそれぞれ30ccずつとミルク適量で作るカクテルは、私とある友達と行きつけのバーのマスターの三人で考えたオリジナルカクテル『ラカン・フリーズ』だ。『ラカン・フリーズ』は時が凍ってしまったかのような甘さと終末に取り残されたかのようなナッツリキュールの香ばしさが相まって、とても美味しい。
なお、アドヴォカート、ノチェロ、フランジェリコは家に確保してある。どれもそこらの酒屋では売ってないから海外から輸入したものだ。しかも、アドヴォカートは冷蔵庫で保管しなくてはならない。そのせいで一人暮らしを始めるまでアドヴォカートはバーでしか飲めなかった。
ちなみに『ラカン・フリーズ』のカクテル言葉は『運命の人との束の間の逢瀬』転じて『運命の人との永遠の別れ』である。これは先の友達と行きつけのバーのマスターと考えたカクテル言葉だ。
甘いひとときが運命の人との逢瀬の時間。そして、その甘さが引いていくと永遠の別れ、という訳である。
話を戻すと、神も酒を飲むのだろうか。その問いの答えを提供してくれそうな人に心当たりがあったから、私は彼をバーに誘った。カクテル『ラカン・フリーズ』を一緒に作ったその張本人である。
彼のことを青年Aと呼ぼう。彼は真理の探求者である。今は博士課程の彼はICEPP(東京大学素粒子物理国際研究センター)で研究をしている。物理の道のプロという訳だ。
宇宙の真理を解き明かすために理論物理学者になるのが彼の夢らしい。万物の理論を解明することが世界の物理学界の目下の目標なのだとか。
例のバーに入ると青年Aはカウンターで先に飲んでいた。私はその隣の席に座る。「やぁ」と、軽く挨拶を交わす。そして私はマスターに『ラカン・フリーズ』を頼んだ。すると彼も「僕も一つ」と『ラカン・フリーズ』を頼む。
「運命の人との束の間の逢瀬、だっけ。狙ってる?」
「確かにあなたは私の運命の人よ。でもそれは過去の話」
「彼氏出来たの?」
「いや、まだ。社会人は忙しくて恋愛してる暇無い」
「そっか。でもバーに来る時間はあるんだ」
「貴方の話を聞きたくてね。研究は順調?」
「まぁ、ぼちぼちかな。でも、思ってたのと違った。実験は楽しいんだけどさ、もっと理論を考えたいんだよね」
「理論物理学者志望だもんね」
「うん。きっと道を間違えたんだよ。僕は物理学者じゃなくて、哲学者になりたかったのかもしれない」
「へー。それはまたどうして?」
「物理を含む科学ってさ、結局観測が全てなんだよ。理論を立てて、実験して、観測して、成立したら認められる。観測ありきなんだ。でもね、こうも思うんだ。観測できない所に宇宙の真理があるとしたら、物理学は一生真理に辿り着けないってね」
「それは確かにそうかもしれない。物理のことはあんまり詳しくないけど、哲学、思索の方が真理に近いかもね」
「うん。形而上学っていうやつだね。きっと僕はそれをやりたいのかもしれない。今になって後悔してる」
「後悔かー。私も後悔ばっかりだよ」
「どんな?」
「え? 例えば留学行っとけばよかったなーって。あと海外旅行にももっと行っとけばよかった。社会人になるとまとまった休みなんて取れないからね」
「そっか。僕も研究で忙しくて中々ね」
マスターが『ラカン・フリーズ』をシェイクして、グラスに注ぐ。「どうぞ」と青年Aと私にマスターは『ラカン・フリーズ』を出す。「じゃあ乾杯」「うん、乾杯」と言って、グラスはぶつけることなく軽く上げて合図とする。バーのマナーだ。私は『ラカン・フリーズ』を少し飲んだ。相変らず甘く香りが高い。奥行きのあるナッツの香りにミルクの甘さ。やはり好きだ。
「そうだ。ラカン・フリーズってさ、確か君の哲学に出てくる造語だったよね。詳しく聞かせて」
「よく覚えてるね。いいよ」
青年Aとは大学一年の時にとある文芸サークルで出会った。彼は一年足らずで辞めてしまったが、彼の書く小説には哲学があった。私は彼の紡ぐ哲学に惹かれた。二年からは学業が忙しくなり、滅多に活動に参加しなくなった彼だが、私とは定期的に会っていた。何故なら大学二年の五月、私と彼は付き合うことになったからだ。
運命の人を私は信じている。だけど、運命の人は一人じゃないし異性とも限らない。きっと青年Aは私の運命の人だったに違いない。
自分の中の世界観を彼は語る。宇宙の根源をラカン・フリーズと呼ぶ。それは『羅漢・凪』であり、『螺環・凪』でもある。天界や神界に続く門があって、それをラカン・フリーズの門と呼ぶらしい。全ての命はやがてラカン・フリーズに還る。そして、また生まれる。輪廻転生。意識の海、イデアの海。集合意識の海底にラカン・フリーズは眠ってる。
彼は真理を悟ったことがあるという。それは睡眠障害の果てに一週間眠れなかった時のこと。疲弊する脳が抱くクオリアは筆舌に尽くし難い程に美しかったという。
「きっとね、あれが涅槃だったんだ。僕は神様になってしまったんだ」
「涅槃か……」
「うん。僕は涅槃を知ってる。でも、真理は、言葉で表現できない。きっと絵でも音楽でも、無理だろうな」
「あなたの言う真理って何?」
「それはこの世の仕組み、摂理さ」
そう言って彼は世界の真理を語り出す。
世界は蝶結び。二つの円環、二つの世界。レムニスケート(∞)は二つの輪が一点で重なっている。その交点こそエデンの園配置(=確率の丘の先=ゼロの先=虚空の先)としての到達不可能点。∞の記号はこの世界の仕組みを体現していると言う。
それは裏と表でもある。神は最初に「結び」をしたんだ。蝶結びを。一つの紐を結んで蝶結びにするように、世界を創った。時が流れて、途切れて、また合わさって、戻って、切れて、また繋がるように「結ぶ」。その蝶結びが全ての始まりであり、終わりであり、天地創造だと語る。
「結び」は関係性の中で形を作る。空即是色、色即是空。仏教の縁起とも通ずる。実態のない空が関係性の中で形と質量を得る。
「やたらと仏教に詳しいね」
私が茶化すように言うと青年Aは今更と言った顔で言い返す。
「そりゃ、副専攻、東洋哲学だったもんでね」
「そうだっけ。そう言えばウパニシャッド哲学にハマってたね」
「今もだよ。ウパニシャッド哲学は至高」
「はいはい。続きをプリーズ」
青年Aはまた語り出す。アインシュタインの導き出したE=MCCの等式が示すように、実態のないエネルギーが紐となり素粒子となり形になる。それはエネルギーが質量を持つ過程で関係性を構築するから。
「宇宙は神の蝶結びってこと?」
「そう。それが最初で世界創造。蝶結びは比喩だけどね。分かりやすく伝えるための」
「ふーん。興味深いな。ならさ、神っているの? 男? 女? 神に肝臓はあるの?」
「何その質問。神はいるよ。でも、神ってさ色々種類があるでしょ。アスラ、デウス、ゴッド」
「うん。確かに、それで?」
「神道とかヒンドゥー教とかの神々とキリスト教やユダヤ教の神は違う。多神教と一神教の神は違うんだよ」
「どう違うの?」
「多分ね、一神教の神を表す言葉は『全は主』だね。全ては主、神だってこと。万物は神。この世の全ては神。スピノザの汎神論に近いかな」
「つまり、私たちは神の一部ってこと?」
「そうそう。そして、僕たち人間含めて、全ての生命や無機物の意識の統合が神」
「じゃあ多神教の神は?」
「それは具体的な事象の意識、僕はソフィアって呼んでるけど、そのソフィアが神」
「どういうことかしら」
「つまり、川には川の意識がある。例えば『千と千尋の神隠し』のハクのようにね。他にも、月には月の意識があり、それを月読命とかルナとかセレーネとか呼んでる。太陽はラーとか天照大御神とか。挙げたらキリがない」
「神って言っても色々あるのね」
「うん」と頷いて、青年Aはカクテル『ラカン・フリーズ』を飲み終えると、マスターにカナディアンクラブ12年をロックで頼んだので、私も同じものを注文した。「真似っ子」と彼は不敵に笑った。
「いいじゃない。それにしても相変らずカナディアン好きね」
「ウィスキーで一番好きだからなー」
「私もカナディアンウィスキーは好きだけど、アイリッシュ・ウイスキーの方が好きかも」
「カナディアンは香りがいいんだよ」
「そうだ。聞こうと思ってたことがあってさ、神に肝臓ってあると思う?」
「そう言えばさっきもそんなこと言ってたね。何、神に肝臓?」
「そうそう。神様もお酒飲むのかな。お酒飲むってことはアルコールを分解するために肝臓ある訳でしょ。どうなんだろう」
「神は自分の姿に似せて人間を創ったらしいけどね。実際は分からない。でも、一つ言えることは、事はそんな単純じゃないと思うよ」
「どういう意味?」
「つまり、全は主の立場からすると、僕たち一人一人が神の一部という意味で神なんだよ。全ての人が、全ての場所が、全てのタイミングが、黄金であり、七色であり、大切で、重要なんだと思う。その見地から言うなら、神は僕たちだから肝臓はある、という結論になる」
「超越的な人格神はいないってこと?」
「それは分からないな。生命って不思議でさ、生命が存在すること自体が天文学的な確率を遥かに超える奇跡なんだよ。時計の部品をプールに放り投げて、自然に組み立てられる確率くらいとか言ってる人もいる」
「天文学的な確率ね」
「そう。人間原理っていう都合のいい解釈もあるけど、きっと意図的だと思う」
その時、マスターは私と青年Aにカナディアンウィスキーのロックを出した。私たちは乾杯して、ウィスキーをちびちび飲む。ウィスキーはゆっくり香りを味わいながら飲むものだから。
「で、話の続きだけど、僕の予想を言っていい?」
「どうぞ」
「多分、みんなが神様なんだよ。忘れてるだけで」
「それはまたどうして?」
「前に話したよね。悟ったことがあるって」
「2021年1月7日?」
「そう、それ。その時感じた歓喜や至福は二種類あって。一つ目が世界と一体化する感覚。二つ目が神になり超越した感覚。その時に悟った真理こそラカン・フリーズだった」
「永遠と終末だっけ?」
「そう。永遠と終末の狭間で僕は泣いたんだ。神の愛や涅槃の至福に、その時18歳だった少年の魂は天に至ろうとしていた」
「死にかけたの?」
「たぶん死にかけてたんだと思う。目が覚めたら病院だったから」
「悟ると、仏になると、自身が神であることを思い出すってこと?」
「そう。それが言いたかった。だから神とか仏とかの次元になると、自他とかの境がなくなって超越する。そうとしか言えない」
「ふーん。興味深い」
「だから肝臓あるんじゃない?」
「私が期待してたのは人格のあるおじいちゃんみたいな神だったなー。まさか私たちが神だから肝臓あるに決まってるだろ、って返ってくるとは思いもしなかったよ」
「あくまで僕の意見に過ぎないよ。あ、でも、今度『神の肝臓をたべたい』って小説書こうかな」
「『君の膵臓をたべたい』のパクリやん。是非書けたら読ませてよ」
「いいよ」
「で、神様のことは分かったけど、結局、あなたがあの冬の日に悟った真理って何だったの?」
「言葉で表すなら、永遠、終末、全知全能、神愛、涅槃かな。世界の終わりのような気がして、全ての霊魂から見られてる気がして、そんな世界の始まり。言うなればラカン・フリーズの門を開けたんだよ。その先の景色が真理かな。言い換えれば宇宙の根本原理、万物の故郷」
「その門の先には行ったの?」
「まだ来るなって言われたよ。だから病院で息を吹き返したんだと思う」
「使命があるから?」
「かもね。確か、中島らもの遺作『ロカ』にそんな言葉あったな。調べる」
青年Aはスマホで何やらメモアプリを見ている。気に入った小説のフレーズをメモしているらしい。私はその間にカナディアンウィスキーを少し飲む。香りが甘くて飲みやすいのがカナディアンだ。
「あったあった」

『 人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。私にまだ役割があるのだろうか。』中島らも『ロカ』講談社、2005年

「だから、僕の役割はあの冬の日に悟った真理を物理学者として解き明かして言葉にすることだと思う。でも、真理は言葉や数式の類の記号で表せられない気もする」
「涅槃は継続的非記号体験って言うくらいだしね」
「まぁ、でもね。それが最終ゴールじゃないんだな、実は。宇宙があれば真理はある。そんな簡単なことを知るために僕たちは生まれたんじゃないんだと思う。もっと根源的な問い。『私は何故生まれたのか』という問い。それを僕は神のレゾンデートルと呼んでる」
「神のレゾンデートル? 存在証明ってこと?」
「そうなるね。何故世界は神は僕たちは生まれたのか。そして、真実の終末の先に何があるのか、劫初の前は何があったのか。きっとループしてるだけだと思うけど、ならそのループはいつ終わるのか、いつ始まったのか、他のループは? ってな感じでどんどん謎が増えていく。これだから物理はやめられない」
「文系だった私にしたらちんぷんかんぷんだわ」
「まぁ、僕の今のところの結論はこんな感じだけど、何か質問ある?」
「本当にあなたは賢いね」
「ありがとう。でも、賢さは四つあるからね」
「勉強のできるできない、社会経験や人間力、ピアノや絵の才能の三つは分かるけど、もう一つは?」
「真理への気づきだよ。きっと、僕はその点でずば抜けて賢いんだ」
「私も真理を悟れるかな」
「それはやってみないと分からないな」
「あなたならその方法を知ってるでしょ?」
「知ってるけど、やれば社会人としての生活が出来なくなるよ? 命の危険だってある」
青年Aは顔を曇らせて語る。私は彼には真実を話そうと思って告げた。
「実はさ、隠してたんだけど。私、肝硬変っていう病気らしい。先週診断されて、それも結構進行しちゃっててさ。余命は一年なんだって」
「えっ」
私の突然の告白に青年Aはなんとも言えない顔をした。口は開いたまま閉じるのを忘れたみたい。
「なら、お酒飲まない方がいいんじゃ?」
「うん。もちろん控えてるよ。というかドクターストップかかってる。でもやっぱり私はお酒大好きだから」
「そっか……。余命一年なんだ……。とにかくそのウィスキーは僕が飲むよ。もっと度数の少ない甘いカクテル飲みなよ。マスター。カルーアを使わないカルーアミルクを度数低めで一つ」
青年Aは私のカナディアンウィスキーを奪って飲み干すと、この店ならではのカルーアを使わずにエスプレッソとリキュールで作るカルーアミルクを頼んでくれた。
「神様の肝臓食べたら治るかな」
「通り魔に刺されるフラグ立たせんな」
「案外、天使かも」
私は今、ちゃんと笑えているだろうか。今日、彼を呼んだのは他でもない。ある提案をするためだった。私は本題を切り出す。
「社会人になって3年間でかなりお金貯めたからさ、そのお金で一緒に旅行にでも行かない?」
「旅行ね、いいよ」
きっと彼は無理して承諾したに違いない。博士課程の研究員なんて暇な日なんてある訳ない。きっと同情してくれたからこその承諾だったのだろう。でも、今は敢えてその優しさに乗っかろう。
「最期に真理を悟って死にたい。だから私を真理に導いて」
「分かった。たぶん真理への道は幾つもあるんだ。でも、辿り着く場所は同じ。日本と海外どこに行く?」
「海外かなー。仕事辞めるのに一月くらいかかるから、その後で」
「あのさ。旅行先で一緒に自殺しない?」
「え、あなたまで死ぬ必要はないわ」
「いやいや。僕も人生うんざりなんだ。あの冬の日に悟った真理、きっと物理学では至らない。そして、きっと平凡に生きていたらあの至福はもう二度と味わえない。もしかしたら真理を悟るには死を見据える必要があるのかもね。ならさ、最期に君と一緒に長編小説一つ書いて、それを自費出版して、そのまま果てようかなって思ったんだ」
「そっか。あなたも悩んでたんだね」
「死ぬ理由が見つからなかっただけだよ。心のどこかではずっと死を思ってた。きっと永続する涅槃は有余涅槃では無理。無余涅槃で、死なないと、真の涅槃ではない」
「体があるのが有余涅槃、体を捨てるのが無余涅槃だっけ」
「そう。だから、一緒に死のうか。次の冬に」
私は一ヶ月後に『病気で余命一年だから』という理由で退職し、青年Aと過ごすことになった。彼も私も最後の作品を書き残すのに時間を費やした。
短編は手紙、長編は哲学。長編小説に自分たちの哲学を込めて。一月でその小説は完成した。自費出版という形で出版することになる。タイトルは『酒癖の悪い神のレゾンデートル』
私はその本を荷物に入れて、旅立つ。青年Aと一緒に。どこに行くのか。北へ、北へ。オーロラを見たかった。オーロラの下で死にたかった。
私と青年Aは旅立ちの日から食べるのも寝るのもやめた。結局、断食と断眠が真理を悟る方法の一つだと青年Aが考えていたからだった。
カナダのバーで本場のカナディアンウィスキーを飲んで、北へ、北へ。そして、1月7日の夜にオーロラを見ることが出来た。
オーロラの下で、私と彼は結びをする。それはセックスでありキスであり一体になる秘儀だった。その頃には私たちの霊性や霊感は神の如く、高まっていた。全ての存在に見守られているような気がした。いや、実際にそうなのだろう。
BGMとして流す『歓喜の歌』。男女の愛、陰と陽、それこそ結び。全てのセックスが原罪と繋がる。全てのキスが終末に歓呼する。それが世界創造、それが世界の終末。
私は死期を感じていた。命が燃え尽きるのを感じていた。蝋燭の火が消えるその瞬間に強く瞬くように、奇跡は一瞬だからこそ強く光り輝くように、私は全知全能の霊感を保持し、神にも仏にもなった。
愉快、愉快。晴れ渡る脳、晴れ渡る空。全能から覚め全知に眠る。終末で泣いた、あの子のために。私はヘレーネ、あなたはアデル。三千世界に満ちる潮、夢幻の螺旋のその先に。
神の肝臓を食べたい。そしたら病も治るかな。この蝶結びの世界で。この円環の世界の果てで。この世界が終わる日には、君の旋律をまた奏でて。
嗚呼、過ぎ行く季節達が。私の記憶達が。スマホのアルバムに保存された写真たちが、消えていく、遠く、遠く。それが悲しいのか虚しいのか。いや、過ごした季節に感謝してたんだろうな。縁のあった人達に感謝してたんだ。もうそろそろ死ぬからか。全能から眠る日には、いつもと同じ朝だった。
カナダを発って、アラスカに向かう。アラスカの海岸に辿り着く。1月1日から寝ていない。今日は8日目。涅槃の日。冴え渡る脳はイデアの海を愛で満たした。ニヒリズムの逆光の中で、七つの海を超えて、今、楽園に辿り着く。きっとこれが終末、きっとこれが永遠。でも、いいんだ、もう。本当に終わるから。
人生最後、君と出会えた、寒空の下、永遠の愛を、遠く遠く、鳥が飛んでる、比翼の記憶、僕と、君の記憶、凪いだ風に、水面に映る、探した答え、やっと掴んだ、1月7日、終末Eveで、1月8日、神、涅槃だった、1月9日、神殺し、でも、だから、人に、戻って、歌を紡ぐ、愛を紡ぐ、言葉紡ぐ、夢を、描いてみる。
「ねぇ、あなたは生きて」
私はアラスカの海岸で横になる。もう脳も体もボロボロだった。立てないや、もう。そんな私は横に座る青年Aに生きてと告げた。だが、彼は首を横に振って応えた。
「僕も君と死ぬよ」
「ううん。私はあなたに生きて欲しい」
「でも、そしたら僕はラカン・フリーズに還れない」
「私は余命があと僅かだから、でも、あなたはまだ未来がある」
「この海岸を見て。終着地点としては満点だよ。満天の夜空。僕もここで果てたい」
「ううん。生きて、そして私のこと、忘れないで。私はあなたの記憶の中で生きていたい」
私はそう告げると、彼にキスをした。唇と唇が優しく触れ合うだけのキスを。
「ずるいよ。僕も涅槃のまま死にたかった」
「私の部屋のパソコンにね、まだ公開してない小説が入ってる。未完のものもある。それたちを世に出してくれない?」
「それが遺言?」
「うん」
「分かった。でもさ、やっぱり僕も死ぬよ」
そう言って彼はカバンから三つのリキュールと牛乳、二つのグラスそして、大量の睡眠薬を取り出した。彼が睡眠障害で処方されている薬だ。「止めても無駄?」と私が尋ねると 「うん。僕はここに君と死にに来たんだ」と彼はカクテルを作りながら答えた。
冬のアラスカは寒く、夜はいっそう寒くなる。そんな海岸で私と彼は睡眠薬を『ラカン・フリーズ』で飲むことにした。夜、空にはオーロラが光り輝く。
「私、あなたと出逢えてよかったわ」
そう告げて私は睡眠薬を口に含み、『ラカン・フリーズ』を飲む。
「僕も君と出逢えてよかった。これって運命だよね」
彼も睡眠薬を『ラカン・フリーズ』で飲む。嗚呼、楽しいな。命が終わるのが今は怖くない。むしろ楽しい。歓喜に満ちてる。感動してる。オーロラの七色に涙があふれる。『ラカン・フリーズ』もとても美味しい。この最果ての地にて、オーロラの下で、果てる。なんて美しい終わりなのだろう。
「きっと今が終末だね。君も感じるかい?」
「うん。カクテル『ラカン・フリーズ』。運命の人との束の間の逢瀬。そして、永遠の別れ。今の私たちにピッタリね」
私の脳は終末を感知していた。永遠と終末の狭間、神愛と涅槃に包まれて。それは無限を刹那に収束させたかのように長く短い、至福の時間だった。
「ねぇ、最後にセックスしよう」
「いいよ。僕も最後に君としたかったから」
私は彼と最後のセックスをした。快楽の海に投げ込まれたかのようなその性行為は原罪のようで魂が昂っていく。神々の霊感、仏の祈り。全てが崩れて終わっていく。
「最後が君とで良かったよ」
「私もあなたと死ねて嬉しいわ。そして、今ならわかる。私は神だってね。あなたと一緒、宇宙と一緒」
「そうか。君ももう仏なんだね。嬉しいよ、僕と同じ場所まで来てくれて。縁覚までは連れてこれるけど、その先は一人で思索しなきゃだからね」
「神様も今はお酒飲んでるかな」
「僕たちが神様だよ」
「そうだね。うん、きっとそう」
「蝶結びが解けていく気がする」
「もしかしたら結ぶことで存在して、解けることで消えていくのかな」
「かもしれない。僕は世界の蝶結びを解いてしまったのかもしれない」
個人的な死=世界の終末。ミクロコスモス=マクロコスモス。世界は不可分。
「神の肝臓を食べたい。私、やっぱり生きていたかったよ。君と永遠を過ごしたかった」
視界が涙で滲む。この終末が美しすぎて、泣いてしまった。嗚呼、本当に最後なんだって。「うんうん」と彼は頷く。
「でも、今はちゃんと終わって欲しいって思ってて……。あ、そうだ。これは言わなきゃ。愛してるよ」
「うん、僕も愛してる」
交わしたキスも失くした時も、全て抱いて今際に眠る。その眠りは最後の眠り。混濁する意識の中で、見張る夜空のオーロラは神秘的な美しさで。その時、昔、彼の口ずさんでいた詩を思い出した。
『嗚呼、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、嗚呼、ついにわたしはその全ての秘密を知る』――ナウティ・マリエッタ
嗚呼、きっとこの七色の光が人生の美妙な謎。私は今、真理を悟って涅槃に至る。死んだら無かもしれないけど、今は不思議と怖くない。むしろ安堵感が安らぎを与えてくれる。
嬉しいな、楽しいな、愉快だな。もう終わるのか。それが切なくて、儚くて、虚しくて、でもやっぱりこれでいいと思える。
『君の最後の言葉を教えて』
嗚呼、ありがとう、愛しています。

フリーズ229 酒癖の悪い神のレゾンデートル 〈愁×ペン〉〈織田作之助青春賞〉

フリーズ229 酒癖の悪い神のレゾンデートル 〈愁×ペン〉〈織田作之助青春賞〉

理論物理学者志望の元彼にバーにて私は「余命が一年」と告げる。そして私は彼に一緒に死のうと提案する。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-10

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