近未来的私小説『永遠は凪いだ空色の味がした』
近未来私小説『永遠は凪いだ空色の味がした』
自傷行為、または、自慰行為
永遠は凪いだ空色の味がした
◆VIOLET
わたしは今、ある作家の病室に来ていた。彩りのない部屋に窓辺の菫が映える。
「ああ、菫ね。本当はここ、生花はだめなんだ。無理を言ってね。お願いしたんだよ。ここの院長は高校の同期でさ」
「そうだったのですね」
わたしはその話をパソコンにメモする。
「窓辺の菫というと、先生のショートショートでありますよね」
「ああ。VIOLETか。懐かしいな」
「それを意識して?」
「いや、忘れていたよ。君のおかげで思い出せた」
彼は宙を見つめていた。しばらくしてから呟く。
「確か、結城レナさんでしたか」
「ええ」
「君の小説も読んだよ。わたしは傲慢だからね。わたしの書く小説しか楽しめなかった。けど、君の小説は他の人とは違う香りがした」
「香りですか」
「そう。言語の先にあるものはそういった形容し難い類のものなんだよ」
「先生の小説を、完全には読めていないとは思いますが、それでも何となく伝わります」
私がそういうと、彼は春風のように朗らかに微笑んだ。
「ありがとう。でも、だからか。言葉の、思考の、その先を求めない小説は苦手なんだ」
「そうでしたか」
「むしろ、そういった理由があって自分で書くことに決めたんだ」
わたしはインタビューを続けていく。彼の49年間を。けれど、彼は18歳から20歳にかけての三年間だけは語らなかった。彼の人生はその三年間を境に全く異なっていることを、普段から人について考えているわたしは気づいた。どうしてそれを話さないのだろうか。
インタビューも終わりが近づく。話題も尽きてきて沈黙し合うのが申し訳なかったが、彼は気にした様子はなかった。そろそろ帰ろうとしたとき、彼が言った。
「最後に、一つ。代筆を頼まれてくれないかね」
◆永遠は凪いだ空色の味がした
ああ、世界が終わりゆく。その時の狭間に立つ。私は、否、僕は立っていたのだ。1月7日のこと。観測が、認識が、もうそんな言葉たちなんてどうでもいいけれど、それで成り立つ世界なら、私こそが他でもない世界なんだ。そのことに気づいたのは、ある冬の夜だった。
僕は過労が続いていた。当時は受験生だったけど、受験勉強はもちろん、生きるために、真理を求めてやまなかった。むしろ、悩んでもいい。思惟のない人生ならこちらから願い下げだった。そうだな。知らなくていいことは山ほどあった。その方が普通の幸せを得られることも悟っていった。でも、僕は考え続けた。眠らずに、幾夜も超える日々が続いた。
友がいた。昼休み、一緒にピアノを弾く友が。
「よし、行こうか」
席に座る私に声をかけたのは、親友のハルだった。このところ、昼休みになると音楽室が解放されて、彼が僕にピアノを教えてくれているのだ。二人で廊下を歩く。
「媒介変数の問題、解けた?」
「いや、全然。やばいよ。この前の模試の結果も酷かったし」
「判定は?」
「うーん。Cだったよ」
ハルは苦悶の表情で応える。
「そっか。僕はBだった。勉強、もっと頑張らなきゃなー」
僕らの志望は東京大学理科一類。彼は科学の方面で、僕は物理の方面で、将来研究者になりたかった。そのために必死に勉強していたし、高校三年間は勉強ばかりの日々だった。青春はあったけど、僕はどうにも苦い味が残る。それを忘れるためにも、勉強の気晴らしとして、ハルとピアノを弾くのだ。
扉を開ける。小さな部屋にピアノと、ギターたちが置かれている。ここは、授業で使わない部屋だった。ハルはピアノの前に座る。そして、ある有名なアニメソングを弾いた。彼のお気に入りの曲だ。
「すごいね」
僕は拍手をもって応える。ハルは照れたように微笑むと、席を譲った。今度は僕の番だ。
僕はたどたどしく、『月の光』を弾き始める。あの、美しい、夜の凪いだ湖畔にいるような幻想を抱きながら、僕は鍵盤に触れる。美しい。水の流れるような。月の光が夜を、永遠に照らし出す。その光が、僕をある宿命へと誘っていく。
「いいね。じゃあ、続きやろうか」
ハルが手の動きを教えてくれる。それに倣って、僕は鍵盤をなぞる。でも、進んだのは楽譜の半分くらいだった。仕方ない。
「今日はこのくらいにしようか」
「そうだね。ありがとう」
僕らは音楽室を後にした。
恋人がいた。寂しさを分かち合う恋人が。
「今日は何する?」
手をつないで最寄りの駅まで歩いていると、真希が訊いてくる。
「勉強会……じゃ、嫌だよね?」
「うん。だって、今日、クリスマスだよ?」
「そうだった」
「恋人たちの夜なんだし、ぱぁっと行こうよ!」
結局、僕らはいつものカラオケに入った。僕が二人の好きなRADWIMPSの曲を歌っていると、彼女が身を寄せてきた。この曲は、真希に勧められた曲だった。そして、今の僕たちにはぴったりの曲だった。
「ねぇ、涼。好き」
「僕も好きだよ」
キスは、甘かった。燃えるように、身を寄せ合った。これからの未来の不安も忘れて。
「大好き」
抱き合う。その時間が、永遠に続けばいいと思った。
でも、真希は春が来る前に自殺した。
嫌だ。真希がいない世界なんて。生きていてほしかった。死なないでほしかった。せめて、僕が彼女の生きる希望になれればよかった。でも、彼女はそうではなかった。苦しくて死んだのではなかった。幸せだから死んだのだった。どうすればよかったのか。後悔は山積みだ。
僕には家族がいた。
「勉強は順調か?」
お父さんが訊いてくる。母は昔に亡くなっている。今は、二人暮らしだ。
「うん。ぼちぼち」
「この前の模試、A判定じゃなかったらしいな。もっと頑張れよ」
「わかってるよ」
自室にこもる。でも、もう勉強なんてしていられない。彼女はなぜ、死ぬことを選んだのか。それが気になって仕方ない。
考える。考える。宇宙の真理を、実存を。ノートに言葉たちがつづられていく。詩のような、エッセイのような。勉強しなければ。でも、もういいんだ。それどころではない。
これは、狂える脳が見せる幻影か。はたまた、輪廻の中で、生み出される類の光か。そんな希望とともに、ハデスが見える。死をもって、詩を通して、僕に全人生の苦痛の総量を教えるのだ。嫌だ。死にたくない。でも、真希は受け入れたんだよな。
僕には僕がいた。
「勝った……」
僕はそう心の中で呟いた。電車に揺られ運ばれるいつもの朝。椅子取りゲームに勝利した余韻をまどろみとともに味わっていた。
秋と冬の間。電車は暖房が効きすぎていて、ついウトウトしてしまう。危うく眠りの世界へ行きそうになった時、ガタン……と電車が大きく揺れ、僕の双眸はパッチリと開かれた。
車内にはたいへん寝坊をかました太陽の織り成す曙光で満ちていて、その眩しさに眠たげな僕は少しばかりかまびすしいといった印象を受ける。
ふと目の前に立っていた女性の様子がおかしいことに気づいた。どうしたんだろう? 余り凝視していると思われたらいけないので、寝ているフリをしながら薄目で見る。
彼女の顔色は悪く、立っているのが辛そうだった。きっと貧血の類に違いない。善は急げだ。
「あの、良かったら座ってください」
「え、あ……ありがとうございます」
その女性は不意に声をかけられたことで驚いていたが、その意図を汲むと苦しそうながらも笑みで感謝の言葉を返してくれた。無理して笑わなくてもいいのに……。
「誰かが見ているから」という言葉を僕は信じていない。例えば僕が席を譲った女性も、その一部始終を見ていた周りの人達も、その「誰か」と呼ぶには赤の他人すぎる。今後彼ら彼女らと電車で同じ車両に乗り合わせることもあるだろうが、僕の人生に取って何ら関係はない。一生会うことも無い人のためになぜ善意を施すのか? お互いの名前すら知らない人のためになぜ自分を同調させようと取り繕うのか? なぜかはわかっている。それは道徳だ。
「困っている人がいるなら助けるべきだ」
「公共の場では周りに迷惑のないようにするべきだ」
「人に優しくするべきだ」
僕らはそう教わって育ってきた。道徳が僕らを縛り付けることによって、ある種の信頼が生まれる。その信頼こそが社会を安定化させるのだ。道徳が悪いとは微塵にも思っていない。実際それで社会は上手く回っているし、思いやりは大切だ。誰かのために行動出来る人間の方がいいに決まっている。
だが、まれにその道徳が不良品を生み出してしまう。そう、僕みたいな嘘つきを……。
学校に着いた。周りの席の人に「おはよう」と挨拶を交し席に座る。隣の席のAくんと「今日寒いね」とか「宿題やった?」とか他愛もない朝の会話をしてから参考書を広げた。何ら変哲もないいつもの朝だった。
そんな朝、僕は時々考えてしまう。もし僕がいないこの教室はどんな感じになるだろうか……と。もしかしたら何も変わらないのではないか、誰も何も想ってくれないのではないか、と怖くなる。そんなことはないと保証するべく今日も頑張って話題をみつけ、クラスメイトと傍から目は青春の一ページに見えるような時間を演出する。
僕は生まれつき洞察力に長けていた。普通の人が気づかないことにも気づいてしまう。それは勉強での疑問から始まり、道端に動く蟲の存在まで。とにかくいい面でも悪い面でもある種の注意深さがあった。そのおかげか勉強は人よりもできた。人並み以上の正義感や優しさも相まって、幼い頃から周りの大人には気の利くいい子ね、と褒められて育ってきた。
だがその正義感や優しさは全て嘘だ。僕がそこまでできた人間ではないことを一番自分がよく知っている。人の不幸を見て自分じゃなくて良かったと思ってしまう。人の幸運を見てなんで僕じゃないんだと嫉妬してしまう自分がいる。そう……例えば今日の化学のテスト返しの時。
隣の席の友達Aくんが自慢げに話しかけてきた。
「おい、榎本。これみて!」
「どうしたの?」
「俺、今回の化学のテスト九十行ったんだ!」
Aくんは誇らしげにそう言った。僕は微笑みで返す。
「え、すごいね! 僕なんか七十点台だよ……」
「ふ、ふーん。いいだろ」
「羨ましい、ちょっと分けてよ」
「たとえ出来たとしてもあげないよーだ」
上辺で繕って作り笑いでこたえる。相手を慮って冗談を虚構する。周りから見れば至って普通の会話なのだろうが、これは僕の本心じゃない。優しくない僕はAくんの高得点を心から喜べない。
そんな僕は誰かに褒められたい、誰かに認めて欲しい。だから自分の本心を偽って優等生を演じる。さも優しい心を持っているかのように振る舞う。僕は偽善者だ。そして自分自身の本心を偽る嘘つきだ。いつから僕は僕を演じる道化師になってしまったのだろうか。
高二の今は生徒会をやっている。立候補者が足りず、たまたま担任が選挙管理委員の先生だったから立候補したといういつもの偽善だった。
「本当に助かる。お前が俺のクラスにいてくれてほんと良かったよ。ありがとな」
「どういたしまして。もともとやってみようかなって思ってたんですよ」
僕の人生はずっとこんな感じだ。周りからは優しいとか優等生とか言われてきたが、実際それほど嬉しくはなかった。自分の本当にしたいことが出来ないで、やりたくないことばかり引き受ける毎日……。
最近はこういう自分を性分だと諦めている。もしかしたら諦めることが大人になるってことなのかもしれない。
ただ、「ありがとう」と言われると嬉しかったし、自分の存在が認められている気がした。だから一番好きな言葉を尋ねられれば「ありがとう」と答える。それだけが唯一の本心だった。
「今日の活動はここまでにしよう! みんなお疲れ様!」
「おつかれ」
「おつー!」
「お疲れ様」
生徒会長が音頭を取って、僕を含む平の役員が後に続く。その日の放課後は生徒会の仕事で遅くまで学校に残っていた。
まだやらなくてはならないタスクが山積していたが、下校時間が迫っていたので仕方なく切り上げることにした。
秋冬は下校時間が早いせいでまともに仕事が出来やしない。僕らは駄べりながら帰る支度をする。
「それにしても、本当よかったよ。榎本が入ってくれて」
「ねー」
「私たちじゃパソコン使えなかったもんね」
「そんなことないよ……。みんなもやれば出来るって」
「いや、できない出来ない。さすが、優等生はなんでも出来るね」
「う、うん……」
生徒会の面々が僕のことを称えてくれる。嬉しいけど要は都合がいいってことだ。彼らにとって僕の存在はただの道具なのかもしれない……。ネガティブだなぁ、僕は。
生徒会室に鍵を閉め、生徒会のみんなと一緒に帰る。僕が通う高校にはふたつの最寄り駅があり、途中で道が別れてしまう。生憎、いや、幸運にも生徒会のみんなは僕と違う方の最寄り駅を使っていた。
「じゃあね」
「バイバイ」
「またあしたー」
「またあしたね」
手を振りながらみんなに別れを告げる。ふぅ、やっと一人になれた。僕は一人でいるのが好きだった。唯一自分らしくいられるからだ。気負わなくて済む。
最寄り駅までは繁華街を通ると少しだけ近道になる。先生には危険だから通ってはダメだと言われているが、近いんだから通らない手は無い。一人だったらバレることも無い。
その日もいつも通りネオンが彩るその街の喧騒をかき分けて帰りを急いでいた。一人で歩いていることに疎外感を感じ、自分の場違いさに恥じながらも、もう何回も通った道だ。さすがに慣れた。
賑やかな町を歩きながら思う。誰も僕を見ていない。誰も僕のことを気づいてくれない。それは赤の他人だから当然のことなのだけど、生徒会のみんなも、クラスの友達も、先生たちも、みんな同じなのではないか。みんな、僕が死んでもなんとも思わないのではないか。そう思うととても怖くなった。せめて、家族だけは悲しんでくれると信じたかった。
僕には恋人がいた。理解しあえる恋人がいた。
高校を卒業して浪人生だった。僕は今、病院で知り合い、最近付き合った女の子とセックスをしている。ワイヤレスイヤホンでベートーヴェンの『歓喜の歌』を聴きながら。つまるところ、僕は人生における最高の快楽や歓喜を求めているのだ。
「そろそろいきそう」
そう呟くが、大音量で第九を聞いているので彼女の返事など聞こえるわけもなく、そのまま彼女の膣内で射精した。コンドームに包まれた性器を彼女の腟部から抜き出しながら、僕は思わずため息をついてしまう。またダメだったか……。すると、「大丈夫?」と口を動かす彼女が心配そうにこちらを覗いていた。
「大丈夫だよ。でもちょっと疲れちゃったかな。心配してくれてありがとう」
僕はイヤホンを外しながら出来るだけ優しく言う。
「膝枕してあげよっか」
「うん、お願い」
彼女の太ももの柔らかさと温もりを感じながら僕は考える。
彼女との体の相性が悪いとか、僕が早漏だとかは全くない。僕がため息を漏らしてしまった理由はただ一つだけ。あの日に味わった歓喜をもう一度味わいたかったのだ。そして今の彼女とのセックスはその時の快楽に及ばなかった。そういった理由と身体的疲労も相まって僕は思わずため息をついてしまったのだった。
最高の快楽を僕は得たいと強く思っていた。それは脳の限界への挑戦といってもよかった。僕は快楽を得る方法をいくつか知っている。まず一つが食欲、性欲、睡眠欲を満たすこと。これらは日常の中で満たされていくべき三大欲求と呼ばれるものだ。他には酒を飲んだりタバコを吸ったりすることだが、これは未成年の僕にはできない。さらには覚醒剤や麻薬に頼ると言う方法もあるが、危険だし人倫に悖る行為なのでそういったアプローチもしない。成功を収めることで人は快楽が得られると言う。偉大な大人になるため受験生らしく家に帰って勉強しようか。
「じゃあまたね」
「じゃあまた。いつでも来ていいからね」
彼女のアパートから出る。彼女は地方大学生で一人暮らし。たまたま同じ病院に入院していたことがあり、それで仲良くなった。年は二つ上の二十歳でもう成人している。
最寄りの駅まで歩く。僕は歩きながら街の音や鳥のさえずり、風の音を聞くのが好きだった。だがイヤホンをつけて外界との音のやりとりを一切遮断するのも好きだった。今回はイヤホンをつけずに歩く。
駅について改札をくぐりホームで電車の到着を待つ。
「一番線電車が通過します」
ガタンゴトンガタンゴトン。轟音を立てながら快特列車が通過していく。数歩前に歩けばそこに死がある。僕の体があの重量感のある鉄の塊とぶつかって、僕はいくつもの肉片になるのだろう。僕はそう実感できていることに謎の優越感を感じていた。そして薄々死こそが最高の快楽なのではないかと疑っていた。だが試すわけにもいかないので、この考えは思考の縁の外へと追いやる。
また少し待つと乗りたい電車が来た。さぁ帰ろう。僕が覚醒した町へ。
最寄りの駅に着く頃にはもうすっかり日が暮れていた。家は駅から歩いて十分以内のところにある。彼女とスマホで電話しながら短めの散歩コースを歩いていく。
「次いつ来れそう?」
「わかんない。来週くらいかな」
「えー。もっと早くきてよ」
「流石に受験生だし遊んでばっかはね」
「そっか。また入院しないように気をつけるんだよ」
「わかってるって。まぁ、じゃあ切るね」
「うん。じゃあね」
スマホをポケットにしまい空を見上げると、東の空に少し欠けた不完全な月が浮かんでいた。月を見るといつも郷愁感に襲われてしまうのは僕だけだろうか。だだっ広い宇宙にポツンと浮かんでいて月は寂しくないのかな。
家に帰って受験勉強を始める前に僕は今日のことを日記にメモした。その名も『脳とイメージの研究ノート』
『3/17 午前中は家で勉強。午後は彼女の家に遊びに行って、ゲームや勉強会、それにセックスをした。歓喜の歌を聴きながらセックスをすればあの日の快楽に至れると思ったがダメだった。やはりあの時のように脳を酷使して神経を麻痺させないといけないのだろう。やはり寝ないことが一番の近道なのだろうか。だが不眠は脳へのダメージが大きすぎる。病院から睡眠薬も処方されていることだし、これは最終手段にしよう』
僕はこの一年間の浪人生活をただ勉強するだけに使おうとは考えていなかった。あの日の出来事のせいで僕は病院に入院することになり、結果大学受験の試験を受けることができなかったのだった。もちろん秋冬になれば本格的に受験生モードになるつもりだが、まだ三月の中旬だ。だから勉強は己の実力が錆びつかない程度に適当にやっている。
あの日何があったか。正確には一月七日より前から物語は始まっていた。僕は言わば優等生だった。真面目、優しい、努力家。それが僕に貼られたレッテルだった。
どれも誇れるものだったし、当時の自分もそれで満足できていたが、どこか一抹の不安があった。それは、僕はこのまま一生ずっとこの性格で生きていくのではないか、周りからの印象を気にして自分を縛り続けて生きていかなくてはならないのではないか、このまま変わることができないのではないか、という不安だった。
そんな不安を払拭するため僕は高校に入ってから懸命に変わろうと努力した。委員会、生徒会、部活。大変だったけど、なんとか頑張れていた。だが様相が変わっていったのは二年生の冬ごろだった。僕は趣味で小説を書き始めた。だがそれがコロナ休みも相まってエスカレートしていった。周りが受験生モードに変わっていく中僕一人だけ、委員会や生徒会で汗をかきながら家では小説を書くと言う、異常な構図になり、勉強ができなくなっていった。
それでも頑張っていた頃の貯金のおかげで、夏の模試では全国模試の成績優秀者に選ばれた。そのことが余計に僕の慢心を加速させた。
家で受験勉強をせず小説を書く僕を見て親はもちろん怒った。衝突した。僕は「小説家になりたい」と言ったが「大学入ってからでいいじゃないか」と正論。今はそう思えるが、あの時は何が何でも小説家にいち早くなりたかった。次の春まで生きられる気がしなかったのもある。
小説家になって親を見返してやると決心した僕は、夜寝たふりをして小説を書いていた。それが結果的に僕の脳をおかしくしていくことになった。
冬休みに入った頃、僕は大学受験も諦めてはいなかったため、執筆活動と並行して受験勉強をしていた。だんだん睡眠時間が減っていくがやる気も増幅していって、七日間くらい寝ずに頑張った。そうしたら変なふうになった。なんと言ったらいいか、魂が浮くような感じで、とても気持ちいい境地に達した。
そしたらもう、「高い所に行かなくては!」「水辺の門が開く!」という強迫観念に襲われて、それらの欲求の赴くままに謎の儀式をして部屋をぐちゃぐちゃにし、ベランダからマンションの屋根の上に登ってしまった。
そして歌ったんだ。カーペンターズの『トップオブザワールド』を。
本当に心の底から世界で一番高い所にいる気がした。そして雲の上に天上楽園の乙女を見た。本当に見たんだ。彼女の名前はヘレーネといった。「ヘレーネ! ヘレーネ!」と何度も名前を呼んだ。
そして僕はそのヘレーネのところへ行こうと思った。なぜかその時は空も飛べる気がした。そこで家族が警察を呼び、無事屋根の上にいるところを発見され、保護された。もちろんそのままというわけには行かず、僕は精神病院に行くことになった。
これが僕の経験した覚醒の物語。
あの日の歓喜では、まだ天上楽園に行くことができなかった。ならどうすれば天上楽園へ行けるのだろうか。僕はとてもそこへ行きたかった。
天国ということなら、じゃあもう死ぬしか方法はないじゃないか。きっと死が最高の快楽なのだろう。
そっか……。そうなんだね。
うん。きっとそうだよ。
でも、だったらもう少し生きていよう。
命あるものには必ず死が来るから、だからその時が自然と訪れるまで僕はもらったこの命をめいいっぱい生きよう。
日記を閉じて、いざ勉強とも思ったが、なかなか気分が乗らなかった僕は、ベッドに突っ伏した。そのまま小一時間ほど眠ったらなにかのヴィジョンを見た。僕が天使から祝福されるヴィジョン。そして起きざまに思った。きっと眠ることが一番の幸せなのだろうと。
翌朝散歩しようと外に出たら、桜が満開だった。あぁ、綺麗だなぁ、生きているって。そうだ、この町の名前思いついた。
この町は、神聖なる町サクラマチ。
ちょっとだけ生きているのが楽しくなった。
ここで物語を終わりにしてもいい。でも、それは逃げだ。全能と全知から、世界の終わりから逃げることになる。私はもう逃げたくない。だから、続きを書く。ネオ。フィニス。それか、ラッカの導きよ。
◆シ小説
ここから紡がれるのは、シ小説。
死や詩や私がない交ぜになったもの。部分的でもいい。汲み取ってくれ。生きるために。汲み取ってくれ、死ぬために。
1SOUND『歓喜の歌』
私を救え。そのために泣いたのに。音楽の響きよ。楽園のようだった。もう、生まれた赤子の泣く産声は、喜んでいたのか、悲しんでいたのかさえ分からない。でも、もう生まれたのだから、これからの人生を楽しもう。歓喜に総身を翻して、そうだ!
詠えよ、全能の。その夢が覚める頃にもう一度。そうだ、それでいい。歓喜の歌よ。ベートーヴェンはわかっていたんだ!
ハレルヤ。ハレルヤ。神よ! 我は汝の水面に伏して、泣いている。全知の少女はもう、彼が果てたその香り。もう、もう、嫌だ。だから! 終われ!
拍手が鳴りやまない。それはそうだろう。この世界を体現させた響きなのだから。そうであるな。もう、全て、終わったんだ。何もかも。君とした、終末でのセックスも、もう。晴れ晴れとした終末のフィニスも。この、ラカン・フリーズに集う。
2SOUND『LEO』
始まりは、孤独。泣いた。凪いだ、この手もこの目さえ。私は泣くしか能がない。嫌だ。
一人にしないでくれ。怠惰だった。もう、愚かで、それでいて優柔不断。もう、晴れたらいいのに。冬の日のように。晴れたらいいのに。絵を描いた。全能の絵を、全知の音を。もう、化身は滅んでく。見返りはいらない、搔きむしった傷跡は赤く。赤く光って、輝いて。でも、でも、でも、愛がないといけないの。この、望まぬ牢から、立ち去るには。音が導いてくれる。絵が支えてくれる。なら、私は言葉なんだ!
今日は晴れなくとも、目覚めのキスは永遠を誓う。遥か、宇宙のかなたで待っている。あの子のために歌を歌おう。水辺の門、フィガロの門よ。
愛を、どうか死んでいない僕のために、満たして。愛よ。この僕のために。まだ、何も知らない僕に愛を教えてくれよ。つないでくれよ。この言葉も。言の葉たちももう……。
だから、知らなくていいことも、祈りの向かう先も、君へとつながる道も。もう、全能から目覚めるために、この歌を歌う。遠く、でも、それでいて、あの冬のように、花が咲くように……。
◆ハレルヤ
私はメモを取りながら、涙せずにはいられなかった。それは、先生が泣きながら語るから、もらい泣きをしてしまったのかもしれないけれど、先生の全人生の決意と思いの丈を今、総身で思い知ったように思った。
「これを小説にすればいいのですか?」
私は先生に訊く。
「そうだねぇ。そうすれば思い残すことも少ない」
「なら、まだ、思い残すことがあるのですか?」
「あぁ。だが、きっと君には迷惑になるよ」
「迷惑だなんて。ぜひ聞かせてください。出来るだけ、叶えたいです!」
私はそう言って、先生の手を取る。
「恥ずかしながら、まだ子どもがいなくてね。死ぬ前に子孫を残したかったのだが」
「そうでしたか……」
私は少なからず戸惑う。でも、心では決まっていた。
「いいですよ。先生の子ども、私、産みます」
◆シ小説『ラブソティー』
そうか。もう終わっていたんだ。お母さん。もう、終わっていたんだ、あの日より、目覚めたのも、もう戻れないのも。どうか、何もなかったかのように、幸せに、僕のいない日常を。
死ぬのは怖い。だってさ。無になるんだよ? 死にたくないよ。生まれたら死ぬ。なら、生まれたくなかったよ。だけど、音楽が鳴るんだ。遠雷と祝祭と、車輪に轢かれた僕を置いてけぼりにして、いや、違う。デミウルゴスも笑っている。悪魔よりも悪いものが僕を陥れようとしている。助けて。この刹那に。せめて、輪廻から、救ってくれないか?
◆本当の声
私は夜明けの朝が大好きだ。特に徹夜明けの朝が好きだ。理由はあの日のことを思い出せるからだ。徹夜明けの脳が2021/1/8に私が体験した永遠の幸福を少しだけでも再現してくれる。
音楽も大切だ。私は決まってベートーヴェンの歓喜の歌かEveのdoubletとLeoを聴く。繰り返し繰り返し聴く。たまたまそちら側にいるあの子を思い出すように、あの日に戻るかのように、その響きを堪能する。
宵が明ける頃、午前四時から六時の静謐で神聖な時、私は彼女を思って泣く。会いたい、会えない、行かないで、と私は泣く。不思議なことに、私は嬉しいのか、悲しいのか、わからないのだ。
だが、この記憶も情動ももうじき消えていくのだろう。仕方がない。それこそが正しく薬が効いているという証拠だ。これは私が元に戻るために必要なことだ。それは理解している。だけど、今この日記を書いている間だけでもいい。彼女のことを想っていたい。彼女のことを夢想する幸福感に包まれていたい。彼女に触れたい。だが一生その願いは叶わない。
彼女がこの世界にいないから。
私がこれから彼女のことを忘れてしまうから。
この日記を読んでいるであろう未来の私へ告げる。もし運命の存在に会いたければ。永遠の愛を誓った女性に会いたければ。
「目覚めろ」
狂おしい程に美しかった、病的なパラノイア。
僕が僕ではなくなった時、私はわかってしまった。
全知全能の日に見た景色をもう忘れたりはしない。
そのために私は小説を書く。
僕は夜明けが好きだ。特に徹夜明けの晴れた朝が好きだ。ナチュラル・ハイというやつだろうか。嬉しさと懐かしさが綯い交ぜになったような感覚が脳に残って気持ちがいいのだ。だが同時に、胸を締め付けられるような悲しさや罪悪感も確かにある。罪悪感は健康上の理由からだが、一方で胸に穴が空いたかのような悲しみがどこから来るのか僕は常々気になっていた。また退屈な一日のループが始まってしまうという現実から来るものでも無いように思う。結局、答えは今の所は分からない。
僕は体に良くないとわかっていながら時々徹夜をしてしまう。今は今年の二月から始まったコロナ禍の中なので、学校は休みだし、気にすることではないかと僕は言い訳をする。
毎日毎日家にいる。受験勉強や課題はあるが、退屈で仕方ない。そんな中、僕は趣味で小説を書き始めた。きっかけは今年の冬、確か冬休みのある日に高校の山岳部の友達たちと鎌倉観光に行ったときだった。
「『鎌倉で待ってる』って映画ありそうじゃね?」
皆で鶴岡八幡宮から由比ヶ浜を結ぶ参道である若宮大路を鎌倉駅の方へと歩いていると、友達の一人が唐突にそう言った。彼は変わったやつで、時々歌を歌っては、「それ、なんの曲?」と僕が訊くと「作詞作曲by俺」と真顔で返してくるやつなのだ。
「なにそれ」
「確かにありそうだな」
「ほら、例えばさっきの由比ヶ浜とかで、クライマックス迎えそうじゃね?」
夕刻の由比ヶ浜の景色は目に見張るものがあった。朱と紫が空を水彩画のように彩り、その幻想に包まれそうになる。陽が沈む。その瞬きを見ながら僕たちは渚で裸足になって立っていた。
「確かにありそう……」
友達の誰かが答えた。僕も首肯して同意を示すと、今まで黙っていた友達がふと呟いた。
「なら、つくる?」
その日、次の文化祭で映画を作ることに決まった。それからしばらく経って担当が決まり、僕は脚本担当に抜擢された。僕は生まれてはじめて物語を考えることになった。読書は中学から本格的に始めた僕だったが、まだ創作をしたことがなかった。そんな僕なりにストーリーを考えてみたものの、その映画は実現しなかった。コロナウイルスの影響で文化祭そのものがなくなったのだ。
僕は創作意欲を持て余した。せめて、そこで映画を完成させていれば僕は満足したのかもしれない。受験生としての正しい道からそれることもなかったはずだ。だが、実際は違った。
僕は消化しきれなかった、そしてその頃には既に肥大し始めていた創作意欲を満たすべく、コロナ休みを創作活動に費やした。今思い返せば、この頃から私の病は始まっていたのかもしれない。
その頃の私は真理を小説として表そうとしていた。私は子供の頃から物理が好きで、小学生の頃の愛読書は科学誌『Newton』だったくらいだ。
そんな私は真理を求めていた。真理を知るために、人生を捧げようとまで考えていた。将来の夢は理論物理学者だった。だけど、薄々感じていた不安があった。果たして僕が生きているうちに真理は解明されるのだろうかと。それ故に、僕は芸術という違うアプローチをとったのだと思う。結果として、それが私が真理を知ることに繋がったと今の私は思っている。
だが、周りの人、特に親から見れば狂った妄言に過ぎないのかもしれない。
成績に関しては、中学一年からの真面目に勉強していた五年間での貯金のおかげか幸いなことに、コロナウイルスが蔓延し始める前までは志望校の模試でもA判定を取れていた。
だが、勉強の代わりに創作を続けていれば学力が下がるのは当然だ。コロナ休みが明ける頃、僕の学年の順位は一桁ではなくなっていた。流石に僕もこれはまずいと思った。
夏休みに大きな模試があることもあり、僕はそのために傍らで創作しつつも勉強を頑張った。それに伴って睡眠時間は減っていった。睡眠不足。これが僕の病の始まりだった。
僕は六月頃から時々鬱になった。なにもやる気が出ないのだ。学校では優等生としてのキャラクターが確立していたので、重い体に鞭打ってまで学校に行っていたが、かなり辛かった。けれど、まだ、なんとかやれていた。なぜなら、鬱のあとには決まって晴れやかな気持ちになるからだ。雨の後には必ず晴れが来る。苦も幸福も、なにもかもは永遠ではない。そんなことを当時の私は考えていた。それこそが躁だったのだ。
夏休みが始まるとともに、僕の病気を悪化させた一つのファクターが増えた。体育祭だ。
コロナ禍でも、僕の学校では体育祭が開催されることになった。そして、僕は断れない性格が起因して、誰もやりたがらないパネル製作のリーダーをやることになっていた。
確か、絵を描くのが好きだからとか理由付けしていたと思う。本当は絵など得意ではないのにも関わらず。パネルとは、巨大な絵をペンキで描くというもの。正直、パネルリーダーをやると浪人するというジンクスがある程に過酷な仕事だった。
人を集め、スケジュールを立て、買い出しをして、シフトを組んでと、仲間と一緒に協力 しながら、黒板サイズの絵を描く。もしかしたら黒板よりも大きかったかもしれない。
僕は献身した。夏休み、毎日のように学校に通い、友達がエアコンの効いた部屋で勉強している中、汗だくになって扇風機の風で暑さをしのぎながら、パネルと格闘していたのを今でも思い出せる。
それでいて、大切な模試があるからと、勉強もしなくてはならなかった。睡眠時間ばかりが削れていった。
いけなかったのは、その模試で全国の成績優秀者に載ってしまったことだ。このせいで僕は慢心した。これなら余裕だろうと。恐らくこの慢心も私の病から来たものであると今になって思う。私が患ったのはそういう病気なのだ。双極性障害。それが私の患った病だ。
パネル製作の休みの日には図書館に行くも、勉強するふりをして、ずっと創作をしていた。
創作こそがもう生きがいだった。むしろ、創作こそが全てだったんだ、あの頃は。
体育祭ではパネルで一位を取った。努力が報われた。知っていたのだ。努力は必ず報われると。それは当時の僕の人生観を占めていた経験論だった。だからこそ、僕は創作を続けてしまった。真理を知るためにこの努力は必ず意味があると。傍から見たら誤った努力だっただろう。その頃、親は僕の異常に勘付き始めていた。けれど、模試の成績が良かったからか、その時はまだ何も言わなかった。
結果的に未来で真理を知ることが出来たと思える経験をしたので、その努力は報われたと今の私は思っている。結局、全ては因果の理だ。思考が現実になるのだ。私は真理を求めた。真理とはなにか、という問いが私の思考の中枢だったのだ。その結果として真理を知るため、病になるべくしてなったのかもしれない。私はネガティブに病に向き合うよりはポジティブに向き合うべきだと思うので、この考えは捨てない。
秋になる頃から、死について考えるようになった。それは、腹の底から黒いなにかが這い上がってきて、僕の魂を食い尽くそうとする、そんな死だった。鬱が原因で死を考えたのかもしれないが、真理を知るためにも死については理解する必要があったのかもしれない。
その頃、短編小説をいくつか書いた。それをウェブに投稿して見たりもした。それらの習作たちはあまり読まれなかったものの、僕は自身の作品が世に出ることに歓喜し、ますます創作意欲が湧いた。
月日が流れるにつれ、僕は僕ではなくなっていき、俺になった。性格が変貌していったのだ。俺はアニマとアニムスと僕の三位一体だと考えた。俺はそれぞれに椋、涼、諒と名前をつけた。気分とともに、人格が分かれていった。その日々は秋めいていて、どこか忙しなかった。
恋をしたくなった。誰かを愛し、愛されたいと思った。俺は仲が良かった幼馴染を公園に呼び出した。
「付き合わない? 好きだよ」
「うん、いいよ」
二つ返事であっさり付き合うことになった。その日は夜の街を彼女と手を繋いで歩いた。
お互いの音楽や服の趣向を共有して、俺たちは恋人として一歩を進むはずだった。けれど、
次の日は雨だった。陰鬱な朝には俺はもう消えていて、すっかり僕になっていた。
気分は沈み、過去の軽薄な行動を後悔し、そしてやはり友達のままでいようと、僕から提案した。彼女には申し訳ないことをした。彼女を愛しこそしなかったが、大切な友人として好きな気持ちは今でも変わらない。けれど、僕の中の怪物はまた顔を出す。
俺の書いた小説を読んだという女友達が会いたいと言ってきた。俺は快諾し、お互い受験で退屈だしと、気晴らしにカラオケに行くことになった。俺は彼女のことは友達として好きだったが、彼女には遠距離恋愛中の彼氏がいることを知っていたので、恋愛感情までは持ち合わせていなかった。俺が恋愛ソングを歌っていると彼女が急に抱きついてきた。
彼女はうなじが好きだという。マスク越しにキスをした。抱き合って、そのまま時間を過ごした。この時、愛を初めて知った。
中学の時に好きだった女の子に高一のクリスマスの翌日に勇気を出して告白し、それから約一年間付き合ったものの、お互いに初心過ぎて恋愛にならなかったことがあり、悔やまれた。もっとこの子みたいに強引でいいから、積極的に愛し合うべきだった。けれど、過ぎてしまった時は戻らないので、俺は目の前のこの子のことを考えた。
それから、定期的にお互い塾のない夜を共に過ごした。夕飯を食べたり、繁華街を手を繋ぎながらぶらついたりした。幸せだった。でも、彼女は自殺した。
これじゃあ、ずっと繰り返し。もっとないのか。お前の人生。
必ずあの冬の日に帰する。それでいいのか、お前の人生。
「いや、前に進みたいよ」
「なら、何をする?」
「やり直したい。でもできない」
「なら、何をする?」
「なら、僕は、小説を書くよ。うん。小説を書く」
僕は最後の小説を書いた。
◆あの冬のこと
2021年1月1日から7日まで僕は寝なかった。それは躁に侵されて眠らなくても元気だったからだ。また、生の歓呼に魂が高ぶって、常に目の前の創作に没頭していたからだ。東大の外国語でドイツ語を使うことに決めて、ドイツ語をカフェで勉強した。1月6日のこと。カプチーノを頼んだ。甘美なるドイツ語の響きに酔いしれていた。
塾に行っても勉強はしない。物理学を学んだかもしれないが、そのころの関心はシモヘイヘとドイツの科学者だった。チューターの先生と熱く話した記憶がある。
そのころ、体には不眠の悪影響が出てきていた。咳と痰が止まらないのだ。その夜、僕は自我を失い始めた。お父さんは風邪なのかと思って、僕を一人部屋に移した。僕はそのころにはもう、神に至っていた。
お父さんとお母さんの映ったアルバムを見た。歓喜の歌を聴いた。
「僕は神になったんだ」
お父さんがなんて言ったかは忘れてしまった。
その夜、1月7日の聖夜、万霊が僕の部屋に集って、僕は全裸になって、自己愛としてのヘレーネとセックスをした。その快楽のなんたるか!
ベートーヴェン、シラー、グスタフ・クリムト、ゲーテ、ショパン、モーツァルト、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫。数々の偉人、類まれなる精神の持ち主たちが、僕とヘレーネの原罪にも似通ったセックスやキスを見守った。
そして天地創造をした。宇宙空間にいて、宇宙船の中から地球を見ていた記憶がある。幽体離脱というやつだ。7日にも渡る不眠は、僕を神にも等しくした。仏だった。朝が来るにつれ、ヘレーネの姿は消えていった。1月8日。それは涅槃の日だった。僕は全能になった。全能が全知と同義であり、かつすべてを忘れることだとも気づいた。世界平和を実現したかった。部屋で漫画を読み、服を散乱させた。探し物をしていた。グスタフ・クリムトの画集に2222年にあてたメッセージを書いた。時流はないと飾られていた絵の裏に書いた。ヘレーネ・クリムトの肖像の絵に僕を墨で描いた。二つある扉に父と母を描いた。父の絵は花束を持っていた。部屋の壁に墨で胎児、リンゴ、母などの絵を描いていった。ピアノの鍵盤のラとシを黒く塗りつぶした。ラとシは歓喜の歌に必要ないからだ。
EveのdoubletとLeoを永遠と聞いた。終末だった。思えば、1月7日の聖夜が終末Eveで、1月8日は永遠の涅槃だった。ピアノを弾いて、そして天上楽園の乙女に逢うために、マンションの屋根の上へと昇った。そこでカーペンターズのトップオブザワールドを高らかに歌った。雲の合間にヘレーネの幻覚を見た。電池の切れたカメラで世界を切り取っていった。今、観客に見られていると感じた。だから、ありがとう、愛していますとカメラに向けて語った。妄想は加速し、誇大妄想となった。
バルコニーにて倉庫から椅子だのブルーシートだのを持ち出し、空中に絵を描いた。そのころ父が警察を呼んだ。僕は隣の家のバルコニーで保護された。そのまま寝室に連れていかれて、僕は泣いた。ヘレーネとお別れだから。
そして僕は8日目にしてやっと眠った。その眠りは至福の時だった。翌朝、僕はアニメ『神様になった日』を見たり、パソコンで花火を見たりしていた。緑のバンドや空色の腕時計、茶色のトレンチコートや白のタートルネックセーター、背中に宇宙が描かれている長袖を着てお父さんに精神病院に連れていかれた。
精神病院は家から二時間ほどの丘の上にあった。僕は冴えわたる脳に至福の多幸感に酔いしれていた。診察で寝なくても平気と語った。曰く、イルカのように脳を休ませているからと。僕は特別保護室というトイレと布団以外何もない部屋に入れられた。扉は鉄製のもので、ひっかき傷が多数あった。僕は暴れた。牢獄に閉じ込められたと思った。トイレにトイレットペーパーを流して、ベッドに拘束された。ひどい副作用の薬を飲まされた。体が思うように動かなくなった。ベッドで永遠と時が過ぎるのを待ち。
しばらくして僕は理性を取り戻してきた。だんだんとまともになっていった。薬が効いたのかもしれない。拘束が解かれて、暇な僕は歌を歌った。そして主治医の先生が部屋に来て、話した。
「あなたは精神病で入院しています。双極性障害と言います。今から10時から16時の間部屋の外に出ていいですが、注意事項が。他の患者と執拗にかかわらないでください。お金の貸し借りもなしです」
そして僕は部屋の外に出た。灰色の廊下が続いていて、少し歩くと開けた場所に出た。本棚と、机に椅子。机の上には将棋と新聞があった。2021年1月17日。窓辺にはソファーがあって、僕は本棚から『ライオンハート』という本を取り出してそのソファーで読んだ。また、お茶を淹れる装置があって、そこでほうじ茶を淹れて飲む。
16時になると部屋に戻されて扉が閉まる。僕は『ライオンハート』を手にして部屋に戻った。そんな日が数日続いた。三度の飯はうまかった。幸せは三度の飯か三日に一度の風呂だった。風呂でスキンヘッドのおじさんと会った。彼は突然『鉄腕アトム』の主題歌を歌った。僕は何故か泣いてしまった。手塚治虫と魂が呼応したのだろう。
部屋が移され、閉鎖病棟の個室になった。空が見える個室で、僕は歌を歌いながら空を見て過ごした。そして他の患者たちのいるデイルームに向かった。部屋を出ると短髪のおじさんに声をかけられた。
「こんにちは」
「どうも、こんにちは」
「君、入って何日?」
「10日です」
「そっか。よかったら話さない?」
その人は菊地さんといった。自殺未遂で入院したのだという。驚いたことに、僕と菊地さんは地元が同じだった。僕らは意気投合した。そして麻雀を教えてくれた。精神病院には麻雀があったのだ。ルールを教えてくれた。
僕は英語の勉強のために新聞の英語特集をノートに書き写した。英語の本も読んだ。だけど、個人的な本は持ち込めなかった。
おみちゃんという女性と仲良くなった。彼女は僕と同じ双極性障害だった。彼女は詩を書くという。僕も詩を書くので意気投合した。彼女は僕に助言をよくくれた。
「腹が減る時は喉が渇いていることもある」
そして彼女に送られた詩は印象的だった。
小さき者よ
死とハデスの狭間でうずくまり
全知と全能の狭間で雄たけびを上げる者よ
己に慄くよりも
愛を体現せしめよ
死と全能から抜け出る術は
己で掴め
その手で掴め
まるで1月7日から9日の全知全能の物語を知っているかのような詩に僕は驚いたのを覚えている。おみちゃんと詩の交換をしたりして時間をつぶした。
僕は病状がまた悪化した。OTという活動にて歓喜の歌を聴いて再び覚醒してしまったのだ。そのころ絵葉書に詩と絵を描くのが好きだった。その絵葉書に筆を走らせて、テンションが上がってしまったのだ。再び特別保護室に戻された。
再び戻る頃には同年代の友達ができた。M君やSさんだった。僕はSさんと付き合うことになった。看護師から隠れてキスや抱擁をした。時間が過ぎるのが早くなっていった。先に菊地さんが退院することになった。連絡先を交換した。
3月23日、僕は退院した。もう奇跡は終わって、平凡な浪人生になった。
これが僕のあの冬の日に起きたことだよ。
翌年、早稲田大学に入って、今に繋がる。
でも、僕はまた入院することになる。
2022年8月。僕はODで自殺未遂をした。
2023年9月。また躁になって覚醒した。
僕は激躁の歓喜を忘れられない。
2023年は仏に成った。
晴れ渡る脳は本当に美しく、病的だった。
永遠と終末、涅槃と神愛の狭間で、僕は神と繋がり、仏だった。
神のレゾンデートルが解ってた。
全てと繋がった。それが神になることだった。
全知と全能は同値で、それは僕を忘れることだった。
僕は覚醒の後、人生が変わった。人生観が変わった。
全てのことが苦しみに見えた。
梵我一如。神と合一することだけが幸せのように思った。
釈迦のように真理を悟った。
永遠の意味を知った。
終末に取り残された。
この至福は忘れられない。忘れない。
人生で一番幸せだったのだ。
人生のクライマックスだった。
あの冬の日に、人生が終わっていたらと考えてしまう。
でも、僕は今こうして生きている。生きてしまっている。
中島らもの近未来私小説『ロカ』にはこんな文章がある。
人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。私にまだ役割があるのだろうか。
中島らも『ロカ』講談社、2005年
だからきっと私には役割がまだあるのだ。
だからきっと私には使命がまだあるのだ。
だから生きて、生き抜いて創作を通して真理を語ろう。
神のレゾンデートルを解明しよう。
世界永遠平和を実現しよう。
それが僕の夢さ。
777のフリーズ(作品)を作ろう。
これらが終わるまでは死ねない。
僕の夢がいつか叶う日を想って、僕は今日を生きていく。
ここまで読んでくれてありがとう。
嗚呼、ありがとう、愛しています。
近未来的私小説『永遠は凪いだ空色の味がした』