フリーズ214 グスタフ・クリムトへのエッセイ
装飾と官能の狭間で――グスタフ・クリムトにおける美と死の二重性
序論
金箔を多用した華麗な画風、官能的な女性像、そしてどこか妖しげな雰囲気を漂わせる構図。グスタフ・クリムトの絵画は、見る者に強烈な印象を与える。彼の代表作である《接吻》や《ユディト I》は、しばしば美術館のポスターや図録の表紙に使われ、その魅惑的な装飾美が強調されてきた。しかし、クリムトの芸術は単なる美の追求では終わらない。装飾的で官能的である一方、その根底には『死』や『精神的な闇』へのまなざしが宿っている。つまり、彼の作品は生と死、快楽と恐怖、表層と深層が共存する象徴的な表現にほかならない。本レポートでは、このような二重性に注目し、クリムト芸術の本質を考察していく。
本論
1グスタフ・クリムトの活躍
19世紀末から20世紀初頭のウィーンは、表面上の繁栄の裏で精神的な危機を抱えた時代であった。科学と工業の発展により近代化が進む一方で、人々は精神の拠り所を失い、芸術や思想の面で深い内省が求められるようになる。この「ウィーン世紀末」は、フロイトによる無意識の探究や、マーラーの交響曲、シーレの絵画など、人間の内面や死、エロスといった根源的なテーマが芸術の中心に置かれた時代である。クリムトもそのただ中にあった。彼はもともとアカデミーで装飾芸術を学び、公共建築の壁画を手がける正統派の画家であったが、1897年に「ウィーン分離派」を設立。保守的なアカデミズムから離れ、個人の感性と自由を尊重する新たな芸術運動に身を投じた。
2接吻
グスタフ・クリムト『接吻』(1907-1908 ウィーン ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館蔵)
クリムトの芸術においてまず目を引くのは、その比類なき装飾美である。特に1900年代前半の「黄金様式」と呼ばれる時期には、金箔や幾何学模様を多用した華麗な画面構成が特徴的だ。たとえば代表作(1907–08)は、金地に包まれた男女の抱擁を描いた作品である。二人の身体は輪郭を曖昧にし、装飾的な模様に覆われ、背景と溶け合っている。そこにあるのは明確な現実ではなく、夢幻的な空間である。しかし、この装飾性は単なる美的効果にとどまらず、愛と融合し一体化しようとする人間の本質的な欲望、そしてその刹那的な永遠性への憧れを象徴しているように思われる。
またこの絵はよく見ると二人の男女は崖に立っている。つまりは死の縁である。死と隣り合わせのところで永遠の愛を紡ぎ合う。それは究極的な美を通り越して、哲学的でもあるように思う。愛と死。その普遍的なテーマを描き切るクリムトはやはりすごい。
海野弘(2018 p.50)は『接吻』を次のように評価している。
男女が抱き合って一体化している。2人の輪郭を見分けるには衣装の文様を見なければならない。女は円形、男は四角文におおわれている。男の顔はほとんど見えない。クリムトは男にまったく興味がない。彼が描く男は、ほとんどうしろ姿、背中だけである。
よく見ると、2人の顏のまわり、女の右側に黄金の光背のようなものが広がっている。そして全体として、黄金の男根のようなシルエットに2人の姿が収められている。
そして彼らは崖の縁にいて、女のひざをついた足先は今にも落ちそうだ。2人は崖っぷちにいて、あやうい、という意味だろうか。男の足はどうなっているのかわからない。
2人は男根状の檻に封じ込められ、崖の上に置かれている。黄金の恋人たちはそのようなあやうさに乗っているのだ。
この海野の分析は客観的で鋭い。確かにシルエットは男根のようにも見えてくる。それさえエロスに組み込まれるのだろうか。
3ユディトⅠ
(グスタフ・クリムト 1901 ウィーン ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館蔵)
また、《ユディト I》(1901)は旧約聖書の女英雄ユディトを描いた作品だが、伝統的な『正義の女性』としてではなく、官能的な肉体を晒した挑発的な存在として表現されている。彼女の半眼の視線や、切り落とされたホロフェルネスの頭部の描写には、快楽と死の二重の意味が潜む。クリムトはここで、女性という存在を単なる受動的な美の象徴から、能動的な力と破壊を内包する存在へと再構築している。彼の描く女性像は、しばしばエロスの体現であると同時に、死と誘惑の象徴でもある。
海野弘(2018 p.41)は『ユディトⅠ』を次のように評価している。
クリムトの黄金の女のはしりともいえる作品である。ユディトは旧約聖書に出てくる女性で、アッシリアの猛将ホロフェルネスを誘惑してその首をとり、ユダヤを救ったとされる。〈ファム・ファタール〉の図像として、19世紀末の美術でしばしば描かれた。男の首をとる女としてサロメに比べられ、この絵もしばしば、クリムトの〈サロメ〉といわれたりする。
しかし、クリムトは、神話的図像を使いながら、むしろ現代〈世紀末〉のウィーンのデカダンな社交界の女たちを描いた。男の首は右下にちらりとのぞかせるだけで、むきだしの胸を黄金に包んだ官能的な女性像である。
まず目立つのは、犬の首輪のような黄金のチョーカーで、デンマークの王女からイギリス皇太子妃(後に王妃)になったアレクサンドラが当時はやらせた最新ファッションであった。アレクサンドラが首の傷を隠すためにつけたものというが、サディスティックな魅力を持っている。
この絵のモデルは、クリムトがその肖像画を描いたアデーレ・ブロッホ=バウアーではないか、といわれている。
海野の解説は豆知識に富んでいて興味深い。
4死と生(グスタフ・クリムト 1910 ウィーン レオポルト美術館蔵)
このように、クリムトの絵画にはしばしば『死』の気配が漂っている。それが最も明確に表現されているのが、《死と生》(1910–16)である。この作品では、画面左側に骸骨の姿をした「死」が、右側の「生」として描かれた人間たちを見つめている。赤子、母親、老人、若者といった多様な人間が絡み合いながら眠るように描かれる中、「死」は微笑みを浮かべて彼らを待ち受ける。ここには、死が生を否定するのではなく、むしろ一体として共に存在しているという思想が示されている。死を忌避するのではなく、日常のなかに織り込まれた不可避のものとして受け入れようとする姿勢が感じられる。
海野弘(2018 p.60)は『死と生』を次のように解説している。
クリムトは絵画もまた生成していくものと考えた。この絵も1910年ぐらいから描きはじめられ、1916年に完成された。この絵のきっかけになったのは1909年のパリ旅行であったといわれる。彼はパリを経由してスペインに行った。
この時、彼は〈黄金様式〉が行きづまって、1つの危機にさしかかっていた。帰国して、パリはどうだったか聞かれ、クリムトは「なにも面白いものはなかった」といったが、実はそうではなかったらしい。
1909年のパリではキュビズム、フォーヴィズムの新しい波が渦巻いていた。1907年、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が発表され、アフリカの黒人彫刻への興味が起きていた。このようなパリの動きがクリムトになんらかの影響を与えなかったはずはない。それ以降、彼は、黄金様式から、雑色のつづれ織りのような色彩、そして人体のコラージュ、アッサンブラージュのような構成の様式へと転じていく。1910から1916年にかけて描き直され、生成していった「死と生」はその過程を示している。
海野の語るクリムトのパリ旅行の話やキュビズム、フォービズムからの影響の話はとても彼の人生を語るうえで大事に思う。
クリムトの芸術観は、制度や伝統に従うものではなかった。ウィーン大学の天井画のために描いた《哲学》《医学》《法学》の三部作は、官能的すぎると批判され、大学側に拒絶されるという事件もあった。しかし、彼はその中で、学問や理性では捉えきれない人間存在の根源——性、苦悩、死、無意識——にこそ芸術の役割があると示していて、自己表現の自由とともに、芸術を通じて人間の内奥と向き合う誠実な姿勢を貫いている。
結論
現代に生きる私たちもまた、情報と消費が支配する華やかな社会の裏で、孤独や不安、死の影と隣り合わせに生きている。クリムトの絵画は、その装飾性によって一見すると快楽主義的に見えるが、実際には人間の本質的な問いを内包した象徴芸術である。彼の作品は、現実と幻想、生と死、官能と崇高の狭間で揺れ動く人間存在の深みを照らし出している。
ゆえに、グスタフ・クリムトの芸術は単なる美の追求ではなく、魂の鏡として現代にもなお意義深い光を放ち続けているのである。
参考文献
海野弘『グスタフ・クリムトの世界 女たちの黄金迷宮』(2018)株式会社東京印書館
フリーズ214 グスタフ・クリムトへのエッセイ