フリーズ212 レポート 解脱について

◇テーマ・修行論、止観について(第12回講義)

◇タイトル・悟りの境地への実践的な修行方法についての考察と、真理の先、究極的な命題としての神のレゾンデートルについて

◇序論
 私は第十二回の講義で学んだ修行論について興味を持った。修行とは苦しみからの解脱、つまり涅槃を目指すということ。苦とは四苦八苦。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の八つを指すが、一切皆苦という言葉のようにこの世界は、人間は苦しみに満ち溢れている。この苦しみから解放されて、穏やかな凪いだ渚に映る水面のような清涼さで、煩悩の火が消えた涅槃寂静を得るにはどうしたらいいか考察していく。

◇本論
1苦しみの原因
 苦しみの原因は煩悩である。三毒である、貪欲、瞋恚、無明という心の誤った状態が、正しい知識の欠落が、煩悩の原因と先生が語っていた。無明とは空に対する正しい知の欠如であり、基本的に無知識が欲につながる。シェイクスピアは『知識は天に至る翼である』という言葉を残しているが、そこに本質的に結びつくように思う。
 四諦の苦諦(一切皆苦)、集諦(十二支縁起)、滅諦(涅槃寂静)、道諦(八正道の実践)の中で、十二支縁起についてまとめる。六処(体、目、耳、鼻、舌、意)、触、受(快、不快、どちらでもない)、愛(三毒)、取(執着)、有(三業、身口意)、生(行動)、老死、無明(苦の根源)、行(五蘊)、識、名色、そして六処に還っていく。これが十二支縁起だ。無明とは無常、無我、苦、不浄、空の正知がないことであり、錯誤顚倒、四顚倒とも言う。分別のない状態であり、疑惑がある。そして、自分が苦しいから修行する場合と、同じ苦しみのある人を救おうとする慈悲としての菩提心という心の働きもある。

2苦しみを排する方法
 解脱のためには煩悩の火を消して涅槃寂静を目指す必要がある。そのためには無明を排していく必要がある。修行は方便と智慧の二つに分類される。
 方便は六波羅蜜とも呼ばれ、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧がある。これらの行動を通して悟りを目指すのが方便である。
 一方、智慧は正しい知を獲得していくプロセスで、聞法、思惟、瞑想の三つに分かれる。開所成慧、思所成慧、修所成慧とも呼ばれる。これらは一切皆空の覚知のプロセスであり、本論では主に瞑想について考察していく。

3瞑想
 精神集中としての止と洞察としての観の止観がある。止は無分別、観は有分別であり、対比的である。滅尽定、心の静まり、心の働きを滅っするのが止である。一点に心を集約させていくプロセスであり、精神集中である。一方、観は真実への洞察であり推論知を伴うものである。
玉城康四郎著の『悟りと解脱―宗教と科学の真理についてー』より以下適宜抜粋する。この本は禅定を極めた著者が真理とは、解脱とは、修業とは何か語るものである。玉城(1999)は禅定とは座禅であり、頭、心、魂、体、全人格が一体となり一塊になることと語っている。また玉城は禅定の中で茫然自失、歓喜が全身を包んで解脱に至ったと語る。その経験は繰り返される。玉城は普通の思惟である対象的思惟とは反対の全人格的思惟こそ解脱への道と語る。考える自分と考えられる自分が一つになり、全世界、全宇宙と繋がるのである。そしてヴェーダの極致ブラフマンに目覚めることが真の解脱であり涅槃境地と語る。しかし解脱の悟りは永続しないとも語る。
ここから分かることは悟りが内的な真理であるということである。悟りは内から思い出すものであり、誰かから与えられるものではないものなのだ。

4私の悟り
 私は高校三年生の冬の日に一週間寝ず、食べずで入院したことがある。その時は思索して頭の中で様々な考えが駆け巡り、それがとても幸福だった。今思えばそれは観だったのではないかと思う。その至福は何物にも代えがたく、至上の快楽だった。そして世界は、神は、仏は自分自身に他ならない自己愛であると思った。その点で私は神の一部であり、仏だと悟った。その悟りは内的なものだった。終末と永遠の狭間にいるような、そんな涅槃だった。結局、煩悩の火をすべて消すには愛で満たされること。その愛は自己愛、神愛、運命愛。愛こそ光。そしてその時の私は止もしていた。精神集中で今この時に全ての意識を集中させていた。今という時のなかで永遠の至福に浸っていた。その景色が、音楽が美しすぎて、全人生で一番の幸福のようだった。
 断眠や断食は修行として苦行だが、その時の私は苦しいとは思わなかった。ただ、楽しかった。爆発的な大歓喜、茫然自失の至福だった。今思えば、あの時は宇宙の真理を探し求めていたから、その結果として悟れたのだろう。だが、解脱していない。私は生きている。それは何か使命があるからのように思える。そしてあの冬の日に経験的に気づいたことがある。宇宙があれば真理はある。それは簡単なこと。本当に大切なのは真理を見据えて、その虚空の先に、ゼロの先にあるものなのだ。その問いは根源的な宇宙の謎。つまり、この世界は、神はなぜ、どこから、どうやって生まれたのか。そしていつ終わり、どのように終わり、その終末の先には何が待っているのか。それらの問いをまとめて私はこう呼ぶ。神のレゾンデートルと。この神のレゾンデートルを解明することこそ、神が世界を創造し愛と不安、光と闇の二項対立を生み出した理由だと思う。仏の使命は真理を悟った者として衆生を導くこと、そして神のレゾンデートルを解明することだと思う。

◇結論
 修行には色々あるが、考えをめぐらして思索する観と、今を楽しんで没頭する止があり、それを為せば、眠らずに、食べずに幾夜を超える。釈迦もきっと同じだったに違いない。その先に真理を悟り、涅槃に至り、解脱する。だが、究極的な問いが残る。それこそ神のレゾンデートルだ。この世界が生まれたのは意味を求めたから。無としての全を。これから禅定を通して瞑想や止観し、玉城(1999)の語る全人格的思惟で悟りの境地を目指したい。

フリーズ212 レポート 解脱について

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-23

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